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ホーム・ルームで、「人権について考える時間」というものがある。担当なのでアンケートを作り、先週、生徒に書いてもらい、今週のホーム・ルームで使うべく、各クラスから提出を受けたアンケートを集計してみた。 ※提出いただいたのは、男子五人分、女子十人分。合計十五人。「面白い意見が載っている奴ね」とお願いしたので、中々ユニークなものが出てきた。 テーマとしては、なのだが、こんな項目を入れてみた。 以下に、家事や育児についての項目がありますが、これは自分でやってみたいという項目には○、これは相手(妻、夫)にやってほしいという項目には×を記入してください。 項目は以下の通り。 料理作り 食器の片付け 掃除 洗濯 洗濯物の取り込み ゴミだし 服の片付けと収納 大工仕事 電気製品の修理 裁縫 子どもをお風呂に入れる オムツを替える 寝かしつける 子どもの食事の世話 保育園の送り迎え 近所付き合い 親戚との付き合い 妻の両親の介護 夫の両親の介護 男子全員が嫌がって、女子全員が「私がやる」となったのは、「裁縫」「オムツ替え」「食事の世話」「近所付き合い」。 逆に、男子全員が「オレの仕事」、女子全員が「やってね」となったのは、ない。 男子全員が「オレの仕事」と引き受けたのは、「大工仕事」と「ゴミだし」「電気製品の修理」。 女子の一人だけが、「それも(大工仕事、ゴミだし、電気製品修理)私がやってもいい」となった。大工仕事も電気製品の修理もオッケー!というのは良いなと思う。 面白いなと思ったのが、男子全員が「近所付き合い」を嫌っている事。女子は、「オッケー」なのだ。 女子全員が、「やってね」となったのが、「子どもをお風呂に入れる」事。 男子諸君、期待されているよ。私も二人の娘をよく風呂に入れた。手が大きくて骨組みが(妻に較べて)がっしりしているから気持ちがいいのだろうと解釈している。 男子の持っている「近所付き合い」のイメージはどんなものなんだろう? オバちゃん同士の際限のない立ち話、噂話の輪に加わって如才なく立ち回るということなのか。向こう三軒両隣の方々と、愛想の良い会話を日々交わすということなのか。 要するに、「近所の方たちと親密な関係を築く」事が、近所付き合いのポイントであると考え、それが「やだよ、めんどくさい・・」となると言うことは、「男なるもの」の何事かを言い当てているような気がしてならない。 なんか、勝手の違う世界で泥沼に引きずり込まれるようなイメージがあるな。 子供会の役員をしていた時、それから何年か経って、回り持ちで町内会長をひきうけた時に、「オバちゃん的世界」の一端に触れたことがある。 それは、情報伝達のあまりの早さ・・。これは、「オジサン的世界」ではありえないことだ。 若い諸君たちは、どのような家庭を築いていくのか、興味津々だ。 「一 婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有する事を基本として、相互の協力により、維持されねばならない。」憲法第24条
2005.06.30
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1966年の今日、ビートルズが来日している。 「一目みたいと学校をサボってかけつけた高校生ら6520人が警察に補導された」(『今日のクロニクル』)そうだ。 高校生の私は、家の白黒テレビに見入っていた。武道館までの映像にかぶっていたのは、「ミスター・ムーンライト」だった。 何年か前に、テレビの番組で、「私の宝物です」といって、小さなビンを持って出演した人がいた。 「どういう宝物なんですか?」という問いに、その人は以下のように答えていた。 「この中には、ビートルズのコンサートの時の武道館の空気が入っているんです。」 ファンの鑑というのはこういう人のことを言う。頭が下がった。 高校時代の私の神様はビートルズで、それ以外は何もなかった。一神教であったわけだ。 ラジオで放送されていた、「オール・ジャパン・ポップ20」という番組は欠かさずに聴き、ランキングはすべてメモしていた。 歌謡曲とかは、下賎なものであり、紅白歌合戦を見るような者は、ファンの風上に置けないと信じていたわけだから、やはり一神教は偏狭なものであり、同時にパワーだけはあると、この時の体験をもとにして考えている。 ただ、一つの事に没頭するという事は、感覚を鋭敏にするということでもある。 ある日、ラジオをつけたら、初めて聞く曲が途中から耳に飛び込んできた。その時、直感的に思った。 「あっ、これはビートルズの新曲だ!」 「ストロベリーフィールズ フォー・エバー」だった。 この曲が発売されるまでビートルズは久しく新曲を出していなかった。 出せばあっという間に一位、初登場いきなり一位(これは、「ロックンロール・ミュージック」だったと思う)などという状態に慣れっこになっていた「信者」としては辛い日々が続いていた時だったので、特に敏感になったのだろうと思う。 嬉しかった。「自分で自分を褒めてやりたい」という有森さんの有名になったセリフは、まさにこの時の私の為にあったような物だ。 『ビートルズ・アンソロジー』を見ると、「ストロベリーフィールズ・・」は、一位になれなかったようだ。「エンゲルベルト・フンパーディンクのせいで」とジョージ。彼は、「ちょっと残念だった」と付け加えている。 ジョン「フンパーベルト・エンゲルディンクなんてどうでもいいさ。あんなの子供向けだよ。子どもは子どもの歌を聞いていればいいんだ」(1967) 負けず嫌いだなー。 「ストロベリーフィールズ・・」と「ペニーレイン」は、両A面として1967年ビートルズの最初のシングルとして発売された。 その後、いろんな事があった。 『ミュージック・ライフ』という雑誌の、「ギタリスト」のコーナーでは、ジョージ・ハリソンが一位になれなくなった。 エリック・クラプトン、ジミー・ペイジ、ジェフ・ベックらの時代が来た。 ふとこの時代を振り返ってみると、「いい時代だったなー」という実感がある。ひしひしと。毎週メモしていた用紙は、ひょっとしたら、故郷の家のどこかにあるかもしれない。夏に帰ったら探してみよう。 「私の宝物」になるかもしれない。
2005.06.29
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まず以下の文章を読んでいただきたい。 「十二、三歳まで育てたが、背丈が人並みにならないので、二人は、これはただ者ではない。化け物のような奴だ。どのような罪の報いでこんな子が出来たのかと嘆く。 あいつをどこかへやってしまいたいものだと話していると、その話を聞いて、こんな風に思われるのも残念な事だ、こうなったら、どこかへ行ってしまおう、と思って、刀の代わりに針を一本もらい、舟の代わりに椀と箸とをもらって、名残惜しいと留めるのを振り切って出発してしまった。」 どこかで聞いたような・・・、そう、『一寸法師』のお話。 一寸法師は都へのぼり、そこで三条の宰相のところに住むことになる。三年後、宰相の娘で十三歳になるとてもきれいな娘がいるのだが、この娘に一寸法師は惚れてしまう。 どうしたか。 「一寸法師は、貢物の米を取って袋にいれ、姫君が寝ていらっしゃるうちに、お口に米粒を塗り、袋だけ持って泣いていた。宰相が気づいて、なぜ泣いているのかとお訊ねになると、一寸法師は泣く泣く、『姫君が、私が取り集めておきました米をお取りになって食べてしまわれました』と言う。 宰相はすっかりお怒りになって、ごらんになると本当に姫の口に米粒がついている。このようなものは都には置けない、殺してしまおうと、一寸法師にその役を仰せ付けられた。」 で、一寸法師はまんまと姫君を連れて出て行く事となり、舟に乗って変な島に着き、そこで鬼に出会って打ち出の小槌を取り上げてしまい・・・、と続く。 これが、『御伽草子』に載っている『一寸法師』の御話だ。 「こんな話じゃなかった!」と、夢を壊されて怒る人もいると思うけれど、ごめんね、こんな話なのだ。 「童話が一部の童話作家の思っているように、最初から児童に聴かせる為に考案したのでないこと、是には大切な別の起源があって、今ある形はその変化に過ぎぬ事、その改造は歴代の思慮と知巧との累積であって、是と近頃の新作とを同じ名前で呼ぶのは誤りだ」と、『童話小考』に書いたのは、民俗学者の柳田國男氏。 一寸法師は、室町時代あたりから江戸時代までこの形で伝わってきている。そして、この作品だけでなく、「御伽噺」というものは、子どもに聞かせる為に作られた作品ではない。 対象は大人だったのだ。 それが、子どもに聞かせる必要が出てきた。いつの頃からか。 普通の身長ではない子どもを授かって、十二・三歳まで育てたけれど一向に大きくならない。それでも両親はニコニコしてました、という設定よりも、「なんで私たちだけこんな目にあうのか」と嘆くほうが自然な設定であったという事だ。 なごり惜しい・・・と、とってつけたような部分はあるものの。 さらに、計略を持って姫君を我が物とするという設定。これは、中々秀逸だ。「そうか、こういう手があったか・・・」というところ。 普通の身長ではない、身分も低い一寸法師のような者が自分の思いを遂げようとすれば、才覚と計略に頼るしかないのは当然なのだ。 「そんなん一寸法師じゃない!」という人の、「私の一寸法師」像は、どのようなものだろうか? それは、明治・大正時代以後の「一寸法師」像だといえよう。 一寸法師は、大切に育ててくれた両親の元を離れて、「お椀の舟に、箸の櫂・・京へはるばる登りゆく」と歌にまで歌われるようになる。 お姫様を手に入れるのも、計略なんかは使わない。姫と散歩しているときに鬼が出てきて、鬼を退治して「打ち出の小槌」を手に入れて、小槌を振ると立派な青年となり、姫と一緒になる・・という筋に変わる。 「正々堂々」なのだ。 御伽噺は、「これなら子どもが喜ぶだろう」という形へと、そして、「おっと、こんな事を子どもに教えちゃいけないな・・」「良い子はマネしちゃいけません」という部分は慎重にカットされていく。 両親は良い人となり、一寸法師も、立派な人へと変身する。 本当にこんな風に変える必要があったのだろうか? 「子どもなんて所詮こんなもんだ」という多寡の括り方が、どうも気に喰わない。
2005.06.28
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東京板橋で高校生が両親を殺害した。 親の都合で何回も引越しを強いられた事が嫌だった。殴られる事もあって父を怖れていたと報道されていた。 少年の通っていた高校の校長が、少年について、「存在感の薄い生徒」と発言していた。 「存在感の薄い・・」。 では、「存在感のある生徒」とはどんな生徒なのか?「いるかいないかわからない」「目立たない」という意味か? 問われたら、「普通の生徒と言おうとしたのです」と言い逃れするだろうな。それにしても、口の聞き方を知らないのにも程があると思った。 その子の事も知りもしないのに発言するなよ。立場上発言しなければならない事は理解できるけれど、それなら、言い方に気をつけろ。 人間の中に、自尊感情が育っていく事自体は良い事だ。それは、社会の進歩だと思う。どんなに傷つけられてもヘラヘラ笑って受け流す事を幼い時から生きる知恵の一つとして身につけねばならない社会よりはいい。 しかし、社会全体としてそちらの方向に進んでいこうとしているときに、その自尊感情をぶち壊すような人間や場所が依然として存在したらどうなるか? 不満を感じる自分の方が間違っていて、自尊感情をぶち壊してくれる相手が正しいと思う場合は、自尊感情は低下する。「自分なんかどうでもいい。どうなってもいい」という感情は、容易に、他への攻撃性に転化する。 「他殺は、形を変えた自殺でもある」という言葉を、神戸の少年Aの弁護を担当された野口弁護士の講演で耳にした事がある。 殺人を犯すに至った少年・少女の多くが、精神的な或いは肉体的な虐待を受け、心に傷を負っていて、例外なく自尊感情が低く、「自分なんかどうなってもいい。生きていても死んでもどうでもいい」という思いを強く持っていると指摘した野口さんは、虐待の例をいくつか紹介された。 お仕置きということで、廻っている洗濯機の中に頭から突っ込まれた。 とにかくご飯を食べさせてもらうなかった。バットで殴られた。 殺人事件を引き起こすに至った少年たちの過去は、落ち着いた、愛情に満ちたものではない。 簡単に「昔は良かった」とは言いたくないが、親が子どもを折檻しているときに、よく近所のオジサンやオバサンの助けが入った。 親の顔も立て、子どもにもきちんと説教して、その場をとりなしてくれた。 いま、そのような人間関係が残っている場所は貴重になってきている。 少し前に、ある体育の教師から、複数の家庭でスキー旅行に行く事を続けていた・・という話を聞いた。子どもたちは自分の親だけではなくて、数人の大人たちとの濃密な楽しい時間を過ごす。 その体験の中で、子どもたちは子どもたちなりに「頼れるオジサン」を見つけ、「相談に乗ってくれる」「逃げ場所になってくれる」オジサンやオバサンを知る事となる。 子どもにとってこんな幸福な事はない。 子どもは、自分の親以外に頼れる大人を持っているか?親は、子供のことを腹蔵なく話せる信頼できる人間を持っているか? これらを抜きにして、少年法の厳罰化が国会で審議されている。 『毎日』(6月26日)は「社説」で、これに反対し、 「少年事件を一掃するには、続発する児童虐待に象徴される大人たちのゆがんだ育児やしつけ、子への接し方を正常化させる対策こそ優先すべきだ」と書いている。 つまり、子どもの問題は大人の問題なのだ。 自尊感情を傷つけられて、「自分なんかどうなっても良い」と思っている少年に対して厳罰をちらつかせて犯罪が防げると思う想像力の貧困さを考えると、国会で審議に当たっているセンセイ達に、その資格はないと断じざるをえない。 自爆テロを引き起こそうとしている人間に対して、「そんな事をしたら死刑にするぞ」と言っているようなものなのだから。 正常な大人たちが異常な少年たちを裁いているのだ、犯罪を止めようとしているのだ、という錯覚はもういい加減にナシにしたほうが良い。 厳罰化を主張する人たちの言説を聞いていると、つくづくこの人たちは、子どもが怖くて仕方がないんだな、と思う。そして、子どもなんかどうでもいいんだ。 その子がなぜそうなったか・・なんて事には興味はなく、とにかく眼の前から消えてくれ!という事だ。ワカモノが使う、「ウザイんだよ!!」という言葉とよく似た精神構造を感じる。 年間三万人も自殺している社会がマトモなわけないだろう。その社会を作っているのは、責任を持って動かしている人間は正常なのか? 一年間で、学校が一つなくなるほどの生徒が退学したり、不登校になっている「今の学校」というシステムは正常なのか? 被害者であり、同時に加害者になってしまった少年たちの一番近くにいる専門家の知見に耳を傾けよう。 虐待の被害者と向かい合っている、サポートするために全力を絞っている人たちの生の声を、政策のベースにしよう。 今やらねばならない事はそのことだ。小説家、将棋指し、会社社長、物理学者、そういう「有名人」を集めて、思い付きを喋らせる事ではない。 で、又言いたい。「馬鹿は黙ってろ!」 将棋指しは将棋を指してろ。小説家は売れない小説を書いてろ。会社の社長は、会社に顔を出してろ。物理学者は自分の分野に専心してろ。 分かりもしないことに口を出すな。 ☆以上、現在言いたいことを書いた。われながら荒っぽい。また、削除して訂正という事になるかもしれないが、書き留めておく。
2005.06.27
