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能登半島の外浦漁港を代表する輪島港。その港町に朝市がたつ。平安時代から続く輪島朝市。日本三大の朝市とも云われ、千葉勝浦、高山宮川、唐津呼子と並んで昔から有名だ。そんな輪島朝市を10時頃うろつく。 朝市は、朝8時から正午まで。海産物をはじめ干物や野菜、民芸品を扱う露店が通り両脇に並ぶ。長さ300mほどであるが、多い時には200軒以上がひしめく。露店に立つのは、ほとんど女性だ。「亭主の一人や二人養えない女は甲斐性ないと自負する」ウーマンパワー・ストリートだ・・。 朝市通り東端、輪島川に朱色の「いろは橋」が架かっている。輪島塗をイメージした色だというが、橋そのものは老朽化が進んでいる。ドラマロケなどに使用される赤い橋。朝市のたつ河井町と上町・漁港とを結ぶ生活橋。朝市と赤いトラス橋とがワンセットの街並み。 輪島朝市通りに、名物「ふぐ丼」がある。「朝市さかば」店で、半分わけして味わう。輪島は、天然ふぐの漁獲高日本一だと知る。テレビ等では、ズワイガニがよく紹介される朝市。写真-1 輪島川下流から河井町と「いろは橋」を望む。写真-2 朝市通りの東端に、いろは橋がある。ドラマロケに使用される赤い橋。写真-3 午前10時頃の朝市通り。人波が去ったあと。写真-4 輪島朝市通りと家並み。写真-5 色々な魚が並んでいる。写真-6 「朝市さかば」のおしながき。
2017年11月03日
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能登口山地から昇る朝日を観る。早めに起きて、ホテルの屋上展望台へ向かう。20名ほどの宿泊客と一緒に日の出を見た。丘の高台にあるホテル。標高100mほどの展望台となる。 少し靄(もや)がかかっていた。そのため丘や谷が強調される景色が出現した。陽が昇る山の向こうは七尾市。尾根が支町村境になっている。地図をから、奥山峠や赤倉山だろうか。山と言っても、標高200mていどの稜線だ。 南の方角に眺めると、羽咋海岸(柴垣海岸)見える。空気が澄んでいると、長手島の彼方に白山があるはず・・。靄または雲が広がっているため、その山容の姿はなかった・・。 ロビーの冊子にあった冠雪の白山は雄大である。屋上は風がなかったが、30分以上いると身体が冷える。しかし、ここは温泉ホテル、大浴場で温まることができる。有難ヤありがたや・・。写真-1 夜明け前、志賀の丘と平地と山地。写真-2 低地に靄が降りた能登風景。写真-3 能登山地の日の出。写真-4 ホテル屋上から朝景色。写真-5 展望台南側の眺望。羽咋海岸と長手島を望む。写真-6 羽咋海岸と雄大な白山。[観光冊子]
2017年11月02日
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巌門から福浦港を経て、志賀原発を遠見に宿泊ホテルに入る。折よく食事前に、日本海に沈む夕陽を鑑賞できた。明るい橙色から柔らかな桃色に変化しながら、藍鼠色の外浦に没した。 能登半島を境に東西の海は、性質が一変する。富山湾に面する海岸を内浦、日本海に面する方を外浦と呼ぶ。また、半島の先端から、奥能登、中能登、口能登と大まかに3エリアに区分されている。志賀町(しかまち)は、口能登に含まれ、人口約2万人の町。 能登ロイヤルホテルは、「日本の夕陽百選の宿」としてアピールしている。10階屋上の一部を展望台に開放して、宿泊客に夕陽と朝日を観てもらうように工夫している。もちろん夜間は閉鎖される。ホテルイチ押しの「光の海道」には、遭遇出来なかった・・。 北陸電力・志賀原発は、活断層懸念と大がかりの新耐震工事のため再稼働の見通し立たず。先日、福井・大飯原発の2基が廃止予定になった。大震災前57基あった原発も、19基が廃炉・解体中だ。原発コストが他電力より高コストになれば、事業者としても脱原発に舵を切らざるを得ない。・・写真-1 明るい橙色の太陽。写真-2 柔らかい桃色(薔薇色)の夕陽。写真-3 藍鼠色の海に沈んだ。写真-4 光の海道のポスター。写真-5 近接するゴルフ場と遠くの志賀原発の煙突・・。
2017年10月31日
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能登金剛を代表する景勝地・巌門(がんもん)。厳しい自然が創り出した奇岩、いや造形美である。近くに鷹の巣岩、千畳敷岩、碁盤島が連なる。観光の目玉はやはり巌門だ・・。遊覧船による巌門巡りにも参加した。 海に突き出た岩盤が波の侵食によって穴があき、トンネルになった。その規模は、延長60m×幅6m×高さ15m。小舟ならば、この洞門を通り抜けることが出来そうだ。しかしゴツゴツした岩場が水面下にもあり、危険な水路。 歌川広重も旅して描いた「六十余州名所図会・能登滝之浦」。巌門の付け根付近に不動の滝があったので、これに因んで滝の浦と呼んだようだ。巌門を強調すべく、鷹の巣岩が小さく描かれている。 碁盤島は、義経と弁慶が囲碁をしたとされる場所。この島と虎の岩の間を遊覧船が通り抜けた。近く観ると、鉾で突いたような岩肌だ。振り返ると怪獣のような岩が巌門を見つめていた。写真-1 巌門と鷹の巣岩。写真-2 長60m洞門を有する巌門。写真-3 碁盤島と虎の岩の間を抜ける。写真-4 ゴツゴツした岩肌と怪獣を連想させる奇岩。写真-5 人影、いや人明りの洞門。写真-6 広重「六十余州名所図会・能登滝之浦」。
2017年10月30日
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能登半島の首筋にあたる志賀町海岸線に、景勝地・能登金剛がある。約30kmにわたって、奇岩・断崖が連続に続く。一帯の海岸は、日本海の荒波によって浸食された自然造岩帯である。 金剛とは、朝鮮半島有数の景勝地・金剛山に因み、それに匹敵する景観だという想いが込められている。巌門・機具岩・セナの断崖・碁盤島・猪鼻崎・玄徳岬など見所多い国定公園。 県道36号線沿いの能登金剛センター(巌門)の近くに、松本清張歌碑が設置してある。小説「ゼロの焦点」の影響を受けて、身を投げた女性を哀悼するために造られた。56年前の碑。巌門から2kmほど南に福浦港がある。その日和山と呼ばれる丘に、日本で最も古いとされる木造燈台が保存されている。洋式木造の旧福浦灯台(高さ5m)だ。海から眺めると、江戸期の常夜灯のようだ。岩礁多い海域のため、沖に出た漁船は、この灯りを頼りに帰港したのだろう・・。写真-1 能登金剛の名所のひとつ「猪鼻崎」。写真-2 なだらかな稜線の「能登富士」。写真-3 機具岩。「能登二見」とも呼ばれる夫婦岩。写真-4 千畳敷岩。岩質は凝灰角礫岩。写真-5 能登金剛の松本清張歌碑。写真-6 日本最古の洋式木造燈台「旧福浦燈台」。
2017年10月28日
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のと鉄道七尾線の半分、能登中島駅から穴水駅まで小さな鉄旅をする。18Kmと短い距離ではあるが、車窓景色は良好。能登特有の黒瓦の屋根並み、そして七尾北湾の景色がある。展望の良い場所では徐行してくれた。穴水駅の愛称は、「まいもん里駅」。 「ぼら待ちやぐら」で知られる穴水の海岸。ぼら待ち櫓による漁法は過去のものではあるが、観光用に保存している。能登鹿島駅を過ぎてまもなく、根木地区の「ぼら待ち櫓」が車窓から見えた。穏やかな水面と透明度の高い海辺ならでの漁法は、20年以上前に終わっているが・・。 3年振りに穴水駅ホームに立つ。昔出張で1カ月程度滞在した町だ。当時は国鉄分割民営化の前で、木造平屋の傷んでいた駅舎であった。穴水駅は能登の要衝。輪島に向かう七尾線の中継点、蛸島方面に分岐する能登線が乗り入れていた。現在は終着駅・・。 穴水駅に到着すると、入れ替わるように「のと里山里海号」が出発。1両目は「花咲くいろは」のラッピング車だった。のと鉄道七尾線は、営業運転の継続に向けて奮闘が続く・・。写真-1 七尾線終着駅穴水駅。隣に物産館が造られ小奇麗になった駅広場。写真-2 根木地区の「ぼら待ち櫓」を車窓から見る。写真-3 黒瓦の家並みと七尾北湾。遠くの橋はツインブリッジ。写真-4 入り江の高台を電車が走る。写真-5 トンネル内のイルミネーション。写真-6 穴水駅ホームですれ違う「のと里山里海号」。
2017年10月26日
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ローカルな、のと鉄道・七尾線に乗車した。と言っても、能登中島駅から穴水駅までの3駅18km区間。二両編成の気動車(NT200形)に乗る。 能登中島駅の愛称は、演劇ロマン駅。演劇と深い関係があるため・・。仲代達矢さん率いる無名塾が講演する「能登演劇堂」の最寄り駅。小さな駅舎内は、これまでの講演ポスターがズラリ貼ってある。折よく駅員さんが演劇堂と駅と縁の話をしてくれた。 遺構となった郵便車「オユ10」が駅構内に留置している。国内に2両あるうちの1両が演劇ロマン駅にある。郵便車はその昔、長距離列車に連結され、郵便物の仕分けなどをしながら各駅で積み降ろした車両。現在、ふるさと鉄道保存会が管理しており、一般公開されている。 能登半島も道路網が整備され、鉄道は衰退の一途。2001年に輪島-穴水間の20Kmが廃止された。現在、和倉温泉の七尾駅から穴水駅までの33kmを第三セクターで運営している。能登中島駅の1日平均乗車人数は145名程度。無人駅に近い状態・・。のと鉄道の頑張りが続く・・。写真-1 七尾線の中間点にある能登中島駅。写真-2 「演劇ロマン駅」で能登演劇堂の話を聞く。写真-3 二両編成のNT200形がホームに到着。写真-4 鉄道郵便車「オユ10」。写真-5 折角なので、郵便車を見学させてもらう。写真-6 舞台後壁が開閉式の能登演劇堂。1995年開館。
