全37件 (37件中 1-37件目)
1
文化祭が近くなってきたので、校内の美化の為に草引きをする。 生徒が来る前に手本を示すべく、2メートル×1メートルくらいを綺麗に抜く。これがまた結構な量で、ゴミ袋が一杯になる。 生徒がたらたらやってくる。そらそうだ。眼をキラキラさせて高校生が草引きに来たら気持ちが悪い。 ここ引くんだよ。ほら、来る前に引いといたとこがあるから、こんなふうに。 「えーっ、こんなところ。・・先生、全部やってください。」 お前たちは、敬老精神というものがないのか。私は悲しいぞ。 「全部抜くんですか?」 アタリマエだ。草引きだろーが。 「雑草もですか?」 しつこい奴だな、全部抜けばいいんだよ。 「でも・・・雑草も懸命に生きてるのに・・・」 いつから博愛精神の塊になったんだよ、てめーは。全部抜けよ。 「火つけて燃やしたらいいと思います。」 校舎も燃えるんだよ。博愛精神と環境保護はどうしたんだよ。 「何か、アイテムがないかなー。・・あっ、隣のクラスから鍬、借りてきます。」 「すごいすごい、どんどん掘れるぞ。わー・・。」 頭の中身は幼稚園だね。でも、「アイテム」って、彼らはこういう使い方をするんだな。 「先生、私たち、か弱い女子もやるんですか?」 アタリマエだよ。戦後は男女平等なの。それに、「か弱い」って言葉の使い方を間違ってるよ。 ☆草引きは首のタオルがフィットする
2005.05.31
コメント(4)
今日は、校門の立ち番の日なので少し早めに出勤。 遅刻した皆様のチェックがその仕事なのだけれど、ついついいい陽気なので、ぼーっとあたりを見回す。 ポプラの葉が風にそよぎ、日に日に強くなる日差しが眩しい。 「樹液音」という言葉はないかもしれない。 ただ、ポプラのそよぎを見ていると、その中をさらさらと流れていく樹液の音が聞こえるような気になる。 演劇部の練習も今日から広いところを使って、少しづつ切りながら、動きをつけながらやっていく。本番は6月10日。みんな頑張れよ。 なんか眠たい。「春眠暁を」ではなくて、夜更かしが原因だろう。 というわけで、日々の日記の更新は、日付が変わる頃ではなくて、その日の夜に行う事と致します。 では皆様おやすみなさいませ。 良い子は早く寝るのだ・・。
2005.05.30
コメント(8)
さっきまで、「迷宮美術館」を観ていた。今日だけは見逃せない。 だって、「猫」なんだから。 様々な名画の中の猫が出てきた。 まず、藤田嗣治。懐の中で眠る猫。肩に乗っかっている猫。 「女は猫だ。女にひげをつけたら猫になる」との藤田の言葉も紹介されていた。あ、怒っちゃいけないよ、私が言ったんじゃないからね。 ルノアール、マネ、ゴヤ、ミレーそしてボナール。知らなかった・・ここに猫が・・という絵も。 マネの『オランピア』の右側の黒猫。見過ごしていた。どこを見ていたのか・・。 そして最後は、歌川国芳。江戸時代に猫は犬より一足早く「ペット」としての地位を確立していたという。うむ、これは調べないといけないな。むらむらと使命感が湧いてくるなー。 どうも力の入れどころが違うような気もするが・・。 で、観終わって二階に上がって来て、パソコンのスイッチ入れて、ふと前を見ると一冊の雑誌が目に入る位置にある。 『一枚の絵』2005年2月号 「うちの猫 隣の猫」 ここにあるある。「猫を描いた巨匠たち」のところを観ると・・。 ルノワール『ジュリー・マネ』 歌川国芳『其のまま地口猫飼好五十三疋』 国芳のところで、大仏次郎のエッセイを紹介している。 「日本人は長く『猫を美しいと見る眼を持たなかった』」 「あれだけ、人間の女体の美しさを見極めた画士たちが,猫については可憐さ美しさを見落としているか、描き損なっている」 なるほど一理ある。 でも、国芳の絵の猫の仕草は面白い。 『ぬき足、さし足、にゃんこ足』加藤由子 PHP では、山内ジョージさんの楽しいイラストで猫が、「あ」から始まる字をポーズしているが、国芳は、「う・な・ぎ」という字を数匹の猫を使って描いている。 この洒落ッ気はいい。好きだなーこういうの。 次のページには、菱田春草の『黒き猫』、竹内栖鳳『班猫』。これを観ると、大仏の言い方も正しいかもと思ってしまう。 竹内の猫の愛らしい事。菱田の黒猫は切手になっている。 すぐ手が届くところには、『猫びより』も置いてある。 そしてすぐ手が届くところには、まろが・・・いるはずだったが、今晩は下の娘が拉致したらしい。 明日の朝は返還を求めよう。
2005.05.30
コメント(18)
妻の腕に青いあざが出来ている。 人間ドックで検査をしてもらったときに、胃カメラを呑んだそうだ。その時に、安定剤を点滴してもらってスヤスヤ眠りながら胃カメラを終える・・という予定であったのが、注射の針が中々入らず、ずれたらしくてあざができてしまったという事だ。 妻は血管が細い。身体は太いのに。 私は血管が太い、身体は細いのに。 なぜだろうと考え始めると不眠症になるからやめよう。
2005.05.29
コメント(6)
斉藤貴男さんの講演を聞いた。 私が住んでいる明石市には、「総合選抜制度」という高校入試制度がある。市内にある6つの県立高校の学力が均等になるような入試制度だ。 学校間格差はない。 つまり、「お子さんはどこの高校に通ってはるんですか?」と訊ねることが気軽に出来る制度であるという事だ。お隣の神戸は、受験エリート校から、「底辺校」(嫌な言葉だ)までずらっと並んでいるから、「どこの高校に・・」という会話は中々出来ないと聞いたことがある。 どんな振り分け方をしているかは複雑で簡単には説明できないが、6つの高校の学力が均等になるように生徒を、居住地、志望などを参考にして振り分ける。 第一志望に入学できる率は、80%を超えている。これは、面接とテストを繰り返して、諦めた結果としての「80%」ではない。 最初からの第一志望。 明石市が、長年続いてきたこの制度を変えようとしている。「ちょっと待った。市民の意見を、高校生の意見を聞かなきゃだめでしょうが」という主旨で、開催されたのが、『明石市民フォーラム』。今日の催しだ。 私は明石市内の高校に15年間勤務した。娘二人も、市内の高校でお世話になった。上の娘は3年間私が勤務している高校に通った。なぜそんな事になったのか? 娘が中三のときに私に質問した。 「お父さん、明石の学校で一番いい高校はどこなん?」 私は、自分が勤務している学校が一番良いと思っていたので、そう答えた。娘は、第一志望を私の勤務校にして書類を出した。で、希望が実現したというわけだ。 我が娘ながら変人だと思っていたが、まさかここまで変人とは思わなかった。何で簡単に親のいう事を信じるんだよ・・。 三年間、同じ担任だった。 進路の事を相談する担任と保護者、生徒の三者面談には、妻が直前で駄目になって私が行った。職員室から歩いていって教室の扉を開けて入っていったら担任は目を丸くしていた。「何でお前が来るんやー」と顔に描いてあった。悪かったと思ってる。 生徒たちは、自分が通っている学校にコンプレックスを持たない。ついでに、ヘンな優越感も持っていない。中学時代の友達関係も切れることはない。 斎藤さんの講演は、以下のような内容だった。 現在、エリートを育てるための制度つくりが進められている。しかし、それは、新に予算をつけるという形ではなくて、今ある高校を廃校にしたり、統合したりして予算を減らして、その予算をエリート校に回すというものだ。 教育関係者を沢山取材したけれど、二つ紹介しておきたい言葉がある。 一つは、ノーベル賞受賞者の江崎玲於奈氏の言葉。 「就学前に遺伝子検査をして、才能のあるなしを調べて、才能のあるものだけ伸ばせばいい。才能のないものは矢っても無駄だ。」 もう一つは、現在のゆとり教育のもとを作った教育課程審議会の委員長をしていた三浦朱門氏。 「非才、無才はせめて実直な精神だけ持っていればいい。戦後ずっと、出来ない子に手をかけすぎてきた。もうそんな事をやるべきではない。百人に一人のエリートを育てれば良い。その中から将来の日本を背負うエリートが出来てくる。」 東海地方に、トヨタ、中部電力、JR東日本が出資して学校法人をつくり、エリート養成の為の男子校を作ろうという構想がある。 「『イギリスのイートン校をモデルとして』と言っていたのだが、いつの頃からか言わなくなった。なぜかなと聞いてみたら、イギリスには、イートンだけではなくて、ハロー校とか色々あることが分かってきたのでいま、どこをモデルとするか考えている、ということだそうだ。 はっきり言って、この程度の知識しかないような人たちが「エリート、エリート」と言い回っている。「教育改革」をぶち上げている。 不登校の子どもたちの受け皿となっている学校をつぶしてどうするのか。その子達はどこへ行けばいいのか? 人間を「成績」という単純なものさしだけで計ろうという事がいま行われようとしている。 大阪で、定時制が半分になるという事が決定された。それを決める審議会で、こんな発言があった。 「定時制って、人間は夜行動物じゃないんだから。」 「バーやキャバレーのホステスじゃあるまいし。」 「挫折した人間の事なんかほっとけばいい。」 一番最後の発言は、女子シンクロのオリンピック代表コーチの人の言葉。他は、サントリーの顧問と丸紅の相談役の発言。 講演のあとに、高校生のダンス,バンド演奏をはさみながら、「しゃべり場」形式で、斎藤さんを囲んで高校生4人の発言があった。 少し紹介しよう。 「競争させたらみんな頑張る、みたいな事をエライ人は考えてるようだけれど、学校に格差をつけられたら、『どうせやっても無駄』と諦める子が増えるだけだと思う。 私の友達で中学の時にあんまり成績よくなくて、『私なんかアカンし』というのが口癖だった子が、高校になって私と一緒に勉強していたら急に分かりだして、『勉強楽しいわー。分かるってええなー』と言い出しました。 実際にこの眼で見たのでホントの事です。」 「成績のいい人、勉強のできる人とは話しにくいと思ってました。でも、中学時代の共通の友達がいてくれると話が出来るようになって、勉強以外のその人のことも知る事ができるようなりました。 学校が輪切りになっていて格差が出来ていたらこんな事は出来なかっただろうなと思ってます。」 「なぜ私たち高校生の意見を聞いてくれないのかなと思います。そして中学生も。市民みんなの意見を聞いて、『総合選抜制やめよう』となるんだったら納得できるけれど、議員さんと市のエライさんとだけで決めんといてほしい。 当事者は私らやねんから。」 「将来の為に今頑張れ、勉強しろっていうことかもしれんけど、それなら、『今』はどうでもええん?思う。高校のときのこと振り返って、『勉強ばっかでおもろなかったなー』というのは最悪。 『今楽しい。充実してる』って思いたいし頑張りたい。 学校間に序列が出来たら、そんな事言っておれなくなると思う。」 「テストの前なんかよく教えあいをします。先生とはこんな風にはならないけど、生徒同士なら、気楽に聞けるし、教える方も、『どう教えたらわかってくれるかなー』って考えるじゃないですか。 勉強、勉強・・競争、競争で行くようになったら、こんな教えあいなんかできるんかなー。」 時代が変わったなぁと思うのは、全員女の子のバンドの出現。また、ドラムの子のうまい事。昔はせいぜいボーカルだった事を考えれば、隔世の感がある。 あ、それと、バンバン喋っていたのは3人の女の子。男の子は・・・うなづいていたなぁ。 最後に、私の言いたいことを書くこととする。 明石市は、依然として、「依らしむべし、知らしむべからず」の世界か?「市民参画」は、看板だけか?当事者の声を、市民の声を聞かなくてどうする。 高校入試制度についての住民投票は最低必要だ。 「学識経験者」「有識者」なるもののおかげで、教育現場は振り回されている。 なぜ、貴方たちは、「シンクロのコーチである」「サントリーの相談役である」「丸紅の顧問である」というだけで、定時制を半減させるような事ができるのか? 酒場での雑談ではないのだ。実効を伴う発言をなぜこんなに気軽に、現場の事も定時制の生徒のことも知らない人間が出来るのか。 「挫折した人間のことなんかほっとけばいい」。 私は、貴女がシンクロのコーチとして何をしようが口を挟む事はない。だが、お願いだから、自分の狭い世界での経験を他人に押し付けないでほしいのだ。 貴女は神様か?上から見下ろしてものを言ってほしくない。 将棋の米長氏が将棋連盟の会長になるという。いいことだと思う。暇だから、「全国の学校で日の丸を掲揚し、君が代を歌わせるのが私の仕事と心得ております」と、何を血迷ったか・・という発言をして、天皇に、「強制にならないように」とたしなめられるのだ。 学識経験者、有識者と称する人たちの中で、こつこつと地域の教育運動に関わってきた人はいるのか?聞いた事がない。 金儲けに必死であったはずだから、自分の子どもの教育もろくに関わっていない「丸紅」の顧問が、なぜ「教育改革」を語れるのか? 「None of your business.」。ほっといてくれ。自分の仕事をしてな。 日本にはもう一つの流れができつつある。 それは、生徒と、保護者と、地域の人たちと教職員で、「学校のあるべき姿」を考えて行こうという取り組みだ。 昨年の長野で行われた全国教育研究集会では、そのような報告を多数聞くことが出来た。 教育研究集会の開会行事で、きりっと、そして艶やかに太鼓を叩いてくれた中高生の一人は言った。 「故郷は近きにありて創るもの」。名言であると思う。 私たちは、「主権者」でありたい。地域でも職場でも、そしてこの国でも。
2005.05.29
コメント(6)
出張で、京大大学院教授の杉山正明さんの話を聞いてきた。杉山さんはモンゴルの専門家。資料を読み込んで、それまでの説をかなりひっくり返してこられた方だ。 1「モンゴルの侵略が大変に残酷なものであったとは、ヨーロッパが作り出した『神話』で、自分たちがアジアを侵略するときの言い訳として作り出したものです。」 2「イギリスはローマ帝国に侵略されたという歴史を持っていますから、長い間、ローマ帝国に対する評価は低かった。しかし、それが変化するのは、イギリス自らがインドを支配下において『イギリス帝国』となって後の事です。」☆杉山さんの話に繰り返し出てくるテーマは、「歴史の記述は不変ではない」ということと「歴史は、現代との関わりで常に書き変えられることがある」ということ。 3「『ローマの平和(パックス・ロマーナ)』という言葉がありますが、あれは、「ローマ人は自分たちに反抗するものたちを皆殺しにしておいて廃墟をつくり、そこを『平和』とよぶ」というはなはだ皮肉な言い方(タキトゥス『アグリコラ』)から来ています。 だから、今の学者が、『パックス・アメリカーナ』という言葉を皮肉として使うならいいのですが、まともに「アメリカによる平和」として賛美しているのを見るとおやおやとなるのです。」☆「廃墟を作って」という言葉は、学生の時に、ローマ史専門の弓削先生に教わった。その後、「Dead Indian is good indian」という言い方を知った。アメリカ西部開拓時代の言葉だそうだが。 アフガニスタン、イラクの現状を見ると、確かに『パックス・アメリカーナ』だと実感できる。世界の最貧国の一つであるアフガニスタンに対する爆撃をみていると。 タキトゥスという人は、『ゲルマニア』が一番有名だが、『アグリコラ』も、『年代記』もすばらしい。特に、反乱を起こした人々が徐々に追いつめられて、袋小路のようなところで次々と殺されていくという凄惨なシーンは、2000年の時をこえて迫ってくる。4「『混一彊理歴代国都之図』(こんいつきょうり れきだい こくとのず)は、長崎県島原市の本光寺というお寺に所蔵されています。この図は、同じような図が龍谷大に所蔵されていて、そちらの方がまず有名になったのです。 しかし、有名になり方のポイントがずれてる。邪馬台国関連で有名になったのです。 それは違う。この図を見て、そんな事に関連づけるとはもう、アホとしか言いようがない。 この図の左端の方には、アフリカもイベリア半島も描いてあり、特にアフリカに至っては、海に囲まれている状態で描かれている。 これは、明の1402年に作られた地図です。邪馬台国論争を1000年ほど経って作られた地図をもとにしてやると言うことは馬鹿馬鹿しい事なのですが、何でそんな方向へ行くのか。 この地図のポイントは、ヨーロッパがまだ、アフリカの南端は他の大陸とつながっているという認識を持っていたときに(それが訂正されるのは、1488年にバーソロミュー・ディアスが喜望峰を回航して後ですが)、アジアはすでに、アフリカの南端には海が広がっているという認識をもっていたわけです。この重要性になぜ気がつかないか。」☆「混一彊理歴代国都之図」は、当日はカラーコピーで配布された。 グーグルで検索してみたら、大半が「邪馬台国関連」。杉山さんがイライラするのもわかる。一つだけ、アフリカの南端が海として描かれている事に触れてある。 日本の歴史学は、19世紀ヨーロッパの歴史学の枠組みの影響下に出発したと言っていい。19世紀とはヨーロッパが最も傲慢だった時代で、自己の価値観を他に押しつける事をためらわなかった時代だ。それが、相手の幸せにつながると考えていたのだから始末が悪い。 今のアメリカに似ているのかもしれない。 たとえば、「新大陸の発見」という言葉は、今は教科書から消えつつあるけれど、私が高校生のころは厳然として教科書の中にあった。何が、「発見」だ。そこには独自の生活様式を持った人たちがいたのに、「ここはインドだ」と思い込んだコロンブスというオッサンが、彼らに「インディオ」(インド人)という名前をつけて、彼らを「発見」したことになってしまった。 アート・バックウォルド『誰がコロンブスを発見したか』(文藝春秋)は、そこら辺のことを皮肉った表題のコラムが収録されている本で、他にも抱腹絶倒、「面白くなかったら金を返してもいいぜ」(ただし本人の了承はない)的な本。 ヨーロッパは、アフリカ南端がどうなっているか知らなかった、しかしアジアは知っていた、そのことを認めよう、と杉山さんは言っている。5「考古学は、政治、国家というものと極めて密接に結びついている。国民の支持がないと掘れないし、金がなければ掘ることができない。」 これは日本だけの問題ではない。独裁者はよく、自国の伝統を捏造する。6「『元寇』以後の日本と中国(元)との関係の方が重要。戦争だけに眼を奪われてはいけない。この時に、大陸から物凄い量の文物が入ってくる。それをもとにして日本では現在につながるものが、『似て非なるもの』として作り上げられるが、その原型は大陸にあることは事実だ。例えば、『お茶』『能』がそうだ。」☆茶の湯の原型は、産地をあてる「闘茶」、能は、ゆっくりとした所作で演じられる「儺」と呼ばれる仮面劇だという。 話は多岐にわたり、特にNHKの問題については、番組の質の低下が著しい(特に『新・シルクロード』)、組織が巨大になりすぎて官僚化が進行している・・というあまり大きな声ではいえないお話もあった。 「主権国家」という枠組みの問題への言及も考えさせられた。「主権国家でございます」といえば、国内でどんな残虐な事をやってもいいのか、外部から介入できないのか、という問題。(これは岩波新書で『人道的介入』という本あり) EUの見通しについては、「フランスとイタリアがぶらさがっていて、ドイツの負担が大きすぎる」ので、悲観的・・という見方も披露されていた。さて、どうだろう。 杉山さんの本で面白かったものは、◎『大モンゴルの時代』中央公論社『世界の歴史』第9巻◎『モンゴル帝国の興亡』講談社現代新書・全2巻 新しい事を知る事は楽しい。その事を実感できた午後だった。
2005.05.28
コメント(6)
