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ちょっと外出、だんな君と本屋さんへ。コーヒーを飲もうと中の喫茶店に入ってみると、おいしそうなチーズケーキが。朝ごはんがブルーベリー・パンケーキにメープルシロップだったので、ちょっと甘いものを採りすぎかなと思ったのですが、喫茶店に入るなんてめったにないこと。注文してしまいました。縁にはココアパウダーがびっちりまぶしてあり、上にはチョコソースがかかっているケーキ。店員さんがクリーム添えますね、と両脇にこんもりと乗せてくれました。食べてみたら、これが甘い!!チーズの味の濃さは日本のチーズケーキの3倍はあるはず。それでもおいしかったのでちびちびと時間をかけて全部食べてしまいました。今日はカロリー取りすぎだから、と、夕食後は庭仕事。すると隣のジムさんがニコニコ笑いながらやってきました。「やあ! スーがケーキを焼いたんだが、食べにこないかね?」「(・v・;;)あ、ありがとう・・・」だんな君とともにお隣へ。どんなケーキなのかが問題だ、と、恐る恐るテーブルの上に目をやりました。すると、そこには、スポンジ3段重ねの巨大なケーキが・・・! 間にはどさっとクリームが挟まれ、上には真白で重そなアイシングがこってりと・・・!スーはニコニコしながら、私のお皿に1パウンドはあるかと思われるピースを切り分け、「たくさん食べてね♪」と。しかも私が断るより先に、アイスクリームをスクープですくい、どかっとケーキの横に盛る!!(TvT;;)日本の女性なら見るだけで怖気づいてしまうそのケーキ。いつもならば「えい、やっ!」といどみかかるのですが、いかんせん、今日はパンケーキにチーズケーキをすでに食べてしまっている・・・。(仕方ない、アイスは溶けるに任せよう。(-v-ll)まずはスポンジを食べられるだけ食べてみようか・・・。クリームとアイシングももしかしたら溶けていくかも知れないし・・・)と考えをめぐらせる私。大きなケーキだけに横に寝かせて盛られていたので、下の方からスポンジを食べ始めました。むせ返るような甘さ。夜でよかった。昼だったら私の顔にははっきりと青筋が見て取れたことでしょう。・・・がんばったんだ。がんばったんだよ・・・。_| ̄|○だけど、トップのアイシングだけはどうしても・・・。私のお皿には、スポンジの支えを失ったトップと側面のアイシングが、がくんとバランスを崩しながらも、荒城のごとく取り残されたのでした。スーはこの食べ方をどう思っただろうか・・・。「アラ、日本の食べ方かしら・・・(・v・;)?」なんて思っていたらどうしよう・・・。2週間分くらいの糖分を採ったような気がする・・・-(ll-_-ll)-ウプ-。冷や汗をかきながら帰る私を三日月の光が青白く照らしていたのでした。
2005年07月31日
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先週、代母さん(カトリックになるときに後見役をしてくれたゴッドマザーです。)の息子さんがお皿を返しに家に立ち寄りました。代母さんには二人のお子さんがいますが、来てくれた長男Jさんは、代母さんにそっくり。その後、お礼の電話を入れ、食事のお誘いをしました。メニューは、マグロのサイコロステーキと軽くいためたご飯にサラダ。デザートはブルーベリーとだんな君がどこかからか買ってきたライチ。久しぶりのおしゃべりで夕方まで楽しく過ごしました。(^^)
2005年07月30日
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編みぐるみバレリーナ三匹、お嫁に出しました。かわいい3姉妹はずっと手にもって揺らしたり・・・。(^^)ありがとう!彼女たちのお母さんはキルトをはじめようと思っているところだとか。キルト仲間ができそう(^^)
2005年07月29日
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がたちそうなたたなさそうな・・・。寸前にならないといつもわからないハラハラ感(^^;)・・・。日本に帰るかもしれないのですが、いろいろとあって調整中です。
2005年07月28日
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昔の手紙が出てきました。アーカンソーに留学しに来ていた日本の若い友達からの手紙とその返事の控えです。彼女は当時16歳だったと思います。ステイ先のホスト・ダッドは牧師さん。キリスト教には興味を持っていたとはいえ(だからこそ?)ついていけない、私は違う、という思いをもっていました。今見ても、私の返事はえらそうに_| ̄|○書いてあるのですが、実はそのころ、彼女が感じていたのと同様の不信感や迷いをもっていました。当時は、ワン・ショットであちこちの教会に行ったり、本を読んだりしていた時期でした。お読みくださる方は、この欄の下の方、「若い友へ」へスクロールダウンしてください。引用が長かったのでところどころ省略してまとめました。