2017年10月23日
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日本で唯一、普通自動車が通行できる砂浜がある。石川県能登の千里浜なぎさドライブウェイだ。波打ち際をオープンカーで走ると爽快なドライブを味わえること必定。自転車も砂に埋まらず走ることができる。レンタサイクルもある。日本海に沈む夕日の絶景ラインである。 車を乗り入れで走れる区間は約8km。宝達志水町今浜から羽咋市千里浜までサンド・ロード。但し、天候に大きく左右される。海が時化ると閉鎖され通行禁止となる。 普通車や自動二輪、そして観光バスまで通行できるのは、砂の性状による。波によって運搬された細かい砂が、海水を吸収して固く締まっているのだ。鳥取砂丘の砂よりも細かいのだろうか・・。この性質を利用して、千里浜レストハウスの脇にアートな砂像が創られていた。 細かい砂は波に浚われ易い。近年川から砂供給が低減して、砂浜海岸の侵食が進んでいるという。陸地から砂を補充している。なぎさ道路を管理維持しているのは、県・市の土木事務所。世界に3カ所しかないという「なぎさドライブウェイ」。地図から消えないようにする努力が続く・・。写真-1 能登の名所「千里浜なぎさドライブウェイ」。写真-2 大型バス同士の対面通行。車線を示す白線はない。写真-3 オートバイで潮風を切って走れば気分爽快・・。写真-4 なぎさの釣り人。写真-5 レストハウス横の砂像アート・西遊記。写真-6 観光バスも走れる波打ち際帯8km。[ガイドブック]
2017年10月22日
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加賀百万石の城下町の風情を残す「ひがし茶屋街」。江戸後期から明治初期にかけての建物がまとまっている。木虫籠(きむすこ)と云われる出格子や二階の雨戸など、お茶屋の情緒が漂う町並み。そのメインストリートをそぞろ歩く。 ひがし茶屋街は、JR金沢駅から東へ2km、浅野川の右岸に位置する。歩いて30分ぐらいであろうか。茶屋街の東側に小山(卯辰山)がある。急勾配の子来坂(こぎざか)約200mを登ると宝泉寺に到る。ここからは茶屋の屋根と遠くに、金沢駅口の高さ130mノッポビルが見えた。 金沢市内には、「ひがし」、「主計町」、「にし」の三茶屋街がある。その中でも、お茶屋文化と芸奴の伝統が残っている・・。国の重要文化財の茶屋「志摩」は、一般公開されている。中で抹茶と生菓子をいただける。 和カフェや町家ショップが軒を連ねる通りは、石畳と無電柱で整備されている。和装ガールズが歩くと、周囲が華やぐ。夜になると三味線と太鼓の音も聞こえてくるのだろうか・・。写真-1 ひがし茶屋街のメインストリート。写真-2 お茶屋の情緒が漂う町並み。写真-3 「志摩」、「山屋」が軒を連ねる通り。写真-4 お茶屋文化の見学処・志摩の二階の前座敷。写真-5 外国人観光客も嬉しい和装女子8人。写真-6 宝泉寺からの眺望。金沢駅前のノッポビル(ホテル日航)が見える。
2017年10月21日
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北陸方面の観光ツアーでは、金沢兼六園が組み込まれるが多い。四季折々に、山・川・池の「自然」を楽しめる回廊式大庭園である。近年は、外国からの観光客が増加・・。広いようで、そうでもない。庭園面積は、文京区六義園の1.3倍の11.7ヘクタール。 金沢城公園と堀で区分されている兼六園。北側の桂坂口から石川門と石川櫓が見える。金沢城の搦手門に当たる。白門とも呼ばれ、白薄の雪化粧を思わせる鉛瓦の屋根を持つ建物。 園内を北から南へ進むと、「根上松(ねあがりのまつ)」に出会う。兼六園の名物のひとつ。大小40数本の根が地上2mまでせり上がる奇観だ。そして投資家などに人気がある。「値上がり」に通じる縁起の良い松なのだ。重文の「成巽閣(せいそんかく)」を覗いて、南口の方丈池を目指す。 南側の随身門坂口を一旦出て、金沢神社と金城霊沢(きんじょうれいたく)に向かう。金沢いう地名の由来になった湧き水場所だ。年間を通じて枯れることがない神聖な泉・・。北の石川橋と南の金城霊沢との距離は、直線で約500m。各出入口では、入場券があれば出入り自由。写真-1 兼六園北口から金沢城・石川櫓が見える。写真-2 40数本の根が空中に浮いている「根上松」。写真-3 兼六園内の赤門。成巽閣の入口。写真-4 成巽閣の見どころのひとつ「群青の間」。写真-5 金沢の地名の由来になった「金城霊沢」。写真-6 藩校の鎮守だった金沢神社。
2017年10月18日
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鉛瓦葺きの仏殿を中心に据える高岡山瑞龍寺。9時の開門と同時に入場する。鉛瓦葺きの屋根は当初銀色に輝き、時を経につれて、いぶし銀の渋い風合いになるとされる。訪れた日は天気が良かったので、眩しい屋根・・。 瑞龍寺は、前田利長の菩提を弔うために、第3代藩主・前田利常が1645年に建立を開始。しかし、7堂の伽藍が完成するまで20年を要した。室町時代の伽藍配置構成を今に伝える建築群。 鉛葺きの屋根を持つ歴史的建造物は、金沢城石川門とこの瑞龍寺仏殿。かつては江戸城天守閣にも鉛瓦葺きが使われたが、明暦の大火で焼失している。瑞龍寺は、国宝の3つ伽藍が、ゆったりと直線に並ぶ。順に(1)杮葺きの山門、(2) 鉛葺き仏殿、(3)銅葺きの法堂。 屋根に大量の鉛を使用した理由は諸説ある。(1)単に美観装飾、(2)凍害防止、(3)銃弾資材の備蓄、(4)貨幣鋳造の過剰鉛の活用など・・。昔、金や銀の精錬に使用した鉛。加賀藩は豊かな国であつたのだろう。近年、鉛は人体にとつて有害物。鉛瓦に替わってチタン瓦(浅草寺)が使われている。写真-1 総檜造りの瑞龍寺仏殿。平成9年に国宝指定。写真-2 鉛瓦葺きの屋根仏殿と銅葺きの法堂。写真-3 本尊、釈迦・文殊・普賢の三尊を祀る。写真-4 四周を結ぶ回廊の300mにもおよぶ。写真-5 改修工事中の山門。写真-6 瑞龍寺参道と前田利長像。総門と墓所までの距離870m。
2017年10月16日
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越中での宿泊は、高岡駅前のビジネスホテル。高岡駅の周辺には、銅像などが沢山あるよと、言われて観像散歩する。高岡銅器で製作された銅像・オブジェが点在していた。 ドラえもん散歩道を抜けて、先ず高岡大仏を拝みに行く。高岡大仏は、伝統の銅器製造技術の粋を集めて作られた。高さ16m×重量65トンの阿弥陀様。30年の歳月をかけて、じっくりと銅器職人が製作する。「端正な顔立ちの大仏」として慕われている。 藤子・F・不二夫氏の出身地の高岡市。ドラえもんがいたる処に出没する。高岡駅の待合室(交通広場)には、ドラえもんポストがある。この郵便ポストに投函すると、「タケコプター」にて配達されるそうだ・・。いや、スタンプが押してあるだけ。 駅前北口の万葉線近くに、大伴家持像が立っている。越中の国守として、天平18年に赴任した。大自然の歌を多く残した万葉の歌人でもある。家持像は、駅方面、並びに遠くの立山連山を見つめている。JR氷見線に乗ると、20分(11km)で雨晴駅に到る。国定公園・雨晴海岸である・・。写真-1 高岡市のシンボル「高岡大仏」。写真-2 大仏院・大仏様の端正な表情。写真-3 ウイング高岡前のドラえもん散歩道。写真-4 JR高岡駅内に設置さけている銅器のポスト。写真-5 駅前の大伴家持像。立山連峰の写真を取り込む。写真-6 新高岡駅のモニュメント・高岡大兜(銀鯰尾兜)。
2017年10月15日
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高岡市中心部を少し離れた所、千保川に平行して金屋町がある。その町内500mの通りは、石畳舗装がなされ、千本格子の家並みと一体化している。2012年に「国の重要伝統的建物群保存地区」となつた。 金屋町は、高岡鋳物の発祥地とされる。江戸初期、開町まもない城下町高岡の繁栄策として、藩が鋳物造りを奨励したことに始まる。人・モノ・税などが優遇され、発展した町。 千本格子の家並みは、京都が有名。家の中からは通りが透けて見え、通りからは家の様子が見えづらいという特長を持つ千本格子。また、鋳物造りには暑さが伴う。当時、風通しと防犯に役立ったのだろうか・・。 格子造りの通りの一画に、四角い煙突が立っていた。「旧南部鋳造所」のキューポラとその煙突。金屋町が鋳物で盛んだった事を伝えている。金屋町からの戻り道で、土蔵造り風の銀行があった。今年5月に建て替えを終えた高岡信用金庫の新本店。黒漆喰と金属格子が特徴。写真-1 高岡金屋町の石畳み通りを歩く。写真-2 千本格子の家並みが500mほど続く。写真-3 格子塀と風紙飾り。写真-4 昔の鋳造所を今に伝える角型煙突とキューポラ。写真-5 弥栄節の銅像。鋳物師の作業唄。写真-6 高岡信用金庫の新本店建物。
