全49件 (49件中 1-49件目)
1
忘らるる草に奇しき露光る (ルカ10:13-16)
2005年09月30日
コメント(0)
今朝ミサ帰りに車内温度計を見たら華氏42度。換算してみたら、・・・・・6℃ですたッ!!!(T_T)換算しなければよかった・・・。さて、ここ数週間、白髪が増えるほどストレスだったことがあったのですが、解決への一歩を踏み出しました。実際に測れる部分が解消されるわけでは無く、結局元のままの部分もあるとは思うのですが、自分から問題定義できたことで精神的には少しほっとしました。イウよ、おまえは確実に一歩前進した!・・・って、なんだか「電車男」みたいですね。「電車男」といえば、見たのですよ!知人の知人から貸してもらいました。ドラマ、よくできてましたね!私自身、仮性以上真性未満とはいえ、オタクがかったところがあるので、電車男とその友達の会話やしぐさがやけにうけてしまいます。あー、わかるー、これ!という感じなんです。だんな君は最初横目で見ていました。「オタクの風俗がわからない」などど言いながら。ところが、ネット上でチャネラーのやり取りが始まると面白いと思い始めたようで身を乗り出してきました。しめしめ、と思ってみていたのですが、やはりいきなりオタクの生活、ネット上の言語はハードルが高かったらしく、「オタクの言葉がわからない」「『萌エー』ってなに?」「『おまいら』ってなに?」「『藻前』・・・?」「『電話しる』って?」「『もちつけ』?」と、素朴な疑問が飛び出します。「ほら、チャットしてるから誤変換するでしょ、でも意味を推測しながらそのまま進行するのね。そのうち誤変換をそのまま使うのが、面白いって言うか、通って言うか。それで「お互いわかってるもの同士の親密な会話」感がさらに高まるんだよね」「なるほど」「ネット上の言語を研究して発表してる人もいるらしいよ」「ふむふむ」「あのカシャカシャ打ってるアート系の人はね、アスキーアート屋さんだよ。文字で絵を書いちゃうのね。」「すごいね」「オタクの言葉はいろいろあるけど、敬語になってたり、書き言葉そのままでしゃべってたり、相手の知識をほめながらも自分の更なる知識を披露することが突き詰められていくんだよね。それからしぐさっていうのも重要なポイントなんだよ」「ふむふむ」それでもちょっと難しいのは、ドラマ中突然出てくるコスプレした人物とか、電車男たちのフィギュアに対する愛情とか。なぜかファーストガンダム関連がたくさん出てきてたから、旧オタの私でも対応できちゃったりしていました。(学校に出たり、就職してからはアニメ見られなかったしね)「ああ、あれは、ファーストガンダムのキャラクターね。マチルダさん。」「あの後ろに並んでるのは、きっとレアなものだよ。旧ザクがあるじゃない。シャア専用もある。ドムとか見えてるし・・・」「・・・・(ぽかーん)」「あはは!『エルメス、ララァがのってるやつじゃないよ』だって!」「(ぽか~ん)・・・!?『オデッサ作戦の戦死者』って?」「うん、やっぱりお話の中のセリフなのね。そのときの状況(哀悼の意)にぴったりしてるセリフが思い出されちゃっての書き込みだよね。またそれを読む人も、わかってれば『あ、ここにまだこんなこと言ってる奴がいる(わかる自分も同じだがな)』というおかしみや喜びがあるんじゃないかな。」「ハハアー、恐れ入りました(平伏)」ともあれ、ドラマとしてもとてもよくできていた『電車男』。だんな君すっかりはまってしまいました。自分でネット検索してDVDを買いかねない勢いです。なんとなくほほえましい(^^)のですが、これから先だんな君が「モエー♪」とか「早く料理しる!!!」とか言い出したら・・・(^o^;;;)・・・結構面白いかもしれない。
2005年09月30日
コメント(6)
開かれる天つ扉に秋の風 (ヨハネ1:47-51)
2005年09月29日
コメント(0)
蝶がちらちらと飛んでいます。記憶には秋の蝶とて残りたし(マタイ21:28-32 日曜の箇所でした)大事なのは今の生き方ですよね。
2005年09月28日
コメント(2)
近所のジムさんが骨のがんだということがわかりました。ずっと背中が痛いと言っていたのです。奥さんのスーによると、来年の春位までもてば、と、お医者様に言われたのだそうです。ショックでした。夕べだんな君と挨拶に行きました。あさってから放射線療法だそうです。痛みは薬で抑えていて、それはこれからもコントロールできるだろうとのことでした。だから、気にしないでいつでも来て欲しいと。お二人は、家の改装に取り掛かり始めています。ずっとしたかったパティオの屋根付け、じゅうたんの張替えなどを。もう、したいことを待てないと。家族や親戚とも連絡を取り合って、頻繁に会うことにもしています。「スーに芝刈りを教えているんだけどうまくいかなくってね」「そんなに悪く無いでしょう!もう、ひどい指図屋さんになっちゃったのよ。」そんな会話をしているお二人の信頼と愛の強さを感じました。神様!どうぞお二人をお支えください。私にできることを教えてください。
2005年09月28日
コメント(4)
代母のスーザンさんが、今朝この詩を送ってくれました。ジェラルディン・ルミの「ゲスト・ハウスThe Guest House」英訳版です。ルミの誕生日は9月30日ということで送ってくれたようですが、良い詩だなあ、それも今の私に優しい詩だなあと思いました。実はここ数週間、だんな君いわく「君の時間と力と持ち物を利用してる」状況があって、すっかりI feel drained.むなしく消耗してるようで落ち込んでいました。(お客さんのことではありません。お客さんは好きです。(^^;))スーザンはそういった私の状況は知らないわけだったのですが、いつもタイムリーにヒントやなぐさめになるような言葉を送ってくれます。(昨日は、マオリの精神にのっとったニュージーランドの「主の祈り」を書き写してくれました。これも素敵なものでした。)さて、私の困った状況はどうにかして解決しなければならないのですが、それはともかく、今の私にジーンとくる詩で、そんな詩を送ってくれる友をもって本当にうれしいです。感動したので、読んでくださる人がいればお伝えしたいなと思いました。ルミは有名な詩人ですし、きっと格調高い日本語訳もあるのでしょうが、「イウのなんちゃって訳」で、ゴメンナサイ(^^;)。---ゲスト・ハウス---こうして人だということはゲストハウスだってこと朝ごと新たにお客さん喜び、落ち込み、不親切つかの間浮かびくる思い予期せぬお客さんのよう皆さんどうぞお楽しみ!悲しみご一行様もおうちにどどっと押し寄せて引き出し全部さらってもお客様には真心でうつろになるかもしれないけれど新たな喜び入れるため暗い気持ちに恥、悪意にこっと扉に引き入れるなにが来たって喜んでなぜならお客はかなたから送られてくる導き手The Guest HouseThis being human is a guest house.Every morning a new arrival.A joy, a depression, a meanness,some momentary awareness comesas an unexpected visitor.Welcome and entertain them all!Even if they are a crowd of sorrows,who violently sweep your houseempty of its furniture,still, treat each guest honorably.He may be clearing you outfor some new delight.The dark thought, the shame, the malice.meet them at the door laughing and invite them in.Be grateful for whatever comes.because each has been sentas a guide from beyond.-- Jelaluddin Rumi, translation by Coleman Barks