こんにちわ。今日はどうしたんだい? え、質問がある・・ききたい事ができたのかい? 何なんだ。言ってごらん。 ん、「大河ドラマなんかみんなウソじゃないか」って・・・。そりゃ、おまえ、自分の知恵じゃないだろう。誰に聞いたんだ? ふんふん、近くに住んでる「せしるん」ってお姉さんがそう言ってたって。 もうちょっと詳しく聞いて見たいね、他にどんな事言ってたんだい。 ほーほー、そんな昔のことなんか分かるわけないじゃないの、学者が調べてもわかりっこないんだからって・・えっ、そんな事言ってたのかい・・。 身も蓋もないねぇ、最近の若いモンは。 あのね、昔のことで、よーく分かってる事もあるんだよ。たとえばね、滝沢馬琴という変わりモンの偏屈ジジイがいて、・・・何、おじいちゃんと同じなのかって・・・まぜっかえすんじゃないよ。ちゃんとそこに座って。ほらほら、パンツが見えるだろうが、ちゃんと座んなよ。 眼の毒だよほんとに。 どこまで話したっけ・・あっ、馬琴爺さんだよ。この人がマメでね。日記つけてて、毎日の天気をきちんと書いてるんだよ。 だから、この人の日記を見ると、何年何月の何日の江戸は晴れてたのか、曇ってたのか、雨だったのかってのは分かるんだよ。 天気がわかってどうすんだって?お前も馬鹿だねー。いいかい、お話ってのは、「つくりもの」なんだよ。初手からそういうこと言っちゃあホントに身も蓋もないんだけどね、「つくりもの」なんだよ。 だってそうだろう。 こうこうでしたって、資料が残ってない事も、小説書いている人は書かなきゃご飯が食べられないんだから。 だけどね、分かってる事は、調べて書かなきゃ、いいウソがつけないんだよ。 おまえはまだ小さいからわかんないかもしれないけど、小説家ってのは、詐欺師と五十歩百歩なんだよ。 え、「五十歩百歩」がわかんない。いいんだよそんなもん。あんまり変わりがないって憶えときな。 え、「五十歩」と「百歩」じゃ違うって・・・それならな、「目くそ 鼻くそ」ってわかるか?分かるけれど、喩えが汚いって・・。 もういいよ、黙って聞きなよ、話が前にすすまねえや。 人をだまくらかそうと思ったら、いかにも「本当らしい」話をしなくちゃ駄目なんだよ。 ほら、「オレオレ詐欺」とか「振り込め詐欺」なんてえものも、電話の向こうの人をあわてさせて、うろたえさせてお金を振り込ませようってんだから、相手の事を調べるわけだ。 どこの会社に勤めているか、どんな仕事をしているか、電車で通勤しているかバスなのかなんかも調べなきゃならない。そういうことがきちんと調べてあると相手がだまし良いわけだよ。 だけどさ、肝腎の、「交通事故で相手に怪我をさせてすぐに金がいるんだよ」ってのはウソのわけだよ。ホントの事とウソとが上手い具合に混ざってるからだまされんだよ。 だからね、馬琴の日記を読んで、「文化五年の元日。その日は朝から雨だった。たえまなく降り続く氷雨の中を女が小走りに駆けて行く」ってったらさ、ほうほう・・となるじゃねえか。 歴史のことを調べたりしてる学者先生は、調べたことしか書けないんだよ。 ところが、小説家は、調べた事を使ってウソをかくんだな、これが。 第一・・・あっ、ここだここだ。いいかい、聞いてろよ。 「『あなた、明日はお早いんですか』と常盤は言った。 『それがどうした』と清盛は、熱い吐息を常盤の・・」 あ、これじゃないよ、違う違う、こんな本じゃ駄目だな。 えっ、もっと読めって・・・困ったな。 まっ、いいや。こんなふうな、二人の会話なんか資料がないんだよ。お布団の中でどんな話をしていたかなんてね。でも、この時に二人の間で、こんな風なことを話したんじゃないかなって想像しながら書けるのが小説家なんだよ。 だから、いいかい、分かってる事は良く調べて書くんだよ。でもな、調べがつかないことは、想像して書くんだなぁ。 時代小説を書いてる人はよく勉強してるぞ。特に江戸時代なんざ、絵図も一杯あるから、どんな町並みだったか、ここの町の米屋の向かいにはどんな家があったかまでわかってんだよ。 上手なウソをつくためには、ちゃんと勉強しないといけませんからって言ってる人もいるんだからな。 新しい資料が見つかったといっちゃあ、そこへ行って見せてもらったり、熱心に研究してる人に話を聞いたりするんだよ。 でもな、ここが難しいんだけどな、ある人と仲が悪かった人がいて、その人のことをクソミソに書いたとするじゃないか。でな、その人の書いたモンだけが残っちゃったらどうなると思う。 そうだよな。悪い話だけが残っちゃうんだよ。おまえね、じいちゃんの事を、婆ちゃんからはどんな風に聞いてんだ? ・・んっ、ケチで、意地が悪くて、いばりんぼだって・・・ロクな事言わねえな、あのババアは。でさ、お前はどう思ってんだよ、じいちゃんの事は? え、手え出して何してんだよ。何、褒めてほしかったら誠意を示せって・・・最近のガキはこれだからなぁ。ほらよっ・・。なになに、男前だって。ほうほう、金離れがいい、物識り、中々いいね。もう一声ないのかい。 えっ、また手え出してるよ。困ったガキだね。 あ、そうそう、じいちゃんについて、婆ちゃんの話だけが残っちまったら、じいちゃんは、ケチでいばりんぼで・・って事になっちまうだろうが。百年も二百年も経ってしまったらさ。 えっ、そこまでじいちゃんの事を憶えてる奴はいないって・・・モノの喩えだよ,喩え。 だからさ、悪い噂がある人でも、ひょっとしたらいい人かもしんないんだよ。その人のことを良く書いてる資料が無くなったか、まだ見つかってないかでさ。 まあ、お前は知らねえだろうけど、井伊直弼ってお方がいてね、この人なんか、大悪人だって言われてたんだよ。だけど、この人はこの人なりに日本のことを考えてたんじゃネーかって思った小説家の人がいてさ、『花の生涯』って本を書いて、これがNHKの大河ドラマの第一号よ。 評判だったねー。尾上松禄、良かったねー。 『樅の木は残った』の原田甲斐なんて人もそうなんだよ。 えっ、そんな昔の話をするなって。 ま、そうだわなー。まだおまえなんか影も形もなかったんだからなー。 わかったか?・・だいたいわかったって。 え、もう帰るのかい。どっか行くところがあるのかい?・・「せしるん」さんとこ。 おいおい、「せしるん」さんって、どんな人なんだよ?年のころは?なに、そんなプライバシーにかかわる事は言えねえって。難しい時代になりやがったねー。 おい、手え出して何してんだよ。事と次第によっては調べないものでもないってか。 じゃ、手え出しな。ホントに、年金暮らしの年寄りから金をふんだくるなよ。わかったら、ちゃんと報せに来るんだぞ。・・おいおい、表通りは車の往来が激しいんだから、駆け出すんじゃないよ、気いつけて行っといで。☆一部、問題を単純に設定したり、ハンドル・ネームの「実名」を使用しておりますが、鯛はもちろん、鱸も、鰆もございません。家主敬白
2005.05.27
コメント(8)
過去の人間を、現代の価値観で見てしまうことがある。 大河ドラマを見ていて、つくづく脚本書いている人は大変だなと思う。視聴者の反感を買わない人物に仕上げねばならない。 結局、今の価値観から見て「良い人」に仕上げねばならない。 実像に近い、「本当の○○」を描いたらどうなるか?二つ例を挙げてみよう。 例えば、織田信長。家臣とその家族を単に「駒」としかみない非情さ、一揆勢への常軌を逸した殺戮ぶり。藤沢周平さんの「信長嫌い」という短文に私は共感するので、信長という人間をどうしても好きにはなれない。 「投降した一向一揆の男女二万を城に押し込めて柵で囲み、外に逃げ出せないようにした上で焼き殺した長嶋の虐殺、・・のちの越前一向一揆との戦いで、信長は京都にいる所司代村井貞勝に戦勝を知らせて、府中の町は死骸ばかりで空きどころがない、見せたいほどだと書き送った。嗜虐的な性向が窺える文章で、このへんでも私は、信長のえらさをかなり割り引きたくなるのだ。」 そして、藤沢さんは言う。 「たとえ先行き不透明だろうと、人物払底だろうと、われわれは、民意を汲むことにつとめ、無力なものを虐げたりしない、われわれよりは少し賢い政府、指導者の舵取りで暮らしたいものである。安易にこわもての英雄を求めたりすると、とんでもないババをひきあてる可能性がある。」『ふるさとへ廻る六部は』新潮文庫所収 「英雄のいない国は不幸だ!」 「そうではない。英雄を必要とする国が不幸なのだ。」 『ガリレオの生涯』ブレヒト しかし、大河ドラマでは、「本能寺の変で死ななかった事にして」というファンレターが来る様な人間に仕上げねばならない。 つまり、虚像の構築に励む事になる。新選組は、「青春ドラマ」、前田利家とまつは、「戦国ホームドラマ」となる。 京都国立博物館で98年に開かれた「蓮如と本願寺」展に、一枚の瓦が展示されていた。 何の変哲もない瓦だが、へらで字が書いてある。こんな文章だ。 「一揆が起こって、前田利家殿が一揆勢千人ばかりを生け捕りにして、磔にしたり、釜に入れて焼き殺した。この事を書き残しておこうと思う。」 福井県武生市五分市町にある小丸城跡から昭和七年に出土したもの。 一揆勢が、磔や釜煎りで虐殺された当時の瓦職人が「後世の人たちにご覧いただくために」「書き留めた」生々しい資料といっていい。 なぜこのようなことをやった利家が、「ホームドラマ」の主人公となるのか。 私は自分のご先祖様は、釜で焼き殺されたり、磔になったりした連中の同類だろうと確信しているので、間違っても利家や信長には親近感は感じない。 我ながら偏狭だ。 もう一つ例を挙げよう。源義経。 『平家物語』では、「小柄で色は白いけれども、出っ歯」となっている。(「遠矢の事」) あ、こらこら、石を投げるんじゃない。仕方がないじゃないか、そう書いてあるんだから。家に帰って『平家物語』読みなさいよ。 もう・・泣くんじゃないって。えっ、私が悪いの?・・もう、やだなー。 どう考えても、これは滝沢秀明ではない。明石屋さんまだ。 が成立していくのは、『義経記』以降で、義経は白面の貴公子となり、笛なんぞ吹いたりするようになる。 義経は、当時の戦闘の常識、あるいは暗黙の約束事を破っている。壇ノ浦の合戦で、非戦闘員である水主(かこ 船頭)を射殺させて、舟をコントロールできなくした事などがそうだ。 私は、この回は見ようと思っている。 脚本家が,非戦闘員を射殺させた義経にどんな「弁解」をさせるか見てみたい。或いは、他の郎党(部下)の進言という形をとるか? 非戦闘員を射殺するに当たって義経にためらいなどなかったと思う。軍事的な天才というのはそういうものだ。しかし、視聴者が期待する「義経様」は、いったいどうなされるのだろうか?いじわるだけど、すごく気になる。 義経は、『平家物語』では、「すすどき」と形容されている。「挙動がすばしこい」「鋭い」。これはやはり、タッキーではなく、さんまだろう。 さんまを使った、歴史に徹底的に忠実な「義経」を見てみたい。誰か、作らないかな。視聴率は最低だろうけど。
2005.05.26
コメント(10)
生徒の答案を見せてもらった。もちろん、「コペルニクス転回」の答え。 「ものの考え方が正反対になること」などという回答が多い。 が、しかし。いましたね。 「一週まわってもとのようになる事」と書いた奴がいた。あ、「一週」とは、変換ミスではなくて、そのまま写しただけ。二重の間違いなんだけれど、面白い。 「一週間たったら、もとの曜日になるやん」なんか考えとるんかなー。 こんな回答がある、と言ったら、ある先生の証言。 「高校のときに、学年集会があって、主任の先生が、『君たちは変わらねばならない。360度変わらねばならない』と言ったので、一瞬おいて、隣の子と『変わらんでいいいうことかな』と話したことを思い出した。」 ちなみにこの方は体育だったそうで、親近感を感じてしまった。 さて、今日は古文の監督。前で見ていたら面白かった。○一人づつ討ち死にをするクラスかな 開始20分で一人。22分で一人。25分で一人。27分で二人。29分で一挙に五人。30分で二人。32分で二人。34分で二人。37分で四人。38分で二人。39分で一人。40分で一人。41分で二人。43分で一人。 こういう事態は面白いので逐一答案用紙のあまりにメモをする。 最初から最後までずっと起きてカリカリ書いていたのは、10人。 こういうのは、「空の青 海の青にも染まず漂う」なのだ。「わが道を行く」。本当に立派。○答案をきちんと畳み夢の中○答案に時の流れし跡わずか 職員室の隣の席は英語の先生なのだけれど、とにかく日本語がガッタガタであるという点で意見が一致。彼女が、外語の同級生と話していて、英語の時間に、日本語でつまづく生徒たちの多いことを話すと、眼が点になっていたという。 小学校からの英語の早期教育なんかできれば止めて頂きたい、もっと徹底的に「日本語」を鍛えていってほしいと「英語教師の主張」。 米原万理さんのエッセイは私の愛読書だが、とにかく、プラハから日本に帰国された時に、一番驚いたのが、国語教育の貧しさ(時間数と内容と)だったという。 その時から、事態は確実に悪化の方向をたどっている。 少し前に、どっかの県の「教育特区」の事を紹介していた番組を見たことがある。小学校から英語を教えている。誰が教えているのか。小学校の先生たちだ。 これは、「無免許運転」だ。 英会話スクールのCMでありますね、「『えーと』は、いらんっちゅーに!」って奴。 ものを教えるのには、それなりの専門のスキルが必要なので、一朝一夕にできるものではない。それなのに、この県では、先生たちに専門の教育を施したり、研修の機会を保障したり、免許を持った教師を配置するのではなく、小学校の先生たちの努力によりかかって授業をやってもらっている。 日本全国で、子どもが実験台にされている。 小学校の先生たちの負担は限度を超えていると思う。 専科(体育・音楽)を増やす、学級定員を25人とする、10年教師をやったら1年間研修の機会を持てるようにする、事務室の増員を図って集金とか事務の負担を減らす・・・やらねばならない事は山ほどある。 「人間の基礎」を作る仕事だ。「難しい事を優しく、よくわかるように教える」仕事だ。国語も、理科も社会も算数もやらねばならない。「基礎」を教える事が一番難しい。「給食の指導」もある。 そして何よりも、カリキュラムを安定させる事。単なる文科相の役人の思い付きで、「生活科」とか「総合の時間」とか入れるな。 放課後、小学校の先生たちがのんびりと子どもたちと遊んでいる姿が見たいと思う。 私の想い出は、放課後遊んでもらった事だから。 こういうことに腹を立てていると精神衛生上良くないのだけれど、仕方がない。 お昼を食べに行く。近くのラーメン屋さんに、自転車で。エコロジカル・ライフ。 食べていたら、同僚がやってきて、無駄話。 「一日一科目で、十日くらい続いたらいいね」などと、世のお父さん、お母さん方が激怒されそうな話をする。 ちらっと見たら、少し向こうの方に、見た顔が。心療内科の主治医の先生。あれま。 勘定を済ませて出て行くときにご挨拶する。「またうかがいます」。話題が広がるなー。 さて、政経だ。 政雄と経子の対話形式で問題文を作る。カッコの中に適語と、下線部の問いは変わらないが。 ホッブズ、ロック、ルソーの社会契約論、リンカーンの言葉、ファシズム、中国と日本の関係などについて出題。孫文、蒋介石、魯迅と『藤野先生』。 中華人民共和国が成立して後、1972年まで日本とは正式の国交がなく、そのために、いわゆる「残留孤児」の人たちの問題が取り上げられるのが遅れたことも出題。 2008年のオリンピック、2010年の万博の会場はどこか?朝青龍の出身国は?現在のユーロとドルの交換レート。 時事問題は、各国(ロシア イギリス フランス ドイツ 中国 台湾 韓国 日本)の首脳は誰かとか、各国(アメリカ ドイツ タイ 韓国 中国 インド)の通貨は何か、とか。 時事問題は、授業ではよく取り上げるし、2時間に1回の割りでテストを繰り返しているから、そこそこ書いている。 いま、何がおきているのか、どう見ればいいのか、そもそもなんなのか・・。知らねばならない事は山ほどあると言っていい。 世界史Bを一冊仕上げる。生徒諸君のご協力により、大変に○付けは楽であった。ご協力に感謝し、来年度もわが校に引き続きとどまっていただく事を切にお願いいたしたい。
2005.05.25
コメント(4)
世界史Bの試験が返ってきた。 問題を一部だけ紹介する。 1「この時にフランス南部からやってきた義勇兵たちが歌った歌が評判となり、その後、フランス国歌となった。この歌をなんというか?」 2「スペインでの反乱をテーマとして『1805年5月3日』という絵を描いた人は?」 3「『戦争と平和』を書いた人は?」4「『序曲1812年』を作曲した人は?」 5「この時、パリで、祖国の反乱が失敗に終わった事を知り『革命』を作曲した人は?」 6「アメリカにわたった人々のその後を壮大なスケールで描いたマーガレット・ミッチェルの小説の題名と、女主人公(ヒロイン)の名前を書きなさい。」 私のテストは、「文中のカッコの中に適語をいれ、下線部の問いに答えよ」、という標準的なもの。 上に紹介したものは、「下線部の問い」だ。 1は正答率が高い。それ以外はかんばしくない。 6なんか、『大草原の小さな家』『トラップ一家』『ハプスブルクの宝剣』・・。おいおい、それはなんだ。 ただ、デカブリストのところで、「その妻たちの行動は人々を驚かせ、感動を与えた」というところに線を引いて、「彼女たちは何をしたか?」と問うたところ、これは正答率が高かった。 嬉しい! 特に音楽はCD聴かせる必要があることを痛感。もっと時間をとって、プリント使ったり,CD聴かせたりしてみよう。 デカブリストのところでは、感想を書かせてプリントにして紹介したからよく憶えていたんだろう。 6は、いかん!!私の机の横には、ヴィヴィアン・リーのポスターがはってあるというのに、これはいかん。 中間テスト後の授業では、南北戦争をやるから、そこでもう一度やってみよう。 もうこうなったら、一人一人締め上げてでも、憶えさせてやる。 『現代国語』の監督をしていたら、面白い問題が出ていた。 評論文。知る事がどうたらこうたら・・という文章だが、「コペルニクス的転回」という言葉が出てきて、問いには、「どんな意味か答えよ」とある。 世界史で、「コペルニクス」を教えた時に、確かテストに出した事がある。今でも憶えている答え。 「ものの見方が360度変わること」。 丸をつけた。 次の瞬間、・・・・・?????。 えっ、360度って、元に戻っているではないか。 私は、大学受験で、数2まで必要だったので、ノート5冊に矢野健太郎『解法のテクニック』を写して、丸暗記して臨んだ人間だ。 半月後、憶えた事の大半がすでに「何を意味するものだったか定かではない」状態に突入したとはいえ、最初に丸をしてしまった自分が情けない・・。 で、憶えていたのだ。 監督していると、さすがに頑張っている姿を見ることができる。○かりかりと鉛筆の音響きおり ひたと向える生徒(こ)らの顔良き テストが終わって、グランド走ってる奴もいる。○テスト終えグランド走る足軽ろし 明日も監督と、自分のテスト(政経)。
2005.05.24
コメント(14)
月曜日に、試験答案が返ってくる。返ってきたものをシュレッダーに直行させれば問題はない(別の問題は生じるが)のだが、一応職業倫理はあるので、採点はしなければならない。 こういう時は、無性に他のことがしたくなる。 本を読むとか、日記を書くとか、どっかへ遊びに行くとか・・。 時々、学校に放火したりする奴が居るけれど、なんとなく気持ちはわかる(わかるだけだが)。 他にやりたい事があるからと言って、採点をおろそかにするわけではない。そこそこきっちりとやる。いや、きちんとやる。 やらねばならないこと、やりたい事が増えたからといって、愛情や関心が分散し減少するわけではない。 子どもが二人に増えたからといって愛情が半分になるわけではない。愛情の総量が増えることもありうるわけだ。 このパターンで考えると、愛する女性が増えた場合は、愛情の総量は増えるのではないかという仮説を私は持っているのだが、もう夜も更けたので、これ以上考えを進めないこととする。 とにかく、天国とは当分さようならだ。短かったけど・・。
2005.05.23
コメント(4)
