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東北の豊かな森を眼下に見渡す事ができる城ケ倉(じょうがくら)大橋。訪れた日、八甲田の山並みは、雪化粧が始まったばかり。紅葉と雪景色を同時に眺めることになった。西方に岩木山、北の彼方に陸奥湾を望む展望台でもある。 城ケ倉大橋は、城ケ倉渓谷(荒川)に架かる上路式の鋼製アーチ橋である。アーチスパンが225mあり、国内最大級のアーチ橋だ。耐候性鋼材を使用しているため、無塗装仕上げになっている。紅葉の名所なのだから、色使いに工夫があればと思った・・。 津軽と南部を結ぶ国道394号線。最大の難所だった城ケ倉渓谷を一跨ぎするこのアーチ橋は、平成7年に開通している。豪雪で話題となった酸ヶ湯温泉から西2.5kmに位置する。十和田八幡平国立公園の絶景を無料で展望できるスポットである。 冬の温泉場は格別だと思う。青森駅発のJRバスに乗り、1時間10分で酸ヶ湯温泉に着く。青森市内の積雪が50cmでも、酸ヶ湯は500cmということもある。城ケ倉大橋は冬期でも通行が可能だという。但し夜間は閉鎖となる。晴れた日、橋上から見る雪Full八甲田も素晴らしいと思う・・。 写真-1 紅葉の名所、城ケ倉大橋から八甲田山系を眺める。 写真-2 雪を被った山。紅葉で包まれた山。紅葉雪景色に出会う。 写真-3 橋長360mの上路式アーチ橋が城ケ倉渓谷に架かる。 写真-4 高さ120mの歩道から城ケ倉渓谷を覗く。 写真-5 西の彼方に岩木山が顔を出していた。
2015年10月31日
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青森県大鰐・あじゃら山に泊まった。と言っても、山頂のリゾートホテルである。大鰐温泉街から見ると、小高い山で、北斜面にスキー場やゴルフ場が展開している。530人を収容できる当ホテルからは、岩木山や弘前市が一望できる。 言うまでもなく、岩木山は青森県の最高峰(標高1625m)で、日本百名山のひとつ。広い裾野をひき、姿の美しさから、津軽富士と呼ばれる。西から東方向に伸びる緩やかなラインは、ウエディングドレスの長裾に譬えられる。冬の雪化粧した姿が好まれるようだ・・。 冬、スキーとスノーボードで賑わうあじゃら山。大鰐温泉スキー場のシーズンは、12月20日頃から3月中旬だという。弘前市から近い。過去に国体も開催された老舗スキー場だ。一度滑ってみたい斜面だと想いつつ、頂上ホテルからバスで下りる。 あじゃら山の漢字は、阿闍羅山と表記する。古くから山岳仏教の山と知られ、一説には阿闍利という僧が住んでいた山だという。また不動明王をアチャラ・ナータと呼ぶサンスクリット語に由来するとも言われている。岩木山を北に望む絶好の位置のお山であることは間違いない。写真-1 あじゃら山に建つホテル前から岩木山を望む。 写真-2 あじゃら山から大鰐町方向をみる。 写真-3 朝日が八甲田山方面から昇る。 写真-4 朝の岩木山山頂に流れ雲が・・。 写真-5 大鰐温泉スキー場の案内図。
2015年10月30日
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奥入瀬渓流ウォークの魅力のひとつに滝見がある。大小多様な瀑布・落水と清流・渓流は、刻々と表情を変える。まさに千変万化の風景が待っている。奥入瀬渓流・約10マイルに、14箇所の滝がある。季節によって見えないものがあるが、すべてを観て回るのも面白いかも・・。 昔、魚さんが言った・・。奥入瀬川には壁があると。幅20m、高さ7mの銚子大滝だ。大きな銚子から酒が溢れる光景に似ている。この滝の存在は、魚類の遡上を阻み、十和田湖にかつて魚がいなかった理由とされた。スケールを無視すれば、ナイアガラ瀑布のようだという人がいる。 十和田湖岸・子ノ口から2.5kmの渓流に白糸の滝がある。十和田道(国道102号)からも見える滝だ。高さ30mから糸を垂らしたよう見えるという。訪れた日は、糸より太いソーメンのように見えた。 青森県内の景勝地が集まる「奥入瀬・十和田」エリア。国の特別名勝、および天然記念物の指定をうけている。渓流に平行する道路は、奥の細道国道102号。行楽時期、多くの自動車が渋滞して、排気ガスが問題になっている。自然保護と利便性に工夫した新交通システムが望まれる・・。 写真-1 奥入瀬渓流の壁と云われる「銚子大滝」。ミニ・ナイアガラ瀑布とも・・。 写真-2 高さ9mの九段の滝。 写真-3 小さな落差を重なるように流れる渓流。 写真-4 渓流歩きの休息場となっている高さ30mの白糸の滝。 写真-5 国道102号から見た白糸の滝。
2015年10月29日
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十和田湖が水源の奥入瀬川。奥入瀬川は、十和田湖から流出する唯一の川(二級河川)だ。大雨が降ろうと、一定の流量と清流が流れる。このため奥入瀬川が渓流であり続ける。奥日光における中禅寺湖と大谷川の関係に似ている。但し、大谷川は、巨石を押し流すほどの急流だ。 蔦川が合流する焼山から十和田湖東岸の子ノ口までの約14kmが奥入瀬渓流。高低差が少ない。多くの人が安心して歩ける。渓流沿いの国道は、最低限の幅員だ。自然の改変を極力抑えている。深い木立を縫う清流、飛沫を浴びる苔、長く留まりたい空間である。 十和田湖は、ダム湖の役割を少し担っている。戦後の食糧難、エネルギー確保のために、利用水深が約60cmあるようだ。子ノ口水門が湖水位と放流量を調整している。灌漑用と発電用の利用水深は、季節制限があるようだ。昭和18年に稼働した十和田発電所は、出力31,000KW規模。 双胴式遊覧船・八甲田丸を子ノ口で下船した後、白糸の滝までバス移動。白糸の滝から子ノ口へ向かって散歩道を歩く。マイナスイオン漂う林、穏やかな渓流は気持の良いものだ。出来ることならば、奥入瀬渓流・14kmをウォーキングしたかった・・。 写真-1 十和田湖・子ノ口から流れ出した奥入瀬渓流。 写真-2 散歩道を少しだけ、渓流ウォークする。写真-3 深い木立を縫うように渓流が流れる。 写真-4 清流が岩に当たり、飛沫が苔を醸成する。 写真-5 第三八甲田丸で子ノ口に渡り、奥入瀬渓流を散策した。
2015年10月27日
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十和田湖畔のシンボルは、高村光太郎作「乙女の像」である。ブロンズ像の前で記念写真するのは、昔の「乙女と青年」ばかりだ・・。イマドキの若者にとってはイマイチのようだ。 乙女像のある湖畔は御前ケ浜と呼ばれ、砂浜と恵比寿大黒岩がある風光明媚な場所。南北に伸び浜辺で、西に面しているので夕日の名所。西風を受け易く、波も打ち寄せ、砂が堆積し易かったのだろう・・。乙女像まで木道が近年整備された。「乙女の湖道」との愛称がある。 昭和28年に建立された乙女像。向かい合う二人の乙女は劣化していない。18才の少女も62年が過ぎ、80才になった今も昔のままだ。平成18年に長年の風雪痕が修復されたため、緑色がかった肌が蘇っていた。歌にある「天降りしか 水沫凝りしか・・」。いずれが天女か水の妖精なのだろうか・・。 御前ケ浜から「開運の小路」、十和田湖神社を経て休屋北駐車場を散策する。多目的広場のナナカマドが見事に色づいていた。昼食に添えられた、ネバネバの「ねぶた漬」が白米に合う。食が進む逸品だ。お土産にしてバスに乗り込む。帰宅後のご飯が楽しみだ・・。 写真-1 船上から見た御前ケ浜と「乙女の像」。西寄りの風が吹く浜辺。 写真-2 中央火口丘溶岩が露出した「恵比寿大黒岩」。 写真-3 砂浜をあえて歩く。「乙女の湖道」は雨天に利用しよう・・。 写真-4 乙女像の前は、昔の乙女・青年が集う場所・・。 写真-5 休屋北駐車場のナナカマド。晴れ間が広がる。
2015年10月26日
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十和田湖の湖上に、虹が垂れ下がっていた。中山半島の虹彩(こうさい)の中から白い船が突如出現する。そんな体験をした。雨の発荷(はっか)峠を下り遊覧船に乗る頃、雨は上がった。しばらくすると虹が降りて来たと言う訳だ・・。十和田湖では、しばしば見られる現象だという。 面積が61km2、国内12番目の広さであるが、第3位の最大水深326mを持つ十和田湖。火山の噴火によって陥没した二重カルデラ湖だ。周囲の山地に降った雨や雪は地下水となり、湖底から湧き出す。そのため透明度の高い湖として知られている。 秋、十和田湖の魅力は、なかといっても湖上遊覧であろうか。湖水の蒼さは「ヒスイ色」にたとえられる。湖に立ちはだかる220mにおよぶ「千丈幕」。三国志の赤壁の戦いを連想させる「五色岩」。小生ら一行は、休屋から船出して、子の口までの50分間コースを楽しんだ。 十和田湖の名物はヒメマスである。生みの親は、現鹿角市・鉱山出身の和井内貞行氏だという。サクラマスや日光マスの十和田湖養殖に失敗して辿りついたのが、支笏湖のマスだったという。1903年にヒメマスの幼魚を放流したから、110年が過ぎた・・。昭和50年代、60トンの漁獲高があったというが・・。 写真-1 十和田・湖上の虹彩。中山半島から白い船が現れた。写真-2 千鶴崎の松。雲のすき間から柔らかな日差しが差し込む。 写真-3 赤壁の戦いを連想させる「五色岩」と紅葉景。 写真-4 見どころのひとつ「千丈幕」の絶壁。 写真-5 遊覧する前に十和田湖を眺めた発荷峠。
2015年10月24日
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秋田県を走るJR花輪線の電車に30分間揺られた。湯瀬温泉駅から十和田南駅までの約18km区間に乗車。下り(大舘方面)へは一日7本、2時間に1本の運転路線だ。この区間は、米代川と鉄道と国道、そして高速道路と四線が同じ山間を通っている。 ヒト・モノの移動は自動車が中心である。地方の赤字路線の多くが廃線されたが、花輪線は存続している。ローカルなJR線の赤字は、都会のJR線でカバーしているのだ。92年の歴史を持つ花輪線。大正11年に大舘-扇田間を開業した。そのニーズは鉱工業であった。 湯瀬温泉駅発では、宿泊ホテルの従業員の見送りがあった。このようなおもてなしは、嬉しいものだ・・。当駅の1日平均乗車人数は25人程度だという。本ツアー人数は、添乗員を入れる39名。当駅のノルマ達成した感がある。湯瀬温泉会が受託している「簡易委託駅」だったことが判った・・。 途中下車した十和田南駅は、構内が随分と広い。それは、平地では珍しいスイッチバックの構造によるものだ。北の方向に伸びる線路を想定した駅造りをしたことによる。米代川は北流して、ここで日本海に向けて西流する曲点なのだ。花輪線は、舟運から鉄道、そして自動車への歴史を見て来た長者である。 写真-1 湯瀬渓谷一番の景勝地。森林セラピーロードがある渓谷。 写真-2 湯瀬温泉街を北流する米代川。 写真-3 ホテル従業員の見送りをうける湯瀬温泉駅ホーム。 写真-4 湯瀬渓谷に架かるJR花輪線の鉄橋。 写真-5 米代川に沿って走る気動車(キハ110系)。