2005年09月27日
コメント(0)
また夜にゆっくり書こうと思いますが、夕べのテレーズの講演会のこと。なるべく小さく、誇らずに、神様への愛に生きたテレーズ。彼女の生き方や考えを解説して言った神父さんの言葉が印象に残りました。"Hurts the ego, heals the soul.”「エゴは痛むが、魂はいやされる」「小さき道」というのはそういうものなのでしょうね。
2005年09月27日
コメント(2)
お昼から聖公会の教会でミサと講演会。代母のスーザンさんと行きました。その教会の小さなチャペルは、祭壇が正面の壁近くに設置してある古いタイプでした。そのせいなのか、カトリックの聖変化にあたるパンと葡萄酒を掲げるとき、会衆向きではなく背面でした。祭壇の手前に、跪き台(クッション)といただき台(?正式にはこんな言い方ではないです。バー状になっていて、拝領のための手を乗せます)があって、ある程度の数の会衆がそこで一斉に待ちます。司祭(今日は女性司祭でした)は一人ずつ横に移動しながらパンを配ります。ワインはカップから直接いただいている人もいたし、カップのワインにパン(ウェファースでした)をひたしていただく人もいました。ミサの流れはカトリックとほぼ同じです。祈りの本があってそこに典礼文がすべて書いてあるので、目で文字を追える安心感はあります。でも、本が無くても、覚えているカトの典礼文で十分対応。その後、4ドルの会費でちょっとしたケータリングのランチ。ビーフスープと丸パンにサラダ。集まっている人はほとんど年配の女性で20人くらい。みなフレンドリーで、ビジターの私たちに声をかけてきます。昼食後はバイブル・スタディー。マルコによる福音書の成立と、いくつかの訳を読んでの解説。それから、感想、質疑応答。ものすごく速いテンポで、時間は30分。こんなにすっきりと要点をつかんで、みんなの感想も出し合うようなバイブルスタディーは初めてでした。聞けば解説していたのは教会のフルタイム・スタッフ。音楽のディレクターもしているのだとか。今日が今期初めての集まりだとかで、どのような会にしたいか皆に意見を求めていました。その後は、お目当ての、司祭スージーのお話しでした。(代母さんが彼女と知り合いだったので、これを聞きに行っていたのです。)彼女は多分まだ二十代。砕けているというか、さばさばしているというか(^^)。ガバッと足を組み替えちゃったり、そっくり返って両手を頭の後ろに組んでしゃべってたり(^^;)。日本だったらありえなーい、という感じでしたが、それが彼女の持ち味のようです。年配女性のパワーにも負けず、隣に座っているプリースト・カラー(詰襟の白いの)の貫禄ある男性司祭にも負けず。人というのは彼女の態度に何の影響も与えていないらしく、そういう一貫した態度っていうのも良いものかもしれない、などと感心しました。アメリカです。さて、彼女のお話は司祭になるまでのいきさつでした。お兄さんが重い自閉だったこと。お母さんを教会メンバーが常に暖かく支えていたこと。子供時代から、強力な教会のコミュニティーと尊敬すべき女性に囲まれていたことが、彼女を司祭への道へと導いたのだそうです。聖公会の司祭への道は2種類あるそうで、セミナリーに入るのがひとつ。それから司教区で指導を受けながらなるのがもうひとつなのだそうです。彼女はセミナリーに入学して3年間勉強したそうです。そういったことも興味深く聞きました。彼女の人柄がぱりっとしているので、こちらもテンポが速く面白い証でした。終わってからお礼と挨拶。帰りの車の中でスーザンと感想を述べ合ったり、私のうちに寄ってもらって最近の出来事を話したり。刺激をたくさん受けた午後でした。夜には、朝ミサに行っている教会でテレーズについての講演会もありました。それについてはまた明日。実は、刺激を受け過ぎて知恵熱が!早く寝て元気になります。
2005年09月26日
コメント(2)
夜になって友人一家が帰ってしまい、残り物を食べたり、お皿を洗ったりし終わったら、ぽか~んとしてしまった。子供たちがすごくかわいくってね。「イウさんのところでねる!」とか「また明日来るね」とか言うのですよね。ぐっと来ます。(^^;)それからおかしいのは、猫たちがくったりしてること・・・。なんで疲れてるの?(^v^;)と思うけど、彼らは彼らなりに「お客さん帰っちゃった・・・」と思っているようです。ナナなんて、異様に擦り寄って来たり。おもしろいですね。代母のスーザンさんと電話。明日のお昼に聖公会の聖ポール教会である講演会に行くことになりました。お昼から2時まで。夜はテレーズの講演会が朝ミサの教会で。今夜は早く寝ましょう。
2005年09月25日
コメント(0)
ポケットの両手に気付くそぞろ寒友人滞在のホテルにさっき電話したら、二人の子供が風邪を引いちゃったって!(@o@;;)インディアナは隣の州とはいえ、ここから見るとかなり南なので、急に寒くなったこちらの気候と、たくさん人に会ったことで体調を崩しちゃったんですね。土曜は、他の知人とも公園で遊んだりしたようですし・・・。友人も寝てないみたいで、ちょっと心配。彼らはチェックアウトして、うちに向っているところ。夜、車で帰途につくまで休む予定。大根が買ってあった。きっと友達にもめずらしいと思うし、他のやさいと一緒に、今、おかゆさん炊いてます。
2005年09月25日
コメント(2)
昨日は秋うららといった感じの良い天気だったので、近くのチルドレンズ・ガーデンへ行きました。車で行ったのに駐車場がいっぱいでは入れなかった!乳母車を二つ出して、遠くの駐車場から公園まで。大変かなと思ったのですが、良い散歩になりました。公園では上の男の子はSLの形の乗って遊べる遊具に夢中。ずっとハンドルを動かしたり、ブレーキをかけるまねをしたりして遊んでいました。小さい子はまだ歩けないので抱っこしてSLに乗り込んだのですが、それはわかっているようでおにいちゃんの動きにあわせて縦揺れするのがすごく面白い!たくさん写真を撮りました。戻ってからは、今まで握ったこともないような小さいおにぎりでお昼ご飯。近くに住んでいるピアノの先生も加わっておしゃべり。子供たちは思いのほか上手にお昼寝してくれて、お母さんも一緒に少し休むことができました。ほんとにお母さんは24時間休み無しですよね。いつもぼさーっと暮らしている私は、反省&尊敬の念をますます強くするのでした。こういうときくらい役に立つと良いのだけれど。夕ご飯は、ピアノの先生と5歳の娘さん、デトロイトからの友達も交えて、デニーズへ。全然注文したものが出てこなくて、7時半に行ったのに帰りは9時でした!仕事の終わったお父さんたちが迎えに来てくれて、お母さんたちは帰る間際にほっとできたみたいです。また明日ねと別れました。子供たち、あの後よく眠れたかな?
