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さてしかし、前回の葉の形成から上への太陽と、太陽の上位惑星の2つの要素が、単に一緒に作用するだけでなく、更に、この両者に対して、特に、月から発する力と、いわゆる(天動説でいう太陽の)下位惑星、すなわち、水星と金星から発する力が作用を及ぼしている。 水星、金星、月は、植物のなかに、地球への、つまり下方への傾向を生み出し、根の形成のなかに、その顕著な力を現すのを見出せる。従って、地上的に出現する全ては、実際、同時に、月と関連し、太陽の下位にある惑星(水、金)に影響を受けている。 植物の上部構造(花、種子形成);太陽と火星、木星、土星 植物の下部構造(根形成);太陽と月、水星、金星 つまり植物のなかには、人間の一部でもある、この太陽系全体が表現されている。植物のなかには人間の一部でもある、この太陽系全体が表現され、他面では人間のなかにも、この太陽系が表現されている、ということを知らないうちは、植物組織と人間の組織との間の関係を見通すことなどできはしない。 実際、次のような事実に着目すればよい。根形成への傾向をもつ植物、つまり、花形成への傾向の植物ほどには、花-種子形成プロセスを完遂していない植物を燃やすか、或いは、植物全般の根を燃やすと、花を燃やすときよりも、或いはヤドリギや樹の類の寄生植物を燃やすよりも、遥かに多量の灰成分が出る、という事実である。 この違いは端的に、太陽の下位にある、つまり月、水星、金星が、根形成に向かって強い傾向を示すような植物に対して、より強く作用していることに由来する。灰のなかには、鉄、マンガン、珪石といった、実際、直接の薬剤を析出し、植物を薬として利用するときに、現われてくる成分が見出される。 対して、根傾向とは反対の種類の(花、実傾向の)植物を燃やすときには、灰の成分は僅かしかない。この燃焼プロセスのなかに現われる存在は、植物が、地球上にだけ属すのではなく、宇宙全体の一部を示す、正確な外形(物質)的ドキュメントである。 植物プロセスを完全に観察するなら、一年生植物の場合、植物プロセスはいわば、種子形成と共に、ある特定の季節に中断される。つまり、この種子形成を、主に地球外(天)の力に還元しなければならない。 しかし、この種子形成は中断され、再度、地上に委ねられる。もし、中断されずに、そのまま年を越したなら、ある意味、もっと高い段階に到達した発達が、中断され、新たな年となるには、いわば、それより低い段階で再び継続されなければならない。 だから、植物の成長全体のなかに、独特な進行を観察できる。いま、地球の表面を考えてみると、植物全体が地上から生え、地球外(天)に向かっている(図参照)。しかし、地球外(天)で形成されたものは、再び地球へと戻され、循環が新たに始まる。 従って、植物の成長全体を観察するなら、本来、天の諸力が毎年地球へと降下し、地球の諸力と結びついて、この循環が新たに完了するわけで、つまり、天の諸力は毎年、花-実を、根のなかに沈降させ、その事によって、植物の成長全体を支配する円環を達成する。 ここに指摘している事、実際、地球の植物相とみなせる存在のなかに、地球自身(地)と地球外(天)との相互作用を、完全な形で示すものがある。 この事は、形態に及ぶだけでなく、内的な化学現象と器官組織全体にも及んでいる。なぜなら、地球が、その形態の機構において、宇宙に克服されるのと同じように、いわば植物での地球的(地)な化学現象も、地球外(天)によって克服されるからである。 そして、この地上の発展が、ある程度まで克服されると、今度は、地上的な化学現象を示す為に、再度また、地上に戻される。更に、地上的な化学現象は、灰に現われる全てを、外的証拠として示すこと、つまり地上的な化学現象は、生命から、抜け落ちる存在によって表わされるということが、ほとんど明確になるだろう。 この地上的化学現象は重力に屈服し、一方、植物の上へと向かう成長は、重力その他の地球に結びついた諸力を、絶えず克服する。こうして、重力と光の両極的対立について語ることができる。光とは、絶えず重力を克服するものである。 そして、この、光と重力との闘い、灰へと押し入る力と、火へと押し入る力との闘いのなか、このプロセスのなかに、植物はある意味、拘束されている。 ここで、示されるのは、灰化する存在(物質)と、火のなかに開示される存在(霊)との両極的対立、計測可能な物質と計測不可能な霊との対立である。さて、ここで一面において、宇宙的関連のなかにある植物界が得られた。
2008年11月27日
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今回述べる事は、実際、少々気懸かりである。というのも、充分長い時間をかけられたら、単なる幻想と簡単にみなされることはないが、更に治療の特殊な面にまで入っていくべき事を、いわば完全に理解できるようにする為ということで、わずかな時間で大まかに通過していくわけだから、単に項目別に並べ立てたようにみえるからである。 それでもやはり、できるだけ充分根拠があり、それどころか今日の自然科学の基礎となっている事柄以上に根拠のあることを表現していく。今回は、初めに、「植物形成のプロセス」を、宇宙的関連のなかに置いて見ることから始める。 これまで見てきたように、人間においては、「植物生成プロセス」において開示される存在とは逆のプロセスが、いわば機能的に働いている。従って、人間に対する植物界の直接の関係を見出す為には、この「植物生成プロセス」を、少なくとも暗示的にみていく必要がある。 植物をみると、植物は、その形成プロセスにおいて、明らかに対立する二つの傾向を持つことがわかる。 一方は地球(の中心)へと向かう。そして以前、既に暗示したように、いわば「樹」のような植物では、その「幹」のなかに、地球が、いわば捲り揚げられ、そのため、「樹」の場合、花は、通常の草のような植物や下等植物が地球(土)に根付くように、その「葉」とともに幹に根付いている。 さて、一面において、植物の地球(の中心)へ向かう傾向へと注意を促される。けれども、他面において、植物は地球から離れようとしている。植物は、単に地球の引力に対抗する構成力によって、地球から離れようとし、その形成プロセス全体、それも内的形成プロセスにおいて、地球から離れようとしている。 花のなかで、起こっている経過(プロセス)は、根のなかで起こっている経過(プロセス)よりも、遥かに、地上を超えた、地球外の存在に依存している。そして、このように、花の形成が、本来地上的でない諸力に依存していることを、見なければならない。 なぜなら、花-種子形成プロセスを、花の外に導く為に、植物により用いられる諸力、他ならぬ、このプロセスが、以前、暗示した、「人間のなかの、機能的に逆転した植物プロセスの為に必要になる」、ということが理解できるようになるからである。 この、「人間のなかの、逆転した植物プロセス」は、人間の下腹部において、排泄、分泌、性(セクシュアリティ)の根本にも関係する全般において、見出すことができる。このように、人間と植物の、このような逆転関係を探し出すときこそ、植物の地球上のプロセスと同様、地球外的なプロセスもまた、個別的に見つけられる。 ここで述べることは、古代の医学的文書から借用してきたことではなく、現代の人智学的研究に基づくことがわかるように、努力を惜しまないつもりだが、ただ、ときおり、術語において、古代の文献に依拠する試みを余儀なくすることもある。 何と言っても、近代の文献は、この方面の術語を、いまだ開発していないからである。けれども、ここで述べることを、古代の文書から引用しただけの知見と考えるような人は、全くの思い違いをしていることになる。 地上から上へと伸びていく植物の成長を追求すると、まず、葉と花の発生と形成プロセスにおける螺旋状の進行に着目しなければならない。 いわば植物の形成力は、茎をめぐる一種の螺旋状の進行に従っている。この螺旋状の進行は、植物の例えば、内的な弾力から引き出せるものではなく、地球外の作用、特に主として、見かけ上の(太陽に対する地球の運動を、やはり相対的に考える必要がある)、太陽の軌道の作用に帰すべきものである。 ある意味において、ガリレオ的-数学的物理法則よりも、より良い根拠に従って、星々の運行を、植物における形成プロセスの進行から徹底的に研究できる。なぜなら、星々が行うことを、植物は忠実に模写しているからである。 しかし、ここで、地球から上へと向かう、太陽に依存する、この螺旋状の形成の経過(プロセス)だけが、植物に働いていると考えるなら、間違いである。星々が、太陽を通じて引き起こされる、太陽系の運動と共に作用して、植物において、合力を形成しているのである。 しかも、この太陽の作用は、太陽の力に対して、(天動説でいう太陽の軌道の)外惑星(火星、木星、土星)の力が、螺旋軌道で対抗しなければ、いわば太陽力が、植物を占拠し、絶え間なく無限に継続させるような作用である(図参照)。 というのも、実際、諸惑星は、楕円運動ではなく、螺旋運動を行っているからである。そもそも、コペルニクス的世界観全体が今日検討され、他の世界観により補足されなければならない。 いわゆる(天動説による)外惑星、これは火星、木星、土星を含むが(天王星と海王星は、天文学でのみ、太陽系に加えることができる。この両者は、本来、太陽系の一部ではなく、外にあった異物が、いわば太陽系に接続したことで、入り込んだ存在である。従って、この太陽系により招かれた物体、つまり、この時一緒にやってきた、お客様で、度外視して語るのが正しい)、これらの外惑星の力は、通常、単なる、葉のつき方の螺旋構造だけ(太陽力)に現われる形態を押し止め、花-種子形成に作用し、上へと向かう力を後退させる作用を及ぼす。 つまり植物生成を、葉の形成から上へと観察すれば、その起源を、太陽と、火星、木星、土星との相互作用から成立した諸力に帰すことができるだろう。
2008年11月26日
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さて、人間は、ある意味、自らが外に出した存在、つまり、燐プロセス、塩プロセス、花プロセス、実プロセス、根を張るプロセス、葉を生やすプロセスと親和性を持っているが、それらのプロセスは、人間が、これら全プロセスを、実際、逆転させながら生き、人間のなかに、これら人間外の自然のなかに現れているプロセスを止揚し、反対のプロセスに逆転させようとする傾向をもつ意味において示される。 動物に対して、この傾向は同じではない。というのは、動物は、このプロセスを途中まで継続させているからである。人間は同じ意味で、動物の反対に置かれるのではなく、人間はいわば動物に対しては90度の位置にいて、植物に対しては180度の位置にいる。そして、これは、血清他のような動物性薬剤の使用に関する疑問が生ずるときに、最も考慮すべきことである。