2017年10月13日
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越中高岡に山町筋(やまちょうすじ)と呼ばれる通りがある。市中心部に約600m続く。通りの両側に商家の土蔵造りの家屋が軒を連ねる歴史ある町並み。高岡城下の旧北陸街道に発展した町。 加賀藩第2代当主・前田利長が高岡城を築き、町を開いた。その際、碁盤の目状に35町を割り付けた。その中で、利長公が「御車山(みくるまやま)」を与えた町を山町という。山町の10ケ町が中心部に位置する。 土蔵造りの町並みを安心して見て回るために、朝食前の朝散歩する。車両の多くなる前に安全に歩くため。木舟町の「菅野家住居」は、国の重文指定。土蔵造りまちの資料館に使用されている「旧室崎家住居」。いずれも黒漆喰壁と黒い屋根瓦が特徴の建物。 高岡御車山祭りは、毎年5月に盛大に行われる。豊臣秀吉が後陽成天皇を聚楽第に迎える際に使用した御所車を前田利家が拝領したものを、利長が町民に与えたのが始まりとされる。片町の交差点に7基が揃うと、壮大な眺めになるという。実際に観てみたいものだ・・。写真-1 土蔵造りまちの資料館になっている旧室崎家住居。写真-2 山町筋の土蔵造りの町並み。写真-3 菅野家住居は、国の重文指定。写真-4 糸などの卸商を営んでいた筏井家。写真-5 高岡御車山会館。写真-6 片町交差点に勢揃いする7基の御車山。[ポストカード]
2017年10月12日
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日本海に向かってなだれ落ちるような棚田がある。奥能登の白米千枚田(しろよねせんまいだ)である。海に面した斜面に1,004枚におよぶ棚田だ。訪れた日、棚田の稲刈りは終わっていた。 白米千枚田は、輪島市から国道249号線を東へ10kmのところ。年間2万円の「オーナー制度」を利用して、維持管理に充当しているようだ。約1.8ヘクタールの棚田からは、2.6石ほどの収穫があるという。昔の成人2.6人が1年間食べる量・・。 この千枚田に小泉元総理が2006年訪れて、「絶景だよ、絶景」と讃えた。その7年後に、小泉進次郎氏も訪れて、「まさしく、絶景」と讃えたという。親子二代で観光宣伝した。2001年に「国の名勝」指定、2011年に世界農業遺産に登録された。 収穫の終えた棚田を使用して10月中旬から、畦がアートになる。2万1千個のソーラーLEDが設置され、毎晩イルミネーションを楽しめるという。奥能登に幻想的な「あぜのきらめき」が出現する。千枚田ポケットパークで、四季のポストカードを購入する。写真-1 世界農業遺産の白米千枚田。写真-2 稲の取り入れが終わった棚田の風景。写真-3 海岸近くまで棚田がある。「潮風米」・・。写真-4 棚田と青い日本海。写真-5 左奥にポケットパークと展望台が見える。写真-6 四季の白米千枚田ポストカードより。
2017年10月11日
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井田川の右岸高台を切開いて造った八尾町。川側の下新町・西町・上新町は、玉石の鎧をつけたような感がある。斜面に石垣を積むことで住居を確保してきた。そこには人の歩く階段・小路も当然ながら必要となる。そして坂のまち、八尾となった。 八尾町は、富山県南部に位置する人口2万余の町。2005年の市町村合併で、富山市に組み込まれた。富山駅からだと、高山本線に乗り24分で越中八尾駅に着く。また、八尾駅から特急に乗ると、70分ほどで飛騨高山駅へ行くことができる。 もとは河岸段丘の下にあった八尾村は、寛永の洪水によって壊滅的打撃を受けた。その当時、段丘の上にあった聞名寺の門前町と合併して、今日の八尾町があるそうだ。 町内に多くの坂と石段がある。禅寺坂と浄円寺坂が有名。江戸期は、橋が無く禅寺橋辺りに渡し場があった。そこから東西へ登坂ルートができたようだ。坂と石階段はお年寄りには辛い道。また積雪地帯なので、除雪事故対策も必要となる。冬、雪滑りを楽しめそうな坂があった・・。写真-1 禅寺坂と石垣と家並み。坂のまち八尾を代表する風景。写真-2 狼地獄の小路と石垣。写真-3 「おたや(御旅屋)階段」は散策ルート上にある。写真-4 御旅屋階段下には、小さな広場がある。写真-5 縦水路と石階段。写真-6 月見のおわら観光バスの駐車場。
2017年10月09日
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八尾町・禅寺橋を渡ると、玉石を使用した石垣が迫ってくる。対岸から見ると城壁の偉容だ。石垣の上に、家々が押し合うように軒を連ねている。井田川の河岸段丘の土地利用の一端をみる。 井田川は、神通川の支流で、昔から出水で地域を悩まして来た。禅寺坂の石垣は、井田川の護岸工事と平行して整備されたもの。昭和40年代に現在の姿になるが、その後も再整備された。また、上流に建設された室牧ダム(堤高80m、完成1962年)により、洪水被害が減った。 石垣に使用されている玉石は、井田川または神通川の河床から採取したものと思われる。玉石の河床は、出水時には石のぶつかり合う急流のあかし。禅寺坂の下部の石垣を良く見ると、玉石ブロックを使用した擁壁のようだ。水抜きパイプが施されており、コンクリート擁壁の同じ構造・・。 月見のおわら祭りに合わせて、石垣がライトアップされていた。照らされた石垣は白く見える。御影石を積んだお城の石垣を連想させる。戦国時代ならば城塞に適した場所・・。写真-1 井田川に架かる禅寺橋と段丘上の家並み。写真-2 禅寺橋を渡ると玉石を積んだような石垣に圧倒される。写真-3 禅寺坂を上り、月見のおわら・町流しゾーンへ急ぐ。写真-4 浄円寺坂から石垣夜景を見る。写真-5 ライトアップされた石垣は白い輝きを放つ。写真-6 暗闇に出現した城塞のような石垣。
2017年10月07日
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越中八尾、日が沈んだ西の空に上弦の月(4日月)が留まっていた。9月下旬に行われる「月見のおわら」に、ツアー参加してみた。「日本の道100選」の諏訪町通りは、江戸の家並みを残す石畳道路。車両を交通止めした道は、おわら踊りを見物する人でいっぱいになる。 「風の盆」は、二百十日を迎える9月1日から3日に行われる越中の風物詩。胡弓・三味線の音色に合わせて、静かにゆっくり進む踊りが小説やドラマに紹介され大人気となる。混雑を避けて9月下旬に「風の盆」を再現することにより、多くの人に見てもらおうという企画が「月見の盆」。 今年で20周年の「月見のおわら」は、9月23日と24日に開催。旧町の11町がこの祭りに参加する。但し、2日間の中で分担を決めているようだ。小生らが訪れた24日は、諏訪町、東町など6町の町流しがあった。一カ所に座っていても、4つの町流しが見られる。 観光バス約90台を駐車できるスペースが井田川左岸にある。観客人数のキャパシティである。哀愁漂う胡弓の調べと町流し。越中おわら節に合わせて、優雅の女踊りと農作業を表現した男踊りが舞進む。「風の盆」の一端を観た、三日月の夜であった・・。写真-1 諏訪町通りの西の空に三日月が留まっていた。写真-2 諏訪町通りを町流し(東町)が下って来た。写真-3 上新町通りを進む町流し(西町)。写真-4 先頭が男踊り。蔵並み通りの町流し(福島町)。写真-5 曳山会館前ステージの踊り方教室。写真-6 歓迎・高校生のおわらステージ。写真-7 風の盆の切り絵ポストカードをお土産にする。
2017年10月05日
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新緑に映える「赤れんが」。北海道庁旧庁舎は、「赤れんが庁舎」、または親しみを込めて「赤れんが」と呼ばれる。近代化する明治期・北海道のシンボル的な建物であった。間口61m×奥行36m×塔高さ33mのネオ・バロック様式の煉瓦造り。国指定の重要文化財。 赤れんが庁舎は明治21年に完成したが、その21年後に火災に見舞われている。明治42年の火災では、屋根と内部室を焼失したが、レンガ壁が残った。このため昭和43年に、創建時の姿に復元した。 「赤れんが」正門から伸びる道は、キタ3通り。2、3年前に、赤レンガを敷き詰めて歩行者専用ストリートにした。愛称を「アカプラ」、赤レンガ道をプラつくという意味なのだろう・・。このアカプラに沿って、「赤れんがテラス」なるビルも、新名所の仲間入りをしていようだ。 札幌駅近くのホテルに宿泊したので、朝散歩する。前庭の池にはスイレンが開花。柔らかな日差しをうけた赤レンガが一層赤く見えた。写真-1 「アカプラ」のイチョウ並木と赤れんが庁舎。写真-2 朝の柔らかな日差しを浴びる赤れんが。写真-3 赤れんが庁舎南側の外観。完璧な左右対称の建物。写真-4 赤れんが庁舎北側の外観。写真-5 スイレンが咲始めた前庭の池。写真-6 JRタワー展望台から見た「赤れんが」。
2017年07月06日