2005年09月24日
コメント(0)
はや林檎色付く君よ顔上げよ(ルカ9:43-45)今週後半はずっと、背が高くて琴欧州似の神父さん。ここ数日のお話にはいろいろ考えさせられました。今日の福音書はイエスが自分に迫害が迫っていることを弟子たちに伝える場面。「弟子たちはその言葉がわからなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである」とあります。イエスは伝える前に「この言葉をよく耳に入れておきなさい。」って弟子たちに切り出しているんですよね。英語では「Pay attention what I am telling you.」で、注意して聞きなさいよ、っていう感じです。神父さんが面白くこの場面をたとえてくださいました。コンピューターの初心者が簡単な操作ミスでつまづく。それを、知ってる人が「ああ、それは○○が××だから、△△を□□すれば、簡単なことですよ」PC音痴さんは「ええーっ!?なんなの?わかんない!」「だから、よく聞いてね。こうこう・・・ってことなのね」「/(@д@;;)?ハア・・・!?(頭を抱え込む)」「(^^;)(なんでわかんないんだろう・・・)」神父さんは、子供に算数の問題を教える先生の例も挙げてくれました。そして、「隠されていた」ってことは、弟子たちからすると頭を抱え込むようなことだったけれども、イエスにとっては見通せていて理解していたことだったのでしょうね、と。そして最後に、イエスの言う『注意して聞き』続ける事の大切さをおっしゃいました。「隠されていてわからないことは、本当はシンプルなことなのかもしれない。足元に宝があるのかもしれない。頭を抱え込むようなときは、注意して聞くのです」イエスに迫りくる受難のお話を、「シンプルなこと」、「足元の宝」とおっしゃったことに、(なんか違うんじゃない?わからないな)という印象を持ったのですが、それこそ弟子たちと同じに、私に隠されているもの(^^;)!?なので「注意して」考えないといけませんね。覆われていて簡単な事柄が見えないというのは、実にその通りですから。
2005年09月24日
コメント(2)
文字は青秋空渡る便りかな猫に読み聞かせる便り秋日和秋分の声に見上げる空は青
2005年09月24日
コメント(0)
ちょっと書くスペースがなくなったので、ここに差し込みます。実は土曜日の新聞なのですが、4月の教皇選出のコンクラーベの情報が漏れたことが記事になっていました。教皇選出の選挙コンクラーベでは、情報を流さないという誓いをして枢機卿たちがシスティーナ・チャペルに入ります。漏れた情報というのはある枢機卿の日記の一部。4回行われた投票で、アルゼンチン、ブエノスアイレス大司教のホルヘ・マリオ・ベルゴグリオ枢機卿(イエズス会)が常に第2の候補者として挙がっていたことがひとつ。(ただ、その日記によると彼はなりたいとは思っていなかったのだそうです。)コンクラーベ当時、新聞雑誌では、ミラノ名誉大司教のカルロ・マリア・マルティーニ枢機卿(すでに引退)がラッツインガーと共に有力候補に挙げられていたので、そういった情報と、日記によるところの実際(?)はだいぶ違ったということでしょうか。二つ目は、現教皇が大差で選出されたわけではないこと。3分の2の有効投票数に7つ多いだけだったとか。それからアメリカのスキャンダルで問題になっていたボストン名誉大司教のロー枢機卿に1票入ったりしていたそうです。そのほか、ホテルが禁煙だったためにだれだれ枢機卿が抜け出した、とか、システィーナチャペルへのシャトルバスに乗りたくなくてだれだれ枢機卿は歩いていったとかの細かな話し。この日記は、バチカン・ジャーナリストのルチオ・ブルネリのコメントと一緒に流れたのだそうです。ブルネリはその枢機卿とイタリア語で話した、と語ったそうです。沈黙の誓いを破ったということは破門につながりますから誰ということはできない、とも。コンクラーベの投票は、第一回、ラッツインガー47、ベルゴグリオ10、マルティーニ9、そのほか30いくつ。第二回、ラ65、ベ35。第三回ラ72、ベ40。第四回、ラ84(決定)。(その日記の情報によると、ですが)世界のニュース面のかなり大きなスペースを割いてのこの記事。なぜ今の時期にこんな情報が流れたのか、最近の教皇の発言などと思い合わせて、いろいろ考えました。後記詳しい記事をネット上に見つけました。http://www.catholic.org/cathcom/international_story.php?id=16865他の候補者の情報や、「決定の瞬間、しばしの沈黙の後、長く暖かな拍手があった」などという臨場感あふれる記述もUPされていました。
2005年09月23日
コメント(0)
夕べインディアナから友人一家が来た!二人目の赤ちゃんが生まれてすぐ、だんなさんが出張だった一週間、ちょこっとお手伝いに行っていたのですが、その時まだ本当に小さかった赤ちゃんが、もうつかまり立ちをしようとしている。(^^)!上の子は、もう上手におしゃべりできる!子供の成長ってすごいですねえ(^^)二人の子供はうちの猫たちに興味津々。うちの猫たちは二人の子供に興味津々。(^o^)お互い動きにあわせてじーっと目を追わせていてものすごく面白かったです。いつもうちに来る子供たちはもう少し大きいので、小さい子供たちにびっくりした様子のハチ、ナナでした。2歳の子には猫の挨拶を教えてあげました。体を低くして、手のひらを差し出してにおいをかがせてあげる、っていう…。次にはそーっとかおを寄せて、鼻と鼻をあわせるんだよ、と教えると、怖がりながらもやってみるところは男の子ですね。慣れるまではお客さんは遠巻きに見ているナナも、下の赤ちゃんのにおいに釣られて「どんな子なの?」と近づいてきています。(^_^)挨拶の後すっかり仲良くなった二人とハチは、はいはいの体勢で遊んでいました!びっくり。だんなさんの出張にあわせてきているので、夜は近くのホテルに泊まっています。すっかり猫に魅了された上の子は「帰らないー!」と・・・(^^)。かわいい!「また明日遊ぶんだよ」となだめながらお別れしたのでした。ナナは皆が帰ってからさみしがって、しきりにカーペットのにおいをかいだり、甘えてきたり。自分が恥ずかしがってたくせに、もう帰っちゃった、と文句を言っているんです。おかしい。この町に滞在の3日間で仲良くなれると良いんですが・・・(^^;)今は金曜日の朝起きたところ。午前中は晴れていれば公園へ、午後は子供たちをお昼寝させてから、お母さんに友人を紹介。夜には、他の友人がデトロイトから加わってご飯です。
2005年09月23日
コメント(4)
秋霖や誰の上にも慈しみ (ルカ8:7-9)
2005年09月22日
コメント(0)
なほ招く宴に捧ぐる小菊かな何惜しむものなし灯せ秋燈私ってけちなのかなあ。損してるみたいって思っちゃうのは疲れてるから?もうすこしおおらかな性格だったと思うんだけどな・・・。「してあげてる」なんて思うこと自体、心が狭いよね。って、ちょっと弱気の愚痴り(^^;)イエスってすごいよね。本当につくしてつくして、だれもわかってくれなかったのに、まだ身を尽くしたんだよね。前句は、昨日の聖書、ローマに雇われてて嫌われてた収税人マタイを招くイエスへの気持ち。次は、自戒を込めて。
2005年09月22日
コメント(2)
