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どうも最近、なぜだか「電車男」に嵌ってしまっている。大学生時代(というより院生時代)に秋葉は、大学のすぐ近くなので、よく行ったものだ! 秋葉には徒歩で行けるのも、よく通った理由であるが、秋葉駅はとにかく非常に不自由だった。家から行くには、電車を乗り、秋葉駅を経由するのが非常に面倒なのである。 だから勉強の息抜きに、秋葉によく行った。勿論、秋葉オタクブームの何年も前で、丁度バブル期の時代である。その当時、秋葉といえば、電気以外何もなく、パソコンも、アップルの初期のものが話題になっていた位で、パソコンというよりも、目的は音楽のCDだった! いまから考えれば、非常に女気(おんなけ)のない、野郎だけのそれもオーディオオタクの聖地といってもよいが…。 いってみれば、その時代の雰囲気はオタクの前身のようなもので、ステレオオタクという感じである。プレオタクと呼ぶべきものだろうか? 音響にウルサイ高価なステレオを求めるオタクという感じである。当時、ボーズやJBLのスピーカーに憧れた思いが残っている。アンプは真空管の名前は忘れたが、とにかく音に拘った自分がいた。 石丸レコード店が、目当てだったが、当時流行の音楽を買い漁る大人。いまでいう大人買いに憧れたもんである。しばらくするとレーザーディスクが出て、その映像の美しさに目を見張った! そして、帰りには、「じゃんがら」というラーメン屋、店内になぜかジャズが流れる新鮮さに感動し、そのじゃんがらラーメン屋で、飯を食うのが定番になっていた。ラーメン屋にジャズって、なんか、黒人のジェロが演歌を歌うようなもんで、当時、憧れのヒロコグレースがじゃんがらに食べに来たというのと、一部のマイナーな話題になっていた。 秋葉原ぐらい、変わった街はないのではないだろうか? 電車男のオタクブームの秋葉には、行ったことはない。だから、電車男の秋葉をみると、親が子をみるような感じに浸ってしまうのである。秋葉もこんなになったんだぁあ!という感じである。 パソコンブームが来て、秋葉は一種のブレークを迎えたと思う。秋葉バブルという感じだと思う。それから、秋葉に行かなくても、ソフマップは、新宿にも出来て、パソコンはわざわざ、秋葉を経由しなくてもよくなったし、いまでは、ネット販売が主流になっているわけで、秋葉の本来の電気イメージから脱皮し、いわば、電気のもつヴァーチャルな仮想空間に移行しつつある。 秋葉は、仮想都市といえるのかもしれない。 そんな舞台とともに、電車男という現実では全く不可能で有り得ないヴァーチャルな純愛ドラマが誕生したのだろう。どことなく、日本経済の幻のバブルを思わせる。 まるで、日本経済のバブルは浦島太郎の竜宮城のようでもある。 日銀が玉手箱を開けてしまった為に、一気に日本は、高齢化社会を迎えた。浦島太郎老人になってしまったのである。 そんななか、電車男をみると、なんだか、あのときの輝いていた幻のような世界が、胸に込みあげてくる。 エルメスのような竜宮城の乙姫さまには、誰もが憧れを抱いているのであろう。 電車男のなかのエルメスに男は憧れてしまう。なんだか、非常に現実的には虚しいのだが、惹かれてしまう自分が情けない。 まるで、火のなかに自ら飛び込んでいく虫のようである。 飛んで火に入る夏の虫ならぬ、飛んでエルメスに憧れる電車オタクであろうか? しかし、これは恐らく、日本の神様が、出生率の低さに嘆き、どうにかこうにか、男女を結びつけ、子を産ませる為の演出だったのではないだろうか? 日本の女性が全て精神的にエルメスのようになれば、どんな日本の男でも、がんばらざるを得ないのではないだろうか? 純愛こそ、究極の発展(進化)ではないだろうか? 男がだらしなくなった感もあるが、女も、女らしさを忘れたような気がする。 その現実が、かえって電車男のエルメスを見る度に、仮想空間へと、自分を虜にしてしまう。やばい、やばすぎる!! 官能主義の前身、感覚に拘る連中をオタクというのではないだろうか? 感性が非情に偏った偏屈な達人と言うべき存在である。いまでも、オタクといえば、感覚に非情に偏った連中といえるだろう。男にオタクが多いのは、このような感覚主義にあるだろう。その中和にエルメスのような聖女が必要なのである。 あまりに偏狭の地に達してしまったが故に、故郷に戻る癒しを必要とするのである。それは、浦島太郎の竜宮城であり、玉手箱なのである。 人類は、サブプラのように、ヴァーチャルの世界の一歩手前にいて、入ろうか、入らないで我慢するかの選択に戸惑っているように思われるのである。 そして、日本はいま、非常に危険な状態に遭遇していることは確かである。 しかし、エルメスは非常に魅力的である。現実を知らないが故に…。 仮想ドラマ「電車男」のなかでの唯一の現実的な名言だと思ったのは、「愛があれば、何でも乗り越えられる」というセリフである。 愛さえあればなんでも乗り越えられる。これはキリストも語っていることである。 しかし、人間は愛の証の前に跪き、愛の前に錯誤を犯してしまいがちだ! 愛より前に、証拠を求め、虚偽や欺瞞に明け暮れてしまう。人類は、神と並び称されるぐらいのプライドをもちつつある。もはや神など存在しないと言うが如く、自分を神と同等の地位まで、自ら押し上げる。 しかし、これは虚偽、欺瞞の行為である。本当の叡智、真なる証、信仰があれば、疑いや虚偽を超えて、理解し得、平和を築けるものである。 だが、真なる愛を知る前に、人は息切れしてしまう。なぜなら、愛は絶え間なく自己犠牲を強いるからである。愛はときには非情である。 書いてみてあまりに恥ずかしさがこみ上げる。恥ずかしさ故に、原罪を背負い、現実という幻想に明け暮れてしまう。 本来、政治などどうでもいい幻想である。人間は全て、最後には死んでしまうからである。最後は死んでしまうのに、なぜ、いまの政治家たちは、いまに齷齪するのだろうか? 馬鹿な連中である。それなら、幻想に埋没する方が、少なくともポエム、美学ではないだろうか? 美学に命をかけるのなら、それは芸術という愛である証拠なのだから?
2008年04月30日
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採決した後、笑っている与党の阿呆顔連中! 苦しい決断なら、せめて泣けよ!!! あの笑い顔をみてると、腹が立ってしかたないね。 泣かぬなら、泣かせてやろう馬鹿総理! 国民ばかりが泣いている場合じゃないんだ!!
2008年04月30日
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植物の中で、感覚世界に属しているのは、ただ表面だけで、植物の魂-精神力は、人間の視覚や味覚、そして臭覚に現れる背後にある。ただ、植物の魂-精神力は、個々の人間に魂が吹き込まれているように、個々の植物にも魂が吹き込まれていると言えるような形では存在していない(植物は集合魂である)。 個々の植物に魂が宿るかのように想像する人は、一本の髪の毛、或いは耳の端、或いは、鼻や歯にも魂が吹き込まれていると考える人と同じ間違いを犯している。人間全体として、その全体において、魂を持つ存在になっているからである。 なので、部分から全体に移行してはじめて、人間の魂の本性を見ることを学べる。他の様々な生き物の場合にも同様に考えなければならない。様々な生物は、精神的な方法で観察し、観察対象が、ある一部分なのか、或いは、ある意味で1つの全体であるのか、を注意して見る必要がある。 地上にある様々の植物全ては、個々の植物自身が1つの全体ではなく、個々の植物は(ある全体の)一部であり、ある植物全体を構成する一部である。実際問題、ある一部が全体に属すように、幾つかの植物が、属す全体について語るときだけ、植物の本性について語ることになる。 人間の場合、すぐに、人間の歯、耳、指が属す人間全体を見ることができる。それらは物理的にも、その有機体全体に属している。植物の場合には、一本の植物が属する全体を、目で見ることはない。物理的器官では、植物全体を、全く知覚できないのである。何故なら、その全体に到達する瞬間に、植物の精神の領域に入っていくことになるからである。 植物界の魂的な本性に関する真実とは、植物の魂というべき全体が、植物を、個々の器官としてもつということなのである。実際問題、地球全体でみても、それほど多くない植物存在たちが、地球にいわば集合し、丁度、人間が身体上に髪を生やしているように、植物全体の魂(集合魂)の個々の部分として、植物をもつ。 個々の植物が、属する全体の存在を、植物の集合魂と呼ぶことができる。 人間の感覚が、植物に関して、見るものを超えていくとき、全体が、部分に対応するように、個々の植物に対応する植物の集合魂に至ることができる。全体としては、7つの集合魂(植物魂)が地球に属し、ある意味、地球の中心に、植物魂の存在の中心をもっている。 なので、地球を、物理的な球として考えるだけでは充分ではなく、地球を、大きさは異なるが、植物魂全ての精神的な中心を、地球の中心にもつような、7つの(魂の)球に浸透されていると考える必要がある。これらの精神的存在たちは、植物を地球の外へと駆り立てる。根は地球の中心へと成長する。何故なら、根が本当に欲しているのは地球の中心に到達することだからである。 根は、中心をめがけて押し進むが、ただその途上に立ち塞がる、その他全ての地球の物質によって、阻止される。あらゆる植物の根は、その植物が属する精神的存在の中心がある地球の中心に貫き至ろうと努力している。 いま規定した原則、つまり、あらゆる存在や被造物に関し、いつでもその全体に至ること、すなわち、最初に、それが部分であるのか、全体であるのかを理解することが、いかに、とてつもなく重要であるかが分かる。 現代には、個々の植物を、以上のようではなく、個の魂を持つものとして考える科学者たちがいる。それは、一本の歯を一人の人間と呼ぶことと同じく愚かなことである。どちらも同じ精神レベルに立っている。 このような観点を持ち出すとき、多くは、その個々の中で、正に植物が魂を持つような存在と見なすが故に、全く神秘的に考えがちである。しかし本当は、科学の側からなされる、個々の、例えば細胞を生命とするような話は、未来にとっては全く何の価値もない。そのような書籍は紙の無駄である。 別々に切り離された植物の中に、個々の魂を探し求めることは、「人間から歯を抜いてきて、その中に人間の魂を探そう。」と言うのと同じである。
2008年04月30日
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どうも与党は、あまりに超KYなのか、国家、国民の為に、政権を手放す理性も失いつつあり、政権もろとも、籠城して、爆死するらしい。 なんとまぁ、大坂夏の陣の様相を呈してきた。 なんとまぁ、与党はぶざまな負け方をしておいて、国民は本当のことがわかってないとほざいている。敗軍の責任も取らずに、国民、山口県の人々が間違っていると言っているのである。 負けておいて、自分に票を入れない方が間違っているといっている幼稚園児並みの我儘、阿呆ぶりである。金輪際、誰があんたたちになんか入れるかね。私利私欲丸見えの連中に誰が大切な将来の公共の福祉をつくる貴重な一票を入れるものか。 票というものは、純粋な心で、信頼に足る人格者に入れるものである。金や名誉や地位の欲望に負けて、汚れた投票を行うのは、この世を地獄に落とし入れるだけだ! なんとまぁ、奢り高ぶる阿呆どもだろうか? 官房長官は、「一方的な報道」とか言って、客観的な数字も読めない、票も読めないとぼけた発言やお頭で、選挙前の票読みなら、まぁわかるが、選挙後の票読みができないとは、もはや小学生並みの御馬鹿官房長官だね。いつも主観的な発言しているからそんな頭になるんだよね。 御馬鹿総理も、「完敗しましたね」って、あんたが行って、国民の神経を逆撫でするような事言うから、負けるんだろ! 負ける原因を作った奴が、よくもまぁ、負けましたねと他人事のように言うかな!! プロ野球でいえば、負けるような一発エラーをしでかしておいて、負けちゃいましたねとチームにいうもんである。チーム全体の士気は下がり、即二軍落ちだろうな! こんな奴に誰がついていくんだろな? 監督だったら、たとえ自分のミスでなくても、自分のせいで負けたと謝るもんだろ! しかし、監督そのもののミスで負けて、他に責任転嫁だから、無神経も極まれりだね。 これじゃ、日本語でサミットやられたら超KYぶり発揮でたまったもんじゃないね。さぞ、優秀な通訳さんを連れていくんだろうね。じゃないと危なくてしょうがないね。まぁ、その前に身をひいて欲しいがね。 今回の件でも反省もしない奴らはどんどん坂道を転げ落ちるだけである。自ら地獄に堕ちていくのだから世話ないね。安倍のときに解散していればまだマシだっただろう。正当な手続きなら、安倍のときに解散していたはずである。それを続けさせて、お坊ちゃん総理は病院に逃げ込む始末! 今から思えば、あんときが、自民の最後のターニングポイントだっただろう。 アホらしくて馬鹿くさい。麻生と福田の醜い争いをする前に、解散していたら、まだ自民の若手の芽もあっただろうが、ときすでに遅しだね。 大体が、日本を壊した小泉が、自民のなかで、最も総理大臣になって欲しいなんて、御馬鹿で、阿呆なことをいわれるぐらい、自民は人材不足ってことなんだよな! いいか、総理大臣もしっかりと、実力で出せない政党など、存在価値無しってことなんだよ!! 与党のお前さんたちこそ、本当のことがわかってないのではないか? 与党のお前さんたちは、首をとられるまで、わからないようである。 長州の元勲たちの顔に泥塗る与党のお馬鹿さんたち。 所詮、実力で、政治家になったわけでなく、ただただ、つくられた御輿に乗っただけだろう。少々、苦しくなると、病院に逃げ込む総理大臣を生んでしまうくらいなのだから。国民の苦しさや痛みなんか、理解できないのだろうね。 選挙のときだけ良い事いうなと与党の阿呆たちはいっていたが、年金問題を解決すると公約に掲げたのは、何処の誰だろうか? 挙句の果てには、あのときは選挙だったから、口が滑ったなどと弁解していたのは、誰あろう、今の総理大臣と官房長官ではなかったのか? そんなこといいましたっけね。えぇ、あなたそんなこと誰がいったんですか?と確か、記者に逆切れしてた超ド級KY総理の阿呆ぶりの姿が思い浮かぶ。 年金特別便はどうなったんだよ! 消えた年金はどうなったんだよ! 厚労大臣は、謝ってばかりで、ついに雲隠れしてしまったじゃないか? 手前たちが言ったことをそっくりそのまま自覚しろ! 自分が言ったことぐらい覚えていろよ! 小泉改革で、医療費を削減しておいて、少しぐらい老人も負担していただきたいなどと、調子のいいことばかりいってんじゃないよ! 毎日、料亭やコンサートばかり行ってないで、手前たちの贅沢を少々切り詰めたらどうなんだ! せっかく下がった石油価格を、また戻そうなどと、国民はパニック寸前であろう。 一体全体、政権の信頼性が失われるから、貨幣価値が下がって、物価が高騰するんだよ! もういい加減にして欲しいよ! この阿呆、馬鹿ばかりの政権には!! 誰か退治しておくれ!! 与党の代議士よ、君たちは、政権の寄生虫であり、腫瘍なのである。 政治家というのは、将来の日本国家の為に、いつでも命を捧げる勇気のある者をいう。少なくとも、今の地位保身や、古ぼけた考えにいつまでも執着している腐った権力者ではないことは確かである。 正直言って、君らをみていると、人間として恥ずかしく、腹立たしく、吐き気さえする。そんなに総理大臣を続けていたいのか? 総理大臣という地位に泥塗る腐った連中よ! さようなら!! いかに風俗店とはいえ、江戸城で、火災発生ってことは、いよいよ政権転覆の前触れかもしれないね?