2005年07月27日
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ひとつぶの蛍の光の目指す空
2005年07月26日
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5月の公演のプロダクションフォトが届きました。遅い!(^^;)しかも、ダンスを撮るのに慣れてないカメラマンだったらしく、ジャンプもリフトもみんなミスしてる・・・(TT)。まあ撮影自体が舞台の後でみんな気が抜けてて笑いながら踊っていたのも悪かったのでした・・・。せっかくの思い出が、またもやとホホ・・・。
2005年07月25日
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なんだかすっかり日記に穴を開けてしまいました。実は先週の日曜に首を痛めてしまって、文字通り「首が全く回らない」状況に陥っていました(^_^;)その上、夏のせいか雷雨が多く、(関係あるのかわかりませんが)PCの接続が途切れがち。やっとつながったと思ったら、楽天のメンテナンス中。その後また接続がない状況でした。一週間、小手先だけは普通に動いたので、せっせとレース編みをしておりました。ビーズを編みこんだ10センチのコースター、35センチのドイリー。写真を撮ったのであとでUPしようかなと思っています。今週になって首は少し回るようになりました。(^^;)ヨカッタ。ミサにも預かることができて感謝、感謝。
2005年07月24日
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引越しのシーズンということで、何人もの人を送り出しています。今日は、今までお世話になっていた整体の先生(←かつて間違いメールを送ってしまった人です(^^;))引越し直前パーティー。もちより&バーベキューということで、私はお祝いのお赤飯とおこわを作ってもって行きました。お赤飯、たちまち完売!よかった。15人以上来ていたと思うのですが、だんな君以外日本人でした。気が楽(^^;)。だんなさんのお仕事関係で初めて会う人ばかり。違う地域から来た人が多かったのですが、そこには日本人コミュニティーがあるのだとか。ふむふむ。楽しくて気がついたときには11時過ぎ!先生夫婦とお別れの挨拶をして帰りました。(TT)さみしい!それに、月に何度も整体にかかっていた私たち夫婦、これからどうやって暮らして行けば良いのだろうか・・・!
2005年07月23日
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新しく真ん中のクマを作り、これで友達の3人の娘さんへのプレゼントができました。「3羽の白鳥の踊り」を教えてから、お嫁に出そうと思っています。(^^)
2005年07月22日
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Dear Rちゃん、お手紙、そして絵葉書ありがとう。どこで手に入れたのですか、面影があるねえとだんな君がいっていました。ここベイエリアも(*'99~01滞在)やっと暖かくなりました。なぜかRちゃんのいた1週間はすごく寒かったから、今でも残念に思っています。良い雰囲気のプールやジャグジーがコミュニティーにあったので。ステイ先のアーカンソーは暖かいようですね。さて、お手紙に「芝生に一人寝転んで・・・そんな時は神様を素直に受け止められます。」とありましたが、そこを読んで赤毛のアンの一節を思い出しました。"Why must people kneel down to pray? If I really wanted to pray I'll tell you what to do. I'd go out into a great big field all alone or into the deep, deep woods, and I'd look up into the sky-up-up-into that lovely blue sky that looks as if there was no end to its blueness. And then I'd just feel a prayer."まさにRちゃんのしていたことと同じだと思いませんか?作者の考え方がよく表れているところだと思います。後に牧師婦人になるモンゴメリですが、そのアンの祈りのとらえ方、当時の「Good Christians」には、「異教徒的」(作中マリラやリンドのおばさんがよく使っていますよね)なことだとわかっていたのでしょうか。その後、"Marilla felt more embarrassed than ever."と続けています。こうしなさいといわれた祈り方ではなかったけれど、アンは心から神様の存在を「感じて」いるのですよね。