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1週間前、JRさわやかウォーキングに参加して掛川市内を歩いた後、『天浜線』で天竜二俣に立ち寄った。大久保彦左衛門が若い頃の「いたずら」を詫びた手紙が保存されている『内山真龍(またつ)資料館』に行くためだった。この日の少し前、大久保彦左衛門が知行地の代官に送った書状について小田原城に問い合わせたところ、書状は所蔵しているが個人が見ることは出来ないとの返事をもらっていた。ふらりと行っても見せてもらえるとは思えないのだが、近くまで出掛けたついでに、ともかく出掛けてみたのだった。展示室には神道関連の収集品があるだけで彦左衛門の手紙はなかった。係の人に聞いたところでは、特別展で公開することはあるが、個人に見せることはないとのことだった。(帰宅後調べたら昨年2023年春に展示されていたようだ。)残念がっていたら『天竜市史』という本に掲載されている彦左衛門詫び状を見せてくれた。私が持っている資料より大きい写真だった。以前からの写真より鮮明かもしれない。そんなこんなで二俣行きは、大きい収穫はなかったのだがその日から1週間、別のところで奇跡が続いている。前述した小田原城所蔵の書状について小田原城総合管理事務所から申請書を提出し承認されれば書状の写真を送ってもらえるとの連絡が来た。さらに宛先の代官のいた場所の候補の一つ鹿嶋市教育委員会社会教育課から『安政6年(1859)2月の「大船津村組合高書上帳(糟谷家文書)」に・沼尾村 村高448石余のうち、大久保氏領227石余・田野辺村 村高289石余のうち、大久保氏領83石余』の記述があるとの回答をいただいた。この書状については大久保彦左衛門書状 細かい指示をするに書いている。代官所所在地については羽生市が有力なのだが、市内のどこなのか はっきりしなかった。ところがこれも、ネットで検索したところ 『クニの部屋』というブログに行き当たった。「大久保彦左衛門は羽生市内の常木・川俣・発戸の二千石を領し、在城期間はなんと24年にも及びます。」二俣の資料館を訪ねたことから、探求心に火がついた格好である。今年の秋には『大久保彦左衛門の聖地探訪』として羽生市の常木、川俣、発戸鹿嶋市の沼尾、田野辺に出掛けてみようと思っている。旧街道歩きの次の目標に『大久保彦左衛門の聖地巡り』というのも悪くない。
2024/05/25
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前回の楽天日記に、ずっと見たかった「大久保彦左衛門詫び状」の写真と原本の所蔵場所を見つけたことを書いた。前回の楽天日記わが家のプリンターではA4しか印刷できない。以前の機械はB3まで可能だったのだが壊れてしまった。ふと、コンビニのマルチプリンターを思い付いた。さっそく出かけてやってみた。原本とほぼ同じ(やや大きい)サイズである。これで1枚10円。額装してコレクションに加えよう。さて金曜日に図書館から借りた本に大久保彦左衛門についての一章を見つけた。そもそもこの本をなぜ借りる気になったのか覚えていないのだが、スマホでなにかの文を見ていて図書館に借り出し予約したのだと思う。(よくあることだ)金曜日に地域センターで借り出した。面白そうだから書き起こしてみた。※※※※※※※※※※※※※ポプラ新書『くそじじいとくそばばあの日本史』長生きは成功のもと著者 大塚ひかり7『憎悪を吐き出し、老い支度』⋯⋯七十に及んで「三河物語』を書いた大久保彦左衛門の恨み節“憎しみをスパークさせていた昔の人”「罪を憎んで人を憎まず」 そんなことばを一度は耳にしたことがあるでしょう。 が、古典文学を読んでいると、思いきり人を憎んでいる場面にしばしばでくわします。 平安中期の藤原道網母は、夫・兼家の愛した女を憎むあまり、子を生んだ彼女への夫の愛が冷めたのを喜び、さらに生まれた子が死んだと知ると、「今こそ胸がすっとした」("いまぞ胸はあきたる") と快哉を叫んだものです(『蜻蛉日記』上巻)。 いくらライバルが憎いからといって、生まれた子の死を喜ぶというのは近現代人の84倫理観からは遠いものがあります。たとえ内心は嬉しかったにしても、わざわざ文章に書く人はいないでしょう。それを道網母は、憚りもなく書いているんです。 と、ここで断っておくと、そういう自分の負(というのも近現代の価値観によるものなのでしょうが)の感情をきちんと見据えて書き記した道綱母に、私は敬意を感じています。己の感情を認識する知性、伝える勇気が素晴らしいと思うのです。 セクハラもパワハラも毒親も、自覚してこそ改善の第一歩。 怒りや憎しみといった自分のマイナスの感情も、自覚して、表現してこそ、対処の方法があるというものです。「人を悪しかれ、と思う気持ちはないけれど」("人をあしかれなど思ふ心もなけれど")(「葵」巻) などと信じ込んでいる『源氏物語』の六条御息所のような人が、無意識のうちに憎悪に心身を支配され、物の怪になってしまうのです。生きているうちに恨みを発散させなかったため、死後も死霊として源氏の大切な女たちを祟ることになるのです。 その伝で言うと、老いの果てに、恨みつらみや憎しみを『三河物語』で炸裂させた大久保彦左衛門こと忠教(一五六〇〜一六三九)は、見事な老い支度をしたと言える85のではないか。“彦左の悔しさ”大久保彦左衛門 は、江戸幕府を開いた徳川家康が三河にいたころからの家臣である大久保家の一員です。家康・秀忠・家光の徳川将軍三代に仕え、時代劇では将軍家に対する「ご意見番」として、「彦左」と呼ばれて親しまれています。『三河物語』は同書の後書きによれば、そんな彦左が齢"七十"に及ぼうとするころに書いた大久保家の歴史書にして回顧録。自筆本も残っており、戦国武士を知る重要史料とされている。 これがしかし、恨みと憎しみにあふれているのです。 まず彦左、冒頭一行目から、「私は老人のことですから、いつ死ぬかも知れません」("我老人之事ナレバ、夕サリヲ知ラズ")と、「老い」を言い訳にして、なにやら言いたい放題する予感を漂わせる。案の定、86「近ごろの世は、ご主君もご譜代の家筋をまるでご存知ない。また、長年のご譜代衆(先祖代々仕える家来衆)も代々の家柄も知らず、ご主君も、三河者なら皆、ご譜代の者とお思いになっている。その由来を子どもが知るわけもないので書き置くのである」 と、直後にいきなり主君批判。 それで、昔のことを知る老人として、ご譜代の家筋を書き置くのかと思いきや、「これは我が子どもたちに我が家の由緒・家柄を知らせるために書き置くものなので、他人のことは書かない。だから"門外不出"とする」 と言い、その舌の根も乾かぬうちに、「皆様方も家々のご忠節と、ご譜代の家柄のことを書き記して、子どもたちにお譲りなさるとよい」 と、"前外不出"と言いながら、「皆様方」("各々")と呼びかけている。 そんなふうにしょっぱなから矛盾だらけの波乱含みで始まる『三河物語』は、徳川家の先祖や、初代将軍家康の生涯や戦のこと、自分の手柄話に続き、三代将軍家光に記述が移るころから、さらに不穏な空気に満ちてくる。87「大坂の合戦で恐ろしくもないところで逃げた者が、過分な知行を、今までの知行に重ねて得て、人を多く召し連れて大きな顔をして歩いている。我らは手柄を立てこそすれ逃げたことはないし、先祖のご忠節も限りない」 なのに、ろくに手柄も立てない奴に大きな顔をされる情けなさに、「人知れず、大きなトチの実ほどもある涙が"はら/\"とこぼれてくる」 と、手柄を立てない者が取り立てられ、立てた大久保家の自分が冷遇される悔しさに大粒の涙がこぼれるというのですから、尋常ではありません。あげく、「子どもたち、よく聞け。今はご主君をありがたく思うことは毛頭ない。きっとお前たちもありがたくは思っておるまい」("子共、よく聞け。只今八御主様之御忝御事ハ、毛頭なし。定めて汝共も御かたじけなく有間敷) と、今現在のご主君、つまりは三代将軍家光のことはこれっぽっちもありがたく思っていないし、子らもまたそうであろうと決めつけている。 なぜかといえば、現将軍は他国の者やご譜代でない者を厚遇する一方、大久保家のように、九代にもわたって仕えてきたご譜代を"新参者"として扱って、もらえる給料も微々たるもので、なんでありがたく思えるはずがあろうという理屈です。88“彦左のしつこさ” ちょっと衝撃的じゃありませんか? ここには、武士と言えば忠義であるとか、日本人と言えば従順でおとなしいといった既存のイメージを打ち破るクセの強さやたくましさがある。 こうした率直な物言いが、彦左といえば「ご意見番」というイメージを作ったのでしょう。面白いのは、こんなふうに、今の主君のことは毛頭ありがたく思わないと言いつつ、直後、「しかしそれを不満に思わずに、よくご奉公申し上げるべきだ」と言っているところ。さらに、「九代にもわたって仕えてきた家柄の者を悪く召し使われるのは、ご主君の"御不足"(欠点、過失)である」 と、またしても"九代"を強調しながら主君を批判しつつ、「何事も御意次第、火の中水の中に入っても、にっこり笑ってご主君がご機嫌良いよ89うに奉公せよ」 と、このへんは、忠義の武士イメージにびったりなところもあるものの、「とはいえ、今現在のご主君にありがたいと思うことは一つも、その半分もないけれど」("かくハ申せ共、只今御主様に御忝御事ハ一つも半分もなけれ共) って、本当にしつこい(笑)。 先祖代々の忠節で以て徳川家に仕えてきた大久保家の一員としては、子孫にも引き続き忠義を尽くしてもらいたい一方で、現状への不満、現将軍への不服な気持ちが腹に据えかねてならないのです。“彦左の目的は何か” それにしても、彦左は何のために『三河物語』を書いたのか。彦左によれば、「これは我が子どもたちに我が家の由緒・家柄を知らせるために書き置くもの」 ということでした。 そのため“門外不出”を繰り返していた。 が、それにしては、90大久保家の昔の忠節が多くの人に知られることで、これから先の大久保家の待遇が良くなってほしい⋯⋯そんな思いがある一方、本多正信による大久保忠勝への中傷はそこらの子どもまでもが口にする周知の事実なのですから、今さら人に知らせるまでもありません。それでも、本多正信があんなに大久保家に良くしてもらったのに裏切ったことや、裏切った本多正信への憎悪は吐き出さずにいられない。ついでに現将軍への恨み言もあの世に持っていきたくない⋯⋯しかしさすがにそれを多くの人にさらすのも憚られる⋯⋯それで"門外不出"と繰り返したのではな書くことで、自分の気持ちが癒やされる、成仏するということがあります。彦左も、どす黒い憎しみを抱えたままあの世に行くよりは、すべて吐き出してラクになってから死にたいと思ったのではないか。加えて、いかに自分が本多親子を憎悪しているか、子孫にも知っていてもらいたい、その憎悪を、引き継いでほしいという思いもあったかもしれない。死ぬ前に憎しみを吐き出しておくキリスト戦には自分の悪い行いを自覚して告白する「懺悔」の習慣がありますが、99彦左の振る舞いはいわば「逆懺悔」。自分のマイナスの感情を自覚するという意味では、これもまた一種の「懺悔」とも言える。七十を過ぎて、来し方行く末、自分を見つめ直し、とても人様には言えないような、どす黒い(と、彦左は思ってはいないはずですが)憎しみをすべて吐き出す。それこそ、道綱母ではありませんが、胸がすっとするでしょう。あの世に金は持っていけないとよく言いますが、憎悪は違います。因果応報や来世を信じていた昔の人にとって、執念を抱えたまま死ぬことは、成仏の妨げとなる罪深いことです。生きているうちに心の内を見つめ、マイナスの感情を吐き出した彦左の行為は、憎悪をあの世に持っていかない、それによって成仏の助けとなる⋯⋯という点で、立派な老い支度であると思うゆえんです。あなたも、もしも心にわだかまりがあるなら、今すぐ書き記してみてはどうでしょう。ほんの少しだけ心が軽くなること請け合いです。99 ということでした。そのため、"門外不出"を繰り返していた。が、それにしては、「もしもこの書物をご譜代久しい人々が御覧になっても、我が大久保家ばかりえこひいきして書いてあるとお思いになるな」90「万一、落として分散し、誰かがご覧になったとしても、我が家のことばかりひいきして書いたとおっしゃらないでほしい」 と、他者が見る可能性をくどいまでに繰り返している。"門外不出"と言いながら、ほかの譜代久しき人々が読むことを前提にした書きよう「逆に彦左衛門はこの書を多くの人に読んでもらいたいという希望をもっていたのでは、と推測できる」(小林賢章訳『現代語訳 三河物語』注) という意見に同感です。 では彦左は、この書を人に見てもらうことで何を期待していたのか。 と、考えた時、一つのヒントとなるのは、「私はもはや、七十に及ぼうとしている身なので、今日明日をも知れないので」("我ハ早七十二及に罷成候らへバ、今明日之儀も不存候らヘシ故") という後書きのセリフです。彦左は続けます。「今死んだら、ご主君にどれほど長く仕えてきたか、ご主君もご存知ないのだからご主君をを仰いで当将軍様(家光)まで九代にわたって仕え続けてきた家柄であること91が分からなくなってしまう。それを我がせがれに知らせるため、我が先祖が徳川家にとって一度も敵とならず、忠節を尽くしたことや、自分たちの辛苦を知らせるために書いたのだ」 執筆動機のメインは「自分はいつ死ぬか分からない」ということ、つまりはじじいであることで、「もし今、死んだら真実が失われてしまう」という焦りがあるわけです。その真実とは「自家がいかに頑張ってきたか」ということで、そうした自家の歴史に比して、振るわぬ現状への不満が根底に横たわっている⋯⋯。 この彦左の思い、既視感あります。 前作の「くそじじいとくそばばあの日本史』で紹介した、齋部広成の思いとそっくりなんです。 広成は、国が作った『日本書紀』には遺漏がある、書かれていないことがある、という鬱慣から、八十過ぎの高齢で「古語拾遺」を書きました。「もしも自分が今死んだらこの恨みを黄泉の地下世界まで持っていくことになってしまう」("忽然に避化りなば、恨を地下に含まむ)という一心からです。その恨みの主たる内容は、神代の故実が廃れてしまうという92恨み、具体的には斎別氏がいかに古くから祭祀に関わってきたか、それが正しく伝えられていないという恨みです。 斎部氏は古くから宮廷祭祀に関わってきたのに、中臣氏の台頭で、大きな仕事は中臣氏に任されるようになってしまった。それで訴訟を起こし、中臣氏もまた訴えを起こすというゴタゴタの中、やっと斎部氏の役割が半ば認められたころ、広成は平城天皇からお尋ねがあった機をとらえ、斎部氏がいかに古くから宮廷の重要祭祀に関わってきたかを強調します。 つまり、先祖の活躍ぶりを伝えることで、現状をもっとよくしたい⋯⋯それが広成の願いだったのです。 時代は八百年近く隔たりこそすれ、彦左の思いも同じでしょう。 彦左もまた、広成と同様、現状に不満があるからこそ、先祖の活躍ぶりを記した。それを知るのは年取った自分しかいないという思いがそうさせたのです。 若者の知らない昔を知っているということ。 それだけで老人は「歴史の証人」の資格があります。 広成と彦左に共通するのは、そんな「歴史の証人」であるということです。93 古代の祭祀や徳川家の草朝期の有様といった重要な歴史と共に、それに関わった自家の輝かしい過去を証言することで、通去の栄光と現状の溝を埋めたい⋯⋯それが二人のじじいの主たる目的であったことは確かでしょう。 けれども⋯⋯広成と彦左には大きな違いがあります。 広成の『古語拾遺』には、はっきりと平城天皇の御覧に入れる意因が示されて、「願わくは、この書が天皇にまで達し、ご高覧にあずかりますように」(庶はくは斯の文の高く達りて、天鑑の曲照を被らむ) と締めくくられている。昔と比べて振るわぬ現状を何とかしたいという広成の願いは、ダイレクトに主上に向けられています。 一方、彦左の『三河物語』は、名目上は子孫に伝えるためと繰り返しながら、ご譜代久しき人々が見ることを期待していた。 もっと言えば、彼らを通じて三代将軍家光に伝えたかった。それによって過去の栄光を少しでも取り戻したい、現状や子孫の状況を上向きに変えたいと思ったのではな94いでしょうか。 それプラス、彦左が再三再四にわたって強調してきた"門外不出"に関わる目的があったと私は考えます。 それが、一族にとって不倶戴天ともなる政敵への憎しみの告白です。“憎しみを書き置くことが彦左流の老い支度” 将軍家に対しては「微塵も感謝していない」という程度のことばにとどまった『三河物語』が、激しく憎悪をぶつけた相手は、本多正信・正純親子でした。 ここでその背景を説明すると、『三河物語』を書き始めた当時、彦左の知行は千石に過ぎず、その後、二千石に加増になったものの、そのころ彦左の兄七人はすべて死没(三人は戦死)、大久保家の家名は、彦左の「双肩にかかっていた」(斎木一馬校注『三河物語』解説)といいます。 彦左は外腹、つまりは正妻以外の女から生まれた八男です。その彦左が一族の代表のようになってしまった一つのきっかけは、長兄・忠世(一五三二〜一五九四)の子の忠隣(一五五三〜一六二八)の不運でした。忠隣は六万五千石を領有する大名だったのに、家康の不興を買って、一六一四年に改易(所領・家屋敷・身分の没収)にあっ95てしまったのです(孫の代で大名に復帰)。『三河物語』によれば、この改易は本多正信(一五三八〜一六一六)の中傷のせいだと世間では子どもまでもが言っている、と。 彦左日く、正信は忠世に"重恩" を受けた者だからそんなことはないはずだけれど「もしや気持ちを翻して、中傷したということもあろうか」("若其心を引ちがへて、さゝへても有か") と正信の裏切りを疑い、におわせます。さらに、その"悪しき因果"の報 正信は、「(改易から)三年も経たないうちに、顔に唐瘡ができ、顔半分が崩れて奥歯の見える状態のまま死んだ」("三年も過さずして、顔に唐瘡を出かして、片顔くづれて奥歯の見へけれバ、其盡死") と言い、子の正純も改易になり、出羽や秋田へ流罪になった。「(本多正信は)顔だけは人間でも心は畜生だったのか」"面計ハ人々にて、魂八畜生に有物哉") と彦左は締めくくっており、この一文が『三河物語』本文の最終行となっています。96本多親子への憎悪というのは、『三河物語』のフィナーレを飾る大事な要素であるわけです。 そして、このあとに、日付と署名と,子共(供)にゆづる"という一文があって、以下、後書きが続きます。そこには冒頭の序文と同じ趣旨⋯⋯自分は老いて明日をも知れぬ命であるとして、"門外不出"と言いながら、ほかの譜代の人々が読むことを前提にした文章⋯⋯が綴られている。序文と異なるのは、「この書物を書き置くわけは、人に見せようというためではない」("此書置儀は、人に見せんためにあらず")という一文があることで、これが彦左の素直な思いなのではないか。 徳川の歴史、我が家の歴史、そして本多正信らへの憎悪⋯⋯七十に及ぶ今、そのすべてを吐露したい。 自分自身が吐き出したいのです。これはいわば彦左の老い支度であると私は考えます。 そう考えると、"門外不出"と言いながら人が見ることを前提にしている姿勢も理解できます。97大久保家の昔の忠節が多くの人に知られることで、これから先の大久保家の待遇が良くなってほしい⋯⋯そんな思いがある一方、本多正信による大久保忠勝への中傷はそこらの子どもまでもが口にする周知の事実なのですから、今さら人に知らせるまでもありません。それでも、本多正信があんなに大久保家に良くしてもらったのに裏切ったことや、裏切った本多正信への憎悪は吐き出さずにいられない。ついでに現将軍への恨み言もあの世に持っていきたくない⋯⋯しかしさすがにそれを多くの人にさらすのも憚られる⋯⋯それで"門外不出"と繰り返したのではないか。書くことで、自分の気持ちが癒やされる、成仏するということがあります。彦左も、どす黒い憎しみを抱えたままあの世に行くよりは、すべて吐き出してラクになってから死にたいと思ったのではないか。加えて、いかに自分が本多親子を憎悪しているか、子孫にも知っていてもらいたい、その憎悪を、引き継いでほしいという思いもあったかもしれない。“死ぬ前に憎しみを吐き出しておく” キリスト教には自分の悪い行いを自覚して告白する「懺悔」の習慣がありますが、98彦左の振る舞いはいわば「逆懺悔」。自分のマイナスの感情を自覚するという意味では、これもまた一種の「懺悔」とも言える。 七十を過ぎて、来し方行く末、自分を見つめ直し、とても人様には言えないような、どす黒い(と、彦左は思ってはいないはずですが)憎しみをすべて吐き出す。 それこそ、道綱母ではありませんが、胸がすっとするでしょう。 あの世に金は持っていけないとよく言いますが、憎悪は違います。 因果応報や来世を信じていた昔の人にとって、執念を抱えたまま死ぬことは、成仏の妨げとなる罪深いことです。生きているうちに心の内を見つめ、マイナスの感情を吐き出した彦左の行為は、憎悪をあの世に持っていかない、それによって成仏の助けとなる⋯⋯という点で、立派な老い支度であると思うゆえんです。あなたも、もしも心にわだかまりがあるなら、今すぐ書き記してみてはどうでしょう。 ほんの少しだけ心が軽くなること請け合いです。99※※※※※※※※※※※※※書き起こしていて気がついた、この本も「大久保彦左衛門コレクション」に加えよう。さっそく通販に注文した。なんだかコレクションのまとめをしようと思うそばから増えていくこのだ。次はなにが手に入るのだろうか、神憑っているようでコワイ宝くじ買って来よう!!
