全16件 (16件中 1-16件目)
1

「エーテル体」、「アストラル体」など、人智学の理念を短縮し、簡潔にする為には、このような用語を用いざるを得ないが、「エーテル体」、「アストラル体」などの用語により、いわば物質界の事象に刻印されている作用に、この用語法をそのまま還元できる。 ただ今日においては、物質的な出来事のなかに出現する作用を、正しく、霊的な基盤の存在に関係づけるような方向にあるとはいえないが、医学的思考と直観的な霊化には、是非とも必要となる。例えば、エーテル体と呼ぶ存在と、物質体と呼ぶ存在との相互作用は、そもそもどのように起こっているか、といった事実に是非立ち入って行く必要がある。 この相互作用は人間に起こり、以前、この相互作用の一面、つまり、アストラル体の作用に対して、この相互作用が一種の混乱状態になる場合について述べた。この相互作用は、人間の外にある自然においても生じている。 さて、思考を、正しく最後まで押し進めていくと、人間と人間の外の自然との関係を、実際、根本的に見通すことになる。人間の外の自然を眺めるなら、周囲には(差し当たり、今回はこの点に拘る)ありとあらゆる種類の全植物相が広がり、人間は様々な感覚を通じて、この植物相を知覚する。 このように眺めると、様々な感覚により、植物相を知覚でき、この植物相と、第一に、地球の大気のなかにある全てと、次いで、この地球の大気の外の、惑星(天体)の作用、アストラル(星)のなかにある作用との関係を、少なくとも予感できる。 地球の植物相を観察するとき、地表面(図参照)にある、この植物相は、大気の作用、つまりアストラル体を示している。このアストラル体というのは、植物相の場合、星々、地球外(天体)を目指して行くという意味を示している。 神秘学に入り込まなくても、差し当たり、次のように予感できる、 「外界において、植物相に出現する作用、つまり開花や結実として現われる作用と、遥かな全宇宙からの作用との活発な相互作用が見られる」、と。 更に、この事実全てから目を転じ、思考を内部に導くと(このように見ていく際には、幾分直観力(預言力)の助けが必要である。既に述べたように、医学においては直観力(預言力)が必須である)、つまり、思考を外界から転じ、人間自身の内部に着目すると、外界に存在する作用との、ある種の親和性が見出せる。 このとき、次のようにいえる。 「植物相においては、エーテル体と、物質体は密接に結びついている、そこで、植物相における、エーテル体と物質体の結びつきと、人間における、エーテル体と物質体の結びつき、この両者の結びつき方に、ある種の親和性があることが予感できる」、と。 さて問題は、このエーテル体と物質(肉)体の親和性について、何を用いて、外(物質)的、具体的に語るかという問いに答えることである。まず、抽象的に次のように言える。 「エーテル体は、上方に向かって開いている限り、物質体よりもアストラル体に近い」、と。 また、「エーテル体は、物質体に対して、何らかの関係がある」、とも言える。 すなわち、このような二重の親和性、エーテル体が一方では物質体に、他方ではアストラル体に対してもつ二重の親和性に着目し、更に、いわばこの二重の親和性へと導くものを、探究しなければならない。ここで、ではどのようにして、この二重の親和性へと導けるか、ということを、出来るだけ具体的に述べたい。 花盛りの菩提樹の並木道を歩くことを想像してみる。花盛りの菩提樹(西洋ボダイジュ、シナノキ科)の芳香のなか、この並木道をどんな具合に通り抜けていくか、明確にしてみる。このとき、人間の臭覚器官のなかに、いわば神経状に拡がっていく芳香全てと、この菩提樹の花の芳香との間に1つのプロセスが生じていることがわかる。 更に、この菩提樹の花の芳香を知覚するプロセスに注意を向けると、いわば人間内部の発露、菩提樹の花の芳香、菩提樹の花の匂いに対する臭覚力の発露であることがわかるだろう。そして、次のように言える。 「ここでは人間の内部を、外にもたらすようなプロセスが生じている、この内と外は、内的な親和性によって、共同作業を行なっている」、と。 更に次のように言える。 「菩提樹の花の芳香によって外界に発散されるもの、つまり地球外環境(天)に向かって開く植物相と、地球外環境全体(天)との相互作用に基づくプロセスが、いわば、(人間の)臭覚という知覚自体のなかに内面化されている」、と。 人間は知覚するが故に、内的に、エーテル体からアストラル体へと作用する力を与える。これは疑う余地のない事である。この作用力がなければ、人間は知覚できず、単なる(機械的な)生命プロセスにすぎないものになるだろう。 臭覚器官自体が、アストラル体に関与することを証明している。しかし、外界との親和性に見出せる作用が同時に示すものは、菩提樹の花が発散させる、あの甘い香りの発生が、臭覚器官のなかで生じる事象に、ある意味、親和性をもつが、それが芳香の対極にあるということである。 実際、菩提樹の花の、拡がっていく、甘い香りのなかに、植物的-エーテル体と、その周囲の、宇宙空間を充たすアストラル体との相互作用を見ることができる。従って、人間が「匂いを嗅ぐ」ということのなかに、1つのプロセスが存在し、このプロセスを通じて、植物相において、地球外(天)のアストラル体との親和性に関与していることになる。 臭覚器官プロセス;天のアストラル体との植物相の親和作用 今度は、味覚、いま述べた甘いものとの関連で例えるなら、甘草の味、或いは甘い葡萄の房の味を例にとってみると、同様の事がわかるが、この場合、臭覚器官で生じるプロセス(経過)ではなく、味覚器官で生じるプロセス(経過)である。味覚器官は、臭覚器官に大変な親和性を持っている。 だから、すぐに思いつく事は、自然の事象全体に関しても、味覚で生じる作用と、臭覚で生じる作用が、互いに親和性を持つという事である。しかし、味覚は、臭覚よりも、より器官的-内的なプロセスであるということを明確にする必要がある。むしろ、臭覚は人体の表面で行われる。 臭覚は、人間外の作用(天)の、いわば自らを拡張するプロセス、空間を拡張するプロセスに関与している。味覚の場合は異なる。味覚を通しては、むしろ物質のなかに内存する特性、つまり実質そのものと結びつく、ある種の特性に到達する。臭覚を通すよりも、味覚を通して、物質の内在特性が、この場合は、植物の内在特性がわかるようになる。 少々の直観力(預言力)の助けを得れば、次のように言える、 「植物の硬化に関係するもの、植物において硬化する器官的プロセスと関係する全ては、植物に内在する全てを、味わうことで、姿を現わし、自らを開示する」、と。 しかし今度は、植物は、硬化に抵抗する。この事は、植物が芳香を発するような誘導のなかに出現する。だから、味覚が、エーテル体と物質体との関係に関わるプロセス(経過)であるということに疑いはないだろう。
2008年12月25日
コメント(0)
以前、受胎前のある(太陽上位の天体)傾向に対して、骨化、硬化症(脱植物化、脱動物化)が反対の働き(水頭症形成)を行なうことを述べた。この骨化及び硬化症は、(特に土星の作用に対して)完全な反対(反映)像をもっている。 骨化、硬化症を増大させるには、人間に鉛毒を盛ればよい。勿論、この施行は、あくまで動脈硬化を研究する為で、本当に鉛中毒を引き起こすまでに至ってはならないが、重要な事は、自然が、自ら実験(施行)する際に出現する諸現象を、天体と金属との関係の意味において追求し、鉛のなかで作用するのと同じ力から、人間自身のなかでも生じるプロセスと、鉛との間に内的な親和性が成立するという観点に到達することである。 鉛のなかで作用しているプロセスと、人間における骨化と硬化症のプロセスは、徹底的な研究により追及すべきである。 (近年、アルツハイマー病と、鉛の過剰摂取に対しての研究もある。) 土星作用(0~7歳);鉛と骨化、硬化症 同様に、錫のなかに存在するプロセスと、以前、水頭症とその反対物(脳脊髄液減少症(低髄液圧症候群))との相互作用として特徴づけた全般との間の相互関係も研究できる。そしてその際、頭と腹部との正確な比例関係とでも呼べる関連に作用する、この幼児期(約7歳前後)の年齢全体のなかに、錫のなかにあるプロセスと同じ力が作用しているのが見出せる。 木星作用(7~14歳);錫と水頭症、脳脊髄液減少症(低髄液圧症候群) さて、このプロセスが後の年齢になって、肺の方へ押し進められるのを見てきた。その際、(実際は、数世紀以来、医学的文献に記されている、幾つかの事項を、正しく読んで総合すればよいが)、肺炎と胸膜炎の付随的症状全般に関係するプロセスと、鉄のなかの力に対するプロセスに関係するプロセスとの、内的な親和性を見ることになる。 更に今度は、この鉄と肺炎、胸膜炎との関係を、いわば正常状態の血液のなかで、鉄の存在によって起こる通常のプロセスまで追求できるだろう。鉄と血が相互作用する際に起こるのと同じプロセスを、肺組織と肺関連全般まで、更に追求できる。 火星作用(14~21歳);鉄と肺炎、或いは胸膜炎 そうすれば、水頭症とその反対物の脳脊髄液減少症(低髄液圧症候群)との、肺まで押し進められた相互作用における鉄の働きについての見解を得ることができる。このような事柄は、互いに入り組んでいる。このように入り交じった作用と、更には人間外との関係に通じるときにだけ、薬の治癒作用に到達できる。 だから、人間存在を、以上のように見ることを、真に尊重するなら、観察者に一種の直観力(預言力)が生じるのは疑いのないことだろう。この直観力(預言力)は、本来どんな診断の際にも特に重要だが、その際、特に重要なのは、多くの事象を総合的(包括的)に観ることである。 いかなる診断の際にも、その人がどのように生きているのか、今までどのように生きてきたのか、今後どのように生きていく見込みがあるのかという事柄に目を向ける必要がある。 「今後、どのように生きていくか」、といま述べたが、それはどういう意味なのか? 現在の人間のなかには、既に、ある意味、その人の残りの人生において、特に器官的に消費されるものが、萌芽の形で(前もって)素質として存在しているのである。 更にいま述べた全て、鉛、錫、鉄の人間の生体組織に対する作用の形について、なお金属という側面から作用として発する力との関係を探究するなら、鉛、錫、鉄に、いわば対極的に相対するのが、銀、水銀、銅の作用であるということに到達するだろう。 今述べたことは、特に、何らかの薬の奨励には結びつかないが、いま、この事を述べるのは、これらの金属のなかの力が、いま見てきたように、他の物質のなかにも含まれているが、この金属がもつ構成力と、人間の生体組織の形成力との間に、特定の性質の相互作用が成立している事実を指摘する為である。 従って、例えば、銅のなかにある力は、特定の形で、鉄のなかにある力に対抗して反作用を及ぼしている。この反作用から、ある種の力、例えば鉄の力や作用が強すぎるとき、銅の力から用いるべき力を、取り出すことができる。 例えば、人間の生体組織の特定の病状、その内部で鉄の力が明らかに強すぎるということがわかる場合、銅、或いは銅に似た力を、これから見ていくが、植物界から得て、この症状に対して適用する事が重要となる。 太陽上位の天体の力;鉛(土星)、錫(木星)、鉄(火星) 太陽下位の天体の力;銀(月)、水銀(水星)、銅(金星) さて今回は、多方面にわたり見てきたため、多くを要求しすぎた観もある。とはいえ、いま述べたことを更に見ていくなら、このような事柄を、どういう風に研究すべきか、そして、この研究から、医学的研究制度と医学上の制度全体の改革に効果的なものを、いかに引き出せるかを、理解できると期待したい。
2008年12月24日
コメント(0)