・・・Rちゃんが"If I don't feel God, I can't believe him."と言ったら、ホスト・ダットの牧師さんは"God is faith, not feeling. Christianity is not a religion, but faith."と言ったとか・・・。私にはなんとなく、文化的な問題が理解を遠くしているように思えます。というのは、こちらの保守的な場所で育った人の多くは、生まれながらにして唯一神を教えられ、あまたある神々の中から信仰を選び取る(意識する人は)といった風の日本人とは感覚が違うのではないかと思うからです。「感じる」といえば、私たちにとっては実感し信じることに結びつきます。でも、ホスト・ダッドには、「feel」は、そこはかとないような、頼りないような感覚ととらえられたのでしょうか。日本には、「生き神様」と呼ばれる人が何百人もいるそうです。新興宗教と呼ばれるものもたくさんありますし、古来からの神道、多くの派に分かれている仏教が、日本にはひしめきあい混在しています。あまりにもそれが当たり前で、信仰なんて取り立てて意識しないことのほうが普通かもしれないし、意識して信仰を求める人は、それらのなかからまさに真実と「感じられる」ものを選ぶわけです。でも、こちらで保守的に育った人たちにとっては、ほとんど絶対的にキリスト教の神がまずあるわけで、faith(信仰)もつように小さいときから育てられます。"Christianity is not a religion."「宗教じゃない」という言葉もその辺からくるのではないでしょうか。きっと、キリスト教を他の宗教と同一にとらえることができないのだと思います。そういえば、Rちゃんが来ていたときの話をバークレーの友達にしたところ、彼女の知り合いでやっぱりこちらに留学していた人の話をしてくれました。その留学していたという人はクリスチャンでした。とても尊敬できるクリスチャン夫婦に出会い、その人たちのようになりたいと洗礼を受けたのだそうです。大学はミッション系に進みました。留学のステイ先は、Rちゃんと同じく牧師さん宅。ところがその牧師さんと神学のことで口論になり、「お前は地獄に落ちる!」と言われてしまったのだとか。「そんな宗教ならやめてやる!」と彼女は信仰を捨てたそうです。その後の彼女のアメリカ人観も非常にネガティブなものになってしまい・・・。なんだか・・・、すごく悲しいです。牧師さんには、そんなことを言って欲しくありません。(ちなみに聖書には「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」「『だれが底なしの淵に下るか』とも言ってはならない」と書いてあります。「心の中で」言うのもよくない、って。)だって、人間はそんなこと言えるほどえらいものじゃありませんよね。人間といえば、Rちゃん「イエスは人間として生きていたんだと気がつきました」と書いていましたね。まさにその通りで、イエスが人として生まれ、生きたところに恵みと救いがあるとクリスチャンは考えます。「人間としての欲望と感情をすべて持っていたのかもしれない」というのも、その通りだと思います。なんだか長くなってきましたね。でも、もう少し・・・。私たち日本人にとっては、それならキリストを知らないで亡くなった人の救いは?という問題がありますね。私、これをある牧師さんに聞いたことがあります。「『使徒信条(信仰宣言)』にあるように、一度死んだもののところへも行ってくださっているほどだし、けちじゃないから大丈夫」と牧師さんは答えてくださいました。そう答えてくださって、納得できたし、うれしかったです。阿刀田高のそのエッセイ、私も読んだことあるような気がします。新約聖書のはじめにでてくる系図、あれ、うんざりしますよね。三浦綾子も、そこが退屈で読むときに恋人の名前としてはそんなのいやだなあと思いながら読んでいたとか。「イエスはヨセフの子だと思われていた」と書いてあります。旧約の時代、救い主はダビデの家系からでると預言されていたいたので、その正当性を表すためにマタイは系図を書いたといわれています。しかし、だから、イエスはヨセフとマリアの子だと言ったら・・・。マリアの処女懐胎を信じるか、ということですね。うーん、その辺はちょっと説明が難しいですね。ここからは個人的な私の感じ方なので、そう思って読んでくださいね。イエスの生き方を見て、この人こそ、救い主、神の子だなあ、というのが信仰だと思っています。昔から待ち望まれていた人類の希望。私は信仰の心でマリアの処女懐胎を信じています。それが事実であっても良い。(とても変な言い方ですが。)この辺のところはとても微妙な問題だし、私の説明では不十分です。だめクリ典型の私がいろいろ言うのもなんだかおこがましいような気がするし。前にも言いましたけど、これはイエスとの個人的な関係なので、難しいのですが・・・。私は、「信じて」います。キリスト教に限らず、常識や感覚を超えて信じることがどの宗教にもあるのではないでしょうか。