2008年11月26日
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今回はアトランティス人の第5亜人類の原セム人について書き始める。第4亜人類の原トゥラニア人は、莫大な生命の形態(イメージ)の記憶力を、利己的に用いた為に、巨大な破壊力となったことを、前回に書いた。 この破壊力を抑制するために、人類は思考力を、第5亜人類の原セム人において生み出し、発展させることになったという。原セム人のなかで、論理的な思考が始まり、過去への単なる思い出を脱して、様々な体験内容を比較するようになり、判断力が培われたという。 そして、この判断力に従って、願望や欲望が統御され、計算や関連付けもはじまったという。第4亜人類の人々が自分たちの欲望を満足させることに精一杯だったとすれば、第5亜人類の原セムの人々は一歩進んで、内なる声に耳を傾け、利己的な要求を解消させないまでも、その欲望を制限する働きをしたという。 第5亜人類の原セム人は、行為の原動力を心の内部に移し、何を行い何をやめるべきかを自分で決めようとした。しかし、内部で獲得された思考の力は、次第に、逆に、外なる自然力を支配する力を弱めていったという。関連付けを行う思考力では、鉱物界の力は支配できても、生命力を支配できないからである。 原セム人は、生命力に対する支配権を棄ててまでも、思考力を発達させたので、人類発展のための新たな芽が生まれ、この第5亜人類の原セム人のなかから、最も優秀な人々が選出され、アトランティス人の没落後も、生き延びて、いわゆる、「高貴な」という意味のアーリア人の萌芽を創り出したという。 第5根幹人類となったアーリア人は、原セム人から生まれ、その思考力と思考に伴う一切の完全な仕上げを課題としているという。 第6亜人類のアッカード人は、それまで以上に、思考力を育成したという。原セム人とは、包括的な意味で、思考能力を使用した点で、異なるという。発達した思考力は、個人の利己的な要求を統御はしたが、この利己的な要求は思考力によって消されはせずに、残った。 第5亜人類の原セム人は、先ず思考力の命じる通りに、自分の個人的な生活を律し、単なる欲望や快楽の代わりに、賢明さを生じさせ、賢い人物が指導者として求められ、思考を一番納得させてくれる存在が最重要視されるようになり、思考力を通して、革新と変化への要求が現れ、優れた策略を思いついた者は、それを実行に移そうとしたという。こうして、人々の間に不安と動揺が生じはじめたという。 そして、第6亜人類のアッカード人になると、それが一層発展し、行き過ぎたものとなり、遂には自分の勝手な着想を、一般的な規則にしようという要求を、抱くようになり、秩序を考え出さなければならなくなったという。こうして法律と規則がアッカード人の下に生み出されたという。 アッカード人は、功利的な思考力で、何でも新しいものを求め、冒険と新建設へと人々を駆り立て、移住を好む冒険好きな民族になったという。特に、貿易によって、芽生えたばかりの思考力、判断力が益々促進されたという。 このアッカード人は、欧米の白人種の源流のような感じがする。 第7亜人類の蒙古人も同様に思考力を育成させたが、第4亜人類の原トゥラニア人のような特徴が強く残っていたという。 この第7亜人類の蒙古人には、第4亜人類の原トゥラニア人の特徴を強く残していたという。原トゥラニア人は、抜群の記憶を用いて、自然のなかにある生命力を、利己的に支配しようしたために、破壊的になったことは、すでに述べた。 これに対して、蒙古人は、一番古いものが一番良いものであり、それにはどんな思考力も及ばないという確信を抱き、生命力を支配することは、第4亜人類の原トゥラニア人とは異なり、できなくなっていたのだが、代わりに、発達させた想念に、生命力のもつ自然的威力にも似た力を具えたという。 この蒙古人が、古代中国、古代日本の源流にあるように思える。 蒙古人は、原トゥラニア人のように、自然の生命力を、直接支配はできなかったが、生命に対する素朴な信仰を失っていなかったので、生命力は、蒙古人の神になったという。 そして、蒙古人は、この生命力を神として、この神の委託の下に、正しいと思うことを全て行ったという。このような態度は、近隣の諸民族からは、まるで秘密の力に取り憑かれているかのようにみえるほど、この力に盲目的に帰依したという。 アミニズム的要素を有する日本人の自然信仰に反映しているといえる。 アトランティス人の第5亜人類の原セム人になって、アトランティス人全般の抜群の記憶力と、ちょうどバランスする思考力が、身についたために、それが、自制力となって、いわば無我の境地となり、ポストアトランティス時代の我々の根幹人類である、アーリア人の素質を生むようになった。 アーリア人は、古代インド人の源流だという。 聖書では、ノア(マヌ)により、アーリア人のなかから、我々のポストアトランティス時代の文化をつくりあげるために、有能なものが選ばれたと、暗黙糧に、記載されているという。 その後、ノアは、他のアトランティス人から、それら有能なアーリア人たちが、堕落しないように、隔離するために、隠遁生活をし、教育をほどこしたとされる。その伝説が、古インドの7人の聖仙として残っているという。 神秘学では、ノアは通称マヌと呼ばれており、このマヌはマナス(霊我)の担い手という意味で、黙示録が預言する、来るべき未来に、悪を救うための善の概念を創出するために、マニ教を打ち立てたという。 その秘儀の教えは、古ペルシャ時代に、ゾロアスターに受け継がれ、ゾロアスター教と形をかえ、更には、エジプト時代になり、ヘルメス、モーセに伝承され、それぞれ、ミトラ教、ユダヤ教の原型となったという。 ついでに断っておくと、マニも、ゾロアスターも現代人のように1個人のいわゆる1人の人間と考えてはダメだという。太古では、同じ記憶を受け継ぐものは、同じ名前で呼ばれるので、いわば、現代人でも、○○シニアとか○○ジュニア、○○何世という呼び方があるように、いまでいう複数の人間を意味するという。だから、古代人は長生きであるという。 さて、アトランティス人の第6、第7亜人類だが、これらは、アトランティスの大洪水のあとも、生き残ったが、もはや進化の可能性はなく、いわば爛熟した人種になったという。 この爛熟した人種の子孫が、中国人だという。中国民族が高度な文化を発展させたのは、それがアトランティスの文化をそのまま受け継いだからだという。 恐らく、蒙古人が中国人の源流なのだろう。対して、アッカード人はヨーロッパ人種の源流なのだろう。 しかし、中国民族は、私という自我の目覚めに疎いという。それは中国文化が、自らを超え出ることができず、みずからの内にとどまり、作り出したものを変えず、限度を超えない特質をもつことに現れているという。それこそ、アトランティスの文化そのものの特徴だという。 つまり、古代中国文化はアトランティス文化を非常によく受け継いだが為に、それ以上、発展することができなくなったという。あまりに完成しすぎるとあとは衰退あるのみだという。 どうやら、前に進むためには、屈伸しないといけないように、「急がばまわれ」というのは本当のようである。 日本人が、停滞や衰退を極度に恐れ、中国人の古いものへの信仰に対して、あくまで新しいものへの好奇心は、蒙古人の悪しき面を反面教師にしているのかもしれない。 しかし、論理力や、その高度な理性に欠けている日本人、並びに中国人が、懐古主義に浸るようになると、日本人には、民族として、もはや前進、つまり進化が望めなくなるのではないかという危機感が、昨今、非常に頻繁に思わされる。 空気が読めないとは、気が読めないことで、記憶力の著しい欠如を表し、かといって、論理的に、思考を熟考して、蓄積し、先を読めるように、法則を体系化するのでもなく、ただ、アトランティス時代の栄光をそのまま踏襲しているようでは、日本人は恐らく絶えてしまうのではないだろうか? 明治の日本人が四書五経をいつでも諳んじられたことを思えば、現代の日本人は、やはり正真正銘の馬鹿になったとしかいいようがないだろう。歴史認識すら、自分に都合のいいように、アバウトに記憶しているのだから、御終いである。要するに、自分に甘く、堕落しているにすぎない。
2008年11月22日
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前回は、アトランティス人が抜群の記憶力の持ち主で、その記憶力を駆使して、生命体を創造していたことを書いた。生命体とは、エーテル体のことである。つまり、「いのち」であり、気(気孔)である。 気孔術、易経等のエーテル体操作術が、太古の中国に普及していたのは、実は中国人は、アトランティス人の後期の人種の末裔なのだという。 官僚システムも、中国の科挙制度からきているが、官僚の先例主義といい、中国の停滞的で安定を好む社会風土は、アトランティス人の気質からきていると容易に推測できるだろう。その分派の日本も同じといえる。 アトランティス人の記憶力の源は、イメージ、想像力だったという。この記憶力は、いまで例えると、記憶そのものというよりも、動物の本能的な行動に近いという。それ故に、現代の記憶とは異なり、自然のなかの現象そのものを、その力とともに記録したような存在のようである。 アトランティス人が、いわば、このような本能的ともいえる、記憶力を駆使できたのも、当時の地球の状態が、現代とはまるで異なり、空気は水蒸気に富み、いわば、水のなかで暮らすのと酷似していたからだという。 例えば、ドルフィンリングなどをイメージすれば理解できる。空気泡をつくることで、海のなかに現象を起こすことができる。また、イルカは超音波を使い交信しているが、高度なイルカの記憶力とも関係しているのかもしれない。 アトランティス人は、種子の発芽力という生命力を利用して、ホーバクラフトから飛行船のような乗り物を、つくって移動したという。 アトランティス人の住居は、樹木が組み合わされたもので、現代人にはまるで人工的にはみえないという。それは、アトランティス人が、自然にある生命力を利用して構築したものなので、自然がつくったものと変わりがないようにみえるという。 