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札幌駅から直結するJRタワービルの展望台に上る。毎年のように札幌駅を利用するけれども、これまで訪れたことがなかった。今回、札幌市内のホテルに泊まったことや、天気が良かったなどで、夕刻に展望台に上る。その前に、隣接のビル・ESTA10階の「札幌らーめん共和国」に立ち寄る。 高さ173mのノッポビルの最上階は、「T38」タワー・スリーエイトと呼ばれる。高さ160mの展望フロアからは、360度の眺望を楽しめる。特に、南サイドと西サイドの窓際には、机と椅子が並ぶ。ゆっくりとした時の流れの中で、夕景と夜景を見ることができる。 南サイドの眺望は、札幌市役所などのオフィス街、歓楽街・すすきの、そして遠くに恵庭岳と空知岳が見える。西サイドは、手稲山地、大倉ジャンプ競技場の眺望がある。 北東サイドの一画に、開放的な男子トイレと多機能トイレが設置されている。開業当時、話題を集めた「珍名所」。小生も用を足した。 札幌市内では、現在高層ビル建設が進んでいる。他ビルから「T38」のトイレが見える時期が来るのではないか・・。写真-1 暮れてゆく山並景色と丘珠空港。夕張岳、芦別岳など。[東サイド]写真-2 小樽方面に沈む夕陽。写真-3 手前すすきの、遠くに恵庭岳と空知岳。[南サイド]写真-4 手稲山地と大倉ジャンプ競技場の灯り。写真-5 展望台の多機能トイレ。写真-6 「札幌らーめん共和国」にてエネルギー補給。[ESTAビル10階]
2017年07月04日
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札幌中島公園の一画に前庭池を備えた美しい西洋館がある。2016年にリニューアルしたばかりで、マリンブルーの豊平館(ほうへいかん)である。建物外壁が下板に純白を、そして窓枠や柱などに水色をあしらっている。「青い妖精」が出てくるような雰囲気がある。 豊平館は、明治13年今の札幌大通り面する位置に、高級ホテルとして開拓使が建造したもの。最初の客人が明治天皇であった。戦後、一時米軍に接収された後、中島公園に移築される。現在、国の重要文化財に指定されている。 中島公園は、地下鉄を利用すると大通駅から僅か4分間の距離にある。札幌の歓楽街「すすきの」に隣接する公園。すぐ近くを豊平川が流れている。水と緑豊かな緑地で、上野公園に少し似ている。 北海道開拓の始まりを告げた豊平館。昼間は一般開放(300円)。夜間はライトアップされ、館内をコンサートやパーティ会場とし利用できる。但し、2階広間は1時間3300円。北国の短い夏の夜、「青い妖精」と過ごすのも良いかも知れない・・。写真-1 西洋ホテル風の佇まいで、おしゃれな豊平館。写真-2 前庭池に映る「青い妖精」。写真-3 優雅な半円形の車寄せとバルコニー。写真-4 豊平館2階の広間。写真-5 歓楽街と豊平川に囲まれた中島公園の菖蒲池。写真-6 ライトアップされた豊平館[パンフ]。
2017年07月02日
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モエレ沼(篠路新川)に架かる水郷東大橋を渡る際、ピラミッド型ガラス建造物が見える。モエレ公園のシンボル的な存在だ。ガラスのピラミッド「HIDAMARI」と呼ばれる。ピラミッド内は、反響効果が良いので週末、コンサートやダンスに利用される。 高さ32mの硝子ピラミッドは、南側に面しているので、日差しをたっぷり取り入れることができる。まさに「ひだまり」のアトリウムだ。秋から冬にかけては暖かく人気の空間だが、夏は温室になる可能がある。しかし、雪を溜めた貯雪庫を利用した雪冷房があるという。雪国ならでのシステムである。 一見、レンガ造りのアーチ橋に見える水郷東大橋。しかし、橋桁は鋼製の箱桁だという。昭和63年に完成した橋長128mの橋。幅員は13m(車道8m+歩道2×2.5m)と広い。レンガ造り風橋脚が水郷と調和している。写真-1 ガラスのピラミッド「HIDAMARI」。写真-2 モエレ沼公園の東側に建つガラスのピラミッド。写真-3 三角硝子面とモエレ山。写真-4 モエレ沼とピラミッド。写真-5 モエレ沼(篠路新川)に架かる水郷東大橋。
2017年07月01日
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モエレ沼公園の北と南に、それぞれマウンテンが築かれている。北側のそれは、不等辺三角形を潰したような山。プレイマウンテン[遊び山]と呼ばれる。高さ30m×長さ200mの丘だ。緩やかなスロープ路を見ると、つい歩き出したくなる。 緩やかな道を登ると、頂上反対側の斜面(西斜面)は一変する。勾配がきつくなり、大きな花崗岩が階段状(99段)に積まれている。エジプトのピラミッドを連想させる。ちなみにキザのピラミッドは、高さ138m×底辺長230mで、巨大な土木構造物である。 プレイマウンテンを側面から眺めると想う。古代ピラミッド建設の作業用斜路をイメージしているかのようだ。斜路を撤去すると、小ピラミッドが出現しそうである。 当総合公園は、彫刻家イサム・ノグチが手がけたという。幾何学形態を多用した「モノ」が各所に配置されている。自然とアートとが融け合う景観だ。これまでの公園造りとは、ひと味違うようだ。写真-1 プレイマウンテンと果物を小割したようなオブジェ。写真-2 なだらかにカーブする道。歩きたくなる緩やかな坂道。写真-3 斜面を転がっている人達が見えた。写真-4 プレイ山頂と残雪の山景色。写真-5 花崗岩の石段を下りる。
2017年06月29日
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札幌真駒内に広大な異次元の大地がある。滝野霊園メインゲートから続く道路沿いに、モアイ像が33体並んでいる。日本の霊園は、確かに多様な墓石が並ぶ。岩石の加工技術も高い。しかし雪が積もる北の大地に、何故モアイなのか・・。事業者のコンセプトは・・。 モアイ像と言えば、南太平洋に浮かぶイースター島。島で産出する凝灰岩質のモアイ像が未完を含めると900体があるという。真駒内滝野のモアイ像が国内最多か・・。但し、母材の岩石は、真っ白な花崗岩(御影石)である。 滝野霊園公園には、大仏、ストーンヘンジなど様々な石のモニュメント、およびレプリカがある。「宗派を問わない」で、墓石の建立、樹木葬などが可能であることを示すものが、モアイ像や頭大仏なのだ。古代人が先祖を祀るために作ったのがモアイであり、ストーンヘンジだという説がある。 大きいものでは高さ9.5m×重量120トンの像がある。移動や設置に多額の費用を要したものと思う。未来への投資だ。モアイとは、「モ」(未来)に「アイ」(生きる)との意味があるという。写真-1 霊園入口に整列するモアイ像。写真-2 硬い花崗岩で作られた白いモアイ。写真-3 モアイの巨像と恵庭岳。写真-4 昇り藤と異名を持つルピナスとモアイ像。写真-5 有色のモアイ像もいた。
2017年06月26日
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札幌真駒内の頭大仏(あたまだいぶつ)を参拝する。ラベンダーの時期には早かった。あと2週間ほどすると丘は、紫色に染まる。まさにハーブにいだかれた大仏様となる。訪れた日、ラベンダーの開花に備えて、15万株の低木と土の手入れ作業が真最中だった。 頭大仏は、滝野霊園30周年記念事業として昨年2016年夏に完成した。これまで野外に安置されていた石像大仏に、ドーム型の新御殿が造られたようなもの。建築家・安藤忠雄氏による設計だ。 参道入口から大仏の尊顔を参拝するまでの道のりは、135m。安藤氏独自のこだわり道のりである。川(水庭を)越え、風雲下(ドーム天井)を歩く。たどり着くと、そこは天空からの光が注ぐ特別の空間。阿弥陀如来が待っている。 6月は、父親・知人の命日月にも重なり、毎年のように墓参のため渡道する。このところ特別な法事もなく、施設にいる母親を元気づけることが「年課」だ。今回は、早割旅行パックを利用したので、札幌市内のホテルに連泊する。しばらく札樽(さっそん)の散歩景色を掲載します。写真-1 恵庭岳と頭大仏。写真-2 真駒内頭大仏殿の参道。写真-3 参道途中の池(水庭)。後方にモアイ像が見える。写真-4 天空の光を浴びる阿弥陀如来石像。1500tの重み。写真-5 新緑の丘と頭大仏。写真-6 ハーブの丘。[リーフレットより]
2017年06月22日
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熊野古道伊勢路は、松本峠を下った七里御浜(しちりみはま)を通り、熊野速玉大社を目指す。この区間を浜街道、または巡礼道と呼ばれていた。三重県熊野市から和歌山県新宮市にわたり続く延長7里の砂礫海岸だ。昔の人は、雄大な熊野灘を眺めて半日で歩いたことだろう・・。 浜街道は平坦な道であるが、現在のような橋はなかった。そのため途中の志原川や市木川の河口を渡る際、波にさらわれて命を落とすこともあった。江戸時代になると往来人が多くなる。伊勢参りと熊野詣とをパッケージで旅することが流行したという。 七里御浜には、色とりどりの形の良い小石が打ち上げられる。御浜小石と言って、金魚鉢の底や庭の片隅で見られる小石だ。熊野川は、紀伊山地の多様な岩石を、豊かな水量で海岸まで運んだ。かつては黒い那智黒、白い花崗岩の玉石など敷き詰められた浜だったという。 七里御浜の東端、JR熊野市駅近くの海岸にユニークな岩塊がある。国道42号を走る車からも目に入る「獅子岩」である。約1.5Km離れている鬼ヶ城の成因と同じだとされる。海から出現したゴジラのようにも見える奇岩・・。写真-1 勇壮な熊野灘に面する七里御浜。熊野市から新宮市まで続く砂礫海岸。写真-2 有馬の海岸から鬼ヶ城の断崖を望む。写真-3 鬼退治伝説の魔見ヶ島(マプリカ)が鬼ヶ城沖に浮かぶ。写真-4 バスの車窓から観た獅子岩。獅子と鬼がいる海岸通。写真-5 浜街道から花の窟神社を観る。