諸器官は、細胞的な作用への傾向を、過渡に有することもあり、その後、この細胞的な作用は、宇宙的な作用によって克服される。 或いはまた(個々の器官に関して、その特徴を述べていく)、宇宙的な作用の方が優勢で、細胞的な作用が後退しているような器官もある。特に興味深いのは、生殖-排泄の通路と心臓との間に位置する器官全般を、このような観点から考察することである。 このような生殖-排泄から心臓までの通路に位置する組織では、大抵、本来の細胞生命を目指すような細胞的な作用との類似が存在する。人間の全身に通じ、器官の構成要素全般を観察すると、大抵、いま特徴づけられた生殖-排泄から心臓までの器官部分と、その器官部分の細胞生命との間には、本来の細胞生命を目指す細胞的な作用の類似が見つけられる。 しかし、この結果、次のような事を認識するようになる。 「では一体、細胞は、どのような状態なのか」、と問うようになる。 細胞はいわば、事態を些か極端にする為に、我儘な生命を展開する。 細胞は我儘な生命を展開するのである。 (人間の社会に対する個人と同じである。) 細胞が、いわば逐一展開する、この我儘な生命力に対抗して、絶えず別の存在、つまり外から反作用が及ぼされる。そして、この反作用を及ぼす、外の存在が、細胞から、細胞の(我儘な生命)形成力から、生命を奪い、細胞に滴(液性)の形態を与える。 細胞から、いわば生命を吸い取り、細胞に滴(液性)の形状を与えるのである。 (細胞を個人、社会を組織とするなら、いわば個人に課せられる義務、社会的責任、倫理といえるだろう。) この地球上で、滴(液状の)形をしている全ては、人間外、人間内に関わらず、そのなかに、二つの力の合力が、つまり、生命を目指す力と、そこから生命を吸い取る力との合力が存在しているという事を、実際に知る必要がある。 さて、興味深い事に、古代の医学が、元々、「水銀」を、どの様に捉えていたかを追求すると、『「水銀」とは、生命を奪われて滴(液性)の形態(形状)を与えられている存在である』、ということに到達する。 つまり、水銀のなかには、元々の我儘により、生きた滴になろうとするような、つまり細胞になろうとするが、水星の惑星作用によって、細胞になることを妨げられ、単なる細胞の死骸(死体)、つまり水銀の小滴(液体)となる存在があることを、見る必要がある。 (水銀という液体のなかで、生命力とそれを止揚する反作用が働き、合力となっているのである。ヘーゲルの弁証論の中庸である。) この水銀に見るべき存在は、塩と燐との中間状態で、同時に、地球上に、出現するもののなかで、諸惑星の作用が、どのように生かされているかを見通す為に通る、実際、非常に入り組んだ複雑な道である。 水星という惑星が存在しなければ、水銀の滴(液状)は、どれも生命体となっているはずである。 (ここでいう生命体とは、腫瘍化するような形態を指す。) そして、我々人間のうちで概ね、細胞になろうとする全て、すなわち少し前に述べた、人体内の通路、つまり、生殖-排泄から心臓までの器官部は、正に水星という惑星の作用に曝されることを、当てにしている。 (生殖-排泄から心臓までの経路にある器官は、本来、腫瘍性をもち、水星の水銀作用の調停、細胞の無力化を必要とするという。アポトーシスと呼ばれる細胞死は、この水星の作用を体現しているのではないかと思う。なぜなら、このアポトーシスという現象により、腫瘍化しそうな細胞を、殺し、液状の小体にするからである。) つまり、水星の調停を必要とする器官部は、本来の排泄器官と心臓との間に位置する、下腹部の器官である。 これらの器官は特に、この器官が持つ、細胞的な作用の保持傾向が、ある程度、妨げられず、逆に、それが生命的傾向により過度に覆い尽くされないように、適度に麻痺させる水星状態に、曝される事を当てにしている。水星状態に曝されないと、このような器官活動は、中間状態に維持されずに、直ぐに増長してしまう。 このような知見を更に引き続き追求すると、これらの器官と、水星状態を表わす金属の水銀との間に成立する関係にまで到達する。 このような施行方法は、非常に合理的である事がわかるだろう。現在、及び未来の人類の為には、超感覚的観察によって発見できる知見を、外界の、感覚的に知覚可能な事実によって、証明する必要があるので、鉱物の作用、金属の作用、鉱物的作用、動物的作用、或いは植物に含まれる鉱物と金属の作用云々の、個々の作用が、本来人間の生体組織に対して、どの様に振舞うか、ということを、臨床的にも文献上でも追求すれば、良い結果となるだろう。 このような研究を、天体と金属の関係に関して、全く特殊な性質を反映する事柄から着手できる。
2008年12月18日
コメント(0)

さて、地球外の存在(天)と地球的な存在(地)に人間が依存している事に関連し、以前述べた空間的な事と、今回の時間的な生成プロセスに関して補足した事を総括すれば、次のように言えるだろう(そして、この事は、いま述べたような探求法を更に追求する途上で、有用となるだろう)。 つまり、「人間に対して、絶えず(天体の)諸々の力が行使されている。」 これらの力は、人間の物質的、及びエーテル的組織を観察すると、第一に、地球外的(天)、或いは、それに対する反作用の地球の力があり、つまりは、土星、木星、火星から発する力と、実際、既に地球的な影響に転化させられている、金星、水星、月から発する力(下図参照)である。 つまり、再度、地球と月との関係において、実際に起こっている事に関して、容易に思い違いを生じさせている。人間は容易に、「月は、地球の上方にある。月は、上空から影響を及ぼしている。」と考える。しかし、これだけでは、月の作用を、完全に捉えているとはいえない。 本来、月は、単に地球の周りを周回する地球の衛星だけでなく、月のなかから、地球に作用する力、この同じ力が地球のなかにも含まれている。地球は、地球の中から外へと作用する、地球(自身)の月的作用を持っている(下図参照)。 物質においては、潮の干満やその他の多くの事、例えば月経周期に示されるような出来事は全て、実際は地球の作用ではなく、月の作用だが、これらは、最近の理論の主張のように、(衛星である)月の影響によって起こっているのではなく、地球自体のなかにある月的作用によって生じているのである。 従って、これらの月に関する出来事は、外見的にも対応してはいるが、少なくとも、大抵、直接、時間的に関連しているわけではない。だから、太陽の(天動説でいう)下位にある惑星について語るには、地球での、それらの反対像も探究する必要があり、更にもっと、物質的な反作用、地上から発する物質への反作用も考える必要がある。 地球外の諸惑星には、もっと魂-霊的に成立する存在を負わせる必要がある。月の場合、次のような具合である。 つまり、「月は、地球に向けて、ある種の形成力を投げかけている。この形成力は、月が、ファンタジーを生み出すような人間の活動を、高めることにより、表される。月は魂的なファンタジーを生み出すのに多大な影響を及ぼしている。」 このような事柄も一度研究すべきである。唯物主義の時代では勿論、これらの事はほとんど考慮されないが、このような事は明らかに存在している。月は、人間のファンタジー創出の霊-魂的な点に関連し、非常に強い影響力を持っている。 その反対像、つまり器官形成への月の作用は、外にある月とは逆に、地球のなかの月的作用から発し、人間の生体組織に作用している。考慮すべき事は、この事実である。この事実は例えば、月の外にある、太陽下位(天動説の意味で、月、水星、金星)の惑星にも当てはまる。 このように、人間には様々な形で、地球に限局された(局所)力、上記のような考え方でいう、地球力(地の力)と、更に地球の外に限局された(局所)力(天の力)が働きかけていることがわかる。さて、これらの力を研究するには、これらの力の共同作用の結果を、全体としての(包括)人間のなかに見なければならない。 全体としての(包括)人間のなかに見るには、人間のどこか一部を見てはいけない。この共同作用の結果を、ほとんど見ることができないのは細胞である。この「細胞には、ほとんど(これらの力を)見ることができない」、という事に注意すべきである。 一体、細胞とは何なのか。 細胞とは、人間に対して、本来独自の成長、独自の生命によって、細胞自らの我儘を通用させている存在である。そして、一面においては、人間を、その形式全体において(包括的に)地球の作用と地球外(天)の作用が複合した存在と見ることから、細胞を観察すれば、細胞とは、この地球の作用の企図に密かに入り込み、地球外的な(天の)作用を破壊する存在である。 (細胞とは、天の力に対抗する地の力の表現体といえる。) 実際、生体組織のなかでは、絶えず、この細胞の生命(我儘)力に対して戦っている。だから、細胞病理学や細胞生理学によって成立した見解は、ナンセンスも甚だしい。これらの見解は、至る所で細胞を基本に据え、至る所で人間の生体組織を、細胞の構築物と見ているからである。 これら細胞に対して、人間は1つの全体、つまり宇宙と関わり、本来細胞の我儘に対して常に戦わねばならない(包括的)全体である。 細胞とは、根本的に、生体組織の構築の代わりに、絶えず構築を妨げる存在である。勿論、このような(細胞病理学や細胞生理学的な)基本的見解が、通常の考え方全般に入り込むなら、人間や、人間と関係するものに関して、本末転倒した考察に到達するのも不思議ではない。 このように、いわば人間の形成プロセスと細胞プロセスにおいては、二つの対立(相対)する力の複合体が現われてくる。諸器官は、この中間に位置し、どちらが優勢かによって、肝臓や、心臓等になる。諸器官は終始述べた、この二つの力の複合体の間で均衡をとっている。
2008年12月17日
コメント(0)

さて、前回述べた全ての事柄を、叡智に照らして見る必要がある。つまり、人間は第一に、物質(肉体)的な生体組織をもち、更にエーテル組織が7歳から14歳まで強く働き、それが物質(肉体)的組織に加わり、更に妊娠のような事態では、エーテル組織が、再度追い出され、人間は正に複雑な存在となる。 更にまた、考慮すべきことは、アストラル体が、秩序を保って加わるのは、14歳以降になってからで、自我が加わるのは、それより更に後だが、自我を、例えば、あたかも外に存在するかのように(物体として)想定してはならない。 勿論、覚醒状態では、自我は、決して生体組織の外になく、自我が(身体に)加わり、共同作用が高まる。従って、生体組織に障害があるときは、自我が、その他の組織内部で正しく機能することに何らかの困難がある。 そこで実際、次のように言える。 「今日の医学は、この事実を知ることなく、既にずっと以前から、自我が、人間の他の三つの組織(アストラル体、エーテル体、肉体)と共に完全となる困難さに関して、自我と他の三つの体との闘いについての、究めて示唆に富む描写ができる処まで発達している。」 勿論、現代人は、唯物論的時代に生きているので、この闘いを、内(精神)部に見ることはない。 しかし、もし、熱曲線(体温の推移)を正しく描ければ、この熱曲線のなかに今特徴を述べた、この闘いが正確に写しとられる。だから、このような関連の洞察には、様々な病気の状態における熱曲線(体温推移)を追求する事ほど明らかなことはない。 確かに、この事は、治療においては、病理学よりも、さほど重要でないかもしれないが、次のような事柄に関しては、理解すべきで、少なくとも一般的に、広く理解されるべきだろう。 というのも、例えば、肺炎、或いは腸チフスの洞察には、熱曲線(体温推移)の経過に関する見解が必要で、もし肺炎における熱曲線(体温推移)の主要な2分類(タイプ)に関し研究するなら、つまり、例えば、危険な経過(プロセス)での熱曲線(体温推移)と、危険でない場合の熱曲線(体温推移)を比較するなら、生体組織への介入を妨げられた自我が、反撃するときに、危険な場合と危険でない場合では全く別の形で行なっていることがわかるだろう。 例えば、肺炎の場合、熱曲線(体温推移)は、最初(図で描く)、この自我の闘いを示し、それから平熱よりも危機的に降下する際に、反撃を示す(図参照)。この熱曲線(体温推移)のなかに、最初になされた努力(自我の闘い)による、後からの反撃の可能性が提示されている。 また別の、消散性(消滅型)の経過の場合は、反撃の作用を、自身の力につけ加える可能性が少なくなり、従って、また別の、より不規則な熱(体温)降下の場合も、より危険な経過といえる(もはや反発するだけの元気が生体にない)。 しかし特に、他の三つの組織(アストラル体、エーテル体、肉体)に対する自我の働き全体を見通せるのは、チフスの熱曲線(体温推移)を観察するときだろう。この曲線のなかに、自我が、そのとき実際どのように闘っているのかについての明白な像が得られる。 この事は、他ならぬ自然科学が、医学に流入することで、人間のこれら様々な組織(自我、アストラル体、エーテル体、肉体)の考慮が、いかに不可欠であるかということを示す。医学上の混乱は、科学が唯物主義になり、物質(肉)体における出来事の観察だけに自らを限定したことにより起こった。しかし、この物質体における出来事は、決して独立したものではなく、そして、何より重要な事は、物質体での出来事の性質は(物質とは)全く等価ではないということである。 何故なら、物質体では特に、エーテル体が物質体の内部で働くこと、そして、アストラル体、或いは自我も、その内部で働くことにより、左右される可能性があるからである。それは常に物質的な出来事ではあるが、その物質的な出来事を特徴づけ、物質的組織のなかで働く、高次の構成要素に従って、全く別の非物質の性質も持つ。