代母さんのスーザンとあったときのこと。ご好意で送っていただいた井上神父さんの2冊の本の話を、私は興奮気味に伝えていました。神父さんはフランスでの修道生活を経て帰国し、司祭になられたことを説明。今はキリスト教の日本文化内開花のためにお働きになっていることを伝えて、詩集「風の薫り」と「日本とイエスの顔(英語版)」を見せました。「どんな詩をお書きになるの?」と聞かれたので、私は詩集を開きました。そこには「虎さんほんとに可哀そう」が・・・。私のとつとつとした訳で、詩のどこまでが伝わるのかわかりませんでしたが、英語にして読んでみました。 虎さんほんとに 可哀そう 親兄弟から離されて こんな小さな檻のなか たったひとりで淋しそう 昨日の夢はなんだった・・・最後まで読んだあと、スーザンはぱっと立ち上がり、本棚まで行って一冊の本をとってきました。「今の詩を聞いて、これを思い出したんだけど・・・」と。それはウイリアム・ブレイクのThe Tyger。わざとTigerをtygerとつづったタイトルです。Tyger! Tyger! burning brightIn the forests of the night,What immortal hand or eyeCould frame thy fearful symmetry? ...詩の主題は「虎さん・・・」のほうは、虎への共感や寄り添う気持ちであるのに対して「The tyger」が虎という生き物への感嘆のような気がしますが、やはり虎に問いかけるという形がとても似ていて、興味深く読みました。ウイリアム・ブレイクのほうは、別のところに「子羊作ったその方(神)がおまえもそうして作ったか」(byイウなんちゃって訳)とあって、なんだか違いが際立ってるような・・・。示唆的・・・。その後、井上神父がヨーロッパでの神学のありかたに違和感を覚えたことを、(もう、本当にめちゃくちゃな英語でどれくらいちゃんと伝わったか!(>
2005年09月21日
コメント(4)
夜明け近し十六夜兎は宙返り夕べは残念な雨でしたが、今朝まだ明けない西の空に十六夜がぽっかりと。見事なうさぎの宙返りを見せてもらいました。あんなにくるりとひっくり返るものなのですね。早起きしてなんだか得した気分。真上の空にはオリオン座が出ていました。オリオン座が見えると、もう、秋から冬という感じですね~。いつも季節は先を走っている。(^^)熱はそんなにひどいことはなく(心配してくださった皆さん、ありがとうございます。たいしたことはありませんでした)、朝ミサへ。感謝感謝(^v^)
2005年09月20日
コメント(2)
どうもここ数日おかしいなあと思っていたのですが、今日になってから腰が甘ったるく痛い・・・。これ、熱が出る印なんです、私の場合。今37度くらいですからまだたいしたことはないとはいえ、ちょっと休んだほうがよさそうです。今日は、久しぶりに代母さん(カトリックになるときの後見人の方です。ゴッドマザーといえばわかりやすいでしょうか)と会ってお話ししてきたので、そのことなど書きたいのですが、また明日にします。今夜は雨。後の月はやっぱり見えませんでした。
2005年09月19日
コメント(8)
リンクしているもずさんの日記タイトルに「月を飲む」とあったのでびっくりしました。実は夕べ、「月を飲んだよ」とコメントを書き込んでいたのです。行ってみたらもずさん作の明月三句がUPされていました。(^^)こんな素敵な句が・・・。→もずさんの日記「月光と独坐」こういう、響き合いみたいなものが、歌や句ってうれしいですね。(^^)夕べの月はね、「えいやっ!」という感じで飲み込んだんですよ。ささやかな復讐と飲む今日の月ごくりごくり、飲み込んじゃったので今夜は月は出ないようです。雨の予報。「後の月」は、私のおなかの中で輝いてもらうことにします。ふふ、ひとりじめ。
2005年09月19日
コメント(2)
雲の間に私だけの今日の月今日満ちて月の落とせる影長し
2005年09月18日
コメント(2)
「御父の家へ行かせてください("Let me go to the house of the Father."英訳) 」これが前教皇ヨハネ・パウロ2世の最後の言葉であったそうです。今朝の新聞に載っていました。(同じような内容のものがカトリック・オンラインにもあります。)インフルエンザの兆候が出た1月31日から亡くなる4月2日までの記録をバチカンが220ページにまとめ出したそうです。(これはいろいろ憶測を呼ばないようにするためではないかとのこと。前任のヨハネ・パウロ一世は在位33日間で亡くなったために、いつまでもいろいろうわさがありました。(「バチカン・ミステリー」に詳しい))バチカンが作ったその文書によると、なくなる6時間前に、苦しい息の下から母語であるポーランド語で、前教皇はそうつぶやかれたのだとか。生涯をささげつくした前教皇。今は御父の家でいこわれていることでしょう。
2005年09月18日
コメント(0)
待つ宵の窓に差す明りほのかかな待宵や少し欠けたる美人かな御国待つ宵や薄雲敷く明り
2005年09月17日
コメント(0)
というか、ここ二日間ばかり、そこはかとない「でぷれっしょん」に陥ってしまい、何も空から降ってこない・・・(^^;)平安朝の女流歌人のように、ただひたすらに嘆くような歌でも作りたい気分・・・(TvT)。柄じゃないんだけど。きっと急に寒くなって(おとといまで30度以上あったのに、昨日から朝晩7度にまで落ち込んでる!)体が対応できてないんでしょうね。猫が私で暖を取ろうと常によじ登ってくるのも苦しみの原因かと・・・(^^;)今日のミサで読まれたところを、読み返したりしています。「聞く耳のある者は聞きなさい」ってとこ・・・。いろいろ考えていたら、以前このタイトルで書いた文を思い出しました。こんなあほなことしか思いつかぬイウをゆるしてたもっ!聞く耳のある者よ、聞け
2005年09月17日
コメント(6)
最近、すごーく地味な更新になってしまっているトホホバージョンねことおひるね日記のほう、あまりにも放置しているのもなんだから、動物ネタを少しUPしました。動物の好きな人、ドゾー。(^^)ノシ(最近動物ネタが多いんだよね)
2005年09月16日
コメント(0)
露宿る御母の袖は悲しみに なほ開かれて雀らを抱く マリアはイエスのはじめの奇跡を人々のために望みました。また、イエスの十字架のもとで愛する弟子の母とされました。そのように人々の母となったマリア。「クリスチャンの、新しい家族。その母」という風に神父さんは今朝のミサでおっしゃっていました。七つの剣に象徴されるマリアの悲しみを思います。
2005年09月15日
コメント(0)
日本の子供のためのすごろくキルト作り。地球の生地に日本の形の生地をアップリケでつけています。日本の形って、本当にタツノオトシゴのようでかわいいなあ。もっと大雑把に直線にして、大体の形だけにもできたのだけれど、やはり入り組んだ湾の美しいシルエットだけは残したい。難しくなりそうだなと思いましたが、なるべく大きな湾の形はそのまま残すことにしました。アップリケは内側に入り込んだ曲線が難しい。どうしてもほつれてきますもんね。そこは、技術向上のためのチャレンジ!と思うことにして、ひたすらちくちくとアップリケ。三陸海岸、犬吠崎、第一の難関、東京湾を越えて、伊豆半島、駿河湾もなんとか過ぎ、今は伊勢湾と格闘中。来週皆が集まるまでに、本州と北海道辺りまではやっておきたいな。だれが見ても日本ってわかってくれると良いんだけど・・・。
2005年09月14日
コメント(0)
死は生へ十字架に主をいただきて神父さんの祭服は赤。しかし、神の惜しみない愛のシンボルとなった十字架をたたえる日ですね。
2005年09月14日
コメント(2)
朝ミサ。今日の第一朗読って、めずらしく行動についてのことなんですよね。パウロのテモテへの手紙の3章13節まで。日本語では「(教会の)監督の職を求めるものは・・・」って書いてあるんだけど、英語では「Bishop」って書いてあって、もともと監督って意味だけど「司教」さん、って言ってるのと英語ではおんなじ。それで、非のうちどころのない品行方正のものじゃなきゃいけない、って書いてある。んで、次のパラグラフは「奉仕者」も品位がなきゃならない。って書いてある。それから婦人の奉仕者もそうだって。神父さん、にやっと笑って「bishopと奉仕者について書かれているけど、ここに『司祭(神父さんのこと)』のことが挙げられてなくってよかったー!」って。(^^;)来てる人たち、ぷっと笑ってました。その後、教会に奉仕するものとして司祭が独身を保つことにちょっと触れていました。やはり全身全霊で神様のために働くには独身が都合が良い、と。ひとつのことを愛を持ってするという意味だといっていました。これは個人的な私の感想ですが、神学的に根拠があったり強制する必要があるのかはわからないけれど、神父さんが言った意味合いで、独身制に関してはよく理解できます。さて、今日の福音書は、一人息子を失った女を憐れに思って、若者を生き返らせるお話し。「ここで大事なのは、イエスが死んだものに触れた(聖書には「棺」と書いてあります。)ということです」と神父さん。当時のユダヤ人社会には、むかしの日本と同じように「死に対する強いけがれの意識」があり、棺や遺体に近づいたり、ましてや触れるなんてとんでもないことだったのだとか。そういった「穢れー清め」の社会にあって、それにとらわれず憐れみの心を示してくれたイエスの行動の大切さです。今読むと、「ふーん、そう」で、流れそうな部分ですが、当時の律法を守っている人が聞けば「ひぇ~!」((((@o@)//だったのです。常識やおきてを破ってまで愛を示した。愛の前には律法は取るに足りない。そういう行動がイエスを十字架に追いやっていくのですが、だからこその救い主なのですね。