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日帰りバスツアーで、天橋立に行く。 魅かれた点は二つある。「五万本の紫陽花」と「十三種類のお寿司、甘エビ、さいころステーキ食べ放題」。どちらに多く魅かれたかは、これをお読みの皆様の判断に任せるとして、朝も早くから起きて集合地点に急ぐ。 ◎交差点青になるまで陰で待ち 朝からいやに暑い。 バスに乗り込んで一路北へ。田んぼは早苗が揺れる。 ◎涼風に低学年の苗が揺れ 舞鶴自動車道に入り、西紀SAで休憩。バイクのグループが入ってくる。各自、フルフェイスのヘルメットを取って、休憩所の中に。女性が二人ほど。 ◎ヘルメット取れば微風(びふう)になびく髪 道の周辺は、まさに万緑。様々な緑がある。 ◎二つ三つ緑の色を数えおり松杉蔦に竹と草草(くさぐさ) 天橋立近くのレストランで食事。寿司をおかわりするが、食べる量が減っている事に、こんなもんか・・と、やや感慨を催す。 天橋立に到着、遊覧船で周辺を巡る。暑さが続いているからか、雨が降らないからか、理由は定かではないが、景色がどこかぼんやりしている。すっきり爽やか・・とはいかない。 ま、「日本三景」ではあるのだが。こういう時は大抵船室の外に出て、カメラでパチパチやるのだが、暑さでぐったり、冷房の効いた船室から窓ガラス越しに松の緑を眺める。 ◎橋立で釣りする人に舟の波 それから、舞鶴自然文化園に移動して、紫陽花鑑賞。建物の中には、品種表示のある沢山の紫陽花が展示してある。 名前も様々。「ピーコ姫」というのがあるかと思えば、「ピーチ姫」というのもある。命名する人の勝手なのだろうが。 日本種の紫陽花はどちらかといえば、ひっそりと、可愛くタイプ。西洋種は、自己主張が強そうだ。色も形も花の大きさも派手である。 紫陽花の品種の中に、「オタクサ」というのがある。六甲山の植物園には、この品種があるのだが、ここには見当たらない。 幕末に日本に来た医学者シーボルトは、日本で、「タキ」という女性と恋をし、一子をもうけた。それが日本最初の女医イネだが、シーボルトは、日本地図持ち出し事件によって追放された後もタキの事が忘れがたかったらしく、紫陽花の新種に彼女の名前をつけている。それが「オタクサ」(「お滝さん」だろう)。 連日の日照りで紫陽花たちはぐったり。水をやろうにもあまりに広いために手が廻りません・・でも、今水道管の工事をしていて、来年は渇水の時期には水がやれるようになると思います・・と、ガイドの方の説明があった。 最後の地点、「レンガ博物館」へ。見学予定時間は三十分。あ、そんなところなんだ。 と、思って入ったら、これがびっくり。実に本格的。モヘンジョダロから始まって、ローマのフォロ・ロマーノのレンガ、世界各地の有名建築のレンガの実物が展示してある。 アンネ・フランクの写真と共に、アウシュビッツのレンガが置いてあり、その隣は、ベルリンの壁のレンガ・・。 イギリス式とフランス式のレンガの積み方、日本各地に残るレンガ造りの名建築の写真、或いは縮尺の模型・・。本格的な展示に驚いているうちに時間が来た。あー、もったいなかった。あと、二十分は欲しかったなー。 最後は、海鮮市場によって、帰途につく。 七時か・・と西の空を見たら、山の端に日が沈んでいく。一日のお仕事ご苦労様。太陽は、実働何時間くらいかな・・。十二、三時間くらいか。 添乗員さん、運転手さん、朝も早くからご苦労様でした。太陽以上の長時間労働。あなたたちのおかげで楽しい旅でした。多謝! あー、でも、もうこの暑さでは外には出れないなー・・。ガックリ。
2005.06.26
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授業をしていて脱線する。 南北戦争のところ。戦争が終結して、奴隷制度が廃止されたのに、なぜ差別が残ったのか・・というところ。 意見を書かせて見ると、「心の中の差別心はなくならなかった」というのが大半。 平等になったから差別が起きたんだ・・という説明をする。 だって、それまで道ですれ違ったらペコペコしてた奴が、挨拶もしなくなる。「ご主人様」とか、「○○様」って言ってた奴から、「おい、元気かい」ってタメ口で言われたらどう思う? 黒人の男が白人の娘と肩組んで歩いてたら、びっくりしないか? 白人は、金持ちからビンボー人までいる。ビンボー白人にとったら、誇れるところといえば自分たちが「白人である」というだけ。自分たちに、ペコペコして、「ご主人様」「○○様」って言ってくれる奴がいるというだけで、ほっ・・としてたわけだ。 ところが・・・。 それまでは、差別なんか起こりようがない。だって、黒人なんか、牛や馬と同じように売られるものだったし、生活も別だったし。 「人間以下」と思ってた連中が、何の拍子か対等の口をきく様になった。ここから、差別が始まる。気に入らない黒人をリンチにかける。半殺しにする。樹から吊るす・・。樹から吊るされた死体がぶらぶらゆれていて・・・って歌まである。 差別は、「心の中の問題」なんかじゃない。心の中では何を思おうが自由だ。「早くくたばれ!」と思っても、「いつか殺してやる」と思ってもいい。思うだけなら。 「黒人」という枠にはまらないような「黒人」が出てきたらどうするか?二本、映画を紹介しよう。 まず、『招かれざる客』。娘が電話してくる。「好きな人が出来たの、結婚したいから紹介するね」。 空港で待っていたら、娘の「好きな人」は、黒人。シドニー・ポワチエという俳優さんが演じていた。教養もあって飛びきり優秀という役どころ。 両親、びっくり!特にお父さんはショック! このお父さんは、新聞社を経営していて、差別はいけないとか、人権は大切とか進歩的なことを主張していたけれど、やはりびっくりする。この結婚には反対だと言い出す。 現実を受け入れるのが早いのはお母さん。「いい青年じゃないの」ということになる。彼女は、決して「黒人」という枠で彼を見ない。自分の眼の前にいる青年を見る。 黒人青年の両親もやってくる。ここでも、頑固に、現実を受け入れようとしないのは父親の方。男っていうのはなぜこうなのか・・・自分の姿を見ているようだ。 お母さん二人は意気投合する。「息子を、娘を信じましょうよ。私たちの息子、娘なんだから」となる。このセリフ。「信じる。貴女は私の娘なんだから」。いいなぁ。キャサリン・ヘップバーンは良い。オードリーも良いけど。 父ちゃんたちは取り残されるけれど、自分よりも強硬に結婚に反対する黒人青年の父親に対して逆に割り切れないものを感じ始めた娘の父親は、賛成に廻る。 ここの描き方は面白い。同類がいた!と喜んでタッグ・チームを組まないところが面白い。「鏡に映った己の姿」を見るような気になるのかな。 スペンサー・トレイシー、いいな。 もう一本。『夜の大捜査線』。 南部のある町で殺人事件が起きる。パトロールしていた警官が、駅で怪しい黒人を見つけて逮捕する。警察で調べてみたら、フィラデルフィア警察殺人課の腕利き刑事だという事が分かる。 このとびっきり優秀な刑事は、優秀ではないけれど、粘り強い白人の警察署長と組んで犯人を捜さなければならなくなって・・・というお話。 映画の中で、侮辱されて殴られた黒人刑事が、自分を殴った土地の有力者を殴り返すシーンがある。ここは、公開されたときには地域によってはショックだったんじゃないか? 当時の記録でもあったら知りたいところだ。この作品もシドニー・ポワチエ。 ラストで、所長のロッド・スタイガーがシドニー・ポワチエを駅に見送りに行く。すごくさりげないんだけれど、伝わるものはしっかり伝わってんだよ・・というシーンだった。 二本に共通するのは、「優秀な黒人」。へぇ、こういう優秀な人も黒人だというだけで差別するわけ・・というところがある。・・じゃ、優秀じゃなかったら差別されてもいいわけ・・・となるけれど、それはまた別の話。 黒人の刑事と白人の刑事が組んで・・・っていうパターンは、エディー・マーフィーなんかそうだ。 黒人が映画の中でどう描かれてきたか。演じている俳優自身はどう思っていたか。 ルイ・アームストロングと、サミー・デイビスJrは違うだろう。シドニー・ポワチエと、デンゼル・ワシントンとは違うだろう。 一回、このテーマだけで授業してみたいけれど・・・ま、無理だな。あまりに趣味に走りすぎてる。
2005.06.25
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19世紀の文化の項で、「美術」を扱う。 まずは質問から。 絵画のテーマっていうのは、例えば、「風景」、「静物」、ほら、林檎をここにポンと置いて描くみたいな、それと「人物」。さて、19世紀まで、つまりは18世紀までに一番たくさん描かれた絵はどんなテーマの絵だろうか?各自考えて。みんなに訊くから。 はい、一人一回手を挙げて。「風景」・・二人。「静物」・・・三人。はいはい、では「人物」。なるほどね、多数。正解は、「人物」。 ではここでまた質問。「なぜ人物画、肖像画が一番沢山描かれたと思いますか? はい、三分。」 「写真がなかったから」「絵以外で自分の顔を残せなかったから」「描いてて一番面白かったから」「歴史に残る人が一杯いたから」「貴族の人とかが雇って描かせたから」「個性があって面白かったから」「エライ人にお金をもらって、その人の肖像を描いていたから。仕事として描いていたから」。 画家が自分の好きな絵を描いて生活できる時代ではなかったということ。画家も生活がありますから、絵が売れなければ話にならない。 この当時の絵は大半が注文生産でした。画家に絵を描いてくれと注文したのは、王様、貴族、教会、そしてイタリアなんかであれば都市。そういうところにしか金はなかったわけ。 だから、「私の肖像を描くのだ」・・ということで肖像画が多く描かれた訳。 仕事として描く、つまりは職人であったというわけやね。 さて、19世紀になると、風景画が多く描かれるようになってくる。 そこで質問。なぜこの時期になって外で風景画が描けるようになったのか?それ以前は、絵を描くといえば室内でしか描けなかった。なぜ、外で描けるようになったのか? 「絵を描く道具が持ち運びし易くなったから」「持ち運びできる台が発明された」「外で描くための道具が開発された」「戦争があまり起こらなくなったから」「外の方が日光や風があって気持ちがいいから」「人物画を描かないでも生活できるようになったから」 この時代に発明されたものがある。それは、チューブ入りの絵の具。工業製品としての絵の具が発明されました。1840年代の事。 これまで、絵は室内でしか描けなかった。なぜかというと、それは、絵の具つくりが大変だったから。絵の具はそれまでは、室内で鉱物などをごりごりすりつぶして、それに油を混ぜて、練って・・という作り方をしていたので、外へ持って出る事が難しかった。 ところが、産業革命以後の技術の発達で、工業製品としての絵の具は鉛のチューブに入って持ち運びができるようになって、外で写生が出来るようになったということ。 後一つ、この頃になると、『絵画市場』という者が成立し始めています。「画商」と呼ばれるような人たちが、絵を売ったり買ったりし始めた。 一般庶民の中でも、生活に余裕が出てきた人たちは、絵を買い始めます。絵を買い始めた人たちの中には、それまでとは違った趣味を持つような人たちが現れた。 びっくりするくらい値段が上がる絵もあった。図表に載っているミレーの『晩鐘』。この絵は最初、1000フランで売れたけれど、その後、どんどん値段が上がっていく。アメリカの富豪に買われ、愛国心に燃えるフランスのデパート王に買い戻され・・と、このあたりで100万フラン近くまでいったと記憶している。 絵が、投機の手段となる時代が来た。 それまでの、英雄や歴史的な事件を描いたまあ、言うたら大げさな絵よりも、一般庶民を描いたり、風景を描いた絵が売れるような時代になって行ったという事。 絵は、美術館が誕生した事でさらに身近なものとなるけれどそれはまた別の話。 画家たちは、新しいテーマ、風景を描く事に熱中し始める。 モネという人が教科書に載ってるけれど、この人なんか凄い。陽のあたり方によって風景は違って見える・・というわけで、同じ風景を何枚も何十枚も描いた。 有名な「睡蓮」の絵なんかもそうやね。これが印象派。 描かれるテーマもぐんと身近になってきた。 写実主義って教科書に書いてある。一ページ前に帰ると、そこにクールベの「石割」という絵が載っている。どこの誰かも分からないような石割り工夫が描かれている。 クールベはこう言った。「私は天使を見た事がないから描けない」。 見たものしか描けない言うわけやな。 画家はだんだんと自分の描きたい作品を描けるようになった。しかし、絵が売れなかったら生活できない・・という事には変わりはない。 ゴッホって言う人がいる。教科書では、1853年に生まれて1890年に死んでいる。37歳で自殺した画家だけれど、生きている間に売れた絵はたった一枚だけ。 弟が画商をしていて、お兄ちゃんを養ってくれた。 「糸杉」・・・うねるように描かれた絵。売れてない。何十億円もしているのにね、今は。 「跳ね橋」・・・これも売れてない。 「浮世絵の模写」・・ゴッホは日本の浮世絵の模写を何枚かしている。弟への手紙の中で、浮世絵は素晴らしい、そんな浮世絵を生んだ日本に是非行って見たい・・と言っている。 日本人としては嬉しいことやけど、実はフランスに渡った最初の浮世絵は、陶器を包んで割れないようにするためのクッションとして輸出されている。浮世絵!として輸出されたのではなくて、今で言ったら新聞紙みたいなモンやね。 陶器を手にしたフランスの人たちは、陶器の素晴らしさにも目を奪われたけれど、包み紙、割れないように詰められていた浮世絵にも注目して、後になると浮世絵が輸入されるようになる。 浮世絵は、明治になると日本では廃れていく絵だったのが、ヨーロッパでは大流行して,良いものが海外に行ってしまうという事になる。 ま、鎖国から開国、そして明治維新のあたりは、またという事にします。
2005.06.24
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今日は、「沖縄慰霊の日」。日本軍の組織的戦闘が終了した日だ。 先日は、青山学院で、「ひめゆりの語り部の話は退屈だった。壕の中で感じていた気持ちが急に萎えて行った」といった主旨の文章が出題されて問題となった。 新聞で第一報を見た時に、「不幸な出来事だな・・」と思った。 よく生徒に感想文を書かせるものとしては、こういった文章は「あり」なのだ。 到達点としてこのような文章が出てきたら、ガックリくるだろうけれど、最初に出てくる文章としては十分にありえると思う。問題は、このような認識に対して、違う見方、考え方をぶつけたりして、見方の多層化をはかり、認識の深化を狙うことが教育ではないかという事だ。 『現代社会』『政治経済』といった、現在進行形でおきている事柄を俎上に載せる場合、「○○についてのあなたの感想を書きなさい」と書かせた時に、最初に出てくる感想文は、生徒たちの「今の」思いをそのまま写している。 教師の目から見て、認識がゆがんでいたり、差別的であったりする文章が出てくる事はアタリマエなのだ。 そんな事に一々目くじらを立てていては、教師は務まらない。私はそう思う。 ひめゆり祈念館に初めて行った時に、沖縄出身の友人の、「一人一人の写真と目を合わせてきてね」という言葉に従って後、宮良るりさんのお話を聞いた。 私にとっては忘れられない話となった。語り部の方との初めての出会いとなった。 しかし、その事と、「退屈だった」という文章そのものを頭から否定する事とは直結しない。 たとえば、「『ひめゆりの語り部の話は退屈だった。壕の中で感じていた気持ちが急に萎えてしまった』という感想がありましたが、あなたはこの感想についてどう思いますか?」という展開は、私がよくやる事だ。 出てきた感想は、原則として修正なしで掲載し(ダブりは省いて)、生徒たちに読ませる。生徒たちは、仲間の書いた文章はよく読む。そして自分の考えを深めていく。 この過程で、生徒の書いた文章が外に持ち出されて問題となったら? 私には幸いにしてそういう体験はないが、もしそうなったとしたら、十分に説明は出来る。 不十分なもの、独りよがりの考え方、そういったものを、違う見方とぶつけていって、多層化をはかる、それが私のやりたい事ですから、と言うだろう。これはあくまで、「途上の文章」です、と。 だから、逆に、こういった形で、「途上の文章」をさらしてしまった青山学院の無神経さに対しては腹が立つ。 そして、「こんな問題については、さわらないでおこう」とか、当たり障りのない文章を書かせておいたらいいだろうという風潮が出てくる事も同時に嫌だと思う。 「差別」については、とりあえず「差別はいけないと思います」といった、のっぺりとした、当たり障りのない、その代わり何の感動も呼び起こさない文章を大量生産することに意味があるとは思えない。 人の心をうつ文章は時としてゴツゴツしている。「当り」も「障り」もあるときがある。 私は、「大切な問題ですからみんなで考えたい事ですね」といった文章だけは書きたくない。自戒としてそう思っている。
