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草津国際スキー場の北麓下に、美しい「穴地獄」がある。草津白根山の火山活動で出来たすり鉢状の穴のひとつ。この穴地獄は、日本でも珍しくて、貴重なチャツボミゴケの群生地だ。強酸性環境で育ち、岩場を鮮やかなグリーン色に染める。 チャツボミゴケ公園は中之条町六合地区にあり、長野原草津口駅から車で約40分の距離。途中、白根山から流れ出す強酸性水を中和する品木ダムの脇を通る。草津温泉周辺は、酸性の川が多い。 かつてこの地は、群馬鉄山と呼ばれ、国内第2位の生産量を誇る露天堀鉱山だった。昭和41年の閉山までの22年間で、約300万トンの鉄鉱石を産出した。長野原草津口-太子(おおし)駅間の鉱石運搬線(5.8km)が廃止されて久しい。JR吾妻線を経て製鉄所へ運搬した歴史があった。 「茶蕾苔」公園は、つい3年前に一般公開された。それ以前は、日本鋼管(現JFE)の保養所だった。2012年中之条町に移譲される。マイクロバスに乗り換えて入園する。穴地獄の専用駐車場から10分程歩くと、鉱泉とコケが作り出すビロードの世界が待っていた・・。写真-1 チャツボミゴケ公園の穴地獄。鮮緑色の耐酸性のコケが成長する「地獄」。写真-2 流れ出す鉱泉と成長する「茶蕾苔」。写真-3 耐酸性に進化したカモが・・。天敵となる動物がいないので地獄が天国に。写真-4 湯滝を望む。現在も鉄鉱石が生産されている場所。写真-5 緑の「ビロード」に包まれる岩場。
2016年08月17日
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湯田中温泉街を見下ろす丘に平和観音像が立っている。正式名は、世界平和聖観音菩薩像という。湯田中温泉のシンボル的存在だ。平和の丘公園上の平和観音がある地名は、山ノ内大字平穏(ひらお)。菩薩の台座に上るには、大悲殿から入場する。入場料200円。 当地の観音像の大きさは、高さ25m×重さ25トン。ブロンズ像としては、東洋一を誇る高さだという。戦前は、護国観音と呼ばれ百尺(33m)だったが、戦中の金属供出令で取り壊された。戦後、平和を願う想いが募り、再建したもの。大悲殿では広島から分火した原爆の火が灯り続けている。 平和観音から山手に40mほど登ると八角堂がある。中に弥勒石仏が安置してある。平安後期の作で、厄病除け、および火難・地震を鎮める神だとか。近年は、湯田中の薬湯が人々の病を治すために、鎮護する仏として祀られている。 温泉街の湯宮神社から平和観音に通じる一茶の散歩道がある。高台の松林沿いに歩く約30分の散歩道だ。途中に一茶堂が佇む。小林一茶の故郷は信濃町柏原。晩年、湯田中温泉に通う。一茶堂の脇に「松の蝉 どこ迄鳴く 昼になる」の句碑があった。暑い盛りに詠んだのだろう。写真-1 弥勒山大悲殿と世界平和観音像。写真-2 平穏(ひらお)の丘から湯田中温泉を望む。写真-3 聖観音菩薩像のシルエットと湧き上がる雲。写真-4 八角堂の弥勒石仏。ふっくらとした顔立ち。写真-5 湯田中温泉に縁があった小林一茶を偲ぶお堂。
2016年08月15日
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北信州にレトロな鉄道駅舎が保存されていた。長野電鉄・長野線の終点にあたる湯田中駅旧駅舎である。昭和2年に開業した山小屋風の木造の駅舎。志賀高原を意識したデザインだという。 昭和の国鉄時代には東京上野駅から湯田中駅まで急行列車「志賀」が走っていた。昭和57年に直通運転廃止となる。 自動車の普及と道路網の整備により、鉄道利用者は減少の一途をたどる。現在、一日平均乗車人員は540名程度。 2006年に線路が改良され、スイッチバック方式の入線は見物出来なくなった。旧駅舎は、昭和初期の佇まいを残すものとして、登録有形文化財(文化庁)に登録されている。「楓の館」として文化ホールなどに利用。隣に温泉施設「楓の湯」が併設されている。 湯田中温泉に初めて泊まった。この温泉は、夜間瀬川(よませがわ)の河岸段丘に、旅館が10数軒並んでいる。長命長寿の湯、または長健康の霊験あらたかな湯とされる。小生は、夕飯前、就寝前、朝風呂と3回湯に浸らせてもらった。写真-1 湯田中栄橋から夜間瀬川上流を望む。写真-2 長野電鉄・湯田中駅旧駅と楓の湯。写真-3 旧駅舎は楓の館として、有形文化財に登録。写真-4 長野線33kmの終着駅の湯田中駅構内。写真-5 湯田中駅玄関前のスキーベンチ。
2016年08月14日
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思えば遠くに来たものだ・・。中津川沿いに延びる秋山郷の最奥地の切明(きりあけ)温泉まで・・。津南町から乗り継いで来た国道405号線の実質終点である。道路はこの後、林道に繋がり群馬県の野反湖で再び国道405号となる。 秋山郷の終着道の駅を思わせる建物・雄川閣が中津川の左岸に軒を連ねる。雄川閣(ゆうせんかく)は、切明温泉の湯元であり、保養センターでもある。斜面の下には、混浴の露天風呂がある。日帰り入浴500円。40台の駐車スペースと公衆トイレがあるので安心して訪れることができる。 信州三大秘境だけあって、河原を掘ると温泉が湧き出す。自分だけの露天風呂が無料で楽しめる秘境だ。但し、夏休み期間、多くの家族ずれで賑わう。キャンプ、川遊び、そして河原の風呂。その期間、切明は「秘境」感が遠のく・・。 スコップで河床を掘ると、温度50度を超える温泉がブクブクと湧き出る「手掘り温泉」。東京電力の切明吊り橋を渡り、200m程川沿いを下ると露天風呂の「穴場」がある。但し、直上流に水力発電所があるので、ダムの放流に警戒して入浴しなければならない。写真-1 秋山郷最奥の中津川に湧き出す「切明温泉」。写真-2 切明温泉湯元の雄川閣とその駐車場。写真-3 雄川閣の崖下に、露天風呂の脱衣所が見える。写真-4 手掘りの河原の湯へは、東京電力の切明吊り橋を渡る。写真-5 天然手掘り温泉への案内看板。
2016年08月12日
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秋山郷のよさの里から東側に10分ほど歩くと天池(あまいけ)に出逢う。白樺などに囲まれた静かな自然の池。よく晴れた日にはね鳥甲山(とりかぶとやま)と樹々が水面に写り込む。 天池は、周囲300m余りの小さな水辺。池には日本庭園を思わせる岩や立ち木が佇む。遠景の鳥甲山の荒々しさが天池の静けさを際立たる景観となっている。 天池から見て、鳥甲山は西側にある。従って、朝日を浴びた山並み景色は、より美しく見えるはずだ。のよさの里やキャンプ場に宿泊すれば、絶景に逢えるかもしれない。しかし、簡単に訪れるこが出来ない場所が秋山郷である。 天池に着いて、間もなくして雨が降り出す。栄村の観光パンフレットから、春や秋の天池を想像して一行はバスに乗り、切明経由で宿泊ホテルへ向う。写真-1 秋山郷の天池(あまいけ)。苗場山西麓の小さな池。写真-2 秋山郷景勝名所地と看板が立つ。写真-3 急に雨が降り出す。山の天気は変わりやすい。写真-4 早春の天池。[栄村観光パンフ]写真-5 錦秋の天池。[栄村観光パンフ]
2016年08月11日
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北信州側の秋山郷の中央部に「のよさの里」(上野原温泉)がある。秋山郷にある6つ秘境温泉のひとつ。標高が950mと高く。白樺の林が広がる場所。 のよさの里の中核は、牧之の宿と呼ばれ本家(母屋)。この本家から7つの分家(離れ)へと繋がる通路が特徴だ。豪雪に耐え得る柱と梁、そして屋根を持つ廊下が延べ400mも延びている。分家はコテージ形式で全戸に露天風呂が付いているという。 「牧之(ぼくし)」とは、秋山郷を世に初めて紹介した江戸の文人・鈴木牧之に由来する。また、「のよさ」は、地元で昔が唄い継がれてきた「のよさ節」からだと云う。 のよさの里から西に鳥甲山(とりかぶとやま)が見える。標高2037mの日本二百名山のひとつ。第四紀成層火山。距離にして4km余りで近い。壮大な山並みを見ながらの露天風呂は、格別なものであろう・・。 写真-1 北信州秋山郷・のよさの里、牧之の宿本家。 写真-2 牧之の宿の正面に広がる鳥甲山。 写真-3 本家と各分家を繋ぐ渡り廊下。 写真-4 本家と7つの分家、キャンプ場の案内図。 写真-5 露天風呂と鳥甲山。(観光パンフより)
2016年08月10日
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小赤沢集落から続く苗場山登山道沿いの1合目付近に、諏訪神社が佇む。そこから40mほど川へ下って行くと、大瀬の滝(おぜのたき)がある。苗場山西麓から浸み出す水を集めて落水する滝だ。辺りは、新緑とマイナスイオンに包まれる。 落差20mの滝ではあるが、水流に勢いがある。スキージャンプ台の助走路から飛び出して来るような水の束だ。玄武岩の岩肌には直接触れずに、一気に滝壺に飛び込む。音のある滝景色だ。 大瀬の滝は、北信州の東端(栄村)にある。栄村は、日本有数の豪雪地帯。春先、雪解け水を集めて、流れ落ちる壮観さは、容易に想像できる。この水は、中津川から信濃川を経て、いろんな仕事をして日本海に戻る。田を潤し、電気を作り、清掃水、そして飲料水に。時には洪水を引き起こす。 苗場山(標高2145m)から下山する際には、この滝で疲れを癒す人が多い。湧水があり、顔や手を洗い、更に冷気で身体のストレスを鎮めることができる。 写真-1 北信州栄村にある大瀬(おぜ)の滝。 写真-2 落差20mほどの滝。マイナスイオンに包まれる場所。 写真-3 勢いよく飛び出す水流の束。 写真-4 大瀬の滝壺を覗く。 写真-5 苗場山登山道1合目に佇む諏訪神社。大瀬の滝の入口。