2005年09月13日
コメント(2)
テレーズについての講演があることが、朝ミサの教会の週報に出ていました。日時を見ると、その晩!帰宅してオフィスが開く時間になってからすぐ電話。まだ大丈夫ということで(^^)v!教会企画「大人の信仰を育てる」シリーズの一環の講演で、テレーズについては2回が予定されていました。講師は、あの情熱的なプロテスタント出身の神父さん。会堂の地下ホールには五、六十人集まっていたと思います。第一回目は「テレーズの生涯」。はじめにお祈り。テレーズの夜の祈り(聖体への思い、一日の反省といった内容)らしきものでしたが、出典は不明。それから神父さんは、ルカから「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこへ入ることはできない」をひき、「小さな道」をひっそりと歩んだテレーズを紹介しました。そして、この何も業績のない、若くして亡くなった一人の修道女がなぜ聖人になったのかを見ていきましょう、とビデオを見せてくださいました。ビデオは、テレーズが「教会博士」として宣言された1997年に作られた「幼きイエスの聖テレーズ」テレーズゆかりの場所や、品物、当時のフランスの町の様子など、美しい映像での紹介でした。後半はカルメル修道会の中も紹介。テレーズが手紙や自叙伝を書いたポータブルの小さな書き物机、縫い物の道具が印象に残りました。書き物机は、ベッドの脇の椅子に腰掛けてひざに乗せて使ったそうです。多分A4版とちょっとくらいの大きさ。少し傾斜がついています。下の部分は開けることができて、中に紙や鉛筆が入るようになっていました。「テレーズは全部ここでこうやって書いたんです」と修道女が説明していました。縫い物道具は、小さなかごの中に。針と糸とはぎれ、小さなはさみが入っていました。テレーズは修道院に入ったとき縫い物ができなかったそうですからきっと苦労したと思います。修道女たちがレクリエーションの時間(一日あわせて2時間なのだとか)に暖炉の部屋に集まって、編み物やレース編みや縫い物などの手仕事をしながら会話している様子も紹介され、雰囲気がよくわかりました。人付き合いの苦労、睡眠不足、寒さ、労働、祈り・・・過酷な修道生活の中で、迷いももったテレーズ。誓願前には、神様に生涯をささげるような使命はないのではないかと苦しんだりもしました。しかし、三位一体の記念日に啓示を受けたテレーズは、自らを神の憐れみ深い愛にささげることを誓います。(これについては、次回神父さんがお話してくださるそうです。)ビデオは、テレーズが結核にかかったところで止められました。(続きが早く見たい!(^^))このビデオは売っているのでしょうか。欲しいなあ。次回までに読んでおく資料を渡されました。1、テレーズの奉献の誓いについての姉セリーヌの証言。2、テレーズの奉献の祈り。3「幼子の精神」についての読み物。「幼子の精神」の中にはテレーズの言葉「ああイエスよ、あなたの腕はわたしを御国に引き上げる『エレベーター』。ですから、私は成長する必要はなく、かえって、小さいままに、そしてさらに小さく小さくあらねばならないのです」が引用されています。「私たちはテレーズからなにを学ぶでしょうか。テレーズは「幼子の道」を歩むことによってその使命を果たしました。そして、神は、私たちになにを準備されているのでしょうか。次回までに、資料を読み、祈り、考えておいてください。」と神父さん。最後に祝福をくださって会を終わりました。次回は26日です。(^^)
2005年09月13日
コメント(4)
今日の福音箇所は、部下の病気をいやしてもらった百人隊長の話。百人隊長はローマの兵隊ですから、当時のユダヤ人社会では「外国人」と一線を引かれる人でした。しかし、信仰と謙遜を持ってしたイエスへの伝言は「一言おっしゃってください。そうすればしもべは癒されます」彼はイエスに神の権威があると信じ、一言「いやされよ」と命じてもらえればと願いました。「いらっしゃるにはおよびません。私が部下に命じれば、部下はそうします。権威とはそういうことだとわかっていますから」と。当時はユダヤ人と外国人は親しく付き合っていませんでしたから、そういう遠慮もあったのでしょう。しかし、それよりも、百人隊長はイエスの力を信じていた。その信仰はイエスをも驚かせました。この部分、英語では...but say the word and let my servant be healed.(一言おっしゃって私のしもべをいやしてください)となっています。これ、実は、ミサごとに唱える文になっているのです。御聖体をいただく前の信仰告白で、日本では「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠の命の糧、あなたをおいてだれのところに行きましょう」というところがあります。ここは英語ミサだと、「Lord, I am not worthy to receive you, but only say the word and I shall be healed.(主よ、私はあなたを受けるのにふさわしくはありませんが、ただ一言くださればいやされます)」まさに百人隊長の言葉です。日本に帰ったときにミサに出て、日本式文の「あなたをおいてだれのところに行きましょう」に感動した私は、すぐ英語で対応するところを思い出そうとしたのですが出ませんでした。言葉上はだいぶ違いますものね。それで、英語のほうのこの言葉、全然ぴんとこないままずーっとミサごとに唱えていたのですが、今朝のミサで読まれ、神父さんにミサでの言葉になってますよねと指摘されて、初めてああそうかと思いました。(ずっと気付かないでいたのは恥ずかしいことなのですが・・・)これはイエスの心をも動かした「外国人(当時は外国人にはそんな信仰などありえないと思われていたから)」の信仰告白なのですよね。そして日本の式文の言葉はペテロのイエスへの信仰告白。何で違うの?(-_-;)と疑問だったことも解けました。ここは、「あなたを信じてます!」というところだったんですね。こんなことを帰ってきてからずーと考えて、ミサってすごいな、と思いました。当時は全く別物として扱われていた外国人の百人隊長の信仰が救い上げられ、ミサの言葉として2000年ちかく後まで毎日口にされている。考えればミサのなかに、イエスの生涯、私たちの受けた恵み、信仰告白、感謝、etc、すべて入っている。ミサにすべてがある。そして、ひとつのミサは、イエスの生涯をなぞる一年のあるときのテーマをしっかりと打ち出していて・・・。(このことは昨日の日記のomasicoさんへのレスでもちょっとふれました)うーん、ミサってやっぱりすごい。
2005年09月12日
コメント(4)
