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新中野ダムと同じ亀田川水系に建設された笹流ダムを訪れる。昔のビルデング外壁、または水道橋を連想される壁だ。国内では数少ない形式のバットレス(扶壁)型ダム。現存するこの形式は6ダムでは最も古い。200m弱の止水壁を25基程度の扶壁で支えている。ダムの諸元は、堤高25.3m×貯水量約60万m3。 明治に入いると外国にも開港された函館は、入港する船の給水や人口の増加で、水需要が逼迫した。当時コスト面と短い工期で作れるバットレス形式が採用された。函館市の水道施設群の笹流ダムと横浜に次いで古い元町配水場が土木学会推奨土木遺産に登録されている(2001年)。但し、1983年に扶壁は改修補強された。 堤体の下流右岸側にダム天端へ通じる人道がある。日陰の坂道沿いに、青いアジサイが咲いていた。ダム天端右岸天端道路を歩くこともできる。貯水池右岸の洪水吐き付近は立ち入り禁止。清水を湛えるダム湖は、「ダム湖百選」のひとつ。またダムサイト下流の前庭広場は、桜と紅葉の隠れた名所でもある。写真1 笹流ダムの扶壁。水道橋にも見える。写真2 土木学会選奨土木遺産の碑写真3 ビルの外壁を思わせる扶壁が並ぶ。写真4 ダム天端道路と右岸貯水池側の洪水吐き。写真5 ダム全体と周辺環境。前庭広場、散策路。写真6 補修前のダム姿とダム断面図。
2023年07月21日
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函館市郊外、亀田川に建設された嵩上げ方式の新中野ダムを43年ぶりに訪れた。ダム湖の名称は、「なかの湖」で、334万m3を貯水する。山あいの中、静かに初夏の緑に囲まれて水を湛えていた。工事に従事した若いころの日々が甦ってくる。 新中野ダムは、水道専用であった中野ダム(堤高53m)に、洪水調節機能等を付加するために嵩上げを行ったもの。嵩上げ高さは、旧ダムの高さの41パーセントに当たる21.9m。国内最大規模の嵩上げダム工事であった。この事業により、新ダムの貯水量が4.4倍となる。親が大きな子を背負うような断面構造だ。 ダムの下流側に下りて、堤体コンクリートの状態を眺める。外見上問題はないようだ。今後も数十年、地域の社会インフラを支えるダムであってほしい・・。旧仮排水トンネルの出口には、河川維持水を放流すると同時に、小水力発電所(260kw)が設置されていた。また資材置き場などに使用した敷地は、ダム公園(ミニダム湖)と整備されていた。写真1 水を湛える新中野ダム。写真2 新緑に囲まれる「なかの湖」。写真3 左岸天端広場とダム管理事務所。写真4 ダム下流側と越流部、小水力発電。写真5 ダムカード(Ver.2)とダム嵩上げ断面。写真6 下流ダム公園とミニダム園。
2023年07月19日
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利根川東遷事業以前には、利根川と荒川の本流だった中川。更に荒川の西遷事業により、流域面積が激減する。中川は、埼玉羽生市街地の中に源を発する延長84kmの一級河川。時代が進み、中川流域に人口が増え、治水と利水の社会インフラが必要になった。 権現堂桜堤・巡礼樋管の対岸にあたる中川左岸側に行幸(みゆき)水門があり、水門の奥には権現堂調節池(みゆき湖とも呼ぶ)がある。この調節池は、南端の中川寄りの行幸水門・給排水機場で、北端の利根川側の川妻・給排水機場で締め切られている。 みゆき水門は、堤高14.5m×長さ89mの堰と3門の貯水ゲートと2門の放流ゲートからなる。 行幸湖は、総貯水量410万m3×延長5.2kmの行幸湖。但し洪水期には、中川の水位より下げておき、洪水調節量として360万m3確保する。水道水や工業用水も取水する多目的ダム(堰)。行幸とは、明治天皇が数回視察に来たことに由来する。名物の大噴水の噴水口に、勾玉と「しらこばと」のデザインが採用されている。写真1 行幸(みゆき)水門および堰。写真2 中川に架かる外野橋を渡る。写真3 水門ゲート類と給排水機場。写真4 みゆき湖を眺める展望台。写真5 みゆき湖と噴水装置、ダムカード。写真6 カッパ博士と権現堂調節池の碑(しらこばと)。
2023年07月09日
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利根運河(延長8.5km)の中間付近、流山と柏との市境に諏訪下川が流れている。市などが管理する準用河川の小さな川で、運河の左岸に流れ出ている。この河川流域の内水排水を目的として、昭和59年に「諏訪下排水樋管」が造られた。 利根運河には、大小の樋管施設が16箇所ほどある。諏訪下川樋管は、ゲート規模が比較的大きい。そして国交省が管理している。その規模は、2連×幅3.25×高さ3.8m×長さ49.5m。河川敷内にゲート操作室(電動ラック式開閉器)が建っている。 一般に本川が増水した場合、逆流を防ぐためにゲートを閉めて、堤防裏側に排水機場を設備する。諏訪下川樋管の場合、そうした排水施設は見当たらない。その替わりに、直近く市のコンテナ倉庫がある。可動式の排水ポンプが収納されている。電柱も立っているので、商用電源によりポンプを稼働させるものと思われる。写真-1 諏訪下排水樋管の樋門(河川側)。写真-2 樋門の門柱とゲート操作室。写真-3 電動ラック式開閉機と門柱。写真-4 内水側(堤内)の排水口と胸壁。写真-5 堤防裏側のり面と排水口の翼壁部。写真-6 緑豊かな運河水路と土手。
2021年09月24日
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利根運河は、断面が大きいが、普段小川のような水しか流れていない人工川。昔、江戸川と利根川とをむすび、水運を担った。現在も1級河川の指定を受けている。そして、樋門・樋管が少なからず点在している。 利根運河水辺公園の右岸側(野田市)に、「山崎排水樋管」がある。可愛らしい建物がある。三角屋根の樋門ゲート室だ。平成6年に造られた。ゲート規模は、幅2.1m×高さ2.1mのスライドゲート。 運河大橋の下流100m右岸に、比較的大きな樋管「梅郷第一樋管」がある。幅5.5m×高さ3.2m長さ55m×2連の樋管。樋管とは、堤防の中に水路(暗渠)を埋設し、用水の取水。内水の排水を目的とする。平時は川に水を流す。しかし大雨等で増水した場合、樋門を閉じて堤防と一体となって、生活圏を守るインフラ。写真-1 利根運河とその水辺公園。写真-2 左岸エリアを排水する山崎排水樋門の巻上室。写真-3 樋門・スライドゲートと運河の流れ。写真-4 梅郷第一排水樋門。樋管長さ55m、運河では大きい方。写真-5 幅5.5m×高3.2m×2連のスライドゲート。写真-6 新南部排水樋管。
2021年09月15日
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江戸川32キロ地点に「六兵衛の渡し跡」がある。流山市域にあった8つの渡し場のひとつ。別名「上新宿の渡し」とも言うが、六兵衛なる人が運営していたのが名前の由来。昭和20年頃まで存続し、対岸の耕作地や水田と往き来した場所。 現在、六兵衛の渡し跡に排水機場と樋管が造られている。土地改良区が管理する「新川第二排水機場」。江戸川に面する側に水門があり、平時は開いている。洪水で江戸川の水位が上昇した場合、逆流を防ぐためにゲートを閉める。本川の水位が下がると、内水をポンプアップして江戸川に放出する。 この場所は、今上落し、新川承水路、農業用水路の3つ水路が集まっている。今川落としは、二つの水路を横断するため、余水吐き+チェーンブロックゲートなどある。平時は主に承水路の水を放流している。放水口の先端には、洗堀防止のため井桁ブロックが組まれていた。写真-1 江戸川左岸32キロ地点の樋管(スライドゲート2基の樋門)。写真-2 六兵衛の渡し跡木碑と新川第二排水機場。写真-3 新川承水路と今上落し合流部にポンプ設備がある。写真-4 3つの水路が隣接するので水門・ゲート類が多く設置。写真-5 江戸川側の吐口部。写真-6 左岸土手の菜の花。
2021年03月11日
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利根川と江戸川を結ぶ延長8.5km利根運河。上流河口は、利根川60km地点付近、ここから900mほど内に入ると運河水門がある。ライトブルーの水門(径間26m×高さ10.8m)。水門から下流へは堤防の左右岸に、サイクリングロードが整備され、江戸川に到る。 運河として水運を担ったのは昭和16年まで。その年の7月の台風で運河は大打撃を受けた。その後、利根川の分派川(500m3/S)として昭和50年に整備される。しかし埼玉県側の反対もあり。治水対策に使用されず。替わりに首都圏への利水・北千葉導水事業が完成するまで、暫定水路として使用。2006年にその役割も終えた。 その昔、運河の両岸には6000本の桜があったが、治水計画を進める過程で伐採された。その桜が多少残っている。当初運河は、江戸川から利根川に流れていた。しかし昭和29年の台風水害で鬼怒川の合流点の川底が上昇した。このため流れが逆転した。現在も利根川から江戸川へ緩やかに流れている。写真-1 運河水門を下流から望む。写真-2 ライトブルーの水門を上流から望む。写真-3 昭和51年に建設された径間26m×高さ10.8mの水門。写真-4 水門右岸の四阿と筑波山。写真-5 運河水路と導水排水機場(2006年撮影分)。