2015年10月23日
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「だんぶり長者伝説」が残る湯瀬渓谷。トンボが導いたとされる湯瀬温泉に宿泊する。紅葉時期なので、旅館の全室114室が満室。湯瀬の由来は、川の瀬からお湯が湧き出すことから・・。アルカリ性の泉質で「美人の湯」としても有名らしい。 温泉街を流れる米代川(よねしろがわ)が削った湯瀬渓谷。湯瀬温泉から八幡平小豆沢まで続く米代川沿いに4.6kmの散策路が整備されている。看板に「森林セラピーロード」と表記している。「森と水の癒し里」または「だんぶりの里」が湯瀬渓谷の愛称のようだ・ かつて白く濁っていたと思われる米代川。米のとぎ汁のような川だった。火山灰などが降雨、雪解け水より流されていた。米代川は、水源を八幡平中岳とし、136km流れて能代市付近の日本海に注ぐ一級河川。鉱山資源と材木を運んだ歴史を持つ川でもある。 森林セラピーロードの途中に湯瀬水力発電所(出力1425KW)がある。運転を開始したのが大正11年だという。現役の務めをいまだ果たしている。清流・急流の米代川水系には13箇所もの水力発電所がある。尾去沢鉱山や小坂鉱山などに電力を供給していたのだろう。 写真-1 米代川・湯瀬渓谷を代表する景観。左岸の崖に「姫小松」がある。 写真-2 米代川を跨ぐ吊り橋・吉祥橋を渡る。 写真-3 前九年の役で敗れた清原氏の妻子が隠れ住んだとされる洞穴「ななかまど」。 写真-4 湯瀬水力発電所の取水堰を右岸から眺める。 写真-5 米代川と湯瀬渓谷。セラピーな径(こみち)を歩く。
2015年10月21日
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霙と強風等により八幡平山頂の散策を断念した一行は、スケジュール予定外の大沼に立ち寄ることにした。八幡平大沼は、ブナの森と草紅葉が美しい秋田県の景勝地だ。県道23号・アスピーテラインの麓(標高950m)に位置する。 断層の窪地に水が溜まった八幡平大沼。八幡平に点在する湖沼の中でも比較的大きく、面積4ヘクタールを有する。沼の周囲には約1.2kmk遊歩道が整備されている。また車椅子でも300m進めるように配慮してある。雨に濡れ、より一層赤味を帯びた、燃える草紅葉に遭遇した。 大沼畔には駐車場・トイレ、ビジターセンターが置かれている。センターから半径2km以内には、後生掛(ごしょうがけ)温泉など5つの温泉が密集している。とりわけ後生掛温泉近くにある泥火山は、温泉エキスのようなものだ。ガイド無では行けないよと言われた。絵葉書を見て、行った気分になる・・。 ビジターセンターの北500mに地熱発電所もある。昭和49年に稼働した「大沼地熱発電所」(出力9500KW)である。八幡平は、日本の活火山110のひとつ。常時観測態勢するほどでないとされるが、内在する火山エネルギーは膨大だ。 写真-1 八幡平大沼へ伸びる遊歩道。沼を一周できる。 写真-2 雨中の、燃えるような草紅葉。ナナカマドが彩を添える。 写真-3 大沼のナナカマドと沼面。 写真-4 ビジターセンターと大沼温泉方面を望む。 写真-5 絵葉書「後生掛自然研究路、泥火山」。
2015年10月19日
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秋の北・東北エリアを旅した。旅行会社企画の団体ツアー(38名)である。八幡平-十和田湖-八甲田山を繋ぐ紅葉ラインだ。十和田湖は中学の修学旅行以来、半世紀ぶりの再会となる。晴れ女の相棒が参加したのだったが・・。秋の空に三日の晴れ無しだ。しばらく東北旅景色にお付き合いを・・。 期待した八幡平山頂の散策(45分コース)は、霙と強風と視界不良のため中止となる。次なる「登山」はもうない。残念である。新・山頂レストハウスは、平成20年に開業したもので、堅固な3階建ての多目的施設となっていた。トイレ、ホットコーヒー、そして絵葉書購入して、バス下山する。 山頂レストハウスは、八幡平アスピーテラインと樹海ラインとのT字路脇に位置する。秋田県と岩手県との県境の山頂尾根に当たり、標高が1540m。日本百名山のひとつ八幡平(1614m)には、のびやかな山頂と湿原や湖沼がある。今回もガマ池や八幡沼に辿りつくことはできなかった。 八幡平と言えば、昭和41年日本で始めて稼働した「松川温泉地熱発電所」(出力2.3万KW)がある。八幡平と岩手山との中間付近に建設された。日本では地熱発電が足踏み状態だ。世界8番目の設備容量に甘んじている。米国の1/6程度。開発を推進させ事で、原発が減ることを大いに期待したい・・。 写真-1 秋田-岩手の県境「八幡平山頂」に到着したが・・。 写真-2 展望台は霙(みぞれ)と強風のなかにあった。屋外に出る人は皆無・・。 写真-3 三階にあたる休憩コーナーで暖まり、展示品を観る。 写真-4 絵葉書「雪景色の八幡沼と岩手山遠望」。 写真-5 絵葉書「松川温泉地熱発電所」。現在は東北水力地熱(株)が引き継いでいる。
2015年10月18日
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新千歳空港ビルのマジカルロードを往復した。レンターカーの返却時、時間が取れれば歩いてみたらとアドバイスされた。相棒がお土産を物色している間、国際線ターミナルビルの方へ、ぶらーり。 マジカルロードは、国内線ビルと国際線ビルを繋ぐ2F連絡通路にある。通路両サイドの壁に、「トリックアート」が施されている。いわゆる、「だまし絵」である。平面に立体的に見えるモノを描いている。2014年7月からお見えしている。1年以上が過ぎた。 新千歳空港におけるトリックアートの対象は、北海道を中心とした動物たちがテーマ。動物が壁から飛び出してくるように錯覚する。子どもから大人まで記念撮影できる志向だ。サファリ―ルックや動物の食べ物を持参して、写真に納まると面白い・・。 このようなお楽しみは、都内にも幾つがあるようだ。「東京トリックアート迷宮館」がお台場にオープンしている。見て、触って、写真を撮り、遊べる美術館とか・・。主に若いカップルのデートスポットになっているらしい。お台場のテーマは江戸らしい。今回の北海道旅景色は、新千歳空港トリック絵で完結です。 写真-1 新千歳空港の展望デッキ。支笏湖の空とは異なり、青空が広がっていた。写真-2 マジカルロードのトリックアート。二人の子どももトリック絵。 写真-3 ダンスするタンチョウヅル。 写真-4 壁から飛び出すタイガー。 写真-5 宿泊ホテルの1階ロビー。お客を出迎える「青銅馬車」。
2015年10月11日
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支笏湖は、広くて深いカルデラ湖。湖面が積雲で覆われ、灰色を呈していた。まるで、恵庭岳(EL.1320m)が、綿雲(わたぐも)を生産しているようだ。お天気に恵まれると、「支笏湖ブルー」と呼ばれる青い湖に逢えたのだが・・。 新千歳空港から東方約26kmに、周囲長40.4kmの支笏湖がある。1周がフルマラソンの距離に当たる。湖岸道路として国道276号が通るが、湖を1周する道路はない。小生らは、雨の中山峠を越えて、ルスツリゾートのある喜茂別側から支笏湖に入った。 「シ・コツ」はアイヌ語で、「大きな穴」を意味する。湖の深さは、最大360mにも達する。田沢湖についで国内第2位の深さだ。学生時代、キャンプファイヤーしたモラップキャンプ場からは、恵庭岳が正面に見える。そして、夕日の美しい湖岸であることを思い出した。 支笏湖温泉からは、西に恵庭岳、南に風不死岳(ふっぷしだけEL.1102m)が湖面に映える。北側に紋別岳がある。支笏湖は、周囲を火山で囲まれた深い窪みである。モラップキャンプ場では、親子鷹のライダーに遭う。いいなあ・・と声かけると笑顔を返してくれた。新千歳空港の空は快晴だった。 写真-1 支笏湖の主・恵庭岳の後ろから、綿雲が次々と流れてくる。 写真-2 支笏湖と風不死岳を望む。「ふっぷし」とはトドマツのあるところが由来。 写真-3 モラップキャンプ場の砂浜。 写真-4 キャンプ場の駐車場で、出会った笑顔の親子ライダーさん。 写真-5 ルスツリゾート付近の尻別岳(ピンネシリとも呼ぶ)。羊蹄山は雲の中・・。
2015年10月10日
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十勝岳の山容を、近くで眺めるのに絶好な望岳台。白金温泉に泊まった翌朝、雲海を見ようと登ったが、気象条件が整わなかった。十勝岳火口から白い噴煙が穏やかに上がっていた。 白金温泉の泉質は、芒硝温(ナシリウム硫酸塩質)。湯で旅の疲れを癒し早朝、望岳台に登った。と言っても、レンターカーで12分ほどの距離。途中の橋上で、十勝岳連峰の空を染める朝焼けに遭う。標高930mの望岳台からは、十勝岳はもとより、美瑛・富良野地方のパノラマが一望できる。 十勝・望岳台は、登山口でもある。富良野岳や美瑛岳への縦走ができる人気ルート。年間1万人が登山するとのこと。駐車場のスペースは50台ほど。昔あったレストハウスの建物は見えない。スキー場の面影も残っていない・・。 標高2077mの十勝岳は、日本百名山であると同時に、活火山である。気象庁が常時監視する全国47火山のひとつだ。今年の2月に噴火警戒レベルが2から1へ引き下げられた。過去に幾度となく噴火した山だけに注意を払うとする。冬山の避難小屋はあるが、堅固な避難シェルターは建設中のようだ・・。 写真-1 十勝岳望岳台からの眺め。淡く染まった大雪山系の空。 写真-2 望岳台の碑と十勝岳の白い噴煙。 写真-3 望岳台へ向かう途中の橋で、見た朝焼け空。写真-4 十勝岳に向かう登山道。紅葉が始まっていた。 写真-5 牛1千頭が放し飼いされている白金模範牧場を眼下に見る。
2015年10月08日