2008年12月16日
コメント(0)
更に、過度の骨化、硬化症が、別の組織で癌腫形成を及ぼす事実とは別の事も、同様に観察できる。 幼年期に、水頭症、脳水腫のなかに出現する力も、この事と同様に観察できる。本来、人間は皆、水頭症の素質をもち、水頭症は必然の存在である。もし水頭症が存在しなければ、脳と神経組織の正常な形成ができない。 というのも、脳と神経組織は、人間のなかの液体的要素から引き出される存在だからである。従って、幼年期には常に、水頭症と、水頭症を克服する力、水頭症を抑える為に人間の生体組織のなかに現われる作用との間の闘いが見られる。 実際、水頭症についてだけ語るのではなく、その反対、つまり脳水が減少し過ぎる症状についても話さなくてはならない。この脳水減少の病気は、もしかすると、ほとんど考慮されていないかもしれないが(脳脊髄液減少症(低髄液圧症候群))、実際考慮すべき、水頭症の対極にある病気である。 幼児期は、実際、水頭症と、後に起こる、その反対物(脳脊髄液減少症)という、この両極端の間を、常に一方から他方へと揺れ動く。 さてしかし(臨床上の事に関しては今後更に詳しく入っていく)、このような事実に関して、見落としが起こる可能性もある。つまり、水頭症が、いわば完全に完了する大凡の時期、いわば水頭症が常に存在する正しい時期を見落とし、水頭症への傾向が、教育や、食餌療法により、幼児期に、特に乳児期の治療行為全般によって、あまりに早く取り除かれてしまい、つまり水頭症を、あまりに早く消滅させてしまうような事態が起こり得る。 水頭症の早期消失を誘導した場合、特に、人間の生の経過(プロセス)全体を見ないことに対する害悪が現われてくる。何故なら、ここでも、また指摘すべき事だが、このような幼児期の水頭症の経過(プロセス)と、梅毒との関係を、もし、後に現われる梅毒になりやすい素質の探究から、探るなら、医学の博士論文を多数提供することも可能だからである。 この梅毒の場合、微生物を追求することでは、実際、何も得るものはない。いま述べたような事柄を考慮するときだけ、実際、得られる。 梅毒の予防の為に究めて多くを成せるのは、後になって様々な梅毒の症状のなかに(更に様々な症状がある)出現する可能性に対して、子供の頃に、いわば機敏な対処を試みる場合だろう。 少なくとも、診断の際に常に念頭に置くべき事は、人間の生成プロセスにおいて、本来の原因へと立ち返っていくことである。さて、この点に関して究めて重要な事は、次のような事である。 「生体組織のプロセス全体が心臓へと移動するということで、上部人間におけるプロセスも心臓に向かい、下部人間におけるプロセスも下から下腹部を経て、やはり心臓に向かうと言えることである。本来の滞留器官としての心臓に向かって、人間の形成全体が、(上方)からと、もう一方(下方)からも押し寄せていく」ということである。 しかし、このような移動は、様々な年齢に生じる症状に肉薄すれば、つまり、特に少年少女期に現われてくる症状、いわゆる、少年少女期における肺炎、或いは胸膜炎に通じる関連疾患全般に出現する症状を見る目を習得し、このような出来事に関与する全てを総合すれば、この肺炎、或いは胸膜炎は、(水頭症が)進行したプロセスであり、まだ比較的早い幼児期に、水頭症として、行われるプロセスと同じプロセスであることがわかる。 (幼児期の水頭症が、心臓へと移り、少年少女期の肺炎、胸膜炎となる。) 端的に言って、水頭症が、人間の生体組織を一段下へとずらし、その際、肺炎、或いは胸膜炎的症状になりやすい素質を形成する。少年少女期の肺炎、胸膜炎は、幼児期での水頭症の症状関連になりやすい素質でもある。 しかし、幼児期における、このような症状の場合でも、これらの症状が後の年齢になって、その反対のプロセスを辿る、つまり、これらの症状は、実際、後になって再度現われるが、今度はその対極のなかに出現することになる。 そして、次のような問いを立てる人は、例えば、急性も含めた心内膜炎全般に対して、以上の事実からの見解で処置できるだろう。 その人が、「患者としての病歴において、肺炎、或いは胸膜炎と関連する病状が、以前の年齢に、どのように現われたのか、知りたい。」と問う場合である。 心内膜炎は、結局、子供のとき(14歳前後)に、肺炎や胸膜炎の症状が、早められたり、或いは、あまりに急速に除去されなかったという判明に帰着する。当然、両親や教育者は、これらの症状を、出来るだけ、急いで後退させようと切に望む。 しかし、人間の、このような状態の場合こそ、これらの症状を、それ自身の運命に委ね、ある有害な作用を生じさせる可能性のある事柄を避ける為に、医師として、その場に居て、病気を、実際にそのまま自然に経過させる事が、究めて重要である。 だから、胸膜炎や肺炎と関係する、子供の病気における、このような症状の場合ほど(勿論、他の症状の場合も)、次のようなことが必要とされる。 「一種の自然治癒(療法)、今日、いかに呼ばれているにせよ、自然治癒(療法)を適用する事、すなわち、病気のプロセスに出来るだけ正常な経過を辿らせる事、病気のプロセスを早めたり、あまりに早く短縮させたりしないことが必要である(自然治癒力に委ねること)。」 この事が重要なのはつまり、病気のプロセスがあまりに早く短縮されると、比較的すぐ、心臓疾患及び、それに関連する全てに罹り易い素質、とりわけ、多発性関節炎他に罹り易い素質を招いてしまうからである。 従って、特に注意を払うべき事項は、このような領域においては、病気のプロセスを、いわば妨げない、ということである。いわば胸膜炎と肺炎が欲するプロセスを妨げなかったら、後に、心臓の不規則性のなかに放出される、あらゆる疾患の素質が取り除かれる人もいるだろう。 あらゆるもののなかに、人間の生成プロセス全体の内部に存在している、このような(継続的)関連を見ることができる。このとき、実際次のようなことも思い起こすことができる。 つまり、「患者の病気が本当に深刻な状態の極端な場合だけを見るのではなく、病気が比較的軽い場合、つまり、治療も比較的容易で、治療の有無を、明白に区別できない場合もあり、患者に向かい、『あなたが大袈裟に、過度に癒し(病気の除去)を望まなければ、事態はもっと良くなりますよ』と言うような場合にも目を向けなければならない。」 なぜなら、元来、人間は、過度に癒される(過保護な)存在ではない、ということも非常に重要だからである。治療自体は全く結構だが、次のようなことも考慮に入れる必要がある。 「始終病気に罹るような人物も人生では珍しくない」、ということで、つまり、当人自身の言葉によれば、実際、あらゆる可能な病気を体験し、あらゆる治療法も薬も体験したので、高齢に達したときにはもう(いずれにせよ、このような人物は常に病気である)、健康という状態を、自ら再び見つけ出すのが困難な人物も珍しくない。」 (若いときから、病気だといっては、早期に取り除いてしまうので、高齢になるにつれ、深刻な慢性的な疾患に罹ってしまう。正常に近い疾患状態が、正常に経過しないため、高齢になるにつれ、正常から程遠い疾患、複雑な病気に罹ってしまうことをいう。) このような人たちには、次のような意識を少々呼び起こす必要がある。 「元々、大抵の人は、実際に、当人が信じているほど、病んではいない」、という意識である。当然、この事は、影の面も持っている。しかし、このような場合、「本来、それ(若いうちの未病のようなもの)は病気ではない」と言われてもしかたないだろう。
2008年12月11日
コメント(0)
しかし、健康、病気を問わず、人間の状態全体に注目するとき、最重要なのは、人間は、いわば、二つの互いに対極を成す年齢(若いときと老いたとき)に生きるということである。人間は若い頃には、老いた頃とは別の影響に曝されている。 人間は若い頃には、以前、述べた事柄に従って表現すれば、太陽の(天動説でいう)下位の(惑星)の影響、つまり金星、水星、月の影響を多く受け、特に、月の影響は比較的、最も早く、最も明確に現われてくる。 後の年代になると、太陽の(天動説での)上位の(惑星の)影響、つまり土星、木星、火星の影響が大きくなる。 この事は、人間を考察するにあたって、空間的な関係を時間的な関係に結びつける必要のあることを、示している。そうすることではじめて、人間の生に現われてくる諸現象を正しい光のなかで見れるようになる。 そして、人間認識への関係性を、正しい光のなかで見るには、そもそもどのようにすべきか、個々の場合において、少しずつ触れていくことにする。 人間に作用する存在は、根本において、誕生前から、実際、受胎前から既に始まっている。このような事柄を研究する際、 「一般によく用いられている医学書のなかに、”原因不明の”とか、原因を正しく特定できない病気の(経過)プロセスが、あまりにも多いのは、一体何故なのか」と、一度自問すべきであろう。 その要因は、次のような事に全く注意を払わない為である。 つまり、「以前、地球外的な存在(天)として示した(天体の)諸力の複合体が、人間(魂)が誕生に近づくときだけでなく、受胎に近づくときに、既に存在し、誕生前や、受胎前に、人間(魂)に作用することで、誕生後や、受胎後に、逆転した反作用を生み出し、すなわち、受胎前から既に存在する、ある種のプロセスは、受胎後、或いは特に誕生後に反作用を生み出す」ということである。 そして、人間の生において観察できるのは、誕生後に出現するものだけで、受胎前に、自然存在との正当な関係のなかで既に存在していた作用に対する一種の反作用だけである。 今述べた事は、特に骨化、及び硬化症関連全般と非常に関係がある。硬化症、そして骨化も、本来、その反対のプロセスを既に、受胎前にもつプロセスである。これらは、受胎前に人間のなかで散乱プロセス、拡散プロセスとして作用する力に対して、正常に器官的形成プロセスとして反作用を及ぼす。この事に注目する事が極めて重要である。 硬化症のプロセスを、このように、地球外的な存在(天)、つまり誕生、或いは受胎以来、人間のなかに現われてくる限りでの地球外的な存在(天)と関連づけることができなければ、更に、受胎前に存在する、人間の外の、地球外的な(天の)プロセスと関連づけることができなければ、硬化症のプロセスを制することはできない。 さてしかし、出現しなければならない、これら全てのプロセスは、ある限界、いわば、その振動の均衡点を超える可能性もある。硬化、或いは骨化のようなプロセスは、いわば中央(の位置)へと向かう振動で、度を超す、つまり強くなりすぎる可能性もある。 硬化、骨化のプロセスは更に全く異なった形でも出現する。最初、これらは素質という形で現われる。そして、この素質のなかに、人間存在の非常に本質的な存在を探究する必要がある。 骨化や硬化症において、正常な存在、或いは人生経過のうちに、骨化、硬化症自身の領域で異常になり、それが別の側面へと揺れ、つまり、この骨化、硬化症プロセスが、いわば自身の領域ではなく、人間の他の器官組織のなかで展開すると、受胎前の(霊-魂的)存在の病的な反対像が、様々な種類の癌腫形成として現われてくる。 このような事柄に着目するには、人間の生成、及び存在のプロセス全体の、真の洞察を試みるときだけである。真の洞察がなければ、癌腫形成のような事は、常に人間の生における比較的未知の要因となるだろう。 この癌腫形成の要因を、人間のなかで、必須の形で作用すべき力が、変成させられ、別の領域に移行された結果と関連づけなければ、未知のものとなるだろう。