2008年04月28日
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金属と人体の関係を発見することにより、人間は、植物の種子の中にある効能が、根に含まれる効能とは、別様に人間に結びついている事に気づくようになる。植物の根の中に見い出される全ては、人間の脳と脳に属する神経系にある程度対応する。なので、実際、植物の根の中に見い出されるものを食べることは、脳と神経系の中で起こっているプロセス(過程)とある対応を持つ事になる。 そのため、もし人間の精神が生きるために、物理的な道具としての使命を、脳と神経系に遂行させ、物理的な側面から影響を与えたいと欲するなら、植物の根の中に生きる力を、栄養と共に受け取ることにより、行うことができる。 人間はある意味で、このように、食物と共に受け取る根に生きる力に、自身の中で、思考を行わせ、いわゆる精神的な仕事を遂行させていると言ってもよい。一方、もし人間が植物の根の本性に由来する存在を、あまり食べないなら、むしろ、自分で脳や神経系を使用することになる。 この事から分かるように、ある人が根に由来する食物を多く食べるなら、客観的、外的な存在が、その人を貫いて働くため、その人は、(そこからくる)魂的、精神的存在として経験するものに関して依存的になりやすい、つまり、その人の脳や神経系は、それ自身の独立性を放棄する。 なので、もしその人が、その人の中で働くものに関して、もっと(独立して)自分自身でありたいと願うなら、(植物の)根の消費を減らす必要がある(なるべく、根を食べない)。とはいえ、ここでは、いかなる特別な食事制限をも推奨しているわけではなく、自然に関する事実についてただ知らせているにすぎないだけで、はっきりといっておくが、しっかりとした知識無しに、いま、述べたことを実践しないで欲しい。 誰もが思考力を、外にあるものから受け取らずに、済ませられるほどに進歩しているとは限らないのである。そして、もし思考と感情力の補給を、自身の魂生活に委ねられるほど成熟していない人間が、根を食べることを避けるなら、その人は容易に催眠状態に陥るようになる。 それは、その人の魂と精神が、客観的に、かつ、根の力から、全く独立して発達(進化)させられる力を、精神から、自身の内部で発達(進化)させられるほど、強くないからである。食事制限の問題は、常に個人的問題であり、それは全体として、当人の発達(進化)の条件と、そのあり方全般にかかっている。 同様に、植物の葉の中に生きるものは、人間の肺や肺系統に属する全てと、同様な関係にある。ここで、例えば、ある人の呼吸系が遺伝的傾向、或いはその他の条件により、過度に強力に働きすぎるとき、いかにしてバランスを取ることができるかに関する示唆をみつけられる。そのような場合、植物の葉から来るものを、あまり多く食べないように勧めるのがよいだろう。 また、逆に、呼吸系の強化を必要とするような人に対しては、葉に由来する食物を、自由に食べるように助言するのがよい。これらの事は、世界の、つまり、自然の領域のなかにある治癒力とも密接に関連している。何故なら、各植物の一部分は人体の器官と特定の関係にあり、人間有機体に相応する領域に対する治癒力を含んでいるからである。このようにして、根は神経系に対し、葉は肺系統に対して、大いなる治癒力を含んでいる。 また植物の花は腎臓系統に対する、多くの治癒力を含んでいる。そして、種子は心臓に対し、ただし、心臓が血液循環に、あまりにも強く抵抗しているときにだけ、特別な形で働く力を含んでいる。もし心臓が過度に容易に血液循環に対して降伏するなら、そのとき頼るべき力は、果実の、つまり、熟した種子の中にある力である。 自然界において、人間から周囲の自然へと足を踏み入れるとき、我々人間の感覚に自らを現す全ては、実際、その表面的なものにすぎないという事を考慮するとき、結果として得られる示唆は以下のようなものである。 要約: 根 - 脳 (思考に依存する、周囲に流されやすい) 葉 - 肺 (呼吸器系が過度に働く;アレルギー) 花 - 腎臓(腎臓が過度に働く) 種子 - 心臓(心臓が過度に働き、血液循環に過度に抵抗する) 果実 - 血液(血液循環が過度に働き、心臓を降伏させる)
2008年04月27日
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山口民主勝利! なんとか政治がかわりつつあるように思える。 一刻も早く、政権転覆し、交代して、新たな政権をつくるべし! 嘘つき自民の連中をTVでみるのは、もう懲り懲りだ!
2008年04月27日
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現在のような感覚は消滅しつつあり、一方、人間は精神の世界へと発展(進化)しつづける。そして、人間を精神へと導く橋が、上昇期にある器官である。感覚の世界と精神の世界とは、以上のような相反する関係にある。感覚の世界は下降期にある器官において、精神の世界は上昇期にある器官において、人間に自らを知らせる。 この構図はどこでも同じで、我々の前に立ち現れる世界全体の中で、この生成し、死滅する存在を何らかの方法で追跡できる。そして重要なのは、世界のその他の事柄に対しても、この考えを適用することである。それは多くの事を教えてくれるだろう。 例えば鉱物界においても、進化の上昇期にあるもの、今日ではまだ、種子の段階にある存在を見い出すことができる。鉱物のいわば種子状態は水銀である。水銀は、未来において、より高い完成に導かれるべき変容を遂げる金属である。金属としての水銀は、あらゆる物質が物質になる前、精神的存在であるときにもっている全ての力を、まだ完全には分散させてはいない。 本質的に水銀の本性に属する力は、まだ精神的な存在に止まっている。そして水銀は、将来、霊的な力を世界の前に差し出し、据えることができるようになるだろう。水銀は新しい形態を取ることになる。このように、水銀は、鉱物界において、人間の喉頭に、そしてまたある意味では喉頭に接続する器官、つまり、肺に対応するものである。 その他の金属、例えば銅は、進化の一種の下降期にある。銅は、未来において、世界の中に置かれるべき精神力をもはやもたない金属として、従って、益々引き裂かれ、宇宙の塵として、その中に崩れ去るしかない金属として自らを現すだろう。 ここに、将来益々探求の対象となる関連について、2、3の例を示した。人間は、更に自然の、幾つかの領域の中で、生成プロセス(過程)と消滅プロセス(過程)の間の関係を探求し、実験や試験を通してではなく、イマジネーション(霊視力)的な認識を通して、特定の金属と人体中の特定の器官との関係を見い出すことを学ぶようになるだろう。 その結果、既に外的な経験から、その効果が部分的に知られている物質が、その全治癒力、つまり、人体に対する全再生、回復力と共に認められるようになる。世界の処々の事物や存在の間に、あらゆる種類の関連や結びつきが発見されるだろう。
2008年04月24日
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今日の聴覚は、単に物理的世界の音や、その音の中で自らを表現する言葉を、物理的世界の中で聞くにすぎないが、それは、聞くことを通して、かつて人間の中に流れ込んでいた存在の最後の名残りにすぎない。というのも、かつては、この聴覚器官を通して、全宇宙の壮大な運動が人間の中に流れ込んでいたからである。 今日、耳で地上に流れる音楽を聞くように、太古の昔には、世界(宇宙)の音楽、天球の音楽が人間の中に流れ込んでいた。そして今日、人間が言葉に音を着せているように、過去の時代には、神的「世界」の「言葉」、つまり、ヨハネ福音書が告げる「ロゴス」、すなわち神の「言葉」自らが、天球の音楽を纏っていた。 古い言葉の意味で人間の聴力と呼ばれる存在の中に、丁度、今日、聴力として、人間の言葉や地上の音楽が流れ込むように、天空の音楽が精神世界から流れ込んだ。そして神の精神が語る存在が、その天球の音楽の中にあった。そして今日、人間が、人間の言葉、人間の歌、そして人間自身が発する音によって、空気を形態へと駆り立てるように、太古では神の言葉や神の音楽が、形態を生じさせた。 さて今、「神の」音楽により創造された全ての中で、最も素晴らしいものについて考察する。次のようにして、それに近づくことができる。今日、言葉、或いはただの母音、例えば「あ」でもいいが、「あ」を発音するとき、この音を通して、ある形態を生じる。形態が宇宙的な「言葉」から、世界の中へと入って来たのも、このような形であった。 そして、これら全ての形態の中で、最もかけがえのないものが正に人間なのである。 人間自体が、神の「言葉」で「話され」たことにより、人間本来の状態において創造された。正に「神々が話し賜うた!」のある。 今日空気が人間の言葉を通して形態に至るように、我々の世界は「神」の「言葉」を通して、その形態へと至った。そして人間こそ、この神の言葉の形態の内で、最も秀でたものなのある。当然の事だが、当時、聴覚器官は、今日の状態に比べて無限に複雑なもので、聴覚器官は今日では全く縮み、しなびたものとなった。 今日では、聴覚器官は、脳の中のただ限られた深さにまで達する外的な器官だが、かつては人間全体の中に広がっていた。人間とは「神」の「言葉」の発声そのものであり、人間そのものとして話された音の通り道は、その人間存在の至る処を貫いて進んだ。人間は聴覚器官を通して(精神的に)創造された。 そして将来、人間が再び(進化し神へと)上昇するとき、非常に小さく、痕跡となった耳を持つようになるだろう。耳の意義と目的は、完全に過去のものとなるだろう。耳は退化しつつあるが、これを補うものとして、今日、種子のような状態にある喉頭が益々美しく、完成された器官へと発展していく。 そして、喉頭は、その完成状態において、丁度「神々」が「神々」の創造物である人間を世界の中に話し(語り)、構築したように、人間が人間の存在を模したものとして、世界の前に与えることができるように、声を出すことになるだろう。 そのようにして、世界のプロセス(経過)はある意味で反転する(聴覚が衰え→喉頭が進化する)。我々の目の前にいる人間全体を考察するとき、進化プロセス(過程)における下降期の産物を、その中に見る必要がある。そして耳のような器官を取り上げるとき、その中の小さな骨にみられるように、既に骨物質の濃密性に達しているのを理解する。それは、いわば退化の最終段階にある。
2008年04月23日
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しかし、この政権というのは、いかにも超ド級のKYぶりである。 まるで、「道路をつくるために、75歳のお年寄りは死んでください」といっているようなものである。 とある知事は、道路がないと、救急車も通れないと力説していたが、保健医療費を削減しておいて、道路をひいても、意味がなかろう。嘘もいい加減にして欲しいものである。 一体全体、人間とモノやカネのどちらが大切なのか? はっきりすべきじゃないのか? 与党議員を削減して、道路を引いたらいいじゃないか? 無意味な道路をひいた議員こそ、死んでくださいだろう! この際、国会議員から、まず先に保健医療費を徴収すべきであろう。 どうせ、議員は特権の無料で、医療を診てもらっているのだから、給料ぐらいは、国に返上すべきである。そのような厳しさがないから、病院に逃げ込む、お坊ちゃん総理なんかが現れるのである。 この国の老人は、ボケているようだ! このような赤紙まがいの保健制度をつくったのは、かの小泉なのである。 小泉や自民党を支持していたのは、当時の高齢者だったわけである。 早い話、裏切られたわけである。恐らく、高齢者はボケて、昔のことなど忘れてしまうだろうと、計算して、成立させたに違いない。 つまり、高齢者は、自らで自分の首をしめるように、仕向けられたのである。 与党は、死人に口無しといいたいのだろう。 こんな国にしておいて、よく応援演説など、顔出しできるものだ! 超KYという称号を送りたいね。
2008年04月23日
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現代は、エゴが蠢く世の中である。仏教では、末世という、お釈迦さまの教えが、もはや形骸化し、残っていない末法の世である。 そのような物質世界のなかにあって、だからこそ、生のことのみに埋没し、死後のことなど、何もないかのように、生きている人間がありふれ、あふれている。 地球はかつてと姿を変えつつある。自然は、あきらかに変貌を遂げている。 そのような大多数のなかで、死後の世界を知りたいという欲望をもつ人たちも少なからず現れてきた。 死後、人間はどう生きる(存在する)のか? ということを知りたければ、 シュタイナーの「死者の書」 をお薦めしたい。 この書は、人間が、神から生まれたと力強く説く。 神から生まれたとは、Ex deo nascimur.と表記するようである。略すると、Eden(エデン)となる。 我々人間は、神から生まれ、神と共に、生きていると説く。 我々は、神から生まれたのであり、その可能性は無限大なのである。人間は、ときには、悪魔の誘惑に負け、自らが不完全な存在なのにも関わらず、神のごとく振る舞い、権威を振りかざすこともできる。この事は、人間が、神から子として愛され、自由を与えられている証である。 しかし、神は、子供が悪魔の誘惑に負け、理想の人間になる前に、完全に進化の道を踏み外すことのないように、親の如く、見守りながら、一緒に歩いているという。 この書は、このような事柄を、綿密に語っている。 人間は、神から生まれ、悪魔の誘惑に負けないように、キリストのように死ぬように、神は、親として、教育者として、導いてゆくという。 キリストのように、悪魔に鞭打たれ、人生を苦悩しながら、自らの十字架を担ぎながら、キリストにおいて死ぬという。なぜなら、悪魔の誘惑に打ち勝つには、キリストのように生きるしかないからである。 キリストは、自分のなかに巣食った悪魔に打ち勝つ唯一の方法を、生き方の見本を示したという。 キリストにおいて死ぬとは、In Christo morimur.と記すようだ。 そして、キリストと結びつくと、人間は、もはや、悪魔の誘惑に負けない完全な霊となるという。 それは、Per spiritum sanctum reviviscimus.と記し、聖霊によって蘇るという。 そのとき、人間の魂は完全に目覚め、平和に満ちた静けさ、充溢感に満たされるという。 我々人間が神から生まれた証拠は、自身を作り変えることができるということなのである。親が子の成長を願うように、神は人類の進化を願っているという。
2008年04月22日
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今回の連続講義の中で、人間とはいかに複雑な存在であるか、人間の真の本性に近づくためには、いかに多くの面から人間を考察する必要があるかについて、何らかの考えに至ることができただろう。 そして、それは、超感覚的探求の助けをかりて、非常に太古の昔から今日までを振り返り、未来において人類に訪れるものを見通しながら、人間進化の全プロセス(過程)を学ぶときに、到達できる全結果の中でも、特に重要なものとして位置づけられる。 今回の連続講義の中で、人間が、知能を既に述べた方法で教育するとき、つまり、人間の魂が、知識を求める努力の中で、驚き、敬虔、世界の事象との叡知に満ちた調和、そして最後に世界プロセス(過程)全体に対する献身として、特徴づけられる気分の中に入っていくとき、獲得できる認識に注意を向けた。 覚えていると思うが、もし魂が、これらの気分、或いは状態に入っていくならば、いかに人間の認識能力が、人間の周囲の至る処にある、2つの逆方向のプロセス(過程)に関する知覚へと徐々に上昇できるかに関して説明した。人間は、周囲のあらゆる処に、生じつつある存在と、死滅しつつある存在との区別を学ぶ。 人間は、事あるごとに、自分に対し、この世界では、生成のプロセス(過程)、つまり、ただ未来にのみ完成に至る存在に関わっている一方で、また、この世界で、徐々に死滅し、消滅しつつある存在に出会う。人間は、世界の事物を、そこで、あらゆるものが生まれつつような、或いは、あらゆるものが死につつあるような領域のどちらかに存在するものとして知覚する。 そして、特に、いかに喉頭が、未来の器官であるか、いかに未来において、今日あるような存在とは全く異なる存在として呼ばれるようになるかを、指摘した。喉頭は、今日では、内的気分や状態を、話し言葉により、外界に伝えているだけなのだが、未来では、人間自身が、全体として何者であるかを伝えるものになる。 すなわち、喉頭は、人間全部を産み出すのに使われる未来の生殖器官なのである。 人間が喉頭の助けを借りて、単に心の中で思っていることを言葉により表現するのではなく、自分自身の自我を、世界に提示するのに、使うようになる時がやがて来るだろう。言い換えれば、人間の繁殖は、喉頭という器官と密接に関係するようになるだろう。 さて、この複雑な小宇宙の中には、つまり「人間」と呼ぶ、この複雑な「小世界」の中には、喉頭のように、今のところは、その種子にすぎないが、未来では、より高い完成の域に達するような器官に対して、これとは逆に、徐々に衰退し、消滅しつつある別の器官が存在する。 この喉頭に対するものが聴覚器官である。 この聴覚装置が、少しずつ消え去るのに比例して、つまり、聴覚が益々退化するのに比例して、喉頭は益々完成された存在、重要な器官になるだろう。この事実の重大性を推測できるのは、ただアカシャ年代記の助けを借りて、人類の遙かな過去を振り返るとき、つまり、超感覚的探求が見い出すものが、かつて耳とは、どの様なものであったかに関して、何らかの概念を構成できる位置にあるときだけである。 人間の耳を、原初の形態にまで辿るとき、人間本性に関する認識に向けての、大いなる視界が新たに開ける。というのも、現在の人間がもつ、いまのような聴覚器官とは、かつてのその存在の影以上のものではないからである。