2024/04/28
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2017年以来7年かけて旧街道を日本一周、画竜点睛を入れる気分で先日若狭・丹後街道を歩いた。さてこれからどうしようと思ったとき長年はまっている「大久保彦左衛門コレクション」の仕上げを思い付いた。その前に彦左衛門が晩年住んだという鹿島にでも行ってみようかとスマホで検索していたら「大久保彦左衛門 鹿島」のキーワードに、これまで知りたかったのに見つからなかった「大久保彦左衛門の詫び状」原本の写真が見つかった。おまけに所在場所の情報まで見つかった。浜松市中央図書館デジタルアーカイブ原本は内山真龍(またつ)資料館浜松市天竜区大谷568この詫び状についていては以前、楽天日記に書いたから、書き下し文や現代語訳はそちらを見て欲しい。以前の日記「大久保彦左衛門若気の至り」大久保彦左衛門平助が元服した頃、長兄 大久保忠世が二股城主となった。平助も浜松から二股に移り住んだ。そのころイタズラ心で天竜川沿い椎ヶ脇神社の境内にあった岩を崖下に落としたことがあった。後になって、この事を思い出して江戸から詫び状と小判で3両を寄越したというのだ。小判3両というのは今の価値で言うと25~30万円というところ。大金というほどではないが寄進の金額としては格別なものではある。それはさておき、所蔵場所が分かったのだから、ぜひこの眼で直接見ておきたい。連休明けにでも行くかな。
2024/04/25
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昭和29年発行 山岡荘八著 東方社発行『彦左青春』定価240円Amazon、古書店ネット、図書館を当たってみたが どこにも見当たらなかった。やむなくネットオークション最低価格2000円で落札した。昭和29年、山岡荘八は『徳川家康』を発表するかたわら、多くの作品を残している。『徳川家康』全26巻 大日本雄弁会講談社 1953-1967 のち文庫『暗黒街の少年』ポプラ社 1954『変幻髑髏丸』偕成社 1954『富士に風あり』ポプラ社 1954『海の花壇』東方社 1954『桃源の鬼』山田書店 1954 のち春陽文庫『月夜桜』東方社 1954『女の一生』東方社 1954『顔のない男』豊文社 1954『彦左青春』東方社 1954『花の寝室』豊文社 1954『やっこ歌舞伎』大日本雄弁会講談社 1954 (Wikipedia)山岡荘八が書いた彦左衛門はどんなものか楽しみである。
2024/03/21
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朝早くゆうパックが届いた厳重な梱包から出てきたのは実はこれ 月曜日にネットオークションで落札したもの、落札価格「500円」をすぐに決済したら今朝届いたというわけ。ゆうパック料金「2500円」は痛かったが、これだけ丁寧な梱包には満足している。初めて告白するが爺は現役の頃「第9期包装管理士」(2023年は58期)として自動車部品の輸出梱包の設計をしていた。ありあわせの段ボールを改造しての梱包は見事。届いた錦絵は「大久保武蔵鐙」の「松前屋五郎兵衛」が題材の役者絵明治16年 新富座で上演された河竹黙阿弥作「目出柳翠緑松前(めでたやなぎみどりのまつまえ)」「松前屋五郎兵衛」尾上菊五郎「億川氏光公」 板東家橘 「大久保彦左衛門」中村仲蔵「一心太助」 市川左団次「お志不」 板東志の輔明治16年出版 南紺屋町 木曽直次郎 絵師 守川周重状態はあまり良くないが 久しぶりに掘り出し物だったかもしれない。今回まで最近の落札品3点最近は特に欲しいものが出てこなくなった、そろそろコレクションのまとめ(終活)に入る時期かもしれない。まずは「目録」だけでも作るかな。
2024/01/24
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年末にネットオークションで古い本を手に入れた。戸川幸夫著「東京伝説めぐり」昭和27年11月 駿河台書房発行330円で落札およそ150編の短文の中に目指す「大久保彦左と一心太助」がある。13ページの短文をLINEの文字認識アプリを使って文字起こしした。彦左オタクのじじに言わせれば、間違いの多い内容だが、作者の面白おかしくという意図を尊重してそのまま記す。※※※※※※※※※※※※※※※※※戸川幸夫著「東京伝説めぐり」"天下の御意見番"大久保彦左衛門の人気は、威張りくさる将軍さまや、虎の威をかる諸大名、旗本運中など誰かれの容赦なくビシ/\やつつけたところにある。この間死んだ古島一雄翁と一脈通じるところがあるわけで興味深いが、彦左の講談本の方は銭形平次を読みあげた後のワンマン首相に熱読含味してもらうとして、こゝでは実説の方を述べていくことにする。野人に見られる彦左衛門も、系譜から調べると藤原氏の出だから、祖先は貴族というわけ。代々三河の大久保に住んでいたから土地の名をとつて大久保と改姓した。彦左、名は忠教、十七才で兄忠世に従つて「高天神の役」に初陣、城将関部長教の首を取ったのを初めとし以後幾度となく戦場に見えて大功を打ち立てたので、家康も感激して『知行をとらするぞ』というのに、手を振つて『そんなものは要りません。それより言いたいことをいえる権利を下さい』と御意見番を買つてた。一万や二万の知行より、実質的に将軍補佐の役についたのは先見の明があつたわけ、それとて"大慾は無慾に似たり"の彦左だつたからこそ出来た芸当だ。彦左の住居は神田駿河台にあつた。矢田挿雲氏の調査に、依ると杏雲堂病院のあたりということたが、彦左衛門女流の子孫に当る大久保伝蔵氏の話では主婦の友社の裏あたりだったとのこと。だから、例の盥に乗つて登城の際、本郷の前田家御長屋前にさしかゝると窓から首を出して笑つたので怒鳴り込んだという話は、道順を考えるとテニオハが合わない。いくら昔でも神田からわざ/\本郷を通つて千代田城に行く奴もあるまい。三田村鳶魚氏も「江戸の話」の中でこの話は根拠がうすいといつており、大久保伝蔵氏も"多分、幕府が奢侈にふけるのを意見したことがあり、それを講談的に脚色した創作でしよう"といつている。彦左衛門が歿したのは老病のためで「大久保武蔵鐙」では寛文十六年(一六三九年)二月二十三日となつているが、港区芝自金三光町五二九の法華宗の寺立行寺内にある墓碑によると二月二十九日となつている。行年八十八才で、法名は「了真院忠教日清大居士」といヽ、墓石は宝篋院塔形で上り藤に大の字の家紋がついている。昭和二年大久保講の有志の手で碑堂が建立されるまで永い間風雨にさらされていたので彫字も判読出来ない箇所がある。この碑堂も戦災でやられ復興出来ず、墓はうらさびれた境内に淋しく立つている。なぜ彦左の墓がこゝにあるかというと、彦左は法華宗の信徒で家康に従い江戸に出てからは,愛知県碧海群郡六律美村妙国寺の菩提寺にもそうちよい/\行けないので、立行寺も菩提所とし、度々参拝していたからで、死期迫ると覚るや、骨をこの二寺と京都の本山本禪寺に埋めるよう遺言したので、三ヶ所に分骨して納めたという。(立行寺職牛田栄存氏、大久保伝藏氏談)「大久保武蔵鐙』によると、正保四年の春ごろより、彦左風邪気味になつて寝ついた。『たゞの風邪だから、ペニシリンの必要もないわさ』と本人もいうので周囲の者も軽く見ていると、だん/\病は重くなり日ごろの大食も大いに減じたので『こりやどうも、こんどは本式らしい』と彦左もいゝ出す始末。やがて親類一同を招いて『人間死ぬ時は大ていボケるもんだよ、拙者はそんな醜態はさらけ出したくないから、気も言葉もハツキリしてる時に御一同にバイ/\したかつたんだよ』とそれ/\に片見分けをして『もう、いうことはないから、何もいうな。食事も、もう喰べても無駄ぢやから喰わんことにするから、すゝめちゃあいかんぞ』といつて寝所に引籠り、一心に念仏を唱えていた。それからというものは、湯水を呑むだけだつたが、気象は少しも衰えず二十二日になると『明日は必ず死ぬから、葬式の用意をして置け』と家人にいゝつけたから、家人は驚ろいた。そこで将軍家まで『本人が申して居りますから間違いはありません。明日は葬式を出すそうで⋯⋯』と届け出たから、家光公も『そうか、あのガンコ親爺が死ぬと申したか⋯⋯』とホロリとし、御側用人、牧野佐渡守を大久保家に見舞にやつた。彦左上使を見るや、ガバとはね起き正座、両手をつかえて上使を迎えたから佐渡もビックリした。そこで、将軍家より知行を賜わる旨を伝えると、彦左は『これまでも知行を御受けしなかつたのに、今さらなんで拝領する必要が御座いましようか、そんな御気遣いは更になくと将軍家にお伝え願いたい』というので佐渡守とりなし顔に『いや/\これは貴殿のみならず御子孫に対し生活を安定させるという将軍の温かい御計らいで御座るからお受けになつたがよかろう』というと、彦左色をなして『大体、知行というものは功労のあつた本人に賜わるべきもの、それを本人が断るのになんで功績なき子孫が恩典を受ける必要がありますか』といゝ放した。佐渡も面目を失つて真赤になつていると『しがし、そういつてしまつては貴殿の御役目も成り立つまいから、こう致そう。牛の睾丸を三つ戴き度いと御伝え願いたい』佐渡、眼を丸くして『え?牛の畢丸?それはヒドラジツト程の特効が御座るか?』と聞き直すと、彦左すまして『いかにも、おそらく唐天竺の名医とてもこの効用は存ぜぬであろうが、この彦左は存じている。これは死病を治すことは出来ないが、世の中の阿呆を治す特効薬でござる。よって拙者、これを三個賜わりなにかと申せばやたらに知行を与えたがる将軍へその一つを与え、もう一つは功もないくせに知行を欲しがる当節の若い者に与え、残る一つはそんな使いで、やつて来られる上使に喰わせたいのぢや』といつた切り、後は口をきこうともせずゴロリと横になつた。これが御意見番の最後の御意見だつたので、家光この報告を聞いて、またホロリとしたという。こんな爺さんだつたから、講談師のメシのタネになつたのも無理からぬことで、その最も有名なのが、川勝丹波守の妾を鉄砲で射殺したという話だ。当時若年寄桑山左衛門尉忠晴の婿に川勝丹波守という御書院番頭がいた。この男、収賄はする、高利貸しはする、おまけにお縫、お市というすこぶる美人の姉妹を二号にもつてその母視を路頭にほうり出したといういや味のサンプルみたいな侍で、大久保家の隣に広大な邸を構え、キャデラックの自家用車かなんかで毎日通勤する。盥通勤の彥左にとつてはこれがシヤクにさわつてならなかつた。丁度川勝邸と大久保家との間に空地があつた。この空地は大久保家のものだつたが、彦左金がないため家を増築するわけにもいかずこの土地を放つて置いた。川勝はまた二号邸増築のためこの土地が欲しくて仕方がない。そこで桑山に運動したから、桑山は若年寄と計つた上ある日、彦左を呼び出し『近ごろは地所不足で、諸士が困つているから、あの土地を公儀で買い取り度い』と申し渡した。彦左も『お上の必要とあれば止むを得ぬ』と0Kして引退つたが、翌日から川勝が普請を始めたのでさては一杯喰つたかとカン/\になつた。丁度、大久保家と普請場の境の所に一本の大きな松があり、これが工事の邪魔になつて仕方がない。そこで川勝『こちら側の枝だけ切り落したいが⋯⋯』と申し込んで来た。彦左手ぐすね引いていたところなのでソーレお出なすつたと『いや、あれは由緒ある松なれば切り落すはおろか松葉一葉落すこと相ならぬ。不穏な行動に出れば自衛のため射殺するぞよ』と警視総藍のような顔をして申渡した。川勝もフンガイして桑山に言いつける。そこで再び彦が呼び出されたが、こんどは彦左『松が邪魔なら普請を止めろ!』とガンとして聞かない。このオヤヂつむぢをまげたら何をい出すかわからないから⋯⋯と桑山も仕方なく『囲いをして普請せよ』と川勝に申し渡した。一方、彦左の用人笹尾喜内、軒先きにホテルの様な大建築がドシ/\出来上つて行くので『御主人、あれが出来ますと、どうもこちらに陽が入りませんで困ります』とブツ/\いゝ始めた。彦左いうのに『まア、待て、川勝の新築が出来上つたら隣りに引き移ればよかろう』とすましたもの、喜内『ヘェー、そんなこと出来ますかねえ』『出来るさ、お前は知るまいがあの川勝の奴、去年諸国に出張した際、だいぶアチコチで袖の下を取つて来ているから、定めし念を入れていゝ家を造るに違いない。丁度、わが家も破損していて普請しなければならなくなつていたんだから、うまい具合だ、まア、わしにまかせとけ』と、ボンと胸を叩いてニヤ/\している。元和六年(一六一五年)八月十四日、川勝邸では新築も成り祝宴を開く。十五夜の月の影が、問題の松の梢にかゝつて下界を明るく照らしていた。彦左、遣水をした縁先に腰を下ろし『明月や⋯⋯あゝ明月や⋯⋯』としきりに苦吟していると、向いの川勝邸の二階の窓がガラリと開いて酔に顔をホテらせたお縫、お市の二人が『ほんとにこの松が邪魔だよ』『そうね、まるで隣りの彦左爺いのように曲りくねつているわね』と話しながら、手鼻をチンとかんで松の小枝にひつかけた。これを見た彦左、怒り心頭に発し、鉄砲をとり上げるや強薬りをこめて、狙いすましてバーンと一発発射すると狙は誤またずお縫の胴からお市の胸を射ち抜いた。川勝もこんどはカン/\になつてカク/\シカ/\と公儀に訴え出たから、公儀もこと人命に関する問題だから放つて置けずと彦左を呼び出し『何のため、射殺したか?』と取調べにかゝつた。彦左、懐中より巻物一巻をうや/\しく取り出し差出す。見ると巻物の上包みに「慶長十六年(一六一一年)五月二日、永井下総守、是を認むる」とあつて、家康の直筆で我、鷹野に出でて、其道の帰りがけ、彦左衛門宅に立寄り、暫らく休息中に庭中の巨松を見る、この松見どころあり、我も松平家なればこの松汝に預く、見よ、この松年を経て栄えなばわが家も共に栄えん、彦左衛門、此松を大切に相守るべし、よつて奥行百七十間、間口五十間の場所、永々其方の屋敷地に遣わすものなり、よつて如件他に狂歌二首を与う徳川の水たまりある大久保に忠教住めばともに家康大久保の松の一木の葉末にも変わらぬ 千代の汝守りせよ代々の将軍、是を粗末にすべからざるものなり五月二日 家康判大久保彥左門とあつた。そこで彦左、膝を進め、川勝の非行を挙げお縫、お市の無礼を話したから、秀忠も、老中もギヤフンといゝ、川勝は切腹、土地邸宅は望み通り彦左に賜わつたいうがこの時代、川勝という御書院番頭は居ないから、この話もどうやら眉ツバもの。また矢代騒動も正徳二年七月二十一日というから、彦左の死後七十五年に当り、これまた幽霊の仕業ということになる。ところで彦左の脇役となつた一心太助は彦左衛門の落し子ともいわれている。これもウソだが、実在したことは確からしい。「大久保武蔵鐙」によると、太助は両国辺に住んでいた。身長六尺、色白く肉づきのいゝ美男子で、人柄も誠実で情け深かつた。魚の行商をしていたが、いつも浅黄縮緬の長股引に秩父小紋の単物、五枚裏の雪駄をはいて、魚は供の男に持たせ、自分はただ「さかな、さかな」とふれ歩くだけだつた。どうして彦左衛門を知つているかというと彥左の草履取りに雇われていたからで、都合で大久保家を去つてからは「二君に仕えず」といつて魚屋になつた。太助の死因も行年も不明だが、墓は粗末ながら彥左の宝篋印塔に似せて作られ、高さは彦左の墓の肩くらいで彦左の墓の傍に並んで立つている。あの世まで仕えたいという遺言によつて作られたというが、墓には「一心放光信士」戒名の下に「さかな屋太助」と彫つてある。行年は不明だが、延宝二年(一六七五年)十二月二十三日没、施主は松前屋五郎兵衛で碑面には「松前五郎兵衛の刑死を救い⋯⋯施主この恩に感じ⋯⋯」とある。この松前屋はおそらく二代目だろうが太助が彦左の力をかりて、先代五郎兵衛の仇討ちをしたことは講談でも有名だ。ある時のこと太助が日ごろ世話になつている蔵前通りの米屋、松前屋五郎兵衛方の前を通りかゝると、表の大戸が下ろされ、奥で女たちの泣き声がするので、パトロール・ポリスじやないが不審に思つたから、入つて見ると主人の五郎兵衛が無実の罪で牢にブチ込まれたと一同泣いているのだつた。太助がわけを尋ねると女房のお梶は『まア、聞いて下さい、太助さん⋯⋯』と鼻をチンとかんだ。話によると、五郎兵衞は元をたゞせば、津軽越中守の家老、松前五郎左衛門の伜で、父の死後江戸に出て米屋を始めた。もと/\武士の出なので近所の習い度いという者を集めて剣術を教えていると、近所に道場を開いている内藤藤右衛門のカンに触り、試合を申込まれた。こちらは本職でもないからと花を持たせて負けてやつたところ、相手は威猛高かになつて罵り雑言するので、遂にカンニン袋の緒を切つて、こんどは逆に一同をやつけたのが事の起り、負けた内藤は舅に原井伊予守という町奉行がいるのを幸いに、五郎兵衛に無実の罪を着せ牢にブチ込み拷問の上殺して失つたというのだつた。そこで義俠の太助、ゲンコツで鼻の頭を逆にグイとすり上げ『そんなべらボゥな話があるけぇ、親分が何といおうとこの太助さんが承知出来ねえんだ』と、彦左の許に"親分天下の一大事だッ"と注進に駈け込んだ。そこで彦左の口添えで、太助は内藤のお長屋へ酒肴を持つて探訪に出かけ実情を探つて、内藤一味の悪事を暴き、松前屋の一子五助の助太刀をして親の仇討ちをさせたという。最近では、彦左衛門と太助の墓も、小中学生の社会□の対象として、見学に来る者も多く、彦左衛門の直系は現在、愛知県額田縣幸田村に大久保忠和という老人がいるというのは、墓場の所在地立行寺 住職の話である。所在地 港区白金三光町五二九立行寺案 内 都電 魚藍坂下下車