2020年05月01日
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大阪府茨木市北部、安威川(あいがわ)で進んでいるロックフィルダムの工事を見学する。JR茨城駅から北7kmほどに位置している。ダム見学広場は、右岸天端付近にあり、ダム資料館なども設置してある。近隣に大門寺がある。始める訪れる人にとって、目印にもなっている。 安威川ダムは、淀川水系の支川に造る治水ダム。ダム事業は長い道のりを経てきた。やはり、平成22年に「ダム事業の検証」の要請を受けて中断。検証後、ダム事業が継続になったダム。ダム規模は、堤高76.5m×堤頂長337、堤体積222万m3。洪水調整ポケット容量は1400万m3。 訪れた日、現場ではダムの基礎づくりに欠かせない、監査廊構築と基礎処理工(グラウチング)が行われていた。左岸側では、ダムの安全弁・洪水吐きのコンクリート打設が進む。洪水吐き工の特徴として、下流シュート部中断に常用洪水吐トンネルの吐口がある。常時満水面が低いためなのか・・。 ダムが完成すると湖畔の名刹になる大門寺。真言宗仁和寺の末寺で、本尊が国の重要文化財に指定されている。秋に訪れとよい。隠れた紅葉の名所と紹介されている・・。写真-1 ダム右岸天端見学広場から安威川ダム建設工事を見学。写真-2 堤体上流部と堤体下流を望む。写真-3 非常用洪水吐き工と監査廊工が工事中。写真-4 見学広場に設置されているダム資料館。写真-5 ダム完成予想図とダム堤体標準断面図。写真-6 隠れた紅葉の名所とされる大門寺境内。
2019年08月14日
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三重県の内陸、「伊賀の里」で建設している川上ダムを見学した。近鉄大阪線・伊賀神戸駅から南東約3.5km、前深瀬川(まえふかせがわ)をせき止める重力式コンクリートダム。右岸ダム天端にダム工事を見学する施設「WELCOME観眺台(みてチョー台)」がある。一般開放は8時30から16時30分まで。 川上ダムの事業者は水資源機構。洪水調節、水道水の新規確保を目的としている。ダム規模は、堤高84m、堤頂長334m、堤体積44万m3、有効貯水量3100万トン。訪れた日、大型タワークレーンの据付が完了し、河床部の仕上げ掘削が作業中。間もなくコンクリート打設が始まる。 平成5年に建設大臣の許可がおりていたが、政権交代もあり「ダム事業検証」の対象になった川上ダム。約5年間の検証作業を経て、ダム規模の縮小等の変更があって工事再開となった。昨年2018年9月に本体工事の起工式。2022年完成に向けて、工事は進む・・。 前深瀬川は、木津川上流部の最大支流で、多様な生物が生息する自然豊かな川。国の自然天然物のオオサンショウウオがいる川として知られている。ダム建設の影響は免れない。保全対策事業として、ダム湖上流への移転等が、併行して実施されているという。写真-1 ダム右岸天端見学台から川上ダム本体工事を見学。写真-2 左岸天端付近と堤体河床部仕上げ掘削状況を観る。写真-3 堤体河床上流部における施工設備の据え付け状況。写真-4 WELCOME観眺台(みてチョー台)」。ELCM打設に関係する。写真-5 骨材貯蔵設備とダムカード。
2019年08月11日
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新幹線・盛岡駅から東へ12kmほどの所に、簗川ダム(やながわだむ)が建設されている。岩神山を発する簗川を堰き止めて造る多目的ダムである。堤体コンクリート打設が終わりに近づいた頃訪れた。 簗川ダムは、堤高77.2m×堤頂長249m、堤体積34万m3の重力式コンクリートダム。治水と利水を併せ持つ多目的ダムである。有効貯水量1,670万トンのうち、洪水調節容量に1,170万トン、利水容量500万トンが策定されている。平成38年9月から始まったコンクリート打設は、今秋11月で終える予定。 土木工事では、人手不足・生産性向上などで、施工の自動化が多く行われている。このダム現場でもダムコンクリート打設の自動化を実施している。バッチャープラントのコンクリート供給から15t軌策式ケーブルクレーンによる運搬・打設が完全自動化。訪れ日は、夜間打設のため、自動打設を見学できなかった・・。写真-1 コンクリート打設完了が近づいた簗川ダム。右岸側から望む。写真-2 堤体下流側を望む。写真-3 ダム天端付近の施工状況と上流面。写真-4 施工機械-1 [軌策式ケーブルクレーンとコンクリート製造設備]。写真-5 施工機械-2 [骨材貯蔵設備とバンカー線設備]。写真-6 仮設平面図とダム完成予想図。
2019年07月02日
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八ツ場ダムに水が貯まる時期が近づいてきた。堤体コンクリート打設完了式(6/12)を終えたばかりのダム現場を見学した。上空に架設したケーブルクレーンや左岸天端に設置してあったコンクリート製造設備などは、姿を消していた。 訪れた日、ダム天端付近では放流ゲート設置工事、堤体下流で水力発電所建設工事が急ピッチで進めていた。ダム管理所も概成しており、いよいよ湛水が近いことが知れる。新聞でも今年秋に湛水か・・と報道した。 計画から70年(古希)となる。ようやく事業が終わりそうだ。ダム建設反対、吾妻川の酸性水対策、政権交代による工事中止など、紆余曲折の果てに辿りついた多目的ダム・・。来年の秋には、紅葉が映える湖面が出現していることだろう・・。写真-1 コンクリート打設完了式を終えた八ツ場ダムの堤体を八ツ場大橋から望む。写真-2 左岸および右岸からダム堤体を望む。写真-3 ダム上流面側。選択取水設備と常用洪水吐の3つの吞口。写真-4 ダム下流面と天端でのゲート設置工事。写真-5 ダム下流部では発電所建設工事が急ピッチ。
2019年06月24日
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奈良俣ダムの天端広場に、UFOのような、銀色したキノコ形の建物がある。ダム資料館と展望室を兼ねた「ヒルトップ奈良俣」だ。周辺の自然や生き物についての紹介、そして奈良俣ダムの目的・役割など説明している。 奈良俣ダムは、利根川水系楢俣川(みなかみ町)に建設された巨大なロックフィルダム。堤高158m×堤頂長520m、総貯水量9,000万m3の多目的ダム。ダム天端標高は高く、EL.890m。秘境尾瀬に近く、豪雪地なので「ヒルトップ」は、11月下旬から雪融けまで冬期閉鎖となる。 ヒルトップと言えば、ピーターラビット。絵本作家、H.B.ポター氏が晩年過ごした家。英国の湖水地方の小さな村、ニア・ソーリーのヒルトップハウスは、緑と草花に囲まれた石造りの建物だという。今も保存されている。動物やキノコのスケッチが大好き作家だった・・。 関東1都4県の水ガメのひとつの奈良俣ダム。利根川上流8ダムで、洪水と渇水対策を担っているが、奈良俣ダムは主に上水を供給する。隣にある八木沢ダムと合わせと、8つのダムの有効貯水量の43パーセントに相当する。雪融け水が貴重な水資源となる水ガメだ・・。写真-1 キノコの笠のような展望室がある「ヒルトップ奈良俣」。写真-2 ヒルトップ奈良俣館内の展望室とダム資料館。写真-3 ダムの放流設備、洪水吐き吞口部。写真-4 洪水吐きの流入部と減勢部。写真-5 ダム湖を点検・管理する係船施設。写真-6 みなかみダムカレー3種類とならまたダムカレー。
2018年11月22日
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尾瀬(鳩待峠)に最も近いダム湖「ならまた湖」。四境(群馬・新潟・福島・栃木)に囲まれた湖だ。その湖の山肌は、紅葉で染め上げられていた。ダム天端から至仏山が見える。到着時は雨が降っていたが、帰り際雨は上がり、虹が架った・・。 ならまた湖は、赤倉山、至仏山から流れ出る「楢俣川」を、奈良俣ダムで堰き止めた人造湖。ダムの完成から27年が過ぎた。ダム建設工事により改変した自然環境も少しずつ回復しているように見える。土と岩からなるロックフィルダムは、自然に溶け込んでいる。 ダム水源環境整備センターが認定する「ダム湖百選」のひとつにならまた湖は、選定されている。利根川水系8ダムでは、奥利根湖(八木沢ダム)をはじめ5つのダム湖が認定されている。ダム天端左岸広場に売店・軽食コーナーがある。ここで、「奈良俣ダムカード」を頂いた。写真-1 奈良俣ダム堤体天端より尾瀬方面を望む。写真-2 雨上がりに虹がダム湖に架かる。写真-3 ダム湖百選に認定されている「ならまた湖」。写真-4 左岸から堤体天端道路と紅葉を観る。写真-5 法面保護工(リップラップ)と紅葉。写真-6 奈良俣ダムのダムカード。
2018年11月18日
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中越地方の紅葉の名所のひとつ、「しゃくなげ湖」に寄る。この湖は、三国川ダム(さぐりダム)の貯水池。雨に降られ、ダム情報館で雨宿りして、「ダムカード」を頂く。紅葉は見頃だった。雨に濡れた紅葉とダムを眺めた。 三国川ダムは、八海山南麓に位置する。JR上越線・六日町駅が西へ約12kmにある。信濃川水系魚野川の支川・三国川に建設されたロックフィルダム。治水と利水の両方に対応する多目的ダムだ。ダムの諸元は、堤高119m×堤頂長420m、総貯水量2,750万m3。 三国川ダムは「開かれたダム」として、情報館と監査廊とを一般開放している。ダム天端も自由に歩くことができる。トイレも近くある。ダム堤体内部を観る監査廊・施設見学会は、事前予約が必要だ。エレベータに乗るので、一度の見学人数は14名となる。バスツアーの観光客は多すぎる・・。写真-1 三国川ダムの天端道路。写真-2 「しゃくなげ湖」と雨に濡れる紅葉の山肌。写真-3 ロック材で保護された堤体下流面。写真-4 洪水吐きの流入部と導流部。写真-5 ダムカードとライトアップされた堤体。