2005.06.23
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19世紀の文化の中に、「ヘーゲルの弁証法」という項がある。 注があって,以下のように書いてある。 「ものごとは自己の内部にたえず矛盾をうみだし、それをより高い次元で統一して解決しながら発展していくと考える哲学の理論」 はい、ここに線引いて・・憶えとく事・・・ですめば簡単なのだが。 板書する。 「『勉強したくない』という人がいます。この人が勉強するようになるためには何が必要なのでしょうか?」 紙を配って、「はい、書いて」。 ニヤニヤ笑ってる奴がいる。そうだよ、お前の為の質問なんだよ。早く考えるように。 集める。読み上げる。 「脅す」「飴とムチ」「罰を与える」「恥をかかせる」「エサでつる」(釣りをしている絵が添えてあった)「勉強の楽しさを教える」「一緒に勉強してくれる人が必要」「勉強する事の意味が分かる事」「無駄とわかっていてもやってみようとする勇気」(これは、「ニヤニヤ君」)「興味と疑問」「『やりたくない』といえば『この問題まで頑張ろう』と言ってくれたり、分かり易く教えたりして勉強を楽しく思わせてくれる人」「貧しさが必要。貧しくて学校に行けない状態にならなければ、学校に行かせてもらう事が感謝すべきだという事は分からない」「気合」「興味のある部分だけ勉強する」「成績にこだわらない」「学校へ来ても一日2時間だけ勉強、後は自由」 うーむ、かなりいろんな経験をしてるな君たちは。 「脅す」とか「ムチ」とかあったね。「勉強せーへんかったら、シバキ倒すぞ!」と脅したり、ホンマにぶちまわすわけやね。 それと、方向は違うみたいだけれど、「いい、今度の中間テストでいい成績が取れたら、前から買って!って言ってたDVDレコーダー買ってあげるから頑張るのよー」というのもあるね。猫なで声で(なんで「猫」なんだ!!)。 こういうのを、『外的矛盾』といいます。 外から、「今のお前でいいのか!」って迫ってくるわけやね。ま、これの一番強力なんが「入試」。 高校のときに、模試で合格可能性4%のとこを受けた。あ、言うとくけど、4%っていうのは、限りなく0%に近い。合格可能性に、0%と100%はない。 で、受けて落ちたわけ。一校だけ。 次の年にまた受けようとした、同じとこ。ところが・・・、東大の入試が中止になったんだな、この年は。うーん、ボクって、東大に入れる力はあったんやけど、入試がなくて・・・って言えるのはこの年だけ。 で、考えたわけよ。東大受ける奴が京大に行って、京大受ける奴が阪大に行って・・・ま、あれこれ考えて、また一校だけ受けて、今度は何とか通った。 高校の教師になってから、無茶苦茶やったなー、思ったで。普通、模試の成績見て、「止めとけ」とか、「一校だけやなしに、三校ぐらい受けろ」って指導するんが普通やモン。 でも、担任は何にも言わず。 「ここ受けます」言ったら、「そうか」だけ。 でも、すごく感謝してる。完全にほったらかしにして好きな事やらしてくれたから。文化祭も体育祭も。徹夜して学校泊り込んだりとかな。 話がそれたけど、入試終わって、合格できた・・となって、5月か6月に、何の気なしに数学の本見たわけ。全然分からん・・。Σという記号や、∫いう記号も、なんやったかなー・・。 古文で、「あり・おり・はべり・いまそかり」って憶えてんねんけど、何を意味するものか忘れとる。 ・・・受験勉強言うたらこんなもんや。目的無くなったら、勉強する意味なんかどっかに飛んでゆく。 さて、これと反対に、『内的矛盾』いうのがある。 これは、自分の中から、「今みたいなお前でええんか!」言うて迫ってくるわけやね。 今の自分を否定するわけ。中から。 これは、ホンマモンやね。外からの働きかけも大切やけれど、中からの力、矛盾にならなかったらアカンいうことや。 『弁証法』いうたら、今の自分を否定して、さらに発展していく・・いう考え方。はい、教科書の238ページの注のところに線引いて。 これをやるのが、教育やねんけどな。 高校ん時には、これは体験できなかったけれど、教師になってから、二回、頭から血が引くような目にあって、「こらあかん、勉強しなあかん」思った。あと、本当にすごい授業を見ることが出来たことも大きかった。 クラブやってたら分かる思うけど、楽器弾いてたり、吹いてたりしたら、わかるやん。自分の力。「ああ、こいつには勝たれへんなー」いうことがわかるやん。 ほんで、「よーし!」思って頑張れるんと違うかな。良いもの、ホンマもんに触れるいうことは大切やね。 ヘーゲルさん、ごめんな。「俺、こんな事言うてへんで!」って怒らんといてな。・・・あ、日本語分からんからええか・・。安心。 この後は、19世紀の歴史学について簡単にふれる。 ヨーロッパが植民地を獲得していく行動を肯定する「歴史学」の事。それが日本に直輸入されて、「脱亜入欧」の理論的支柱となり、日本がアジアで生きていこうとしたら、周辺諸国を侵略し、植民地にする事が必要。変化に対応できないような、遅れた国にとってはそれが幸せなんだ・・という理屈になる・・・と。 福沢さんがお札になると知った時に韓国政府が抗議したのもわかるわな・・。 次の時間は、「なんで、この時期に外で写生が出来るようになったか?はい、考えて」が第一声で、印象派の絵画について。
2005.06.22
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『閑吟集』という本がある。1518年に、ある世捨て人が自分の青春時代から流行っていた歌を集録したものだ。室町の末期。いい歌がある。 今で言えば、『○○××グレイティスト・ヒッツ』みたいなもんか。 「何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ」 「あまり言葉のかけたさに あれ見さいなう 空行く雲の速さよ」 「月は山田の上にあり 舟は明石の沖を漕ぐ 冴えよ月 霧には夜船の迷うに」 こういった歌の中に混じって以下のような歌がある。 「人買ひ舟は沖を漕ぐ とても売らるる身を ただ静かに漕げよ 船頭殿」 この歌の注釈には、「『人買ひ舟』は、人買いが買い求めた女・子どもを運ぶ船で、おそらく大津から湖中を突っ切って東国或いは北国へと向う船でもあろう」とある。 さらに、「中世に多い人買い説話は、謡曲『桜川』『隅田川』・・説教『山椒大夫』など参照」とも書いてある。 そうだ、先日観た『隅田川』・・、玉三郎の姿がまた浮かんでくる。閑話休題。 説教『山椒大夫』・・。 『山椒大夫』といえば、森鴎外の『山椒大夫』だが。 最初に変だな・・・と思ったのは、『日本文学史序説』(加藤周一 筑摩書房)を読んだ時。以下のような部分がある。 「苦難を脱した主人公は、話の最後に出世して、嘗て彼を残酷に扱った人物に復讐する。・・厨子王は,相手の肩より下を地に埋めて、その息子に竹鋸(のこぎり)で首をひかせ・・」。(下 44) 鴎外の本ではこう書いてある。 「国守(厨子王)は、最初の政(まつりごと)として,丹後一国で人の売り買いを禁じた。そこで山椒大夫もことごとく奴婢を解放して、給料を払うことにした。太夫が家では一時それを大きい損失のように思ったが、この時から農作も工匠(たくみ)の技も前に増して盛んになって、一族はいよいよ富み栄えた。」 あれま。「一族はいよいよ富み栄えた」・・・。かたやノコギリ引き・・。 奴隷制度が自由労働に転化して労働の質が高まって・・という事になるとこれは経済学の教科書となる。 変だなと思ったときに調べればいいのだが、不精の癖は治らない。ずっと放って置いた。 で、SEAL OF CAINさんのブログで、『山椒大夫』が取り上げられて、「あー、調べてみるべー」となった。 誰かが遊びに来てくれるから前の日に一生懸命掃除するようなものだ。 図書館で本を借りた。 『さんせう太夫考』岩崎武夫 平凡社選書 副題「中世の説教語り」 「説教語り」は、放浪芸だ。定住民からは差別されながらも、彼らの祭礼の時期などに現れて語り、彼らを感涙させて生活をたてる・・・という放浪芸だ。 放浪芸といえば小沢昭一師匠。この方の『私のための芸能野史』(新潮文庫)『日本の放浪芸』(角川文庫)には、節談説教について詳しい説明がある。 他に「漫才」「女相撲」「トクダシ」といった項目があり、私のようなガクジュツ的探究心に燃える人々の愛読書である・・。 あ、「トクダシ」ってわかるかな・・「特別出演」の略。何が特別かというと・・。 話がそれた。いつもの事だけど。 『さんせう太夫考』に、説教『さんせう太夫』の粗筋が紹介されている。 森鴎外の作品と明確に違うところは・・・といえば、以下の二点。 1、厨子王を逃した安寿は、「火責め水責めの極刑に会って惨死」する。 2、山椒大夫は竹のノコギリで首を引き切られる。 安寿の最後については、鴎外は、「・・小さい藁履(わらぐつ)を一足拾った。それは安寿の履(くつ)であった」としか書いていない。 で、ここから先は記憶で書くのだが、安寿が責めさいなまれて苦悶の果てに死を遂げる場面は異様な人気があったと何かの本で読んだ事がある。手元の本を繰ってみたが見つからない。どこで読んだのか・・。ただ、これはわかる。絶対にそうだったんだろうなと思う。 ここまでいって分からない人は、今晩じっくりと考えていただきたい。 考えてみれば、この二つの場面はセットになっている。姉をこのような残忍な殺し方をした人間との和解はありえない。「目には目、歯には歯」だ。 竹ののこぎりで首を引ききるという極刑は、戦国時代にもその例を見ることが出来る。 さて、そうなると、鴎外はなぜこの「改変」をしたのか・・という事になる。この作品は大正4年(1915年)、鴎外53歳の時の作だ。 説教『さんせう太夫』を熟知していたはずの鴎外は、なぜこんな事をしたのか・・? また調べてみよう・・・。その結果については・・「いつの日かの心だーっ!」
2005.06.21
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『今日はどんな日か』という本を見ていたら、6月20日の項に、「ホワイトハウス、クレムリン間の直通電話設置決まる(1963)」と書いてある。 前年、1962年の10月22日に米大統領のケネディが、「キューバにソ連がミサイル基地建設中」と発表して、キューバの海上封鎖を声明して、いわゆる「キューバ危機」が始まった。 10月28日には、フルシチョフがキューバからのミサイルの撤去を声明、危機は収束した。 この事件については、多くの本が書かれ、映画(『13デイズ』)も出来た。 しかし、当時の関係者たちが集まって、「今だから喋ろう」式の番組が放映された時は心底驚いた。カストロが以下のように証言したのだ。 「もしも、キューバにアメリカ軍が侵攻してきたら、核を使用するつもりでいた」と。 アメリカ軍侵攻の可能性はあった。ケネディが軍を押さえ込む事が出来たのは幸運としかいえないが、これをきっかけとして直通電話が設置されたのは納得できる。 当時、「ホット・ライン」という言葉が使われたと記憶している。 さっそく、コラムニストのバックウォルドが、ホットラインを使って世間話をする両国首脳の姿を描いた。 しかし、ホットラインがもっと深刻な話のために使われる可能性があった。 そんな映画を二本。 アメリカ側のコントロールミスで、B-52爆撃機がソ連に侵入し、無事(?)、爆弾投下に成功。ソ連側は当然、大量報復を決意する。それに対して、ホットラインの受話器を握り締めたアメリカ大統領は提案する。 「ニューヨークに核を投下しますから、全面核戦争だけは避けましょう。」 大統領の妻は、ニューヨークでショッピング中・・・という設定であったこの映画は、『未知への飛行』。大統領は、ヘンリイ・フォンダ。なんともシリアスな作品だった。監督は、シドニー・ルメット。 ヘンリイ・フォンダが淡々とこのセリフを言う。心に残るシーンだった。 同じヘンリイ・フォンダ『12人の怒れる男たち』は、1957年の作品。 原作は『フェイル・セイフ』という小説。ドキドキしながら読んだ覚えがある。 ほぼ同じような作品で、『破滅への二時間』(未見)という作品を原作として作られたのが、スタンリー・キューブリックのブラック・コメディ『博士の異常な愛情』。こちらは、ピーター・セラーズの「怪演」が光る。 この映画でも、大統領はソ連の首相に、「頼む!打ち落としてくれ!」と語りかけるが、練達のパイロットはソ連軍の攻撃を見事にかいくぐって核の投下に成功する。 ちょっとした(?)ミスで、核爆弾にまたがって落下していく大佐・・・その後の盛大な核爆発シーン。 アメリカの基地では、ストレンジラブ博士が熱弁を揮い、車椅子から立ち上がっている・・、そして彼は叫ぶ。 「総統!歩けます!」 アメリカ、ソビエト両国に、ドイツのミサイル技術者が連行されて、核ミサイルの開発に全力を注いだ事はよく知られている この映画を学校の鑑賞会で観た時に、隣に座ってみていた英語の教師が言っていた。 「ピーター・セラーズはすごい。役によって英語を全部使い分けている」 全然わからなかったけれど、そうだそうです。分かる人は分かるという事だ。 この両作品は、原作の盗作騒ぎが起きて裁判となり、先に『破滅への二時間』の映画化権を獲得していたコロンビアが、『フェイルセイフ』の映画化権も獲得して勝訴、どちらも映画化したという経緯があったという。ともに1964年の作品だ。 現在、「ホットライン」で検索をかけると、「○○ホットライン」が、まず出てくる。「介護ホットライン」「虐待ホットライン」・・・、「『ホットライン』は遠くなりにけり」という事か。
2005.06.20
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法事が終わって近くのイトーヨーカドーに行く。 駐車場には車が一杯止まっている。今日は「父の日」、ついでにセールもあるからこの人出。 二階のカバン売り場で、「父の日プレゼント」を妻と娘に買っていただく。 豊岡産のショルダーバッグ。いい選択だと思う。豊岡は先の水害で大きな被害を受けた。カバン産業も製品が水を被ったりしてエライ目にあった。 買って応援するのが一番だ。 と、後は、肩を揉んでくれることを期待している事を何度も表明したから、食後に、じっくり揉んでいただけることを願うのみだ。 そんなに大きな夢ではないと思うのでよろしく。 あ、足の裏も頼むよ。
2005.06.19
