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さて、たとえ中世的な意味でも、魂への神秘的下降が生じるなら、その過程(プロセス)は次のようなものになる。 外界が、光や色の領域や、或いは、人間の感覚に与える、あらゆる印象(イメージ)と共に、神秘家の前にある。神秘家は、この全てに知性をもって働きかけるが、外界に囚われたままに留まり、外観を貫いて、外界の源泉に至ることはできない。 そこで、神秘家の魂は外界の概念的なイメージ、特に、受け取る印象(イメージ)から来る経験を、苦であろうと楽であろうと、或いは共感であろうと反感であろうと保持する。 人間の自我は、興味や内的生活全体と共にあり、外界及び、外界が人間に刻印づける印象へと向かわせる。だから、第一に、神秘家が外界から目を逸らすときには、外界が朝から晩まで神秘家の魂の中に生じさせた全てのものを計算に入れなければならない。最初、神秘家には、内的生活が外的生活の繰り返し、或いは、その投影のように見える。 では、外界から、その中に投影された全てを、忘れようとして、つまり、世界から引き出された全ての印象や概念的イメージを消し去ろうとして、魂が奮闘するなら、魂は空虚なままに取り残されるのだろうか? 真の神秘的経験は、魂が別の可能性をもつという事実に依存している。そのため、魂が、その内に有する記憶だけでなく、共感や反感という感情をも消し去るとき、それでも、魂は何らかの内容をもっている。神秘家は外界の印象が、その色鮮やかな像と、それが魂に与える影響により、魂の隠れた深みに存在する何かを抑圧するような効果を持っていると感じる。 外界に向かうとき、その生活は、より繊細な魂の経験をうち消すように、輝き出る力強い光のようなものであると感じられる。しかし、外界からの全ての印象が消し去られるとき、エックハルトが、呼んだような内的な閃光が輝き出る。そのとき神秘家は、目も眩むような外界を前にして、知覚不能であったために、以前、そこに存在しないように見えたものを魂の中で経験する。 神秘家はそのとき、その事を明白にさせるため、魂の中で経験するものは外界において出会うものと比較できるのかと問う。否、大変な差異がある。外界における、我々人間の事物に対する関係は、それらの事物が、その外面しか見せないために、その事物の内面性へと貫き至ることができないというような差異がある。 色や音を知覚するとき、その背後に、隠された側面と見なさざるを得ないものが横たわっているということに気づく。しかし、外界の印象や概念的イメージを消し去る瞬間、魂の中に生じる経験に関しては、事情が異なってくる。つまり、事物が、外面だけを、見せているとは言えなくなる。何故なら、その背後の存在は、事物の内にいて、事物の一部だからである。 そして、もしその内的な光へと、自身を開く才能があるなら、その事物は、その真の存在において自らを示すと同時に、その事物を外界において出会うものとは全く異なるものとして見ることができる。というのも、外界は至るところで成長と衰退、開花と萎縮、誕生と死から逃れられないからである。 そして、小さな閃光が輝き始めるとき、魂の中に自らを現すものを観察するなら、全ての成長と衰退、誕生と死に関する考えが、それには適用できないということが分かる。何故なら、ここで、何か独立したものに出会い、内と外というような外界に属する概念は、それに相応しくないからである。ここで、把握するのは、もはや事物の表面もしくは外面ではなく、その真の存在における事物そのものである。 自身の内にある不滅の要素を確かなものとし、そして、その要素と精神、すなわち全物質の主要な基盤として考えるべき存在との緊密な関係を確かなものにするのは、正に、この内的知識を通してだけである。 この経験は、神秘家に、「自分は以前の経験を克服し、抹殺しなければならない、通常の魂生活は終わり、そして生と死に対する勝利者である真の魂が自分の内に生じる」、と感じるように導く。 神秘家は、死後に生じる通常の魂生活において、この魂の内的な核の目覚めを、内的な再生として、つまりキリストの死と再生という歴史的経過(プロセス)に似たものとして経験する。こうして、神秘家はキリスト事件が内的で神秘的な経験として、魂と精神の中で生起するのを見る。 もし、この神秘主義的な道を最後まで辿るなら、全ての経験の統合とでも呼べるようなものに到達することがわかる。何故なら、その道は感覚知覚の多様性、すなわち知覚と感情の潮の満ち引きや思考の豊かな多様性が単純化されるという、魂生活の本質に属しているからである。というのも、生活の中心点である自我は、魂生活の全体に統一を創り出そうとして絶えず働いているからである。 だから、明らかなことだが、神秘家が魂経験の道を歩むとき、その経験は、あらゆる種々雑多なものが、自我により方向付けられた統一に向けて努力するような方法で、神秘家の前にやって来る。従って、全ての神秘家の中に精神的な一元論とでも呼ばれるものを見い出す。
2008年06月30日
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今回取り上げるのは、広範に混乱がみられるテーマである。少し前に、一人の教養ある学者が、暗く、不可解で、知識の範囲を超えた存在を容認しているという理由で、ゲーテを神秘家の内に入れるべきだと断言するのを聞いた。多くの人がこの意見に同意するだろう。 今日、未知なるものに対して、神秘主義、或いは神秘的と呼ばれない存在があるのだろうか? 何かはっきりとしない存在があるとき、もし、それに対する、その人の態度が「知らない」から、「ボンヤリと感じる」までの間を漂うなら、その人は、それを神秘的であるとか、不思議だとか、言うだろう。 ある事象に関して、ある種の無思慮や、心理学的知識によって信頼に値する知見が得られないと、断言したいような誘惑に駆られるだけでなく、今日の習慣にもなっているように、他の誰かが、その事象に関する知識をもつ可能性をも否定するとき、その事象を神秘的として退ける。 (人間の知りえない人知を超えたタブーの領域を神秘的と表現し、退ける) しかし、もし神秘主義という言葉の歴史的起源を研究するなら、偉大な人物たちが、神秘的という事象に関する理解や、彼らが、神秘的事象によって、自分たちに提供された知見と信じていたものについて、いまとは全く異なる考えを持つようになるだろう。 不明瞭で不可解であることを、神秘主義の内容であるとは見なさず、その目標を、高次の明晰さ、より明るい魂の光を通して達成可能なものとして語った人たちがいたということ、そして、その明晰さの程度は、神秘主義の明晰さが始まる地点で、科学的な明晰さが終焉してしまうほどであることを理解するようになるだろう。真の神秘主義の経験を信じる人たちの確信とは、そのようなものである。 人間進化の最初期の時代には、神秘主義が多少見い出されるが、エジプトやギリシャ、そしてアジアの人々の秘儀において神秘主義と呼ばれたものは、現代人の概念的思考とは、非常に隔たっている。そのため、たとえ、現代人が、神秘的経験が取った古い形態の横を通り過ぎたとしても、神秘主義という考えは、ほとんど浮かんではこないだろう。 神秘主義の最近の形態、すなわちマイスターエックハルトに始まり、13世紀から14世紀を通して比類なき神秘家といわれた、アンジェラスシレジウスにおいて、その絶頂をむかえるドイツ神秘主義の形態から出発するなら、今日の概念にも近づくことができる。 もし、彼らの神秘主義を検証するなら、それは純粋に内的な魂的経験により、とりわけ、魂を、全ての外的な印象や知覚から自由にすることにより、世界の最も奥深い出発点に関する、真の知識に到達することを求め、そのため、魂は外界から引きこもり、自身の内的生活の深みに沈潜しようとしたことが見い出される。 言い換えれば、このタイプの神秘主義者は、どんなに努力して自然現象を分析しても発見できないような、また知性をもってしても把握できないような世界の神的基盤を、この方法によって発見できることを信じていた。 彼の観点は、世界の神的基礎の探求においては、人間の認識力では貫けないようなヴェールを、外界の感覚印象(イメージ)が形成するというものである。ところが、魂の内的経験は、遥かに薄いヴェールを形成し、外に出現する事象の基礎にも横たわる神的基盤に向けて、この内のヴェールを貫くことは可能であるというのが、この世紀(13世紀から14世紀)における、マイスターエックハルト、ヨハネスタウラー、スーソ等から、アンジェラスシレジウスへと至る神秘家の秘儀の方法になっている。 これらの神秘家たちが、内的探求の直接的結果と見なされるものだけでなく、それ以上のものを発見できるということを信じていたことは明らかである。 この冬の連続講義の中で、この内的な探求を、様々な側面全てにおいて扱った。もし、人間の内的存在と正当に呼ばれる存在の中を覗き見るなら、第一に魂の最も暗い深みへと到達する。そこでは、魂が、まだ恐れや恐怖、不安と希望、そして楽と苦、楽しみと悲しみの全領域にわたる感情に左右されている。 この魂の部分を感覚魂と呼んだ。更には、この魂の経験の暗い基礎の中から、悟性魂と呼ぶものを区別した。そして、その悟性魂は、自我が外界の印象(イメージ)を取り入れ、感覚魂の中に現れるものに、その生命を全うさせ、平衡を見い出すときに達成されるようなものである。 また、悟性魂の中に、内的な真実と呼べるものが生じるということも述べた。そして自我が、悟性魂への途上において獲得したものに更に働きかけるとき、自身を意識魂へと高める。そして、そこで初めて、自我についての明確な認識が可能となり、人間は内的生活から、真の世界認識へと導き出される。 もし、これら三つの魂生活の構成体を、我々の前に保持するなら、内的存在の中に自身を沈めるときに、発見する存在の概要が、そこにあり、自我が、その魂の三つの構成体に、どのように働きかけるかを見い出し得る。 既に述べたような方法で知識を追い求めた、これらの神秘家たちは、この魂の深みへの沈潜によって、何か別のものを発見できると信じていた。というのも、彼らにとっては、魂生活の内的経験は、存在の源泉に至るためには通過すべきヴェールに過ぎなかったからである。そしてとりわけ、彼らは、もしその源泉に到達するなら、外的な歴史がキリストの生と死として提示するものを、更なる内的経験として、自身が経験すると信じていた。
2008年06月26日
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最近、CS放送で、「天才柳沢教授の生活」をやっていた! 原作は漫画だが、かって私は、このドラマをはじめてみて、柳沢教授のファンになり、原作漫画を読み漁ったことがある。 はじめてみたそのドラマが最終回で、当時は、なんでいままで気が付かなかったのか、自分を怨んだもんである。その悔しさもあり、原作漫画をすぐに読み漁ったのであった。 久しぶりにみて、とても懐かしさを覚えた! 天才かどうかは置いておいて、柳沢教授のような人間性が、私の理想である。 最終回の柳沢教授の主題は、「結婚」である。 私は独身だが、柳沢教授と同じように、「結婚」について、それなりに考えたことがある。 「結婚とは人生の墓場である。」という名言が残されているが、既婚者に聞いてみた意見の大凡は、「結婚とは、地獄に近いものである」というものだった。 しかし、地獄とはいっても、結婚してよかったかと問えば、よかったという回答が返ってくるのも大半でもあった。 この2つの意見をそのままつなげると、地獄がそんなによいのか、ひょっとしてマゾと考えてしまいそうだが、そうではなく、試練を超えて成長する自分に気づくようなものなのだろう。つまり、よい経験を積んだという意味に捉えたい。 さて、柳沢教授は、いかなる結論に至ったかといえば、娘の結婚騒動を通して、結婚とは非常に個人的な問題であり、人と人とを奇跡的に出会わせ、結びつけ、劇的な運命を共有させるものであるというような結論を得たようである。 流石に柳沢教授だと思った! なぜなら、正に、結婚とは、全くのアカの他人を結びつける魔法のツールだからである。確かに、そこには、恋愛という一味きいたスパイスが必要であるが…。 人は、本来、家族を通して、笑いと涙を分かちあう。家族は運命共同体だからである。一人で生きていくには、寂しすぎるように人間を造ったのは、神様の悪戯なのだろうか? 男女でなければ、到底結びつかない二人が結びつくのだから、結婚とは宇宙の奇跡である! かの賢人ソクラテスは次のようなことをいっている。 「結婚をしなさい。良妻なら、喜びと幸福が得られるだろう。悪妻なら、哲学者になれるだろう。」 勿論、悪妻とは、ソクラテスの妻のことである。 つまり、ソクラテスは、妻のお陰で、私は哲学者になれたともいっているのである。 恐らく、その意味は、地獄をみなければ、天国に行けないということなのだろう。 実際、人間は死後、まず地獄へと赴くというからである。地獄巡りを行い、地獄で、あらゆる欲望を捨て去り、自分のなかの純粋な愛だけが天国に行けるのである。いわゆる禊である。 つまり、結婚とは、当然、地獄なのである。配偶者に期待したことは全て裏切られ、その欲望は、配偶者により無に帰せられる。天使の輪が、いつの間にか鬼の角にかわっていく。鬼に虐げられ、閻魔様に審判され、夫婦間に残るのは、ただ純粋な愛だけである。 つまり、結婚とは、死後の霊界の地獄巡りの予行練習ともいえる。 しかし、いまだ私には地獄へと赴く勇気はない。
2008年06月25日
