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もし、人間の魂において、ある人と、別の人とを比較するという方法で検証するなら、そこには考えられる限り最高度の多様性が見い出される。これまでの講義から、魂の幾つかの典型的な差異とその理由を、性格や気質、能力や力などに関連づけながら述べてきた。今度は、1つの重要な差異、つまり、ポジティブ(陽)な人とネガティブ(陰)な人の違いについて考えてみる。 始めるにあたり、この主題の取り扱いが(これは他の講義とも完全に調和するだろう)、ポジティブ或いはネガティブなものとして、人々を描写するには、あまりに表面的だが、至極、一般的な方法とは何の共通性ももたないことを明確にしておきたい。この記述は、完全に独自の基盤の上に立つからである。 まず、ポジティブ、或いはネガティブな人というとき、それが何を意味するかに関する明確な定義づけといえるものをくまなく探してみるのもよい。すると、次のように言うことができるだろう。 「人間の魂に関する真正で洞察力のある教えという意味では、ポジティブな人とは、外界から、その人の上に注ぎ込まれる、あらゆる印象に直面したとき、その人の内なる存在の堅固さと確かさを少なくともある程度まで保持できる人として定義できる。 従って、その人は、ある一定の嗜好と共に、外の印象が、それを妨害できないような、はっきりとした考えと概念をもち。また、その人の行動は、日常生活の中で出会う、いかなる一時的な印象によっても影響されないような衝動によって駆り立てられる」、と。 一方、ネガティブな人は移り変わる印象に左右されやすく、様々な人やグループから、その人にもたらされる考えに強く影響されるような人である、といえる。 従って、その人は、考えていたことや感じていたことを容易に変更させられ、何か異なったものを、魂の中に取り込むようにさせられ、その人は、その行動において、他の人々からやって来る、あらゆる種類の影響によって、自身の衝動から引き離される。 これが大まかな定義であるが、もし、人間本性に深く根ざした、これらの特徴が実生活において、どのように働くのかを調べるなら、その定義から得るものはほとんどなく、そのような便利なレッテルを、いくら探してみても、ほとんど役に立たないということがすぐにわかる。というのも、もし、それらの定義を、実際の生活に適用してみるなら、次のように言わざるを得ないからである。 「子供時代からずっと持続してきた、ある一定の特徴を示す強い熱情と衝動を有する人間は、あらゆる種類の善き凡例や悪しき凡例が、彼の習慣に影響を及ぼすことを許さないままに、やり過ごしてきた。彼は、様々なことに関して、何らかの考えや概念を、独自に形成しており、他のいかなる事実が、彼の前にもたらされようとも、独自の考えや概念にしがみつくだろう。彼が独自以外の何か他のことを確信できるとしても、その前に無数の障害が山のように積み重なるだろう」、と。 そのような人間は確かにポジティブ(影響を受けにくい)かも知れないが、退屈な人生となるだろう。その人は、経験を豊かに広げるものに見むきもせず、聞きもしないことにより、新しい印象から閉ざされるからである。 別のタイプの人間、常に新しい印象を歓迎し、事実が、自らの考えに反するなら、いつでも、それを訂正する用意ができている人間は、(多分、比較的短い間に)全く異なった存在になるだろう。その人は、人生の経過の中で、1つの興味から別の興味へと、急ぎ、そのため、人生の特徴は時間の経過と共に全く変化するように見えるだろう。 「ポジティブ(影響を受けにくい)」なタイプの人間と比較して、その人は、確かにより良く人生を理解しているが、いまの定義づけに従って、その人を「ネガティブ(影響を受けやすい)」と呼ばなければならない。 もう一度、頑強な性格をもつ人間についていえば、彼の人生は習慣と慣例に支配され、芸術の宝庫のような国を旅するときにも、彼の魂に、あまりにも多くの型にはまった反応を背負わせているために、芸術作品の前を、次々に通り過ぎるか、せいぜい、(ベデカー)旅行案内書を開いて、どれが一番重要かを調べる程度で、結局、美術館から美術館、景色から景色へとずっと見て歩いた後で、少しも豊かにならない、魂をもって家に帰ることになる。それでも、彼を非常にポジティブな人間と呼ばなければならない。 その人とは正反対の誰か別の人が丁度、同じコースを旅するなら、彼の性格は、どの絵にも没頭し、ある絵に熱中して、自分を見失うかと思えば、次の絵についても、そしてその次の絵についてもという具合であるだろう。 こうして、その人は、あらゆる些細なことに捉われる魂と共に歩き通し、その結果、どの印象も次の印象によって拭い去られ、そして、彼の魂の中に一種のカオスをもって家に帰る。その人は非常にネガティブな人間であり、もう前者のような人間(ポジティブ)の丁度対極にある。 この2つのタイプについて、もっと様々の例を挙げることもできる。あまりにも多くを学んだために、どんなことについても確かな判断ができないほど、ネガティブな人物についても記述することができるだろう。彼はもはや何が真実で何が偽りなのかを知らず、人生と認識に関して、厭世主義者になった。 その人とは別の人間も同じ印象を丁度同じだけ吸収したが、彼はそれに働きかけると同時に、獲得している叡知全体に、それらを、どのように適合させればよいかを知っている。彼は、最良の言葉の意味で、ポジティブな人間であるといえるだろう。 子供は、もし、自分の生来の性質を主張し、それに反するもの全てを拒絶するなら、大人達に対して、暴君的にポジティブになり得る。一方、多くの経験や間違い、絶望を経てきた人間でも、あらゆる新しい印象に捉えられ、相変わらず、元気づけられたり、打ちひしがれたりするかもしれない。彼は、その子に比べるとネガティブなタイプといえるだろう。 要するに、ポジティブ、或いはネガティブな人というような決定的な判断に、正しく接近するには、その人の人生全体を、何らかの理論的思考に従うのではなく、その多様性の全てにおいて、作用させ、人生における事実や出来事を整理するのに、その概念を用いるときにだけ有効であるといえる。 というのも、人間の魂を、その個人的な特色において議論する場合には、最高度の重要性をもつものに触れることになるからである。もし、人間を考察するにあたり、(この場で、しばしば議論されるような)進化と呼ぶものを、免れえない、生きる実体としての人間を、その完全な存在性全てにおいて考察するのでなければ、これらの問いは、ずっと単純なものになるだろう。 我々は、人間の魂を、1つの進化段階から次の進化段階へと移っていくものとして見るが、真の人智学の意味で言うなら、ある人物の誕生から死までの人生を、常に単一の経過を辿るものとして思い描くことはない。というのも、彼の人生が以前の地上生の続きであり、後の地上生の出発点であることを知っているからである。 人生を、様々な受肉の全体を通して観察するなら、ある地上生においては発達(進化)が幾らかゆっくりしているため、その人は同じ様な性格や考えをずっと保持するというようなことが容易に理解できる。別の地上生(来世)において、その人は、それだけ余計に、新しい段階の魂生活へと導くような発達(進化)に追いつかなければならないだろう。ほんのたった1つの人生を探求する事は、いつでも、最高度に不十分とならざるをえないのである。 さて、ポジティブ、或いはネガティブなタイプに関する、これらの示唆が、これまでの講義の中で敷かれた路線に沿って、人間の魂を探求する際に、どのように我々の役に立つかと問う。魂というものが、何気ない一瞥によって、見えるような、概念、感情、思考の混沌とした流れでは、全くないということを示した。
2008年07月31日
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忠武飛龍さまとの対話に触発され、シュタイナーの「病気と治療」の講義から、現代人の特徴や病気の傾向を、続けて簡単に述べてみたい。 現代人の主な特徴は、エコノミー症候群やメタボリック症候群からわかるように、血や脂質が固まり易いというものであろう。太古人からいわせれば、現代人は、硬い物質である肉体をもちながら、人生を経験するので、全てが肉体側に向かって進む傾向になり、それゆえに、固まりやすいのは当たり前といえる。 太古人は、この場合、月人間の意味だが、月人間は、肉体を持たず、地球人でいえば、「気」が、彼らの肉体だったという。さしずめ、宮澤賢治の風の又三郎のような存在である。余談だが、宮澤賢治の小説をみると、彼は霊能者なのではないかとも思う。神秘学では、月人間は、水人間と呼ばれる。進化学的にいえば、海にいるクラゲのような存在が、当時の人間だったというわけである。 さて、シュタイナーの講義によれば、エコノミー症候群は、心臓の熱平衡状態への調節作用の失敗にあるとされる。人間は、霊魂の内と、肉体と気の外との恒常性により、進化を遂げるが、その恒常性の中心は、血にあり、血のなかの熱にあるという。心臓は、血のなかの熱の流れを統合しているような感覚器官だという。 人間は、外気の熱と体内の熱を平衡状態におくことで、霊魂と肉体の恒常性を保ち、健康でいられるという。体内の熱は、体内じゅうに血を巡らせること、つまり運動等により、活性化されるのである。ちなみに、熱平衡状態が保たれず、外気の熱が浸潤すると、人体は、風邪をひいた状態になるという。 熱を伝播させる根本の存在は、霊と呼ばれ、人間の場合、体内のなかの血液の熱、つまり体温にあるという。外気に曝されると、血が急速に固まるのも、霊とよばれる自我の熱制御から、離れるからである。霊が、熱制御を行い、魂が、その熱領域を司ると大まかにいえるだろう。そして、「気」は熱の流れと考えられる。 つまり、簡単にいえば、霊魂が、気を通して、肉体に上手く浸透しないので、血が外気に曝されたように固まるわけである。霊の熱浸透力は、血液の流れになるわけで、血の巡りが悪いと、血が固まるわけである。勿論、これは適度な運動により改善できる。 太古では、熱のことを、「火」と呼んだ。そして、固体のことを、「土」と呼ぶ。「火」の背後には、上位の天使の自己犠牲があると、古代人は考えていた。現代風にいえば、愛なので、火の背後には、神の愛があると捉えたわけである。 我々人間は、神の愛を受け、霊魂は火を司るので、宗教儀式では、蝋燭に火を灯すことが、愛を受け入れた行為の象徴となるのである。そこからまた、我々人間は、蝋燭であり、火を灯す油であり、神に祝福された人間は、油を塗られるという表現になるわけである。また、この表現は、血を受けた杯でもあり、聖杯の象徴となっている。 霊魂は、神の火を受け、それを感謝するとともに、喜びを授かるわけで、そこに人間の愛が目覚める。だから、人間は、神の火をあらゆるものに満たそうと欲するわけである。それが人間の情熱となり、その中心が、人間の心臓となる。 シュタイナーによると、心臓は、いまだ未発達の器官で、将来、人間が感情を制御するようになると、心臓を筋肉のように動かせる臓器となるという。つまり、骨格筋のような運動と同じように、心臓により、体内の火、つまりエネルギーの調節を行うことにより、血液の流れをも制御し、感情を制御するようになるというのである。 そのため、心筋は、随意筋と同じ横紋筋であるという。将来、人間は、感情の制御を、運動を行うように、コントロールできるというのである。 「心頭滅却すれば、火もまた涼し」と快川和尚は言ったが、心臓を調節することで、体内の温度を調節しながら、感情も制御できるようになるという、何処か預言めいた発言のように聞こえる。 だから、現代人が、主に肉体の物質的支配を受け易くなるというのは、霊、つまり精神からくる感情の制御と、運動による感覚の制御、つまり肉体の制御との間の釣り合いが、上手くとれていないことを示すわけで、この恒常性、つまりバランスが、現代人の主な課題となるといえるだろう。 そういえば、現代人に特有の怒りっぽく、短気な特徴、昨今ではキレやすい等などが、心筋梗塞の多発を生んでいるともいえる。つまり、体内の熱制御がうまくいっていないから、熱が一極集中したり、その分、他の部分の熱が希薄になったりという具合で、極度に冷やされて、血栓のような塊ができ易くなってしまうのだろう。 このような現代人の弱点、精神修養の欠如には、是非、ヨガのような肉体と精神の統一を図るような、行法がよいように思う。瞑想やイメージトレーニングは、現代人に必須の薬ともいえるだろう。 何も高度な行法であるヨガでなくても、日頃の姿勢を正すだけでも、随分と肉体からの精神向上が図れるという。昔の人は、姿勢を正せとよく言ったが、まさに、健康の第一歩、肉体と精神の恒常性を保つのは、正しい姿勢にあるといえる。
2008年07月31日
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「治療は善である、治療は義務である」と言うのは正しいが、同様に、「死は、病気の結果として生じるときには、善である、死は人間の全体的な発達(進化)にとって有益である」と言うのも、また正しい。 これらの言葉は、互いに矛盾しているが、両方とも生きた知識により認識できる、生きた真実を包含している。未来でのみ、調和可能な二つの流れ(内と外)が正に人間の生活の中に入っていくとき、型にはまった考えによる間違いと、人生を、より広い観点から眺める必要性の理解が可能となる。 いわゆる、この内と外との矛盾は、経験と事物に関する、深い知識に関係するときには、知識を制限せず、生命が調和に向けて前進すれば、徐々に生きた知識へと導かれる、ということを、はっきりと理解すべきである。 通常の生活では、経験から能力が創造される形で、誕生から死までの間に、同化できないものは、死と新生(再生)の間に使用する織物へと織り込まれるような形で進行する。このように、「治癒」や「死」に至る病気は人生の通常の過程(プロセス)に織り込まれる。 つまり、「治癒」に終わる病気は、人間の、より高いレベルへの上昇に貢献し、またあらゆる「死」に至る病気も、人間を、より高いレベルに導く、というような形で織り込まれる。前者は内なる人間に関し、後者は外なる人間に関する。 治癒に至る病気→内人間の強化(進化)→自我及びアストラル体の進化 死に至る病気→外人間の強化(進化)→エーテル体及び肉体の進化 だから、世界における進歩は、1つの流れに乗るながら進むのではなく、2つの対抗する流れ(内と外)の中にある。人生の複雑さは、正に「病気と治癒」の中で、目に見えるものになる。 もし、病気と健康がなかったなら、人間は、その存在の糸にぶら下がりながら、決して限度を超えることなく、人生を紡ぎ出すような(平凡な)形で、通常の人生だけを送っただろう。そして、人間の体を新しく構築する力は、死と新生の間に、精神世界から与えられただろう。 そのような状況下では、人間は決して、自身の働きによる果実を、世界の発達(発展)の中で、展開できない。人間が、自らの果実を展開できるのは、ただ、その人生の中でのみ間違いを犯すことができることにあり、人生という、しっかりと区切られた境界線の内側だけなのである。 というのも、真実への到達は、間違いを知ることでしかできないからである。魂の一部となるような真実、発達(進化)に影響するような真実を、自分のものにできるのは、それが間違いの肥沃な土壌から抽出されるときだけである。 もし、人間が限界を破ることから生じる、間違いや不完全さをもって、人生に介入しなかったなら、人間は完全に健康だっただろう。しかし、内的に認識された真実と同じ起源をもつ健康や、人間が、ある人生から別の人生へと、自身の生命をもって追い求めるべき健康が、生じることができるのは、唯一、間違いや病気という現実を通してだけなのである。 人間は、一方では、癒されることで、間違いや失敗の克服を学び、他方では、死と新生(再生)の状態にある間に、生きている間には、打ち勝つことができなかった間違いに出会うことによって、次の人生で、間違いや失敗を乗り越えられるようになる。 さて、以前の、あの劇的な例に戻ると、その時、あのように間違った判断を下した学者たちの知性について言えることは、単純に、簡単に、結論に飛びつかないように、より注意深くなるだけでなく、人生との調和を少しずつ創り出せるように経験を成熟させる、ということである。 このように、「病気と治療」は、人間が、病気や治癒なしに、自分の努力だけで、その目標を達成することができないような形で、人生に影響を及ぼす、ということが観察できる。もし、いまの目標が、真実を認識することなら、過ちが、過ちの存在自体に属するように、我々の発達(進化)に対する、これらの一見、普通でない介入も、我々人間の存在自体に属していることが分かる。 我々は、偉大な詩人が重要な時代に、人間の過ちについて語ったのと同じことを、「病気と治療」についても語ることができる。 「努力する人間は間違いを犯す!」 その詩人は、実は、次のように言いたかったという印象を受ける。 「人間は常に間違いを犯す!」 しかし、この言い方を逆転させることができる。そうすると次のようになる。 「人間がいまだ間違う間は、努力させておこう!」 間違いが新たな努力を産み出す。だから、「努力する人間は間違いを犯す!」という言葉は、必ずしも、我々人間を絶望で満たすわけではない。何故なら、あらゆる間違いは、新たな努力を呼び起こし、人間は、その間違いを克服するまで努力し続けるからである。 これは、間違いが、それ自体の中で、それを超えた地点を指し示し、人間的な真実に導く、と言うのと同じである。そして、同様に、人間の中では病気が生じるかもしれないが、人間は発達(進化)していかなければならない、と言うことができる。 人間は病気を通して健康へと発達していく。 このように、病気は、治癒において、そして、死においてさえ、それ自体を超えた地点を指し示し、健康な状態を作り出す。そして、その健康の状態は人間にとって疎遠なものではなく、人間との調和の中で、人間を超えて成長していくものなのである。 このような文脈の中で立ち現れてくる、あらゆるものは、いかに、叡知という存在の中に置かれた世界が、あらゆる発達(進化)段階にある人間に、アンジェラスシレジウスの言葉の意味で、自身を超えて成長していく機会を提供するか、ということを示すのに適している。 我々は、その言葉において、「神秘主義とは何か?」の要約を終えた。そのとき、我々は、より親密な発達(進化)領域に言及していたが、今や、その意味するところは「病気と治療」の全領域に広げられ、次のように言うことができる。 汝が神の優越の中で、汝自身を超越するなら、 その時、汝の中で上昇(発達、進化)が支配するだろう!