自然は全ての共有物であるように、アトランティス人がつくったものも、共有物とされ、一切の所有概念はなかったという。 アトランティス人は、その前のレムリア人の生き残った一部だけが、進化して起こったという。レムリア人は、地上からは消えてしまった土地、いまでいうアジアの南方に住んでいたとされる。レムリア人の多くが発育不全に陥り、いわゆる、いまの未開民族の中に、その後裔がいるという。 神秘学では、人類の進化を担った人類を、根幹諸人類という。レムリア人、アトランティス人、そしてアトランティス人の大半が堕落し、その中の一部の人々のなかから、アーリア人が起こったが、そのアーリア人を、根幹諸人類と呼んでいる。 アトランティス人は、記憶力を発達させたが、アーリア人は思考力とそれに関係する諸力を発展させつつある。 また、根幹諸人類には、7つの亜人類がいるとされる。 アトランティス人の最初の亜人類は、ルモアハルス人と呼ばれ、レムリア人がまるで、記憶力がなかった本能的存在だったが、ルモアハルス人は、記憶力を有するはじめの人類となったという。 言語の発達も、この記憶力から生まれたという。アトランティス初期に、言語は記憶力から形成されたという。ルモアハルス人の発する言葉は、自然の発する音と同じで、自然に対して、その言葉が同じ作用を起こしたという。 ルモアハルス人の言葉には意味と力が備わっていたという。言葉がエーテル(生命)体を操り、そのまま自然現象となったという。 いわゆる、いまでいう呪文や言霊が、ルモアハルス人の実際の現実的な言葉を発する行為にみられたという。言葉には自然を操作する力があった。しかし、この力は、アトランティス後期へと、堕落するに従い、失われていったという。 次のトラヴァトリ人になると、個人の価値を認めるようになったという。名誉欲が出てきて、共通の思い出が、共同生活の支えとなり、自分の業績が、人々の記憶の中に生き続けることを望むようになったという。 そして、人間が集団化し、業績の共同の記憶に基づいて、特定の人物を指導者として、迎えたという。王者たるにふさわしい評価は、死後に至るまでも保持され、死者への追憶が、共同で体験され、宗教的な敬慕、祖先崇拝が、各種族の内部に生じたという。 ルモアハルス人の場合は、過去の業績は忘れられ、その都度ごとに、実績を示さねば、認められなかったが、トラヴァトリ人の場合は、過去の業績、経歴も、評価されるようになったという。 この差異は、いまの中国人と日本人の感覚に近いように思える。つまりルモアハルス人が中国人、トラヴァトリ人が日本人或いは朝鮮人という感じである。日本人が、血統や系図に拘るのは、このトラヴァトリ人に似ている。 そうして、記憶力はどんどん強化促進されていったという。レムリア人の場合、記憶力は皆無だが、ルモアハルス人が、記憶から、言葉、言語をつくり、このように、トラヴァトリ人が、共同の記憶から、王者を選び出し、祖先崇拝の宗教化をはかることで、記憶力が促進され強化され、共同社会を結束させていったという。 中国人が漢字をつくり、それを利用して日本語をつくった日本人の関係にも似ている。 この種の社会的共同生活は、アトランティスの第3亜人類のトルテケン人により、完成されたという。トルテケン人によって、血のつながりが濃くなり、国家という共同社会が、誕生したという。そして、この共同社会の支配、統治は、代々親から子へと世襲制により受け継がれたという。 さしずめ、現代の日本人という感じである。自民党の人たちといえるだろう。 世襲と同時に、業績等の共同の記憶も伝承というかたちで受け継がれたという。同族の人間はけっして祖先の功績を忘れてはならなかった。祖先の功績は子々孫々の代まで語り継がれたという。 なんだか、トルテケン人をみていると、靖国をいつまでも語り継ぐ日本人を彷彿とさせる。勿論、過去の業績に拘らない、ルモアハルス人、いまでいう中国人には理解できないだろう。 この点で重要なのは、記憶力が抜群なので、実際に親の天分を、子孫に伝授できたということである。父の能力がそのまま子に伝わった。その教育の仕方は、理解力を促すというよりは、本能的な天分を高めるというやり方だったという。このような事情で、個人的な経験が、トルテケン人には、益々重要になったという。 この伝授法は、日本人の修行、特に師弟関係や道に現れている。しかし、記憶力は遥かに劣っているので、形骸化しているともいえる。いまの総理をみれば一目瞭然である。記憶力がよければ、漢字読みを間違えないからで、もし、記憶力を正当化するなら、吉田茂が、漢字の同じ間違いをしていたことになる。 トルテケン人の個人的な経験は、当時の霊的進化の法則を、神々との交信から得ていた秘儀参入者からも支持され、しばしば共同社会の支配者である国王や指導者にも、秘儀が、修行の元に、伝授されたという。 トルテケン人の秘儀参入者は、日本人でいえば、天皇家に当たるだろうが、勿論、いまでは形骸化している。 しかし、この秘儀伝授が、かえって堕落と衰退の原因をつくったという。 記憶力の発達は、個人の強大な権力を可能にし、その権力を、利用して、勢力をふるおうとしたからである。 そして、権力が大きくなればなるほど、その権力を自分個人の利益のために利用しようとするものが現れ、名誉欲がむき出しの利己心に変わり、権力の濫用がはじまったという。 その恐ろしい自然破壊力は、次の第4亜人類の原トゥラニア人に現れたという。この原トゥラニア人は、生命力の支配に熟達すると、自分たちの利己的欲望や願望を満足させるために、この力を勝手気儘に濫用し、その結果、この力の働きが相互に相手を妨害し、破壊するようになったという。 まるで、トルテケン人というより、自民党は、この原トゥラニア人といえるだろう。つまり、小泉が出てから、トルテケン人から、原トゥラニア人に変わったといえる。 このような破壊的な作用を防ぐために、人間の魂のより高次の力を育成することが要請され、思考力が生まれたという。 論理的な思考が、利己的な願望を押える働きをするからである。 そのような論理的思考は、次の亜人類の原セム人からはじまったという。 原セム人からの話は、次回に譲る。
2008年11月22日
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昨今、巷の迷走劇をみるにつれ、日本人の異質性が、特にクローズアップされるように思えるので、人種論から、解き明かしてみたいと思った。 人種論といっても、現代のものでは、差し障りがあるので、シュタイナーのアトランティス時代の人種論を元に、考えてみたい。 さて、シュタイナーはアトランティス時代の人種を、根幹7種と、その他亜人種に分けて論じているが、人種論は、受け取り方により、差別問題を孕んでくるので、非常に危険思想的な話となってしまうので、適当に聞き流して欲しい。 神秘学では、唯物論では捉えることのできない、いわば、精神世界の記録書ともいうべきものがある。神秘学者、オカルトの間では、アカシャ年代記、アカシックレコードと呼ばれているものである。 対照的に、現在の歴史書は、ほとんど全てが、物的証拠や記録によっていて、唯物論で構成されているので、物質は崩壊するので、いわば、時間的な賞味期限が存在するといえるだろう。 神秘学では、唯物論で捉えた歴史は、時間に依存するものなので、時間自体を超えることができないから、どんなに物的に証明されようとも、誤謬を免れない代物と認識する。 それに対して、精神世界は、時間を超えて、永遠の存在で、魂自体がその事を示しているので、一見して、全く異なるようにみえる出来事でも、真実において一致をすると認識できる。 なにより、真実はどこからみても一つだから、物的証拠では、時間に依存する時点で、変化を遂げ、一つとはならないからである。歴史は、物質的に絶えず変化しているという時点で、真実はそこにはない。 前置きをやめて、アトランティス人について簡単に書いていく。 神秘学によると、アトランティス期というのは、我々の第5文化期のポストアトランティス期の前期にあたる。我々の文化期は、古インド文化期から、古ペルシャ文化期、カルディア-エジプト文化期、ギリシャ-ラテン文化期ときて、我々の第5文化期で、人間は最も物欲に目覚め、進化的に最低状態に陥るといわれている。 進化は、絶え間ない魂の浄化、いわゆる精神の向上を目的としているので、我々の時代は、まさに、奈落の底に落ちた堕落の段階といえる。 人類は、ここから浮上するといわれる。だだし、1部の精神的に目覚めた人々だけとされる。ここで思い出されるのは、スパルタ教育の、獅子は、子を千尋の谷に落とし、登ってきたものだけを育てるという話である。 この逸話を、人智学的に解釈すると、獅子というのは、心臓を意味する。古代エジプトでは、死者の心臓を秤の一方に乗せ、他方に、叡智(天使)の翼を乗せて、釣り合いを保てば、天国にいけるというような逸話が残っている。 つまり、心臓が、どのくらい天の理、進化に沿ってきたかで、最後の審判がなされ、心臓には、生前のその人の行い全てが記録されていると考えられていたようだ。 だから、獅子というのは、霊的な心臓で、その子は、物的心臓で、千尋の谷とは、我々の第5文化期にあたり、そこから這い上がって進化を続ける者が、最後の審判により、救いの対象にあたるということになる。 我々の時代が、進化の分岐点で、この試練に乗り越えられない者は、人種的に、獣性の虜になり、民族の劣化を招くという警告を発しているとも考えられる。 そのことはともかく、アトランティス期というのは、我々のポストアトランティス期の前であり、遥か太古のレムリア期の次にあたる。大体、今から1万年前が、アトランティス期だったという。アトランティス期は、数百万年続いたというから、現代の約1万年より遥かに長かった。 アトランティス大陸は、その伝承のように、アメリカとヨーロッパの間の大西洋にあったという。プラトンは、この大陸の最後に残ったポセイドンの島のことについて語っているという。 アトランティス人の特徴を一言でいうならば、抜群の記憶力の持ち主であったという。現代人は、論理を用い、自然のなかから類似の関係をみつけ、法則として体系づけるが、アトランティス人は、全く論理に欠け、その代わり記憶力に優れていたという。 アトランティス人は、記憶力に優れていたので、現象が起こると、過去の記憶を辿り、なるべくそれに近い事例から、物事を判断したという。いまでいう官僚の先例主義のようなものだろう。このため、アトランティス時代は、同一文化で、約百万年も続いた。その反面、社会は何分、先例主義なので、停滞気味で、変化力や、活性力に乏しかったという。 