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鎌倉の前浜である材木座海岸に悠然と佇む光明寺。山号は天照山。「天明照光」の四文字熟語が浮かぶ。光明寺の特徴は、大きな山門。関東一の規模を誇る木造山門だ。二階部には仏像が安置され、見学も条件付きで可能。五間三戸二重門の型式で、鶴岡八幡宮から移築したとも言われている。 本堂(大殿)は1698年に再建されたもので、鎌倉地方最大級の木造古建築物。国の重要文化財である。関東大震災(1923年)にもびくとしなかった。正面側面25mの大きな屋根が特徴。鎌倉・北条氏の庇護を受け大寺院になり、江戸期には浄土宗の育成所・学問所に列した。 光明寺山門と材木座海岸との距離はわずか150m余り、和賀江島湊跡まで約500mの位置にある。中世この港に接岸した船からは、立派な総門が見えたことだろう。もしかすると念仏を唱える低周波の音が船上まで届いたかも知れない・・。 光明寺の裏山・天照山は、斜面が削られ中学校の校舎と校庭が建っている。その通学路の一角は、「かながわの景勝50選」に認定されている。しかし、生茂った樹木が視界を遮り、かつ足場が悪かった。見晴しは、山門の2階からのほうが良そうだ。桜の頃に訪れたい名所である。 写真-1 関東一の規模を誇る五間三戸の総門。2階部には仏像が安置、見学も可能。 写真-2 天照山光明寺の本堂。関東大震災で耐震性を証明した。国の重文指定・木造古建築物。 写真-3 「かながわの景勝50選」の裏山から相模湾を望む。富士山や江の島も見える処だが・・。写真-4 光明寺近くの材木座海岸から和賀江島湊跡を望む。写真-4 境内にある記主庭園の大聖閣と蓮池。
2014年01月15日
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奥久慈で通称「もみじ寺」と呼ばれる永源寺。押川が久慈川に合流する手前の右岸の丘に建っている。JR水郡線・常陸大子駅から徒歩10分にある。赤・黄色のもみじが境内を彩るシーズンは、押川の左岸に臨時駐車場が設けられる。 永源寺の山合は臥雲山。曹洞宗のお寺であるが、八臂(はっぴ)弁財天が祀られている。創建が1446年とされる。幕末の天狗党の乱の際に、お寺の大半が焼失した。天狗党は那珂湊で敗れ、この大子村に再集結して、千人余りで京都を目指したという。永源寺は60年前(昭和28年)に再建された。 お寺の敷地は、東斜面を切り開いて造られている。朝日を正面に受ける本堂である。午前中に訪れたい場所だ。お墓や石像に取り囲まれた鐘楼は大子八景の一つ。近江八景の「三井晩鐘」を意識している。京都のお寺に来たような雰囲気がある。 常陸大子駅の前には、1970年まで使用していたC12形蒸気機関車187号が展示保存されている。このSLは30年間九州で走った後、水郡線でお役御免となった。C12形に良く似たバスが駅に停車した。大子駅と袋田滝本を往復運行し、一日9往復する観光SLバスだった。 写真-1 押川の右岸沿いの丘に建立された臥雲山・永源寺。写真-2 奥久慈のもみじ寺として親しまれている。 写真-3 永源寺の晩鐘は、「大子八景」のひとつ。 写真-4 赤・黄色のもみじが彩る境内の様子。 写真-5 常陸大子駅前で見かけた観光SLバス。
2013年11月22日
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滝川が4段に岩肌を滑り落ちる袋田の滝。日本三名瀑のひとつで、年間の入場者数が100万人を超えた年もあった。奥久慈、随一の景勝地だ。四季折々の風景で人々を引き付ける。袋田の滝は奥久慈の宝である。20年振りに秋の袋田を訪れた。 袋田の滝の高さは120m。那智の滝133mに及ばないが、滝幅が73mと広いのが特徴。水量が少なければ岩壁を流れるラインが白糸のように見え、水量が多ければ荒々しい大滝になる。冬には凍結して氷瀑と化す。「四変化の滝」とも言う。 エレベーター(昇降差44m)を導入した新観瀑台が平成20年に完成した。新観瀑台には3つのデッキが設置されている。一番高い第3デッキは、従来の観瀑台から51m高い。従って、従来の観瀑台を合わせると上下4段で滝を観賞できる。「四度の滝」に合わせて拵えたようだ。 定員18名のエレベーターが2基設置されているが、観光シーズンはトンネル内で順番待ちを強いられる。小生達は20分間待ちで済んだ。エレベーターの設置は、お年寄りに大好評だ。車椅子の人でも観瀑が可能となる。高齢化社会を見据えた観光事業とも言える。 写真-1 新観瀑台から滝上部の4段目・3段目の滝を観る。 写真-2 従来の観瀑台から滝下部の2段目の滝を観る。 写真-3 滝底と吊橋。 写真-4 袋田の滝周辺の岩壁。約1,500万年前の火山性角礫岩の地層。写真-5 従来の観瀑台内部。全天候型の施設。
2013年11月20日
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竜神峡が紅葉時期になった。竜神湖上空100m歩いた。平成6年(1994年)に建設された人道専用の長さ375mの大吊橋で、当時日本一を謳っていた。茨城県常陸太田市の自慢の橋。現在は大分県の九重夢吊橋(長さ390m、高さ173m)が人道吊橋日本一だ。 竜神大吊橋下の湖面は、竜神ダムによってせき止められた人造湖である。竜神ダムは久慈川支川竜神川に造られた堤高45mの重力式コンクリートダム。総貯水量300万m3の多目的ダム。竜神峡に潤いと下流地域の安全に貢献している。 この吊橋は昔ひと悶着があった。「梶山橋」と呼ばれ、税金の無駄使いの例として、多くのマスコミに批判された橋だ。33億円の建設費に見合う効果が期待できないと断じられた。しかし当時、袋田の滝とセットにすることで、観光の相乗効果を期待した。北茨城振興の願いを込めた吊橋だった・・。 大分県の夢吊橋は、2年間で400万人を呼び込み、建設費20億円を回収できたという。橋の幅を竜神橋の半分1.5mにしてコストを抑えたのも成功のひとつ。竜神橋の観光は秋シーズンが大半のようだ。大分県と比べるとハンデがあると思うが、「地域の財産」を活かす取り組みに期待したい。 写真-1 天野下町に架かる竜神大吊橋。行き止りの橋を右岸側から渡る。写真-2 竜神大吊橋の左岸側。高さ35mの主塔から直径19cmの吊りケーブルが伸びる。写真-3 竜神大吊橋は、竜神ダムから見上げる位置にある。 写真-4 湖面から100m上に架かる青い吊橋。 写真-5 橋幅が3mと広い。人道用としては立派すぎる・・。
2013年11月18日
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広い由良川をタンゴ鉄道で渡る。タンゴ鉄道とは、北近畿タンゴ鉄道の略称で、ほぼ全線が機動車運行。栗田(くんだ)駅から四所駅までの15km、25分間の鉄道を旅した。満席の一両列車が行く。カモメをイメージした栗田駅から乗車した。栗田駅は難読駅としても有名らしい。 丹後・但馬地方を走るタンゴ鉄道。第三セクター鉄道で赤字額が最も多いとされる路線だ。営業距離が114kmと長く、廃線の岐路に幾度も立ってきた。宮福線(宮津-福知山)30kmと宮津線(西舞鶴-豊岡)84kmを受け持ち、頑張っている。応援したくなる鉄道である。 栗田駅から四所駅までの区間は、風光明媚な海岸線および由良川河口を通る人気のコース。何と言っても、全長552mの由良川鉄橋である。鉄道ファンの間では有名な鉄橋のひとつ。20数年前までは蒸気機関車が煙なびかせていた。土木学会選奨の土木遺産にまだ登録されていない・・。 先月の台風18号で被害を受けた福知山市は、この河口から約38km上流に位置する。当日福知山市内では、7,300人に避難指示が出され、床上・床下浸水が1千戸近くにのぼった。由良川が西流し、流れを北東に転ずる地点に福知山がある。河流の変曲点になる場所は、不断の治水対策が重要・・。 タンゴ鉄道記をもって、丹後・但馬の一連の旅風景を終えます。写真-1 タンゴ鉄道15kmの旅風景はやはり由良川鉄橋。552mを歩いてみたいものだ。写真-2 由良川鉄橋より由良川の上流を見る。福知山を経て美山かやぶきの里へ通じる。 写真-3 タンゴ鉄道「栗田(くんだ)駅」から乗車した。 写真-4 タンゴブルーの機動列車。四所駅ですれ違い。写真-4 外観に比べ車両内装は綺麗だ。
2013年10月12日