2008年07月30日
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病気が辿る二つの可能な道とは何か? それは、治癒と死の、いずれか二つの道が生じることである。通常の生命の発達(進化)においては、死はひとつの側面、治癒はそれとは別の側面として見られる。 人間の発達(進化)において、治癒の意味するものを知るには、第一に、人間の発達(進化)全体にとって、病気が何を意味しているかを明らかにしなければならない。 病気の中には、内なる人間と外なる人間の間の不調和がある。ある場合には、内なる人間は外なる人間から退かなければならない。その簡単な例に、指を切った場合がある。人間が切ることが可能なのは、肉体だけで、アストラル体を切ることはできない。 けれども、アストラル体は絶えず肉体に浸透するものなので、アストラル体が肉体の隅々にまで浸透するときに、アストラル体が見い出すはずの組織を、切られた指の中には見い出すことができない、ということが起こる。アストラル体は、指の物質的な部分から、切り離されたと感じるのである。 あらゆる病気の本質は、内なる人間が外なる人間から、切り離されたと感じること、傷が、内と外との仕切りを生じさせるために、内なる人間が外なる人間に浸透できないということにある。 さて、外科的手法により、健常を取り戻し、或いは内なる人間が、外なる人間を治癒できるほどにまで強化するということが起こり得る。 「治癒」後に、多少とも、外なる人間と内なる人間との間の結びつきが回復され、内なる人間が再び外なる人間の中に生きることができるようになる。 この「治癒」は、朝起きる「目覚め」に比較できる過程(プロセス)である。 「目覚め」の場合、内なる人間が、故意に引き上げられた後、物質世界だけで持てる経験へと帰って行く。「治癒」とは、人間が、病気が生じなければ、持ち帰れない事柄(結びつき)を、持ち帰れるようにするものなのである。治癒過程(プロセス)は、内なる人間の中に同化され、この内なる人間の枢要な部分になる。 健康への帰還、つまり「治癒」とは、満足感をもって、振り返れるようなものである。何故なら、眠りが、内なる人間を前進(進化再生)させるのと同様の方法で、内なる人間を前進させる何かが、「治癒」によって与えられるからである。たとえ、直接見ることができなくても、健康への帰還によって、魂の経験において引き上げられ、内なる人間において高められる。 睡眠からの「目覚め」=病気の「治癒」(克服) 人間はまた、眠りの中で、治癒を通して獲得したものを精神世界に持ち込む。だから、眠りの中で、人間を発達(進化)させる力に関する限り、治癒による獲得されたものは、更に人間を強化するような力となる。 もし、時間があれば、治癒と眠りの間の不思議な関係に関する全考察を十分に展開できるが、それを展開しなくても、人間が夜、精神世界に持ち込むもの、つまり人間の発達(進化)過程の中に前進をもたらすもの、いわゆる誕生から死までの間、とにかく、その過程を前進させることが可能な限りにおいて、前進をもたらすものと、「治癒」とを等価にすることが可能であることを理解できるだろう。 (病気の「治癒」(克服)が、睡眠にもたらされると、睡眠中の進化プロセスとの相乗効果で、当人を更に進化させる。つまり、なんらかの病気に罹り、克服した方が、健康でいるよりも、人間の進化、魂の強化につながるという。) 通常の生活では、外(界)の経験から近づける、これらの事柄は、誕生と死の間における魂の生活の中で、高次の発達(進化)としての表現へと到達する。けれども、「治癒」を通して同化されるもの全てが、再び(同じ人生に)現れるわけではない。人間は、その力を死の門を通るときに携えていくこともできる。その場合、その治癒力は次の人生(来世)で、役に立つものとなるだろう。 (つまり、病気の克服段階で、残念ながら、死に至ろうとも、それまでの克服分、つまり治癒力は、次の転生に持ち越すことができるという。簡単な例で説明すると、トカゲの場合、尻尾を失うと、すぐに再生されるが、人間の場合は、トカゲよりも肉体が遥かに複雑なので、すぐには再生されないが、次の転生時に、損傷した分の強靭な肉体を創る際に、その再生力が使われるという。) また、人智学が示すことは、人間は、「治癒」する度に、その力に感謝する必要があるということである。何故なら、それぞれの「治癒」は、人間が内に同化した力だけでしか達成できないような、内なる人間の向上を意味するからである。 (人間のなかに眠る、自然治癒力の目覚めに感謝しなさいということなのだろう。そして、その機会を与えた病気は、本来、感謝すべき、愛のムチでもある。) では、死をもって終わる病気は、人間にとって、どのような意味があるのか? という別の問いが生じる。 ある意味、それは正反対の事、つまり、内なる人間と外なる人間の間の妨げられたバランスを回復できない。つまり、この人生においては、内なる人間と外なる人間の間にある境界を正しい方法で超えられない、ということを意味する。 朝目覚めたとき、変化していない健康な体を受け入れなければならないように、病気が死をもって終わり、変化させることができないときには、変化していない損傷を受けた体を受け入れなければならない。 健康な体は健康なままに留まり、朝、我々を受け入れるが、損傷を受けた体は、もはや我々を受け入れない。だから、結局、我々は死ぬことになる。我々はその体から去らなければならないが、それはもはや再び、その調和を確立できないからである。 我々人間は、経験を、外の体(肉体)にとっては利益がないまま、精神世界に持ち込むが、魂にとっては、もはや受け入れられない体(肉体)が受けた損傷の結果(代償)として、獲得された、この果実(治癒能力)は、死と新生の間の生活を豊かにするものとなる。 だから、我々は死で終わる病気にもまた感謝しなければならない。何故なら、それは、我々の死と新生の間の生活を豊かにし、その間にだけ成熟できる力と経験を集める機会を、我々に与えるからである。 だから、いま、死に終わる病気と「治癒」する病気に関する魂にとっての結論がある。それは我々に二つの側面を示す。我々人間は、内なる自己が、病気によって強化されるために、「治癒」に終わる病気に感謝するが、死に終わる病気にも同様に、感謝できるということである。 何故なら、死と新生の間の生活の中に入っていくと、高次の段階において、死は人間にとって、大いなる重要性をもっているということ、或いは、我々が未来のために自分の体を構築するときには、その体は異なったものでなければならないということを、その死から、経験として学んでいるからである。 そのとき、以前、失敗の原因になった有害な側面を回避できるようになっているだろう。治癒過程は、人間の内なる生活を前進させ、死は外なる世界における発達(進化)に影響する。 従って、我々は必然的に、二つの異なった観点を持つことになる。人智学の観点から、次のように言うことは間違いである。 「もし、病気により生じる死が、感謝すべきものなら、もし、病気の経過が、次の人生において、その人を上昇させるようなものなら、本当に、全ての病気を死で終わらせなければならない、いかなる治療の試みもすべきではない!」と。 このような発言は、人智学の精神に反している。何故なら、病気による死は、抽象的なものではなく、様々な観点から到達され得るような真実に関係するからである。 (上記のような発言は、抽象的な現代科学の特徴的な主張で、いまでは安楽死さえも、考慮に入れられているが、それは人間の進化向上の精神的態度に著しく反するものである。何度もいわれているが、抽象的概念により、内と外のバランスをとることはできない。そのバランスは、実際、失敗等を経験してみて、はじめて為され、もたらされる新しいバランス創造なのである。 古代から、この新しいバランスの創出はいわれ、アリストテレスは中庸といい、孔子は忠恕、あるいは中庸と呼んでいる。それは理論ではなく、実践経験により蓄積される具体的なもの全てである。つまり、あらゆる病気による死の経験をしてみて、はじめて、到達する極意のようなものらしい。) 我々には、入手できる、あらゆる方法で治療を試みるという義務がある。最善を尽くして治療するという使命は人間の意識の中に根ざすものなので、死が生じるとき、死を感謝すべきという観点は、通常、人間の意識の中には存在するものではない。 それは、我々が死を超越できるときに初めて勝ち取られるような観点である。 「神の観点」からは、病気を死で終わらせることが正当化されるが、人間の観点からは、「治癒」を生じさせるために、あらゆることを行うことだけが正当化される。死で終わる全ての病気を、同レベルで評価することはできない。 (死に至る病気は、千差万別で、外的な経験では様々な過程を得なければならない。) 当面、これら二つの観点に折り合いをつけることはできず、両方が平行して発達していかねばならない。いかなる抽象的な調和も、ここでは役に立たない。人智学的探求により、我々は、ある特別な人生の側面から、やってくる真実や、また別の側面を代表する別の真実の認識に向けて前進していく必要がある。 (つまり、理論ではなく、実際に経験してみなければ、無意味なのである。理屈は死んでいる。世間は生きている。内と外がお互い生と死で出会って、足りない分を補いあって向上し、共に進化していくといえるだろう。現世では男と女の夫婦関係にも似ている。)
2008年07月29日
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では、人間は肉体とエーテル体に関して、誕生から死までの間に何ができるのか? 魂の生活によって消耗するのはアストラル体だけではなく、また肉体とエーテル体の器官も消耗する。今、次のようなことを観察する。アストラル体は、夜、精神世界に滞在している間に、肉体とエーテル体を通常の状態へと回復させるために、働きかけている。昼間、肉体とエーテル体の中で破壊された器官は、眠りの中でだけ回復できる。 だから、実際、精神世界は肉体とエーテル体に働きかけるが、限界がある。誕生と共に、与えられた肉体とエーテル体の能力と構造は、非常に狭い範囲を除いて、変わることができない。宇宙的な発達(進化)においては、いわば二つの流れ(内と外)が活動しているので、抽象的方法によって、それらに調和をもたらすことはできない。 もし、この二つの流れを抽象的思想により統一しようと、誰かが、「人間は調和していなければなりません。だから、これら二つの流れは人間の中で調和しなければなりません」と言うような哲学を、軽々しく発達(進化)させようとするなら、大変な間違いを犯すことになる。生命は抽象的な法則性に従って働いているわけではない。 どちらかというと、生命は、長い発達(進化)期間を経て達成されるような、これらの抽象的観点からの平衡と調和の状態を、何段階もの不調和を通過することによって、創り出すような形で働く。これが人間における生命的な関連であり、それは実際、思想によって(予め)調和できるようにはなっていない。 生命は不調和を通過することにより、バランス状態に向けて発達(進化)するという状況にあるが、抽象的で、無味乾燥な思考は、そこに、常に調和を想像する。ある一定の人間の発達(進化)段階を、単純に想像するだけでは到達し得ないような調和を有するのが、人間の発達(進化)における運命といえる(新しい調和ということなのだろう)。 さて、人智学が、生命は、内なる、或いは外なる人間という観点から眺めるか否かによって、異なる側面を示すと言う事を、今、容易に理解できるだろう。抽象化によって、これら内と外の二つの側面を結びつけようとする人は、たった1つの理想、1つの判断ではなく、色々な観点があるのと同様に多くの判断があり、真実を見い出すには、唯一、これらの異なる観点が共に働くときである、ということを考慮していない。 内なる人間に関する生命の観点は外なる人間に関する観点とは異なると仮定できる。真実とは、どの観点から眺められるかに依存する相対的なものであるということを明らかにする1つの例がある。 小さな子供ほどの大きさの手を持つ巨人が、小さな指について語ることは、確かに、全く適切だろう。しかし、小さな子供ほどの大きさの小人が、巨人の小さな指について語ることができるかどうかは、また別の問題である。ここでの必然的な事柄は、これらが相補的(補完的)な真実であるということである。外の事物に関する絶対的な真実はない(外界の物質は、みる位置や立場によって異なってみえる)。 (外界の)事物は全ての異なる観点から眺められなければならない。 そして、真実は互いを照らし出す個々の真実を通して見い出されなければならない。人生の中で見られるように、外なる人間の、肉体及びエーテル体と、内なる人間の、アストラル体及び自我とが、ある一定の長さの人生において、完全に調和した状態にある必要はないというのは、この理由にもよる。 もし、そこに完全な調和があったなら、人間が夜、昼間の出来事を伴って、精神世界に入っていくとき、それらを、本質的な能力や叡智、或いはその他のものへと変化させる一方で、今度は、朝、当人が精神世界から物質的世界へともたらす力は、ただ魂との関連のみで使われることになるだろう。 しかし、いま記述したような肉体により引かれる境界線は、決して超えられることがない。そのときには人間的な発達(進化)もあり得ない。人間は自分で、この限界に気づくことを学ぶ必要がある。その限界を自分の判断の一部にする必要がある。当人には、これらの限界を最大限に突破するという可能性が与えられなければならない。 そして、その人は絶えずその限界を突破する! 現実生活においては、これらの境界線は絶えず超えられ、そのため、例えば、アストラル体と自我が肉体に影響を及ぼすとき、その影響は限界の範囲内には留まらない。しかし、限界を超えることによって、その影響は肉体の法則を破棄(破壊)する。 そのとき、精神、すなわちアストラル体と自我によって引き起こされる肉体の不調や混乱、つまり病気として現れるような法則の破棄(破壊)が観察される。その限界は別の方法でも破られる。つまり、内なる存在としての人間が、外界との関係づけに失敗し、折り合いをつけられないというような場合である。この事は非常に劇的な例で示すことができる。 中央アメリカのペレー山が噴火したとき、非常に注目すべき、また教唆に富んだ書類が、廃墟から後になって見つかった。その内の1つには、「もう恐れることはない、危険は去った、もう噴火はないだろう。この事は、我々が自然法則として認識するに至った法則によって示される」と記されていた。 「自然に関する知識から、現在の状況においては、更なる火山の噴火はあり得ない」、と記された、これらの書類は、その通常の学問的知識に基づいて、それらを書いた学者たちと共に土に埋もれたわけである。悲劇的な出来事がここで起こった。けれども、正に、この事が、人間と物質的世界との不調和を全くはっきりと示している。これらの自然法則を探求した学者たちの知性が、もし、十分に訓練されていたなら、真実を見い出すのに十分であったことは確かである。 (このような出来事は、日本の地震等の天災にも現れている。天災後の活断層や気候状態は説明できても、予測はほとんど困難である。) 彼らは知性に欠けていたわけではない。知性は必要だが、それだけでは不十分である。例えば、もし、事態が差し迫ったものなら、動物たちは、その地域を離れる。動物が逃げ出すことは、よく知られた事実である。ただ家畜だけが人間と共に消える運命となる。だから、いわゆる動物的な本能は、未来の出来事に関する限り、今日の人間の叡智に比べて、遥かに偉大な叡智を発達させるのに十分であると言える。 (野生の動物の方が、天災については、直観力で優れているのは、多くの事例で示されている。) 「知性」は決定的要因ではない。現在の知性は最高に馬鹿げた振る舞いをする人たちの中にも存在する。だから、知性が欠如しているのではない。欠けているのは、出来事に関する十分に成熟した経験である。 知性が、その狭く限定された経験により、可能と思われる事例を主張する瞬間、それは現実の外の出来事との間で不調和に陥り、外の出来事が、その周囲で勃発することになる。 というのも、肉体と世界との間には、徐々に将来人間が認識するようになる、今日既にもつ力により、把握するようになる関係をもつからである。しかし、人間が、その認識を可能にするのは、外界についての経験を増加させ、自分のものとした後だけである。そのときには、正に、今日もつ知性が、この経験の結果として、発達(進化)する調和を創り出すだろう。 (知識に経験が加わってはじめて、叡智となる) というのも、現代人の知性が、ある一定の段階にまで発達(進化)するのは、正に現時点においてだからである。現在の知性に欠けている唯一のものとは、経験を成熟させることである。もし、経験の成熟が、外の状況と一致しなければ、人間は、外界との不調和に陥り、外界における出来事によって破滅させられることになるだろう。 極端な例だが、いかに学者たちの肉体と、彼らが、その魂の発達(進化)において、内に到達していた段階との間に不調和が生じたかを見てきた。そのような不調和は、我々に重大な出来事が降りかかるときだけに生じるのではない。 (学者は知的だが、実際経験に乏しい。だから実験を行って、知性から導かれる仮説を検証するが、その経験はあくまでも擬似体験で、下手すると偽装のものとなりえる。) つまり、そのような不調和は、原則として、また本質的に、何らかの外からの損害が、肉体やエーテル体に降りかかるとき、つまり、外からの損害が、外なる人間に対して、内なる力をもってしては、太刀打ちできず、それを、人生から追放できない、というような形で影響するときには、常に生じるものである。 この事は目に見える外のもの(物質)にも、内なる病気にも、とはいえ、それは実際には外のものだが、あてはまる。というのも、例えば、もし、胃の具合が悪いなら、それは本質的には、頭の上に煉瓦が落ちてきた状況と変わりがないものだからである。これは内なる人間が外なる人間とが一致しないときに、つまり、内なる人間と外界との間に対立が生じる(対立を生じさせてしまう)ときに陥る状況だからである。 全ての病気は、本質的には、そのような不調和、内なる人間と外なる人間の間の、仕切りの破壊である。遥かな未来においては、それらは調和的になるとはいえ、思考が、それを、人生に課そうとしても、抽象的な存在に留まるので、絶えまない、この仕切りの破壊により、何かが創り出されることになる。 人間は、現段階では、まだ外の生活に合わせることができない、ということに気づき始めることにより、その内なる生活を発達(進化)させる。これは自我に関してだけでなく、アストラル体に関しても言えることである。人間は、起きてから眠りにつくまでの間、自我に浸透される事柄を、意識的に経験する。 アストラル体の働きは、いかに、その限界を破るか、内なる人間と外なる人間との間に適切な調和を打ち立てるために、いかに、それが重要であるか、というようなことは、通常、人間の意識の外に横たわっている。それにも関わらず、それらは存在している。病気の深い内なる性質は、これら全ての事により明らかにされる。
2008年07月28日
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誕生から死までの人生は、以前に通過した別の人生(前世)まで辿られる。魂、精神的要素は、魂、精神的要素に、その起源を持ち、今回の人生(今生)の間に持つ経験は、以前の魂、精神的あり方(前世)に起因している。 死の門を通過していくとき、今回の人生(今生)において、原因(経験)を能力に変容させることにより、(魂が)吸収した経験を携えていく。我々が誕生を通して、未来において存在するようになるとき(来世)、これを携えて、この世に帰ってくる。 死から誕生まで間の、我々の状況は、夜毎の眠りを通して、精神世界に入り、朝再び、目覚めるときとは異なる。朝目覚めると、前の晩に残していったままの肉体とエーテル体を見い出す。誕生から死までの間、生活上の経験によって、肉体とエーテル体を変化させることができない。つまり、完成されたエーテル体と肉体という限界がある。 ところが、死の門を通っていくとき、我々人間は、肉体とエーテル体から去るが、ただし、エーテル体の本質だけを保持して行く。そして、精神世界においては、肉体とエーテル体の存在について考慮する必要がない。人間は、死から新生までの期間を通して、純粋に精神力に働きかけることができ、純粋に精神的実質を取り扱う。 人間は、次の誕生(来世)に至るまで、新しい肉体とエーテル体の元型を創造する中で、以前の人生(前世)において肉体とエーテル体の中にいたときには使うことができなかった全ての経験を織り込みながら、それらを形成するのに必要なものを精神世界から取り出す。 次に、この純粋に精神的な元型のイメージが完成し、人間が元型の中に織り込んだものを肉体とエーテル体の中に刻み込むことができる時がやってくる。それらの元型は人間が通過する、この特別な眠りの状態の中で、以上のようにして活動する。 もし、人間が毎朝目覚めに際して、肉体とエーテル体を同様の方法で生じさせることができれば、人間はそれらを精神世界から形成することになるだろう。しかし、同時に、それら(肉体とエーテル体)は変化させられなければならない。この場合、誕生とは、誕生以前の存在状態にある肉体とエーテル体(前世のもの)を包含する「眠り」の状態からの目覚めを意味している。 この時点で、アストラル体と自我は、物質世界に、つまり以前の人生(前世)において完成された体の中には形成できなかった、あらゆるものを今や刻み込むことができる肉体とエーテル体の中に降りる。それらは今や、新しい人生の中で、以前、高次の発達(進化)段階に上昇させていたとはいえ、完成された肉体とエーテル体が、その能力を不可能にさせていたために、実行に移すことができなかった、あらゆるものを肉体とエーテル体の中に表現する。 もし、我々人間が肉体とエーテル体を破壊できなかったなら、もし、肉体が死の門を通過できなかったなら、自分の経験を、自らの発達(進化)の中に集積(集約)できなかっただろう。どんなに死を恐ろしく、衝撃的なものであると見なしても、我々人間にふりかかる死に対して、どんなに苦痛と悲しみを感じても、世界を客観的に見るなら、それが我々人間に教えるのは、我々人間は死を望まなければならない!ということである。 というのも、死だけが、次の人生における新しい体(肉体とエーテル体)の構築を通して、地上に存在していた間のあらゆる果実を、生へともたらすことを可能にさせるために、いまある、この(古い)体を破壊する機会を与えてくれるからである。 (死がなければ、人間は、魂の能力を開花させるに足る、新しい肉体を手にいれることができないわけである。逆に、もし、死が、無であるなら、人間は肉体を少し足りとも動かすことができない存在なわけで、少なくとも、短期間に、立ち上がり、思考し、あらゆる神業的能力を開花させることは不可能なのである。 だから、死によって、学びつくした肉体と別れることで、その肉体との経験から織物を織るように、新たなる肉体を再構築するわけである。死がなければ、古い肉体と共に、亡び逝き、消え逝く存在となるだけである。そこに再生はない。古代人は、魂は永遠で、肉体は束の間ということを知っていて、古代エジプト人は、その知識を残すために、ミイラをつくった。) このように、人生における通常の過程においては、二つの流れ、内なる流れと外なる流れが共に活動している。これら二つの流れは、一方では、肉体とエーテル体の中に、他方では、アストラル体と自我の中に平行して流れているということが分かる。 (つまり、人間は、生きている間、肉体とエーテル体を動かし、破壊しながら、肉体とエーテル体という鏡を通して学び、魂の能力を開発しているのである。肉体は、魂のいわば教師であり、全て学び終えると、魂は次の新たなる肉体という教師を探すために、古い教師という肉体に別れを告げ、死を選ぶといえる。このことを、仏陀は魂の脱皮と呼んでいる。)