2018年11月15日
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利根川の支流、吾妻川に建設中の八ッ場ダムは、連日現場見学会で賑わっている。旅行会社と観光温泉地とが連携をして、インフラ観光ツアーを企画しているためだ。「やんばツアーズ」と呼ばれている。紅葉を終えた吾妻渓谷に立ち寄った。 今年の三月に定礎式を終えた八ッ場ダム。現在、堤体コクリート打設の最盛期。打設量100万m3のうち約半分を打設したところ。高速打設「いだてん」により施工をしている。アンコとなるコンクリートは、貧配合でブルドーザと振動ローラで締固めている。 高さ116mの重力式ダムなので、下部打設時期は堤体の立ち上がり遅い。しかし重心位置を過ぎる頃から、立ち上がりが急に早くなる。あと半年もするとダムらしくなるものと思われる。 平成4年に地元とのダム建設に係る基本協定が交され、25年が過ぎた。これほどの長期大型プロジェクトはそうはない。事業費も当初の2100億円から2.5倍に膨らむと言う。道路・鉄道の付替、移転地整備は終えている。完成予定の平成31年はもうすぐだ・・。写真-1 堤体コンクリート打設の最盛期を迎えた八ッ場ダム。写真-2 右岸展望台から工事の様子を見学する。写真-3 RCDコンクリートの施工風景。写真-4 ダム下流側の工事状況。写真-5 ダム内部には通路その他の空間が造られる。
2017年12月06日
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吾妻渓谷の上流で、ダム堤体のコンクリート打設が夜通し行われていた。この時期、八ッ場ダムの周辺も紅葉景色を楽しめる。ダムサイトの直上流に架かる八ッ場大橋、および左岸ダム天端近くに造られた「見放台」からは、ダム建設状況を観る事ができる。 八ッ場ダムは、堤高116m、堤頂長291mの重力式コンクリートダム。渇水に備える9千万トンの貯水量と洪水を調節する6.5千万トンのポケット容量を有する多目的ダムである。日本の長期化するダム建設の中で、類をみない代表例となったダムである。 カスリーン台風で被災した5年後(1952年)には、ダムの計画が発表された。その後、ダム建設反対運動、水質(強酸性)対策、環境保全などの問題を巡って、事業は停滞する。2009年には政争の対象にもなり、「ダム建設中止」、その後「ダム建設再開」と方針が二転三転する。 「やんば」とは、川の流れが急で、「谷場(やば)」が転じたとも謂われる。ダム底部は、体積が大きいのでなかなか堤体が立ち上がって来ない。しかし、あと1年経つと輪郭が現れる。あと3、4年後には、面積約3km2の湖面が出現する。紅葉と山並が美しい景観になるのでないか・・。写真-1 堤体のコンクリート打設を開始している八ッ場ダム。写真-2 雲の下にケーブルクレーンが張られ、コンクリートを空中運搬。写真-3 工事が終わると展望台になりそうな右岸鉄塔箇所。写真-4 コンクリートが運搬する様子を近くで観る。写真-5 左岸ダム天端に近い見放台とお立台。
2016年11月11日
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ハートの形をした渡良瀬貯水池、別名「谷中湖(やなかこ)」。利根川上流8ダムの一つ数えられ、貯水量は2640万m3。ハート湖の南端に排水機場と水門(第一排水門)が設備されている。水門脇から伸びる越流堤から洪水を第1調整池に取り入れ、排水機場から排水するしくみだ。 渡良瀬遊水地を構成する3つの調整池の中で、最大の容量を有する第1調整池。その調整池の心臓部が谷中湖である。水の出し入れをつかさどる水門は、もうチット「おしゃれ感覚」の色彩を望みたい。谷中湖のハートを意識させるものとして・・。 首都の水不足が懸念され始めた。梅雨の降り方によっては、水不足が現実となる。一部で取水制限が始まったようだ。6月10日現在、8ダムの平均貯水率は43パーセント。平年の半分しか溜まっていないらしい。利根川上流にまとまった雨がほしい梅雨である。 谷中湖は、8ダムの利水容量の5.7パーセントしかない。最下流に位置しているため貴重な水カメである。しかし水質に難点がある。カビ臭いとされる。ここ数年、水質改善に取り組んでいる。「ヨシ原浄化施設」、「干し上げ」、「人口浮島」などである。長い目で効果を見守りたい・・。写真-1 貯水池側から第一排水門と越流堤を望む。 写真-2 高さ10m×幅12.2m×3門を有する第1排水門を下流側から観る。 写真-3 渡良瀬川に平行して越流堤防が建設。表面はアスファルト舗装。 りたつう士。 写真-4 排水門の上流風景。左側が矢田部川。谷中湖側に排水機場が設置されている。写真-5 広大なヨシ原が広がる渡良瀬遊水地。ミドリの草原。
2016年06月12日
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シルバーウィーク前半、小樽・札幌へ墓参のため出かけた。1カ月前に予定を決めて、お徳用旅行券(ホテル代+航空券+レンターカー)を利用した。リーズナブルな料金である。そこで、墓参+ミニ旅行を計画した。若い頃、働いた大雪ダムまで足を伸ばした。 大雪ダムは、石狩岳(EL.1967m)を水源とする石狩川の最上流に位置する多目的ダム。堤高86.5m、堤頂長さ440m、総貯水量6千6万m3を有するロックフィルダム。昭和50年(1975年)に完成している。ダム湖の名称は「大雪湖」である。 この時期、ダム左岸天端道路から続く樹海トンネルを抜けて、しばらく進むと臨時バス停が出来る。紅葉の名所「銀泉台」を結ぶシャトルバスが運行する。観光登山道路のマイカー規制が9月12日から始まっていた。ダム湖周辺は紅葉していないが、ダム天端から銀泉台の方角をみると、山斜面は赤い彩り・・。 相棒と三泊四日の北海道ミニ旅行となった。観楓会には早かったが、交通事故に巻き込まれずホットしている・・。我ら元気なうちは、年1回程度墓掃除をしようと思っている。ボケが始まるまでの先祖供養である。しばらくの間、北海道紀行編を主体に投稿します。よろしくお願いします・・。 写真-1 ダム管理所前の公園から大雪湖を望む。洪水の調節用に水位を低く管理・・。 写真-2 大雪ダム右岸天端から貯水池を見る。遠くに石狩岳が見える。 写真-3 取水塔とダム洪水吐きを望む。 写真-4 洪水吐きゲートおよびダム堤体上流面を観る。 写真-5 ダム天端より遠方の赤岳(EL.2078m)を望遠する。
2015年09月22日
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昨今、雨の降り方が尋常ではない。国および自治体は、洪水から町を守るために、河川改修、堤防嵩上げ、ダム建設、調整池造りなど、さまざま治水事業で対応している。更に最近の例として、昔造ったダムを改修・改造して、洪水調節容量を増大させる新事業も始まっている。 肘川(ひじかわ)は、愛媛県最大の川(流路長=103km)。しかし伊予灘に注ぐ河口と源流部との直線距離は僅か18km。川の流れが、肘のように屈曲している。そのため一度氾濫すると浸水被害が甚大となる。肘川の中流に、57年前に完成した鹿野川ダムにおいて、ダム改造工事が進行中。現場見学する機会を得た。 鹿野川ダム改造の目的は、事前にダム貯水池水位を速やかに下げて、大雨に備えるためだ。従来有していた洪水調節量が1・4倍(740万トン増大)になるという。このためダムを運用しながら、貯水池に吞口立坑を、ダム右岸下部にトンネルを掘っている。内径11.5mのトンネル洪水吐きとその放流施設が近く完成する。 ダム下流からのトンネル掘進は、完了している。この夏頃に貯水池側の立坑とドッキングするという。水深30m下での貫通作業となる。入念な準備と計測、そして慎重な作業が要求される。2017年の「愛媛国民体育大会」におけるカヌー競技場に、鹿野川湖が予定されている。 写真-1 肱川の既設ダム・鹿野川ダムを上流から望む。 写真-2 ダム湖右岸の工事状況。洪水吐きトンネルの呑口部・立坑の施工。 写真-3 トンネル洪水吐きの工事内容と施工方法を示す案内看板。 写真-4 ダム下流側を眺める。トンネル坑口が見える。 写真-5 上流側立坑との貫通を待つトンネル切羽。14m先に吞口立坑がある。
2015年02月28日