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今日は、義兄の百か日。 通常の般若心教や、十三仏の御真言だけではなくて、観音経をみなで唱える。 初めて目にするのだが、あ、ここにあったのか・・という部分がある。 竜の口に曳かれまして・・・聖人少しも騒がず、静かに荒蓆(あらむしろ)の上に正座を致しまして観音経を誦している。 時刻来たれりというので、太刀を引き抜いてこれを振りかざした時に、「念被観音力,刀尋段段壊(ねんぴかんのんりき とうじんだんだんね)」と、唱えると、この太刀が三つに折れたといいます。これを太刀折れ御難という・・ これは、六代目三遊亭圓生師匠の『鰍沢』の枕の部分に出てくる、日蓮上人の「御難」の場。 「念被観音力 刀尋段段壊」・・・、なるほど観音経だ。 後ろの方に、「海潮音」という語句が出てくる。上田敏の訳詩集の題名だ。「秋の日のヴィオロンのためいきの・・」「山のあなたの空遠く・・」。思い出すな。 そうか、元はここにあったのか。 でも、手元にある『上田敏全訳詩集』(岩波文庫)にはそんな事はどこにも書いてない。なんかなぁ。 十三仏の御真言の中にもあった。「まかぼだらまにはんどまじんばらはらばりたやうん」・・、これは、桂米朝師匠の大ネタ『地獄八景亡者の戯れ』の中に出てきた。 キリスト教徒の人は、ほら、そこにありますやろ「アーメン商会」・・、真言宗の方には、もうちょっと向こうに行ったら、「まかぼだらまにはんどまじんばらはらばりた屋」いうのがありまんねん・・・。 落語は庶民の芸だから、庶民の中で知られている事がひねって出てくる。観音経も、御真言も人々の生活の中にあった(ある)わけだ。だから、「くすぐり」に使える。 何の知識もなかったら、くすりともこない。 少し前に聞いた話だが、国語の時間に、生徒が教師の質問に答えて「我輩は犬である」と言ったそうだ。漱石名作の題名を間違えるだけでもショックだが、さらにがーん!ときたのが・・・教室の生徒が誰も笑わなかったそうで、「二重にショックだった・・」との述懐だった。 笑うためには、「元ネタ」を知っていないといけないのだが。 お坊さんが言っていた。 「『観音様』って言いますけれど、おかしいと思いませんか?」 「・・・・・」 「普通、「音」は、「聞く」ですよね。なのに、なんで「観」、つまり「観る」のか・・・。また機会があったら皆さんで考えてみられたらどうですか。」 宿題が出てしまった。 『観音経』のなかに、「人非人」という語句が出てくる。「人でありながら人の道に外れた事をする人間。ひとでなし」と辞書にはあるが、元々はそんな意味ではなくて、阿修羅とかのように、「人間のようで人間ではないもの」という意味だったようだ。 お経や仏教用語の中に、今普通に使っている言葉は山ほどある。日本人の文化、心性と仏教の事を考えさせられた。 『般若心教』については、瀬戸内寂聴さんの中公文庫がある。ちゃんと読んでみよう。 『観音経』のなかには、信仰したら、可愛い女の子が生まれますよ、頭のいい子が生まれますよ、難破した場合は浅瀬にたどり着けますし、火難をこうむっても大丈夫・・・といった「お得なオハナシ」というか、「現世利益」も一杯ある。 どうも、通販のセールストークの原型のような気もしないではない。私たちのご先祖様たちも、「お得感」に弱かったのか・・・。 写経を一緒にやったり、お念仏を唱えたり、西国霊場を廻ったり・・・お寺さんはいろんな活動をしておられる。 若い坊さんは、「もっと地域に根ざした活動がしたいですね」とおっしゃっていた。いい事だと思う。それだけの蓄積はあるんだから。 さて次は初盆だ。 「ストーブが扇子に変わる百か日」
2005.06.19
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9時半に家を出て、河原町四条についたのが11時。大丸8階の晦庵・河道屋で蕎麦を食べて、ぶらぶら歩きながら南座へ。 12時半開場。 さすがに中高年の女性が多いが、若い女性の姿も見える。男性の姿はほんのパラパラ。私もそのパラパラの、「パ」ぐらいか。 3階左1列目、3と4という席。身を乗り出すと、下に花道が見える。小振りのいい劇場だ。 「坂東玉三郎 特別舞踊公演 中村獅童出演」・・どんな舞台なんだろう。 時間が近づくと、「チョーン!」と拍子木が入る。雰囲気でるなぁ。 緞帳が上がって、引き幕がスルスルスル・・・。 あ、せり上がりで出てくるんだ。3階だからいち早く見える光景だ。 最初の演目は、『雨の五郎』。曽我五郎と二人の若い者との絡み。 五郎に扮した獅童が、傘をさして、若い者を一人踏みつけにしたスタイルでせり上がって来る。 ここから約20分。瞬間瞬間に、どうやったら一番カッコよく見えるか・・の連続技。所作が一々決まる。うーん、いいなぁ。 生で初めて聞く笛、小鼓、太鼓、三味線の音のいいこと。ビンビンと響いてくる。 どんなのかなぁ、退屈だったらどうしよう・・という心配は杞憂。あっという間に引き込まれてしまった。 上手で入るツケの音がなんともかんとも効果的。見得を切る時、若い者がひっくり返される時等にピタッと決まる。快感。 時折、「萬屋!」の声がかかる。この声を生で聞くのも初体験。 15分休憩。2階の売店を覗いてみると、小物、いろんなグッズを売っている。 次は、『隅田川』。 子どもを人買いにさらわれた斑女(はんじょ)の前は、諸国をさまよううちに東国隅田川のほとりにたどり着き、ここで渡し舟の舟長と言葉を交わすうちに我が子の非業の最期を知る・・という筋。 玉三郎が、花道から出てくる。笠をかぶっていて、顔が見えない。何しろ3階から見てるんだから。・・あ、止まった。3列目と4列目の間で止まって、膝をかがめて何かしておるではないか。 笠を取ろうとしている。もう・・・3列目と4列目の花道の近くの人たちは、玉三郎と目があってるんだろうなぁ・・。凄い体験だぞそれは。 まてよ、もしも、目があってしまって、その後の人生が変わってしまったらどうするのだ・・。 やはり、目があわないような3階席で良かったではないか・・と妙にポジティブな思考をめぐらしつつ見入る。 舟長との会話。なんともよく通る声だ。観客に背を向けていても明晰に聞こえる。これが伝統というものか。たしかに小振りの劇場というか芝居小屋なのだが、それにしても凄い声だ。 長唄の声も、よく響くし、どっから声が出てんねん、どこにそんな声を隠してたんや!と突っ込みを入れたくなるような高い声から低い声まで自由自在。 舞台で、滝沢修、仲代達矢らの声は堪能してきたが、それとは質が違う声だ。 息子の死を知った斑女の前を舟長は舟に乗せて墓へと案内する・・。あれっ、紐が張ってないぞ。どうやって舟を動かすんだ・・・、と思っていたら、なんと!背景の方が動いて、舞台上手より墓が出てくる。この手があったのか・・。 墓にすがりついて、我が子の幻を追う斑女の前。小袖一枚での舞いになるが、いい色合い。灰色、薄い青、藤色・・それらを散らした涼しげであり、なんとも儚げな色。 玉三郎の姿は、もう此の世のものとも思えない。 見ているほうをこんな気持ちにさせるとは・・・。えらいものを観てしまったぞ。 30分休憩。売店に行って、隈取り葉書、一筆箋、ハンカチを買う。・・あれこれ買ってる男は私だけ。ずっと以前のハヤシ言葉「女のなーかに男が一人!」状態。ま、そんな事は気にせずに買う。 さて、『舟弁慶』。 玉三郎は最初は静御前として登場して、舞を舞う。この衣装が凄い。パンフレットに、「佐々木能衣装」の佐々木洋次さんという方の聞き書きが掲載されているのだが、京都の古道具屋さんで見つけた御所車と花の模様の装束を復元しようとしたが中々うまくいかず、とうとう機から設計しなおして復元して『熊野』の装束を織った。今回もその機で織りました・・・とのこと。 あまたの職人芸に支えられている舞台なのだ。 獅童の弁慶は、茶の地に黒の縞なのだが、この茶がいい。「日本の伝統色」で調べてみたが、ピッタリくるものが見つからない・・・何色なのか。 静が去り、一同は船出、さて、出るぞ、出るぞ、平知盛の霊が出るぞ・・・、なかなか出てこないな・・・締め太鼓も入って賑やかになってきた・・さて・・あっ、こっから出てきたのか! 花道の舞台近くのところにせり上がりがあったとは・・。後で話していたら、妻は、「私、分かってたで、あそこに四角く切ったところがあったから・・」と誇らしげに言う。 二重のショック・・。 玉三郎、今度は長刀をもっておどろおどろしく登場し、船上の義経に迫る。 「その時義経少しも騒がず」と、義経が自ら言う。演劇の約束事の目でこれを見ると、「れれっ」となるが、内心の動きもセリフにしてしまう歌舞伎などの約束事の目で見れば不思議ではないということになる。 知盛は二度、三度と義経に迫る。 弁慶、動かない。こら、ボディーガード、なにをしておるか!・・と思っていたら、立ち上がって、数珠を手にしてなにやらゴニョゴニョやり始めた。 そうか、弁慶は比叡山で修行した事もある坊さんだったんだ。ただの暴れん坊ではなかったのだなぁ・・と改めて見直す。法力もあったわけだ。 知盛の霊は遂に鎮められてしまう。 おしまい。 緞帳が下りたらみんなさっさと立ち上がって帰途につく。そうか、「アンコール」はないのか。万雷の拍手に応えて再び幕が上がって・・という光景はないんだな。 外はいつもの雑踏。 南座の異界を出れば夏の京 楽しい一日だった。今度は、歌舞伎が観たくなった。
2005.06.18
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「らしさ」の代表選手といえば、「男らしさ」「女らしさ」か。 「政治経済」の時間では、「人権」というテーマも扱うのだが、生徒に訊ねてみた。 「男らしさ」「女らしさ」って? 「男らしさ」 体格がいい。頼りがいがある。良く食べる。自分を犠牲にしてでも誰かを守る。 ハッキリしている事。カッコよさ。心が広い。ついてこい。さりげない優しさ。 仕事が出来る。たくましさ。強さ。 「女らしさ」 家事が出来る。可愛げがある。優しさ。自分を大切にする事。しなやかさ。 「男らしさ」 たくましい。強い。守ってくれる。時に優しい。家族を守る。嘘をつかない。自分のペースを持っている。フォントで言うと「文ゴシック」。 大雑把。自分が空けられないビンの蓋など開けてくれる。堂々としている。 女を大切にする。スポーツが出来る。女を守って引っ張っていく。 泣かない。色が黒い。積極的。頼れる。少し鍛えている。カッコよさ。 行動的。外で働く。まかしとけ的な豪快さ。紳士。 「女らしさ」 おしとやか。料理が出来る。笑顔が可愛い。脂肪がある。子どもが産める。 家事が出来る。静かな感じ。優しい。気が利く。細かい作業が得意。字が綺麗。 か弱い。言葉遣いが丁寧。色が白い。家庭的。家の中で働く。朗らか。上品。 大和なでしこ。可愛い。なよなよしているけれど根性はある。 ブリッコではない可愛さ。 うーむ、モロに幻想の世界に生きているなぁ。夢から醒めた方がいいぞ。 後、面白かったのが、「生まれ変わるとしたら次はどっちがいい?」と訊ねると、結構沢山の(半数くらい)女の子が、「もう一回、女」と答える。 理由としては、「今、女で楽しいから」「化粧が出来る」「子どもが産める」というのもある。中には、「マラソンの距離が男子より短い」というのも・・。 以前は、「次は男、ぜーったい男」というのが多かった。この変化は何だろう? どう見たらいいのかな? 「性」という言葉と共に、「ジェンダー」という言葉も紹介する。ここは先になって違うかたちで扱いたいところだ。
2005.06.17
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その昔、マージャンをやっていた頃に、「直感は過たない。過つのは判断である」というゲーテの言葉を知った。五味康祐氏のマージャンの本で。 間八索(カンパッソウ)で、リーチをかけて待っていると、頭の中にポンと言葉が浮かんだ。 「八索(パッソウ)が出る。」 対面(トイメン)から本当に出た。・・「ロン!」。 ここまで読んできた貴方は、私のことを「雀聖」と呼んでも良いと思う。 ただし、言葉が浮かんだのは後にも先にもこの時だけで、この瞬間だけ私は「雀聖」、或いは、「マージャンの神様」であったと思う。 しかし、神の座とか聖人の座は競争が激しく、かつ、判断にも直感にも裏切られた私は、「私はマージャンに向いていない」というしごくもっともな判断をして麻雀界より足を洗って現在に至っている。 だが、「直感は過たない」という言葉は脳に止まり、時折出てくる。 読書にこれを適用するとどうなるか。 これまで結構な冊数を読んできたと思うけれど、何も憶えていない本が大半だ。ある箇所のみを憶えている本がパラパラ。かなり詳しく憶えている本は、両手を使い・・片足くらいで止まると思う。 私にとっての「直感」とは、「ここは憶えてるぞ」という箇所なのだ。 なぜここを憶えているのか。なぜ他の場所ではないのか。説明し始めたら何かが分かるかもしれない。 ドストエフスキー『死の家の記録』で、これをやってみたい。 理由は単純で、SEAL OF CAINさんのblogを読んでいて、「あ、ボクも書いてみよう」と思ったからだ。 私が憶えている箇所は以下の通りだ。 「わたしは前の席へ通されるはずだ、その理由の一つは、わたしが他の連中より多く寄付をするからだと、ペトロフが正直に言った。・・ 『おめえは俺たちより金持ちだ。だからまえへ行くがいい。ここじゃみんなが平等だが、しかしおめえはよけいだすだろう、だからおめえみたいな客は役者たちにはありがてえんだ』『おめえにいちばんいい席をやるのは、おれたちがここで芝居をしているのは金のためじゃねえからだ。芝居ってものを尊敬してるからだ。だから、客の区分けはおれたちが自分でやらなきゃならねえんだ』。 こうした考えには真の高潔な誇りが、どれほどこもっていることか!それは金に対する尊敬ではない。自分自身に対する尊敬である。」 「しかし何よりもわたしの興味をひいたのは観客だった。もうすっかりあけっぴろげで、腹の底から満足しきっていた。舞台に投げられる掛け声はますますひんぱんになってきた。 ある者は、隣にいるのが誰であろうとかまわず、肘をつつき、急いで自分の感激を伝えている。 またある者は、何かこっけいな場面になると、むきだしにうれしそうな顔をして客席を振り向き、まるでみんなの笑いを誘うように一同の顔をぐるりと見回して、片手を振り、またすぐになめるような目を舞台に向ける。」 囚人たちが芝居を上演し、囚人たちがそれを観る場面をドストエフスキーは克明に書きとめている。舞台を観ている観客の描写は素晴らしい。 新潮文庫(工藤精一郎訳)の裏表紙の解説は以下の通りだ。 「思想犯として逮捕され、死刑を宣告されながら刑の執行直前に恩赦によりシベリア流刑に処せられた著者の四年間に渡る貴重な獄中の体験と見聞の記録。 地獄さながらの獄内の生活、凄惨眼を覆う笞刑、野獣的状態に陥った犯罪者の心理などを、深く鋭い観察と正確な描写によって芸術的に再現して、苦悩をテーマとする芸術家の成熟を示し、ドストエフスキーの名前を世界的にした作品」 その通りだ。 しかし、そこに付け加えられねばならない事は、その地獄のような世界の中に作者は、「人間の誇り」というものを、「高潔さ」というものを見出したという事実ではないか。 それを見つけることが出来たからこそ、作者は流刑を終えて帰還した後も小説を書き続けたのではないか。 もし彼の眼に留まり、心に刻まれたものが、地獄と人間の悲惨と堕落と、犯罪のカタログだけであったとすれば、果たしてそれは、その後の彼の創作のエネルギーとなり得たのだろうか?というのが、私の疑問だ。 この作品の最後あたりに以下のような一節がある。 「ある囚人をもう何年も知っていて、あいつは人間ではない、けだものだと思って、軽蔑している。ところが不意に、ある思いがけぬ機会に,その男の心が無意識の衝動となって表面に現れ、そこに思いがけぬ豊かさ、感情、まごころ、自分および他人の苦悩に対するおどろくほど明確な理解が認められて、まるで不意にこちらの目があいたような思いで、はじめしばらくは、自分の目で見、耳で聞いたことが信じられぬほどである。また、その反対の事もある、・・・。」 ドストエフスキーは、地獄の底で、最底辺の人たちの中に悲惨,獣性だけではなく、ゆたかさと真心を見ることが出来た。つまりは人間という存在の豊かさに触れる事が出来たのだ。 私は、これが彼の創作意欲の原点をなしたと確信している。 この作品から読み始めたことは、重ね重ね正解であったと思う。