2008年07月25日
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もし、昼間の一連の経験が、魂の中に火をつけ、何らかの能力に変化するのを妨げたいのなら、何をすべきか? 例えば、一定の期間中に、誰か他の人と、何らかの関係を持つときに、その人には何が起こるのか? その人物との経験は、夜の意識の中に沈み、その人物に対する愛として、つまり、それが健全なものなら、いわば永遠へと継続し、連続する経験の本質として再現される。他者に対する愛の感情は、経験の総体が、1つの織物へと織られるように、統合されるような形で生じる。 (恐らく、この事から、運命の赤い糸という呼び方がなされたのだろうか?) さて、一連の経験が愛に変化するのを妨げるためには何をすべきか? 経験を本質的なもの、すなわち愛の感情に変化させる、夜の自然過程が生じるのを妨げなければならない。昼の経験から織られた織物を、夜に再び解体する必要がある。もし、その経験の織物を解(ほど)くことができたなら、魂の中で愛に変化する他者に対する経験は、当人に何の影響も及ぼさなくなる。 ホメロスは、この人間の魂の深みについて、ペネロペと彼女の求婚者とのイメージの中に暗示した。彼女はある織物を織り上げたときに結婚に応じることを、皆に約束した。昼間に織り上げたものを、夜毎に解き、解くことにより、約束は回避される。 この秘密がわかる人が芸術家でもある場合、非常に深遠なものが明かされる。このような事柄に対する感情は、今日ではほとんど残っていない。 だから、同時に、この秘密がわかる詩人が、そのようなことを説明するとき、今日の詩の批評では単なる、想像上の気儘な思いつきのものと断定する。その批評によって古代の詩人も、そして古代の真実も、古代では害されることはなかったが、現代では、そうはいかない。日常の経験は、夜中に解かれ、人生の深みに入っていくことを妨げられるからである。 このように、夜の間に、何かが魂の中に取り込まれ、再び戻ってくる。魂の中に取り込まれたものは魂により発達(進化)させられ、どこまでも高いレベルの能力へと上昇させられる。しかし、ここでは、この人間の発達(進化)は、どこにその限界があるのか、と問わなければならない。 この境界線を認識できるには、いかに人間が、朝起きる度に、同じ能力、才能、誕生以来、変わらない構造を持つ肉体とエーテル体に帰ってくるかを観察するときである。 しかし、肉体とエーテル体の配置、その内なる構成と形態を変えることはできない。もし、肉体を、或いは、少なくともエーテル体を眠りの状態に連れていけるなら、それらを変えることができただろう。しかし、毎朝、それらが昨夜と変わっていないことを見い出す。 誕生から死までの人生において達成できる発達(進化)に対する明確な限界がここにある。誕生から死までの間の発達(進化)は本質的に魂の経験に限定され、(肉体やエーテル体の)身体的な経験にまでは拡張されない。 このように、誰かが、その音楽の鑑賞力を深化させるような、つまり、魂の中に奥深い音楽的生活を目覚めさせるような、あらゆる経験を通過する機会を持ったとしても、もし、(肉体上の)音楽的な耳を持っていなかったなら、もし、耳の物質的、エーテル的な形態が、外なる人間と内なる人間の間に調和を打ち立てるのを許さないような構造であったなら、音楽的才能が発達(進化)させられることはない。 人間が1つの全体であるためには、全ての構成体(肉体、エーテル体、アストラル体、自我)が1つの統一体を形成し、調和していなければならない。 このため、音楽的な耳を持たない人が、自分を、高レベルの音楽の鑑賞力へと引き上げるような、あらゆる経験を通過する機会を持ったとしても、魂の中に留り、発達(進化)させられることはない。 (音楽的才能をもっていても、それに相応しい肉体、この場合、耳だが、それをもたなければ、音楽家として成功できない。天才と秀才の違いがここから明らかになる。天才は、音楽的才能を、肉体に伝達し開花させることができるが、秀才は、できない限界、つまり肉体的限界を感じるわけである。) 魂の能力が、実りへともたらされないのは、毎朝、内なる器官の構造と形態によって境界線が引かれるからである。これらの事は、単に肉体とエーテル体のより粗雑な構造だけに依存するのではなく、その中に含まれる非常に微妙な関係にも依存している。現在の通常の生活においては、魂のあらゆる機能は何らかの器官の中に、その表現を見い出さなければならない。 そして、もし、その器官が適切な形で形成されていなければ、妨げられる。生理学や解剖学によって示されることのない、これらの事柄、いわゆる秘密は、器官の中の微妙な刻印こそが、誕生から死までの間に、変化させることができないものであるということである。 では、人間は、アストラル体や自我の中に取り込んだ出来事や経験を、肉体やエーテル体の中に注ぎ込む、という点では全く無力なのか? というのも、人々を観察すると、限度はあるが、人間が自分の肉体を整えることさえ可能であることを発見できるからである。十年間にわたる生活を、深い内なる思想の中で過ごしてきた人を見れば、その仕草や顔つきが変化しているのが分かる。とはいえ、この事が起こるのは非常に狭い範囲に限られる。しかし、常にそうなのか? この事が常に非常に狭い範囲に限られるわけではないということを、理解できるのは、ここで何度も触れてきた事であるとはいえ、現代(感覚から)では、あまりにも程遠いものになってしまっているために、何度も思い起こさなければならない、ある法則、すなわち、17世紀において、低レベルで、人類のために確立された法則を拠り所にするときだけである。 17世紀に至るまで、低次の動物や虫は川の泥から発生すると信じられていた。地虫や昆虫を生じさせるには、純粋な物質以上のものはいらないと信じられていた。この事は素人だけでなく、学者たちにも信じられていた。 17世紀以前の時代に遡ると、あらゆるものが、例えば、どうすれば環境から生命を創り出すことができるかを教えるような形で、体系づけられていたのが分かる。紀元7世紀の本には、蜜蜂を創り出すには、畜殺された馬の胴体をどのように打ちなめすべきかという記述が見られる。同様に去勢牛は雀蜂を、ロバはジガバチを創り出した。 (この考え方は、現代の遺伝子やDNA、もしくはRNAから生命を誕生させる発想と同じものであり、いわば、17世紀以前の迷信が、現代科学の唯物論により復活を遂げている。) 偉大な科学者、フランチェスコレディが、「生命は生命だけから発生する」という公理を初めて宣言したのは17世紀のことだった! 今日、あまりにも自明だと思われているがために、誰も、この公理以外のことが信じられていたということさえ理解できないような、この真理のために、17世紀においてさえ、レディは恐ろしい異端者と考えられ、かろうじてジョルダーノブルーノの運命を免れることになった。 そのような真理に関して、常に次のような態度が取られる。それら真理を宣言する人たちは、最初、異端者の烙印を押され、審判の餌食にされる。 過去には、人々は火あぶりにされ、その危険に曝された。今日、この種の審判は放棄され、誰も火炙りにはされないが、今日、科学を牛耳る人々は、新しい、高次のレベルの真実を宣言する全ての人を、馬鹿者や夢想家と見なす。 今日、フランチェスコレディが17世紀に宣言した、生き物に関する公理を、別の方法で奉じる人々は馬鹿者や夢想家と見なされる。レディは、生命が死せる物質から直接発生すると信じるのは不正確な観察であり、それは生きている物質の、自らの物質と力を、環境から引き寄せる胎児にまで辿る必要がある、ということを指摘した。 (今日では、霊は霊から生まれるという、いわば生命は生命から生まれるの焼き直しを唱える人は、馬鹿者と、科学者から罵られる。人間は、神の子だというと、忽ち、新興宗教者の如く、非科学的だと侮蔑、侮辱される。 キリスト教信者でさえも、神の存在に懐疑的で、自ら進んで犯罪を犯すから不思議でもある。キリストが、金持ちは天国にいけないと断言しているのに、キリスト教信者の金持ちは、金持ちをやめずに、むしろキリスト信仰をやめようとする。) 同様に、今日の人智学は、魂、及び精神的本質としての存在も、魂と精神から発生し、(物質的な肉体から)遺伝されたというような特徴の集合体ではない、ということを指摘しなければならない。 地虫の胎児的形態が、周囲にある物質を引き寄せて発達(成長)するように、魂の、精神的な核が発達(成長)するためには、同じく、その周囲にある(霊的な)実質を引き寄せなければならない。 もし、人間の魂と精神の本質を逆方向に追っていくなら、誕生以前に存在する魂、精神的要素、遺伝とは関係のない要素に辿り着く。 魂、精神的要素は魂、精神的要素だけから生じるという公理は、結局は、繰り返される地上生という公理に必然的に帰着するが、これは綿密な人智学的探求により証明できる。
2008年07月25日
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さて、人間のいわゆる通常の生活と、その本質的な発達(進化)について見てみる。何故、人間はアストラル体と自我を伴って、毎夜、精神世界に帰って行くのか? 人間が眠りにつく何らかの理由があるのか? この事については以前にも触れたが、いま扱っているテーマに関しても、つまり、「病気と治療」において現れるような、一見異常な状態を認識するためにも、正常な発達(進化)についての理解が必要である。 人間はどうして毎夜、眠りへと赴くのか? この問いへの理解に到達できるのは、「外なる人間」に対するアストラル体と自我の関係を十分に考慮するときだけである。いま、アストラル体を、楽しみと苦しみ、喜びと悲しみ、本能、欲望、熱情、波打つイマジネーション、知覚、思考や感情の担い手として記述した。 しかし、アストラル体が、これら全ての担い手とするなら、(睡眠中に)肉体とエーテル体が存在しないとはいえ、実際の内なる人間がアストラル体と結びつく状態にも関わらず、何故、人間は夜、これらの経験を持たないのか? 寝ている間、アストラル体の経験が漠とした闇の中に沈んでしまう、ということが何故あるのか? それは、アストラル体と自我が、喜びや悲しみ、判断、イマジネーション等々の担い手であるにも関わらず、これらのものを直接に経験できないからである。 通常の生活においては、アストラル体と自我は、自身の経験を意識するために、肉体とエーテル体を必要とするのである。魂の生活とは、アストラル体により直接経験されるものではない。 もし、直接経験されるものなら、アストラル体と結びついている夜の間にも経験できるはずで、昼間の魂の生活は残響、或いはその鏡像のようなものになる。 つまり、肉体とエーテル体が、アストラル体の経験を反射するのである。起きてから眠りにつくまでの間に、魂が、魔法にように出現させる、あらゆるものを出現させることが可能なのは、肉体とエーテル体、もしくは生命体という鏡の中に、自身の経験を見るからに他ならない。 夜、肉体とエーテル体を後にする瞬間、まだアストラル体の経験の全てを、内に有しているが、それを意識しない。何故なら、それらを意識するには、肉体とエーテル体の反射の性質が必要だからである。 こうして、我々は、朝目覚めてから夜眠りにつくまでの生活の全過程を通して、内なる人間と外なる人間、すなわち、自我とアストラル体、そして肉体とエーテル体が相互に作用しているのを見る。働いているのはアストラル体と自我の力である。何故なら、いかなる条件下でも、物質的特徴の総計として、肉体やエーテル体自身から、魂の生活を生じさせることはできないからである。 (物質をいくら巧みに構築しても、魂は生み出せない。つまり、生命体は、物質からは生じない) 鏡の中に見る像が、鏡から発するものでなく、鏡の中で反射される対象物に由来しているのと同じように、反射される元の力は、アストラル体と自我から生じる。 このように、魂の生活を生じさせる全ての力はアストラル体と自我の中に、すなわち人間の内なる本性の中に横たわっている。そして、それらは、内なる世界と外なる世界との間の相互作用の中で活発になり、いわば肉体とエーテル体にまで手をのばすが、夜には、我々が「疲れた」と呼ぶ状態に入っていくのが、つまり、それらが夜、消耗しているのが見られる。 そして、もし、毎夜、朝から夜までの間、過ごす世界とは別の世界に入っていく立場になかったなら、自分の生活を続けることができなかっただろう。 起きている間に滞在する世界の中で、魂の生活を知覚可能にすること、つまり、魂の前に、経験を提示できるが、それはアストラル体の力によって可能になる。しかし、人間は、アストラル体の力を使い果たし、目覚めている間の生活から、その力を補充できない。 その力を補充できるのは、毎夜入っていく精神世界だけである。人間が眠るのはそのためである。夜の世界に入り、そこから昼の間に使う力を持ってくることなしに、生きていくことはできない。 このように、エーテル体と肉体の中に入るとき、何を物質的世界に持ち込むのか?という問いに対する答えが得られた。 ところが、また、夜にも何かを物質的世界から精神世界へと運んでいくのではないのか? これが第二の問いである。この問いも第一の問いと同じように重要である。 この問いに答えるためには、通常の人間生活に属する数多くの事柄を取り扱う必要がある。通常の生活には、いわゆる経験と呼ばれるものがある。これらの経験は、誕生から死までの人生において重要なものである。 ここで、しばしば触れてきた1つの例、つまり、「筆記」を学ぶ例が、この事に光を当てるだろう。 自分の思考を表現するのに、ペンを取るとき、「筆記」という芸術に携わっている。我々人間は、筆記できるが、そのために必要な条件とは何なのか? 筆記するには、誕生から死までの間にもつ一連の経験全てが必要といえる。子供の頃に経験してきた全て、ペンを持つという最初のぎこちない試みから、ペンを紙に当てる等々の事柄について考えてみる。これら全ての経験を、その都度、思い出す必要のないのは神に感謝すべきことである。 何故なら、もし、筆記する度に、「書道」と呼ぶ芸術を発達させようとして、線を引き損ねたことや、多分、そのことで叱られた事などを、わざわざ思い出さなければならないとしたら、酷い状況に陥るからである。筆記という技芸において、何が生じるのか? 誕生から死までの間の人生において、重要な意味を持つ発達(進化)が起こったのである。我々人間は一連の経験の総体をもっているが、これらの経験は長い時間かけて生じたものである。その経験はその後、いわば、筆記の「能力」と呼ぶ本質的なものへと純化した。 筆記能力以外の他の全ては、忘却の漠とした闇の中へと沈んでいったが、もはやそれらを思い出す必要はない。 何故なら、魂は、これらの経験から出発して、より高次の段階に達しているからである。つまり、我々人間の記憶は、人生における受容力や能力として現れる本質の中へと共に流れ込む。誕生から死までの存在状態における、人間の発達(進化)とは、このようなものである。 経験は最初に魂の能力へと変容し、次に、その能力は肉体という外なる道具を通して表現される。誕生から死までの発達(進化)は、全ての個人的な経験が、能力や、また叡智に変化させられる、というような形で生じる。 もし、1770年から1815年までの期間を眺めなら、この変容がどのようにして生じるかの洞察を得ることができる。重要な歴史的事件が、この間に生じた。多くの人が、この事件と同時代に生きていたが、彼らはその事件に、どのように反応したのか? 彼らのうち、少数は、その出来事が傍らを通り過ぎるのに気づかなかった。彼らは、その出来事が知識に、世界の叡智に変化するのを無感動に見過ごした。他の人たちは、それらを深い叡智へと変化させた。彼らは本質的なものを抽出したのである。 どのようにして経験は魂の中で能力や叡智へと変化させられるのか? 経験は毎夜、そのままの形で、眠りの中に、つまり、魂、或いは内なる人間が、夜の間、滞在する、精神世界の領域の中に取り込まれることによって変化させられる。ある期間中に起こった経験は、そこで本質的なものに変化する。 人生を観察する人なら誰でも、もし、ある活動領域における一連の経験を秩序づけ、自分のものにしたければ、これらの経験を眠っている間に変化させる必要がある、ということを知っている。 例えば、一番よく何かを学ぶためには、学んだ後、学びながら眠り、再び、また起きて、それを学び、再びまた、学びながら眠ることの繰り返しによるものであることに気が付く。経験は、眠りの中に沈められなければ、能力や叡智、或いは芸術の形で現れてくるように発達させられることはない。 これは、我々人間が、低次のレベルで直面する、必然的な高次レベルの表現である。もし、今年の植物が暗い地球の覆いの土の中に帰って行かなければ、来年に再び成長するような植物にはなれないだろう。 この場合の発達(進化)は繰り返しに留まるが、これが人間の精神に照らされることにより、真の「発達(進化)」になる。 経験は無意識の夜の覆いの中に降り、そして再び、さしあたり、まだ繰り返しとして取り出されるが、最終的には、叡智として、能力として、生きた経験として現れるように変化させられているだろう。 今日よりも、深く精神世界を観察できた時代には、人生は、そのように理解されていた。古代文化の指導的人物たちが、イメージを用いて話すとき、人生における経験の、睡眠中での叡智等の変化への重要な基礎の示唆が見れるのは、この事が充分に太古において理解されていた為である。 (寝る子は育つという諺を思い出す。)
2008年07月24日