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鶴が羽根を広げたような形の舞鶴港。懐が深く、かつ広いので天然の要害であり良港である。羽根の片方にあたる舞鶴東港で、「海軍ゆかりの港めぐり」の遊覧船に乗る。約30分のクルージングではあるが、海上自衛隊保有のイージス艦などを間近で見ることが出来る。 引上桟橋付近の海峡には「舞鶴クレインブリッジ」の真っ白の美しい姿がある。全長735mの3径間斜長橋。舞鶴東港は旧海軍の主要軍港の面影が残るミナト。明治43年に舞鶴鎮守府が造られた際の初代司令官は東郷平八郎中将。バルチック艦隊との海戦で、「東洋のネルソン」と称された人。 最新鋭の護衛艦・イージス艦2隻が母港とする東舞鶴港。日本には6隻のイージス艦がある。こんごう型(7,250t)×4隻とあたご型(7,700t)×2隻である。佐世保港に半数の3隻。イージスは、ギリシア神話における盾(胸当)を意味する。日本海防衛の要としての舞鶴港は、昔も今も変わらないと思う。 遊覧船の波止場付近には赤れんが倉庫群が並ぶ。近年、「赤れんがパーク」として整備され、「市民記念館」 (2号館)、「まいずる知恵蔵」 (3号館)として有効利用している。舞鶴市の人口は、往年の15万人から半減して、今や約86,000人。日本海の防人なので、人口減が止れば・・と願う。 写真-1 舞鶴東港に降りた二羽の鶴。舞鶴クレインブリッジの華麗な容姿。 写真-2 ユニバール造船所に横付けしたイージス艦「あたご」。 写真-3 北吸(きたすい)桟橋に泊るイージス艦「みょうこう」を正面から観る。写真-4 遊覧船発着場近くの赤れんがパーク。中央の赤れんが倉庫が「まいづる知恵蔵」。
2013年10月10日
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深山を背に、約30棟のかやぶき民家が今も残る美山集落。由良川源流近くの山深い村に、日本の原風景がある。かつて林業で栄えたところで、手入れの行き届いた杉山が途中目についた。集落単位での茅葺き建築物数は、国内第3位。白川郷、大内宿につぐ規模だ。 美山北集落は、京都府の東端にあり、福井県と滋賀県との県境に位置する。かやぶき民家は、日当りの良い南斜面に身を寄せるようにかたまっている。集落の足元に由良川が流れている。先月の台風18号で由良川が増水し、福知山市に大きな水害を与えた記憶が新しい。 かやぶき屋根は、20年毎に葺き替える必要があり、維持管理が大変である。葺き替えには約8日、600万円程度かかるという。村では話し合いを重ねて、住民が出資して「有限会社かやぶきの里」を設立。伝統建造物を保存すると共に観光施設を組織的に運営している。 かやぶき家は、とりわけ火災に弱い。集落は防火対策に力を入れている。各民家・母屋毎に放水銃を配備している。普段は犬小屋のように見えるが、いざという時には屋根が開き、放水器械に早変わりする。62基の放水銃が放つ水柱は圧巻だという・・。 写真-1 由良川の最上流に「美山かやぶきの里」がある。台風18号の爪跡もあった。 写真-2 蕎麦の収穫が始まる頃の美山北集落。昔話のような世界だ・・。 写真-3 奥深い山間僻地ではあるが、訪れる人は多い。 写真-4 かやぶき屋根にコスモスが似合う。 写真-5 屋根上部の破風通気口に家紋がある。
2013年10月08日
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但馬の小京都と呼ばれる出石(いずし)町。かつて但馬地方を治めた守護職のお城があったところ。江戸初期の出石藩は5万8千石あったとされる。本丸跡地の隅に、櫓(やぐら)を復元している。石垣や登城門などで当時を偲ぶことが出来る。町並みは碁盤目のように区画されている。 町の中心部を流れるのは出石川で、円山川の合流点から約8km上流にあたる。昔、水運の物流が盛んだったことを想像させる。江戸中期に白磁の鉱脈が発見され、陶器づくりで賑わう。「出石白磁」と呼ばれた名品だった。 白い小皿で、蕎麦が振舞われるのが出石そばである。小さな町内に約50軒の蕎麦屋がある。出石蕎麦は、信州上田城から国替えとなった仙石氏がそば職人を伴ってきたのが始りだという。地方の名品陶器と相まって皿そばになったのだろう。レトロな城下町で食べる蕎麦は格別な味だ。 町のシンボル・辰鼓楼(しんきろう)から東へ500m歩くと宗鏡寺に到る。通称「沢庵寺」と呼ばれる。荒廃していた寺を沢庵和尚が再興したのだ。この寺近くには、川崎尚之助の供養碑が真新しく建てられていた。テレビの力は大きいなあと思う。 写真-1 城下町を一望できる高台に出石城址がある。写真-2 大手門跡に設置された時計台・辰鼓楼。昔8時になると朝五つの太鼓が鳴った。 写真-3 沢庵寺の庭。訪れるのは紅葉の時期が良い。 写真-4 昔の城下町は、蕎麦の町のよう・・。 写真-5 食べ終えた小皿を重ねと満足感が増す。
2013年10月07日
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青い柳と大谿川に沿って湯の街・城崎がある。城崎(きのさき)温泉街は、小さな大谿川(おおたにがわ)沿いに、二階三階の湯宿が軒を連ね、曲郭のような趣がある。夜、柳と石橋とで情緒漂う川通りとなる。大谿川は、すぐ近くを流れる円山川に注ぐ。 満々と水を湛える円山川は、兵庫県で2番目に大きい川。延長68kmの堂々たる一級河川である。河口が広く、昨年ムラサール条約に登録された。城崎温泉は、この河口の上流3.3km左岸側の谷地形にある。温泉街の南西背面に来日岳(標高567m)があり、来光を拝むところ。 初冬に訪れるのが良いとされる城崎温泉ではあるが・・。各旅館は、外湯(銭湯)を前提に作られている。いわゆる「外湯七湯(そとゆしちとう)」めぐりである。小生は、「御所の湯」など4つのお湯を頂いた。この時期、夜の気温が20度前後あり、身体がなかなか冷めない。湯あたりを起こした。 志賀直哉ゆかりの旅館近くにあるのは「まんだらの湯」。近くには大正時代の老舗建物が並ぶ。大正14年の北但大地震で壊滅的被害を受けた後、元に近い造りで復興させたという。奈良時代から1300年続く温泉場は、大地震に負けない丈夫な身体を産み出すようだ・・。 写真-1 城崎温泉の近くを流れる円山川。満々と水を湛えて流れゆく。 写真-2 七湯の中心部に建つ「一の湯」。玄武洞を思わせる洞窟風呂がある。 写真-3 人気の「御所の湯」。ミニ滝や山を見ながら風呂に浸かった。 写真-4 柳と石橋がある川通り。湯あがりの身体をそぞろ歩いて冷やすとよい。 写真-5 曼荼羅橋をわたると「まんだら湯」。別名「一生一願の湯」ともいう。
2013年10月05日
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伊根湾は丹後半島の西端部に位置し、湾外で日本海と若狭湾の潮が混じ合う。海の幸が多く集まる名所である。穏やかな湾を囲むように230件の舟屋が軒を連ねる。伊根湾の舟屋群は「海に一番近い町」として、しばしばテレビなどで報道される。 舟屋とは二階建ての舟のガレージである。1階部分は舟置き場、そして2階部分が住居スペースになっている独特な建造物。NKH朝ドラ「ええにょぼ」(1993年)のロケ地となり、脚光を浴びた。長い間町並みが存続して来たのは、天然の良港と豊かな魚場によるものだ。 伊根湾は開口部が南に向いているため、冬の荒れる日本海の影響を受けずに済む。さらに若狭湾を時計廻りで回遊する魚群を取り込み易い。しかも出入口には、青島が鎮座しており、魚が抜け出し辛いという地形だ。昔、魚を追って湾内に入ったクジラをよく捕獲したという伝説の港・・。 湾ではブリなどの養殖も盛んである。しかし水揚げ量の第一位はイワシの900トン。ブリの水揚げ量は570トンほどである。伊根の浦のサカナと言えば、グジ(アマダイ)であろう。上品で美味しいので、京料理には欠かせない。鮮度保持のため直接魚体に手を触れずに、水揚げされるという。 写真-1 穏やか伊根湾を囲むように舟屋が260軒並ぶ。 写真-2 お隣どうしがくっ付き合うように建っている。写真-3 樹木が鬱蒼としている青島。伊根湾の出入口に鎮座し、舟屋を存続させてきた。写真-4 「かもめ号」に乗って、約30分の遊覧を楽しむ。クジラのような岩場が・・。 写真-5 ブリなどの養殖も盛んに行われているようだ。
2013年10月03日