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利根川水系には谷田川が2つある。渡良瀬川の支川(群馬県)と小貝川の支川(茨城県)とである。また、全国的には、谷田川の名が付く川が8つある。北は福島県・阿武隈川の支川から南は愛媛県・肱川の支川。やたがわ、又はたにたがわと呼ぶ。谷を削って田畑を提供してくれる川、そのままの名だ。 牛久沼を経由する谷田川は、つくば市長高野に源を発し、36km南下して竜ヶ崎市川原代で小貝川に合流する。流域面積163km2の一級河川。合流直前の水域には、ふたつの大きなプール・溜場があり、特徴的な景観をもたらしている。 牛久沼下流の八間堰から南に1.8km下ると、牛久沼水門(高さ9.9m×幅16.5m×2門)がある。水門を閉じると、1400万m3の水を貯めることができるという。この水門ならびに牛久沼樋門の上下流に水のポケットがあるのだ。魚が屯しそうな「接続水域」である。 小貝川には、豊田堰や岡堰があり、田植えが近づくと水門を閉めて、農業用水を貯留する。その結果、夏場と冬場の水位が異なり、魚貝類の種類が多くなるようだ。今年は少雨で7月中旬から10パーセントの取水制限がなされているが、田畑には影響は出ていないようだ。稲穂が頭を垂れている。写真-1 牛久沼水門上流河のプール部。水門から500m下ると小貝川に合流する。写真-2 牛久沼樋門と牛久沼水門下流の水ポケット部。コブハクチョウがいる水辺。 写真-3 牛久沼水門を下流から観る。ボートが行き交う。写真-4 国交省利根川下流事務所が管理する牛久沼排水機場。治水を担う施設。 写真-5 八間堀(谷田川)を横断するJR常盤線の電車。赤い橋は往来橋。
2013年08月19日
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狭山湖を堰き止める山口ダムの天端は広くて長い。西武ドームから歩いて15分でダム天端に着いてしまう。天端道路は市民に一般開放され、ジョギングする人や散歩する人が後を絶たない。この天端道の中央付近から富士山が見えるのだ。ダム堤体から富士山が見えるダムは、そう多くない。 狭山湖の正式名称は山口貯水池である。東京都水道局が所管する水源池だ。旧山口ダムは、昭和9年に築造された水道専用のアースダム。急増する東京市の人口に対応するように造られた。10年前に耐震補強の大改修工事が完了した。再生したダムは、堤高33.5m、総貯水量2,065万m3。 狭山湖や隣接する多摩湖の水源は多摩川である。取水点は東京都羽村市にある玉川上水時代の施設を引き継いでいる。ダム湖に流入する大きな川はない。しかし豊かな保全林に囲まれている。再生した山口ダム周辺は休憩施設も整備され、「ダム湖百選」や「土木学会技術賞」の碑が建つ。 山口ダムは、鉄道駅から近いダムのベスト5に入るのではないか。西武球場前駅(西武狭山線)から北西600mに位置する。その途中にゆり園があるのだ。緩やかな法面勾配で造られるアースダムは、湖岸に溶け込み易いという特徴がある。広い水面と森は、越冬する水鳥の休息地にもなる。写真-1 取水塔の上に富士山を見ることができるのだが・・。この日は傘雲のみ。 写真-2 狭山湖 (山口貯水池)を望む。周囲は豊かな森に囲まれている。写真-3 解放感あるダム天端道路。広くて長い道。散策は日差しの弱い朝・夕が良い。写真-4 ダムの上流面勾配がゆるやかなのがアースダムの特徴。法面の保護に自然石を使用。写真-5 「ダム湖百選」に選ばれている狭山湖と展望広場。
2013年07月15日
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豊田堰の100m下流に、若草色に輝く北浦水門がある。北浦川と小貝川との合流点である。水門の目的は、北浦川の自然排水と小貝川からの逆流を防ぐこと。ゲート装置室壁三面に施された半円形の窓は、建物にアクセントを与えている。ゲートを巻き上げるウィンチを連想させる。 北浦水門の諸元は次のようだ。径間28m×扉高11.4mの鋼製ローラゲート2門からなる。平成8年に完成した比較的若い水門である。水門の下流にある戸田井排水機場は、昭和39年もので約50才。かなり疲れているようだ。対照的な風景があった。 水門から北浦川上流を眺めると、筑波山が目に入る。手前にはゴム製の北浦堰が膨らみ、河を堰き止めている。堰高2.8m×長51.2mの起伏堰である。豊田堰の上流15kmに岡堰があるが、渇水などで岡堰の取水量が不足した際に、それを補うために水を反復利用するのだ。 北浦水門近くにミニ公園があり、石碑が建っている。酒詰治左衛門の功績を伝える碑。彼はこの辺りの名主で、私財を投げ打って破堤した堤防を修築した。酒詰の地名が残っている。昔は地域の有力物がリーダーとなり、治水対策から災害復帰をすることが多かったと思われる。写真-1 小貝川側から北浦水門を望む。平成8年に完成した比較的若い施設。写真-2 酒詰治左衛門の碑が建つ公園。ゲートを巻き上げるウィンチを連想させる建屋窓。写真-3 北浦水門より北浦川上流を望む。筑波山が霞んでいる。写真-4 北浦水門の手前に設置されているゴム製起伏堰。農業用水に反復利用する。
2013年05月16日
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利根川左岸に合流する小貝川の手前に豊田堰がある。かつて「関東三大堰」と呼ばれ、貯水方式の堰としては関東有数の規模だった。現在の豊田堰は、旧堰の150m下流に建設されたもの。長さ275mの堂々とした可動堰は、5年の歳月をかけ昭和52年に完成した。 豊田堰は、周辺地域(竜ヶ崎市西部)1800haの灌漑用水を供給し、穀倉地帯を支えている。水門の規模は次のようだ。流水を堰き止める高水敷ゲートは、径間27.75m×高さ2.45mの鋼製ローラゲートが4門。水を越流させる低水敷ゲートは、径間36.6m×高さ4.95mの鋼製フラップゲートが2門。 越流部の下流は、幅65m、落差5mの滝となる。豊田堰の巨大なフラップゲートは、支点が下部にあるため、ゲート全重量を吊り上げる必要がない。ゲート付近に寄ると、落水音の響きと振動波をうける。一日中この場所にいると難聴になりそうだ。 利根川に棲む「レンギョ」は、この堰下流に押し寄せてくると釣人から教えてもらった。レンギョは中国産で、かつて利根川で養殖をしていたそうだ。富栄養化した手賀沼のアオコ対策にレンギョを用いたという話もあった。汚れた水のなかでも大きく育つ、さすが中国のサカナである。写真-1 小貝川の豊田堰を下流から望む。堰長275m可動堰で、昭和52年に完成した。写真-2 左岸下流より観る。管理橋は、左岸側の龍ヶ崎市と右岸の取手市を繋ぐ道路。写真-3 中央部にフラップゲート2門。その両脇に堰止め用のローラゲート4門が設備。写真-4 フラップゲート下流では、越流水の滝ができる。大きなサカナが集まるという。
2013年05月15日
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小貝川は、上流では鬼怒川に寄り添い、下流では利根川に添って蛇行する川である。概ね南流して利根川に近くで、急に90°反転し北東に流れを変える場所がある。そこは関東三大堰のひとつ旧岡堰があったところ。現在は200m下流に新しい岡堰が平成8年に完成している。 岡堰は茨城県取手市岡地区、利根川合流点より上流17kmに位置し、取手市付近の1,906haのかんがい用水を供給している。計画高水洪水量が1,300m3/秒もあるので、可動堰幅が約200mにも及ぶ。低水路ゲートを3門×径間34mと高水路ゲートを4門×径間20mを有する大規模河川構造物だ。 ブラックバスの大物が釣れるらしく、ボートを繰り出す人もいる。堰は農業用水を取水するために、毎年3月中旬から8月下旬まで約半年常時貯水する。また、岡堰は上流の福岡堰、下流の豊田堰との中間に位置するため、水利的には微妙な土地でもある。 昔から水不足の際には、上流との水紛争が絶えなかったという。現在は、鬼怒川に流入していた八間堀川を小貝川に引き込んでいるので、トラブルは解消されているようだ。暴れ川の洪水対策と広範な農業用水の確保を同時に成し遂げるための堰。それらを良く観ることができる「岡場所」なのだ。写真-1 小貝川が直角に曲り終えた所に堰がある。遠く筑波山も見える茨城県の川筋。写真-2 堰長300mの岡堰を上流から観る。7門の水門を卸し、田植えを待つ。写真-3 階段式魚道を持つ岡堰を下流から観る。低水路ゲートの2門からオーバフロー。写真-4 ゲート操作室とシェル構造のローラゲート。小さな滝のように落ちる水流にも注目。
2013年04月21日
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高遠城址公園・本丸跡から約400m南に高遠ダムがある。暴れ川の異名を持つ天竜川の支川、三峰川(みぶかわ)に造られた堤高30.9mの重力式コンクリートダム。総貯水量は230万m3あるが、有効貯水量が50万m3と少ない。ダムの主目的を発電としているためだ。 堤頂長76mのほとんどが水門ゲートで占められている。小さなダムにも関わらず、高さ8.3mのラジアルゲート3門を有し、ダム天端道路はない。しかし下流側にダムを見下ろすように白山橋(はくさんきょう)が架かり、左右岸通行を確保している。この力強いアーチ橋からの眺めが素晴らしい。 白山橋からは南アルプスの仙丈ヶ岳(標高3,033m)を望むことができる。三峰川の水源は仙丈ヶ岳。高遠湖に貯えられた水は、水力発電に活かされる。使用水は、ダム左岸側の取水口から取り込み、下流約10kmの春近発電所へ送水され、毎秒19m3の水量が23,600kw/時の発電を行う。 白山橋から高遠城址を見上げると、三峰川が天然の堀を形成していたことがよく分かる。西および南からの城攻めは困難を極めたであろう。城址公園の南ゲートを出ると信州高遠美術館がある。その脇に巽櫓(たつみやぐら)史料館が立っている。お城のイメージを少し演出しているようだ。写真-1 白山橋(はくさんきょう)から高遠湖と仙丈ヶ岳を望む。写真-2 大きなラジアルゲート3門を有する高遠ダム。露出した小型放流管は後付のようだ。 写真-3 ダム左岸には発電用の取水口がある。写真-4 白山橋と城址公園南側を望む。史料館の巽櫓が城址公園にアクセントを与えていた。