逆にいえば、現代は、論理主義で、些細で細かい点までに、記憶を行き届かせないために、大まかな部分だけで妥協し、同調し、法則を成り立たせて、一つの特異的な実験という時間的に依存した観測立場から、体系化できるので、物体のような粗い対象を、創作するのに都合がよい唯物思考が発達したといえる。時間に依存するものは、時間により破壊される宿命にあるのだろう。 シュタイナーは、論理思考では、鉱物しか扱えないといっている。生物を扱うには、詳細な記憶力が必要になるという。これは、現代の物理学が論理に依存し、生物学が記憶に依存している傾向からわかる。 そのため、社会はめまぐるしく変化して、戦争のような生命の物質的やり取りも行われるようになった。現代は、アクティブでアグレッシブな時代だといえるだろう。 このような、現代の悟性による、唯物的な法則体系化は、物質世界で創造を行うのに都合がよい思考で、 対して、生物や生命体を扱うのには、このような唯物的な法則は、あまりというよりも、ほとんど役に立たないといえる。なぜならば、生物や生命体は、一つ一つが全て異なる状況に、かつ複雑な関係に、置かれていて、同一視できないからである。 大体、生物自体が、常に変化を続けており、物質のような、ほぼ安定した状態の存在ではない。 なんらかの法則性や規則性をみつけられるほど、生命体は粗くはなく、個々別々にみていかないといけない。 そのために、抜群の記憶力を要求され、なによりも法則性や規則性が、物質を創造的に扱うことに要請されるように、類似体験の抜群の記憶力が、生命体を創造的に扱うことに要請されるだろう。 アトランティス人は、現代人とは異なり、この抜群の記憶力をもっていたので、生命体を、創造できたという。主に、植物の生命力を用いて、現代人が物質生成を行うが如く、生命生成を行っていたという。 だから、生命に関わる仕事に従事するには、抜群の記憶力が要請されるだろう。この点から、医師や生物学者、生物工学者は、記憶力重視の教育、反面、物理学者、化学者、工学者は、論理力重視の教育を考えていくことが提案できる。 逆に、現代の失敗は、生物に、論理を持ち込み、鉱物に、記憶を持ち込んでいることが、錯誤を生み出し、精神を堕落せしめているともいえる。生命を物的に扱い、物質に記憶力や判断を委ね、計算機を生み出してしまい、人間は、馬鹿になってきているのである。 精神を鍛え、魂を浄化させるどころか、精神を甘えさえ、魂を濁らせて、どんどん神から離れ、堕落させ、退化していっているといえる。千尋の谷どころか、万尋の谷、永遠に浮上できない地獄の主になりつつある。
2008年11月22日
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計測不可能な存在(霊)として、宇宙から地球へと流れ込む作用は、種子、花形成器官が優勢なら、燐実質のなかに保存されるのと同じように、これらの器官のなかに保存される。だから、つまり、花、種子、あるいはヤドリギ他の傾向をもつ植物全般は、ある意味、「燐」と同じ存在と言える。 そして逆に、根をおろすプロセスを研究すればわかるが、植物が地球を自分の母なる基盤とみなすことで展開する作用は、塩形成と密接に関わっている。このように、植物における両極性に直面する。 そして(両者を)仲介する植物の働きを、常に上方を目指す花や実と、下方に根を下ろす作用との間に見るが、この仲介の働きのなかに水銀プロセスがあり、平衡をもたらしている。 従って、植物の体勢が人間と逆転していることを考慮すれば、次のように言える。 「内的に花-実形成の性質を持つ植物全般は、人間の下腹部の器官、及び人間の下腹部に位置づけられる全器官に対して、非常に強い親和性をもち、更に、燐も、人間の下腹部器官に対して非常に強い親和性をもつ」、と。 この事が正しいということを、次回以降見ていく。この事に対して、根へと向かう植物全般は、人間では、上に向かって組織される器官全般に対して、特殊な親和性を持つ。 けれども、このとき注意すべき事は、人間を単純に外面的な図式に則って、三つの部分に分けてはいけないことで、例えば、最下部に属する消化システムにしても、いわば上を目指して頭部まで継続しているからである。 脳の灰白質のなかに、思考の本質的な物質があるというのは、全く馬鹿げた見解で、間違いである。脳の灰白質は、脳に栄養を与える為にあり、脳に栄養を与える為の一種の消化器官というべきコロニー(栄養群)である。 一方、脳の白質こそが、思考物質として大きな意味を持つ。従って、脳の灰白質の解剖学的様相に関しては、従来から、既に灰白質に帰せられている部分よりも、むしろ(白質をも含む)全体的活動に関係を見つけるだろう。 だから、消化について正確に語るには、(脳の灰白質を含めるべきで、)下腹部だけでは、足りないことがわかる。肝要なのは、植物の根に対する親和性に着目するとき、上部人間だけでなく、人間の他の関連部分とも関わり合うことも想定しなければならないことである。 植物において、花を咲かせる、実を結ぶものと、根との間を調停する存在、つまり、いわゆる、葉その他通常、一般の草などに顕現している存在(茎、葉)は、それが抽出された状態であっても、人間の循環障害や、更には上部人間と下部人間間の律動的調和に関係する部分全般にとって、特別な意味を持つ。 (植物の葉や茎は、肺や心臓の胸部に親密性をもつ。) 先ほど、計測不可能な存在(霊-魂)を内面化する鉱物と、計測不可能な存在(霊-魂)を、自分から遠ざける鉱物、そして、この両者間にある鉱物が示されたが、これらを、今みたように、いわば植物構成全体と対比できる。 そして、鉱物と植物を対比する事で、植物の器官発達の度合いに応じて、人間の生体組織との相互関係を確立する、第一の合理的手段を、植物から手に入れることができる。この手段が、更にどのように特殊化されるかは、いずれ見ていく。 鉱物;水銀(燐、塩) 植物;茎もしくは葉(花もしくは実、根) 人間;胸(下部、上部) さて、これまで指摘した事は、植物、鉱物、人間との間に、上記の相互関係が成立しているということだった。近代においては、更に、人間と動物との間の親近性、相互関係とされるものが、いわば何か非常に希望に満ち溢れたことであるかのように、付加されてきた。 とはいえ、血清療法の発生に際する、非常に奇妙な手法を度外視しても、この通常行われている血清療法に対して、上記してきた原則が、適応できるようにすべきである。血清療法の発生に際して、実際、全く奇妙な手法、それはベーリング(1)により行われたものだが、(その手法を調べると)行った説明や、どちらかといえば、血清に関する周辺部を、ほとんど錯綜する話ばかりで、血清が実際、何の役に立つのかということのみに絞って書いた発表論文を追求すると、医学制度全体の革新に関わるような印象を与える話がでてくる。(1)Emil Adolf Behring, 1854-1917 ベルリン大学衛生研究所および伝染病研究所勤務、ハレ大学教授、後にマールブルク大学衛生研究所所長。 けれども、そのとき行われた基礎作業の記述論文に立ち入っていくと、奇妙なこと(誇張ではない。この事を知っている人もいるだろうが)、人間に転用する為に、イルカという動物臨床実験から推定した血清療法において、「甚だしく多数」のイルカが、効果無し(不都合)であることが判明している。 つまり、血清で処置した多数のイルカのうち、有望な成果を示したものはたった一頭だったのである。偽装された動物臨床実験の治療プロセスでの、ほんのたった一頭のイルカの成果にも関わらず(既に血清療法の為に大々的に宣伝太鼓を打ち鳴らし始めた時期に、このような顛末である)、血清療法が有用であるとされた事は、一つの事実として挙げておく。 恐らく、いずれ、この顛末を理解する人もいるだろう。そして、この科学分野への登場に際して、法外ないい加減さとでもいうべき、このような顛末こそ、本来、科学史において厳密に考慮すべきことだろう。 原則的に、今回は最後に、そして次回或いは次回以降、挙げておきたい事は、何といってもやはり、いままで見てきたように、人間において、直接効力のあるプロセスは、人間以外の存在の、直接表面に現れているようなプロセスではなく、より深い本質から取り出さなければいけないプロセスである、ということである。
2008年11月20日
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さて、地球の植物存在を観察するとき、通常行われているような方法で、この植物存在を見る必要はない。つまり、地球上を通って行き、次から次へと植物を観察して、それらを詳細に調べ、これらの植物を一つの図式のなかに組み込むべく、分類名を考え出す、という風に(類型化しながら)観察するのではなく、地球全体が1つの存在で、丁度、人間の髪の毛が生体組織の一部であるように(確かに髪の毛はどれも似たようなもので、植物の方は互いに異なっているので、少なくとも、ある意味、当て嵌まらないが)、植物界全体も、やはり地球の生体組織の一部である、ということを考慮に入れる必要がある。 髪の毛一本一本を、髪の毛自体1つの生体組織として観察できないように、個々の植物自体、独立の存在としては観察できない。植物が様々に異なるのは、地球が他の宇宙と相互作用し、様々な方向へ力を展開させ、様々に組織化されるためである。 しかし、植物の成長における生命の根底には、統一的な地球有機体組織というものがある。従って、ある種、次のような事柄に着目するのは非常に重要である。 キノコを観察するとき、最初にわかることは、キノコにとって、地球そのものが一種の生息地、一種の母体である、ということである。 更に、キノコより高度な、草のような植物にうつると、やはり地球が、草にとっても一種の母体であるが、地球外の存在が、既に、ある種の影響を与えているということ、つまり、光その他の存在が、花や葉などの形成において、影響を与えていることがわかる。 しかし特に興味深い事は、樹木に着目すればわかる。つまり、樹幹の形成が、樹を樹齢何十年の植物にしているが、この幹の形成のなかに、地面の上に直接生える植物にとっては、通常、母体である地球全体(いわゆる土の存在)が継続しながら存在することを意味する。 なぜなら、この事実は、次のように考えられるからで、つまり、地球から植物が生え出ていることを考えれば、この地球そのもののなかに、この植物の成長の根底にあり、宇宙から流れ込んでくる存在と相互作用しながら出現する力を探究できるからである。 