2016年08月08日
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見倉橋吊り橋から中津川を更に上流に3.3km行くと、小さなアーチ橋が架かっている。国道405号を通す前倉橋である。前倉集落は、秋山郷における平家の落人伝説の里のひとつ。所在地は津南町大赤沢、長野県境に位置する。 前倉橋付近には、結東層(約1600万年前の海底火山が噴出)と呼ばれる変質玄武岩を近くで観ることができる。苗場山麓ジオパークを構成する要所でもある。中津川が長い年月をかけて、結東層を削ってゆくさまが見て取れる。 前倉橋は長さ約30mのアーチ橋。右岸側の岩壁を少し切り込んで、アーチリブを固定させている。玄武岩壁が橋の荷重を受けている。左岸側は岩盤が低いため、コンクリート橋台で荷重を支える。大型車両は通行禁止である。橋の手前に9.0トンの重量制限標識がある。 秋、前倉橋付近は、紅葉の絶景ポイントになる。中津川渓谷と赤い橋がお似合いだ。橋の袂には、休憩施設「へいけ茶屋」がある。駐車場、食事そしてトイレがある。秋山郷に入るとトイレがある場所は限られている。添乗員さんの話をよく聞いて、計画的に用をたす必要がある。写真-1 長野県境の中津川渓谷に架かる赤いアーチ橋。写真-2 右岸の岩盤が橋の荷重を支えている。写真-3 左岸側のコンクリート造橋台。写真-4 中津川に削られる玄武岩。写真-5 橋の高欄とへいけ茶屋。
2016年08月07日
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中津川上流に架かる「ゆれる」見倉橋。津南町結東(けっとう)の「じゃまくら公園」から10分ほど谷を下ると木製吊り橋が見えて来る。秋山郷の結東集落と見倉集落を結ぶ生活道路らしい。見倉集落には4戸あるという。雪深い山間地なので、孤立集落になると思う。 板張通路47m(幅1.5m)を吊り下げる両岸の門柱は、丸太3本を継いた鳥居型。渡橋制限は500kg。一度に渡れる人数は大人7名。約40名の団体なので、全員が行って帰るだけで20分近くを要した。 10年前、映画「ゆれる」のロケ地となったことで、観光客が多く立ち寄るようになった。中津渓谷と清流を見ながら渡るので、橋の中心部を歩くことは少ない。そのため、上下左右に大きく揺れる。映画作品では、この橋から一人の女性が落下する。事故なのか、事件なのか、で「ゆれる」物語。 この吊り橋までの昇降は、狭くて険しい。足元も滑りやすい。荷物を持っての上り降りは、現代人には無理だ。冬期間は閉鎖になる。見倉集落までは大回りの道路があるというが・・。豪雪地帯で生きて行くには大変だ。 写真-1 木製支柱の吊り橋「見倉橋」。 写真-2 木の床がよく揺れる橋。 写真-3 制限人数7名を守って渡る。 写真-4 中津川の清流を見ながら往復する。 写真-5 結東集落の民家。積雪が滑り落ちる屋根。
2016年08月06日
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秋山郷を貫いて流れる信濃川水系中津川。その中流左岸に見事な岩屏風が立っている。安山岩質の溶岩が冷え固まったできた柱状節理壁だ。雪解け時期になると、岩柱が音を立てて落ちることから付いた名が「岩落し」。絶壁の渓谷を見玉公園から望むことができる。 秋山郷は、新潟県津南町と長野県栄村にまたがる中津川沿いの地域。平家の落人伝説の残り、東を苗場山、西を鳥甲山に挟まれた山間部である。津南町・見玉公園は、つい2年前にオープンした公園。大五郎池なる小さな池もあり、寛げるジオパークだ。 公園内の看板に「津南グランドキャニオン」と宣伝している。確かに中津川河床から300m上空にそそり立つ渓谷は迫力満点だ。東京タワーの高さに匹敵する。津南石落しは、苗場山麓ジオパークの一画をなす。2014年12月に日本ジオパーク31地域の仲間入りした場所。 この度、秋山郷や北信濃の秘境絶景を巡るツアーに相棒と参加した。テレビ放映された「チャツボミゴケ公園」が目玉。しばらくは、渓谷・池そして苔などを順次アップします。暑い夏場を涼景色で乗り切って行きたいと思います。写真-1 秋山郷・見玉公園と大五郎池。写真-2 中津川渓谷左岸の「石落し」を見玉公園から望む。写真-3 垂直な岩壁と森林が織りなす渓谷美。写真-4 柱状節理の岩屏風。写真-5 公園内のジオパーク案内板。
2016年08月04日
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バスで仙台市から国道48号を北上する。ライトグリーンの橋を渡ると作並温泉である。この温泉街の谷を流れる広瀬川の40mほど上空を湯渡戸橋(ゆわたどばし)が架かっている。隣接する温泉ホテルのロビーから良く見える。気になって少し周辺を散歩した。 作並街道の温泉谷を通す湯渡戸橋は、昭和28年(1953年)に竣工した。橋長97mの上路式トラス橋。63年を経て老朽化している。また幅員が6.2mと少し小さいので、大型がすれ違う際に低速運転を余儀なくされる。作並街道-関山街道と続くルート48号は主要な幹線道路である。 青いトラス橋の下に、朽ちた赤いアーチ橋が廃墟土同然で架かっている。いずれも上路式形式の橋で、見晴らしを優先したのだろう。この旧湯渡戸橋は、昭和12年頃に架けたという。恐らく、大雨や増水で旧道が度々交通止めになっていたため、10年余りで架け替えたと思われる。 ホテル・グリーングリーンの住所は、字作並ニッ橋となっている。想像するに、この新・旧の湯渡戸橋から由来する地名かもしれない・・。三つ目の架橋計画もあるようだ。紅葉の時期、この谷はどのような表情をみせるのか・・。 写真-1 広瀬川に架かる二ツの橋。ホテル内から新旧の湯渡戸橋を観る。 写真-2 作並街道を通す湯渡戸橋。東側に歩道がある。 写真-3 湯渡戸橋から谷を覗くと廃墟の橋が残っている。りたつう士。 写真-4 旧湯渡戸橋の鋼鉄アーチリブを見る。 写真-5 旧橋から新橋を見上げる。
2016年07月06日
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お釜は緑色の水を湛えていた。天童でさくらんぼ狩りした後、蔵王の御釜を拝見する。大型バスに乗って、蔵王エコーランイ-蔵王ハイラインと乗り継ぎ、たちまち山頂に到る。県営の山頂レストハウスからお釜展望台は、歩いて5分。車椅子でも登れる・・。 蔵王は、山形・宮城両県をまたがる火山群。大きく北蔵王と南蔵王に区分される。北蔵王は、お釜が有名。熊野岳(標高1840m)-五色岳-蔵王刈田岳の3峰に抱かれた円形の火口湖。碧色の水面が天候などから変化するので、五色沼とも呼ばれる。 蔵王へはスキーで訪れたことがある。地蔵岳ロープウェイを利用して、樹氷を見ながらの滑降は格別だ。 地蔵岳(標高1736m)と熊野岳とは1200mしか離れていない。しかし、スキー装備ではお釜を見に元気はない。急変する冬山の天気を思うと、スキーに専念した方が得策なのだ。 昨年、発令されていた「蔵王山の火口周辺警報」が解除されている。しかし外輪山と五色岳の登山・トレッキングは自主規制のようだ。山頂レストハウスは、コンクリート造りで噴火の際、避難施設に早変わりする。一昨年、50名以上が亡くった御嶽山噴火を思い出す・・。 写真-1 緑色の水を湛える御釜。山頂レストハウス近くの展望台から見る。 写真-2 お釜の上を雲が流れて行く。 写真-3 刈田岳から御釜を望む。りたつう士。 写真-4 レストハウスと刈田岳を望む。 写真-5 刈田岳頂上の県境を示すメートル指導標と刈田嶺神社。
2016年07月04日
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深い山々に囲まれた作並温泉。広瀬川に沸いた源泉が元で、旅館は河岸段丘上を南北に点在する。その歴史は古く、1200年前から湧き出る古湯だ。さくらんぼ狩りの宿は、ホテルグリーングリーンとなる。場所は、仙台市青葉区作並で、国道48号を通す湯渡戸橋のすぐ近く。 作並街道(国道48号)と広瀬川が交差する相生橋の袂に、ジャンボなこけしが並び歓迎してくれる。親子の作並こけし塔だ。父親の身長7.25m、母親の身長6.25m、子どもの身長2.1mに作られている。宮城県内にはこうしたジャンボなこけしのモニュメントが多く見かける。 県内のこけし種別は5系統あるという。いずれも伝統を引き継ぎもので、作並こけしもその系統の一つ。こけし頭部が各系統(流派)によって異なるようだ。そもそも、こけしは冬の内職から生まれ、入浴客のお土産品として作られたもの。 仙台の奥座敷と言えば秋保温泉が一般的。ひと昔前までは作並温泉が奥座敷であった。仙台市内からアクセス良さや磊々峡に代表される景勝地がある秋保温泉が勝ったようだ・・。参考に秋保温泉郷入口に立つジャンボこけしと比較あれ・・。 写真-1 作並温泉口の歓迎・親子こけし塔。パパこけしの高さは7.25m。 写真-2 こけし塔を過ぎると緑のトンネルが続く。宮城県側を作並街道、山形に入ると関山街道。写真-3 ホテル12階から北の関山方面を望む。 写真-4 ホテルの部屋から見た朝焼け。 写真-5 秋保温泉郷口のペアこけし。
2016年07月03日