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恐らく、これまでの講義から、魂に関する一連の遠大な疑問を取り扱ってきたことが、いま明らかになっているだろう。今回でも、そのような問題、つまり、「病気と治療」の本質に関する問題を取り上げる。 「病気と治療」に関して、人智学の立場から、それが精神的存在の表現である限りにおいて、人生の事実に関して叙述可能なことは、以前から、開催してきた連続講義、例えば「病気と死の理解」、「偽りの病気」、或いは「熱に浮かされたような健康の追求」の中で説明してきた。今回は、「病気と治療」について理解する上で、究めて奥深い問題を取り上げたい。 病気、治癒、そして、ときとして死に至る病は、人生に深い影響を及ぼす。これらの考察の基礎となる精神の前提、基盤について繰り返し探求を行ってきたので、これらの遠大な事実の原因や、人間が人間として存在する結果に関する探求が、我々には許されるだろう。 つまり、病気、治癒、死に至る病の経験に関して、人智学が言える事とは何なのか? 人間の通常の発達(進化)過程との関連で、病気、健康、死、及び治癒が、どのように位置づけられるかということを明確にするには、進化発展していく人生の意味について、もう一度、深く探求する必要がある。何故なら、これらの出来事は、通常の発達(進化)過程に影響を及ぼすものと考えられているからである。 それらは、人間の発達(進化)に何か貢献するのだろうか? それらは、我々を前進(進化)させるのだろうか? 或いは、進化を後退さ(遅ら)せるのだろうか? これらの出来事に関して、明確な概念に至るには、ここでもまた、人間全体を考慮するときだけである。 しばしば述べてきたが、人間は、四つの構成体から成立している。第一は、人間が、周囲の鉱物存在全てと共有する肉体だが、その形態は、それが内に有する物理力、化学力に依存する。 人間の第二の構成体は、これまでエーテル体、或いは生命体と呼んできたが、人間は、これを全ての生命、つまり、周囲の植物や動物と共有する。そして、人間存在の第三の構成体として、アストラル体について述べてきたが、これは、楽しみや苦しみ、喜びや悲しみ、つまり、一日を通して溢れる全ての感動、イメージ、思考等を担うものである。 人間は、このアストラル体を、周囲の動物世界とだけ共有する。そして、人間を被造物の頂点に立たせる最高の構成体、すなわち自我、自意識の担い手がある。これら四つの構成体について考えるとき、第一に言えることは、それらの間には、ごく表面的に見ても、一定の違いがある、ということである。 人間を、つまり、自身を外側から見るとき、そこには人間の肉体がある。肉体は外的、物理的な感覚器官により観察できる。これらの感覚器官に結びついた思考、すなわち脳に結びついた思考によって、この人間の肉体を理解できる。それは、外(界)の観察に対して明らかにされる。 人間のアストラル体に対する関係は、これとは全く異なっている。既にこれまでの記述の中で見てきたが、真に超感覚的な意識にとって、アストラル体とは、外(界)の事実として顕れる。つまり、アストラル体は、しばしば述べてきたような形で、意識的に訓練すれば、肉体と同じように見ることができる。 通常の生活では、人間のアストラル体を外側から観察できない。目で見ることができるのは、その中で波打つ本能、熱情、思考、感情の外への表現だけである。しかし、これとは対照的に、人間は、アストラル体の、これらの経験を、自分の中で観察する。 人間は、本能、欲望、熱情、楽しみや悲しみ、喜びや痛みと呼ぶものを観察する。このように、アストラル体と肉体の関係は、通常の生活においては、前者(アストラル体)は内に観察され、肉体は外に観察される、というようなものである。 さて、ある意味、その他の二つの構成体、人間のエーテル体、そして自我の担い手は、肉体とアストラル体という2つの対極の中間に位置する。肉体は純粋に外側から、アストラル体は純粋に内側から観察できる。肉体とアストラル体の間にある中間的な構成体がエーテル体である。 エーテル体は外側から観察できないが、外に影響を及ぼす。アストラル体の力、内なる経験は、まずエーテル体に移行しなければならない。エーテル体は、移行することによってのみ、物質的な道具、肉体に働きかけることができる。 エーテル体は、アストラル体と肉体の間の仲介役として働き、外側と内側の結びつきを形成する。それを物質的な眼で見ることはできないが、エーテル体が外に向かって肉体と関連づけられることにより、はじめて、アストラル体の道具を、眼で見れるようになっている。 さて、ある意味で、自我が内側から外側に向かって働くのに対して、エーテル体は外側から内側へ、アストラル体に向かって働きかける。というのも、人間は、自我がアストラル体に影響を及ぼす形によって、外界の、つまり、肉体自体が、起源を有する物質的な環境に関する知識を獲得するからである。 動物存在が、個々の、個人的認識を持つことなく、生じるのは、動物が個別の自我をもたないからである。 動物はアストラル体に関する、あらゆる経験を内に生き抜くが、その楽しみや苦しみ、共感や反感を、外界の認識を獲得するためには用いず、我々人間が楽しみや苦しみ、喜びや悲しみ、共感や反感と呼ぶものは、動物においては全て、アストラル体の経験だが、動物は、その楽しみ(感情)を世界の美に対する賞賛へと変換するかわりに、その楽しみ(感情)を生じさせる要素の中に留まる。 動物は、その苦痛(感情)の中で生きるのに対し、人間は苦痛に導かれて、自らを超え、世界を発見する。 何故なら、自我が、人間を苦痛から再び連れ出し、外界に結びつけるからである。こうして、一方では、いかにエーテル体が人間の内面、アストラル体の方向に向けられるかを、他方では、いかに自我が外界、我々人間を取り巻く物質的世界に導くか、ということを理解する。 人間は、交互に入れ替わる生を生きている。この事は日々の生活の中で観察される。 朝起きた瞬間から、魂の中へと流れ込み、流れ出す、アストラル体のあらゆる経験-喜びや悲しみ、楽しみや苦しみ、感情、イメージ等々を観察する。夜には、アストラル体と自我が無意識の中に、或いは、もっとマシな言い方をすれば、意識下の状態に入っていくために、いかに、昼のこれらの経験が、漠然とした闇のレベルにまで沈み込んでいくかが見られる。 朝から夜までの間、起きている人間を見ると、肉体、エーテル体、アストラル体、自我が互いに織りなされ、それらの影響に関して、相互に結びつけられているのが分かる。 秘教的意識には、人間が夜眠りにつくと、肉体とエーテル体はベッドの中に残り、アストラル体と自我は精神世界の中の本来の場所に帰る。つまり、肉体とエーテル体から、(自我とアストラル体が)抜け出すことが分かる。このテーマに適切に対処できるように、この事をもっと別の方法で記述してみる。 肉体は、その外の側面だけを示しているが、眠っている人間においては、その外の側面の人間として、物質世界の中に留まり、内と外の仲介者であるエーテル体を保持している。眠っている人間の中に内と外の間を仲介するものがないのは、仲介者としてのエーテル体が外の物質世界にあるからである。 このように、眠っている人間においては、ある意味、肉体とエーテル体は、単なる外の人間(物質的人間)に過ぎない。 エーテル体は内と外の仲介者ではあるが、肉体とエーテル体を「外なる人間」として記述できる。反対に、眠っている人間のアストラル体は「内なる人間」として記述できる。これらの言葉は起きている人間にも当てはまる。何故なら、アストラル体のあらゆる経験は、通常の条件下では、内なる経験であり、人間は起きているときに、自我が獲得する外界についての知識を、内面に取り上げ、学びながら自分のものとするからである。 外のものは、自我を通して内のものにされる。この事は、「外の」人間と「内の」人間について、つまり、前者は肉体とエーテル体から、後者は自我とアストラル体からなるものとして語れるということを示している。
2008年07月23日
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では、「祈り」の効能に対する、様々な異議とはどのようなものか? 例えば、仲間を助けるために力を行使する人間と、自らの中に静かに引きこもり、祈りを通して、魂の力に働きかける人間とを比べる。確かに、最初の人物に比べて、二番目の人物は、怠け者と見なすに違いない。しかし、別の観点が存在することを、人智学の認識の、ある感情から、それも幾分、誇張して言うが、それなりの理由がある。 今日、こじつけのように聞こえるかもしれないが、影響力のある新聞記事を書く記者達が、魂を改善するために、「祈り」、働くならば、記者達は人々のために、良い仕事をしていると、人生の奥に潜む原因に通じている人なら、感じるだろう。もっと多くの人に、「祈る」ことは、記事を書くことよりも道理に叶っている、ということを分かってもらいたい。他の多くの知的な仕事についても同じことが言える。 更に言えば、人生全体の理解のためには、「祈り」を通して働く力に関する理解が必要だが、この理解は、文化生活の、ある特別な側面を見るとき、特別な明晰さをもって生じる。一方的で、利己的な意味ではなく、いま、ここで取ったような、広い観点から「祈り」を見たとき、「祈り」が芸術の構成要素になっているということを見誤る人がいるだろうか? 確かに、芸術の中には、「笑い」の中で表現されるような、滑稽な表現上に、表現者自身を切り離し、上昇させるようなユーモラスな取り組みの中で、表現される側面もみつけられる。しかし、賦(ふ)(詩や歌)や賛美歌は、「祈り」から、それほど遠く隔たっているとはいえない。そして、描写的な芸術でさえ、「絵画の中の『祈り』」とでも呼べるような例を示す。 そして、荘厳な大聖堂においては、天まで届くような「祈り」に似たものが、石の中に表現されているということを誰が否定できるだろうか? もし、人生の文脈の中で、この全てを把握できるなら、「祈り」が、その真の本性の通りに見たとき、人間を限定的で、一時的なものから、永遠なるものへと導くものの1つである、ということに気づく。この事は、これまでの講義の中で触れたアンジェラスシレジウスのように、「祈り」から神秘主義への道を見い出した人たちによって、特に強く感じられた。 彼は、例えば、「ケルビニアントラベラー」に示されているような、彼の神秘思想の内なる真実と輝かしい美、温かい親密さと輝く明晰さが、力強く、彼の魂に働きかけていた「祈り」の自己訓練に負っている、と感じていた。では、彼のような神秘主義者全てを浸し、照らし出していたのは、そもそも、何なのだろうか? 「祈り」が、神秘家をして、神秘主義に向けた準備の永遠の感情でないとすれば、何なのか? 「祈る」人は誰でも、もし、真に内なる落ち着きと内面性を、「祈り」を通して達成し、次に、自分自身からの解放を達成するなら、この感情に関する幾らかの示唆を得ることができる。過ぎ去る瞬間を超え、永遠へと、目を向けさせ、そして、過去と現在と未来を、魂の中で結びつけるのが、この示唆なのである。 我々は、「祈り」の中で、「神」を(我々がそれに気づいていようと、いまいと)求める、人生の側面に向かうとき、「祈り」の中に入ってくる感情と思考と言葉は、アンジェラスシレジウスの次のような言葉により表現されるような永遠への感情により浸透される。その言葉をもって、最後を締めくくる。それは、たとえ無意識であっても、全ての真に「祈る」人たちに、何か「神」の芳香と甘美のようなものをもたらすことができる。 時間を捨てて、私は、私自身、永遠となる そのとき、私は「神」と、「神」は私とひとつなのだ!
2008年07月20日
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人間社会は、信頼の基に成立している。貨幣は信用取引の基になりたち、経済は生活の信用の基になりたつ。ところが、政府の無責任な詐欺証券大量発行により、世界的に信用破壊が進んでいる。大恐慌がくるのではないか?という人もいる。 確かに、世界中のたった1%だけの金持ちが、その金持ちの地位を放棄しなければ、恐らく、ドミノ倒しで、信用破壊から、雪崩のように大恐慌が始まる可能性が高いだろう。 格差社会から、拝金主義を生み出した信用破壊を進めた悪魔政府のその2つは、米国政府と、その市場原理主義に手を貸した日本政府である。 つまり、ブッシュと小泉さえ、指導者にならなければ、このようなことはおきなかっただろう。といっても、とき既に遅しである。いまだに御馬鹿ブッシュはそのままだし、輪をかけて無策な福田ボンクラは夏休みを満喫しているからである。 昨日、ワーキングプア問題をテレビでみたが、100億円も外見の装いにかけ、見せびらかす成金阿呆金持ちの社長が出て、労働者に説教をしていた。真面目に働かないからだという。 しかし、霊的見方でいえば、子供が大人に説教しているようなものである。地獄に行く者が、天国に行く者に説教しているようなものである。 「もっと私は着飾りたいの、もっと快適で、贅沢な生活をしたいの、だから、もっと汗水流して働きなさい」と子供が大人に言ったとしたら、どうだろうか? 家庭崩壊のはじまりである。モンスターチルドレンの誕生である。 社員が働くことで、社長の椅子が与えられていることに気が付いていないのである。親が働くことで、子供の生活は守られているのである。 他人の生活を破壊しておいて、自分の快適な生活は破壊されたくないらしい。庶民の生活は深刻なのに、自分の生活水準だけはそのまま維持したいというのが本音なのだろう。 地球や社会が破壊されようと、自分の知るところではなく、破壊される方が悪いという論理なのである。この風潮を日本に生んだのは、米国カブレの中曽根、不沈空母発言からである。 そういえば、どこかの銀行のトップが不倫問題を起こしたというのがあった。庶民が四苦八苦しているときに、不倫をしている余裕はあるらしい。 はっきりといっておく、金持ちが天国に行くのは、らくだが針の穴を通るよりも困難なのである。 なぜ、あなたは、生活に困っている人がいるのに、その身の回り100億円ものアクセサリーをもって、助けてあげないのか? 社長が、社員の生活を守らなくて誰が守るというのか? 真面目に人生を、人助けの為に働いていないのはどちらなのか? 自分のエゴのために、下らない鉱物を身に着けて、醜い心を見せびらかしている不埒な人間は、悔い改めなければ、残念ながら、地獄に突き落とされるであろう。 その社長は、かって私も貧乏だったといっていたが、それなら、貧乏の苦しみがわかっているはずである。いま、その心の耳を閉ざしているのは、誰なのか? 日本では、昔から成金は嫌われる連中であった。それは、自らのエゴの虜になり、社会に何ももたらそうとしない輩であるからだ。 金は天下の回り物といわれた。その蛇口を閉じているのは、浅ましい欲亡である。 人類は、助け合わなければならないように、神は社会を与えているのである。その身形に似つかわしくない醜いアクセサリーを売り払って、貧しい人に施しをしなさい! いくら金を貯めようが、いくら着飾ろうが、幸福とは、そのようなところには存在しない! 花や自然が美しいのは、着飾ることなく、その本性を表現しているからである。その本性とは、他に奉仕する精神である。共に助け合いなさい! その為の舞台が地球なのであるから。
2008年07月20日
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また、ブライアンワイス著の「前世からのメッセージ」からの抜書きである。 「大切なことは忍耐とタイミングだ。…… 全てのことには時がある。人生をあせってはならぬ。人生は多くの人々が期待するように、うまく予定通りに行くことはない。 したがって、人はその時々にやって来るものを受け入れ、それ以上を望まないほうがよいのだ。 新たに生まれるということも本当はないのだ。ただ異なるいくつもの場面を通り過ぎてゆくだけなのだ。終わりというものはない。 人間は沢山の次元を持っている。時間というものは人が認識しているようなものではなく、私達が学んだレッスンのなかにあるのだ。」 神秘学でも、奥義では、寛容と忍耐がいわれ、ひたすら待つことが重要だと説かれる。「鳴かぬなら、鳴くまで待とう不如帰」の家康の精神が、神秘学の奥義に近いものといえる。 万物にはタイミングがある。タイミングを外すと迷いの道、迷宮に陥ってしまう。だから、あせりは禁物で、あせりとは、自分からタイミングを逸脱し、迷宮に迷い込むことを意味する。 だから、肝心なのは、あせりが生じる前に、そのあせりを手放すということで、それには、「諦め」が必要だという。 あせることなく、諦め、そのときどきに向こうから訪れるものを、ただ受け入れ、味わうことが重要なのだろう。ただ諦め、自分の道に徹することで、多くを望まない。つまり足るを知ることが重要なのだろう。 そういえば、家康は、あるとき、家臣から、大将が知るべき重要な心得はなんですかと、聞かれたところ、「それは、足るを知ることである。」といったという。 なるほど、このような発言から、家康ほど、神秘学に精通する人物も少ないのではないかとも思う。 また家康は、人生とは、重い荷物を背負って、長い道を歩くようなものであると言ってもいるが、この発言も、新たに生まれることはなく、ただ異なるいくつもの場面を通りすぎていくだけで、終わりというものはないという上記の引用に、似ているともいえる。 その上記の引用文では、時間というものは、人間の感覚では捉えられないものだという。人間は、時間よりも多くの次元をもっているという。自分が学んだレッスンのなかに、記憶として、時間という概念があるだけで、我々人間は、時間を超えて、多くの次元から、学ぶ事ができるのである。 人間は、本来、永遠の存在なのである。永遠の存在だから、何もはじめから欲張る必要もないだろう。はじめに欲張れば、後は虚しいだけだろう。いずれ味わえるのだから、あわてる必要はない。ただ充分に味わい、噛み締めるための準備をしておけばよい。 しっかりと味わうことに重点を置けばよい。迷宮に迷い、いつの間にか通り過ぎ、何も味わえないことの方が問題なのである。罪を犯したことに気が付かないことが問題なのである。罪を犯したときは、それを認め、赦すことが重要なのである。 家康ほど、戦国時代において、戦場から経験を積んだ者はいないだろう。多くの戦乱のなか、多くの混乱の時間を超えて、最後まで生き残った大将なのである。元々は、今川家の人質だったのである。いわば捕虜である。 戦乱の世を生きながらえた経験から、太平の世の礎を築け得る人物となったといえるのだろう。家康ほど様々な経験を積んだ武将も珍しい。時を知れる大将といえる。 信長は短気で、迷宮に入り込む魔王であり、秀吉は、欲張りな渡世人といえるが、 家康は、自らが鳴けるまで、多くのレッスンを学んだ忍耐強い不如帰だったのである。
2008年07月17日
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大分の教員採用試験汚職は、流石に怒り心頭の事件で、教員ほど、実は人格的に一番腐った連中だったとという日頃の私の思いを証明するような事件だった。 一体、この国の精神は、腐りきり、教育の崩壊を通り越して、果てしなく獣性に向かっていることを感じざるを得ない! 大体が、流石に全てとはいわないが、私の経験から、教員ぐらい自信過剰な連中も、あまり見受けられない(授業の予習をしない教員がいるのが不思議である)。恐らく視野が狭いからだろうが、威張り腐った奴が多いのも、教員の特徴である。他人を奴隷のように酷使したがるのも、教員の特徴である。 確かに教員だけが悪いわけではないが、モンスターペアレンツといわれるような、外見だけが大人で、中身は幼稚なエゴイストの社会破壊行為にも、問題があるだろうが、この不正は、長年行われてきたところに、教員側のアキレス腱というべきシコリがある。 教員のよくない理由は、これはよくいわれているのだが、学生からそのまま人を指導する立場になってしまう点にある。この事は、国家公務員のキャリアにも当てはまる。学生は、社会の誘惑の怖さを知らない。最近は、学校を家庭と勘違いしている学生も多いと聞く。ある意味、だから、平気で、権威主義者の悪に靡いてしまうのだろう。 人生の充分な経験も無しに、人を指導する立場に立ってしまうのは、社会にとってはよくないように思える。 出世をするために、裏口入学(職)を引き受けるなど、かえって、人を皆、悪の道に引き込んでいることになってしまうだろう。なんのための出世なのか? もっと真剣に考えるべきだろう。 恐らく、この悪人たちの上層部も悪魔のような人格者なのだろう。正体みたりである。先生と呼ばれる身分でありながら、平気で不正を行うなど、悪魔でなければ出来ないことである。人の信頼をどれだけ裏切っているのか?想像すべきであろう。 たとえ、会社組織のトップに立ったって、定年過ぎればただの人なんだし、なにより、いくら名誉と金を溜め込んでも、死んだら人生は終わりということなのである。墓場まで、名誉と金銭をもっていくことはできない。このようなエゴイストは、面白みのない、嫌な奴だったなと思われるだけなのだ! それにしても、日本人の感覚は道徳的に麻痺してしまったように思えてしかたない。赤信号皆で渡れば怖くないと、コメディアンが日本人の特徴として、お笑いネタにしたが、正しく、日本人の恥の文化が消え、恥さらしの団体活動だけが跋扈している。 食品偽装にしろ、官僚腐敗にしろ、政治汚職にしろ、汚いことをやっていない日本人の方が少ないというのは、どういうことなのだろうが? 汚い事が、何か良い事のように言われているのは、どういうことなのだろう? 汚れ役が、美化されるのは、どういうことなのだろうか? そのような汚れ役がいないと、日本人というのは、面子を保つ事はできないのだろうか? 情けなくて仕方がない。 このような日本人は、自分がして欲しくないことは、他人にすべきでないと、教わらなかったのだろうか? 良い事は自ら進んで行うという勇気を、日本人は知らないのだろうか? 悪いことを率先してやって、自らを美化して、ノスタルジーに浸るなど、ただ勇気のない、弱虫だっただけじゃないのか? 他者を蹴落としてまで、悪魔に褒めて貰いたかっただけじゃないのか? ただ出世という報酬が欲しい為に、誘惑に負け、悪事を行っただけだろう。 あ~ぁと、溜息が出る腐った事件である。このような先生たちに落とされた生徒をむしろ褒めてやりたいぐらいである。日本は嫌な社会になってしまった。 皆汚職まみれで、汚職やっていない奴がいないから、誰かが汚職の罪を背負って、後はチャラなんて思っている日本人は、究極のエゴイストであることは確かである。それ故に、このようなエゴイストは、地獄にいくことは確実である。 なぜなら、地獄は悪い事ばかりをやっている連中の集まりで、悪い事を競いあっているからである。そのような世界が自分にあっていることを宣言しているようなものである。自ら宇宙の牢獄に志願しているようなものである。 汚職塗れの世界で、永遠に生き続けることはできない。いつか勇気をもって抜け出さなければ、永遠に消えてしまう、永遠の死たる存在となる。 このような非常時に、ノーテンキに総理大臣は71歳の誕生日を祝っているんだから。全く、日本が腐ってしまっても頷けるところだろう。 この事件は、日本人の集団性の悪い典型である。西洋人が、日本人を上回っている理由があるなら、西洋人には、このような集団性はほとんど皆無なのである。彼らは、悪いことでも、集団でなく、単独で行うのが特徴だからである。 そして、この集団性が、東洋が、西洋に対して引け目を感じる点で、劣っている一点でもある。 そのうち、日本人が3人集まると、悪事がはじまるという諺ができてしまうだろう。 捕まっても、皆やってるからという理由を持ち出す、道徳観念のない、幼稚性がここに隠されているのである。 誰かに罪を被せたからといって、罪がなくなるわけではない。罪は一層深いものとなり、深い傷となる。罪を許せるようになるには、自らの罪を認め、果てしなく奉仕し、懺悔するしかない。隠すのではなく、罪を明らかに釈明し、懺悔で赦しを乞うしかない。 たとえ、外面的にそれで済んでしまったとしても、悪を行ったという内面性は、一生拭えないのである。天は、内面を通して、見ているから、どのように天に申し開きをするのだろうか? 自分の中の善を感じる感性を貶めてしまえば、永遠に善を感じることはできないのである。 あなたの主なる神に仕えよ! 外面に囚われてはならない!!