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宮津湾は、若狭湾にある入り江のひとつ。湾の中の湾である。天橋立を一望できる傘松公園から東3kmの対岸に、「田井の崎」がある。田井(たい)は、宮津湾に突き出した鼻のようなところだ。湾内の幅が2kmに満たない。チョットした海峡を思わせる 宿泊した「宮津ロイヤルホテル」が田井の近くの丘に位置しているので、傘松公園からも容易に確認できる。ホテルから600m下ると田井である。田井の崎の両側には雄島と姫島とがある。海から参拝する二つの大明神が祀られ、地元の守り神。 田井の西側に姫島とヨットハーバーがある。ヨットの収容規模は90隻ほどで、4つの桟橋を要している。地元の自治会が管理運営しているそうで、17時頃には閉所となる。構内には男女の島をアピールする縁結びの神社とモニュメントがある。 田井の東側には、弧状の砂浜が広がる。白い砂浜で夏、海水浴客で賑わいそうだ。田井海水浴場の西端に雄島大明神が祀られている片島がある。岩場となっているので磯釣のポイントにもなっているそうだ。朝焼けが美しい浜と島陰があった。写真-1 田井海水浴場の朝焼け。黒崎に続く島陰から陽が昇る。 写真-2 宮津湾口と片島を望む。片島は雄島とも呼び、大明神が祀られている。 写真-3 傘松公園から田井地区と若狭湾を望む。右端に宿泊したホテルを確認。 写真-4 ホテルから田井の西側を望む。田井宮津ヨットハーバーが見える。写真-5 ヨットハーバーの夕景。傘松公園辺りに陽が沈む。
2013年10月01日
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「一度は行きたい」と相棒が言うので、丹後・天橋立を巡るツアー旅行に参加した。関西で仕事をしていた頃、一度訪れている。約25年ぶりの旅風景である。丹後半島へ出かけるのは意外と大変なのだ。そんな時は旅行社の段取りに任せるのに限る。 天橋立は、宮津湾の南北に架かる湾口砂州(砂嘴)の架け橋である。伝説によると、天に昇る梯子が倒れて入り江を繋いだとされる。砂嘴(さし)と松林が真っすぐに3.6km続く。松林が直射日光や強風から身体を守ってくれる。散策に絶好にコースだ。 天橋立の東方対岸が宿泊地。丘に建つホテルからは、美しい夕景が観られるはずだったが、生憎と厚い雲が広がる。しかし翌朝は良く晴れ、「横一文字」の景観を望むことが出来た。今回のツアーは、傘松公園からの「斜め一文字」である。「股のぞき」をした後、マツタケご飯の昼食だった。 天橋立をインフラ整備と考える事が出来る。施設の維持・管理には多額の費用を要する。例えば次のようなコストである。(1)砂州の浸食対策として堆砂堤(のこぎり状)建設。(2)松くい虫の駆除と監視。(3)洪水時の流木処理。風光明媚の資産を未来に残すための努力は続く・・。 写真-1 傘松公園から観た「斜め一文字」。起すと雲に届きそうな天空への梯子。写真-2 朝の天橋立(横一文字)を望む。遠くの山は羽衣天女伝説の磯砂(いさなご)山だろうか。写真-3 南北3.6kmの砂嘴(さし)道。徒歩で片道50分の松林コース。写真-4 宮津湾側では砂浜の防浸食と流木処理などを行い、景観を維持している。 写真-5 阿蘇海を航行する船と松林。
2013年09月30日
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湯沢高原は、JR越後湯沢駅から20分で登ることが出来る。と言っても全長1,300mの高原ロープウェイを利用してのこと。このロープウェイは、166人乗りの大型キャビンを20分間隔で運行している。この時期、お客は軽装なので室内が広く感じる。輸送能力は、時間当り500人が最大のようだ。 スキーの老舗ゲレンデを持つ湯沢高原スキー場は、交通に便利な所であるが故に、訪れたことがなかった。いつも上越国際スキー場へ行くので、越後湯沢駅は素通りしていた。しかし夏場、涼を求め高原を散策する人が多いことを知る。下山すると汗で汚れた身体を温泉が再生してくれる。 ロープウェイ山頂駅を降りるとパノラマステーションと呼ばれる眺望広場がある。高原の風を感じて、越後の山々を見ると都会の喧騒をいっとき忘れることができる。訪れた日、ユリが満開で迎えてくれた。天空の鐘とやらも鳴らしてみた。 この高原は、アルプの里とも呼ばれ夏のレジャーを楽しめるように造園されている。やまびこリフトを乗り継いで、ロックガーデンへ行きたかったが時間の関係で断念する。展望の良いレストハウスでホットコーヒーを飲みながら、今年の正月スキーへ思いを馳せた。写真-1 湯沢高原・アプトの里に咲くユリ。遠くの山容は巻機(まきはた)山だろうか・・。写真-2 北側のガーラスキー場を望む。深緑のゲレンデの上を雲が流れ行く。写真-3 谷岳方面と湯沢の町を眺望する。スキー場が取り巻いている町。写真-4 標高1,000mのパノラマステーション。天空の鐘と足湯がある眺望広場。
2013年08月11日
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霧の高原に忘れ路の丘がある。ニッコウキスゲの群落の名所であったが、最近ニホンジカが急増して花芽を食べられ様子が変わってきている。この丘の上には、ハイカーが濃霧の中迷わないようにと霧鐘塔(むしょうとう)が設置されている。今やシンボル的な存在だ。 霧ヶ峰は、諏訪湖の北東にあって、車山を中心とする標高1500mから1900mの高原。東西10km×南北15kmに広がる霧の草原。1年の半分以上で霧が発生し、多い年で300日もあるという。塩尻峠を下降した西寄りの風が、諏訪平地から霧ヶ峰西斜面を駈け上がることで霧や雲が発生するのだ。 ビーナスライン・霧の駅から15分歩くと霧鐘塔の丘に至る。途中、真新しい電気柵が設置されている。シカの立ち入りを防止する措置だという。この辺りを自由に歩けた時代は大昔の話だ。忘れ路の丘が、「電気柵の丘」にならないことを願う。 報道によるとニホンジカが全国的に増えて、農作物などへの被害が深刻化している。2011年度の生息数は260万頭。10年前の2.6倍に増えたという。温暖化がシカの繁殖を助長し、高齢化がハンター減少を招く。しばらくはニホンジカの天国が続きそうだ。環境省がその対策に乗り出しそうだ。写真-1 忘れ路の丘からビーナスラインと車山方向を眺める。写真-2 草原を行く若者たち。ニッコウキスゲの咲く時期だが、僅か『さく』のみ。写真-3 霧鐘塔は、霧ヶ峰忘れ路の丘のシンボル的な散在。 写真-4 霧の駅に向かって張られた電気柵。シカの生息数が減るまでの対策。
2013年08月09日
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長野県のほぼ中央に位置する美ヶ原。標高2,000mの高原で、都会の気温より12℃は低い。ビーナスラインが開通した翌年頃に、一度訪れて以来だ。約30年が経ち、美術公園、散策路・トレッキングコースなどがすっかり整備され、歩き易くなっている。 美ヶ原高原と山は、中央地溝帯(フォッサマグナ)の西縁にあたる。火山の浸食地形とされ、土と風と雪のために大きな樹木は育たない。昔から牧草地として知られていた。この高原の頂は、標高2,034mの王ヶ頭(おうがとう)で、御嶽山を拝みことができる。 王ヶ頭にはカンザシのように電波塔が林立している。電波などの中継に最適なのだろう。この簪に雲が懸かると雨が降ると言われている。黒い雲が湧いてきた。牛伏山展望台で景色を楽しむことなく、直ぐに下山することになった。駐車場に着くころには、大粒の雨が落ちてきた。 牛伏山にケルン状に石が積まれた傍にレリーフがある。「桜庭留三郎翁」の功績を称える碑だ。彼は日本にスキーを広めた人。樺太で生まれて、北海道・東北・新潟など雪の降る山地を訪ねてはスキーを教えたという。しかし、近年周辺スキー場の廃止が続いているようだ。替わって、大雪原を歩くクロスカントリースキーが人気上昇中とか・・。写真-1 美ヶ原に吹く風がみえる。牛伏山へ通じる木道から見た風景。写真-2 標高2,000mの大草原。冬の真白い大雪原にも想いを馳せた。写真-3 天気が良いと360°のパノラマと美しい山並みが期待できる。写真-4 牛伏山展望台から王ヶ頭を見る。黒い雲が押し寄せて来た。写真-5 牛伏山展望台の桜庭留三郎翁のレリーフ。
2013年08月07日