(ただ、聖書には「おい、それはないだろう」ということがたくさん書いてあるので困るのですけどね。信者獲得のためなら私だったら書かないなー、とか。)帰国したら、日本の教会に行ってみると良いですよ。こちらと違って、クリスチャンでない人の持つ疑問に対応する用意は、どんな牧師さんでも神父さんでもできていると思います。キリスト教に対して違う見方ができると思います。Rちゃんの手紙、本当にうれしいし、いつもその真摯な態度にうたれます。長々と書きましたが、読んでくれてありがとう。また、気が向いたときに書いてくださいね。それでは、残された留学生活を楽しんでね。ダイエットなんて考えず、おいしいものをいっぱい食べてね。じゃあ、またね。2001年4月26日いう
2005年07月21日
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やっぱり物足りなくて、新しいものを作り始めました。今度も最終段にビーズを入れることにして、ビーズ通しの地味ーな作業を100個とちょっと。編み始めてみたら結構大きなドイリーになることがわかりました。それでも糸ってものは途切れずずっーと続いているので、作業を中断させるきっかけもなく延々と編み続け、何とか35センチのドイリー完成。ビーズを編みこむ最終段が一番面白くてうれしかった。(^^)結局、ものすごい肩こりに・・・。首にとって全くよかったとは思えない一日でした。 最後のネット編みの真ん中に編みこんだビーズ。ミルクパールの小さなビーズしかなかったのですが、もう少し大きい、色のついたビーズだったら、また夏らしく、楽しかったでしょうね。
2005年07月20日
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首負傷のため(^^;)じーっとしていなければならないのがつらい!糸と針を持ってきてもらってすぐできそうなコースターを作ることに。本のパターンではすぐ終わってしまいそうだったので、最終段にビーズを編みこむことにして、ちまちまとビーズを糸に通してから編み始めました。ほぼ2時間。結局あっという間にできてしまった・・・。つらい・・・。写真では見えないのですが最終段のとんがり部分にビーズがいれてあります。
2005年07月19日
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数日前、この地で初めてハチドリを見てから、また、ハチドリを見かけました。台所の外に植えてあるアザミの蜜を吸おうとしている夫婦でした。入れ換わり立ち換わりですいすいと飛びながら花にまつわるハチドリ。かわいい!大騒ぎしていたら、だんな君がハチドリのえさなるものを買って来ました。粉末の赤い粉を水で溶き容器に入れて吊り下げるようになっています。ハチドリはその長いくちばしを黄色の花の中心の穴に差し込んで蜜を吸うのだとか。喜び勇んで吊ってみたのですが、一度だけ近くを飛んでいるのを見ただけで、まだ蜜を吸っている姿は見かけません。早く来ないかなーと、一日に何度もバードフィーダーを眺めています。
2005年07月18日
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朝ミサ。毒麦のたとえのお話でした。今日はFr.Joe。学生さん風の人が多かったからか、「毒麦も良い麦も収穫まで一緒に畑に植えてもらえてよかったね。この教会の人たちはみんな毒麦だから。」なんて言っていて(@v@;)。かなりうけていたけど。確かにそうだからこそ、こうして私などが暮らしていけてるんだなー、と思ったり・・・(^^;)ジムに行って1マイル歩いた後、マット・ピラテスのクラス。最近首を寝違えたようにしていたから注意しなくてはと思っていたのですが、どうもクラス中に少し負担がかかっていたのでしょうか、髪を洗っていたときに「くきっ!」とやってしまいました。運転して帰るのもつらくて、夜には全く首が動かなくなってしまいました。まっすぐにしていないと痛くて痛くて横になることもできず・・・。でも眠くてつらくなって、仕方なくベッドに。激痛に耐えてやっと休みました。ところが、そういうときに限って猫がごろにゃんとまつわりついてくる。私が動けないと知ると、上に乗ってきて顔を覗き込んだり、首を絞めたり・・・。ハチはいつものようにももにどかっと乗って長くなって寝る。ナナは首を絞めるのにも飽きて、そのまま私の上半身に寝そべる。猫2匹が長くつながって私の上に・・・!彼らとしては、それでも私を気遣っているつもりのようなのが、笑えるというか、泣けるというか・・・。猫2匹を上にして身動きもとれず、苦しみに耐える私でした。(7/25書く)
2005年07月17日