2017年05月07日
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南部と書いて「みなべ」と呼ぶ。梅の一大産地である南紀南部に泊まる。田辺湾を一望する断崖に建つロイヤルホテルに。1年半まえに開催された和歌山国体に際し、このホテルに天皇陛下宿泊したという。みなべ梅林と海を眺めることができるロケーションの良い場所だ。 ホテルから海辺に向かって、急峻な145段の階段が整備され、最短距離で小目津浜(こめづ゛はま)に出られる。プライベートビーチのよう浜だ。砂粒は粗目で、褐色。断崖と岩礁が波に削られて堆積した砂浜。 夜間続いた風雨により、朝の浜は荒れていた。眼前に荒波に洗われる岩場がある。干潮時には、歩いて行ける釣り場だという。この岩場の名前を聞くのを忘れたが、ある動物を連想させる。しかし、年月を重ねるとやがて、浜辺に砂を供給するのだろう・・。 砂浜の防波堤の背面に、小目津公園が整備されている。この公園内に「さざれ石」が置かれている。さざれ石は、万葉集にも記され、「玉に次ぐ美石」と都びとが称した。目津礫層が崩れて、さざれ石ができたと記載があった。写真-1 ホテルから小目津浜と田辺湾を望む。写真-2 前日の風雨で海が荒れていた。海のスフィンクスのような奇岩。写真-3 小目津浜の砂粒は、粗く褐色の砂浜。写真-4 防波堤の背面に小目津公園が整備。写真-5 小目津公園のさざれ石。 写真-6 梅林を見守る御影石の梅観音像。
2017年05月03日
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南紀串本に日本の奇岩を代表する景色がある。約900mにわたり橋脚のような岩塔が一直線に並ぶ橋杭岩だ。宿泊したホテルのテラスからも眺めることができた。露天風呂からも朝景の岩群を楽しめることができるというが、生憎の雨で見られず。 橋杭岩は、南紀熊野ジオパーク(2014年認定)のサイトのひとつ。約1500万年前、地下のマグマ(石英斑岩質)が地層に貫入した火成岩の跡。砂岩・泥岩類が波の浸食により削られ、硬い溶岩石が残ったもの。潮が引くと杭のように見えることがその由来。 弘法大師も勘違い・・という民話がある。昔、大師と天の邪鬼とで、夜が明けるまでに沖合の島まで橋を造る賭けをした。大師の橋が明けない内に完成しそうと見るや天の邪鬼が一計を講ずる。ニワトリの鳴き声で、大師を惑わせ橋づくりを中止させた。そのため柱だけが海に建つことになったサ・・。 南紀の海岸にはリアス式海岸もあり、変化に富んでいる。ユニークな地層、奇岩類が豊かな場所なので、ジオパークにもなった。また近大クロマグロの完全養殖に成功したのも南紀である。夕食に食べたマグロの刺身は、近代マグロであったかもしれない・・。写真-1 橋杭岩をホテルから望む。岩塔が直線状に並ぶ。写真-2 干潮の橋杭岩。降りしきる雨の中で鑑賞する。写真-3 南紀ジオサイトのひとつ。写真-4 フードを被った人が歩いているようだ・・。写真-5 橋杭岩の夜明け。[ポストカードより]
2017年04月28日
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いにしえの世界遺産を訪ねて、熊野三山と熊野古道を巡る。ゴールデンウィークと梅雨時期を避けての旅行である。 新幹線で名古屋駅までゆき、その後バス移動するツアー(42名)。小生らグループは3名で参加する。2004年に世界遺産に登録されて、初めての熊野参拝。那智大社は、30年ほど前に訪れたことがあるが、三つの大社を巡るのは今回初めて・・。 熊野三山とは、(1)熊野本宮大社・・平安時代からの熊野信仰の中心聖地。(2)熊野那智大社・・絶景の滝と神仏習合の霊場。(3)熊野速玉大社・・熊野川河口に位置し、「新宮市」の名の由来となった社。 紀伊半島は、日本有数の大雨地帯。2011年9月台風による豪雨のつめ跡が一部残っているが、道路・河川は平常を取り戻していた。しばらく南紀の旅景色を連載します。よろしくお願いします。写真-1 熊野本宮大社。158段の石段を登る。写真-2 熊野那智大社。467段の石段を登る。写真-3 熊野速玉大社。2段の石段を越える。写真-4 清岸渡寺からみる那智の滝。旅行記念写真カバー。写真-5 新幹線の車窓から富士山を見ながら富士川を渡る。
2017年04月23日
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坂東市岩井の商店街通りの北側に、異質な一画がある。赤い提灯が頭上や軒下にぶら下がっている。「千と千尋の神隠し」の街角をイメージしたのだろうか。そこは、体験型のガラス工房などが配置されたコンパクトな商業施設である。その中で、赤レンガの煙突が印象的だ・・。 この地で明治から続いていた「大塚酒造」が2011年に廃業した。その際に坂東市が乗り出して市街地活性化事業としてリニューアルした。母屋を「観光交流センター」に、本蔵を多目的ホールとして活用した。本蔵は、国の有形文化財に指定されている。 ガラス工房「秀緑(シュウロク)」は、沖縄・琉球ガラス村の協力を得てオープンしたという。ガラスは、16世紀、中国経由で長崎に伝来したのち、沖縄にも伝わったとされる。戦後、米軍人その家族らの要望を受け入れカラフルになった。昔ガラス(硝子)品は、ギャマンとかビードロと呼ばれた。 約10年前に合併して誕生した坂東市の人口は約5.8万人。現在の人口は5.6万人。全国的に人口が減るとの前提で、いろいろな施策がとられている。永田町の「まち・ひと・しごと創生本部」も今一つの感がある。2月26日圏央道坂東ICが開通する。期待もあるが心配事も増えるだろう・・。写真-1 昔の母屋だった場所に観光交流センターがある。写真-2 赤提灯のある屋台通り。写真-3 旧酒造本蔵の多目的ホールと大ケヤキ。写真-4 石造り水槽に関東大震災の寄せた字句があった。写真-5 ガラス工房建物と旧ボイラー室の煉瓦造り煙突。写真-6 旧大塚酒造・本蔵を活用した多目的ホール。
2017年02月17日
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のどかな田園風景が広がる道路沿いに、古びた茅葺切妻の山門がある。平将門に関係する延命寺の山門である。室町時代の建築様式を残す四脚門。延命寺は、茨城県旧岩井市に、将門に傾注した相馬氏が15世紀に創建したもの。 由緒書によれば、島広山の石井営所の鬼門除けに建立された寺院。本尊の薬師如来像は、天慶3年(940年)に藤原秀郷、平貞盛らによって、石井営所一帯が焼かれた際に移し隠された。世の静まるのを待って、この地に再び祀れた。仮堂の薬師堂は朽ちかけていた。 約40年前NHK大河ドラマ「風と雲と虹」において、平将門と藤原純友が取り上げられた。東の将門と西の純友が中央から反乱・独立する物語。加藤剛、緒方拳、吉永小百合などが登場した。海音寺潮五郎の原作である。 坂東市は、平成17年に旧岩井氏と猿島町とが合併して生まれた市である。坂東太郎の名を持つ利根川と鬼怒川に挟まれた洪積台地にある。現在の東京が沼地のあった千年前、この地は温暖で水害も少なく、農業や放牧に適した土地だった。写真-1 坂東市(旧岩井市)にある延命寺の山門。写真-2 山門を潜り、石造りの太鼓橋を渡ると境内である。写真-3 平将門の守護尊の薬師如来像を祀る薬師堂(仮堂)。写真-4 長閑な田園に佇む延命寺山門。写真-5 延命寺の近くに将門縁の「石井の井戸跡」がある。写真-6 NHK大河「風と雲と虹と」に出演した若き日の加藤剛さん。
2017年02月08日
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日没から20時まで、広大な丘を彩る東京ドイツ村のウインターイルミネーション。250万球のLEDを配置して、地上絵を創り出している。海に浮かぶ帆船と空を飛ぶ飛行船が描かれている。今年のテーマは、「大冒険」。ドキ・ドキ、スマイルが副題。 関東三大イルミネーションのひとつが東京ドイツ村。ここでは、「絵の主人公になる光のファンタジー」を味わえるとか・・。他の二つは、足利市の「あしかがフラワーパーク」と藤沢市の「江の島 湘南の宝石」とされる。誰もが心ときめく光の庭・・とのキャッチフレーズもある。 「地上絵」を見る場所は、芝桜の丘の展望デッキとそこに到る緩やかな道端だ。更に、人気のあるスポットが観覧車。直径40mと大きくはないが、高台の上に立っているのでイルミを一望できる。一周が約10分。長蛇の列ができる。 動物などの多くのオブジェが置いてある。子どもが喜びそうだが、迷子に要注意だ。小生らは団体なので、約1時間観覧してイルミの丘を後にした。帰路は。舘山道から首都高速湾岸道の市川PA、そしてディズニーランド横を通り、中央環状線-常磐道を経由。無事20時過ぎに帰着した。写真-1 芝桜の丘から見る大冒険の地上絵。写真-2 わんぱく広場と観覧車のイルミ。写真-3 ツルとフラミンゴがいる水辺。写真-4 大海原から陸地と飛行船を望む。写真-5 「マルクト広場」の虹色イルミ。写真-6 ペンギンの国。