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さくらんぼ狩りへ行く途中、多賀城跡に立ち寄る。松尾芭蕉が「壺碑」を訪れたのは6月下旬(旧暦5月8日)。その際、あやめ草をわらじの緒に結んだ場所・・。いまでは、あやめ、花菖蒲、カキツバタなど300万本が咲く「多賀城跡あやめ園」となっている。 多賀城は、奈良平安期に国府が置かれたところ。11世紀の中頃まで約200年間、陸奥国の政治・文化・軍事の中心地であった。平城京跡(奈良)、大宰府跡(福岡)とともに日本三史跡に数えられる。国の特別史跡・重要文化財で、今後も保存・整備され続ける。 多賀城は「たがの柵」とも呼ばれ、約1km四方の築地(外郭)に囲まれていた。その外郭南門近くに歌枕壺碑(多賀城碑)がある。芭蕉の頃は野晒しだったが、現在は覆屋に守られている。「つぼのいしぶみ」とは、名所旧跡にあたる多賀城の歌枕となっている。 壺碑の大きさは、高さ192cm×幅92cm。多賀城の創建や修造時期、京からの距離、国境から距離が刻まれている。硬い砂岩に彫られていた141文字は、1300年の月日を経てもなお判読できるという。「去京一千五百里」とある。535m×1500里=800kmとなるが・・。 写真-1 多賀城跡あやめ園の様子。 写真-2 650品種のあやめ類が咲き誇るという。 写真-3 あやめ園南の丘に多賀城碑(壺碑つぼのいしぶみ)がある。りたつう士。 写真-4 南外郭門の復元計画があるようだ。 写真-5 歌枕の壺碑には141文字が刻まれている。
2016年07月01日
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相棒が「さくらんぼ狩り+温泉」ツアーを申し込んでいた。とりたての「佐藤錦」を一度は食べたいという。小生は、トルコ産、米国産でも構わないのだが・・。でも、腰痛対策には温泉に浸かり、足腰を伸ばすことが良いので一つ返事で参加する。 関山街道(国道48号)沿いの天童市の観光果樹園にお邪魔した。9時半頃に到着したので、お腹が減っていない。園内60分食べ放題といっても・・。山形県におけるさくらんぼは、東根市・天童市・寒河江子が有名だ。さくらんぼ王国山形県は、国内3/4のシェアを占める。世界的にはトルコがトップ。 佐藤錦を代表する最近のさくらんぼは、果実全体が朱色に近い赤色で、甘味が優勢だ。20-30年前のサクランボといえば、酸味が強かった。昔の歌にあったように、「甘くて酸っぱい 黄色いさくらんぼ・・」が多かった。農業技術の進歩と生産者の努力が、甘くて赤いさくらんぼを創りだした。 サクランボづくりは、山形県が特化している。気候・地形などが適しているのだろう。桜桃の木は、水はきの良い土と温暖差がポイントだという。果樹園の地名が「川原子」。川の氾濫がもたらした堆積土が広がる土地。近くを最上川支流の乱川(みだれがわ)が流れていた・・。 写真-1 天童市にある観光果樹園。旬を迎えたサクランボ。 写真-2 60分食べ放題というが・・。脚立も用意されているさくらんぼ狩り。 写真-3 青い空に、ほらほら、赤色さくらんぼ・・。りたつう士。 写真-4 関山街道沿いの観光果樹園。東根市につづくフルーツライン。 写真-5 桜桃の木が広がる。遠くに月山の山並み。
2016年06月30日
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高層ビルの谷間に埋もれてもなお、その存在感を示す札幌時計台。歌によく登場する札幌のシンボルだ。テレビ塔から札幌駅に向かう途中、雨宿りを兼ねて建物に入る。トイレ休憩させてもらう。入場料は大人200円。 時計台は、北海道大学の前身・札幌農学校の演武場として、初代教頭クラーク博士の構想に基づき明治11年(1878年)に建設された。心身を鍛える体育の授業、または入学式・卒業式を執り行う講堂として使われた。 「時計台の鐘」(作詞作曲:高階哲夫)は、札幌市民の心の歌。昭和2年にレコーディングされた名曲。また、「時計台の 下で逢って・・」と始まる石原裕次郎の歌謡曲も大ヒットした。札幌市民のみならず、こころに残る白い時計台と鐘音だ。冬、ライトアップされた姿を見ると記憶が凍み込む。 時計台は現地にある「機械遺産」である。2009年日本機械学会が32番目に認定している。コレクションが多い機械遺産群のなかで、際立つ存在だ。日本最古の塔時計。今も昔ながらの作業で時を打っている。2階には米国ハワード社の実物兄弟時計が展示されている。 写真-1 ハルニレの木に包まれる札幌時計台。 写真-2 旧札幌農学校の演武場。新渡戸稲造など優れた人材を送り出した。 写真-3 1928年製作のハワード社実物の時計。りたつう士。 写真-4 札幌農学校の全景模型。 写真-5 夜の白い時計台。[パンフレットより]
2016年06月28日
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大通公園は、散歩にランチ、各種イベントと札幌市民が憩う場所。北海道勤務時代、良く待ち合わせに使用させてもらった。札幌中心部を東西に延びるグリーンベルト1300mである。 小樽から帰京する際に空き時間を作って、退職した同僚と大通公園で待ち合わせした。あいにくの雨で公園がずぶ濡れになっているので、テレビ塔地下に変更する。地下グルメコートには、喫茶店がある。パンケーキ・コーヒーセット(800円)で、家族や健康の事を確認した。 さっぽろテレビ塔を40年ぶりに昇ることになった。大通公園を地上90mの高さから一望できる。雨天日は特に閑散としている。平日も待ち時間に列が出来ることはないという。札幌駅に高さ173mのJRタワーの展望室が開業しているためか・・。テレビ塔が混雑するは、雪まつり開催時期だという。 千歳空港へ向かう電車の中で食べるオヤツに、名物の「テレビ父さん焼(小倉アン140円)」を購入して、雨の大通公園をあとにした。途中、札幌時計台に外国人観光客が集まっていた。 写真-1 大通公園の花壇と噴水。 写真-2 札幌テレビ塔から大通公園、正面奥に大倉ジャンプ台が見える。 写真-3 道内一高い駅ビル・JRタワーを見る。りたつう士。 写真-4 天空のモイワヤマ。 写真-5 テレビ塔展望室の怖窓(こわそう)。手摺が付いている。
2016年06月27日
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幕末に活躍した軍艦・咸臨丸(620トン)が座礁し、沈没したサラキ岬沖。岬の展望公園には、咸臨丸の栄光と悲劇の14年間をつづるパネルが設置されている。海底に眠っている方向を示す看板もある。 咸臨丸は、1855年オランダで造られた。2年後練習船として長崎海軍伝習所に着く。此処で多くの若者が航海術などを学んだ。日本海軍と近代的な海運が歩みだした。1860年、勝海舟らを乗せた咸臨丸は、太平洋を横断する。日米修好通商条約の批准と海外視察のため。 サラキ(更木)岬の広場に、1/5サイズの咸臨丸モニュメントがある。町内外の人々が、咸臨丸の偉業を後世に伝えようと製作したもの。平成22年に「手づくり郷土賞」なるものを受賞している。オランダ国ゆかりの帆船なので、チューリップが植えてある。 晩年、北海道の開拓団の輸送に駆り出された咸臨丸。1871年箱館から小樽に向かう途中に座礁する。仙台藩白石片倉小十郎家臣団401名が乗船していたという。幸い全員が救出されたのこと。その内の十数名が、札幌市白石区に移住した・・。 サラキ岬から津軽海峡を見る。その後、木古内駅から新幹線で帰京した。今回道南旅景色は終わります。 写真-1 咸臨丸終焉の地を示す碑がある木古内町サラキ岬。 写真-2 オランダ風の公園に整備。 写真-3 咸臨丸のモニュメント(長さ10m、1/5サイズ)。手づくり郷土賞。りたつう士。 写真-4 より具体的に沈没位置を示す看板。 写真-5 咸臨丸最後の航路図。
2016年05月27日
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北海道駒ヶ岳の麓を走る二本の弧状鉄道・函館本線。直径17kmほどの円を描くように鉄道が走る。海沿いを通るルートは、通称・砂原(さわら)支線と呼ばれる。駒ヶ岳の砂原岳に近いためだ。その砂原支線(延長35km)の中間に鹿部駅がある。 鹿部駅舎は、大きな赤い屋根を持つ小さな駅である。雪国らしくトタン屋根で、昭和の佇まいだ。その昔、大沼電鉄(昭和4年開業)時代の終着駅であった。現在は完全無人化駅となっている。しかし、駅周辺や待合室は整然としており、人の手が入っている。 函館方面に向かう電車が鹿部駅に止まるのは、一日に7回ほど。主に中学・高校の生徒が利用している。朝一番の2両編成の電車には、構内踏切を渡り15名程乗車した。一日平均乗車数は、60名程度らしい。七飯駅まで約40分、函館駅まで約1時間の通学時間だ。 冬、渡島山地と駒ヶ岳が冬の北西の風をブロックするため、鹿部町は道内でも温暖な気候だという。別荘や田舎暮嗜好の住宅が多い。この地域に住む中学生・高校生は、朝早く親に駅まで車で送ってもらっている。駐輪する自転車が見当たらない駅風景だった。 写真-1 赤いトタン屋根の鹿部駅。 写真-2 広々した構内と踏切を横断する中・高校生。 写真-3 函館方面上りの通勤・通学電車が来た。りたつう士。 写真-4 鹿部駅待合室の様子。整理整頓・手づくり感たっぷりのお部屋。 写真-5 駒ヶ岳砂原岳の稜線シルエット。
2016年05月26日