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Our Lady of Mt. Carmelの日。石川県金沢教会、初めて訪れたのは6年前だったでしょうか。当時はまだカトリックではありませんでした。自分から足を踏み入れた初めてのカトリック教会です。教会の前には高山右近の像。会堂には、細川ガラシャ、聖フランシスコ・ザビエル、聖テレジア、高山右近、のステンドグラスが・・・。4人のうち、知らないのは聖テレジアでした。あなたはだれ?と思ったのを思い出します。今ではその4人ともが私にとって大きな存在になっているのが不思議です。特に「幼いイエスの聖テレジア」テレーズ・マルタンからは、彼女が書き残した自叙伝と書簡によって、神の愛の大きさを日々教えられています。彼女は、カルメル会という修道会の修道女でした。イスラエルの北にあるカルメル山には、12世紀には修道者が集団で住んでいたといいます。彼らは聖母に対する崇敬の念が篤く、黙想中心の修道生活を送っていました。13世紀にはヨーロッパに場所を移し、16世紀には「アビラの聖テレジア」、「十字架の聖ヨハネ」の改革によって、禁域・孤独と沈黙・離脱・念祷といった厳しい修道生活を送る修道会になりました。7月16日は、カルメル会一番の祝日でもあり、また教会公式の祝日です。私が初めておとずれた金沢教会もカルメル会の修道司祭のおられる教会です。カトリックに近づくきっかけを与えてくれたカルメル会の聖人たちと聖母の祈りに支えられ、神様に向う時間を過ごしたいと思います。
2005年07月16日
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水無月の猫は小鳥に目をやらず(ママちゃんのブログへのコメントに)ゴキブリの出でぬ寒所に住みにけり ・・・そのありがたさ言に尽くせず・・・
2005年07月15日
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毎年夏に教会員の登録更新があります。用紙に住所、氏名、電話番号を記入して提出するという、いたって簡単な登録です。その用紙の、氏名の横に「宗教:(記入欄)」という欄があって、「?」カトリック教会のレジスターなのに何で宗教欄があるのだろう、と、ちょっと笑いながら、カウンターに行って紙を提出。その時、たまたま前の人の用紙がチラッと見えたのですが・・・、そこには「宗教:プロテスタント」と記入されていました。(@o@)!必要だったんだ、その欄!アメリカでは教会籍にあたるものはないみたいです。(例えば、引っ越すときにもっていって、行き先で提出するような。と、言っても、日本でそういうのがあるのかも詳しくは知らないのですが・・・。)私の行っているところはもともと学生への伝道のための教会なので、会員は流動的。「ぜひ登録してください」とミサ後のお知らせで呼びかけていますが、なんていうか、ちょっと「てきとー」な感じがして、いかにもアメリカだなあと思います。もっと会員が固定してる郊外の教会などはまた違うのでしょうね。学生以外の会員も多いのですが、教会案内には「学生が多いコミュニティーなので、一般の教会員のためのサービスは至らないことがありますよ」と注意書きがしてあったりで、面白いです(^^)。
2005年07月14日
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最近接続が悪くなっていて、きちんと更新ができませんでした。今日、モデムをリセットしてもらって接続復活!習慣になっていることができないと、なんとなく調子が狂いますね。(おかげで掃除などいつもより行き届いたような気がしていますが・・・(^^;))あんまり依存するのも悪いと思いながらも、ほっとしています。それにしても、5、6年前にはなくてもなんとも思わなかったのに、今ではないと不安に思う始末。うーむ。-----「OBASAN」読み進めています。初めの数章、抽象的な感じで少々わかりにくかったのですが、2世である主人公のおばが登場して話が一気に進み始めました。戦争が始まり加速する日系人への圧迫を、当時幼かった主人公がおばの古い日記を読むことによって理解しなおしていきます。主人公の秘められた過去も交錯し全体に暗いムード。でも、いつこんな時代がまたやってくるかも知れないと、はらはらしながらページをめくっています。
2005年07月13日
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窓際に咲いている花に大きな蜂が来たと思ったら、「はちどり」でした!小さくって、軽そうで。5センチほどかな。虫取り網を持ち出して捕まえたいような雰囲気でした。感動していたら猫のハチ君が「なに?なに?」と見に来ました。台に乗り網戸ぎりぎりまで寄ってはちどりを見るハチ。するとなにを思ったのかはちどりのほうも「なに?」という風に網戸まで寄ってきたのです。そして「子」の字になって左右にプーン、プーンと飛びながらしばらくハチ君を観察?そして近くの木にとまって「チュウ!」と鳴きました。もうハチ君はあっけにとられるやら頭にくるやらで私に八つ当たり。ともあれ、楽しませてもらいました。花だけでなく、ハチ君の鼻にまで寄ってきたはちどり。翼を広げて宙にとどまりながら、小さな足はきゅっと握り締めて体にくっつけているんですね。おもしろかったー!(^^)