『樽』を読んだ。加賀山卓朗訳 2005年の新訳。で、『樽』について書いて見る。 ずっと前から気にはなっていた。ミステリ関係の本を読むと、よく紹介されている。 早川書房が、ハヤカワ・ミステリ文庫創刊15周年を記念して出版した『ミステリ・ハンドブック』では、「読者が選ぶベスト100」の中の46位(1位はアイリッシュの『幻の女』)。「創世期から黄金時代ベスト10」では6位(1位はクイーン『Yの悲劇』)。 ハヤカワは、同じような本をあと二冊出している。『冒険スパイ小説ハンドブック』『SFハンドブック』。 『冒険・・』の方は、新潮社の『シャドー88』を「冒険小説」部門の第三位に入れている公正さだが(1位は『鷲は舞い降りた』)、『SF』のほうは、ハヤカワ偏重という愚を犯している。『渚にて』(創元社)への冷淡な扱いはなんだ!バカヤロー!! あ、話がそれた。元に戻そう。『ミステリ・ハンドブック』の紹介文。 「1920年に出て、凡人探偵とアリバイ崩しの新しいスタイルを打ち出した。・・この作品が黄金時代への開幕ベルの役割を果たした」(「創世期から・・」郷原宏)と評されている『樽』。 500ページほどある。読み始めて、ゆっくり読むことにする。文章を味わいながら読める本だ。P・D・ジェイムズ『皮膚の下の頭蓋骨』以来。 先の『ハンドブック』では、以下のように紹介されている。 「ロンドンのセント・キャザリン波止場ではルーアンから来たワイン樽の荷揚げが始まっていた。突然、吊索のバランスが狂って、重い四個の樽が地面に叩きつけられた。破損した樽を調べていた監督はその一つにワインならぬオガ屑が詰まっているのを発見した。 驚いてこじ開けてみると、樽の中からは、指輪をはめた女の手が現れた・・(以下略)」 『樽』という題名は読んでいくと納得できる。「樽」そのものも「主人公」なのだ。 「樽」のなかから出てきた女性は、以下のように描写してある。 「まだ若い女性だった。襟元と肩が大きく開き、昔ながらのレースの縁取りがある薄いピンクのイヴニングドレスを、上品にまとっている。 豊かな黒髪を小さな頭の上に結い上げていた。指の宝石がライトの光を浴びて輝く。シルクのストッキングをはいているが、靴はない。ドレスに封筒がピンで留められている。」 ここら辺からゆっくり読み始めたと思う。 読んでいくとどうでもいい事が目に入る。「喫煙車両」がある。ということは禁煙車両もあったということか。「公衆電話」もある。1920年のことだ。 先を急ごう。 読んでいて、「ん・・」と引っかかるところが出てくる。最初は、ロンドン警視庁のバーンリーと、パリ警視庁のルファルジュが捜査を進めていくのだが、これがなんとも、さくさくと進んでいく。 そしてこのご両人、これといった特徴がない。 シャーロック・ホームズのような傲慢かつエキセントリックなところはかけらもない。 エルキュール・ポワロのように、「灰色の脳細胞」といった決まり文句、決め台詞も持っていない。 最近で云えば、『モンク』のような、病的な潔癖症といったものもない。 そういう点で言えば、実に平凡。強烈な個性は見られない。 二人は見事な捜査によってある男を逮捕するところまで行く。ここで全体の三分の二。 ここまでで、怪しい男は二人に絞られている。 二人の警部が男を逮捕した理由は、非の打ち所がない。怪しいといえば、証拠が揃いすぎているといったところか・・。 そして最後に、私立探偵が登場して、もう一人の男のアリバイを突き崩していく。これで最後まで行く。この探偵も「個性」はない。 古本屋で買ったミステリの本を開けてみたら、最初のページに「犯人は○○だ!」と書いてあって、ゲッ・・となってしまったという経験談を読んだ事がある(私はないが)が、もしも、そんな目にあってもこの『樽』は読み通せる作品だ。 最後の100ページほどのアリバイ崩しはそれほど見事。 「反証」の例を一つだけ挙げよう。 樽から死体が出現した時に、男は気を失い、そのまま病院に直行して生死の境をさまよう・・となったら、どこから考えても、この男は犯人ではないと思う。私もそう思った。 それに対する反証はこうだ。 「樽の中には、彼が思いも寄らなかったものが入っていた。つまり、彼はまだ生きているように見える夫人を樽の中に詰めたのに、開けた時にはそれなりの日数が経っていた。死体はまったく別のものに見えたことでしょう。だからそれを見て恐怖に打ちのめされた。驚くふりをしなければならない緊張感にその恐怖が加わって、病に倒れたのです。」 なるほど。この考え方を「なんというひねくれ者だ」と見てしまうと、ミステリは読めなくなる。 ミステリ作家となる資質といえば、恐らく物事を多面的に、普通見逃してしまいそうな部分にも眼が行ってしまう(「行ってしまう」のだ、どうしようもなく)ということではないか。 何年か経ってからもう一回読み返してみたい作品だ。その時は、メモとって読むだろうな。 ☆『樽』も、他人様の日記を読ませていただいて読みたくなった作品です。楽しい時間が持てました、感謝いたします。
2005.05.23
コメント(2)
ふと思いついて、角川文庫の『平家物語』に赤線を引いたことがある。 「泣く」というところに焦点を絞って赤の色鉛筆で線を引いた。 あるページなぞ、十数か所に赤線でマークが入った。 とにかく男たちが泣いている。 動機は様々だ。 味方が討たれた、子どもが殺された、見捨てて逃げてしまった自分が情けない、なんと勇敢にたたかうものか、こんな大将の下で働けて幸せだ、別れが辛い・・・、。 ぼろぼろ泣く。袖で目頭を蔽う。「男は泣いちゃいかん!」という決め事がなかったことが分かる。むしろ泣く事が、良い事だった。感情を抑えるのではなく爆発させる事を肯定している。 男は泣いちゃいかんと言い出したのは江戸時代だろう。 こんなヘンな読み方をして後に、柳田国男に「涕泣史談」という小品があることを知り、嬉しかった。 柳田は、泣く事は自己表現の一つであり、泣いてはいけないの一点張りでいいのかと疑問を呈し、「泣く」ことを歴史的に見てみようと言う。(全集第7巻所収) 柳田は兵庫県の福崎の人で、生家は保存されている。 さて、『平家物語』だが、名場面に満ちている。これは、聞き手のリクエストを取り入れた「語り物」であるという性格と切り離せない。 どんな格好して聞いていたのか?地べたに座っていたのか、立ったままで聞いていたのか? 立って聞いている奴に聞かせようと思ったら並大抵の事ではない。気に入らなかったらどっか行ってしまうんだから。座っている奴の方がまだやりやすいだろうが、油断はならない。 琵琶を弾きながら語り、投げ銭をいただくという生き方は、大変な工夫を必要とする。聴衆の求めるところを察知し、だれてきたな・・と思ったら声張り上げて盛り上げる。 緊張が続いたら、ふっと息を抜く・・。しかしあまりに迎合しすぎるとあきられる。むずかしい。 津軽三味線の高橋竹山さんの、「門付け」の話を聞くと、わずかながらその厳しさが伝わってくる。わずかながらというのは、本当に辛かった事は語られていないだろうからだ。 それに、私のような人間には、万分の一も「実感」としてわからない。 ただ、こういうところから生まれた芸は、劇場やテレビで観ているものとは根本的に違うものがあるだろうなということは分かる。 小沢昭一師が、『日本の放浪芸』をまとめて出版されたのは、「このままでは自分たちの芸の原型がなくなってしまう」という切迫した思いからだったとうかがったことがある。昭一師、ただのスケベな、猫背のオジサンではない。 畳み掛けるような口調のよさは、いたるところで味わえる。 「扇の的」。 那須与一が、波に漂う小船に立てられた扇の的を射る、というシーン。失敗したらただではすまない、自害しようという心構えで狙うから、「プレッシャー」などというものではない。 与一は各所の神々に祈り、扇の揺れが小さくなったところを狙いすまして矢を放つ。 「鏑(かぶら)は浦響くほどに長鳴りして、あやまたず扇の要際(かなめぎわ)一寸ばかりをおいて、ひいふつとぞ射切ったる。鏑は海に入りければ、扇は空へぞ揚(あ)がりける。春風に、一揉み二揉みもまれて、海へさつとぞ散ったりける。 皆紅(みなくれない)の扇の、夕日のかがやくに、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬ揺られけるを、沖には平家舷(ふなばた)を叩いて感じたり、陸(くが)には、源氏箙(えびら)を叩いてどよめきけり。」 こうやって写していても、ぞくぞくしてくる。名文、名調子だ。 ところがこれでは終わらない。以下の部分は「古文」の教科書には出てこない。紹介する。 これに感動した平家側は、舟の中から年は五十くらいの男が出てきて舞い始めた。 これを見た源氏は何をしたか。与一は、「命令だ」と言われて、この男を射殺してしまう。この事態に、「やったぜ!」と喜ぶものもいたけれど、「情けない事をするなよ!」という声のほうが多かった、と作者は書き留める。 「射殺せ」と命令したのは誰かって?九郎判官様ですよ。義経。やな奴。 NHK、ちゃんとここは放映するんだろうな。 後半になって、急にその存在が重みを帯びてくるのが重盛。 ここだけは何があっても紹介したいという箇所を以下に引く。 武蔵守を先立たせてしまいました。監物太郎も殺されてしまいました。今は心細い限りでございます。子どもは、親を助けようとして敵に組み付いて奮戦しております。それを見ながら、親としては子を助けるのが当然と思いつつも、助ける事もしないで逃げ去ってしまいました。 これが他人のことであれば、ひどいことをするものだと思うところですが、いざ自分のこととなると・・・本当に命というものは惜しいものでございます。そのことがしみじみわかりました。本当に他人からどう思われるか、お恥ずかしい事でございます。 この述懐は、何度読んでも涙が出てくる。なんという率直さ。人間の生への執着を語ってあますところがない。 この男は、最後の最後まで抵抗をやめない。「運命が尽きたらどんな勇者でも力は及ばない」、と言いつつ、「されども名こそ惜しけれ。東国の者どもに弱気見ゆな。いつの為に、命をば惜しむべき。唯是のみぞ思ふこと」として戦い続ける。「されども」なのだ。 しかし一方で、まさに鬼神の如く戦う能登守教経のところへ、「そんなに罪作りの事をやりなさんな」と使者を送って言わせている。ヘンな奴。 この矛盾。運命を受け入れつつもそれにあらがうという人物像は、『平家』のなかでも一際心に残る。ギリシア悲劇にも通じるものがある。 最後は、非戦闘員である舵取りたちまで義経の命令によってことごとく殺害され、舟のコントロールもできなくなった状態で、敗北を確信した知盛は何をするか。 掃除をしてまわっている。掃いたり、雑巾がけしたりしている。「見苦しいものがあってはならない」という美意識だ。 そして、「見るべきほどのものは見つ」とのセリフを残して入水する。 「見る価値のあるものはすべて見てしまった」と言えばいいのか。 彼は平家一門として、平家の急速な成り上がりかたを見た。「平家にあらずんば人にあらず」との言葉にそれは象徴される。 源氏の台頭と、平家の軍事的敗北。西国への逃亡とその途中での様々な人間模様。何よりも息子たちを見殺しにした己の不甲斐なさ。なぜここまで生き残ってしまったか・・という慙愧の念。 まさに千鈞の重みを持つ言葉と言えよう。 そして平家は、六代が三十歳で斬られ、「平家の子孫は長く絶えにけり」と『平家物語』は、終わる。 源氏の子どもたちが、「可哀想だから」との池の禅尼の言葉で助けられたのとは相違する。源氏は、教訓を学んでいる。自分たちは助けられたからこそ平家を滅ぼす事が出来たのだ。 高尾の奥で修行していた六代は「たとえ頭を剃っても、心は剃れないだろう、なにしろあの方の子どもだから」という理由で殺されるのだ。 道案内の本としては、『平家物語』石母田正 岩波新書 が、今に至るも最高と信じる。 ☆ブログを始めて良かった事の一つが、人様の文章を読ませていただいて、映画が観たくなったり、本を読みたくなったり、料理を食べてみたり作ってみたくなったり、音楽を聴きたくなったりすること。 これはそんな文章の一つです。あー、書いてて楽しかった。
2005.05.22
コメント(11)
えー、あれから、「The」を「ジ」って読むのがないかなーとつらつら考えていたら、一個だけ引っかかってきました。 ラムゼイ・ルイスの『ジ・インクラウド』。後が続かない。
2005.05.21
コメント(2)
試験の初日。ついでに出張も入っているので、お昼になったら学校をあとにして一路、「食べ物やさん」へ。 さて、何を食べるかな。この、考える瞬間が楽しい。今回は簡単に決定。「玉子焼き」。 「たこ焼き」と「玉子焼き」とは違う。 ここで、事情を知らないものはざわめく。(「えっ、違うの」「おんなじだと思ってた」云々。) そしてさらに思うのだ(ここは、思わない人も「思う」箇所なので、是非とも思っていただく)、「玉子焼き」って何なの・・。 そう思っていただいてこそ、初めて説明のしがいがあるというものだ。「玉子焼き」と聞いたら、卵を溶いて、フライパンに流し込んで・・という風にイメージするのが普通なのだが(うちはフライパンではなくて、専用の玉子焼き器を使っていると言いたい人は黙ってなさい)、ちっちっちっ・・・そーじゃあねーんだな。 「玉子焼き」は、「明石焼き」ともいう。 普通、「たこ焼き」というのは、メリケン粉をゆるく溶いたものを「たこやき器」の中に流し込んで、中心にぶつ切りの蛸を入れて、くるくる回しながら焼いていく。地域によってはここに紅しょうがを入れたり、青海苔をふりかけ、ソースを塗って食べる。 固くしっかり焼く事が多い。祭りの屋台なんかではとくにそうだ。 落としたら、床ではずんで手元に戻ってきた・・ということはない。それじゃあ、スーパーボールだ。そこまで固くはない。 玉子焼きは、ふっくら仕上げる。生地の中には、たこ焼きよりも多めの卵を入れる。そして、これが最大の違いだろうが、「だし」で食べる。 焼きたての玉子焼きを、熱いだしの中に入れて、口に入れると、「アヒアヒ・・」となる。これが美味い。 私が住んでいるところの近くにある「玉子焼き」屋さんは、二年連続、「明石焼き大会」で優勝している。でも、気取ったところも、「名店」的な雰囲気もない。 改装もしていないから、メニューなんかほとんど壁と一体化している。 「優勝」という賞状がひっそりと飾ってある。 「時々、矢も盾もたまらず食べたくなるもの」を、私はひそかに「ソウル・フード」と名づけている。この定義で行くと、「玉子焼き」=「明石焼き」=、私のソウル・フードという事になる。 「ラーメン」とか、塩鱈の干物なんかは、無性に食べたくなるときがある。 「ウニ丼を食べないと死ぬ」とか、「鯛の刺身がないと此の世は終わりだ」といった事態にはなった事がないから、私のソウル・フードは安上がりだ。 関西の人間数名の中に、他地域(東北出身者だったと記憶している)の人が混じって、以下のような話になった。 「なーなー、関西の人って、主食がとかだって、ホント?」 「それはないわなー。何ぼ好きでも、それはないで。」 「ならなー、関西の人の家には、一家に一台『たこやき器』があるってホント?」 「えー、それもガセやで。」 「何ぼなんでも、一家に一台はないわなー。」 「えっ、俺とこあるで。」 「ウチも。」 「うっそー、うちもあるわ。」 「全員あるいうことかい・・。」 事実は、小説より奇なり。ちなみに、ある男の家庭には、二台あったから、平均値を取れば、「関西人の家庭には、『たこやき器』は、1,2台ある」ということになるやもしれない。 『たこやき』熊谷真菜 講談社文庫 という本がある。親本はリブロポートから93年に発行されている。文庫本になったのは98年。 著者は、立命館大学の卒論を契機にたこ焼きの調査を開始、日本唯一のを名乗っている。 名乗っているだけあって、この本には、たこ焼き、玉子焼きの違い、その発祥と展開、現在と展望がぎゅっとつまっている。 こういう卒論を認めた立命館は中々良い大学だ。
2005.05.21
コメント(12)
テレビを見ていたら、映画の新作の宣伝をしている。 「ザ・インタープリター」。二コール・キッドマンとショーン・ペン。 なんか変だと思いません?えっ、思わない?気づかない?えーっ、おかしいなぁ。 中学の時に、「母音(「ぼいん」って良い響き)の前に、「The」が来たら、「ザ」じゃなくて、「ジ」って読め」って習いませんでした? 「ジ・インタープリター」なのになぁ。 何でこんな事に眼が行ったのかというと、『ダーリンの頭の中』という漫画を読んだから。『ダーリンは外国人』小栗左多里・メディアファクトリー の第三弾。 絶対に「ジ」にしなければならないなんてことはない、と書いてある。 ネイティブがそう言ってる。では、中学ん時に、「こうです!」って習った事は? この本には、そんな「あれれ」がつまってます。おもしろい。
2005.05.20
コメント(8)
「食い物にする」⇒「そこから利益を得ようとして利用する事」 ジョナサン・スウィフト(1667~1745)という人がいる。『ガリヴァー旅行記』が代表作。 一番最初の「小人国(リリパット)」のお話なんぞは子供向けの本によく収録されている。しかしこの作品は本来は、子供向けの本などではない。最後の「ヤフー」などは、読んだら人間が嫌になるというお話で、私など、斜め読みをして、深く考えることなく終わったから良いものの、まともに「人間とは何か・・」なんて事を考え始めたら、枝振りのいい松の木を探すハメになるところだ。 日本のことも、ちょこっとだけ出てくる。エドに行き、ナンガサク(長崎?)まで旅をして、踏み絵を踏まされそうになって・・とか。 ちょっと前に、『ガリヴァー旅行記』は有名になった。 そう、『天空の城ラピュタ』だ。その中に、「スウィフトの『ガリヴァー旅行記』の中に・・」という部分があったから、ほうほう・・と読んだ人もいたかもしれない。 空飛ぶ島には沢山の人間が住んでいる。数学と天文学に没頭するあまりに実用方面は滅茶苦茶で、家などは壁がゆがみ、直角になった隅がどこにもない・・。妻はほったらかしにされるので浮気に励んで元気が良い。 地球は今に太陽に飲み込まれてしまうのではと本気で心配して夜もおちおち眠れない・・。 ヘンな連中だ。ロボットは出てこない。 さて、「小人国」があれば、「巨人国」があるのは理の当然だ。しかしこれはお子様向けにはならないだろうと思われる話だ。 スウィフトは視点を変える。小人たちの中の巨人としてのガリヴァーから、巨人たちの中の小人としてのガリヴァーへと。こうなってしまう。 「なにしろ(乳房は)六フィートばかりも聳え立ち、周囲はこれも十六フィートはあったろう。乳首はざっと我輩の頭の半分くらい、しかも乳房全体にかけて、あざやら、そばかすやら、吹き出物で、それはひどい斑点だらけだ。」 「近くからでも見てみたまえ、皮膚はざらざらで、凸凹だらけだし、色がまた斑点だらけと来ている。それに丸盆大のホクロがあちらこちらにあって、しかもそれから、紐にまだ輪をかけた太い毛がぶらぶら下がっているのだ。」 虫眼鏡で見た人体の描写だ。こういうところへ目をつけて、細密描写をはかるのは、さすがというか・・。並みの文章力で着ない。 そして、ガリヴァーは、自分も小人国の人たちからはこう見えただろうというところへと思いを致す。「私だけ例外」ではないのだ。 『ガリヴァー旅行記』は、1726年、スウィフトが59歳の時の作品だ。彼はアイルランドのダブリン生まれ。溢れんばかりの自尊心と野心を持ちながらその実現に失敗すると、毒舌と嘲りの世界に没入する。『ガリヴァー』はこのようにして書き上げられた。 そして、その3年後の1729年に、長い長い題名を持った短文が書かれる。 「貧家の子女がその両親並びに祖国にとっての重荷となることを防止し、かつ社会に対して有用ならしめんとする方法についての私案」。文庫本で12ページ。『奴婢訓』岩波文庫。 イギリス政府の政策によって窮乏と悲惨の極にあったアイルランドを救うためにスウィフトはさまざまな努力を行うが遂に稔らず、この短文を書いた。 どんな案なのか? 「ロンドンで知り合いになった大変物識りのアメリカ人の話によると、よく育った健康な赤ん坊は丸一歳になると、大変美味い滋養のある食物になる。シチューにしても焼いても炙ってもゆでても良いそうだが、フリカシーやラグーにしてもやはり結構だろうと思う。」 ん???? 「乞食の子供を育てる費用は、一年約二シリングになる。ところで、よく肥えた赤ん坊一個に十シリングを出し渋る旦那はあるまいと思う。特別の親友を呼んでの宴会とか、家族だけの食事なら、赤ん坊一個で滋養のある上等の肉料理が四品も出来るのだから。」 「始末屋は、殺した赤ん坊の皮を剥ぐと良い。上手に加工すると、淑女用の立派な手袋、紳士用の夏靴ができる。」 「亭主は亭主で、妊娠中の女房にやさしくなる。子を孕んでいる雌馬や雌牛、お産の近づいた雌豚を現在可愛がっているように。早産を恐れて、女房を蹴ったり、蹴飛ばしたりはしなくなるだろう(現在はざらにある習慣なんだが)。」 「私自身としては、数年来空しい無駄な空想的な意見を提出する事に疲れ、遂に成功の望みは全く絶つに至ったのだが、幸いにも上に述べた私案を思いついた次第で、これは全く新着想であるから、これこそ真に本物と感ぜられるところがある。 費用はかからず、骨は折れないし、全然我々自身の権限内のことで、イングランドに迷惑を掛ける心配も絶対にない。 赤ん坊の肉は輸出に不向きだからである。あまりに柔らかく、形が崩れ易くて長期の塩蔵に堪えないのだ。 もっとも、塩蔵なんかにしなくても、わが国民をそっくりそのままみんな食い尽くそうとしている国があることは私にははっきり分かっている事なのだが。」 「私のすすめているように、丸一歳の時に食べ物として売られて、その後経験する数々の不幸の連続を避けたほうが幸福ではないか。地主の暴虐に苦しめられ、金も仕事もなくて地代が払えず、食べ物もなく着るものも家もない。この惨めな暮らしを永久に続けていかねばならない、これでも生きていた方が良かったといえるのか。」 「ブラック・ジョーク」という言葉が、後も見ずにはだしで一目散に逃げ出すような文章だ。ふざけて書いているとは到底思えない。大真面目に真剣に書いている。文才と表現力、想像力が見事に結合している。 スウィフトは、1745年、ダブリンで78歳の生涯を終えた。晩年は痴呆状態に陥り、耳も聞こえなくなった。 言葉を発する事も困難となり、記録されている最後の言葉は、召使を呼んで何かを言おうとしたが言葉が出てこず、苦悶したあとで出てきた、「阿呆だ、俺は」だという。 漱石は、「人類はスウィフトの為に自尊心を傷つけられた」と書いた。「美しき人、美しき花、美しき空と水と衣装を泥だらけにされるが故に不愉快」と書いている。 よく読んだから言える言葉だ。 『狂人日記』のなかで、魯迅は、 「四千年来、絶えず人間を食ってきたところ、そこにおれも、なが年くらしてきたんだということが、今日わかった。・・・四千年の食人の歴史を持つおれ。・・真実の人間の得がたさ。・・人間を食った事のない子どもはまだいるかしらん。子どもを救え・・。」と書いた。 魯迅はスウィフトを読んだのだろうか。調べてみたい。