2024/01/07
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「家康公検定」の受験勉強中にオークションで落札した錦絵が、そのままになっていたので額装した。一番上(真田幸村と家康をかばう彦左衛門)と三番目(後藤又兵衛と彦左衛門)はPCプリンターで作成したもの。オークションに出てきても手が出ないだろう。コレクションもそろそろきちんと分類して本にするなり展示会を開くなりしないと「迷惑遺品」になってしまう。もうひとつ落札したままになっていたものを見つけた。大日本行程大絵図(印刷物)10月の松山~徳島ウォークが終わって旧街道日本一周ウォーク達成したら飾ろうと思っている。四国一周完了こちらの準備は ほぼ出来ている。
2023/10/02
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昨日届いた大久保彦左衛門絵はがき17日本百傑之内 大久保彦左衛門 OKUBO HIKOSAIMON東京九段つるや画房昭和20年代の発行らしい。落札価格550円送料 84円日本歴史上の人物100人に選ばれたということだろうが、なんだかこの顔には馴染めない。同時に出品されていた徳川家康なんだかなあまあそこらに置いて紛失しないうちにコレクションの箱に入れておこうか。そういえば毎日飲む薬置きのザルに何年も前から入ったままの家紋メダルこれも仕舞っておこう。
2023/08/24
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新型コロナ騒動で4年ぶりとなった「幸田町彦左まつり」に行った。午後6時 パレードが商店街を練り歩き始めた。学区ごとの参加チーム赤い裃は今までにないアイディアだ。どのチームも同じなのかなえっ もう最後のチーム?たらい籠に乗った彦左衛門はいないの?一心太助はどうなった?2019年の彦左まつりまだまだ新型コロナは収まったわけではないから今年は簡素化したのかな?来年に期待するか7時過ぎ 早々と家に帰って「金麦」お隣さんからスイカをいただいた。小玉スイカGoogleカメラによれば「カメハメハ」という品種らしい。
2023/07/29
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ネットオークションに「掛け軸」が出ていた。最低落札金額893円東照大権現(徳川家康)28神将名前だけ しかも印刷物でもまあ「大久保彦左衛門」の名があるから一応「最低価格」で入札。出品写真をLINE翻訳アプリで読み取り後、手作業で校正してみた。『榊原式部大輔康政管沼新八郎定盈水野下野守信元蜂屋半之丞貞次酒井左衛門尉忠次內藤彌二右衛門清長高木主水入道性順成瀬隼人正正勝松平甚太郎康忠大久保七郎右衛門忠世大久保治右衛門忠佐米津入道浄心東照大権現本多中務大輔忠勝内藤四郎左衛門正成安藤帯刀直次酒井雅樂頭正親烏居彦右衛門元忠烏居四郎右衛門忠廣大久保彦左衛門忠教本多佐渡守昌信奥平美作守信昌伊奈半左衛門服部半藏正成内藤三左衛門信成井伊兵部少輔直政平岩主計頭親吉渡邊半藏守綱松平主殿頭家忠』競り合う者もなかったと見えて「落札」送料 940円!明日届く。かみさんに可燃ごみとして捨てられないよう注意。7月29日、幸田町で4年ぶりに「彦左まつり」開催予定雨が降らなければ良いが
2023/07/07
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先日 村上元三の新聞連載「大久保彦左衛門」を手に入れて、単行本を改めて手に取り読んでいる。新聞連載が昭和35年~36年なのはわかっているのだが掲載紙がわからない。なにか手がかりはないかとネットの古本屋をあたったら、昭和36年中央公論社発行の初版本を見つけた。連載終了後すぐに発行されたことがわかる。さらに検索していたら昭和37年ラジオ連続放送劇の台本を見つけて即注文した。今日、それが届いて新聞連載記事単行本ラジオ連続放送劇台本の三つが揃った。ここまで揃ったら単行本が同じ中央公論社ながら昭和47年初版の昭和53年4刷というのが残念に思えてくる。本当の初版本を買うべきか否かそれが問題だ!もっと問題なのは依然としてどこの新聞に連載していたものかわからないことだ。〈追記〉村上元三「大久保彦左衛門」初版36年発行を注文した。どこかに新聞連載のことが記してあることを期待している。
2022/06/18
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ネットオークションで獲得した絵葉書。ずいぶん以前ポスターを手に入れた映画の宣伝絵葉書かと思っていたが違った。※※※※※※※※※※※※東宝バラエティ古川緑波一座五月興行五月一日より廿八日まで毎夕六時開演 土・日曜=正午・六時二回彼等とキャメラさん青春音頭東京ちょんきな大久保彦左衛門御観覧料一階席一円均一二階席 五十銭ヒビヤ 有楽座※※※※※※※※※※※※日比谷有楽座で開催された演劇の宣伝絵葉書だった。いったい何年の5月なのか調べたら「東宝10年史」(1943.12)の昭和11(1936)年の項にあった。この絵葉書は昭和11(1936)年のものだった。さらに調べてみたら「古川緑波昭和日記昭和11年」の4月と5月の記事に有楽座公演のことが記されているのを見つけた。古川緑波昭和日記昭和十一年※※※※※※※※※※※※四月三十日(木曜)十一時半から舞台けい古だが、とても時間通りに行く筈はない、電話で連絡とっといて、〈中略〉有楽座へ一時に着く。何うして中々始まらない。「彼等とキャメラ」の始まったのが、かれこれ三時。これを演出、みっしり二回宛通す。それから御難の「大久保」である。これは全く見てる者も悲鳴をあげた。川島も困ってゐるらしいが、何うにもならぬ。〈後略〉五月一日(金曜)〈前略〉眠不足でふら/\だ。序幕はマダムの扮装で暇どるので見られない。「青春音頭」が開く。いやもうマダムの出の受けることーー尤も入りがハ分ってとこだ。客にも面白くないことが分るのか、来ない。「青春」は先づ無事。「ちょんきな」も思ひの外受けて文句なし。たゞ恐ろしかったのは「大久保」だ。やって冷汗をかく。つく/"\此んな本を書いた作者を恨む。ハネ何と十時。四谷へ。五月二日(土曜)十二時に座へ。土曜のマチネーだ。「青春」が結局一ばん受ける。専務から手紙で「大久保」はあんまりひどいから二の替りは違ふものを出せといふ注文。それにしても此れでは仕方がないから、大カットを断行。作者の川島に「我が子の手術を見るやうなもの故」と、立会はぬことをすヽめたのに、ちゃんと来て見てゐるから、カットしにくヽて弱った。夜の部カットした分をプロムプター附でやる、まあ/\客を立たせずにおしまひ迄やれた。つく/"\作者の阿呆さにあいそがつきる。ハネ十一時。〈後略〉※※※※※※※※※※※※こんな調子で「大久保彦左衛門」は不評のまま千秋楽まで公演は続けられた。※※※※※※※※※※※※五月二十八日(木曜)九時起き、今日一日だと思へば元気が出て、自動車で出る。〈中略〉夜の部「大久保」終ってホッとした、一生此ういふ愚劇はやりたくない。〈後略〉※※※※※※※※※※※※ロッパが一生やりたくないという愚作がどんなものであったか知りたいが今のところ判らない。それはともかく、この公演の3年後、昭和14(1939)年に珍版 大久保彦左衛門という映画が封切られている。そのポスターは私のコレクションにある。菊田一夫原作の時代劇ミュージカルで当時 東宝のドル箱作品となったらしい。大久保彦左衛門は古川ロッパの当たり役となり昭和16(1941)年3月には長谷川・ロッパ 家光と彦左が公開された。戦後の昭和28(1953)年12月には「初笑い寛永御前試合」でも彦左衛門役を演じている。次いで昭和32(1957)年に公開されたのが「将軍家光と天下の彦左」古川ロッパの彦左衛門役はここまでだったようでこれ以後、中村錦之助の一心太助が評判を呼び彦左衛門役は月形龍之介に引き継がれて行った。映画全盛の時代が終わりテレビジョンに替わって以降、多くの俳優が大久保彦左衛門を演じてきたのだが昭和が平成に替わると一心太助も大久保彦左衛門も出番がなくなったようである。今では大久保彦左衛門を知らない世代が大半になってしまった。
2022/06/09
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今朝、郵便が届いた。新聞の切り抜きの束!村上元三の「大久保彦左衛門」昭和35年から翌36年にかけて新聞に連載されたもので377枚ある。ネットオークションで落札したのだが、競争者なしだった。この包みを開けるかどうか迷っている。この小説の単行本はすでにコレクションに入っている。切り抜きはこのままの状態でコレクションに加えて置くことにしよう。
2022/06/02
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雪予報だったのに朝から小雨が降り続いている。朝方は暖かかったが昼過ぎから冷え込んできた。「さくら」は散歩に行けなくてしょんぼりしている。することもないからスーパーに行った。豚肉とサンチュを買ってきた。今夜の酒の肴は「ポッサム」三度目か四度目の「新三河物語」を読み終えた。腰の痛みも気にならなくなった、週末は遠出してみるかな。
2022/02/10
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つれづれなるままに 日暮しスマホに向かいて、、、1日9時間もスマホをいじっている。数年前、古文書の解読にAI技術を応用するという記事があったのを思い出して検索してみたらすでにアプリが提供されていることがわかった。さっそくインストール。試しに大久保彦左衛門コレクションの掛け軸を読ませてみた。この掛け軸は徳川家康公十六神将プラス1(彦左衛門)という珍しいもの。といっても木版刷りであるが。上側の文は有名な「東照宮(家康)遺訓」。じじなどそらんじているから、じっくり見たことはない、じっくり見たところで難解な「くずし字」を読むだけの力はない。「みを(miwoa)」登場!読み取り結果はこちら。『人の一養はむ荷を負て尽さきをゆくかやし心そく煎かしすふ自由を常に松もへふ足俳しころに堂おこらめ国霞したる時と思ひ書なへし堪忍は事り長のの巻いかりは蟹と松もへ勝事ほかり知てまへる上事をしらされハ客長身にいゝたる私のれを煮て人をせむる風及はさには追そるよりまされり唐長如年実上る台返』正解はこちら。『人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。おのれを責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり慶長九年正月十六日家康』かなりの精度と言える。ただし、これはくずし字とはいえ版木刷りだったからだという。毛筆書きだとこうはいかないようだ『 鶏れ気廓風様新柳髪氷消浪洗旧苔鬢う久ゐすの こものとりの 呉竹の一夜あくれを はるやしるしらえ彦左ろ』こちらは私の読み『 鶏旦氣霽風梳新柳髮 氷消浪洗舊苔鬚 うぐいすの こその やどりの呉竹の 一夜あくれば はるや しるしらむ彦左衛門』ここまででもすごいと思うがAIの学習機能により今後、大幅な進歩が期待できる。もう先の見えた老爺が今さら「くずし字」を学ぶより、このアプリの助けを借りて古文書を楽しむ方が良いかもしれない。みを(MIWO)について詳しくは← ここ
2022/01/29
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大久保彦左衛門の年譜を「寬政重修諸家譜」大久保氏の記事を叩き台にして作ってみた。生身の彦左衛門は映画や小説に見る痛快な「天下のご意見番」とは程遠い実直な武士である。 寛政重修諸家譜 大久保彦左衛門 ここ← 年齢は数え年★印は諸家譜「大久保彦左衛門忠教」から転載したもの。大久保忠教(ただたか)永禄三(1560)年三河国上和田(岡崎市)に生まれる父忠員50歳、長兄忠世29歳、次兄忠佐24歳、忠世の嫡男忠隣8歳★初忠雄、(忠孝)、平助のち 彦左衛門 。大久保平右衛門忠員の八男。母は小坂氏。永禄三(1560)年五月桶狭間合戦、今川義元討死後、家康 岡崎に帰還永禄三(1560)年尾張國石瀬・三河國刈屋等の戦に忠世・忠佐が戦功永禄四(1561)年 家康、岡崎近郷攻略永禄五(1562)年 家康、信長と清洲同盟永禄五(1562)年上ノ郷城(蒲郡市)攻、人質交換で今川から妻子を取り戻す永禄六(1563)年三河一向一揆勃発、大久保党の上和田は家康側拠点となる永禄七(1564)年 一揆衆と上和田浄珠院で和議、これ以降、東三河平定戦開始永禄九(1566)年 家康東三河統一。三備の軍制を敷く、忠世は旗本先手衆となる永禄十(1567)年 信康と信長の娘を徳姫婚儀永禄十一(1568)年十二月 家康、遠江侵攻開始永禄十二(1569)年五月掛川落城、今川氏真小田原落ち元亀元(1570)年 家康、浜松城に移る、信康岡崎城主元亀元(1570)年二月信長の朝倉攻め、六月姉川合戦に徳川参戦元亀三(1572)年十月武田信玄軍と一言坂の戦い元亀三(1572)年十二月三方原合戦、忠世抜群の働き元亀四(1573)年 武田信玄死去天正元(1573)年 家康長篠城奪還、奥平貞正を城主とする天正二(1574)年 家康第一次犬居城攻めに敗れ忠世殿軍★天正三(1575)年浜松に於いて彦左衛門召されて、東照宮(家康公)に仕えたてまつる。時に十六歳天正三(1575)年五月長篠の戦い織田徳川連合軍勝利、忠世・忠佐の働き以降、遠江の武田勢掃討開始天正三(1575)十二月 二俣城奪還・忠世城主に、忠教も二俣へ★天正四(1576)年遠江國犬居での戦いに、兄七郎右衛門忠世に従い(初陣)首級を得た。十七歳天正五(1577)年 家康、諏訪原城攻め 天正七(1579)年九月 家康長男信康 忠世が預かる二俣にて自刃大久保七郎右衛門(忠世)は天正三年より同九年まで、二俣、高明、入手をもちて、境目に有りて、日夜無隙山野に臥してかせぎけり。【三河物語】★天正九(1581)年三月二十二日高天神城攻めで(敵の)城将岡部丹波守長教と槍を合わせ、ついに長教を突き伏せ、忠世の家臣本多主水某にこれを討たせた、また他の敵とも戦って首級を得た。二十二歳天正十年 信長の甲州攻め、徳川軍参戦。武田勝頼自刃天正十(1582)年六月本能寺の変・家康伊賀越えで岡崎帰着 後、甲斐・信濃進出戦開始、兄忠世は信濃奉行となる、彦左衛門は兄の配下。★天正十一(1583)年二月信濃國佐久郡小諸岩尾の城を攻めたとき、彦左衛門奮戦して田野口に於いて首級を挙げる功があった。二十四歳天正十二(1584)年三月小牧・長久手の戦い忠佐・忠隣参戦★天正十三(1585)年正月同信濃相木に於いても彦左衛門敵と戦って高名をあげた。二十六歳★天正十三(1585)年八月真田昌幸の居城上田に兵を向けられたときも、兄忠世と共にかの地におもむき、閏八月二日の城攻のとき、(真田)昌幸が歩卒を率いて城外の砥石町に打出で戦うこと急なり。我軍利なくして引き退く。このとき戦死するもの三百数人、昌幸は勝ちに乗じてこれを追う。忠教は忠世と共に馬を返し奮戦し、敵一騎を突き伏せ首級を得たり。ここにおいて衆軍踏み止まって励み戦う。凱旋の後、諸士の優劣をただされるとき、忠教が言をもつて證とせらる。