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戸隠神社の中核に位置し、三本杉の巨木や龍の天井絵がある中社(ちゅうしゃ)。境内の参道を登った所には、樹齢700年と言われる神木もある。中社社殿は、昭和30年に再建された重厚な木造の唐破風入母造り。極寒期の積雪を乗り越えてきた大きな屋根は、人を抱え込む風格がある。 戸隠中社の創建は寛治元年(1087年)とされる。御祭神は天八意思兼命(略して、おもいかね様)。天の岩戸を開けるアイデアを考えた神様だ。多くの人の考えを兼ね備えているという意味で、知恵の神様として信仰されている。 中社の三本杉は、一辺が約70m正三角形状に配置されている。中社鳥居の階段を上った処の杉を頂点に、左右に杉の巨木が立っているのだ。推定樹齢が800年とされ、神木杉より年寄りである。三本杉の中で最も大きな杉は、径5m、高さ38mで、鳥居の右手に立つ。 中社社殿内の天井には、龍の絵が描かれている。江戸末期・狩野派の河鍋暁斎によるもで、近年(平成15年)に復元されたもの。1942年の火災で神社もろとも消失した幻の龍が生き返った。暁斎の龍は、神社の絵馬に採用されている。写真-1 戸隠神社・中社を石段天端から見る。積雪に負けない風格ある建物が待っている。写真-2 中社社殿の向かいに聳える杉の神木。推定樹齢700年。写真-3 中社境内へ登る男坂と女坂の様子。写真-4 中社の木製大鳥居。鳥居の階段を上った所に三本杉の一本目がある。 写真-5 暁斎の龍が描かれている絵馬。
2013年08月03日
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新潟-長野の県境の町・津南町にエメラルド色に染まる池がある。龍が眠るという竜ヶ窪である。信濃(千曲)川沿いに走るJR飯山線越後田中駅から南4Kmの丘陵地にその池がある。更に、この池から南18 Kmに苗場山(スキー場で有名)がある。 新潟と長野の境界線が通る苗場山(標高2,145m)などの伏流水が、湧き出る場所のひとつが竜ヶ窪。信濃川の河岸段丘には、多くの湧水池がある。その中で竜ヶ窪は、昔から地域の人々に崇められてきた。神社もあり、人手が入り整備されて来た。おかげでこの泉の周りを散策できる。 日当り43,000トンの湧水量を誇る竜ヶ窪の水は、環境省名水百選に選定されている。水温が7から8度、PH6.7の軟水で、ミネラルウォーターとして流通販売している。池は、長さ220m×水深1.5mで、約2万トンの水を貯留している。日湧水量の半日分に相当する。 竜ヶ窪には龍にまつわる伝説が残っている。4つの小話を紹介する看板が設置している。龍神伝説は、日本各地にあるが、昨年訪れた江ノ島の龍宮(わだつみのみや)にも、天女と五頭龍の伝説があった。洪水・渇水・津波に苦しんできた人々の願望が伝説を創るのだろう・・。写真-1 エメラルドグリーンに輝く竜ヶ窪。蒼い龍が棲んでいるような神秘的な池。写真-2 池の周囲はブナなどの森に囲まれている。約2万m3の水を貯めている。写真-3 竜ヶ窪からは、毎分30トンの湧水が流れ出る。写真-4 名水を使用したお米は美味しいのだろうな・・。写真-5 龍の口から名水を頂くことができる。
2013年07月30日
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若い橅(ブナ)の立ち姿が美しい林が新潟県十日町市にある。松之口丘陵に広がる約3ヘクタールの美人林(びじんばやし)である。若いと言っても、樹齢80年だ。木々の間隔が適当にあるので、風通しが良く、日光の差し込みもある。 昭和の初期、このブナ林は木炭にするために伐採され、一度は裸山になった。しかし芽が出て木が育ち、再生の森になりつつある。年間10万人が訪れ、森林浴を楽しむ。暑い日この美人林に入ると気温2度が下がると言われている。暑い日の昼下がりに、うたた寝をするには絶好の場所だ。 十日町市は豪雪地帯で、2月の積雪は3mになることがある。ブナの木は、しなやかなで降雪に強い落葉広葉樹である。落ち葉と木の実は、森の生き物を育む。特に鳥の種類は多く、一年を通して小鳥の鳴き声は絶えないという。 新緑の時期、橅林はマイナスイオンで満たされる。美人林の名前に魅かれて、遠方からの女性陣が多い。若返りたいとの願望は、老い達の男女に関係ない。早春頃や落ち葉の季節に訪れたいところ。懐かしき里山の風景でもある・・。写真-1 池の周りに育った若いブナ林。森の手入れはボランティアが行う。写真-2 身体と気持ちが癒される散策路。写真-3 誰が名付けたのか美人林(びじんばやし)。懐かしい里山の風景。写真-4 美人林と周辺を紹介する看板。留鳥はオシドリ、ヤマガラ、アカゲラなど・・
2013年07月28日
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長野県松代町は、かつて真田10万石の城下町。千曲川の右岸に接し、背面は山に囲まれている。松代町の中心部に松代城址公園があり、幾つかの門、橋、土塁が復元されている。松代藩は佐久間象山を輩出している。NHKドラマ「八重の桜」に登場したので、観光キャンペーンを展開中。 松代城の前身は海津城である。海津城は、山本勘助が縄張りして1560年頃に完成した。甲州流築城の模範となる名城だった。越後上杉軍の進出を防ぎ、北信濃を支配する上での重要拠点。初代城主は高坂(こうさか)弾正忠昌信と言われている。 武田家滅亡のあとの海津城は、織田方・秀吉方の城となり「待城」、「松城」と改名されてゆく。関ヶ原の戦後、1622年に真田信之が上田から移封して松代城と呼ぶようになる。その後幕末まで真田10代、約250年間続くも、明治5年に廃城となる。 暑い関東を離れ、信州へミニ旅行した。戸隠から霧ヶ峰を巡るバスツアーです。信州編のブログ日記を連載すること予定。しばらくお付き合いを願います・・。写真-1 復元された本丸の虎口と太鼓橋。平成17年頃に復元工事を終了。写真-2 千曲川に面する「北不明門(きたあかずのもん)」を見る。又は水乃手御門ともいう。写真-3 本丸の水堀。改修し石垣と松の木が美しい。写真-4 松代大橋より松代町を望む。手前は千曲川の河川敷。写真-5 松代(海津)城の鳥瞰図。手前から右側が千曲川。
2013年07月26日
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信濃川は日本一長い川(367km)。新潟県内での長さは153km。長野県内では千曲川と呼び、その長さは214kmである。日本の中央部を北上し日本海に注ぐ。山地を削り、肥沃な土地を創った大河だ。この信濃川の中間地点に上信越自動車道の長野インターがある。川中島平の三角地域の南に位置する。 長野ICの北を流れる千曲川に松代大橋が架っている。松代大橋は、上流200mにあった川中島橋を架け替えたものだ。平成4年に開通した長さ568m(幅23m)の堂々たる橋。この橋からは信濃山地の山並みが一望できる。同時に戦国時代の川中島の戦いをイメージ出来る場所でもある。 川中島は千曲川と犀川が合流する扇状地。昔この地で、武田軍と上杉軍が五度に渡って戦ったところ。その中でも第4次川中島の合戦は、大将同士が激突する大規模な野戦。八幡原の戦いとも言われ、死者が7000人(武田4千人+上杉3千人)とも言われる。相方にとって、戦力の消耗が大きかった戦い。 戦いの痛手から立ち直るまでに時間を要し、織田信長に上洛の機会を与えた。この戦いの前年永禄3年(1560年)には今川義元が桶狭間に散っている。松代大橋からほぼ北へ75kmに謙信が居城とした春日山がある。信玄は上越を支配して日本海の幸と水軍を手中に出来ずに京都へ向かった・・。写真-1 松代大橋から千曲川下流を望む。北へ1.3km行くと「八幡原史跡公園」がある。写真-2 長さ568mの松代大橋を左岸下流から望む。橋向こうに松代城址公園がある。写真-3 八幡原史跡公園の一角にある信玄と謙信の川中島戦いを示す碑。写真-4 第4次川中島合戦の陣立図。山本勘助献策の「キツツキの戦法」があったとされる。写真-5 真田の六文銭と兜の親柱が建つ松代大橋。後方3.5kmに妻女山がある。
2013年07月24日
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恵庭岳を見渡す丘に、白色の大仏が鎮座している。大仏の高さ13.5m×総重量1,500トンの石像大仏である。真駒内清野霊園を利用する人々を加護し、御霊を永代に供養するシンボルだという。2006年に建造されたばかり。 鎌倉大仏をモデルとして造られているので、大仏の大きさ、顔の表情がそっくりである。異なるのは鎌倉大仏が青銅色で、数百年の時間を身にまとっていることだろうか。清野大仏は、北海道の冬の厳しさを幾度となく体験するだろう。1月と2月の真駒内は雪原だ・・。 清野の「御霊供養大仏」は、白御影石の原石4,000トンを加工・整形したという。大仏本体は51パーツ、台座が12パーツから成る。石材種別記号はG614とされ、中国福建省産で「新天光」とも呼ばれる。目の細かな花崗岩の一種である。 三十三モアイ地蔵は、この大仏と恵庭岳を見つめるように配置されている。恵庭岳は、千歳嶽とも呼ばれ標高1320mの活火山である。この活火山の背面にカルデラ形状の支笏湖がある。1972年冬季オリンピックの滑降競技は、この山の西側斜面で繰り広げられた。金メダルはスイス勢だった。写真-1 真駒内清野の丘に鎮座する高さ13.5m×1500トンの石像大仏。写真-2 白御影石で造られた御霊供養大仏。鎌倉大仏がモデルとされる。写真-3 大仏様から見たストーンヘンジと三十三モアイ地蔵群。写真-4 お彼岸に各宗派合同の読経が執り行われる八角堂。ミニチアの金閣寺も置かれている。 写真-5 真駒内駅前に建つ冬季オリンピック開催記念碑。