2005年07月12日
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胸のリボンの刺繍を少し上につけてちゃんと見えるようにしました。バレリーナを夢見て今日も開脚ストレッチ。
2005年07月11日
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久しぶりの編みぐるみです。バレエバニー。これは3歳の女の子のところに行くことになっています。衣装にはスカートとストラップをつけてチュチュ風に。シューズにはぴんくのひもを巻きつけてみました。初めてトォで立ってみた緊張した表情がでているかな。
2005年07月10日
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だんな君が新しい椅子を買ったのをきっかけに模様替えをはじめました。ベッドの位置を動かしたり、ガレージセールで買った古いたんすを入れたり。ぐるりと動かしたベッドの上で、ねこは顔を「?」にしながらくるくる回っています。今までの定位置を探しているらしい・・・(^^;)。
2005年07月09日
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(余白さんのブログ記事への投稿です。)>何か、理屈をこえて、自然体の日本人キリスト者に出会ったような気がしました。 こちらでのカトリックの入門講座の第一回目の質問は、「あなたにとってコミュニティーとはなんですか」「あなたは教会とコミュニティーの関係をどのように考えていますか?」でした。途方にくれてしまいました。結局、「すみません、私は教会をコミュニティーとして考えたことがなかったので、アイデアが浮かびません」と答えました。教会は神様の話を聞きに行くところとしか思っていませんでした。プロテスタントで受洗当時は学生で一人暮らしでしたし、その後も仕事の都合で引越しを繰り返したなんとなく根無し草の私は、地元密着の教会生活を送ることができませんでした。また、身近にクリスチャンがいないために、「信仰生活」というものを見ることもほとんどない・・・。いわゆる「頭ではいる信仰」しかもっていませんでしたし、それ以外があるなんて考えてもみなかったというのが本当です。入門講座を含めてこちらの教会に3年通ってみて、やっと冒頭の質問の意味がわかってきました。いまだ教会は強力なコミュニティーとして存在しています。人と人、生活が密接に関っているのです。ある意味「孤児」状態のクリスチャンだった私ですが、そういう人は、かなりいるのではないかと思います。(クリスチャン・ホーム、長崎のような場所、ネットワーク作りが熱心な教会などの特別な環境でなかったら、教会/信仰をコミュニティーとして考えることはとても難しいと思います。)その辺が日本のキリスト者にとって大きな課題になるかもしれませんね。個が一箇所でがんばっていても限界があります。信仰は受け継いでいくものですし。そう思うと、カトリックの代父母の制度は大きな意味を持ってきますね。聖人たちも御国にいる信仰の家族ととらえて良いと思います。彼らに習うものはたくさんあります。それから、最近のネットが果たしている役割は大きいと思います。クリスチャンコミュニティーとして機能していると思うのです。>こうして井上神父と、その周辺に集う人たちとの出会い、そして俳句との出会いが、頭で信仰を理解し、構えようとする私の気持ちを、徐々にほぐしていったのだと思います。「行動が伴わなければ・・・」と聖書にもあるように、やはり生活と信仰は別々に切り離すものではありませんね。記事を読んで、いろいろなことが思いおこされました。
2005年07月08日
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蛍の季節。夕暮れが近づくと一人でそわそわしています。こちら当たり前すぎるのかあまり見向きもされてなくて、「もったいない!」と怒る私は日本人。緑を踏んで歩くと、驚いた蛍がぼおっと飛び立つなんて、幻想的で素敵なのにね。蛍はランタンが重いのかずっしりしていて大変そうです。手でそおっと囲っても、飛ぶのと光るので精一杯。逃げ出そうとスピードを上げたり、もがいたりすることもできないみたい。それとも「恋は盲目」で、手かごの中にとらわれたこともわからないのかもしれませんね。焦がす身と聞けど蛍の冷ややかさ いう おしりの黄部分が蛍光色に光ります
2005年07月07日