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以前、別の連続講義の中で、自我が感覚魂、悟性魂、意識魂に働きかけるだけでなく、その働きを通して、自身が益々強化され、成就に向け、近づく事を見てきた。この事から、「笑いと涙」が自我の自己教育とその力を強化するための手段になり得ることが容易に分かる。 だから、「笑いと涙」の中に表現される魂の力を刺激する、演劇の創作が人間の発達(進化)に向けて、大いなる教育の源泉の1つとして位置づけられるのは確かである。 悲劇的なドラマを体験するということは、実際、本当にアストラル体を押し縮め、それにより、自我に確かさと内的な凝集力を与えるという効果を有している。逆に、喜劇はアストラル体を拡張させる。喜劇は、見る人が、愚行や偶発の一致から、自らを超越させるからである。 この事から、芸術的な創作行為を通して、魂の前にもたらされる悲劇や喜劇が、いかに人間の発達(進化)と密接に結びついているかを見る事ができる。 人間の本性を、その最も詳細な面に至るまで観察する人は、毎日の経験が、偉大な事実の理解へと導くことを見い出すだろう。芸術的作品、例えば、人生には「笑いと涙」の間を行ったり来たりする一種の振り子があるということを、教えるだろう。 自我は運動(動き)の中にあることにより、発達(進化)できる。もし振り子が静止しているなら、自我は拡張したり、或いは発達(進化)したりすることができず、内的な死に屈することになるだろう。人間が発達(進化)する上で、自我が笑いを通して、自らを自由にし、一方では涙を通して自らを追求できるのは、正しいことなのである。 確かに、これら2つの極の間に、バランスが見い出されなければならない。それは、つまり自我がバランスの上で完成を見るからで、決して、狂喜と絶望の間を行ったり来たりすることの中ではないからである。自我は、一方の極端へと同じく、別の極端へも振れて行く可能性があるような、両極端の静止点でのみ自らを見い出す。 (カオスでいう不安定な平衡点、あるいは静止点のことだろう) 人間は、徐々に自身の発達(進化)を導く指導者にならなければならない。もし、「笑いと涙」を理解するなら、笑いと涙を、精神の顕現と見ることができる。というのも、いかに人間が内的な解放の外的な表現を笑いの中に求めるかを、そして一方では、その自我が、外界の中で、ある喪失を被った後、いかに涙の中で内的に強められるかを経験し、認識するときに、人間はいわば透明になるからである。 「笑いとはそもそも何なのか?」、というような問いに対して、次のように答えることができる。 「笑いとは、人間が、自らに値しないものに巻き込まれることなく、決して虜にされるべきでないものから、笑いと共に超越するために、解放に向けて苦闘していることの精神的な表現である」、と。 同様に、涙は、他の誰かと外界において結びつけていた糸が断ち切られたとき、それでも、その涙のただ中で同様の結びつきを求めているという事実の表現なのである。 泣くことを通して、自我を強化するとき、実際、自分に次のように言っている。 「私は世界に属している。そして世界は私に属している。何故なら、私は世界から引き離されていることに耐えられないから」、と。 さて最後に、いかに、この解放、つまり、あらゆる下劣で邪悪なものからの超越が、それを見た地上の全ての生き物が狂喜し、一方、邪悪な精神が逃げ出した「ゾロアスタースマイル」の中に表現されたかを理解できる。この微笑みは、邪悪な精神を窒息させるような全ての存在からの自我の超越を世界史的に象徴するものなのである。 そして、「存在には価値がない、もう世界とは関わりたくない」というような場面に、自我が遭遇し、その後、「世界は私に属し、私は世界に属す。」ということを肯定させるような力が、魂の中に湧き上がって来るなら、そのとき、この感情は、「涙が溢れて、地球が再び我を抱く。」というゲーテの言葉に代弁される。 この言葉はある確信を、つまり、我々人間は地球から締め出されることはないという確信を意味している。 我々人間は、涙の中にさえ、世界との密接な結びつきを有し、この結びつきが正に、我々人間から取り上げられたようにみえる瞬間こそ、再び、この結びつきを主張するという確信を、声にしたものが涙なのである。そして、この涙の主張は、世界との密接な結びつきの正当性を、世界の深い秘密の中に有しているのである。 人間と世界との結びつきを人間の顔を流れる涙から、あらゆる下劣なものからの解放を、人間の表情に浮かんだ微笑みから、以上のように知ることができる。
2008年06月25日
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冗談や、何か滑稽な事に対する笑いも同レベルにある。冗談を聞いて笑うのは、笑いが、対象との正しい関係をもたらすからである。冗談は真面目な生活において、遠く離れている存在を相関させる。もし、それらの間の関係が、論理的に把握できるなら、滑稽にはならない。 冗談は理解ではなく、(混乱状態にない限り)単に一種の遊びを喚起するような関係を打ち立てる。すぐに、その遊びの主導権を握っていると感じ、自身を自由にし、その冗談の内容から超越させる。この解放、すなわち、自身を何かの上に上昇させることは、「笑い」が生じるときに、常に発見できることである。 しかし、外界に対する、この「笑い」の関係が正当な場合もあるし、またそうでない場合もある。笑いを通して、正しく自身を解放しようとする場合もあるが、或いはまた、対象に向けられた自身の心が、そこで起こっている事を理解したくないか、もしくは理解できないような場合もある。 そのとき、「笑い」は事物の本性ではなく、自身の限界に起因することになる。この事は、未発達な人間が、ある人物を理解できないために、笑う場合である。もし、未発達な人間が、ある人物の中に、通常みられる、ありきたりな俗物的性質を見逃すなら、その人物を(多分、理解したくないために)理解する必要がないと考えるだろう。 だから、笑いを通して、自らを解放することは、あらゆる場合に容易に習慣になり得る。本当にある種の人々にとって、全てを笑ったり、愚痴をこぼすだけで、とにかく何も理解しないことが当然のことになっていることもある。彼らはフワフワとアストラル体を膨らまし、そして笑い続ける。 或いはまた、何か日常的思考で、対象を理解しようとする、いかなる努力にも値しないという態度が流行になっている場合もある。そのとき、人々は、様々なものに対して優越感を感じ、思わず、ニンマリするだろう。この事から分かるように、「笑い」は常に正当な留保の感情を表現するわけではない。留保が不当である可能性もある。しかし、「笑い」に関する基本的事実が、その事によって影響を受けるわけではない。 或いは、この人間の表現形式を、見積もり、誰かが利用するという事が起こるかもしれない。話し手が、聞き手に対して、自分の言葉が持つ効果を、聞き手が、話し手に賛同するかいなかに関わらず、予め見積もる場合を考える。 さて、あまりにも陳腐で、あまりにも聴衆レベルに比べて、程度が低いために、聴衆の魂といかなる密接な結びつきも織りなさないような形で、話し手が語るのが正当な場合もある。 実際、そうすることで、話し手は、本当に理解して貰いたい主題を取り巻く些細な事柄から、聴衆が自由になるのを手助けしている。しかしまた、常に笑いを自分たちの側に取り込みたいと思っている話し手もいる。 そのような話し手が、次のように言うのを、以前、聞いたことがある。 「私が勝利をおさめるには、笑いを巻き起こし、笑いによって、笑った人たちを、味方につけなければならない。何故なら、笑った人たちを味方につけていれば、勝利をなかばおさめることができるからだ!」と。 このようなことは内的な不正直から出て来る。 何故なら、笑いに訴える人は誰でも、聴衆(の気分)を、(何らかの対象を超えて)上昇させることを意図するような、反応を引き起こしているからである。しかし、話し手が問題を提示する際に、もし、その問題がただ単に取るに足らない些細にみえるレベルにまで引き下げたという理由で、聴衆が理解しようとせず、笑えるような形で提示するなら、たとえ聴衆がその事に気付かなくても、話し手は人間の虚栄心を当てにしていることになる。だから、この事から分かるように、このような笑いを当てにすることは、ある種の不正直性を含んでいる可能性がある。 同様に、いま述べたような涙に結びついた満足や幸福の感情を、人々の中でかきたてることにより、話し手が、人々を掌中にすることも、ときとして可能である。それは例えば、人前に、イマジネーションの中だけで何らかの喪失感を持ち出すような場合である。そのとき、その人は、その何らかを見い出せないのを知りつつ、それを渇望することに耽るだろう。 そのとき、その人は、自我を収縮させることにより、自分の自我性が強められるのを感じる。そして、この種の感情への訴えかけは、本当は人間の利己主義への訴えかけなのである。このように、これらの訴えかけの形態は、酷く乱用される可能性がある。何故なら、涙や笑いにつきものの苦しみや悲しみ、からかいや、蔑みは全て自我の強化や解放、従って、人間の自我性に関連しているからである。 だから、笑いや涙のような訴えかけがなされるとき、その標的となるのは、我々人間の利己主義であり、その利己主義が人と人との結びつきを破壊する。
2008年06月24日
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今、人智学の光の下に考察している事実は、ある種の科学的発見を照らし出すこともできるが、但し、それは、その事実が人智学的文脈における、全体性の中に置かれたときに限られる。 笑う人、或いは泣く人を観察するなら、それぞれ、その呼吸過程(プロセス)に変化が生じているのが分かる。嘆きが涙にまで深まり、アストラル体の収縮を導くとき、その収縮により、肉体も収縮し、吸気が益々短くなり、呼気が益々長くなる。 笑いの場合は、泣くのとは反対のことが起こる。つまり、吸気が長く、呼気が短くなる。笑っている人のアストラル体は緩み、同時に、肉体の繊細な部分が緩むときのプロセス(過程)は、肉体中の全ての空気がポンプで排出され、空虚な空間となった中に、直ちに外気が流れ込むのに似ている。 笑いでは、外的な身体の一種の解放が生じるが、そのとき息が長く吸われる。泣くときには正反対のことが起こる。アストラル体を押し縮め、同時に肉体を押し縮めるが、その収縮が一回の呼気を長く続くようにさせる。 笑い;呼吸の呼気が短く、吸気が長くなる。 泣き;呼吸の呼気が長く、吸気が短くなる。 またこの事も、自我により、魂の経験が物理的なものへと関係づけられる例で、つまり、人間の肉体にまで、自我がもたらす1例である。 これらの生理学的事実を取りあげるなら、太古の、人類の宗教的文献の中に、象徴的に記録されている出来事に素晴らしい形で、光をあてることになる。 つまり、ヤハウエ、もしくはエホバが生命の息を人間に吹き込み、人間に、生きた魂を授けたとき、十全たる人間の地位に、人間がいかに引け上げられたかを告げる旧約聖書の一節を思い出す。 それは、自我の誕生が、我々人間の意識に刻印される瞬間である。このように、旧約聖書の中で、呼吸過程(プロセス)が、真の自我性の表現として示され、人間の魂の性質との関係へと言及されている。 「笑いと涙」が自我の独特の表現であることを知るとき、呼吸過程(プロセス)と人間の魂の性質との密接な関係を直ちに理解できる。そのとき、深い真の理解が、我々の中に浸透すべきであるという、謙遜の気持ちをもって、太古の宗教的な文献を、このような知識の光の下で眺めることができるようになる。 人智学にとって、これらの太古の文献は不可欠ではない。大災害により、太古の記録全てが破壊されても、人智学的探求にとっては、それらの根本に横たわるもの(アカシャ年代記)を、自分で発見する手段がある。 しかし、このような手段によって真実を確認し、その後、紛れもなく、その同じ真実が太古の文献の象徴的で絵画的な言葉により描写されていることを発見するとき、その太古の記録に対する理解が、大いに高められる。 人智学的探求者により発見されるものに精通していた預言者に、その真実は起源をもつように感じるだろう。精神的洞察が、精神的洞察と何千年のときを超えて出会う。そして、このような知識から、これらの記録に対する正しい態度が獲得できる。 神がいかに人間の中に神自身の生きた息を吹き込んだか、神が人間に息を吹き込んだことによって、いかに人間が、自身の内に住む自我を見い出せるようになったかが語られるとき、これらの記録に残された出来事が、人間の本性にとって、いかに真実であるかを、「笑いと涙」についての探求に基づいて理解できる。 もう一点触れておくことがあるが、ただ簡単に触れるだけにする。でないと、あまりに手を広げすぎることになるからである。誰かが、次のように言うかもしれない。 「あなたの出発点は間違っている。あなたは外的な事実から出発すべきである。精神的要素は、純粋に自然の事象として現れる場所に求めるべきで、例えば、人が擽(くすぐ)られる場合である。擽られるような場合が、笑いに関する最も基本的事実である。あなたは、この事実とあなたの想像力豊かなアストラル体の拡張他との折り合いをどのようにつけるのですか?」と。 アストラル体の拡張が生じるのは正に、人が擽られるような場合で、いま述べたような事全てが、ただし、低いレベルだが、生じることになる。もし、自分の足の裏を、自分で擽るなら、擽られた本人は自分なので、擽られる行為を良く知っているので、笑いが起こることはない。 しかし、擽る人が、知らない誰か他の人なら、見知らぬ者の侵入として、理性では理解できない対象として拒絶するだろう。それから、彼の自我は、自らを解放し、アストラル体を自由にするために、超越しようとするだろう。 このような不適切な接触から、アストラル体を自由にすることが、動機のない笑いの中に、自身を表現する。それは正に、解放を、つまり、足を擽るという攻撃からの基本レベルにおける、自我の救出を意味している。
2008年06月23日
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福田というのは、とんでもない馬鹿のようである。乱気流の意味がわかっているのだろうか? 自分を特攻隊か何かの美化でもして、焼けのやんぱちになっているのだろうか? おいおい、指導者がそんなことで、よく勤まるな。 後期医療の反発はいまだ続いているのがわからないらしい! これで消費税まで、上げられたら、貧しい人は、死んでくれといっているようなものである。 まぁ、しかし、国民は、そんな馬鹿総理に付き合いきれないので、確実に、消費は冷え込むだろう。 もし、仮に消費税を上げても、馬鹿官僚が、予算を今以上に沢山使い込むだけで、国民に還元なんて全く期待できないんだからね。すでに、アホ官僚が予算分捕り合戦というから、この国のことなんて考えている奴なんか一人もいないんだよ。 財政再建とはお題目の私利私欲のために、金を使い込みたいだけなんだよ。 馬鹿息子に、借金増やすようなもんだよ! 大体、あの馬鹿小泉改革の目玉は、増税なき財政再建ではなかったのか? 住民税の事実上の増税、医療費、ガソリン税といい、道路問題、年金問題、全て、増税路線ばかりで、唯一の趣味の競馬の源泉徴収まで、増税しやがって、おまけに目的の財政再建など夢のまた夢で、赤字ばかり増やして、財政破綻させてんのが、小泉だろう。 ふざけんじゃねぇよ! 国民がどれだけ苦労していると思っているんだよ! 料亭通って贅沢三昧している場合か、吉兆の賞味期限切れのでも食ってろ! 北九州は、大雨で大変だというのに、この総理のノー天気ぶりには、天変地異も荒れ狂っても、何処吹く風のようである。 もう終わりだね、ニッポンは? こんな馬鹿総理で、よく国がもっているのが不思議だよ! しかし、実際は、自殺率がこの上なく高く、経済地位は降下し、まるで、沈んでいく船のような感じなのだけどね。とっくに危険水域を越えてしまって、気が付いていないだけなのだろうな。 とにかく史上最低の総理大臣に違いないな、福田はね。