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江差沖に浮かぶ小島。カモメが翼を広げたような形をしているからかもめ島。小生にはクジラの尾が海面から出た瞬間の形に思えた。日本海の荒波から北前船を守る天然の防波堤を持つ江差港。江戸期松前藩を繁栄させたのは、この巨大なカモメの存在が大きい。 かもめ島は、姥神町から沖合500m、南北約1kmに伸びる細長い島。島の西側に隔てるものがないので、夕日の名所となっている。標高20mの高台に、灯台と共に「江差追分節記念碑」が建っている。江差の町並みと日本海の白波を見守っている。 かもめ島の南溜まりに、長さ73mの開陽丸が碇を下ろしている。と言っても、実物大に復元されたものだ。開陽丸は、鳥羽・伏見の戦い(1868年)で負けた将軍慶喜を大阪から江戸に運んだのが最初の仕事。その1年後、松前藩江差を砲撃した夜に座礁する。悲運の船。土方が嘆くのも当然である。 開陽丸の近くに不思議な形の岩がある。「奇岩・瓶子(へいし)岩」。神水を海に注ぐとニシンの大群が押し寄せて来たという伝説の瓶が岩となった。近くに平氏ゆかりの厳島神社がある。ニシンで栄えた港町ならではの物語・・。 写真-1 古くから開けた天然の良港・江差港。かもめ島から眺める。 写真-2 かもめ島の展望台に建つ「江差追分節記念碑」。 写真-3 「カモメ島南溜まり」近くに永久碇を下す開陽丸。りたつう士。 写真-4 大砲26門を搭載したとされる開陽丸のリプリカ。 写真-5 神水とニシン大漁を伝える奇岩・瓶子岩。
2016年05月23日
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江戸時代、ニシン漁と森林材によって栄えた江差(えさし)。繁栄ぶりを偲ぶ民家が残る、レトロな町並みを歩いた。メイン通りに電柱や電線が見当たらず、すっかり整備されていた。歴史を活かした事業により、「江差いにしえ街道」(1100m)として生まれ変わった。 いにしえ街道の中心部に「横山家」がある。代々受け継がれてきた鰊御殿で、160年前に建てられたもの。風雪きびしい環境で、よくぞ残っていたものだ。この総ヒノキ造りの文化財建物内で食べる「鰊ソバ」は格別だ。 旧中村住宅から奉行坂を登る途中に、緑色に縁どられた白い洋館がある。江差郷土資料館で、その昔檜山に志郡役所として使われていた建物。江差港に入港する船舶が良く見える高台に建つ。檜山とは、ヒノキアスナロが生育していた「ひのき山」に因む地名だという。 江差郷土資料館の玄関前に、一風変わった松がある。嘆きの松という。旧幕府軍艦・海洋丸が沈没するさまを見て、土方歳三らが涙を流しながら、この松を拳で叩いた。その結果途中から曲がってしまったという。そんなエピソードが伝えられる「いにしえの街」である。 写真-1 平成16年までに整備された「江差いにしえ街道」。 写真-2 旧中村住居等の町並み。 写真-3 横山家を裏(国道)から眺める。りたつう士。 写真-4 奉行坂と旧郡役所(郷土資料館)。 写真-5 旧郡役所入口にある土方歳三「嘆きの松」。
2016年05月21日
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道南の日本海側を走る追分ソーランライン(国道229号)沿いに、断崖や奇岩が多い。とりわけ乙部町の館の岬(たてのさき)は、高さ60m程の断崖(クリフ)が続く。地質時代、海底に堆積した砂岩互層が隆起して海食されたものだ。 乙部町は、箱館戦争において新政府軍・海軍が蝦夷地に上陸した場所。1869年4月6日のこと。それを物語る「官軍上陸の地跡」の碑が建っている。旧幕府軍と交戦したとされる「宮の森公園」の展望台からは、縞状の崖が良く見える。地元では「東洋のグランドキャニオン」と呼ぶようだ。 乙部の地に上陸したのは、山田顕義率いる1500人。直前に購入した米国船「甲鉄」が活躍する。強力な火力で江差を制圧した官軍は、黒田清隆ひきいる陸軍を次々上陸させて、三方(二又口、松前口、江差口)から箱館と五稜郭を目指す。乙部上陸1.5ケ月後に五稜郭は陥落する。 以前訪ねた千葉房総の屏風ヶ浦は、「東洋のドーバー」との呼び名がある。高さ50mの断崖が約10kmに渡り連なる。館の岬の東洋のグランドキャニオンは言い過ぎだ。せめて、館浦の地名から「パレスクリフ」かな・・。または三国志・「赤壁(レッドクリフ)の戦い」から連想して、ホワイトクリフとか・・。 写真-1 宮の森公園展望台から「館の岬」のクリフを望む。 写真-2 館の岬地中を追分ソーランライン(国道229号)が貫く。 写真-3 大型バスが数台停めるスペースがある宮の森公園展望台。りたつう士。 写真-4 宮の森公園の下・滝瀬海岸にある「くぐり岩」。 写真-5 太平洋の荒波が打ち寄せる千葉房総の「屏風ヶ浦」。
2016年05月19日
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函館湾は、弧状形の大きな入り江とも言える。天然の良港である。函館山南端の大鼻岬と湾を隔てた北斗市・葛登支岬(かっとしみさき)間の距離は約9km。葛登支岬に小さな白い灯台が建っている。トラピスト修道院の愛称「灯台の聖母」に由来する灯台である。 明治29年(1896年)フランスから数人の修道士が来日して、津軽海峡を見下ろす丘に修道院を建立した。カトリック教会に属し、日本国内に7つある修道院のひとつ。男子修道院であるため、渡島当別の荒地を開墾し、農耕して、牧畜を盛んにした。道南の酪農発祥地とされる。 修道院へは「道南いさりび鉄道」渡島当別駅から歩くと1.6kmほどの距離。後半の800mは、杉・ポプラの並木道で、みどりのトンネルになる。この道は「ローマへの道」とも名付けられている。石段を登り、振り返ると海峡が見えるのだ。海を介してローマに繋がっている・・。 修道院の建物は、明治41年(1908年)に煉瓦造りゴシック様式で造られた。当日は外周から建物を観るのみ。事前に予約すると建物内の一部を案内してもらえるそうだ。開墾した耕地と函館山の風景は、良かった。添乗員イチ押しの自家製ソフトクリームもベリーグッドであった。 写真-1 杉並木・みどりのトンネルを抜け、石段を登ると「ローマ」に到る。 写真-2 石段を登ると、海峡に通じる道が見える。ローマにも繋がっている海が見える。 写真-3 赤レンガ造りの教会。明治時代の建物。りたつう士。写真-4 修道士が開墾した大地から函館山を望む。 写真-5 修道院の真東2.5kmに立つ葛登支(かっとし)岬灯台。
2016年05月17日
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函館山夜景は雨だった。山頂からの夜景を楽しみにしていたが、雨と風に見舞われた。雨天にも関わらず、展望台には大勢の観光客(外国人が多い)が集まっていた。風があるので、傘は役に立たないが、視界が開ける時もある。折角なので、手撮りで「100万ドルのキラメキ」を納めた。 津軽海峡に突き出す格好で町並みと港を見下ろすことができる函館山。函館山夜景が美しい理由は、「陸地の明 海の暗」とされる。更に、元町地区の教会・洋館のライトアップが華を添える。 函館山は、海峡を見守るのに最適な立地条件を備えている。時の軍政部は、見逃すはずもなく明治-大正-昭和中頃までの間、軍事施設となる。函館要塞とか津軽要塞と呼ばれ、戦後の昭和21年にようやく一般開放された。以来、函館市民の「宝の山」となる・・。 今回の旅行では、もう一つの夜景を案内してもらった。横津岳西山麓に広がる城岱 (しろたい) 牧場から眺める「裏夜景」。七飯岳が近いので、地元では「七つ星の夜景」と呼ぶ。裏夜景は幸い好天に恵まれた。ポストカードをスキャンして日記に添える。想い出の夜景としたい・・。 写真-1 雨と風の函館山夜景。雲の切れ間から撮影(高感度)する。 写真-2 ポストカード函館山夜景「黒いダイヤの輝き」。 写真-3 夕食レストランから雨の函館山を望む。りたつう士。 写真-4 七つ星夜景(函館裏夜景)は、天候に恵まれて三脚撮り。 写真-5 ポストカード「透明な夜の輝き」。七飯町・城岱牧場より。
2016年05月14日
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道道96号から一本の桜道が陣屋跡続く。かの史跡は、「松前藩戸切地(へきりち)陣屋跡」という。春、清川寺の脇を抜けると、800mの桜トンネルが出現する。地元、北斗市では幾つかある「桜回廊」のひとつである。 戸切地陣屋は、箱館港の開港に伴い、1855年防御を強化するために造られた四陵星形・洋式城壁だった。箱館戦争の際、旧幕府軍の進撃に伴い、守備隊が自ら火を放って退却したとされる。五稜郭の1/5程度の城塞で6つ砲座跡がある。 戸切地の桜並木は、「陣屋桜」とも呼ばれていた。明治37年、函館の呉服商が日露戦争終結を記念して植樹したもの。かなり古い桜である。平成13年に史跡公園として整備され、北斗市の花見の名所となっている。 四陵郭の周囲には空堀が残っている。当時は水を引いたようだ。後方に山、手前に戸切地川が流れている。湧き水もあり、砦に相応しい立地条件だ。公園に隣接して清川浄水場がある。上磯地区の3万人へ供給する高台の浄水場。この場所から市街地の町並みと函館山を眺めた。 写真-1 開花したばかりの桜トンネル。夜ライトアップされるようだ。 写真-2 桜並木は戸切地陣屋跡へ続いている。 写真-3 復元された陣屋の大手門。りたつう士。 写真-4 陵郭土手の上から市街地を望む。五稜郭タワーが見えた。 写真-5 史跡公園に隣接する清川浄水場から函館山を望む。
2016年05月13日