2013年04月17日
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龍王峡の入口から鬼怒川沿いを4.5km上流に歩くと小網ダムに辿り着く。途中、白岩半島の上流にある川治第二発電所や逆川林道トンネルを経由する。3つのトンネルを抜けると小網大橋がある。小網大橋からの眺めも素晴らしい。 小網ダムは、昭和33年に完成した堤高23.5mの発電用ダムである。栃木県企業局が所管する堤体積2万m3の重力式コンクリートダム。総貯水量が627,000m3と小さいが、大きなローラゲート3門を備えている。 このダムは、2km下流の川治第二発電所へ発電水を送る取水堰の役割がある。と同時に、3.5 km上流の川治第一発電所(五十里ダムから取水)の放水量を調整する役割もある。従って、下流に控える龍王峡の流れを一定に保つ番人のような存在である。 また、発電ダムでは珍しくダム天端を自由に通り抜けできる。ダムを橋代わりに鬼怒川を横断するとそこは川治温泉駅である。会津鬼怒川線における龍王峡駅と川治温泉駅間は3.5kmで、ほとんどがトンネル区間だ。龍王峡駅から往路を歩き、復路は川治温泉駅から電車を利用した。写真-1 鬼怒川右岸の逆川林道。トンネル3本を抜けると小網大橋が右手に見える。写真-2 小網大橋より鬼怒川を見下ろす。写真-3 右岸側から小網ダムを観る。ダム左岸上方に川治温泉駅が見える。写真-4 小網ダムの天端道路。ダムの放水を身近に見ながら渡ることができる。
2012年11月14日
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水門脇を電車がゆっくりと通過する。ここは荒川右岸の旧綾瀬川に設置された隅田水門である。増水時に荒川の濁流が隅田川に流れ込むのを防ぐため造られた。平時は水門を開け。小型船の航行を可能としている。 荒川の平常水位が0.9m上昇すると、この水門が閉じると云う。昭和44年(1969年)に改修された水門ゲートは、幅10m×高さ8.35mでタタミ50畳の大きさだ。隅田水門は、荒川放水路の開削に併せて大正13年に造られたもの。 東京下町は、明治43年に未曾有の洪水被害(浸水家屋27万戸、被災者数150万人)を受けた。この大水害後直ちに、荒川放水路事業が始まった。17年の年月をかけ昭和5年に全長22km×幅500mの大放水が完成した。実に掘削・浚渫土量が2,180万m3となる大工事であった。 この工事により北千住と吾妻橋間を開通させていた東武鉄道は、大幅なルート変更を余儀なくされた。その結果、急カーブ路線と水門脇を通るルートとなった。旧堀切駅は廃止になり、大正13年に現在の堀切駅ができた。戦災を逃れ、当時の姿を残す古い駅である。昭和の匂いが染みついている。写真-1 荒川右岸の旧綾瀬川口に設置されている隅田水門。小型船舶の通行は可能。写真-2 隅田水門の脇を鉄道が通る。洪水時、駅員さんが気を使う箇所のひとつだ。写真-3 隅田川に注ぐ旧綾瀬川。高いコンクリート擁壁が住宅地を守っている。 写真-4 急カーブの軌道上に造られている東武・堀切駅ホーム。
2012年08月01日
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巨大な「太巻き」が2本ぶら下がっている水門ゲートが綾瀬川にある。葛飾区堀切菖蒲園から荒川河川敷へ行く途中にある堀切菖蒲水門だ。このあたりは、綾瀬川と荒川が並行に流れているため、荒川の右岸堤防へは、この水門の管理橋を渡ることになる。 菖蒲水門の形式は「二段式ローラゲート」と言われ、蒲鉾形のゲートが2枚合わさったもの。平時には、太巻きが宙に浮いているようにも見える。ゲートが降下すれば、円筒の2倍程の高さ9.5mになり水圧を受け止めるのだ。首都高が上空に架けられているための苦心の策(作品)である。 そもそも菖蒲水門は、中川からの逆流を食い止めるために設けられた。平成3年の9月台風で綾瀬川流域2万戸以上の浸水被害があったことがきっかけ。綾瀬川は、この水門の3.5km下流で中川に合流しているのだ。 菖蒲水門の直上流は、綾瀬川左岸上空の首都高中央環状線に6号向島線直交に連絡するところ。河川と道路が錯綜する堀切JCTである。都内ではこのような景観が多く見られる。その時代時代に都合よく造ってきたから・・。グランドデザインに欠ける東京の一例である。写真-1 「太巻き」を連想させるゲート操作室の屋根。荒川へはこの水門の管理橋を渡る。写真-2 堀切菖蒲水門を下流荒川側から望む。赤色の円筒が二段ローラゲート。写真-3 堀切菖蒲水門を上流から眺める。首都高中央環状線が綾瀬川左岸上空を走る。写真-4 綾瀬川側から荒川堤防を見る。散歩する人、釣りをする人がいる平時の風景。
2012年06月09日
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「四国の仙人」から写真とコメントが届いたので掲載します。 鳥取県芦津渓谷の近くに、土木遺産・三滝(みたき)ダムがある。標高737mの高地に昭和12年に完成した堤高23.8mのバットレスダム。日本では扶壁式ダムとも呼ばれる。水圧を受ける楯となる遮水壁が鉄筋コンクリート製。この垂直な壁を複数の扶壁で支えるのだ。 国内に約2900あるダムの中で、バットレスダムは6ダムしか現存しない希少な形式。大量の人出を必要とするため、このようなダムを造らなくなった。2002年度に土木学会推奨の土木遺産に認定される。ダムの目的は発電で、直下流に芦津発電所(出力2600kw、有効落差189m)がある。 自然保護界には「レッドリスト」がある。レッドとは警告の意味。7カテゴリー(XE、EW、CR+EN、VU、NT、DD、LP)に区分されている。三滝ダムの保存を願い、VU(Vulnerable、絶滅危惧2類)としたい気持ちである。 芦津発電所は、75年間現役で稼働している。その出力は、メガソーラー発電の数倍である。昨年発電を開始した「メガソーラーいいだ」が1000kw規模。中部電力と飯田市とが建設したもので、敷地面積が1.8ヘクタール必要とした。これからも三滝ダムが電力を溜め続けることを願う・・。 写真-1 三滝ダムの放流。日本最後のバットレスダム。堤高23.8m。2012年4月24日撮影写真-2 左岸側の洪水吐きから迸る水流。四国電力の発電ダムで、有効貯水量158,000m3写真-3 14年前の三滝ダムの下流・扶壁状況。森の中に突如現れたビルのようだった。写真-4 「メガソーラーいいだ」の全景。出力1000kw×敷地面積1.8ha。[中部電力プレスリリース]。
2012年05月11日
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利根川東遷事業以前には、利根川と荒川の本流だった中川。更に荒川の西遷事業により、流域面積が激減した川。中川は、埼玉羽生市街地の中に源を発する延長84kmの一級河川である。 権現堂桜堤・巡礼樋管の対岸にあたる中川左岸側に行幸(みゆき)水門があり、水門の奥には権現堂調整池(行幸湖とも呼ぶ)がある。権現堂調整池は、権現堂川末端に建設された多目的池で、堰・水門により中川と隔てられている。堤高14.5m×長さ89mの堰。3門の制水門と2門の取水門がある。権現堂川は行幸湖である。延長5.2km、有効貯水量370万m3。かつて利根川で最も暴れた権現堂川。いまは両端が締め切られ、静かなる流れだ。調整池は、中川の洪水抑制と共に工業用水と水道水を取水しているので埼玉県が管理。行幸とは、明治天皇が数回視察に来たことに由来する。 権現堂地区は、渡良瀬川が合流する利根川下流の派川で、大雨の度に洪水を最初に被る所だった。江戸時代、権現堂堤の築造は困難を極めた。そんな時、通りがかった巡礼の母と娘が人柱になり、ようやく堤防を完成させた。そんな言い伝えを残す「巡礼供養塔」がある。 写真-1 権現堂桜堤・巡礼樋管から行幸(みゆき)水門を望む。写真-2 中川の左岸に建設されている行幸水門と給排水機場。写真-3 行幸水門上流から中川を望む。遠景の橋は外野(そとの)橋。 写真-4 行幸湖側から権現堂堰を望む。有効貯水量370万m3の多目的調整池。
2012年04月25日
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「四国の仙人」から写真とコメントが届いたので掲載します。 兵庫県南あわじ市に、湖に半分沈んだダムがある。昭和25年に完成し、老朽化した「成相池堰堤」である。昭和12年に着工し、戦時中は一時中断した。この堰堤の下流に新たに成相(なりあい)ダムを造り直したため不要となった。地元の要望もあり、保存のため取り壊さなかった経緯がある。 成相池堰堤は、三原川水系三原川堤高さ33m、長さ113mで、大きい石を数多く使用した「重力式コンクリート造堰堤」である。兵庫県には、2006年に重要文化財に登録された「布引水源地水道施設 五本松堰堤」があるが、同じような施工をしている。 堰堤の撤去についてはいろいろと検討された。その結果、上部切欠きと下部取水塔を削孔することにより、安定上支障のない状態で保全されている。下部取水塔の穴は見ることが出来ないが、上部の切欠き部は見ることが出来る。 切欠き内部には、約50cmの石が多数使用されているが、その石の下端に空隙がほとんど見られない。慎重に施工され、打継目が一体化している。新旧のダムを同時に見られる貴重なダムサイトである。このダム湖周辺には山桜が多数あり、開花時期には阪神方面からの観光客が多い。 写真-1 ダム湖に浮かぶ旧成相堰堤。古い水城にも見える。後方に新ダムが顔をみせている。 写真-2 旧ダムの上流面。洪水時に水位が上がると中央部の切欠から水が抜ける。 写真-3 半円の陰にワイヤーソー等を用いて、堤体の一部を切断した「切欠け」がある。打継ぎ目がしっかりと密着している。 写真-4 地元では、桜の名所としても親しまれている水辺。