2005.06.16
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はい、三分たったら死ぬ事になっています。この三分間で何をしますか? たった三分・・といった声を無視して紙を配り、書かせる。回収する。 「友達に手紙を書く」「家族と一緒に居る」「楽しかった想い出を思い返す」「わたしを支えてくれた人たちにお礼を言って廻り、最後の一分に好物を食べまくりたいです」「お茶を飲む」「好きなものを食べて、好きなテレビを見て、音楽を聴く」「三分じゃ何も出来ないからテレビでもボーっと見る」「電話をする」「好きなものを食べながら友達と喋る」「家族とペットと過ごす」「家族みんなと猫にお別れの挨拶をして、服装と髪を整えて自分のベッドで寝て死ぬのを待つ」「三分間じゃどこにも行けないから、とりあえず友達と言いたいことをいう。面白い話をしたりして、とにかく話す」「沢山の人と一緒に思い切り笑う」「過去を振り返る」「何もしない」「おとなしく寝る」「大事な人に電話をする」「静かな場所に行く」「部屋を片付ける」「好きな人と手を繋いで寝る」「一番落ち着く場所で三分間じっとしている」「普通に過ごす」「何もできないと思う。落ち着けない」「とにかく誰かと喋る。一人で死ぬのは嫌だ。好きな曲を聞いていたい」「今までためた金をすべて使って、かなり高価で今まで食べた事のないものを食べる」「暴れる」「彼氏や親友と楽しく喋る。とりあえずトイレを済ませる」「好きな音楽を聴く」「バンジージャンプ」「寝る」「○○先生に挑戦する」「好きな食べ物を食べながら大切な人たちといる」「何かを残す」「遠くの大切な友達に電話する」「写真を撮る。今までの不満をぶちまける。三分間とにかく喋る」「親に、今までありがとうという。時間があれば他の人にも言う」「遺言書を書いてひとり静かなところに行く」「三分間の間に急に彼女をつくり、抱きしめて死ぬ。無理ならそれだけの人生だったと諦めて死ぬ」「頑張る」「自分にピッタリな死に場所を探す」「美味しいクレープを食べる。友達みんな集合」「叫ぶ」「一言祈ってから安からに眠る」「たらふくアイスを食いたい。ケーキもどか喰いしたい。友達と一緒に。でも三分間じゃ間に合わない」「とりあえず走る」 思ったよりも多様だ。最後の「走る」と書いた奴は陸上部の長距離ランナー。 これはドストエフスキーの体験で、彼は三分間をさらに三つに分けて、友達に別れを言う、自分のこれまでの事を考える、最後に、周りの景色を見る・・という風に使った。 しかし、死刑は中止されて、彼はシベリアへと流刑となり、そこで様々な犯罪者たちと出会い、釈放されて後に『死の家の記録』という本を書いた。 ドストエフスキーは、その後も、様々な傑作を書いているけれど、一番有名なのは『罪と罰』。 はい、教科書の237ページ開けて。今日は、「19世紀の文化」をやります。で、板書。 『罪と罰』の設定を話す。 貧しい少女がいて金がない。金がないから自分の身体を売って生活している。他方、金はあるけれど誰からも嫌われている金貸しのバーサンがいる。 大学生・ラスコーリニコフは、誰からも嫌われているバーサンを殺して金を奪い、貧しい少女を助けようとする。 さて、彼の行為は正しいか?バーサンのような「生きる価値もない人間」は殺してもいいのか? これも書かせる。圧倒的多数が、「駄目だ!生きる価値があるかないかは他人が決める事ではない」というしごく真っ当な意見。 ちょこっと、「迷う」という意見もある。 写実主義、自然主義の流れを説明し、普通の人たちが小説の主人公になっていくんだよと説明。 社会の出来事もどんどんテーマとして取り上げられていく。 たとえば・・あるところに温泉がありました。温泉の近くの町の人たちは温泉で働いたり、みやげ物を売ったりして生活しています。 ところが、この温泉の湯の中にバイキンがいる事を町に住む学者が見つけてしまいました。学者は町長のところへ行って言います。 「湯の中にバイキンがいる。温泉は営業しないほうがいい」 町長は言います。 「そんな事は出来ない。この町は温泉で食ってるんだから。バイキンを見つけたことは黙っててくれ」 さて、貴方がバイキンを見つけた学者ならどうしますか? 大体書けたかな・・・という頃を見計らって言う。 これと出だしの設定が同じ映画があります。何でしょう?こちらは温泉だけれど、その映画は、海水浴場。何かが見つかるんだねー・・。 ざわざわざわ・・。 回収。多数意見は、「公表する」。患者が出てからではもっとひどいことになるから。そっと密告する。噂を広める、という意見もある。 もちろん、黙っているという意見もある。 この作品は、ヘンリック・イプセンの『民衆の敵』という小説。バイキンがいると公表した学者は町にいられなくなる・・・という作品だ。ハッピーエンドにはならないね。題名が凄い・・『民衆の敵』。 あ、映画は。はい『ジョーズ』。サメがいるぞという事が広まると海水浴場に人が来なくなるから・・・ということで黙っていたら、バクッ!とやられるという奴ね。 イプセンの作品には、『人形の家』っていうのもある。幸せな生活をしてるんだけれど、一人前の人間として扱ってもらえない、私は夫のお人形さんなんだ・・・と思った妻が夫と子どもを捨てて家を出るという作品。 ただ、家を出てからどうなるか・・・という問題は残る。 中国の魯迅という人は、手に職も何もないんだから売春するか、食べられなくなって「ごめんなさい」と言って家に帰るかしかないなと言っている。 精神的な自立も大切だけれど、経済的な自立も大切だ、いうことやね。 蛇足 『男は辛いよ 柴又慕情』(吉永小百合様)のなかで、以下のようなセリフ。 「結婚してからは、君はバラの手入れだけしていればいいよ・・って言われて、・・急にその人のこと嫌になっちゃったんです」 おばちゃん「まー、そんな事言われたら、あたしなら結婚しちゃうねー」 寅さん「誰も、おばちゃんにそんな事いっちゃあくれないよ。せいぜい、『結婚したら君は鼻の穴だけほじってりゃいいんです』・・・ぐらいだろう」 劇場で観たときに『人形の家』をふと思い出した。 8月から『寅さん』全作品を衛星で放映するとのこと。 「待ってました!よっ!えぬ・えち・けい!」
2005.06.15
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サリィ斎藤さんが、『永訣の朝』の朗読についての想い出を寄せてくださいました。 たまたま読んだことのある『イーハトーブ乱入記』(ますむらひろし ちくま新書)に、同じような場面があります。 「僕が中学校に入った1965年、こうした方言は、暗黙のうちにこととされていた。もちろん子どもたちが決めたわけではなく、学校の方針のようなもので、僕らは一応共通語を話してはいたのだが、土地が持つ独特のイントネーションはなかなか消す事が出来ないため、訛った共通語を話していたのだ。 そして東京からの転校生が来たときのこと、その子が話している言葉を聞いた瞬間、僕は感動した。 「ああ、NHKだ。まるでNHKのテレビのように話してる。」 言葉の向こうに東京タワーが立っているような、そんなきれいな共通語を話すものは誰もなく、ズーズーとした奇妙なアクセントの共通語を話す僕らは、いつのまにか、自分たちの言葉である方言を、などという、実に哀れな人間になっていた。 どれだけ哀れな事か。 それは中学校の国語の時間、宮沢賢治の詩『永訣の朝』の朗読の時に起こった。 先生に指された人から列順に読み、やがて朗読の巧い女の子の番が来た。 「・・・わたしたちがいっしょにそだってきたあいだみなれたちゃわんのこの藍のもようにも、もうきょうおまえはわかれてしまう。おら、おらで、しとり、えぐも。」 女の子は感情を込めて読んだ。想いを込めて読んだから、「おら、おらで、しとり、えぐも」は、花巻弁のイントネーションではなく、米沢弁のイントネーションに包まれて、生きた言葉として教室に流れ、その瞬間だった。 「クスッ、・・・クスクス」。教室のあちこちで忍び笑いが起こった。 自分たちが、自分たちの言葉やアクセントを笑ってしまう。僕はなんとも嫌な気持ちになったのだが、しかし最初に笑い出したもの達は、半分正しかったのだ。かれらは、市街地から離れた訛りの強い地域のものたちで、日頃は多分「口が曲がるような気分」で、共通語を話していたのだ。 だからこそ、禁止されている方言が、授業の中に突然出てきたことに、そしてその方言を禁止しないことにただ笑うしかなかったのだ。」 複雑な思いで読みました。 方言というものと、共通語とは、横一線ではなくて、方言が一段下に置かれた時代の事ですが、さて、今は・・・横一線になったカナと思うと、そうでもありません。方言を笑いものにするテレビ番組もあったりします。 美しい方言の詩、文学、沢山出てきてほしいですね。
2005.06.14
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14日付けの朝日を見ていたら、以下のような記事があった。 「韓国外交通商省の報道官は、13日、中山文部科学相が11日に静岡市で開かれたタウンミーティングで、 『そもそも従軍慰安婦という言葉は、その当時なかった。なかった言葉が教科書に出ていたが、間違ったことが教科書からなくなったのはよかった』と発言した事について、『非常に不適切な発言』と話し、再発防止を日本政府に求めた。 中山文部科学相は13日、都内で記者団に対し、従軍慰安婦に関する11日のタウンミーティングでの発言について、『そういう方々が日本人も朝鮮半島出身の方もいっぱいいて、筆舌に尽くし難い苦労をされた事はよく知っている。ただそういう用語はなかったという事だ』と述べ、慰安婦におわびと反省を示した政府見解と、立場に違いはないことを強調した。」 歴史教科書から、「その当時なかったコトバ」を全部カットしたらどうなるか? 最初から躓く。「縄文時代」という言葉は、明治になって、「この土器は表面に縄を転がしてつけたような文様があります」というモースの指摘によって生まれた。 「弥生式土器」は、出土した東京の弥生町にちなむ。 縄文時代のご先祖様が、弥生人と対面した時に、「君たち弥生人は、稲作を日本にもたらしたんだねー」なんて言うはずがない。 第一、「日本」という国号が定まるのはずっと後の事になる。 日本史を受験科目としてとった学生が必ず憶えねばならない、「享保の改革」「寛政の改革」「天保の改革」等のコトバも、明治になって作られた言葉だ。 1914年から1918年まで続いて、ドイツの敗北に終わった戦争は、「その当時」は、なんと呼ばれていたか?「先の戦争」と呼ばれている。戦争が終わった時点で、「第一次世界大戦」などという言葉が出来ているわけがない。 そんな事は、ジョーシキなのだ。歴史学の世界では。ある事柄を指す術語は、必ず遅れて確定されるのだ。 こういう発言に接する時に私が思うことは一つしかない。 「馬鹿は黙ってろ!」 自分の発言が即座に翻訳されて、他国の論評の的になるという自覚がない人間は、少なくとも大臣になるべきではない。 ましてや、学問のジョーシキから考えて、弁解の余地もないようなことを抜かすなよ。 自分が馬鹿であるという事を発表したいなら、大臣を辞めてからにしていただきたい。中国・韓国との外交関係が悪化している時に、日本側が「ごめんね」と頭を下げねばならない発言をわざわざする事が理解できない。 それも、文部科学相だ・・・。最悪。
2005.06.14
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「夏は来ぬ」の音楽で始まる新潮社のカセットブックを聞く。 今日は朝はゆっくり起きて、ゴミを出し、近くのイトーヨーカドーに行って、『昼メシの丸かじり』文春文庫、『多民族国家 中国』岩波新書、『古代中国の文明観』岩波新書、『日本一多くの木を植えた男』(NHK 『知るを楽しむ』テキスト)を買う。 冷やし中華も買い込んで、キュウリを刻み、薄焼き卵を焼いて薄切りにしてトッピングとする。夏は冷やし中華だ。 で、カセットブックを聞く。 まずは、中島敦『山月記・名人伝・牛人』。朗読は江守徹さん。 『山月記』は、なんどか読んだ事はあるが、朗読を聴くとまた違った感慨がある。李徴の述懐は、胸に迫るものがある。「臆病な自尊心」という言葉、そして以下の言葉。 「本当は、まず、この事の方を先にお願いすべきだったのだ、己が人間だったなら。飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕すのだ。」 読んでいた時には、そんなに気にならなかった数行が、妙に迫ってくる。 『名人伝』の読み方は、軽い。 一つ一つのエピソードは、「うそだよー・・」という種類のものなのだが、聞くものにそんな思いを起こさせないように読まねばならない。 軽く、軽く。これが良い。 『牛人』。これはまだ読んでいなかった。 ぼんやりとベッドに横になって朗読テープ(最近ではCDも)を聞くのは素敵だ。 小泉八雲『ろくろ首・雪女・耳なし芳一・むじな』。朗読は橋爪功さん。 うまいなぁ。 以前、NHK「テレビ文学館」という番組があった。いろんな俳優が朗読を披露する。 強く印象に残っているのが、滝沢修さんの『トロッコ』。芥川龍之介の作品だ。印象に残ったのは、もちろん滝沢さんの朗読の素晴らしさにあるのだが、実はもう一つ理由がある。 次の日の朗読者は、名前の知れた俳優(名は伏せる)だったが、全く何も伝わってこなかった。 「朗読」というものの怖ろしさを知った。俳優の力が如実に現れてしまう・・。 強く印象に残った理由の一つが、この対比だった事は、疑いない。 「朗読」というものの怖ろしさというか、素晴らしさを知った体験はもう一つある。 やはり、NHKの『授業』という番組だったと思うが、長岡輝子さんが宮沢賢治の『アメニモマケズ』を取り上げて小学生たちの前で朗読した。 賢治がどんな状態でこの詩を書き綴ったのかを噛んで含めるように語った後に、朗読が始まった。こんな『アメニモマケズ』の朗読は初めて聴いた。 自分でも日本史の時間などに何の気なしに読んだ事があったのだが、解釈と読み方が全く違う。 国語科の先生たちの大変さを思った。 借り出して聞いているテープは、国語科の備品だ。感謝! 文化祭も終わったので、演劇部の生徒諸君には、きちんとしたメニューで練習をさせる必要がある。その一環として、「朗読」を入れようという魂胆なのだ。 部活の事と趣味が一致しているというのは大変な幸せだ。 明日から、もう一人の顧問(common?)のI先生に発声、腹式呼吸を生徒たちに指導していただく予定。きちんと基礎を作って、10月の地区大会に備えよう。
2005.06.13