2008年06月19日
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人間と動物との間の真のいかなる相違をも否定する人たちは、動物の世界の中にも「笑いと涙」に似たものを指摘するだろう。しかし、人間と動物の相違を正しく理解する人は、「動物はせいぜい吠える程度で、泣くまでには至らず、歯をむいて見せることはできても、決して微笑むことはない」と言ったドイツの詩人に同意するだろう。 ここには深い真実があり、その事を「動物は人間の中に住む個的な自我性へと、自らを引き上げることはない」という言葉で表現できる。動物は、人間の自我に属する法則に類似するように見える法則により支配されているが、その法則は、動物においては、その生涯を通して外的なものに留まる。 人間と動物との間の、この本質的な差異については既に、ここで触れている。すなわち、動物に関する限り、自我は、種属から構成されている、ということを以前述べた。例えば、ライオンとその子孫との間には、人間の両親とその子供たちとの間に見られるような(魂的な)大きな差異はない。 動物の主な特徴は、その型、或いは種の特徴である。人間の領域にあっては、各人が、自身の個性と自分史を持ち、これが我々人間の関心を引くが、動物にあっては、それは種の歴史となる。確かに、犬や、猫の飼い主の中には、ペットの伝記を書けると断言する人もいるだろう。 また、かって、生徒たちに一本のペンの伝記を定期的に書かせていた校長を、私(シュタイナー)は知っている。どんな事柄にでも、ある考えが適用できるという事実が重要なのではない。問題は、ある存在や事柄の本質に理解を持って、浸透する(貫き至る)ことである。 人間にとって、個人の伝記は重要だが、動物にとっては、動物史などに興味はない。何故なら、人間の本質的部分は、生から生へと生き続け、発展(進化)し個別的であるのに対し、動物においては、生き続け、進化するものは種のみだからである。 人智学においては、それら動物の種に情報を伝え、持続する要素のことを、動物の集合魂、もしくは集合自我と呼び、現実的なものと見る。このように、動物は、その自我を、自身(肉体)の外にもつ。動物が自我を持つことを否定するのではなく、動物を、外から方向づける集合自我について語っているのである。 それとは対照的に、人間に関しては、(魂の)最奥の部分へと貫き至り、周囲の存在たちとの個人的関係へと入っていけるような方法で、それぞれの人間を内側から方向づける個人について語ることができる。 動物が外的な集合自我の指導を通して確立する関係は、一般的な性格をもっている。動物が好んだり、嫌ったり、恐れたりするものは、その種に特有のもので、家畜や、人間と共に生きる愛玩動物においては、僅かに修正されているに過ぎない。 人間においては、環境との関係で愛や憎しみ、恐れ、同情や反感として感じるものは、個的な自我から湧き出してくる。だから、人間が、自我により、環境の中から自分を解放し、その解放を笑いの中に表現する特殊な関係、或いは逆に、人間が見い出し得ない関係を求め、その失望を涙の中に表現する場合の全ては、人間にだけに生じることができる。 子供の個性が、動物の段階を超えて、自身を明らかにするほど、それは益々、その人間性を「笑いと涙」の中に示すようになる。 もし、人生に関する真の観点を獲得するなら、人間と動物における骨や筋肉、或いはその他の器官の類似性といったような粗雑な事実に、第一義的な重要性を置くべきではない。人間が地上存在の中で最高の地位を占めていることの証明として、人間の本質的な特徴となるものを、その性質の隠された側面において追求すべきである。 もし、人間と動物との間の相違を明らかにする点で、「笑いや涙」のような事実の重要性を理解できないなら、その精神性において、人間を理解できるようになるために、上記のような最も問題となる事実へと上昇できない人は救い難い。
2008年06月19日
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シュタイナーの人智学を学べば、性同一性障害が障害でないことがわかる。魂と肉体が別物だからである。 性同一性障害を障害だと考えるのは、現代科学の過ちで、三次元世界の偏見である。人間は、経験から理論を形作るが、未知の体験に対して、理論を当てはめようとするのは無駄であるばかりでなく、差別を生じさせるだけである。 人間は、理解できない出来事に遭遇すると、途端に恐怖心がもたげ、理解しようという心を閉ざして、理解できない対象に対して攻撃心を生じさせてしまうからである。 この傾向は、大学教育を受けた権威主義者に顕著にみられるものである。このような教育を受けた人間は、未知なる対象に対して、知識は障害となる。 つまり、性同一性障害と名づける学問こそ、知識体系に破綻をきたしている証拠で、障害そのものなのである。学問というのは、未知のものを理解するためにあるのであり、差別するためにあるのではない。知識もまた理解のためにあるのであり、権威付けや知識を披露するためにあるのではない。 無知の知を知らない学問は、死んだ学問である。 さて、人智学から、性同一性障害を解説する。 確かに、魂には性がない。魂には性差はないが、思い癖のようなものはあり、それは前世の出来事に依存しているのである。つまり、かって女性、あるいは、男性として前世を送ったことが、非常に鮮明に魂に焼き付いていることはある。 一般的に、前世で男性なら、今世では女性というように、性差を交互に繰り返し、転生するといわれているが、男性、あるいは女性を続けることもあるが、7回連続して同じ性を繰り返すことはないといわれている。 つまり、交互に性を繰り返すことで、バランスをとっているわけである。 だから、魂には性差はないが、前世からくる強烈な思い、記憶は、鮮明な出来事と共に残されている。 さて、肉体であるが、これは両親の遺伝性に負っているので、勿論、一目瞭然で、性差がある。生まれて7歳までは、魂は、両親の遺伝から受け継いだ肉体をモデルにして、新たに肉体を構築するので、どうしても、両親に似たものに、肉体はならざるを得ないが、7歳以降は、魂の独自性により、両親とは似ていないものとなりうるのである。 特に、今生の魂の課題が非常に独特で、特殊な場合、それを克服するために、両親とは似ない肉体をつくりあげることがあるという。いわゆる突然変異というか、鳶が鷹を産んだといわれる類である。 さて、一般的に、魂が肉体に深く浸透すると、筋肉が発達し、男性の体型になり、魂がそれほど肉体に浸透しないと、丸みを帯び、女性の体型になるようである。 人智学では、魂と肉体を媒介するものを、エーテル体と呼び、これは東洋でいう「気」であるが、女性の体型をつくりあげる、つまり魂がそれほど肉体に浸透しない場合は、エーテル体が、強靭なので、いわゆる気が強いので、ここから、女性の方が精神的にタフであることがわかるだろう。 逆に、男性の体型をつくりあげる気の場合、肉体に深く浸透し、束縛されるので、気が弱くなってしまうのである。だから、男性は、精神的に弱いのである。 つまり、エーテル体と、肉体の性差は逆になる。 では、性同一性障害はどういう状態かといえば、例えば、両親から受け継いだ遺伝的な男性の肉体に、魂がうまく浸透できずに、女性の肉体に適した気の強いエーテル体をつくってしまう状態のことといえる。 だから、男性の肉体だが、精神は女性になってしまうのである。 女性の肉体に、精神が男性というのは、この例の逆で、遺伝的な女性の肉体に、魂が深く浸透してしまい、男性の肉体に適した気の弱いエーテル体をつくってしまう状態といえる。だから、女性の肉体だが、精神は男性になってしまうのである。 しかも、エーテル体というのは、前世の記憶を秘密糧に深く受け継いでいるものなので、魂が、そのエーテル体を通して、なんとか、肉体を制御しようとして葛藤に陥ってしまう傾向にあるといえる。 余談だが、古代人は、魂が、肉体のなかに深く浸透しなかったので、丸みを帯びた女性体であったという。古代の遺跡の彫像のほとんどが、女性体型をしているのは、この事からわかるだろう。 古代人ではないが、中世の絵画が、肉体を豊満に表現するのは、魂が現代人よりも、深く浸透せずに、丸みを帯びていた証ともいえる。現代人でも、魂が肉体から離れるに従い、豊満になっていくことでわかるだろう。 この事から、性同一性障害が障害でもなんでもないことがわかるだろう。 では、最後に、前世からのメッセージのなかの言葉を書き置く事で、性差からくる葛藤の解決法を提案してみたい。 「すべては愛……、すべては愛です。愛があれば理解できます。理解があれば耐えられます。すると、時が止まります。そして、すべてが今になります。」 「私たちの心の深い部分は、この世界の時間の法則に縛られていません。ずっと前に起きた出来事が、つい今しがたのことのように、未だに影響を与えたりします。 まるで昨日怪我したかのように、古傷が、気分や行動に影響を与え、時にはその力が時間と共に増してゆくことさえあります。 理解はこうした古いトラウマを癒す助けとなります。心の深い部分は、この世界の時空には、囚われていないので、過去の出来事を書き換えたり、再構築できます。 原因と結果は分かち難くしっかりと結びついているわけではありません。トラウマを取り消すこともできれば、傷になった結果を変えることもできます。たとえ、距離が離れている所でも、苦しみや傷からずっと時間がたったあとでも、深い癒しが起こるのです。」 「愛が人との関係に癒しをもたらすように、理解は恐れの軽減をもたらします。理解するということは、愛のそよ風を入れるために、窓を開くようなものです。すると、愛のその風が、疑いや不安を吹き払い、魂をよみがえらせ、人との関係を癒してくれるのです。 怖れは大抵、既に起きた事、もっと若かった頃や過去生(前世)で生じた出来事に関係しています。その事を忘れているので、こうした恐れを未来へと投影します。でも、怖れたことは、過去生(前世)で、すでに終わっているのです。 すべきことは、それを思い出し、過去に目覚めるだけです。」 「地球と呼んでいるこの学校の持つ問題の一つは、私たちは物質的な体ではなく、魂なのだということを思い出すのが、とても難しいことです。 私たちは常に、この三次元の世界の幻想や錯覚に惑わされています。お金、権力、名声、物の所有、蓄積、快楽などは、非常に大切で、時には人生の目的でさえある、と教え込まれています。 また幸せになるためには、他の人々から好かれ、尊敬されねばならないと教育されています。一人でいるのは惨めだと、教え込まれてもいます。 私たちは皆、霊的存在であるという真実に気が付くと、価値観は大きく変わり、幸福で平和になれます。 あなたは金持ちで、わたしは金持ちでないとして、(霊的に)何の違いがあるのでしょう? 永続するものは、魂の(経験からなる)財産だけです。 あなたは権力と名声をもち、私はもっていないとして、(霊的に)何の違いがあるのでしょう? 幸福は権力や名声からは得られません。ただ愛からのみ、得られます。あなたは私よりも好かれ、尊敬されているとして、(霊的に)何の違いがあるのでしょう? 多分、私はあえて真実を語り、真実を生きているかもしれません。そして、真実は、人気のないものなのです。幸福は内から来るものであって、外からや、人がどう思うか、ということから来るものではありません。嫉妬は、魂にとっては毒薬です。」 性同一性障害の子をもつ親の番組をやっていたが、子の性差が理解できないからといって、子を愛せないのは、真の親の愛とはいえないのではないだろうか? 肝心なのは、性差ではなく、性差に苦悩する子供への親の愛情である。性差は、親に真の愛とは何かと問うているだけである。性差を超えた処に真の愛を求めるべきなのでは? 性差のない真の魂への愛の試練が存在しているだけである。
2008年06月18日
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考えてみれば、福田が総理になってから、天変地異や事故の大嵐である。 イージス艦事故、サブプラ、年金、後期医療、食品偽造問題、官僚は不祥事続きで、ガソリン課税問題、物価は上がり、景気は冷え込み、天候異変、殺人事件は続けざまに起こり、そして大地震、それでも、エコ、エコと独りよがりのお題目を唱えて、サミットのことで頭一杯で呑気なものである。 貧乏神、厄病神が居座りつづけるとろくな事がないというのに! 一刻も早く、追い払うためのお払いが必要だというのに! どうも本人は贅沢三昧の暮らしをしているので、自分が貧乏神、厄病神であることに気づいていないようである。 貧乏人は、麦を食えといった総理大臣がいたが、貧乏神こそ、何も食うな、霞でも食ってろ!といいたいものである。
2008年06月18日