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美瑛ミニ旅行の宿泊地は、旅行会社指定の白金温泉。夕食をとっている時、朝散歩するならブルーリバー橋よ・・助言された。当温泉街では、美瑛川のことをブルーリバーと呼んでいる。この橋は、美瑛川に落水する「白ひげの滝」の展望台にもなっているのだ。 白ひげの滝は、火山泥流対策が施された尻無沢の伏流水が崖の途中から湧き出すポイントである。地下水なので水量が常に一定。数条の糸になって、断崖を滑り落ちるさまが白い髭のように見えたのだろう・・。落差30m、滝幅40m程の滝である。 地下水が落水して滝になるものを「潜流瀑」という。夏冷たく、冬暖かいのが地下水。白ひげの滝は、極寒の地においても氷結しないという。温泉水も混じっているのだろうか・・。潜流瀑で有名なのは、軽井沢の「白糸の滝」(落差3m×幅70m)だが・・。 白金温泉は、昭和25年頃に復活した温泉場。以前あった温泉は、大正15年の十勝岳大噴火で泥流に呑まれてしまった。その後25年を過ぎたとき、この地に温泉が湧出した。それは泥の中に貴重なプラチナ(白金)を見つけた思いであったのだろう・・。現在、十勝岳登山の玄関口となっている。 写真-1 ブルーリバー橋から白金の「白ひげの滝」を見る。 写真-2 伏流水は白鬚となって、ブルーリバーに垂れ下がる。 写真-3 崖の途中から地下水が湧き出す「潜流瀑」の景観。 写真-4 温泉街を貫く尻無沢川。泥流をせき止める堰堤が完成している。 写真-5 美瑛川に架かるブルーリバー橋と避難シェルター通路。
2015年10月06日
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白金温泉郷近くに、神秘的な水を湛える池がある。地元では、「白金の青い池」と呼ぶ。白金温泉の北西2.5kmに位置する。また活火山・十勝岳から11km離れ、美瑛川に接している。青い池は、十勝岳噴火が生み出した偶然の産物だ。 昭和63年の十勝岳噴火では、付近に大量の火山噴出物をまき散らした。美瑛川など、火山堆積物による泥流災害を防止するために、複数の砂防堰堤を建設した。そのひとつの堰堤背面に水が溜ったのが青い池。1997年にカメラマンが発見した。まだ若々しい人造池なのだ。 青色の正体は、アルミニウム・コロイド粒子だという。このコロイド粒子に太陽光が当たると、波長の短い青い光が散乱することで青く見えるのだそうだ。火山国・日本各地に、このような青い池は数多いものと思われる。上流にあたる白金温泉から湧水する水質が主な源とされる。 立ち枯れた木々と青い水が幻想的な景観を造り出している。冬、周囲の白景色と青い池とのコントラスが美しいという。白金街道(道道966号)沿いなので大雪でない限り、通行は確保される。ライトアップする日もあるという。一度、スキーの帰りでも立ち寄りたい場所だ。 写真-1 観光客が押し寄せるようになり、一部柵も設置された。 写真-2 シラカバの散歩道と青い池。写真-3 立ち枯れ木々が年々減っているように思える。 写真-4 美瑛川左岸の堰堤と青い池。記録的豪雨に遇うと、池は大丈夫かな・・。 写真-5 青い池と十勝の雲。[ポストカードより]りたつう士。りたつう士。
2015年10月04日
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パノラマロードの小高い丘に、展望花畑「四季彩の丘」がある。JR美馬牛(びばうし)駅の南東1.5kmに位置する。訪れた時期は、サルビアやケイトウなどで丘が彩られていた。とりわけ、ブルーサルビアの紫色がお花畑にアクセントを与えていた。一瞬、ラベンダーの花かと思った・・。 四季彩の丘は、十勝岳連峰を望み、春・夏・秋の花景色を満喫できる場所だ。15万m2と広大な敷地を有し、日当りの良い斜面が広がる。園内を歩いて回るには大変だ。このため、トラクターバス「ノロッコ号」とカートが用意されている。ヒール付靴でも、花畑を動き回ることが出来る。 美瑛町および富良野町の観光に、以外と韓国人・中国人が多いようだ。大型観光バス以外にも、レンターカーを利用する「通」な韓国女性グループを見かけた。旭川空港と韓国を結ぶアシアナ航空便が飛んでいる。旭動物園に寄って、美瑛・富良野を旅する人達かもしれない・・。 丘全体がカラフルなジュータンを敷き詰めたように見える四季彩の丘。北側に位置する「ぜるぶの丘・亜斗夢(あとむ)の丘」、南側の四季彩の丘は、美瑛を代表する花園。これらの丘にも厳しい冬がやって来る。白い丘になっても元気なようだ。スノーモービルなど、冬スポーツできる娯楽の丘に変身する・・。 写真-1 ジュータンを敷き詰めたような四季彩の丘。紫色の花帯が落ち着きをもたらす。 写真-2 丘の上からブルーサルビアとホワイトサルビアを眺める人影。写真-3 カラフルな花畑と十勝岳連峰を望む。 写真-4 牧草ロールちゃんは毎年、生まれ変わる・・。 写真-5 牧草ロールが転がる丘。[ポストカードより]
2015年10月02日
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広い大地と高い空は、北海道の代名詞。とりわけ美瑛は、丘を彩る花と畑模様が美しく見える場所だ。そして、「気になる木」がある。十勝連峰が造り出す雲の豊かな表情に魅せられる人も多いようだ。 美瑛の丘で存在感を放つのは、やはり「セブンスターの木」であろうか・・。昭和51年にタバコのパッケージなり人気撮影ポイントになった。その他にも、広い農地にたたずむ多くのシンボルツリーがある。冬の吹雪をしのぐ防風林も丘陵に点在している。実に絵になるところが多い・・。 小生も昔、タバコを吸っていた。「マイルドセブン」、「セブンスター」、そして「チェリー」などを愛好した。しかし40才代の頃、宮崎・世界ベテランズ陸上大会に参加するため禁煙した。その後、国と地方に、タバコ税を支払っていない・・。 1970年日産スカイラインのCM「ケンとメリー」に登場したポプラの木も健在だ。広大な畑にポツンと立っている。北海道の風雪に耐え、高く伸びている。当時小生は、サニー・エクセレントGXのハッチバック車を乗り回していた。間もなく、冬道に弱い事が判り、前輪駆動のランサーに変更した。写真-1 パッチワークの路、交差点に立ちはだかる「セブンスターの木」。 写真-2 「マイルドセブンの丘」に並ぶカラマツの防風林。 写真-3 パッチワークの路に伸びるシラカバ並木。 写真-4 ひと際目立つ「ケンとメリーの木」。外国観光客も立ち寄るようになった。 写真-5 ジャガイモの花とクリスマスの木。[ポストカードより]
2015年09月29日
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美瑛の丘は、北の上川盆地と南の富良野分地を分ける丘陵地帯にある。過去に繰り返された十勝岳噴火の火山灰が、降り積もった台地を雪解け水が侵食した。その結果。今日的丘を連ねる独特な地形ができた。十勝岳に抱かれた町、水豊かな土地である。 昔、火山台地を削った中小の川は、灰で濁っていたと想像する。町名の美瑛(びえい)は、アイヌ語の「ピイエ(Peye)」、濁っている状態を示す語源に由来するという。現在は用水路やため池が整備されており、川の流れは、穏やかで澄んでいる。 美瑛町の最北に旭地区がある。「美瑛町発祥の地」とされる。明治27年9月、兵庫県の青年が開拓・入植のために、この地に辿りついた。新天地開拓の夢を抱いて来たのだろう。現在、東京都23区に相当する土地に約10万人が住んでいる。町役場は、9月15日を開拓記念碑と制定している。 農業が丘を美しくするという。区画ごとに栽培する農作物を変える輪作が定着している。早くから農業に機械を取り入れた結果、滑らかな斜面が出来上がった。痩せた土地と斜面に向き合った入植者の努力の丘である。欧州ではシリア難民の民族移動が問題化・・。難民にとって夢の新天地になるのだろうか・・。 写真-1 旭川方面からパッチワークの路に入る。アップダウンに富み、クロスカントリー向き・・。 写真-2 北西の丘展望台から緩やかな稜線を望む。写真-3 天高く 飛行低い 美瑛の丘。 写真-4 連なる区画畑と大雪山系の山並み。新栄の丘より。写真-5 牧草ロール人形は各所で歓迎スマイルを見せる。りたつう士。りたつう士。
2015年09月28日
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層雲峡温泉街から大雪国道(国道39号)を3kmほど行くと、銀河トンネルに至る。その手前を石狩川の方へ曲り下ると、小函(こばこ)駐車場広場と滝見台がある。飲食店とトイレがあり、大型観光バスが立ち寄る処。ここでは、層雲峡渓谷の代表的な景観を見ることが出来る。 石狩川沿いに約24kmに渡って続く断崖絶壁。この崖から流れ落ちる滝の数は多い。小函の2条は特に趣がある。不動岩を挟んで、両脇からいつも流れているので、夫婦滝とも呼ばれる。小函の銀河の滝と流星の滝だ。駐車広場から階段道を20分かけて登ると「双瀑台」。汗をかきカキ、双瀑を眺めた。 溶結凝灰岩とその柱状節理が垂直に切り立つ渓谷。節理内に雨水などが入つて、風化し易い岩盤。崩落も度々起きている。昭和62年に大規模な崖崩れが発生して、3名が亡くなっている。「層雲峡天城岩崩落災害」である。以後、大函を繋ぐ遊歩道は通行禁止になった・・。 大函は、小函の上流に位置する。大函へは銀河トンネル(延長=3.4km)と新大函トンネルを経て行くことになる。大函上流に層雲峡発電所の取水堰があるため、川の水量は少ない。「函」とは両岸の崖が立っている地形を表す言葉。開拓民は、函の中や函の上から満天の星々を眺めたのだろう・・。 写真-1 双瀑台から不動岩と2条の滝を見る。紅葉の時期に訪れたい場所。 写真-2 落差104mの銀河の滝。曲線美の滝で雌滝とも呼ばれる。 写真-3 落差90mの銀河の滝。水量が多く、無力強いので雄滝とも呼ぶ。写真-4 層雲峡の名所・大函。遊歩道は通行禁止、残念・・。 写真-5 旧大函トンネル。40年前に良く利用した「青春トンネル」。
2015年09月26日