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朝は少し寝坊。10時45分に家を出発して、播但有料道を福崎まで走って中国縦貫に乗り、山崎で下りる。目的地は、「播州山崎花菖蒲園」。 その前に、昼食をとろうということで、山崎インターを下りてすぐのところにある「ダ・ビンチ」というプチホテル・兼レストランに入る。 壁面にツタがはう、お洒落な店。店の中には、ドイツとイタリアの小さな旗がぶっ違いで飾ってある。数種類のパンがおいてあって食べ放題。バターとマーマレード、パイナップルジャムは手作り。こういうのが嬉しい。 ランチを2種頼んで4人で分け合って楽しむ。 パスタランチはアラビアータ、ダ・ビンチ・ランチは、鶏のピリ辛。 花菖蒲園に到着。やや傾斜のある道を歩いて登る。足に自信のない人は・・ということで、妻はカートに乗って運び上げてもらう。道の両端にアジサイが植えてある。花はもう少し先かな。 入園して、一望すると、色とりどりの花菖蒲が咲き誇っている。 種類の違いについての説明が書いてある。 アヤメは乾地に咲き、花の色は白か紫。花菖蒲は乾地と湿地の中間地帯に咲き、色は様々。カキツバタは、湿地に咲き、色は様々。 肥後系とか、江戸系とか大きく分類されている。 江戸時代というのは大変な園芸時代だった。なにしろ、大阪夏の陣以来、国内での大きな戦争がなかったのだから。 各種の花の品種改良は平和の報酬という面を持つ。 大名のなかには率先して品種改良に取り組んだというか、のめりこんだ人たちもいたようだ。 花の根元には、品種をかいた名札が立っている。 白い花の下には、「肥後系 雪煙」などという名札がある。 しばらく歩いていると、向こうの方に虚無僧が尺八を吹きながら歩いている。 え・・・なんだこれは・・・。カメラをかかえた人たちが密集している。 そうか、撮影会か。便乗してパチリ。 花菖蒲と虚無僧・・・なんか、あってないような気もするのだが・・。ま、いいか。ぱちり。 またしばらく歩くと、花菖蒲の間を浴衣美人が日傘をさして歩いている。 そこら一帯、望遠付きの高級一眼レフカメラを抱えた中高年で溢れかえっている。そうか、カメラ業界の浮沈はこのような人たちにかかっているのか・・。 カメラ本体、三脚を初めとするアクセサリー類、望遠レンズ・・馬鹿にならない金だ。 声が飛ぶ。 「こっちに歩いてきて」「ここで振り返って」「微笑んで」「裾をちょっとだけ乱して」・・。 このような中高年スケベオヤジに愛嬌を振りまく仕事は大変だろうなと思いつつ、つい何食わぬ顔でパチパチとってしまう。 園内をぶらり一周。白、黄色、紫、藤色、斑入り、そして白の中の黄色、藤色の中の紫、とりどりの色の組み合わせを堪能する。 さて、つぎは・・と。今日は、『JAF MATE』6月号のドライブ情報を参考にして走っている。 みちの駅「みなみ波賀」で林檎ソフトクリーム、ブルーベリー・ソフトクリームを食べて休憩して、朝来(あさご)へ抜ける。 「走行アドバイス」の箇所には、「道幅が狭く曲がりくねった峠道。見通しが悪いので対向車に注意」と書いてあったのだが、そんなところは見ずに、峠道を越える。Dではむりなので、2に入れて走る。 義姉は草花に詳しく、小さく白く咲いている花を「卯の花」と教えてくれる。 車中では、妻と義姉で「卯の花の匂う垣根に・・」と歌が始まる。 妻が娘に訊いている。「この歌の題名なんだった?」 即答で、「『夏は来ぬ』だよ。」 ずっと歌っていくと最後に出てくる。 家原遺跡公園に立ち寄って、縄文,弥生、中世の村落,住居の復元を見て、朝来から播但有料に乗って帰途につく。 さすがに疲れたので、帰途の運転は娘に任せる。 楽しかった。明日は代休で休み。ゆっくり寝るぞー。夜は、『ザッツ・エンターテインメント』観よう・・。
2005.06.12
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文化祭の二日目は朝から雨。 丁度校門立ち番の日だったのだが、3年生が遅刻して来る来る・・。 保護者の方からの電話も入る。 「すみません。予定が変わりまして、行けないと思っていたんですが、行ける様になりましたから、今から行きたいんですが。」 我が校の文化祭二日目は、公開はしているが保護者限定。混乱を避けるために、事前に申し込んでいただくというシステムをとっている。 「すみません。息子が全然教えてくれなくて、・・三年生で最後ですから行ってやりたいのですが、駄目でしょうか?」 「駄目でしょうか?」と頼まれて、「駄目です」とは言い難いから、校門の受付に頼み込む。軽くいやみを言われるが、これも受付の職務と心得、頭を下げて頼み込む。 卒業生もオッケーになっているから、先輩諸氏が後輩たちの出来栄えを見に来る。 「ええっ!こいつが・・・」という変貌振りも見事な奴もいる。口のききかたもしっかりしている。うーん、あの3年間は何だったんだ。 「在学中は本当にお世話になりました。」 はい、お世話しました。世間の教育力と本人の自己教育の力は大きい。 逆に、「えっ、あの子が・・」という逆の変貌組もいる。化粧ッ気の全くなかった子が、良い娘さんになっている。髪の毛も軽く染めていたりして、見とれてしまう。 いやいや、そんな事をしているバヤイではない。舞台裏の仕事がある。 と、言いながら、雨が降ったから中庭で予定されていた有志バンドがすべて体育館に入ってきて、臨時ライブ会場となる。 君たち、静かに盛り上がるように・・。と言っても無理だわな。 限度を超えないように見張る。 脱力感の固まりみたいな奴が集まったバンドがある。ドラムの奴は、俺なんでこんなことしてんねんやろ・・・というノリで叩いているという奇観。見ものだった。 女の子ばっかりというバンドも3つある。変わったなー。女の子のドラムは元気が良い。 技術の問題はカッコの中に入れて、「へー、こいつがこんなんやってるんやなぁ」という衝撃と笑劇に時を過ごす。 午後もサクサクと進行し、閉幕へ。 演劇部の舞台も無事に終了。思わず、「来年の企画」まで考えてしまった自分が怖ろしい。 昨日の優秀クラスの再演も、さらに楽しそうだった。 ぽつんと一人で過ごしている事の多かった子が、浴衣を着て、ニコニコ笑いながらみんなと踊っている。こんな時に,客観的な見方なぞ出来しはない。気がついたら鼻の奥のほうが熱くなっている。 文化祭等の学校行事では、生徒たちの良い面も、悪い面もむき出しで見てしまうことになるのだが、幸運だった。良いところをたっぷりと見ることが出来た。 夕方から、文化祭の総括責任者を囲んでの慰労会。食べ、喋り、飲む(私はウーロン茶)。楽しい時間を過ごした。 ◎担任を持たず文化祭終わりけり 残念だった事は事実だけれども、今は無理だ。その事を認めよう。
2005.06.11
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文化祭初日が終了。 ステージで頑張ったのが、3年生6クラス、2年生1クラス。 色んなタイプがあって楽しい。 担任が前面に出ている(この場合、「全面」?)クラスもある。 なにしろ、マッチ売りの少女がヤクザに絡まれているのを生徒席の後ろの方から馬に乗って出てきて助ける「暴れん坊将軍」が、そのままステージ上でヤクザを斬り捨て、しかる後に「マツケン・サンバ」を楽しそうに踊る。 これが担任・・というのは久しぶりに観た。 うーん、ザッツ・エンターテインメント・・でした。 男子クラスで、男子が女装して、女子が男装して・・というのもある。文化祭を巡って侃々諤々の議論を戦わすという中々硬派のテーマと気持ちの悪さがナイス。担任もスカートをはいていた。懐かしく観る。 全体としてはダンスが主流。「ライオンキング」「キャッツ」「シャル・ウィ・ダンス」。なかなかやるな。 複雑なフリを(練習を一生懸命やった成果だが)、なんなく、楽しそうにこなしている。 おい、それなのに、なぜ南北戦争は何年から始まったかが憶えられねーんだよ・・。 ダンス限定で能力が開花するあたりが今の生徒だ。 この集中力を、授業に・・って、私も高校時代に言われたな。止めておこう。 私の担当は舞台裏。リュックに、ガムテープ、はさみ、乾電池、スポット担当の生徒の為の小型懐中電灯などを放り込む。 何のために?必要だから。 早速必要となる。 4階の教室から、舞台背景に使用するための横断幕を下ろしていたクラス。階段を下ろしていく時に、裏をダンボールで補強していなかった箇所がビリッ!!。 「どうすんだよー。破れたぞ!」 「はい、ガムテープ。」 「先生、何でこんなもん持ってるん?」 「3年付きあっとると、こうなるんやて。」 「・・はさみ、・・・あります?」 「はいよ。」 舞台裏の雰囲気は良い。緊張感が支配している。ウケた!といっては喜び、すべった!と悲しむ。その一喜一憂が伝わってくる。びんびんと。 一つのクラスが終了し、ハケてしまい、次のクラスが来る。 「あかん、ガチガチや・・・。」 手持ちのうちわで扇いでやる。 輝くような笑顔。仲間との間に確実に存在している絆。舞台袖から注視するまなざし。すべて、授業中には存在しないものばかりなのが、なんとも悔しいが、仕方ない。素直に「今」を楽しもう。 担任がナレーションを担当するクラスもある。袖で生徒たちと舞台に見入っている。 今年はこれが出来ない。 演劇部の初挑戦、初舞台も終わった。観客が中々集中してくれなかったのは悔しいが、初舞台としては上出来だ。 演じながら「うるさいなー、もっとちゃんと観てろよ」と思っていたという生徒もいるから、将来が楽しみだ。 明日ももう一度上演。今度は一般の人が対象となる。 さて、一日目すべてが終わり、いよいよ、クラス・ステージ部門の中から1クラスだけを選ぶ瞬間が来る。選ばれたクラスは、明日、もう一度できる。 生徒会の生徒がマイクを握って、そっけなく発表する。 「『シャル・ウィ・ダンス』です。」 おい、それだけかよ。何のコメントもなし。 そのクラスは大騒ぎ。再演を確信していたクラス(3クラスほど)は、その瞬間から涙涙・・。 僅差だったという。1クラスだけというのはなんとかならないかな。せめて2クラスか3クラスくらい。どのクラスも頑張ってた。良かったと思うだけに複雑。 職員室に帰ってきて、しばらく論評。担任たちは自分のクラスへと散っていく。 しばらくして、『キャッツ』を演じたクラスの担任が、言い難そうに、おずおずと・・。 「すみません・・・もう一回、踊りたい・・と言ってますので、見てやってもらえませんか?」 体育館から少しだけ離れたところにある広場に行って見ると、生徒たちは三々五々集まってきている。一旦落とした化粧をして、舞台衣装もつけている。 CDラジカセをかけて、踊りだす。 校舎の窓からも声がかかる。 終わる。スッキリした顔で記念写真を撮っている。 自分の学年だから身びいきなのだけれども、こんなに頑張って、終わったあとも泣いているクラスが多い学年は久しぶりだ。 明日で終わり。 帰ったら、アン・バンクロフト追悼『奇跡の人』をBSでやっている。録画しつつ見る。パティー・デューク、アン・バンクロフトの傑作だ。 何度観たか分からないが、いつ観ても新しい。☆『阿片戦争』は、読み返してみたら、「自分しか分からない文章」になっていましたので、いつか再掲いたします。
2005.06.10
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明日は文化祭。今日は授業は3時間まで。 政経の時間は、プリントを作ってそれを課題としてやらせる。 後ろの方で、窓にもたれてぼーっとしている。同じような色とつくりの住宅の屋根が近くに見える。住宅のすぐ向こうに道路がある。丈の高いトラックのような車は、上のほうだけ見える。 道路の向こうには工場があり、黄色いヘルメットをかぶったおじさんがフォークリフトを操作している。 工場の向こうには、海岸線が広がっていて、赤と白だんだらのクレーンがぬっと立っている。 海が見える。大型の船、小さな漁船の姿が見える。 一人の生徒がやってきた。最近少し休みがちだった子だ。 「よう休んどったけど、どない。」 「学校に行きたないって言うか、誰とも会いたないし、話もしたないって事やってん。」 「自分、『元気』系やから、しずんどったりしたら、『らしないわー』言われたやろ。」 「そうやねん。ちょっとでもしんどそうにしとると、『らしないわー』言われんねん。」 「なんかそれってしんどいなー。しんどそうにしとるのも私やのになー。」 「そやねん。でも、私のこと分かってくれる子もおるし、ま、ガッコ行こか、みたいなかんじになってったんや。」 「よかったやん。あんまり頑張らんとぼちぼちおいで。」 「うん。」 皆勤で来れる子もエライ。 休みながらでも精一杯頑張って来てる子もエライ。 トイレ掃除を監督していたら、「私ら一生懸命来とんのに、先生らなんで化粧の事なんかで注意するん」と言ってくる生徒がいる。 いろいろあるんや、という話になる。 学校にはいろんな苦情電話が入る。 「自転車が並んで走っていて邪魔になる」というドライバーからの苦情。「男の子と女の子とがイチャイチャしながら帰っています。注意してください」という苦情。 「最近、服装が乱れてますよ。化粧も濃くなってますし、ちゃんと指導してるんですか」という苦情。 こんな苦情を、生徒指導の先生は毎日受けて、ひたすら謝ってるんだよ。 「陰でそんなんしてるん。」 苦情言われたら、言い返しできないしな。それに、最近茶髪の事とか化粧、服装についての苦情が多いぞ。 君らとは3年間付き合ってるから、この子はこんな子や・・て分かってるけど、初めて見たら、「わー、ケバイなー」思うで。人間関係できてなかったら。 「そやなー。」 「最近うちの学校、評判悪いでー。」 ちゃんとわかってるんかいな。なおせよ。 注意されたら、「化粧落としなさい」言われたら、ちゃんと従わなあかんわな。職員室には「化粧落としグッズ」が揃っているんやから。 学校には学校の「線」があるんや。ここまでやったらOKやけど、これ以上やったらアカン言う線が。 一回、色々やってきて、試してみるか? 「そやね。」 さて明日は文化祭だ。演劇部は9時から。みんな頑張れよー。 3年生、本番で力出せよ。最後やからな。 ※関西弁で分からないところもあると思いますが、ご容赦ください。
2005.06.09
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読売新聞グループ本社の渡辺恒雄会長(79)が、球団のトップに返り咲く事が決まったと報道されている。 引責辞任から10ヶ月たっての復帰だ。 「巨人軍は歴史的な危機を迎えている。グループ各社の強力な支援態勢を確立するため巨人軍の経営に復帰、参画する事になった」とのコメントが発表されている。 毎日新聞は、玉木正之さんのコメントを掲載している。 「あきれ返っている。こうしたやり方はスポーツ界では成り立たない。チームの人気をなくさせた張本人と言え、そんな人物を会長に復帰させる読売新聞社は哀れだ。 『たかが選手が』と発言するような渡辺氏を反面教師とし、野球界全体が良い方向に向ってほしい。」 なるほど。 読売新聞といえば、先日のJR西日本の事故についての記者会見の席上で、JR西日本の関係者を口汚く罵って、顰蹙を買った記者が所属している新聞として知られている。 新聞社としては異例の「改憲試案」も発表している。 人を罵り、国の基本中の基本法である憲法の「改正試案」を発表しようという新聞だから、自分に対しては余程厳しく臨んでいるのかなと思えば、どうもそうではないようだ。 この決定は、読売巨人軍の決算取締役会で行われている。 決算取締役会というのは、企業イメージに対しては関心がないようだ。 私がその会議のメンバーであったとすれば(ありえないけれど)、「まずいんじゃないですか。そんなことすれば『読売』のイメージダウンは避けられませんよ」と言うと思う。 もしも、その会議で、その種の発言がなくて、発言があったとしても重視されなかったという事は、メンバーに共通の思考様式として、「たかが国民」、「たかが読者」「たかが巨人ファン」というものがあったと推測できる。逃げ切れると踏んでいるのだ。なめられたものだ。 会議の行われた部屋には、大きな額が架かっていただろう。 そこにはこう書いてあるはずだ。 『人の噂も75日』。
2005.06.08