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人々が悲しみと悲惨の深みにあるときには、涙の中に一種の補償、慰めを見い出していることを、誰でも知っている。また、泣くことができない人々にとっては、悲しみと苦しみが、遥かに耐え難いものであるのを知っている。 なので、もし自我が外界と満足のいく関係を達成できない場合には、「笑い」を通して内的な自由へと自身を引き上げるか、或いはまた、剥奪された後、力を獲得するために、自身の中に沈み込む。 「笑いと涙」の中で、自分を表現するのは自我、すなわち人間の中心点であるということを見てきた。この事から分かるように、ある意味、自我が「笑い」と「涙」の必要な前提条件であるということが容易に理解できる。 もし、新生児を観察するなら、生まれてからの何日間かは、心の底から、真に「笑ったり、泣いたりする」ことができないことが分かる。本当に笑ったり、泣いたりするのは36日か、40日程度経ってからである。以前の受肉状態の自我が、その赤子の中に生きるとしても、外界との関係を直ちには持とうとしない理由による。 人間は、2つの面から構築されるような方法で世界の中に置かれる。人間は、一方では、遺伝により獲得される、あらゆる性質や能力を、父、母、祖父他から引き継ぐ。これら遺伝全ては個性、すなわち自身の魂の性質を自ら担い、転生を重ねる自我の作用を受ける。 自我が、誕生により、子供の存在の中に入っていくとき、最初は、不確かな表情しか見い出せない、そして、全く不確かなのは、後になって現れてくる才能、能力、そして特殊な性格も同様である。 しかし、やがて、自我が、いかに絶えず、以前の生から携えてきた進歩の力をもって、幼児期の組織に働きかけ、遺伝された要素を作り替えるかを観察できるようになる。遺伝された性質は、こうして、ある受肉から別の受肉へと移っていく性質と混ぜ合わされる。 自我は、子供の中でこのような形で活動的だが、自我が、肉体と魂を変化させ始めるのには、幾らか時間がかかる。誕生後、最初の日々においては、子供は、遺伝された特徴のみを示す。その間、自我は、以前の生から携えてきた性質を、子供の不確かな表情に刻印づけることができるようになり、そして、日毎に、年毎に発達(成長)するのを待ちながら、深く隠されたままに留まる。 子供が、自らに属する個人的な性格を身につけるまでは、「笑いと涙」を通して、外界との関係を表現することはできない。というのも、そのためには、自分を外界との調和の中に置こうとする自我、もしくは個性が要求されるからである。 自我だけが、「笑いと涙」の中で、自分を表現できる。だから、「笑いと涙」について考察するときには、人間の最も奥深く、最も内的な精神性を扱うことになる。
2008年06月18日
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ところが、「笑い」とは逆に、魂が必要とする環境に対する関係を、自我が見つけられない状況が生じる場合もある。 日常生活と密接に関係するだけでなく、親密な愛情から生じる特別な魂の経験とも結びつく誰かを長い間愛してきた場合を考え、この人物がしばらくの間、自分から引き離されることを仮定する。 この喪失と共に、魂の経験が奪われる。つまり、自身と、外界の存在との間の絆が断ち切られる。この人物と自身との関係により創り出された魂の経験のために、魂は、当然のことながら、長い間培われてきた、この絆が断ち切られたことにより苦しむ。 自我から何かが奪われ、奪われた自我に対する影響が、アストラル体に移行する。この場合、アストラル体は、その喪失の為に収縮する。或いは、もっと正確にいえば、自我がアストラル体を押し縮める。 この事は、何かを失った誰かが、苦しみや悲しみを被るときに、常に超感覚(霊視)的に観察できる。拡張したアストラル体が緊張を解き、肉体の中に「笑い」、或いは「微笑み」という身振りを創り出すように、収縮したアストラル体は、肉体全ての力の中に更に深く浸透し、肉体と共に自らを圧縮する。この収縮の肉体表現が、「涙を流す」ことなのである。 アストラル体の膨張→肉体の笑いの表現 アストラル体の収縮→肉体の涙の表現 アストラル体はいわば(自我に奪われた)空隙と共に取り残されたため、収縮によって、空隙を埋めようとするが、そのとき、周囲にある物質を利用する。それは肉体をも縮小させ、そして、その物質を涙の形で絞り出す。 では、このような涙とは何なのか? 自我は、その悲しみと剥奪の中で何かを失った。自我は貧しくされ、その自我性を通常よりも弱く感じるために、この感情の強さは、その周囲の世界における経験の豊かさと関連するので、自分自身を引き寄せる。 我々人間は、愛するものに何かを与えるだけでなく、愛することにより、自身の魂を豊かにしている。 愛が自身に与えた経験が取り去られ、アストラル体が収縮するとき、失った力を、自分自身に対する、この圧力により再び取り戻そうとする。自我が貧困にされたと感じるために、再び自分を豊かにしようする。 涙というのは単に流れ出るだけでなく、打撃を受けた自我に対する一種の補償となる。自我は、失われる前には、外界により、自分が豊かにされたと感じていた。そして、失われた今度は、自分で涙を流すことにより強められるのを感じる。 もし誰かが、自意識の衰弱に苦しむなら、涙を流すことで表現される内的な創造行為へと自分を駆り立て、その衰弱を補おうとする。涙は無意識的な健康の感情を自我に与えるが、これによって一定のバランスが取り戻される。
2008年06月17日
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昨日テレビで、視覚処理の曖昧さ、錯誤を実験、体験的に示していた番組をみた。人間の視覚は、物体の凹凸を同じものとしてみる傾向にあり、区別できない。更に、日常の体験から、遠いものは小さく、近くのものは大きくみえ、色彩については、補完色を補ってみる傾向にあるという。 視覚には、視点が重要で、例えば、同じ紙に、粗い線画で、マリリンモンロー(顔写真)を描き、細かい線画で、アインシュタイン(顔写真)を描いたものは、遠くからみると、粗い線画のマリリンモンローの絵としてみえ、近くにくると、アインシュタインの絵にみえる。 このような実験、体験は、人間が、自己の魂の経験を土台にして、端的にいえば、思い込みだが、感覚を制御していることがわかる。 これらの錯誤は、現代科学では、脳の計算処理として捉えるようだが、シュタイナーの説く人智学からいえば、魂の能力にあるといえる。 つまり、上記の例えでいえば、マリリンモンローを描く粗い線画は、物質体の表面に相当し、アインシュタインを描く細かい線画は、物質体の中身の、いわば精神に相当するといえる。 あらゆる物質体には、そのなかに構造が隠されているわけで、構造を創造しているのが、精神で、いわゆる、その設計図というべきものである。 実は、このようなことは、自然においても一般的で、本来、自然はカオスであるが、例えば、遠くで見る雲はあたかも物体のようにみえるが、近くでみれば、水滴のようなものの集合体なのである。山や川も、近くでみれば、単なる土であり、水である。 しかし、そこには、土から山を盛りつくる精神があり、水から川を流しつくる精神があるわけで、古代人は、この繊細で微妙な視点をもっていたので、それらの精神を、霊、或いは神々と呼んで、アニミズムのような信仰が生まれたわけである。 現代科学でも、電子は、捉え処のない雲であり、電子よりも、充分に大きい原子核については、もはや、天文学的な高エネルギーを与えない限り、塊としてしかみえず、その塊を分離できないでいる。 それでも、中性子と陽子、及び中間子を含む原子核では、電子と比べて、いかにも大きいので、クオークという素粒子があり、原子核は、クオークから構成され、理屈的に、原子核の塊的特徴を、中心にいけば、自由だが、周辺にいくと不自由になり、閉じ込められるので、漸近的自由性と呼んでどうにか解釈しているのが現状である。 電子や原子核レベルのミクロでは、不確定性関係のような観測問題が生じ、論理的には理解できないこのような存在は、観測していないと、存在しないというような非常な迷路、迷宮に陥っているのだが、そもそも、我々の肉体が大きいから、スケール感覚が異なるところにある。 つまり、よく出る霊の名所、つまり霊スポットを、ただミクロで、確率的に計算しているにすぎないのである。 なぜ、このようなことが生じるのか?といえば、人間各々で、感覚が異なり、視点が異なるからで、無理に統一基準を設けるなら、感覚からくる錯誤に捉われてしまうからである。 見える人もいれば、見えない人もいるわけで、早い話、視点を変えれば、誰でもみれるようになる。物理屋は、そのような素粒子を想定しているから、その素粒子をみるのであり、霊能者も、同じである。現代科学的にいえば、脳がそのような存在を仮定し、計算しているというわけである。 つまり、カオスのなかから、特定の視点を選び出し、抽出し、知的に、カオスの軌道のアトラクターを、三次元近似的に構成してやっているといえる。 ここで、ある逸話が思い出される。 ゾウをみたことがない小人(こびと)が、ゾウとはどういう生物かと話し合った。 すると、一人目は、丸太のよう(脚)であるといい、二人目は、非常に大きく広い(耳)といい、三人目は、紐のようにクネクネしている(鼻)といい、四人目は、小さい(目)といい、五人目は、角(つの)のようである(口)といった。 小人は、ゾウの全体をみれないので、それぞれ、ゾウの一部しかみれず、自分のみれるものだけが、本当のゾウだと主張すれば、ゾウは不可思議な生物になるだろう。 この話と同様に、我々は、宇宙全体をみることは不可能で、その一部しかみれない。
2008年06月16日
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自我は、自身と環境との間に調和、もしくはある一定の関係を求め、何らかの結果をもたらす。ある場合には、自我と対象或いは存在との間に正しい関係を打ち立てたと感じるだろう。 たとえ、ある存在に恐れを抱く尤もな理由があったとしても、なお、自我は恐れを含むその環境との調和的関係にあったと(後でなければ、光の下に見ることができなくても)感じるだろう。 自我が外界の中で、何らかの事物を理解しようとして、最終的に成功するなら、その環境と特に正しい調和の中にあると感じる。 そのとき、自我はその事物との一体性を、あたかも、その事物が、自身から抜け出し、その事物の中に自らを浸しているかのように感じ、自身が、その事物に正しく関係づけられていると感じる。 言い換えれば、自我が他の人々との愛情に満ちた関係の中で生き、周囲との調和の中で、幸せと満足を感じる。このような満足の感情は、次いでアストラル体、そしてエーテル体の中に移行する。 しかしながら、自我が、この調和の確立に失敗し、ある意味、普通と呼べる状態に達しないことが起こるとき、困難な状況にある自分を見い出すだろう。 そのとき、自我は、何か理解できない対象、或いは存在に出会う。つまり、自我が、その存在と正しい関係を見い出そうと努力するが、うまく行かず、それでも、はっきりした態度を取らなければならない状態である。 具体例として、自我が、外界において、その本性の中に浸透するほどの価値がないように見え、理解したいとは思わないような存在、つまり、そのような外界の事物の本性に浸透することが、あまりに、知識と理解力を多く引き渡す(消費させる)ような感じを与える存在に、遭遇する場合を仮定する。 (一見して、理解困難な事物に遭遇する場合のことをいう) そのような場合、その対象から、自身を自由にするために、その対象に対する一種の障壁を打ち立てる必要性が生じる。その対象から、自らの力を逸らすことで、その対象を意識する一方、自身の自意識を高めるのである。 そのとき、自らへとやって来る感情は、解放の感情である。 この解放の感情が生じるとき、超感覚(霊)的観察には、自我が、環境、或いは、その存在が、与える印象から、アストラル体を引き揚げるのが見える。勿論、その印象は、目を閉じたり耳を塞いだりしない限り、肉体に刻印される。 肉体はアストラル体に比べて、自我の制御下にあることが少ないために、アストラル体を肉体から引き揚げ、外界からの印象に曝されないようにしておく。もし、引き揚げなければ肉体に関わり、そのエネルギーを消耗するアストラル体を引き揚げることは、超感覚(霊)的観察には、アストラル体の膨張のように見える。すなわち、アストラル体は、その解放の瞬間に拡張する。 自身をある存在よりも上に引き上げるとき、アストラル体を弾力のある物質のように押し広げ、通常の緊張を緩める。そうする事で、顔を背けたいと思っている存在との絆からも、自身を自由にする。 いわば自分の中に引きこもり、その状況全体から、自らを超越させる。アストラル体の中で生じる全ては、肉体において表現されるが、このアストラル体の拡張の肉体的表現が「笑い」或いは「微笑み」となる。 従って、この「笑い」や「微笑み」の表情は、周囲で生起する事象からの自身の超越を示すが、そうする理由は、自らの理解力を、その対象に適用したくないからで、自らの立場から、その態度が正しいとみえるからである。 なので、理解したくない存在に出くわすと、アストラル体を拡張させ、その拡張により、笑いを生じさせるというのは真実である。 風刺新聞が、著名人をよく巨大な頭と小さな体で描写するが、この表現は、その時代の著名人の重要性をグロテスクに表現しているのである。この表現に意味を見い出そうとするのは無駄である。何故なら、巨大な頭と小さな体を結びつける法則などないからである。 理性を、そのような対象に適用する、どんな試みも、エネルギーと精神力の無駄使いとなるだろう。 「笑い」において唯一満足できることは、肉体に与える印象を超えて、自身を引き上げ、自我の中で自由になり、アストラル体を拡張させることにある。というのも、自我の経験は、最初にアストラル体に手渡されるが、それに対応する表情が笑いだからである。
2008年06月16日
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ついに、日本にも大地震が起きてしまった! 嘘つき官房長官が、災害救助などと寝ぼけ顔でコメントする姿が頭にくる。 自民の無責任信任案のせいで、恐らく、地震はこれからも続くだろう。 全く無能総理大臣には、早く辞めてもらいたいものだ。 国民無視の政治に、日本列島や日本の神様は怒り心頭なのだろう。
2008年06月14日
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秋葉事件の背景には、現状の社会不安がある。その事は確かである。 罪を憎んで人を憎まずというが、正しく、殺人に至らせた社会の冷たさに問題がある。 なぜ、起きる前に、手を差し伸べることができなかったのか? 問責決議案を無視するかのごとく、支持率最低の内閣信任案を可決するなど! こうなったら、国民が奴らを倒すしかなさそうである。 正々堂々と、次の選挙で葬るしかない。 あの卑劣な薄笑いの総理大臣は大嫌いだ!