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新函館北斗駅から南へ3kmほどの大野川右岸沿いに法亀寺(ほっきじ)がある。北海道新幹線の開業と相まって、この法亀寺のしだれ桜が名所になりつつある。高さ15mの一本桜(イトザクラ)で、推定樹齢300年とある。 金言山法亀寺は、日蓮宗のお寺。建立が1849年とされる。明治維新の約20年前に、日蓮宗の普及のために建てられたのだろう。 300年前と云えば、当時8代将軍・徳川吉宗の時代である。この将軍は、「享保の改革」の一環として、隅田川堤や飛鳥山にサクラを植樹して、庶民に花見を奨励したおひと。そんな昔蝦夷地に、しだれ桜を運んだ風流な人がいたようだ。 北海道には樹齢200年を超える桜樹は珍しい。北海道の開拓が本格的になり、サクラが広まったのは大正時代だと思う。法亀寺のしだれ桜は、古木である。毎年ケアが必要とされる。境内の敷地に余裕があるので、花壇を添えるなどすると古木が際立つのだが・・。 写真-1 法亀寺(ほっきじ)のしだれ桜。推定樹齢が300年とされる。 写真-2 大野川右岸の大野橋近くにある金言山法亀寺。日蓮宗のお寺。 写真-3 根元の土が改良され、人で踏み荒されないにしてある。ライトアップ設備もある。りたつう士。 写真-4 大野川沿いは桜並木が続く。花見会場が見えた。 写真-5 ライトアップされた法亀寺のさくら。観光パンフより。
2016年05月12日
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道南鹿部町から富士山に良く似た羊蹄山が見える。郷土富士として、蝦夷富士と呼ばれる。駒ヶ岳から北方約95kmの彼方にあるが、美しい独立峰なので見つけやすい。アンヌ民のなかでは、「女の山(ピンネシリ)」と呼ばれた山。有史以来、噴火の記録はないが、ランクCの活火山である。 標高1898mの羊蹄山は、「後方羊蹄山(しりべしやま)」とも記載され、日本百名山のひとつ。「しりべし」は、倶知安町がある後志支庁に関係する語意。また、「羊蹄」とは、植物ギシギシの和名で、羊蹄根を乾燥させると生薬になるという。山麓にギッしりと、生えていたのだろか・・。 宿泊ホテル展望室からは、遠く離れた室蘭市と地球岬も見えた。鹿部町出木間崎(できまざき)と地球岬までの直線距離は33kmほど。松前町白神岬と竜飛岬との距離約20kmを思えば、室蘭が遠く感じる。 この時期、噴火湾を挟んで、羊蹄山やニセコ連峰、地球岬が見えるのは稀だという。得した気分になる・・。さらによく見ると、洞爺湖の山に建つザ・ウィンザーホテルらしきものが見えた。8年前洞爺湖サミットを開催した場所。この5月下旬に伊勢志摩サミットが行われる。早くに閉幕することを願う・・。 写真-1 夕食後、ホテルから見た、噴火湾と羊蹄山。 写真-2 室蘭の白鳥大橋と地球岬や後方の日高山脈も見える。 写真-3 中央の低い山(ポロモイ)に建つザ・ウィンザーホテルらしきものが・・。 りたつう士。 写真-4 ゴルフ場の樹間から白い蝦夷富士が顔を出す。 写真-5 宿泊ホテル展望室の窓ガラスに遠望地名の案内絵がある。
2016年05月10日
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高台の公園がさくら色に染まる直前に松前を訪れた。その前に公園下の食堂で、マグロ丼を食べる。北の「さくらの里」とも云われる松前。250種、1万本以上の桜が咲く名所だ。北海道に2箇所ある「日本さくら名所百選」の一つである。江戸後期、福山城(松前城)の城下町として栄えた街。 公園内は、松前桜・三大名木と桜見本園など見どころいっぱいだ。(1)光善寺の「血脈桜(けちみゃくざくら)」、南殿の親木。(2)天神坂門の「夫婦桜」、ソメイヨシノと南殿。(3)龍雲院の「蝦夷霞桜」、遅咲き。(4)桜見本園は110種が植えられて「生きた図鑑」とされる。 渡島半島の南西端に位置する松前。津軽海峡を見下ろす高台に三層の天守が建っている。1854年に築造された日本式城郭である。箱館戦争の初期に、城をめぐって攻防戦があった。海に近い福山城は、旧幕府軍による艦砲射撃をうけてしまう。 松前藩は、海産物と森林資源の交易で繁栄を謳歌した。しかし、箱館戦争の際、400名で守る福山城は、土方歳三率いる700名の旧幕府軍の攻撃により実質1日で落城する。この時まで制海権は、旧幕府軍にあった。開陽丸が座礁すると戦いの流れは、一気に新政府軍側となった。 写真-1 松前城周辺で桜まつりが行われる。 写真-2 光善寺の血脈桜。推定樹齢250年、桜の品種・南殿の親木。 写真-3 天神坂門の夫婦桜。一本の幹からソメイヨシノと南殿が伸びる。 りたつう士。 写真-4 龍雲院の蝦夷霞桜。遅咲きの桜。樹齢約100年。 写真-5 桜の見本園。110種類の桜が植えてある。
2016年05月08日
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五稜郭公園のサクラは満開だった。しかし雨中の観桜となった。新しく完成した五稜郭タワーから、俯瞰するだけの花見となった。星形の五稜郭に沿って並ぶ1600本の桜は、やはり見事である。樹齢は90年から100年ものが多い。大正期に国の史跡になったのを記念したサクラ達だ・・。 昔の五稜郭タワーは高さ60mで、展望地上高さ45mで物足りないものだった。平成16年に改築されたタワー高さは107mで、地上90mからの眺望だ。360度ガラス張りの展望室なので、多くの人が一度に景色を観ることができる。 展望フロアは、五稜郭歴史回廊にもなっている。フィギュアや歴史パネルが展示されている。土方歳三像が地上90mに在ったのには驚いた。 五稜郭の築造は、1857年(安政4年)から8年ほど要した。この稜郭に箱館奉行所を設けて、蝦夷地の統治し始めた矢先に箱館戦争が起り、その主舞台となった。若くして戦死した土方は、当地で大変な人気だ。10年前の大河ドラマに出演した山本耕史氏の人気とダブっているように思えた。 写真-1 五稜郭タワーからの眺め。生憎の「雨天登頂」。 写真-2 2010年に復元した箱館奉行所。 写真-3 地上90mからの花見。りたつう士。 写真-4 雨の日はテラスから花見に限ると・・。 写真-5 ライトアップした五稜郭タワー。ポストカードより。
2016年05月06日
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北海道駒ヶ岳は、蝦夷駒ヶ岳または渡島駒ヶ岳と呼ばれる。鹿部町、七飯町、森町に跨る標高1131mの美しい山で、日本百名山のひとつである。これまで函館本線の大沼側(南側)からばかり駒ヶ岳を見ていたので、横(東側)から観る駒ヶ岳が新鮮であった。 宿泊はJR鹿部駅に近い「鹿部ロイヤルホテル」(ゴルフ場が併設)。案内された6Fの部屋から、駒ヶ岳が正面に見えた。また8階屋上には、展望室と展望デッキが開放されている。音楽を聞きながら、景色を楽しめるように工夫されている。 駒ヶ岳は、常時観測対象の活火山47のひとつ。要注意の火山だ。北海道には、9つ。そして九州にも9つ。北と南で約4割の注意火山がある。渡島半島を通る火山ベルトは、那須火山帯と呼ばれる。南は浅間山、蔵王を通り北は利尻島まで続く長いベルトだ。 駒ヶ岳は大沼から見るのが表の景色。大沼国定公園は、駒ヶ岳を主体に、その裾野にある大沼、小沼、じゅん菜沼から成る。道内でも屈指の紅葉の名所だが、まだ見ぬ景色である。登山は無理でも、大沼遊覧船で、ゆっくり眺めたい景色だ。チャンスは来るだろうか・・。 写真-1 ホテル6階の部屋より北海道駒ヶ岳を望む。 写真-2 バス窓より大沼と駒ヶ岳を見る。函館本線は、大沼回りと砂原回りがある。 写真-3 標高1131mの剣ヶ峰。ゴジラの背びれに見える・・。りたつう士。 写真-4 砂原岳は、「ゴリラの横顔」、「獅子のたてがみ」とも呼ばれる。写真-5 北側の稜線のシルエット。夕食後の眺め。
2016年05月04日
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北海道駒ヶ岳の東山麓に広がる鹿部町。道内では気候が温暖な所として知られ、間歇泉もある。大正12年温泉試掘の際に発見された。現在、「しかべ間歇泉公園」として整備されている。渡島半島の東海岸をはしる恵山国道(国道278号)沿いあり、遠く地球岬や羊蹄山を望める場所。 間歇泉は、約10分おきに噴出する。温度100度近くの高熱が最大15mの高さまで吹き上がるという。安全に見学できるように施設が工夫されている。高く舞い上がらないように笠をかぶっていた。 駒ヶ岳は、江戸期から噴火を繰り返し、昭和に入ってからも大きな噴火が2回(昭和4年と昭和17年)ある。これらの噴出物で、海の昆布礁が壊滅被害を受けたという。昆布が育たないとウニなどの磯の恵みが激減する。今はスケソウダラとホタテが町の特産となっている。 噴火湾(内浦)の南口にあたる鹿部町は、漁業の町。温暖な気候と豊かな自然を求めてきた移住者の町でもある。間歇泉公園の傍に、記念歌碑「北斗船」(歌、鳥羽一郎)が立っている。漁業の町を象徴する碑である。 写真-1 恵山国道・道の駅の海岸から駒ヶ岳を望む。 写真-2 しかべ間歇泉公園内にある間歇泉。記念写真を撮る人もいるが・・注意が必要だ。写真-3 噴火湾(内浦湾)を眺める見晴し台。 写真-4 見晴し台の傍に建つ「北斗船」の歌碑。 写真-5 噴火湾越しの羊蹄山 (蝦夷富士、標高約1900m)。
2016年05月03日