2008年04月22日
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人間の血が、ルシファーの色に染められたために、非常に長い間、つまり、人間が自分の内に、この七重性を再び受け入れることができるまでに成熟するのに十分なインテュイション(霊人力)、インスピレーション(霊聴力)、そしてイマジネーション(霊視力)な実質を、神経、筋肉、そして骨から流出させるまで待たなければならない。 今のところ、次のように抽象的な方法で、これらを数え上げるところまで来た。 すなわち、肉体から自我に働きかける人間の本性、同じくエーテル体から働きかける本性、アストラル体から働きかける本性、そして人間の自我自体(ヤハウエ、あるいはエホバ)からの本性、マナス或いは霊我、ブッディ或いは生命霊、そしてアートマン或いは霊人から働きかける本性として、人間の全本性が数え上げられる。 (肉体、エーテル体、アストラル体、自我、霊我、生命霊、霊人の7つである。つまり、これらの人間を構成する7つの存在を、神々エロヒムから与えられた。この7つの神々は、七福神の伝説となっている。) しかし、もし人間進化の途上で、ルシファーの介入が許されなかったなら、人間は他の六つの構成要素を著しく暗くする一方で、残りの1つ、つまり、自我だけを、現在のように際だって明るく照らすというような事は、けっして実行できなかっただろう。 (しかし、ルシファーの介入により、自我のみが、明るさを増し、他の6つの肉体、エーテル体、アストラル体、霊我、生命霊、霊人は暗くされ、未発達にされた。ルシファーを「光の担い手」と呼ぶのは、この意味にある。 人間は、ルシファーにより自我が過度に明るくされたので、自分という利己主義的な、エゴ、所有欲が生まれたのである。本来、人間の持ち物になるものは何一つ宇宙にはないのだが、人間は、「私」という、自分を所有する意識をもつに至った。 その自分の所有により、周囲の環境から、自分の物にし、人間は知識をも所有するに至るが、それは、アーリマンという悪魔により、本来、無常なものを常なるものとして、幻像を与えられているにすぎない。アーリマンは、無常のなかから、人間の知識に好む現象を与えているのである。ちなみに、アーリマンは、ゲーテがファウストのなかで描いたメフェストフェレスのことである。) 地球進化の初めに、自我以外の構成要素を、暗くさせられた反面、自我が特別に明るくなった理由、光に満ちた自我をもって輝くようにさせられた真の理由は、自我が濃密な物質性の中へと追い立てられたということにある。 そのため自我は、その個別性、特にその孤立した個別性についての明確な意識に至ることができたが、もしルシファーの介入がなければ、人間は絶えず自分の七重性を感じていたはずなのである。 このように、もし人間の血が、神々が想定した、当初のままに留まっていたなら、人間は初めから七重の性格を持った自我へと到達していたということが理解できる。しかし人間に、ルシファー(の作用)が与えられたことによって、唯一の、孤立した性格を持つ自我に至り、その自我を、存在の中心に位置する存在として認識し、感じるようになった。 なので、人間は、当初予定されていた形態の血、人間が自分たちを、1つの普遍的人種であると感じるように、1つにまとめる存在、社会的方向で働けるような存在を含んでいる事が理解できる。当初予定されていたような、七柱のエロヒムが人間自我の中に顕現していたなら、そのような、社会的奉仕の存在になっていただろう。 ルシファーの人間への贈り物の意図は、人間が、自分を特別な個人として感じると同時に、その自立性の中で、自分を普遍的な人類としての人種から切り離すことにあった。世界は、人間が、地上において、ルシファーの働きを通して、益々独立する傾向を持つようになる一方、七柱のエロヒムを通して自分を益々、人類全体の一部とし、そのメンバーとして感じる傾向を持つようになる方法で、その経過を辿っている。 この事が道徳の面で、そして人間が進化していく上で、人間の生活全体に関して、どのような結果をもたらすかについては、次回以降に述べる。
2008年04月21日
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報道特捜プロジェクトをみていて、悪人、それも極悪人の多さに辟易してしまった。 どうも、官僚というのは、上にいけばいくほど、腐敗し、堕落していくようである。 リサイクルといいながら、リサイクルでない商品を自慢げに語る、現環境大臣の胡散臭さ! その真相を誤魔化す環境省の悪徳役人。TVに映っていた、あのような人間は、人間の姿をしながら、動物である。この世の闇に目の眩んだ野獣である。 自分の発言くらい、リサイクルしろよ! ゴミだらけだぜ!! 確か、この環境大臣は、医師でもあるはずなんだが、患者に平気で、嘘でもついているのだろうか? 偽証するなかれである。 またまた出てきた。社会保険庁、庁内で年金詐欺をしながら、組織維持の名の下に、何の処分もなし。当の犯罪者たちは、いまも出世を続けているという。しかも好待遇なのだから、始末が悪い。 マスゾエ厚生労働大臣は、消えた年金のように、雲隠れのことだという。 辞職ばかりか、地獄で送る追徴年金を年金特別便にして送ってやるぜ!! 未来永劫、地獄で暮らすがいいぜ!! そういえば、悪魔のような顔つきだね。 いま流行のBOSSというコーヒーのCM風にいえば、 「この国の大臣たちは、平気で嘘ついて、名誉や地位の猟官運動にあけくれ、悪銭稼ぎに奔走しているようだ。しかし、外面だけを体裁でとりつくろってみても、かえって中身や信頼性が失われるだけなのに、馬鹿な連中である。死んでしまってから、国民の自分に対する本音に気がつくのだろう。全く罪つくりな阿呆である。自ら地獄に堕ちていくんだから、世話がない。」 悪いことを悪いことと判断できない頭脳なのだから、小学生より始末が悪いな、馬鹿大臣たちよ! 恥知らずな人たち。もうこれっきり、テレビに出ないで欲しい! 顔もみたくない!! こういう連中をみていると、この世の中が地獄で、悪人ばかりであることに気がつかされる。渡る世間は鬼ばかりということである。とにかく、大掃除や大洗濯が必要のようだ!
2008年04月19日
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どうも、法律や契約、約束事を、自分の都合で、守らない人が増えてきているように思える。感情論が先行しているようにみえる。 TVで、入学金を支払わなかったために、入学式に出れなかった出来事を、可哀想だという感情論で、語っていたが、では、給食費を払う金があるにも関わらず、給食費を支払わない親が沢山いることはどうなのだろうか? 給食を食べられない子が可哀想という感情はよくわかる。そのような感情を正当化するのならば、代わりに支払ってやったらいかがであろうか? このようにいわれると、可哀想と、言った当人は、恐らくその支払いを拒否するだろう。なぜ、私が払わなくてはいけないのか?と言うだろう。 関係当事者ではなく、他からあれこれ感情を述べるのは、その人の勝手であるが、それをマスコミでアンケートをとって、感情論がさも、先行するかのように、なかばその感情を強制するような形で、公共放送するのは、完全なる公共の福祉に反するものにも思われる。 問題は、子の入学式の大半の親、もしくは子供自身が支払っているにも関わらず、2人だけの親が、なぜ、その支払いを怠っていたのか?という点にあるといえるだろう。 入学費の支払いもできない経済的背景があるのなら、学校に入学させるための、奨学金制度の情報を探して、その活用を図るように、子供と相談して、事前に手筈を整えるのが、親の責任ともいえるだろう。次の日すぐに払っているのだから、この経済背景は考えられない。 なんでも他人任せの風潮が蔓延し、法律や入学上の手続き等を、面倒くさがっているように思えてならないのである。まぁ、これも私の主観にすぎないが…。 主観を続けてしまうが、そもそも、入学式に出席するというのが、それほど、社会的意味があるのかとも思ってしまう。入学式に出るよりも、授業に出るほうが、学生の本分だろう。入学式に出たはいいが、授業にも出ず、遊び耽っていてはまるで意味がない。 大体、大きな大学の入学式なんて、ただ集まるだけの単なる儀式集会にすぎないものである(私は、某マンモス大学だったので、入学式も、卒業式も、学位授与式にも出なかった。そういえば、高校の卒業式も、予備校の試験と重なったために出なかった。そのために、三年間の皆勤賞を逃し、担任の先生にご迷惑かけたが。自分でも少し変わり者とも思うが、あんな混み合う式にワイワイ浮かれる人間の気がしれない)。どこか、入学式という幻想を抱いてはいないだろうか? 入学式いかんよりも、大学生やその親たちの道徳やモラルの方を問うべきだろう。忙しくて支払い忘れたのなら、その親にとっては忘れるぐらいの入学式なわけで、授業や講義にしっかり出れるようにすればよいのだし、勘ぐってみれば、もし、入学式のための入学費であったとしたら、その支払い分をケチったとも考えられる(最近のモンスターペアレンツの傾向からして有り得ない話ともいえない)、これはあくまで推測だが…。 その番組では、外国人にも意見を求めていたが、これも全く文化が違うのだから、お門違いのものである。このような番組が、統計的な詐欺手法で、公共の電波で、感情論で、垂れ流すから、政治家は、法律や公約を守るよりも、自分の都合で、感情論を先行させてしまうのである。 そして、責任を転嫁して、感情論をあからさまにして、野党が言うことをきかないから、悪いなどと、静粛な国会審議のなかで、語るのだから、この国は、もはや無法国家と化してしまったのかという印象が拭えないのである。 大体、そのような感情論の対立や闘争にならないように、法律や約束事があるのに、それを守らずに、感情論を振りかざしていては、人間が、原人に戻るようなもので、退化であって、本末転倒といわなければならないだろう。 そもそも、たかが2名が入学式に出れなかったような出来事を大きく取り上げるマスコミの神経というのが不思議でもある。イラク派兵違憲判決や、給油問題、年金問題、石油税金道路問題、そして老人医療費問題等の国民全体に比べれば、全く些細な出来事でしかない。 マスコミは、どうやら不文律である重要問題の質をも理解できなくなったようである。このことを、節操がないと呼ぶ。節操がないとは、節がない、無分別なので、生物でいえば、無脊椎動物になり、地面を漂い、這うしかできない。勿論、知性などない。知性体には、骨格が必要だからである。 守るべき理性がもはや失われているので、ただただ、我侭気儘に情報が垂れ流されるだけである。このような機関が、放送倫理など、語るのもおこがましいといえるだろう。 「悪法も法なり」といって毒杯を飲んだソクラテスこそ、理想の人間像であろう。
2008年04月19日
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シュタイナーの血の講義を読むと、人間の血が、堕天使ルシファーたちとアーリマンたちによりつくられていることがわかる。 それは、この人間社会で生きていくには、貨幣が必要であることと表裏一体となっているといえるだろう。 つまり、人間は、穢れた血や汚れた貨幣との付き合いなしでは、生きていけず、存在することができないわけである。人間は、悪との付き合い無しでは生きていけないのである。 しかし、実は、そのことが、人間をして、人間足らしめていることで、人間が、悪を克服し、善に転化し、自らを教育し、そこから道徳、モラルを学び、進化していく生命の杖となるのである。 悪というのは一時反映するが、後に残され、消滅していくものだからである。善というのが悪のなかから選りすぐられ、宇宙を育む永遠の法となっていくわけである。 シュタイナーは、堕天使ルシファーと、アーリマンという存在がいるお陰で、その均衡、バランスの下に、キリストの働きが存在できるとも説いているのである。善は悪があるから、善でいられるわけなのである。 そして、元々、そのような消えていく堕天使という存在を生んだのも、善なる神々なのである。悪のお陰で、自分が何者であるかを判断できる。つまり、悪は、知恵の実なのである。 人間は、知恵の実を食べた為に、血が汚れ、悪と付き合わざるを得なくなり、苦しみを知り、死というものを知り、その恐怖を知るに至ったわけである。 苦しみや死を乗り越えることは、各自の人生の生き方、精神に委ねられた。 では、聖書より抜粋する。 ■金持ちの議員 ある議員が、イエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命が得られるのか」と尋ねた。 イエスは言った。「なぜ、私を『善い』と言うのか。神以外に、善い者はいない。 『姦淫するな。殺すな。盗むな。偽証するな。父母を敬え』 という掟(十戒)を、あなたは知っているはずだ。」 すると議員は、「そういうことはみな、子供のときから守ってきました。」と言った。 これを聞いて、イエスは言った。 「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物を全て売り払い、貧しい人々に分けてあげなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、私に従いなさい。」 しかし、その人は、これを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。 イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言った。 「財産のある者が神の国に入るのはなんと難しいことか。 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 これを聞いた人々が、「それでは、誰が救われるのか」と言うと、 イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言った。 すると、ペトロが、「このとおり、私たちは、自分の物を捨てて、あなたに従ってきました。」と言った。 イエスは言った。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者は誰でも、 この世では、その何倍もの報いを受け、後の世では、永遠の命を受ける」 (浅はかな人は、十戒の父母を敬えという教えと、最後のイエスの言葉の、神の国のために、両親を捨てることが、矛盾しているのではないか?と考えるだろう。実は、その考えこそが、この世の見方なのである。 イエスは、この世での、血縁関係を捨てた、つまり絶った者は、最終的には、もはや、この世の存在ではないから、神の国の永遠の命を受けるといっているわけである。いわば、人類全てが兄弟の存在になれば、特定の血縁関係の利益に拘ることはなくなるといっているわけである。 つまり逆説的にいえば、特定の関係を増やすのではなく、特定の関係を捨てること、独立することが、永遠の命に適うといっているわけである。なにより、孤独に打ち勝つことが、最も、永遠の命に適う道に近いといっている。 人間は、孤独を恐れるが故に、特定の関係を結び、束の間の、この世に安住しようとするが、夢や幻に、安住することなどできはしない。 だから、金持ちは、最も永遠の命を手に入れるには、難しい存在で、いわば、永遠の命からの脱落者なのである。 確かに、人間であるなら、いま生きるには金が必要であり、それをすぐには捨てることはできないだろう。しかし、神ならばできると、イエスは断言しているわけで、ここに人間と神との大きな差があるというわけである。神は、少なくとも、自立した存在で、というか、神は、この世の存在ではない。この世を含んだ全体の存在なのである。 さて、いきなり、なかなか金を捨てて、キリストの教えに従い生きることは困難であるから、つまり、神の国のために、血縁関係をも絶つことは困難だから、この世で生きている限り、その何倍もの報い、つまり、試練や苦悩、苦痛を経験すると、イエスはいっているわけで、その何倍もの報いという経験を糧に最終的に、自らのなかの悪を駆逐し、克服し、その人は、永遠の命を手に入れることができると、はっきりと言っている。 この最後のイエスの言葉は、カルマの意味を説いている。その人が、人生のなかで、この世的な悪を、天に持ち込むことはできず、それは地に返して、死ななければならない。次の転生に、自分が生んだその悪を何倍もまた背負って、新たなる生を迎えることになる。 そうして、何度も、この世での悪を善に転化していく仕事を担うのである。そして、この世に捨てるものが、なくなったとき、もはや、束の間のこの世の夢や幻を生きることなく、天国の門が開き、永遠の命を手にいれるというわけである。 だから、金持ちは、益々、天国には入れない、入れてもらえない存在といえるのである。」 金持ちよ、はっきりといっておく、貧しい人々に施さずして、生きるなかれ。金持ちは、金がなければ生きられない陳腐で束の間の存在であることを自覚すべきであるぞ。 金稼ぎのための現代の投資家は、地獄へと邁進しているのである。虚業を行うなかれ!!