今日の3つの聖書朗読と答唱詩篇はすべてゆるしというテーマに結びついています。Fr.Markはお話のはじめに、イエスがこの世に与えたものは「いやし」と「ゆるし」。この二つにかけてイエスはその生涯を進まれたとおっしゃいました。そしてもしもイエスの教えた祈りがこうだったら・・・、と次のように唱えました。「天におられる私たちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。私たちの日ごとの糧を今日もおあたえくださいっ!(プツン!)アーメン!」みな大笑い。この後、本当は「私たちの罪をおゆるしください。私たちも人をゆるします。・・・」と続くのですよね。特に英語だと、「日ごとの糧」というところは「デイリー・ブレッド(今日のパン)」とさらに直接的ですから、食べ物をくださいって言ったまま途切れた、なんとも唐突でわがままな祈りに聞こえます。Fr.Markは、もしこうだったら、私たちはもう大変なことになるでしょうね、と。主の祈りの中に「ゆるしてもらい、またゆるす」という文言があることの恵みと重要性を教えてくださいました。ゆるしのまなざしが注がれているのでなかったら、過ちの多い私たちはどうやって生きていけるというのでしょう。イエスはまた、私たちにゆるすことを求めました。ペテロは「7回ゆるせば良いですか」と問います。当時のユダヤ教の社会では、3回ゆるすというのが寛容さの表れた行為だったそうです。ですからペテロは、「たくさん」という意味も持つ「7回」と言って「これくらいゆるせばいいですよね」と。ところが、イエスは、そのペテロに「7回と言わず、7の70倍」と言います。(ここ、英語だとなぜか「77回」となっています。どういう風に訳されたのかはわかりませんが、とにかく多いという意味なのでしょう)「ゆるしはどんな瞬間にもしなさいとおっしゃられています。」けれど、ゆるすとはなんて難しいことでしょうか。ほんの些細なことでもこだわってゆるせない自分の姿を見ると、ペテロの言う7回すら、いえ、3回すら達成できそうにありません。Fr.Markは今日が折りしも9・11であること、またカトリーナの被害で国が混乱状態にあること、それから世界中の紛争にも触れました。憎しみの連鎖をどこかで解きほぐし、断ち切らなければなりません。社会的な出来事に対してもそうですが、友人や家族との関係での不寛容も、私にとっては大きな課題です。小さなことすらなかなかできないことを思うとき、すでに温かなゆるしのまなざしの中で生かされていることが、なんて大きな、不思議なことなのかと思います。-----RCIA(入門講座)でお世話になったアンジーさん、一旦職を退かれたのですが、また戻ってこられました。今までは典礼も担当されていましたが、今回はRCIAだけになったようです。彼女のように、暖かさ、知識の広さ、人に訴えかける静かな力を持った方は、なかなかいないと思います。戻ってこられて本当にうれしい。今朝彼女はミサの前に小さなアナウンスをしました。「入式のときに司祭が持って入った福音書が、閉式のときに祭壇に残されているのにお気づきですか?これは、ミサ中に司祭によって読まれた福音(よきしらせ)を私たちが受け入れ、私たちが福音となり、また日々の生活に出て福音を生きるということなのです。このことをぜひ覚えましょう」アンジーさんによって気付かされる、小さな事柄の大きな意味です。
2005年09月11日
コメント(6)
秋は澄む私を通った風の色
2005年09月10日
コメント(2)
ICFの掲示板に投稿した『余白の風』114号の感想文です。『余白の風』は私がさかんに(^o^;)投稿している俳句の機関紙。(次はOh!No!の小町の歌を投稿しようともくろみ中)カトリック俳人の余白さんが出しておられます。----------「余白の風」-求道俳句とエッセイ 第114号 ←読んでね(^^)♪余白さんの『俳句でキリスト教』出版に当たって一人だけの歩みではなく、神を見上げるもの同士が響きあい絡み合いながら歩んできた成果が、今、目に見える形で次々と実を結んでいるのですね。余白さんが句作に取り組まれるようになったいきさつも、そうなのか~、と読みました。おもにここ数年の余白さんの句を読んでいると、もうすでに出来上がった余白さん(^^)がそこにずっとあったような気がしてしまうのですが、「大きな精神的試練の時期」を経ておられた・・・。確かに、初期の作品を読ませていただくと、胸が詰まるような、はっとさせられる句に出会い、驚くことがあります。「頭から心へ下りていくような体験」この、初めて身になるといった感覚、表現をだんな君と話し合ったのですが、それはまた別のときに。「詩心が必要」「俳句は道楽」・・・なるほど、いいな、と思うことがたくさん。いろんなことを訴えかけられたような文でした。誠実さと批判精神「禅の思想が徹底的に“主観主義”であるからです。」というところ、面白いと思って読みました。禅のことはほとんど知らないのですが、どこかに鈴木大拙の本があるので読み返してみようと思います。講演「人間 山頭火と旅」について小さき花さんのレポートはいつも楽しみにしています。文章に優しいお人柄が表れていますね。今回は山頭火の紹介でまたそれもうれしい!(^^) なるほど、「歩く」は仏教で修行の意味になるのですね。「道」ですね。死んだ小鳥の肉ちくり!ちくり!痛みをもって読みました。もずさんの研ぎ澄まされた感性。(個人的には『宮本武蔵』とテレーズっていう組み合わせがつぼにはまりましたです。(^^))作品群夏から秋へ!全体でひとつの流れですね♪
2005年09月10日
コメント(0)
何千キロも離れたこの北の小さな町にも、カトリーナで被災された人たちが避難に来ていることを知りました。今朝のミサの後神父さんが、ボランティアにサインアップしてくれた人に感謝の言葉を述べていました。この教区でおもに福祉的な活動をしているビンセント・デ・ポール会館に来ている被災者の方たちがアパートなどへ移る手伝いが今日あるのだそうです。所属の教会でも献金の何パーセントかがビンセント・デ・ポールに送られていたし、洋服や玩具や食料を集めたりスープ・サービスなどをしていることは知っていましたが、カトリーナ被災者のためにも活動することになったのですね。暖かいところから、こんな北に来る人たちは大変だと思います。私も次に何かお知らせがあったらサインアップしようと思います。
2005年09月10日
コメント(2)
昨日の一番下の記事「京極夏彦の妖怪談義」、ようするに自然の擬人化ですよね。日本はあまりにも自然に恵まれていて、そして人々もその自然にふれ、感じることに敏感で・・・、という。そこに意思や感情を豊かに感じるんですよね、きっと。汎神的な土壌というのはそういうことだと思う。そういう土壌に育った私たちがキリスト者であろうとするなら、やはり、そういったすべての表情を持った豊かな表れの根底に、神の力が働いているのだと思わなければいられないでしょう。汎在神的な感じ方です。(もっとも、日本人クリスチャンはすでにそう神様の働きをとらえているわけなのだけれど)こういうことを考えていると、井上神父の著書の内容が本当に立ち上がってくるなあと思います。またページを開いてみましょう。
2005年09月09日
コメント(0)
今朝のミサの歌はImmaculate Mary親しみやすいメロディーでとても好きな曲です。さびはA-ve,A-ve,Ave Mari-a, A-ve A-ve Mari--a♪『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。』今日は背の高いお若い神父さん。壇の下まで福音書を携えて降りてきて、私たちに語りかけます。「『主が共におられる』とはなんとすばらしいことでしょうか。なにをするときにも、良いときにも、悪いときにも、主はともにいてくださるのです。心を神のほうへ引き上げましょう。(Let us lift up our heart.)「マリアは人々の救いのさきがけ、夜明けとして誕生されました。彼女の信仰、神への『Yes』。それをお祝いしましょう」
2005年09月08日
コメント(8)
気がつけば今日が開設1周年。去年とは違う今日の私。 腹の帯は移りにけりな穴の位置 わが身世に太るながめせしまに・・・ Oh!No!の小町 Gパンがきつい・・・。春の公演のときの怪我が結構ひどかったようで、今秋のバレエクラスを断念しました。週2回のレッスンがないというのは大きなことで・・・。コミュニティーセンターでやっているバレエのクラスとジムのバレエクラス、ヨガ&ピラテスで調整できればと思っています。老骨に鞭打ち、春の復帰目指しています。ともあれ、一年間よく続きました。ブログ。書くことで解消できることも多く、大きな楽しみにもなっています。これからも、信仰や趣味のこと、書いていければ良いなと思っています。
2005年09月08日
コメント(6)