樹が成長するとき、地球は、上記の幹の年輪のように、それまで地球から直接植物のなかに流れ込んでいた存在の上に、ある意味、被さっていく(非常にショッキングだが、真実である)。この地球が衣を纏うように、古いものの上に新しいものが覆いかぶさり、幹のなかに入り込む。 いうなれば、幹は全て地球の瘤なのである。 このように考察しないのは、単衣に今日の実に忌まわしい唯物主義的な想念に起因し、地球を単なる鉱物の複合体のように考え、この鉱物的地球は、全くの不可能な想定物と考える方向に前進する気配もない。 (シュタイナーは、地球を生命体と考え、四季を地球という生命の呼吸であるといっている。) この地球は、鉱物を分離する他に、植物のなかへ突き進んでいく力を、自らのうちにもっている。この力が捲り上げられて、幹となる。幹の上に更に成長する植物の幹を、草のような下等植物が直接生える地面と比較しなければならない。 草のような下等植物にとっては、地球自体が幹であり、花や種子器官が幹に付いている植物(樹木)は、自ら特別の幹(地面)を作り出していることに相当する。この事から、樹から花を摘むか、草のような植物から花を摘むかでは、ある種の違いがあることがわかる。 更に、この観点から、植物における寄生植物の形成、特にヤドリギの形成に着目できる。この寄生植物は、通常、植物と組織的に結びついたままだが、花や種子を担う器官が、外への分泌器官として、1つの経過(プロセス)のように、幹に付いたものである。 従って、通常、花や種子形成のなかにあるプロセスが、地球の、ある分離力と結びつき、上昇する様子を、ヤドリギのなかに見ることができる。 いわば植物のなかの地球(地上)的でない作用(天の作用)が、ヤドリギの形成において解放される。だから、地球から上昇する作用、地球外(天上)の作用と相互作用するプロセスにおいて、花と種子の形成のなかで、徐々に地球から自らを分離する様子が見れ、ヤドリギの形成では、特に、強力に自らを個性化する解放に至るプロセスを見れる。 さて、この真実を、植物の形成として、通常知覚されている知識と結びつけるなら、恐らく、次のような発言を耳にするだろう。 「植物が一層、根の形成に向かう傾向に応じて、いわゆる優先的に、根の形成のなかに、その植物の成長が現れ、その割合に応じて、根が成長するほど、逆に、花の形成が小さいか、未発達な成長を示すというような成長関係により、植物界(植物の種類)に、かなりの違いが生まれる」、と。 (つまり、根の部分の成長の進み具合が大きい植物は、花や実が未熟で、逆に、花や実の成長が著しい植物は、根の成長が未熟であるというような、成長の割合により、植物の多様性が生まれているという。) そのような根形成の発育のよい植物は、より地球に向かう傾向がある。更に、地球から、自らを解放する植物は、正に種子形成、花形成へと上昇する植物で、特に、植物界において、寄生植物として通用するような植物なのである。 しかし、植物には、そのいずれの器官をも、いわば最も突出した存在にしようとする傾向があり(パイナップル他の植物が、幹を最も突出した存在にしているのを観察すれば)、植物の主要な器官のどれもが、つまり、根、茎、葉、花、実のどれもが、いわゆる何らかの植物形式から、主要な器官になろうと努力しているのである。 「トクサ」のような植物を考えると、「トクサ」は茎の形成において上昇(進化)しているのがわかるだろう。別の植物は、葉の形成において上昇(進化)し、また別の植物は、茎の形成と葉の形成を萎縮させて、花の形成において上昇(進化)している。 この事から、明らかになることは、これらの植物成長の様々な傾向と、以前、人間の外の自然における、三つの類型としての鉱物の働きとが、ある意味で、並行しているということである。 特に、植物の自らを解放する働きのなかにあって、更に寄生植物の内的活動において最高潮に達する存在に着目するなら、計測不可能な存在(霊-魂)を内面化する傾向を持つ存在が得られる(燐の性質)。
2008年11月19日
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人間が、神経-感覚存在、循環存在、新陳代謝存在という三分節化された存在であるように、つまり、この循環存在が新陳代謝と神経-感覚活動の間にあって両者を仲介するように、外の自然においては、塩ほど強く自らを放棄せず、かといって計測不可能な存在(霊-魂)を強く、自らのなかに内面化するわけでもなく、いわばこの両方の働きの間で釣り合いを保つものが存在するが、そのような存在全ては、自ら水滴の形態を形成することにより、塩と燐の両者を仲介する。 水銀(塩、燐)=中間(陽、陰) というのも、根本的に、水銀は、常に、その内力の関連において水滴の形(液状)になる傾向を持っているからである。 この「水銀」と言う場合に重要なのは、今日でいう水銀という物質を、「水銀」と呼ぶのではなく、塩類の融解(してしまう傾向)と、計測不可能な存在(霊-魂)を自らのうちに引き寄せ、留めておく存在との間で釣り合いをとっている関連力を呼ぶことである。 つまり、水銀全般のなかに、明確に含まれる力(作用)の状態の研究が肝要である。従って、この事からわかるが、この水銀は、燐が適している働きと、塩が適している働きとの間に、平衡をもたらすことを目的として、本質的に関わっているのである。 今述べたことと生体組織における作用が矛盾しない証は、梅毒やそれに類する疾病に関して、特に述べるとき、更に明らかになる。 さて以上、燐、水銀、塩に関して述べたことで、鉱物のなかから、いわば特に明瞭な類型を提示した。無論、塩において既に、牡蛎の殻形成のなかに存在し、その背後に潜んでいる器官プロセスに関しても述べなければならない。 このプロセスは、ある意味、計測不可能な存在(霊-魂)が、燐のなかに濃縮されるときにも存在する。しかし、その場合、全てが内面化されるので、このプロセスは、外に向かって、それほど明瞭に顕現しない。 さて今度は、このように典型的な、外界での形成物(鉱物)を見ることから、いわば別の時期に人間が自ら分離した存在、つまり植物へと進んでいく。 植物は、既に、以前、別の観点から見てきたように、人間の生体組織での働きとして存在するものと、いわば対照を成している。けれども、植物そのものにおいても、明白に三つの部分を区別できる。 この三部分の区別は、一方で、根として地中に向かって拡がっていく存在を見て、他方、種、実、花のなかで伸びていく、上方へ向かう存在を見るときに、特に明確に、心のなかに浮かんでくる。 既に外への方向性という存在において、植物と人間の違いを(この場合動物は含めない)、見ることができる。実際、ここに、既に、究めて重要で意味深いものが存在する。植物は、その根を地中に沈め、その花を、すなわち生殖器官を上へと伸ばす。人間は宇宙のなかで、その姿勢に関しても、植物と完全に反対になっている。 つまり、人間は、その頭部をいわば上に向かって根付かせ、その生殖器官を下方に向け、植物と全く逆となる。従って、人間に関しては、上に向かって根を張り、下に向かって花を、生殖器官を開花させている植物を、一つのイメージとして眼前に描くことが、意味をもってくる。 植物は、特殊な形で、このように逆向きに人間のなかに組み込まれている。 更に今度は、(植物が)人間と動物の違いを示す重要な指標ともなり、動物の場合、この(動物のなかに)組み込まれた植物が、おおよそ水平に横たわり、外界での植物の方向と直角をなすが、人間は、宇宙のなかでの姿勢を、(動物の90度を超え)植物に対して完全に転回というか、180度転回させている。 この事は、人間と外界との関連を観察すれば発見できる最も啓発的真実である。そして、医学研究者が、このようなマクロコスモス的事柄に、立ち入るのなら、例えば、細胞において作用している諸力に関しても、顕微鏡で観察するより、遥かに多くの事が発見できるだろう。 なぜなら、細胞において作用している最も重要な諸力もやはり(その存在が植物か、動物か、人間かにより違いはあるが)、マクロコスモス的な存在のなかに観察され得るので、顕微鏡で観察しても、実際、ほとんど得るところはない。 (シュタイナーは、細胞にも、天の力、つまり天体の配位が関係していると説いている。そもそも、細胞の生命力の象徴である球形、丸い形は天体から来ているという。 シュタイナーは直接言及してはいないが、DNAが右巻き螺旋構造なのは、天体の運動が、宇宙に対して右巻き螺旋運動をしている反映であるようだ。 シュタイナーは、太陽系が、右巻き運動をしていることを言及している。地動説では、地球は太陽の周りを回っているという観点しかないが、実は太陽も、地球の周りを回っているのである。 なぜなら、太陽は宇宙のなかで静止しているわけではなく、地球からみれば、太陽の周りを地球が回っているようにみえるだけで、太陽からみれば、地球の周りを、太陽が回っているようにみえるのである。 つまり、全体からみれば、お互いが相手の周りを回りながら、右巻き螺旋軌道を運動しているのである。ワルツや社交ダンスのように、回っているのである。 ただ、一方の天体を静止させてみれば、地動説が成り立つだけに過ぎないのである。だから、天動説とは、観点の違いだけにすぎない。 天の作用を知るには、天動説が有用で、重力、つまり地の力を知るには、地動説が有用というだけの違いでしかない。要するに、陽か陰か、男か女かの立場の違いなのである。) 人間の細胞を更に良く研究するには、垂直に上昇下降する細胞と、その釣り合いを保って横たわる細胞との間の相互作用を研究すべきである。マクロコスモスにおいて研究すべき、このような細胞の諸力は、根本的に、このマクロコスモス的作用の写像に他ならない。
2008年11月18日