2013年07月11日
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墓参のために初めて真駒内滝野霊園を訪れた。その広さに驚く。札幌ドーム球場の32個分の敷地面積を有するのだ。園内にはバス停留所が設けられ、無料バスが巡回している。滝野霊園は、地下鉄南北線の終点・真駒内駅が更に10km南の郊外に位置する。 霊園の正門を入るとまもなく、33体のモアイ像が出迎えてくれる。「三十三モアイ地蔵」と命名されている。しかし、モアイ像の総数は45体を数える。ストーンヘンジに向き合う一隊が23体。その東側に(10+1)体、更に正門の脇に、モアイの一家のような11体がある。 モアイ石像と云えば、イースター島のラパ・ヌイ国立公園の15体である。チリ共和国の世界文化遺産(1995年)だ。この不思議な巨石像は、頭が長く、太い眉、深くえぐられた目などが特徴。その表情は、悲しみに耐えているかのように見えるという。 モアイ像の視線の先には、世界七不思議のひとつストーンヘンジのレプリカがある。S・ヘイジは英国の世界文化遺産(1986年)であり、神官の神殿や古代の天文台、豪族の墓とも云われている。今なお謎多き巨石群。滝野ストーンヘンジは夏至の頃、正面から太陽が昇るように配置されている。写真-1 南の方角を向いている23体のモアイ地蔵群。大きいモアイは高さ9.5m×重さ120t。写真-2 10体のモアイ地蔵と1体の先住民と思われる石像。写真-3 正門脇の11体のモアイ像。赤いブカを頭に載せている石像もいた。写真-4 清野・ストーンヘンジと恵庭岳(標高1320m)望む。写真-5 ストーンヘンジの内部よりモアイ像を見る。
2013年07月07日
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小樽のレトロな港町並みを、朝・夕に散歩した。この時期、寒くなく・暑くない快適な季節だ。市内には市指定の歴史的建造物が77件登録されている。このうち小樽駅と運河の周辺に約半分の36件が集中している。港町なので当然なのだろう。 小樽運河・浅草橋から山の手(小樽商大)へ坂道が続く。そのうち色内1丁目を通過する道をかつて「日銀通り」と呼んでいた。明治45年(1912年)この一角に、日本銀行小樽支店が重厚な姿をみせると、本州の主要銀行19行が次々と進出して来た。北のウォール街・北の商都と呼ばれた所以だ。 観光客を最初に迎えるのはJR小樽駅。最近修復工事を終えたばかり。駅舎窓のランプ群と「むかい鐘」が出迎えてくれる。開業から110年が過ぎた古参の駅だ。上野駅に良く似ている。国の有形文化財である。観光客はバスツアーが多い。駅に立ち寄らないのは残念だ・・。 運河の北側には、旧日本郵船支店や旧渋澤倉庫が保存されている。明治28年生まれの木造石造1階建ての旧渋澤倉庫は、いつの間にかライブハウスとなっていた。市指定の建築物は、多様に年々進化しているようだ。しかし山・坂・丘の住居建物に関して、もう少し景観上の配慮があればなあ・・と思う。写真-1 小樽駅と天狗山を望む。上野駅に似ている。明治36年開業当時の駅名は稲穂駅だった。写真-2 小樽駅正面玄関の「むかい鐘」。上り列車と下り列車で鳴らし方に違いがあった。写真-3 坂道に建つ「旧日本銀行支店」。東京駅を設計した辰野金吾氏による設計。5つのドームを有する。写真-4 明治45年に建てられた「旧日本郵船株小樽支店」。国の重要文化財。写真-5 北運河に建つ「旧渋澤倉庫」。明治28年に造られた石造り倉庫群。
2013年07月01日
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小樽港には六つの埠頭がある。往年の活況は失せたが、北の港町を代表する施設群だ。小樽港は三方(北・西・南)を山に囲まれ、静穏な天然の良港。北東に向かって海が開けているので、夏は海から陽が昇る。北の朝は早い。彼方の太陽に向かって、船出して行く漁師を想像する。 最も北寄り(手宮側)に突き出ているのが色内埠頭。現在この埠頭は、一部公園に整備されているが、その昔この辺りが開拓の船着場であった。明治6年(1873年)に石造りの埠頭が築造された。その後順次、大型の埠頭と岸壁が造られた。延長4kmに及ぶ防波堤の完成した意義は大きかった。 16年前、港がフィーバーになった。最も南寄りの勝納埠頭に、米軍空母「インディペンデンス」が接岸したのだ。当時小生は西日本で勤務していたので縁がなかった。小樽市民の2倍にあたる30万人が押し寄せたという。賛否両論がある中での寄港だった。いまは遠い出来事のようだ・・。 第三埠頭には古い倉庫がひっそり並ぶ。運河沿いの倉庫のように活用・保存されると良いのだが・・。六つの埠頭には釣りが出来るようにそれぞれ釣場が確保されている。小学生の頃、朝の第三埠頭は鯖釣りの聖地。多くの釣人が群がり、場所を確保することが大変だったことを想い出した。写真-1 小樽港の朝。防波堤内の海面半分に陽がさす朝景色。午前4時20分頃。写真-2 色内埠頭に停泊している巡視船・新「ほろべつ」。古い岸壁に新型船の組み合せ。写真-3 第三埠頭から第二埠頭を眺める。両埠頭に計17基の給水栓がある。時間100tを給水できるという。写真-4 第三埠頭の西側にひっそり佇む倉庫。市の管理となっているようだ。写真-5 色内埠頭公園に咲くハマカンザシ。
2013年06月30日
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小樽運河の浅草橋から六月の大きな月を眺めた。夕食を早めにとり、カメラを片手に運河と埠頭を散歩しながら望月の昇るのを待った。西の空は雲が少し広がったが、東の空は雲が消えて月見空に・・。近くに月見橋もある。しかし運河を照らす月がよい。 小樽運河は、海岸の沖合を埋め立てた人工水路。現在の運河全長は1,140mで、幅が20mから40mである。道道臨海線に沿って、南北方向に緩やかな曲線を描いている。大正12年(1923年)完成当時の運河規模は、長さ1,320m×幅40m。運河沿いには多くの倉庫類が保存されている。 小樽が輝いたのは大正末期から昭和11年頃まで。未開の北海道の玄間口に投資すべく財閥等が競って石造りの倉庫を建てた。富の象徴でもあった。政府公認の石炭積み出し港と相まって、活況を呈した時期だ。人口も20万人を超えた。現在の小樽市の人口は約13万人である。 2013年6月の満月は、「スーパームーン」である。1年で月が地球に最も近づく時期。ひと際お月さまが大きく見えるのだ。最も小さい満月より面積で14%程度大きく見えるという。来年は8月11日がスーパームーンになるという。また大きな望月に逢えるよう祈った。写真-1 小樽運河の夕陽。浅草橋より中央橋方面を望む。[6月23日撮影]写真-2 63基のガス灯がともる。散歩する人が増える時刻だ。写真-3 運河・浅草橋の後方に望月が昇って来た。写真-4 小樽運河に映る月。中央橋から浅草橋方面を望む。
2013年06月28日
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しばらく墓参のために、小樽・札幌へ帰郷した。親族が眠る小樽祝津霊園、昨年無くなった知人が眠る真駒内霊園を訪れた。関東に30年以上住んでいるが、古里は小樽だ。小生の寿稜は利根川以東の牛久沼にある。年一回の墓参は欠かせない。飛行機代の事もあるので、7月と8月は避けている。 祝津は市内から北へ約5kmにあり、ニセコ積丹国定公園の東端にあたる。「祝津」とは、アイヌ語で大きな断崖を意味する。日本海に向かって断崖が帯状に連続する場所だ。祝津パノラマ展望台からは、西のオタモイ海岸から東側の小樽港方面を一望できる。小樽の夕日絶景ポイントのひとつ。 祝津の北端・高島岬に立つ灯台は日和山燈台。1883年に設置され、道内で2番目に初点灯された燈台だという。燈台の近くには小樽の名所「ニシン御殿」が並ぶ。かつて石狩湾にニシンが群来(くき)した際、最初に観測できる位置にあったのが祝津と云われている。 墓参の後、旧青山別邸に近接する小樽貴賓館のニシン料理をいただく。青山家は祝津の網元で、ニシン漁で巨万の富を築いた伝説の家。その財により、一級品の建築資材を北前船で運んで豪邸を造った。屋敷内に豪華な美術品を収集したので、「北の美術豪邸」と呼ばれている。拝観料は千円。写真-1 祝津パノラマ展望台から西側の海岸を望む。夕陽が美しい場所のひとつ。写真-2 祝津の北端に立つ日和山燈台。右側にニシン御殿、手前に水族館が見える。写真-3 祝津の網元・青山家の旧別邸。北の美術豪邸と呼ばれた。写真-4 観光に訪れた人々をもてなす貴賓館。食事とお土産と絵画が展示。写真-5 人気のランチ「にしんお重」をいただく。