2008年12月10日
コメント(0)
ネットをしているうちに、「ダイアンフォーチュンの心霊的自己防衛」という本に出くわすことになった。 ダイアンフォーチュンはペンネームであるが、オカルトでは有名な神智学を創設したブラバツキー夫人の生まれ変わりともいわれ、エレファスレヴィの生まれ変わりと自称するアレスタークロウリーと、オカルト界の二大巨頭ともいわれる存在らしい。 シュタイナーを独学している素養で、ダイアンフォーチュンのこの書の理解は、割とスムーズに読みこなせている。そういう意味では、シュタイナーの書は、神秘学の入門書的な性格を帯びているともいえる。 ブログでグルジェフを知り、その思想の理解にも、シュタイナーのお陰で明快に理解できたこともあった。グルジェフは、シュタイナーよりもどうも黒魔術的な感じというか、精霊的な冷たさを感じもした。グルジェフは精霊から知識を得ていたのではないかとも思える。 グルジェフは、ヒトラーを影で操っていた秘密結社のトゥーレ協会に関わる如何わしい人物につながる人物ともいわれている。シュタイナーは、ヒトラーの悪魔的憑依を見抜き、ヒトラーから命を何度も狙われていた。ヒトラーにすれば、シュタイナーは天敵だったようである。 しかし、シュタイナーは、どちらかというと、ヒトラーよりもその影の存在に注意をよせていたようである。 シュタイナーは生まれつきの霊能者だったらしく、グルジェフも、恐らく生まれつきのようだが、ダイアンフォーチュンは、生まれつきの霊能者ではないらしく、秘密結社に入会することで、修行により霊能を身に着けたようである。クロウリーも生まれつきではないようである。 「何々の再来、生まれ変わり」という人に限って、生まれつきの霊能者ではないように思える。生まれつきの霊能者は、霊能力に対してハンデを感じることはあっても、その才能を自慢するようなものではないからである。 あの世とこの世は、真逆の価値観なので、霊能は、この世では危険とみなされる傾向にあり、秘密にするのが普通である。逆に、この世の能力、例えば、カネを稼ぐ等は、あちらでは危険とみなされるわけだ。だから、こちらのホームレスはあちらでは王様になる。 だから、霊能力を利己的、あるいは自慢げに用いる人物のほとんどは偽者であるので注意した方がいいだろう。 さて、ダイアンフォーチュンの、この書を読むと、霊能とは何かが、心理学的表現により、明らかにされる。勿論、いきなり、オカルトへの準備なしに、この書を読んでも、意味不明、理解不能になること請け合いである。 特に、現代の科学的知識過多であっても、その逆の心霊主義知識過多であっても、理解不能になり、読みこなすことはできないだろう。 現代でオカルトを理解するには、まず、現代科学を学ぶことが先決だと、私は思う。なぜなら、マヤカシが非常に多いからであり、面白おかしく語られているからで、必ず、非科学的だという議論や、宗教的妄信だという平行線の議論闘争に発展するからである。 科学的知識をまず身につけていれば、そのような錯誤に囚われることがなくなる。つまり、まず、科学的知見から立証できる事例を埋めていけばよい。便利な科学を使わない手はない。物質面からいえば、現代科学はかなりの知見を与えてくれるからである。 しかし、それでも解明できない現象、事例に遭遇する場合がある。そのような事例は、ほんの僅かであり、いわば氷山の一角であるが、科学ではお手上げの事例、現象、このような理解のために、オカルトがある。 この書を読むと、吸血鬼の存在、意味不明な殺人事件、秘密結社が何を行っていたのか、或いは、中世の魔女裁判の意味、中世人の考えが、手にとるが如く理解できるようになるだろう。 昨今では、UMAや、UFOなど、或いは、リングの主人公の貞子とは、いかなる存在なのか、ホラー小説や映画の原点が、いわばオカルト的に解明できるのである。 私はリングは見ていないのだが、例えば、貞子は、恐らく霊能者が自殺し、地縛霊になってしまった例を表現したものだろう。内臓が破壊され、生気を失う死体とは、エーテル体を奪われ、吸収された場合に起こる現象なのだと、この書からわかるからである。 死後、人間は欲界、いわゆるアストラル界に行く前に、エーテル体を捨てないといけない。これは、肉体を捨てる死につぐ、第2の死を意味する。しかし、執着があると、第2の死を拒否することもある。 自分の人生を否定したい人は、特にこの傾向にあるといえるだろう。簡単にいえば、やり直したいと思うわけで、そのために、他の肉体に憑依し、死を回避したり、利己主義的本能、つまり我儘、悪あがきを続けるわけである。 通常の霊魂はこのことは不可能だが、肉体をもつ霊魂、つまり生きている人が、その霊魂に対して、共感を与えてしまうと、ウイルスのように、感染、つまり憑依を許してしまうこともあるという。そうすると、風貌や顔つきが、その霊魂のように似てくるという。 この憑依の原理は、コンピューターウイルスが、ファイアーウォールを越えて感染するプロセスと似ているし、病気の病因となるウイルスや寄生虫とも、似ているといえる。内側から穴、隙をつくってしまうのが不味いわけである。 つまり、悪魔や悪霊は、同情心を煽って誘惑するわけである。その手口は巧妙で、振込め詐欺ともいえよう。 昔から、「かわいそうと思って同情すると、狐霊がとりつく」という迷信がいわれてきたが、それは昔の人が、この現象をよく知っていて、言い伝えてきたといえるだろう。 通常の霊魂は、エーテル体でいられる時期も限られ、エーテル的に盲目的なので、ほとんど不可能だが、霊能者の場合は、霊眼があるので、憑依の可能性が高くなるといえるだろう。 しかし、このような憑依に怖がる事はなく、霊感受性に鈍感になるだけでよいのである。つまり、「気にしない」のが一番であるという。 そういう意味でも、現代科学的立場をまず第一に勉強すべきだろう。まずは、科学で、表面上、相手にせずに、ファイアーウォールを張って、密かに撃退法を研究すべきである。 霊障に悩まされない簡単な方法は、常に食べることで、空腹にしないことと、絶えず排出することだという。便秘はよくないわけである。悪い霊は、汚いものにつくようである。そして、なるべく大勢で笑って過ごすのがよいという。 そういう意味では、お笑い番組をみて、大勢で笑い、絶えず食いながら、糞して、清潔に暮らす現代生活は霊障に悩まされないで済む生活といえるかもしれない。 どんな幽霊屋敷でも、鈍感で、いわゆる太い神経の持主は快適に暮らせるわけである。戦場でも、たえずユーモアを忘れずに、明るく生きる兵士の生存率が高いという話もある。
2008年12月09日
コメント(0)
これまで、着目してきた事柄は、地球的(地)、及び宇宙的(天)状況への人間の適応に関連して、第一に基礎とすべき事だが、どちらかといえば空間的性質のものだった。この空間的性質のものを、時間的なものと結びつけなくてはならない。 なぜなら、決して忘れてはならないのは、人間を、その存在全体において観察する必要があり、すなわち、全体としての人間は、いわば、子供であると同時に、成人でもあり、また老人でもあって、人間存在の、この三つの生成要素が、各々の個々の部分に入り込む形で組織化されている。 今回、このような手法で獲得していく事柄を、更に超感覚的なものと結びつける必要がある。そのようにして初めて、個別の観察にアプローチできる。 特に、着目すべき事柄は、教育学が、幼少期に対して、年齢の差異、つまり誕生から歯の生え変わり(約7歳)まで、歯の生え変わりから性的成熟期(約14歳)まで、といった年齢差を考慮する必要があるのと同じように、医学に帰する全ても、本来全体としての人間、すなわち誕生から死までの人間をも考慮する必要がある、という事である。 既に述べたように、人智学者としての慣用表現を、まず用いる。その後、最終的には、部外者にも、そのような表現を翻訳できる段階まで到達するだろう。この翻訳は、しばらくこの考察を続けて、先に進んだときに更に容易になるだろう。 特に、例えば、幼児期の観察において、明確に知るべき事は、人智学者の言う、「自我」と「アストラル体」が、機能的に存在するように、人間のなかに加えられるのは、幼児期からだということである。 この「自我」と「アストラル体」のような機能は、幼児期になってから、器官のなかに加えられ、その後、柔らかく弾力性のある器官実質(エーテル体と肉体)と共に実際に活動していく。従って、丁度、この幼児期に、人間の高次のものが人間の低次のものに加わることに関係した障害が出現するのも驚くにあたらない。 この障害は、特に7歳から14、15、16歳にかけての年代、性的成熟を目指して、エーテル体が物質(肉)体に対して立場を獲得する時期までに起こる。このとき、物質(肉)体とエーテル体の弾力性が咬み合わない可能性が、様々な形で存在する。 実際、本質的な意味で、アストラル体の課題は、この物質(肉)体とエーテル体の両者の弾力性に均衡をもたらすように働きかけることなのである。物質体とエーテル体が共同して働かないときは、アストラル体が、その共同力を強化する必要が生じる。その際、アストラル体が十分な力を持っていないと、外科的手段により、処置しなければならないような症状が現われてくる。 だから、幼児期に、例えば「舞踏病」のような、物質放出というか、そのような病気が示す症状が出現するということがわかるだろう。このような症候群に帰せられる病気全ては、器官内で生じる他に、このような症候群、つまり心的障害を示す病気、心的障害を伴う病気全てが、アストラル体の異常な活動、つまり物質(肉)体とエーテル体の弾力性の調停に関して、アストラル体が行なうべき活動に関連している。 更に、「舞踏病」と同様の症状を、妊婦にも出現することをみるなら、この事が究めて自明となるだろう。なぜなら、妊娠では、物質(肉)体とエーテル体の弾力性の調和が妨げられるのは当然のことで、幼児期における、(幼児の)アストラル体への要求と同じ事を、(妊婦の)アストラル体に要求する必要があるからである。 従って、幼児期に現われ、妊娠の際に、妊娠の付随症状となる病気の場合には、アストラル体の(この問題は次回以降提示していく)効力全体を強め、アストラル体の機能が、物質体とエーテル体の弾力性に均衡をもたらす方向に落ち着くようにする薬剤を求めなければならない。 この事に対して(この為に、年齢を考慮に入れる事が大切だと強調してきたが)、多発性関節炎や、それに類する症状を呈する傾向のある病気は、その本質的な発病時期が、14、15、16歳から20歳の終わりになってからであることがわかるだろう。 何しろ、この時期は、アストラル体自身が、物質(肉)体とエーテル体に対して、正しい関係に位置づけられる必要があり、その為のアストラル体の準備が不十分であれば、例えば幼児期に、アストラル体を、正しい形で準備できなかったら、アストラル体は正しい関係を発生させることができず、その結果、この当(準備)年齢で、既に症状が出現するか、もっと年齢が進んでから、その結果として出現するかの、いずれかとなる。 だから重要なのは、いわば時間(年齢)というものを、病気の研究のなかに取り入れる事である。そして(少々一面的な表現でいえば)、人間の生体組織を、いかに治療したらよいかを、出来るだけ容易に楽に読み取れるように、自然は、人間の生体組織を、都合よく拵えてくれたという前提はないということである。 人間の生体組織は、どの様に、治療できるかを、出来るだけ楽に読み取れるように、拵えてはいない。どの様に治療できるか、出来るだけ楽に読み取れるという事ばかりが過度に期待されている。 「同類は同類により治癒される」、という原則は、ある意味では正しい。けれど、治療の症候群に対して、同類とみなし、探し出す際の主要な症候群は、その発症とは、別の年齢では別の症候群となる場合もある。 例えば、20歳以前に、外界からつくられた(物質的)薬剤の影響で引き起こされる症候群、つまり、20歳以前に、その病気のプロセスを引き起こした薬剤が、20歳以降では、逆に治療薬となることもある。だから、よく主張される「同類は同類により治療される」という所説においては、このように、年齢を考慮しなければならない。