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大雪ダムから左岸道路(国道273号)沿いに約20km進むと三国峠である。北海道の国道の中で、標高が最も高い所だ。大雪山系の原生林と大樹海を眺望できるビュースポットである。秋、エゾマツの濃い緑と黄葉が織りなす自然の大ジュータンが出現する。近年は大型観光バスも立ち寄る峠である。 小生がダム建設に従事していた昭和49年に三国峠トンネルが開通している。大雪ダム方面から車で走り、このトンネルを抜けたら左手に峠の茶屋がある。茶屋と言っては失礼になる。本格的なコーヒーを味わえる「峠Cafe」だ。店主は、春から秋にかけて200日間働き続けるという。 日本各地に「三国峠」があるが、ここ上士幌町の三国峠は、松の大樹海と雲海の名所。峠名称の謂れは、旧国名に当たる、石狩・十勝・北見の3つの国境に位置することによる。国道脇の展望台と松見大橋に立つと、空中散歩しているかのような大パノラマを体験できる・・。 三国峠から上士幌まで道路区間を、「糠平国道」ともいう。峠から約30kmゆくと糠平湖に達する。この湖には、古代ローマ時代の水道橋を思わせる「タウシュベツ川橋梁」が残っている。訪れたい土木遺構のひとつ。「幻の橋」と言われている。今回は体力を考慮して断念する。層雲峡へ引き返す・・。 写真-1 大雪山国立公園・三国峠からの眺望。右端に松見大橋が架かる。写真-2 三国峠の展望台。石狩と十勝と北見の境界付近に位置する。標高1139mの国道脇。写真-3 「糠平国道」と樹海を眺望する。黄葉に彩られる見晴らしは、これからだった・・。 写真-4 展望台から三国峠トンネルをみる。多くのライダーが憧れるルート273。 写真-5 小さな「峠Cafe」。気に入った銘柄の珈琲と絶景は贅沢なひと時だ・・。
2015年09月24日
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福岡市中洲は、那珂川と博多川に挟まれる中洲(中の島)である。那珂川の沈降物たる砂が、西日本有数の歓楽街を造ったとも言える。二級河川・那珂川は、博多区と中央区の区境ラインでもある。両区に跨る中洲エリアを結ぶ名物橋がある。 福岡(武士のまち)と博多 (商人のまち)とを結ぶ意味を込めて、「福博であい橋」が平成2年に那珂川に架けられた。全長78.2mの歩道橋。橋のたもとからは、水上バスが運行しているようだ。橋には「三人舞妓銅像」や「杯と槍のパラソル」がある。夏の夜、涼を求めて人々で、一杯になるのでないか・・。 那珂川は昔、白い砂に包まれるように流れていたのだろうか。水源の背振山(標高1065m)から35kmかけて博多湾に注ぐ。川の流況変動が大きい川だ。北九州は、大雨と少雨の落差が大きい。平成21年7月の記録的大雨で、キャナルシティ付近が危険水位になり、ヒヤヒヤしたそうだ。 那珂川が増水した際には、博多川にその一部が放水される仕組みになっている。博多川は、那珂川がキャナルシティ手前で分流して、須崎付近で合流している。博多川夢回廊という河川整備事業が完了している。20数年前のドブ川のイメージはない。博多は水辺の豊かな街である。 写真-1 中洲を結ぶ「福博であい橋」。黒田節が聞こえそうな杯と槍がモチーフのパラソル。 写真-2 福博であい橋の袂から水上バスが発着している。 写真-3 那珂川と薬院新川との合流点。 写真-4 約1kmの博多川が夢回廊として整備された。 写真-5 両岸に親水歩道がある。水面が近く、気持ち良い散歩コース。
2015年05月26日
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福岡市天神地区を堀のように流れる薬院新川に天神橋が架かる。天神橋からみて、北に赤レンガ造り、南に蒼色木造の建物がある。共に明治の薫りが漂う建築物であり、国の重要文化財である。百年前の赤い館と蒼い館が佇む、天神地区を歩いた。 昭和通りの一角に建つ「赤煉瓦文化館」は、明治42年、旧日本生命保険会社として竣工。平成14年から1階の一部が福岡市文化館として使用され、文学に関する情報室となっている。赤煉瓦と白い花崗岩の外壁はイギリス様式。どこか東京駅丸の内駅舎に似ている。辰野金吾氏の作品のひとつ・・。 那珂川と薬院新川との三角エリアに天神中央公園があり、その中心にフレンチ・ルネッサンス風の旧公会堂貴賓館がある。赤煉瓦文化館と同時期の明治43年に竣工。戦前は皇族の宿泊施設、戦後は高等裁判所・県教育庁舎を経てメモリアル館となる。館内部にカフェレントランがある。 貴賓館の西側に巨大な平成の建物が迫る。1995年に開業した公民複合施設、「アクロス福岡」である。階段状のステップガーデンは、日本最大級の屋上緑化事業とか。貴賓館が建てられて85年を経て、地球温暖化対策が建物に要求された。地上14階ビルの「山」は、福岡市のランドマーク的存在だ。 写真-1 天神橋の北側に建つ「赤煉瓦文化館」。東京駅丸の内駅舎に似ている。 写真-2 イギリス様式の赤レンガ建造物の前に、水鏡(すいきょう)天満宮の鳥居がある。 写真-3 天神中央公園のシンボル「旧福岡県公会堂貴賓館」。 写真-4 フレンチ・ルネッサンス風の木造建物。夜ライトアップされる。写真-5 福岡天神の山、ステップガーデンの「アクロス福岡」。地上14階建て。
2015年05月24日
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大宰府天満宮の丘に建つ九州国立博物館。国立として4番目の博物館である。通称、「九博・きゅうはく」と呼ばれる。開館して九年が過ぎた。9年間の入館者数が1,200万人を突破した。予想外の盛況と言われている。 天満宮本殿からみて、南東の丘に博物館がある。境内から最短でアクセスできるようにトンネルが掘られた。神社風のエントランスからエスカレーターで約30m昇る、虹のトンネルが待っている。動く歩道が敷設されたトンネル内が虹色に輝く。来館者の心をときめかせる光の効果である。 「九博」の特徴は、レキハクである。他の3つの国立博物館の美術系とは異なり、歴史系とされる。コンセプトは、「日本文化の形成をアジア史的観点から捉える」とのこと。歴史の学習・研究に役立つ建物のようだ。天満宮境内にいた就学旅行生の一団が、展示品を取り囲んで説明を受けていた。 博物館の建物は近代的で大きい。高さ36m×長さ176mの規模。山に囲まれ、大宰府の景色に溶け込むように設計されたという。しかし、歴史が深く、「遠の朝廷」と呼ばれた場所を想えば少し淋しい・・。輝き過ぎだ。自然界から乖離している。ガラス工場または巨大な植物園のように見えてしまう・・。 写真-1 天満宮境内から「九博」の出入口。入ってすぐに約30mエスカレーターに乗る。 写真-2 虹のトンネルを出ると国立博物館・きゅうはく。 写真-3 山並みをイメージした曲線的大屋根が特徴的な九博建物。 写真-4 スギの間伐材が使用されているエントランスホール。 写真-5 開館10周年記念特別展「戦国大名」が5月末まで。
2015年05月23日
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大宰府天満宮は、樟若葉色に彩られていた。天満宮境内を含む一帯は樹木が多く、「天神の森」と呼ばれる。約100本のクスノキが若葉をつけ、境内全体が清々しい空気に包まれる。誠心館の横に立つ大樟は、樹齢千年以上とされ、国の天然記念物である。 心字池に架かる三橋(手前から過去、現在、未来)を渡ると、朱塗りの楼門が待っている。この門は前後で建築様式が異なっている。参道から観ると屋根が二層の二重門。本堂側から観ると一層の屋根となっている。現在の楼門は、明治時代火災で焼失したものを大正に入り再建したもの。 訪れた日、修学旅行生が大勢いた。若草色のおみくじを結ぶと、境内の彩が増す。天神様の学才にあやかることも就学の一つのようだ・。太宰府天満宮は菅原道真の墓所。年間700万人の人々が訪れる天神信仰の聖地である。 境内には見どころが沢山ある。神牛、絵馬堂、志賀社など。あと2週間ほど遅ければ、3万本の花菖蒲を鑑賞できた。15年ぶりの大宰府天満宮。この後再訪することはないと思う・・。梅ヶ枝餅をランチとして、花崗岩の鳥居に別れを告げた。 写真-1 樟若葉に囲まれる大宰府天満宮の楼門。二層の屋根を持つ二重門。 写真-2 本堂から観た一層屋根の楼門。年間700万人がこの門を通る。 写真-3 四季に応じて色が変わるおみくじ。若草色が境内を彩る。写真-4 児童たちの熱中症対策だろうか。大きい絵馬堂は涼しい・・。写真-5 天然記念物の大樟。樹齢千年を超え、樹高さ36m。
2015年05月21日
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史跡足利学校の北に接する鑁阿寺(ばんなじ)は、新緑に囲まれていた。「お隣さま」と言える近さの距離である。大日大門通りの石畳を歩き、堀に架かる太鼓橋を渡ると南門・山門。金剛山の扁額と「丸に二つ引き両」の家紋が目をひく。 平成25年に国宝に指定された鑁阿寺・本堂。東日本で最も古い禅宗様を取り入れた建築物だという。全体の規模としての建物の様式は、鎌倉時代後期(1299年)のものであることが評価された。 本堂、経堂、多宝塔、鐘楼からなる境内は、一辺200mの方形をなしている。面積約40,000m2の周囲には、土塁と堀を張り巡らせている。国の史跡として、「足利氏宅跡」として登録されている。鎌倉時代の武家屋敷の面影が偲ばれる。日本の100名城の一つでもある。 屋敷内で最も目立つ新緑は、多宝塔横の大銀杏だ。地上3mのところで2本に分かれているが、樹高32mもある。樹齢は550年。その頃といえば、山名宗全と細川勝元が京都で合戦をしている時期。遠く坂東の地においても、応仁の乱と無縁でない。お隣では、兵学・易学が好まれる秋になっていた・・。 写真-1 足利鑁阿寺の太鼓橋と三門。写真-2 平成25年に国宝となった鑁阿寺本堂。 写真-3 庭園と鐘楼(国の重文)。 写真-4 新緑の大銀杏をバックに多宝塔。 写真-5 山門(仁王門)から本堂を観る。
2015年05月12日