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窓から玄関先を眺めていたら、ドアから歩道に通じる道をカエルがズイズイと横切ろうとしていました。じーっと見ていたら、ドアの正面まで来て90度回転。ドアに向かい合う形に。まさかたずねてくるんじゃ?(^^;)・・・と気になってそのまま観察。カエル、のどをぷくぷくさせながらもドアを見つめたまま静止。5分後、そのままの状態でドアを見つめている。しばらく家事やらして15分後戻ると、まだそのままの姿勢でドアを見つめている・・・。何か用でもあるのかな、とおかしくなったり、いや、呪いをかけようとしてるのかも、と恐ろしくなったり。次に戻ってみたときにはいなくなっていました。結局たずねてこなかった。・・・私みたいなやつだな。
2005年07月06日
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Barns & Nobleへ。日本で言ったら紀伊国屋のような本のチェーン店です。お目当ての本はありませんでした。あるならここに並ぶだろうに、という辺りを恨めしげにうろついていたのですが、ふと目に入った本一冊。「OBASAN Joy Kogawa」日系の人が書いた日本人収容所についての小説。面白そうなので買うことに。それからは面白そうなものを探してうろうろ。雑誌のコーナーに少年ジャンプを見つけて読んでみる。厚さは日本版の二分の一くらい。「ワン・ピース」などが連載されています。アニメ雑誌は、買わないけど参考のために(^^;)チェックします。「Newtype」とか日本で売ってるそのままのタイトルなので懐かしい。特集は今週公開された「ハウルの動く城」でした。そのほか、「サムライ・チャンプルー」「犬夜叉」などの、深夜放送されているアニメの紹介。(日本のアニメは暴力、性的な表現のために、注意書きが出た上で深夜放送されています。)コスプレの写真。こちらのファンもやるんですねえ。金髪の「犬夜叉」の「珊瑚」の写真が出ていました。(^^;)ものすごくよくできたコスチュームだったけど、自分で型紙をおこすのだろうか。もっと時間のあるとき、詳しく読んでみよう。広告欄には、キャラクターやメカのモデル広告。ゲームの広告。未だにドラゴンボールのゴクウやピッコロ、あられちゃんやラムちゃんが出てるのがかわいい。読んでいる人の年齢層は日本でよりも少し高いのではないかなー。少なくとも、小学生や中学生向きといった感じの記事内容ではない。日本でもよくある、「このアニメ、実写にするならだれをキャスティング?」というコーナーが盛り上がっている。(^^;)挙げられる役者はもちろんみんなハリウッド俳優。やけにリアルです。熱心に読んでいたら閉店時間になってしまいました(^_^A。レジを通って、もう帰ろうというそのとき、平積みされたなかに、またもや気になる本を発見!「GAY HAIKU」ポケットサイズで、表紙には「胸をはだけたお侍さんが筆と短冊を手にたたずんで」います。気になる!一体どんな俳句が載っているのだろうか。しかし今日は時間がない。また時を改めてチェックします。
2005年07月05日
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小学生みたいな句だなあ・・・(^^;;)。でも小学生みたいに感心したもので。「ぱりぱり!」と高い音がした後、どーーーん!と地面から衝撃を感じました。その瞬間、ハチ君、座っていた私のひざから1メートルほどの垂直とび!一目散に地下へ駆け下りていきました。最近雷が多かったので少々の音では驚かなくなっていたのですが・・・。そして私たち夫婦は停電の中に取り残されました。(^^;)その後、記録的な豪雨。7月4日、独立記念日の花火は中止になってしまいました。
2005年07月05日
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最近、映画が公開されたり、結婚が決まったりで勢いに乗っているトム・クルーズ。その勢いのまま、TVインタビューなどで、彼の信奉する「サイエントロジー」の宣伝をしています。サイエントロジーは、私が受けた印象だと、自己啓発にいろんな宗教テイストを加えたような・・・。そのことをだんな君と話しました。「自ら広告塔を買って出てるって感じじゃない?」「うーん。トム・クルーズは『悪党』だから、宗教の話なんて聞きたくないなあ。」(ええっトム・クルーズ『悪党!?』)とびっくりして、脳内再生してよく考えてみたら・・・「actor」・・・でした(^^;)。その部分だけ英語で言ってたのね。「『悪党』って言ったのかと思ってびっくりしちゃった」と言ったら、「時代劇じゃないよ!『悪党めっ!(@時代劇口調)』」と・・・。だんな君の日本語の進歩、とどまるところを知りません。(どうりで私の英語が・・・(^^;))
2005年07月04日