2012年03月15日
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「四国の仙人」さんから写真等が届いたので紹介します。 四国三郎の異名を持つ吉野川の最上流に、老兵のような佇まいの堰堤がある。早明浦(さめうら)ダムから更に30km上流に造られた高藪(たかやぶ)取水堰である。昭和5年(1930年)に完成している。 この頃、香川県の豊稔池(ほうねんいけ)や台湾の烏山頭ダムなども同じ年に完成し、御年82歳。ともに現役で働いている。高藪取水堰は周辺の岩盤に融け込んでいるが、玉石や割石を使用した練積コンクリート構造物。越流天端は緩やかな曲線のデザイン。高知県吾川郡の山奥でも設計者の思いを感じる。 この高藪堰で取水された水と落差158mを使い高藪水力発電所では、最大出力14300KWの電気をつくっている。現在は住友共同電力(株)が管理運営。この会社は四国で11箇所の水力発電所を有し、住友グループ企業に主に配電している。 水力発電所の寿命は、メンテナンス如何で原子力発電所の「原則40年」よりはるかに長い。雨が降る限り80年、100年以上電気をつくるだろう。国内における水力発電の比率は約8%だと言う。この数字は決して小さなものではない。将来、産業の空洞化や人口の減少で分母が小さくなるかも知れないのだ・・。写真-1 82歳、まだ役立っている。魚道もある高藪取水堰を下流から望む。写真-2 緩やかな曲線で越流頂を仕上げている。当時、アーチ形がブームだったのだろうか。写真-3 堰下流面には玉石や割石が露出している。丁寧に施工した当時の様子が偲ばれる。写真-4 四国の土木遺産とも言える豊稔池。高藪堰と同時期に完成していた石積み五連のアーチダム。 にほんブログ村
2012年01月19日
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秋ケ瀬取水堰は、埼玉県志木市に近い荒川に設置された可動堰である。一時、「志木あらちゃん」が行き着いて居住したところ。堰幅が127mで、洪水吐きゲート3門(幅34m×高6m)と調整ゲート1門(幅10m×高6m)の施設規模。左岸側には魚道が設置され、鮎の遡上を見守っている。 秋ケ瀬堰の役割は、利根川から武蔵水路を通って荒川に導かれた水を、朝霞浄水場など各浄化施設や隅田川の浄化用水のために取水すること。そのために堰の右岸には宗岡取水口及び樋管、左岸には大久保浄水用の樋管など配置されている。 10月中旬志木市は、「あらちゃん」に住民票を交付した。11月中旬からは行方知れずになっている。訪れる人も少なく、釣りびとが数名いるのみ。東京湾の潮がここまで上って来るという。あらちゃんも大潮に乗り、ここまで流れ着いたのだろう。 宗岡で取水された水は、沈砂池を介して多くが朝霞浄水場へ送られ東京都の生活水となる。板橋の三園浄水、東村山浄水などにも送られ、首都水の要である。東京都上水の1/4をここ賄っている宗岡取水口は、首都水の入口とも言える。写真-1 秋ケ瀬取水堰を下流から眺める。荒川河口より35km地点。写真-2 秋ケ瀬取水堰を右岸上流から観る。川の流量や水位を見て堰を上下させる。 写真-3 取水堰上流右岸の宗岡取水口。洪水による増水を見込み、堤防から延長500m連絡橋がある。写真-4 「志木あらちゃん」の特別住民票が掲示。転入日は平成23年10月17日付 にほんブログ村
2011年12月24日
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綾瀬川は、鐘ケ淵近くの堀越橋下流から荒川と併走する。セパレートコースは、小規模な土手で仕切られている。新小岩までの直線4kmコースを流下して、中川にバトンタッチする。中川も葛西臨海公園の近くまで8km併走した後、荒川に合流する。 綾瀬川が中川に受け継ぐ場所は、新小岩近くの上平井水門の中。水門規模は幅30mの4門。中川流域を守る。台風・高潮・津波に備えた水門で、滅多なことでは閉じない。高さ2mの高潮を防ぐことができるという。上平井水門の直下流には荒川の増水に備えた中川水門があり、少しややこしい。 荒川放水路が開削される前には、綾瀬川は鐘ケ淵付近で隅田川に合流していた。大雨が降るたびに川筋が変わり一定しないことから「あやし川」呼ばれていたらしい。しかし鐘ケ淵は江戸の名所であった。現在は急速な市街化が進み、日本一汚れた川ワースト1位と言われている。 綾瀬川と中川は、いずれも利根川水系。下流で荒川に合流するけれども、治水対策(内排水)上、途中で江戸川へ排水する分がある。綾瀬川にある八潮排水機場は、江戸川河川事務所の管轄。江戸川は利根川の支流である。写真-1 綾瀬川と中川との合流部にある上平井水門。後方に見えるのは「かつしかハープ橋」。写真-2 荒川と綾瀬川・中川を隔てる堤防を上流から見る。朝夕のジョギングや散歩に絶好な場所。写真-3 上平井水門150m下流の中川水門。荒川との連絡水路。水門頭上の高架は首都高速。写真-4 広重名所江戸百景・綾瀬川鐘か淵。合歓(ねむ)の木が見ごろの小暑の頃。人気ブログランキングへ
2011年12月18日
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養老川の中間には、瘤(こぶ)が出来たような湖がある。20年前、高滝ダムが造った高滝湖である。養老川の屈曲した形状を反映し「つ」の字形だ。上空から眺めると、ラクダのようにも見えるかもしれない。水を運ぶ駱駝のように。漢字の駱は、連なり続くという意味があるらしい。 高滝ダムは、堤高24.5mしかないのに、有効貯水量12,000千トンを貯めることが出来る。堤体積78,000m3の160倍。市街に近いダムでは、貯水効率が高いダムの代表だ。主たる目的は、洪水対策と水道用水の確保。特に、毎秒1.6トンの取水を可能とし、50万人分の生活水を供給している。 高滝湖は、ワカサギ釣り大会がある。その近くの湖畔に、一風変わった水車がある。段差の大きい当該地域で使われていた藤原式揚水機を複元したもの。ベルト状に連続した桶を、動力水車で引き揚げるメカニズム。その揚程はなんと27m、揚水量が毎分300リットルという。 先月、70億人目の赤ちゃんの話題があった。世界人口は、1日に約21万人のペースで増加しているという。特に中国とインドの2カ国で26億人。食料・燃料は世界問題に・・。食料生産を左右する水の奪い合いになりそうだ。次世代のためにも日本の水資源、水を必要とする農産物作りを見守りたい。写真-1 高滝ダムを貯水池側から望む。有効貯水量12,500千トンを堤高24.5mで貯める。 写真-2 高滝ダムを下流側から望む。高さ8.9mの洪水吐きゲート4門を有し、最大830m3/s放出することができる。写真-3 下流の養老川。五井大橋から上流を眺める。標高298mの上総富士を探したが・・・。写真-4 高滝湖畔に復元された藤原式揚水機。原動機の水車直径は3mで、揚程27mの仕事をする。 にほんブログ村
2011年12月12日
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堰の番付表があれば、利根大堰は間違いなく横綱だろう。心・技・体にあたる風格・役割・規模を併せ持つ東の横綱だ。埼玉県行田市と群馬県千代田町の利根川に建設された大堰。河口より154km地点。中流域の河川を横断する取水堰では、国内最大級だろう。全長700mの大関の初場所は1968年。 利根大堰の建設は、東京オリンピック前に決定された。それまで水源としていた多摩川だけでは首都圏の水が不足すると判断された。利根川上流にダムをつくり、新たに開発した都市用水を武蔵水路、および荒川を経由して東京・埼玉に導水することを国家百年の計とした。 鮭の遡上が続いている。利根大堰には魚道が3本ある。昨年の遡上数を大幅に上回り、11月24日現在11,500匹だと。ピーク日は11月12日の906匹。近隣の小学生達の見学会があり、鮭を見て大はしゃぎ。小生も1号魚道の観察窓を5分間程度観る。大きな鮭一匹を確認した。サケの旅はまだ続く。 中流での堰建設は、流速の早い河川を切り回すことになる。より困難な工事を強いられる。山で大雨が降れば短時間で増水する。流木や転石も押し寄せるので危険がいっぱいである。東京で飲む水の一部が70km離れた場所で取水されているのだ。利根大堰も年齢を重ね43歳。いずれ引退の秋が来る。 写真-1 利根大堰を行田市側から観る。堰柱11本と橋脚3本を有し、全長700m。 写真-2 大堰中央より利根川下流を望む。護床工がつくり出す水しぶきの彼方に筑波山がある。写真-3 右岸上流の取水口と須加樋管施設。鉄塔の右側に富士山が見えるはずだか・・。 写真-4 1号魚道の観察窓。この日は、3つの魚道で320匹の鮭が遡上したという。125km下流の河口堰を経て辿りついたサケだ。 にほんブログ村
2011年11月28日