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以前述べたように、人間の脳を支えるために浮力が生じ、重力に抵抗することが、体内で生じているのだから、人体には、総じて、このように抵抗する傾向が存在しているといえる。 さて、地球形成プロセスに、(体内が)抵抗するというのは、一体どういう事なのか? そのことが意味するのは根本的に、下部の人間を、霊-魂から自由にすること、霊-魂を、下部の人間から、例えば上部の人間のなかへと、駆逐することに他ならない。 つまり、塩への渇望が存在する場合、必ず、この塩への渇望が知らせる事は、下部人間が何らかの形で、下部での霊-魂の強すぎる働きから、自由になろうとする傾向、下部人間は、この霊-魂の働きを、いわば上部人間に流出させようとしている、ということなのである。 下部人間に、それとわかるような変調がある場合を想定してみる。この変調を知る手段と、この変調に起因する個々の病気に関しては次回以降見ていく。 (この変調に対して)何をすることができるのか? さて、ここで1つの考察を差し挟む。この考察は、薬の使い方において、ある種一面的になりがちな人々にとって有意義な例を提示するかもしれない。ある人の場合、鉱物薬に対する一種の嫌悪といったものも見られ、このような嫌悪は不必要なものだからである。 なぜなら、これから見ていくように、純粋な植物薬というものは、やはり、ある特定の範囲内でだけ、その効力を発揮でき、更に深刻な場合となると、鉱物薬が大きな意味を持ってくるからである。 そこで、この原則的な考察に際し、鉱物薬から始めても、気を悪くしないで欲しい。鉱物薬とは言っても、いわば、この鉱物薬の効力を、生命に、つまり器官の生命に組み込むからである。特に、人間の下腹部の、上体との関係における、ある治療への処置法に関して、牡蛎を研究するなら、多大な啓蒙を得ることができる。 牡蛎という存在は、その殻の形成において究めて興味深い。というのも、牡蛎は、その炭酸石灰の外殻を、内から外へと追い出すからである。 さて、ここで(探究に際し、人智学の知識が必要であるが)、牡蛎を人智学的に探究するなら、牡蛎は、確かに動物の系列のなかでは、下等生物だが、宇宙全体では、比較的高い位置を占めている、ということがわかるだろう。 人間が、自分の思考として自らに担うもの(エーテル、気)が、牡蛎から分離されることで、牡蛎は、この高い位置を占めている。 殻を形成するように内から外へと導く力が示すのは、いわば、その力が器官的成長と結びつけられたなら、牡蛎を非常に賢くする力、牡蛎を高等動物にする力が、牡蛎から、他方へと導いた道筋である。 このように、牡蛎の殻の発生を手懸かりに、炭酸石灰、すなわちカルカレア・カルボニカ(炭酸カルシウム)の働き、つまり、この強すぎる霊-魂活動を、生体組織から、引き出して導いていく働きを、明確に、いわば手に取るように見ることができる。 さて、下腹部に過剰な霊-魂活動があり、この疾病の形態に関しても、これから見ていくが、特定の疾病の形態をとって出現することも、理解できたとき、手を伸ばす必要のある薬を、炭酸石灰の持つ、内から外への作用という秘密に満ちた物質力を、つまり、牡蛎の殻やその類の御蔭で、この力を得ることができる。 つまり、治療における本質は、この内から外へ駆逐する力に、何らかの治癒力を見つけ、その力を明確に知り、その力に基づくことである。 カルカレア・カルボニカ(炭酸カルシウム)のような薬に関連する力や、それに似た薬剤関係全般を、合理的に研究するには、以上のような関係のなかでの洞察から達成できる。 (例えば、除霊するときや、嫌な人が帰った後、葬式から帰ったときに、塩をまくのは、この炭酸カルシウムの効力を理解した古代人の風習の名残なのだろう。塩の物質と霊魂の分離力に着目したものだと考えられるのである。 また、肉体労働従事者が、塩分を好むのは、過酷な肉体労働によって、霊魂と肉体が堅く結びつくのを、塩分によって分離し、バランスを元に戻すためだと考えられる。) さて、炭酸石灰の内から外への(霊魂を追い出す)駆逐力に対して、その対極のように相対するのは、例えば、燐の力全般である。 (ここで用いる表現は、事実、その真の意味において、今日の科学用語より、非科学的ではないが、)塩性の状態全般が、いわば、環境に身を捧げるように振る舞う理由は、あらゆる塩状態(塩の性質を持つ存在)は、光その他の計測不可能な存在(霊-魂)の内的作用から、対応物質が露出させられ、解放されることで生じるからである。 いわば塩状態全般は、その生成過程を通じて、計測不可能な存在(霊-魂)を、内的に所有しないように、自ら放出したのである。 塩状態全般;霊-魂活動が強くなりすぎ、その内的作用から、対応する物質(炭酸石灰等)を解放することで生じる。 この塩状態に対して、燐の場合、炭酸石灰(塩の性質)等の事情とは全く逆となる。だから、古代からの先祖伝来の認識が、この燐を光の担い手とみなしたのは、実際、正しいのである。なぜなら、燐が、計測不可能な存在(霊-魂)、つまり、光を実際に担っていることを、古代の認識は正確に見抜いていたからである。 (火の玉は燐の存在とよく言われている) 塩が自ら遠ざけた存在(霊-魂)を、この燐は自らのなかに担う。つまり塩の対極として相対する物質は、いわば計測不可能な存在(霊-魂)、特に光、更には他の計測不可能な存在、つまり熱などを、内面化し、それを自らの内的な特性にするような存在なのである。 燐のなかの存在、或いは治癒過程(プロセス)に関して、燐に類似する全存在は、このような事情に基づいている。従って、計測不可能な存在(霊-魂)を内面化する燐は、特にアストラル体と自我が、正しく人間(エーテル体-肉体)に接近できないとき、それら(霊-魂)を人間に押し戻すのに適している。 塩作用;肉体-エーテル体と、アストラル体-自我の結合が強いときに、内から外へと弱める働き 燐作用;肉体-エーテル体と、アストラル体-自我の結合が弱いときに、外から内へと強める働き だから、ある患者が病気で(個々の病気に関しては更に後で述べる)、頻繁な夢に悩まされ、すなわち、アストラル体が物質体から離れて、独自の活動をする傾向にあることがわかるなら、また更に、その患者が例えば、器官周辺部において炎症傾向があること、これもまたアストラル体と自我が正しく物質(肉)体のなかに位置していないことを示すが、そのようなことがわかれば、この人間のアストラル体と自我を、物質体に関わらせるようにする為に、燐の、計測不可能な存在(霊-魂)を留めておく力を使用できる。 穏やかでない睡眠生活を送っている(夢に魘されて起きる睡眠障害の)人の場合、究めて様々な病状に対して、この燐を用いることができる。なぜなら、燐は、自我とアストラル体を、適切な形で、物質体とエーテル体のなかに引き戻すからである。 このように、燐と塩は、ある意味で互いに対極的に相対している。そして、気づくべき事は、個々の名称、つまり現代の化学により命名された個々の物質名称より、むしろ、これらの物質が宇宙全体のプロセスのなかに、どのように入り込んでいるのか、ということに注意を向けることである。更に、これから見ていくが、燐に似た作用をする物質でも、燐の薬として使用できる。 以上の事から、外の自然における二つの互いに相対する状態、すなわち、塩的作用と燐的作用を確定した。この両者の中間に位置するのが、水銀的作用である。
2008年11月17日
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この治療分野においては、論争が絶えず、これから先もっと厳密に語っていく治療法も、激しい論争の渦中にある。これらの論争のうち、特によく知られているのが、ホメオパシー志向の医師たちと、アロパシー志向の医師たちとの間の論争である。 さて、人智学としては、どのように、この論争に介入するのか、興味を引くことかもしれない。けれども、この介入というのは(今回は、この事に関しては一般事項を述べ、個々の事柄を扱う際に、もっと詳しく立ち入っていく)、本来かなり特殊なものである。 というのも、人智学で判明している事は、根本において、元々、アロパシー療法というものは存在しないからである。実際、アロパシー療法というものは存在せず。なぜなら、アロパシー的に薬を処方したものでも、生体組織では、ホメオパシーのプロセスを辿り、実際、このホメオパシープロセスによって、癒されるからである。 従って、いかなるアロパシー療法家といえども、本質的には、自身の生体組織がホメオパシーを行うことにより、アロパシー的な処置の支援となるわけである。生体組織は、アロパシー療法家が行わない、つまり、薬剤による、個々の成分関係の止揚ということを、根底に実行しているのである。 だからやはり、生体組織から、このようなホメオパシーを取り除くか否かということに関しては、かなりの差異がある。この差異が生じるのは、端的にいって、薬剤がホメオパシー化されるときに徐々に現れてくる状態と、生体組織における治癒のプロセスが、関係している為である。 しかし、生体組織にとっては、外界の物体が通常有するものは、自らと対立する(抗原)ので、生体組織と外界の物体とは、治癒上の親和性がない為に、生体組織は外界の物体を異物として自分のなかに取り入れることになり、アロパシー的状態の薬を付与するときに発現する力を、全て生体組織に負わせると、結局、生体組織は、恐ろしく負担を強いられ、支障をきたしてしまう。 物体から、このホメオパシー化を取り除くことが不可能な場合について、特にもう少し述べていく。 さて、この事から、わかるように、ホメオパシーとは根本的に言って、本来、ある程度、自然そのものから非常に注意深く密かに学びとられてきたものなのである。たとえその際、熱狂的心酔から、さも意味ありげな飛躍を行ってしまったことがあったにせよ、この事についても更に見ていくが、密かに学びとられてきた。 しかし、ここで重要なのは、人間と、人間の外の環境との個々の関係のなかに、いかに道筋を見つけるか、ということを認識していくことである。 しかも、ここで、既に以前、別の話で述べたように、古代の医学的著作に思慮深く沈潜することが役立つこともあるが、無論、古代の医師たちの発言を、そのまま真似ることはできず、例えば、現代科学の手段をもって、この人間と、人間外の環境との相互関係に入り込んでいくように、関わり合わなければならない。 ここでまず確認すべき事は、物質の化学的調査、つまり個々の物質が、実験室で開示するなかに入り込んでいくような方法では、あまり多くの事を成し遂げることはできない、ということである。 既に示唆したように、本質的に、化学的調査のような、顕微鏡による観察を、巨視的な観察、つまり宇宙全体の観察から生ずるものに換えていく必要がある。 (ミクロ的観察ではなく、マクロ的な観察に、分析的な知見ではなく、包括的な知見に変えていく必要がある。) 今回はまず、意味深い(天の)配剤を提示する。この天の配剤は、人間外の自然が、一種の三分節状態において、三分節化された人間と、どのように対応しているのか、ということを、いわば提示してくれる。 ここで特に、着目すべきものは、「可溶性」を示す全般である。「可溶性」というのはすなわち、この地球という惑星の進化過程(プロセス)において特に大きな意味をもつ最後の特性である。地球において固体として分離されたものは、実際、その大部分が根本において、宇宙的溶解プロセスに還元される。 