2008年04月19日
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進化とは、古いものと、新しきものの衝突と融合であると、神秘学は説いている。この事をシンボリックに、渦として、台風の目のような目として表しているのである。 さて、古いものとは、全体主義で、集団主義である。 そして、新しいものとは、個人主義で、個性主義である。 つまり、保守と、革新の間に、進化の目がある。 この事を、地政学的にいえば、露西亜と中国が、古きもので、全体主義、集団主義の存在である。 これに対して、西欧と米国が、新しきもので、個人主義、個性主義の存在である。 そして、この中間、つまり、全体主義と個人主義のぶつかり合うところで、そこに、融合が生じ、古きものと新しすぎるものとを超えた、真の新しい形態、進化の目が誕生するのである。 露西亜と、西欧の中間には、東欧がある。 そして、中国と、米国の中間には、東亜、つまり、日本と韓国がある。 次世代の進化の目は、東欧と東亜にあるといえるだろう。 もともと、集団主義と、個人主義の分れは、古代インドから、西アジア、エジプト、そしてギリシャへと文化が伝承されるにつれ、次第に生じてきた。個人主義、多様主義が、西へと向かい、集団主義、全体主義は、東に取り残されていった。 西は、地球を一回りして、置いてきた東と、再び巡り合う、つまり再会のときを次世代に迎えるだろう。 その地が、東欧と東亜なのである。東欧と東亜に共通な点は、集団主義と個人主義の衝突に出くわし、多くの血が流されたということである。 その血は解体され、再び融合する。命の犠牲の下に、融合という友愛が育まれる。 例えば、全く無意味な太平洋戦争が、唯一、歴史的に意味をもつとしたら、米国の個人主義が流れ込み、中国の全体主義と、ここ日本の地において、対峙し、融合しつつあるということにあるだろう。 米国人はあまりにも、個人主義的で、まとまりがなく、また、中国は、あまりにも全体主義、つまり家族主義的、血縁主義で、古き、えこ贔屓的で、いまだに、共産主義独裁体制のままである点で、停滞しているところが、進化には一方で過度であり、他方で過不足なのである。 この中間に位置する、韓国と日本が、過度に個人主義でもなく、過度に全体主義でもなく、丁度よい、塩梅のバランス、中庸を身に着けたとしたら、次世代の文化を形作るものとなろう。 その文化は、友愛の文化で、血縁によるものでなく、何の強制もなく、自主的で、多様性をもち、かつ個人として独立し、自由であり、同時に責任と社会的役割を果たすような理想となる土壌の地となりえる可能性がある。 東欧と東亜に新しい文化が誕生するのが、待ち遠しい。
2008年04月18日
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楽園からの追放とは、物質の中への下降なのである。 というのも、今や、血は、一瞬の間だけ輝き、そして再び精神の中へと受け取られるのではなく、物質的な血の実質となったからである。それは物質へと突き抜け、血の実質として迸り出る。そして、今日知られているような血の傾向を受け取る。 本当は物質化した瞬間に精神的存在へと帰るべき、この血の実質が、今や人間のその他の組織部分に迸り出る。そして、人間内の様々な力によって変容を遂げながら、人間の全組織を満たした。血は、例えば、肉体のエーテル体に対する優位(卓越)や、エーテル体のアストラル体に対する優位(卓越)等々の中に浸透するに従って、神経物質や筋肉物質等々に変化する。 こうして、ルシファーは血を過剰な物質性へと追いやり、血は、芽生えると即、消え去るように、本来デザインされていたにも関わらず、ルシファーは、血を粗雑な物質性へともたらした。それはルシファーが物質自体の中で遂行した1つの直接的行為である。ルシファーは血を物質化させたが、人間のなかの他の構成要素については、せいぜい、それらの間に不整合をもたらしたにすぎなかった。 ルシファーがいなければ、血は全く今日のようなあり方をしていなかっただろう。それは、ただ物質性の縁まで、つまり発生段階にまで進み、すぐに元に戻るような精神性の中で存在していただろう。物質としての血はルシファーが創り出したものである。 そして人間の自我は、血の中に、その物質的表現を有するが故に、ここ地球上においては、ルシファーの創り出したものに結びつけられることになる。そして、ここでもアーリマンは、自分より前にルシファーがいることにより、人間に接近できるので、「血はルシファーがアーリマンのために投げてよこしたものである。だから両方が、今や人間に近づくことができる。」と、言うことができる。 古い原初の感情が、ルシファー・アーリマン存在をして、血を、地上における財産と見なすようにさせたというのは尤もな事ではないだろうか? ルシファー・アーリマンは、血で書かれた契約書をもっている、或いは、ファウストが自分の血で契約書にサインすることに、大いに価値を置くというのは尤もな事ではないだろうか? 何故なら、血は完全にルシファーに属するものだからである。それ以外のものは何でも、その中に、なんらかの神的なものを有している。ルシファーは、その他のいかなるものの中でも、全くくつろぐということはない。インクでさえ、ルシファーにとっては、血よりももっと神的存在なのである。血こそルシファーの要素なのである。 (人間の血は穢れたものという宗教の迷信はここにある。) 人間の中に2つの存在、つまり、感覚、腺組織及び消化系を持つ人間と、神経、筋肉及び骨を持つ人間の存在を知っている。それぞれに対応する力は、粗雑な物質性を負わされ、その両方が、ルシファーの影響による働きを通して、その形態を取るに至った血によって供給される。 何故なら、物質的存在である限り、人間は完全にルシファーの血の産物であるということは、外的(唯物的)科学にとってさえ、全く明らかだからである。人間の中で物質的なあらゆるものは、血によって栄養補給される。それら全ては、本当に、変化した血なのである。物質の観点からみると、骨、神経、筋肉全ては、変化した血以外のものではない。 人間とは実際血であり、血であることによって歩く、ルシファー・アーリマン存在なのである。人間は常に、自分と共に、ルシファー・アーリマン存在を持ち歩いている。人間が、神的世界に属し、そして、過去の遺産による進化ではなく、前進する進化に属しているのは、物質の背後にあり、血を通して物質の中に注ぎ込まれる精神的存在による。ルシファー、そしてアーリマンもまた、進化の特定の段階に、取り残されることを通して、我々人間の世界にやってきた。 いままで述べた事全てを心に留めると、全くはっきりと、地球進化の正に始まりにおいて、人間が何か共通のもの、1つに結びつける存在を持ったということが理解できる。人間は、血の中に、人間全てに共通する存在を、初めから持っていた。 というのも、もし血が人間のためにデザインされたままの存在であったなら、それは形態霊(エロヒム)の純粋な放射であったはずだからである。血とともに、形態霊は我々人間の中に生きていたことだろう。形態霊とは、他でもない、聖書に言う七柱のエロヒムのことなのである。 創世記に関して、ミュンヘンでの連続講義で述べたこと全てを思い出せば、もし人間が、血を、当初予定されていた状態に保持していたなら、人間は七柱のエロヒムを、人間の中に感じていたはずである。人間は、人間の中の自我が七つの構成要素からなると感じていたことだろう(虹のように)。 その構成要素の1つが主神であるヤハウエ、或いはエホバに対応し、他の六神は、さしあたり人間にとっては下位に位置するものであっただろう。人間が自我の内で感じるべき、この七重性、つまり、人間内における、七柱のエロヒム、或いは形態霊による、いわば高まりは、今の人間が大変な苦労をして獲得しなければならない七重の本性を、本来、自然にかつ自発的に人間の内に生じさせていたはずなのである。
2008年04月18日
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さてさて、政治混迷が続いているので、どうしても、政治に類する話を書いてしまう。 海舟は、「世の中は生きている」といったが、その根拠に、七年一変説を挙げている。七年一変説というのは、簡単にいえば、七年経つと、その評価が一変するというのである。 実は、シュタイナーは、7年で、人体全ての細胞等が入れ替わるといっている。そして、七年毎に、進化論を説いている。地球も、人間も、七という数字を基準に、変化しているというのである。 シュタイナーによると、ヨハネの黙示録の悪魔の数666は、777に至る途中の数を表すのである。777、つまりラッキーセブンに至ると、人類は、神々の仲間に加わるまでに進化するというのである。ただし、その前の、666の進化段階に、最も邪悪に陥る危険が、人類に迫るというのである。ちなみに、現在は、7進数で、344の数の進化段階であるという。 それはともかく、海舟と、シュタイナーは、7年一変説という点で意見の一致をみているのである。 ■気勢の変転 海舟先生曰く;「一体、政治家は、気勢の変転というものをみなければいけない。新井白石が、読史余論に、気変転といって論じたのは、後から言ったもの(パクったもの)で、まぁ、気の移り変わりの具合を知らなければならない。 それは証拠を挙げていえば、直にわかるものだ。徳富にでも書かせてやろうかと思ったのだが、誰かが、書けば直にわかるのだ。その具合をちゃんと知っていると、政治の塩梅が造作ないのだ。 ワシはもともと西洋人の言った七年一変の説ね。あれを信じているのだ。どうも、七、八年ないしは、十年にして、人心が一変するよ。 水野(忠邦)から阿部(正弘)、それから井伊(直弼)ね、その跡(功績)を推して(推測して)みせると、直にわかるて。しかし、水野、阿部と人を指して言うから、間違うのだ。勢いの移り変わりだから。 水野のときは、外国のために準備すると言って、やかましいことであった。阿部のときには、水戸が勤王攘夷とか言って、騒々しかった。西郷(南洲)等が、王政復古をした。その都度、あとからみると、先の事が馬鹿らしく見える程に、勢いが変わってしまう。流行だと人はいうが、そういうものじゃありゃしない。維新までに三変したよ。 それから、明治十年の西南戦争さ。伊藤(博文)さんの朝鮮征伐(日清戦争)でも、明治二十七、八年で、(明治三十年の段階では)その気も来ていない。利口の人だが、気(の変化)に乗じたのではない。それで、明治三十年はひどい事がありますぜと言ったのだ。いま(明治三十年)になって色々のことがあるが、それはただ伊藤の時の結果にすぎないのだ。 もう少し何かあると、皆その方に走って消えてしまう。言いたくもないけども、伊藤さんの朝鮮独立の勅語などは、どうするのか。外国公使か何かが少し言ったといって、勅語が今では、そのままになってしまっている。あれをどうするつもりかな。」 この伊藤博文の日清戦争は、小泉改革とよく似ているように思える。小泉政権が、2001年にできて、現在は、2008年で、丁度、7年目にあたるわけで、そろそろ、7年一変説でいえば、世論の評価が一変する時期にきているわけで、あれほど、当時絶賛された小泉改革が、早くも、年金問題、医療費問題、地方格差と経済問題化し、評価が下降しつつあるわけで、つまり、2008年はそのはじまりにすぎないわけである。 7年一変説でいえば、この至上最低の混乱政権は、不幸にも4年続いたが、だからつまり、2008年の今年から、2012年まで、評価がどんどん下降していくようになるといえるだろう。だから、逆に小泉改革の否定を行えば、気に乗じて、どんどん評価が上がっていくわけである。この事を、海舟は、政治の塩梅といっているのである。 つまり、7年毎に、先の事を全て改めるのである。それはもう先のことが馬鹿らしくなるほど人心は移り変わるといっているのだから、人間の評価なんて所詮浮世の名の如しである。 この7年一変説を知らずして、ノコノコとマスコミに現れる子鼠とは、正しく鼠年に鼠取りに掛かるようなものである。いま、鼠を血祭りにあげる賢い猫こそ、必要なときといえるだろう。さて、小沢猫は賢い猫か?
2008年04月17日
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古今東西、世が治まるも、乱れるも、結局は、当人の器量や心掛け、つまり人徳に帰する。現代は、あまりにも不徳のいたす人物が、お門違いに政権につくので、世が乱れ、難問が次々と押し寄せ、ついに、人心腐敗に陥り、信頼が失われ、世が乱れる。 世を乱す人物を奸人、そして、その集団を奸族と称する。さしずめ、いまの内閣は、奸族内閣といえるだろう。 現代の奸人よりも、まだマシのようだが、伊東巳代治という人物がいる。 日本近代の儒(陽明)学者の安岡正篤の書を読むと、「六験」という人物評価の仕方の例に、この伊東巳代治が出てくる。その癖の見分け方の部分を抜書きする。 「原敬さんが、なかなかこういうこと(人物の癖)に通じておった人で、今と違って衆議院の上に貴族院があり、貴族院の上に枢密院がある。これは怖い爺さんばかりが集まっておって、憲法の番人を以て任じておった。 これを統裁しておったのが伊東巳代治という、これは大変な難物で、頭が良くて弁が立って、長く伊藤博文公の書記官長をしておった。博文公よりも伊東巳代治の方を役人はもて余した。なかなか厄介な爺さんで癖のあった人と見えます。 大木遠吉さんと一夕懇談した時、たまたま伊東さんの思い出話が出て、『あのくらい嫌な人はなかった。大臣をしてあの人くらい難物はなかった。彼の屋敷に行って、いろいろ話をして、辞去して門を出たら一ぺん羽織袴をパッと振わないと、気がすまなかった』というようなことを言っていましたから、よほど感じの悪かった人とみえる。」 原敬は、この感じの悪い爺さんの骨董という癖を見破り、爺さんが、いかにも好きそうな骨董品を取り寄せ、家に飾って、爺さんを招きよせては、見せびらかしながら、爺さんが拒否した、ある案件を、話ながら、最後に、その骨董品を土産にもたせて帰し、その案件を通してしまったという話である。 つまり、原敬の方が一枚上手だったというわけなのである。 さて、この感じの悪い伊東巳代治爺さん、勝海舟も、大嫌いだったようで、人物評で以下のように語っている。海舟は、いつものように皮肉交じりに語っている。 「伊東巳代治は、利口者さ。おれは、あの親を知っているが、何でも長崎の乙名(おとな)の組下ぐらいであったよ。その倅にしてはよく出世したものさ。だが、仕方のない事にまだ幅がない。 利口ばかりでは国は治まらない。(武田)信玄が生きている間は、流石の(織田)信長でも黙っていたのに、一朝、信玄が死んで(武田)勝頼の代になると、じきにあの始末さ。しかし、勝頼は決して馬鹿ではないよ。それに左右には元老(重臣)も沢山いたけど、国はやっぱり亡びたよ。巳代治もまだまだ政治家にはなれないのさ。」 それで、原敬に対する人物評価はどうかというと、山県有朋が、「原は偉い奴だった。あんな男を殺されたら、国家はたまったもんじゃない」と嘆いたというから、どうみても、原敬の方が、伊東巳代治よりも、大きかったようである。 現代では、殺されるどころか、言い訳がましく、未練たらしく罵ったり、病院に逃げ出す者までいて、よく、この国は亡びないものだと思うが、逆から考えてみれば、はじめから、存在感がないから、いてもいなくても同じということに、大勢に影響がないわけなのだろう。しかし、確実に日本社会は混迷していることだけは確かである。 さしずめ、伊東巳代治を現代でいえば、中曽根を大きくしたような感じだろう。(大連立のときに、石原都知事とテレビに出て、超KYぶりを発揮したのには、国民は皆興ざめしたようです。あれで、この中曽根っていう人は、一気に感じの悪い、不人気爺さんに格を下げたね。日本では、爺さんがテレビで怒るなんてのは、いただけないね。怒るんなら、社保庁や厚労省や財務省に対してだろう。嫌な爺さんだよ!) それでも、伊東巳代治はまだマシで、この巳代治に比べれば、役人にまで舐められ、それも汚職腐敗役人たちに、牛耳られるわけだから、いまの大臣は赤子のようなものなのだろう。とても、小さくて、マスコミに映るしか存在感がないようである。馬鹿らしいたらありゃしないね。こんな小さな連中が、大きな米国や中国やロシアを相手にするんだから、なんでもハイハイといってうなずいてきちゃうんだろうな。 うなずきトリオって、一昔前にお笑いで流行ったが、小泉、安倍、福田は、なんでもうなずきトリオだろうな!