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日本最古の学校と言われる足利学校。JR足利駅から北へ500m程の距離にある。大正期には「足利学校跡」として、国の史跡に指定されていた。昨今、西国の松下村塾が世界文化遺産になりそうだ。ここ足利学校は、中世から学ぶ心と礼節を教えて来た。坂東の大学とも呼ばれたブランド銘柄だった。 明治5年に廃校となってからは孔子廟と学校門のみが片隅に。他の建物は見る影もなかった。1980代に入り、史跡の保存整備事業が始められ、平成2年に放丈・庫裡などの建物と庭園が復原された。学徒三千人が学んだ往時をしのぶ姿をイメージできる。 足利学校の最盛期は、戦国時代・北条氏政の庇護を受けていた頃であろうか。戦国武将は、足利学校出身者の広い知識と易学、そして人的ネットワークに着目して登用したものと思われる。しかし江戸期には戦が無くなり、自学自習の場所、もしくは豊富な蔵書があるため図書館のように使われた。 最近、史跡足利学校は日本遺産に認定された。日本遺産とは聞きなれない用語だ。雑駁にいうと、世界遺産暫定リストに載った文化遺跡群のようなもの。なお近代日本の教育遺産群は、水戸市・旧講道館、備前市・旧閑谷学校などから構成されている。日本遺産は今後どのように広がるのか見守りたい。 写真-1 復原された方丈と庫裡。 写真-2 春モミジと学校門。 写真-3 孔子廟(大成殿)を見学する若い人々。 写真-4 講義・接客など多目的に使用された座敷(方丈)。 写真-5 寛いで、方丈縁側から南庭園を見る。
2015年05月11日
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遠方より巨大な藤棚をたずねて5月3日、約4万人が訪れたという「ふじのはな物語2015」。主役の大藤のみならず、脇役花陣も素晴らしい。園内いたる処に、思わず記念写真を撮りたくなるビュースポットが用意されている。「白藤の滝」や「むらさき藤スクリーン」などは、アート園芸だ・・。 足利フラワーパークの最寄り駅はJR両毛線富田駅。徒歩13分と絶好な駅だが、列車本数が少ないローカル線。従って、東武線足利駅からシャトルバスでアクセスする人が多い。園では今年から6,000台収容可能な無料駐車場を整備した。大勢の人が押し寄せると、駐車場とトイレがまず問題となる。 CNNで取り上げられた後、国内各局が「はなふじ」を放映している。特にライトアップされた藤は、幻想的だ・・。ファンタジックな世界、または童話のような別世界がある。恐らく、照明が落ちると夜空の星も美しく見えると思う。次回訪れことがあれば、 夜の部ツアーにしようと意見が一致する。 世界の夢の旅行先として、オーロラのフィンランドに並んで選ばれた足利フラワーパーク。選定理由の背景に、映画アバターの影響がある。興行収入26億万ドルを記録した大ヒット作品だ。「衛星パンドラ」の先住民族の聖地にある「魂の木」と、ライトアップした大藤が重なるようだ・・。聖地巡礼なのか・・。 写真-1 あしかがフラワーパーク「ふじのはな物語」の舞台。水上花壇を眺める。写真-2 「白藤の滝」はライトアップされた夜が美しい。風で揺れると滝音が聞こるとか・・。 写真-3 「むらさき藤のスクリーン」。藤ソフトクリームを食べた場所。 写真-4 「うす紅橋」の上に立つと華やなか気分になる・・。 写真-5 来園の記念写真撮影スポットのひとつ。
2015年05月08日
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東京から80km離れた内陸地方に驚きの藤園がある。開園して18年余りの「あしかがフラワーパーク」。人口270名の足利市迫間(はさま)町の中央部に位置する。奇跡の物語は、樹齢100年を超える大藤を、この場所に移植した1992年から始まる。当時、藤の老木は立ち枯れるだろうと誰しも考えた。 当園の「ふじのはな物語」と称する藤まつりを訪れた。350本以上の藤があり、敷地面積82,000m2の広い花公園。海外の人を含めて、年間110万人もが入園するという。国内のフラワーパーク部門ではダントツの盛況だ。2014年CNNが選ぶ「世界の夢の旅行先9か所」に、日本で唯一選ばれた場所だ。 フラワーパークの運営は柔軟性に富む。VE手法的でもある。最少のライフサイクルコストで必要な機能を作りだすこと。V(価値・満足度)=F(機能) /(コスト)。季節や気象条件により、開園時間と入園料金を変える。当日の朝、入園料金を決定している。この時期1700円が高いと思わせない花景色がある。 当フラワーパークに従事する人は100名ほど。小さな町での雇用と働き甲斐を創出している。昨今、地方創世が叫ばれ、金太郎飴のように多くの自治体で「プレミア商品券」を発売するようだ。ここフラワーパークの試みは、地方創世を考える貴重な例だ・・。写真を沢山撮ったので、次回に続く・・。写真-1 世界が注目した夢の場所・あしかがフラワーパーク。大藤棚とツツジの海が圧巻・・。 写真-2 樹齢150年におよぶ広さ1000m2の大藤棚が二つ並ぶ。写真-3 花房が最長1.8mにも成長するという「野田9尺藤」。写真-4 白藤トンネルの長さは80m。 写真-5 桜色に輝く、うす紅の棚。
2015年05月06日
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水戸偕楽園は、水戸市民の宝のみならず日本三公園のひとつ。東日本大震災の影響で客足が減少したといえ年間100万人を超える人が訪れる。梅と桜が散った端境期に、好文亭(こうぶんてい)を訪れた。団体バスツアーなので、1時間弱の滞在だった。 好文亭は天保13年(1842年)、徳川斉昭(烈公)が別邸として建てたもの。藩内の人々が学問および武芸を励むかたわら、この亭で心身を保養するための施設だ。今でいう福利厚生施設であろうか。3階の楽寿楼からは東・西・南の展望が利く。梅の時期は絶景だ。3月上旬ケネディー駐日大使が訪れている。 斉昭公の息子に、第15第将軍慶喜がいる。幕末、幕政方針と将軍継嗣について井伊直弼に敗れ、蟄居させられた斉昭。直弼の開国、斉昭の攘夷だ。外国の事情に明るく、西洋近代兵器の国産化を推進したのは烈公だった。期せずして両者は1860年に没した。 表門(黒門)をくぐると左手に孟宗竹林が広がる。斉昭公が遠い京都から移植したものだという。弓の材料に最適だとの理由。武具にこだわりを持つところは、信長や信玄に通ずるものがある。戦国武将に生まれていたら、湊と水軍に力を入れたのではないか・・。 写真-1 好文亭から仙波湖を望む。ケネディー駐日大使もここから景色を楽しんだ。 写真-2 表門(黒門)と一の木戸を観る。黒門は偕楽園の正門に相当する。 写真-3 一の木戸と孟宗竹林。 写真-4 つつじ咲く庭園と好文亭。 写真-5 好文亭のつつじの間。藩主夫人お付き人の詰所。
2015年05月03日
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ひたち海浜公園・西口ゲートからすぐ近くに、たまごの森がある。木漏れ日が注ぐ中、多彩なチューリップ群がアートになる。チューリップの地上絵のようだ。「森に舞う蝶」、「大きなキノコ」、「流星」などをモチーフにして、彩色と品種を選定して来園者たちを楽しませてくれる。 今年のフラワーガーデンは、過去最多となる262品種×27万本のチューリップを揃えたという。ジグゾーパズルのように、球根を植え付けるのだろうか。そのうち巨大なモザイク画が出現しそうだ。森の中とあって、適当に日蔭があるのが良い。広範な世代の笑顔が見られる森である。 チューリップの伝来は、江戸時代だという。しかし高根の花で普及しなかった。大正期に入って、新潟の小合村で本格的に球根栽培が始まったとされる。米作の裏作として導入された。湿潤な気候を好むチューリップにも幸いだった。ひたち海浜公園も海岸沿いなので、乾燥しない環境がある。 チューリップの名所は、日本各地にある。最大の規模を誇るのは、富山県・砺波チューリップ公園の250万本。品種が多いのは長崎県・ハウステンボスの700品種だという。関東エリアでは、佐倉チューリップフェスタ(70万本)、昭和記念公園(20万本)が有名。家族づれ、カップルで楽しみたい花景色である。 写真-1 たまごの森フラワーガーデン。森の中を流れる花の小川がある。 写真-2 チューリップより桜を撮影する人たち。 写真-3 青・水色・白のムスカリが作る三重の円。 写真-4 ミックスガーデンとタマゴ。 写真-5 定番となっているチューリップ畑の水車。
2015年05月02日
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北海道の知人が来た。相棒と3名で日帰りバスツアーに参加した。花の時期なので、国営ひたち海浜公園・みはらしの丘の徘徊+寿司食べ放題の企画だ。訪れた日ネモヒィラは、7分から8分咲きで迎えてくれた。好天に恵まれ、スカイブルーの世界を歩くことができた。 みはらしの丘は、ゴールデンウィークに合わせてネモヒィラ・ブルーに染まる。ネモヒィラは「赤ちゃんの青い瞳」との異名がある。4百万を超える小さな瞳は、斜面に吹く風で笑っているように見える。海側の斜面には、「ネモヒィラの地上絵」と命名した白い鳥の模様が出現していた。 トップ標高58mの小さな丘ではあるが、四季ごとに色彩が激変する。年サイクル色は、青-緑-赤-白である。春はネモヒィラの青。夏はコキアの若葉。秋はコキアの紅葉。冬はネモヒィラの防寒シート。ネモヒィラは、6月に刈り取り、12月初旬に種蒔きをする。その後白いシートの下で正月を過ごすようだ。 昨年ひたち海浜公園の入園者は176万人を超えて、過去最高を記録したという。ここにも外国観光客の影響が出ている。昨年5月4日の入園者数は、71,600人。毎年4月と5月で年間の半分を占める。近くに那珂湊漁港があり、新鮮な魚介類と寿司店が多いことも、集客数増に繋がっている・・。 写真-1 ひたち海浜公園・みはらしの丘。450万本ネモヒィラは7分から8分咲き[4月25日]。 写真-2 みはらしの里からネモヒィラの丘を望む。 写真-3 白い鳥が飛翔する「ネモヒィラの地上絵」。 写真-4 みはらしの丘頂上を見上げる。 写真-5 インシグブルー(赤ちゃんの青い瞳)に埋まる丘。
2015年04月30日
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三嶋大社は、静岡県における桜の名所のひとつ。旧東海道筋に面する大鳥居から本堂への参道沿いに約200本の桜が並ぶ。大鳥居を抜け、北へ神池、総門、神門、舞殿を次々過ぎると約300mで本殿に至る。本殿は江戸期末期の建築物で、国の重要文化財。参拝する人は、横に広がらずに縦に並ぶ。 大鳥居と総門間の参道100mの両側に神池が配置されている。長さ90m×幅40mの2つ池は繋がっている。上空から見ると人の肺のような形状だ。池の淵に桜が植えられ、水辺のシダレザクラが華やかさを演出する。西の神池には、北条政子を勧請したという厳島神社が祀っている。 三嶋大社神池(心池とも言う)の水は、境内の井戸から汲み上げているという。昔、ウナギが生息したこの池には、耳の付いた鰻伝説がある。神の使いとして大切に扱われた時代があった。今は大きな鯉が泳いでいる。ゴミの除去と富栄養化の防止のため、毎年5月に池の水を抜いて大掃除をする。 江戸期大鳥居前は東海道と下田街道が分岐する場所。東海道五十三次の11番目の宿場町が三島。歌川広重がこの鳥居を描いている。朝靄の中、出立する旅人は籠と馬を調達している。これから箱根の宿へ向かうのであろう。それとも沼津宿または修善寺へ行くのだろうか・・。 写真-1 三嶋大社神池の東池。枝垂れ桜と総門を眺める。「4月3日撮影」 写真-2 厳島神社のある西池と総門を見る。 写真-3 厳島神社へ渡る赤橋。橋からは錦鯉が良く見える。鰻はいない。 写真-4 三嶋大社本堂へ参拝者の列。 写真-5 広重・東海道五十三次「三島」。朝靄の出立。