2008年07月17日
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今日、しばしば、特に、間違って理解された神智学の基盤から(この事に対する警告が与えられることほとんどないが)、次のように告げられる。 「外界の中に神的存在を見い出すことはできない、何故なら、「神」は、人間の内にあるのだから。ただ、内なる生活への正しい道を取ればよい。そうすれば、そこに「神」を見い出すだろう」、と。 ある人物までもが、このような事を言うのを聞いたことがある。その人物は、聴衆に次のように言って、ご機嫌を取るのを好んでいた。 「宇宙の偉大な秘密について何も学んだり経験したりする必要はない。自身の中を見るだけでよい。そこに「神」を見るのだから」、と! 真実に近づくには、この事とは反対の観点を明確にする必要がある。ある中世の思想家が内なる献身について言うべき正しい事柄を見い出したが、実際、それは、その適用範囲内にある限り、正当なものである。決して忘れてはならないのは、不真実が害を及ぼすのではないということである。何故なら、魂は、直ぐに不真実を検知するからである。 もっと悪いのは、ある条件下では真実だが、間違って適用された場合には、完全な偽りになるような陳述である。 「自身の内に「神」を求めなければならない」というのは、ある意味で真実だが、正に真実であるが故に、もしも、その範囲内に留められなければ、それだけ余計に害となる。 ある中世の思想家は次のように言った。 「自分の家の中に確かにあると分かっているのに、その必要な道具を、誰が家の外に探すだろうか? そんなことをするのは愚か者だろう。同様に、「神」についての認識を獲得する装置が、自身の魂の中にあると分かっているとき、その装置を外界の中に探すのも愚か者である。」 彼が使っている言葉、道具、或いは装置に注意して欲しい。自分の魂の中に探すべきものは「神」自身ではない。「神」は、そのある装置を使って探すことになる。そして、少なくとも、その装置は外界の中に見い出されることはない。その装置は、魂の中に、真の祈りを通して、様々の段階の神秘的な献身、瞑想、そして集中を通して発見される必要がある。 この装置の助けを借りて、世界の領域に近づかなければならない。そのとき、至るところに「神」を見い出すだろう。何故なら、「神」は、世界の全ての領域と、存在の全ての段階に顕現するからである。このように、その装置を、自身の中に求め、そして、その助けをかりて、至るところに「神」を見い出すべきである。 今日では、「祈り」の本性について、このような観察を行うことは一般的ではない。一体全体(と人々は言う)、何を願うにしても、「祈り」が何かを変えられるのか? 世界の経過は必然の法則に従っていて、それを変えることはできないが、もし、変える力を認めたいのであれば、その力を、その力が存在する場所で、探さなければならない。 いま、「祈り」の力を人間の魂の中に求めた。そして、その力が、その魂の前進(進化)を助けるものである、ということを見い出した。そして、世界の中で働いているのは精神(想像上の抽象的な精神ではなく、実際の活動的な精神)であり、人間の魂は、その精神の領域に属すことを知る人は、世界の中で働いているのは、普遍の法則に従う物質力だけでなく、また、精神的存在たちも、そこで働き、ただ、その活動は通常では見ることができないということを知る。 もし、精神生活を「祈り」を通して強化するなら、後は、その効果を待つだけである。つまり、精神生活は、確かにやって来る。とはいえ、「祈り」の効果を外界において追求できるのは、まず、「祈り」の力を現実(真実)のものとして認めた人だけである。 この事を本当に認める人は、次のような実験を試みてみるのもよい。「祈り」を退けていた十年間をずっと振り返り、そして、「祈り」の力を認めていた次の十年間を振り返る。それから、これら2つの期間を比べてみるなら、「祈り」が魂の中に注ぎ込んだ力の影響によって、人生の経過が、いかに変化したかをすぐに知るだろう。「祈り」の力はその効果により明らかにされる。 「祈り」の力を呼び出すために何もしなければ、その存在を否定するのは容易である。自分の中で、「祈り」の力を有効なものにしようと、してこなかった人が、どうして、それを否定できるのだろうか? もし、光を点火し、求めることをしてこなかったなら、その光について知るといえるだろうか? 魂の中で、そして魂を通して働く力について、その認識を学べるのは、「祈り」を利用することによる。 どんなに公平な議論をしても、「祈り」がより広い範囲で有効になるには、まだ期が熟していないということを認めないわけにはいかない。参加者全ての力が合流するような集団的な「祈り」の中には、高められた力と、そのため、高められた現実(真実)の強さがあるというような考えは、今日の思考の把握するところではないだろう。 だから、「祈り」の内なる本性に関して、魂の前に、いま我々がもたらしたもので満足しなければならない。そして、それで十分なのである。というのも、この事を理解する人は、この事を確かに見通すことができるが、今日では、「祈り」に対して、容易に多くの異議が持ち出されるからである。
2008年07月17日
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私(シュタイナー)の小冊子、「主の祈り」の中の七つの祈願が、世界の全叡知の包含を説くことをみつけるなら、次のように言いたい気持ちになるだろう。 「この小冊子の中では、七つの祈願は、宇宙の深い源泉を知るようになった人にだけ、理解できることが告げられている。だが、明らかに、素朴な人は、その「祈り」を繰り返すときにも、その「祈り」の深みを推し量ることはできない」、と。 しかし、「祈り」の深みを推し量る必要はない。主の「祈り」が存在するには、包括的世界の叡知が、人間と世界の最深の秘密と呼ばれるものを言葉の中に定着させる必要があった。深い秘密が主の「祈り」の内容なので、その深みを理解できない人々にさえ、その言い回しを記述できる。 実際、この事が真の「祈り」の秘密なのである。「祈り」は、世界の叡知から引き出される必要があるが、だからこそ、理解できなくても、効果をもたらす。その事を理解できるようになるのは、高次の段階に上昇するときである。 そして、「祈り」と神秘主義は、そのための準備なのである。「祈り」は、神秘主義の準備となり、神秘主義は、瞑想と集中の準備となる。そして、その地点から、我々は人智学の真の働きへと向かう。 「祈り」が真に効果をもたらすには、それを理解する必要がある、と言うなら、それは嘘である。一体、誰が、一本の花の叡知を理解できるだろうか? 一本の花の叡智さえ理解できないにも関わらず、皆、花の中に喜びをみつけることができる。同様に、「祈り」の創造の中に、世界の叡知が入り込んでいるなら、その秘密が把握できなくも、「祈り」は、その熱と光を魂の中に注ぎ込むことができる。 しかし、「祈り」が叡知から創造されたのでないなら、「祈り」は、この力を有することはないだろう。「祈り」の中の叡知がどれほど奥深いものであるかは、その効果によって示される。 魂は、この力の影響下に、真に、自らを発達(進化)させることができるが、真の「祈り」は、我々がいかなる発達(進化)段階に到達していても、何かを与えてくれることもまた真実である。 おそらく、「祈り」という言葉以上のことを何も知らないような、最も素朴な人であっても、その「祈り」が、その人の魂に及ぼす影響を受け取ることができ、そして、高みへと上昇させる力を呼び出すことができるというのが「祈り」なのである。 (確か、法然が、念仏を理解しなくても、念仏を唱えるだけで救われると説いたが、念仏を祈りとすれば、シュタイナーはその事を言っているようである。) しかし、我々がどんなに高い段階に達していたとしても、1つの「祈り」で終ることは決してない。それは我々を更に高い段階へと絶えず上昇させ、そして、主の「祈り」は単に語るだけではない。それは神秘的な心の炎を呼び出すことができると同時に、より高次の瞑想と集中への主題である。この事は他の多くの「祈り」についても言えることである。 しかし、中世以降、何かが前面に出てきた。それは、「祈り」の純粋さと、それに伴う心の状態を損なう一種のエゴイズムである。 もし、我々が「祈り」を、多くのキリスト者達が中世を通じて行い、そして、おそらく今日でも行っているように、自身の中に引きこもり、そして、自身をより完全にするという目的だけをもって、「祈り」を利用するなら、そしてもし、我々が受け取っている何らかの光をもって、周りの世界に目をやることに失敗するなら、なんであろうと、そのとき、「祈り」は、我々を世界から切り離し、我々を、世界の中の彷徨い人であるかのように感じさせることになるだろう。 これは偽りの厭世主義や隠遁に関連して「祈り」を用いてきた人たちにしばしば起こったことである。これらの人々は、薔薇の意味で完全になりたいと望んだわけではない。薔薇は庭に美しさを付与するために自らを飾るが、他のためではなく、自分自身のために、自身の魂の内に祝福を見い出すために行ったのである。 自分の魂の中に「神」を求め、自分の得たものを世界にもたらすことを拒否する人は誰でも、自らの拒絶が報復として、自分に返ってくるのを見い出すだろう。 そして、内なる熱を与える「祈り」だけを知っている聖人や神秘家の多くの著作の中で(スペインの神秘家、ミゲールデモリノスの著作の中でさえ)出会うのは、魂が内なる「祈り」を通して完成を求め、自分が「神」であると考えるものへの完全な帰依を求め、経験する、あらゆる種類の情熱や衝動、戦い、誘惑や荒々しい願望に関する注目すべき記述である。 もし、誰かが一方的な方法で「神」を見い出し、精神世界に近づこうとするなら、もし、神秘家が、「祈り」に内なる熱に導く種類の献身だけをもたらし、光へと導くもう1つの種類の献身をもたらさなければ、そのもう1つの側が復讐する。 もし、「私が後悔と羞恥の感情をもって過去を振り返り、私の中には何か偉大なものがある、しかし、私はそれに十分な見通しを与えなかった、しかし今、私はそれを自らに浸透させ、私を完全にする」、と自分に言うなら、ある意味、正に完全性(完成)の感情が生じる。 しかし、そのとき、魂の中に残る不完全さが、抗力に変化し、その分余計に激しく、誘惑や熱情の形で荒れ狂う。 しかし、内なる熱と親密な献身の中で、自らに集中した魂が、露わになる全ての働き、光を求めて努力する全ての働きの中で、「神」を求める瞬間、魂は、魂自身から踏み出し、狭く、利己的な自我から目を逸らす。そして、情熱の嵐は静まる。 神秘的な献身と瞑想に、エゴイズムが入り込む余地を与えることが、これほど悪いことであるというのは、以上の理由による。 (この情景は、前回紹介した、ヤコブの一夜の格闘からのイスラエル獲得の経験を彷彿とさせる。献身を内ではなく、祈りによって外に求めるのが正解なのだろう) もし、「神」を見い出すことを欲し、単に自身の内に留めておくためにのみ、欲するなら、それは、我々の最も気高い努力の中に、不健康なエゴイズムが忍び込んだことを示している。そのとき、そのエゴイズムは、復讐するだろう。 我々の内に「神」を見い出した後、内的に獲得したものを、思考と感情、意志と行いを通して、世界の中へと注ぎ出すときのみ、癒されることになるだろう。 (とにかく、祈りにエゴイズムは禁物ということである。つまり、自分のためでなく、他者のために祈ることが基本なのだろう。金持ちになるようにというのはダメで、家族が幸せで暮らせますようにという感じである。そのために、私は努力を惜しみませんという一種の決意表明なのだろう。宣誓に近い。)
2008年07月16日
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もし、人が、夜の闇に囲まれ、どこかに立っていたとすると、打ち捨てられ、自身の中に押し込められているように感じるだろう。しかし、朝が光をもたらすとき、その人は解放されたように感じるが、この解放を、自身の運命から逃げ出すのではなく、最良の望みや情熱を外界にもたらすかのように、「祈り」のなかに希望を見い出す人は感じることができる。 同様に、我々を、自身から遠ざける世界の、自らの放棄が、我々を、自身に結びつける「祈り」の熱により、克服されるのを感じることができる。 そして、この「祈り」の熱を、謙遜の感情へともたらすとき、それは光になる。そして、今、我々が、自身から歩み出て、自身を外界に結びつけ、それを眺めるとき、もはや、未知なる外界によって引き裂かれ、疎遠にされるのではなく、我々の魂から、その最良のものが流れ出て、我々を、外界から、我々の上に輝く光に結びつけるように感じる。 (正に、万物に仏が宿るという仏教の教えは、謙遜の感情につながるものであろう。謙遜の感情が霊光であり、万物に仏をみるともいえる。) これら2つの「祈り」の形式は、概念というよりも、イメージの中で、よりよく表現される。例えば、旧約聖書にあるヤコブと、その魂を震撼させる夜の試練に関する物語に思いを馳せることができる。ヤコブは、まるで自身が世界の様々の圧力に曝され、最初、魂を失われ、取り戻すことができないような形で、目の前に現れる。 自身をみつけようと努力するとき、我々の高次の自我と低次の自我の間の衝突が引き起こされる。そのとき、我々の感情は大きく波打つが、「祈り」は、自分の道を歩み通すのを助け、ついには、ヤコブの物語の中で、予め示されているような瞬間、すなわち、太陽が昇り、ヤコブを照らすとき、夜中じゅう続いた苦しみが解消され、調和がもたらされた瞬間が来る。この事が、実際、「祈り」が、魂のために為せることなのである。 (このヤコブの一夜の格闘は、ヤコブがイスラエルという神に勝つという名を与えられる聖書の記述のことをいっているのだろう。また、同様の話は、ヨブの試練の記述にもみられる。 その話とは、ヤコブが、ある夜、一人でいると、何処からか見知らぬ男が現れ、ヤコブに組み付き、取っ組み合いの相撲となる。2人の格闘は一晩中続き、夜明け近くになって、その男は去ろうとしたが、ヤコブはしがみつき、「祝福してくださるまで離れません」としっかりつかんだままだった。 すると、相手は、「お前の名はヤコブではなく、神に勝つというイスラエルという名で呼ばれる」と言い残して去った。その男とは、神だったというものである。 つまり、ヤコブは、「祈り」により神を味方につけ、自分のなかの高次の自我である神的存在から、低次の自我を克服し、そこに調和をもたらしたために、イスラエルという神と同等の名を手にすることができたわけである。つまり、永遠の魂の存在に気づいたというわけなのである。) この光の中で見るとき、「祈り」はいかなる迷信からも自由である。何故なら、「祈り」は我々の中の、最良のものを取り出し、魂の中の、1つの力として直接働くからである。このように、「祈り」は、丁度、神秘的思索が、精神的探求の準備であるように、その神秘的思索の準備なのである。この「祈り」に関する我々の議論は、これまで何度も述べてきた、次のような事を例証するだろう。 つまり、もし、我々が、神秘的方法によって、自身の中に、神的存在、いわゆる「神」を見い出せると信じるなら、間違いにつぐ間違いを繰り返すことになるということを例証するのである。この間違いは、中世を通して、神秘家により、或いは一般のキリスト者によってさえも、何度も繰り返されてきた。 そのような間違いが生じるのは、「祈り」の実践が、エゴイズムによって浸透されるようになったからである。エゴイズムは、魂に対し、次のように強いる。 「私は(神秘的方法により)益々完全になる、そして、私自身が完全になること以外は考えないようにするのだ」、と。 間違って指導された神智学の形態が、 「あらゆる外界から、目を背けさえすれば、我々の中に「神」を見い出すことができる」、 と断言するとき、この利己的な願望の残響を聞くことができる。 「祈り」には2つの形式があることを見てきた。1つは内なる熱に導く。未来に向かって、謙遜の感情に色づけられたもう1つの祈りは世界へと導き、それにより、開明と真の認識に導く。 (1つの形式は執着心をなくす仏教でいう南無阿弥陀仏であり、もう1つの形式は、不動心を完成させる仏教でいう南無妙法蓮華経であろう。祈りにより、我々はまずこれまでの自分に別れを告げ、祈りにより、新たなる未来に希望を見い出さなければならない。) 「祈り」をこのように見る人なら誰でも、通常の知的な方法によって獲得された知識は、この別種の知識に比べると、不毛であることがすぐに分かる。 「祈り」の本性を知る人は、魂を自らの中に取り戻すことに精通するだろう。そして、そのとき、魂は、思考を現在の瞬間から引き上げ、過去と未来に捧げることによって、世界の破壊的な多様性から自らを自由にし、内的に集中する。 もし、この状態について知るなら、我々が持つ事が可能な、最も繊細な思考と感情だけが、魂の中にあるときにも、恐らく、これらさえも消え去り、ただ2つの方向、すなわち、過去から自らを告げる「神」と、未来から自らを告げる「神」とを指し示す、基本的な感情だけが残り、もし、そのとき、我々がこの感情の中に生きるようになっているなら、偉大な瞬間が、その魂に訪れ、魂が自らに次のように言うのが分かるだろう。 「私は、私の賢い思考が、私の意識の中に創り出した全てと、私の感情と知覚がもたらした全てと、そして、私の意志の力と、私の教育が設定した全ての理想から、目を背け(逸脱し)、これら全てを一掃した。私は、私のなかの最も高次の思考と感情に没頭し、そしてついに、これらさえも、今、消し去った。そして、既に述べたような基本的な感情だけを保持している」、と。 もし、この段階に到達しているなら、純粋な目で見るとき、自然の驚異が、目の前に現れるのと同じ形で、これまで知られていなかった新しい感情が、魂の中に輝き込むのが分かる。未知の意志衝動と理想が魂の中に湧き上がり、その基盤から、最も実り多い瞬間が生じる。 「祈り」が、手近な能力を超えたところにある叡知を、最良の意味で我々に吹き込むことができる、というのは以上である。つまり、それは、我々がいまだ達成していない感情や知覚の可能性を、我々に与える。そして、もし、「祈り」が、我々の自己教育を更に進めるなら、それは、そこまでいまだ上昇できないでいる意志の力を我々に付与することができる。 確かに、もし、この全てを成し遂げるなら、まず、最も繊細な感情と衝動を、魂の中に養成し、育む必要があるだろう。そして、我々は、ここでもまた、時代の最初期における最も厳粛な機会に、人類に与えられた「祈り」に対して注意を促す必要がある。
2008年07月15日