2005.05.20
コメント(4)
{家主近影} ツルゲーネフの作品で、『猟人日記』という中短編集がある。 その中に、「歌うたい」という20ページほどの短編がある。およそ、味覚の描写と音楽の描写は難しいと言われているが、この一篇はその白眉だとおもう。 例によってさわりだけ紹介したい。 「彼は深く息を吸って、歌いだした・・彼の声の最初の音は弱弱しく、みだれがちで、彼の胸から出たのではなく、どこか遠くのほうから漂い流れてきて、偶然に部屋の中へまぎれこんだかと思われた。 この鈴を振るようなこまかくゆれる音は、わたしたち一同に奇妙な感じをあたえた。わたしたちは顔を見あわせたが、ニコライ・イワーノヴィッチの女房はきっと居ずまいを正した。 この最初の音のあとに、もう少し強い伸びのある音がつづいたが、やはりまだふるえがのこっていて、さながら強い指で不意にかなでられた弦が、まさに消えようとして、最後の音をふるわすに似ていた。 つづいて第三の音に変り、そしてしだいに熱をおび、ひろがりながら、悲しげな歌が流れはじめた。 『野の道はひと筋ならで』、彼は歌った、するとわたしたちは甘くせつない思いに胸が閉ざされはじめた。正直のところ、わたしはこのような声をほとんど聞いたことがなかった。 それはわずかに割れていて、なめらかにつながらないように聞こえた。はじめのうちは何か痛々しいひびきさえあった。しかしそこには、まやかしのない深い情熱と、若さと、力と、甘さと、なんとなく心を魅するようなのびやかな、幼い哀愁とがこもっていた。 ロシアの、真実の、熱い魂が、そこにこもり、そして息づいていて、聞く者の心にしみ入り、その心の中のロシアの弦にじかにふれた。 歌はしだいに大きくひろがりわたっていった。ヤーシカは、明らかに、陶酔にひたりきっていた。彼はもう臆するところがなかった。全身をおのれの幸福にゆだねた。声にはもうおののきはなかった。 ふるえはあったが、それは内に秘めた情熱のそれかあらぬかすかなふるえで、矢となって聞く者の心に突き刺さりながら、声はたえず強まり、ひろがっていった。 わたしはふと、ある宵、はるか遠くに、にぶく、おもおもしくざわめく引き潮の海のひろびろとした干潟に、一羽の大きな白い鴎を見たときのことを思い出した。 鴎は白絹のようなつややかな胸を真っ赤な夕映えに向けて、じっと動かず、ただときおり、なつかしい海原と、沈もうとする真っ赤な夕日に、長い翼をゆっくり張りひろげるだけであった。 わたしはヤーシカの歌を聞いているうちに、この鴎のことを思い出していた。 彼はもう競争相手のことも、わたしたちのこともすっかり忘れて、陶然と歌っていた。しかし、勇敢な泳者が波につきあげられるように、わたしたちの無言の熱烈な共鳴によって意気を高められていたことは明らかである。 彼は歌った、そしてその声の一つ一つの音色から、まるでなつかしい荒野がはるか遠くまで果てしないひろがりを見せて眼前にひらけたように、何かなつかしい、はかり知れぬ広いものが吹きかよってきた。 わたしは胸がじいんと熱くなって、涙がこみあげてくるのを感じた。おし殺したようなかすかなすすり泣きが不意にわたしを驚かせた・・・・振り向くと、おかみが胸を窓におしあてて、泣いていた。 ヤーシカは、そちらをちらりと見やると、ひときわ高く、ひときわ甘く歌いだした。ニコライ・イワーヌイチがうつむいた。パチクリが顔をそむけた。野暮天は、すっかりほろりとなって、口をぽかんとあけてつっ立っていた。みすぼらしい百姓は隅っこのほうでそっとしゃくりあげながら、めそめそ何やらつぶやいては頭を振っていた。 猪旦那の鉄のような顔を、ぎゅっとひきよせた眉の下から、ゆっくり大粒の涙がつたった。請負師はかたくにぎりしめた拳を額にあてたまま、身じろぎもしなかった。もしヤーシカが高い、異常に細い音で、まるで声が切れたように、不意にふっと歌を切らなかったら、一同のこのやるせない思いがどういうことになっていたか、わたしには見当もつかない。誰も声をたてず身じろぎもしなかった。 また歌いだしはしないかと、みんなが待っているかに思われた。彼はわたしたちの沈黙にびっくりしたように、目をあけて、いぶかしげに一同を見まわした。そして自分が勝ったことを見てとった。」 新潮文庫『猟人日記』工藤精一郎訳。 ゆっくりと、声に出して読んでいただきたい。文章を読むという事に伴う快感があると思う。 ソビエト連邦は、1991年に解体した。そしてそれと共に、「ソ連」「ロシア」と名のつくものは日本では投げ捨てられた。 ソビエト教育学も、ロシア文学も。 で、何が残ったのかな・・。。 小説を書く人が、頭の片隅でロシア文学への憧憬を持っているかどうかは大切な点ではないかと思うのだが、そういった人が減っていくという事が進行するだろう。 インノケンティウス・スモクトゥノフスキーという名前は発音し難いかも知りないが、ソビエト映画の『ハムレット』は観てほしい。 アンドレイ・ボルコンスキイ、という名前はいかめしいが、『戦争と平和』は、やはり名作だ。 アレクセイ・フョードロウィチ・カラマーゾフという名前にいつか親しみがわいてくるから、『カラマーゾフの兄弟』を読んでほしい。 貴族のお嬢さんが、夫の後を追って流刑地に行き、恩赦までの30年間をそこで暮らすといったことが起こった国はロシア以外に寡聞にして知らない。 そんな国の文学を、捨てて顧みないのはもったいない。ひたすらそう思う。
2005.05.19
コメント(4)
朝日新聞を読んでいたら、梅原猛さんが「教育勅語は日本の伝統には沿っていない」という主旨の一文を書いておられた。 伝統とは何か? 「新入生は、ここで一気飲みするっていうのが、うちの部の伝統なんだよね」 「新入社員は、部長とデュエットするっていうのがうちの会社の伝統なんだからね」 などというずいぶんと底の浅い「伝統」もある。こういう「伝統」は、「なぜ?」という疑問を許さない。まず、判断停止して、しかる後に従え・・となる。 辞書にはどう書いてあるか。 「昔から受け伝えてきた、有形・無形の風習・しきたり・傾向・様式。特に、その精神的な面。」『岩波国語辞典』 こうなると、「『昔』っていつ頃からなの?」と、落語に出てくるこまっしゃくれた子どもと同じように訊ねてみたくなる。 大規模に「伝統」が作り上げられた時代がある。明治だ。 明治時代は二面性を持っている。前代の「江戸期」を否定して、古いものを排除してヨーロッパの近代(と判断したもの)を取り入れようとした時代であり、同時に、「天皇」というものを押し立てて、「古来からの伝統」というシロモノを急速に作り上げようとした時代でもあった。 どだい無茶をしたもんだと思う。短期間で「伝統」を作ろうとしたのだから。 結果として「贋造」という手法をとることとなった。ニセモノ作りだ。 少し以前に、贋物の「円空仏」が出回ったことがあったそうだ。モノの本によると、古い電信柱を使って「時代」をつけたという。 天皇についての、「万世一系」という概念は、すでに江戸期にフィクションだと断定されていたが、その事実は伏せられた。また、「日本は天皇が統治したもうた神国」というフィクションも作り上げられた。 第一、江戸時代に、一般庶民で、京都に「天皇と呼ばれている人」がいるということを知っていた者は皆無であったとまでは言わないけれど、ごく少数だったろう。武士の中でも少なかったと思う。世論調査をしたわけではないが。 明治という時代は、とりあえず、「江戸期」を否定し、「江戸期」を「暗黒時代」と描き、「ご一新」「維新」のありがたさを説くというフィクションから出発している。 堀田善衛という人が、以下のように書いている。 明治憲法を作り上げたのは伊藤博文だが、彼が直面した問題が、「国家の機軸」を何に求めるかという問題だった。 ヨーロッパには宗教というものが在るが、日本はない。仏教は以前はその地位にあったが今は衰えて昔日の姿はない。神道は、なるほど昔からの教えではあるが人々の心を捉える力は持っていない。 そしていきなり結論を出す。「わが国に在て機軸とすべきは独り皇室あるのみ」 「皇室なるものが、長期にわたってかくまでの重い、過重な負荷に堪えるものであるかどうかの瀬踏みなども一切なしで、短絡的にそこへ行ってしまうのである。 同時に、文化担当者としての日本の皇室なるものも、後鳥羽上皇の隠岐島流刑以後は、まったく仏教同様に『衰替』してしまっていることにも、認識を全的に欠いている。 足軽出身の伊藤俊輔が博文になり、内閣総理大臣、公爵、枢密院議長になったりするとかくの如きことになるのか。」 「かくて1889年2月11日にこの憲法が欽定憲法として国会の評議も何もなしで一方的に公布され、2月15日、全国の府県会議長に向って伊藤が『将来如何の事変に遭遇するも、日本に於いては開闢以来の国体に基き、上元首の位を保ち、決して主権の民衆に移らざることを希望して止まざるなり。』とこの一点を強調し、これに蔽いかぶせるようにして、1890年、教育勅語なるものがこれまた一方的に発布されて、体制は完結するのである」『日々の過ぎ方』ちくま文庫「広場と明治憲法」 ある評論家によって「粉屋の娘」といわれた美智子さんが結婚して、「ミッチー・ブーム」が来た。その後、結婚当初のふっくら、ぽっちゃりとした容姿はどこへやら。 雅子さんも今のような有様だ。なぜ、「平民」に、こんな事を強いるのか。 「過重な負荷」といえないか。 「開闢以来の国体」などは存在しない事は、すでに、江戸時代の歴史研究のレベルで実証されていた。それを封殺し、偏狭な「国学」を祭り上げて、フィクションを作り上げたのが明治政府だ。 ある日電車に乗っていたら、子どもを抱っこしたお母さんが乗ってきて、席を譲ってあげよう・・と立ったら、愛子さんだった・・・という状態が早く来れば良いなと思う。 伊藤の言に反して、「主権は民衆に」移った。 そうなると、「開闢以来」だの、「万世一系」といった明治に作り上げられたフィクションから、天皇家の方々を解放して差し上げたら・・と思うのだ。 そうなって困る人はいるのか?私は困らないけど。
2005.05.18
コメント(6)
フロントには、「7時に起こしてください」とお願いしてあったので、きっちり電話が鳴る。部屋の電話でモーニングコールが設定できるのが通常かと思っていたら、ここではフロントで設定しているようだ。 夜に、「明日の朝はどんな食事かな」という話になる。朝食会場は庭に面した伝統のある部屋。畳敷き。もちろんバイキング形式ではないだろう。 「ご飯と味噌汁、焼き魚と海苔、卵、それと漬物ぐらいかな」、という線で落ち着いた。 7時ちょっとに布団から這い出して風呂に。朝風呂もいいもんだ。○朝風呂を眺め流るる皐月雲 さて、朝食。六角形の塗りの二段重ねの重箱が置いてある。汁物とご飯は後で来る。 蓋を取ると、小鉢が並んでおり、温泉卵、漬物、豚の角煮のあっさり風、サラダ、和布の茎の塩漬けなどが入っている。 一つ一つつまんで食べる。 少し以前ならば、量が少ない!こんな鳥のすり餌みたいなものが食えるかー、女将を呼べー!・・と、『美味しんぼ』の、海原雄山みたいになったところだが(あくまで想像だけ、やったことはない)、今はこんなチマチマした盛り付けが楽しく、量も適当。 満足して、ロビーでコーヒーをいただく。これもおいしい。 そうだ、「水、水菜、女、染物、みすや針」ではないか。京都は水がいいんだ。コーヒーが美味しいはずだ。 400円で自転車をレンタルして、まずは大覚寺に。入り口付近には、嵯峨御流の本家だけあって、見事な枝振りの地を這うような松と、生花が展示してある。 残念ながら修理中のところも多く、拝観できなかった場所もあるが、じっくりゆっくり見て廻った。 宝物殿に入る。厨子の中で愛染明王の眼が光っている。鎌倉時代の作品だから眼は水晶で作ってある。「玉眼」という。鎌倉時代になって採用された技法だから、平安時代の仏像は厨子の暗闇の中では表情が見えにくい。 鎌倉期の人物画(例えば「源頼朝像」)のリアルさは飛びぬけているし、仏像(東大寺の仁王尊)の表現も素晴らしい。鎌倉新仏教の出現といい、もっと勉強してみたい時代だ。 毘沙門天立像がある。像高53センチ。右手を腰に当てて、左手で武器を持ち、邪鬼を踏みつけている。53センチ・・・こんなボディーガードがいたら楽しいだろうな、と想像する。見ていておかしくなるくらい可愛い姿だ。邪鬼や、乗っている台の高さも含めての53センチだから、ご本尊は40センチくらいだろう。バッグに入れて持ち運べる。ピンチになったら助けてくれる・・、いいなぁ。 旧嵯峨御所であるからか、御霊殿には、大正天皇や昭和天皇の位牌が安置されている。 どこを歩いていても香の香りがたちこめている。 その後、嵯峨野散策。自転車で竹林を駆け抜ける。 昼食は、渡月橋近くの「ボデゴン」というスペイン料理の店で。昼の1000円の定食。スパニッシュオムレツとスパゲティ、サラダ。これでコーヒーがついていたら・・・。でもおいしかった。 店内にはポスターが貼ってある。「ボデゴン」というのは、スペインの有名なお店かなにかのようだ。スペイン語は(ではなくて、「スペイン語も」)分からないので、あくまでカンだが。 嵯峨野トロッコ列車に乗る。以前乗ったときよりもグレードアップしている。車両の数も増え、指定席になっている。保津川が綺麗に見えるスポット、特に保津川下りの船と出会うあたりでは停車して、写真タイム。舟からも列車からも手を振り合う。 車掌さんによる沿線の解説も入り、最後は、『北国の春』『孫』などの熱唱もあるサービス振り。仕事熱心なのか、趣味なのか・・両方かな。 山腹に、木が植えてあって、名札がついている。「金婚式記念」とか、「○○の想い出の為に」とか書いてある。どんな由来だろう、調べてみよう。 亀岡まで往復で50分の旅。快晴に恵まれて、風も心地よい。 下車して後、清涼寺近くの森嘉に行く。豆腐屋。絹ごし、ヒリョウズ、新発売「からし豆腐」を買う。これを下げて帰って、夕食で賞味する。甘くておいしい。 「からし豆腐」は、丸い形に整えた豆腐の中心に和辛子が練りこんである。鼻にツーンと来て、花粉症なんか吹っ飛びそうな勢いだ。私は辛いものには眼がないので、美味しくいただいてしまった。 森嘉から、阪急嵐山に行く途中で、バラの花が咲き誇る喫茶店を見つけて、入る。日本人として初めてイギリスのバラ展で優勝したという方がやっておられる店。同好の士の集まりなのか、バラの花の写真をとる人、スケッチする人、批評する人。 ローズティーをいただく。ほっこりする味だ。 帰ってきたらさすがに疲れた。 それでも、ご飯をおいしくいただき、「森嘉」の豆腐を食べ、紅茶を飲むと、さて、明日もぼちぼちやるか・・・という気になる。 みんなが働いているときに、のんびり遊んできてしまった。また、こんな機会があったら良いな。さて、今度はどこに行こうかな・・。
2005.05.17
コメント(8)
日曜の9時に家を出て、JR、地下鉄、叡山鉄道と乗り継いで、鞍馬着は12時。叡山鉄道の沿線には、京都精華大がある。確か日本で始めて「漫画学科」を置いたところ。チャレンジ精神に満ちている。ヨシトミ・ヤスオさんだったと記憶している。 他、ダライ・ラマの講演とか、ウォーラーステインの講演を聞きに行ったこともある。 京都産業大もある。 沿線の山ツツジが美しい。 じわじわと標高が上がっていく。 鞍馬着。「神山」というお店で食事。 私は「山菜炊き込みご飯」。妻は「ウナとろ丼」。ウナ丼に、ダシでといたトロロをかけるという食べ方。中々挑戦的で良い。標高が高いせいか、値段もやや高め。 駅近辺のお店で、少し買い物をして、いよいよ鞍馬寺へ。 義経関係の史跡が多い。義経に兵法を教えたという鬼一法眼の史跡もある。美輪明宏さんは適役だった。 由岐神社。鞍馬の火祭りが行われる場所だ。大きな杉のご神木がある。 下界ではとっくに終わっている藤の花が満開。ツツジも満開。さすがに山の上だ。 ここから歩く。ひたすら歩く。これでもかというくらい石段がある。上り終えて、やれやれと思っていると、「こんなもんやおへん・・」という感じで、また石段。修行と思って歩く。 所々湧き水があり、喉を潤しつつ歩く。 鷺草だろうか、見事な群落を作っている。 ○二の腕の白さまぶしき鞍馬道 ○数百段登りて見える景色あり ○鷺草に風渡りけり鞍馬山 うす曇ではあったが、歩いているとさすがに暑い。女性も、半袖姿が目立つ。夏だな。 「牛若丸の背くらべ石」を過ぎると、木の根道が始まる。杉の巨木の根っこが地面に露出して、木の根道となっている。結構沢山の人とすれ違う。貴船方面から鞍馬に向う人たちだ。 中に、「今日は!」と元気に声をかけつつ歩く一団とすれ違う。風体からすると、山歩きのサークルなのだろう。もちろん、元気に「今日は!」とかえす。これが気持ちが良い。山歩きの楽しみの一つと言っていい。 ヘンな服装の人がいた。背広に革靴、かばん持ち。・・でも、バテた様子もない。賽銭を集めて廻っている銀行員なのだろうか?あんな人を初めてみた。しばしその話題が続く。 実は、貴船の駅で降りる人がいたので、妻に確かめると、「貴船から鞍馬は、健脚向き」なのだそうだ。いやー、降りないでよかった。 妻は、自分の体重を重力に逆らいつつ押し上げる作業(別名、「山登り」)をやっているのだが、実に辛そう。これが貴船から・・・となると、想像もつかない。 貴船からのコースは確かに「健脚向き」だ。やっと、奥の院、「魔王殿」に着く。名前が良い。下りは下りで、「膝が笑う」という状態になる。 川のせせらぎ、人の声が聞こえるようになる。貴船の「川床」が近いのだ。 ついに、「下山」。貴船神社にまいる。 帰り道、喫茶店に入って、抹茶とグレープフルーツジュースを注文。喉が開くとはこのことだ。 叡山鉄道を降りて、地下鉄で三条へ。妻の買い物の為。 三条の商店街に入ってすぐのところに、「みすや針」の店がある。みすやビルの間の道を通っていくと、小さな店があった。小さなバラや蛙をつけたまち針が子どもにも人気のようだが、本領は「針」だ。 「もめん針」だけでも、「溝大づなし」「大づなし」に始まり、「三ノ二 もめんぬい」「小もめん」まで14種類。種類が違うという事は用途が違っていたという事だ。すごい文化があったんだと思う。 針は妻が自分で使うのと、友達へのお土産用。 「三條本家みすや針」 http://www.misuyabari.jp/ 「水、水菜、女、染物、みすや針、お寺、タケノコ、うなぎ、マツタケ」 これは、「京の名物」を読み込んだ言葉なのだが、ちゃんと入っている。「荷物にならない良質の京土産」として重宝されたという。 ちなみに、奈良は「大仏に鹿の巻き筆、あられ酒、春日灯篭,町の早起き」。最後の「町の早起き」は、落語の『鹿政談』の枕となっている。 私は、通りの店の一軒で、猫の小さな人形を買う。手招きしている猫。旅に出た時は買うようになった。もう五個ほどある。 ここで阪急に乗り換えて、嵐山まで。 渡月橋からすぐの「花の家」に泊まる。明日は嵯峨野散策。