2017年02月05日
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富士山が見えるドイツ村がある・・。千葉県袖ケ浦市にある東京ドイツ村の「わんぱく広場」から富士山が見える。観覧車に乗ると更に良く見える。ドイツの田園風景をイメージして造られた「花と緑のテーマパーク」である。 東京湾アクアライン「海ほたる」から車で30分の距離にある。首都圏から近いので、「東京」を頭につけたのだろう・・。敷地面積が27万坪と広大で、東京ドーム19倍の規模。園内をマイカーで回ることができる。 ドイツといえば、お城、木組みの家、広い平野、ソーセージ・ビールが頭に浮かぶ。芝生広場の丘に木組み様式のレストラン等が建っている。マルクト・プラッツという。それ以外はドイツを連想させるものはあまりない。2年前に旅行したローテンブルグの木組みの家並みが懐かしい。 ウインターイルミネーションが灯火するまで、少し時間があった。マルクト・プラッツにて、ホットティーとソーセージを頂く。「プラッツ」とは広場を意味する言葉。ドイツ各地では、「マルクト広場」をよく見かける。陽が沈み、夕富士が見えてきた。そろそろ250万球のイルミが始まる・・。写真-1 芝生広場の丘の上に建つ「マルクト・プラッツ」。写真-2 ドイツ村から見た夕富士。写真-3 芝桜の丘と展望デッキのイルミ。写真-4 日没後に東京ドイツ村のイルミが灯火。写真-5 ドイツ・ローテンブルクの「マルクト広場」夜景。写真-6 東京ドイツ村のエリア・マップ。
2017年02月03日
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養老渓谷の近くに不思議なトンネルがある。大多喜町の葛藤地区側(東口)の向山トンネルから奥へ進むと、上下ふたつの出口が見えて来る。二階建てのトンネルに入ったような気がする。上の大穴は、明かり取りなのだろか。月明かりも入るかも知れない。 向山トンネルは、小湊鉄道・養老渓谷駅から2Km、養老川へ向かうハイキングコースの途中にある。トンネル延長は115mと短い。東側・向山トンネル92m+西側・共栄トンネル23mと分けている。 かつては普通のトンネルで、西側の出口は高い位置にあった。しかし利便性をよくするために、トンネルの途中から堀下げて新たな出口をつくったものだ。その際に上の出口を埋め戻さなかったため、不思議な光景となった。都会ならば安全対策上、すぐに塞がれるはず・・。 共栄トンネルをでると養老川で、共栄橋が架かっている。川の左岸側に中瀬遊歩道が整備され、300m下ると養老渓谷の景勝地「弘文洞跡」に到る。支川の川回し用トンネルが崩れて、渓谷になったこの場所だ。秋ハイキングしたいコースである。写真-1 大多喜町の向山トンネルを歩く。写真-2 二階建てトンネルの詳細が見えて来た。下トンネルは支保工で保持されている。写真-3 共栄トンネル口と共栄橋。写真-4 養老川沿いの中瀬遊歩道。写真-5 養老渓谷の景勝地「弘文洞跡」。
2017年01月28日
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君津市・笹川の渓谷にある景勝地・清水渓流公園。澄んだ水の流れと滝が作る景観が美しい。静寂な場所だ。日帰り・源泉かけ流し濃溝温泉施設とお土産店の駐車場に車30台ほど停めるスペースがある。大型バスは、停車できるが駐車ができない。 亀岩の洞窟の少し下流に滝が点在している。セイナザ沢が笹川に合流する所の滝は、落差9mほどだが、水が枯れている日数の方が多いという。その直下の川床には、溝や窪みが複数見受けられる。ハート形の窪みがある。 この溝や窪みは、昔の水車小屋の跡だと説明書きがある。水車に水を引き込んだ痕跡なのだ。こうして出来た田んぼを「川田(カータ)」と言うそうだ。段々の河床と軟岩の地質に向き合い、農業を営んだ遺跡のような場所だ。 渓流広場の上流端に「幸福の鐘」が吊ってある。この鐘を鳴らすことによって、亀岩の洞窟の向こうから開運福寿を呼ぶことができるという。また、15mほど下の河床にある「ハートの泉」にコインを投げ入れる人もいる。ここは若いカップルが似合う場所・・。写真-1 清水渓流広場からセイナザ沢との合流点を見る。写真-2 亀岩の三段滝(黄金亀・母親亀・おんぶ亀)。写真-3 セイナザ沢の滝。秋の雨上がりが見頃とか・・。写真-4 亀岩方向から開運福寿を呼ぶ「幸福の鐘」。写真-5 川底にハートの窪みがある濃溝の滝。写真-6 清水渓流公園の案内図。
2017年01月25日
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ハート形に輝く光のカーテンができるという話題の場所を訪れた。差し込む朝日が岩洞と水面に映し出される洞門だ。光のトンネルの底盤が階段状で、亀の甲羅のようにも見えるので「亀岩の洞窟」と呼ぶ。 この洞窟内と下流側にも幾つか滝がある。一帯を「濃溝(のうみぞ)の滝」とも云う。片倉ダム(笹川湖)から上流約2kmの清水渓流公園内に亀岩の洞窟がある。この場所は、都心から近い君津市、笹川の河床だ。 当該洞窟(トンネル)は、350年前久留里城主の力を借りて、掘り抜かれた土木工事。蛇行した川の流れを変え(転流)た後、元の川底に盛り土をして田を作ったという。川をショートカットしたため、その分、河川勾配が急なり、護床を兼ねて階段状の水路となったのだろう。 射し込む陽が水面そして木々を神々しく彩る情景は、幻想的な秘境のよう・・。「まるでジブリの世界のよう」だとSNSを通じて、人気が広まった。最近は大型観光バスも多く立ち寄る。都心から近い秘境と言うより、笹川湖の名所・名物となったようだ。写真-1 清水渓流公園にある「亀岩の洞窟」。写真-2 河川をショートカットしたトンネル水路規模は、高さ15m×長さ40mほど。写真-3 画像を油絵モードに変換してみた。写真-4 ハート形の光のカーテン[ポストカードより]。写真-5 千葉県営・片倉ダムと笹川湖。
2017年01月22日
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みなと下田を一望するホテルに宿泊して下田を観て回った。須崎や白浜方面は次回の楽しみに残した。今回もツアー旅行、現地集合解散シリーズ。3人で柏駅から特急踊り子号に乗り、乗換無しで下田に来た。下田の気温は、黒潮の影響もあって、東京より1~2度高い。 思い出に残った「モノ」をいくつか日記する。まどが浜海遊公園に、小太りな坂本龍馬像が下田沖を見つめている。「龍馬志の像」との銘だ。その視線の先には、神子元(みこもと)島の灯台が見える。この灯台は、開国に伴い明治3年に造られたもので、石造り灯台では現役最古だという。 ホテルの前に、道の駅「開国下田みなと」が開駅していた。2003年学習施設の建物を改修したとあって、他の道の駅と少し異なり4階建て。近くに二面像の「友好のモヤイ像」がある。下田を向いているのは「新島モンモ(未婚の娘)」、新島を向いているのは「ペリー提督」の顔とされる。 弁天島入口の緑地に、魚の形をしたかざ車群が置いてあった。他の場所でも見かけたオブジェだ。風を受けて、一斉に音を発てて回ると壮観だと思う。かぜ車は、春の風に似合う。旅先で見る「かぜ車」は、郷愁を誘う・・。幼少期を思い出させるからだろうか・・。下田旅景色を終了します。写真-1 ホテルの部屋から下田湾を望む。写真-2 間が土浜公園に建つ「龍馬志の像」と黒船サスケハナ。写真-3 沖合に神子元島とその灯台が見える。写真-4 下田-新島の友好を示す「友好のモヤイ像」。新島モンモ像。写真-5 弁天島入口の「かざ車」によるサカナ。
2016年12月06日
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なまこ壁のある家屋が点在する下田の街。外壁に「海鼠(なまこ)」が取付いている訳でない。黒に白の碁盤目が斜めに交差する幾何学模様の「土壁」だ。土壁に平瓦をはめこみ、継ぎ目に漆喰を盛り上げて固めたもの。 防火・防湿のために、先人が考えたカベなのだ。 漆喰は明治以前、瓦や石材の接着剤や目地の充填、壁の上塗りに広く使用されていた。世界遺産・姫路城の修復に、大量の白漆喰が使われた。漆喰は、消石灰を主成分するため、CO2を吸収しながら、長い年月をかけて固まる素材である。 消石灰は、簡単に言うと石灰岩を焼いて粉にしたもの。ホームセンターで、園芸材として袋詰めで販売されている。強いアルカリ性なので、土壌の消毒や酸性土の中和剤として使われている。ジメジメした土地では、屋敷の壁および蔵にカビや雑菌を抑制する目的もあったのではないか。 なまこ壁の蔵は。松崎町や倉敷市などが有名か・・。いずれも港に近い町だ。海産物である海鼠を常食していた町なのだろう・・。貝殻を破砕して焼いても消石灰を作ることができる。貝殻の処分と火災予防、そして衛生面を考えた「カベ」なのかも知れない。写真-1 なまこ壁の中は、開国博物館とお土産店。写真-2 紀州・雑賀衆に縁のある「雑忠」(鈴木家)。下田の代表的なまこ壁を持つ民家。写真-3 ペリーロード沿いにあるコーヒーとスナックのPEPE。写真-4 唐人お吉縁の安直楼。現在、お寿司屋さん。写真-5 ガイド嬢お薦めの「ハリスさんの牛乳あんパン」をお土産にした。
2016年12月03日