2008年04月17日
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森に小泉に、竹中、安倍、そして福田。 もし東京裁判があったら、A級戦犯級に思える。 だから、この人たちは、靖国神社に集うのだろう? ともかくも政界から引退してほしい!
2008年04月16日
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早くやめろ! ただそれだけ!!
2008年04月15日
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人間のためにデザインされていた唯一の感覚知覚とは、次のようなことである、 つまり、「血の実質の輝きと精神への一瞬の逆流の中で、自我を知覚することである。」 色を見たり、音を聞いたり、味を知覚するかわりに、人間は真に「支配する意志」の中で生き、いわばその中を泳ぐ存在だった。 人間のためにデザインされていたのは、人間自らが純粋なイマジネーション(霊視力)、インスピレーション(霊聴力)、インテュイション(霊人力)として、置かれている精神全ての世界から、地球上、或いは地球の周囲にいる存在を、見下ろし、 「私はあの(地球の)存在の中にいる。」と自分に言うのではなく、 「私は、下方(の地球)で、精神的な血が(それは私に属しているが)、一瞬、物質になるのを見る、そして、私に向けて輝いたその血の中で、私は自らを知覚する。」と言うように感じることだった。 生じるべき、たった1つの感覚知覚とは、自我の知覚であり、物質世界において、人間のために意図されていた唯一の実質とは、一瞬だけ輝く血の形態である。なので、もし人間が、このように楽園の人間のままであったなら、地上において、象徴的に表現するように運命づけられていた自我、及び、この自我が、その中で発芽するように、成長するイマジネーション(霊視力)、インスピレーション(霊聴力)、インテュイション(霊人力)からなる、純粋に精神的存在に関する意識を、与えるように運命づけられていた存在を、人間は全世界から見下ろしていただろう。 そして、この自我の輝きの中で、 「私は在る。何故なら、下方(地球)において、私で在るものが、私を通して、存在するに至ったからである。」と言うことができただろう。 それは不思議なことだが、本当である。人間は地球の周囲に生きるように意図されていたのである。人間は、地球の周囲(前回の図8の(a))に生き、人間の反映を地上に創出し、ただこの反映を通して、自我が再び照り返すことによって、「下方に私の徴(しるし)がある。」と言うように意図されていたと想像される。 人間は、現在のように、自分と一緒に、骨人間や腺人間等々を持ち運ぶように、まして、「それは私である。」というような馬鹿げた判断を下すようには意図されていなかった。それとは全く違うことが起こるべきだった。人間は地球という惑星の近傍に生き、血の形態の輝きの中で、地球に徴(しるし)と象徴を沈め、そして自分に語りかける存在になるべきだった。 「私は地球に私の杭を、つまり、私の徴(しるし)であり封印を打ち込む。その徴は私に自我意識を与える。何故なら、私は、その徴、封印とともに(その中で、土星存在、太陽存在、月存在を経てきたが)、ここ(地球)、つまり、地球の外にある全世界の中で漂うことができるのだから。」 「私が今、付け加えるべきなのは、自我である。私は、自分自身を、下方の地球上に記入することによって、自らの自我を知覚する。そのことにより、いつでも私は、血の輝きの中で、私が何者であるかを読みとることができる。」 と言うべきであった。なので、本来、現状のような、肉と骨からなる体をもって地上を歩くものではなく、地球の周囲を回りながら、いわば、下方に自分を記入することによって、人間であること、つまり、自我に気づくように意図されていたのである。この事実を看過する人は、人間本性についての真の知識に至ることはない。 そこにルシファーがやって来た。そして人間に、自我を感知するだけでなく、アストラル体、つまり、古い月の上で獲得していた全て(思考、感情、意志)をも同様に感じるようにし向けたのである。このようにして、自我は、もはや純粋ではなくなり、何か別のものが混入し、そして、この事により、人間が物質の中に落下する必要性が生じた。
2008年04月15日
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ドラマのことを書いていて、私のおススメのドラマを書いてみたくなった。 まず最初に挙げるのは、松田優作の「探偵物語」である。 型破りな作り方がなんとも心地よいのが、このドラマの特徴である。松田優作演じる主人公は、あるときは工藤ちゃん、あるいは工藤さん、ときには探偵さんと、コミカルな人間模様を描いていくが、どこか、その哀愁を感じさせ、それが絵になる。 なにより、新宿界隈の猥雑さや、当時の日本の昭和の胡散臭さを醸し出していて、そして、いきなし、最終回は、ハードボイルドバイオレンスで、主人公は、一転して、殺人者に豹変し、たわいもない恨みから殺されてしまう。まるで、夢の如しで、儚い人間の性を感じさせる。 人間なんて、偉そうに語ろうが、最後は、死んでしまって、何もかも消えたものになるのさ。なんかその目立たない深みにハードボイルドを感じさせる。 いまみると、確かに古臭く、垢抜けない感じもするが、それはそれで、コミカルにもかかわらず、真面目に昭和を生きている生き様、印象を感じさせるのである。 2番手に挙げるのは、三谷幸喜の「王様のレストラン」である。 ベルエキップというフランス語で、「良き友」という意味の「レストラン」を、創業者のシェフが死に、荒んだレストランを、シェフの友で仲違いしたギャルソンが、王様のような一流のレストランに、つくりかえるコミカルな物語である。 フランス料理店が舞台にも関わらず、何処か、黒澤映画のようなストーリーをも感じさせるのである。黒澤なら、主人公は、三船で、藩の建て直しストーリーになってそうな気がする。 どの出演者も、皆、それぞれ、いい味を出していて、どの人物が欠けても、不味い気がするレストランになるから、不思議である。このようなフランス料理店があったら、是非、行きたいと思わせる。 ちなみに、このドラマをみてから、ワインに懲り、フレンチに行くようになった。それでも、日本人にとってみれば、フランス料理は、まだまだ、敷居が高いともいえる。しかし、このようなフレンチドラマがあれば、フレンチも馴染み深いものになりえよう。セレブには傍迷惑かもしれないが、大勢で楽しめるからこそ、幸福感も増すものと思える。 このフレンチドラマは、舌で味わうのではなく、心で味わうものである。 主人公の松本幸四郎が、「素晴らしい」と口癖のように語るので、(トレ)ビアンとあだ名されるのだが、まさしく、ビアンなドラマである。 「101回目のプロポース」は、私のなかでは、これよりは、少しおち、三番手あたりになる。
2008年04月14日
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BSフジで、「電車男」の再放送をやっている。理想的純愛物語である。非常に懐かしさを覚えてしまう。 「電車男」はかつての「101回目のプロポーズ」を思い起こさせる。主人公は、中年と、若いオタクの違いはあるが、どちらも、一見、女性にもてないタイプで共通している。 それよりなにより、非現実的な、男性の女性に求める、純な理想的展開のドラマストーリーにあるように思える。 どちらも、女性は、手に届かない憧れの存在である。手に届かない憧れの存在だからこそ、かえって、対照的に、主人公の純粋さを際立たせている。 そして、重要なのは、どちらの女性も、純粋に、惨めな男の愛に応えようとしている点である。それが、かえって、男性に健気さ、純真さを思わせ、更に憧れの対象にしてしまうのである。 「101回目のプロポーズ」をみたとき、漫画「めぞん一刻」と、「銀河鉄道999」を混ぜ合わせたような気がした。「101回目のプロポーズ」の主人公が、星野鉄郎という、「銀河鉄郎999」の主人公と同じ名前であったのもあるが、いずれも、女性をどこか神聖視している点で、似たような感じを受けたからである。 このような女性を神聖視する見方は、男性特有のものに思える。なぜなら、私の経験からいえば、女性はもっと計算高い生き物であると思うし、端的にいえば、腹黒い存在といえるからである。なにより女は自然に嘘をつくからである。男性には決してみせないが、奥深く、女性は悪魔のように、密かに何かを隠し持っているようである。 それはさておき、男性は、非常に単純な生き物だと思える。もちろん、女性に比べればである。逆にいえば、女性は非常に複雑な生き物であると思う。大半の男性は、女性の演技を見破れないだろう。というか、女性は演技するうちに、その者になりきるようだからである。 さてさて、いま、女性が女性らしくないのは、男性が男性らしくないせいであるという話もあるが、どちらが先でどちらが後でもなかろう。つまりは、純粋な恋愛が少なくなったせいであるように思える。 確かに、純愛ドラマのような現実はほとんどないだろうが、場面、場面、ほんの一コマは、ドラマのようであってもよいだろう。男性が女性に憧れ、女性が、そのような素朴な愛に応えようとする姿勢、これは人間の美の徳性に思えるからである。 かつて、中世の騎士の間では、憧れの貴婦人を誰もが心に抱いていたという。そのような憧れの女性のためには、ときには命をも投げ出す騎士道の精神があったという。貴婦人も、そのような若い騎士に笑顔を振舞うことで、その志に応えたという。 日本の江戸時代にも、武士は刀で殺すが、お茶屋の○○ちゃんは、目で殺すというような狂歌もあったという。 さてさて、このような純粋な人間の徳性は何処にいってしまったのだろうか? あるブログをみていて、宮沢賢治という名を聞いて、宮沢賢治こそ、そのような純粋な人間の徳性をもっていた存在のように感じた! 宮沢賢治は、田んぼを歩くときは、舗装された道を歩くのではなく、田の中に入って、鳥のように、「ほほほぅ」と鳴きながら、飛び跳ねるようにして歩いたという。宮沢賢治は、まるで、自然のなかの人間だったという。 このような姿、イメージを浮かびあげると、なんとなく、宮崎アニメのトトロが思い浮かんだ! 宮沢賢治は、トトロだったのかもしれない。日本のアニメが、いま世界中に広がるのは、汚れた心を、洗い流す効果があるのかもしれない。 「ほほっ、ほほっ」と。
2008年04月14日
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我々の内で、一方の人間と他方の人間の間で働く力とは、お互いに均衡を取りながら支え合う2つのバランス力のようなものである。 そして今、それら2つの間に、いわばそれらを仲介するものとして、ある実質を見い出す。それに関しては、もっと一般向けの講演において、何度も述べてきたが、この関連ではまだほとんど言及していない。その2つの間にあるものとは血のことである。 血は、この関連でもまた「特別な液体」である。というのも、既に見てきたように、神経物質その他の実質として、学んできた全ては、ルシファーの影響を受けた働きの結果として、そのようになったのだが、血の場合には、実質そのものがルシファーの影響を被っている。 以前に、もしルシファーの影響がなければ、肉体、エーテル体、及びアストラル体は、今とは別様にお互い作用し合っていたということを理解した。ところがその相互作用に、ある点から、超感覚的な事柄が関係してくる。 その作用は、ただ後になって、自分の中に物質を取り込み、つまり、その作用は、自身が以前被ったルシファーの影響をもとに物質に働きかけ、物質を今のような状態にする。なので、神経、筋肉、骨の実質は、その存在を人間の構成体が不規則に組み合わされているという事実に負っているのである。 そのような不規則な結合の実質に対して、ルシファーは影響を及ぼすことができない。何故なら、これらの実質は、人間が為した結果として、すなわち、人間が、自らの構成体をずらし、混乱させた為に、存在するからである。人間が、その各構成体の間に、つまり、ルシファーが人間に接近してきた場所に、不整合を生じさせたのである。 ところが血に対しては、つまり、物質としての、或いは実質としての血に対しては、ルシファーは直接働きかける。血に関しても(血は特別な液体だが)、今日の人間は、真に意図されていた状態にはなく、つまり、ルシファーの影響がなければ、なったであろう真の状態にはないということを、物質的実質自体が示しているのを見る。というのも、血は何か本来なるべきものとは全く異なったものになったからである。 「そんな馬鹿な!」と言うかも知れないが、その事は真実である。総体としての物質起源について以前述べた事を思い出せば、精神的形態が、一種の境界、或いは限界に達し、そこで分解し、分散するとき、物質が生じ、つまり、この砕け散った形態が物質として現れるということを述べた。 地上の物質とは、以上のような存在なのだが、このように直接生じるのは、実際には、鉱物界のみなのである。何故なら、その他の物質は、介入してくる別の事柄に捉えられることにより、変化させられ、改造されるからである。ところが、血という実質は、そのあり方において特別な実質なのである。 血の実質もまた、本来、とりあえず、ある限界にまで達するように定められていた。図8(a)には、血実質の純粋に精神的形態の放射があり、そして、図8(b)で、その力が使い果たされると想像する。さて、血に元々備わっていた傾向によれば、血実質は空間中に分散し、噴霧されるようにはなっていない。境界(b)において、ごくわずかに物質になり、そして、再び血実質自身の中に、つまり精神的な存在の中に投げ返されるはずであった。血は本来そのようなものだった。もっと雑な言い方をすれば、血はただ物質の、いわば繊細で微かな表皮を形成する、つまり、物質になりかける一歩手前に至るはずだった。 血はいつでも精神から一瞬の間、打ち出され、丁度、物質として知覚可能な程度にまで物質化し、それから再び精神的存在へと打ち戻され、精神の中に受け取られるべきものだった。絶えず精神から、うち寄せて来て、そしてまた打ち戻されること、血の本来の傾向は、以上のような方向性に向けられていた。 (いわば、本来の血は、海岸に打ち寄せる波のようなものなのであろう。波は、海岸の砂に消えてなくなるが、その水の勢いは、跳ね返っていく。) 血は、物質一歩手前の中で、絶えざる光の煌きのようにデザインされていた。血は、本当は、何か全体として精神であるように意図されていたのである。そして、もし人間が、地球進化の始めに、自我を形態霊(エロヒム)だけから受け取っていたなら、血は、そのようなものになっていただろう。というのも、その時の人間は、自我を、血による一瞬の点火により、創り出される抵抗を通して経験したからである。 血における煌きの中で、人間は「私である」(自我)を経験していただろう。それは、人間が自我を知覚するための器官であり、そもそも人間が有する、たった1つの感覚知覚であっただろう。ルシファーの影響なしに全てが起こっていたとすれば、その他は存在せず、人間は、「支配する意志」と1つになって生きていただろう。
2008年04月14日