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北海道新幹線が開通して1ヶ月が過ぎた頃、旅行に出かけた。津軽海峡の下を通る青函トンネル(延長約54km)を25分で通過する。昼食弁当を食べながら昔を想う。修学旅行などで、青函連絡船で海峡を渡るには4時間近く要した。船酔いする潮流と強風とが、列島と隔てていた。 北の新幹線を利用して、道南(渡島・桧山)旅行に参加。いつものように旅行社の企画するツアーだ。相棒を含めて44名の団体サンである。制約が多い反面、見学地へのアクセスや食事・宿の心配をする必要がない。有難いことだ・・。 乗車した新幹線は「はやぶさ5号」。大宮駅を8時44分に発ち、新函館北斗駅に12時22分に着く。定刻どおりの運行だ。そう長くは感じない3時間38分であった。 函館は第二の故郷である。37年前、新婚生活を含め2年半過ごした思い出の地。34年ぶりに函館を見ることができた。新しく造られた五稜郭タワーに昇って、サクラを観るのが大いなる楽しみだ。 暫くの間、道南地方を巡る旅景色シリーズになります。よろしくお願いします。 写真-1 北海道新幹線・はやぶさ。木古内駅ホームにて。 写真-2 新幹線高架と函館北斗市の田園風景。正面の山は、函館山。 写真-3 トラピスト修道院のポプラ並木をイメージした新函館北斗駅。りたつう士。 写真-4 薬師山から木古内駅を見下ろす。新幹線が見える山頂風景。 写真-5 木古内駅の東側エリア。 写真-6 H5系のシンボルマーク。
2016年05月01日
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がん封じのお寺と知られる大安寺(だいあんじ)。住所が奈良市大安寺2丁目で、南都七大寺のひとつである。大安寺の前身は、高市大寺、大官大寺(だいくわんだいじ)とされる。日本で最初の官製寺院となった歴史ある寺だ。 平城京遷都(710年)に伴い飛鳥から奈良に移転して、大安寺となり繁栄する。東大寺や興福寺と並ぶ大寺であった。平安京遷都(794年)の頃から寺の衰退が始まる。慶長地震(1596年)では伽藍が壊滅的被害を受ける。明治期になって再建がなる。現在、伽藍復興の寄進を募っている。 訪れた日、馬頭観音像の特別公開日。毎年3月1日から3月31日、本堂の奥離れの「嘶堂(いななきどう)」に安置されている。馬が草を食むように、癌などを食いつくして、災厄を取り除く観音様だ。一方、本尊の秘仏・十一面観音像は、10月から2ケ月間特別公開されるという。 毎年1月23日に「がん封じ笹酒まつり」が境内で華やかに行われる。奈良時代、光仁天皇が「温めた竹間酒」を嗜んで、長生きしたとの故事にちなんだ法要と祭りだという。竹の「御猪口」で頂くお酒は格別な味であろう。小生は、暖かい焼酎がよい・・。 写真-1 大安寺の南門。平成12年に復元整備された。 写真-2 竹林から本堂を観る。 写真-3 右手前が本堂。奥の嘶堂に馬頭観音像が安置。りたつう士。 写真-4 馬頭観音立像。高さ173.5cmの一木彫像。国重文財。 写真-5 がん封じの「笹酒まつり」の様子[1月23日]。
2016年03月26日
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奈良県境に近い京都府木津川市に、九体阿弥陀如来像の揃った浄瑠璃寺がある。地理的には、奈良の平城京や東大寺からも近い。浄瑠璃寺の本堂は、池に向かって九つの格子戸がある。九体の仏像それぞれが外の景色を観ることが出来るよう造られているようだ。 小田山・浄瑠璃寺は、東の薬師仏を祀る三重塔、中央の池そして九体阿弥陀堂(本堂)からなる。薬師如来は、東方浄瑠璃世界に住み、現世の苦しみを取り除く仏。阿弥陀如来は、西方極浄土の教主とされる。 NHKテレビ番組において、阿弥陀如来中尊像が池の水面に映るシーンがあった。秋の特別な夜、本堂にローソクの灯りがともり、格子戸が開くと金色の仏が浄土池に現れるのだ。通常外からは本堂のひさしで、お顔を観ることが出来ない。特別な日があるのだ。東の空に満月が上る頃なのだろう・・。 東側の高台に建つ三重塔は、京都一条大宮から移築したとされ、国宝(藤原時代)だ。毎月8日・彼岸の中日・正月三が日に、三重塔の扉が開くので秘仏・薬師如来像を拝める。浄瑠璃世界とは、澄み切った静寂と清浄の世界だという。団体見学ではあるが、皆静かに境内を時計回りした。 写真-1 池の東方に建つ三重塔。[国宝 藤原時代]。池は改修工事中。 写真-2 池の西方に建つ九体阿弥陀堂。九つの格子戸を持つお堂。 写真-3 毎月8日、西側の扉が開き、秘仏・薬師如来像を拝観できる。りたつう士。りたつう士。 写真-4 本堂内の九体阿弥陀如来像。東を向いて座っている。写真-5 秋の夜、浄土池に映しだされる本堂と仏像。
2016年03月22日
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天平19年(747年)、聖武天皇の病気平癒を祈願して創建された新薬師寺。この寺院は、粘土造りの十二神将が居ることで知られている。もちろん、守るべき薬師如来像(木彫り)も国宝である。 新薬師寺は、世界遺産・元興寺の僅か1.4km東に位置している。奈良教育大学の傍であり、春日奥山遊歩道登り口筋にあたる。また、志賀直哉旧居から先「ささやきの小径」を上ると、春日大社・二の鳥居に出る。 薬師如来を中心に円陣守護する十二神将。干支(えと)と結ぶつき、十二の方角を向いて外敵を威圧する。また2時間おきに警備するとも言われている。その中で、特に存在感があるのは、伐折羅(バザラ)大将像だ。19時から21時の戌(いぬ)時間帯警備を担っている。 伐折羅大将像は、60年前500円切手として発売になった。最近では平成22年平城遷都1300年切手記念シートの10絵柄のひとつを飾っている。昔から人気者のようだ。寺内で彩色再現CGのバザラ大将像のポストカードを入館記念に購入した。写真-1 新薬師寺本堂。7柱間・対称の入母屋造り。[奈良時代 国宝] 写真-2 日本最古級の道「山辺の道」に南門がある。鎌倉時代の南門。 写真-3 日本最古とされる鬼瓦。東門と本堂の屋根を観る。りたつう士。りたつう士。写真-4 本堂内の薬師如来像と十二神将立像。写真撮影は禁止。 写真-5 色彩再現CGの伐折羅大将ポストカード。
2016年03月20日
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昔々、蘇我蝦夷・入鹿親子が邸宅を構えた甘樫丘(あまかしのおか)。現在の甘樫丘展望台から西500mに小さな寺院と首塚がある。飛鳥寺である。創建当初(600年頃)は、法興寺、元興寺とも呼ばれた。都が平城京へ移ると、飛鳥寺も現在の奈良市に移転して元興寺となる。 蘇我馬子が発願し建立した飛鳥寺。日本最初の本格的な寺院であった。本尊は高さ3mの「飛鳥大仏」。当時銅15トン、金30kgを用いて創られた。聖徳太子も関与している。平安・鎌倉時代に火災で全身罹災したが後補を受ける。鼻筋の良く通った日本最古の大仏さまである。 本堂に飛鳥寺伽藍の復元図が掲げられている。五重塔を中心に、東・西と北に三つの金堂を配置。その外側に回廊を巡らせた壮大な伽藍であったとされる。この飛鳥寺から約500m南に板蓋宮があり、そこで入鹿が中臣鎌足(藤原氏の始祖)らにより暗殺された。乙巳の変(645年)である。 のどかな田園が広がっている飛鳥寺周辺。訪れたのは梅が咲く春。ふと「飛鳥に春が」の歌を思い出す。「レンゲ咲く あぜの道」、「飛鳥に春が なのにあなたは何処に・・」。明日香村に昔の賑わいが戻ることはないだろう・・。静かな発掘の里である。 写真-1 高市郡明日香村にある飛鳥寺。首塚付近から眺める。写真-2 甘樫丘を眺めるように蘇我入鹿の首塚があった。写真-3 甘樫丘展望台より飛鳥寺を望む。 写真-4 本尊飛鳥大仏(釈迦如来坐像 銅像)。写真撮影OK。[国の重文]写真-5 往年の飛鳥寺伽藍復元図。
2016年03月17日
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京都・三重の県境近い奈良市に月ヶ瀬梅渓がある。大正11年「国の名勝地」として指定されたひとつ。名張川(地元では五月川と呼ぶ)の深い渓谷と梅が織りなす景観が素晴らしい。月ヶ瀬湖の最上流・尾山地区に「一目八景」との展望台がある。景色を御馳走に、昼食の蕎麦を食した。 京都府の南縁を流れ、淀川を経て大阪湾に注ぐ木津川。この川の左支流の名張川口に高山ダムが造られたのは昭和44年。反対運動や梅林の移植などがあったが、時の流れとともに梅景色がダム湖面に調和してきた。 月ヶ瀬村(町村合併で村で奈良市に編入)全体で、約1万3千本の梅の木がある。江戸時代には10万本の梅が栽培されていた。人里離れた村で、梅栽培が広まったのは南北朝時代まで遡る。都から避難していた女官が紅花染の原料として、「烏梅(うばい)」の製法を村人に広めたことから始まった。 奈良時代月ヶ瀬山地は、大寺院の建築用材を切り出して送る水運基地だった。江戸時代、低収量の米に代わって、「烏梅」より生計を立てる農家が多かった。今も各種の梅加工品が盛んだ。また、お茶畑が広がり、良質の月ヶ瀬茶が特産品のひとつ。お土産とした。写真-1 月ヶ瀬梅渓の一目八景から名張川(五月川)を望む。 写真-2 高山ダムより上流約8km付近の渓谷。 写真-3 月ヶ瀬尾山地区の天神梅林。りたつう士。 写真-4 ピンクと黄の梅林。 写真-5 名勝・月ヶ瀬梅林の石柱とお土産店。
2016年03月16日
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東大寺の東斜面を切開いた高台に、お堂が並ぶ。上院と呼ばれる一画に、二月堂、三月堂、四月堂が建っている。東大寺の大仏を参拝するほとんどの人は、此処を訪れて国宝の彫刻像を観る。 二月堂は、十一面観音像(秘仏)を本尊とする仏堂。奈良の早春の風物詩「お水取り」の行事を行う建物として知られている。奈良時代に創建されたが、江戸時代、修二会の最中に失火・消失した。現在の建物は、その後1669年に再建されたもの。 三月堂は東大寺法華堂である。東大寺境内で最も古いお堂とされる。本尊の「不空羂索(ふくうけんさく)観音菩薩像」をはじめ、天平彫刻の傑作品が安置されている。3年前に修理が完了して、平成25年拝観が再開となった。但し、仏像の数が16体から10体(国宝のみ)に変更されたという。 三月堂の広場を挟んで四月堂(三昧堂)がある。旧暦の四月に法華三昧を行うお堂。現在の本尊は十一面観音菩薩像。修理前の本尊は千手観音菩薩だという。ホトケ様といえ、引越や出張がある。東大寺ミュージアムを仮宿として、境内を回っているようだ。 写真-1 東大寺二月堂を見上げる。写真-2 二月堂からの眺め。大仏殿の屋根が見える。 写真-3 三月堂(法華堂)と二月堂を観る。りたつう士。 写真-4 法華堂の本尊・不空羂索観音菩薩像」国宝。 写真-5 四月堂(三昧堂)。バリケードは堂上の松明を見物者からお堂を守るため。