2008年12月09日
コメント(0)
このように、地球外(天)の存在を獲得する為に、光を担う存在を、自然のなかに求めなければならない。 或いは、地上の物質から、この地球外(天)の存在を取り去り、地球的な存在の保持に努めるか(その結果、真の塩を得ることができる)、或いは、この両者(天と地)の間に均衡状態を作り出す存在の獲得を試みるか、いずれかを行わなければならない。 3つの原理の分離法;地から天の成分を除去する方法(塩)と、天と地の均衡成分の獲得方法(水銀) しかし、ここで、その性質は異なるが、いずれも、ある程度の目的へと導く、以上の「地から天の成分を除去する方法」と、「天と地の均衡成分の獲得方法」の二つの方法で進むことができる。 もともと、両方の方法から進むことができる。よく知られた物質から、燐や、塩、或いは水銀の性質を持つ存在の摘出を目指し、それらを用いていた古代の医師たちの立場に立つことができる。 そのような医師たちは、薬剤の様々な特殊作用を、鉛から得たのか、銅から得たのかによって、幾分異なる差異により生じさせていた。つまり、彼らは、薬剤のその起源(金属)を考慮していたのである。 つまり、鉛から塩を作り出す場合、この塩は、銅から作り出された塩とは、少し異なる。従って、塩に関して語る場合でも、次のような事を語っていた。 「様々な塩での、この塩のなかの本性、つまり、塩という存在で、地上的だが、いわば、様々な金属から、作り出された塩なので、何処かに、地球外(天)的成分をもち、人間において、究めて様々な存在と関わり、この成分との関係は、次回以降に、詳しく特徴を述べるが、そのような関わりがある」ということを語っていた。 例えば、治療学における塩の調合に、この方法を用いることができる。更に、古代人たちの方法とは別に、古代人の方法が忘れ去られた後、代替的にとられた方法で、実際、人間が、いまいわれているような、単なる実験物質のような存在(レトルト、機械)ではなく、それ以上の霊的存在というような、明確な感情から選出された方法を用いることもできる。 そして、この方法は、人体の受容を通じ、人体内にある存在の自乗(作用)を通じて、既に存在する物質の根底にある力の利用を試みる方法である。 この方法は、本質的に、ハーネマン的な方向(ホメオパシー)に内在する方法であり、古代の方法が既に忘れ去られ、地球外(天)的な存在、或いは、天的な作用他の関連について、何もわからなくなった後に、人間の医学的な努力全体から、一種の新たな興隆から、示された方法である。 そもそも、この方法は、現代の、医師社会の絶望のなかに見つけられる、とでもいうべき存在で、現代医学においては、本来、地上の根底をなすもの、つまり、もはや地上を超えた存在(天)を仰ぎ見ることがなく、現代人が、地上のなかだけにある存在を、常に上手く処理しようとしている、ということを意味している。 この地上的方法を超えていく方法がホメオパシー的体系である。勿論、物理的治療法も、この方法を越えようとしているが、光の担い手、つまり、燐を正しく用いる方法、或いは、空気の担い手、つまり水銀を正しく用いる方法を、もはやもっていない為に、光と空気を直接用いることになる。勿論、これが第三の可能性でもある。 しかし、真の有効な方法は、人智学によって、鉱物と地球外の存在(天)、植物と地球外の存在(天)、動物と地球外の存在(天)との関係に迫るときにだけ、再び開かされるだろう。動物が、問題になるとき(既に、以前、暗示したように)、人間との距離の近さは容易ならぬものがある。 ここで、古代人たちは1つの境界を設けたが、これも、また新たな研究から探究していくつもりである。古代人たちは、次のように言った。 「植物、これは惑星(太陽)系の範囲にあり、鉱物、これも惑星(太陽)系の範囲にある。しかし、動物界に至ると、惑星(太陽)系から出ていく。つまり、地球外の存在(天)、つまり、惑星(太陽)系の内部に留まっているときよりも遥かに、物事と戯れるということ等は許されなくなる」、と。 動物形成、特に人間形成を導く力は、鉱物や植物の力よりも遥かに、猶も宇宙に拡散した状態である。 動物形成、人間形成を導く力に対して、古代人は、獣帯(という境界線)を引いた。獣帯によって、植物、或いは鉱物のなかにある存在を超えて、治療力を探し求めないように、或いは少なくとも、獣帯を引けば、獣帯を超えると、容易ならぬ領域に踏み込んでいくことになるという警告に気づけるようになるからである。 無論、以前、既に動物の特徴を少しばかり述べた方法(血清療法)によって、いまや、この領域にも踏み込んでしまった。 この事については、病理学と特殊な血清療法のなかに立ち入るときに、更に詳しく議論する必要があるだろう。このような方法は、通常、個別的な存在に通じる為に、非常に強固な幻想を引き起こし、それによって、このような事柄の背後にある危険性が、完全に隠蔽されてしまう。
2008年12月08日
コメント(0)
一方、水星が一種の調停者として存在するのに対し、当然、他方に、別の調停者を探索しなければならない。というのも、水星は、地球と、いわば地球を超越する存在(他の天体)との間の調停者だからだが、この宇宙全体が、現実に元から、霊に浸透されているのである。 だから、もう1つ別の両極性と呼べる関係が、成立している。いま、地上の存在と、地上を超えた存在を思い浮かべると、地上と、地上を超えた存在(天)のなかに、光と重力との対立が見つけられるが、これだけでは、単に地上と、地上を超えた存在との平衡状態を見つけるだけである。 しかし、また別の平衡状態、地上と、地上を超えた全て(天)を、一様に貫く平衡状態と、その平衡状態自体との平衡状態、つまり、霊や、計測不可能な存在と、計測可能な存在、物質との平衡状態も存在する。物質の、いかなる一点においても、霊と、この物質との均衡が保たれている。 第1の平衡状態;天と地の平衡状態 第2の平衡状態;霊と物質の平衡状態 この平衡状態は、宇宙でも成り立つ。宇宙での均衡保存の場所に一番近いのは、太陽である。 太陽は、宇宙における霊と、宇宙における物質との均衡を保っている。従って、太陽は、いわば同時に、惑星系のなかで、秩序を保つ宇宙体(天)に応じているが、また、この秩序も、(地の)物質組織のなかに入り込む(天体の)諸力により引き起こされている。 第1、第2平衡状態の中心;太陽 前回特徴を述べたように、個々の惑星と金属との関係を確定できるのと同様、太陽と黄金との関係も確定できる。しかし、この点についても、古代人たちは、そのアーリマン(物質)的な価値故に、金を尊重したのではなく、金と太陽との関係故に、霊と物質との均衡に関係する為に金を尊重した。 太陽;黄金 さて、常に注目すべき重要な事は、思考においても、地球上での人間の行為においても、人間が、自ら切り離す(分離する)事が、自然においては、何らかの形で常に結合されている、という事実である。 人間は、思考において、重力に従うもの、つまり塩形成の傾向を持つ存在を、光の担い手となる存在、つまり光作用の傾向を持つ存在から、更には、この両者の均衡に従う存在からも、切り離す。 人間の思考;光作用、或いは光(天)と重力(地)の均衡作用→塩形成の傾向である重力 しかし、自然では、人間の思考のように、至る所で切り離(分離)されるのではなく、自然では、このような作用は、互いに結びつけられ、組み合わされ、非常に精巧な組織構造を形成する。この精巧な組織構造は、既に、金の光輝のなかに含まれている。金を通じて、霊が、いわば純粋に、外界を覗き込んでいるからである。 ここで着目すべき事を、いわば括弧書きの形で述べる。括弧付きにするのは、古代の文献から得られる示唆を、近代の文献に役立てようと思うからである。以前、引用したものから、学位請求論文を作成するなら、古代文献の正しい理解さえできれば、多くの示唆が得られるだろう。 その際、究めて重要なのは、本来、古代の文献は、どの物質のなかにも、三つの原理全てが、つまり、塩の原理、水銀の原理、燐、或いは硫黄の原理が、多種多様に組み合わされていると見ている事、そして古代では、この三つの原理を用いて、物質を分離しようと苦心していたという事を理解することである。 つまり次のような見解が持たれていた。 「鉛は、以前に、土星の作用により暗示したような方法で生じるが、黄金や銅と同様、鉛も、三つの原理、つまり塩の原理、水銀の原理、燐の原理全てを含んでいる」、という見解である。 そして、塩の原理、水銀の原理、燐の原理により人間の治療を可能にするには、その、三つの原理を取り出す事、つまり原理を、原理が結びついている金属から、何らかの方法で切り離す(分離する)事が肝要である。 古代化学においては、この原理(プロセス)に対して、究めて周到な注意が払われていた。このプロセスは、金の場合が最も困難と見なされていた。 だから、「黄金を壊すより、黄金を作る方が易しい」という、ローマの箴言(ラテン語の原文は ”Facilius est aurum facere quam destruere.”)は、実際、また、この箴言も古代賛美に通ずる。 なぜなら、金のなかで、塩の原理、水銀の原理、燐の原理という、三つの自然の原理が互いに結び付き、金から、これらの原理を取り出すのは、最も困難である、と考えられていたからである。 さて、古代人が三つの自然原理を苦心して取り出そうとして、塩、水銀、燐の原理(プロセス)に関して、当時行っていた通りにやろうとしても、今日でも、困難であるという事は全く明らかである。しかし、これからも行うように、ときに、古代文献に光を投げかけるだけで、古きものを全く度外視し、今日でも猶、研究可能な対象に入っていくだけでも、次のような事実に到達できる。 つまり、以前と、今回とで、自然の物質から、特徴を述べた、これら三つの原理から、必要なものを取り出すには、実際、何らかの方法で、自然の物質を用いて、燃焼プロセスを引き起こす必要があり、物質の燃焼プロセスによって、はじめて例えば、火を担う存在、光を担う存在が分離され、更に、ある目的の為に、自然の物質から、水銀(原理、プロセス)を取り出す事も試みる必要があり、その結果、塩原理、塩プロセスとして、押し出される存在だけが後に残される。 この事は更に、酸の性質を持つ存在によっても、引き出すことができ、このようにして、植物、もしくは鉱物から、真の塩性の薬を得ることができる。特殊な場合に関しては、これから後、更に扱っていくことにする。
2008年12月04日
コメント(0)