★およそ忠教は忠世に属し所々に於いて軍塁を守り、しばしば(忠世の)戦功に貢献する事、あげてかぞふべからず。天正十四(1586)年四月秀吉の妹 朝日姫 家康に嫁す(家康、秀吉に臣従)天正十八(1587)年 小田原合戦天正十八年八月家康江戸討ち入り、この時兄忠世は小田原四万五千石、次兄忠佐は上総茂原五千石、忠世嫡男忠隣は武蔵国羽生二万石を賜った(たぶんこの時彦左衛門は五百石を賜った)、二十八歳★のち 彦左衛門は相模守忠隣(忠世の嫡男)の所領武蔵國埼玉郡(羽生)のうちにおいて二千石を知行す。文禄三(1594)年兄忠世卒(忠隣が家督を継ぎ羽生二万石と小田原四万五千石合わせて六万五千石城主となる。)、三十五歳文禄・慶長の役には徳川軍は渡海せず。慶長三(1598)年太閤秀吉卒慶長五(1600)年関ヶ原の戦いでは忠隣は秀忠と共に中山道を進み、真田と戦う関ヶ原勝利後、忠佐は沼津二万石を賜る(たぶん、この時 彦左衛門二千石に加増)、四十一歳慶長六(1601)年二月小田原をあらた め、上野國高崎にをいて十二万石をた まふといへども、忠隣故ありてこれを辞す。(寛政重修諸家譜:大久保忠隣)慶長八(1603)年 家康征夷大将軍となる慶長十(1605)年 家康 将軍職を秀忠に譲る※※※天正十八年から慶長十九年までの27年間は小田原大久保家に所属していた(小田原大久保のために働い)ため、諸家譜にはこの間(関ヶ原合戦等)の記載がないのだろう※※※慶長十六(1611)年十月忠隣嫡男忠常卒、その子忠職(ただもと)騎西二万石を継ぐ★慶長十九(1614)年忠隣が罪を被りて所領を没収されたとき、(家康公が)忠教を駿府に召されて、三河國額田郡のうちにおいて更に(新たに)千石の地を下さった。五十五歳慶長十九(1614)忠隣改易の時、忠隣の嫡孫忠職は家康の曾孫であることが考慮され、騎西城内蟄居、所領2万石は存続を許された。★この年(慶長十九(1614)年)大坂の役に御槍奉行として従い奉る。★元和元(1615)年(大坂)夏御陣にも供奉し、乱平らぐの後、諸人相伝え言う。東照宮の御旗すでに退くありと。忠教これを聞きて衆人を罵って、我は御槍奉行だったから御旗(奉行)と共に一所にあり。しかれどもその退くを見ず、どうしてそんなことがあろうかと言った。ここにおいて諸人その偽りなる事を知る。五十五歳★これよりさき武蔵國永の御槍と葉茶壺や青磁七官の花器を拝領した。元和二(1616)年 家康死去元和三(1617)年本多正純が秀忠に仕える元和八(1622)年本多正純改易(三河物語は元和八(1622)年六十三歳の年に書き、のち寛永三(1626)年、六十七歳の年に手を加えて脱稿浄写したものと見られる)★寛永二(1625)年十二月十五日台徳院殿(秀忠)より采地の御朱印を下され、三年御上洛の時従い奉る。六十六歳★寛永九(1632)年六月二十五日御旗奉行に轉じ、七月朔日馬上同心一騎足軽同心十五人を付属せられ、十一月二十日布衣を着する事をゆるさる。七十三歳★寛永十(1633)年七月二十六日三河國額田郡のうちにをいて千石を加えられ、すべて二千石を知行す。七十四歳寛永十一(1634)年 将軍家光の上洛に旗奉行として供奉★寛永十二(1635)年額田郡の三百石の地を常陸國鹿嶋郡のうちに移さる。七十六歳(寛永十四年 本多正純死去)★寛永十六年二月朔日死す。年八十。法名日清。采地額田郡尾尻村の長福寺に葬る。妻は馬場右衛門信成の養女
2022/01/23
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しばらく書きかけのままだった大久保彦左衛門の領地を投稿したら日付が書き始めた日(1月13日)のままだったジジのライフワークだと思っているのだが、実に面白くないかとは思うけれど見てください。「彦左衛門 所領安堵朱印状」 ここ ←
2022/01/18
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大久保彦左衛門は知行二千石の中堅旗本であった。「寛政重修諸家譜」によれば十六歳の時徳川家康にお目見えし(主従関係を結んだ)、翌年、兄忠世の指揮下で初陣。以後忠世に所属、忠世の死後は家督を継いだ忠隣に所属している。家康江戸入りののち忠隣の領地武蔵羽生の内に二千石を知行した。その後慶長19年忠隣が突然、改易されたとき彦左衛門は家康に召されて三河額田郡に千石の地を賜りその年、御鎗奉行として大坂冬の陣に参じた。寛永3年台徳院殿(秀忠)より采地の御朱印を下された。寛永11年に将軍家光より三河額田郡に千石を加増され都合二千石となった。寛永12年額田郡の三百石の地を常陸國鹿嶋郡のうちに移された。となっている。ネットをさ迷っていたら「史籍集覧」という本に「大久保彦左衛門」の記事が収録されていることがわかった。国立国会図書館デジタルコレクションで探したら「史籍集覧12」がヒットした。ページをめくってたどり着いた。活字起こしして句読点を施した。( )内は写し間違いを修正したもの。『 〇 高二千石大久保彦左衛門蔵三河國額田郡龍泉寺村貳百六十三石六斗田 、尾尻村内六十五石五斗、羽栗村内貳百貳拾貳石八斗三升 、生平村百三十六石貳斗貳升、坂崎村内、都合千石、右出置候、畢永可令知行支也、仍如件寛永二年 御朱印 大久保彦左衛門とのへ大久保彦左衛門忠教、永禄三年庚申三州上和田村にて出生、母は小坂新助の伯母なり、天正三年乙亥始大神君に召出され遠州二俣の軍に出る年十六歳、同四年丙子七月遠州乾の城責に軍功をあらはす此ころ平助といふ、同九年辛已三月二十二日遠州高天神の(戦)に岡(部)丹波守長教と鎗を合せ遂に突伏せ本多主水に其首を撃せたり其時年廿二才、天正十九年辛卯関東に御供知行五百石を賜ふ、慶長五年庚子関ヶ原御合戰に御供、其後三州額田郡に於て知行千石を下さる、大坂冬の御陣には御鎗奉行をつとむ翌年夏御陣にも御供に從ひ眞田左衛門尉御(家)意のはたらき甚し、寛永九年壬申御旗奉行となり布衣をめされたり、三州の知行所へ百日宛の御暇を賜り体息すること度々也、同十一年甲戌二月六日御加増常州鹿島郡にて千石被下都合貳手石となり同心を預り 是より常陸の國鹿島の知行所に百日宛の体息の御暇を願ひゆくこ度々なり、同十六年六月晦日病死せり年八十歳、麻生白金立行守に葬り法名を了真院日清といふ 遺骸を遺言にて参州額田郡尾尻村の長福寺に納む 』記録の前半は、寛永二年、大御所秀忠から授けられた「三河国額田郡内において千石の知行安堵の朱印状」である。この千石は慶長十九年、家康から賜った知行地のことである。これまで、この千石はすべて額田郡坂崎の内だとばかり思っていたのだが、どうやら近郷に点在していたようだ。新たな発見と言うべきか、それとも私が知らなかっただけなのか。さらに、後半の文に彦左衛門は『天正十九年辛卯関東に御供知行五百石を賜ふ』と書かれている。天正十八年八月家康江戸入り後、兄忠世は小田原四万五千石、次兄忠佐は上総茂原五千石、忠世嫡男忠隣は武蔵国羽生二万石を賜った。そして、彦左衛門は、忠隣の領地武蔵羽生の内に二千石(参照: 寛政重修諸家譜)彦左衛門忠教の二千石は忠佐の五千石と比べて多すぎる気がしていた。この時は五百石を賜り、のち慶長五年関ヶ原合戦後、忠佐が沼津二万石を賜った時、彦左衛門も加増して二千石となったのではないだろうか。この時の二千石の知行地は、先に記したように、慶長19年取り上げられ代わりに額田郡に千石賜ることになるのだ。参考までに明治22年の旧高旧領の取調帳から大久保彦左衛門領地を見てみよう。 坂崎村 1283石余竜泉寺村 385石余尾尻村 72石余羽栗村 223石余生平村 234石余合計 2187石余明治22年額田郡町村名と江戸期の支配関係 旧高旧領取調帳 ここ ←家康に賜った千石の領地を彦左衛門の晩年、家光が拡げてやり合計二千石としたということだろうか。
2022/01/13
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今回の書状は手紙ではなく彦左衛門が身内の女性に書き与えたものだそうだ。ずいぶん前に、なにかの書き物でみかけた記憶を頼りに探した。たどりたどって、「釈教和歌の釈義」というものにたどり着いた。さらに調べて、「青木一馬著作集2 古記録の研究 下 吉川弘文館発行」という本に写真入りで収録されているとわかった。図書館で借りてひもといてみたら、大久保彦左衛門自筆の書が掲載されていた。ほかに彦左衛門の著作「三河物語」の解説等もあり、この本を「彦左衛門コレクション」に加えるため古本を買い求めた。(2200円)本文には詳しい説明があるが、ここでは抜粋要約を記してみる。。『大久保彦左衛門忠教自筆の釈教和歌の釈義』『掲した写真は、三河物語の著者 大久保彦左衛門忠教の、自筆の釈教和歌の釈義である。 忠教は決して一介の粗野な武弁ではなく、深く経典に心をひそめた、道心の固い人であり、またかなりに文筆の嗜みのある人でもあった。ここに紹介するものは、わずかに一紙のみのきわめて短いものながら、三河物語と合わせて、そのことを裏付ける一資料といえよう。 実に細かい字で、几帳面に、丹念に書かれているこ とである。全く驚嘆のほかはない。 奥書によれば、寛永十年、忠教が七十四歳の年に、「おミね」なる者に、心をこめて書き与えたものであることが知られる。書は体をあらわすという。それが若し本当なら、彦左衛門忠教の如きは、たぐい稀な、几帳面な、丹念で周密な、 そして繊細な性格の持主といわざるを得まい。世にいう「彦左」ー-主家を思うて歯に衣をきせず、誰憚るところな ズバズバと何でもいってのけるタイプの煙たい老人――のイメージと、それは余りにも違いすぎる。というよりも まさに対蹠的でさえある。しかもこれこそが、「彦左」の真骨頂であること申すまでもない。全文を写し採っておく。第六寿量品 座点頭本の心を 慈鎮 〽️いる塵の積(つもり)てたかくなる山のおくより出し月をミる哉 塵点とは、たとへの心也、顕本とハ、此品の時、尽迦の、本地を顕し給ふ事也、其様を申さバ、たとへバ、人あって、五百千万億、那曲他、阿僧祇の世界を、抹して、微塵となして、東方より、五百千万億、那由他、阿僧祇の国を過て ハ、一塵を、クダしクダして、其微塵を尽して、さて微塵をつけたると、つけぬとの世界を、ことごとくちりとなして、 其一塵を、一刧とせんにも過たる、先より仏になれると、名乗給へり、足を塵点の顕本と八いふなり、これによりて、 今の哥に、塵の積て、高山となる、其奥より、出る月を見るとハいへり、月をハ無始無終の仏に、たとへたり、(?)世〃ふりて絶ぬ誓のある数に積れる塵のほどぞ久しき 我実成仏以来甚大久遠 思順上人 〽️末とをく流し水の水上のつきせぬことをしらせつる哉 最初、実成の本地也、それよりこのかた、いま尺尊成道までハながれ也、未来も又如此、源ふかき水ハ、必ながれとをし、久遠 正覚の内証、甚深なれバ、垂跡門の化道も、又はるかにして、不絶と云心也、 廃迹 顕本の心を、〽️水の血に移るもおなし影ながらひとつ空にぞ月ハすミける 廃跡顕本と申ハ、垂跡門の仏を捨て、本地甚遠の仏をあらハす心也、されバ、垂跡の仏ハ、水中の月のごとく、本地の仏ハ、天月のごとくにして、一なりといへり、 出釈氏宮去伽耶城 俊成卿 〽️昔はやさとり晴にし月影の今夜み山を出しとやミし 哥の心、前の段におなし、無有生死 慈鎮〽️吉の山おくに心のすミぬれバちる花もなしさく枝もなし吉野之奥に、心のすむと云へるハ、世を捨はてゝ、月花にもめをかけずして、湛然、不動の心地に、成就したる人也、かゝる眼の前に、花の有無に、おち侍らぬに、たとふ心也、生死のふたつハ、有無の二道なれば也、 心懐恋暮(慕)渇仰於仏 寂然法師 〽️別にしそのおも影の恋しきに夢にも見へよ山のはの月仏ハ、涅槃に入も、衆生 利益也、是 則、値遭難遭の思ひを、衆生をカナシミ侍れハ、出世に住す、(きょう)厭怠の心あれバ、月の雲にかくるゝがことく、涅槃し給ふ心ある身の、是を聞侍て、恋したふ余に、せめてハ、夢にも見へ 給へかしと、ふかくしたふ心なるべし作是教已後至他国〽️山ふかき木下毎に契をキて朝たっ霧の跡のしづけさ 此品の中に、医師喩と云 侍る事有、たとへバ、良医あり、かれにあまたの子あり、然るに、父かの子共をのこし置て、他国に行たる留守に、此子共、毒服して、心みだれぬ、父帰来りて、是を見侍りて、薬を合てあたふるに、毒気あさキものハ、 則 薬を服していへたり、さて、毒気ふかくいたりたるハ、本心を失て、のむことなくして、病いへ侍らず、此時父、方便し給ふ様ハ、薬を合て置て、我ハ他国にいたりて、かしこより人をつかハして、父すでに死せりといハしむ、 諸(もろもろ)の子是をきゝて、父いまさハ、かさねて、我等が病を療治し給ひなん、既に死し給へバ、頼かたなしと思ひて、とどめ置し薬をのミて、病則いゆと云喩也、父ハ仏、子ハ諸の衆生也、薬ハ、仏の説給へる経教也、毒とハ、衆生の迷也、他国に行とハ、他の世界を、利益し給ふこと也、仏こゝにハ涅槃すと理(現)ずれとも、 まことハ、不生不滅の也、さて、薬をとどむるハ、仏の説給へる経を、入滅の跡に、のこし置給ふこと也、此経を修行して、生死の家を出、煩悩の病をいやすといへり、今の哥に、山ふかき木本ごとに契おくとは、十方せ界に、仏の利益の、あまねキこと也、朝立務の跡のしづけさとハ、霧をバ、病にたとふ、仏の他国にいたり、利益し給ふ跡に ハ、病のはなはだしきを、跡のしづけさと云也、〽️霧ふかき秋のミやまの木本にことのはのミぞちり残ける左兵衛督推方 自惟狐露 寂超法師〽️ とことはに頼(たのむ)かげなき音をぞなく鶴の林の空に恋つゝ如来滅後の衆生ハ、父母にはなれたる子のごとし、されバ、頼かげなき音をなくといへり、鶴の林の空とハ、如来滅度し給ふ所也、 寛永拾年癸酉三月五日 七十四ニシテ是ヲ書 忠教(花押) おミねニこの巻物は、忠教の子孫で、かねて高柳先生とお親しい大久保忠和氏が、先生にお見せするために持参されたもの であるが、先生が御病臥中であるため私が代って拝見し、拙い紹介の筆を執ったのである。先生御快癒の上、改めて 見ていただいて、補備・訂正をお願いしたいと思う。』(昭和四十四年六月「日本歴史」)【出典 青木一馬著作集2 古記録の研究 下 吉川弘文館発行】さて同本に、この文に続いて『大久保忠教のもう一つの諱』と題した一文があった。それによると先の『大久保彦左衛門忠教自筆の釈教和歌の釈義』において書き下し文の最後の彦左衛門の署名を「寛永拾年癸酉三月五日 七十四ニシテ是ヲ書 忠教(花押)」としたがその後間違いに気付いた。『たまたま野史を見たのを機会に、 吉野文書の自署と比較した結果、改めて「忠孝」の諱を確認し、前稿の釈文中の「忠✕教(花押)」を「忠○孝(花押)」と 訂正し、年来の疑問に一応の解決をしておきたいと思ってこの小文を草した次第である。』【昭和五十一年一月、『日本歴史』三三二】』ということで大久保彦左衛門の諱(いみな)は、初め忠雄、次に忠孝、そして忠教(ただたか)と変わったということである。この一事も「彦左衛門おたく」には重大な発見であるがさらに著者が諱の訂正の前に書いている文章に引き付けられた。『吉野直靖氏の所蔵文書中に、彦左衛門の自筆書状一通がある。〈中略〉末尾に、 五月十六日 大彦左衛門尉 忠教(花押)とあって、「忠教」と自署されている。年次はないが、内容からみて、恐らくは晩年に近い頃のものであろうと思う。 忠孝から忠教への改名は、少なくとも寛永十年三月以降である。彼は寛永十六年に八十歳で歿した。従って、野史が 忠孝の諱で伝を立てているのは妥当ではないのである。』この吉野氏所蔵文書こそ私が先日書いた「大久保彦左衛門書状 細かい指示」 ここ ←なのだとわかった。「寛政重修諸家譜」によれば 『(寛永)十二年額田郡の三百石の地を常陸國鹿嶋郡のうちにうつさる。』とある。彦左衛門は寛永十八年鹿嶋で生涯を終えている。吉野直靖氏の先祖が鹿嶋の人であれば、あの書状は武蔵羽生でも三河坂崎でもなく常陸国鹿嶋郡の陣屋宛であったことがわかるのだが、私の調べは吉野氏にたどり着けていない。でもまあ、一冊の本「古記録の研究」から2つの発見があったことに驚き悦んでいる。【追記】2022.01.18パソコンのハードディスクに収めてある記録を読み返していたら、数年前に「釈教和歌の釈義と和歌二首」が幸田町指定文化財に登録されているとのメモと「青木一馬著作集2 古記録の研究 下 吉川弘文館発行」のメモが出てきた。数年前にここまではたどり着いていたのに、そこで放置してしまったのだ。せっかく集めた資料、もっと気を入れて調べよう!