2016年03月13日
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土佐街道を1kmほど歩いた。四国にある土佐街道(国道33号)ではない。奈良県高取町の中心を南北に通す古街道だ。大和王朝時代、都造りに駆り出された人達が住みついたとされる。故郷を懐かしんで、名付けた土佐街道。 むかし、昔、大和平地と吉野地方との交流拠点として発達した町。戦国時代、高取藩2.5万石の城下町として賑わいを見せた。比高差390mの城は、戦国時代、屈指の山城とされた。奈良産業大学が復元したCG看板が壺阪山駅近くにある。標高584mからは景色が良く、ハイキングコースとして人気がある。 土佐街道沿いに古い町家、武家屋敷が並ぶ。10年前から町内100軒の家が協力して、「町家のひな巡り」(3月1日から31日)開催されている。500のひな人形を集めた「天段のお雛さま」や仲良し広場の「ジャンボお雛さま」が出迎えてくれる。高取と竹取とで、竹取物語(かぐや姫)を意識しているようだ。 少子高齢時代、家を飾った雛人形や五月人形、こいのぼりなどが各家庭でホコリを被っていることが多い。年に一度、チリ払いと風通しを兼ねて、町ぐるみで展示すると華やかだ。地域の連帯感が強まると思う。高取・町家のひな巡りが長く続くことを願う・・。 写真-1 旧高取藩家老の屋敷。城址に続く坂道に面している植村家長屋門。 写真-2 雛の里親館に展示されている「天段のお雛さま」。 写真-3 高さ5mのジャンボひな人形。毎年デザインを替えるそうだ。りたつう士。りたつう士。 写真-4 竹取のひな人形飾り。 写真-5 かつて壮麗な城郭を誇った高取城の復元CG。
2016年03月11日
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東大寺二月堂の「松明上堂」を見学する。19時になると辺りの照明が消され、10本の大松明が階段を上り、二月堂舞台で激し揺れる。火の玉が燃え、火の粉が飛び散る。その間約20分。東大寺「お水取り」の夜の法会のひとつである。 東大寺・修二会(しゅにえ)を見学するツアー旅行(約40人)に相棒と参加した。東大寺総合文化センターで約1時間のセミナーを受講後、二月堂へ移動する。 上堂の松明まで1時間もある。小生らは、甘酒と葛餅で時間を潰す。 修二会の本行は、3月1日から3月14日まで2週間続く。「松明上堂」は、この期間毎日執り行われる。特に「お水取り」が行われる3月12日の松明は、長さ8m×重さ80kgと巨大だ。当ツアー見学は、通常時の大松明(長さ6m×重さ40kg)だった。 大松明の光明は十方を照らす。その火の粉を浴びると、無病息災で過ごせると云う。「火の粉エリア」はかなり早い時刻から参拝者で埋まっている。そのため遠くから眺めて、防寒コートを火の粉から守ることにした。この日は、風が弱い穏やかな夜であった。消防隊の出番は無かった・・。写真-1 東大寺二月堂の舞台下に集まった参拝客。 写真-2 消灯前の18時50分頃の二月堂舞台下。写真-3 二月堂「松明堂上」は修二会における夜の法会。 写真-4 迫力ある堂上の松明[観光パンフより]。 写真-5 翌日、二月堂の回廊舞台に上る。奈良市内が良く見える。
2016年03月08日
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冬、飛行機による北海道行きは、一抹の不安がある。羽田空港は、充実したアクセスと天候不安が少ない。一方、新千歳空港は、天候の急変がしばしば起きる。ロビーでの夜明かしは、願い下げである。 新千歳空港からのフライトは、十分余裕を持って到着するようにしている。3F展望スペースで、飛来する飛行機と天候をチェックした後、お土産コーナーを巡る。天候は良いようだ。遠くの夕張岳や日高山地が見えた。 展望フロアのフードコートで、松尾ジンギスカン丼を見かけた。ジンギスカンが好物なので、早速頂いた。少し肉が堅かったが美味し・・。早めの夕食を済ませる。ニシン漬とジンギスカン用肉をお土産に、定刻18時30分フライトで羽田に向かう。 写真-1 羽田空港第2旅客ターミナルの52番搭乗口付近から。 写真-2 羽田空港の寸景。東京タワーを望む。 写真-3 新千歳空港3階展望フロアにて。北の方から飛来して来た。りたつう士。 写真-4 幸い天候は良い。遠くの山並みが見える。 写真-5 三階展望フロアで早い夕食。松尾ジンギスカン丼880円。
2016年02月29日
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延長3.5kmの防波堤に守られている小樽港。防波堤内は、外洋と打って変わって波静かな朝を迎えていた。昔の繁栄を知る身にとっては、岸壁近くをうろつくと、ノスタルジックな気分になる。 北・西・南の三方を山に囲まれた天然の良港として明治新政府が目をつけた場所が小樽。明治32年(1899年)には、早や石狩炭田の石炭積出し港にとなる。開港に先駆けて、手宮-札幌間の鉄道を明治13年に通している。実はこの鉄道は、新橋-横浜、神戸-大阪についで日本で3番目だ。 小樽港には6つのふ頭がある。北側から、色内・第三・第二・第一・中央・勝納の各ふ頭。日の出を見るスポットとして、色内ふ頭と第三ふ頭を連絡する旭橋がある。橋の中央にバルコニーが設置されている。第三ふ頭は、にっぽん丸など中型客船(2万から3万トン)が停泊する。 大型客船・英国のダイヤモンド・プリンセス(12万トン)は、南側の勝納ふ頭に停泊する。今後15万トン級の客船を停泊出来るように整備するとしている。思えば、北朝鮮やロシアと良好な関係にあれば、日本海は素晴らしい航路となる。近い将来、「日本海波高し」の状態が解消されることを願う・・。 写真-1 色内ふ頭、第三ふ頭および朝陽を旭橋から望む。 写真-2 第三ふ頭の倉庫を見る。写真-3 小樽港は東に向いている。朝日と満月が日本海から昇る。 写真-4 1908年に完成した北防波提と外洋の船舶を望む。 写真-5 運河公園に建つ廣井勇博士像は北防波提を見守っている。
2016年02月26日
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雪が小やみになった・・。夕食後、冬夜の小樽運河へ下る。いつの間にか坂道にロードヒィーテングが施され、歩き易い。運河近くのホテルからも宿泊の観光客が三々五々、浅草橋辺りに集まって来た。 2月初めに体調を崩した母親の機嫌伺いに、急きょ小樽を訪問することになった。体調の把握と世話になっている施設側との相談だ。札幌雪まつり、小樽雪あかり路などのイベントが終わって、ようやく飛行機と宿の予約が容易となった。小樽出張と称して、流山の自宅を出発・・。 小樽には1泊2日の行程。大雪や強風のため、しばしば欠航や大幅な遅れが発生する2月の空。幸い天候に恵まれて、スケジュール通りにこなせた。とは言え、片道6時間乗り物に缶詰になるのは辛い。身体が硬くなってしまう。空き時間を見て、運河周辺を徘徊する。血の巡りを良くし疲労を溜めないためだ。 雪は降ったり、止んだりを繰り返す港町・小樽。外気温マイナス4度でも、風が弱いとあまり寒く感じない。北運河の方は、明かりが少なく、足元に不安が残るので中止。中央橋と浅草橋との間を転ばないようにゆっくり歩く。ホテルまで復路は、登り道なので身体が温まる。明朝、晴れると念じ風呂に浸かる。 写真-1 定番・浅草橋からの冬運河景。真冬でも運河クルーズがあるとは・・。 写真-2 ガス燈の柔らかい明かりが倉庫と運河を照らす。写真-3 中央橋付近から雪景色の運河。水鏡の運河。 写真-4 雪舞う情景。実際はもっと雪が降っていた。 写真-5 運河沿いのホテルから観光客が繰り出してきた。
2016年02月20日
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戦国時代末期のお城、天守がそのまま信州に現存する。国宝・松本城である。豊臣秀吉の家臣、石川数正・康長が天守を築いたとされる。大阪城に倣い、天守を5重6階構造に、そして外壁下見板に黒漆塗りを使用したという。 現存する五重の天守を持つ城は、姫路城と松本城のみである。戦うため黒い堅固な造りとした。後に平和を反映する辰巳附櫓と月見櫓を増築する。松本藩8万石の領地を一望するように造られた城には、6家23代の藩主が続いた。幕末、戊辰戦争では新政府軍に従い、東北地方を転戦する。 松本城は、別名・深志城、異名・烏(からす)城とも呼ぶ。姫路のシラサギ城、松本のカラス城と対比される。天守の外観をよく見ると、壁面上部に白漆喰が施されている。従って、黒白の締った風合いを醸し出している。 好天に恵まれると、天守から北アルプスを望むことが出来る。季節によって、堀の水面に北アルプスの白い山並みが見えるという。雪を頂いた山々と黒い天守。松本城は同市のシンボルであると共に、戦国時代の遺産だ・・。 写真-1 国宝、松本城。生憎の曇り空。晴れていれば北アルプスが見えた。 写真-2 本丸防御の要。1990年に黒門が全面的に復元した。 写真-3 松本城天守から赤い埋橋と内堀を観る。 写真-4 2011年の長野中部地震の被害を受け、埋橋から入場はできない。 写真-5 石落とし、狭間そして「おもてなし隊」。