ビデオにとってあったインタビュー番組、京極夏彦が出ていました。彼は妖怪を扱った作品を多くものしています。番組の中で、彼は、海外には妖怪の概念がないのだと言っていました。「妖怪は『だれだれさんのオバケ』ではない。例えば『ウブメ』が子を失った女のもののけの総称であるようなもの。」「固有名詞ではない」「一昔前のいでたちで日本人の郷愁を誘う。」「ザンバラ髪の白い着物などというのは『生きていない』と言う記号」とても面白く、うなりながら聞いていました。そして、特にひざを打ちたくなったのはこれ。「例えば『不知火』のようなものも妖怪。ただ『不知火』と言えば自然現象の不思議なものだが、それを『不知火くん』と呼んだところに妖怪の発生がある」これを聞いたときはもう、「そうだっ!コレだーっ!」と叫びたいような気がしました。「『不知火くん』と呼んだところに妖怪が・・・!(近五七五)」すばらしい!「絶対的な善とか悪といった概念が日本にはないので、外(国外)から何か入ってきても、妖怪のひとつになっちゃうんですよ」と言ったのも聞き逃しませんでした。これも結構面白い指摘だと思う。大きな感動を持って番組を見終えました。しかし、あまりにも喜びが大きすぎて、「コレだーっ!」と思ったのがなんなのか、忘れてしまったよー!ひらめいたと思ったのに・・・。五七五なんて考えながら見てるんじゃなかった・・・orz
2005年09月08日
コメント(0)
今日はキルトの日。近隣の日本人の親子の「歌の会」を主催している人に教えて欲しいと声をかけられて、来年のお正月に子供たちに遊んでもらうためのすごろくキルトを作っています。大きさは子供たちが乗って遊べるように、2畳くらい。宇宙がテーマで、地球から出発、惑星をめぐって太陽に着いたら上がりというすごろくです。今トップに9つの惑星がアップリケされたところです。デザインからなにから自分たちでやっているので難しいのですが、数人でわいわい言いながらの作業は楽しいもの。作業はちょっと計画よりも遅れ気味で、これから急がないといけません。「歌の会」主催の彼女、子供たちに日本語を話す環境を与えたいという願いをもって、ほぼボランティアでやっているのですが、運営がなかなか難しそうです。何事も中心になってやるのは大変。私もできるだけサポートしたいと思っています。彼女たちが帰ってからは、昨日うまく行かなかったアルパカの糸つむぎに再挑戦。あれこれ試してみて、やっとつむげるようになりました。よかった!昨日はぷつぷつと切れてしまって泣きそうでした。綿の量と引き加減が羊と違うので調子がなかなかつかめなかったんです。道具は、中央に穴の開いた木の小さくて丸い板に棒を通し、その先にフックをつけたという、小学生の工作のような紡ぎゴマ。(^^;)糸車でつむぐようにきれいな出来にはならないけれど、それが自分でやるよさだからということで納得しています。(^^;;)人間の、最も原始的なクラフトなのだ。
2005年09月07日
コメント(2)
朝ミサ。今日はお年を召した神父さん。帰宅後、午前中はピアノの先生のところにいって、週末のことなど取り留めなくお喋り。午後、糸をつむぎ始めたのだけれど、アルパカの毛はこしがなくってなかなかつむげない。ぷつぷつきれてしまうのに困り果て、今日は断念。羊が少し混じってるはずなんだけどな。うーむ。・・・と思案していたら、不覚にもうとうとしてしまった!(TT)ガーン。ああ、過ぎてしまった時間よ・・・。疲れなのか・・・。
2005年09月06日
コメント(0)
聖人になんてなれないきりぎりす今朝教会に行ったら、真っ暗のまま。あれ?と思えば、今日はレイバー・デイで祝日なのでした。ミサ、お休みだったんですね。ちょっと残念に思いながら帰宅。レイバー・デイ後から本格的に新学期が始まるので、実質上、今日が最後の夏休み。お店では大きなセールがあって、買い物の日にもなっています。お客さんが来たり、外出が続いたりしたので、さすがに疲れ気味。少しお買い物に出て、後は家で掃除したり。だんな君は地下に籠もって仕事。静かな日でした。
2005年09月05日
コメント(0)
「今日はどこに連れて行こう」と言うので「近くでラマ・フェスティバルをやっているらしいよ」と今日もさりげなく誘導。「なんでも、300頭以上のラマと50頭以上のアルパカが集まっていてちょっとしたショーを見せるみたいで、お店も出てるって。」誘導成功!ラマはらくだの仲間で馬よりも一回りか二回り小さめの動物です。運搬用の家畜として飼われるそうなのですが、アメリカではもっぱら毛を取るために飼われています。丈夫であんまり手もかからないらしく、ペットとして買っちゃう人も多いとか。この町にも「○○(町名)ラマ協会」という団体まであるほど。(だんな君に言わせると「人間じゃなくってラマが集まって会議でもしているような名前に聞こえる」のだとか(^^))近くの大学キャンパス内の牧場イベント会場に行ってみると、いるいる。やってるやってる。ラマは馬のようにパカパカという感じではなく、しゃなり、しゃなりエレガントに歩きます。コンテストと展示即売のために毛はプードルのようにきれいにカットされています。コンテスト会場の向こうでは、「ラマの教室」というイベントをやっていました。見てみると、引かれたラマが、2段の階段の昇り降りをする・・・。私たち、パチ、パチ。(とまどいつつ、軽い拍手)人が開けた立て付けのドアを、引かれて通る。人間ドアを閉める・・・。パ、パチパチ・・・。こんなのが芸なのだろうか・・・。でも正面で見ている集団は真剣に評価してるみたいで拍手も大きいぞ。一間ぐらいの幅の道を、人間に引かれて通る。真剣な集団、大拍手。引かれたラマのそばで人間が傘を広げる。傘を地面に置く。傘を拾う。傘を閉じる。真剣な集団、大拍手。ラマ、30センチくらいのハードルを乗り越える。大拍手。はじめ(°д°)?だった私たち、だんだん(^_^;)→(^o^;)!に!もうおかしくってたまらなかったんだけど、一連の「芸」を終えたラマ君が最後にトラックに乗り込むのを見て納得!「これ、芸じゃなくってどれくらい御しやすいかの評価なんだよ!」人に引かれてわがまま言わないとか、狭いドアも通れるとか、傘広げられてもびっくりしないとか、静かに車に乗り込むといったことが、ラマ君たちにとって重要な要素だったのですね。うーん。勉強になりました。さてイベントを見た後は、お店のほうに行って見ました。実は、私、ラマの毛をねらっていたのです。ところが大量に売られているのは未加工のものばかり。安いのは魅力なのですが、自分でごみ(わら、ほこり、う○ち)を取ったり、温度調節しながら丹念に洗ったり、繊維にくしをかけたり・・・、整えて紡げるまでにするにはちょっと大掛かり過ぎます。自分で作った糸つむぎのこまがあるので、繊維がそろえてあってすぐ糸が紡げるようになったフリース(毛)が欲しかった。探しに探してやっとすぐ紡げるような毛を見つけました。アルパカと羊のブレンド。お店の人がすごく面白い人で話し込むことに。量の見積もりや、毛糸のウエイトのことや、つむぐコツや、近隣であるイベントの情報など、そんなことで10分くらいそこにいました。だんな君と私がその人と話している間、おとうさんとおかあさんは、お店のだんなさんのほうと話しこんでいます。そちらはラマ&アルパカ談義でものすごく盛り上がっていて、もうおとうさんなんて、DCにラマ2、3頭買って帰りかねない勢いでした。そのご夫婦、奥さんがアルパカを飼い始めたのが去年だそう。今は11頭飼っているとか。奥さんは、これも自分で始めた携帯電話のビジネスをもっているのだけれど、早くアルパカ業(そんな言い方あるのかな?)に切り替えたいのだそうです。アルパカはほとんど手のかからない気性の優しい動物で、個性もあってかわいいのだとか。妊娠期間は11ヶ月から12ヶ月と長く、赤ちゃんが生まれるまで本当に待ち遠しい思いをするのだそう。連れてきていた3頭のアルパカをそれぞれ紹介してくれました。去年始めた事をもうビジネスにして、イベントにベンダーとしてきちゃってるんだからすごい行動力です。「好きだから」って。カードをもらって、こちらの連絡先も渡して別れました。私たち4人、それぞれに感動しながらラマ・フェスティバルを後に。私の手にはこれから紡がれようとするアルパカの毛の袋。おとうさんの手にはネイティブアメリカンの人が作った手編みのジャケットが入った袋。(袋に入るものでよかった。ラマを引いて帰ることになりそうだったのでハラハラだったのです(^^;)!)今日も、想像以上に楽しかったのでした。夕方、おとうさんおかあさんを送って空港へ。たった二日間であっという間でしたが、本当に良い時間でした。
2005年09月04日