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自然の入り江に大きな船を浮かべたような水族館がある。下田に因んで、メイン施設をアクアドームペリー号と呼ぶ。船の半分ほどは海中に沈むので、下田海中水族館と言われる。当然ながらペリー号までは、浮き桟橋の上を歩くことになる。 アクアドームペリー号は、排水量1300トンの係留船で、入場制限もあるようだ。立席定員170名とある。ペリー号の中に、伊豆の海を再現する、高さ6m×600トンの大きな水槽がある。サメやエイなど50種類のサカナ類が蠢いている。マイワシも群泳しているが、サメに食べられてしまう運命・・。 水族館と言えば、イルカやアシカなどのショーが人気である。小さな子どもが喜ぶイベントだ。小生ら一行は、ツアーに組み込まれていたので、たまたま見学する機会を得た。トレーナは女性が多い。動物への愛情は男性より強いのか・・。またイルカから見ると女性の方が懐きやすいのだろう。 入江の一部は、「ふれあいの海」と呼ばれ、そのままイルカと一緒に遊ぶことができる場所。訪れ日、申し込みが無いようで、このコーナーはクローズしていた。約50年振りにイルカショーの実演を見たが、動物の芸がとても進化していた。写真-1 海面穏やかな入江に浮かぶアクアドームペリー号。写真-2 ペリー号の水槽で泳ぐサカナたち。写真-3 大きくジャンプするカマイルカ。写真-4 トレーナと一緒に水中から観客に挨拶するアシカ。写真-5 仲睦ましいアシカのエリーちゃん。
2016年11月30日
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下田観光の定番、黒船サスケハナに乗船して、下田港内めぐりを楽しむ。ペリー来航の黒船をイメージした遊覧船である。帆を張るマストや外輪などがデザインされている。全長35m×127トンで、乗客定員240名となっている。 まどが浜海遊公園近くの桟橋から出航して、港内を約20分かけてめぐるコースである。海上から見る寝姿山は、なるほど人が仰向けに寝ているように見える。下田公園の丘陵や海中水族館など見ながら進む。 ペリーの黒船は、みさご島と犬走島との間に碇を降ろしたという。フタコブラクダの背中のような犬走島。背中にはトンネルが掘られ、長さ350mの犬走島堤防と連絡している。この堤防は、豊富な魚種を楽しめる釣り場だ。トイレがあるので、釣女子会に人気だという。 米国海軍のサスケハナは、1850年から18年間、東インド艦隊などの旗艦を務めた外輪式フリゲート艦(2450トン)。サスケハナとは、ペンシルバニア州を流れる川で、先住民語で「広く深い川」を意味する。米海軍では、一等鑑の名前は州名を、二等鑑の名前を河川名にするらしい・・。写真-1 海上から見る寝姿山。左側の小山が頭に見立てる。写真-2 かつて、鷹の仲間・ミサゴが縄張りにしていた「毘沙子(みさご)島」。写真-3 白灯台と犬走り島。小さなトンネルが見えた。写真-4 吉田松陰が密航時に潜んだ弁天島。写真-5 遊覧船の黒船サスケハナ。
2016年11月26日
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朝食前に下田城址公園を散歩した。公園の東端に馬場ヶ崎展望台があり、朝日を見るのに良い場所だとホテルの人が教えてもらった。確かに日の出と下田港を一望できる場所である。柿崎海岸やホテルを展望できる。 下田公園は、鵜島城跡地を整備したもので、アジサイ15万株が咲く名所して知られている。鵜島城は、天正18年豊臣秀吉の小田原攻めの際、北条方600名が籠城した城。援軍の無い籠城戦は50日間余りで開城した。江戸期は幕府の直轄領となり、下田奉行所が置かれた。 函館とともに日本最初の開港場となった下田。公園下の海岸にペリー艦隊上陸の碑がある。ペリー提督の旗艦(乗組員300名)は、長さ75m×2400トン×大砲9門を搭載していたとされる。アメリカと日本とを約7ヶ月かけてやって来たという。それはそれで大変な苦行と察する。 馬場ヶ崎展望台下には、伊豆七島への船着場がある。神新汽船(株)の「フェリーあぜりあ」就航しているようだ。利島-新島―式根島―神津島-下田と周回している。周遊クルーズは5300円とのことだ。2014年に落成した新しい船で、一度伊豆の島々を巡ってみたいものだ・・。写真-1 下田港の日の出を馬場ヶ崎展望から見る。写真-2 ホテル街と柿崎海岸を望む。写真-3 下田公園から中心街と下田富士を望む。写真-4 鵜島城址の天守を登るも見晴し不良。写真-5 公園下の海岸に建つ「ペリー艦隊上陸の碑」。
2016年11月25日
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下田市内の平滑川沿いに、異国情緒漂うレトロな街角がある。明治・大正時代の家・建物がその用途を変えて、いまなお使用・保存されている。柳並木と石畳を続くその小径は、ペリーロードと呼ばれている。 ペリーロードは、下田公園から了仙寺(りょうせんじ)へ続く川沿いの700mほど。この辺りでも古いとされるのは明治42年築の「風待ち工房」。当時遊郭だったものを改装して、骨董品を鑑賞しながら喫茶する場所になっている。 ペリーの下田再来航は1854年、162年前の出来事。世に云う「下田条約(日米和親条約)」を結ぶために、港から了仙寺まで、300名の兵隊を率いて行進したとされる。異国文化が出会う通りとなった。 ペリーロードは、了仙寺の参道でもある。 了仙寺の山門を抜けて本堂に参拝する。頭上に「ペリー提督黒船陸戦隊了仙寺調練の図」の絵馬が掲げられている。境内で軍楽隊の演奏を町民に披露したという。日本における最初の洋式コンサートか・・。了仙寺は、ジャスミン寺と知られ、5月には「香り寺」となり、人々を誘うようだ・・。写真-1 平滑川の下流右岸に建つ「草画房」。大正3年築、ギャラリー・カフェ。写真-2 SOULBAR土佐屋。築160年回船問屋が生まれ変わった。写真-3 遊郭を改装した「風待工房」。写真-4 上流から平滑川を見る。電線地中化が進めば良いのだが・・。写真-5 開国の舞台となった了仙寺。ジャスミン寺と親しまれている。写真-6 ペリー提督黒船陸戦隊了仙寺調練の図。
2016年11月23日
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南伊豆には夕日の美しい場所が数多い。下田・柿崎海岸は、そのひとつ。柿崎海岸へは、道の駅「開国下田みなと」から海沿いに約800m東側に歩けばよい。ハリス記念館の近くである。 江戸期から風待ちの湊に利用された下田。上方(大阪)と江戸を結ぶ海上交通の要衝であった。米国ペリー艦隊が目を付けたのは当然だ。黒船来航によって、開国の舞台となったこの町には、名所・旧跡がちりばめられている。 柿崎海岸から地続きで弁天島がある、吉田寅次郎と金子重輔が決行に際して潜み、沖へ向かって小舟を漕ぎ出した場所だ。現在は公園に整備されて、二人の像「踏海の朝」が建っている。海の彼方を見つめる憂国の志士である。1854年4月20日夜、黒船を目指した。 「一見は百聞にしかず」・・信念の人・熱い人だったのだろう。かの人の思いは、松下村の塾生達に引き継がれた。現在は、スマートフォンが普及して、百見ばかりの世の中・・。情報過多に倦む傾向がある。その場所、その時間、その人物に出会ったことが人生の糧になってゆくのだが・・。写真-1 下田・柿崎海岸の夕景。写真-2 下田公園丘陵に陽が沈む。写真-3 柿崎防波堤から弁天島を見る。写真-4 吉田松陰と金子重輔の像「踏海の朝」。写真-5 黒船に向かって漕ぎ出す「踏海企ての図」。
2016年11月22日
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伊豆急行下田駅を降りて、見上げると寝姿山がある。女性が仰向けに寝ている姿に似ているので、その名前がついた。訪れた日、山頂はピンク色のリトルエンジェル(和名:紫紺野牡丹)が見頃を迎えていた。この可愛らしい花は、ブラジルが原産地らしい。誰が植えたのだろうか・・。 寝姿山山頂には、遊歩道が整備された自然公園がある。南斜面に面した公園は、日当たり良好で、草花・樹が育つ。山頂へは39名乗りのロープウエイで約3分(L=540m)。標高200mの展望台からは、眼下に下田港、沖合の伊豆七島が見渡すことができる。 山頂に愛染明王堂が建っている。女性に人気の縁結びのお堂だ。ハート型の絵馬も特色のひとつ。江の島にある江島神社に似た雰囲気がある。恋愛成就のご利益があるとか・・。南の海に面しているのも共通点だ。 1854年ペリー提督率いる黒船が投錨した下田湊。黒船見張所が山頂にある。幕末、風と人力以外で軍艦が自由に動き回るのを見て、さぞ驚いたことだろう。山頂の木陰から黒船を観て、異国の国力と日本の未来に思いをはせた若者が多く生まれた山だ・・。写真-1 「小さな天使」が咲く山から下田港を望む。写真-2 晩秋の陽を浴びるリトルエンジェル。写真-3 寝姿山展望台から太平洋を望む。逆光で伊豆七島が薄い。写真-4 縁結びに御利益のある愛染明王堂。写真-5 下田駅を降りるとそこは寝姿山ロープウエイ・・。
2016年11月20日