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8時のミサがもうけられて一月。だんだん人が増えてきたような気がします。今日は、席がほぼ埋まっていました。今日の聖書はマタイ11章25節から30節。28~「疲れたもの、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜なものだから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。」この部分については、さるすべりさんの日記がとても参考になりました。「そうすればあなたがたは安らぎを得られる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」とてもなぐさめられる言葉です。この箇所を好きなみことばとしてあげる人も多いことでしょう。くびきといわれてもあまり家畜になじみのない現代人にはぴんと来ません。運送や畑仕事のため、牛馬を2頭立て、あるいは4頭立てにした時、横につないでいる棒のことです。英語ではyoke。そうすることで動物の負担が軽くなり、1頭ずつで働かせるよりも、長く、よく働けるのだそうです。Fr,Mark「キリスト教は、祈れば問題が解決されるという宗教ではないのです。イエスご自身がわたしたちの重荷を一緒に担い、道を一緒に歩んでくれるのです。だからわたしたちは歩んでいける・・・。この競争社会において、companion(仲間/連れ)とcooperation(ともにすること/協力)は、どんなに大変なことで、また、大切なことでしょうか・・・。」最近のFr.Markのお話、心に響きます。
2005年07月03日
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夕方、窓の外を見たらうさぎが二匹、向こうから走ってくるのが見えました。パタパタと並んで走ってきたので、「仲よさそうだな、兄弟かなー」なんていいながら、だんな君と観察していたのですが、なんとそのうさぎたち、サイドウォークのところで、向かい合ってピョンピョン飛び始めたのです。もう楽しくて仕方がないというように、4本足全部使って空中にジャンプするのです。それが向かい合ってるのがおかしくって!これが本当のうさぎ飛びだ!と感動していたら、うさぎのダンスはさらに進化を遂げて、片方が飛び上がっているところにもう片方がもぐりこみ、先に飛んだのがくるりと相手向きに着地すると、後のうさぎがジャンプする、を繰り返して・・・・。うそじゃありません、本当なんです。まるで曲技団のようにお互いに入れ替わりジャンプで円を描いているのです。時に、どちらかが相手をつついて、「コラ!」というようにぴょんぴょん2,3歩追いかけっこ。そしてその場でまた、くるくるジャンプを繰り返し、ダンスは続く・・・。だんな君と大爆笑。見ているこっちまで楽しくなって、頭の中に「♪タラッタラッタラッタうっさぎのダンス♪」がぐるぐる駆け巡りました。あんなのはじめてみました。うさぎも、どうしようもなく踊りたくなるときがあるのでしょうか。それともあれは、何か神聖な儀式だったのでしょうか。(^^)
2005年07月02日
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3の例などは、「がんばってるじゃない、大丈夫だよ」と言って欲しかったわけで、ノートとペンをもってこられたりしたらこれは逆効果。1、2も「そんなことないんじゃない?」程度の一言があればそれでよかったわけで、真に受けて自分の意見を言っちゃっただんな君、やぶへびです。下で挙げた例はあまりよくないのでわかりづらいかもしれないのですが、ちょっとした「壁に頭ガンガン!」がわかってもらえなくて、放り出されたような、「そうなんだけど、違う・・・」という思いをし、さらに安心を得ようと「壁に頭ガンガン!」をする、という悪循環が。・・・以上のようなことを、だんな君と話したことがあるのですが、「そう言って欲しいことがあるなら、そう言わないとわかるわけがない」でも、「ねえ、ちょっと安心したいんだけど、こういうこと言ってくれる?」なんてちゃんちゃら言えるわけない!んですよね。というより、「頭ガンガン!」してる自分自身、明確になぐさめて欲しい、とか、安心させて欲しいと意識しているわけじゃないし。そういうアイデアがはっきり浮かぶ前に無意識でしてしまう。(・・・てことは、サインと察しによるコミュニケーションが成り立つときは、明確にこれと意味を意識しないままで完了してしまうって事かもしれませんね。)「壁に頭ガンガン!」の法則(^^;)では、言ってしまっては価値がないのです。あくまでも、相手の「察し」に依存した、「否定の否定で成り立つ安心」。わがままで甘えたコミュニケーションなのです。というわけで、こちらで「壁に頭ガンガン!」をやってしまうと、果てしない自己否定の繰り返しで相手を疲れさせ、関係の危機を招いてしまいます。それを避けて自分の身を守るために「『頭ガンガン!』」もしないけど『察し』もしないもんね」という風になり、それが25年もすると「以心伝心なんてうそよ!」というようになる・・・のだろうか。
2005年07月01日
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