2022/01/12
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大久保彦左衛門に関わるものをあれこれ集めている。その中から彦左衛門の書状について、これまで2回投稿した。(1) 若気のいたりここ ←(2)細かい指示をするここ ←今回が3回目。【書状の書き下し文】 先度は、衛門越され候。則ち、写させ候て申し越し候。来春、片切(片桐)石州帰り申され候わで、らち明き申すまじき由に候。その内理屈明き申し候わば、是れ従り申し遣わすべく候。一、女子共、道中無事に着き候。 一、其元金子多くは有間敷由、合点申さず候。残米を払いていかほども候間、金子多くは有間敷と申し越し 候わば、然るべく候。一 指図の通り、惣郷申し付け候間、少しも未進いたさせ申し候わば、曲事為るべく候。金子の便次第に越し 申すべく候。衛門返し申し候。具には与惣右衛門申す べく候。恐々謹言。 猶々、少も未進なく取り申されるべく候。以上。 十二月二十一日大久保彦左衛門忠教 (花押)大久保平太夫殿三浦権左衛門殿 まいる【出典 講談社日本書蹟大鑑5】1月4日の初歩きの時 ここ ←「細かい指示」の手紙は宛名の吉野源助が三河国坂崎辺りでは見かけない名字であるから、彦左衛門が小田原時代の領地の代官に当てたものだろうと推察した。今回の書状宛名のうち三浦権左衛門は間違いなく坂崎陣屋の代官である。さらに「書跡大鑑」の編者によれば、文中の片桐石州は茶人で、大和小泉藩主、「石州の呼び名が使われて いることから、彼が石見守に叙任した寛永元年(一六二四(彦左衛門65歳)〉以降、すなわち彦左衛門晩年の筆跡と考えられる。淡 墨を駆使した筆致に、覇気に富んだ激しい気性があら われている。現存する唯一の自筆と思われる。」彦左衛門はこの頃 茶人と付き合いがあったようだから、お茶もやっていたのだろう。彦左衛門の著書「三河物語」は元和八(1622)年六十三歳の年に書き、寛永三(1626)年、六十七歳の年に手を加えて脱稿したものと見られるそうだからこの書状の頃は、かなりの有名人になり、社交のため茶の湯も必要だったのだろう。当時の茶会参加者名簿を当たってみたが彦左衛門の名を見つけることはできなかった。
2022/01/12
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3日、本年初歩きは幸田町坂崎にある旗本2000石大久保彦左衛門家の陣屋跡まで往復。片道6キロちょっとなのに途中2回もコンビニでトイレ休憩、大丈夫か前立腺。陣屋跡は今では八百富神社になっている。新しくなった案内板に詳しく説明がされている。vFRATアプリで書き起こした。『 こうたの文化財坂崎陣屋跡現在八百富神社となっているこの地には、江戸時代、旗本大久保氏 二千石の領地(坂崎村・葉栗村・桑谷村)を支配するための役所であ る坂崎陣屋が築かれていた。領主であった大久保家は大久保彦左衛門 忠教に始まる大久保彦左衛門家であり、慶長十九(一六一四)年に幕府より坂崎村を領地として拝領して以降、明治維新まで領主であり続けた。旗本は基本、江戸住まいであったため、領地支配の実務は、金澤氏や三浦氏が担っていた。明治維新後、坂崎村に戻ってきた大久保 家は、九代当主大久保忠明が坂崎村長を務めたり、大久保家の屋敷と なっていた旧陣屋内に坂崎郷学校を設置したりするなど、郷土の発展 に尽くした。なお、八百富神社は、もともと、大久保忠教によって陣屋跡の向かいに位置する経塚古墳上に 勧請され、陣屋の守護社として崇敬さ れてきた。明治時代以降村社となり村民により維持されてきたが、境内が手 狭となったため、昭和十二(一九三七) 年に現在の地に遷した。坂崎陣屋時代 から残る遺構としては、神社の周囲をめぐる石垣のみであるが、境内地内に おける大きな地形改変が行われていな いことから、境内地下には陣屋の痕跡が良好に残ってるものと思われる。幸田町教育委員会 』旧坂崎陣屋さて案内板の文を読んでいて、またまた「些細なことにこだわる」悪癖が頭をもたげてきた。『領地支配の実務は、金澤氏や三浦氏が担っていた。』先日のブログ「大久保彦左衛門書状 細かい指示をする」では領地の代官への書状の宛名は『吉野源助』だった。先日のブログ ここ ←彦左衛門の領地というから三河国坂崎だとばかり思っていた。だが幸田町教育委員会によれば代官は『金澤氏や三浦氏が担っていた』とある。確かに『吉野』という名字は、この辺りではあまり聞かない。調べてみたら『吉野』さんは関東に多いようだ。大久保彦左衛門は慶長19(1614)年家康公から三河坂崎に千石の領地を賜る以前、天正18(1590)年、兄 大久保忠世が城主となった小田原藩に属して、羽生(埼玉県)に領地を与えられていたというこちらへの手紙だった可能性が高いと思える。こんなことの裏付けを取るなんて素人には無理だろうが、知りたい!今年は 羽生まで行ってみるかな。
2022/01/04
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先日は大久保彦左衛門が若年のいたずらを詫びる手紙を紹介した。 その日のブログ ここ ←今回は彦左衛門が知行所(領地)の代官に宛てた手紙。この書状の原本をずいぶん前 小田原城天守閣でみたことがある。その後、再登城したとき探したのだが見つからなかった。「灯台もと暗し」で幸田町図書館の「彦左コーナー」に写本が展示してあった。展示品に貼られた写真は不鮮明だが小田原城に展示されていた原本。写本ならびに資料を寄贈したのは故吉野直靖氏となっている。書状の宛先、吉野源助の子孫であろうか。幸田町坂崎は彦左衛門が慶長19(1614)年、彦左衛門55歳のとき家康公から拝領した千石の地行所(領地)であり陣屋を置いた地である。その後、3代将軍家光から岡崎市山中周辺に千石加増されている。坂崎からは山ひとつ越えた隣接地である。旗本陣屋の代官は通常その地の庄屋をあてたらしい。代官の仕事は年貢米の収取が主であるが、領内の行政、防災、消防と多岐に渡る。年貢の取り分は概ね35%、彦左衛門の場合、表高二千石だから700石になる。当時、玄米1石が1両ほどだったらしいか七百両。現代の貨幣価値に換算すると7000万円から1億円になる。多いようだが、これは売上みたいなもので、ここから地行所の人件費ならびに経費、江戸の屋敷の人件費ならびに経費を払わなければならない。いくら手元に残っただろうか。そんなわけで代官への手紙もこまごまとしたものになる。代官 吉野源助への手紙を書き下し文にしてみた。【書き下し】一筆申候。さて其方へ参り候事先日申し候如く 八月に参るべく候。又々 此地へ参らせ候金子の候共、此方より持たせ候て京都へ買い物に越し申し候間、其地に我等参り候迄、有次第預けおき候て、此地へは持たせ有まじく候事。一、どれどれも●いたし候て物を一つとして申し付け候事も舞年候はず候間、我等気には一つも入ること候はず候事一、草を五十反も百反も刈らせ候て、馬屋に積み候て時々水をかけさせ、腐らかし候て麦の肥えにいたし有べく候。一、まこも刈らせ候て置き候へと申し付け候へ共 椎殿一円刈らせ成られず候、当年は刈らせ候て屋敷へ取寄せ候て、外にて腐らかし有べく候。是も暮れの麦肥えにいたし有るべく候 一、何も手作りの麦殻は何に成共して申さず候間。当年は馬屋前に積み置き候て、是も腐らかし候て暮れの麦肥えに致し有るべく候事。一、手作の麦一粒も売らせあるまじく候、其まゝ置き有るべく候事萬事油断なく、皆共の仕置きも見物有べく候,たんこうは致し候はずして、見物して、詳しく申べく候、恐々謹言 なおなお、物事見物いたし候て有るべく候。其の由を詳しく申すべく候。 この前の儀 一つとして合点の入る事一つも候はず候 以上大彦左衛門尉忠教(花押)五月十六日江戸より吉野源助殿拙いが現代語訳に挑戦してみた。『 一筆申候。さてそちらへ参るのは先日言ったように8月になります。又、こちらへ寄越す金子があっても、こちらから金を持たせて京都へ買い物行きますので、それまでそちらに私たちが参りますまで あるだけ預けて置きますので、こちらへ寄越さないで下さい。一、どれもどれも(欠字・?)いたして物をひとつも申し付けることも 毎年ありませんでしたが私の気に入ることはひとつもありません。一.草を五十反も百反も枯れさせて、馬屋に積んで時々水を掛けさせ、腐らせて麦の肥えにしなさい一、まこもを刈らせて置きなさいと言い付けて置いたのに椎殿一円刈らせてなかったが今年は刈らせて屋敷へ取り寄せて これも外で腐らせて暮れの麦の肥えにして下さい一、手作りの麦一粒も売らせることなく そのまま置いておくこと、万事油断なく、皆んなのやり方もよく観察すべきです単独行動?はしないで観察して詳しく申すべきですなおなお物事をよく観察すべきです。そのわけを詳しく申します。この前のことは合点のいくこと一つもありません。以上恐々謹言 』講談や映画で見る大久保彦左衛門は豪放磊落な人物だが実際は細かい点まで口出しする中小企業の親父タイプだったらしい。まあ、この手堅さがあったから大久保彦左衛門の家は明治維新まで旗本二千石を維持できたと言えるかもしれない。ところで この手紙が書かれたのはいつ頃だろうか。書かれたのは5月、この年8月に彦左衛門は京都に買い物に行くと書いている。おそらく買い物というのは口実で本当はみだりに口外できない用事だったのではないだろうか。口外できない用事とは公用、それも将軍上洛の供奉であろう。彦左衛門は大御所秀忠上洛に槍奉行として寛永3年と10年の2度供奉している。そのうち8月の上洛は寛永3(1626)年。だとすると手紙は彦左衛門67歳の時のものであろう。このとき彦左衛門の知行はまだ千石だった。年貢の取り分は現代の貨幣価値で3500万円から5000万円、ここから諸経費を賄うのだから細かい口出しも もっともといえるだろう。
2021/12/29
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ずいぶん以前、浜松市天竜区にある二俣城に行ったことがある。天竜川を挟んで向かいの小高い所に椎ケ脇神社がある。大久保彦左衛門がまだ平助といっていた若い頃、いたずら心で神社裏の断崖から椎ケ脇淵へ大石を投げ込んだ。後、老年になって後悔して、詫び状に添えて小判3両を寄進したという言い伝えがある。その詫び状は天竜市の博物館だかに保管されていると聞いたのだが、その後どうなったか調べきれなくて、そのまま日が経ってしまった。ところがつい先日、幸田町図書館の特別閲覧室で「詫び状」の写しを見た。LINEの翻訳アプリを利用して写真から文字起こししてみた。※※※※※※※※※※※※※※態態人を遣候扨我等若キ時分其元志いがわきさまへ慮外仕候儀、何之心も不存候事二御座候間、御めん由可被仰、我等も年もよる事二御座候へ八、其時分之儀 只今いきありいらさる御虜外と存候て、こうくわい仕候間、御ふくらを御立被成候て可給候.其二より金子小はん三両遣侯、是にてハけっこうニ八相成間敷候間、只今の御やしろ定而けっこうに候ハん間、其儀に御かまいなく其そばにもべつニ比金子次第二御立候て、可給候、此儀八右の御慮外ヲ御めんと申、志るし計ニ侯、けっこう二も申候様ニ仕リ度候へ共、御神之御ミとおしのことくせうしんにて相成不申候二より候て、心計二進上申候、以来我等身上もあかり申候ハバ何分にも身上次第きらひやかに仕候て、進上可致候、只今身之上にて八、相成申さす候きらひやか二仕度、心中計ニ侯 恐惶謹言.十月廿五日大久保平助 忠教(花押)かじま孫丞殿参人々御中猶々 右之儀共よくよく仰れ 金子三両遣候、此者ニ小ばんの候て可給候.頼入存侯、以上。※※※※※※※※※※拙いが現代語訳してみると『特に人を遣わしました。 私、若い頃にそちらの椎ケ脇さまへ愚かなことをいたしましたこと、当時なんの分別心もなかったことゆえお許し下さい。 私も年を取りまして、そのころのことは思慮の足りない考え違いであったと、現在だったら後悔いたしております、そちら様はさぞお腹立ちであったろうかと存じます。 それで金子3両をお送りします、これでは大層なことはできないかとは思いますが、今のお社はさぞ結構なものであるでしょうから、そのかたわらに、この金子に見合うものをお建てください。 これは右ご無礼をお許しいただきたく印ばかりのものです。もっと大そうなものにしたいとは思いますが神様のお見通しの通り小身者ゆえにできませんで心ばかりの寄進でございます。 これから出世することがありましたときには、もっと多くの寄進をしたいと思いますが、今の身分ではできなくて、多くの寄進をしたいという思いばかりでございます、恐惶謹言十月廿五日 大久保平助 忠教(花押)かじま孫丞殿人々御中 なお、右のことをよくよく聞かせて金子3両を持たせました。 この者から小判をお受け取りくださるようよろしくお願いいたします。 以上 』大久保彦左衛門は元服前から浜松城下に住む長兄忠世の下にいたようだ。忠世が二俣城主となったのは徳川家康・織田信長連合軍が武田勝頼軍を破った天正3(1575)年「長篠合戦」の後、同じ年遠州北部の武田勢を追い払いつつある12月のこと。この年家康にお目見えし 晴れて その家来となった彦左衛門は暮れに兄忠世と共に二俣に引っ越ししたのである。翌年、二俣から近い犬居城への攻撃が彦左衛門の初陣であった。兄忠世に従い、彦左衛門見事「首級」を得たという。椎ケ脇神社で乱暴を働いたのはたぶん、この天正4年頃の事であろう。数え17歳、現在だったら高2くらい、私も人には言えないひどいいたずらをした覚えがある。そんな年頃なのだ。なんとか書状の本物を見たいのだが、どうしたらいいのやらと思っていたら実物は どうやら椎ケ脇神社にあるとのネット情報を見付けた。彦左衛門詫び状のありかそのうちツテを探して拝見したく思っている。
2021/12/16
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大久保彦左衛門のコレクションをしている。 集まるほどに本気になってきた。 最近手に入れた錦絵 真ん中だけが木版刷り、両サイドはプリント。 こちらは3枚刷り 部屋の外も中の壁もコレクションで埋まった。 映画のポスター 部屋の壁面は錦絵と掛け軸 もう隙間がないから、これ以上増やせない。 気になっていた掛け軸の修理を思い立った。 大久保彦左衛門盥登城図 二本松の絵師、太田霞岳作品 数年前手に入れたが、水濡れによるシミがひどかった。 自分ではなおせない。 先月、鶴岡市の表具店「耕美堂」に依頼した。 昨日出来上がって届いた すごい! 紙の白さに驚く。 少々値段は張ったが修理して正解。 かみさんの手前、カード引き落としとはいかず、街道歩き用の「へそくり」から支払った。
2021/03/04
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東北ウォーク出発前、自分で修理した掛け軸の解読を かみさんの友だちに頼んでもらった。ここ ←修理した掛け軸の日記帰宅したら解読できたものが届いていた。さすが元高校の古文教師。おかげで掛け軸の書の内容が府に落ちた。鶏旦氣霽風梳新柳髮 氷消浪洗舊苔鬚 うぐいすの こその やどりの呉竹の 一夜あくれば はるや しるらむ彦左衛門(読み下しと解説)鶏旦(けいたん) 鶏鳴く夜明気霽(は)れて 風梳(くしけづ)る新柳の髪氷消えて 浪洗う旧苔(きうたい)の鬚(和漢朗詠集卷上 早春)天気が穏やかに晴れて、風は萌え出た柳の枝を、髪をくしけずるように靡かせる。池の氷が消えて、波は古びた苔を、髭(ひげ)を洗うように打ち寄せる。うぐいすの こその やどりの呉竹の 一夜あくれば はるや しるらむうぐいすの去年の宿である呉竹も 一夜明けたら春が来たと知るであろう彦左衛門慶長19年(1614)正月、小田原藩主であった大久保忠隣が突然 改易された。忠隣(ただちか)は彦左衛門の長兄忠世の嫡男であり大久保一門の宗家であった。これに合わせて一門や縁者の多くが処分された。彦左衛門も二千石の領地を召し上げられたが、すぐに家康より三河国坂崎に千石の所領を賜った。忠隣の嫡男で騎西藩主忠常(ただつね)はこれ以前(慶長16年)病死しており孫の忠職が後を継いでいた。忠職(ただもと)への処分は、2万石の騎西藩主として騎西城での蟄居処分として罰を軽減され、大久保氏の存続を許されている。11年の後、寛永2年(1625年)忠職は罪を赦された。寛永3年(1626年)には加賀守に叙位・任官される。忠隣は寛永5年(1628)配流先の彦根にて死去した。生きている間に大久保家の赦免を知ることができたのは幸いであった。掛け軸の書は大久保家赦免の知らせを受けた彦左衛門の感慨を表しているのではないだろうか。そのあたりの情景を宮城谷昌光が「新三河物語」の最終章で書いている。 彦左衛門は元和八年に、いわゆる『三河物語』をいちおう脱稿した。そのころから、彦左衛門が昔の松平家について書いたらしい、といううわさが立った。六十三歳の彦左衛門はさらに加筆修正をつづけた。 それから三年が経ち、寛永二年になったとき、土井大炊頭(おおいのかみ)利勝が訪ねてきて、お書きになったものをお借りできまいか、といった。「われは子孫への訓辞を書いたにすぎぬ。門外不出でござる」「ほう、では、門内で拝読できようか」「ふむ……」 秀忠に絶大に信頼されて、権勢ならぶ者がいないといわれる利勝がわざわざ訪問して、頭をさげているのである。むげにはことわれない。「あ、おゆるしくださるか。では、明日の夜に……」 そういって去った利勝は、翌日、日没後に、ひとりの武士をともなって再訪した。武士は面をかくしていた。彦左衛門は利勝と顔をあわさず、嫡男の平助忠名(ただな)に応接させた。忠名はこの年に十八歳であり、三年前に秀忠への御目見得(おみめえ)を終えている。やがて忠名が青い顔でもどってきて、「父上、お越しになったのは、大御所様です」と、語(つ)げた。彦左衛門は横をむいた。「大御所様に肖(に)ている、と申せ」 彦左衛門はさっさと寝てしまった。忠名はふたりが帰るまでねむらずに室外でひかえていた。ときどきふたりの笑語(しょうご)がきこえてきた。ふたりは夜明けまえに去った。屋敷の外にはおびただしい人数がいたようで、かれらも物音をたてずに退いた。 それから数日後、堀田出羽守正盛(まさもり)の訪問があった。「若輩のそれがしも、大久保家のご訓辞を、拝読したい。どうか、おゆるしをたまわりたい」 正盛は家光の御近中の側近である。「貴殿も、布で顔をつつんだ武人を、おつれするのであろうか」「そうなりましょう」 この対話をきいていた忠名は、正盛がかえったあと、「上さまも、お越しになる……」 と、緊張をかくさなかった。彦左衛門はかすかに笑った。「上さまに肖ている者といいなおせ。このような弊屋に、大御所さまや上さまがお渡りになるはずがない」 翌日、暗くなると、正盛がひとりの武人をともなってきた。その武人は忠名のよこに坐っている覆面の男に目をやって、「彦左衛門か……」 と、問いつつ、自分の貌(かお)をつつんできた布をとった。二十二歳の家光の容貌があらわれた。すると男は覆面をはずして、「そこにお立ちのかたは、上さまにたいそうよく肖ている。それがしも彦左衛門そっくりでござる」 と、いった。家光は正盛をふりかえって哄笑(こうしょう)した。この若い将軍は、家康の崇拝者である。秀忠の嫡長子でありながら後継の席があやうくなったことがあり、そのとき家康に扶助(ふじょ)されたため、いまの家光がある。家康の事績だけでなく、松平家にかかわる故事を知りたいのである。この夜、家光は『三河物語』をむさぼるように読み、ほとんど休息をとらずに、朝を迎えた。秘話をみた家光は興奮をかくさず、「東照大権現さまのご勇姿が、手にとるようにあざやかであった。上和田のいくさは、感服した」 と、いった。「かたじけなきおことば……、彦左衛門につたえまする」 と、彦左衛門はいんぎんに述べた。 朝の光のまぶしさにおどろきつつ家光と正盛が屋敷をでると、隠密に警護をしている者たちがいっせいに動いた。そのあと大久保家はなにごともなかったように静かになった。 ほどなく忠隣の孫の仙丸こと忠職(ただもと)が赦免となった。「彦根の相模守さまは、お喜びになったでしょう」 忠名の明るい声をきいた彦左衛門は、ふたたび春がきたか、と目をあげて江戸の天をみた。(完)