2015年04月22日
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桜めぐりツアーの宿は、笛吹市石和温泉。笛吹川沿いに建つホテルの部屋からは、笛吹橋と富士山の一部が見えた。宿泊ホテルから近津用水(ちかつようすい)沿いの桜まつり会場まで、歩いて5分程度。ディナー後、夜桜見物にそぞろ歩く。 近津用水は、石和温泉街のほぼ中央を東西方向に貫流する灌漑用水。明治34年には、組織された水利組合があった。約1kmに渡って、桜並木(樹齢約40年)とウッドデッキが整備され、散策するにはもってこいのコース。この地においても夜桜見学者は、外国人の方が多い・・。 石和温泉は高度経済成長の時代、昭和36年から興った。比較的、歴史が新しい温泉場だ。突如、果樹園から湧出した温泉により、町は一変した。全盛期には近津用水を軸に、約120軒の温泉・宿泊施設があった。今は50軒程度に衰退して、盛り場も激減した。 近津用水路から北へ1.5kmほどの距離に山梨岡神社があり、甲斐の火祭りの「笈形焼き」が行われていた。一辺が400mほどの鳥居文字が、春日居町・御室山に燃え上がる。但し、電飾の灯だ。桜まつりと送り火の取り合わせは、思い出の旅景色となる・・。 写真-1 ホテの4階部屋から笛吹橋と三ツ峠方向を望む。「4月3日撮影」 写真-2 石和温泉街を貫流する近津用水路と桜並木。 写真-3 ライトアップされた桜並木とウッドデッキ。写真-4 夜桜と御室山の笈形焼きの情景。 写真-5 部屋から見た夕富士。ホワイトバランスを蛍光灯に。
2015年04月19日
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塩山市の慈雲寺の枝垂れ桜は、イトザクラと呼ばれ、県の天然記念物。本堂より高い木の枝から四方に垂れ下がる長糸に例えられた名前だ。地元では春を知らせる美樹として愛されてきた。一本の木で境内全体をさくら色に染める織物のようだ・・。 国道411号線(青梅街道)の塩山中萩原の丘陵地に建つ慈雲寺。大菩薩峠まで直線で12kmほどの位置関係。甲府盆地を一望できる中萩原地区は、桃の生産が盛んで「塩山桃源郷」とも呼ばれる。 江戸期、慈雲寺は私塾(寺子屋)が開かれ、地方の教育施設の色合いが強かったという。樋口一葉の父親は長百姓ではあったが、此処で学び江戸へ旅立った。明治維新後、東京府庁に務めたとされる。大菩薩峠を越えて希望の地へ出向いたのだろう。 慈雲寺境内の片隅に、樋口一葉文学碑が大正11年に建てられた。彼女のロマン主義的な読み物は、当時なかなか売れなかった。一葉が生まれた頃のイトザクラは、樹齢150年程と推定される。華麗な糸時雨のような桜に強い思いがあったのだろうか・・。 写真-1 桃畑から慈雲寺を望む。「4月3日撮影」 写真-2 慈雲寺の山門。生臭い野菜を食した者、酒を飲んだ者は立ち入りを禁ずる門柱有り。 写真-3 高さ14m、樹齢300年の慈雲のイトザクラ。 写真-4 桃色の糸時雨の中を行ったり来たりする。 写真-5 参道で樋口一葉女子像と目が合う。
2015年04月16日
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甲斐武田氏の菩提寺・恵林寺(甲州市塩山)に着いたのは夕刻だった。本堂内部の参観時刻は16時30分まで。靴を脱ぐことはなかった。団体行動なので、時間的に遅れなるのは、仕方がないことだ。柳沢吉保公の墓所もあった。 恵林寺は、雁坂道(国道140号線)を通す笛吹川の新隼橋の近く建つ。ドライブイン「信玄館」が隣接している。トイレ、食事、お土産など、とても便利な施設だ。総門(黒門)から真南方向に白い富士が見えた。富士山からみると、北約50kmに恵林寺がある。 「雑華世界」から総門をくぐり、桜並木の参道を200m進むと四脚門(赤門とも呼ぶ)がある。桃山時代の威風を残す門で、国の重要文化財。門の扁額には乾徳山(けいとくざん)の文字。桜満開の時期と重なり、回遊式庭園をウロウロする。 三門には快川和尚の有名な「心頭を滅却すれば、火も自から涼し」の扁額が掲げられている。天正10年(1582年)、織田軍の焼き討ちをうけた際、快川紹喜が燃える三門の上で発した遺喝とされる。その2カ月後、織田信長も、本能寺で火中の人となる・・。 写真-1 恵林寺の総門前。黒門とも呼ばれ、雑華世界の扁額が掲げられている。「4月2日撮影」 写真-2 四脚門(赤門)をくぐると、名勝の庭園である。 写真-3 快川和尚の遺喝「滅却心頭火自涼」の扁額がある。 写真-4 池泉回遊式庭園の桜は満開。 写真-5 恵林寺から南に、夕日を浴びる富士が見えた。
2015年04月13日
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日本三大桜のひとつ山高神代桜は、山形県北部の北杜市の実相寺が住まいである。樹齢約2,000年とも言われ、不死身のエドヒガンザクラだ。岩のような主幹から伸びる枝からは、生命力が伝わってくる。台風や大病を患ってなおも花を咲かせる。老兵は死なず・・の感がある。 大津山実相寺は、国道20号(甲州街道)の牧野交差点から西へ2kmほどの丘陵地に佇む。国道20号線と平行に南流する釜無川に大武川が合流する辺りだ。甲州街道の宿場・台ケ原に近い。旧武川村は昔、馬の産地。武川衆とは、甲斐国の辺境武士団で、武田家臣団に属していた。 以前、神代桜種が話題にのぼった。平成20年に若田さんと宇宙旅行して戻ってきた「花伝説・宇(そら)へ」のこと。実相寺近くの武川小学校六年生が採取した種である。地球に帰還した種を発芽させたところ、2年後に開花したという。通常は6年ほどかかる。無重力状態など宇宙環境が桜を早熟にしただろうか。 平成13年頃、神代桜は枯死寸前の状態になった。翌年から「樹勢回復処置」として、4年間の闘病生活を送った。原因は根の病気と根元土の酸欠のようだ。根周辺の土を丁寧に入れ替えることによって元気を取り戻した。多くの棒・杖に支えられ恰好が悪い。しかし神代の時代を知っている「老人」の一人だ・・。 写真-1 三門をくぐると、黄色と白いラッパスイセンが出迎える。好天なら八ケ岳が見えるが・・。 写真-2 実相寺本堂へ続く参道のしだれ桜は満開。 写真-3 多くの棒・杖で支えられている山高神代桜の容姿。 写真-4 三春・滝桜の子桜を植えている。神代桜の子桜は岩手県大槌町に寄贈したとのこと。 写真-5 大津山実相寺は日蓮宗の寺院。
2015年04月10日
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富士川の上流50kmの山中に身延山久遠寺がある。標高370mの境内には、祖師堂など多くの伽藍が南を向いて並んでいる。この時期特に目を引くのは、2本のしだれ桜。樹齢400年を超えるという。参拝者や登山者を癒してくれる。訪れた日は、雨に濡れて文字通りのシダレザクラであった。 身延山久遠寺は、日蓮宗における最高の聖地。寺院数5160ケ寺、僧侶数8150名の頂に立つ総本山である。日蓮上人は1274年に入山して、9年間法華経を読誦したとされる。教義が長く久しく伝わることを願って、久遠寺と命名したという。 久遠寺境内の建造物は、明治初期に再建されたものばかり。明治8年1月の大火で、ほとんどの伽藍が焼失してしまった。その中で祖師堂は江戸期のものと言える。安藤対馬守の下屋敷敷地にあった感応寺(豊島区)の主要材料を保管していた鎌倉・妙本寺から水運で富士川を上り、久遠寺まで運んだそうだ。 久遠寺しだれ桜は、旅行ガイド社による全国しだれ桜10選に入るそうだ。内6選は京都・奈良で占められる。残り4か所は、山梨県(2)、福島県(1)、東京都(1)。4月上旬に相棒と山梨方面へのさくらバスツアーに参加した。大型バス2台で最寄り駅前から出発した。しばらく、お付き合い願いたい・・。 写真-1 身延山久遠寺の三門。三解脱門とも云われ、扉が無い。日本三大門のひとつ。 写真-2 三門を抜け、菩提梯287段を上る。七文字(南無妙法蓮華教)にちなんで7つに区切られている。 写真-3 久遠しだれ桜と祖師堂。水分を含んだ重い花びらを支える古木。 写真-4 桜の雨が降るようなシダレザクラで雨宿り・・。 写真-5 雨に煙る山容と五重塔。
2015年04月07日
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松山城下、青緑の森に白く輝く洋館がある。「よろず みどり やかた」を意味する萬翠荘(ばんすいそう)である。国道11号から松山地方裁判所を抜けた裏山に位置する。坂の上の雲ミュージアムから眺めると、おとぎの国のお城のような佇まいだ。 萬翠荘は、旧松山藩主の子孫・久松子爵が建てたフランス-ルネッサンス風の別邸。天然スレート板を使った屋根と緑青色の銅版頂部がアクセントになっている。愛知県で最も古い鉄筋コンクリート造、地下1階・地上3階、268坪の洋館。平成23年に国の重要文化財に指定、末永く保存されることになった。 美しさと気品ある建物なので、戦前は皇族方の滞在地、各界の社交場となった。戦後は多くの団体が運営してきた。米軍将校宿舎、松山商工会議所、家庭裁判所、県立郷土芸術館そして県立美術館分館を経て、文化・観光施設となっている。 訪れた日は、ゲストルームで水彩画の個展が開かれていた。ステンドグラス、凝った暖炉、水晶の豪華シャンデリアなど大正浪漫が詰まっている。民間が管理・運営しているので、館内各部屋は様々に利用されているようだ。結婚式を挙げた幸なカップルもいる。萬翠荘の見学を終え、リムジンバスで松山空港へ向かう。 写真-1 坂の上の雲ミュージアムからみた萬翠荘。 写真-2 大正11年に建てられたフランス-ルネッサンス風の別邸。 写真-3 皇族方がしばしば滞在した迎賓室。バルコニーがある部屋。 写真-4 ライトアップされた萬翠荘。パンフレットより。 写真-5 伊予灘へ向かって離陸する飛行機。松山空港展望デッキにて。