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ゲーテがファウストに、次のような偉大な言葉を、メフィストフェレスに向けて語らせたのは、自らを現在から上昇させることが、それほどまでに必要だったからである。 もし、急ぎ過ぎ去る現在という瞬間に「拘泥する」ならば、私は叫ぶ、「お前の勝ちだ!」 これは次のことを意味している。 もし、私が現在に生きることに満足するなら、そのとき、お前は私を足かせにつなぐがよい、 私を消滅させるがよい、それが何ほどのことであろうか! ここでは、次のように言うこともできる。 「ファウストが、彼の同行者、メフィストフェレスの足かせから逃れるために乞うたのは、「祈り」の力を求めたことにある」、と。 従って、「祈り」の経験は、一方では、過去から現在まで、その歩みを進めてきた狭量な自我の観察へと導くと共に、我々の中には、我々がこれまで用いてきたものよりも、いかに遙かに多くのものがあるかをはっきりと示し、他方では、我々を未来へと導き、これまで自我が把握できたものに比べて、いかにもっと多くのものが未来から流れてくるかを示す。 もし、この事を理解するなら、あらゆる「祈り」の中に、自身を超えさせる力を見い出すことになる。祈りとは、現在あるような自我を超える力を、我々の内に点火することである。 そして、もし、自我が、この衝動に捉えられているなら、既に、自身を発達させる力をもち、我々の内には、今まで用いてきたもの以上のものがあるということを過去が教えるなら、「祈り」とは、神的存在が、我々を満たすように求める、その神的存在に対する叫びなのである。 感情と知覚を通して、この認識へと至ったとき、「祈り」を、自我の発達(進化)を助ける力の1つとして数えることができるようになる。 この事は未来へと向けられる祈りについても同様である。もし、近づきつつある未来に関して、恐れと不安の中に生きるなら、「祈り」がもたらす謙遜の態度に欠けている。我々の運命は、世界の叡知によって秩序づけられている、ということに、気づき損なう。しかし、もし、謙遜と献身をもって未来を迎えるなら、実り多い希望の中で、それに近づくことになる。 我々を小さくするように見える謙遜が、魂を豊かにし、より高い発達(進化)段階に運び上げる強力な力となるというのは、以上である。 いかなる外面的結果も「祈り」に期待する必要はない。何故なら、「祈り」を通して、魂に、光と熱の源泉を植え付けたことを知っているからである。それは、未来との関係では、魂を自由にし、未来の暗い子宮の中から現れ出る、いかなるものをも受容できるように配置する光の源泉で、確かに、過去においては、自我の中で、神的要素を実りへともたらせなかったけれど、今、それが我々の内で有効な力となるように、我々の感情を、それで満たした、ということを気づかせてくれる、熱の源泉なのである。 過去を振り返ることから湧き上がってくる「祈り」が、「祈り」をその真の意味において理解する人全てにより語られる、あの熱を生じさせる。そして、内的な光がやって来るのは、未来に向けた謙遜の「祈り」を理解する人たちのところである。 (執着心を捨てる→無我→熱の発生、不動心の完成→謙遜→光の到来) この観点から、最も偉大な神秘家達が、内なる瞑想を通して、達成しようと望んだことに対する最良の準備を、神秘家の「祈り」への没頭の中に見い出したことは、全く驚くにあたらない。神秘家は、彼らの内の小さな閃光が明るく輝くようになる地点にまで、魂を導いた。真の「祈り」が与える、素晴らしい親密さの感情への道が開けるのは、正に、過去への参入を通してなのである。 外界に関する関心は、丁度、過去において、我々の内の力強い要素、すなわち自身を意識した自我の出現を妨げたのと同じように、我々を自身から疎遠にする。我々は、外の印象や様々な外の生活からの要請に明け暮れた。それらは、我々をバラバラに引き裂き、静かさの中で、我々自身を回想できないようにする。これが、我々の内にある力強い神的な力の展開を妨げたものなのである。 しかし、もし今、親密な「祈り」の中で、神的な力を展開させるなら、外界の破壊的な影響に曝されることがなくなるだろう。我々は、自らを内なる祝福で満たし、真に神的存在と呼ばれる、素晴らしい内なる熱を感じるだろう。 外界の中で、自己を失いつつある魂は、内なる熱の経験を通して、自らを奮い立たせることができるようになる。「祈り」の間、我々は「神」の感情の中で暖められるが、熱を感じるだけでなく、心の底から、自身の中で生きるようになる。 他方、外界の事物に向かうときは常に、未来の暗い子宮と呼ばれてきたものに包含されることを見い出す。詳細な観察から、外界で出会う、あらゆるものの中には常に、未来のヒントがあることが示される。我々に降りかかってくるものに関して、恐れや不安を感じるときには、常に何かが、我々を遠くへ押しやり、外界は、貫き難いヴェールのように、目の前に立ちはだかる。 もし、未来から我々へとやって来るものが何であれ、それに対する献身的な謙遜の感情を発達させるなら、あらゆる外界の事物に、この感情が生じさせる確信と希望をもって、出会うことが可能となる。そして、そのとき、我々は、全ての事物の中には、叡知の光が、我々に向けて輝いている、ということを知る。 この事が可能でないとき、我々が行き当たる、全てのものにおいて、我々の感情の中に広がる闇に出会う。だから、献身的な帰依の「祈り」の中で、我々にやって来るのは、世界全体から光が輝き出ることに対する希望なのである。
2008年07月14日
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書店でふと、沖正弘著光文社の「ヨガの喜び」という本を手に入れてみた。読んでみて、非常に納得いく本である。現在も読書中だが、お薦めの本だと思ったので、ここで軽く紹介したい。 「ヨガはただ事実を言うだけだ ヨガは特別な教えではない。ことさら神秘的に謎めかすようなものでも、絶対的にありがたがるようなものでもない。 ヨガは、人間の考え方や行動のしかたの『基本であり結論』『真理であり事実』を示したにすぎないからだ。たとえば、ヨガでは誰とでも仲良くせよ、と言う。これは子供でもわかるような、人間生活の当たり前の基本だ。そのまま、大人にだって通用する。 また、人を愛せとも言う。言葉だけだと、全く抽象的でなにがなんだかわからないが、例えば、こう考えてみよう。あなたは人を愛するのと、憎むのと、どちらがいいか。どちらが気持ちがいいか、いずれが楽しいか。 …憎むより愛するほうがいいに決まっている。これが基本であり結論ということだ。幼稚園で教えることより、大学で教えることは難しいが、教えることの基本は同じであるのと似ている。 体でも同じことが言える。ヨガの動禅(アサンス)は、こういう姿勢と動作が体を安定させるという形を集めたものである。こういう体の動かし方をしていれば、楽だし、心が落ち着くし、病気になることもないという考えだ。禅とは安定の意味である。 最高の心身安定法を、呼吸、栄養、頭や体の使い方などで説いているのがヨガだ。」 ということを明快に、著者はヨガの真髄として説いている。 つまり、端的にいえば、ヨガとは、愛することである。神秘学では、ヨガは、古代インドのヨーガ哲学を源流としているとされ、ヨーガ哲学等は、ノア(マニ)が、アトランティス時代の大洪水から逃れてきて、古代の神の教えを集大成しまとめた、いわゆる秘教からきているという。その元の教えは、ヴェーダンダ(ヴォータン、悟りという仏陀からきているとも?)呼ばれ、現代ではマニ教として一部伝わってもいる。 こんなことを書くと、神秘的で、幻想的だが、神の教えとは、要するに、人類はお互いに愛し合って協力し、平和な世界を築きなさいということで、そのための助言なのである。 「病気をありがたいと思うこと あなたは、いま自分を『こんなはずじゃない。もっと生き生きとしていたい。』と思っているのかもしれない。私もヨガをはじめるまえは実はそうだった。自分の心や体は自分のものでありながら、これを自分の思うまま動かすことはむずかしい。 悪い癖や悪い習慣、そのままにしていれば、どんどん病気になってしまう。それでも人間は、それを訓練によって克服できる。訓練で体と心に、いちばん自然な状態をおぼえさせれば、人間はそのとおりに動くことができる。ヨガ行法は、こうして、自分で自分を支配する。 ヨガでは、『生命は絶対に病気に冒されない。いつも人間は健康でいられる。』と信じている。生命の働きは、健康を守り、維持し、回復することを繰り返しているのだから、人間は病気になるはずはない。病気は健康を守る生命の働きの現われである。 しかも、生きていることは、それだけで自然なこと、バランスのとれていることだ。野生の動物には、寿命があっても、人間のような不自然な病死はない。我々が患うということも、実は自分の生命力が不自然さを嫌って、自然を取り戻そうとするバランス維持の働きだと思うべきだ。病気に罹ったら、自分の不自然状態を教えてくれる生命の働きに感謝しよう。 ヨガは、このような人間が本来もっているバランス維持の力を最大限に高め、生命の中で実行する行法だ。バランスを心と体に分からせれば、人生はこれまでの数倍楽しいものになる。」 とも、この著者は、病気には感謝しなさいと説いている。いわゆる病気は、愛のムチなのである。 この事を神秘学で解釈すると、この世の感覚、つまり生きているという感覚は、全て肉体に負う。例えば、肉体をいわば人生の観測装置と考えてみればよい。その観測装置は、真善美というバランスを観測する装置で、その観測機を使って、真善美を観測したときは、喜びという数値が、観測者に与えられ、それとは逆のバランスのない偏った情報を入手すると、観測者、つまり魂に苦しみという数値が与えられるものと考えてみる。 しかも、その観測装置を上手く構築するのは、観測者である魂の役目で、神が元々その設計図を与えてくれ、設計図通りにバランスよく管理するのが観測者の魂である。また、寝ているときに、神の使い、天使も、メインテナンスしてくれているとする。起きているとき、つまり生きている感覚から、真善美のバランスを観測するのは、我々の管理責任で、いわば宿命と考えるとよい。この宿命をいかに、喜びという数値につなげるかが、ヨガといってもよいだろう。 さて、神の世界の天国にいるときは、真善美しかないので、つまり、全てが黄金律のように、バランスがとれたものなので、これを自然と呼ぶなら、不自然なものはなかったから、観測者は、観測装置を使うことなく、観測は真善美で満たされ、喜びに溢れていたことになる。これが聖書でいうエデンの園である。 しかし、それでは、人間が自ら真善美を選び出す自由がないわけで、ただ神の命令に従い、与えられている存在で、独立した意志とはいえないわけである。真の真善美とは、自らが選択した意味において、真の真善美であり、自らのなかにつくりあげなければ、確固とした存在にならないわけである。すぐに誘惑に負け、堕落してしまう精神ではダメなのである。 だから、人間は、自らで真善美を選び出すために、神から与えられた設計図を基に、自分なりの観測装置をつくり、真善美を探す旅に出るわけである。悪魔の誘惑に負け、肉体を身にまとう存在となり、修行の終わりの死を経験することになる。これが原罪で、俗に言う現世ということになる。 現世には、偏った様々な誘惑や、自由に曝されているわけである。そこは、神々のバランスの世界から離れるからこそ、バランスのない悪魔の世界になる。この世は、悪魔に満ち溢れているわけで、あらゆる悪魔は偏屈なので、偏りを誘惑してくる。 しかし、人間にはそれを選択する自由の意志がある。人間が拒否し我慢し選択しなければ、悪魔が取り付くこともできない。しかし、詐欺師のような悪魔の誘惑に負け、自由がいきすぎ、放縦となると、病気に罹ることにもなる。だから、病気は、悪魔に意志を売り渡していますよという警告、イエローカードになる。 長々と書いたが、病気とは、観測装置が、バランスを見い出せないときの警告だと思えばよいのである。常にバランスを見い出し、誘惑に負けない強靭な肉体をつくりあげるための精神の鍛錬法が、ヨガだと思えばよいのだろう。
2008年07月12日
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エコ問題を語るのに、贅沢三昧のサミットとは、世界首脳の頭、いや精神はよほど腐ってしまったのだろう! 堕落サミットと呼ぶべきである。もはや人類の問題を解決できるような首脳たちではない。ただただ腐った脳である。それじゃ、まるで動物園ですよ! それでも、動物は愛嬌があるから、獣園というべきだろう。 さながら、洞爺湖獣園というべきものだったようである。トウヤコと読むのではなく、ホラジジウミと呼ぶべきだろうね。法螺時事(爺)膿だろう!! 法螺時事膿オミットと変えるべきである。世界から除外してほしい連中ばかりだからである。ホラ吹き福田爺がいかに無能であるかを世界中に証明した出来事、催物といえる。無能サミットの火消しに不倫騒動じゃ、全くこの国の腐敗堕落した精神を改善するのはもはや不可能というべき深刻な事態に至っているようである。 しかし、福田というのは、どうしょもない至上最低の総理大臣のようである。権力欲しかないのだろうね。もういい加減にして欲しいね。オラウータンさん!! 地球環境をどうのこうの言う前に、お前さんのおツムの環境汚染を心配しろよ! 他人任せで、苦労知らずで、貴族気分で贅沢浪費ばかりするから、脳が破壊され、精神が堕落するのだよ! 真っ暗闇の地獄にいって、オラウータンのように泣き叫んで、嘆いても手遅れだよ!!
2008年07月12日
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では、未来からの流れは、知覚的な感情の意味で、何を語るのか? それは、より明確で、強い言葉で語りかける。それは、恐れや心配、希望や楽しみといった感情に直接関わるからである。というのも、未来に関する出来事はまだ起こらず、ただ、それに結びついた感情だけが魂の中に打ち込んで来るだけだからである。そして、この未来からの流れが、我々の期待とは異なる影響や責任をもたらす場合もあることを知っている。 もし、自身を、それがいかなる経験であろうと、未来のいわゆる暗い子宮から、確実に自分に向かって、やって来る出来事に正しく関係づけることができるなら、その出来事がいかに絶えず魂を刺激するかということを理解する。 魂が、未来においては、現在よりも、いかに遥かに豊かに、遥かに広い範囲を見通すようになるかということを、つまり、既に、近づきつつある未来に、我々は関係づけられ、我々の魂は、何をもたらすとしても、それに調和しなければならない、ということを感じる。 もし、このように、過去と未来とが、現在へと流れ込むことを観察するなら、魂の生活が、いかに自身を超えて成長するかを理解するだろう。魂が過去を振り返る際に、現在へと働きかける過去からの力や、魂自身よりも大きな力を意識するとき、この認識は、たとえ単なる評価であっても、後悔や恥じらいをもって振り返るものでも、神的な存在に対する尊敬の念を、その中に引き起こす。 そして、この尊敬の念、つまり、自身の上に働きかける、その念を感じながらも、意識的に把握できる以上の尊敬の念が、1つの祈りの形式(というのも、2つの形式があるからだが)を引き起こし、それが魂を神との親密な関係へともたらす。 というのも、もし、魂が、最も内なる平静の中で、過去により、引き起こされる感情に自らを捧げるなら、それは、今や、いままで使ってこなかった力、自我をもって浸透しないままになっていた力を、現実のものにすることを欲し始めるからである。 そのとき、魂は自らに次のように言うことができる。 「もし、この力が私の内にあるなら、それは今や別のものになっていなければならない。私が希求する神的な要素は、いままで私の内なる生活に属してはいなかった。私が自身を、今日肯定できなかったのは、そのためなのだ」、と。 この事を認識できるようになった魂は次のように続ける。 「私は、どうすれば、私の全ての活動や経験の中に、気づくことなく生きていた未知のもの、何故なら、それを私の自我が把握できなかったからだが、その見知らぬものを、自身の中に引き込むことができるのか?」と。 魂が、感情や、言葉、或いは考えを通して、この心の炎の中へともたらすとき、我々は過去に向けて「祈り」を捧げる。この事は、魂が「ひとつの」献身の道を通して、神的存在に近づこうとすることを意味する。 さて、今度は、未知の未来からの流れと共にやって来る、神的存在の煌きについて見てみる。そこでは、異なった心の炎が喚起される。今まで見てきたように、過去を振り返るとき、自身の内なる能力を発達(進化)させてこなかったことに気づく。 すなわち、自身の欠点が、いかに自身の上に輝く神的な光に応えるのを妨げて来たかを見るが、この感情が、過去により促される献身の「祈り」へと導く。 では、同様にして、我々を精神的存在へと上昇するのを制限するような欠点に気づかせてくれる影響のうち、未来からやって来る影響とは何か? その影響を知るには、不確かな未来に直面したときの、魂生活を悩ます恐れと不安の感情を思い出せばよい。この状況において、魂に安心感を与えるものは何だろう? それは、未来の暗闇の中から魂へとやって来るものに対する、謙遜の感情とでも呼べるものである。しかし、この感情が有効なのは、ただ、それが「祈り」の性格をもつときだけである。誤解を避けるために言うが、「謙遜」と呼ばれるような様々な意味のものを賛美しているのではない。「謙遜」の一つの形態、すなわち、未来がもたらすものに対する「謙遜」について述べている(権威主義に対する賛美や、いわゆるゴマすりではない)。 不安と恐れをもって、未来を見つめる人は誰でも、自分の発達(進化)を妨げ、魂の力が自由に展開するのを妨害している。不確かな未来に直面したとき、実際、恐れと不安ほど、この発達(進化)を妨げるものはない。しかし、未来を甘受する結果は、経験にのみ評価される。 では、この「謙遜」とは何を意味しているのか? それは、理想的に、自らに次のように言うことを意味している。 「次の一時間、或いは次の日が何をもたらそうとも、恐れや心配によって、それを変えることはできない。何故なら、それは、まだ見ぬものなのだから。従って、私は完全な内なる平穏、完全な心の平静をもって、それを待ち受けることにする」、と。 (いわゆる仏教や禅でいう、不動心のことだろうか?) 活動的な力とエネルギーを損なうことなく、このように静かでリラックスした形で未来に出会う人は、魂の力を自由に、力強く発達(進化)させることができる。魂が、この迫りくる出来事に対する謙遜の感情に浸透されるほど、徐々に、まるで障害が次から次と崩れ去るかのようになる。 しかし、何らかの命令や、確固とした基礎を持たない気儘な決定によって、この感情が魂の中に呼び出されることはない。それは、未来と、そこで生じる叡知に満ちた経過(プロセス)に向けられる第二の「祈り」の形式の中から湧き出してくる。 この神的な叡知に、自らを委ねることは、来るはずのものは来なければならず、それがある1つの方向、もしくはまた別の方向において、良い影響を及ぼすに違いないという認識を伴う思考、感情、衝動を、我々が何度でも呼び出すということを意味する。 この心の炎を呼び出すこと、そして、それに言葉、知覚、思考による表現を与えることが、祈りの第二の形式、献身的な甘受の「祈り」なのである。 「祈り」への衝動は、これらの感情から来なければならない。というのも、この感情は、魂の中に存在し、基本的には、目前に迫るものから、少しでも自らを上昇させる魂の中で、「祈り」に向けて導くものだからである。 「祈り」の前提条件が整うのは、魂が、その眼差しを移ろいゆく現在から、過去、現在、そして未来を包含する永遠なる存在へと向けるときであると言ってもよい。 (魂を発展させる祈りの形式を、仏教的に喩えるなら、第1の形式が、我執心、執着心を無くすことで、第2の形式が、不動心、信仰心を完成させることといえるのだろう。 例えば、第1形式が、南無阿弥陀仏で、魂のなかの阿弥陀様に救ってもらうことに値し、第2の形式が、南無妙法蓮華経で、自らの魂を永遠の法に帰依させることに価するともいえる。そして最も重要なものは、「謙遜」であることがわかる。 本来、日本文化は、仏教のお陰で「謙遜」の文化であるが、いまでは、謙遜というより、傲慢が蔓延っている。 このように、秘教、密教を学ぶと、顕教の説く意味がわかり、統一的に解釈することができる。)
2008年07月12日