さて、光を探究するなら、いわば、この太陽系における、太陽の(天動説での)上位の天体、つまり、火星、木星、土星のなかにある全てに、注目しなければならない。そして地球上で起こる全ては、ある意味、地球外に存在する作用なので、地上のなかに、宇宙で生じる作用を見つける必要がある。 この事は、近代の分子物理学、或いは分子-原子-化学が行なっているような、抽象的、空想的な形で、地上の物質のなかに、その物質の配置や凝集状態の根拠を探し求める方向では見つけられない。 この原子論的科学は、いわば観測不可能な存在、つまり物体構成の内部を覗き込み、原子や分子に関して、ありとあらゆる好ましい予想、仮説を考え出し、更には(今日(1920年)では減ったが、数十年前には非常に誇らしげに語られていた)、物体の構成の内部で生起している事象や、「天文学的認識」に関して語るわけである(現代においても、この抽象的傾向は変わらない)。 少し前(1900年代)には、この霊的作用が語られていた。以前、公開講演で述べたように(1;1920年3月24日の「人智学と現代の諸科学」という講演のこと。「精神科学と現代の生の要請」(小冊子5、1950年、ドルナハ))、今日(1920年)では、このような予想や仮説の証拠として、写真撮影を行う(実験データを取り評価する)。 心霊主義的グループにおいてすら、このような写真撮影の傾向にある。霊の写真を撮ろうとする。 今日、自然科学の研究者は、霊の写真を信用しない傾向があるので、自然科学の研究者にも、霊も原子も同じ存在ということを見通せる他者が、原子の写真も霊同様に信用に値しないことを、承認させる必要がある。なぜなら、原子の写真も、霊の写真も、共通の同じ影響下(いわゆる波動エネルギー)にあるからである。 (余談だが、現代物理の量子場の理論では、ゴーストという幽霊のような波動エネルギーをもつ場が、数学的に出現することがわかっている。これらは、電荷やスピン、或いは速度等の物理量の計算において、アノマリーという計算上の無限大発散を生じ、この事から、実験により、物理量の数値を、予め繰り込んで評価しようという繰り込み理論を生んだが、根本的解決には至っていない。 そこで超弦理論が登場したが、もはや物理量の繰り込み云々の話ではなくなり、物理というよりも、数学上の理論で、観測が困難なので、有名無実化しているが、いまでは哲学的宇宙論の基礎になりつつある。 ここで、シュタイナーが霊も原子も同じ存在であると言及しているが、これはハイゼンベルグの不確定性関係を表現しているともとれる。) 植物のなかに見られるものは、原子や分子に関係する力ではなく、地球の外で作用し、地上の物質に影響を与えている力である。だから、地上に物質を配するなら、そのなかに存在するのは、この構造の配置に作用している原子や分子といった小さなデーモンたち(原子力や分子間力)ではなく、なんらかの宇宙(天体)的な力の作用である。 (これも余談だが、つまりは、ミクロ世界を知るには、マクロ世界を知らねばならず。この事が、化学力、つまりは電磁気力や核力というミクロ世界と、重力というマクロ世界の統一理論を阻む、スケール則における矛盾といえる。 この矛盾は、数学的には、それらを超対称性の基に統一する超弦理論のTデュアリティー(双対性)にそのまま引き継がれている。 つまりは、ミクロとマクロを同時に計れる基準定規(秤)など存在困難ということに帰する。大でもあり小でもある存在って何?というものである。結局、科学は、ギリシア哲学ほどにも知らない存在ともいえるだろう。) つまり、地球外の天体に、ある配置が成立すると、例えば、太陽系から土星が、地球上のある一点に特に有利に作用するような配置が成立すると、この土星が有利に作用できる配置というのは、土星の作用系統から、他の天体の作用系統が、できるだけ遠く離れ(つまり、土星が地球のある一点だけに作用できる場合(図参照))、すなわち、太陽の作用、火星の作用他が、土星の軌道内や、土星の軌道の近辺に無く、できるだけ遠く離れ、いわば土星だけが(孤立して)作用しているときだが、そのような配置が成立すると、地球で、土星が作用している点だけが、特殊化される為に、地球のこの箇所では、土星以外のその他の天体の地球外諸力にはわずかにしか影響されず、土星の力にとって、有利な天体の配置が存在し、地上のこの箇所での物質には、例えば、火星が強く作用する場合とは異なった構造が引き起こされる。 地上の物質のなかに見れるものは、星々の共同作用の産物に他ならない。従って、いま地球の特定領域をみる場合、つまり、土星が、地球の、ある特定の箇所に特に有利に、そして長期間作用する場合、この箇所に、鉛の出現をみることで、この鉛の産物のなかでの(土星の)作用が明らかになる。 これが、ある種の地上の物質、特に金属が、地球外の宇宙の、ある天体配置と関係づけられなければならない理由である。ここで可能な事は、今日の研究、今日の人智学が提供できる知見を、以前、太古の叡智から提供されていた知識、本来、再発見することでしか理解できない知識との対比に導く事に他ならない。 というのも、古代文書というものは、今日の化学的、物理学的思考の人々にとって、実際、根本的に読解不可能な存在だからである。以下の例は、この事を教えてくれる。 北欧のある非常に聡明な学者(2;Theodor Svedberg、スウェーデンの化学者。恐らく、「物質」(1912)という著書のこと。1914年にドイツ語に翻訳出版された。)が、ある錬金術の歴史として書き留めた事柄で、彼の言葉でいえば、「(錬金術は)今日の化学的概念からすれば全く無意味な手法(プロセス)」として挙げている。 確かにそこに記述された言語表現そのままの手法(プロセス)からは、何も発見できないだろう。近代化学の意味からは、全く妥当である。その記述とは「鉛プロセス」のことである。しかし、この善良な人物は、この「鉛プロセス」によって、背後に密かに「種子形成プロセス」が説明されていることを知らなかったのである。 彼は、この「鉛プロセス」によって、現在の実験室内での現代的な実験方法(プロセス)が説明されていると錯覚し、当然無意味な手法と考えたわけである。けれども、術語を完全に、いわば現代とは、別世界に適用する必要のあること、表現自体を、全く別の術語と考える必要もある事を、この人物は全く知らずに、彼にとって、この「鉛プロセス」は無意味となったわけである(猫に小判)。彼は現代では正当だが同時に、勿論、当時では正当ではない。 つまり、地上の物質を、地球の周囲から地球に働きかけている(天体の)諸力に関係づけることができる。特に金属の研究を、これから述べることで、その手法を暗示していくつもりだが、この手法で実施するなら、この研究は、全く特定の関係を明らかにする。 つまり、例えば、鉛は主に、他の天体に妨げられない土星作用に関係づける必要があり、錫は、他の天体に妨げられない木星作用、鉄は、同様に火星作用、銅は、同様に金星作用、今日、化学で、水銀と呼ぶ金属は、他の天体に妨げられない水星作用に(だから古代の人々は水星と、水銀を同じ名「マーキュリー」と呼んだのである)、関係づける必要がある。 更に、霊的な銀全て(金属の銀も含む)と、月作用との間の親和性を認識する必要がある。今日(1920年)の文献を読むと、「古代、銀と月の親和性が確立されたのは、月が銀色に輝いて見え、人々が、月のこのような外見上の特徴に従っていた為」とされているが、これはとんでもない間違いである。 その頃、なされていた個々の金属に関する研究の性質は、実際、精密であった事を知っている人は、このような間違いを容認できない。とはいえ、この事から、銀以外の他物質(金属)についても、充分、形成の機会が提供されていることがわかる。なぜなら、いま名前を挙げた鉛、錫、鉄、銅、水銀、銀は、究めて傑出した物質ばかりだからである。 土星;鉛、木星;錫、火星;鉄、金星;銅、水星;水銀、月;銀 地球以外の他のあらゆる惑星作用が、ここに暗示した作用と競合し合う事で、つまり例えば、土星作用系に、火星作用他の系が入り込むことにより、以上に挙げた以外の他物質(金属)に対しても、様々に豊富な形成の機会が与えられる。この事により、また副次的金属も生じてくる。 しかし、いずれにせよ、地球の金属世界のなかに地球外(天体)の諸力の作用の結果を見る必要がある。この事によって特別な形で、金属の作用のなかに表現された存在が、植物のなかにみられる存在と結びつけられる。 なぜなら、薬剤のなかにある、鉛、錫、鉄等を考えれば、地球外(天)、つまり、地表より上方で生じる、植物の花-種子形成に関する全般が、ほぼ全て一緒に得られるからである。また、銅、水銀、銀全般と関係づけるべき存在は、植物の根形成関連全般と結びついている。 鉛、錫、鉄全般=植物の花-種子形成 銅、水銀、銀全般=植物の根形成 (太古の科学ともいうべき、これらの叡智、つまり霊科学の用語を、現代でも、その本来の意味を知らずに使っている場合によく出くわす。 最近、私が気が付いたのは、「エレメンタル」という用語、これは「要素」とか、実験データの「成分」、つまり「値」として使っているが、霊科学では、「精霊」を意味する。 「精霊」とはアリストテレスが説いた四大元素霊のことで、土、水、風あるいは空気、火を意味し、神秘学でいえば、妖精のことで、ノーム、ウンディーネ、シルフ、サラマンダーのことである。 素粒子は、エレメンタリーパーティクルだから、妖精をパーティクル、ただ粒子に置き換えたともいえる。 つまり、太古では、実験室に、精霊を呼び出して対話することが、科学だったのである。それがいまでは、物質化して、実験室で、実験データをとることが、「エレメンタル」を知ることになるわけである。 更に面白いのは、その実験データを比較するための、基準データを、「コントロール」と呼ぶのだが、コントロールというのは、霊科学では、支配霊のことを意味するのである。支配霊とは、精霊より、高度に進化した位階の上位の自然霊のことで、簡単にいえば、神の存在に近い霊のこと、天使の存在のことである。 だから、太古の科学では、支配霊と、精霊を比較することを、意味するわけである。それがそのまま物質化して、実験データを基準データと比較して変分、変化を評価するのが現代科学なので、霊科学をそのまま形骸化して、写し取っているともいえるわけである。 中世では、この事を錬金術と呼んだが、錬金術とは、シュタイナーがいうように、精霊を降臨させて、対話し、支配霊、つまり天使のメッセージ、いわゆる天体の配置、神の意志を読み取ることだという。 更に歴史を遡ると、精霊ではなく、実際に、神々を降臨させ、合体することを目指し、それが太古の神殿で行われた科学で、それらが堕落して、人間の性の営みとなったという。性の秘密とは、男女が交わることで、霊界まで扉を開き、なんらかの霊を降臨させることだという。 無闇矢鱈に性を乱すと、悪鬼を呼び出したりで、霊界が混乱するので、秘密にされたともいわれる。性交は霊の降臨なので、厳粛な儀式と同じなのだろう。古事記、日本書記の岩戸開きの記述にもみられる。 神殿での儀式から、性交を研究していくと、霊の降臨の歴史が解き明かされるかもしれない。そのうち、簡単にまとめたいと思う。性交が神聖な儀式であるほど、高貴な霊が降臨するのかもしれない。そういえば、正常位を、宣教師ポジションと呼ぶのは、関係があるのかもしれない。)
2008年12月03日
コメント(0)
現代の自然科学的見解において、心臓に対して適用されている、例の心臓=ポンプシステムを支持できない事は既に述べたが、この事を除外しても、まるで心臓が、いわば自身の皮膚によって、外に対して閉鎖された活動に尽きているかのように、今日でも、想定されているというのは、実際、恐るべき事である。 今日では、実際、心臓は、自身が脈打つ鼓動との関係だけが想定された物質的存在である。しかし、この心臓に関する想定は間違いで、一種の器官存在としての人間は、宇宙プロセス全体に組み込まれ、人間の心臓は、人間の生体組織のなかにある単なる1つの器官ではなく、全宇宙プロセスの一部でもある。 そして、植物で生じていること、太陽の(天動説でいう)上位の天体(火星、木星、土星)と太陽の下位の天体(月、水星、金星)との共同作用は、人間にも起こり、その顕現が、心臓の運動(鼓動)のなかに見つけられる。 心臓の運動(鼓動)には、人間に起こっている事だけが刻印されるのでなく、人間の外にある(天体の)関係も刻印されている。 人間の心臓を考慮するのなら、心臓のなかには根本的に、宇宙のプロセス全体が反映している。人間とは本来、唯、霊-魂の存在として個別化され、人間は、宇宙のプロセス全体に組み込まれているのである。 例えば、心臓の鼓動は、人間に生じていることの顕現ではなく、全宇宙の光と重力の間で生じている闘いの顕現であることにより、宇宙全体のプロセスに組み込まれている。 (ここで、シュタイナーの説く心臓とは、物質的な心臓だけでなく、エーテル的心臓をも意味している。物質的心臓の不調は、エーテル的心臓の変調を補完することで生じるので、例えば、物質的な心臓移植により、エーテル的心臓の変調を、物質体からエーテル体に影響させることができれば、補完することも可能である。 