この宇宙的溶解プロセスが克服され、その生命を奪い、固体の部分を沈殿させた。しかしながら、沈殿物の機械的な堆積を想定したり、地学や地質学に、基礎付けを求めたりするだけでは、皮相的といえる。 いわゆる地球形成、つまり、元々の地球体への固体部分の組み込みが既に、本質的に、溶解(状態)から、自らを結晶化し、或いは溶解(状態)から自らを沈殿させる、という特殊なケースなのである。 (地球という固体表面の天体は、宇宙の溶解(可溶性)プロセスを克服し、自らを結晶化し、沈殿した結果、生まれたという。) だから溶解プロセスのなかに生じる存在は、それが外の自然、つまり人間の外の自然において実現される限り、人間が(以前)自らのうちから外へと出したものでもある、と言うことができる。 つまり、外界における溶解に際して、人間が(かつて)自らから出したものが生じているわけである。 そのようなわけで、人間外の宇宙における溶解プロセスが、人間の生体組織の内的経過(プロセス)と、いかなる関係にあるのかを研究することが重要となる。 いま言及した基本的重要事項から、霊-魂と肉体-エーテル体が、あまりにも強く結びついている、ある種の人たちが、器官的に塩分に対して渇いているか、もしくは飢えているのは、つまり、そのような人たちは、その生体組織のなかで塩の沈殿プロセスを逆行させようとするような、すなわち、この地球形成(固体化、塩化)プロセスを破棄させようとし、根本において、塩、つまり地球の固体化以前の地球形成状態へと後退させようとしている、ということに相当することがわかる。 (塩分を好む人は、霊魂と肉体-エーテル体が強固に結びついている状態が背後にあり、霊魂が、塩、つまり固化に抵抗し、溶解しようとする傾向をもつ。) このような事柄に着目することが特に大切である。この原則に注意することで、真に人間の生体組織と人間外の自然との関係を洞察できる。人間の本性そのもののなかに、外界において実現されている、ある種のプロセスを逆行させ、それに抵抗しようとする一種の器官的な要求がある。
2008年11月14日
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更に、将来実施できる可能性があり、病気の治療への処置にとって究めて重要に思われる事を指摘する。この事は社会的感情が、もっと個々の職分にも浸透していけば、何らかの実践的意味を獲得できるものである。 つまり、この事とは、歯科医が、歯の組織や消化組織、及び、それに関連する全般に関する知識を、次のような方法で利用できれば、究めて意味あることになるだろう(勿論、その為に当の患者を味方にする必要があるが、これは今述べたように、多少の社会的共感があれば達成できるだろう)。 すなわち、歯科医が治療への処置の度に、いわば一種の治療の概略図(カルテ)を患者に渡すことで、その知識(情報)を活用できれば良い。その概略図(カルテ)には、歯の成長全般にわたる活動をどう診断したか、早い時期に齲(う)歯(齲触症、齲歯、虫歯)への傾向があるかどうか、比較的高年齢まで歯が良く維持されているかどうか、といったことを記録する。 この事は、次回以降見ていくように、人間の生体組織全体を判定するのに極めて意味がある。そして個々の病気の症例を治療へと処置していくべき医師が、このような指標、言うなれば人間の健康の指標を、歯の状態から見て取れるようになれば、医師にとって究めて重要な拠り所となる。 更には、患者の、身体(感覚)的共感と反感(趣向)に関しても知ることが非常に重要だろう。特に重要なのは、治療される人が、例えば塩分を無闇に欲するか、或いは他のものを欲しがるかどうかを、確認する。当人が、どのような食品を特に欲するか、聞き出しておく必要がある。 その人が塩全般を欲するなら、その人にあっては、自我とアストラル体が、物質体、エーテル体と強く結びつき、いわば霊-魂と物質-肉体とが究めて強い親和性を示していることがわかる。 同様に、このような強い親和性を裏書きするものは、外的な機械的経過(プロセス)、例えば身体を急速に回転させることで引き起こされる、眩暈等の発作である。つまり、その人が、身体を機械的に運動させるときに眩暈の発作を起こし易いかどうかを確認する必要がある。 『塩分を無闇に欲するか、或いは他のものを欲しがるかどうか、どのような食品を特に欲するか、確認し、塩全般を欲するなら、自我とアストラル体が、物質体、エーテル体と強く結びつき、いわば霊-魂と物質-肉体とが究めて強い親和性を示していることがわかる。』 『更に、例えば身体の急速な回転等で、眩暈の発作が引き起こされ易いのは、霊-魂と物質-肉体とが究めて強い親和性を示していることがわかる。』 そして、更に常に調べておくべき事は、多分一般的にかなりよく知られた事だが、分泌の障害、すなわち人間の腺の活動全般である。なぜなら、分泌障害がある場所には常に、自我及びアストラル体と、エーテル体及び物質体との結合にも障害があるからである。 『分泌障害がある場所は常に、自我及びアストラル体と、エーテル体及び物質体との結合にも障害がある。』 以上、患者に対するとき、根本的に、第一に知っておくべき事を1つ1つ挙げてきた。個別的に取り出したが、当の事柄が、身体構成に関わっている限り、取り出した事項が、どういう方向に向かっているのか、想像できるように思われる。 生活習慣、つまりは衛生的な空気を呼吸しているのか、不衛生な空気を呼吸しているのかといった可能性等を、聞くことに関しても、後に、段々と述べていく。これらは、個々の問題を議論するときに、更に考察できる。 さて、このようにして、治療すべき患者がどのような性質を有しているのかについて、まずは一種の洞察を得ることができる。なぜなら、何らかの薬を、どのように混合すべきかを個別的に確認するには、恐らく、このような事項を知っているときにのみ可能だからである。 さて、これは既に、以前からの個々の考察から出てくることだが、まずは一般的に、人間と人間の外の世界全体との間に、内的な親和性があるということを指摘しておく。差し当たり、抽象的に述べているが、人智学的観点からよく言われる事は、 「人間は進化していくうちに、人間以外の他の世界を、人間自らのうちから、外へ出していき、その為、人間の外にあるものは、人間自身の本性と、ある種の親和性を持つ」ということである。 このような関係を、抽象的に宣言することに対して、この親和性を全く個別的に、器官の治療に際して、繰り返し指摘していくべきだろう。けれども、差し当たり、特に明確にすべき事は、 「元々、人間と、人間の外の自然との治療関係は何に基づいているのか?」ということである。
2008年11月12日
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更に、必要なのは、物質体とエーテル体の、人間の本性の、より高次の構成要素との関係、すなわち、アストラル体と呼ぶ、本来、魂の存在と、自我と呼ぶ、本来、霊の存在との関係を認識することである。 これらを、患者から見て取ることが必要である。だから、例えば、夢をよく見るか、あまり見ないかといった質問を、患者にすることもやむを得ない。ある患者が夢をよく見るなら、それは構成全体に関して非常に重要なことである。 なぜなら、それは、アストラル体と自我が、自身の活動を展開する傾向を持っている事、つまり物質(肉)体には、それほど入り込まず、それほど密接に関わっていない為、本来の人間-魂の形成力が、人間の器官組織のなかに流れ込んでいないことを明示するからである。 『夢をよく見る人は、アストラル体と自我がそれ自身で展開する傾向をもち、肉体とエーテル体にはあまり深く入り込まずに、関係をもたない。』 更に確認すべきことは、不愉快なことかもしれないが、当人が、活動的で勤勉か、それとも、怠惰な傾向があるか、ということである。というのも、怠惰な傾向のある人は、アストラル体と自我では、非常に内(精神)的活動性を有するからである。 理屈に合わないようにみえるかもしれないが、この内(精神)的活動性は意識されず、無意識のものである。この活動性が意識されない為に、当人は、意識においては、どうしても勤勉ではなく、大体において怠惰となる。 なぜなら、ここでいう怠惰の反対(勤勉)とは、その人の高次の人間をもって、低次の人間に介入していける有機的能力、つまり、その人のアストラル体と自我から、物質(肉)体とエーテル体へと、活動力を実際に導いていく能力のことだからである。そして、怠惰な人の場合、この能力が非常に少ない。怠惰な人とは本来、精神科学的に見れば、眠っている人なのである。 『活動的で勤勉か、それとも、怠惰な傾向があるか。怠惰な傾向の人は、アストラル体と自我から、物質体とエーテル体へと、活動力を導く能力に疎く、眠っている。』 続いて、確認すべき事は、当の患者が近視であるか遠視であるかということである。近視の人というのは、いずれにせよ、自我とアストラル体が、物質体に対してある種抑制されている。近視というのは、その人の霊-魂が、肉体-物質に介入しようとしていない、という事の、最も重要な徴候の1つである。 『近視であるか、遠視であるか、近視の人は、自我とアストラル体が、物質体に対してある種抑制され、霊-魂が、肉体-物質に介入しようとしていない。』
2008年11月11日