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富山市のシンボルの一つに富山城がある。昭和29年に再建した模擬天守(三重四層の鉄筋コンクリート造)。市民の間では、小天守と併せて「お城」と呼ばれる。10年ほど前に耐震改修工事を終えて、富山城の歴史を紹介する「郷土博物館」としてリニューアルされた。 戦国・江戸期を通じて富山は、北陸街道と飛騨街道が交じる越中地方の要衝であった。当時の富山城は、神通川を北面の守りとし、四方を堀や水路で防御したため、「浮城」とも呼ばれた。当時の神通川は、現在の県庁辺りを流れ、日本海に通じ水運を活かした城下町となっていた。 富山城の城主といえば、歴代の前田家よりも、佐々成正であろうか・・。織田信長の馬廻衆であった成正は、織田家のエリート武将で、越中半国を任せされたほど。しかし、本能寺の変後、柴田勝家方に付き、秀吉と対立する。「さらさら越え」も空しく、秀吉軍に降伏して城は破却された。 富山市のイメージが低下する不祥事が明るみにでた。氷山の一角なのだろう・・。一度に、市議6名が辞職追い込まれた。市民とマスコミが連携すると、色々なことが暴露されてしまう世の中。議員さんは心してお金を使うように・・。セイム活動費の一時凍結決議がなされると良いのだが・・。写真-1 三の丸辺りから「富山城」を望む。写真-2 野面積み石垣の上に建つ富山城。写真-3 芝生広場から小天守と天守を望む。写真-4 千歳御門と富山城天守。写真-5 桝形通りの石垣の様子。巨石が組み込まれた石垣。
2016年09月15日
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駅に向かう富山のくすりさん。ベンチに腰掛けて、薬置台帳をチェックする薬屋さん。傍らの着物姿の子どもが可愛らしい・・。JR富山駅前広場(エクセルホテル前の一画)にあるブロンズ像だ。「富山」の名を全国的に広めた立役者である。 江戸期、富山の薬売りは、藩の保護のもと江戸市中のみならず各地に広がった。人との信頼の上に成り立つ商売である。各家庭に薬を置いてもらう販売スタイルが「置き薬」方式だ。1回から2回の年頻度で薬屋さんが訪れ、薬の補充と代金の清算をするもの。 現在薬の販売は、薬剤師のいる量販店が主流だ。多様の薬が店頭に並ぶ。小生の幼き頃にも、富山の薬箱が茶の間にあった。生傷の絶えない身体に、または急の風邪に重宝した記憶がある。今でもこのスタイルは残っているのだろうか・・。 富山のくすりやさん像の西側には噴水広場がある。その一画に「平和群像」と命名されたブロンズ塔が建って居る。戦後まもなく永遠の平和を願って作られたもの(コンクリート製が)老朽化したため、1990年にリニューアルしたものだ。先人の平和を希求する想いが此処にもあった。写真-1 JR富山駅前の風景。富山の薬売りは有名だね・・。写真-2 「富山の薬売り」のモニュメント広場。写真-3 駅南口玄関の「越中富山の売薬像」郵便ポスト。写真-4 永遠の平和を願う「平和群像」モニュメント。写真-5 駅舎内での「越中おわら」を披露。Oと和で「オワラ」・・。
2016年09月12日
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富山市内を周回するLRT車両・セントラムに始めて乗った。低床の車体で振動が少ないので、快適な乗り心地である。一般に路面電車というと、都電荒川線のようにガタゴト走るイメージがある。しかしLRT車はスマート運転だ。2009年12月から運行されて話題の路面電車である。 この度、富山市の日帰り出張があった。その際、会議を終えてLRT車に飛び乗った。富山地方電鉄の市内3系統あるうちの循環ルートに乗車。10停車場を約25分間で一周する。LRT(Light Rail Transit)は次世代型路面電車と呼ばれ、市内の車使用を減らすねらいがある。 富山市内には、3種類のLRT車が運行している。(1)ポートラム:富山駅北口から岩瀬浜までの7.6Kmを走る富山ライトレールの2両編成車。(2)セントラム:富山市中心街を走る富山地方電鉄の9000形・2両編成車。(3)サントラム:富山地方電鉄のT100型3両編成車。 国内を走る路面電車は、17都市19事業者とされる。「軌道法」に基づく事業のみ。但し、実態的には19以外にも路面電車がある。日本で一番多く利用されるのは、広島電鉄の約10万人/日。富山地方電鉄と富山ライトレールを合わせも1.5万人/日だ。雪国のハンデを乗り越え頑張ってほしい・・。写真-1 富山城付近を走る9000形セントラム車。2009年から運行する環状線。写真-2 国際会議場前に停車するセントラム車。写真-3 JR富山駅前を行くセントラム車とレトロ電車。写真-4 三両編成のサントラム車。写真-5 インファンド工法による軌条と富山駅南口乗場。
2016年09月09日
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まるで絵画の中にいるようだ・・。今にも1頭の白い馬が出てきそうな気配が漂う「御射鹿池」。奥蓼科温泉郷近くのため池だ。池の名前は、この地域が神野と呼ばれる諏訪大社上社の御頭祭の時に、神に捧げる牡鹿を射る神事があったことに由来する。 御射鹿池(みしゃかいけ)は、昭和8年(1933年)に造られた農業用のため池。水源となる渋川は、冷たく、酸性の強い水質なため米の収穫率は低かった。そこで、水を温め、酸性水を希釈するため造られた。大きさ1.3ヘクタール、貯水量2万6千トン、水深8mの池規模。標高1528m。 東山魁夷の絵画「緑輝く」の取材地。その後、液晶画面AQUOSのCMに登場した池として話題となった。緑の樹々に覆われた湖畔に、1頭の白馬が現れて消えて行くシーン。「幻想が教える現実の美しさ」がキャッチコピー・・。シャープが輝いていた頃だ。 この池を訪れる人は、コバルトブルーの水面に魅了される。酸性の池で魚が棲めない。湖底にはチャツボミゴケが生育する。綺麗な緑の世界を創る要因になっている。訪れた日、池に隣接する道路の改良と駐車場を広げる工事の最中だった。ますます観光客が立ち寄ることだろう・・。写真-1 奥蓼科温泉郷近くにある御射鹿池。下流左岸を望む。写真-2 御射鹿池の上流側。水清くして魚棲まず・・。写真-3 御射鹿池に流れ込む水路。写真-4 白馬が現れそうな雰囲気。写真-5 「緑響く」東山魁夷作品集。 写真-6 「湖澄む」 場所;ドイツ オーバー・ゼー。
2016年08月23日
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白駒の池は、北八ヶ岳・丸山の東側にある楕円状の池。標高が2215mと高く、天空の池とも呼ばれる。火山の噴火により、川がせき止められて誕生した堰き止め湖である。苔の森原生林のなか、静かに水を湛える。 八ヶ岳火山湖沼の中で一番大きい白駒の池。また、2000m以上の高地に存在する湖としては、日本一とされる。湖沼面積が11.4ヘクタール、湖岸長1350m、最大水深8m、魚が棲まない天空の大きな水溜りだ。池から流れ出す水は、大石川となり、佐久地域の上水に利用されている。 湖岸には2つの山荘がある。そのうちの白駒山荘は、国道299号から徒歩15分の距離。林間学校としても利用されているようだ。収容人数が250名。食堂・風呂・トイレが完備している。紅葉の名所であるため、秋の宿泊予約はいっぱいだという。 白駒の池から、天空の池を望める初級登山コースがある。高見石までの往復1時半の行程。高見石の天辺は展望が良く、八ヶ岳のみならず中央アルプスも望めるという、眼下には盆のような白駒の池がある。中高年者に人気のコースだという。登りたくなる高見の岩場だ・・。写真-1 標高2115mの白駒の池。白駒山荘近くの湖畔。写真-2 白駒の池 三日月の草洲。写真-3 白駒山荘を対岸から望む。写真-4 青苔荘近くの湖畔と桟橋。写真-5 高見石から白駒池を望む。[パンフレットより]
2016年08月20日
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メルヘン街道(国道299号)から一歩入れば、原生林と苔の景色に出逢う。八ヶ岳の北麓に位置し、八千穂高原より高い標高2100mにある佐久穂町の森だ。森林組合が駐車場や森の遊歩道を整備・管理している。 麦草峠に近いこの辺りは、積雪が多く融けにくい。国道の開通は、例年5月下旬となる。コケが生え揃うのは6月中から7月末だという。白駒の池入口駐車場からは、すぐに原生林に入ることができる。道の駅を思わせる立派なトイレ施設がある。50円の協力金を納めて用を足す。 北八ヶ岳の火山台地は、これまで開発の手があまり入っていない。霧や雲の多く発生するので、コケの生育に適している。火山噴出物をコケが覆い、その上に針葉樹が成長する高原の森。森に生育するコケの種類は、400種を超えるという。 この佐久穂町の原生林には、10箇所ほどの特徴的な森があるが、小生らは団体行動なので50分の散策時間が与えられた。「白駒の森」と「高見の森」の2箇所を見て回る。ルーペを持参しなかったことを悔いる。北八ヶ岳苔の会が作成したチラシを手に、苔の中を涼散歩した。写真-1 北八ヶ岳の苔の森。木漏れ日が林の中に差し込む。写真-2 白駒の森に生息するコケ達。写真-3 コケは倒木を覆い、立木を襲う・・。写真-4 セイタカスギゴケの群落。背高杉苔と書くのかな・・。写真-5 整備されている森の遊歩道。
2016年08月19日
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