2020/10/06
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大久保彦左衛門の一生と大久保一族のことを 宮城昌光が書いた 『新三河物語』全3巻を読み終わった。 最終章を読み終えて 突然 先日修理した『彦左衛門の書』の内容が ふに落ちた。 少し長いが小説の終章を書き写してみる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 彦左衛門は元和八年に、いわゆる『三河物語』をいちおう脱稿した。そのころから、彦左衛門が昔の松平家について書いたらしい、といううわさが立った。六十三歳の彦左衛門はさらに加筆修正をつづけた。 それから三年が経ち、寛永二年になったとき、土井大炊頭(おおいのかみ)利勝が訪ねてきて、お書きになったものをお借りできまいか、といった。 「われは子孫への訓辞を書いたにすぎぬ。門外不出でござる」 「ほう、では、門内で拝読できようか」 「ふむ……」 秀忠に絶大に信頼されて、権勢ならぶ者がいないといわれる利勝がわざわざ訪問して、頭をさげているのである。むげにはことわれない。 「あ、おゆるしくださるか。では、明日の夜に……」 そういって去った利勝は、翌日、日没後に、ひとりの武士をともなって再訪した。武士は面をかくしていた。彦左衛門は利勝と顔をあわさず、嫡男の平助忠名(ただな)に応接させた。忠名はこの年に十八歳であり、三年前に秀忠への御目見得(おみめえ)を終えている。やがて忠名が青い顔でもどってきて、 「父上、お越しになったのは、大御所様です」 と、語(つ)げた。彦左衛門は横をむいた。 「大御所様に肖(に)ている、と申せ」 彦左衛門はさっさと寝てしまった。忠名はふたりが帰るまでねむらずに室外でひかえていた。ときどきふたりの笑語(しょうご)がきこえてきた。ふたりは夜明けまえに去った。屋敷の外にはおびただしい人数がいたようで、かれらも物音をたてずに退いた。 それから数日後、堀田出羽守正盛(まさもり)の訪問があった。 「若輩のそれがしも、大久保家のご訓辞を、拝読したい。どうか、おゆるしをたまわりたい」 正盛は家光の御近中の側近である。 「貴殿も、布で顔をつつんだ武人を、おつれするのであろうか」 「そうなりましょう」 この対話をきいていた忠名は、正盛がかえったあと、 「上さまも、お越しになる……」 と、緊張をかくさなかった。彦左衛門はかすかに笑った。 「上さまに肖ている者といいなおせ。このような弊屋に、大御所さまや上さまがお渡りになるはずがない」 翌日、暗くなると、正盛がひとりの武人をともなってきた。その武人は忠名のよこに坐っている覆面の男に目をやって、 「彦左衛門か……」 と、問いつつ、自分の貌(かお)をつつんできた布をとった。二十二歳の家光の容貌があらわれた。すると男は覆面をはずして、 「そこにお立ちのかたは、上さまにたいそうよく肖ている。それがしも彦左衛門そっくりでござる」 と、いった。家光は正盛をふりかえって哄笑(こうしょう)した。この若い将軍は、家康の崇拝者である。秀忠の嫡長子でありながら 後継の席があやうくなったことがあり、そのとき家康に扶助(ふじょ)されたため、いまの家光がある。家康の事績だけでなく、松平家にかかわる故事を知りたいのである。この夜、家光は『三河物語』をむさぼるように読み、ほとんど休息をとらずに、朝を迎えた。秘話をみた家光は興奮をかくさず、 「東照大権現さまのご勇姿が、手にとるようにあざやかであった。上和田のいくさは、感服した」 と、いった。 「かたじけなきおことば……、彦左衛門につたえまする」 と、彦左衛門はいんぎんに述べた。 朝の光のまぶしさにおどろきつつ家光と正盛が屋敷をでると、隠密に警護をしている者たちがいっせいに動いた。そのあと大久保家はなにごともなかったように静かになった。 ほどなく忠隣の孫の仙丸こと忠職(ただもと)が赦免となった。 「彦根の相模守さまは、お喜びになったでしょう」 忠名の明るい声をきいた彦左衛門は、ふたたび春がきたか、と目をあげて江戸の天をみた。 (完) ーーーーーーーーーーーーーーーー住人補記 慶長19年(1614)正月、 彦左衛門の長兄で小田原城主 大久保忠隣が突然、改易配流された。 嫡孫で騎西城主の忠職は蟄居。(長男忠常は先年病死) 彦左衛門も改易となったが すぐに赦されて家康から 三河国坂崎に千石を賜った。 11年後の寛永2年(1625) 騎西城主忠職が赦免された。 突然始まった冬の時代が ようやく終わって 大久保家に春が来た。 わずか千石の知行で 大久保家の屋台骨を支た 彦左衛門の喜びは いかばかりであったか。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 鶏 旦(けいたん)鶏鳴く朝 気霽(きは)れて 風梳(かぜくしけづ)る新柳の髪(かみ) 氷消えて 浪洗う旧苔(きうたい)の鬚(ひげ) うぐいすの こえの やどりの真竹の 一夜あくればはるや しるしなり(?) 彦左衛門 この書、内容が彦左衛門には似つかわしくないと思っていたが 大久保家復権の感慨だとわかればうなずける。 この書にせものだと思っていたが ひよっとしたら…… なんて! 今日は孫二姫7歳の誕生日だ。
2020/09/19
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ネットオークションで大久保彦左衛門の書という掛け軸を手に入れたものの、あまりの状態の悪さに途方にくれていた。 ボロボロの掛け軸を安上がりに修理しようと発注した部品が届いた。 ここ ←部品 まずは、うかつにさわると崩れていく台紙の裏打ち補強をした。 ホームセンターで買ってきた「アイロンで貼る障子紙」を適当な大きさにカットして、軸裏からアイロンで接着。 意外と簡単 裏打ちした掛け軸の上部にカマボコ形の棒をボンドで接着。 これは苦労した カマボコ状にあわせて曲げると掛け軸の繊維が崩れるのだ。 繊維の表面にボンドを薄く伸ばして補強してみた。 なんとか取り付け出来た。 続いて巻き紐を通すための「足摺カン」を取り付ける。 キリで穴を開けて紐通し釘を金づちで叩いて取り付ける。 いい加減な角度で取り付けたから、釘の先が飛び出て、ニッパーで切り取った。 あとは、巻き紐の取り付け。 これは資材店のユーチューブを見ながらやった。 完成! 修理したのにボロボロなのは 彦左衛門の生きた頃からの400年近く経っているという時代感を残したかったからであり、まあ満足している。
2020/09/09
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ネットオークションで買ったものの状態があまりに悪くてもて余している掛け軸を修理してみようと思い立った。 破れは裏打ち(裏に紙を貼る)すればいいのだが 軸を吊るす部分は無くなっている、 こんな案配に作りたい。 ネットで調べたら表装専門店が資材の通販をやっていた。 さっそく ついでに下側の両サイド用に を注文した。 この掛け軸は幅65cmx高さ120c.mというもの。 修理材料が届く前に、この掛け軸を吊るす場所を確保しておくことにした。 部屋の模様替えの結果 十分な場所を確保した。 部屋の模様が一変した。 もうこれ以上集めても飾るところがない。 どうしよう!
2020/09/04
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ネットオークションで掛け軸を買った。秘密兵器『手書きくずし字検索』を使って読んでみた。ここ ←矯拂士風忸太平盥輿長剣表斯情同宗九十非人乏市閭特知彦左名孫同宗 大久保忠教珂東生大久保忠恕矯(いさ)み拂(はら)う士風は太平を忸(は)ず盥輿(たらいかご)と長剣は斯の情の表れ同宗九十 人乏しくは非ざるも市閭特に知る彦左の名孫同宗 大久保忠教 珂東生大久保忠恕とでもよむのだろうか。同族の祖先 大久保彦左衛門を詠んだ大久保忠恕という人の書らしい。「盥かご」と「長剣」については過去記事にある。ここ ←盥かごの記事ここ ←長剣の記事15000円は高すぎると思ったが、出会いは大切にしたいから決断。調べてみたら、作者の大久保忠恕は、1833年、上野小幡藩主松平忠恒の次男として生まれ、長じて大久保忠隣の四男幸信を祖とする旗本5000石大久保家の養子となった。長崎奉行、京都東町奉行、陸軍奉行並を勤めた、鳥羽伏見の戦いには幕府軍の先鋒として出陣している。明治3年没。(大久保忠隣は大久保彦左衛門の長兄 忠世の嫡男、小田原城主のち改易蟄居)給付金もそろそろ底をつくかな
2020/09/01
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長かった梅雨も明けたかと思える天気だった。 日中はひどく暑かったが夕方犬の散歩の頃には爽やかな風が吹いた。 天正18年7月小田原征伐に勝利した秀吉は徳川家康に三河、信濃、甲斐、遠江、駿河 五か国から関八州への転封を命じた。 これが7月13日。 8月1日、家康とその家臣団は江戸に入った。 秀吉は家康を遠隔地に追いやったつもりだったが、わざわい転じて福となす。 秀吉の目の届かないところで家康は力を蓄えることになった。 後に徳川将軍家はこの日を「八朔」として祝った。 彦左衛門の長兄 大久保忠世は小田原征伐の後に家康が関八州を任されるにあたり、遠州二俣城主から相州小田原四万五千石の城主となった。 彦左衛門も兄とともに小田原に入っただろう。 今年はコロナのため恒例の花火大会は中止となったが、 今宵、サプライズ花火があるとのことだった。 午後7時過ぎ花火が上がった。 家の外に出てみた 手ぶれ甚だしい 花火は30分ばかりで終わった。 月が丸くなってきた。 大河
2020/08/01
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昼過ぎ大河が吠える、待っていた郵便屋が来たらしい。 2階から降りたら、かみさんが受け取ってくれていた。 ネットオークションで落札した錦絵。 送料着払い 1030円。 「またゴミみたいなの買って」 ゴミみたいに見えてもゴミではない! ◇武者絵 大久保新八郎 倉澤鉄斎 渡辺半蔵など 合戦の絵 大久保新八郎と渡辺半蔵の名があるから三河一向一揆の図かと思った。 調べていくうちに(大樹寺御難戦之図)3枚綴りの一部であることがわかった。 出品価格で落札 本来は 真ん中だけでも悪くはないが両端の絵をPCプリンターで印刷して3枚綴りの完成。 色の濃さに相当の差があるが我慢。 1560年5月、桶狭間にて今川義元が織田信長に討たれた。 義元軍の先陣大高城にいた徳川家康(19)は敵中を脱出、矢作川を越えて大樹寺にたどり着いた。 追っ手の兵を寺僧の助けも借りて追い払い、なんとか岡崎城に入城できた。 大久保新八郎忠勝(37)、大久保七郎左衛門忠世(29)、大久保治右衛門忠佐(24)の姿も見える。 この時、わが彦左衛門忠教は生後2ヶ月の嬰児であった。 忠世は長兄、忠佐は次兄。 忠勝は大久保宗家の長男。
2020/07/29
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ネットオークションに出ていた。 『霽』の字がポイントだった。 (雨かんむりに齋)で検索 せい・はれると読む。 続けて『氣霽風』で検索 ヒット! 氣霽風梳新柳髮 氷消浪洗舊苔鬚 気霽(は)れては 風 新柳の髪を梳(けづ)る 氷消えては 浪 旧苔(きうたい)の鬚を洗ふ 天気がおだやかに晴れて、風は萌え出た柳の枝を、髪をくしけずるように靡かせる。 池の氷が消えて、波は古びた苔を、髭(ひげ)を洗うように打ち寄せる。 和漢朗詠集 巻上に集録されている『都良香(みやこのよしか)』作 後半の和歌は山口市に住む友人に助けてもらった。 うぐいすの こえの やどりの真竹の 一夜あくれば はるや しるし也 題字? だけは独力で読みといた。 『鶏旦(けいたん)』 鶏が鳴く朝 最後の署名は『彦左衛門』 大久保彦左衛門か! だが本物の彦左衛門署名は 『彦左衛門』を拡大して比べる 上が本物 下が『鶏旦』の署名 やっぱり違う、贋作だな。 彦左衛門の贋作だったらすでに2点持っている。 もう十分ではあるが、もう1点あってもよいだろう。 と言うことで 落札した。 送料込みで5000円を少し越えてしまったのは想定外だった。 前から持っている贋作の署名の方が本物に似ている。 ドングリの背比べか
2020/07/11
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司馬遼太郎が「この国のかたち」に大久保彦左衛門を取り上げていることを書いた。 今回は司馬遼太郎「街道をゆく」に出てくる大久保彦左衛門。 「街道をゆく」シリーズは1971年 (1)「(甲州街道、長州路ほか」に始まり1996年(43)「濃尾参州記」まで25年間続けられたものである。 1996年11月初版 濃尾参州記は『尾張』の織田信長が今川義元を討ち取った桶狭間からはじまる。 『参河(三河)』は徳川家康の祖松平氏の菩提寺「高月院」から筆を起こしている。 高月院は松平初代親氏、二代泰親の墓所で豊田市松平郷にある。 30年近く前、この地を訪れたときの話からはじまる。 「 ( 前略 ) 講釈や古い時代映画などで、江戸初期の頑固な老旗本として出てくる大久保彦左衛門(忠教)の大久保氏は、徳川氏が松平を称して右の山の中にいたころからの家来だったらしい。 遠祖は山仕事でも手伝っていたのだろうか。 そのわりにこの一族が不遇で、彦左衛門は、 「徳川のお家は、よそからきた者や新付の者に高禄をあたえ、譜代を薄祿のままこきつかう」 などとこぼしていた。 ただ、徳川家康が関東に入部したとき、本家の大久保氏がようやく相模小田原で四万石をもらった。 せっかく大名になったものの、この小田原大久保氏は、のち事に座して除封されてしまう。 もっとも、ずっとのちに小田原十一万三千石に復活はした。 しかし彦左衛門が世に在るときに、本家はかれの眼前で没落した。 彦左衛門は、いかにも三河者らしく主家への素朴な忠誠心をもっていた。 それだけに、物狂おしい気持ちになった。 累代の大久保一族の忠誠に見合わぬ理不尽な幕府の仕様(しざま)に対し、子孫のみこれを読めという『三河物語』を書いた。 大久保家の門外不出だった『三河物語』が世に出たのは、明治後であった。 要旨は、徳川氏の祖が山三河の松平郷にいたころから説きおこし、かつ大久保家代々の忠節やら武功、さらには自分自身、戦場ですごした半生をのべ、史書にも似、自伝にも似た本である それによると、徳川家の祖は、 「徳」 とよばれている流浪の法体の人だったという。 時宗の僧だった。 当時、こういう漂泊の人を時宗ともいった。 〈 後略 〉 」 司馬遼太郎は『三河物語』を一級資料として使っているが、作者の大久保彦左衛門には小説の主人公とするほどには魅力を感じてはいなかったようだ。
2020/07/08