コメント(2)
だんな君のお父さんお母さんがDCから来た!昨日まで天を突いていた怒れる髪を撫で付けて、今日明日は楽しく過ごそうと気持ちを切り替えました。だんな君は今日来るという日になってから、なにをしようかと困っていました。そこで、この間新聞記事で見つけたお祭りのことをさりげなく。「ここから1時間くらいのところでルネッサンス・フェスティバルっていうのをやってるらしいよ。」お客さんが来るというときでもなければどこへも出かけない私たち。これがチャンスなのだ!「何でもルネッサンス風のテーマパークで扮装したスタッフがいろいろ見せてくれるらしいよ」「ふーん」と言うことで、お父さんお母さんが到着してから行けることになりました。やった!ついてみると、あまりにも混んでいてびっくり。ミ○ガン中の人が集まっているのではないかと思うほど。ここでも「ミ○ガン万博」が繰り広げられていたとは!チケット一人17ドル払って入って見るといるいる!やってるやってる!・・・でも、スタッフにしては数が多すぎるような。明らかに遊んでるような人もいるし・・・。そう思ってよーく観察すると、バグパイプって、ルネッサンス?バイキングみたいな人もいるし。日本で見るようなゴスロリ風の怪しい集団まで!なんと、ルネッサンス・フェスティバルはスタッフがルネッサンスの扮装なだけではなく、来る人自身も扮装しちゃっているという、一大コスプレ会場なのでありました。いかに人々が非日常を求めているかを知り、深く考え込むイウ。ともあれ、ちょっとした遊園地がしつらえてあったり、良い雰囲気の飲み屋さんがあっていろんな扮装の人が酌み交わしていたり、クラフトショップがあったり、騎士の一騎打ちを見せてくれたり。想像以上に楽しかったのでした。こんな人も・・・おとうさん、おかあさんも楽しかったようでヨカッタ!(^^)ところで、これ、どう思います?---コーナー 今日の刺青---結構刺青を大胆に入れちゃってる人多いのですけど、漢字ってすごくエキゾチックに見えるようでよくモチーフになってるのです。しかし、これは・・・!「女力量」・・・って書いてある。何のつもり・・・?と考えること数十秒。「わかった!『ウーマン・パワー』だっ!」
2005年09月03日
コメント(6)
さて、続きです。そのパーティー、来ている人は日本人と韓国人とアメリカ人。もともと気が進まなかったのですが、その気持ちにむちをうって出かけていたのも原因だったのです。ワインを飲みながら話していたら、一人(日本人)が、「日本人嫌い」とか言い出した。いつもなら(そういうひともいる)と聞き流すか「はあ」なんて適当に相槌うったりもするところなのですが、もう隣近所の人に聞こえたと思うほど「カチン!」ときた。「特に旅行者に会うといらいらする。ハワイに行ったらすごかった」って話をいろいろ描写しながら言ってる。かえってアメリカ人のほうが、「いやー日本人静かだし、礼儀正しいほうなんじゃないの?」とかフォローしてたりして。(うぬぅ、何様~!)とぶすっとワインを飲んでいたのですが、「ねえ、そう思わない?」と同意を求められるに及んでブチッ!と切れた。私は悪魔に魂を売り渡し、大きな声で、「否!」と言い放った。(会話は英語)すると意外、と言う表情で、「そう思わないの~」と来たので、「何事か汝をそう思わせる!?われもその一人なればっ!」と日本人に向って言った。もちろん、その人も日本人の一人であるからして、これは大いなるいやみなのである。ここで、日本ならば、座は一瞬にして水を打ったように静まり返り、気まずいムードがつつと流れるのであるが、そこはアメリカだからなのか、かえって座は盛り上がる。次いで、その日本人、「今度、私、アメリカ市民権取るの。この人(韓国人)も最近取ったのよ」と言いやる。「あなたは市民権取るの?」いつもなら、「はあ、長くなって日本に帰るところがなくなったら、考えないといけないんですかね(^^;)タハ」とお茶を濁すところであるが、その日のイウは違った。なんてったって悪魔に魂を売り渡したのである。「否っ!!」「Oh-h-h!」と湧く面々。「どうして?」「アメリカ人になりてなんぞ良いことのあるやっ!!」しゃべりまくるわたし。だんな君一人がびっくりする中、パーティーはますます盛り上がる。「やけのやんぱち」状態でべらべらとしゃべるイウは、普段のパーティーよりもずっと周りからの受けが良いのであった。しかし、私は座をしらけさせたかったのである!一瞬凍りついた空気を自らが作り出したかったのである。「ヒケよ!」「静まれよ!」「凍りつけよ!」そう願って発する言葉のすべてが、肯定的に取られてしまう。それがまたかえってむかっ腹を立てる原因となり、・・・「イウ、怒髪天をつく」、一番であります。by怒髪亭いう朝(しかし思い返すだに腹立たしい。こちらは自分の美徳を売って、イヤに出ようとしているのにそれが評価される。コミュニケーション上の「美徳」がまるで違うのだ。それなら「悪魔に魂を売った」まま振舞えば良いのか。もちろんこれは極端な例だけれども。)
2005年09月03日
コメント(11)
夕べ、頭に来ることがあって爆発してしまいました。それもパーティーのさなか(?)。(周りの人はわからなかったのかもしれないんだけど。)これからだんな君の両親が来るので今は書けないのですが、夜になったら書こうと思っています。自分の頑固さとこらえ性のなさにまたがっくり。orz・・・
2005年09月03日
コメント(2)
ひげに秋とまりてぴくり眠り猫この週末はちょっと忙しくなりそうです。今晩はだんな君の同僚のところに呼ばれているし、明日あさってとだんな君の両親が訪ねてきます。先週お客さんが来ていたのに、帰ったとたんにすぐ散らかり状態に復元してしまった我が家。「なんですぐこうなるかな」といったら「Our lifestyle」と言われてしまった。(-_-=)だって、君が本やら書類やらを広げるんじゃないか。私もか・・・(@v@;)---ミサ覚書---第一朗読のコロサイの文、英語だと(日本語でもそうなのでしょうけど)毎日曜日に口にする二ケア信条とリンクします。(と言うか、ここから取られているのですよね)。新共同訳では地の文に組み込んでありましたが、フランシスコ会訳では歌の形になっていました。そちらのほうがじっくり味わえるような気がします。「見えない神の姿」(新共同訳)「目に見えない神の生き写し」(フランシスコ)。この部分、英語は「the image of the invisible God」座りもよく、感覚的につぼにははまるのか説教でもよく引用されるフレーズです。この世のすべての王であるキリストをたたえる歌ですね。福音はルカ5:33-39「新しい教えを注がれるにふさわしく私たちも変えられないといけません」by神父さん。
2005年09月02日
コメント(0)
秋冷の今日が修女の更衣シスター方、水色から黒のドレスへ。九月一日。すっぽり黒い修道服につつまれた姿、やはりはっとさせられます。シスターをお見かけするようになったのは、8月後半。それまでは夏休みで帰っていらしたのでしょうね。新年度が始まるので戻ってこられた。今朝は昨日と同じお年を召した神父さん。第一朗読のコリント1.9:4からをひいて、「私たちは祈るとき多くを望んでしまいます。神に影響を与えようとしているのです。しかし、そうではなくて、神が私たちに影響してくださるよう祈るべきではないでしょうか」とおっしゃいました。今日も「その通りだ」と納得。「神父さん、今日も朝から納得です!」(←もずさんへのプレゼント。)福音書はルカ5。ペトロたちが望んでもいなかったような大漁の魚を与えてくださるイエス。「私たちがわかる前に神様のほうが私たちに必要なものをわかっていて豊かに与えてくださっているのです。ですから、信頼して、何も恐れないで、ついていきましょう」イエスについていったペトロたち。「そこで、・・・すべてを捨ててイエスに従った。ルカ5:11」 人をすなどる漁師になりました。私もいろんな心のわずらいを捨てて、信頼して、ついていけますように。ミサ後、ロザリオ。終わるとシスター方はまだ残られていて、プリントを読んでいました。日々の黙想のための文なのかもしれません。帰りに、給湯室に向う小柄なシスターと会釈をしました。
2005年09月01日
コメント(2)
全49件 (49件中 1-49件目)
1