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海舟は、平和主義者で、戦争が何より嫌いだった。海舟はあのような時代でも、人を殺すのが大嫌いで、そのために、西洋人に神様の御加護があったといわれたという。海舟自身もなかば、自覚しており、自分の家系が、物部氏の末裔だと感じており、ミカエルの像を隠し持っていたという噂もある。とにかく戦争が大嫌いであるようだ。 今回は、そのような日清戦争に批判的な語録を書く。 ■日清戦争 海舟先生曰く;「日清戦争の、勅文が出た頃は、丁度、日光参りをしていた。途中で聞いて、ビックリした。宮内省で、伊藤(博文)にも言った。そのときつくった詩がこれである。 隣国交兵日(りんごくへいをまじうるのひ) 其軍更名無(そのいくささらにななし) 可憐鶏林肉(あわれむべしけいりんのにく) 割以与魯英(さきもつてろえいにあとう) 半紙に書いて、中島雄に見せたら、(中島が)『中国の方では、この詩のようでなく、大層恐れているようです』と言うから、(海舟は)『恐れていても、この詩の通りだ』と言ったら、(中島は)『この詩の通りになったら、これを宝物にします』と言ってもっていったよ。 最初は、決死の徒が六人来て、仲間は六十人いると言い、もし、戦わなければ、大臣を刺殺すると迫ったようである。オレに任せろと言って、色々と、仲裁したが、とても止められなかった。 あいつらは、陛下に、博多まで出てもらうという計画だったようである。オレは、山県(有朋)が出るときに、次のように言ってやった。 『快く一戦して、いい加減にして、引き上げて来なさい。決して長く戦ってはいけません』と。 あの六十人の連中は、今もちょこちょこ来るが、今では大変手に負えなくて困っているよ。そうさ、伍長位の下の連中さ。それが段々と上の者を強迫したのさ。 軍人が暇乞いに来て、『また、お目にかかることはないかもしれません。生きて還らないつもりです』というから、 (海舟は)『馬鹿め、死んでどうする。戦というものは、ほどほどにして、早く逃げるものだ』と言ってやったが、そいつが還って来て、褒美がどうとか、こうとかと言って不平を言うのさ。 オレが、李鴻章だったとしても、なに馬鹿な、日本などと、本気で戦うものか、さっさと逃げるよ。土地が広いから、逃げまわって2、3年もかかるさ。大いに都合が善いよ。 『それではどうだ』と言ってやったら、『(実は)そればかりを心配していました』と言ったっけ。」 (軍国主義者が馬鹿なのは、戦には多大な戦費が掛かる事を忘れていることである。逃げ回るのを追いかけるだけでも、兵を動かすのだから、多大な戦費を費やすのである。湾岸戦争でも、日本の金がなければ、成功は無かっただろう。 日本の経済力を過小評価した米軍は、戦争を殺し合い、血を血で洗うものと捉え、日本から金を巻き上げることに苦心し、自国民を戦場に送る為に、イラク戦争を起こした。その結果、ベトナムと同じような多大な戦費と、命を費やす暴挙になり、一気に双子の赤字に埋没したのである。いまもイラクは収拾がつかず、多大な戦費や命を費やし、日本は思いやり予算を計上してやっているのだから、愚の骨頂である。 軍事的に制圧しても、その後、経済的に立ちゆかなくなれば、意味がない。結果的に、ブッシュは、ビンラディンに大敗北を喫したといえるだろう。アフガンと、イラクで、米国経済は、もはや風前の灯火になってしまった。サブプラなどは表面的な出来事にすぎない。 戦争というのは、引き際が肝心なのである。その国の経済力に見合った仲裁、調停段階を探らなければならない。このことは、人生の引退にもいえ、一歩間違えると、晩節を汚すことになる。 海舟は、戊辰戦争のときに、幕府軍が、官軍を軍事的に制圧できたことを認めている。しかし、それをやると、官軍が、大坂、京都市中に逃げ隠れすることになり、幕府軍を動かすのに、多大な戦費を要し、外債などを募ることになり、わざわざ断念したと述べているのである。 また、この意味で、海舟は、秀吉を日本一の経済家と評している。なぜなら、太閤は、一方で、あんなに戦をしながら、景気のよいことをどんどん行ったからである。この事から、三成や吉継たち経済官僚の優秀性が伺えるともいえる。 このような戦費の計算ができない軍事的指導者は、単なる命知らずの無謀者で、無能といえるだろう。小泉改革の張本人は、このような無謀な無能者によく似ている。戦争に勝っても、経済に負けては、生活し、生きていけないからである。)
2008年04月10日
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さて、我々人間が放射する全てに、何が起こるのか? 前回述べたように放射される全てを全体として考えれば、その放射は、実際、世界に対して行使する影響の総体である。何故なら、人間が何を行うにしても、行うときには、人間は動いているからで、つまり、骨格及び筋肉を運動へともたらすことになるからである。 行為ばかりでなく、ただ横になって考えているときにも、インテュイション(霊人)的に、知覚可能な実質を放射している。要するに、いかなる活動に従事するときにも、人間の活動により、この精神的実質を世界に送り出している。そして、それらは絶えず、人間から世界へと移行する。 さて実際、もしこれらのプロセスが生じていなければ、地球が進化の終焉に達したとき、その後には何も残らないだろう。その後には何も残らず、ただ、粉々になった物質が塵のように宇宙空間へと散って行くことだろう。しかし人間を通して、地球の物質的プロセス(過程)から何かが救い出され、普遍的な宇宙の中で生き続ける。 そして、それは、インスピレーション(霊聴)、インテュイション(霊人)及びイマジネーション(霊視)を通して生じ得るものである。 このようにして、人間は、世界に、自らを新しく構築するための根拠を与える。人間は、いわば世界のために建築材料を提供する。これこそ、地球の物質的部分が、死体のように引き裂かれ、うち砕かれるときにも、地球全体の魂、或いは精神として生き続けるものである。丁度、個々の人間が死の門を通ったときにも、その魂、或いは精神的な本性が生き続けるように、それは生き続ける。 人間は、個人的な魂を死の門を越えて担っていくが、地球は人間のイマジネーション(霊視)、インスピレーション(霊聴)、そしてインテュイション(霊人)からくるものを、地球の次の進化期である木星紀へと担っていく。この点において、人間の内にある二種類の人間は非常に異なっている。 感覚をもって知覚し、腺組織から分泌し、栄養摂取と消化を行う人間は、捨て去られる存在として運命づけられている人間だが、それは時間的存在、消滅する存在である。一方、神経や筋肉、或いは骨が存在する結果、そこから生じる存在は地球に取り込まれ、その事により地球は存在し続けることができる。 さて、今、何か我々人間の存在全体における大いなる謎として、立ちはだかるものへと来た。そして、それは、本当に謎であるが故、知性によっては把握できず、むしろ魂によって信じられ、その深みへと到達すべきものである。しかし、それは完全に真実である。 人間が周囲に流出するものは、全くはっきりと2つの部分に分かれる。第一の部分は、普遍的宇宙存在(宇宙霊)が、いわば依存するインスピレーション(霊聴)、インテュイション(霊人)、そしてイマジネーション(霊視)である。宇宙は、それを受け取り、飲み込む。 しかし、更に別の部分がある。宇宙はそれを受け取らず、逆に拒否する。次のように言えるほど、宇宙存在は拒否の態度を明白にする。 「私は、これら(善良で健全な創造的)インスピレーション(霊聴)、インテュイション(霊人)、イマジネーション(霊視)は使用できる。私はそれらを吸収し、木星存在へともたらす。」 しかし、それ以外の(悪徳で邪悪な破壊的)インテュイション(霊人)、インスピレーション(霊聴)、イマジネーション(霊視)は、宇宙存在によって拒絶され、受け取りを拒否される。それらは、どこにも受け入れられずに放置され、宇宙の中に(精神的に)留まる。それらは解体されない。このように、人間が放射するものは、2つの部分に分かれる。宇宙によって喜んで受け取られる部分と、拒絶される部分である。 宇宙は後者、つまり悪徳の霊的存在を喜ばず、放置する。この後者は取り残される。では、どのくらいそこに留まるのか? それを発した人間自身が再度来て、自身で破壊可能な流出物を用いて、その放置された悪徳の霊的存在を、自分で破壊する時が来るまでである。一般的には、宇宙により拒絶された流出物を送り出した人間以外には、誰もそれを破壊できない。ここに、カルマが働く仕組みの一端があり、人間が、カルマの働きの中で、宇宙により拒絶された全てのイマジネーション(霊視)、インスピレーション(霊聴)、インテュイション(霊人)に再び自ら向き合わなければならない理由がある。 何故なら、人間はそれらを自らで破壊し、消滅させなければならないからである。宇宙は、思考において正しく、厳正であるもの、感情において美しいもの、そして、道徳的に善良で健全なものだけを受容する。宇宙は、その他のあらゆるものを拒絶する。これこそが大いなる秘密であり、謎である。 そして、思考において偽りは何であろうと、感情において醜いものは何であろうと、道徳的に悪であるものは何であろうと、それらが、それ以上そこにあるべきでないなら、人間は自分で、それらの存在を消し去らなければならない。人間は、必要とされる思考、感情、意志衝動、或いは行いをもって、宇宙に拒絶されたものを自ら消滅させなければならない。 人間が、自ら出した偽、醜、悪を消し去るまで、いつまでも、その人の後に、それがついてまわるだろう。 なので、宇宙は、単純な中立的自然法則から成っているか、或いは、中立的自然法則によって表現され得るというのは真実でない事が分かるだろう。人間の周りに広がる宇宙(これを人間は感覚によって知覚し、理性によって把握できると考えているが)は、その中に全く別の力を有している。 言うなれば、宇宙は、悪徳、醜悪、及び偽りを激しく拒み、はねつけ、そして、善なるもの、美しいもの、及び真実を自分の中に受け入れる。宇宙の力による審判とは、単に定期的に下されるのではなく、何か地球進化全体を通して作用し続けるようなものなのである。 そして今、「人間の進化は、高次の精神的存在達と、どのような関係にあるのか?」という問いに対する答えを見出す。 一方で、感覚、腺組織、及び消化機能を持つ人間が、いかにルシファーの影響を通して存在するようになったのかを見てきた。もう一人の人間もまた、ある意味で、ルシファーの影響に帰することができるが、最初の人間が、破壊される運命をもって、ただ時間の中で存在するように定められているのに対し、もう一方の人間は、人間本性を永遠性と持続性において救出し、人間性を、未来の存在へともたらす。 なので、ここから分かるように、人間が最初の人間(感覚、腺組織、消化機能を持つ人間)になったとき、真なる精神的存在の高みから堕ちたが、その釣り合いをとるために、第2の人間(神経、筋肉、骨を持つ人間)の受容を通して、再び精神的存在へと少しずつ、上昇の歩みを進めているのである。 しかし今、不思議なのは、このインテュイション(霊人)、インスピレーション(霊聴)、イマジネーション(霊視)の実質の分泌が、物質的プロセス(それは破壊的プロセスだが)を通してしか生じ得ないということである。もし、神経、筋肉、骨が絶えず崩壊しなければ、もし、崩壊せずに、そのままであったなら、人間は、この精神的実質を、宇宙に送り出すことはできなかっただろう。 というのも、精神的なものに、輝きを発し、燃え立つ機会を与えることができるのは、物質存在における崩壊(破壊)と衰退だけだからである。そして、もしこのように、神経、筋肉、及び骨が衰微し、最終的に、死の中で破壊され得なければ、人間は、地球上での、この(物質)存在性の中に縛り付けられ、未来へとつながる、更なる進化に参加できなかっただろう。 人間の現在は、石のように硬化し、未来に向けての進化は不可能であっただろう。
2008年04月10日
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前回は、政治は実行が第一ということを、海舟が述べていることを書いた。とにかく、議論などしてる暇があれば、思ったことをやってみて失敗から学んだ方がよいということである。 何事も、はじめからうまくいくことなどない。失敗しながら、段々と、成功に近づけていけばよいのである。これしかないなどとはじめから決め付けるのが最もよくないというのが、海舟の経験から語る事実である。 学者先生は、はじめから成功しようと思うから、役に立たないといっているのである。机上の空論や、言葉がそのまま現実になることなど、あり得ないからである。要するに、何事も、人の行為、行為を為す人の徳によるということである。失敗しながら、学び忍耐強くやり遂げる気力、胆力こそ大切なもので、西郷(南洲)が日本では第一だといっている。 海舟は、常々、「理屈は死んでいる。世間は生きている」と言っている。世の中、理屈通りに進んだことなどない。だから、官僚がつくる政策など、鵜呑みにしてはいけないのである。官僚など、第一、机の上しか知らない連中だからである。現場視察をせずに、政策など絵に描いた餅である。 そんなものに予算をつけるなどは、幽霊に、食物を与えるものである。幽霊などはいないと非科学的だと、けなした当人が、そっくりそのまま同じ机上の空論に振り回されているのだから、始末に悪いわけである。 海舟は、言葉にこそ出さないが、当時有名な学者の福沢諭吉は、卑怯者だと馬鹿にしている。なぜなら、福沢は、戊辰戦争がはじまると、海外に逃げて、金稼ぎに夢中だったからであるが、その福沢が、海舟を、幕府の中枢にいながら、新政府に仕官するなど、武士にあるまじき不忠者と罵ったとき、まるで相手にしなかったようである。 そして、しつこい福沢に対して、「言は他人に属す。行ないは我に属す」と言ったという。 言葉でいくら語っても、実行したことにはならないわけである。立派な言葉をほざく前に、行ってみなさいという意味なのだろう。 さてさて、今回は、日銀総裁問題や、売国財務省の天下り連中の改心のために、金本位制実施のときの、海舟の語録を書く事にしたい。 ■正金の扱い 海舟先生曰く;「明日から、いよいよ金本位制かね。それで物価が下がるかね。この間も、そういう話じゃないか。物価は、理屈通りに行くものではない。勢い(景気)によるものだからね。それに信用がなくなってくると、自然に貨幣(流通)が増える訳で、どのように隠しても、仕方が無い。物価が上がる。 物価が上がるのではない。貨幣(価値)が下がるのさ。準備金を用意しておくと、そうはならないよ。それはどのように隠しても、いけないよ。金が減ると、自然に下がるよ。 はぁ、金貨の用意をしたというのかね。そうだね、なに、大して換えにくるものじゃないだろう。 今(明治30年)の人は、大層なことをいっても、実際に、正金を扱った経験がないもの。正金は、勿論、扱い難いものでね。それは大変だったよ。 シュ徳院の和尚が、二分金で二万両ほど貯めたが、どうにも扱い難く大変だったようで、どうしましょうかと相談するから、『それなら、目黒の方にでも、別荘をつくりなさい。そして、少しづつ段々に(別荘に)送って、地の中でも、埋めてしまいなさい』と言うと、その通りにしてね。布団や、米櫃の中へ、少しづつ入れて、段々と送って、納所と2人で、瓶を買って、その中に入れて、このような縁の下に、おいておいて、後々助かったようだ。 もう二十両ももっていると、(運ぶ)駕篭かきの肩に響くというのさ。始末にいけやしない。 為替かい。それはずっと昔からあったよ。藩札は、江戸幕府にも、御用達がいるから、そこで、いくらか割引して、換えた。大きな町人になれば、再度、その藩に行くときに、用いたのさ。あぁ、藩札は、江戸では、使えない粗末なものさ。 あの贋金引き換えの時(幕末の混乱に乗じて、偽藩札が出回ったのを、つかまされた外国商人等が、明治政府に換金を依頼し、訴訟沙汰になった事件、海舟は、大久保利通から相談され、皆、換えろと意見し、大久保もその通りにしたが、風評よりは意外に少なかったという。)かい、そうさ、三百万円だったかね。なんでも書いておいたが忘れてしまった。吉井(友実)を取り次ぎにして、相談があったのさ。 あぁ、二分金さ。仙台、加賀、会津、福岡、薩摩などでつくったのさ。会津などのは、それは金が悪かったよ。藩札の高(価値)は、一々届けるのさ。届けは、監察の方へ出す。高(価値)の調査は、勘定奉行の方で、あぁ、一々調べる事になっていたよ。」 (つまり、貨幣価値と信用は裏と表で、政府への信用がなくなると、国民は、信用を貨幣に依存するようになり、益々不信感が増して、自然と貨幣価値が下がるわけである。貨幣などというのは、貨幣交換に見合った期待感が増すので、自然、投機的になり、不信感が増していくわけである。 政府は、自らの不信を貨幣で補おうとするから、信用問題は根本解決せずに、益々国民の不信感が増大していくわけである。 海舟は、贋金事件の、この贋金を掴まされた不信感、特に外国商人の不信を、換金してやる事で、逆に信頼を得て、外国の明治政府への信頼感や信用を増したわけである。物価を下げるには、貨幣価値を上げることで、その対応で、政府への信頼感への保証へとつなげるのである。 要するに、大久保明治政府は、金で、民の信頼を買ったわけである。この信頼を買うことが、死に金を生きた金へと使うやり方といえるだろう。 この逆の、年金不安や、医療福祉行政破綻、地方切捨て等の、官僚の怠惰な贅沢天下り余剰金を貪るのが、現代の馬鹿内閣や日本政府である。つまり、日本政府は、死に金を垂れ流しているから、益々、国民には、不信感が増していくわけである。 同じ意味で、ドル安は、米国お馬鹿ブッシュ大統領の無能のせいである。真のテロリストは、フセインでなく、ブッシュだったようである。)
2008年04月09日