2013年06月26日
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河口湖中央部の南岸に溶岩でできた小さな突端がある。地元では宮ノ崎と呼ばれ、沖の鵜の島に伸びているようにみえる。この場所からは「シッコゴ公園」越しに大きな富士山を仰ぎみることができる。噴火の際に流れ出した溶岩が創りだした景観である。 宮ノ崎の途中に遊戯用プール跡があり、ここが「河口湖遊園」だった痕跡を残している。この廃園の西側は入江となっており、「精進場」と言うらしい。標柱があり、それによると日本武命が御東征の帰路に立ち寄り、身のけがれを浄めた場所。このような伝説が河口湖周辺に多い・・。 シッコゴ公園は、毎年4月下旬に勇壮な武田流鏑馬を行う会場でもある。この勝山やぶさめ祭りは、公園の東側に鎮座する富士御室浅間神社の神事である。起源は平安時代、武田氏の祖である新羅三郎義光が行った戦勝祈願だという。シッコゴとはアイヌ語で湿原を意味するという。 御室浅間神社は、富士山世界遺産登録上の構成資産・構成要素の一つとしている。吉田登山口の二合目に建立されていたお宮を昭和49年にここ地へ移設したもの。富士山中で最も早く祀られた神社とされ、国の重要文化財でもある。里宮の随神門を挟んで、南側の林の中に富士を背に鎮座する。写真-1 河口湖宮ノ崎から富士山を望む。対岸は勝山流鏑馬が行われるシッコゴ公園。写真-2 溶岩流でつくられた湖岸。左側に富士五湖最大の島「鵜の島」がある。写真-3 富士山中で最も早く祀られた富士御室浅間神社本殿。富士山を背にしている。写真-4 創建958年とされる御室浅間神社里宮の随神門。
2013年05月22日
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河口湖の北東に、寺川と御坂みち(国道137号線の愛称)とが交差する近くに河口浅間神社がある。地元では、七本杉の神社と言ったほうが通じる。富士山文化遺産登録の構成要素のひとつである。 当神社は貞観6年(864年)の富士山大噴火を鎮めるために、祀ったのが始まりとされる。河口地区は鎌倉街道沿いに位置したため、中世から江戸時代にかけ富士講に関連する御師集落として栄えた。御師とは参拝や宿泊を世話する人間で、現代風でいえばガイド兼ツアーコンダクターのような人達。 七本杉は、神社創建前のもので、樹齢1200年とも言われている。社殿の南側に神木として、しめ縄が結われている。七本とも幹は真っすぐ天に伸びている。それぞれに名前が付けられている。特に対の二本杉は、「父母(かづいろ) 」と命名され、縁結びの御利益があるそうだ。 貞観大噴火は溶岩流が青木ヶ原樹海を襲った。その5年後に「貞観三陸大地震」が起こる。三陸沿岸は、大津波で甚大な被害にあう。当時の津波による堆積物の厚さなどから津波の規模が解明されている。3.11の東日本大震災にまさる大津波が1140年前に起きていた。歴史は繰り返されるのか・・。写真-1 河口浅間神社の随神門。参道にも樹齢800年程度の杉がズラリ並んでいる。 写真-2 河口浅間神社境内。一本目の大杉の名前は「御爾(みしるし)」。樹齢1200年。写真-3 社殿南に6本の巨樹がある。そのうちの二本杉は、「父母(かづいろ)」と命名。写真-4 河口湖に注ぐ寺川付近から富士山を望む。御坂みちは、産屋ヶ崎で大曲する。
2013年05月20日
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ひたち海浜公園の帰路途中に大洗海岸に寄り、遅い昼食を「いそや」にて摂る。大洗海岸と言えば、水の綺麗な海水浴場、または礫浜の「神磯の鳥居」であろうか。特に鹿島灘の荒波をうけ、岩礁に立つ石鳥居が名所である。鳥居から昇る日の出を拝もうと参拝する人が後を絶たないという。 訪れた日は、波も穏やかで神磯の鳥居まで歩くことができた。ここは1150年前に神が降り立ったとされる場所。3.11の津波に呑み込まれることなく佇んでいた。近くの石碑によれば、現在の鳥居は昭和31年に建てたもの。北西250mの高台(大洗山)には、大洗磯前神社が見守っている。 「大己貴命」が降臨した場所が何故この地なのかはさておくとして、昔の日本の最東に位置したのだろう。また中央構造線の東縁にあたり、日本創造と関係しそうだ。海に目を向けると、冷たい親潮と温かい黒潮がぶつかり合う潮目がある。古代の神々が戦うに相応しい条件を有する景勝地である。 大洗港は、震災被害から復旧したように見えた。当時、高さ4mの津波が押し寄せ、役場や市場は水没し、船は防波堤に乗り上げたという。ホテルの宿泊客は、大洗磯前神社境内(EL.28m)へ避難した。避難を呼びかける放送が的確で、津波による被害者が一人もいなかった。(食堂での話)。写真-1 大洗海岸に建つ神磯の鳥居は、初日の出の拝所。鹿島灘から昇る月も絵になる・・。写真-2 大洗の海と空、そして礫浜をみる。磯遊びに人が繰り出している。写真-3 マリンタワーから大洗岬と太平洋(鹿島灘)を展望する。震災から立ち直った港。写真-4 高さ60mのマリンタワー大洗。昭和63年完成。
2013年05月03日
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おとぎの国に足を踏み入れたような感覚だ。色とりどりの花が咲き誇り、その周りに小さな虫たちと大きな人間が集まっている。ここは、国営ひたち海浜公園のたまごの森フラワーガーデンである。220品種、28万本のチューリップが創る絵本の世界に遇える。 たまごの森とは、卵の健やかに成長することを願うと共に、こどもが元気に巣立って行く森をイメージしているのだろう。森には9つのタマゴがある。森とチューリップで連想するのは、アンデルセン童話の親指姫だ。チューリップから生まれた少女が辿る災難と幸福の物語。 このチューリップの森には、小さな風車と美しい川もある。川は清流を思わせるムスカリの帯(おび)だ。こい青紫色の粒がチューリップ部落を縫って流れているようにも見える。ムスカリも球根である。両者の植付けと球根管理には、多大な労力を費やすものと思われる。 ひたち海浜公園の経営状態はどうなのか気になった。平成23年度の費用便益比(B/C)は約2.0と試算されている。B/Cが1.0を上回ると、費用対効果があると言われている。事業の採算性を示すこの手の数値は、割引いて診る必要がある。持続的発展にはシニア層の取り込みも忘れずに・・。写真-1 たまごの森とカラフルな花園。おやゆび姫が跳びでて来そうな雰囲気・・。写真-2 青紫色のムスカリは、森の中を流れる川をイメージしているのだろう。写真-3 ミニ風車も良いが、チューリップの色を検討した後、水車はどうだろうか・・。写真-4 中央ゲートで入園者を先ず迎えるのは、SEAゴーランドとフラワーリング。
2013年05月02日
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そこは青い花と青い空。青い砂漠の砂丘を登っているようだ。広大なひたち海浜公園の中で、一番人気の丘である。3.5haに450万本のネモヒィラの花が空に向かって広がる「みはらしの丘」。海風に小さな花が細波のように揺れる。日常とは異なるワンダーランドである。 ひたち海浜公園は、総面積350 haとTDLの約5倍の広さだという。戦後、米軍の対射爆場(戦中は日本軍の軍事施設)に使用された。昭和48年に米国から返還され、国策として整備した公園。不発弾や土壌汚染等の処理に長期間要した。平成3年に第一期分70 haが開園。その後順次拡充している。 みはらしの丘(EL.58m) は、ひたちなか市で一番標高が高い。造成工事の際に残土を盛り上げたのだろう。比高30mといわれる。日本一高い鳥取砂丘の1/3程度ではあるが、年間の来訪者は鳥取砂丘の観光客数に匹敵する。首都圏に近いので、今後は「青と紅の砂丘」が上回るのではないか・・。 この人工の丘をネモヒィラ(瑠璃唐草)ブルーにしようと言いだしたのは、誰なのだろうか。青い丘らしくなったのは2009年頃と言われ、それまで8年間は失敗と改善の連続だったらしい。2007年頃からコキアを導入して秋色を造りだすのに成功する。5ケ月後また訪れたくなる不思議な丘だ・・写真-1 GW期間にあわせて真っ青になる「みはらしの丘」。日陰は緑木のみ。写真-2 ひたちなか市で一番高い標高からの眺めがある。眼下には太平洋とブルー草原が・・。写真-3 空に向かって歩く。チットも疲れない。足の不自由な人も登れるワンダーランド。写真-4 ネモヒィラの花が風に揺れ、細波のようだ。天地の境目に、はなれ雲がひとつ・・。