2005.05.16
コメント(2)
昨晩(5月14日)、妻と話していて、「どっか行こか」という話になった。 日曜から月曜にかけて。 土曜日は保護者会で出勤し、一日働いたので、月曜は代休。 あれこれ話していて、「鞍馬」という地名が出てきた。 というわけで、「鞍馬」に突発的に行ってきます。 宿はかなり離れてるけど、嵯峨野。 報告は、帰ってきてからということで。 ではでは・・。
2005.05.15
コメント(4)
甲子園で、セ・パ交流戦、「阪神vs楽天」をやっていた。5対1で阪神が勝った。私は、弱い方に味方することも多いのだが、この際、そんな事は言ってはおれない。「弱いものいじめ」といわれても良い。 川上憲伸の怪我は心配ではあるが、龍がこけてくれているので、一つでも星を稼がねばならない。背に腹はかえられないとはこのことだ。 しかし、すごかった。スタンド全部阪神ファンか・・というくらい。楽天の選手は怖かっただろうなぁ。 楽天のファンは・・・あれっ、どこにいったんだろう・・。 ある筋からの情報では、楽天のファンは、スタンドから密かに別室に連行されたらしい。そこで、椅子に座らせられて、手と足をロープで縛られて、「六甲颪(ろっこうおろし)」をボリュームを最大にしたヘッドホンで聞かされたらしい。 悶絶して苦しむ楽天ファン。 で、これを数回繰り返した後に、ヘッドホンを外して、訊ねる。 「どない・・・?」 ここで、「すみません、私が悪うございました・・・」と悔い改めると、また別の部屋に連れて行かれる。 その部屋には、楽天の田尾監督の写真が、床にばら撒いてある。 「踏め・・・」 で、踏むと、釈放されて、フーセンを渡され、タイガースのユニフォームを着せられて、ライトスタンドに送り込まれる。ここで、選手一人一人の応援歌と、国歌『六甲颪』の特訓を受ける。 「ふ、踏めません・・・っ」となると、またヘッドホンが待っている・・・。 この部屋には、堀内、落合、山本・・・などの顔写真のストックもある。 日本の総人口1億2765万人のうち、阪神ファンを、1億2000万人と仮定すると、あと765万人を部屋に連れ込んでヘッドホン・・・とやれば良い。 ま、これで、懸案となっている「国旗・国歌」問題も四方・八方・東南東まで含めたら十六方、丸く収まる。国旗はタイガース・フラッグ、国歌は「六甲颪」。 各家庭には、タイガースの現監督と,前監督の「御真影」を飾らねばならない。また、国民の祝日には、各家庭の玄関先には国旗(タイガース・フラッグ)を飾り、家族揃って「六甲颪」を斉唱する事を義務づけたい。 憲法の条項には、第0条「日本国民はすべからく阪神ファンである事」という条項を置き、付帯事項として以下の項目を付け加えたい。 一、定期的に、「ファン改め」を町内会の権限で行う事。その際、他チームの監督、ならびにスター選手の顔写真を「踏絵」として使用する事。二、万が一、阪神ファンになりたくないという者は、日本国籍を剥奪し、中日ファンは外郎(ういろう)を満載した小船に載せて国外追放とする。 広島ファンは、紅葉饅頭、横浜ファンはシュウマイ、巨人ファンは、等身大の「ナベツネ人形」、ヤクルトファンは、明治ブルガリア・ヨーグルト(単なる嫌がらせ)を満載した舟で追放する事とする。三、各学校においては、公立・私立を問わず、朝の始業時に、生徒全員に「六甲颪」を斉唱させ、校門にタイガース・フラッグを掲揚する事を義務づける。 四、日本国民は、海外旅行をする際は、タイガース・フラッグと「六甲颪」のテープ或いはCDを携行し、「布教」に勤める事。 みなさん、世界平和の為に阪神ファンになりましょう。 うちの「まろ」は、夏用の毛に生え変わりつつあり、白かった毛に徐々に茶が混じって、顔つきなぞ「虎」の様相を呈してきている。さすが、阪神ファンの家の猫だ。 えらいぞ!明日勝ったら、「モン・プチ」を買ってやろうね。
2005.05.15
コメント(0)
さて堂々の(どこがだ)連載二回目だ。昨日は途中で腹が減ったからだが。 今日は、「おしんこ」。香の物。漬物。 これについては、言いたいことがある。山ほどある。 「タクアン」については、妹尾河童さんに、『河童のタクアンかじり歩き』朝日文庫、という名著がある。刑務所のタクアンから、名品「いぶりガッコ」、はては海外のタクアン事情、私の故郷は鳥取県の板井原のタクアンまで訪ね歩いたルポの名作だ。 しかし、この本を読みながら、私の頭は、あの本の、あのページに飛んでいる。 「はじめにミョウガ竹とミョウガの子が、また板の上で、こまかなみじん切りとされた。それに青シソの葉もみじんぎりとされた。青トウガラシもそうされることがあった。 さらに、よく身のひきしまった、あまり水気の多くないキュウリの青みのところがみじんぎりとされた。また、ナスも同じように、こまかくこまかくきざみこまれた。 これらをまぜあわせたものを、まな板の上で、トントンときざむ音が、朝、そちこちの家々の台所からにぎやかにきこえるとき、それは、どの家でも、『ダシでもして食おうや』というえときであったのだ。 このきざんだものを、大きなドンブリにもって、醤油をかけて、さじでかきまわす。 それをあたたかいご飯のうえにふりかけて、『おお、ダシだ』と子どもたちも、おとなたちも、よろこんで食うのだった。」 『ずうずうぺんぺん』朝日新聞社、著者は国分一太郎さん。『きみ人の子の師であれば』などの教育の名著を多数残した山形出身の方だ。サクランボで有名な東根の生まれ。 この部分を目にしたとき、矢も盾もたまらなくなって、近くのスーパーにすっ飛んでいって、手に入るだけの材料を買い込んで、「ダシみたいなもの」を作って食べた。うまかった。 機会があって山形へ旅をしたとき、私の師のお宅にごやっかいになり、この「ダシ」をいただいた。本場モノ。頬がゆるみっぱなしだった。 「おお、ダシだ!」。はい、決まり。 さて、順番から言えば、「国干物」だが、私の都合で突然順番が変わる。 それは、「国弁当」だ。 日本を代表する弁当。サミットなどでも、風呂敷をはらりと解くとこの弁当が出てきて、各国首脳がごくっ・・・とつばを飲み込む・・といった弁当でなければならない。 ここで、沈思黙考する。 はい、一時間経ちました。発表しよう。 私がこれを目にしたのは、雑誌『ビッグ・コミック』の椎名誠さんの連載ページだった。このページは後に、『全日本食えば分かる図鑑』として刊行された。集英社文庫。 まず、深めの弁当箱を準備する。 一方で、鰹節を用意する。沢山。「こんなに準備してオレの人生はどうなるんだろう」というくらい準備する。この鰹節に醤油をたらして混ぜ混ぜする。 弁当箱の底に、メシを平らに敷き詰める。これはあくまで、「メシ」という勢いで。間違っても「ごはん」などという軟弱な感じではなく。 1センチの厚さに敷き詰めたら、その上に、醤油まみれの鰹節を降りかけていく。 ふりかけ終わったら、その上に「メシ」を再び敷き詰める。 そして、醤油まみれの鰹節。 これを繰り返す。何回繰り返すかは、弁等箱の深さによって決定される。 で、もうこれ以上敷き詰める事が出来ないという限界点に達したら、潔く弁当箱の蓋を閉めて、おもむろに上下逆さまにする。 このひっくり返しによって、鰹節のうまみと十分に溶け合った醤油が「メシ」の全面に廻る事となる。 これも作ってみた。いりゴマをまぜるとさらに美味くなる。 これは私のような、「飯があればいい」「でもついでになんか欲しいな」派にはこたえられない。確か、一週間同じものを作って持っていった記憶がある。妻の発見するところとなり、「家の恥を晒すな」と言われて、以後作っていない。 ほとぼりも醒めた頃だからそろそろ作ってみようかな。 「おかずはどうした?」って。日本の正しい弁当は、「おかず」等というものを必要としない。「おかず」なしでもちゃんと自立できる弁当、これが今後の世界をリードする日本の弁当でなくてはならない。 あ、また腹が減ってきた。どうもこのテーマで書くと、腹が減る。昨晩測ったら、70キロになっていた。ので、このテーマは当分の間お休みとしたい。 青少年教育はどうなったのかという指摘はあるだろうが、私は自分の体重の事も心配なのだ。 蛇足 最近になって、地方の旧家から発見されたとされる、「君が代」の原文を紹介したい。 まず、原文、そして不肖、私の解釈と訳を載せたい。 「黄身が良いわ チョーに、や、チョーに。サザエ、石の巖となりて、苔で蒸すまで」 「卵の白身も美味しいけれど、黄身の方が、チョー美味しい。サザエは、大きな石みたいに成長したものを苔の上に乗せて蒸したら美味しくいただける。」 日本人は、古来より食いしん坊であったということだ。
2005.05.14
コメント(6)
東海林さだおさんの『パンの耳の丸かじり』(朝日新聞社)を読んでいる。ちびちび読んでいる。 東海林さんの本はもう何冊読んだか分からないほど読んでいるのにあきがこない。すごいと思う。 「柿身内説」を読んでいたら、以下のような部分があった。 「国に国鳥、国花があるごとく、国果というものを新たに制定するならば、これはもう柿をおいて他にない。 国果を制定したついでに、国菓も制定したい。 やはりせんべいだろうか。 ついでに国汁(くにじる)も制定したい。 当然、味噌汁ということになろう。 国おかずはどうか。 きんぴら?ひじき?切り干し大根?大いに迷うところだ。 国おしんこはタクアン、国干物は鯵の開き。 エート、あと、国おつまみ、国鍋、国丼、国刺身など、制定しなければならないものがたくさんあるが、今回は柿の話なので先を急ごう。」 先を急がれては困る。きちっとカタをつけてもらわないとしめしがつかない。青少年の教育にも悪い。ということで、不肖、私が、「国○○」の私案を発表させていただく。 はいはい、ちょっと下がってね。後で喋らしてあげるから。はいはい、ここに線が引いてあるからさ、こっから入っちゃだめ、そうそう、そこに座ってなさい。 まず、「国果」。柿に異論はない。甘柿はおいしいし、干し柿もいける。干し柿の種を取って、短冊に切り、柚子の千切りを加えて、砂糖をふりかけてしばらく置いておくと、なんとも良いお茶請けになる。柿膾もおいしい。決定! 「国菓」。せんべい・・。羊羹とか饅頭という線もあるが、中国渡来という出自を考えれば、やはりせんべいか。ただ、問題があるのは、何せんべいにするか?ということだろう。 値段は高いけれどもおいしい「坂角」のエビせんべいはどうか? これは、自分で買うものではなくて、他人からもらって、みんなで「おいしいね」と食べるせんべいだから、「国菓」の最高顧問というポストを用意したい。 「塩せんべい」は、どうか?これは、わが敬愛する小沢昭一師の『小沢昭一の小沢昭一的心』の中にも何度も登場している昭一師偏愛のシロモノだ。しけないように缶に入れて、チビチビ食べるという、この食べ方も含めて、「国菓・無形文化財」というポストを用意したい。 では、真打「国菓」としてのせんべいは・・と問われれば、私は断固として、「醤油せんべい」を推薦したい。醤油の香りと風味、これはもう、せんべい界の頂点に君臨してしかるべき伝統と格式をもつものと言わねばなるまい。決定! 国汁。三平汁、糟汁などさまざまあれど、やはり「味噌汁」で決まりではないか。 ただ、ここでも問題が発生する。 具だ。 葱、豆腐、シジミ、アサリ、麩・・・色々ある。みんな可愛い。みんな椀の中に入れてやりたい。しかし、ここは、山藤章二師の断言される事に従って、二種に絞りたい。 葱は欠かせない。あの緑色。椀の中にパラッとまかれた緑はやはり貴重だ。 そうなるとあと一種。 肝臓の事を考えてシジミか。いやいや、アサリという手もある。 と、あれこれ考える風を装いつつ、実はもう決まっている。 豆腐だ。これ以外にない。 葱には豆腐、牡丹には蝶、紅葉に鹿。ここの一線は守ってもらわねば、世間が許してもこの私が許さない。決定! ただ、捨てがたい一品がある。蟹の味噌汁だ。安い蟹でいい。足なんか取れていてもいい。トラックに載せて売りに来て、道端で、なんかの看板を立てている店のカニでいい。 これは、美味い。途中から熱いご飯にかけて食べたりすると、「あー、この後もうどうなってもいい・・・」といった気持ちになってしまう。 でも、これは冬季限定なので、蟹の味噌汁には、長年の功に報いるために「雪祭り大賞」を贈りたい。 「国おかず」。これは、東海林大先輩に対して私は異を唱えたい。 私の案は、「塩鮭」だ。それも、「甘塩」などという軟弱者は、瀬戸内海に簀巻きにして叩き込みたい。サメのエサになれ! 塩鮭は、塩がきいていなくてはならない。一口かじったら、ご飯をばくばく食べないとおさまりがつかないくらい辛いのがいい。 「健康に悪い」・・・、冗談をこくのではない。どうせ人間は死ぬのだ。死ぬまでにおいしいものを食べたい。健康の為に甘塩の鮭を食べていて、降って来た隕石に当たって死んだらどうしてくれる。これはもう死ぬに死ねない。 ここまで書いてきて急に腹が減ってきたので、台所に行く。 だもんで、この項は続くという事になる。では、行ってみよう。「明日のココロだーっ!」
2005.05.13
コメント(6)
偶然なんだろうが、最近、落語について語った文をよく見る。自分も好きだから目に入るのだろうが。 中学生の時に、三遊亭円生の『死神』という作品をNHKのテレビで見て、ゾッとした。その時以来、ずっと聞いている。寄席に行ったことはないが、ホールで、円生も米朝も何度か見たことがある。本当は寄席に行くのがファンなんだろうが、我ながら面倒くさがりだ。 のちに、『グリム童話』を読んでいて、『死神』の原型が載っていたのでビックリしたが,それはまた別のはなし。 ちょっと気の利いた悪党が出てくる『居残り佐平次』のような作品もある。フランキー堺がなんとも粋に羽織を着るシーンが記憶に残る『幕末太陽伝』の下敷きとなったお噺だが、円生、志ん朝で何度聞いたか・・。 ただ、佐平次みたいなのは例外で、落語に出てくるのはたいていがバカばっかりだ。安心して笑える。「あいつと較べたら」ということで、人生が前向きになる。 ここらあたりは、テストが返ってきたときに、教室の後ろの方に行って、友人の8点のテストを見て、「お前、バカだなー」と言っている12点の奴みたいなところもあるが。二人で並んで追試受けて励ましあうところから友情は強固なものとなる(場合もある)。 人情話となると、一種のシュミレーションという趣きもある。 腕の良い大工がいる。金が無い。大工道具も質に入れている有様。で、知り合いの遊郭の女将さんに借金を頼む。そのカタは、自分の娘だ。一年間は待つけれども、返済がなければ店に出して客を取らせる、悪い病気をもらうかもしれない、だから棟梁、この娘のために頑張んなきゃ・・と女将に言われて、金を懐に入れて歩き出す。 歩いていると、身投げをしようという奴に出くわしてしまう。事情を聞くと、店の金をなくしてしまった、金が出てこないと死ななきゃならないと泣く。 さて、どうするか?あなたならどーする?懐には娘をカタに借りた金。眼の前には金が無いから死ぬといって泣く男。 『文七元結』という噺。 芸談もある。 主役に抜擢された役者。相手役は、抜擢した男だが、実際にやらせてみたら、見込み違いか不満が多い。つい、意地悪をする。された方は深刻に悩み、舞台の上で刺し殺して自分も死のうと思いつめる。そう心を決めて、お世話になった大先輩のところへわかれを告げに行くのだが・・。 『淀五郎』という噺。 奉公に行っていた幼い息子が何年かぶりで家に帰ってくる。父親はもう、待ちかねていて、早くから家の外を掃除したり、時間のたつのが遅いと、女房に「時計の針を進めてみろ」という始末。好物の話になると、あれも食わせろこれも食わせろという事になる。 いざ帰って来た息子と対面すると、何にも言えなくなる。親子の情愛を描いた『薮入り』。 人情の機微を教えてくれるのが落語だ。子どもは一人で大きくなったと思っている。だけど一方で子どもは親のことが大好きで、でもそんな事は口が裂けてもいえないというプライドもある。親は子どものことをこんな風に思っていてくれるもんだ、子どもは親のことを内心こんな風に思ってる、それを高座から語ってくれるのが落語ではないか。 隣の部屋に、ケチンボの坊主が住んでいる。儲けた金をお餅にくるんで飲んでいたが、餅が喉に詰まって死んでしまう。それを壁の破れ目から見ていた男が、この死体を焼き場に持っていって焼いてもらい、金だけいただこうと企む。 筋だけ読むと、ホラー映画だが、これを古今亭志ん生が演じると、抱腹絶倒の噺となる『黄金餅』。 志ん生については、『びんぼう自慢』『なめくじ艦隊』というあまり正確ではない自伝(聞き書き)と、正確な評伝『志ん生一代』(結城昌治)がある。 小才のきかない古道具屋のオヤジが、埃だらけの太鼓を小僧に掃除させていたら、通りすがりの武士に、屋敷にもってこい、と言われる。 「高い事言っちゃいけない。お前さんはバカなんだから」と、女房にさんざんやり込められたオヤジはぶつぶつ言いながら屋敷へ太鼓を持っていくと、とんでもない金額で売れてしまう・・・という『火焔太鼓』。 「あいつはずうずうしいから生涯ウチにいるよ」というオヤジのボヤキは、何度聞いても、本当に何度聞いても笑ってしまう。 志ん生の息子が、馬生と志ん朝。大看板の息子だ。 兄の馬生が若くしてなくなった後、志ん朝は一層落語に打ち込み、同時に、浴びるほど酒を飲んだという。2001年11月1日死去。63歳。オヤジと同じ年まで生きて落語をやり続けたら、志ん生を継いで居たらと、「たら」ばかりになる。 父の名を継いだ三平も頑張ってほしい。 桂米朝の『地獄八景』を聞くと、こんなところがある。 あの世に行ったら、名人上手がずらっと並んで芝居をやったり、漫才やったり、落語やったり・・。その中で、看板のところに、「桂米朝」とある。不思議に思って、 「米朝いう落語家はまだ死んでへんと思うんやけど・・」 「よう見てみなはれ、『近日来演』いうて書いてありまっしゃろ。」 落語は、演者自らをも笑いのめす芸なのだ。だから好き。 他の出演者をからかったり、イジメたり、素人をバカにしたりという番組は、下衆だと思う。 ま、こういったことを正面切って書く事も粋じゃないけど。 私の数少ない「教養」の大部分を為すものは落語であるという事実に改めて気がついた。 敬白・・ん?軽薄?