2008年06月12日
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人智学に関する連続講義の中でも、今回のテーマは確かに重要でないように見えるかもしれないが、精神的存在の高次領域へと導く考察においては、人生の細事や身近な毎日の現実を切り捨てることは、しばしば間違いとなる。 永遠の生命や魂の最高の性質、或いは世界や人間の進化に関する大いなる疑問を講義で取り上げるとき、人々は満足し、喜んで、今日検証するような、明らかに陳腐な事柄を放っておく傾向に甘んじるが、精神的世界へと沈潜するには、ここに示される道に従う人なら誰でも、よく知られたものから、あまり知られていないものへと、一歩一歩前進することが、健全な道であることを確信するだろう。 更に言えば、傑出した人たちが、「笑いと涙」を、決して陳腐なものと見なしてきたわけではないことを多くの例を挙げて示すことができる。いずれにしても、東洋文化にとって途方もなく重要になった偉大なるゾロアスターで有名な、「ゾロアスタースマイル(ゾロアスターの微笑)」を付与した意識、すなわち伝説と人類の偉大な伝統の中で達成される意識(個々の人間の意識よりも遥かに賢いが)にとって、この偉大なる精神が、微笑みながら、世界にやって来たということが、特に意義深い。 世界史に関する深い理解を持つ伝説から付与されることは、この微笑みのために、世界の生物たちが狂喜する一方で、地上のあらゆる場所全ての邪悪な精神と敵対者たちは、この微笑から逃げ出したということである。 もし、これらの伝説や伝統から、一人の偉大な天才の仕事に目を移すなら、ゲーテが、自身の多くの感情や考えを注ぎ込んだファウストという人物像を思い出すだろう。あらゆる存在に絶望したファウストが今にも自殺しようとするとき、イースターの鐘の音が響き、「涙がわき出て、再び地球が我を抱く。」という叫びが聞こえる。ここでの涙は、ゲーテによって、ファウストが最も苦しい絶望を経験した後、世界に戻る道を見い出すのを可能にする、魂の状態の象徴として用いられている。 このように、ただ、その事を考えてみるだけで、「笑いと涙」が大いなる意義を持つ存在に関連することを理解するだろう。精神の本性について、様々に考えてみることの方が、周囲の身近な世界に現れる精神を追求するより容易だが、精神を(第一に人間の精神を)見い出すことができるのは、他でもなく我々人間が「笑いと涙」と呼ぶ、魂の仕草の中にある。 それらの仕草を、ある人の内的な精神生活の表現であると見なさなければ、理解できない。しかし、その仕草を行うためには、人間を、精神的存在として受け入れるだけでなく、人間を精神的存在として理解する必要がある。 以前の連続講義全ては、このような目的のために費やされた。なので、今はただ、人智学から見た人間の存在について、大まかに見るだけにするが、これは「笑いと涙」についての理解を築く上での基礎となる。 人間を、その全体性において、観察することにより、その肉体を鉱物界と共有し、そのエーテル体もしくは生命体を植物と共有し、そして、そのアストラル体を動物界と共有することを見てきた。アストラル体は楽と苦、喜びと悲しみ、恐れと驚き、そして、人間が起きてから寝るまでの間、魂の中に流れ込み、流れ出る、あらゆる考えをも担っている。 これらは人間の永遠なる三つの鞘であり、その中には人間をして、創造における最高の自我が生きている。自我は、魂生活の中で、その三つの構成部分である感覚魂、悟性魂、意識魂に働きかける。そして、我々は、いかに自我が人間をして、益々その成就へと近づけるために働いているかを見てきた。 では、人間の魂の内における自我の活動の基礎とは何なのか? それがどのように作用するか、幾つかの例を見てみる。 自我、すなわち人間の最も奥深い精神生活の中心が、外界において、何らかの対象、もしくは存在に出会うと仮定する。自我は、その対象、もしくは存在に対し、無関心のままに留まることはない。自我はその出会いが、自分を喜ばすか、或いは不機嫌にするかによって何らかの反応を示し、何かを内(精神)的に体験する。 何らかの出来事に狂喜し、また最も深い悲しみへと落ち込むかも知れない。恐怖で尻込みし、またその出来事の源泉を、愛情込めて見つめ、抱きしめるかもしれない。そして、自我は何であれ、出会いに関係するものを理解し、或いはまた理解しないという経験を有する。 起きてから寝るまでの間の自我の活動に関する観察から、自我がいかに自らを外界との調和へともたらそうとしているかを見て取ることができる。もし、何らかの存在が我々を喜ばし、ここには何か我々を温めるものがあると感じさせるなら、我々は、その対象との絆を織りなし、我々の中から何かがそれに結びつく。 我々人間が環境全体に関して行うのは、以上のような事なのである。起きている時間全体を通じて、内的な魂の生活に関して、我々は、自我とそれ以外の世界との間に調和を創り出すことに関わる。 外界の対象や存在を通して、我々にやって来る経験、そして、それは魂の生活の中で反射されるが、自我の住居である魂の三つの構成体だけでなく、アストラル体、エーテル体、そして肉体にも働きかける。 自我と何らかの対象、もしくは存在との間に、自我により確立される関係が、アストラル体の感情を掻き立て、エーテル体の流れと運動(動き)を正すだけでなく、いかに肉体にも影響を及ぼすかということについて、既にいくつかの例を挙げた。 人は何か恐ろしいものが近づいて来るときには青くなるということを知らない人がいるだろうか? これは、形成された自我と、脅かす存在との間の絆が、肉体の中に作用し、当人が青くなるように血流に影響を与えたことを意味している。 その逆の効果の、つまり恥ずかしさで顔を赤らめるということについても触れた。周囲の誰かと、自分との関係を、自分がしばらく身を隠していたいようなものに感じるとき、血は顔へと上って来る。 これら2つの例によって、自我と外界との関係により、一定の影響が、血に対して生じることが分かる。自我がアストラル体、エーテル体、肉体の中で、いかに自分を表現するかについて、他にも多くの例を挙げることができる。
2008年06月12日
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更に人智学の別の役割は、実際性での重要性を持つことである。もし、言語が、いかに内的な、前人間的芸術家に発するものであるかということを理解するなら、また、言語の中で、価値あるものを表現する場で、創造的感情を活動的にするために、自らを上昇させることもできる。 しかし、現代には、前人間的芸術家に対する感情がほとんど存在していない。言語に対する、生きた感情を涵養することに、大きな発展が為されていない。今日では、誰でも口を開ければ、なんでも表現できると感じている。しかし、明白に理解すべきことは、 「何を表現するか」という事と、それを「いかに表現するか」という事との間の直接的関係を、魂の中で再び創造しなければいけないということである。 あらゆる領域において、再び語学の芸術家を目覚めさせる必要がある。今日の人間は、もし言おうとする事が、どんな形の言語でも、出てさえ来れば、その言語がどんな形を取っていても満足する。何かを表現するとき、言語に対する芸術的感情が必要である、という事に(これは人智学の分野では絶対必要な事であるが)幾人の人が気づいているのか? 例えば、発表された真に人智学の文献を検証してみるなら、人智学では、それぞれの文章を創造的に形成するため、動詞の位置を、勝手気儘に決定しないように、真剣に取り組んだことが分かるだろう。各文章は、それぞれが、単なる思考ではなく、直接的形態として魂の中で、内的に経験された事から、誕生したことが理解できるだろう。 そして、各文章は、経過順に並べられているのではなく、三番目の文章は一番目の文章と、本質的に同時に作成されているだろう。何故なら、それらの文章は、文章の効果において相互に関連しているからで、人智学では、言語に対する創造的、かつ活動的な感覚なしに働くことは有り得ない。他では全て不十分で、自らを奴隷のように、言葉に捕えられている状態から、自由にすることが重要なのである。 しかし、もし、ある考えを表現する単語として、どの単語でもよいように、曖昧に考えるなら、言葉からの解放は不可能となる。それは、語学上の創造性において既に間違いとなる。超感覚的事実に関する表現を、感覚世界の観点からだけで造り出された言葉からは、得ることはできない。 もし、「エーテル体やアストラル体を、言葉を使って、実際に具体的方法で表現するにはどうすればよいか?」という問いが生じたなら、言葉からの解放のことを少しも理解していないことになる。 次のように言う人だけが、この事に関して、わずかな理解を示している。 「もし、第一に、ある側面を探求し、その探求において、芸術的に形成し、反映されたイメージを扱うことは明白だが、更に、もう三つの側面を探求するなら、エーテル体という何かを理解するだろう」、と。 その時、問題は、四つの異なる側面から示される。その後で、それを言葉で、つまり、いわば、その話題の周辺を歩き回るような形で表現するとき、その問題の芸術的イメージを提示することになる。もしこの事に気付かなければ、抽象化と、以前から知られている動脈硬化的表現の、再生産以外は、何も達成されないだろう。 これが、人智学における発達(進化)は、常に「内的感覚の発達と言語の内的、創造力の発達(進化)」と呼べるものに結びついている、と言われる理由である。 この意味で、人智学は言語の形に、実りある影響を及ぼし、言語の創造性に関して、何も知らない今日の酷い語学的形式を変化させるだろう。そして、本来、真に芸術的に、話すことや書くことができない人たちが文筆活動に乗り出す事も少なくなるだろう。 今日、例えば、散文を書く事は、韻を踏んで書く事よりも、遥かに高尚であるというような意識は失われてしまった。今日の散文は遥かに低い水準である。人間の最も深い秘密に関わる、以上の言語分野において、1つの刺激として働く、というのが人智学の目的なのである。 というのも、人智学は、言語領域において、最も偉大な人物達のビジョンを実現するような形で、活動的だからである。人智学は超感覚的世界を、思考を通して征服するだろう。 「言語が再び魂の超感覚的世界における経験を伝える手段になる」ような手法で、思考を音の構成の中に移せるようになるだろう。そして人智学は、内的な人間の重要な領域に関して、次のような言葉で表現されたものを実現する実行者となっていることだろう。 測り難く、奥深いものは思考である、 そして、その翼をもった実行者とは言葉である(シラー)。
2008年06月11日
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アホ総理に、アホ大臣! 次から次へと、問責決議すべきだろう!! 問責される覚えがないと、まるで犯罪者が、身に覚えが無いといっているかのような発言ばかりで、特に、伊吹の阿呆は、みていて更に腹が立つ! 伊吹も、問責にすべきでないのか? マスゾエは何処行った! 年金問題、経済政策の失敗、不景気感の蔓延、雇用問題、安全保障、生活保障、高齢者医療と、何一つ解決のないまま。 おい、無能総理! 問責される覚えがないなどと、ふざけた答弁しているんじゃないよ!! 身に覚えがないのなら、わざわざ問責決議に対する対抗手段を用意するんじゃないよ! しらじらしいにも程があるね。 国民の怒りは、もうそこまで爆発の領域に来ているぞ! 全く自民与党の連中は、人間とはいえないケダモノである。 嘘しか発言できない。まるで魂が抜かれた存在のようである。
2008年06月11日
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問責決議がやっと可決された! あほあほ与党は、衆院で巻き返すつもりらしいが、それなら、国民にも考えがあるというものだ。 総選挙して、世論に問え! 国民生活を破壊し、物価上昇に何の手も打たずに、能天気にもエコ、エコで、サミットの宣伝しかしないアホ総理。 エコ、エコに濁点がついて、エゴ、エゴといいたいぞ! この流れを生かして、サメ脳から続いた小泉-竹中の日本破壊改革を止めなければいけない。 いまはとにかく、自民を倒すしかない!
2008年06月11日
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最も愚かな考えとは、「自分は他者よりも優れている」と思うことだろう。 そして、最も賢い考えとは、この愚かな考えを捨てることである。 さて、今回も、「前世」からのメッセージから抜き書きしたい。 「最も大切な人生の学びの一つは、独立を学び、自由を理解することです。これは執着、結果、発見、意見、期待からの独立を意味しています。執着を断ち切ると自由になれますが、執着を断つことは、愛に満ちた大切な関係や魂を育む関係を捨てることではありません。 他人や物への依存をやめる、 ということです。愛は決して依存ではありません。 愛とは何も見返りを求めない、絶対で、無条件で時間のない状態のことです。 自分自身を愛し、自分を大切にすることが重要ですから、たとえ、あなたが相手を愛していると感じても、破滅的な人間関係を続けるべきではありません。 その相手とうまくいかないのは、相手に問題があるのか、理解が足りないのか、もしくは、うまくいかない相手と一緒にいることを自らの自由意志で選んでいるのでしょう。 しかし、大切なことは、愛は永遠であるということです。関係を正すチャンスは、まだいくらでもあるのです。 相手をはっきりとみなさい。そして、その人を崇め奉るのはやめなさい。親も、先生も、権威者も、あなたと同じただの人間です。彼らだって、怖れ、疑い、不安、不完全性を持っています。 またそれぞれ問題をもっていて、時には、あなたは彼らのゲームの駒にすぎなかったりするのです。彼らを対等な人、兄弟姉妹だと思いなさい。彼らのあなたへの批判は何の意味もありません。もしかしたら、彼らは賢いかもしれないが、しかし、間違っているときだってあるのです。」 要するに、みてくれに騙されるなということだと思う。本質を見抜きなさいということなのだろう。 この事から、昨今の賞味期限問題が挙げられる。吉兆という、漫画「美味しんぼ」に出てきそうな料亭が、事もあろうに、賞味期限を無視し、料理人の不届き者を地でいっていたのだから、海原雄山もさぞ、吃驚仰天だろう! 漫画は明らかにフィクションだから、海原雄山のような人物がいるかどうか定かでないが、もし、海原雄山がいたとしたら、是非、海原雄山に会って、この大阿呆モンが!と罵倒したいものである。海原雄山のような人物がいないから、あのような詐欺料理人が蔓延るのだろう。 確かに、海原雄山だって人の子だから、見抜けないかもしれない。 それにしても、勿体ないからと女将は小理屈を述べていたが、残さないようにつくるのが、料理人の腕であり、精進というものであろうと、ある料理評論家が述べていたが、正しくその通りである。残そうものなら、客に何処が不味かったのかくってかかる意欲も欲しいものである。そっくりそのまま残すというのは、料理人を侮辱するようなものなのだから。 何より、動植物の命、魚の命が、そこにかかっているのだから。残すのなら、殺すなよ!である。それこそ、勿体ないであろう。 そもそも、人間に食われるためだけに、食物はあるのではない。人間に食われなくても、それだけで、地球のある営みを行っている。人間に食われなくても、他の動物や、やがて地球の肥やし、つまり地球に食われる。それは単なるプロセスにすぎないが、そのプロセスに何を求めるかにある。 欲ボケ人間には、思いもよらない生命の働きが隠されているのだから。 愛のためなら、喜んで命を捧げるのが生命の本望だろう。 それは単なる営み、プロセスを愛の表現へと芸術化できるかにある。 シュタイナーを学べば、人間に食され、分解され、霊にかえることで、植物は、天に帰っていくことがわかる。生命は、地球に魔法をかけられ、石(固体)となっているだけである。魔女プロメテウスに魔法をかけられている。人間は、その魔法を解く働きを行う。 ここに生命の神秘が輝いている。石は砕かれ、やがて光に変わる。人間が光を与える。物質光により、生命は、固体となるが、人間の体内では、液体、気体、そして霊光と帰っていくのである。そこに循環がある。 しかし、そこに愛がなければ意味がない。 金に目が眩んで、愛を失うのは、馬鹿のやることである。若いときの過ちなら、取り返しもつくだろうが、年老いてからでは、いかにも遅すぎるが、不可能ではない。