つまり、なんらかのエーテル体の異常な流れを戻そうと物質体に影響が出て、それが障害や病となって顕れるのである。これはいわば、川の流れとその周辺の侵食に類似する。だから、堤防をつくって、川の流れを元に戻せばよいが、これが人工的な心臓移植にあたるが、川の流れを掴まないと、なかなか巧くいかないわけである。 この喩えのように主従関係はあくまでエーテル体が上位にあるので、エーテル体の変調が、再度、物質体になんらかの不調をもたらすことがほとんどとなるだろう。つまり、心臓移植だけでは、対処療法で、根治のエーテル的な心臓の変調を治癒しない限り、再発するだけである。結局、病は気からである。) 次のような例は、よく行うことだが、上記のような、人間が、宇宙のなかに置かれている事実を、次のような計算を行い、究めて粗雑な具象性により、一般的な説明を試みる。 人間が1分間に大体18回呼吸すると考えると、この呼吸数は、1日、つまり24時間で、一定数、つまり18(回)×60(分)×24(時間)=25920回に達することがわかる。 1人の人間の生きる1日をとってみると、1年が約365日あり、この人が平均寿命、つまり大体71歳まで(勿論、更に長生きする可能性もある)生きると考えると、人間の寿命日数は、1日24時間の呼吸数と全く同じ、365(日)×71(歳)=25915という数になる。 更に、黄道十二宮を巡る太陽の運行の全体、つまり1プラトン年を、太陽が、例えば春分点を牡羊座から昇るとして、再び、そこに戻ってくるまでに要する時間を考えれば、25920年(春分点が黄道を1周する時間)となる。 ここに、人間と全宇宙との関係を表わす、不思議な数の例証が得られた。なぜなら、これは、人間の寿命日数と同じ数(25915)を、太陽の運行の年数、つまり1プラトン年(25920年)で示しているからである。 人間の寿命=1プラトン年(太陽の天球1周分) この数の例証は、明白に示せるが、宇宙の存立の無常な深みまでも暗示している。実際、人智学においても強調されてきた事実に、着目すればわかる。 つまり、その事とは、「人間が、眠りにつくと、人間の自我とアストラル体は、物質体とエーテル体から離れ出て、目覚めるときにまた入り込む」、ということである。 この事実を、一種の、物質(肉)体を通じて、霊-魂を吸ったり吐いたりする事(呼吸)として想定すれば、この霊-魂の呼吸により、この人間は生存するので、生存期間、つまり平均寿命は、1日の呼吸数に帰すことになり、丁度、25915、或いは25920となる(この5日の差は閏日がある為に生じる)。 1日の呼吸数(25920回)=人間の寿命日数(約71歳=25915日) 更にまた、宇宙のなかには、これと同じ数に従って、太陽の運行、見かけ上の太陽の運行と関係するものがある。この宇宙の進行のなかには1つのリズムがある。このリズムは、大いなるもの(宇宙霊)のなかに現われ、1人1人の人間の寿命のなかにも、1日の呼吸プロセスのなかにも現われている。 有史以前の世界が、遺伝的な霊能力から、ブラフマーの昼と夜について、宇宙の呼吸について語っていた事も、この事から不思議に思わないだろう。なぜなら、この宇宙の呼吸が、人間の日々の生のプロセスのなかに、そのミクロコスモス的な像をもつ事を、有史以前の世界では、既に気づいていたからである。 実際、共感や反感ではなく、具体性に基づく、以上の事柄によって、太古の叡智を、真に賛美できるようになる。数え切れない位の多くの具体例のなかに、次のような事を確認しなければ、太古の叡智の賛美者にはなり得ないだろう。 つまり、「太古の叡智のなかに再び見つけ出され、太古の叡智をもつ人間が知っていた事柄と、今日再び獲得できる知識の間で、全く消滅していた事柄が、今日、このような事実から、発見できるようになった」という事である。 真なる認識を目指して努力する人が、太古の叡智の賛美として育成する叡智は、太古の叡智を目指して、盲目的に突進することから生じるのではなく、現在においても成立する、ある全く具体的な関係を洞察することから再び生まれてくる。 (聖書にも、神は人間をつくるにあたり、人間に息を吹きかけたと記述されている。つまり、上記の宇宙の運行が、人間の心臓に刻印されていることを、記述していることになるのである。これはマクロコスモスとミクロコスモスの相応を呼吸で示している記述なのである。)
2008年12月02日
コメント(0)
さて、昨今みた討論番組で、一番劣悪だったのが、「朝まで生テレビ」で、田母神を庇う人の愚痴のオンパレードで、見ていて興醒めしてしまった。民間企業でも、新聞沙汰になるようなことをすれば、情状酌量の余地なく、それだけで、懲戒免職を食らうのであるから、自衛隊って、なんて甘い組織なのか?と思わざるを得ない。しかも、民間企業よりも高い退職金まで貰うというのは、これからも自衛隊を私物化するような人物が出ても、不思議ではなくなってしまうだろう。 一体、どちらが、国を守っているのか、わからなくなってしまった。この一件だけをみても、自衛隊のために国があるような気がしてきたから不思議である。憲法の言論の自由は、自衛隊のためにあるのではなく、国家、国民の忠誠のためにあるだから、話がアベコベであろう。まるで、自衛隊のために、憲法を改正しろといっているようなものである。 しかも、自衛隊員は国民でもあるので、言論の自由の恩恵は認めろと都合のいい解釈を持ち出している。自衛隊員と民間人では立場や責務が明らかに異なり、民間人では許されていない武器の携帯も許されるわけだろう。だから、まだ、このような馬鹿解釈が罷り通らないように、防衛職務に就く責任者には、言論の自由は認められないと、自衛隊法にでもはっきりと明記すべきだろう。 戦中の統帥権の都合のいい解釈と同じにみえる。天皇本人すら認めない統帥権を持ち出すようなものだから、もはや理性を失った人間のようにしかみえない。 そもそも、憲法というのは、為政者を戒めるためにあり、為政者が権力にかこつけて、利己的欲望をかなえようとする暴挙を、抑制し、取り締まり、自制を促すためにあるのだろう。 いわば記憶力の過多依存からの体制破壊への抑制と、思考力の濫用による身勝手な着想からの権力への抑制による、中庸精神の育成を求め、理想的な未来社会構築のために、憲法はあるのではなかろうか。 「朝まで生テレビ」は反面教師にはなったが、何も歴史的教訓をもたらしてはくれなかった。対してBS11でやっていた「もし、張作霖爆死事件を徹底的に裁いていたら」という歴史IF番組は、非常に、歴史的教訓をもたらしてくれた番組で秀逸であった。 張作霖爆死事件は、田母神論文問題とは、いまも昔も、名前こそ、帝国陸軍と、自衛隊と変わろうが、同じ日本人の軍閥官僚として、よく似ている現象ともいえる。日本人組織の特徴は、身内に甘く、特に身分が上になるほど、この甘い傾向が顕著になる。お役目よりも、血縁や人間関係が優先されるようになる。 張作霖爆死事件は、首謀者を死刑に処せよと天皇が命令しているにも関わらず、陸軍内部で揉み消してしまうのである。天皇の面目丸つぶれであり、天皇は飾りにすぎないという本音が見え隠れするものである。その後、天皇の預かり知らぬところで、統帥権が勝手に一人歩きして、陸軍が暴走し始め、海軍も負けてならじと、対米決戦へと開戦するわけである。 泣いて馬蜀を切るどころか、泣いてる振りをして、笑いながら馬蜀を逃がすのであるから、馬鹿らしい。 このような当時の状況をみていると、さぞかし、昭和天皇の御心痛が思い浮かべられる。天皇の知らぬ処で勝手にはじめられ、悪くなると、責任だけを天皇に被せるようなものだからである。 「朝まで生テレビ」をみていたら、日本は、米軍に占領されるべく、占領されたという感がしてならない。かつての日本陸軍のような、自分勝手に戦争をはじめる軍隊、ゲリラ隊など、危なかしくて、国際社会に受け入れられるはずがないだろう。戦国時代だって、褒賞を得るために、猪突猛進した将は、事後処罰の対象になっている。有名な賤ヶ岳の戦いでは、佐久間盛政の突出のため、柴田軍が滅亡したのは歴史のよい教訓である。 「武」というのは、充分、自らの力を悟り、自制力、理性が働いた、制裁力を表現する漢字である。だから、「戈」(力)を止めると書くわけである。 理性を失った武力ほど危険なものはない。 いまになって、先の大戦は騙されたものだというのは、応仁の乱が陰謀により行われたというのと、五十歩百歩で、似たようなものである。同じ主張ならば、なぜ、日本は騙されたのかに言及した方が、まだマシだろう。 一連の議論をみていると、吉田茂が、駐米軍を認め、日米安保の基礎をつくった賢さばかりが浮かびあがる。 「どうも、日本人はすぐに頭に血が上り、血気に流行り、逆上せ上がって、困ったものだ。何事も辛抱、忍耐、寛容力こそ重要なのに、そこいくと、西洋人の忍耐強さには畏れいるよ」、というようなことを言っていたのは勝海舟だから、日本人は、幕末以来、変わっていないのかもしれない。 軍事のことは西洋人に任せておいて、経済の心配だけしているのが、日本人の性に合っているようである。 実際、自衛隊というのは、米軍の極東の留守部隊のようなもので、派手さはないが、堅実で重要な砦である。米軍が出て行くと、相手に、武力のない間の隙を狙われる恐れがあり、軍事でいえば要、城のようなものである。この重要さに気がつかない愚か者は、軍事の何たるかを知らない輩である。だから、情報こそ、命という面がある。 留守部隊の重要さは、「動かざること山の如し」の武田信玄の慣用句を彷彿ともさせる。信玄は諜報活動ほど最も得意とした。諜報活動は経済活動と結びついて、国を富ますものだし、信玄は同盟、条約をよく用いてもいる。また、信玄は人材登用にも優れ、肉親であろうと、容赦なく、切って捨てている。父は追放、子は切腹させている。 それが、勝頼の代になると、血気盛んになって、出て行って、かえって武力で国を滅ぼしてしまうのだから、軍事の要諦は、用いる人格に帰することが明らかであろう。信玄の軍略を学んで、北条氏の法を学んだから、家康は天下を取れたわけで、家康ぐらい、様々な人物に学んだ人はいないだろう。 信玄のような大人物はもはや望むべくもないが、平和憲法の有り難さを、実感している者は、先の大戦を庶民として知る者のなかに、少なからずはいるだろう。 平和憲法を獲得するために、どれだけ多くの血が流されたのかについて、思いを巡らすことができないのは、日本人の昨今の威勢だけよい馬鹿さ加減を象徴しているようで、真事に恐ろしいことである。独り立ちとは、自分で認めるのではなく、周囲に認められることだということすら、わかっていないのが、いまの、巷を騒がせる日本人(あくまでも一部であって欲しいが)なのだろう。 懲りない田母神さんは、自衛隊は「手足を縛られた軍隊」だと言っているらしいが、勝海舟が、緊急時であっても、自らの刀を抜かないように、縄で縛っていたということを知らないのだろうか? 海舟のような人物は、何度も暗殺で狙われ、本人も、その縄で縛った刀の御蔭で、何度も危機に際して、自分の生命を度外視することで、かえって生命を救うことができたと言っているのである。海舟は、荘子の説く、不用の用をよく知っていたといえる。 勝は、島田虎之助という武芸の達人の弟子でもある。また、海舟は間接的に、日本軍隊の祖でもある。海舟は、 切り結ぶ太刀の下は地獄なれど、一歩踏み行けば後は極楽 という詩を、その極意だと感心している。柳生但馬の無刀流や、晩年に刀を捨てた武蔵の人生を知らないのだろうか?軍備、軍備という前に、子孫として恥ずべきではないだろうか? その前に、精神を忘れてはしないか? 軍隊というのは、戦争するためにあるのではなく、戦争をしないためにあることすら、知らないのだろうね。つまり、現在の自衛隊の有り難さを最も知らないのが、いまの自衛隊の上層部という御馬鹿さんたちなのである。厳密にいえば、自衛隊は軍隊ではないが、そんなに戦争したいのなら、米軍や、仏蘭西の外人部隊でも入隊すればよいだろう。 わざわざ、法律に明記しなければいけないほど、己の精神が腐っていることに気がついていないようで、悲しいことである。刀なんかで武装しないと、生命は守れないというのなら、そんな生命こそ、刀に斬られ得る運命にあるといえるだろう。