2005.05.12
コメント(6)
ナポレオンは地中海に浮かぶコルシカ島の生まれだ。コルシカ島の独立の為に奮闘していたシャルル・ボナパルトと、レティシア・ラモリノの間に1769年に生まれた。 二人はコルシカ島の独立運動の先頭に立っており、自分の息子をそのリーダーとして養成すべくフランスの陸軍士官学校に入学させて・・・と説明する。 さて、コルシカ島。この島は、ナポレオンが生まれた1769年にフランス領となっている。(フランス革命は1789.ナポレオンは二十歳だったわけだ) コルシカ島を描いた作品として『マテオ・ファルコーネ』がある。『カルメン』で有名なプロスペル・メリメの作。 授業で紹介する時は、一気に喋る。チョークはほとんど使わない。 この、コルシカ島の風土を描いた名作で、『カルメン』なんかを書いたメリメっていう人の、『マテオ・ファルコーネ』っていう作品がある。(『マテオ・ファルコーネ』板書) マテオ・ファルコーネっていうのは、そこら辺ではちょっと知られていた顔役っていうか、ちょっとちゃうねんけどヤクザの親分みたいな人。 マテオはその日、用事で出かけていた。家には息子と妻がいる。そこへ、男が駆け込んでくる。 「かくまってくれ。かくまってくれへんと・・」と息子を脅しにかかる。 少年はあわてないで言う。 「おじさん、ボクのお父さんを知らないの。マテオ・ファルコーネだよ」 男はびびる。ま、これくらい有名やったわけやね。 「そうか、ここはマテオの家か。なら、絶対お父さんも同じ事すると思う、かくまってくれ」 息子は、家の横の干草の山を指差し、男はそこへもぐりこむ。(ちゃっちゃっと、家と干草の山を描く) そうこうしている間に、兵隊たちがばらばらやってきた。 「ぼうや、ここに男が逃げてこなかったかい。嘘をつくとただじゃすまないよ」 息子は言う。 「おじさん、ボクがマテオの息子だってこと知らないね」 また、みんなびびるわけやね。 「まずいで、マテオ怒らしたら何するかわかれへんし・・」(コルシカ島も関西弁だ) ま、どんな時にも頭のいい奴はいるもんで、一人の男が出てきて交渉にかかる。 「犯人を追っかけてんねん。ぼうや、協力してくれへんか・・」 二言、三言喋ってるうちに、男は、子供が自分の腰の辺りをちらちら見てるのに気がついた。ははぁ、俺の腰の時計が気になんねんなぁ・・・。 男は交渉にかかる。ちらっとでも教えてくれたら、この時計あげるで・・・。 息子は、首を振るが、やっぱり子供やね、時計がほしいいう気持に負けてしまう、で、干草の山のほうをつい、ちらっと見てしまう。 あとはもう、「ソレッ!」てなもんで、みんなで干草の山に殺到して男は引きずり出された。 丁度そこに、マテオが帰って来た。 兵隊の親玉はマテオに例を言う。 「息子さんのおかげで捕まえる事が出来ました」 引きずっていかれる男は、マテオに言う。 「マテオ・ファルコーネ、お前の息子は裏切りもんだ!」 普通、マテオに面と向って「裏切り者」なんか言ったら、次の瞬間に命はない・・というマテオ・ファルコーネは、黙ったままだった。 そして、息子に言った。 「えらいことをしてくれたな」 家に入って、壁に掛けてあった銃をとって肩に掛け、出て行こうとする。 妻は何が起こるか察して、「助けてやって」と言うけれど、そんな事は知った事ではない。 「ついてこい」 息子を連れて裏の山に入っていく。 しばらく歩いて言う。 「ここにひざまずけ」 「パパ,撃たないで」 「お祈りの時間だけはやる。しっかり祈りな」 そして、マテオは、祈りが終わった息子の頭を銃で撃ちぬいた。 この話をすると、必ず、シーンとして聞いている。さすがメリメの名作だ。最後のあたりの緊迫感は並みではない。息を詰めて聞き入ることとなる。 しかし、もう30年も教師をしていると、このことに伴う事態(弊害)も予測が出来る(「想定内」って言ってみようかな、これから)。 あまりに印象的なオハナシをしてしまうと、他の事が記憶からフッ飛んでしまうのだ。 スペイン内乱の授業の時に、脱線して、つい、へミングウェイ『誰がために鐘はなる』いう映画があって、ゲーリー・クーパーとイングリッド・バーグマンが出てきて、ナンタラカンタラ・・・とやった後の期末テストには、空欄の中に、「ゲーリー・クーパー」と書いてあった。全然関係ないところに・・。溺れるものは藁をもつかむ。 これが、イングリッド・バーグマンが、「キスする時に鼻は邪魔にならないのね」と言った・・と欄外にでも書いてあったら密かに点を差し上げたところだが。 ・・そういえば、このスペイン内乱の所では、『ゲルニカ』という作品を描いたピカソについても喋り、教科通信に、ピカソのフルネームを載せておいた。 すると・・・ひとりだけいました。テスト用紙の裏に、そのフルネーム(これは長いのです)をきっちり書き、「点を下さい」と書いた奴がいた。 どうしたかって・・・もちろん、点を5点くらい差し上げたと記憶している。 脱線というのは、結局、その時、教師が一番話したい事だ。授業の展開とうまく絡まっていれば、授業は元に戻る。しかし・・。よくある事だ。 『マテオ・ファルコーネ』の話は、コルシカ島の後進性を示す話としてコルシカでは嫌われているという話を聞いた事がある。 でも、これは、凄い話なのだ。国語の時間にやってくれたらいいのだが・・。 『本を積んだ船』の中で、宮本輝さんが、この小説のことを力を込めて紹介していた。 この作品を戯曲にして、上演してみたい・・・けれど部員は女生徒五人。不満は言うまい。ちょっと前まで部員がゼロだったのを忘れたか!!
2005.05.11
コメント(10)
今日、学校の中庭をツバメが横切っていった。今年になって初めて見た。 急に、オスカー・ワイルドの、「幸福な王子」が読みたくなった。 どういう思考回路になっているのか、我ながら不思議だが、図書館に行って文庫本のコーナーを覗いていたら、司書のAさんが来て、「何を探してるの」「実はツバメを見て」という話になった。 すると、Aさん曰く、「ツバメは、犬がいる家に巣を懸けるんだって」「え、ホンマなん?」「なんかね、犬はヘンなものが来たら吠えてくれるでしょ。蛇が来たり、猫が来たりしたらワンワン吠えてくれるからツバメも安心らしいよ」 にわかには信じがたいが、もし本当ならば、無料のボディガードを雇っている事になる。今度散歩するときに見てみよう。 で、「幸福な王子」を借りて読んだ。そうか、以前読んだ記憶があるのは、子供向けに書き直した作品だったんだという事が分かった。 以前に挿絵入りの本を読んだ時には、ツバメが可哀想でならなかったが、今度も同じだった。「成長してない」とみるか、「いつまでも子供の心をもったまま」というか・・。 王子は、ツバメに考える余地を与えない。そして、ツバメの「人の良さ」(なんか変だが仕方がない)につけこんで、ぐいぐい押しまくる。 かなりな事が書いてあることに気がついた。 「そこでつばめは幸福な王子のもとへ飛んで帰って、自分のしたことを話しました。『奇妙ですね、いまとても暖かい気持ちがするのですよ、気候はひどく寒いのに』 『それはおまえが、よいおこないをしたからだよ』と王子は言いました。 そして小さなツバメはものを考えはじめましたが、やがて眠りこんでしまいました。考え事をすると、つばめはいつも眠くなるのでした。」 『幸福な王子』新潮文庫 P14 これではまるっきり馬鹿だという事ではないか・・。 なんだか余計にツバメが可哀想になってきた。 ツバメは、王子にエジプトの話をする。その楽しそうな事。ファンタジーの世界だ。しかし王子は、その言葉に耳を貸さず、あいづちをうつ事もなく言う。 「下の広場に、小さいマッチ売りの女の子が立っている・・・」 こう言われて、「あばよ」と立ち去れるツバメではない事を王子は知っている。だから、何度も、「もう一晩」を繰り返す。 そして、ツバメは選択をする。 「それからつばめは王子のもとへ帰りました。『あなたはもうめくらにおなりです。ですからわたしはいつまでもあなたのおそばにいましょう』 『いや、小さなつばめさん』と哀れな王子は言いました、『おまえはエジプトへ行かなくては』『わたしはいつまでもあなたのおそばにいましょう』とつばめは言って、王子の足もとで眠りました。」(P18) あー、可哀想過ぎる。 新潮文庫の「解説」を読むと、「『幸福な王子』は、ひねくれた、にがにがしい作品」と酷評した人のことが紹介してあるが、ひょっとしたら、この人も、「つばめが可哀想過ぎる」と思ったのかな・・。 リットン・ストレイチーの『ナイティンゲール伝』を読んでいると、以下のようなことが書いてあった。 「クリミアの天使」ナイティンゲールは、帰国後ほとんど寝たきりとなったが、看護の改革と、陸軍省の改革に情熱を燃やした。 ベッドの上から彼女は指示を発し、それを実行させられたシドニー・ハーバートなる人物はついに過労死する。 ストレイチーは言う。 「強い心の持ち主が突き進むあまり、弱い者が破滅に追いやられるのを見て、はたで常識的な善意の判断を下すのはやめておいたほうがいい。 ミス・ナイティンゲールがもう少し無慈悲でなかったら、シドニー・ハーバートは死なないですんだだろう。しかし、それではミス・ナイティンゲールがナイティンゲールではなかったことになろう。 創造する力はそのまま破壊する力でもあった。」岩波文庫P87 ナイティンゲールは、91歳まで生きた。脱帽。
2005.05.10
コメント(8)
郵便局に葉書を出しに行って、帰り、歩いていると、「垣根の垣根の・・」と口をついて出てきた。なんと言う季節感のない事か。理由がある。先日、こんな会話があった。 「お父さん、あれ何やったかなぁ・・」 「んん・・・」 「ほら・・『垣根の垣根の曲がり角・・』」 「焚き火だ焚き火だ落葉焚き」 「あーたろうか あたろうよ」 「北風ぴーぷー 吹いている」 「山茶花 山茶花 あっ、『山茶花』や!!」 「そんなんやったら、最初から二番から歌わんかい」 「それができるんやったらこんなことしてへんて」 かなりのアホである。 この事を急に思い出したので、風薫る五月、鯉幟が泳ぎ、半袖シャツでもいいかな・・という時に、「垣根の垣根の・・」が出てきた事となる。 『童謡なぞとき』合田道人 祥伝社黄金文庫 という本に、この「たきび」の事が載っている。 この歌は東京都中野区上高田に住んでいた巽聖歌の詩に渡辺茂が曲をつけて、「ラジオ少国民」に掲載されてNHKラジオの「幼児の時間」に発表されたのが、昭和16年(1941年)12月の事。 しかし、この歌は、2回放送されただけで急遽中止されてしまう。12月8日に突如始まった真珠湾攻撃、日米戦争の為に「幼児の時間」は中止となった。 さらに「たきび」には、軍からクレームがついた。 「たきびは敵機の目標となり、攻撃の目標になるから、この歌の放送を禁じる。たきびをしている近くには、当然人がいるし、家もあるから敵から攻撃されないとも限らない。 それに物資不足の時代だ。落葉とて貴重な燃料だ。」(p34) さて、戦後、昭和24年(1949年)8月1日から,NHKでは松田トシ、安西愛子を起用して「うたのおばさん」の放送を開始、「めだかの学校」「かわいいかくれんぼ」「ぞうさん」「サッちゃん」などがヒットするが、その中に、「たきび」もあった。 「たきび」は、昭和27年からは教科書にも載るようになった。 ところが、またクレームがついた。 今度は消防庁。 「防火教育上良くない、つまり子供だけのたきびは危ない、街角でのたきびは奨励できないというものだった。」 しかし、もう「たきび」は子供たちのなかに定着している。困った消防庁は、条件をつけた。 「教科書や歌集にこの歌の歌詞や譜面を載せる場合は、必ずその脇に挿絵として水の入ったバケツや監視役の大人を大人を描く様に・・と指導したのだ。」(p36) 軍のクレーム、消防庁のクレーム・・笑ってしまう。当人たちが真剣なだけに。 「たきび」の受難は続く。そう、「ダイオキシン」だ。 子供の時に、私の仕事の一つが風呂焚きだった。割り木を組んで、間に新聞紙をいれ、マッチを擦って火をつける。火吹き竹で吹いたり、うちわで扇いだりした。 火の前に腰を下ろして、割り木を足していく。 火の色を見るともなく見ていると、火の色が多彩である事が分かる。燃やすものによっても色が変わり、温度によっても変わってくる。赤ばかりではない。青もある、黄色もある。赤もさまざまある。 火に照らされて顔がほてって来る。冬などは眠たくもなる。良い時間だった。 裸の火を見る機会はだんだん減っていっている。焚き火もやりにくくなった。数年前に、持ち回りで町内会長をしたときにも、「○○さんとこで、焚き火をしてはるので注意してもらえませんか」と通報があった。 嫌々ながら、「町内会の申し合わせ事項」というパンフレットを持参してご理解を願ったが、「ダイオキシン」云々よりも、単に煙たいだけではないか・・・という疑惑が消えない。 「焚き火」と、そしてそれとセットになっている「焼き芋」という冬の風物詩をなくすのはもったいないなぁと思う。蛇足 まろ(猫)が、部屋に入ってきて、私の膝に上がってきて、なごんでいる。 妻が、それを見て、言った。(自分の方に来なかったから嫉妬している) 「お父さんは、まろに甘い、甘すぎるっ!」 「あんたには負けるわ」 「いいや、父ちゃんのほうが甘い、大甘っ!」 「そう、大海人の皇子」 ・・うーん、教養溢れる会話だこと・・。
2005.05.09
コメント(4)
生徒の文章の中で幾つか気になるものがある。5 夫の後を追うのは妻として当然の事だと思う。妻たちには離婚する自由が与えられていて、するかしないかは、本人たちの自由なのに、皇帝は強制的に離婚へと追いやっていくのは間違っていると思いました。 彼女たちは愛する夫のために後をおっていったのだと思います。それは人間的に自然な事だと思います。9 すごいなぁと思った。そんなことまでして離れたくないなんて。そこまで人を好きになれるなんてすごいと思う。なかなかできない。そこまで人を好きになって見たい。(笑い)11 すごくカッコいいと思いました。たとえどんなに辛いところだろうと夫の後を追う決心をした女性を尊敬します。皇帝は女性をなめてますね。決心した女性は何かあっても止められない。改めて思いました。やっぱりいつの時代も女性は強い。すごく勇気をもらいました。 5の「夫の後を追うのは妻として当然のこと。人間的に自然なこと」という意見。 普通の意見の出方というのは、「この妻たちはすごいと思う、でも私はできない」というパターンだ。 ところが、この生徒は、「人間的に自然な事」と書いた。 もちろん、自然なわけはない。自然だとみんな思わなかったからネクラーソフは詩を書き、それを読んだ人たちは妻たちの心情、家族の心労、そして妻たちの苦労を思って涙した人もいたかもしれない。そこには、「偉業」「私たちには及びもつかぬこと」という了解がある。 しかし、「人間的に自然」という書き方は、私の心の中にスパッと切り込んできた。 この生徒は、目立たない努力家だ。将来はアニメの仕事に就きたいと思っていて、『未来少年コナン』の大ファン。友達は多くないけれど、気持ちがすごく安定している様子を感じさせてくれる。その子が、「人間的に自然じゃないんですか?」と書いている。迷いがない。 「自然じゃない」と思っている自分がグラグラしてきた。 「自然」なんだから、それを押さえつけるほうがよっぽどおかしいのではないか。 彼女たちの「自然な」愛情の発露に対してビックリ仰天する方がおかしいのではないか。 「先生は、自然な事だって思わないんですか?」って質問されたらどうしよう。 「あ、ちょっとトイレ・・」といって、そのまま一生トイレに座っているわけにも行かないし。 どう答えます? 「大人になったらわかるよ」というオールマイティな答えは駄目だよ。 11の意見を書いた生徒は、マジメ。本当にマジメな努力家。そしてまっすぐだ。 その子の口から、「皇帝は女性をなめてますね」「決心した女性は何があっても止められない」というセリフが出てきた。 書いた子の顔を思い浮かべて、読み直し、妙に嬉しくなった。こんな気持ちを持ってるんだな。 一年生の時に「現代社会」の時間に、「家族」の問題を取り上げたときに、困っている友人を助けたいと思った自分に対して、「その子の家のことだからほっときなさい」と言ったお母さんに対して怒りをぶつける文章を書いたこともあった。 いつもにこやかな、口数の少ない穏やかな顔の下に、熱いものがある。9。前回,落としてしまった箇所があった。末尾の、(笑い)だ。 こんな事を考えてしまった自分を照れているんだろうか。 「そこまで人を好きになってみたい」という心情は、末尾に(笑い)がこないと座りが悪いのだろうか。高校三年生の女生徒の、言いたいけれど、言ってみたら恥ずかしくなったので、(笑い)つけちゃいました・・ということかな? でも、「そこまで人を好きになって見たい」という心情は、高三の女生徒も、55歳のおじさんも密かに隠し持っている心情じゃないか。 ただ、私なら、「そこまで人を好きになって見たい」(大笑い)・・となるけれど。 生徒に「世間知」を説いて、教え込むのも必要だが、こうもスバッとこられるとあわててしまう。
2005.05.08
コメント(10)