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ずっと以前に、チベット仏教の特集番組を見ていたら、「五体投地」という修行が出てきた。聖地ラサまで巡礼をするのだが、一々地面に倒れ伏して、ごにょごにょ・・とお祈りを捧げ、立ち上がり、また倒れ伏して、ごにょごにょ・・・。これを延々と続けている親子の姿をカメラは追っていた。 「こういう一生があるのだ」という思いで画面を見た事を思い出す。 親爺に連れられて巡礼の旅をするこの子は、これからどんな一生を送るのだろうか。彼もまた結婚して子供が生まれたら、その子どもを連れて、五体投地を行いながら、ラサを目指すのだろうか。 日本で、のほほんと生きている私のような人間には、口を差し挟めない、コメントのしようもない一生がそこにあった。 「衛星映画劇場」で、『キャラバン』を観た。原題は『ヒマラヤ』。ヒマラヤの山の中で生きる人たちのドラマだ。 近くで産出する塩をはるか彼方の村まで運んで、そこの麦と交換する。塩を運ぶ「キャラバン」が主筋となっている。 村の長老は頑固者だ。キャラバンが出発する日を神託によって決めようとする。「そんな事はもう古い。神に頼るよりも自分たちの力を信じよう」という若者のリーダーは、若者たちを率いて旅立つ。 村に残されたのは、長老と、「昔の若者たち」だ。 長老は、「昔の若者たち」を説いて、自分と共に出発させる。その中には長男の嫁と孫もいる。長老は、孫を将来の長老と見なしている。 ヤクの群れとの旅が続く。青い空と荒涼たる山を背景にした旅は、美しい。 巡礼に出会う。五体投地がちらっと写される。 長老は、疲れを訴える孫と老人たちを叱咤激励し、自らも率先して走り回り、ついに、先に出発した若者グループに追いついてしまう。 峠を越える前日、焚き火の中に塩のかたまりを投げ入れて神のお告げをきく。「吹雪」と出た。 食料は少なく、吹雪が酷くならないうちに峠を越える、と長老は断を下すが、若者のリーダー(カルマ)はそれに従わない。こんなに天気がいいのに吹雪になるはずがない、ゆっくり休んで出発してもいいではないかと彼は主張するが、集団は大勢として長老に従う。 峠は吹雪となる。全員の安全を確認すべく走り回っていた長老は雪の中に倒れる。 そこへ、少し遅れて出発したカルマが到着し、長老を背負って野営地まで無事に連れて行く。 仏塔のある野営地で長老は最期を迎える。彼は、カルマに長老の地位を譲り、以下のように言う。 「私がいつでも神託にしたがってきたと思うのか?反抗する中から長老は生まれてくるのだ。」 ふもとの村に行けば治療してもらえると皆は長老にすすめるが、彼は、「私の場所はここだ」と頑として動かず、息を引き取る。 くっきりとした生き方だ。 こんなところで生きている人たちがいる。 以前は、「なぜもっと便利なところで生活しないのかな?」と思っていた。 いまは、「こんなところで生きている人がいる」という事実をすんなり受け入れている。 明日は、「WATARIDORI」。観よう。
2005.06.07
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フィリピンで、「元日本兵」生存の可能性が高まってきたという新聞報道があった。虚報かもしれないと言うことになりつつある。 その時の新聞を読み返した。『毎日新聞』5月28日付に、以下のような記事が小さく載っていた。 「防衛庁防衛研修所戦史室(現・防衛研究所)がまとめた『戦史叢書』によると、フィリピンの守備軍を統括する第35軍(司令官・鈴木宗作中将)は、永久抗戦を行う『鈴木王国構想』をたて、徹底抗戦を命じた。この命令のもと、第30師団は1万5500人のうち、死者2518人、病死2137人、不明5593人を出した。」 引き算すると、生き残りは4252人となる。 「一将功なって万骨枯る」という言葉があるが、功もならずに万骨のみ枯れる、という事になっている。 フィリピンというと必ず思い出すのが、大岡昇平『レイテ戦記』。中公文庫全三巻。 大岡には、『俘虜記』『野火』等の名作もあるが、私はこれが最高傑作と思っている。 およそ、「日本軍」という組織体が歴史の中でどのように愚劣な組織になっていったかを検証した作品としてこれ以上のものはない。 高級将校が愚かになるということは、彼らが自己の部下を「私兵」と考えるようになったという地点で極まる。 それが『鈴木王国』だ。 四国に行ったときに、どうしても行ってみたかったのが、「坂東」だった。ここには、ドイツ村がある。ドイツ村の前身は「坂東捕虜収容所」だった。 第一次大戦でドイツと戦った(中国のチンタオ(青島))日本は、ドイツ兵を捕虜とした。そして彼らを「国際法」に従って処遇し、捕虜の感謝と尊敬を勝ち得た。 ソーセージ、ハムの本格的な製法、バウム・クーヘン、みんな「捕虜」が伝えてくれた。 捕虜に対して人間的待遇を保障するというのは簡単な事ではなかった。それをやりぬいたのは、松江豊寿という会津出身の中佐だった。 捕虜収容所の責任者がみな松江の如くであったわけではない。久留米収容所の責任者、真崎甚三郎は、捕虜を殴打する事を規則で認め、自らも捕虜を殴りつけている。この行為は問題となったが昇進には影響はなかったようで、真崎は後に陸軍参謀次長、教育総監となって、二・二六事件の陰の首謀者と見なされて失脚した。 この時の真崎の醜態は、こんな人間が陸軍の「教育総監」になるのか・・・と思わせるに十分だが、また別の話だ。 松江豊寿の事だ。 『二つの山河』中村彰彦・文春文庫 という本に、松江の事が書いてある。人の痛みが分かる人間だ。こういう人物は、ついに軍の中枢をしめなかった。 太平洋戦争で、日本軍は、戦時国際法の存在を兵に知らせず、ついでに「戦陣訓」なるものを作り上げて、「捕虜になるくらいなら死ね」と命じた。 当然、以下のような事が生じた。 日本兵は捕虜になったら、べらべら何でも喋った。 アタリマエだ。「もしも、捕虜になったら」という事を前提とした教育が施されていないのだから。 『レイテ戦記』は、分厚い。500ページ近くある文庫本で三冊。 読んでいって、印象に残った箇所はページの右隅を折るという癖があるのだが、何箇所折った事か。付箋もつけた。付箋だらけ。意味がない。 「どこにも行くところはなかった。七十までも生きられるかもしれない命が、たった二十五でおしまいになってしまう、という胸がつぶれるような思いに若い兵士は圧倒されていた。雨と火の後から、米兵が進んで来、通り過ぎていった。しかしほかに行くところはないのだから、日本兵はそのまま蛸壺の中に残って、狙撃兵となった。そして結局焼き殺された。」上巻p427 ここを目にしたときはボロボロ泣いてしまった。 親より先に死ぬ(殺された)若者を敵味方共に大量に生み出す、それが戦争だ。 降伏する自由を与えなかったために何が生じたかについては以前に引用した(「『靖国神社』は誰の問題か」) 『レイテ戦記』の最後の文章を引用する。 「レイテ島の戦闘の歴史は、健忘症の日米国民に、他人の土地で儲けようとする時、どういう目に遇うかを示している。それだけではなく、どんな害をその土地に及ぼすものであるかも示している。その害が結局自分の身に撥ね返って来ることを示している。 死者の証言は多面的である。レイテ島の土はその声を聞こうとするものには聞こえる声で、語り続けているのである。」下巻p323 アメリカはすでに「他人の土地で儲けようとして」どんな目に遇うかを身を持って示してくれている。戦争にたかるハイエナのような(ハイエナさんごめんね!)「戦争請負会社」の存在も明らかになってきた。 日本人が、傭兵として活動し、「戦争請負会社」で働いていた事も明らかになった。死亡が確認された彼は、何を求めていたのだろうか? 彼を英雄であるかの如く思う若者もいるという。 日本は今、岐路に立っているなと思う。 「戦争」という手段をとってまで解決すべき問題はあるのか?そういうことを考える。同じ愚を繰り返すのなら、250万人の日本側の死者と、おそらく1千万を超えるだろうアジアの死者は犬死となる。
2005.06.06
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朝から溝掃除。泥を土嚢袋に入れ、草は手で抜いたり鎌で刈り取る。 50過ぎたおじさんばかりでこれをやるんだから結構大変。 終わって学校へ。 体育館のステージを使って初めての練習。位置を決めたり、出てくるキッカケのセリフを確認したり。 声が出るようになったなァと思う。1年生ばかり7人。とりあえず、「やって楽しかった」を目標としてやってみよう。 金曜日と土曜日の2回。月曜からは最後の追い込みだ。 中庭では3年のクラスの生徒が出てきて練習している。 大道具を作るもの、ダンスの練習をするもの、音響、照明・・。 クラスが一つにまとまって活動しているのはいい事なのだが、そこに入りきれない生徒にとっては辛い。 昨日、模試の監督を終えて降りてきたら、1年生の時に担任した生徒のお母さんから電話があった。担任が出張しているので、私がご指名。ありがたい事だ。 ダンスの練習が上手くいかなくて、泣いてるそうだ。「学校に行きたくない」とも言っているようだ。クラスの生徒が2名ついてダンスを教えてくれているのだが、上手くいかない。 本人は一生懸命頑張ろうとしているのだが、その事も分かってもらえないようです・・、とお母さんの言葉は沈みがちだ。 クラスのみんなもいいものを作ろうとしているので、どうしても力が入りますしね・・と私が言うと、お母さんは私もそういったことを言うんですが、そう言うと、「お母さんは分かってくれない・・・」と娘は言うんです、と。 で、以下のような事を言う。 お母さんは、○○さんのいう事をそのまま受け入れて、「しんどい事があったら代わって貰ったら」と言ってもいいんじゃないですか。 大人の役割としては、社会の仕組みを教えたり、クラスの生徒の代弁をする事も大切ですけど、お母さんの今の役割は、「お母さん」に徹して、100%受け入れてあげたらいいんじゃないですかね。 そうこうしているうちに、本人の中で、「頑張ってみよう」という気持か、「やっぱり代わって貰おう」という気持が固まったら、あとは本人さんが担任に言っていくと思うんです。そこまで肩代わりする必要はないと思いますけれど、今は、本人の味方になってあげたらどうでしょうか。 明日も学校に行きますから、担任には、お母さんからこんな電話があったと伝えておきますから。 そして、今日、担任に伝えた。 担任曰く。 私も気になっていて、○○に、AとBとが教えているところを見てたんだけれど、どうしてもポンポン言うもんだから、○○が、「完璧にできない」「完璧に出来ないからやりたくない」と言って泣いてたんですよ。 私も、「完璧に出来なくてもいいから」って励ましたんだけど・・・。 それで、考えてる事はあるんですよ。・・・ダンスは、偶数でやるから、抜けられると本当に困るんで、私が振りを憶えてあの子に教えようかな・・とも。 最悪、どうしてもできません・・となったら、私がでようかなって・・・。 さて、このあと、私は口ではなんと言ったか、心の中ではなんと考えたか、皆様はおわかりだろうか。 あ、そうやったん。ま、今日は○○は来てない様だから、明日、本人がなんか言ってくるような事があったら聞いてやってくれる・・。 えーっ、そうかぁ、そこまで考えていたのか・・・偉いなぁ。・・・こうなったら、○○よりも、担任がダンスをするところが見てみたいなぁ・・。・・・いやいや、いかんいかん、こんな事を考えてはいかんなー。 うーん、でも考えてしまうなー。 月曜日どうなるかなー・・。 このように、50を過ぎた私のようなタヌキは、ろくなことを考えないのである。
2005.06.05
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宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』は、魅力的な作品だ。 うちには、絵本『銀河鉄道の夜』がある。藤城清治さんの美しい影絵の挿絵が入っている。 それと岩波の『銀河鉄道の夜』。ちくま文庫もあるはずだ。 演劇の世界では、水野陽子作「破稿『銀河鉄道の夜』」という作品があって、関係者の間では有名だ。 前の学校で、引退した演劇部の三年生たちが、市民会館の中ホールを借りてこの作品を上演した。 観ていてぼろぼろ泣いてしまったのは、本の素晴らしさと彼らの演技と両方が素晴らしかったからだが、今日、『銀河鉄道の夜』に関する素敵な本を読み終えた。 『イーハトーブ乱入記』ますむら・ひろし ちくま新書 ますむら・ひろしさんは、『銀河鉄道の夜』という漫画を描いている。それも、猫で。 ジョバンニも、カンパネルラもみんな猫。猫にした理由。 まずは、ますむらさんの猫への思い入れの深さ。 水俣病解明の為に水銀汚染した大量の魚を与えられて苦しみ痙攣する猫の姿にショックを受けた事がその出発点。 そして編集者の一言。 「登場人物は、みんな猫でな。」 「ええ!猫で・・・。」 「ああ、猫でだよ。だいたいお前、人間を描くのがヘタだろう。猫で行けよ、猫。」 「賢治は二人の顔かたちをまったく描写していないのだ。・・人間の顔でジョバンニの顔を描くと幻滅が起きる。」 この後で、「賢治は猫が嫌いだったか?」という考察があり、猫好きとしては見逃すわけにはいかないところ。 この本の面白いところは、『銀河鉄道の夜』をとにもかくにも「絵」にしなくてはならない、「漫画」にしなくてはいけないという悪戦苦闘が包み隠さずに披露してあるところだ。 ますむらさんは、「討議『銀河鉄道の夜』とは何か」青土社 という本に出会う。 筑摩書房からでた賢治全集の編集を行った入沢康夫氏と天沢退二郎氏の対談本だ。この中に、「ジョバンニの町の地図」「銀河鉄道の列車内の座席図」という図が載っている。 ますむらさんはあきれてしまう。 「ああ、大の大人が二人して、町の地図まで描いて調べるなんて・・。いくら真剣に討議するったって、相手は『童話』なんだよ。そんな地図や座席図なんか持ち出したら、どこかに間違いや矛盾が出るに決まってるじゃん。もう、詩人って、大人げないねえ。」 ところが矛盾はどこにもない。 「幻想的風景でいながら、賢治は位置や風景のミスや矛盾を犯していない。そして天沢さんの視覚調査もミスしていない。」 たかが童話・・と思っていたらどうやら違うぞ・・となってくる。引き込まれる。 そうなってくると、一つ一つがひっかかってくる。 「三角標」とは何か?どんな形をしているのか? 「天気輪」とは何か?どんな形をしているのか? 銀河鉄道の車窓からは何が見えるのか?星が出てこないのはなぜなのか?ここのところは圧巻。 忠実に漫画化を図ると言うことは、これら一つ一つに「これ!」という解答を出す(とりあえずであったとしても)ことだ。 『銀河鉄道の夜』は、何度も手を入れられている。初期形でいくのか、最終形で行くのか? 疑問は後から後から湧いてくる。 この本を読み終えた私の手元には、『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』(ともに朝日ソノラマ)がある。作者・ますむらさんの奮闘の跡を二冊の漫画でたどる楽しみが私を待っている。 賢治は、岩手から、「イーハトーブ」を作り上げた。ますむらさんは、山形県の米沢から「ヨネザアド」を、そして東京を抜け出してすみ始めた醤油の町・野田の愛宕駅から、「アタゴオル」を作り出した。 『銀河鉄道の夜』については、山のような研究書が出ているが、「漫画化する」という視点で書かれた本は初めて読んだ。オススメです。漫画と共にどうぞ。 さて、明日は町内会の溝掃除、そして、演劇部の舞台練習。忙しくなりそうだ。 蛇足 金沢の喫茶「あたごおる」は健在かなぁ? 蛇足 漫画『銀河鉄道の夜』の中で、十字架に向って「ハルレヤ」「ハルレヤ」と歌っている人たち。これは、「ハレルヤ」ではないのです。 賢治の手稿には、はっきり「ハルレヤ」と書いてある。なぜだろう?