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司馬遼太郎「この国のかたち(二)」には大久保彦左衛門に関する一章がある。「 36 典型 」「大久保彦左衛門は武夫サ」 と、明治になって、旧幕臣勝海舟が「海舟座談」のなかで、敬意をこめて評した。 彦左衛門(1560~1639)は、戦国末期に生き、江戸初期の泰平の世を見て死んだ。 剛直、質実、朴訥、さらには主家への忠誠心といった古三河の倫理風土がそのまま凝ったような人柄ながら、後年、武士が、政治家や役人として出世してゆく世になると、時勢に適わず、存在そのものが喜劇性を帯びた人物として知られる。 市井の人々はその滑稽感がよほど好きだったのか、江戸中期以後、芝居や講釈のなかでその人柄が典型化され、さまざまなハナシが創作された。 いまなお、私どもは、かれを人間類型の一典型としてつかっている。「あの老人はあの会社の大久保彦左衛門なんです」 というと、典型のありがたさで、いっぺんにその人柄と存在がわかってしまう。 会社では閑職ながら、先々代からつかえていて、清廉で頑固で融通がきかないが、お家の大事となると、社長に面を冒して忠諫を加えたりする。 芝居や講釈がつくりあげた彦左衛門は、“天下のご意見番”などということだった。 三代将軍家光の泰平の世になって、彦左衛門は無用の人になった。 政道の堕落をなげき、役人の腐敗をみると、にわかに登城して家光に拝謁して、侃々と諌めるのである。 そういう場合、かれは自分のことを“彦左”とよぶ。 しかし、実際のかれにはそういう気分があったにせよ、芝居や講釈のなかのような、“ご意見番”などではなく、すでに世の官僚機構は確立していて、かれのような二千石の旗本などが大きな口をきける時代ではなくなっていたし、それに、過去の武功などは、現実の機構のなかでは、オトギバナシにすぎなくもなっていた。 ところで彦左のおもしろさは、『ドン・キホーテ』の作者ミゲル・デ・セルバンテス(一五四七~一六一六)とほぼ同時代の人だったことである。 セルバンテスは勇敢な男だった。 十六世紀最大の海戦だったレバントの海戦(一五七一年)に兵卒として従軍し、戦艦『マルケーサ号』に乗り組んだ。 海戦中、十二人の兵卒とともに短艇に乗ってトルコ艦に肉薄し、胸に二ヶ所、左手に一ヶ所の傷をうけ、終生これを誇りにした。 彦左の初陣は、その数年後だった。 遠州の合戦で功をたて、その後、主人家康のそばにかならず彦左がいて、戦歴はまことにかがやかしかった。 (中略) 私はどちらも好きだが、しかし人類への貢献はセルバンテスのほうがはるかに大きいように思える。たとえば、 『あいつはドン・キホーテだ』 というふうに、私どもの日常の人間把握のなかで、じつに便利な典型をつくってくれた一事だけでも、セルバンテスの功は、時間と国々を越えている。 そこへゆくと、忠教自身のやったことではないにせよ、かれの死後、この精神と気質をふくらませて創りだされた彦左という典型は、人類共通の財産というふうにはなりにくいく、どうも地域性にとどまっているようである。 彦左とドン・キホーテを、右のようにむりやりにくらべてみると、日本的なものの輪郭が見えてくるような気がしないでもない。」この本を読んで「海舟座談」を古本屋ネットから取り寄せたのは、ずいぶん以前のことである。旗本大久保彦左衛門家に伝わる初代彦左衛門忠教(ただたか)直筆の「三河物語」が海舟の斡旋により徳川家(慶喜)が買い上げたということが記されている。明治30年3月27日『大久保彦左衛門は武夫サ。 十年程前に、大久保家が困って、代々の秘書としたものを買ってくれと言うので、二百円出して、徳川家に買った。それ(三河物語)は、彦左衛門が六十になって、初めて手習いをして、一生の歴史を自分で書いたものだ。 六十冊もある。 その根気には驚いてしまった。 天子(明治天皇)が徳川家にいらした時、それをお見せしたら、是非にと仰せられて、それで陸軍で版にしたはずだ。 それを見ると、大久保は、ひどい勤皇家だ。 また徳川家の来歴が分る。 なかなか一代二代の事でない。 実に根拠のあるものだ。 それを見て、私も実に安心して悦んだ。 大久保は織田が大嫌いで、小田小田と書いて、小田の悪党がなどと書いてある。 三代将軍が、高台に上って見ると、士(さむらい)がみな日傘をきて通る。 モウコンナになったかと言って、胸を悪くせられた。 スルト、あとから十二、三人真黒の士がどれが主従だか分らないようにして通った。 [遠]眼鏡で見ると、それが大久保であって、たいそうよろこんだと言うこともある。 ナニ、別段政事などの事は知らない、忠実なる武夫サ。』この話にある、陸軍が出版したという『三河物語』を ネットオークションで手に入れたのは、そんないきさつがあったとはしらない彦左衛門コレクションを始めて間もないころだった。この本の落札価格360円は『快挙』であった。以来、「三河物語」の刊行本を数多く収集してきた。上の写真 右下にあるのは彦左衛門自筆「三河物語」の影印本で私のタカラモノである。本物は、後に徳川家から彦左衛門家に返還されたのだが、なにかの事情で今は愛知県豊川市の某所にある。穂久邇(ほのくに)文庫というところらしいが詳しいことはわからない。
2020/07/07
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私の大久保彦左衛門コレクションに豊国画 二枚綴 役者絵「名高手毬諷実録(なにたかしまりうたじつろく)」というのがある。裁きの場の絵で 壇上には足利義満公を背に大森彦七お白洲に座るのが 一心太助と松台屋小五郎左下に豊国画とある。歌川豊国(1769-1826)の作品だから江戸時末期のもの1年前、ネットオークションで手に入れた。「実録:大久保武蔵鐙 松前屋五郎兵衛伝」等の物語を題材にした芝居絵である。実録本には徳川家光、大久保彦左衛門、一心太助、松前屋とあるのだが 芝居絵では足利義満、大森彦七、一心太助、松台屋に変えている。これは享保七年(1722)の幕府の御触書により3. 人々の家筋、先祖のことなど、かれこれ相違のことを書いた新しい書物を 世上に流布することを禁ずる。これについて子孫から訴えがあれば厳しく 吟味して罰する。5. 権現様(家康公)についてはもちろん徳川家の事柄については印刷物・手書き本に書くことを禁ずる。やむを得ない場合は奉行所に届け出て指図を受けなければならない。もしこの定めに違反した者がいれば、奉行所に訴え出よ。刊行から数年を経た本でも分かった時点で罰する。この規制は印刷物だけでなく芝居にも及んだらしく「名高手毬諷実録」の人物名は室町幕府の時代に設定されている。いろいろ調べていたらこの絵は本来3枚組の芝居絵だったことがわかった。3枚目の絵には永津庫十郎と毬野矢四郎という人物が描かれている。3枚ものの写真の1枚をコピーしてB4用紙に印刷した。少し色が違っているが手持ちの絵と合わせて3枚綴り芝居絵の完成。骨とう品を集めているわけではないから彦左衛門コレクションは これでいいのだ。「名高手毬諷実録(なにたかしまりうたじつろく)」というのは古本屋ネットにもAmazon古本にもなかったが国立国会図書館デジタルコレクションにはあった。安政二年(一八五五)江戸中村座初演。時代世話物、八幕。脚本三世桜田治助作。実録本より、大久保彦左衛門が一心太助に命じて、延命院・鏡台院騒動などを吟味し、松前屋五郎兵衛の無実を裁断する物語を、足利の世界にかりて脚色した大久保政談物の初作。通称「大久保政談」「一心太助」参考 【日本戯曲全集第三十三巻】https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1884035念のためこの本を ネットオークションで探してみた。あった!800円で落札できた。この本には「昔鐙文武功(むかしあぶみぶんぶのいさおし)」という 安政3年(1856)初演の大阪歌舞伎台本も集録されている。これもまた実録:大久保武蔵鐙・松前屋五郎兵衛伝を題材にしている。コレクションに またひとつ加わった。
2020/06/25
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日記の下書き一掃中先日ネットオークションで河鍋暁斎の掛軸に75万7千円の価格が付いた。掛軸には大久保彦左衛門が屏風の絵を墨で汚している様が描かれている。彦左衛門コレクションに加えたいと思ったが、手も足も出ない、実物ではなく写真で我慢。この絵の元になった話を確かめてみたら私のコレクション「大久保武蔵鐙 彦左衛門一代記」に出ていた、挿し絵も入っている。初版は明治19年6月で、これは24年4月の三版。「大久保彦左衛門屏風拝見の事並びに頭巾杖拝領の事」という一文に出ている。ある時将軍秀忠公は彦左衛門を近くに召され「汝に見せる物がある、こっちへ参れ」と賢人の間に連れて行った。そこには2双の屏風があった。「どうだ彦左衛門、ここにある屏風は大坂の陣の合戦を絵師に描かせたものだ。右の一双は冬の陣で左の一双は夏の陣である」と言われた。金地に狩野派の絵師の手になる見事な絵であった。絵を拝見し彦左衛門「なんと見事に描かれております。これぞ徳川家代々のお宝。」「徳川の子孫がずっと続いて天下の武将と仰がれたら、その時の将軍はこの屏風をご覧になって、ご先祖である(家康・秀忠)両御所は、合戦数度に及び大坂の強敵をついに攻め滅ぼし徳川の天下をお伝えなさったのだと両御所のご苦労の程を思われるでしょう。」「まことに この絵は御家代々の教訓になるかと存じます。」「しかしながら玉にキズの言葉がございます、このままでは絵空事も多く真の宝物とは申せません」すると秀忠公「汝の申すこともっともである。しからば、その方が良きように計らうべし」「かしこまりました。それでは私の考えでこの屏風を真の宝物に仕立てましょう。」 「お詰めの衆、硯を」やがて彦左衛、筆を取り墨黒々と含ませて彼の二双の屏風に向かい、ここの戦いは東軍大敗にて、真田幸村に追われしなり、またここでは関東勢大いに敗れ、またこの時も旗本を切り崩され将軍(秀忠)逃げ給う所なりと、絵図を眺めては所々を黒く塗り、あるいは書き入れなどをした。「これにて真の宝物になりました」と言って筆を納め秀忠公に向かい「人形物言わずとやら、今までの通りでは、敵ばかりが負けて勝負の実際がわかりません」と申し上げたら秀忠公「この屏風によくも勝負の点を懸けたり、今 予が見る前で汝のように為す者は他にあろうか、これでこそ真の大坂陣の絵図である」とて大いにお褒めになり手ずから召されていた羽織をお脱ぎになり当座の褒美とされたから彦左衛門ありがたしと御羽織を受けて押しいただきやがて御前を退いた。と、まあこんな話。
2020/06/14
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2年前、「お宝鑑定団」に「大久保彦左衛門揮毫の扁額」というのが出ていた。 なかなかの逸品らしく私の大久保彦左衛門コレクションに加えたいと思うのだが、あまりの高額で手がでないから写真にして取ってある。 https://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/smp/kaiun_db/otakara/20180529/02.html お宝は300数十年以上前から伝わる小川家の家宝。江戸時代、先祖が蕎麦屋を営んでおり、そこに2人の要人が訪れた際、1人が店名を「無極」と命名し、もう1人が船板に揮毫したものと聞いている。家族にとっては大切なものだが、果して価値があるのか気になっている 鑑定金額100万円 大久保彦左衛門の扁額に間違いない。「無極」は無限に発展するという非常にめでたい意味が込められている。「無」の一画目を右下がりに書いているのが非常に個性的な書き方。「極」は実に堂々たる立派な字。小田原城に自筆の書状が残っているが、これも非常に個性的でその字と共通性がある。おそらく薄い紙に原稿を書いて板に貼り付け、職人が丁寧に彫って顔料を埋め込んだ。胡粉という貝殻の粉を埋め込んで、その上に緑青で綺麗な色をつけ た。木はおそらく杉。丸い穴が無数に開いているが、実は昔の舟板。フナクイムシという二枚貝の一種が、このような細かい穴を開ける。塩水に浸かっていたため風化されない。穴が開いていて風情があるということで飲食店の看板として好まれた。粋な感じの看板。 さて つい先日のことである。 泉鏡花の「春着」という作品に大久保彦左衛門の名を見つけた。 青空文庫「春着」 https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/50777_44675.html 書き写して彦左衛門コレクションに加えることにした。 <前略> 私は大に勇気を得た。 が、吃驚するやうな大景気の川鐵へ入つて、たゝきの側の小座敷へ陣取ると、細露地の隅から覗いて、臆病神が顯はれて、逃路を探せや探せやと、電燈の瞬くばかり、暗い指さしをするには弱つた。まだ積んだまゝの雜具を絵屏風で劃つてある、さあお一杯は女中さんで、羅綾の袂なんぞは素よりない。たゞしその六尺の屏風も、飛ばばなどか飛ばざらんだが、屏風を飛んでも、駈出せさうな空地と言つては何處を向いても無かつたのであるから。……其の癖、醉つた。醉ふといゝ心持に陶然とした。第一この家は、むかし蕎麥屋で、夏は三階のもの干でビールを飮ませた時分から引續いた馴染なのである。――座敷も、趣は變つたが、そのまゝ以前の俤が偲ばれる。……名ぶつの額がある筈だ。横額に二字、たしか(勤儉)とかあつて(彦左衞門)として、圓の中に、朱で(大久保)と云ふ印がある。「いかものも、あのくらゐに成ると珍物だよ。」と、言つて、紅葉先生はその額が御贔屓だつた。――屏風にかくれて居たかも知れない <後略> 大層 景気のいい「川鐵」という店に入った。この店、昔は蕎麦屋で夏は三階の もの干でビールを飮ませた時分からの馴染みの店だ。 以前は名物の額が飾ってあった。 横額に二文字、たしか「勤倹」とかあって彦左衛門とあり円の中に大久保という印がある。 「いかものも、あれくらいに成ると珍物だよ」と言って、(尾崎)紅葉先生はその額が御贔屓だった。 というような内容なのだ。 書かれた文字こそ「勤倹」「無極」の違いはあるが 同じ扁額とみて間違いあるまい。 尾崎紅葉先生は「いかもの」と言っていたらしいのだが、「果たして判定やいかに」 「春着」は平凡社発行の「おばけずき」にも収録されている。
2020/06/13
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テレビで再放送があった。寛永風雲録 激突!知恵伊豆対由比正雪内容は「ザ・テレビジョン」から借用https://thetv.jp/program/0000007544/未だ戦乱の影響の残る徳川三代将軍家光(峰岸徹)の治世、幕府を虎視眈々と狙う者は外様、譜代問わずにいた。老中・松平伊豆守伸綱(里見浩太朗)はある一人の男、由比民部介正雪(西郷輝彦)に目をつける。家康の実子・紀州大納言・徳川頼宣(中尾彬)を後ろ盾に持つ正雪は江戸市内に大道場を開き、多くの門弟を募る。更にその周りには根来幻幽斉(石橋漣司)率いる忍者軍団が暗躍していた。これを察知した信綱は柳生十兵衛(若林豪)、服部半蔵(辻萬長)らにその動向を探らせる。大久保彦左衛門(今福将雄)の発案によって御前試合が催され、宮本武蔵(夏八木勲)、荒木又右衛門(伊吹剛)らの強豪達の対決が続々と実現していく中で、信綱は正雪を直接葬り去ろうとするものの、正雪は試合を放棄してこれを躱すのだった。蝦夷地を開拓し、平等な国を作るとする正雪の考えに賛同するものも多く、槍術家・丸橋忠彌(榎本孝明)もそんな一人であった。幕府転覆を狙う頼宣と正雪は次に駿河大納言忠長(風間杜夫)を使い、石高加増の要求を突き付ける。信綱の活躍により関係者は処断されるが、またも正雪は裏に潜む。将軍家光は後継を家綱と定めて夭逝、次々と計画を潰されてきた正雪はこれを機会にと遂に大計画を実行する。それは九州割譲を条件に明国に江戸を砲撃させ、その混乱に乗じて江戸を乗っ取る計画であった。これに気づいた信綱は自ら正雪討伐に討って出る。※※※※※※※※※※※※※※主演は松平伊豆守の里見浩太朗由井正雪役は西郷輝彦慶安4年の由井正雪による幕府転覆計画 が主題だが、この時代にあった、徳川家光の忠長の自刃等いろいろな事件が出てくる。冒頭、寛永御前試合のシーンがある。審判を勤める大久保彦左衛門役に今福将雄宮本武蔵対荒木又右衛門丸橋忠弥はて忠弥の相手は誰だったか。まあ、そんなことはどうでもよい。大久保彦左衛門が出てきただけで満足、ドラマを見た甲斐があったというもの。
2020/06/07
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久しぶりに欲しいと思う品物がネットオークションに出た。 1000円から始まった。 かなりの高値になりそうな雰囲気。 給付金が入ることだし半分の50000円くらいまでだったらこれに使ってもいいかな おいおい どうなってる。 まだ上がるのか? またまた この二人の争いか すごいなあ。 でも、これまでかな 昨夜の金麦はラガーにした。 豚ハツ
2020/05/31
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yanpaさんのブログで紹介された日本アニメを見ていたら「大久保彦左衛門」が出てくる作品があった。 「彦左コレクション」に またひとつアニメが加わった! 「與(与)七郎の敬礼」 1933(昭和8年)年作品 千代田のお城で御前試合が始まります。 家康公のお成り 直参旗本が居並びます。 おや? 大久保彦左衛門も見えます。 御殿女中も見物 剣術の試合 そしていよいよ相撲五人抜き。 一人目 うむ 與七郎は強いのう 二人目 うむむ 続くは猿飛猿助 手玉にとった! 「それ方々にはお出会いなされぬか」 興奮して縁側から転げ落ちた。 しからば拙者が 「われ十六歳の初陣 小牧長久手の戰を初として」 「度々の合戦に一度のひけも御座らぬ彦左衛門」 お相手いたす はっけよい おっとっとっと 「まだ敗てはおらぬぞ」 「持病の腰痛が起こってのう」 あははは かくして勝者は神谷與七郎 家康公よりお誉めのことば 「與七郎天晴れであるぞ」 「皆の者 褒美は追ってとらせさぞ」 「ハハッ 有難き仕合せ」 「御加増?」 「テヘッ たまらぬワイ」 ところが與七郎、このあと勝ちに驕って傲慢無礼な行いの数々…… 続くお話は まんが劇 與七郎の敬礼 ←ここでご覧ください。 今日の金麦
2020/05/25
