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その当時、それぞれが 明治学院大学
の先生であったお二人、 文化人類学の辻信一さん
と 小説家の高橋源一郎さん
が 2010年4月
から 「弱さの研究」
というテーマで始められた共同研究は、 「弱さの思想」、「雑の思想」「あいだの思想」(それぞれ大月書店)
という、 3冊の対談集
に纏められて10年がかりで完結していたようですが、 2026年
の、今になって、研究のゴールにあたる 「あいだの思想」
の面白さにハマって、 「雑の思想」、「弱さに思想」
と逆方向から読みなおしました。
社会的弱者と呼ばれる存在がある。たとえば、「精神障害者」、「身体障害者」、介護を必要とする老人、難病にかかっている人、等々である。あるいは、財産や身寄りのない老人、寡婦、母子家庭の親子も、多くは、その範疇に入るかもしれない。自立して生きることができない、という点なら、子どもはすべてそうであるし、「老い」てゆく人びともすべて「弱者」にカウントされるだろう。さまざまな「差別」に悩む人びと、国籍の問題で悩まなければならない人びと、移民や海外からの出稼ぎ、といった社会の構造によって作り出された「弱者」も存在する。それら、あらゆる「弱者」に共通するのは、社会が、その「弱者」という存在を、厄介なものであると考えていることだ。そして、社会は、彼ら「弱者」を目障りであって、できるならば、消してしまいたいなあ、そうでなければ、隠蔽するべきだと考えるのである。だが、ほんとうに、そうだろうか。「弱者」は、社会にとって、不必要な、害毒なのだろうか。彼らの「弱さ」は、実は、この社会にとって、なくてはならないものなのではないだろうか(かつて、老人たちは、豊かな「智慧」の持ち主として、所属する共同体から敬愛されていた。それは、決して遠い過去の話ではない)。
効率的な社会、均質な社会、「弱さ」を排除し、「強さ」と「競争」を至上原理とする社会は、本質的な脆さを抱えている。精密な機械には、実際に必要のない「可動部分」、いわゆる「遊び」がある。「遊び」の部分があるからこそ、機械は、突発的な、予想もしえない変化に対処しうるのだ。社会的「弱者」、彼らの持つ「弱さ」の中に、効率至上主義ではない、新しい社会の可能性を探ってみたい。(P11~12)
「うん、うん、そうそう。」「へえー、そういう活動しているんだ!」 の連発でした。
はじめに第一章 ぼくたちが「弱さ」に行きつくまで第二章 ポスト三・一一~「弱さ」のフィールドワーク第三章 「弱さ」の思想を育てようおわりに
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