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ところが、人間における神経活動、筋肉活動、及び骨の強さやその働きとなると話は全く異なる。以前、骨格系には、物質となったイマジネーション(霊視)が存在し、筋肉系には、物質となったインスピレーション(霊聴)が、そして神経系には物質化されたインテュイション(霊人)が存在することを示した。 そして今、更に進んで、一般向けの人智学(精神科学)的な講演では、ただ大まかに記述できる真理に関して、より完全に記述できる地点へと来た。人間が死の門を通過し、荼毘に付されたり、その他何らかの方法で徐々に朽ち果てるとき、人間の骨格系はバラバラに崩壊する。 しかし、骨格系が物質的な意味で崩れ去るとき、イマジネーション(霊視)が後に残る。霊視的存在は失われない。それは、死の門を通過し、カマローカ(欲界)、或いはデーヴァ界(神界)に入るときにも猶、我々の内に有する実質の中に残る。 十分に経験を積んだ秘儀参入者には、我々の内に、実際、人間の骨格とは異なる存在をみるが、あまり訓練を積んでいない秘儀参入者が、イマジネーション(霊視)を作用させる場合には、骨格と外観上、類似性をもつ存在のように見える。死を、骸骨のイメージで表現することが、意味をもつのは、この理由による。死の骸骨のイメージは、未経験だからこそ、正しい超感覚的認識に遡ることができる。 そして、このイマジネーション(霊視)に、筋肉が物理的な意味で朽ち果てるとき、後に残る霊聴が結びつけられる。筋肉の後には、インスピレーション(霊聴)が残る。そして、筋肉とは、実際、インスピレーション(霊聴)の表現にすぎない。それは物質の中に浸されたインスピレーション(霊聴)なのである。 死の門を通過するとき、インスピレーション(霊聴)が残る。それは大変興味深い事実である。そしてまた、神経が、それ自体崩壊プロセス(過程)を辿ったとき、神経から死後に残されたのはインテュイション(霊人)である。これら全ては、我々人間のアストラル体、及びエーテル体の実際の構成要素なのである。 人間は、エーテル体を完全に放棄するわけではない。人間が死の門を通過するとき、エーテル体からの抽出物を携えていくが、それは全てではない。今、別の存在を見い出す必要がある。人間は生涯を通して、ずっと神経を携えていくが、この神経とは、物質を撒き散らしたインテュイション(霊人)に他ならない。 人間が、この神経を担って、この世を生きるのは、人体中の神経が組み込まれている場所においては必ずインテュイション(霊人)が存在し、周囲に放射する一種のオーラのように、とめどなく精神を、外に向かって放出する為なのである。 なので、死の門を通過するときに携えていく存在だけが問題なのではなく、神経が崩壊するにつれて、外に向かって送り出すインテュイション(霊人)についても考えなければならない。人間内では常に崩壊プロセス(過程)が進行している。人間は絶えず新しく作り直される必要がある。 神経の場合には、たとえ他のどの場所よりも耐久性を持つような対策がなされているとしても、崩壊プロセスは進行している。インテュイション(霊人)によってのみ知覚可能な、絶えざる流出が起こっている。なので、人間の物理的な神経系が粉々になるのに従って、精神的実質(インテュイションにのみ知覚可能な実質)が、絶えず人間から放射されているのである。 なので、この事から、人間が、物質的な神経を使用する限り、神経を使い果たし、破壊する限り、人間は世界にとって意味ある存在であることが分かるだろう。実際、大いに意味がある。何故なら、いかなる種類のインテュイション(霊人)的に知覚可能な実質が人間から流出するかは、人間がどのように人間の神経を使用するかにかかっているからである。 そして同様に、人間が筋肉を使用するときにも、インスピレーション(霊聴)によって知覚可能な実質が流れ出る。そして、その流出は、無限に繊細に変化する運動プロセス(経過)の中で、絶えず、人間を、世界に存在させるような形で生じる。 霊感を受けた実質が、人間から世界へと流出する(この言葉はあまり芳しくないが、他に適当な言葉がない)。そして人間の骨から、イマジネーション(霊視)的に知覚される実質と呼べる存在が流出する。そこには並外れて興味深い事実がある。この事をもう少し拡張するのは、超感覚的探求の結果を過剰に供給するためではなく、真に興味深いからである。 この骨の崩壊に伴う放射を通して、人間が行く至る場所に、像、つまりイマジネーション(霊視)によって知覚可能な精神の像を、人間は後に残す。人間が居た場所には、繊細な影のような像が後に残る。それらは、一般的な世界プロセス(過程)の中で受け取られるまで、しばらくの間、知覚可能な像、一人一人の骨格系から放たれた繊細な影のような像となる。 自分と気が合わない人物が以前住んでいた部屋に入ったとき、時として感じる、あの不愉快な感じは、このイマジネーション(霊視)的な像のためである。その感じは、概して、その人が、後に残したイマジネーション(霊視的存在)に起因するものである。人は、一種の影の像であっても、それを残した人に出会うのである。 このように、別の人が部屋に残した霊視的存在によって、落ち着かない気持ちになるほど(霊感を)感じやすい人というのは、超感覚的能力に関して、遙かに未発達であるとは言えず、超感覚的能力を持つ人が進んでいるのは、他の人が、ただ本能的に感じ取れるものを、イマジネーション(霊視)的な像として可視化できるという点にすぎない。
2008年04月09日
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明治政府発足当時も、いまと同じように、めまぐるしく内閣が入れ替わったようである。海舟は、松方内閣の黒幕でもあり、伊藤博文を大層嫌っていたが、明治31年の松方内閣交代についての語録が残っている。 ■内閣の更迭 質問;「内閣があまりにたびたび更迭するようですが、松方内閣も、あまりに脆かったようですね。」 海舟先生曰く;「なに、早く(松方が)辞めた方が好いのさ。去年(明治30年)の暮れ、ワシは、そのように勧めたのさ。『早く辞めなさい』って。 だって、お前、あの人たち(松方内閣の連中)が、やり遂げられる(満足な成果を残す)人たちとでも思っているのか(とてもやり遂げられる人物ではない)。うかうかすると、どうにもこうにもならないようになってしまう(身動きとれなくなってしまう)から、『早く辞めろ、辞めろ』と言ったのさ。どうせ誰が出ても皆同じことさ。」 質問;「それでは、この末どうなるものでしょうか。まことに心細くはないでしょうか」 海舟先生曰く;「どうなるものでしょうかって、どうなるものかね。益々困ってくるばかりだろうね。幕府の政治が悪いといって、才気走った連中がやりかけた結果だから、仕様がないじゃないか。 ワシなんか、もう七十六歳だよ、(ワシが出ていっても)どうなるものでもあるまい。今朝も、早朝からやってきて、しきりに会いたいと言うから、今日は困ると言うのに、是非にと言って、出てきて、しきりに苦慮しているから、『何も、そんなに心配するには及ばない、心配したからといって、うまくいくわけではないだろう』と言ったのさ。 明治30年からはひどいよと、度々言ったろう。忘れてないだろう。え、そう言っただろう。なに、恐れることがあるものか、これがまだはじめであるということだよ。わからないか。」 質問;「それじゃ、誰が出て救ってくれるものでしょうか、まことに、もはや心細いことですね。」 海舟先生曰く;「なにが心細いものか、まぁ、一万円お出しなさい、やってみせてあげるから。 お前にも、子供がいるだろ。そして、学校に行かせるだろう。その子供がどうだね、文明(最先端)の学問だと言って、本ばかり読んで、高尚な事を聴きかじって、口ばかしは達者だろう。そして、お前の言う事を聞くかね。 どうだい、それ御覧な。少しも聞きはしないだろう。そして、親父は頑固で困るなどと言っているだろう。 その子が、そう文明だ文明だと言ってしゃべっているうちに、倉には蜘蛛の巣が一杯になって、近いうちに、家を倒してしまうよ。 それを大きくして考えて御覧な、国民がこの子供だよ。西洋の理屈ばかり聞きかじって、それで皆、貧乏するのさ。 で、西洋の方では、何というかね。あんまり誉めもしないだろう。お猿(イエローモンキー)といって馬鹿にするじゃないか。」 (海舟が言いたいことは、口上手で、見栄えばかりがよい連中に政治はできないということで、ここでは政治学者のことを指す。だから長年、政治で飯を食ってきた者に任せればすぐに治まるということである。 日本の政治をダメにしたのは、森から小泉で、マスコミを使って、政治をポピュリズムに毒したのがそのはじまりで、西洋、つまり米国の理屈、つまり、「改革、改革」と散々唱えて、財政を益々赤字にした竹中なる御用学者も、この類ということなのである。 小泉改革が国政を混乱させた元凶といえるだろう。その証拠に改革の公約は一つも為されていない。ただ、言い訳や辻褄合わせが先行し、現状の日本の地位は、経済大国から下降しつつある。 つまり、森以降、マトモな手続きを踏んで総理大臣になったものはいないのである。だから、マトモな政治ができないのは当たり前でもある。長年の日本の政治の歴史を知らずして、素人同然の成り上がり者がただ知識と地位を振りかざしても何もできるわけがなかろう。 日銀総裁1人の根回しも決定もできない総理大臣は、もはや総理大臣とはいえないだろう。 自民党の長老たちは、つまり親父は、頭が固いということで、抵抗勢力に血祭り挙げられたのである。それを西洋、米国は、内心、猿と見下して馬鹿にしながら、属国化するわけである。)
2008年04月08日
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前回、色々な考察の末、物質を、どのようにイメ-ジすべきか、つまり、物質をどのような存在と考えるべきかに関して1つのアイデアを得た。物質とは、分解し、バラバラになった精神的形態として、心に思い描くべきであるという事を見い出した。 続けて、人間の我々が、いかに物質的存在性の中に囚われているか、つまり、いかに分解し、分散した精神的形態が、地上の人間の中に浸透し、我々人間の存在を満たしたかについて語ったが、そのことで、全物質存在に関係する最も本質的事実、つまり、楽園からの追放として美しく表現されてきた事実について、更に考察を進めるように促した。 すなわち、楽園追放によって、人間が地上の物質に浸透されるようになったプロセスを考察しなければならなかった。以前述べたことから、つまり、単純に、思考や概念によって、そのプロセスを辿るのではなく、少しでもより深い意味に立ち入りながら、辿ったなら、人間とは、本当は、ある種、二重の存在であるという考えに至った。 以前、いかにルシファーの影響を通して、感覚知覚と呼ばれるものが、我々人間の存在の中に挿入されたかを、つまり、地上の人間の我々が、どのように、様々の感覚知覚を受け取ったかを述べたときに、指摘した事柄を振り返る。 そのとき、当初人間に予定されていたのは、実際、本質的に地球に属する感覚知覚ではなく、「支配する意志」との一種の密接な共生であったという事、そして、今日のように、耳で聞いたり、目で見たり、或いは、その他感覚器官で知覚するようなプロセス(過程)は、ルシファーの直接的影響によるものであるということを示した。 それから、もっと内的なプロセス、つまり、腺組織からの分泌プロセス(過程)として、人間の身体中に現れるものが、いかに先に述べた人間有機体を構成する身体間に見られる不整合を通して、生じたかについて示すことができた。 そして最後に、栄養摂取と消化という人体における通常の有機的活動の起源を、アストラル体の活動の、エーテル体の活動に対する一種の優位(卓越)(この優位もまたルシファーの影響によるものだが)に関連づけた。以前の考察では、以上のような結論を得た。 つまり、人間の中で生起する粗雑な物質プロセス(過程)(栄養摂取と消化、腺組織からの分泌、感覚知覚)の全てが、いかにルシファーの影響に帰せられるかを見た。前回は、もっと別の観点から、神経物質と呼ぶものが、そして筋肉物質や骨物質も、ルシファーの影響によるものであることを見い出した。 この人間における二重の存在について、もう少し考察する。一方では、感覚知覚、腺組織の活動、そして有機的新陳代謝プロセス(過程)全体が、ルシファーの影響であること、そして他方では、人間の神経や筋肉、骨格システムの存在が、また同じくルシファーの影響であることを見てきた。 これら2つの人間、つまり、一方の感覚、腺、及び消化プロセス(過程)を持つ人間と、他方の神経、筋肉及び骨を持つ人間の間には、どのような関係があるのか? 人間本性の中に密接に組み合わされて存在する、これら2つの人間には、いかなる宇宙的使命が設定されているのか? 今、その事についてよく考えるなら、容易に(それほど神秘主義でなくても)、次のような考え、つまり、感覚や腺組織の活動、或いは新陳代謝システム関係全てが、何か移ろいゆくもの、過ぎ去るもの(無常)に属しているという考えに至る。 ただ表面的に見るだけでも、それらが人間の中で演じられた後、消え去ってしまう存在であることが理解できる。それは人間が置き去りにしていくものである。その事実を心の中に、はっきりと思い描いてみる。これらの有機的活動が演じられるとき、そこには、達成すべき永続的で、永遠の目的があるわけではない。 これらのプロセス(過程)が、いかに酷く、この人生の中に、我々人間を閉じこめているかに気づくためには、少し周りを見回して、科学や毎日の生活が教えるものを学ぶだけでよい。 この面から言うと、我々人間は栄養摂取や消化、その他の為の単なる機械的装置にすぎない。それはいつまでも変わることなく、ひたすら回転する車輪のようなものである。様々な特別の食べ物や飲み物に対する繊細な感覚を、毎年、そのような機会がある度に発達させることが、人間本性を特別に一歩前進させることであると考えない限り、この食べて消化するという、いつまでも続く単調な仕事が、人間の進化に僅かでも貢献するとは、とても言えないということを認めるだろう。 栄養摂取や消化は、同じ方法で何度でも繰り返される。人間である限り、これらの活動を遂行する必要があるが、だからといって、そのために何か永遠に価値あるもの(そのようなことを夢想する人がいるとも考えられない)が存在するとも考えられない。 腺組織からの分泌もまた、分泌が起こる瞬間に、その仕事を果たし終える。それは、その有機体の生命活動全体にとっては、勿論、それなりの重要性をもつが、永遠の価値を持つものではない。感覚知覚もそうである。 何故なら、感覚印象とは、やって来て、そして去って行くものだからである。ほんの2、3日前に感覚印象によって受け取ったものが、いかに微かでボンヤリとしたものであるか、つまり、(過去の感覚知覚である)記憶がいかに完全に、そしてラジカルな感覚知覚と異なっているかを考えてみる。 感覚知覚とは、直接経験し、観察するときには、しばしば非常に美しいものであり、人生に喜びをもたらすものではあるが、永遠の価値を持つものではないということを認めるのに躊躇いはないと思う。それは全く確かである。というのも、多分小さい子供であったとき、或いはもう少し大きくなってから受け取った感覚イメージ(印象)のうち、何が価値あるものになったといえるだろうか? そのときの目や耳に入ってきた光景や音全ては、今どこにあるのだろうか? 我々の記憶とは本当に微かなものである! この考え(つまり、感覚や腺組織、そして消化機能を持つ人間が、それらの活動故に永遠の価値を持つわけではないという考え)について、よく考えてみるなら、それを、以前、一般的方法で表現した考え(この考えを、ここでは、ただほんの少し示すことができるだけだが)、つまり、分散する形態、分解し、分散し、噴霧される形態に関する考えと容易に結びつけることができる。 これら感覚知覚活動の中に、形態が噴霧されるとき、つまり、粉砕された形態、すなわち物質が有機体の中に進出し、打ち込まれるとき、感覚活動、腺分泌、そして新陳代謝活動が生じる。この事から明らかなのは、これらの活動を通して、人間は、分解する形態、粉々に分解する形態に関係するということである。 感覚活動、腺分泌、及び消化活動において、我々人間が遭遇するのは、形態における分解プロセス(過程)の特殊な表現である。それらは、形態における破壊プロセス(過程)、或いは物質としての形態の射出として一般的に記述できる存在の特殊プロセス(経過)なのである。
2008年04月08日