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「祈り」は、何らかの形のエゴイズムに浸透されているときほど、酷く誤解される。なので今回の話では、いかなる宗派からも、或いは、その他の影響からも自由な人智学という光の下に、「祈り」について探求してみる。 そこで最初のアプローチとして、次のように言うことができる。 「神秘家は、自身の神秘的献身によって、どこまでも明るく輝くようになる、ある種の閃光が、自らの魂の中に見い出される、と考え、「祈り」とは、その閃光を生じさせるために意図されるものである」、と。 そして、「祈り」とは、それがいかなる前提から出てきたものであれ、正に、魂をかきたて、徐々に、小さな閃光、つまり、もし、魂の中に小さな閃光があればだが、その煌きながらも隠された閃光を見い出すことで、或いは、閃光を点火させることで、唯一その有効性を証明するものである。 もし、「祈り」の必要性と、その本性を探求するなら、以前の要約でも引用した古いギリシャの聖人、ヘラクリトスの 「汝がいかなる道を探求しても、魂の境を見い出すことは決してできない、魂の存在とは、それほど包括的なものなのである。」 という、普遍的な妥当性をもつ言葉を心に留めながら、魂に関する深い記述へと入っていく必要がある。 最初は、「祈り」の中に、魂の内なる秘密を探し求めるが、「祈り」により、かき立てられる親密な感情は、最も素朴な人でさえ、魂生活の無限の広がりに関して、何らかの示唆を与えることができる。魂が、生なる進化の過程(プロセス)に携わっていることに気づく必要がある。 魂は、過去から来るだけでなく、絶えず未来に向けて旅している。過去からの影響が、現在の瞬間、瞬間へと展開するように、それはある意味、未来からの影響も同じである。 魂の生活を深く洞察する人は誰でも、これら2つの流れ、過去からの流れと未来からの流れが、絶えず魂のなかで出会うことを理解するだろう。我々が過去からの影響を受けているのは明らかな事実である。昨日の活力、或いは怠惰が今日の自分に何らかの影響力を持つことを誰が否定できるだろうか? しかし、過去と同様に、未来の現実性もまた否定すべきではない。というのも、未来の出来事が、まだ生起していないにも関わらず、魂の中に侵入するのを観察できるからである。結局、明日起こりそうな何かに対する恐れや心配とは、一種の未来に関する感情や知覚ではないだろうか? 魂が恐れや心配を経験するとき、その感情という現実が示すのは、それが、過去だけではなく、未来から、現在に向けて急いで来るものを、非常に生き生きとした形で、計算に入れていることである。勿論、これは単純な例だが、魂を探求する人は、未来がまだ存在しないために、現在にその影響があるはずがないという抽象的な論理に矛盾する無数の例を見い出すのに、この恐れや心配は十分だろう。 このように、2つの流れ、1つは未来からの、もう1つは過去からの流れが、魂の中で出会い(自分を観察する人なら、誰がこの事を否定するだろうか?)、2つの川の合流点に比べられるような一種の渦巻きを形成する。更に詳しい観察では、過去の経験から、我々に残された印象が、その印象の中で、その経験を処理するが、そのことが現在あるような魂を形作ってきたことを示す。 我々は、過去に行い、感じ、考えたことの名残りを、我々の内に担う。これらの過去の経験を、とりわけ、その中で活動的な役割を演じた経験を振り返るとき、非常にしばしば、自身の評価を強いることになる。我々は、過去に生起した、ある行為に対し、現在の立場からは同意できないような、過去の行為の幾つかについて、恥じらいをもって、振り返ることさえできるような段階に到達する。 もし、このように、過去を、現在と比べてみるなら、自身の力により、自身から創り出した、いかなるものよりも、遥かに豊かで、遥かに重要なものが、我々の内にある、ということを感じるようになる。もし、意識的自我を超えて、広がる、そのようなものがなかったなら、我々は、自身を非難し、或いは、自身を知ることさえできないだろう。 だから、過去において、自身を形成するために用いてきた、いかなるものよりも偉大なものを、我々の内に有している。もし、我々が、この意識を感情にまで変化させるなら、過去の行為における、あらゆること、つまり、記憶が我々の前に、はっきりともたらす経験を振り返ることができるようになり、そして、これらの経験を何かより偉大なもの、つまり、魂の中にある、我々をして、我々自身に直面させ、そして、現在の立場から、自身を評価させるように導くものと比較できるようになる。 要するに、過去から、我々の中に流れ込むものを観察するとき、我々は、自身を超えて広がるものを、我々の内に有することを感じる。これに親しむことが、我々の内の神についての感情、つまり、我々の全ての意志の力よりも、偉大な何かが我々の中に潜んでいるという感情への最初の目覚めなのである。 このように、我々は、限定された自我を超え、神的、精神的な自我に向かうように導かれる。この事が過去を凝視することから生じ、そして、それは知覚的な感情へと変化する。
2008年07月10日
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前回、神秘主義に関する要約の中で、マイスターエックハルトからアンジェラスシレジウスに至る中世の神秘主義において現れた内なる深化に関する特別な形態について述べた。その特徴は、神秘家が外界から来る経験全てから、自身を自由にし、独立させる方法を求めることにあった。 神秘家は、通常生活に関係する全てを消し去り、魂を自身の中に引きこもらせるときでも、魂自身の世界を、その中にもつことを明らかにする経験へと押し進ませる。この魂の世界は常にそこにあるが、外からの経験が人間をあまりにも力強く照らすため、ほとんどの人々が、気づかないほど弱い光のように見える。 このため、神秘家は、しばしば、これを小さな閃光と呼ぶ。けれども、神秘家は、その小さな閃光を、存在の源泉や、その根底を照らし出す力強い炎へと燃え上がらせることができる。言い換えれば、神秘家は、人をして、自身の魂の道を通り、魂の起源への認識に導くことを確信しているが、それこそ、正に「神の認識」と呼ばれるものである。 いま、同じ要約の中で、中世の神秘家たちが、その小さな閃光を、その本性は不変のままで、いかに自然に成長すべきものかと考えていたことを観察した。これとは反対に、現代の精神的探求においては、これらの内なる魂の力を意識的なコントロール下で発達させることで、イマジネーション、インスピレーション、インテュイションと呼ばれる、高次の形態をもつ認識への上昇が要求されることを強調した。 だから、この内なる献身へと向けられる中世の神秘主義は、真の精神的探求への一種の第一段階として、我々の前に現れる。 もし、自身をマイスターエックハルトの内なる熱情の中に沈めることが可能なら、もし、この神秘主義的な献身が、ヨハネスタウラーに与えた精神的知識の測りがたい力を認めるなら、もし、ヴァレンチンワイゲルやヤーコブベーメが、物質的献身を通して(とはいえ、彼らは明らかに、物質的献身以上に進んでいたが)達成する全てによって、いかに深く存在の秘密へと導かれたかを認めるなら、もし、アンジェラスシレジウスが、いかに、この同じ献身を通して、精神的世界の秩序に関する一般法則への開明的洞察の獲得だけでなく、世界の秘密に対し、その著作の中で、心温まるような美しい表現を与えることができたかを理解するなら、もし、この全てを心に留めるなら、この中世の神秘主義の中に潜む力と深みと、そして、それが、人智学的な道を、自ら辿ることを望む全ての人に、無限の援助を与えることを実感することになるだろう。 このように、中世の神秘主義は、特にこれまでの要約の光に照らされたとき、人智学的探求のための素晴らしく偉大な準備のための学校と見なされるものである。一体、このような神秘主義が、学校とみなされないことなどありえるだろうか? 結局のところ、人智学者の目的とは、その小さな閃光を、自身の内なる力を通して発達(進化)させることなのである。異なるのは、神秘家が、魂の安らぎの中で、その小さな閃光に、自身を捧げ、その犠牲が、自身の調和の中で、益々明るく輝き出ると信じていたのに対し、人智学者は、その閃光を明るい炎へと点火するために、自身の意志に仕えさせ、世界の叡知により置かれた能力と力を使用しなければならないと確信しているという点である。 もし、そのとき、その神秘的な心の炎が、人智学の良き準備となるなら、今度は、神秘的献身のための準備となり、真の意味で、「祈り」と呼ばれる魂の活動になる。 神秘家が、たとえ無意識であっても、自身の魂を、「祈り」に向けて訓練することで、内なる献身に到達できるのと同じように、もし、儀式的な瞑想に向かうのと同様の道に沿って歩みを進めたいと望むなら、真の「祈り」の中に、1つの準備段階を求めることができる。 ここ何世紀かにわたって、「祈り」の本性は、様々な精神的運動によって、実に多様な方法で誤解されてきた。「祈り」に関する真の理解の獲得は容易ではないが、もし、ここ何世紀にわたり、特に利己的な精神潮流が幅広い人々の集団を捉えたという点で特徴づけられることを思い出すなら、「祈り」が利己的な望みや欲望のレベルにまで引きずり下ろされたことは、特に驚くべきことではないとわかる。
2008年07月08日
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そして、いま、神秘主義とは何か?という問いに答えることができる。 その答えとは、人間の魂が、自身の内なる存在の中に、自らを沈潜させることを通して、存在の神的、精神的な源泉を見い出そうする試みなのである。 基本的には、人智学的認識もまた、この神秘主義的な道を取る必要があるが、それには最初に準備が必要で、未成熟なまま乗り出すべきではないことをよく知るべきである。 だから、神秘主義とは人間の魂の中にある正当な衝動に発し、原則的には完全に正当化されるが、もし魂が、最初にイマジネーション(霊視)的認識での進歩を求めなかったなら、あまりに時期尚早な試みとなる。 このときもし、神秘主義によって、通常の生活を深化させようとするなら、自身を十分に自由にし、独立させることができないので、個人的な色合いに染められていない世界像を形成できない、という危険が生じる。 インスピレーション(霊聴)の段階へと上昇するとき、内なる存在を、外界から取ってきたイメージのなかに注ぎ出す。そしてそのとき、神秘家となる権利を獲得する。だから、全ての神秘主義は人間の発達(進化)において、適切な段階で取りかかるべきである。もし、充分な準備ができないうちに、神秘主義的な知識に到達しようとするなら、害となる。 従って、人智学は正当な神秘主義の中に、人智学的探求の真の目的と意図の理解を可能にする段階を認めることができる。この点で、献身的な神秘家の研究から、多くの事を学べるが、神秘家の研究から、そのまま学ぶことはほとんどない。 人智学者が、神秘主義の中に何らかの正当性を認めるからといって、それが更なる進歩の必要性の否定であるとは考えるべきではない。神秘主義が正当化されるのは、それが、我々をある発達(進化)段階まで引き上げ、そのため、その方法が単なる主観的結果を産み出すのではなく、精神世界に関する真実に対して有効な表現を与えるときだけである。 神秘主義的な方法に、未熟なまま没頭することによって引き起こされる危険について、多くを語る必要はないだろう。それには、神秘家が、その内なる存在を外界の中へと成長させるというような方法で、神秘家自身の準備ができる前に、人間の魂の深みへと降りていくことが含まれる。そのとき、神秘家は外界に対して、しばしば自身を閉ざしがちになるが、この事は基本的に、洗練され、隠された形のエゴイズムとなる。 この事がよく当てはまるのは、外界に背を向け、この黄金の気分が、その内面的生活に浸透するとき、その魂の中に溢れる、あの有頂天、意気軒昂、解放の感情に耽る神秘家である。このエゴイズムが克服されるには、自我自らを、外部に手渡し、自我活動が、イメージという象徴の形成により、外界の中に流れ込まざるを得ないときである。 このように、イマジネーション(霊視)的な象徴主義が、エゴイズムとは無縁の真実の表現へと導く。神秘家が、その発達(進化)の過程で、あまりに早く知識を追い求めることによって引き起こされる危険とは、常軌を逸した人、或いは洗練されたエゴイストになるということなのである。 神秘主義は正当化される。そして、アンジェラスシレジウスが次のように言うのは正しい。 汝が神の優越の中で、汝自身を超越するなら、 その時、汝の中で上昇が支配するだろう! 人間が、その魂を発達(進化)させることで、自身の内なる存在に至るだけでなく、外界の下に横たわる精神の王国にも到達するというのは本当である。しかし、その人は十分な熱心さをもって、自身を超越する仕事にとりかかる必要がある。そして、この事を、正に今あるような自身の中で、様々に、クヨクヨと考えることと混同すべきではない。 アンジェラスシレジウスの上記の言葉を、1行、2行ともに深刻に受け取らなければならない。もし、何らかの神の顕現の側面に尻込みするなら、この事に失敗するだろう。すなわち、外界からの顕現として、自身の中に流れ込む全てに、自身の内なる存在を捧げることができるときだけ、神の統治を許す。 もし、この考え方を、人智学的認識と関係づけるなら、正しい意味で第二の路線を取ることになる。我々の中で、内なる世界と外界の神的、精神的基盤による統治を許すのである。そして、そのときだけ、「天国への道」を望むことができる。 この事は、我々が、自身の内なる世界や外界の色合いに染められていない精神の領域、つまり、我々の上に輝く無限の星の世界、地球を包む大気、生い茂る緑の植物、海に流れ込む川と同じ基盤をもつ領域に到達するということを意味する。そして、その一方で、その同じ神的、精神的要素は我々の思考、感情、意志の中にも生き、我々の内及び外の世界に浸透する。 これらの例は、アンジェラスシレジウスが語った格言を読むだけでは不十分であることを示すだろう。つまり、そこで初めて、その格言が真に理解できるようになるような、正しい段階において、その格言を取り上げなければならない。 そのとき、我々は、神秘主義がもつ正しい核により、徐々に精神的領域を覗き見、学べるように成熟する地点へと真に導かれ、そして、アンジェラスシレジウスの美しい言葉の中に見い出せるものを、最高の意味で現実のものにできる、ということを理解するだろう。 汝が、自身を、自身の上に引き上げ、世界の神的、精神的基盤が、汝の中で統治するのを許すとき、汝は存在の神的、精神的な源泉へと続く天国の道を歩む。
2008年07月08日
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さて、このような認識方法が、どのようにして存在するようになったのかを見ることにする。自分に、次のように言ったのではないだろうか? 「外への道を取ろう、そして事物の根底を求めよう」、と。 いま、外界へと乗り出すが、事物の基礎、或いは分子や原子を求めたりはしない。つまり、外界が直接、目の前に置くものに関わらず、何かを留保する。世界に木がなかったら、魂の中に黒い十字架が生じることはできなかっただろう。そして、その魂が周囲の世界から赤い薔薇の印象を受け取らなかったら、それを思い浮かべることはできなかっただろう。 だから、神秘家が言うように、あらゆる外界の事物を忘れ去り、完全に自分の注意を外界から逸らすことはできない。外界に従い、外界が与えることが可能なものを取り入れる。しかし、それを、ただ目の前に来るままに取り入れるのではない。何故なら、薔薇十字を自然の中に見い出すことはないからである。 では、どのように、外界から取り出された薔薇と木が結びつけられて、薔薇十字の象徴的な像になったのか? それは、自身の魂の働きにある。自身を外界に、しかも単純に眺めながらではなく、心を奪われながら、捧げるときに、来る経験や、植物と発展(進化)していく人間とを比較することにより、学べる全てを、内的に神秘的経験にしたのである。 しかし、神秘家が行うように、自分の経験を直ちに自分のものにすることはなかった。それを外界に捧げ、世界が外に、魂が内に与えることが可能なものの助けをかりて、外への神秘的生活と内なる、つまり、外への事象が、内なる魂の中で溶け合うような象徴的な像を作りあげる。 その像は直接的には外界にも、内なる世界にも導くことはなく、力として作用するような形で、我々の前に立つ。もし、瞑想の中で、自身の魂の前に、そのイメージを置くなら、新しい精神的な目(心眼)を開くだろう。そしてそのとき、以前には、外界にも内なる世界にも見い出せなかった精神的世界を見ることができる。 そのとき、外界の根底に横たわり、今やイマジネーション(霊視)的な認識を通して経験できるものが、自身の内的存在の中に見い出せるものと同じであることを見定めることができる。 さて、もし、インスピレーション(霊聴)の段階へと上昇するなら、象徴的な像の内容を脱ぎ捨てなければならない。この事は、内なる道を取る神秘家が辿る経過(プロセス)に究めて似た関連がある。薔薇と十字架を忘れ去り、その像全体を、魂の目の前から消し去らなければならない。この事が、いかに困難であっても、なされなければならない。 我々の魂は、植物と人間との象徴的な比較を、内なる魂の前に呼び出すために自らを奮い立たせなければならなかった。今、我々の注意をこの活動、つまり人間の内の克服すべき象徴としての黒い十字架のイメージを呼び出すために、魂が行う必要のあったことに集中しなければならない。この活動を通して、魂経験の中で、自身を深めるとき、インスピレーション(霊聴力)的な認識へと至る。 この新しい能力の目覚めは、我々の内なる存在の中に小さな閃光の出現をもたらすだけでなく、それが認識の強力な力として輝き出すのを見る。そして我々は、それを通して、内なる存在に密接に関係するが、同時にそれから完全に独立するものとして、自らを現す存在を経験する。 というのも、魂生活は、内なる過程だけでなく、外に対しても、自らを働かせる過程を見てきたからである。だから、ここには神秘主義の残滓としての内なる存在に関する知識があるが、同時にそれは外界に関する知識でもある。 さて、いま神秘家の仕事とは反対の仕事へと到達した。いまなすべきことは通常の自然科学が行う作業に似たものである。つまり、外界の中に出ていく必要がある。この事は困難だが、インテュイション(霊人力)或いはインテュイション(霊人)的な認識の段階に上昇するためには不可欠である。 このような仕事は今、我々の注意を、自身の活動から逸らすこと、つまり、内なる視野(心眼)の前に薔薇十字をもたらすために、行ったことを忘れることである。もし、忍耐強く、そして、その訓練を十分長く、しかも正しい方法で遂行するなら、自身の内なる経験とは全く関係なく、いかなる主観的な色合いも持たずに、その客観的なあり方によって、人間存在の中心点、すなわち自我と同類の存在を示すようなものが残ることが分かる。 このように、インテュイション(霊人)的な認識に至るために、自身から出ていくが、それでも内なる存在と非常に密接な関係へと到達する。このように、自身の内なる経験から精神的経験へと上昇するが、この事は自身の内部ではなく、外界の中で経験される。 このように、我々はイマジネーション、インスピレーション、そしてインテュイションを通過していくような、人智学的な道の途上で、多元論が有する影の部分と、通常の神秘主義が有する影の部分の両方を克服する。
2008年07月07日
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政府系ファンドなんか、日本のような小国の素人が手を出してはいけない馬鹿な試みである。全く、福田というのは、世界の恐ろしさを知らない大馬鹿野郎としかいいようがない。 危なくてみていられやしない。大体、郵政民営化で、郵貯が不良債権化し、第2のサブプライムしそうな気配なのに、馬鹿も休み休みいってもらいたいものだ! それより、少しでも投資熱を下げる方向に舵をとることだろう! トヨタやキャノンが買収されようが知ったことではない。彼らは散々、国民を食い物にしてきたわけだからね。 まぁ、連中は地獄行きが決まっているから、道連れや巻き添えを出そうとはやっているようだが、地獄に行くのは、奴らだけで沢山だよ! 善良な国民を巻き込むな! ギャンブルというのは、仕組みをつくった胴元が儲かる仕組みになっているのだよ! 悪魔ロスチャイルドと、悪魔ロックフェラーたちが目論む世界統一政府の管理にあるのだよ! 少しは、世界の闇商人と闇金融ぐらいは勉強した方がいい。なんせ、この世は、悪魔が支配しているのだからね。 大統領にもなってみて、上をみたら、支配者は実は悪魔だったと気が付いて、レーガンは痴呆症になっちまったわけだよ。 日本を原爆実験場にし、占領し、3S政策で洗脳し、第51番目の植民地にしてしまったのは、奴らだぞ! 彼らこそが、ヒトラーが予言した第4帝国なのである。米国は悪魔の第4帝国となってしまった! 米国国民には、けっして見えない支配者が君臨している。 もし、20世紀に米国という戦争好きな国がなければ、どんなに平和だったかを考えてみるがいい。しかし、米国は、人類の全ての悪を背負って、悪のように振舞ったお陰で、人類はようやく、悪魔の存在にいま気づきつつあるともいえる。 アメリカ文化は、悪性腫瘍文明である。もし、悪名高きダブルRが、この地から消えてくれたら、貧富の格差はなくなり、どんなにか、世界は平和になっただろう? 恐らく、偽ユダヤ人を名乗るロックフェラーとロスチャイルドなら、自殺をしても、神も御赦しになるだろう。ただし、その引き取り手は悪魔の手に委ねられるだろうが。彼らは自分たちこそ神だと言い張るだろうが…。
2008年07月03日