2015年12月27日
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善光寺参拝の後、大町温泉に泊まる。大町温泉は、黒部第四発電所工事の資材輸送基地(いわゆる大町ルート)となったことより、温泉街が急速に発達した街。弱アルカリ性の滑らかな温泉である。 大町市から約30km南下すると松本市である。JR大糸線と高瀬川と平行に走る県道306号は、北アルプスパノラマロードという愛称がある。北アルプス連峰を眺める旅行は、生憎の雨模様。田んぼに水を張った春、大糸線は賑わうという。 松本市に向かう途中、安曇野スイス村に立ち寄る。北アルプスの眺望とショッピングが楽しめる所だ。建物の裏手には、犀川が流れている。近くには、ワサビ園がある。犀川に架かる長野自動車道も見える。安曇野ICから3分の処に「スイス村」がある。 犀川と梓川とは一体の川である。スイス村の上流7km、奈良井川合流点から下流を犀川、上流を梓川と呼ぶ。梓川は、上高地から流れ出し、電力を作りながら松本まで下って来る。大町温泉を流れていた鹿島川(鹿島槍ヶ岳が源流)も、高瀬川を経て犀川の流れとなる。犀川は千曲川に合流して日本海へ・・。写真-1 大町温泉を流れる鹿島川の急流。鹿島槍ヶ岳を源流とする。 写真-2 薄雪化粧した鹿島川土手を朝散歩する。 写真-3 安曇野スイス村から犀川を望む。河川横断橋は長野自動車道。 写真-4 ワサビ園から流れ出す清流。 写真-5 晴れていれば、北アルプスが見えたはず・・。
2015年12月25日
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五間二階二重の善光寺山門(三門)。築260年を超える国の重要文化財の木造建築物である。古より大勢の参拝者が、この三門を潜った。7年ごとに行われる御開帳年は、特に混み合う。 江戸中期に建立された高さ20mの楼門は、国内では最大規模の栩葺(とちぶき)建造物。屋根は約18万枚のサワラ板で葺かれている。軽くて耐水性に優れるサワラの木。木材なので、40年周期で葺き替えるという。そのことにより、栩葺の技術が継承される。 国重文である山門の二階を参観する機会を得た。老朽化のため5年をかけた改修工事を経て、平成20年から登楼参拝が再開している。階上の仏間には、文殊観音騎獅像と四天王が安置。長押しには四国八十八ケ所霊場の分身像も祀られている。10分間ほどで88ケ所巡りを終えることが出来る。 山門の扁額「善光寺」は、鳩字の額として有名だ。2+2+1=5羽の姿が隠されている。また、牛の顔が「善」文字に隠れている。平和の使者と仏教における聖なる牛が見守る楼門である。写真-1 築260年を過ぎる木造建築物の善光寺山門(三門)。 写真-2 18万枚のサワラ板を使用した屋根が特徴。本殿側から観る。 写真-3 六地蔵と善光寺山門。 写真-4 楼門二階から仁王門と参道を見る。 写真-5 5羽の鳩が隠されている山門の扁額。
2015年12月24日
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駅からバスツアー会に参加して、信州へ湯治に出かける。信州・定額山善光寺の雪景色を期待したものだったが、生憎の雨模様・・。外環道-関越道-上信越道を乗り継いで、約5時間の行程である。 今年の暖冬傾向は長野県もそうである。各スキー場が苦戦を強いられている。北の寒気の居座りが長続きしないのだ。勘違いの梅開花が各地で起きているようだ。関東地区でもチラホラ咲いた。今後の花イベント、花まつりは、予定がズレそうだ・・。 国宝、善光寺本堂。減本堂は、1707年に再建されたもので、築300年を越える。高さ27m×奥行53mの木造建築物。ヒノキの樹皮を用いた憧木造りの屋根が特徴だ。今年御開帳に使用された回向柱は、過去に使われた柱と共に保存してあった。 「牛に引かれて善光寺参り」との故事がある。他人の誘いや思いがけない偶然で、良い方面に導かれることの例えである。就職、結婚、仕事運など、この故事が当てはまる人は多いのではないか・・。 写真-1 信州・定額山善光寺は雨だった。 写真-2 国宝、善光寺本堂(金堂)。築308年の風貌。 写真-3 三つの門から本堂を観る。 写真-4 牛に縁がある善光寺。 写真-5 過去の回向柱が保存されている。
2015年12月22日
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秋、紅葉が燃えるという蔦沼に立ち寄る。但し、橅(ブナ)の壮麗な森と蔦沼が一面、紅くに染まるのは朝陽を浴びる僅かな時間帯・・。小生らは午後に着いたので、黄色のブナを映す沼の鑑賞となる。温泉に浸かるコースとブナ林散策コースとがあったが、沼巡りに参加する。 蔦沼は、蔦温泉の裏山的な存在。原生林ではないが、上質な天然林である。平安時代から人と関わってきた場所。蔦温泉に泊まり、ブナ林と湧水が造り出す癒しの森に、身を置くことは何と贅沢なことだろうか。吉田拓郎の曲「旅の宿」は、この温泉旅館から生まれたものらしい・・。 JR東日本が作成する広告ポスターが話題となっていた。四季折々のポスターが素晴らしいのだ。「行くぜ、東北」、「紅葉だCOLOR・・蔦沼」、「雪がFULL ・・八甲田」など、ここ数年シリーズで東北の名所・絶景を紹介している。鉄道各社のポスターを比較するもの楽しいことだ。 一面、茜色の紅葉ショーをイメージした蔦沼ポスターは、ビックリ、ポンだ。このポスター以来早朝、沼の観沼台は撮影者でいっぱいになるという。11月に入ると、冷たい雨も降る。落葉を敷き詰めた「沼めぐり小路」を思い出しつつ、東北の旅景色を完とします。 写真-1 ブナの森に抱かれる蔦沼。赤倉岳が顔を出していた。 写真-2 JR東日本の四季折々のポスター。旅に出よう、色とりどりの紅葉だから・・。 写真-3 遊歩道沿いを流れる小川。 写真-4 橅林のなかを通る六沼めぐりの小路。 写真-5 湯船の底から「生の湯」が湧き出す蔦温泉。
2015年11月05日
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急変するのは、山の天気と○○心。下のロープウェー山麓駅は天気晴朗。山頂駅は雲の中だった。風もあり、ツアーガイド引率による田茂萢(たもやち)湿原の散策は中止となる。しかし数人は湿原の展望台まで約1km歩く。木道が雪で滑り易く、数回転びそうになる。 八甲田ロープウェー山頂公園駅のある田茂萢岳一帯は、数多くの池と沼、そして高山植物の宝庫とされる。整備された遊歩道がひょうたん形をしていることから「八甲田ゴードライン」と呼ばれる。1kmコースと2kmコースがある。 春から秋にかけて、多くのシニア登山者が訪れ、登山とトレッキングを楽しむところ。特に人気のコースは酸ヶ湯行きだろうか。山頂公園駅—上毛無岱—下毛無岱—酸ヶ湯までのトレッキング(2時間半)だ。「毛無パラダイスライン」である。春の花畑、夏の沼、秋の紅葉とまさに天国を歩く気持なのだろう・・。 冬、ロープウェー山頂公園駅を基点に五つのスキーコースが出現する。また、銅像ルート(雪中行軍記念碑)を含む複数のツアールートも設定されている。小生も40才若返ることができれば、半日をかけたスキーツアーに挑戦したいところだ・・。 写真-1 田茂萢遊歩道から北八甲田の三山(赤倉-井戸-大岳)を望む。 写真-2 毛無岱のパラダイスライン方面を望む。写真-3 雲が切れて来た。田茂萢岳の笹のなかを少しだけ歩く。 写真-4 白く染まった田茂萢湿原展望台。 写真-5 八甲田ゴードラインの遊歩道。
2015年11月04日
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冬を前にオメカシした八甲田山に上る。ブナ、ダケカンバなど色づいた落葉樹林を眼下に望む空中散歩である。満員の函の中では、自由に動けないので散歩とは言えないが・・。高低差650mを10分間の乗車時間だ。見晴らしの良い日は、運転速度を半減にするサービスはないものか・・。 八甲田ロープウェーは、延長約2.5km。中間支柱が4基だけなので、見晴らしが良いことで知られている。昭和43年に開業した。一回当りの輸送人員は101名。昔のスキーヤーにとっては憧れのロープウェーだ。今回、秋ではあるが初めて乗ることが出来た。 八甲田山は単独峰がなく、18ほどの連山・火山の総称。「ただ一峰をもって目立つ山でない・・」と「日本百名山」にある。最高峰の標高1584m大岳は、RW山頂駅から南に約2.8kmの所。赤倉山、井戸岳さして大岳へと連なる。山頂駅付近に「三山展望台」があった。 バスの移動中、「八甲田雪中行軍遭難事故」を話すガイドさん。改めて、雪山中に散った199名の若者を想う。山頂駅から北4kmの県道40号線沿いにその記念が建っている。「1902年1月23日、世界最悪の山の遭難が起きた・・」とある。多くの不幸要因が重なった事故でもある。写真-1 八甲田ロープウェー山頂駅から紅葉の衣を眺める。 写真-2 ロープウェー内から岩木山も見えた。 写真-3 眼下のブナ・ダケカンバ樹林。 写真-4 紅葉が斜面を駆け下ったような光景。 写真-5 新田次郎「八甲田山死の彷徨」の映画化。(昭和52年)
2015年11月02日
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