2015年03月09日
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四国霊場・第51番札所にあたる石手寺は、摩訶不思議な場所である。山門(仁王門)を潜り境内に入ると、鎌倉時代の寺院が残る古刹であるが・・。本堂の裏手に立ち入ると、別世界に入り込んだように感じるのは小生だけであろうか。表石手寺と裏石手寺とがあるのだ。 衛門三郎の石伝説や空海の来所などから、安養寺から石手寺に改名したお寺。安養寺の創建は729年とされる。伝説にある子どもが握っていた石は、宝物館に大切に安置されている。石手寺の見どころは、運慶の作が収まっている仁王門である。門通路側に高さ4.5mの大ワラジ2足が掲げられている。 本堂裏のマントラ洞トンネルを150m進むと、「裏石手寺」に出る。そこは、可笑しさと気味悪さが同居する空間だ。マントラ塔内には、大量の木彫り仏像が収蔵されている。マントラ巡礼を済ませ、「表石手寺」に戻るとほっとする。鎌倉時代の三重塔(国の重文)が新鮮に見える・・。 道後温泉から東約1.2kmに位置する熊野山石手寺。境内中央部に道後温泉に関係するものがある。源泉が流れる音を聞くことができる「湯音石」がある。石に耳をつけると、わずかにゴーという音が聞こえる。風の音のように思えたが・・。「石」にまつわる事が多いお寺である。 写真-1 石手寺本堂前の石段に構える巨大な金剛杵。写真-2 国宝の山門(仁王門)。運慶の仁王像と大ワラジが見どころ。 写真-3 鎌倉時代の三重塔。手前に湯音石がある。 写真-4 石手寺の東小山に立つ高さ16mの日中友好大師像。 写真-5 「裏石手寺」にいる絶食の修行僧像か・・。
2015年03月08日
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日本最古の温泉と言われる道後温泉。但し有馬温泉や白浜温泉も同様に主張している・・。道後温泉のシンボルは白鷺である。傷ついた白鷲が岩の間から流れ出る湯に浸り、癒えて飛び去った。それを見た村人が温泉の効能を知り、広めたのが道後温泉の起源とされる。アルカリ性の滑らかな湯である。 道後温泉本館が現在のような姿になったのは、120年前の明治27年だという。先ず、神の湯本館が建ち、続いて霊の湯棟・又神殿が明治32年に、玄関棟・南棟が大正13年に増築された。これらの建築物は、いずれも国の重要文化財となっている。 日が暮れる夜空に浮かび上がる塔屋がある。赤いギヤマンの窓を持つ振鷺閣(しんろかく)だ。ネオンなど無かった時代、赤い輝きと白い鳥は広告塔の役割があったはず。また120年間変わらず時を鳴らしてきた太鼓楼でもある。朝6時の開館時および正午、18時に響く音だ。道後には音風景がある。 公衆浴場として百年以上も使われてきた本館は、基礎部分の老朽化が著しい。根本的な改修が迫られている。2006年に工事費を試算している。しかし「坂の上の雲」の放映などもあり延期になっていた。国民体育大会(2017年)後に、工事着手するらしい。より安全・安心な施設に生まれ変わることを願う。 写真-1 道後温泉本館玄関棟の様子。神の湯階下コース(410円)に入浴した。 写真-2 夜空に浮かぶ赤いギヤマンとシロサギ。改修前は、こちら北面に玄関が3つあった。 写真-3 朝の道後温泉駅前。 写真-4 振鷺閣をイメージしたカラクリ時計と足湯・放生園。写真-5 道後公園展望台から松山城を望む。
2015年03月05日
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伊豆稲取地区は「雛のつるし飾り」の発祥地と云われる。九州柳川地区の「さげもん」、山形酒田の「傘福」と並んで日本三大つるし飾りの町。稲取温泉近くの文化公園・雛の館を訪れた。 稲取の雛のつるし飾りの風習は、江戸時代までさかのぼる。ひな人形を購入できる裕福な家庭が稀な時代、せめて初節句を祝いたいとの親心から生まれたという。戦後途絶えていた伝統和裁細工は、平成5年頃この地区の婦人会が復刻した。 東伊豆町の南端に位置し、河津町と接する稲取温泉。稲取文化公園・雛の館は、伊豆急行線・伊豆稲取駅から南に約1kmにある。東伊豆町の人口は約1万4千人。北の熱川地区と南の稲取地区に2分されている。稲取には小さな天然良港があり、朝市で賑わう港まち。金目鯛の産地。 稲取港は、江戸城の築城石(伊豆石)を供給した積出港のひとつ。駅前には「江戸城築城石ふるさと広場」があり、当時の活気が偲ばれる。伊豆石は堅固・緻密な安山岩で、石垣の角石や門に使用された。江戸城・富士見櫓の石垣にも使用。風待ちや時化などで逗留する船員は、稲取温泉で英気を養ったことだろう・・。写真-1 稲取・雛のつるし飾りと御殿ひな人形。 写真-2 伝統和裁細工を展示。よく見ると赤い金目鯛がいる・・。 写真-3 向かって右側が柳川の「さげもん」。柳川・稲取・酒田が日本三大つるし飾りとの説明書。写真-4 稲取温泉の文化公園・雛の館。つるし飾り数約1万1千個が展示されている。写真-5 伊豆稲取駅の江戸城築城石ふるさと広場にある案内看板。
2015年03月03日
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春の訪れが一足早い伊豆半島・東海岸。天城連山から流れ出す河津川(流路長さ10km、二級河川)の土手沿いに、約800本の河津さくらが植えられている。訪れた日は生憎の雨天、足元が悪い。しかし相棒には、「春雨じゃ 濡れて参ろう」と呟き、桜散歩する。雨は花びらを一層、濃い桃色・淡紅色にしてくれる。 河津桜は、昭和30年に発見された品種で、緋寒桜と大島桜との自然交配種だという。昭和49年頃から徐々に植栽され、河津町の町木となった。原木は観光客が記念写真するスポットだ。飯田家所有の原木は、樹齢60年・樹高10mとされる。町道のすぐ脇なので、車の往来に気を付ける必要がある。 139源泉数を誇る河津町。河口から上流2.8kmの右岸側に「峰温泉大噴湯公園」がある。大正15年に突然、大噴湯。当時空中に舞い上がった高さは50m。現在も毎分600リトルを噴出している。公園の中央に一本の鮮やかな河津温湯桜が立っている。足湯に浸かり、桜と湯けむりを鑑賞する。 河津町の人口は約7,800人。平成元年には9,200人がいた。過疎化が進む。高齢化率は、静岡県の上位7位の37パーセント。町が華やぐのは、春の1ケ月間。河津さくらまつりには100万人が訪れるという。一方、地方から都会に出た中学1年生が無残に殺害された。地方で頑張って欲しかった。惜しまれる。 写真-1 河津川両岸の桜並木。アユが遡上する伊豆有数の川。 写真-2 早咲きの河津桜と共に、スイセンや菜の花も彩る。 写真-3 幹が雨に濡れて艶やかだ。 写真-4 峰温泉大噴湯公園の温泉さくら。足湯から眺める。 写真-5 河津桜の原木がある飯田家の前。通行の車に御用心。
2015年03月01日
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レトロな洋風建物の正門前を路面電車が往来する松山市一番町。青いドーム屋根が特徴の愛媛県県庁舎本館。玄関には、祝ノーベル物理学賞受賞者・中村修二教授の垂れ幕があった。徳島大学を卒業して、徳島の科学会社に一時就職していたので、愛媛県県民賞とは以外だった。 愛媛県庁舎本館は、昭和4年(1929年)に建てられ、今も大切に使われている。左右対称の建造物で、上から見ると鳥が翼を広げているように見えるという。正面玄関・車寄せの壁には、御影石が使われ重厚感がある。アーチ形出入口と白い壁の内部は、明るく開放的な造りとなっている。 県庁舎本館建物は、築86年とは思えない外観である。鉄筋コンクリート造4階建。20前に大修繕している。外壁の仕上げは、「人造石洗い出し工法」とされ、多くの左官工が集められたという。種石を練り合わせたモルタルを上塗りし、その後洗い出して自然の風合いを再現している。 県庁前を通る路面電車は、創業127年の伊予鉄道が運営している。運が良ければ、「坊ちゃん列車」に乗ることができる。2001年から運行され、現在2台のディーゼル機関車が活躍している。しかし坂道に弱く、脱線あり、方向転換も人力によるらしい。坊ちゃん・ボッチャンしている乗り物のようだ。 写真-1 東堀端通りから路面電車と県庁舎建物を観る。 写真-2 築86年を迎えた愛媛県県庁舎本館の佇まい。 写真-3 正面玄関の「祝ノーベル物理学賞受賞者・中村修二教授」垂れ幕。 写真-4 明るく柔らかな印象の庁舎内部。 写真-5 道後温泉駅に駐機されている「坊ちゃん列車」
2015年02月26日
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伊予15万石の松山藩は、徳川家の親藩だった。藩のシンボル・お城は、山中に大量の石垣を連ねた「連郭式平山城」。現存する全国の12天守の中で唯一、葵の紋がある。丸に三つ葉葵の瓦が使用されているのだ。幕末、長州藩とは瀬戸内海を挟んで向かい合う関係にあったにもかかわらず・・。 明治維新において、幸運にも城郭建築物がほとんど破却されることがなかった。隣国土佐藩の配慮があったのだろうか。だが昭和に入り戦災と放火によって、多くの国宝級の建造物が焼失してしまう。昭和30年代から長い復元事業が続けられている。訪れた日も石垣の修復工事を行っていた。 松山市中心にある標高132mの城山(勝山)山頂に、本丸と天守を有する松山城。市内の至る所から見ることができる。松山市民の自慢のお城であり、財産だ。愛媛県には、日本100名城のうち5城もある。維持管理費も大変だなあ・・と余計な心配をする。 これまでに松山市、特に道後温泉に来たことはあった。今回、初めて松山城天守に登る。登城道は4つある。小生は県庁裏ルートで登り、黒門口ルートで下る。石垣を観ながらゆっくりと散策できる。天守には当然、ガラス窓はない。伊予の風を受け、市内を眺めると殿様気分に浸れる場所だ。 写真-1 堀之内公園から城山を仰ぎ見る。山頂の天守は市のランドマーク。 写真-2 大手門跡より石垣を観る。築城主は加藤嘉明で、1602年から25年を要する大工事。 写真-3 本丸公園ではマスコット「よしあきくん」がお迎え。 写真-4 三重三階の天守。瓦に葵の紋が施されている。 写真-5 天守より本丸公園と市内を展望する。