2008年12月01日
コメント(4)
どうも、昨今、巷の討論番組をみていて、日本人は熱情馬鹿なんじゃないか?と思ってきた。以前、このブログにも、アトランティス時代の人種について書いたが、まるでアトランティス時代を深層意識下に懐かしんでいるような、懐古主義が、日本人の奥底にあるのではないか、だから、昔を否定できずに、常に肯定しないと生きていけず、昔を否定することに、異様な恐怖感を覚える人が多いのではないか、と思うのである。 一般的にアメリカ人が、金融崩壊で失敗しても、明るいのは、失敗を何度も人生において体験しているせいで、当たり前になっているせいなのだろうし、アメリカ人の忍耐強さを示すものでもある。だからといって、たまに、ブッシュのような馬鹿で塗り固めたいい加減で、単純な人間が出てしまうのは、やはり問題だろうが、ブッシュのような人間は全体数が少ない例外で、例外が指導者になってしまったところに、そもそものアメリカの間違いがある。 対して、日本人は、極度に間違いを恐れ、失敗すると、途端に一種の思考停止というパニックに陥る。そして、常に過去へのプロセスへの見直しに走り、かえってそれを正当化づけようと考える。原因の特定はよいのだが、方法論に走ってしまい、事前の見通しがなぜ巧くいかなかったかの方法を議論する間に、分けのわからない方向に進んで、何を失敗したかも有耶無耶にしてしまうのである。そして、似たような方法を少しアレンジして、リベンジを考える傾向にある。 見通しが外れるのが当たり前と考えるアメリカ人と、見通しが外れるのが困る日本人の大きな違いともいえる。だから、アメリカ人は挑戦するほど尊ばれ、日本人は、他となるべく同じであるほど尊ばれる傾向をもつ。 日本人に対して、最近、特に思うのは、思考力の欠如である。田母神論文の一件は、その最たる例で、自分の好きな日本にならないと、生きていけないような稚拙さ、軟弱さを感じるのである。自衛隊の上層部でさえ、このような甘えの構造のなかにあるのだから、巷に理性、つまり自制心、忍耐力に欠ける人々が増えてしまうのは、ある意味、現代の日本の特徴といえるかもしれない。 思考力が欠如しているので、自分の行為が、社会にどのような影響を与えるかという意識が乏しいともいえる。もし、このような人物を、例えば、競馬予想家にすると、自分の予想を盲信するようなダメ予想家になること請け合いだろう。予想というのは、なるべく主観的データを排除することで、当たりに近づくからである。だから、思考力や、理性が必要とされ、思い込みは排除しなければならない。 思考力、特に論理的思考は、利己的願望を抑えることができるので、官僚の硬直化した悪しき先例主義を改善させることができ、実際、記憶力依存の人種の流れから、原セム人を生み出したということは、以前のアトランティス人の話で、このブログに書いた。 思考力は、人類が記憶力による悪しき使用からの破壊力を抑制するために、発達させた力である。この思考力が、原セム人のなかで、論理的なものとなり、恐らく、論理的な言語も、セム人からはじまったのだろうが、過去への思い出を脱して、様々な体験内容を比較するようになり、判断力が培われるようになったというから、思考力の欠如は、判断力の欠如を誘発することになる。 端的にいえば、過去の思い出に拘る余り、現在の判断力を失っている人間が増えているといえるわけだ。過去に生きている人間が多いような気さえする。 原セム人から、我々の時代の祖であるアーリア人が生まれたことは、既に書いたが、今度は、この思考力が行き過ぎ、アッカード人のようになると、自分勝手な着想を、一般規則にしようとする要求から、秩序をつくりだそうとし、法や規則が生まれたわけである。 要するに、記憶力に過多に依存してもバランスを欠き、思考力を過多に用いてもバランスを欠くわけで、例えば、記憶力を「陰」とし、思考力を「陽」として、陰陽のバランスを取り、中庸を図るのが、懸命な理性というものだろう。 これからは、「記憶力」と「思考力」のこの陰陽のバランスを考えた教育プログラムをつくるべきだろう。例えば、問題にしても、従来の多くの記憶力を問うものだけでなく、思考力を問うような、例えば、条件を与えて、この条件から、どのような展開に発展するのかを問うようなものが必要だろう。 巷に多いのが、記憶力を問う問題ばかりで、小論文のようなものは、採点者の手間がかかるので、敬遠しがちな傾向だが、これは、数学や、特に幾何学、本来の哲学、あるいは、倫理や道徳という形で問えばよいように思われる。 例えば、「なぜ、人を殺してはいけないのか?」という問いに対して、記憶力からでは、「倫理に反するからいけない」としかいえないわけで、では、思考力から、倫理とは何かといえば、「もし、人を殺してしまえば、どういう裁きを受けざるを得ないかということを、論理的に立証して、説いていかなければならない。 もし、一人を殺せば、その人が、結婚して、子供を産んでいたかもしれないわけで、同時に家族や周囲の人の悲しみを生じさせるわけで、少なくとも、その人の将来、社会に尽くしたり、喜びや、悲しみの体験の機会を奪うことになり、更には、その人が考えられるべき、多くの人を助ける行為をも奪ってしまうことに、論理的思考により、気づかせることが大事になるといえるだろう。 このような自分の行為に対する将来の代償に対しての教育が不充分なので、後から、自分の行為の責任の重さに耐えられなくなってしまい、愚痴のような言い訳しかいえない人間となってしまうのであろう。その地位に就く前に、予め、その責任の所在を理解すべきである。世襲人事が進むと、その地位に対する責任感が麻痺してしまうのだろう。 要するに、昔からいうような「お役目大事」という意識に乏しいといわざるを得ない。
2008年12月01日
コメント(2)
人間の観察を行うなら、既にこれまでの議論により、人間も両極的に方向づけて考えなければ、うまくいかないことがわかるだろう。というのも、植物では、下から上へと成長を示すものが、人間の場合では、上から下へと成長し、その為、人間の場合、性関連及び排泄プロセスにおいての、花と種子は、下に向かい、根は上に向かうからである。ただ、これは人間の場合では、機能面であり、植物の場合では、物質的プロセス面となる。 人間の機能プロセス;性関連及び排泄プロセスでの花と種子は下に向かい、根は上に向かう。 この事からわかるが、人間のなかには、植物のなかに存在するものとは反対のものがある。しかし、人間のなかに、反対のものがあるのではなく、この反対を担うものがある。従って、次のように言わなければならない。 「人間のなかには一面において、機能的に、いわば上に向かって根を張るもの、下へ向かって成長するもの、つまり植物のようなものがあり、そして、外界の周囲には、今度は下から上への傾向をもつ、物質的な植物がある」、と。 その為、本来、植物の場合、上の領域から(花や種子のように)取り出すことと、下の領域に(根のように)沈降することが、季節ごとに時期的に巧妙に行われるのに対し、人間の場合は継続的に同時に行われる。 そして、元々、人間の健康な生も病んだ生も、この相互変動のなかにある。今示したように、一方で、地球から上に向かって作用する担い手が存在し、他方で、上から下への作用が、同時に、この担い手のなかに押し込められている。 健康な状態も病気の状態も、人間の生は、これら上下の力の共同作用のなかにある、ということを容易に見て取るには、いわば、なかば従来の知識に絶望し、1つの重要な事実の前に立つときである。 つまり、人間の生体組織については、心臓より上に位置する上部の考察と、心臓の下に位置する下部の考察では、全く別物として扱わなければならない、という事実である。 この心臓から上部、或いは下部によって場合毎に、人間は別の原理に従って観察すべきである。この事は、ある事実、例えば、クル病のときの初発症状の頭蓋ろうに対する、謎めいた事実のなかに現われている。 クル病(主症状として、脊椎や四肢骨の骨軟化による湾曲や変形として現れる)と、頭蓋ろう(乳児における頭骸骨の異常な軟化)の両者は、人間を統一体として観察する人にとっては、類似した疾患にみえる一方で、他方、人間の上下対極的に異なる領域(クル病は主に下半身、頭蓋ろうは、頭部つまり上半身)から出るために、全く異なった原理による観察が避けられない。 この事は治療プロセスにまで及ぶ重要な意味をもつ。だから、クル病では、燐療法により、ある種の成果を示した医師たちは、おそらく、頭蓋ろうの場合、燐療法では全く成果をあげられないだろう。この場合、炭酸石灰等の治療により、(燐療法とは)反対の処置をとらなければならないからである。 しかし、これは、全く一般的な事実を表わすものにすぎない。この事実は、あまり心地よいものではないが、全くの真実である。つまりこれは、次のような事実である。 人間の治療の場合、つまり医学の領域に入っていく場合、何かが提唱されると、その反対(逆)もまた、常に同時に正しい場合もある。これは宿命でもある。 (植物の場合は、エーテル体が、季節ごとに成長するが、例えば、春に花や実、冬に根を張るといったことだが、人間の場合は、季節に関わらず、常に上下へと逆に活動しているからである。 植物は、季節ごとに円環、ライフサイクルが巡り、完結するが、人間では、中心に向かうような融合円環と、表面に向かうような拡散円環が同時に起こり、上下の両極性を為しているようである。) 誰かが、ある病気に対する正しい治療法を示し、生体組織における一見全く同じような症状に対して、(発病の上下部位の差異にも関わらず)適用すると、この治療法は逆に、無効となり、それとは反対(逆)の治療法を取られねばならないことも、十分起こりうる。 その為、1つの治療法で処置できるのは組織の一部だけで、他の部分には、別の治療法で処置しなければならないということを意識しなければ、医学では常に、ある治療理論を別の治療理論によって撃退してしまう可能性も起こり得る。 しかし、ここで重要なのは、いわば植物では分離され、現れるプロセス(根形成)と、人間では、組織化の一面を決定するプロセス(殻形成、固化)を、正確に見据えることである。 以前、いわば人間外の自然特有の三つの形成衝動に着目した。つまり、塩的形成衝動、水銀的形成衝動、燐や硫黄といった特定物質が、計測不可能な霊力を、自らのうちに保存し、計測不可能な霊の担い手となることにより成立する形成衝動である。 水銀形成(塩形成、燐形成) いま述べたことに関連し、人間外の自然の、これら三つの異なる内的形成衝動の差異とは、一体どのようなものなのか。そのプロセスにおいて、霊的な塩の存在、もっと良い言い方をすれば、形成プロセスにおいて塩に通じる全般は、内(精神)的プロセスを、重力の領域に移行させる存在である。 古代の医学的著作を読むなら、古代の文書での、物質の塩化に関する記述箇所では、常に、次のような事を考えると理解できるだろう。 つまり、「この箇所では、この(塩化)プロセスによって、(生成した)当の物質が重力の支配下にあり、一方、その反対のプロセス、(光)プロセスによって、今度は計測不可能な霊が、この重力から取り去られる」、ということである。 つまり、光をその他の計測不可能な霊の代理、代表者とするなら、人間外の自然においても常に一貫して、光と重力との闘い、地球外(天)を目指す存在と、地上的な物質を、(地球の)中心へと向かう存在との間の闘いを考える必要がある。 ここに存在するものはまず、重力-光の対立である。 そして重力と光との間を揺れ動き、絶えず均衡を求める存在、これは水銀のなかに現われる。水銀的な存在のなかに含まれるのは、光と重力の間で絶えず均衡状態を求める存在に他ならない。 さて、ここで重要なのは、この塩、燐、水銀の対立を、実際、宇宙全体のなかに、つまり、重力や光に、そして、この両者の対立、すなわち両者の均衡を求めるなかにも置いてみることである。 さて、この完全な対立のなかに独特の形で置かれているのが、人間の心臓の活動全体である。
2008年12月01日
コメント(0)
全16件 (16件中 1-16件目)
1