2008年06月10日
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無意識活動を観察すると、言語領域には、芸術作品としての人間を創造した存在を感じる。 「言語関連の芸術作品は、その芸術手法により容認されたものとして検証できる」、 ということを忘れないようにすべきである。 もしこの事を、心に留めていたなら、フリッツ・マウスナーの「言語批判」のような、学者ぶった作品は、初めから排除されただろう。ここでの言語批判は全く間違った仮定、つまり、言語をよく見ると、言語は客観的現実(真実)を表現しないという仮定に基づいていることがわかる。 しかし、言語が客観的現実を表現することは、第一に、言語の本来の機能なのか? 絵画に関しては、光と影を使い、カンバス上の色の中に、外的現実(真実)を表現するのと同じ位、言語も現実(真実)を表現する。なので、人間活動の根底に横たわる言語霊は、芸術的感性によって把握する必要がある。 以上の事柄については、ただ簡略化された概観が示されたに過ぎない。しかし、もし言語を作った芸術家が、人間の中で活動していた事を知るなら、人間の個々の言語の中でさえ(言語が様々に異なればそれだけ様々に)芸術的要素が、あらゆる種類の異なった形で働いていたことを理解できる。 また、言語霊が(空気の中で働いていた、精神的存在を言語霊と呼ぶ)人間の中で、比較的低レベルで、自らを表現するとき、いかにあらゆるものを、個々の部分から組み立てようとして、原子論的方法で働くかが理解できる。「個々の音が1つの文章全体を構成するために結びつく」、ということは、このように生じる。 例えば中国語で「シー」と「ピアン」という音を取り挙げるなら、それらは、言語形成の2つのいわば原子となる。「シー」という音節は「歌」、詩を、「ピアン」は「本」を意味する。これらの音を組み合わせると、「シーピアン」、つまり「詩本」の組み合わせとなる。全体として見れば、結果として「詩の本」となる意味が2つの品詞から生じる。これは、その概念と思想を形成する中国語の方法の、1つの例に過ぎない。 もし、このように考察するなら、 「セム語のように、素晴らしい形成言語は、いかにその本質において考察すべきか」、 ということがわかる。セム族の言語は、その基礎に、子音だけから構成された音がある。 人間は、これらの子音と子音の間に母音を挿入する。なので一例としてq、t、lという子音を取り挙げ、間にaを2つ挿入するなら、そのとき、純粋に子音から形成された単語は、単なる外的音の模倣に過ぎないが、母音を加えることにより「qatal」、つまり、「殺す」という語が造られる。 このように、音の複合としての「殺す」が、当初は、単に外(界)的プロセス(過程)を模倣する言語器官により生じることに、特筆すべき発展(進化)過程が見られる。そして魂が、その過程を継続し、母音によって、内的な経験が付け加えられる。 つまり、音の複合体は更に発展し、例えば、「殺す」が主題へと差し戻される。これが、基本的なセム語の構成であり、そこでは、言語形成における様々な要素の組み合わせが、言語の枠組み内で表現される。 この象徴化(つまり言語霊が、エーテル体の中で働くのがみられる)は、セム語においては主要な作動力となっているが、それは、個々の模倣音を一歩先へと進め、母音の挿入により、象徴へと変化させるセム語の特別な側面を示している。 これが、セム語では、基本的に、全ての語が外界の環境に、象徴として関係するような方法で形成される理由である。 対照的に、インド-ゲルマン系言語に現れる言語は、アストラル体の内的な表現、内的存在と呼べるものにより、より多くの刺激を受ける。というのも、アストラル体とは既に意識に結びついたものだからである。 人間は外界に向かうとき、自分を対比させる。もし、人間が、エーテル体の観点から外界に向かうなら、人間は外界と溶け合い、それと1つになる。事物が、意識(アストラル体)の中に反射されるときにだけ、自身と事物との間に差異が存在する。 (東洋が自然に対し融合的で、西洋が自然に対して対立的なのはここにあるといえる。東洋では言語はエーテル体、つまり気孔にあり、西洋ではアストラル体、つまり魂にある。) あらゆる内的経験を有するアストラル体のこの働きは、独立した存在性の反映である「である(Be動詞)」という動詞をもつ点で、セム語とは、対照的なインド-ゲルマン系言語において、その動詞を見ることができる。この事は、人間が、意識をもって、自身を外的印象から分離できたが故に可能となった。 なので、セム語で例えば「神は善である。」と一文体で直接言うことはできない。というのも、「である」表現の言語を作る方法がないからである。というのも、このことはアストラル体と、外界との対比に起源をもつからである。 エーテル体は、意識からくる比較なしで、順繰りに語るだけである。これが、セム語においては「神、善きもの」と間接的に2文体で言わざるを得ない理由である。主体と客体の対比は特徴的要素ではない。外界に対峙する言語として、本質的要素として外界の知覚をも含むようなインド-ゲルマン系言語がある。 それらの言語は、内面性を支える、つまり、強い個性、強い自我を発達(進化)させる為の基礎を与える、全てを支持するような方法で、今度は逆に人間自身に影響を与える。この事は既に、インド-ゲルマン系言語の中において明らかである。 いま述べたこと全てに関して、何人は、もし、この分野を詳細に記述するなら、2週間はかかるという理由で、不十分な示唆と考えるかもしれない。例え不十分な示唆であっても、この連続講義に定期的に参加し、事の本質へと貫き至った人たちは、このような示唆が不正ではないということを理解するだろう。 これらの示唆は、言語が芸術的感覚(それは発達(進化)する必要があるが)以外の方法によっては理解できないということを基本的に示し、人智学観点から、その言語の発生を意図的に示す事ができる。 もし、個別自我の活動以前に、人間の中で言語を創造した(精神)力により実行された創造的活動に、全ての学問が、参加しなければ、恐らく失敗に終わるのは、この理由による。創造的能力だけが、言語の秘密を把握できるが、それは創造的能力だけが、自らを再創造できるからである。 どんなに博識な抽象化も、芸術作品の包括的理解を生じさせることはできない。芸術家が絵の具や音など、思想以外の方法による表現を、思想として実りある方法で再創造できる手法が、芸術作品に光を当てることができる。創造的感情のみが、芸術家を理解し、そして言語に対する創造的感情のみが、言語の起源における創造的精神を理解できる。これが言語に関して果たすことが期待される人智学の役割の1つである。
2008年06月10日
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秋葉原殺人事件という悲惨な出来事を考えるに、この犯人はかなり追い込まれていたのだろうと思う。 25歳の若者といえば、これから将来どうにもなれる夢の多き歳頃である。いや、夢をもたなければいけない歳である。それが、無差別殺人なんて、どう考えても、世の中の閉塞感を一身に背負ってしまったとしかいえないものだろう。 自殺者が、多い国ニッポン! 一体誰がこのような国にしたのか? 官僚にゴマする堕落政治家や、小泉-竹中、森、安倍、そして福田である。 彼ら以外に誰がその候補に挙がるといえるだろうか? 他人が苦しんでいるときに、料亭通いやら、外交と称して、海外旅行にウツツを抜かしているのである。この許しまじき行為に誰が怒らずにおられようか? この殺人者の大きな間違いは、上記のような権力の上に胡坐をかく責任者に立ち向かう勇気の無さにある。 弱者に向かうのなら、これらの権力者と全く変わりはない。地獄行きである。自らの弱さを、他者に依存するな。このような堕落した精神の権力者と堂々と戦え! 確かに、権力者に立ち向かうには、勇気がいるだろう。全てを捨てなければならない。正面から立ち向かえば、犬死にである。権力者に取り入る輩に馬鹿にされるだけである。 怒りや、恐れを手放し、理性をもて! 若者たちを雇用もせずに、自分たちの贅沢ばかりに、血眼になる堕落した天下りの大人たち。あんたら、本当に人間の精神の持ち主といえるのだろうか? 自問自答すべきである。 自分たちの権益を確保するために、道路が大切といい、ガソリン税を今後10年間導入し、石油価格が高騰し、今度は、車を買わなくなって、自動車会社は四苦八苦だという。 身から出た錆ではないのか? 自分たちの利益しか考えてないのだから、所詮、手前たちの利益でやるがいい。 トヨタが潰れようが、庶民には関係ない! いや、いっそのこと潰れてしまえばいい。秋葉原のような事件が起こる前に、トヨタやキャノンの御手洗のような利己主義社長の会社の方が先に潰れるべきだろう。 社員が死にもの狂いで働きながら、買収が怖いと法人税を手加減して、自分たちは贅沢三昧で、長者番つけに乗って意気揚々とは、神をも恐れぬ不届きもの。 日本の経済がダメになったのは、経営者の精神が堕落したせいである。いい気になるのもいい加減にしたらどうか? 一体、いつになったら、自分のやっていることが覚れるのか? 秋葉原の犯人よりも、偉そうな馬鹿政治家の後見役のトヨタの利己主義者や御手洗のようなやつの顔を見るほうが、腹が立つ。 犯人よりも、犯人をつくった奴の方が大悪党なのである。 若者を殺人者へと追いやった奴の方が罪深い! 政治家たちよ! なぜ、貴方達はそんなにも馬鹿でいられるか? 自分達だけが贅沢三昧で暮らせてそれでいいのか? あなたたちが、日本をダメにしたという自覚すらないのか? 支持率最低の能天気な、お馬鹿総理、いい加減、評論家気取りはやめにしろ! 本来は、秋葉原の犠牲者の代わりに、あなたたちが政治に、命を捨てるべきだったのだよ。 ふざけるのもいい加減にしてもらいたい。 後進国ではこのような殺人はおこらない。先進国だけで、このような無差別殺人が起こる。それは何故なのか、問うべきである。 人間の精神が腐敗しているからである。命よりも、生活よりも、儲けや贅沢や金が好きだからである。どちらが精神的に後進国なのか考えるべきである。
2008年06月09日
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2、3年前に、前世療法というのが流行った。私も、シュタイナーの独学ついでに、何冊か読んだ。多くは、元は精神科の医師のブライアンワイスの著で、最近では、未来世療法を展開しているようである。 前世療法とは、シュタイナーの人智学から、わかることだが、人間は、前世の課題を克服するために、今世に生まれてくるのだが、大体の人間は、生まれてまもなく、現世の物質的生活に馴れるにつれて、その課題を無意識下に押し込めてしまうのを、いわば催眠術により、意識的に覚醒を試みて、より人生の課題に真剣に取り組むように促すものといえる。 実は、睡眠中に、人間はこの前世療法と同じことを行っているのである。睡眠中、人間は、前世へと旅をするのである。例えるなら、落第生が、改めて、自分の課題を知るために、教員に会いにいくようなものである。 つまり、この世に生きているということは、前世からの何らかの不完全性を担っていて、前世で解決すべき問題、課題を、今生にまで持ち越している存在といえる。まぁ、早く言えば、落第生なのである。この世に生きている人は皆ほとんどが落第生といってよい。 しかし、落第生ばかりだと、怠けてしまうので、たまには教師が観察しに、来るというのである。その教師が菩薩であり、預言者である。シュタイナーの表現でいえば、十二の使徒であるという。そのうち、キリストは、最高の教師であったという。 とりあえず、その話は置いておいて、現世に馴れるに従い、人間は人生の課題を暗黙糧に押し込めてしまうが、重要な場面では、その課題を克服するために、出来事を仕組むというのである。この事は、仏教でいう縁のようである。シュタイナーは高次の自我と呼んでいるが、一般的には、守護霊と呼ばれる守護天使の存在を差す。デジャブ(予知夢)などで、この事がわかるだろう。 例えば、結婚なども、本人の課題克服のために、行われるようである。結婚してみて、騙されたと感じるのは、相手のせいではなく、実は、裏で赤い糸を引いていた守護天使の働きともいえるだろう。 さておき、前置きが長くなったが、ブライアンワイス著の「前世」からのメッセージには、興味深い記述が多いので、紹介していきたい。 「私達はつい、自分を虐待する人々の攻撃を、自分の個人的事項に起因するものと受け取りがちです。しかし、ほとんどは、彼らの神経症的ドラマを演じるための代替的な駒にしかすぎないのです。自分のような立場にいる人なら誰でも、同じような攻撃をうけたでしょう。自分に特に不快な処や気になる処があるわけではないのです。」 つまり、代表的にいえば、いじめ問題が取り沙汰されるが、真相は、虐待や攻撃を行う人に多くの問題がある。そのような人は、自分の暴力を抑えられないほど、自我が弱く、他者に依存的である。自我の弱さを甘やかしてきた環境にも原因はあるだろう。その多くは、家庭環境にあるだろう。何が欠けてきたかといえば、愛である。 真の愛情があれば、弱い自我を支えるだけの力を与えていただろう。他者に依存しようとする誘惑を断ち切っていただろう。他者に依存することは楽であるが、同時に、自らで立つ愛の土台を失ってしまう。独立心、自立心、自制心を与えるのが真の愛情といえるだろう。 このような問題の弊害は、昨今の親に甚だしいものがある。愛を履き違えている。子供は断じて親の所有物ではない。子供は、独立した人間なのである。独立した人間を育てるには、自らの事を責任を持って行える人間に育てなければいけない。 まずは、親が、子に、真の愛情を教える事が必要なのであろう。親として、どのような人格を大切にするのか?が問題であると思う。親が家庭の躾に責任をとれないのなら、子が子であるのをやめなければならないだろう。 子を所有物とみなすなら、親も同様に、所有物とみなされ、愛情は、上辺だけ、つまり、親は自分が可愛いから、所有物の子を可愛がると錯覚し、子への愛情がやがて憎しみに変わる。魂は親も子も同じく聡明で、偽りの愛には、裏切り行為に捉えるだろう。つまり、親は教育を、子から審判されているといえる。 「一見、素晴らしく見える人には、気をつけなさい。最も危険な人物は、しばしば魅力的な衣装を纏っているものです。わくわくする、楽しい、刺激的、危険な香りがする、劇的な人生を送っている人達です。こうした外見は、あなたの目を曇らせて、そこにある危険を隠すでしょう。目でなく、心で相手を見る事を学びなさい。 心の中の感覚や怖れや動機などに気づこうとしない態度は、全てに注意を向けている状態とは正反対のものです。自分の心の状態がわからないと、人間関係を損なうことを言ったり、行ったりしがちです。全てに注意を向けて、真に自分自身を知っているときには、不注意に人を傷つけたりしません。」 自分のなかに不満や不平があると、自分の心の平穏を保つことができずに、代わりに、他者を傷つける行為を行いがちになる。 まずは、自らの心の平穏、平和を保つことである。仏教でいう不動心なのであろう。 そこで、近頃感じるのが、街中が人工物だらけで、いかに自然が失われているかということである。みていて、なんだか、愛情が感じられない。確かに、人工物は刺激的で、誘惑が多く、劇的な危険が至る所に潜んでいる。特に、目に訴えかける衣装を纏っている。 対照的に、心で見るものが減っている。例えば、植物の生長や、虫たちの活動、季節感や、ちょっとした天候の風情など、あぁ、こんなところに綺麗な花があったとか、ここまで育ったのかとか、風景をみて、感動することが非常に少なくなったといえる。非常に情緒感に乏しい。 確かに都会生活では、仕方のない面もあるかもしれないが、せめて、学生が通るような通学路には、目でみてはいけないものを置くのは、御法度だろう。ここにも、誤った愛情があり、益々、学生は勉強しなくなり、他者に依存し、楽を貪るようになるだろう。 近頃、女学生の殺人事件が話題だが、これは明らかに刺激的なファッションに問題があると思う。かつての、校則は、馬鹿マスコミのせいで、健全さを失っている。腐敗した金銭主義のデザイナーが、エゴで制服をつくるから、世の中が乱れるのだろう。 そこへいくと、イスラム教は、少し厳しく、あそこまでやる必要はないが、素晴らしく思える。学生のときは、やはり最低限、社会性というのを身に着けるべきときだろう。個性は、基本に社会性があってはじめて意味をもつもので、第一、個性というのは、外見でなく、心で表現すべきものだろう。