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「和菓子の京都」を読んでいたら 大久保彦左衛門の名が出てきた。天下の御意見番「大久保彦左衛門」と和菓子あまり似つかわしくないのだが少し長くなるが話は こうだ。京菓子の歳時記【一月~十二月】≪前略≫ 十月は亥猪(げんちょ)、それから漉粉餅(こしこもち)。 そして能勢餅というのも百五十個納めています。 これはもともとは大阪の能勢村からの献上であったのですが、禁裏が東京に行ってからはあまりにも遠いので、餅御用の道喜がそれにかわって作ったもんだろうと思います。 ですから、比較的この能勢餅の作り方や飾り方は、米一升に対し何がいくらと、こと細かに書いております。 飾り方も五つの長方形の餅を縦に六枚並べ、まんなかを藁縄のようなもんでつるす、そういう形の絵が貼り付けられております。 十九日にも、やはり能勢餅が百五十個となっています。 ところで、十月の亥猪。これはいろいろエピソードもありますので、少しそこらも紹介してみます。 亥猪には十月亥猪と十一月の霜月亥猪と二つあるわけですが、十月亥猪が丸餅とされてるのにたいして、霜月亥猪というのは小さく碁石ほどの赤、白、黒の三色の餅となっています。 松の木で作ったミニチュアの臼で中細(なかぼそ)という杵を使って、天皇が搗く真似をします。 子の刻といいますから夜の十字ごろに、民、万民の平穏を祈る儀式とされてるわけですが、それがすんで公家百官にこの小餅を下げ渡します。 たとえば、白、黒ですと三位以上とか、赤い餅一つだけはいちばん裾の女官に渡すとか、その官位によって色違いを組替えて渡していきます。 これは食べずに檀紙で包んでおき、旅のお守り札、それも船旅によいというふうにされています。 京を離れる場合、それを借りて持って行くというようなことがよくものの本に出てきます。 これには必ず添え花というのがあって、初の亥の日は銀杏、次の亥の日は楓というふうに添え花が変わってくる。 そしてそれぞれ忍草というものをつけて懐紙に包んだものを持って行きます、 これは土佐光貞という画家が、「御玄猪」と題して絵図を軸物にして残してます。 この玄猪には次のようなエピソードが残っています。 後水尾天皇の中宮である東福門院は徳川三代将軍家光の妹ですから、宮中歳事というものを江戸城に家光の代でだいたい定着させています。 これは参勤交代と同じように、江戸城で毎月いろいろなセレモニーをして、諸大名の城代家老を招き寄せる。 当然そのセレモニーには、大名側としては金銭を包んで祝に持って行かなきゃならんというふうに、いわゆる幕府の政策として御所の歳事をどんどん取り入れます。 その中にこの玄猪の儀式があるわけです。 室町時代に足利将軍がそういうことをしたらしいですが、それから絶えて久しかったようです。 それが江戸時代に復活したのですが、家光は詳細を知らなかったもんだから、碁石ほどの赤、白、黒の餅が三宝に盛ってあったので節分の豆まきのように、これを並みいる大名にバラまいた。 それを一老人があわててひろいまわる。 大名たちは、武士たるものが小餅をひろい集めるなどとは何ごとか、とそれを見て嘲笑した。 それにたいしてその老人が大音声で、実は玄猪の儀式というのはそういう戯れ事ではない、かくかくしかじかと玄猪の由来を説いてきかせた。 その老人こそ誰あろう、あの大久保彦左衛門その人なり、と。 これは昔講談師が好んでいったことですから、どこまで本当かどうかわかりません。 むしろ嘘の方が多いかもしれないけれども、このように言い伝えられています。 ≪後略≫思いがけずに手に入る「彦左コレクション」!こいつあ 春じゃないけど 縁起がいいわいということで この本は「大久保彦左衛門コレクション」本棚に収まった。
2020/05/20
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先日行った遠州奥山方広寺門前の蕎麦屋。 https://plaza.rakuten.co.jp/mikawanoiori/diary/202001170000/ 「乃木そば」のいわれが妙に気になった。 切り抜き記事にあった本 「遠州伝説集」を調べたら 古本屋ネットにあった。 値千円 注文した。 届いた本の目次を見たが、乃木そばの記事はない。 改めて調べ直したら 「遠州伝説集」には「続」があって、 そちらに出ていることがわかった。 またしても軽はずみな行動であったかと、 いつもの如く ちと反省。 だが、目次を見ていて遠州地方の家康伝説を見つけた。 収録された遠州伝説225話中 家康伝説は28話もあった。 その中にある「梅の木坂」には、こんなことが書かれていた。 『 いつのことか知らないが、湖西町方面の戦いで、家康は例によって敗けてしまった。部下は大久保彦左衛門ただ一人。しかも敵はもう近くへ寄せて来る。足の弱い家康は逃げるにももどかしい、見兼ねた彦左衛門が、 「殿、殿、拙者の背に、早く背におぶさりなされ」 と、背を丸くしてだした。 「おお、そうか」 家康は気軽におぶさった。そして二人は、日の岡から北へ向かって逃げていた。おぶさっていると、身体は楽だ。家康はもう馬上のつもりで、 「彦左、急げ急げ、敵が近づいたぞ」 と叱咤激励しだした。しかし彦左衛門とて、ひとを一人背負ったのでは、決して楽ではない。がそこはまだ二十代の、千軍万馬の勇将である。 「はい、はい、急いでおりますぞ」 しばらく行くと、 「彦左、口が渇いた。水を持て、みずを……」 という、背中の家康よりも、背負う彦左衛門の方が、よほど口が渇いている。しかも後からは敵が追って来ているので、今はそんな悠長にしている時ではない。 「殿、殿、今少しのご辛抱を……」 「なに、辛抱せよ。余は辛抱できぬ。早く、早く水を持て……」 こうなると殿様なるものは、実にだだっ子である。さすがの彦左衛門も困ってしまった。 「殿、敵が近づきましたぞ」 「なに、敵ぐらいがなんだ。余は口が渇いた。」 困った彦左衛門は、そこは嘘も方便と、知恵をしぼっていった。 「殿、それ、あそこに見えます坂、あれは梅の木坂と申して、あそこには年中珍しい梅の実があります。 あれに行って、酢っぱい梅の実をたんと召上れ」 「そうか、じゃ急げ」 「はい」 だだっ子大将も、梅の実という言葉に、自然と口中に唾液がでて、ついに渇をいやして、無事に逃げ伸びることができたというのである。 その後この坂を、 「梅の木坂」 と、今にいっている。梅の木のない梅の木坂は、道幅も広くなって、秋ともなると、あたりの山に萩の花がこぼれている 』 間違って買った本に、思いがけず「大久保彦左衛門」の記事を見つけた! 結果オーライでコレクションが増えた! 乃木そばのいわれについては、また改めて書こう。
2020/01/22
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大久保彦左衛門コレクションに新たに映画ポスターが加わった。 彦左と太助 俺は天下の御意見番 1955年公開 彦左衛門役は月龍之介 一心太助を片岡栄二郎 月形は私が調べた限りでは彦左衛門役で10作品に出演している。 1953年 風雲八万騎 1955年 彦左と太助 俺は天下の御意見番 1955年 彦左と太助 殴り込み吉田御殿 1958年 一心太助 天下の一大事 1958年 江戸の名物男 一心太助 1959年 一心太助 男の中の男一匹 1962年 天下の御意見番 1963年 一心太助 男一匹道中記 1966年 天下のご意見番 1968年 黒い編笠 1933年 お馴染一心太助 以前、映画・TVで大久保彦左衛門を演じた俳優番付表を作ってみた。 これもコレクションのひとつになっている。 先日yanpaさんから 司馬遼太郎が『この国のかたち』に大久保彦左衛門のことを書いているとの情報をいただいた。 さっそく文庫本(古本)を注文したら今日届いた。 これもコレクションに加わる。 フフフ 笑いがこみ上げてくる! こいつあ春から縁起がいいわい この台詞の出典をひまにまかせて調べた 歌舞伎『三人吉三巴白浪(さんにんきちさともえのしらなみ)』 https://www2.ntj.jac.go.jp/unesco/kabuki/jp/play/play10.html 声に出して読んで下さい。 「月も朧(おぼろ)に白魚の篝(かがり)も霞む春の空、冷てえ風も微酔(ほろよい)に心持よくうかうかと、浮かれ烏(うかれがらす)のただ一羽塒(ねぐら)へ帰る川端(かわばた)で、棹(さお)の雫(しずく)か濡手で粟、思いがけなく手に入(い)る百両、 [御厄(おんやく)払いましょか、厄落し(やくおとし)、という厄払いの声] ほんに今夜は節分か、西の海より川の中、落ちた夜鷹(よたか)は厄落し、豆沢山(まめだくさん)に一文の銭と違って金包み、こいつぁ春から縁起がいいわえ」
2020/01/11
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雨で1日延期になった幸田彦左まつりに、昨夕行ってきた。 延期になったため子供のパレードや町内在住の外国人のパレードが参加できなかったのは、ちょっと寂しかった。 その分、メインの彦左衛門盥登城の行列はじっくり撮影してきた。 ソニー社員 デンソー社員 以下は地元学区のみなさん 幸田町は旗本大久保彦左衛門の領地があったところ。 今でも彦左衛門の子孫が住んでいるという。 いつかお会いしたいものである。 幸田町六栗は 夏目漱石の御先祖の出身地でもあるそうだ。
2019/07/29
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大久保彦左衛門コレクションの整理を続けている。 整理している最中にもコレクションは増える。 最近オークションで3枚ものの錦絵を手にいれた。 大阪の陣で活躍する彦左衛門。 3枚1一組で送料込み一万円ちょっと。 パネルを作って飾り付けたらアイディアが浮かんだ。 国会図書館のデジタルコレクションの画像を拝借してB4サイズでプリントしたもの二組のパネルを作って合わせて3枚飾ってみた。 写真をポチすると拡大できる 一番上は荷物の中に隠れた神君家康公を運ぶ彦左衛門と、これを襲う後藤又兵衛 二番目は芦の茂みに隠れた神君家康公と真田幸村 一番下は真田幸村家臣に追われる徳川2代将軍秀忠と彦左衛門のために舟を出して救った船頭 さて、この絵の中で本物はどれでしょう。 プリントした絵を見ても本物とあまり違いはない もちろん紙質は違うし美術的な価値はない。 それでも彦左衛門グッズだと思えば手元にあるだけでうれしいのだ。 先ほどの絵は一番下が本物。 こちらは下の左はプリントしたもの。 上の3枚ものの右端の1枚はプリントで残り二枚は本物の錦絵。 これなどは欠けていた1枚を修復したと言ってもいいのではないだろうか。 かくしてコレクション整理は進んではいるのだが、整理するそばから増えるので終わりのない作業ではある。 今日、古い映画ポスターで欲しいのがあったのだが想定価格よりかなり高値になったので諦めた。
2019/07/07
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集めた彦左衛門コレクションの展示会をいつかは開きたいと整理をしている。 ずいぶん集めたものだと思いながらまだまだ欲しいとネットオークションで探している。 時々、ただ面白そうだと言うだけで関係のないものを買ってしまう。 高いものには手を出さ(せ)ない。 先日、ネットオークションを覗いていたとき、なんとなく気になる絵巻物の出品を見つけた。 このところ本気で古文書解読の勉強をしているせいか、以前よりすこしばかり読める。 読めた人名を検索していたら国立国会図書館デジタルコレクションの「一編上人絵伝」に行き着いてしまった。 なんと出品作は一編上人絵伝と瓜二つ。 しかも絵伝は同じものが20本確認されているらしい。 国会図書館の絵伝を見ると重要文化財となっている。 一応チェックだけ入れて最終入札日を待った。 最終入札日 136000円だった。 安すぎない? ひょっとしたら 重要文化財だよ。 秋の北国街道ウォークを諦めて入札してみるか 「入札する」をポチ 画面に入札金額137000が出た。 う~ん、 行くか・止めるか 止めた! もし本物でも、「一編上人絵伝」なんて持っていても嬉しくもない。 高額に売らなければどうにもならないが そんな面倒なことをしたくはない。 直後 137000円が出た。 結局、これが最高額で落札。 やっぱり金儲けは向いていないジジなのだ
2019/07/02
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つい最近、ネットオークションで一冊の古本を購入した。1000円即決とあった。送料は未定であったがゆうパック扱いも出来るようで700円程度だろうと思っていた。1000円で落札。出品者から送料連絡があった。宅配扱い1080円!もっと安いゆうパックにならないかと連絡したが本が大きく重量もあるのでこれしかないと返事。不承不承ながら入金。昨日届いた。大判で重量2kgそれでも納得できなかった。本を開いた目指すは「大久保彦左衛門 書状」初めて見る書状だった。書き写し文解説に読み方が出ていた。「先度は 衛門 越され候。すなわち、写させ候て申し越し候。来春、片桐石州帰り申され候わで、らち明き申すまじき由に候。その内理屈明き申し候わば、是れより申し遣わすべく候。一 女子供、道中無事に着き候一 そこもと金子多くは有るまじき由、合点申さず候。残米を(売り)払いていかほども候間、金子多くは有るまじきと申し越し候わば、然るべく候。一 指図の通り、惣郷申し付け候間、少しも未進致させ候わば、曲事(くせごと)為るべく候、つぶさには与惣右衛門申すべく候、恐々謹言。猶々少しも未進なく取り申されるべく候、以上。十二月二十一日 大久保彦左衛門 忠教あ(花押)大久保平太夫殿三□権左衛門殿まいる」読めるような読めないような印刷して額装したらコレクションの一つに加えてもよいと思えた。ひょっとしたら これが 小田原城に捜しに行った彦左衛門の書状だったかもしれない。これは 案外良い買い物だったようだ。
2019/06/09
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大久保彦左衛門の書状を探して小田原城に行ったのだが見つからなかった。 記憶があいまいで小田原城で見たのかどうかはっきりしない。 天守閣下に小田原市歴史見聞館というのがあり、こちらでも探してみたが空振り。 わき道にそれるが展示品におもしろいものを発見。 大平洋戦争末期に登場した竹カブト。 窮すれば通ず を地で行くような製品。 爆弾に対して役には立たないだろうが、捨てがたいおもむき。 見聞館を出たところに藤棚があった、「御感の藤」 樹齢200年、元は小田原城主大久保公愛玩の鉢植えだったのが明治維新後民間に渡り、西村という家の藤棚となっていた。 大正天皇が皇太子の時、小田原御用邸滞在中のある日、西村邸を通過した際、乗っていた馬が藤棚の中に駆け入ったため皇太子の肩に花が散りかかってしまった。 周囲の人々が恐縮していると「見事な花に心なきことよ」と感嘆されたことから「御感の藤」と呼ばれるようになった。 大正十一年三月小田原城に移された。昭和三十二年小田原市天然記念物指定。 大正天皇は病弱で在位期間も短いためもあって、あまり話題にはならないのだが、英名闊達なお方であったようだ。 一昨日から かみさんが首筋が痒いと言っていた。 家ダニかもしれないとバル★ンを焚くことにした。 数日前から庭の山茶花に虫がついて葉っぱが食われていた。 昨日見たら毛虫がびっしり! 木から下りてきてバケツの取っ手にいっぱい (おすすめはしませんが 写真をクリックすると大きくなります) 山茶花の外、椿も3本のうち1本がやられていた。 かみさんは医者へ行き薬を貰って来た。 今朝、噴霧器と消毒薬を買ってきて散布。 椿の枝から毛虫がぶら下がって絶命 今までこんなことはなかった。 ように思う。
2019/06/06
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大久保彦左衛門コレクションもかなり充実してきたので、今年は仕分け整理に力を入れている。ネットオークションで手にいれた書籍類には活字本に混じって毛筆本もかなりある。毛筆本は活字と違って読めない。同じ内容で出版されたものも多くそちらを読めば困りはしないのだが、わき道にそれる性格が、なんとか読んでやろうと自分を突き動かす。これまでネットで古文書の読み方を見つけて多少勉強してみたのだが、独学は時間がかかりすぎる。NHK学園通信講座に古文書講座があるのを見つけた。4月中旬、申し込んだら連休前にテキスト一式が届いた。テキストを見て驚いた。「読んでみよう古文書」というのだが、いきなりの古文書。習うより慣れよだそうで、一文字一文字にこだわらず文章の形をつかむのが大事とか。ということで、この1ヶ月断続的に勉強してきた。昨日ようやくレッスン1「願い・訴えの文書」のリポートを書き上げ、今日郵送した。郵便局で切手代 15円也を払った。第4種郵便というのは珍しいらしく封筒を見に局員が集まって来た。レポート提出は月1回全4回。8月には終わる予定。
2019/05/29
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双子の姉と下呂温泉に行くかみさんを駅まで送って文具店へ。発泡スチロールに紙を貼ったパネルを買ってきた。長らくしまいこんでいた大久保彦左衛門コレクションの錦絵と映画ポスターを入れるパネルを作ろうと考えた。3枚ものの錦絵はこれまで特注の額に入れていたが絵より額の方が高いという嫌らしさ。PETパネルとスチロールパネルで作れば安上がり。昔とったきねづか、シートをカットするのは苦にならない。額装に比べれば、なんともお粗末ではあるが、コレクションの保護と整理には十分。そろそろコレクション展をやれそうかな。今夜の酒は 簡単すぎて わびしい塩ホルモン焼きと子持ちカレイ煮つけ 缶入り発泡酒2本。
2019/05/24
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