2013年05月01日
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中央道・駒ヶ根I.Cより西方1.2kmに光前寺(こうぜんじ)がある。この時期多くの観光客が訪れる。小生もそのひとり。大講堂付近を中心に約70本の枝垂れ桜が植えられている。満開時には桜色に境内が染まるという。宝積山(ほうしゃくざん) 光前寺は、貞観2年(860年)に開基された古刹。 光前寺は、武田家から徳川家の手厚い保護を受け、過去に隆盛をきわめた。樹齢数百年の杉の巨木に囲まれた境内には、十余棟の堂塔が建ち並ぶ。南信州唯一の三重塔は、文化5年(1808年)に再建されたものであるが、 高さ17mの均整のとれた建物だ。 信州で光前寺と言えば、光苔と霊犬早太郎伝説だという。早太郎は不動明王の化身として祀られている。小生の訪れた時期は、光苔と枝垂れ桜については時期早尚であった。本堂の裏山から湧き出す「延命水」を有り難く頂戴した。 東方に開け、道路が一直線に伸びている山裾に位置する光前寺。仁王門と大講堂からは、雄大な南アルプスを望むことができる。仁王門から少し下った田畑に植えられた水仙が見ごろを迎えていた。枝垂れ桜が開花したばかりだったので、水仙畑を散策することになった・・。 写真-1 光前寺仁王門から少し下った水仙畑から南アルプスを望む。[2013-04-11撮影]写真-2 宝積山光前寺の仁王門と枝垂れ桜。仁王門へは東からの直線道路約1kmが参道代り。写真-3 光前寺本堂は寛永4年(1851年)に再建。左手奥に延命水が湧き出ている。写真-4 南信州で唯一の三重塔。塔の五智如来を守護する霊犬早太郎の像。
2013年04月15日
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信州の高遠城址公園へ「相棒」とサクラを見に出かけた。旅行会社のバスツアーなので、当日の天気は運任せだ。日本三大桜名所のサクラを体験する。と同時に戦国時代の名城を散歩することが眼目。 高遠城は、山本勘助が縄張・改修した堅城。別名を兜山城とも呼ぶそうだ。天正10年(1582年)、織田信忠の5万の軍勢に攻め立てられ落城するまで、甲斐武田家の重要軍事拠点だった。当時を偲ぶ建物はほとんど残っていないが、桜の馬場から移植した桜によって名所の公園となった。 タカトウコヒガンザクラは、樹齢130年を超える老木を含め約1500本の樹林となっている。その花形はやや小ぶりで赤みを帯び独特なので、県の天然記念物。平成12年のふるさと切手シリーズに「高遠の桜」がある。お土産の一つとした。 武田氏滅亡後は、徳川の譜代大名の城主が続いた。そのなかに21才の保科正之がいる。NHK大河ドラマ「お江」で少しばかり触れられた。今年の「八重の桜」の舞台ともなっている会津藩とも大いに関連がある。彼が学んだとされる進徳館も、少しばかり脚光を浴びていた。写真-1 本丸と二の丸とを繋ぐ桜雲橋(おううんきょう)。桜観賞ビュースポットの一つ。写真-2 タカトウコヒガンザクラは、長野県の天然記念物。小振りでピンク色が特徴。写真-3 高遠城址公園・本丸跡から「城下」を見渡す。天気が良ければ中央アルプスも望めるのだが・・。 写真-4 勘助曲輪(くるわ)の前面は、大型観光バスの駐車場と化していた。 写真-5 ふるさと切手「高遠の桜」をお土産にする。
2013年04月13日
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東海方面にミニ旅をした。東海道五十三次における11番目の宿場は三島宿。近く三嶋大社があり、昔宿場町として栄えた。三嶋大社は、源頼朝が度々参詣したことより多くの大名も立ち寄った。この三嶋大社から2.5km南西の国道1号線沿いに、忽然と柿田川が現れる。 柿田川は長さ1200mで、日本一短い一級河川である。その水源が柿田川湧水群だ。国の天然記念物でもある。流水は、ほぼ全量が富士山に降る雨と雪解け水。富士山麓の谷間を埋めた三島溶岩流に、水が浸透して湧き出すという。 柿田川湧水群の一日当たりの湧水量は約100万トン。このうち、30万トンを利水に使用。残りの70万トンが狩野川に放流される。湧き水がそのままミネラルウォーターになる清水(水温15.5度、PH6.9)。かつて、豊富な水を求め工場が建ち並んだ。そして工場廃水で川床にヘドロが堆積した。 しかし、昭和55年頃からナショナルトラスト運動(自然環境保全運動のひとつ)と市民活動により、清流を取り戻した。昭和61年には柿田川公園が整備され、湧水を目の当たりで観察できるようになった。暑い夏涼を求め人々が憩う場所。同時に多様な生き物が棲むオアシスとなっている。写真-1 柿田川の源流。第一展望台より湧水を観る。写真-2 数多くの湧水を観察出来るように八つ橋が架けられている。写真-3 柿田川から見る富士。[パンフレットより]。写真-4 広重・「東海道五十三次 三島」。朝霧の三嶋大社前を箱根に向かう旅人。
2013年03月12日
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成田山公園を歩楽利(ぶらり)して、風景に溶け込んでいるものを観る。平成10年に改修した大庭園には、文殊・龍樹・龍智の3つの池と雄飛の滝が東西方向に配列されている。また最下流に位置する龍智の池に作られた浮御堂は、紅葉まつりの際、胡弓などの生演奏をする場所でもある。 文久元年(1861年)に建てられた額堂は、東日本大震災以降堂内への立入が禁止されている。額堂西側の奉納額類の中に、関東大震災の復興に関係したものがある。震災後多くの家屋を作った大工棟梁とその36人のお弟子さんに感謝したものと思われる。 新勝寺大本堂・東翼殿の東側、成田山公園口付近に聖徳太子堂がある。堂内の六面には、大山忠作画伯の日本画(鶯・蓮・牡丹・桜・菊・楓)が描かれている。この八角堂は、ビルの屋上に建てられている。千葉県で最も古いとされる成田山仏教図書館の真上にあるのだ。 成田のお山から、60km彼方の筑波山が見える。北方面は高い建物が少なく、視界が開けている。成田空港発着の飛行機が、頻繁に平和大塔の上空を横切る。西方面は視界が悪いため、富士を望めず。お土産に芋羊羹を手にぶら下げてJR成田駅へ向かった。写真-1 成田山公園内の最下流に位置する龍智の池。手前の石が亀のようにも見える。写真-2 額堂西側の奉納額。関東大震災の復興に尽力した大工棟梁と弟子36人の彫物。写真-3 聖徳太子堂は成田山仏教図書館の屋上に建つ。堂内には美しい日本画が・・。写真-4 成田山から見た筑波山。北北西約60kmの遠景。
2013年01月11日
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成田山新勝寺大本堂から北へ300m離れた岡に、「平和の大塔(だいとう)」がある。入口にあたる総門から比高20mの高台に立っている。周囲を走る鉄道や道路の車窓からよく見える塔である。 大塔は昭和59年(1984年)に、新しく建立された真言密教の象徴する塔。高さ58m、幅35mの堂々たる建物である。外観は二重搭だが、内部は5階建て。2階明王殿には、高さ6mの不動明王が安置されている。青鬼を思わせる形相で睨まれる。 1階霊光殿に香炉式タイムカプセルが埋納され、開基1500年目(2434年)に開封されるという。また同階では新春特別企画展として、(1)成田屋市川団十郎・親子の絆と御霊験、(2)成田山薬師堂本尊の特別奉安、(3)東日本大震災被災地支援報告展、が5月末まで開かれている。 成田山薬師堂は現在修復工事中で、開山当時の旧本堂だったもの。成田山で最も古い建造物(1655年建立)。その本尊・薬師如来像と薬師十二神将を間近に鑑賞できる。6月には修復された薬師堂が見られると思う。盆過ぎに、再訪しようと思う。写真-1 光明堂および平和大塔を出世稲荷から望む。写真-2 平和の大塔を噴水広場より見上げる。高さ58mの堂々たる二重塔。写真-3 二階の光明堂に安置されている高さ6m不動明王像。 写真-4 一階の霊光堂では特別企画展・成田屋市川団十郎の絵画や絵馬が展示。パンフレットより。 写真-5 薬師堂の薬師如来像。