2008年06月06日
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最初の段階では、外的な印象が模倣される。次の段階は内的な音のイメージ、或いは象徴の創造である。しかし、喜びや嘆きのような内的な経験は、その性質上、外的対応物をもたない。この外的な存在と内的な経験の対応は、子供が話す事を学ぶときに観察できる。 子供が、いかにある感情を1つの音に変化させるかを見ることができる。子供が、はじめ「マ」とか「パ」とか呼ぶとき、これは、ある感情の音への内的な変化に過ぎない。それは内的な表現に過ぎないが、子供が、自分を、そのように表現し、例えば母親がやって来るなら、子供は「マ」という音に変化した、その内的な喜びの感情が、いかに外的な出来事に対応しているかに気付く。 勿論、子供は、この場合には母親がやって来るという対応が、どのように生じているかについて詮索することはない。内(精神)的な楽と苦の経験が、外的な印象と連合し、そのように、内から流れ出る感情が、外的な印象と1つになる。この事が言語活動の第三の過程である。 だから、「言語は、外にある存在の、内的な模倣と同時に、人間の内的な経験に結びついた外的な存在に起源を有する」、といえる。 それは無数に起こり、内的な表現の「マ」や「パ」が、「ママ」とか「パパ」という語に形成され、完成し、父親や母親が、その言葉に応えるとき、充足させられる過程である。人間が内的な表現の結果として、何かが起こるということに気付く度に、その内的な出来事の表現は、人間にとって、何か外的な存在と結びついたものになる。 このような全ては、自我の参加無しに起こる。自我が、この活動を引き継ぐのは、もっと後の段階になってからである。このように、自我以前に存在していた力が、人間の言語能力の根底に、配置された中で働いていた。 人間の言語は、既にその基礎が創造された後に、自我が取って代わった為、その後は自我に従って、自身を秩序づけるようになった。こうして、感覚体に結びついた表現は感覚魂に浸透され、エーテル体に結びついたイメージや象徴は、悟性魂に浸透される。人間は悟性魂の経験をもって、音を満たし、そして同様に、当初は模倣に過ぎない意識魂の経験により、それを満たす。 このようなプロセス(過程)により、魂の内的な経験を表現する、我々の言語の領域が徐々に存在するようになった。 この事が、言語に関して、我々人間の中には、自我以前に存在していたものが、その後、自我によって発達(進化)させられたということを、全く明白に理解しなければならない理由である。しかし同時に、言語が直接の自我を、つまり我々の中の精神的側面、すなわち我々の個性に密接に結びついた全てを表現すると主張もできない。 言語は、直接自我を表現するものではなく、言語の中に自我の直接的表現を見ることは不可能ということが理解されなければならない。 言語霊は、エーテル体の中で象徴的に働き、肉体の中で模倣的に働く。そして、この事は、その感覚魂の中での、創造的な活動とリンクしている。そして、その活動によって、音が内的生活の表現になるような方法で、そこから内的経験を押し出す。 要するに、言語は今日見られるような意識的自我に従って発達したのではない。意識的自我により言語は発達(進化)したのではなく、そもそも言語の発達(進化)を何かと比較するなら、それはただ芸術的創造に比せられるだけである。 正に、芸術家の模倣が、現実の対応を要求できないように、言語による表現が意図される対象の、そのままのコピーを要求することはできない。言語は絵画に似た方法で、つまり、芸術家が、彼なりに外的な現実を模倣するのに似た方法で、外界を模倣するだけなのである。 人間が今日あるような形で、自意識を持った存在になる以前には、一人の芸術家が活動的な言語霊として、人間の内で働いていた。そして、人間の自我は、以前その芸術家が働いていた場所に納められている。どちらかというと、この事はイメージの形で述べているが、この言語の分野においては、真実を表現している。
2008年06月06日
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ゲーテは目に関して、非常に適切に、 「眼は光により、光のために作られた。」 と言った。もし、そのことを、ショーペンハウアーの意味で、 「光を感じる目がなければ、我々には、光の印象がない」、 という風に強調し捉えるなら、それは半分の真実でしかない。 もう一つ別の半分とは、 「もし光が遥かな過去に、不確かな器官から、我々の眼を、いわば彫り出さなかったなら、我々は眼をもたなかった」、 というものである。このように、光を、単に物理光、今日記述されるような抽象的実体と見なすのではなく、光の中に、光自身のために眼を創造できる、隠された存在を探さなければならない。 同様に、別の関連で、 「空気は、複雑な喉頭器官と、喉頭に関連する全てを、ある時期に人間の中に創造できた存在たちに満ちている」、 と言うことができる。 そして、人間の形姿以外の部分は、細部に至るまで、現在の発達(進化)段階にある人間の、いわば言葉を発する器官(喉頭)が、更に発達(進化)を遂げるような形で、形成され、彫り出され、第一に、その発声器官(喉頭)が、人間の形姿にとっては、決定的存在になっている。 「人間が動物を超越するのは、話せる事による」、 と言われるのは、この為である。というのも、空気霊(風の精霊)と呼ばれる精神的存在は、動物をも造り出したが、それは、人間が備えているような、話す才能を発達(進化)させる事ができるようなレベルにはない。 人間は、現在の思考、感情、意志、つまり、自我に関連する全てを発達(進化)させる以前に、言語器官を既に内(精神)的に発達させていたことが分かる。 今、何故、これらの精神力が、最終的に、人間の肉体に対して、話す能力を、言語器官の付属物にするような形で、働きかけたのかが分かる。 それは空気霊が、アストラル体、エーテル体、そして肉体を、空気の影響との配分を通して、発達させたからである。 個別自我は、人間が自分の内に、空気の精神的存在に対応する器官(喉頭)を、いわば光の精神的存在に対応する眼と同様に、もてるようになった後で、自身の中で、意識、感情、情緒として発達(進化)させた言語を、人間の中に形成した。 このように、そこには無意識における(集合自我の)三重の活動、つまり個別自我に先立って存在した肉体、エーテル体、アストラル体への働きかけがある。もし、その精神的存在が、集合魂であったということ、つまり、その集合魂は、動物の中では不完全な形で働いていたことを知るなら、この事に気付くことができる。 もし個別自我に先立って生じた精神力を、アストラル体の中で働いていたものと見なすなら、次のことを考慮しなければならない。 「個別自我に関係する全てを除去し、暗い根底から集合魂によって為された仕事を観察しなければならない。願望と満足が、アストラル体の中で不完全なレベルにおいて向き合う。願望は、その先駆けを既に、人間のアストラル体の中にもっていた為に、魂の性質、内(精神)的な能力になり得た。」 アストラル体の中における願望と満足と同様に、心象(イメージ)、象徴と、外的な刺激とがエーテル体の中で向き合う。個別自我に先立つエーテル体の活動を、エーテル体の中における自我の活動と区別することが最も重要である。 個別自我が、悟性魂もしくは心魂として活動するとき、人間の現在の発達(進化)段階においては、外界の真実にできるだけ近い像である真実を求める。外的な事物に正確には対応しないものを「真実」と呼ぶことはできない。 個別自我の夜明け(誕生)前に、横たわる精神的活動(集合魂)は、このような形式では働かない。むしろイメージの中で象徴的に働き、夢の働きに似ている。 夢は例えば次のような形で働く。夢の中で銃声を聞いた人が起きてみると、ベッドの横の椅子が倒れていたというようなものである。外的な出来事(椅子が倒れること)は、夢の中でイメージに、つまり銃声に変化させられる。 このように、個別自我に先立つ精神的存在たちは象徴的(イメージ形成的)に働いたが、秘儀参入によって、より高次の精神的活動を達成するときにも、再び同じ形で働くようになる。この段階において、全く抽象的な外界から離れ、象徴的な見方、イマジネーション(霊視)的な概念に向けて(ただし、今回は十全なる意識をもって)働くように努める。 そして、人間の肉体の中で働く、精神的存在たちは、それを外的事物の対応物とでも呼べるものに変化させた。外的な事実、そして模倣である。模倣とは、例えば子供の中にみられるような、つまり、魂その他の構成体が、いまだほとんど発達していない時期にみるようなものである。 模倣とは人間の無意識的な本性に属する。この事が、教育は模倣から出発しなければならないと言われる理由である。何故なら、人間の中で、自我が秩序を創造し始める以前は、模倣への衝動が自然の衝動として存在しているからである。 肉体の中にある、外的活動に対置される模倣への衝動、エーテル体の中にある外的な刺激に対置される象徴(イメージ)、そして、アストラル体の中にある願望と満足の対応、これら全ては空気という道具の助けをかりて創造された。 そして、それらは、人間の喉頭、いわゆる話す装置全体の中に、いわば芸術的印象(イメージ)が彫り出されるように創造された。そして、自我に先立つ、精神的存在たちは、空気が人間の中で、三重の方向性の表現に至るような形で、形成し、秩序づけるように働きかけた。 次に、言語能力を、言葉の真の意味において見るとき、口に出す音そのものから成立するのか?と問わなければならない。否、言語能力は、音そのものから成るのではない。 自我は、空気により創造された器官(喉頭)に運動(動き)を与える。眼は光を取り入れるために、眼自体で存在するが、外光を取り入れるために、眼を動かすのと同様に、自我は、空気の中の精神的存在たちにより創造された器官(喉頭)に運動(動き)を与える。我々人間は、その器官(喉頭)を、自我によって運動(動き)へともたらす。 つまり、空気霊に対応する器官(喉頭)を活性化し、その器官を作った空気霊が、人間の空気に対する活動(言葉を発する活動)の反響として、その音を、人間に再度、響き返してくるのを待たねばならない。その構図は、正にパイプ(管)各々が独自に音を出さないのと同じである。 自我は、空気霊により創造された器官(喉頭)の使用により、活動を展開する。その時、人間は、その空気霊が、再び空気に運動(動き)をもたらすのを、つまり、言葉が、その器官(喉頭)を最初に創り出した活動により音になる形で、再度、運動(動き)をもたらすのを待たなければならない。 こうして我々は人間の言語が、先に述べた三重の対応に支えられている事を理解する。では、この対応はどのように働いているのか? 肉体における模倣は、外的な活動のある印象(イメージ)を与える。いわゆる外的な対象を模倣するが、それは画家が、絵の具やカンバス、光や影などの、景色を構成する成分とは全く異なる成分を用いて、景色を模倣するのと同様に、外的対象を、音という成分で構成する言語器官に支えられている。 光と影を用いて模倣する画家に似て、空気の要素から造られた器官(喉頭)をもって、人間は環境を模倣する。これが、音として造り出す言葉が、対象の本質を真に模倣したものとなる理由である。そして、母音や子音は、外から、我々人間に印象を及ぼし、対象事物の像や模倣そのものである。 次に、エーテル体における像、象徴(イメージ)と呼ばれるものが挙げられる。言語の最初の要素は、模倣により創造された。しかし、その後、自らを、外的な印象から、いわば引き剥がすことにより更に発展した。エーテル体は、もはや外的経験には対応しない、像や象徴を(夢の中でのように)消化する。 これが音の中における発達(進化)の要素である。最初、エーテル体は純粋な模倣物を消化する。そしてその模倣物は、エーテル体の中で変化し、対象とは引き剥がされ、そのため、独立したものになる。それは内(精神)的な過程を経るが故に、外的な印象には、単にイメージとして象徴的に対応するだけのものになる。我々人間は、もはや単なる模倣者ではなくなる。 そして第三に、願望、情緒、あらゆる内(精神)的に生きる存在が、アストラル体において表現される。これは、音の変化を継続する形で働く。内的な経験は、内側から音の中に流れ込む。つまり、苦や楽、喜びや悲しみ、願望、望み、これら全ては音の中に流れ込み、その中に主観的要素を持ち込む。 純粋な模倣として出発したものは、個々の音や言葉のイメージの中で言語的な象徴へと変化し、そして今、人間の内的な経験が吹き込まれることによって更に変化する。魂の中に音を引き起こすのは、いつでも外的な対応物でなければならない。魂がその内的な経験、楽と苦、喜びと悲しみ、そしてその他のあらゆるものを音において表現するとき、対応する外的な形態を探す必要がある。
2008年06月05日