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アメリカ大使館は、赤坂丘陵の一等地にある。個性ある三つの坂が出会う岡でもある。ビルが乱立する以前ならば、皇居や東京湾が望めたはず。洪水で浸水する心配はない。休日で警備が厳しいアメリカ大使館入口の鉄柵前に、44年前の「三つ坂の標識」(霊南坂、榎坂、汐見坂)が警官の陰に佇んでいた。 広重の名所江戸百選「虎の門外あふひ坂」には、水を貯めている堰が描かれている。この堰の右岸の高台一帯には、前述の米大使館や寺院、ホテルオークラが建ち並んでいる。更にこの浮世絵には、冬空にもかかわらず金比羅大権現の長提灯を持った裸の男もいる。少し気になった。写真-1 米大使館前の歩道に設置されている「三つ坂の標識」(霊南坂、榎坂、汐見坂)。昭和42年ライオンズクラブが設置写真-2 広重名所江戸百景「虎の門外あふひ坂」。溜池堰は高さ約6mの石積ダム。滝はダムの余水吐き。 虎ノ門金比羅宮は、桜田通りと虎ノ門病院との間にある。トイレや喫煙所もあり、良く整備されている。ここには面白い鳥居がある。青銅製の鳥居を通過する者は、四霊獣に視られるのだ。青竜・朱雀・白虎・玄武である。四霊獣は風水方位に関係するが、ここでは川・海・道・山を意味するのだろう。 溜池は、元々水の湧く流路を堰止め、江戸城の外堀に利用したらしい。当時の延長約1.4km、平均幅100m、水質が良いので飲料水に利用された。溜池ダムは葵(あおい)坂の上に造られていた高さ6m程の石積ダムである。現在葵坂は無いが、特許庁付近と言われる。ミニダムサイト形状の面影が残っている。写真-3 虎ノ門金毘羅宮の青銅製の鳥居。柱には四霊獣がいる。 写真-4 緩やかな坂を上ると特許庁の建物。その左右岸には上り坂がある。緩やかなU字谷を形成。 にほんブログ村
2011年09月27日
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日本の中国地方における百名山は、伯耆大山(EL1,920m)が唯一である。登山を8回程度させてもらった。その鳥取の「二十世紀梨」が出荷されると便りが届いた。例年より少し遅れたが、昨年を上回る生産量を予想している。青なしの二十世紀梨の生産量は、鳥取県が全国的約半分を占めているのだ。 そもそも、二十世紀梨の発祥地は、千葉県松戸市である。その原樹は、昭和10年に国の天然記念物に指定された。戦争の空襲で焼失してしまったが、松戸市内の二十世紀梨公園には、その碑とモニュメントがある。この梨は、皮が薄く手間がかかるため、千葉県ではほとんど生産されていない。 小生は、鳥取中西部の農業用ダム建設に8年間従事した。大山の火山噴出物地帯では、ダムの基礎造りに多くの時間を費やす。堤高50m、堤頂長347mのロックフィルダムで、土と石と岩で造る。中央部のコアゾーンは、土を薄層に締め固めて遮水壁を造る。その外側には、順次石と岩を配置して築造する。 鳥取の梨づくりにも、3.11の原発事故が影響している。二十世紀梨と早米コシヒカリについては、放射性物質の検査を実施していると言う。二十世紀梨は、台湾など外国にも多く輸出している。円高と風評被害に悪戦苦闘する関係者の姿が浮かぶ。写真-1 青なしの二十世紀梨と松戸市内のモニュメント写真-2 小田股ダム左岸の洪水吐き。正面越流型はフィルダムでは珍しい。写真-3 堤体中央のコアゾーンの転圧には20t級タンピングローラを使用写真-4 2007年に完成した小田股ダム。鳥取県東伯郡琴浦町
2011年08月31日
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神田川がまだ江戸川と呼ばれていた頃、現在の目白台下に洗堰があった。近くの文京区江戸川公園にその名残を示す神田上水由来樋と復元石柱があり、神田上水の取水口があったとされる。江戸名所図会には、城の石垣を思わせる「目白下 大洗堰」が描かれている。 神田上水(小石川上水)は、天正18年(1590年)に造られている。「本能の変」の10年後に完成したことになる。百万都市江戸へ向かって、第一歩が始まった。水源は井の頭池(三鷹市)で、小石川後楽園をぬけ水道橋の掛樋を経て、神田・日本橋方面へ給水されていた。昭和8年に洗堰は廃止になる。 洗堰(あらいぜき)とは、堰天端がいつも流水で洗われている状態を示す用語。写真-4の絵図で見るように立派な石造りである。堤頂長は8間(15m程度)と記載がある、高さは9m程度か。しかし、城の石垣と水利構造物とでは受ける外力が異なる。高エネルギーを持つ水流と浸透圧による揚圧力には抗しがたく、損壊が度々あったと言う。取水口は、左岸側にあるはずだが図会から読み取れない。 徳川家の江戸入府以来、軍備が最優先であったが、水備にも手を抜くことは出来なかった。豊かなで安全な水を得るための努力が、国の繁栄を築いてきたとも言える。近年は、放射性物質よる汚染という課題に直面している。地下水の調査は大丈夫か。一連の騒動で現政府の格付は、2ランク低下だ。写真-1 洗堰があった大滝橋より神田川の下流方向みる。彼方に江戸川橋がある写真-2 江戸川公園内にある神田上水の取水口復元石柱写真-3 近くには目白台の名所「椿山荘(ちんざんそう)」がある。その庭園のホタル沢の小さな滝写真-4 目白下 大洗堰 [原色再現江戸名所図会、新人物往来社]
2011年08月24日
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荒川と旧中川の合流部に平成17年に「荒川ロックゲート」が完成している。小名木川と旧中川との合流点より下流400mの場所だ。この閘門施設により水位の異なる河川間の舟航が可能になり、隅田川-小名木川-荒川の水上ルートが30年ぶりに復活した。 荒川ロックゲートを正面から眺めると、カンカン帽をかぶった人の顔に見える。施設諸元は、閘門長65m、閘室幅14m、高さ4.5mである。水門扉は10m/分の昇降速度を持つ鋼製ローラゲート。1回当りの通過時間は約20分を要する。 江戸名所図会によれば幕府は、中川と小奈木川が合流する北岸に水上関所なる「御番所」を設けた。通行人を検問し、いわゆる「入り鉄砲に出女」を厳しく取り締った。絵図の舟に乗っている人々は、当時流行した成田詣の御一行の様子。対岸の新川を経て、行徳河岸まで船旅を楽しんでいるようだ。 江東区の運河群と大きな川が繋がっているのと、繋がっていないとでは、災害時の避難・復旧対策に大きく影響する。陸上の幹線道路や橋等の損傷や渋滞で使用出来ない場合、水上ルートは予想以上の働きが期待できる。日常的に運河やその周辺施設を使用することは、「治に居て乱を忘れず」に通じる。写真-1 荒川ロックゲート下流正面。カンカン帽子をかぶった人の顔に見える。写真-2 閘室内で水位低下を待つ作業台船 写真-3 旧中川と小名木川の合流部。左河岸に中川船番所があった。写真-4 江戸名所図会に描かれている中川番所。3名の検視役人が見える
2011年08月10日
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東京都江東区デルタ地帯を東西に流れる小名木(おなぎ)川約6kmのほぼ中央、要の位置に扇橋閘門がある。この閘門の西側(隅田川)は、潮の干満で水位が変動する。一方、東側(荒川)は、地盤沈下のため水位をA.P-1.0mに保っている。刻々変わる水位を克服して、小名木川運河に船舶を通航させるべく閘門がある。幅8m以下、長さ90m以下の船ならば、通り抜けることができる。東京都が管理している。 小名木川は、徳川家康が江戸入府に際し、最初に手掛けた戦略的運河だ。当時、製塩が盛んだった下総・行徳から江戸へ塩を運ぶのが主目的。その後、東北地方の物産流通の主要ルートになる。つまり、水運の動脈とて、江戸~隅田川~小名木川~新川~江戸川~利根川が造れらた。成田山参りにもこの水の道が大いに利用される。 東京都もイキな計らいをする。期間限定ではあるが、閘室前後のゲート操作状況を一般開放して見学ができるのだ。管理操作室の中も観る機会があった。操作する所員も、船舶の通航頻度が多くないので対応が出来るようだ。閘門から一気に放出される水渦が見もので、水辺の「工場見学」とも言える。 昨今、「工場見学」が全国的にブームとなっている。この夏休み、放射能汚染問題もあり旅行社による親子ツアーが大人気だ。ある雑誌の人気の第1位は、カルビー千歳工場、第2位は羽田空港ANA機体整備場、第3位はサントリ登美の丘ワイナリーとか。工場は涼しいので、避暑にもなるそうだ。写真-1 扇橋閘門を隅田川側から望む写真-2 整備された小名木川運河を行く船舶 写真-3 閘門内の水位表示。水に濡れた高さが本日の水位差を示す。隅田川の水位はA.P+1.6m。本日の水位差は2.6mになる。写真-4広重名所江戸百景「小奈木川五本まつ」。川幅約36mの掘割運河でほぼ直線。絵は曲がっているが作者の絵心。
2011年08月08日