2013年01月09日
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蔵王中央ロープウェイ温泉駅より西へ1km下った場所に樹氷橋がある。蔵王温泉に源を発する酢川に架けられた長さ190mの大橋(昭和50年に完成)。山形市街地と蔵王温泉を結ぶ県道53号線の道路橋で、紅葉の名所としても知られている。 樹氷橋の西傍に「甘酒茶屋跡」の旧跡がある。蔵王温泉(旧名:高湯温泉)を訪ねる旅人の休息処として栄え、俗に「おみきの茶屋」と呼ばれていた。この辺りから見下ろす景色は、大海原の島々を思わせる展望に似ていたという。「沖見の茶屋」が語源らしい。 樹氷橋から東方を眺めると、蔵王温泉スキー場の北側ゲレンデを望むことができる。スキー場北側には、蔵王スカイケーブル(延長1636m)が架設され、中央高原へ約8分で行ける。標高1277mの中央高原駅近くには蔵王大権現堂がある。夏に礼祭が行われる場所だ。 山形市と上山市との市境でもある酢川は、強酸性の温泉が流れ込む川である。酢は酸性に通じる意味がある。そのため魚が棲めない。この橋から約9km流下すると須川に合流する。更に、須川は最上川に合流して酒田市で日本海に注ぐ。大量の雪解け水は、酸性の川を普通の川にする役割もある。写真-1 樹氷橋から上流を望む。蔵王温泉スキー場の北側が右上に見える。写真-2 樹氷橋から下流を望む。三吉山(上山市)のピークらしいものが見える。写真-3 樹氷橋の右岸側に旧跡「甘酒茶屋跡」。秋の紅葉時期は多くの人々が集まる処。写真-4 蔵王スカイケーブル中央高原駅近くの蔵王大権現堂(標高1277m)。権現様は冬眠状態・・。
2013年01月03日
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今年も年の瀬を迎えた。この1年間、大病や事故・災害に遭わずに過ごせた。特に思い出に残るシーンを挙げるとしたら、下記の4つ。来年も「清多夢くらぶ」をよろしくお願い致します。 【東京ゲートブリッジ】 恐竜橋とも呼ばれる東京湾を横断する橋が2月12日に供用開始。この橋の完成記念・スポーツフェスタに参加したこと。[2月5日] 【東京ホタル】 東京スカイツリーの開業を控えたゴールデンウイーク最終日に、隅田川に「いのり星」と題した東京ホタルを流したこと。[5月6日] 【カッパドキア】 トルコ・アナトリア地方にある奇岩の大地-カッパドキアを旅行した。洞窟ホテルのテラスから標高3,916mのエルジエス山を望めたこと。[5月23日] 【アンコールワット】 内戦が静まったカンボジアへ旅して、アンコールワット遺跡群を好天下で観ることが出来た。アプサラを舞うデバター像や四面観音像に逢えたこと。[11月30日]写真-1 東京ゲートブリッジ完成記念のスポーツフェスタに参加。[2月5日]写真-2 隅田川に漂う東京ホタル。[5月6日]写真-3 トルコ旅景色。カッパドキアの洞窟ホテルから見たエルジエス山。[5月23日]写真-4 カンボジア旅景色。聖池に映えるアンコールワット遺跡。[11月30日]
2012年12月29日
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小田急線・片瀬江ノ島駅から南へ1km歩けば江島神社。この神社をさらに上方に登ると江の島の頂部広場に出る。平坦部の一画は、サムエル・コッキング苑である。苑敷地にはローソクを立てたような展望塔(江の島シーキャンドル)がある。 サムエル庭園は、明治中期に英国出身の貿易商が経営した温室植物園跡である。この温室を維持管理するために、江の島頂部に地下空間を造り、貯水槽、ボイラー室、貯炭室などが作られていた。当時、温室植物園としては東洋一の規模を誇っていた。しかし大正12年の関東大震災により壊失した。 江の島展望灯台は、2003年にリニューアルされた。それまでは昭和24年に灯台として造られたが、パラシュート練習台を移設したものだったという。海抜101mの展望フロアと屋上デッキが設置され、湘南海岸と太平洋を一望できる。眼下に弁天橋やヨットハーバーも見える。 江の島ヨットハーバーは、東京オリンピックに造られたもので、東日本最大規模。ヨット泊地面積が29,000m2、水・陸係留数1,300隻とのこと。しかし、ヨットを保有・維持するのは経済面で大変。1ケ月係留すると6万から10万円程度かかる。複数の人数で分担するマイヨットが多いようだ。写真-1 江の島の夕暮れ。島頂部に立つ展望灯台(シーキャンドル)が見える。写真-2 江の島展望灯台から弁天橋・江の島大橋と片瀬海岸を望む。写真-3 サムエル・コッキング苑の温室施設の遺構。140トン地下水槽も造られていた。写真-4 江ノ島ヨットハーバーから出航するヨット群。海に舞う蝶のようだ。
2012年10月29日
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鎌倉は三方を山に囲まれた古都。西・北・東の丘陵に取り囲まれ、南側が開けている。これは、地理風水では吉地と云われている。そして、西方を守護するように鎌倉大仏が露座している。体重121トンの重味である。JR鎌倉駅から西へ1.5kmの地点だ。 大仏様に挨拶して、西へ500m程坂を上ると大仏隧道にぶつかる。このトンネルは、大仏坂切通しに代わる新道として掘られたもの。素掘トンネルからレンガ覆工、コンクリート覆工へと進化してきた。さらに1km南下すると江ノ電・極楽寺駅に通ずる坂道がある。かつての極楽寺切通しである。 切通しは、丘陵を切り開いて人馬を楽に通すこと。但し、地山が土砂ならば、大雨や地震で崩れ易いので、堅固な地質であることが条件となる。鎌倉は、凝灰岩質の軟岩にも囲まれている。この岩石はツルハシなどを使い、切り出すことができる。そのため、多くの切通しや洞窟があるのだろう。 江ノ島電鉄線は、海岸と山と住宅密集地を走るローカル線。しかし、15分間隔の運行なので大変便利。最大4両編成で運行する。住宅のすぐ傍を走る電車を見かけると、切通しを連想してしまう。住宅の連続する壁をすれすれで抜けくる姿が印象的だ。写真-1 鎌倉大仏の周りには人が集まる。750年前に造られた121トンの国宝銅像。写真-2 大仏坂切通しの代替道の大仏隧道。右の遊歩道は、源氏山へのハイキングルート。写真-3 極楽寺切通しの面影を残す極楽寺坂。写真-4 「人家の切通し」を走る江ノ電。長谷駅付近。
2012年10月28日
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相模湾岸・境川の河口にある江の島。周囲4km、標高60mの小さな陸繋島である。新第三紀の凝灰砂岩の上に関東ロームが載っているため、意外と緑豊かな場所だ。昔引き潮の時だけ、歩いて渡ることが許された土地だ。現在、長さ389m人道橋・弁天橋が架かり、いつでも渡ることが出来る。 江の島の北と南では様相が一変する。北側・片瀬海岸に面した斜面には神社仏閣が建ち並ぶ。島の南側は、波の浸食で出来た洞窟と奇岩が点在する。江の島岩屋は、1971年落盤により永らく閉鎖されていたが、平成5年から再開した。奥行152mの第一岩屋は、人が掘った坑道ようだ。 四囲を海蝕崖の囲まれた江の島は、切り立った崖と洞窟の存在で、古来宗教的な修行の地であった。源頼朝の祈願により、弁材天が勧請(かんじょう)され、参詣地へ変化してきた。更に幕末の開港により、外国人の往来が多くなり、近代的な観光地へ発展した。 関東大震災によって島全体が2m程隆起した。震災前は岩屋洞窟内に海水が流れ込んでいたという。暑い夏は涼を求め、人が集まったことだろう。江の島海岸は「日本百景」。1927年大手新聞社等が主催・選定した日本を代表する100の景勝地の一つだ。各地の景勝地を巡りたいものだ・・。写真-1 江の島南岸の切り立った岩屋地区。天候次第では富士山が望める。写真-2 奇岩のある岩棚では、釣り人をよく見かける。沖に見えるのは三浦半島だろうか。写真-3 富士に通ずる伝説がある第一岩屋。洞窟内には貴重な石造物が並ぶ。写真-4 広重・諸国六十余州旅景色「相模江乃嶋 岩屋ノ口」。
2012年10月26日
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