2005.06.04
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妻と話していて、激しく驚いた。 「あんね、私こないだ人間ドック受けたやん。ほんで『肥満』になってしまった。」 えーっ!!!えーっ!!!えーっ!!! 「『肥満』になってしまった」・・・「なってしまった」 それまではそうではなかったという事か? 「2キロ増えたから肥満の範囲に入ってしまったんやて。」 そっ、それはどんな「範囲」なのだ? それまで「肥満」ではなかった・・・・。それでは、これまでは何だったんだ? 縦と横が同じになりつつあっても、「肥満」とは言わないのか? 妻は、「体脂肪率」とか、「健康体重が」とか、「何とかで何とかを割って、何かをかけて」とか言っている。ついには、言うに事欠いて、私に向って「最近太ってきたやん」という始末。 「お前にだけは言われたくないぞ」と言うと、 「子ども二人も産んだんやからしゃあないやん」と言う。 で、グーグルで、「肥満」というのを調べるべく検索を懸けてみたが、あまりに沢山出てきたのでやめた。 いやー、びっくりした。 眼からうろこが落ちるどころか、目玉そのものが飛び出しそうになってしまった。 これを以って、「すべての統計なんか信じられない」というのは、「男はみんな狼よ」という断定が間違っているのと同じなのだが、言ってみたい思いがするなー。 今晩うなされそうだ。
2005.06.04
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演劇部の顧問会があった。 二年ぶりに部員が入ったから部が復活し、久しぶり出張。 今年の県大会の会場が明石になるということで、夏休み明けくらいから忙しくなりそうだ。 帰途、方向が同じだったので、ある方と一緒に帰る。 「休んではったんですね」と質問されたので、別に隠す事でもないので、「鬱です」と答えた。 「鬱やったんですか。先生、すごく繊細なところがある方やから」(ここは本当にこう言われた) で、これはいけないと思って補足した。 「そうですね。私と距離が遠くなればなるほどそう思ってくれる人が多いみたいで、距離が近くなればなるほど、『ウソやー、あいつがなるわけがない・・』と笑ってます」。 自分では、局所的に精神の網の目が細かくなっているところがあり、あとは、スカスカだと思っている。 話していると、彼女もそういう経験があるという。 高校生の時、教科書を見たら急に涙が止まらなくなった。なぜそんな事になるか分からない、ずっと自分の部屋に閉じこもって悩んだ。 それまでは結構頑張り屋で、母親の期待にそうべくいろんなお稽古事なんかも熱心にやっていた。しかし出来なくなった。 ある時など、目の前にあった教科書をびりびりに引き裂き、鉛筆とか筆箱を投げ捨てた。 その少しあとで、「学校休みたい」と言ったら、母が、すんなり休む事を認めてくれて、「学校に行くより大切な事があるから」と言ってくれて、気持ちがふーっと楽になった。 私、こんな経験をしたことがあんねん・・言うて生徒に話すこともあるんです。 母は、ひょっとしたら知っていたのかもしれませんね、私のこと。 私は教師になって二年目に学校に行けなくなった事がある。朝起きると頭が痛い。電話して、「体調が悪いので休みます」と告げて、寝る。 昼過ぎると、スッキリしている。でもまた朝になると・・の繰り返し。 昼過ぎてスッキリするのは、「今から行っても仕方ない」と心と体が納得するからだ。 自分のクラスで不登校が出たときに、その生徒が私と同じ状態である事を知って、そうだったのかと思った。 ただこれは、短期間で治った。理由はわからない。 下の娘が、中学の時に不登校になった。アトピーがひどくて、関節の部分が真っ赤になっていた。体育大会のフォークダンスの練習で、男子が手を繋ぐのを嫌がったらしい(本人の言)。で、学校へ行けなくなった。いじめもあったようだ。 そんな状態になって、少し経ってから話をした。 「学校に行くのが辛かったらやめてもいいんやで」と言った。 別に、先のことまで考えていったわけではない。場当たり的だ。 娘の顔がそれまでは、能面のようにコチコチだったのが、上のほうから、すーっと溶けていったのを記憶している。 中三の学年が始まると同時に教室に入るようになった。保健室登校の期間もあり、担任の先生、保健室の先生、様々な先生にお世話になった。 ただ、その時の記憶・体験は長い間本人の中に残ったようだ。 かなりあとになってから、妻から娘が、「私は学校の先生の娘なのに学校へ行けなくなって、お父さんの顔に泥を塗ってる」と言っていたと聞いた。 教師の子どもはそれだけでプレッシャーだ。 休んでいる娘に、「早く行きなさい」という言葉をかけたことは一度もなかった。しかし、そう思ってくれていた。 気を遣ってくれて有難うと言う気持ちと、可哀想にという気持の両方があった。ちょっとほろっときてしまった。 子どもは親が想像している以上に親の事が好きだ。親から冷たくされたり、無視されたり、評価されなかったり・・ということは子どもには辛い。 親のことなんかどうでも良いと腹をくくってしまえば楽になれるが、そうはなかなかいかない。 「鬱」についての番組を12チャンネルでやっていた。スタジオには、企業の人事担当の人、企業医、カウンセラー、いろんな立場の人が参加して、様々な経験が語られていた。 鬱と診断されたらリストラされたという話がある一方で、このような取り組みが深く、そして広く広がって行ってほしい。
2005.06.03
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家に帰ってメールを開いたら、いっぱい来ている。「売胡坐」のメール多数。全部「ごみ箱」に放り込む。 さて・・・。あっ、久しぶりにエムさんから来てる。前の学校で担任した事がある人。 読んでいて、これは、日本全国、というか、全地球60億人の方々に読んでほしくなったので、本人の了解はあとでいただく事として、とりあえず紹介する。 すごい。「先日、我が家のお台所にムカデが出ました。後で考えてみると「出た」のではなく洗濯物と共に「持って入ってしまった」可能性が高いのですが。コワイですねー。ムカデ。お風呂上りにお台所の電気をつけて、スタスタ奥まで歩いていき振り返ったら、ムカデ。思わず大声をあげてしまったので、4歳の息子(しかも素足)が来てしまいました。「来たらあかんっ!!」と叫ぶ母が既にパニックなので、息子もつられパニック!このままでは、息子に危害が!しかもこやつ(ムカデ)、逃亡を謀っているぞ!家具の裏にでも逃げられたら、安眠なんてできない!でも近寄るのヤだ!ぱにっくぱにっくぱにっく・・・・・・っ!ふんっ!!・・・スリッパで踏んづけてしまいました。踏んづけてからがまた、タイヘン。スリッパの上からでも、ぐにょぐにょ身をくねらせているのが伝わるしアタマとしっぽがスリッパの両端から見えてるし(大きかったのです)踏んづけながらボロボロ泣いてしまいました。ヘンな光景でしょうね。ムカデ踏んづけながら「いやー、やーだー」と泣き叫ぶ30過ぎた女の人。死に物狂いで泣き叫ぶ息子がダンナさんを起こしてきてくれたのですが寝ぼけ眼でヘンな光景を見て目覚めた彼は、さぞビックリしたことでしょう。翌朝彼が言うには「オレはムカデに驚くより、泣き叫ぶお前らに驚いた」・・・やっぱり?で、ワタシの限界を知りました。ムカデでこんだけ大騒ぎしましたが、ゴキブリは自力で速やかに処理できるのです。これも娘が生まれてから。生まれるまでは「きゃあ~っ!!」などとかわいらしく(?)叫んで逃げてたのに。今や見つければ、はいてたスリッパを脱いで「ぱあーんっ!」とたたき殺します。今殺さねば、口あけて寝てるムスメの口に入っちゃうかもしれない、と思うので。しかし、ゴキブリまでが限界らしいです。久しぶりのメールで気持ちの悪いお話でした。失礼いたしました・・・」 ここまで。『母は強し』ってこのことだと思い知らされた。 あー、気分が良い。 ムカデさんのご冥福を祈ろう。
2005.06.02
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『クローズアップ現代』を見ていたら、「ペット大暴れ」というテーマを放映していた。 ペットが飼い主に噛み付いたりして大変な事態を招くケースが増えているという。なぜそんな事が起きるのかをおった番組。 本当は生後2から3ヶ月は、親元で育てなければならないのに、「小さいほうが可愛いから良く売れる」「予防接種も少なくて済む」等の理由で、1ヵ月半くらいで親から離されて売られてしまうという。 悪質なペット繁殖業者を知る人が言っていた。 「ペットの工場みたいなもんだ。」「金になれば良いと思ってる。」 それと、自分自身のライフスタイルとあわない犬を買ってしまったケース。 非常に活動的な種類の犬を買った(インターネットで)女性は、忙しくて、ろくに散歩もさせられなくて、犬がストレス過剰になって噛み付いたというケースが紹介されていた。 「しつけ」に熱心なあまり、「ご主人様は誰かを知らせる必要があります」と、『ペットのしつけ方』等の本に書いてあったので、体罰も含めて厳しくしつけたら、逆に犬にストレスがたまって反抗的になって噛まれた・・というケース。 このケースの場合は、親から離されたのが早すぎて、精神的に不安定だったという条件も重なっている。 「しつけに熱心」な飼い主のおちいり易い問題らしい。 スタジオでインタビューに答えていたしつけの専門家の人が言っていた。 「犬が飼い主の手のひらを見て不安定になるようであれば、犬は飼い主を信頼していないという事になります。なでてもらったり、エサをもらったりという事からすれば、本来、『手のひら』は、信頼の証なのですから。」 「予防する事も大切です。ゴミ箱をひっくり返してから怒るのではなくて、ちゃんとひっくり返さないように片付けておく方がいいのです。 言葉の通じない赤ちゃんと同じですね。」 獣医の方も言っていた。 「人間の都合で犬を飼ってはいけない。」 のリストが紹介されていた。 シベリアン・ハスキー、ミニチュア・ダックスフント、チワワ・・・。 「命には流行はないのですが・・」という言葉も、本当にその通り。「流行おくれ」となった犬が捨てられると言う事態に至っては、何をかいわんやだ。 5時半頃に、妻が帰ってきた。駅まで下の娘が車で迎えに行って一緒に帰ってきた。 玄関入るなり叫んでる。 「まろ、救出せなー!」 なんだろう・・。行ってみると、これがまた。 近くに、空き家がある。その家の屋根に上ったのはいいのだけれど、降りられなくなっている。情けなそうな顔でこっちを見て、「みゃー・・」と訴えている。 屋根の端から少し離れたところにブロック塀があるのだけれど、なかなか飛び移る勇気が出ないようだ。 うーん、情けない奴・・・でも、かわいいからいいのだ。 三人で励ます。これが効いたのか、勇気を振り絞ってブロック塀にジャーンブ・・!!! で、無事に帰ってきました。 勇気を振り絞ったために、本日の「勇気」が売り切れとなり、すでに寝ております。
2005.06.01
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