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神秘主義とは単子論もしくは二元論の反対側にあるもので、後者は全ての人間が共通にもつもの、つまり外界を観察し、熟考することから導かれるものである。その結果、得られる体系は、間違いを含んでいるが、間違いを議論し、どんな段階にせよ、各人が到達した地点から、それらを基にして、何らかを為すことは可能である。 だから、ここで議論してきた神秘主義は大変に魅力的なものだが、それに関して今まで述べてきたことを、魂に吸収させるなら、全く客観的に、その限界に気づくことになる。 もし、人智学の方法、すなわち存在の主要な基盤へと貫き至るという目的を持って、今日の精神生活のより深い水準から導かれる方法との関連で、神秘主義を評価するなら、その上に更なる光が投げかけられる。もし、ある主題が、その考え方の微妙さ故に理解し難いものになっているなら、その主題を理解する最良の方法とは、しばしば何らかの関連する主題とその主題を比較することである。 この連続講義の中で、高次の世界へと上昇する道について何回も述べた。ある意味で、それは三重の道なのである。外の道について、また中世の神秘家によって取られた内なる道について記述し、後者については、その限界を明確にした。今、人智学、もしくは精神的探求の適正な道と呼ばれ得るものへと向かうことにする。 既に、この認識の道が、それを学ぶ人に対し、感覚世界の精神的基礎に、従って多元論に導く外の道も、或いは、その人自身の魂のより深い基盤、そして最終的には、世界の神秘的な統一へと導く内なる道も、どちらも取ることを要求しないということを見てきた。 人智学は、すぐに手の届く処にある知識により開かれる、これらの道だけに人間が従わざるを得ないというのではなく、人間には、隠されたまま眠っている認識能力があり、そこから出発することにより、今述べられたような2つの道以外の道を見い出すことができることを語る。 これら2つの道のいずれかに従う人は感覚世界のヴェールを貫き、存在の根底へと至ることを求め、或いは、また外界の印象を消し去り、内的な閃光が輝き出るようにさせるだろう。しかし、その人は、その人が既にそうあるままに、その人のいまある(進化)状態のままに留まる。 ところが、人智学における基本は、人間が、既に存在している認識能力と共に、今日あるような状態に留まる必要はないということにある。人間は丁度、今日の段階に進化してきたように、現在もつ認識能力よりも、高次の能力を適切な方法により発達(進化)させることができる。 もし、この方法を、神秘主義的な認識様式と比較するなら、次のように言う必要がある。 「もし、我々が外界の印象を取り去るならば、内的な閃光を見い出し、それ以外のもの全てが消し去られたとき、内的な閃光が、いかに輝くかを見るであろう。しかし、それでも、ただ既にそこにあるものを引き寄せているに過ぎない」、と。 人智学はそれでは満足しない。閃光に至るが、そこで立ち止まらない。小さな閃光をもっと強い光に変える方法を発達させることを求める。外の道も内なる道も取れるが、新しい認識能力を発達させる必要がある限り、どちらの道も直ちに取ることはない。 人智学探求の現代的な形態は、内的な認識能力を内なる道と外の道が統合されるような手法で発達させる点で、中世の神秘主義からも、多元論からも、そして古い秘儀の教えからも区別される。このように、いずれの目的地にも等しく導くような道に従うことができる。 この事が可能なのは、人智学の方法による高次の能力の発達が、人間を、認識の三つの段階へと導くからである。通常の認識から進み出て、それを越えていく、最初の段階はイマジネーション(霊視力)と呼ばれる。 第二の段階は言葉の真の意味でインスピレーション(霊聴力)と呼ばれる。 では、最初の段階はどのように達成され、より高次の能力が生じるために、魂の中で何が成し遂げられるのか? どのように発達させられるかという方法を示すには、いかに、この道において多元論と神秘主義を超越するかにある。イマジネーション(霊視力)もしくはイマジネーション(霊視)的な認識を理解するために最も役立つ例については、既に一度ならず触れた。 それは人智学者が自らに適用する方法の中から引用される。それは、そのような多くの方法の内の1つであり、師と弟子の間で交わされる会話の形で最もよく表現される。 弟子をイマジネーション(霊視力)へと導く、高次の能力に向けて教育しようとする師は次のように言う。 「植物を見よ。それは土から生え出て、葉から葉へと展開し、花に至る。それをお前の前に立つ人間と比較せよ。人間は植物以上の何かをもっている。何故なら、人間の思考と感情と感覚(意志)の中に、世界が照らし出されるからである。すなわち、人間は、人間的な意識をもつことにおいて、植物を超越している。 しかし、人間は、この意識を購うため、錯誤と不正と悪徳に導く、熱情、衝動そして欲望を、自分の内に吸収しなければならなかった。植物は、その自然法則に従って成長する。植物は、その存在を、自然の法則に従って展開しながら、純粋な存在として、その緑の樹液と共に我々人間の前に立つ。 もし、我々が幻想に耽るのでなければ、人間を正しい道から逸らせる、いかなる欲望や熱情や衝動をも、人間に帰すことはできない。 もし今、人間を貫いて循環する血を、すなわち人間意識の、或いは人間自我の外の表現である血を観察し、その血を、植物に浸透する、みずみずしい葉緑素に満ちた樹液と比較するなら、この脈打ちながら流れる血が、より高い段階の意識へと人間が上昇したことの表現であるのと同じくらい、人間を堕落させる熱情と衝動の表現であることに気づくであろう。」 「それから」と、師は続けるであろう。 「人間が更に発達(進化)し、自我を通して、錯誤、悪徳、醜悪さや、人間を悪徳へと引きずり下ろそうとする、あらゆるものを克服すると共に、人間の熱情や情愛を純化し、洗練することを想像しなさい。 人間が追い求める理想、つまり人間の血が、もはや、いかなる熱情の表現でもなく、人間を引きずり下ろす全てを、人間が内的に支配することの単なる表現にすぎないものとなるとき、実現されるような理想を思い描きなさい。 人間の赤い血はそのとき、赤い薔薇の中で変化した緑の樹液に比較されるだろう。丁度、薔薇が植物の樹液を、その本当の純粋性において示すのと同じように、赤い人間の血は、純化され、洗練されたとき、人間を引きずり下ろすあらゆるものを、人間が支配するならば、人間がどのようになるかを、ただし植物の中で達成されたものよりも、より高次の段階において示すことができる。」 これらは、師が弟子の心と魂の中に呼び起こすことができる感情やイメージである。もし弟子が単なる乾いた棒きれでないなら、もし弟子が、この比較によって象徴的に示される秘密全体に、感情をもって参入できるなら、弟子は魂をかき立てられ、その精神的な視野の前に象徴的な像として現れるものを経験するだろう。 それは薔薇十字の像、すなわち低次の人間本性の内で抹殺されたものを象徴する黒い十字架と、純化され、洗練されたことによって、人間のより高次の魂的本性を純粋に表現するようになった赤い血を表す薔薇となるだろう。 このように、赤い薔薇の花冠を架けられた黒い十字架は、この師と弟子との間の会話において、魂が経験するものを象徴的に要約しているのである。 もし弟子が薔薇十字を、弟子にとっての真の象徴となすような感情と、イメージに対して、魂を開いているなら、つまり、弟子が薔薇十字を、内的視野(心眼)の前に置いたと主張するだけでなく、その本質に関する高い次元での経験に向かって苦悶の内に勝ち進んでいたとするなら、この像や同様の像が、小さな閃光ではなく、世界に対する新しい見方を、いわゆる弟子に、新しい認識力といったようなものを、魂の中に呼び起こすのを知るようになる。 このように、弟子は以前の弟子に留まるのではなく、更なる発達の段階へと魂を上昇させる。そして、もし彼がこのことを何度でも行うならば、彼は、最終的には、目に止まる以上のものが外界の中にあるということを、彼に示すイマジネーションに到達するだろう。
2008年07月03日
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久しぶりに政治ネタを書きたい。いまだに福田がもっているのも、日本の政治がいかにも惰性で動いていることや、自民党の連中が相も変わらず、国家国民のことなど眼中になく、自己保身ばかりに終始していることを証明しているといえる。 そういえば、キムタクのチェンジというドラマを久しぶりにみたが、前みたよりも、随分とよくなったことに驚いた! このことは、わがブログのカテゴリのメークドラマにも書きたいと思った。 福田政権の人気下降と全く相反するキムタク総理ともいえる。 あの二人を比べると、いかにも、福田が貧相にみえるのは、ただただ、総理という椅子にしがみついているからかもしれないね。 あの二人を同時に写すと、キムタクがオラウータンを飼っているCMのようなイメージさえ与えかねないな! それはそうと、前原というのは、正真正銘のお馬鹿さんではないかとも思う。森のサメ脳以下なのではとも思う。 偽メール事件で、民主党を最大の危機に貶めておきながら、よくも堂々と民主党批判をできるものだ! 党の皆に大迷惑をかけておきながら、喉もと過ぎれば熱さを忘れて、全くの恩知らずの非人情な人格者といえる。まるで自民党の連中と同じじゃないかね? 民主党にいられるだけでも、ありがたいと思わなきゃいけない存在だよ! 大体、民主党にいるから、自民の扇動連中に、価値ありと思われているだけで、民主党から出たら、誰も前原なんか相手にしないだろう。 普通なら、メール事件で、引退すべきだろう。安倍坊のように総理大臣にありながら、病院に逃げ出して、肝心なときに、何もせずに、いまだに、北朝鮮拉致が大切だ!なんて、自分は安全地帯に身を置きながら、調子のいい事ばかりいってんじゃないよ!! 前原や安倍坊のような、責任も取れない上司失格な奴に誰がついていくか? 全く、見苦しいから、前原や安倍坊のような人間は、金輪際、政務という職には就くことをはっきりと禁止にすべきである。 見苦しくこと、この上ないよ! 前原や安倍坊のような奴が辞職しないから、福田のような人気も実力も何もない、何にもできない、評論家のような奴が、総理大臣を公害の垂れ流しのように続けるんだよ!
2008年07月02日
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もし、この神秘主義の一般的な説明から、個々の神秘家にうつるなら、しばしば神秘主義の反対者たちによって、反証として持ち出される事実に出会う。 個人の内的経験は様々な形態を取り、その為、ある神秘家の経験は、別の神秘家の経験と完全には一致しないが、二人の人間が、異なる経験をしたからといって、彼らの報告が正しくないというのではない。 ある人が、ある木を右から、そして別の人が左から見て、それぞれ、彼ら自身の観点から、その木を記述するなら、その木は同じ木であり、それらの記述は両方とも正しい。神秘家の魂の経験が何故異なっているかについて、このような簡単な例で示すことができる。 つまり、神秘家の内的生活は、完全に空虚なものとして、目の前に現れるのではない。外的な経験を消し去り、完全に外界から注意を逸らそうとする神秘家の理想がどんなに大きなものであっても、それでも外的経験は、彼の魂の中に痕跡を残すが、この事が1つの差異を形成するのである。 神秘家は出身国の性格からも、何らかの影響を受けずにはいられない。たとえ彼がもっていた、あらゆる経験を、彼の魂から投げ出したとしても、彼の内的経験は、自身の人生から得られた言葉と概念によって記述されなければならない。 二人の神秘家が正確に同じ事柄を経験することもあるが、それまでの人生の結果として、その経験を異なって記述するだろう。神秘的経験の現実というものは、基本的に同じであるということに気づくようになるのは、我々人間が、自身の個人的経験を通じ、その記述と描写における個人的相違を許容できるときだけである。 それは丁度、色々な角度から一本の木を写真撮影するようなものである。それらの写真は異なっているが、別角度からみた同じ木の写真である。 ある意味で、神秘的経験に対する異論とも考えられる別の視点があるが、様々な偏見なしに、客観的に述べなければならないので、別の視点からみれば異なる経験を記述するという、この異論は正当なもので、あらゆる形態の神秘主義に当てはまるものと言わざるを得ない。 神秘的経験は、非常に親密で内的なもので、神秘家が経てきたそれまでの年月から導かれた個人的な性格をもつために、神秘主義的な生活について、神秘家が語る、いかなることも必然的に自身の魂と密接に結びついていて、別の魂によって正しく理解されたり、同化されたりすることが究めて困難なのである。 神秘主義の最も親密的側面は、神秘家が語る事をどんなに熱心に理解し、その中に入っていこうとしても、神秘家の人生と常に親密なままに留まり、客観的に伝えることが非常に困難となる。そこで、問題となるのは次のような点である。 「それは、二人の神秘家、もし両者が十分に進歩(進化)しているなら、同じ経験を持ちながら(良心的な人なら、彼らが同じ事について話していることに気づく)、彼らが、これまでの年月において異なった経験を通過してきたために、彼らの神秘主義に独自の色合いを与える」、ということである。 この事から、ある神秘家によって用いられる表現や口振りは、神秘主義以前の彼の生活に由来するが故に、彼の個人的な背景を理解しようと努力し、何故そのような話し方をするのかを理解しない限り、常に理解しがたいものになるだろう。 そのため、我々の注目は、普遍的な有効性から、神秘家自身の個性へと逸らされ、この傾向が、神秘主義の歴史の中でも観察できる。 最も奥深い神秘主義者に関しては特に、彼らが得た知識が他の人たちに告げられ、同化されることができるなどという考えを持たないようにしなければならない。 神秘主義的知識を、一般的な人間の知識の一部にすることは容易ではない。しかし、だからこそ、益々、その神秘家に対する興味がそそられ、そして、彼を研究することは、彼の中に普遍的人間のイメージが反映されているために、無限に興味深いことになる。 神秘家が記述し、評価するもの、そして、彼は、それが、彼自身を存在の根底や源泉に導くという理由で記述し評価するが、それ自体、世界の客観的本性という点では、ほとんど、我々人間の興味を引かないものとなる。 我々人間が興味を引かれるのは、神秘家の主観的な面で、個人としての神秘家に対する、その関係なのである。従って、神秘主義を研究するときは正に、その神秘家が克服しようとしたことの中に、つまり世界に対する、彼の個人的で、直接的な態度の中に価値を見い出す。 もし我々が、いわば神秘家の側面から、人類の歴史を観察するなら、確かに人間の本性について多くのことを学べるだろう。しかし、神秘家が表現するような言葉の中に(あまり強く主張することはできないが)、我々にとって、直接的価値があるような、何らかのものを見い出すというのは非常に困難なことなのである。
2008年07月02日
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内的存在の魂が、外界において見い出されるようなものとは極端に異なる性質を有しているという知識へと、神秘家が、自分を上昇させるとき、魂の核と世界の神的、精神的な地盤との調和を、自分の存在の内部で経験するが、そのため、それらを1つの統一体として表現する。 今述べていることは単なる記述と見なすべきである。というのも、魂により最も親密な関心事として手渡されてきた個々の神秘的経験という形によらなければ、神秘家が明らかにする記述を、現代的な意味で再構成することは不可能だからである。 だから、神秘家が語る奇妙な事柄を、自身の経験と比べてみることもできるが、もし自分で経験するのではなく、他の人が個人的に経験した事に関する記述に頼らなければならないなら、外面的な批判をすることはできない。 けれども、神秘家が歩む道についての、はっきりとした像を今回の連続講義の基本的な立場から構成できる。それは本質的に内的生活へと入っていく道であり、人間の進化(発達)の歴史が示す処によると、人間の精神が、その啓発へと向かう探求の中で取る道の1つである。 どれが正しい道であるかについては様々な意見があるが、もし、「神秘主義とは何か?」という問いに、はっきりとした答えを与えるなら、別の探求の道の上にも、何らかの光を当てなければならない。 神秘家の歩む道は、彼を統一へと、すなわち1つの神的、精神的存在へと導く。神秘家が、この事を行うのは、自我によって魂経験の統一を与える内的存在へと導く道に従うことによる。 もう1つの道は人間の精神が、外界のヴェールを貫いて存在の根底に至ろうとするとき、常に取られてきた道である。 その道においては、特に人間の思考が、その他の多くのものと合同し、感覚により知覚可能で、通常の知性によって把握可能なものを貫いて、表面的な事物の背後に横たわるものへの、より深い理解へと到達しようとしてきた。そのような道は、神秘主義の目標とは対照的に、必然的に、どこへと導くのだろうか? その道は、妥当な全ての関連を考慮するなら、多種多様な外界の現象からみて、精神的な根底にも同様の多様性が存在すべきであるという結論に導く。近代において、このような思考方法に従った、ライプニッツやハーバートのような人たちは、豊かな外界の現象を、その根底に横たわっている、いかなる種類の統一性によっても説明できないということを見てきた。 要するに、彼らは、あらゆる神秘主義に対するアンチテーゼ「単子論(モナド)」を見い出した。彼らは、世界が単子もしくは精神的存在たちの多様的活動に基礎づけられている、という観点に達した。 こうして、17、8世紀における偉大な思索家であるライプニッツは、自らに次のように言った。 「我々が時空の中で出会うものを見て、その全てが1つの統一体から湧き出してくると信じるなら、我々は道に迷う。それは共同して働く、多くのユニット(単子)に由来しているに違いない。そして、この単子の相互作用、つまり単子、もしくは精神的存在の世界が、人間の感覚によって知覚される現象を引き起こす」、と。 この事について、今日では詳しく述べることはできないが、精神的発達(進化)の深い探求が示すのは、外に向かう道を取りながら統一性を求める人は、誰でも幻覚を免れないということである。 つまり、彼らは神秘主義において、内的に経験された統一性を一種の影のように外に向かって投影し、この統一性が外的世界の基礎であり、思考によって理解可能なものであると信じた。 けれども、健全な思考であれば、外界には、いかなる統一性も見い出されることはなく、その多種多様性は様々の存在、もしくは単子相互の働きから生じるということに気づく。神秘主義は統一へと導くが、それは自我が、魂の唯一の中心として、我々人間の内的存在の中で働くからである。 外界を通る道は、必然的に多様性、多元性、単子論に、すなわち世界についての人間の知識が、器官や観察の多様性を通して達成される一方で、多くの精神的存在たちが、我々の世界を生じさせるために、共に働いているという観点に導く。 さて、思考の歴史において、遥かに重要性を持っているにも関わらず、あまりにも僅かな注目しか集めていない地点へとやって来た。神秘主義は統一へと導く。けれども、世界の神的基礎を1つの統一体として認識するのは自我の本性、つまり魂の内的な構成に由来する。神秘家が神的、精神的存在を見上げるときには、自我がその統一の印を与える。 外界についての考察は単子の多様性へと導くが、それは、我々が世界を観察し、世界が我々に遭遇する、その方法が多様性へと導き、そして、ライプニッツやハーバートをして世界の基礎としての多様性を仮定させるように促したからに過ぎない。 更なる深い探求において、統一性も多様性も世界の神的、精神的基盤に適用できるような概念ではないということを気づかせてくれる。何故なら、我々人間は、神的、精神的基盤を、統一性によっても、多様性によっても性格づけることができないからである。 「神的、精神的なものは、これらの概念を超越し、これらの概念によって推し量ることはできない」、と言わなければならない。 哲学的論争の中で、しばしば相反するものとして示される一元論と多元論の間の争いに光を当てる原則の1つがこの事である。もし、言い争う人たちが、彼らの概念は、世界の神的基盤に近づくには不十分であるということに、気づきさえすれば、彼らは、何を論争しているかを正しい光の下に見るようになるだろう。 さて、真の神秘主義の本質とは何かを学んだ。それは、神秘家を真の知識に導くような種類の内的な経験である。その経験が統一的に見えるのは、それが自身の自我に由来しているからである。 だから、彼はその統一性を、客観的真実と見なすことにおいて正当化されることはないだろう。しかし、彼は本当に、精神の実体性が、その統一の中に生きるものとして経験すると言うことはできる。
2008年07月01日
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