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人間の四つの構成体の外的な表現とは何なのか? それらは肉体において、純粋に外的にどのように表現されるのか? 植物の体は人間の体とは異なって見える。何故か? それは植物の中には物質体とエーテル体のみが存在するのに対し、人間の肉体の中には、アストラル体と自我をも存在するからである。それは、この内(精神)的活動が、エーテル体の活動に応じて肉体を形成し再構成するからである。 では肉体はエーテル体、もしくは生命体に浸透されるとき、どのような影響を受けるのか? 人間、或いは動物におけるエーテル体、もしくは生命体の外的、物質的表現は腺組織である。つまり、エーテル体は腺組織の建築家である。対して、アストラル体は神経組織を形成した。神経組織について正当に語れるのは、アストラル体をもつ存在だけであるのは、この理由による。 では、人間の内における個別自我の表現とは何なのか? それは循環組織で、特に内(精神)的生命の、つまり特別な影響下にある熱をもつ血とでも呼べる。自我が、肉体を変化させるとき、人間に対する働き全ては、血を通して伝達される。この事が、血が特別な性質をもつ理由である。 自我が、感覚魂、悟性魂、意識魂を変化させるとき、自我が達成する全ての働きは、血を通して、肉体に影響を及ぼす能力なので、肉体にまで貫き至ることができる。血はアストラル体と自我、そして、それら全ての活動のための仲介者である。 人生を見るなら、単に表面的レベルでも、人間が、意識魂、悟性魂、感覚魂を変化させるのと同様に、肉体をも変容させることに疑問の余地はない。容貌は、その中で生き、働いているものを表現するということを、誰も否定しないだろう。 そして、内(精神)的思考が、もし、魂を完璧に捉えるなら、ある人生の経過の中でさえ、脳を変化させる、ということを誰も否定しないだろう。 我々の脳は、我々の思考の要求に適合する道具なのである。しかし、もし人間が、自我を通して、外的存在を変化させ、いわば芸術的に形成可能な割合を考慮するなら、非常に僅かであることがわかる。 内(精神)的な熱と呼べるものから、血に運動(動き)をもたらし、それによって、我々が為せるのは非常に僅かである。個別自我に先立つ、精神的存在たちは、もっと多くの事を成し遂げることができたが、それは彼らが、より効果的な方法を用いることができたからである。 このように人間の形姿は、精神的存在の影響下に形作られたが、それは、精神的存在の力により、人間から造り出された総体的表現として、形成された。これら精神的存在たちは、空気(大気)の実質を用いた。 我々人間が、血を脈打たせる(脈により血を、自身の中で活動的にする)ために、内(精神)的な熱を用いるのと同様に、個別自我に先立って、我々に働きかけていた存在たちは、その目的のために空気(大気)を利用した。精神的存在の空気を通しての我々に対する働きかけが、我々に、人間としての形姿を与え、創造した。 遥かな過去に空気を通して、人間に働きかけていた精神力について語るのは奇妙な事に見えるだろう。しかし、我々の内(精神)的存在の魂や精神の生活について、単なるイマジネーション(霊視)の産物としてだけ考え、それが、外界全体から取ってきた真相であるという事に、気付かないのは間違いであると、これまで何度もいってきた。 概念や考えが、予め外界の中に存在するという真相無しに、我々人間の中に自然と生じると考える人は、丁度何も入っていないコップから自然と水が湧き出し、それを取り出すことができると言っているようなものである。 もし、我々の概念が、外の事物の中に生きるもので、事物の法則として、事物の中に存在するという真相以外の存在であるなら、まるで消え去って行く泡の如しである。 我々人間は、魂の中で発達(進化)させるものを、環境から取ってくる。 「我々を取り巻く、あらゆる物質には、精神的存在が織り込まれている」、 と語るのは、この理由による。 奇妙にみえるかもしれないが、空気として我々を取り囲んでいるものは、単に化学で示されるような物質ではなく、精神的存在、精神力が、その中で活動し、そして、我々人間が、血の中にある自我から流出する熱(これが本質的要素であるが)により、肉体を僅かに変化させることができるのと同様に、自我に先立つ存在たちは、空気を用いて、力強い方法で、人間の物質的存在の外形を造り出した。 我々が人間であるのは、喉頭とそれに関連する存在の御蔭である。素晴らしい芸術的な器官として外から、我々の中に彫り込まれ、その他の発声、会話器官に結びつけられた喉頭は、空気の中の精神的要素から創造された。
2008年06月04日
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以前の講義において、人間の内的構成体として記述したものは、自我による働きのお陰で生じることができた。自我の他への純化の働きにより、アストラル体からは感覚魂が、いわゆる感覚体のいわば内的な鏡像が形作られた。 感覚体が(感覚体とアストラル体は人間に関する限り同意語である。感覚体なしに、満足を有することはない)満足を伝える一方、それは願望として魂の中に反映される(そのとき、我々が魂に帰するのは願望である)。このように、2つのもの、つまり、満足と願望がお互いに属するように、アストラル体と、変化したアストラル体、つまり感覚魂が、お互い相手に属すことになる。 (自我による変容;アストラル体→感覚魂) 同様に、自我は過去において既にエーテル体に働きかけていた。自我が人間の魂の中に悟性魂、もしくは心魂を内的に創造した。このように記憶の担い手でもある悟性魂は、自我によるエーテル体の無意識的変化と結びついている。 (自我による変容;エーテル体→悟性魂) そして最後に、自我は過去に肉体の変化に向けても働きかけ、人間が今日の形態において存在できるようにした。その変化の結果が意識魂であり、それが人間に外(界)的事物に関する知識を獲得できるようにした。このように七つの構成体からなる人間は、次のように性格づけることができる。 (自我による変容;肉体→意識魂) 「自我の無意識的な準備活動を通して、三つの魂の構成体、すなわち感覚(感受)魂、悟性(心情)魂、そして意識魂が創造された」、と。 さて、肉体、エーテル体、そしてアストラル体は複雑な実在ではなかったのか?という疑問が生じるだろう。 人間の肉体とは何という奇跡的な構築物なのだろうか! そして、もし、肉体をさらに詳しく調べるなら、肉体は、自我により、意識魂へと変化させられた部分、すなわち意識魂の物理的形態と呼べる部分と比較して、遥かに複雑であることが分かる。 同様に、エーテル体は、悟性魂、もしくは心魂の形態と呼ばれるものより、遥かに複雑で、また、アストラル体も、感覚魂の形態より遥かに複雑である。これら魂の部分は、人間が自我を持つ以前から存在したものと比較して貧弱なのである。 人智学において、人間は遥かな過去に、肉体の最初の素質を、精神的存在から発達させられていたと語られるのは、この理由による。これにエーテル体が、そしてずっと後になってアストラル体が、そして最後に自我が付加された。人間の肉体は、このように四つの発達(進化)段階を通過してきた。 つまり、最初は(肉体の原基は)精神世界との直接的な対応があったが、その後、エーテル体を織り込まれ、注入されることにより発展し、そのため更に複雑になった。次にアストラル体が織り込まれるようになったが、それによっても、また更に複雑になった。それから自我が加えられた。 そして、自我の肉体に対する働きかけが、肉体の一部を変化させ、それを人間の意識、すなわち外界の知識の獲得能力の担い手へと変えた。ただ、この肉体は、感覚と脳による外界知識の提供以上の機能を有している。(感覚と脳は)我々の意識の基礎を構成するとはいっても、脳の領域の全くの外側で生じる数多くの活動を、肉体は遂行しなければならない。同様のことはエーテル体とアストラル体にも当てはまる。 さて、もし、何度も強調してきたように、外界で、我々の周囲にある全てが精神(存在)であるという事実、すなわち、あらゆる物質的、エーテル的、アストラル的なものには、精神的な基礎があるという事実が全く明白であるなら、次のように言わなければならない。 「人間が、人間存在の三つの構成体を発達(進化)させるに際し、自我は精神的存在として、内側から外に向けて働く。同様に、我々人間の自我が現れて、その発達(進化)を受け継ぐ前に、我々人間の肉体、エーテル体、そしてアストラル体に働きかけていたもの(それらを精神的存在と言っても、精神的活動と言ってもよいが、それは重要なことではない)がいたに違いない」、と。 (いうなれば、映画2001年宇宙の旅のモノリスのような存在か?) いま、アストラル体、エーテル体、肉体に対し、今日では自我が外向きに働きかけているのと同様の活動が起こっていた時代を振り返っている。つまり、自我が、それらの内部で、自身を確立する準備が整う以前には、精神的創造、精神的活動が、我々人間のそれらの鞘に働きかけ、形態、動き、形状を与えたのである。 ここで、もし、感覚魂、悟性魂、意識魂という人間存在における、三つの構成体の中で自我が変化させた全てを除外し、これら人間存在の、三つの鞘の構築の、内(精神)的な運動(動き)と活動を眺めるなら、人間の中で、自我の活動に先立って生じる、精神的活動が見い出せる。 人智学において、今日の人間を、個別の魂、つまり、各々の人間を、自己充足した個人存在にする自我が注入された魂として語るのは、この理由による。人間はそのような自己充足した自我存在になる以前には、「集合魂」、つまり今日でも動物界に関して集合魂として言及できる性質を持った魂の一部を、古代人は構成していた。 (古代人には、現代人のような個別的自我、つまり個性がなく、没個性的で、集団として機能し、いわば民族長の手足だったという。そのような集団的自我は、今日でも動物の群れの習性としてみることができる。) 各々の人間における、各々の魂として、人間の中で生じるものは、種や同族全体の根底をなすものとして、動物界の中で生じる。つまり、ある動物の種全体が共通の集合魂をもち、個々の人間の魂が動物では、種の魂に相当する。 このように、人間が個々の魂になる以前には、今日では、人智学を通じて、唯一その知識をもてる、別の魂(集合魂、民族魂)、つまり、現代人の個別自我の前駆となる魂が、人間存在の三つの構成体の中で働いていた。 この現代人の自我の前駆体、すなわち集合魂もまた、それ自身の中から肉体、エーテル体、アストラル体を変化させ、それ自身に従って、それらを秩序づけた。 その後、集合魂は、肉体、エーテル体、アストラル体を、個別自我に明け渡し、個別自我が、それらを変化させ続けた。そして、人間が個別自我を付与される以前の最後の活動、個別自我の誕生以前に横たわる自我(集合魂)の最後の影響が、「人間の言葉」と、我々が呼ぶものの中に、今日でも存在している。 なので、我々人間が、意識魂、悟性魂もしくは心魂、そして感覚魂の活動に先立つ精神的存在を考察するとき、まだ個別自我を注入されていない魂に出会う。そして、その結果は今日でも言語表現の中に存在している。 (アトランティス人は、このような性質の自我、つまり集団自我をもっていたという。集団自我は、血縁に拘る。中国人や日本人の集団性は、アトランティス人の古い習性を受け継いだもののようである。皇帝や天皇は、アトランティス時代の名残りのようである。)
2008年06月03日
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人智学の観点から見ると、人間は基本的に非常に複雑な存在である。人間は肉体をもっているが、肉体は鉱物界を支配する法則と同じ法則によって支配され、鉱物界と同様に構成されている。同様に、人間は、その存在における第二の、より高次の構成体であるエーテル体、もしくは生命体をもっている。次いで、楽と苦、喜びと悲しみ、本能、願望、熱情の担い手であるアストラル体をもつ。 人間が目で見、手で触ることができる体(肉体)より、人智学が明らかにする、この体は、現実的でないようにみえるが、実は肉体と同じくらい現実的な、人間の構成体の1つである(肉体が正の波動であるなら、アストラル体は負の波動)。 そして、人間の第四の構成体を、自我(の担い手)と呼ぶ。更に、現段階での人間の発達(進化)は、自我の働きかけによって、他の三つの構成体を変容させる事にある。 また、未来においては、人間の自我は、自然、或いは自然の中で活動する精神力(神々の力)によって、上記の三つの人間構成体から、作り出され、人間に与えたものが何も残らない形で、上記の三つの構成体を変化させる。 というのも、苦と楽、喜びと悲しみ、イマジネーション、感情、波打つ知覚力の担い手であるアストラル体は、元々、人間の参加なしに、つまり人間の自我のいかなる貢献もなしに、(神々により)創造されたからである。 しかし今では、人間の自我は活動的になり、アストラル体全ての性質と活動を純化し、清め、従属させるような形で働いている。もし、自我がアストラル体に、ほんのわずかだけしか働きかけなければ、人間は、本能や願望に支配されるが、もしその本能や願望を、徳へと浄化させ、乱れた思考を論理の糸で秩序づけるなら、その時、アストラル体は、自我の参加なしに作られたものではなく、自我の産物へと変化するだろう。 もし、自我が、アストラル体を純化する、この仕事を意識的に完遂するなら、今日では、人間進化の中での、正にスタートが切られた段階に過ぎないが、この自我により、意識的に変化させられたアストラル体の部分を「霊我」、或いは東洋哲学の用語を使えば、「マナス」と呼ぶものとなる。 (三種の神器のマナである→マナの壺=勾玉) 自我がアストラル体だけでなく、異なる方法、より強力な方法で、エーテル体にまで働きかけるとき、自我により、変化させられたエーテル体の部分を「生命霊」、或いは東洋哲学の用語で、「ブッディ」と呼ぶ。 (三種の神器の鏡である→十戒の石板=鏡) そして最後に、自我が非常に強力になり(遥かな未来において生じるが)、肉体を変化させ、その法則を規制し、浸透することにより、肉体の中に生きる全てを支配するとき、この自我に制御された肉体の部分を「霊人」、或いは、また、この働きは呼吸プロセス(過程)のコントロールから始まるので、東洋哲学の用語で「アートマン」と呼ぶ。 (三種の神器の杖である→アロンの杖=剣) このように、人間を、最初は四つの構成体、つまり、肉体、エーテル体、アストラル体、自我から構成されるものと見る。そして過去に由来する人間存在の三つの構成体と同様に、自我の働きによって創造され、未来に向かって発展する人間の三つの構成体について語ることができる。 (自我による変化;アストラル→マナス、エーテル→ブッディ、肉体→アートマン) こうして、肉体、エーテル体、アストラル体に、霊我(マナス)、生命霊(ブッディ)、霊人(アートマン)を加えることにより、七つの構成体から成る人間について語ることができる。 しかし、これら最後の三つの構成体を、遥かな存在、つまり人類の未来の進化に属すものと考えるとき、人間は、ある意味、既に現在においても、そのような発展(進化)の為の準備を行っているということを付け加えねばならない。 人間が、自我により意識的に、肉体、エーテル体、アストラル体に働きかけるのは遥か未来に過ぎないが、自我は既に無意識の中で、つまり充分な意識のない状態で、人間存在の、これら三つの構成体をまだボンヤリとした活動に基づいて変化させつつある。その結果は、既に存在している。
2008年06月02日
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