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また穀倉地帯で水害を受けている。6月24日秋田県では、梅雨の大雨(24時間雨量234mm)により由利本荘市の子吉川の堤防が決壊して、田畑など1,085ヘクタールが冠水した。仙台・福島に続き、今年の米収穫量が気になる。 利根運河入流部(千葉県柏市)の利根川に、左岸から流れ込む川がある。子吉川と同程度の流域を持つ鬼怒川(1,760km2)である。鬼怒川は、人の少ない江戸時代以前には「絹川」や「衣川」との表記されていた。「利根川東遷」後は、川が氾濫・暴れることが多くなり、「鬼が怒るほどの暴れ川」と呼ばれるようになった。いまのところ、この「暴れる鬼」を押さえていのは、鬼怒川上流の三つのダム群(川俣、五十里、川治)である。3つのダムの中では、川治ダムが大きな洪水調節能力を有し、比較的若い。昭和58年に完成。堤高140m、総貯水量8,300万トンのアーチ式コンクリートダム。3ダム併せて、毎秒3,400トンの洪水流量を調節できる。しかし、宇都宮市付近における計画高水流量の毎秒8,800トンの4割程度であり、昨今の異常気象を思えば安心できない。 更に、3/11の大地震により利根川の中・下流の堤防や護岸の計245箇所に段差や亀裂が見かっている。本格的な修理は、増水期の過ぎた秋以降の工事となる見込み。警戒水位を引き下げ、監視を強化して今期を乗り切ろうとしている。ひとつの安心材料もある。鬼退治する4つ目の湯西川ダムの完成が近い。 写真-1 満水の川治ダム(八汐湖) [撮影 利根川かくべえ] 写真-2 ダム下流への観光放水[撮影 利根川かくべえ]
2011年06月28日
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「雷記念日」なるものがある。政治的な策略で大宰府に左遷された菅原道真の怨念が雷となり、都の要人を死亡させた日が6月26日だと言う。この現象以来、道真公は火雷天神の信仰となる。学業の神としても各地に天満宮として祭られている。 国内の2900余りあるダムの中で、天神という名を持つダムが宮崎県にある。大淀川中流域に建設された農業用灌漑ダムである。ダムサイトの地名に由来している。貯水池の左岸側には、移転された「天神天満宮」が水の溜まり具合を見守っている。天神ダムは、堤高62.5m、総貯水量670万トンのロックフィルダムで、2001年に完成している。 このダムは、宮崎の農業を支える役割がある。近傍の田野町の大根と太鼓は全国的に有名である。特に、直径が2m超える大太鼓が10数個ある。昔干ばつの年には、雨乞いのために白装束姿で打ち鳴らし神社に祈願したと言う。今は太鼓に勝るダム湖がある。しかし、南九州特有のシラス台地に建設されたため、基礎掘削と地盤改良に多大の労力と時間を費やして生まれたものだ。 堤体下部には、監査廊と呼ばれる小さな通廊があり、地盤やダムの挙動、および漏水状況を多くの計器で監視している。一定間隔に並んで、美術品を展示する画廊のようなので、ダム関係者では「ギャラリー」とも呼ぶ。地震が頻発する昨今では、このギャラリーの重要性は更に増す。小生にとって4年間従事した思い出のダムでもある。 写真-1 天神ダムの湖面。宮崎の碧い空を映す。 写真-2 ダム堤体下部のギャラリーに設置された計測機器類写真-3 ダム湖を見守る天神天満宮
2011年06月26日
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四国の仙人から通信筒が届いた。以下マルチプールアーチの美しさを想像してみてください。きっと春に訪れたくなるパワースポットです。 『何時行っても誰かが見惚れている。本当に地元に愛されているダムと感じられる。初めて来られた見学者はすぐに分る。第一声「これダムなの?ヨーロッパのお城みたい」である。 その昔当地は、「大野原は月夜に焼ける」と言われるくらい干ばつに泣いてきた。大正時代に二度大干ばつを経験したことで、ため池の必要性から豊稔池の建設が計画され、日本初のダムである「布引五本松ダム」を設計・建設した工学博士の佐野藤次郎氏の指導のもとに、大正15年に起工、昭和4年11月の竣工後に完成した。この建設には、地元の受益農家を中心に構成された作業班により、わずか3年8ヶ月間で建設されている。如何に、地元の方々が水を欲しがっていたが分かる。 このダムの最大の特徴は、中央部が5個のアーチと6個の扶壁(バットレス)からなる五連式マルチプルアーチ式である。このタイプは宮城県に二連式の大倉ダムがあるのみで、五連式では当ダムのみである。どのような設計を行ったか最大の関心があるが、その資料が存在しないのは残念なことである。 当ダムの名前の由来は、もともと「田野々池」と名前があったが、昭和4年5月に三土忠造大蔵大臣が現地を視察した時「豊稔池」と命名した。永遠に豊かであることを願ってのことである。平成18年12月19日に重要文化財(建造物)に指定されている。今年の「ゆる抜き」が楽しみである。』写真-1 豊稔池を下流から見る。香川県・堤高30mのマルチプールアーチダム式。1994年にリニューアル工事終わる。[撮影 四国の仙人]写真-2 春満水の豊稔池 [撮影 四国の仙人]
2011年06月12日
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震災から3カ月。三陸の豊かで美しい海はいつ甦るのか。以前、大船渡市へ所用で出張した帰り、碁石海岸を回ったことがある。碁石の岩肌を打ち返す波は、昔のままだろうか。その他の施設や道路はどうなったのだろうか。亡くなられた方の冥福を祈ります。 碁石海岸の岩石は、ホルンフェルス(黒色泥岩)と言い、1.3億年と古い地質年代のものだ。ドイツ語でホルン:角、フェルス:岩、固い岩石を意味する。確かに碁盤に置く碁石に丁度良い固さである。しかし、最近の黒石は、那智黒(熊野市)、白石は宮崎日向の蛤と聞く。 大船渡市の水産業被害は、被災した漁船が2700隻、かき・ワカメ養殖の水産被害が530億円にのぼると言われる。いつぞやお土産にした「天然干しアワビ」の味を思い出してしまう。焼酎や酒が好きな人へのお土産に最適なのだ。 豊かな海は、森が育むとも言われている。森には湖が似合う。市中心部より北に10km程行った所に「五葉湖」がある。2006年に岩手県が造った鷹生ダムがその水を静かに貯めている。鷹が棲むほど、生物の溢れる森林がある。写真-1 鷹生ダムにより創出された五葉湖 豊かな緑が広がっている写真-2 コンクリート打設機械(ライジングタワークレーン)により施工中の鷹生ダム。堤高77mの多目的ダム。総貯水量約1千万トン 写真-3 碁石海岸 穴通磯 [観光パンフレットより]
2011年06月11日
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災難が重なり遭うことを中国や韓国では「雪上加霜」とも言う。いま福島は、藤沼ダムの決壊被害で三重苦以上の「途炭乃苦」にあえいでいる。 堤高18mのアースフィルダム(農業用ダム)が3/11の地震により決壊して、下流集落を一瞬に押し流した。死者・行方不明8名、全壊家屋19棟、浸水家屋55棟の被害という。被災者の方にはお見舞いを申し上げます。 ダムの決壊事故と言えば、必ず出てくる「有名な3つのダム」がある。1959年のマルパッセダム(仏)、1963年のバイヨントダム(伊)、1976年のティートンダム(米)。日本は、これらの事故を教訓に昭和51年に河川管理施設構造令でダム設置基準を規定した。これまで決壊事故は皆無であった。明治・大正以前のものはため池と言う。現在の河川法で言うダムは、高さ15m以上で各種基準が適用される。 災害や事故は、複数の要因が重なり起こることが一般的である。今回は、(1)震度6強の地震、(2)貯水池が満水、(3)老朽化と漏水等が考えられる。最新のダム設置基準を持たずに築造62年が経ち、漏水対策を実施していたという。 管理者及び関係者は、ダムが満水位のタイミングで、よもや震度6強いの地震が襲うとは考えていなかっただろう。福島原発に相通ずる危機管理か。ダムを運用しながらの補強・改良工事は、他工事より難しい面がある。安心できるダムにリニューアルしておけばとの思い残る。「遅疑逡巡」は大きな代償をもたらす。 写真-湖底が晒された藤沼湖 [読売新聞記事5月30日より] 図-1 藤沼湖の位置図
2011年06月01日
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「地震、雷、火事、親爺」は、今は昔。東日本大震災を体験した今日では、「地震、津波、核、テロ」になるのだろう。 原発被害発表は、核燃料棒のスクラム成功⇒圧力容器のベント⇒建屋の水素爆発⇒海水注入⇒レベル7に修正⇒海洋汚染⇒メルトダウン⇒メルトスルー。 概ねこのような進展で約2.5ケ月が経過。「レベル7強」の空前の事態か。 つくづく思うことは。情報が日々徐々にエスカレートしてゆけば、ある日突然、空恐ろしいことを言われてもパニックにならないものだなあと。日本がそれを証明しているようなもの。心理学専門の方が後で分析してほしい社会現象だ。 厚さ1mのコンクリート壁を粉々にする水素爆発で、怪我人が出なかったことに驚嘆します。現場の退避判断が適切だったのだろう。まだまだ困難な事態が長く続く。現場の東電幹部職員及び作業員の方、よろしく日本をお願い致します。 さて、私も若い時、ダム現場の原石山で大発破(おおはっぱ)を体験・撮影した。坑道式発破と言い、タヌキ穴程のトンネルを幾重にも掘り、爆薬(ANFO爆薬が主体)を仕掛けるものです。山ひとつ飛ばすのに要した薬量は約120トン、掘った坑道延長は約970m。 福島1号機の炉内に発生した水素ガス量は、0.8トンと推定されている。1/150の少量で、あの爆発とは凄いものだ。今年の流行語のひとつに「メルト」がありそうだ。「メルトな美味」とは、とろけそうなおいしさを意味するそうです。ご参考に。 写真-1 北海道の中央部に建設された大雪ダム 1975年完成写真-2 大雪ダム第三原石山 坑道式発破でロック材採取 [昭和48年4月撮影]
2011年05月26日
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