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大河ドラマで、「篤姫」をやっているが、勝海舟も、篤姫のこと、つまり「天璋院」のことを少ないながらも述べている。 ■天璋院 天璋院は、最後まで、(徳川)慶喜が嫌いだったようだ。それは、慶喜が、女は、何もわかりやしないと言ったのが、(大)奥へ聞こえているからね。そして、嘘ばかり言って、いい加減に言っているから、少しも信じやしないのさ。 慶喜殿が、(鳥羽伏見の敗戦で、大坂城から江戸に)帰られた時に、天璋院を薩摩へ還すという話があったので、(天璋院は)大変に不平で、「何の罪があって、里に御還しになるか、一歩でも、ここから出ません。もし、無理にお出しになれば自害する」と言って、昼夜、懐剣を離さない。 同じ歳のお附きが六人いたが、それがまた、皆、一緒に自害するというので、少しも手出しが出来ない。誰が行って、何と言っても、聞かない、なかなかの議論で、どうにも、こうにも仕方がないという。 それじゃ、オレが行こうと言って、まず、通達しておいて貰った。すると、その頃、オレは有名な八方破りの評判で、泣く子も黙る恐ろしい者となっていたから、どんな事をするかと、皆、心配していたそうだよ。 それで、次の日、出て行くと、女中がずうっと並んでいて、座布団が向こうにあるが、天璋院が見えない。「どうか、なさいましたか?」と言うと、皆、黙っていたが、暫くして、女中の中から1人出てきたよ。それが天璋院だった。隠れて、様子を見たようだね。 それから、オレは、まず言ってやった。「これまで、あなた方へ上って色々申し上げたでしょうが、それはみな、嘘です。嘘を申し上げたのです。しかし、嘘と言っても、悪意ではありません。お女中の事ですから、御心配をなさらないように、という配慮から出たのですが、それはみな、よくありません。 今日、実際の事は、(こういう)訳でございます。それで、もし、あなた方が自害などなさったり、どうしてもここをお出にならんとおっしゃると、(こういう)ようになります。」と言って、何もかも、はっきりと言ったよ。 なかなか剛情で、容易には服さないが、何しろ、聡明な人なので、色々聞いたよ。女だと思って、何も言わずにいるから、悪いじゃないか。それで、「あなた方が、自害だなどと仰っても、私が飛び込んで行って、そんな懐剣など引ったくります。造作もございませんよ。」と言ったら、 お附きが、「それは甚だ言い過ぎでしょう、死のうと思えば、懐剣が無くとも死ねます」と言うから、(海舟は)「そうですか、だが、それでは、甚だお気の毒ですが、私の名が有名になりますよ」と言ったら、何故かと問うのさ。 「それはあなた、天璋院が御自害を為されば、私だって、済みませんから、その傍らで、腹を切ります、すると、お気の毒ですが、心中とか何とか(世間から)噂されるでしょう」と言ったら、「御冗談を」なんて言って、笑ったよ。 それから、「明日もいらして下さい、また伺いたいから」と言うのさ。 それから明日も行って、とうとう三日かかって、ようやく納得さ。それはひどく剛情なものさ。それから太平記だの、色々な書物の質問さ。 (海舟が)「幕府六百五十年の結末をつけるので、徳川氏だけの事ではありませんから」と言ったのだが、だんだんと(天璋院も)わかってきてね。終いには、完全に理解してしまったよ。 八之丞様(十一代将軍家斉の孫の一橋慶昌)といって、一橋家の跡取りとなる人が、大層、ワシ(海舟)を気に入って、十二歳まで、お附きでいた。その頃、隠居するには、一年かかるが、親父(勝小吉)も、私を八之丞様につけて、出世させるつもりで願ったが、そのうちに(八之丞が)死んでしまった。それで出世が出来なくなって、又、落ちぶれたのさ。 だが、その時、後宮にいて、可愛がってくれた老女などが多かったので、その後に大層助けになったよ。西郷(南洲)なども、(海舟を)怖がっていると聞いて、大変な者になったと思ったらしく、「あら、麟(勝海舟の旧本名の麟太郎)さんの事かい」などと言ったよ。 それで、塩煎餅だの、色々ともっていって、それぞれ絶えさせないで置いたが、それが大層役に立ったよ。
2008年04月07日
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骨格の正体を知っている人は、骨格の中にイマジネーション(霊視)世界の描写をみる。そして、筋肉を持つ人間の絵を見るときには、次のように言うべきである。 「この絵は全く不自然で、内(精神)的真実ではない。そもそも、その絵は、「見る」のではなく、本当は精神的に「聞く」べき存在である」、と。 だから、実際、事態は次のようになっている。 「超感覚的プロセスによる律動的運動に、本当は、全く属さない筋肉物質が交じったのである。筋肉を除いた存在は、本来、見るのではなく、音楽のように、揺れる運動(リズム)のように、聞くべき存在である。インスピレーション(霊聴)は、本当は、「聞かれ」なければならない。そして、筋肉を持つ人間の絵として描かれている存在は、物質の中で硬直化したインスピレーション(霊聴)人間である。」 最後に、神経からなる人間へとやってきた。神経人間は、見るのでも、聞くのでもなく、本当に、ただ純粋に全くの精神的方法で知覚すべき存在である。宇宙的観点から言えば、ただ純粋な精神の中でのみ把握できる存在が、我々人間の前の、目に見える形で存在するという事実の中では、完全な歪みだけが見られるのである。 その歪みは、いわば物理的物質が注入された精神の鞘である(本来の精神のなかに、対称性が失われ、物質的神経が注入された存在)。 (理論物理的には、対称性が自発的に破れて生じるような、例えば、電子のクーパー対をつくる超伝導状態のようなイメージが思い浮かぶ。シュタイナーは、神経は、光から生じるといっているが、超対称性が破れ、光子のようなボソンから電子のようなフェルミオンが生じるのかもしれない。だとすると、電子が確率でしか表せないのは辻褄が合う。つまり、対称性の破れが確率的にしか表現できないからである。) そのとき、我々人間はインテュイション(霊人)として知覚できる存在を眼前に見る。楽園からの追放とは、次のことを意味している。 「人間は、元々精神世界、つまり楽園にいたが、楽園では、イマジネーション(霊視)、インスピレーション(霊聴)、及びインテュイション(霊人)から構成されていた。すなわち、人間は完全に超感覚的存在だった。そして、その後、人間は、ルシファーの影響を通して、正に自分で引き起こした条件(自発的対称性の破れ)により、崩壊する精神、つまり物質が自分の中へと侵入するのを許した。 このように、物質とは我々人間を満たす存在ではあるが、本来、我々人間に属するものではない。我々人間は、物質を、(自発的対称性の破れから、)自らの中に担っている。そして我々人間は、物質を担っているが故に、物理的な死を被らなくてはならない。実際、物理的な死やその他多くのことの原因が、この対称性(調和)の破れからの物質生成にある。 すなわち、人間は、精神的な存在状態から離れたことにより、物質として担いつなぎ止めている存在に対して、勝利をおさめるまでの間だけ、この物質的存在状態の中で生きる。何故なら、物質の性質とは絶えず分解し、粉々になろうとするもの(無秩序になり、対称性を破る存在で、エントロピー増大にあるもの)であり、骨の中の物質は、ただイマジネーション(霊視)の力によって、つなぎ止められているにすぎないからである。 (ここでいうイマジネーション、つまり霊視とは、知識段階の叡智のことで、知性のことである。つまり知性が骨格を形成しているのである。DNA、遺伝子の構造情報ともいえる。) 骨の力がイマジネーション(霊視)を上回るようになると、骨は生命を担うことができなくなる。 (つまり、骨があまりにも強固になり、霊視を通さなくなると、重力を担いすぎ、崩壊するのである。この事は、いわば生体内のブラックホールともいえるだろう。つまり、生命が死んで、物質化するのである。この部分にX線を当てると、ブラックホールのように反射して、石灰化した様相を示すのも頷けるところでもある。) 筋肉や神経についても同じ事がいえ、骨や筋肉や神経の中の物質が、イマジネーション(霊視)、インスピレーション(霊聴)、インテュイション(霊人)を圧倒する瞬間に、人間は、物質的身体(肉体)を放棄しなければならない。ここに物理的な死とルシファーの影響との間の関連がある。」 次回、以上のことに続いて、悪徳やその他のこと(病気等)がどのようにして、この世に存在するようになったのかを示す。
2008年04月07日
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ではルシファーの影響によって何が生じたのか? 分解する精神(つまり物質)が、いわばイマジネーション(霊視)の中に噴出した。そして、その結果、今日、地上に立つ人間の骨格システムとなる。骨格システムとは、物質によって隅々まで満たされたイマジネーション人間である。物質は、真に高次の人間に属せず、ルシファーの影響を通して、その影響がなければ、イマジネーション(霊視)であった存在の中に打ち込まれた。 (もし人間がイマジネーションの存在であったと言うことが馬鹿げてなければ)、かつて全く、容易に人間を通り抜けることができる時代があったことが想像できるだろう。ところがその後、イマジネーションが寄り集まり(濃縮され)、その上、骨格物質で隅々まで満たされてしまった。今日では、もし人間を通り抜けようとすれば、骨にぶつかってしまう。しかし人間は、後の時代になって初めて、このような通り抜けできない物質的存在になったにすぎない。 運動霊により人間の中に与えられたものは筋肉物質により隅々まで満たされた。そして、インテュイション(霊人)として知覚されるものは神経物質で満たされた。我々人間は、これら全てを越えていったとき初めて、超感覚的なものに至る。人間のエーテル体は既に超感覚的なものに属している。 今日、エーテル体は、ほんの僅かな程度、物質である。その僅かな物質部分は、ここでは全然考慮の対象にすらならないような種類の物質、神経を構成する物質より更に繊細な物質を生じさせるエーテル的な、非常に細かな噴射、或いは噴霧として現れる。 なので、ここから分かるように、人間は、本性において、大変粗雑なプロセスを経てきたといえる。というのも、もし人間が神の目的の中で当初意図されたような存在であったなら、骨など持っていなかったからである。そのかわり、人間は、”イマジネーション(霊視)の”超感覚的な骨から構成される形態を有し、運動の道具として奉仕する筋肉ではなく、人間内で運動する超感覚的実質を有していただろう。 ところが今や、人間の中で運動する存在の中には、至る所で筋肉の物質が交じっている。運動霊によって人間に与えられた超感覚的運動は、筋肉の中の物理的運動になった。そして、叡知霊により与えられたインテュイション(霊人)は、感覚を持つ人間の神経物質になった。神経物質はインテュイション(霊人)の中にいわば詰め込まれた。 なので、解剖学の本の中に骨の描写を見るとき、自分に次のように言うことができる。 「それは元々純粋なイマジネーション(霊視)として意図されていたが、ルシファーとアーリマンの影響により、あまりにも粗雑にされたため、今日では折れたりひび割れたりする濃密で硬い骨になった」、と。 イマジネーション(霊視)はそれほど硬く、堅固なものになったのである! それでもまだ物理世界には、いかなるイマジネーション世界の反映も見い出すことができないなどと言えるだろうか!
2008年04月03日
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前回ルシファーの影響による不整合、つまり優位が、神経、筋肉、植物の実質の元となることを述べた。しかし今、心の中に次のような疑問が湧いてくるだろう。 「このような関連で、ルシファーの影響が人間の中に入ってこなかったならば、人間はどうなっていたのか」、という疑問である。 以前、多くの異なる側面から、もしルシファーの影響がなければ、人間がどうなっていたかを述べたが、この関連では何が起こっていたのか? 人間は今日持っているような神経を持つことはできなかっただろう。というのも、このような神経は、ただ、人間を構成する身体部分の不規則な結合を通して、その特別な物質形態において唯一生じることができるからである。同様に、もしルシファーの影響がなければ、人間は骨も筋肉も持つことはできなかっただろう。 要するに、いかに様々な種類の物質が、全くのルシファーの影響によってのみ、不整合な結合の中へと、精神が注ぎ込まれた形態を通して生じるかを見てきた。これら様々の物質(筋肉、神経等)は、いずれもルシファーの影響なしに存在できなかった。 以前よりももっと強く、では物質的人間として、存在する人間とは一体何なのかと問う必要がある。我々人間が、外に出会うような人間とは、ただひたすらルシファーの影響による結果なのである。何故なら、ルシファーの影響がなければ、人間は今日の意味での神経、筋肉そして骨も有していなかったからである。唯物主義は、ルシファーが人間から造ったもの以外を記述しない。なので、唯物主義は、最も著しい度合いで、ルシファーの弟子であり、それ以外全てを拒絶するのである。 では、次のような問いかけを行う。 「人間がもし楽園に留まっていたなら、人間はどうなっていただろうか」、と。 次回以降、この探求を更に進めることができるように、今回はどちらかというと、少し易しい概念を用いて、もしルシファーの影響がなければ人間がどうなっていたかの簡単なスケッチを行う。 もし、ルシファーの影響がなければ、さしあたり、地球上の人間進化の内に、形態霊(エロヒム)の影響により生じるものがあっただろう。というのも、形態霊は、人間に働きかけてきた霊的なヒエラルキア(位階)に属する存在たちの中で、最後の存在であるからで、さて、この形態霊たちは、全く空間的ではない、純粋に超感覚的形態を創造した。 その場合の人間(今回は大まかなスケッチだが)は、外的な目には見ることができず、どんな外的感覚も知覚できない、というようなものだろう。何故なら、純粋に魂的形態は、外的感覚には知覚不可能だからである。その場合の人間は、著書「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」の中で記述したものと一致している。 それは、その著書では、イマジネーション的な認識(霊視)として述べられているものと一致する。人間とは、形態霊により創造された1つの「イマジネーション(霊視)」、つまり感覚的性質とは無関係の、純粋に超感覚的なイマジネーション(霊)であっただろう。 人間が本来どのようなものであったかの概略の図式を描くなら(以下の図5参照)、形態霊がイマジネーション人間として創造した存在のイマジネーション的な図を得ることになる。しかし、それはまた、以前に働きかけていたヒエラルキア(位階)存在の創造的な働きのうちに、人間の中で生き続けていた存在にも浸透されていたはずである。それを図中で、第一に運動霊、内的な運動霊から、人間の中に残された存在に浸透されるように描く必要がある(図5の2)。 それは、「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」の中で、「インスピレーションによる認識」(霊聴)という言葉によって記述したものとして現れる。何故なら、これらの運動は、ただインスピレーション(霊聴)として知覚できるだけだからである。 この事は、第一にイマジネーション(霊視)から構成された完全な人間がいて、そして、また運動すなわちインスピレーション(霊聴)があったことを意味している。そして、叡知霊が与えたものがインテュイション(霊人)なのだが、これはある意味、その他全てを満たす確かな内容であっただろう。 なので、図5の3にインテュイション(霊人)、つまり、直接関係するもの(存在するものたち)を置かなければならない。そして、その全体を、宇宙から現出するものとして、また意志霊の働きの結果である卵の形(図5の4)をしたオーラに包まれたものとして見ることになる。 超感覚的認識のみが近づける内容により構成された人間の本来の超感覚的性質とは、図5のようなものであっただろう。空想のように思われるかもしれないが、これが真の人間なのである。象徴的に言えば、それは楽園にいる人間であり、今日の人間のように物質から成り立っているのではなく、全体として超感覚的本性を持つ人間である。
2008年04月01日
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