プリントを作って、生徒に意見を書いてもらった。時間は10分ほど。 「1825年の12月、貴族の青年将校たちが、自由主義的な改革を求めて反乱を起こそうとしましたが鎮圧され、逮捕された彼らは極寒の地シベリアに流刑となりました。 当時、ロシアの法律では、夫がこのような罪を受けた場合、妻には離婚する自由がありましたが、妻たちのうち9人は夫の後を追って、シベリアへ行くと言い出しました。 驚いた家族、そして影響の大きさを恐れた皇帝は、『貴族としての特権をすべて奪って、単なるとすること』『相続できるはずの遺産の相続権を奪う事』『シベリアに行ってどんな目にあっても一切保護を与えない事』を突きつけて彼女たちを止めようとしましたが決心は変わらず、9人の妻たちはシベリアに旅立ちました。 このうち3人はシベリアで亡くなり、数人は、年をとってからモスクワに帰りました。 このことを知ったネクラーソフという詩人が『デカブリストの妻』という長編の詩を発表し、彼女たちの事は広く知られるようになりました。 さて,貴方は、彼女たちの行動についてどう思いますか?感想を書いてください。」1 彼女たちの行動は凄いと思います。もし自分が彼女たちなら、寒いところに行きたくないので心から勇敢だなと思いました。 そして自分たちも夫と共にシベリアへ行く事で皇帝のやり方を批判し、自由主義的改革が正しいという事を主張しているように考えました。2 自分の得るもの、持っているものをすべて投げ出してまで夫についていったのはすごいと思う。とても自分の地位が高いのに、一番下の地位にされてもいいからシベリアに行くのは勇気がいったと思う。 でも、私はそこまで妻が好きという夫の方がすごいと思った。何もかも投げ出してまでついていきたいと妻に思わせた夫の存在がとてもすごいと思う。3 私ならたぶんその九人の中の一人にはなっていなくて、離婚して別の生活を送っていると思います。 でも、その九人の人たちは「囚人の妻」になってもかまわないくらいに夫の傍にいたかったのだと思います。そういう妻たちはとてもかっこいいと思います。 でもそのために貴族の特権がなくなってしまうのは困ります。4 何を考えていたのかよく分からない。もし夫の傍についていてあげたいと思っていたなら愛を感じるけれど、後先考えていないならばかだなぁと思う。ついてこられた夫も妻に対して申し訳なく思ったと思う。5 夫の後を追うのは妻として当然の事だと思う。妻たちには離婚する自由が与えられていて、するかしないかは、本人たちの自由なのに、皇帝は強制的に離婚へと追いやっていくのは間違っていると思いました。 彼女たちは愛する夫のために後をおっていったのだと思います。それは人間的に自然な事だと思います。6 すごい行動力だと思う。確かに、自分の好きな人が遠くに行ってしまうんだったら、自分もその人についていきたいというのが自然な事なのかなと思うけれど、自分の親とももう会えない、いつ死んでもおかしくないという現実を突きつけられたら、正直、判断はにぶると思います。 そんな中、夫の後を追ってシベリアに行くといった彼女たちは、すごいと思いました。少し尊敬してしまいました。彼女たちが満足のいく判断をしたのなら、彼女たちが夫についていったのは正解だったと思います。7 正直、自分が青年将校で、シベリアに流刑と決まったとき、妻には残っていてもらいたいと思う。でも、ついてきてくれたら、物凄く嬉しいと思う。「これが愛や!」と思わせるくらい立派な行為だ。 自分もそんな嫁さんをぜひいただきたいものだ。8 すごい勇気のある女の人たちだなぁーと思う。私ならついていけないと思うし、命を捨てる覚悟で人を好きにはなれないとおもう。これだけ夫想いの妻がいてほんとうにびっくり。今まで貴族だったというのが余計におどろき。普通より裕福な家庭で育って離婚しても幸せに暮らせると思うのに。これだけ相思相愛の夫婦はなかなかいないと思う。この九人は、女の中の女です!!9 すごいなぁと思った。そんなことまでして離れたくないなんて。そこまで人を好きになれるなんてすごいと思う。なかなかできない。そこまで人を好きになって見たい。10 デカブリストの妻たちは、きっととっても夫が好きだったんだろうと思いました。そんな不自由な生活を選んでまで夫の元へ行きたいと思ったからには、かなり重大な決心が必要だったと思います。 もしかしたら、妻たちが自分もシベリアへ行く!と言い出したら、皇帝や親がうろたえて夫の刑を軽くしてくれるかもしれないと思い、引っ込みがつかなくなったのかも?とほんの少し思ったけれど、もし私なら、そんな苦しい生活を選んでまで好きな人に絶対ついていくとは言い切れないなと思いました。11 すごくカッコいいと思いました。たとえどんなに辛いところだろうと夫の後を追う決心をした女性を尊敬します。皇帝は女性をなめてますね。決心した女性は何かあっても止められない。改めて思いました。やっぱりいつの時代も女性は強い。すごく勇気をもらいました。12 貴族のお嬢さんにしては行動力あるなぁ。貴族ってお見合い結婚とか親が決める結婚とかそういうイメージがあるから意外な感じがする。 もしこれが今の日本で起こったら、追いかける前に迷わず離婚しそうだ。13 この妻たちは、二つの点ですごいと思う。 まず一つ目に、夫が流刑になったのにシベリアについていくと決めた点。 もう一つは、自分で考えて行動した点。 彼女たちは、自分の夫の事を正しいと思い信じていたからこそ、こんな行動が取れたのだと思います。自分が正しいと思ってやった事だから、きっと誰一人後悔していないと思う。 もし行かなくて離婚していたら、良い生活はできたと思うけれど、後悔だけ残ると思う。このような行動は、みんな思っていても中々動けないのに、決心して実行するのはすごい勇気だと思う。 「感動した」だけの奴もいる。お前は小泉首相か! 書きにくいテーマなのかな。余りにもかけ離れた心情と行動だから、ただ感心するしかないということもあるかもしれない。しかし、こういった、「自分とかけ離れた人達」と出会えるのが、歴史であり文学なのだ。 この意見をプリントして来週配布する。コメントは最小限。この妻たちの愛情の深さ、行動力、これがロシア文学を底から支えているものなのだ。 一人だけ、男子の意見があります。わかりますね?
2005.05.07
コメント(18)
北条というところに、「富久錦酒造」というところがあり、そこが経営している酒店・ギャラリー・お食事処が、「富久蔵」。 駐車場の向こうに鯉幟が翻っている。車に積んでいるジョー・スタッフォードのCDの「煙が目にしみる」を聞きながら鯉幟を眺めると、なぜかフィットする。不思議だ。 いろんな花が咲いている。ほとんど名前が分からない。 ここ半年間、晴れた日の散歩を日課にして以来、花の名前はだいぶ憶えたと思うが、季節は春から初夏に向いつつあり、この時期の花の名前はまだインプットされていない。 ある詩人が、「路傍の名もない花も・・」と歌ったところ、「名のない花はない」とたしなめた人がいた、牧野富太郎という植物学者で、『原色牧野植物大図鑑』の著者。それはそうだ。 「名前はあるけれど私がまだ知らない多くの花」を横目で見つつ、店内に入る。連休三日目、沢山の人で盛況を呈している。二階のお店は満員ということで、しばらくギャラリーを散策。 陶器展をやっている。どうしても、抹茶茶碗に目がいく。 いいなと思うものはあるが、「女房を質においても・・」とまで思うものはない。こういう場合は買わないようにしている。質においたらすぐに流れそうだし・・。 結局、湯のみ茶碗を買った。 名前を呼ばれて、二階へ、トントンと上がる。この時の気分が好きだ。 座布団に座って、机に向かい待っていると、お茶が来て、注文。季節のものを注文する。全員酒が飲めないのでほうじ茶を何回もお代わりする。 「まず何もつけないで召上ってください」と言われた豆腐が甘くて美味しい。結局、醤油をたらさずにそのまま食べる。蕎麦でも、ツユをつけずに食べると、良い店のものはそれだけで食べられる。 タケノコと山菜の掻き揚げ、和風ローストビーフ、豆腐御膳、季節の御膳。みんなニコニコしながら食べる。 人間は、美味しいものを食べなければならない。そのために働いているんじゃないか。季節のもの、旬のものを味わって、作ってくれた人の工夫を感じ、楽しみ、本当に「いただきました、ありがとうございました」と、手を合わせる。 私は神も仏も信じた事のない罰当たりだが、美味しいものと、それをさらに美味しくしてくれる人への感謝はかかさない。 少し離れたところにある、「加西フラワーセンター」に行く。 花、花、花・・。 広い敷地に様々な花が咲き誇っている。花を観て、「ああ、こういう名前か」と思うのだが、二三歩歩いたらすでに記憶から飛んでいる。その時には、次の「ああ、こういう名前か」が待っているのだから。 ま、憶えているものは憶えているし・・・というぐらいの感じでぶらぶら歩く。これが、出口あたりでテスト用紙を配られて、「はい、池の西方に群落をなしていた花の名前を書きなさい」などということになったらやってられないだろう。と、テストで生徒を苦しめている罪深き私は思うのだ。のんびり行こう。 牡丹がある、芍薬がある。 まてよ・・。そういえば。「立てば芍薬、座れば牡丹、あるく姿は百合の花」というのがあったな。 ついでに、「立てばビヤ樽、座れば火鉢、歩く姿はドラム缶」というのもあったな。パロディのほうにインパクトがある。 広い敷地の真ん中にある池に沿って花を観て歩く。八重桜も散り、その花びらの上を歩くという贅沢。 チューリップは、花の季節が終わったものと、これからのものとが混在している。それにしても、なんと多くの種類があることか! オランダを中心にしてチューリップの交配が進み、新種の球根には莫大な値がついた時代があった。という奴か。 「山野草のコーナー」にあった「チューリップの原種」なるものは、小振りなひっそりとした黄色い花を咲かせていた。それが、今では・・。「人間の努力と工夫」が眼に見えるかたちで咲いている。 小振りの可愛い花を観ていると、ここにお姫様がいてもおかしくはない。 ☆姫様は今日もお出かけ花の揺れ 温室の中には、珍しい花が一杯。食虫植物に始まって、まるで花とは思えないような蘭のコーナーまで。 黒羽清隆という優れた日本史の教師、研究者の本を読んでいたら、以下のようなエピソードがあったことを思い出す。 黒羽さんは、秀吉が利休の茶室を訪ねるところを授業で扱った。 秀吉が歩んだ道の両脇に咲いていた色とりどりの朝顔はすべて切られていた。なんという事をするのか・・と怒りを含んで利休の茶室に足を踏み入れた秀吉を迎えたのは、花入れの中に一輪だけいけられた朝顔の花だった。 名場面だ。 授業が終わったとき、一人の女生徒がやってきて言った。「先生のおっしゃった事には間違いがあります。」 黒羽さんはドキッとしながら訊ねた。「それはどこですか?」 女生徒は答えた。 「私は朝顔が好きで、いろんな本を読んでいますが、日本に輸入された時の朝顔は、青一色だったそうです。だから、先生のおっしゃった『色とりどりの朝顔』というのは間違いだと思うのです。」 このエピソードを記す黒羽さんの筆致は、軽く、嬉しそうだ。教師冥利に尽きる話だ。 朝顔の交配と新種の創造が爆発的に進行するのは、江戸時代だ。江戸という時代の不幸は、この体制を打倒した明治という時代によって、クソミソに罵られたことにある。 現在、江戸時代についての見直しが進んでいるのは誠に喜ばしい事だ。 二百数十年間戦争もせず、朝顔の交配に憂き身をやつしていたような事も、江戸時代の一つの面だ。
2005.05.06
コメント(2)
姫路の市立美術館に「葛飾北斎展」を観にいった。 佐伯祐三、岩崎ちひろ、ゴヤの版画の時も観にいった所だ。晴れていたらあたりを散策するところだがあいにくの雨。 展示の最初の絵に驚いた。縦長の肉筆画で、朱色で描かれた鐘馗様が、小鬼の胸倉をつかんで、その口の中に刀を突っ込もうとしている。端午の節句用に注文を受けて制作されたものではないかと解説にある。 小鬼は、疱瘡などの子供に害を為すものをあらわしているのだろうが、これは、やられたほうはびびるだろうな。オシッコちびりそうな小鬼が目を見張っている。 美人画もある。目元が涼しい。歌麿よりもこっちの方がいいかなと思いつつ通り過ぎる。 ここでも、美人を避ける、という生活態度は我ながら一貫している。 目がギョロッとしていて、頭の鉢が張った男が裃を着て座っている絵に、「福助図」とある。解説「福助は実在の人物であったが、・・福を呼ぶ縁起物として錦絵に描かれ、人形にもなっている。本図は、福助存命当時の極めて貴重な作例」・・・。 うそっ!実在の人物だったのか・・、知らなかったなぁ。 「この天と地のあいだにはな、ホレーシオ、哲学なぞ思いもよらぬ事があるのだ」ハムレット。 かなり大げさに驚いてしまった。 「桜花と包み」という肉筆がある。画狂老人卍筆の落款がある。この落款は、天保5年(1834年)以降使われていると解説にあり、「天保飢饉のおり」ともあるから、北斎が74、5際の頃の作だろう。 桜の花が左に描いてあり、右に薄桃色の何かが紙に包んであって、これが透けて見えている。 絵については、小学校の時に、「鉛筆で描いてるときはいいのに、色を塗ったら駄目ね」と、密かに憧れていた女の先生にはっきり言われて以来、こちらから縁を切ったのでよく分からないのだが、透明な紙(セロファン紙など)でものを包んで中が透けて見える、という質感を描けるのは凄いのではないか? そんなん簡単なんだよ・・と、実際に描けるテクニックを持つ人に言われてしまうと身も蓋もないのだが、しばらく立ち止まってじっくり見てしまった。 それにしても、この紙はなんなのだろう?こんなに透明で中が透けて見えるような紙が江戸後期にあったとは・・。 人物画も楽しい。将棋に熱が入りすぎて取っ組み合いになっている男たち。酒盛。女房が迎え酒をやっているところ・・。もう、フンドシは見えるわ、オッパイは放り出してるわの大騒ぎ。表情がいい。なんとも情けないような、憎めないような。 そして「富嶽三十六景」。『凱風快晴』、『神奈川沖浪裏』、『山下白雨』。大物できましたね、豪華三点セット、三役そろい踏み、三銃士。楊貴妃・クレオパトラ・小野小町・・。 何もいうことはございません。「眼福」という良い言葉を思い出す。 ゴッホは弟テオの「この波は爪だ、舟がその爪に捕らえられているのを感じる」という言葉を書き残している。彼の書簡は、岩波文庫(全三巻)で読めるが、これは、「神奈川沖浪裏」を指していると見て良い。 ゴッホの書簡集を読み進むと、「自国では衰退したこの日本芸術は,フランスの印象派芸術家たちの間に根をおろしている」(第510信)といった部分がある。「自国では衰退した芸術」は、目利きの外国人によって買い占められて、そのおかげで、浮世絵版画の良品、完全版は海外にあるという皮肉な結果になった。 しかし、書簡を読んでいって、浮世絵とそれを生んだ日本への賛嘆の言葉を目にするのは悪い気はしない。こんな時代があったのだ。 日本が「近代化された社会」へと疾走を開始するに当たって邪魔と見なされたものは捨てられていった。しかし、「捨てる神あれば拾う神あり」。ラフカディオ・ハーンのような人もでてくるというものだ。『日本の面影』『怪談』は、文明開化に突き進む人たちが捨てていこうとしたものを丁寧に拾い上げてくれた日本人への贈り物だ。 ハーンの後任として、文科大学(東大の英文学部)の英文学講義を命じられたのが漱石だ。 漱石が、明治44年8月15日に和歌山で、『現代日本の開化』(『漱石文明論集』岩波文庫)という講演を行っている。 西洋の開化は、徐々に社会の必要の中から起こってきた「内発的」なものだが、日本の開化は、「皮相上滑りの」「外発的」開化であると述べた後で、漱石は言う。 「事実やむをえない。涙を呑んで上滑りに滑っていかなければならないというのです。」 ものが見えていた人なんだなと思う。『猫』や『坊ちゃん』を書いたのだから、次はこの人を一万円札にしても良いと思う。 ゴッホの最後の手紙(第652信)には以下のような言葉が書き付けられている。 「君は単にコローの絵を売る画商とは全然違うし、僕を通じて何枚もの絵の製作に携わっているわけだから、たとえ破産したとしても安心していい。 そうだ、自分の仕事の為に僕は、命を投げ出し、理性を半ば失ってしまい、そうだ、でも僕の知る限り君は画商らしくないし、君は仲間だ、僕はそう思う。社会で実際に活動したのだ、だがいったいどうすればいい。」 1890年7月29日、死の当日ゴッホが持っていた手紙(テオ宛)の最後の部分だ。絵に取り憑かれた人間の言葉がここにある。「破産したとしても安心していい」とは・・。テオは「兄ちゃん、勘弁してよ」と言いたかったろう。 北斎は最後に、「画狂老人」と号した。通ずるものがある。☆『ゴッホの手紙』岩波文庫 のあとがきに、気になる部分がある。 「テオの孫の一人は戦争中ドイツ軍に捕まり、アムステルダムでゲシュタポに銃殺されたのである。怒りに燃えた技師のヴァン・ゴッホ氏は、『今後絶対に、枢軸国でヴァン・ゴッホの展覧会を開かない』と公言してしまったのである。」 実際は、『書簡集』訳者の硲伊之助(はざま いのすけ)氏の奔走と、オランダの文部省、美術館の責任者の方たちの協力で、ゴッホ展は日本で開催される運びとなるが、戦争というものは後をひくものだ。 戦後、日本は他国の人たちを戦争というかたちで殺さずに来た。その事の重要性は計り知れない。「この腰抜け」と言われるほうが、「この人殺し」といわれるよりも良いだろう。
2005.05.05
コメント(6)