2015年02月24日
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年間50万人もの来客がある小さな保田漁港。保田漁業協同組合(漁協)は、港内を一般開放し複合施設を作り、寒村を再生させた。休日にもなると大型バスに乗った観光客が海鮮料理を求めて賑わう。施設が岸壁に近いので、津波に心配ではあるが・・。しかし、東日本大震災では被害が無かったという。 保田漁協が直営する施設として、(1)高濃度炭酸温泉の「ばんやの湯」、(2)漁師料理を提供する「ばんや本館湯」、(3)コース料理と団体向けの「日本料理館」など並ぶ。その他に、定置網漁の見学会や遊覧海中透視船を企画するなど、海から恩恵を上手にコーディネイトしているように思える。 港の北側に大きなマリーナクレーンがある。平成23年に設置した80トン門形クレーンだ。マスト装備した船ごと吊り揚げできるもので、規模として大きいので感心する。ポンツーン(浮桟橋)も整備され、神奈川県からセーリングして来たヨットの帆を休めるのに適している。 保田漁港は、平成14年頃から漁協・町が中心となって地域活性化のために港内を順次改造して来た。地域の雇用も拡大した。漁港が再生するために、水揚げした新鮮な魚介類の販売にとどまらず、海洋リクレーションにも着目したようだ。地方創生が叫ばれるなか、賑やかな港を久し振りに見た思いだ・・。 写真-1 保田漁港を防波堤から「ばんや群」を見る。いろんな施設が詰まった小さな漁村。 写真-2 保田漁港の防波堤と富士山。定置網漁を体験できる港。写真-3 80t級マリーンクレーンが設備されている漁港。 写真-4 漁港の半分は、ヨットが寄港できるように浮桟橋が多数設置してある。 写真-5 きすケ浦から保田漁港・明鐘岬を望む。
2015年01月30日
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鎌倉駅から1300m南下すると、滑川の河口および砂浜に到る。滑川河口を挟んで、東側が材木座ビーチ、西側が由比ヶ浜ビーチに分けられる。和賀江島湊跡から稲村ガ崎にかけて入江地形となっており、ポケットビーチと呼ばれる。ビーチ弧長さは約2.2kmである。 材木座の浜砂は、粒子が細かく風に飛ばされ易い。ビーチが南西に向いているため、台風などの南寄りの強風が吹くと視界が無くなる。背後地は飛砂に悩まされる。しかし冬場は陽が良く当り、温暖な場所だ。真冬でもウィンドサーフィンが盛んである。 飛砂および河川からの砂補給が減り、海岸線が後退したとされる。ビーチの保全のために年間2000トン以上もの砂を材木座海岸に投入しているという。いわゆる「養浜事業」である。砂浜や砂丘の浸食は日本各地で起きている。人為的に砂を補給するにも限界があるものと思われる。 昨年10月、台風10号により滑川が増水して、4万2千人に対して避難勧告が出された鎌倉市。また昔、鎌倉大仏の所まで津波が押し寄せたとの言伝えもある。特に沿岸部は、自然災害のリスクが高い。海水欲客を含めた防災・減災活動に期待したい。 写真-1 鎌倉材木座ビーチ。ポケットビーチは冬場も波静。津波を増幅させる効果もある。 写真-2 稲村ガ崎の切通しと富士山を望む。ウィンドサーフィンが盛んな材木座浜・由比ヶ浜。 写真-3 沖合に和賀江島湊跡(中世の港遺構)が見える。 写真-4 成就院のあじさい坂から材木座ビーチを展望する。 写真-5 砂浜と住宅地を行き来する連絡路。中規模の津波に対しては問題かな・・。
2015年01月22日
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横浜みなとみらい地区の中核施設「横浜ランドマークタワー」が完成して早20年以上が過ぎた。埋立地の未来を牽引してきた高さ273mビルだ。略して、ハマ・ランタワーと名付ける。ビル69階の展望フロアは、スカイガーデンと呼ばれる。夜景のビュースポットではあるが、昼間コーヒーを啜りながらの富士景も良い。 70階建てビルのハマ・ランタワーの高さは296.3m。2014年完成した大阪・「あべのハルカス(高さ300m)」に次いで、国内第2位の高層ビル。三菱造船所の埋立地に建設されたが、建物基礎は杭基礎でない。支持基盤(固い泥岩)まで掘削して、その上に直接載せたという。脚を広げて立っているようにも見える塔だ。 横浜みなとみらい事業は、造船所の移転した1983年から本格化した。その後特徴的な建物が次々に作られ、国際的な港湾都市に変貌した。当初、横浜トップ陣は「スプロール化」に危機感を抱き、みなとみらいを構想したという。昔に描いた青写真通りになったのであろうか。ハマ・ランタワーは過去・未来を見続ける。 ハマ・ランタワーの最寄り駅は、みなとみらい線駅である。しかし、小生はJR桜木町駅から北へ500m程歩く道順を選ぶ。桜木町駅は、明治5年日本の鉄道開業のメモリアル駅だから・・。東京新橋駅から横浜駅29kmを53分で結んだ当時の駅である。大正5年まで約70年間、初代の横浜駅だった。 写真-1 横浜みなとみらい地区を過去と未来に渡って見守るランドマークタワー。写真-2 273mのスカイガーデンから横浜港を眺望する。 写真-3 東京湾に浮かぶ海ほたるが見えた。 写真-4 手前に連なる丹沢と富士山をゆっくり眺める。 写真-5 筑波山を挟んで東京タワーと東京スカイツリーを展望する。
2015年01月10日
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谷川岳西麓から流れ出す清流・魚野川。魚沼盆地を67km北流して、長岡市で信濃川に合流する。魚野川に併走するように、三国街道(国道17号)が伸びている。この街道を通行する旅人は、八海山や巻機山などの名山を眺めて、疲れを癒したことだろう。 2年前国道17号線沿いに「道の駅南魚沼」(雪あかり)が開駅した。新鮮野生の直売所と観光交流施設「今泉記念館」が、道の駅エリア内にある。今泉記念館の1階が観光案内、2階が美術館(棟方志功作品が展示)となっていた。1階の中庭は、越後の山並みを眺めるビュースポットだ。 道の駅から三国街道を1.5km北上すると、そば処「中野屋塩沢店」がある。石臼挽・へぎそばの専門店である。マスコミ等で取り上げられている名物蕎麦屋だ。小生も、上国スキーの行き帰りに立ち寄ることが多い。特産の舞茸天ぷらと一緒に食べると旨さが増す。南魚沼市は、雪国まいたけの本社がある町だった。 中野屋さんは、国内産蕎麦粉を自家製石臼で挽き客に提供する。いわゆる「三たて」を創業以来40年間以上続けている。ツルツルとした食感とコシの強さがへぎそばの特徴。国内で流通している蕎麦粉は、約7割を輸入に頼っている。H25年県別そば収穫量で、新潟県は国内第11位の592トンとなっている。 写真-1 魚沼盆地を貫流する清流・魚野川。 写真-2 魚野川の上流と谷川岳方面を望む。 写真-3 今泉記念館1階テラスの彫刻と越後の山並み。 写真-4 国道17号線沿いの「中野屋塩沢店」。 写真-5 へぎそば4人分を三人で食べる。運動した後の舞茸天ぷらは格別な味だ。
2015年01月07日
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赤い三角屋根と白い壁で統一されているホテルグリーンプラザ上越。各館入口の尖り切妻屋根は、周囲の景色と調和している。16世紀英国のチューダー王朝時代の建築様式をベースしているという。また、勾配のきつい屋根は、雪深い地方の合掌造りを連想させる。 グリーンプラザ上越は、昭和56年(1982年)に本館が完成する。その後、昭和57年にアネックス館、昭和58年に新館、昭和60年にコネクション館、平成元年に温泉掘削と、年々施設を充実させてきた。今や客室630室、宿泊人数3280人を誇る。 増設したホテル館は、南北方向に連結している。北側の新館から南側のコネクション館まで距離500mは、廊下で繋がっている。部屋の向きはゲレンデ側(西側)と魚野川側(東側)に大別される。ゲレンデに面する部屋はやはり人気が高い。 東に面する部屋は、窓辺から雲海を見るチャンスがある。盆地形状と水量豊かな魚野川が南から北へ貫流しているからだ。風のない朝、川霧が魚沼市街地を覆うことがある。天候を気にして眠りにつくと良い・・。 写真-1 南北横一線に並んで立つホテルグリーンプラザ。赤い三角屋根が特徴の風景。 写真-2 ホテル前のキッズコーナーとゲレンデの雪景色。3世代で楽しめる雪原と斜面。 写真-3 夜間スキーも楽しめる。アネックス館と本館の夜景。 写真-4 コネクション館の夜景。柱・梁が外部に露出した建築様式が特徴。 写真-5 上国スキー場の朝。魚野川付近から薄い川霧が発生している・
2015年01月05日
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今回、好天と雪量に恵まれた上国スキー。昨年、大雪の草津スキーで散々な目にあった。そこで関越道から近い上国スキー場を選んだ。天気が良いと一日の経つのがとても早い。山の日没が早いことを恨めしく思う。奥まったリフトは、15時30分に運転が停止するのだ。 上国スキー場とは上越国際スキー場の通称名。JR上越線の上越国際スキー場前駅が山麓にある。コース面積380ヘクタールを超える広大なスキー場だ。標高差817を有する。途中2回の滑走とのリフトを6回乗り継ぐと、当間頂部(標高1,017m)に立つことが出来る。 当間第4クワッドリフト(L=1550m)の終着点には展望台「パウゼ」がある。越後三山や日本海が望め、パノラマ展望が待っている。しかし北斜面にあるので、晴れ間が長続きしない。偶のスキーヤーがパウゼの絶景を眺める確率は極めて低い。快晴に当った。ラッキーデイとなった。 上国スキー場の中核施設・グリーンプラザホテルは大盛況だった。複数の旅行会社がパックツアーを企画している。今年は、長野県のスキー・スノーボード客が新潟方面に流れているという。噴火・大地震を被った長野県側では、冬観光・レジャー産業に大きな影響が出ているようだ・・。 写真-1 上国スキー場からグリーンプラザと関越道を望む。魚野川沿いに川霧が残っている。 写真-2 当間第4ゲレンデを望む。頂部に展望台「パウゼ」がある。 写真-3 パウゼから越後三山方面を望む。 写真-4 パウゼから当間第4リフトを覗く。 写真-5 パノラマゲレンデの山景色。
2015年01月03日
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