三年前の卒業生が遊びに来た。子供を連れて。一歳四ヶ月の男の子。 この時期の子供は頭がでかい。四頭身くらい。お尻部分のもこもこは、パンツタイプのオシメ。職員室の中で、好奇心に満ちた目でアレコレ眺めたり、触ったりしている。 最近、このようなキラキラ輝く好奇心に満ちた目にお目にかかっていないので,新鮮この上もない。 彼は、一生懸命何かを伝えようとしている。わからないけど、一生懸命。若いママさんは上手に相手をしている。 こんな子だったんだ・・。在学中に、その優しさの十分の一でよかったから私に向けてほしかった。 だから、彼に言った。 「君のおかあちゃんについては、私としては色々聞いてほしい事があるんだよ・・」 「いらん事、言わんといて」 生まれた、と連絡があって、行ったのは、1ヶ月位してからだったか。ベビーベッドの上にちいちゃく寝ていた。 古謝美佐子さんの『童神』をプレゼントで持っていった。これは、ある人からプレゼントしてもらって知ったCDだが、お中元の奈良漬みたいに、そのまま使い回しするわけには行かない。 ここでは書けない方法を使おうか・・とも思ったが、誕生したばかりの純真な子供へのプレゼントとしては相応しくない、で、注文して届いたので持っていった。 子供の誕生を心の底から喜ぶ歌だ。 聴いているこちらまでほのぼのしてくる。沖縄の歌は、人間の根っこの部分に響いてくる。 二年と三年と続けて担任した。三年の文化祭で、初めてスカートをはいてルーズソックスをつけたときに、「ルーズソックスの正しいはき方」をコーチしてくれた。あの時の教え方は上手かった。ポイントをよくおさえていた。正しいはき方を憶えたのに、その後はく機会がないのは残念だ。 よくいろんな先生方とぶつかって、怒られていた。 何であんなに素直じゃなかったんだろう。素直になったら自分でなくなるように思っていたのかな? 相談室で何回か話を聞いた。大きな目からポロポロ涙をこぼすから、ハンカチを貸すと、次の日にきちんと洗濯してアイロンかけて返してくれた。 どんな話を聞いたかは、君の息子に伝えようかな?あっ、プライバシーがあるから駄目か・・。でも、彼が理解できるくらいの年になったら、私のほうがボケてしまっていて、記憶が全部なくなっているだろう。惜しいけれど仕方がない。 卒業生が遊びにこれる学校はいい学校だ。お腹の子が生まれたらまた連絡しといで。
2005.05.04
コメント(6)
CD を2枚買った。 『ROUND ABOUT MIDNIGHT AT THE CAFE BOHEMIA』『SOMETHIN´ELSE』。 一枚目は、ケニー・ドーハムのトランペットと、モンテローザのサックス。これは、神戸のジャズ喫茶で初めて聞いて、すぐに買った。 なぜか「ラウンド・ミッドナイト」という曲が気に入って、マイルス・デイビスと、セロニアス・モンクのLPも買ったけれど、ケニー・ドーハムのが一番気に入ってよく聞いた。 CDに買い換えたわけだ。 『サムシン・エルス』も同様。 メンバーが凄い。マイルス・デイビス、キャノンボール・アダレイ、ハンク・ジョーンズ、サム・ジョーンズ、アート・ブレイキー。LP買った頃はしょっちゅう聴いていた。テープにとって車の中でも聴いていた憶えがある。 『マイルス・デイビス自叙伝』JICC出版局 では、このアルバムの事は簡単に片付けられている。 「ニューヨークに帰ると、ブルーノートと契約したキャノンボールのレコーディングが待っていた。奴がオレにも加わってほしいというから、友情として付き合った。『サムシン・エルス』というレコードで、なかなか良かった。」 愛想がないなぁ。自分のリーダーアルバムじゃないからか。 だから、「サムシング・エルス」というバンドが出てきたときはびっくりした。 『カサブランカ』風に言うと、「世界中に曲名は山ほどあるのになぜこの名前をつけた・・」という事になる。よりにもよって。 「清見オレンジ」か、「グレープフルーツ」とでも名前をつけてろ。このバンドには恨みはないのだが、この無神経さには腹が立つ。 ジャズ喫茶にはよく通った。クラシックの「名曲喫茶」(トア・ロードに「ランブル」という店があったと記憶している)も、額に皺をよせて、曲を聞いている人が多かったが、ジャズ喫茶はそれ以上で、楽しそうに談笑しているアベックがいたりすると、別の意味でも、「ケッ・・・」と、軽蔑の対象となった。 クラシックは深刻一本だが、ジャズ喫茶はそこに、「頽廃」、「厭世」といった要素も加わり、タバコの煙で前が見えなくなる時もあった。もちろん、前には冷めたコーヒー。 なんであんなに深刻大好きだったんだろう。似合ってないのに。そういう時期だったのか。一生分の深刻な顔をしたと思う。 今、へらへらしているのはその反動かな。 かなり前のことだが、故郷に帰ったとき、ビートルズを共に聴いた仲間の家に遊びに行った。彼もその頃はジャズに凝っており、「このステレオは、ジャズ用にチューニングした」と言っていた。よくわからなかったけれど、ここはうなずくところだなと思ったから、「うん」とうなずいて、何枚かLPを聴いた。 少し経って、ビートルズを聴いて見ようか、懐かしいぞ・・という事になって、初期の頃のLPを出してきて、針を下ろした。 聴けたものではなかった。その時に、「ジャズ用にチューニングした」という意味がよく分かった。彼の部屋の押入れの中で埃をかぶっていた古くて安いプレーヤーを出してきて、埃をはらって聴いたら、ビートルズが帰って来た。 初期のビートルズは、安いプレーヤーで聴いた方がいいんだ・・。なんか複雑。 「松江に、『ウェザー・リポート』というジャズ喫茶があるから行こう」という話になり、次の日に行ってみた。 広い店内にはゆったりとしたソファーがおいてある。レコードをかける部屋は独立しており、壁にはずらりとLPが並んでいた。 コーヒーを注文して、しばらくじっと聴いていたら、マスターが、「少し大きな音でかけてみましょうか」と言ってくれた。そのために来ているのだ。 その後、聴いた音は想像を絶したものだった。 マスターは、以前は須磨に住んでいたけれど、「ジャズが聴ける環境じゃないから」、松江に移ってきたと言っていた。「ジャズが聴ける環境じゃない」・・・、あれから何年も経ったけれど、なんか分かるような分からないような。 ライブとレコード(今はCD)音楽の優劣が論じられる事があるが、まったく別物と考えた方が良いと思った。 おいしいコーヒーと、おいしい抹茶みたいなもんだ。 その頃、『西方の音』という本を読んだ。五味康祐という人の本で、「通俗剣豪小説を書く人」というイメージとは違った五味康祐に驚いた。 「オーディオ狂」という言葉が当て嵌まる。ステレオの装置に工夫を重ね、金をつぎ込んで、とうとう、「タンノイ」というスピーカーに行き着くまでのことが書いてある。 知人との確執も赤裸々に書いてあり、「いい音」に取り憑かれた人間がそこにいた。 だから、米子に住んでいる姉の家で、「タンノイ」を見たときは驚いた。 聴いて見ると、期待は裏切られなかった。家が大きいから置けるスピーカーだ。 最近聴いているCDは、どんどん古くなっている。美輪さんのCDも、古き良き時代の唄。新しい歌は、上原知子『小夏』、少し古い、嘉手刈林昌『風狂歌人』(沖縄に行ったときに「マルフク・レコード」で買った)。 「それでいいのだ」バカボンのパパ
2005.05.03
コメント(8)
世界史の授業もサクサクと進んでいる。私の中ではノープロブレムなのだが、問題は生徒諸君の頭の中で、授業内容が少しは引っかかってくれればいいのだが、内容自体がサクサクと進まれてしまい、跡形もない・・というのは困る。磨きこまれたフローリングの床のごとく何でも滑っていく。 などという深刻な問題については、五月に控えている中間考査の後にチラッと、あくまでチラッと振り返るだけにしておきたい。 私は過去を振り返らない。振り返らないから阪神ファンを続けておれるのだ。7点差をひっくり返されて負けるようなチームを応援しているのだからこれくらいの事は許されて当然だ。 『何点離れていたか・・・そんな昔のことは憶えていない・・・』(ここは、ボギーの口調で) 教科書では、フランス革命、ナポレオンと進んできて、ウィーン体制に入る。あの「会議は踊る」というウィーン会議。 で、こんな文章がある。 「ロシアでは1825年12月、ニコライ1世の即位に際して、貴族の青年将校が自由主義的改革を求めてデカブリスト(十二月党員)の乱をおこしたが、ただちに鎮圧された」 『山川 詳説世界史 B』の文章。全体として、「受験に良く出る重要語句」の間に、日本語が挟みこまれているという巧みな構成になっている。 不眠症に悩まされている方は是非とも購入されて、読まれたら良いと思う。二分とたたないうちに寝る事が出来る。 これに、私のおしゃべりがつくと、120%の割合で熟睡できる。誰か、新製品として売り出さないか?売れるぞ。授業で実証済み。返品不可だが。 さて、ここの二行を膨らませる。 デカブリストの乱で鎮圧され逮捕された青年将校たちは、なぜ自由主義的改革を求めたか? 彼らは敗走するナポレオン軍を追ってドイツへ、そしてフランスへと入る。そこで彼らは、自国の遅れを自覚する事となる。人身売買は横行し、農奴は人間扱いされずに売買されている。このようなことを放置すればロシアはますます西欧に後れを取る。専制政治を廃して憲法の制定を急がねばならない・・。 しかし計画はもれ、逮捕された彼らはシベリアへ流刑となる。雪と氷の世界だ。 シベリアというところについて、吉村昭さんの『大黒屋光太夫』(毎日新聞社)の印象的な場面をひいて説明する。 難破してロシアに流れ着いた光太夫たちは、シベリアを横断するのだが、その時に、白骨となった馬の死体が樹の梢から垂れているのを見る。 驚いた光太夫は馬方に訊ねる。 馬方は言う。雪が降っている時期に馬が死に、たまたまその下に樹が埋もれていて、雪が融けて来ると馬の死骸が樹木に引っかかってこうなるのだ、と。 シベリアっていうのはこんなところなんだ。行ってもいないのに断定する。行った生徒がいない事を願うのみだ。 以下は蛇足。 大黒屋光太夫については、すでに『おろしや国酔夢譚』(井上靖 文春文庫)がある。岩波文庫では、『北槎聞略』(ほくさぶんりゃく)がある。これは帰国した光太夫から桂川甫周が聴取した聞き書きで、挿絵も入っている。 吉村さんの小説は毎日新聞に連載されていたのだが、意識していなかった。たまたま、このなんとも鮮烈な場面を読んだ。 そして、『おろしや国』では十分に書き込んでなかった、光太夫一行の中の新蔵が、洗礼を受けた理由の一つが、洗礼をうけていない者の遺骸は野に捨てられるが、洗礼を受けたものは手厚く墓地に葬られる、「死んでもあの馬のようになると思うと・・」という述懐で腑に落ちた。 さて、青年将校たちはシベリアに送られた。劇的なのはここからだ。妻たちの中で後を追ったものが出た。苦労しらずの貴族の娘たちがだ。 「当時、ロシアの法律では、処刑者の妻には離婚の自由が許されていた。それにも関わらず、この九人の婦人たちは、夫への限りない愛の故に、住み慣れた上流の生活を捨て、周囲の反対を押し切って、極寒の季節に何千露里を人気ないシベリアの荒野へ旅立ったのだ」 「ツァーリ・ニコライは、引き返させようとして彼女たちに一切の財産上、名誉上の権利を放棄し、単にと呼ばれる以外もはや貴族の称号を用いる事も出来ず、法律は保護を保障せず、流刑地で生まれ育つ子供は官営工場の労働者となること等々の一札に署名させようとした。 しかし彼女たちは節を曲げず、シベリアに暮らし、老婆になってから故郷へ帰る事が出来た。しかしそれは全員ではなくて、ムラヴィヨーワ、イワーシェワ、トゥルベツカーヤの三人は流刑地で亡くなったのである。」(解説) デカブリストに関心を持っていた詩人ネクラーソフが、長詩『公爵夫人トゥルベツカーヤ』を書き上げたのは1871年。『公爵夫人ヴォルコーンスカヤ』が完成するのは1873年のことだった。 一部を紹介しよう。 「ああ、自分にもわからない!けれど、より気高い よりむずかしいべつのつとめがわたしを呼んでいるのです・・・ごきげんよう お父様! むだな涙はおながしにならないで! 私の道は遠く 私の道はつらく わたしのさだめはおそろしい。 けれど わたしはわが胸を はがねでしっかりよろいました・・・ 誇ってくださいませ わたしはあなたのむすめ! 公爵夫人は寒かった この夜のマロース(極寒)は耐え難いものだった 力萎え もはや 寒さとたたかうこともできなかった。 行きつけないかも知れない というおそれが 理性をおさえつけるのだった。 とんで行く橇・・・何一つ凍てついた窓からは見えない 追い払っても 追い払えない怖ろしい眠け (到着したイルクーツクで知事は彼女を脅す) あそこの冬は八ヶ月 ご存知でございますか? そこらを勝手に飛び回っているのはシベリア徒刑の囚徒ばかり。 あそこの牢獄はおそろしく 鉱山は深い地の底 バラックに住み たべものとてはパンとクワス(一種の清涼飲料)だけ (それでも彼女はひるまない。ついに知事はあきらめる) おゆるしなされませ!あなたをお苦しめ申しました。けれど自分も苦しみました。 あぁしかし厳しい命令を受けていたのです。あなたをさえぎりとめるようにと。 あなたは驚きなされない たとえこの首が飛んでもこれ以上あなたをおくるしめすることは・・ ・・ 三日で あそこまでおはこび申しましょう おーいすぐに馬をつけろ!」 最初読んだ時と明らかに変化したのは、この長詩の中の、トゥルベツカヤ公爵夫人の父の立場に自分を置く様になっているという事だ。 「誇ってくださいませ 私はあなたのむすめ!」と言われて喜ばない父はいないと思う。 しかし、シベリアに旅立つ娘に橇を整えてやり、「クッションをなおし 熊皮のひざかけを足元にしき 祈りの言葉を口ずさみながら小型の聖像を右隅にかけ」るしかやることがなければ、「大声でむせび出す」しかないではないか。 こういう時は、誇りに思ってくれなくてもいいから危険な真似はしないでほしいと思いそうだ。 それにしても・・・なんという娘たちだろうか。 この精神の振幅の大きさ、熱情がロシア文学の根っこになっている。 ☆岩崎ちひろさんの挿絵入り『愛限りなく』童心社 ☆『デカブリストの妻』 岩波文庫 リクエスト復刊1991
2005.05.02
コメント(6)
お坊さんのお話を聞く機会が定期的にある。逮夜のたびに。 「逮夜 たいや」って、辞書で引くと、「葬儀または忌日の前日」とある。「前日」・・、それって、「イヴ」ってことでないかい。かなり違うけど。 60過ぎの住職のお話は面白い。 形にとらわれる必要はない、「なぜそうするのか」が分かっていたらそれでいい。「この期間は線香は一本でいいのか、二本ですか」とか、「位牌の位置は」とか、いろいろあるようだ。 お供え物をどのようなバランスで置くか、色彩はどうするか・・・地域により宗派によって違ってくる。 だから、はっきり「こう考えてこうしています」と言えればそれでいいのですということ。 仏壇とかお墓に、酒を供えたりする人がいますな。故人が好きだったから・・というのは分かるけれど、今みたいに四十九日で修行中の身なのに、前に酒を置かれたら大変でしょうな、ま、もっともお寺では、「般若湯」と言いますが・・。 抜け道だらけだな。 ありがたいお話をうかがいつつ、全然別のことを考えている時がある。 「散髪屋はどこに行ってはるんやろか・・」「料金はどれくらいかかるんかな」「顔剃りの料金はあるけれど、顔と額と頭の境界はどこやろか・・」 成仏したいという気持はあるんですがね。 息子さんの話も面白かった。我々の間では、息子さんの方が面白いと人気がある。 「今度は是非とも息子さんで・・」と連絡したら、「それでしたら、指名料をいただく事になりますが・・」「それでも結構ですので」「はい、分かりました・・・○○さん、八番テーブル!ご指名!」・・ってこんなことはないだろうが。 寺の息子って結構大変みたいだ。近所から注目はされるわ、悪さをすると報告はされるわ。 「良い事なかったですねー。」体験から出た言葉は重い。 賽銭を盗んだ事もあるそうだ(自分の家のだ)。 「ほら、ブイブイっていますやん。カナブンっていうんかな。あれね、自分の前に紙があると、両足で挟むという習性があるんですわ。・・・で、ブイブイに糸つけて、賽銭箱の中に入れるんです。で、一、二分ほっておいて、糸をたぐると・・・五百円札をつかんで出てくるんですわ。・・ユーフォーキャッチャーみたいやね。 で、絶対バレへんやろと思ってたら、誰かがチクったんやろね。もう、顔がはれるくらいボコボコにしばかれて」 全国の良い子は真似しないように。 父と母への葉書にこの事を書いて投函したら、数日後に電話があった。 母「お父ちゃんに、こんなことしたことある?って聞いてみたけど、ないって」 私「オヤジも、小さいときにはたいてい悪い事しとったのにな」 母「犬追いかけて山から落ちたり、西瓜とったり、池の鯉をとったり・・・」 私「そうか・・・種類がちがうんや」 そうだ。種類が違う。第一、ブイブイ(コガネムシ)の、「前に紙が置いてあったらつかむという習性」を知っていて、それを賽銭泥棒に使うとは、ファーブル昆虫記もびっくりだ。知能犯だ。 異なった事柄(「ブイブイの習性」と「賽銭泥棒」)を結びつける能力はかなりの想像力、創造力を要する。 「ブイブイを使った賽銭泥棒の方法を考えよ」という問題はセンター試験には出ないだろう。だって、記述式の問題だから。 出たら出来ないだろうな。 高野山で、ともに学んだ学友も、家の賽銭箱に目をつけてくすねようとしたらしい。犯行を実行中に後ろから声がしたという。 「入ってへんやろ。うちは賽銭が少ない寺やから・・・」 お父さん(住職)が立っていたという。いい話だ。 こういったことが全国の寺で横行したので、五百円札は廃止となり、五百円硬貨になった・・・というわけではなさそうだ。 「悪い事はいっぱいしましたね。悪い事せんかったら、何が悪くて、何がええことかっていうのが分からんから・・と理屈つけて悪い事してましたねー」 これは、一般論としては正しい。二十歳過ぎくらいまで悪い事(色々ね)していて、それから立ち直った奴は結構いい親になってる(男女を問わない)。これが、四十或いは五十過ぎて悪い事しだしたら、深みにはまる。 だから、私のような人間が道を踏みはずしたら怖いだろうなと自分で思う。 職場が一緒だった男がしみじみと言ったことがある。ちなみに、彼は酒もタバコもやらない。 「病気になったときにやめるものがない・・」 マジメに生きるというのもこれで中々辛いものがある。 誤読する人はいないと思うが、これは、この文章を書いている人間(私だ)はマジメの国からマジメを広めに来た人間である、という事をあからさまに書いているのだ。 誰も言う人間がいない場合、自分で言うしかない。
2005.05.01
コメント(8)
全37件 (37件中 1-37件目)
1