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今回の考察において、病理学が治療のなかに浸透し、両者の間に橋を架ける特殊な領域へと、益々肉薄していくことで、いわば治療への処置の、一種の理想を示すことが可能でも、そのままでは、あらゆる場所で活用できないので、ありとあらゆる事柄への言及が必要となる。 とはいえやはり、患者を治療するにあたり、考慮すべき、あらゆる事柄を概観すれば、個々の場合から、様々な事を引き出すことができ、少なくとも、断片的な診断結果からでも、病気に関して、いかに評価すればよいかを知ることができる。 特に不可欠なのは、究めて特殊な場合でも、治療への処置に関しては、目の前にいる人間の全体像の認識の重要性に着目する事である。この人間の全体像の認識は、本来、常に、生の最も重要な契機にまで至るべきである。 医療関係者が、信頼して、様々な話をしたこともあるが、そのようなときに、よく驚かされたのは、例えば、私(シュタイナー)が一寸、話した後すぐに、「その患者さんは一体何歳ですか」、と訊ねると、その人は、年齢を知らず、当の患者が何歳なのか説明できなかったことである。 次回以降見ていくことだが、患者の年齢に関しては、かなり正確に知っておくことが、最本質の1つである。なぜなら、治療は、かなりの程度、患者の年齢に左右されるからである。 そして、これまで、ある種の事柄に関して、ある場合には非常に良く効き、別の場合には効き目が無いという例が引き合いに出されたが、当の患者の年齢は、この効き目が無いことと、どう関係しているか、という問いは、上記のような発言に究めて近い。年齢における、作用の形については、治療にあたって何にも増して厳密に取り扱うべきことである。 更に、重要なのは次のようなことである。 「当の患者が、元々、どのような体格なのか、つまり背が低くてズングリしているのか、それとも、背が高くてヒョロっとしているのか」、ということを常に正確に見定めておく必要がある。 既に、この「背が低くてズングリしていること」と「背が高くてヒョロっとしていること」から推定して、人間における、エーテル体と呼ぶものが、どのような力を持っているのかを見て取ることが大きな意味を持つ。 この表現は、やむをえないものだが(この表現に関しては、色々と考え込むが)、恐らくこのような、人間の実在の一部を、ともかくも表す表現、エーテル体云々といった表現を用いることには、(人智学徒以外は)全く馴染みがないだろう。 このような表現を、人智学者ではない人々にとっても、多少とも好ましい表現により言い換えることも可能に思うが、それができるのは最後になるかもしれない。今のところは、更なる理解を深める為に、やはり、このような表現を用いることが必要な立場を堅持する。 (エーテル体は、東洋哲学でいう、つまり漢方がいうところの、気孔や気である。古代中国の書籍には、大地に気が漲り、人間にも、天地にも気の流れがあることを、記したものが多い。気とは、4つの相互作用、つまり、電磁気、強い力、弱い力、重力といった物理力を発生させるエネルギーの源流を指すようである。 河の流れに喩えると、源流の大河が、気で、そこから、系統図のように、支流の物理力に分かれていくようである。物理学では、この系統図を、対称性という群論を用いた表現で、数学的に記している。 小林-益川行列は、素粒子論において、素粒子の種類を、群論で簡潔に表現し、三世代に、系統(エネルギー水準別に)発生していることを、記述したものである。 シュタイナーは、古代中国の民族が、アトランティス文明の生き残りの種族の子孫たちで、アトランティス大陸は、気、つまりエーテル体の科学全盛の時代で、様々な悪しき人体実験や、悪い利用が行われたために、聖書で説かれるノアの大洪水のような破局を、次第に発生させていったといっている。 ノアは、破局をいち早く知り、次の文明、つまり、我々の物質文明の種となる、当時の若い種族を集め、弟子にして、新たな契約の箱舟、文明の叡智を養い、つくったというのである。恐らく、この出来事から、三種の神器と、ケルビム、つまり叡智の箱の伝説が生まれ、有名なユダヤの過ぎ越し祭や、日本の祇園祭りが生まれたのであろう。 三種の神器とは、人間がこれから進化に際して、手に入れるべきもので、霊我、生命霊、霊人と呼ばれていて、ノアは、この原基を、叡智として、次の人類に、当時は教育として、担わせたのである。契約の箱とは、人間の肉体を意味する。 つまり、当時、エーテル体が、人間の最外部の本質だったが、次なる肉体に、エーテル体がうまく納まるように、三種の神器である、霊我、生命霊、霊人を与えたというのである。祭りは、その神への感謝を祝うものであろう。) さて、このエーテル体の作用強度というか、そのようなものは、当人が、いかなる体格であるかということから判定できる。 けれども、できる限り、問診して確認すべきことは(以前述べたように、全てを引き合いに出したいが、端的に、データが得られない為、全てを考慮することは常に可能とは限らないが、とにかくあらゆる事に関して知ることは良い)、特に、当の患者が若いとき、ゆっくりと成長したか、速く成長したか、すなわち、長い間小さいままだったか、比較的幼い時期に、もう背丈が伸びてしまい、その後は成長が遅れたかどうか、ということである。 このような事柄は全て、物質体に対する、エーテル体、すなわち人間の機能的発現の関係と呼べるものを示している。そして、これは、人間と薬との関係を知ろうとすれば、考慮すべきことである。 『エーテル体の作用強度;患者が若いときにゆっくりと成長したか、速く成長したか、長い間小さいままだったか、比較的幼い時期に、もう背丈が伸びてしまい、その後は成長が遅れたかどうか等の成長の確認。「背が低くてズングリしている」か、「背が高くてヒョロっとしている」か。』
2008年11月10日
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さて重要な事は、人間は自らのうちに、鉱物化しようとする傾向をもっているということである。丁度、動物相-植物相プロセスの基礎を成すものが、いわば独立的になり得るのと同様に、人間全体にとって、この鉱物化の傾向も独立性を持つ可能性がある。 (人体内の動物化-植物化が進むと、寄生虫やウイルスが繁殖しやすい土壌となる。) この鉱物化の傾向に対して、どのように対抗して働きかける(作用する)必要があるのか? この鉱物化に対抗する働きかけ(作用)は、この鉱物化傾向を粉砕し、いわば、そのなかに絶えず楔を打ち込む以外にはない。そして、この領域こそ、血清療法から植物療法を経て鉱物療法へと移行して踏み込んでいくところである。 何しろ鉱物療法無しでやっていくわけにはいかない。なぜなら、鉱物化していく傾向、普遍的に硬化していく傾向に対する人間の戦いにおいて、支えとなる為の拠り所が、鉱物と、人間のなかで、自ら鉱物になろうとするものとの関係にあるからである。 その際、鉱物を、外界の状態のままで、人間の生体組織に取り入れる方法を用いることはできない。ここで、ホメオパシー原理を、何らかの形で示すもの、つまり、外の鉱物界の活動性に対置できるような力が、他ならぬ鉱物界から探り出され、その力を示すものを候補に挙げる必要がある。 次の事は、よく指摘されてきたことで、実際正しいが、治癒作用のある泉の僅かなミネラル成分に注目すれば、この泉では、目覚しいホメオパシープロセスが起こっているのがわかる。このプロセスは、通常見られる外界の諸力から、鉱物の関連物を解放する瞬間に、全く別の諸力、つまりホメオパシーを行うことでしか、特別に解放されない別の諸力が、本当に現れてくることを示している。 けれど、この事は、別の章で改めて述べる。それでも猶、今回述べておきたいことは、次のようなことである。 実際に(特に比較的若い人に切に勧めたいが)、腸組織全体の形態変化、言うなれば、一面において、魚類から両生類、爬虫類を経て鳥類に至る変化(特に両生類、爬虫類との腸組織の関係は究めて興味深い)、他面において、哺乳類、そして人間にまで至る変化について、比較研究すれば、つまり、器官の特殊な形態変化が起こり、例えば、盲腸が形成されることに気づくだろう。 すなわち、人間の場合には後に盲腸となる原基が現れ、下等な哺乳動物の場合や、鳥類の組織から、何かが落ちて、盲腸の原基が現れてくる場合、魚には全く存在しない大腸から(魚の場合、大腸を語ることができない)、いわゆる完全な秩序による上昇を通じて、(両生類、爬虫類を経て鳥類に至る変化において)大腸が現れ、更には(哺乳類から人間にまで至る変化において)複数の盲腸、人間の場合は1つの盲腸が現れてくるが(他の動物のなかには複数の盲腸を持つ種類もいる)、このような発生の形態全体のなかに、独特の相互関係を見つけるだろう。 魚類→両生類、爬虫類→鳥類;大腸の発生 下等な哺乳動物、鳥類→高等な哺乳動物、人間;盲腸の発生 本来、このような相互関係こそ、比較研究において、厳密に指摘すべきである。単に外見的に(実際、よく次のように問われるが)、「一体何のために、人間の盲腸のような、外に向かって閉じたものが存在するのか?」、と問われる。 このような事柄について問われることが、よくある。このような問いを投げかけるとき、通常、次のような事に注目することはない。 実際、人間は二元性として、自己開示していること、従って、一方つまり下部において形成されるものは、常に上部で形成されるものの平行器官であり、この平行器官、いわば対極が、下部において発達できなければ、上部では、何らかの器官が発生できないということに注目していない。 そして、動物の系列において、前脳が形態を取るほど、人間の場合は、これを後に発達させるが、それだけ一層、腸は、正に食物の残りを蓄積する方向へと形成する。腸形成と脳形成の間には密接な関係があり、動物の進化系列において大腸、盲腸が現れてこなかったら、結局は物質的本性として思考する人間も発生できない。 上部;前脳が形態化し、脳形成が発達する 下部;腸形成が発達し、盲腸が現れる なぜなら、人間が脳、すなわち思考器官を持てるのは、腸器官の負担、まったく腸器官の御蔭だからである。腸器官は脳器官の忠実な裏面(陰;ネガ)なのである。 一方で(上方で)、思考の為に物質的活動が免除される為には、他方で(下方で)、大腸形成と、膀胱形成による負担の切欠を、(下部)器官に担わせる必要がある。 このように、人間の物質的世界に現れている、正に最高の霊-魂活動は、脳の完全な形成と結びついているのと同時に、その一部の腸形成とも結びついている。これは究めて重要な関係であり、自然の創造全体に途方もなく多大な光を投げかけるものである。 さて、ここで、たとえ幾分、逆説的に聞こえるとしても、「人間には、なぜ盲腸があるのか?」、と問いかけるなら、「人間が相応な形で思考できる為にある」、と答えることができる。 なぜなら、盲腸において形成されるものに、対置されるものを、脳のなかに持つからである。一方にあるものは全て、他方にあるものに対応している。 この事は、新種の(霊的な)認識方法で再び獲得すべきである。無論、遺伝的霊視力に立脚していた古代の医師たちを、今日、そのまま模倣することはできない。それでは、ほとんど得る事はないからでもある。それでも、このような事柄を再び獲得しなくてはならない。 このような事柄の獲得にとって、正に最初の障壁になるのが、このような関連を、はじめから探究しない、純粋に唯物論的な医学教育である。今日の自然科学と医学にとって、脳は1つの内臓器官であり、下腹部にある腸も1つの内臓器官である。ここでは、「陽電気(陽電子)と陰電気(電子)は全く同じもので、両方とも電気である」、と言う場合と同じ誤謬が犯されているという事に、人々は全く気づいていない。 陽電気と陰電気の間には、互いに均衡を求める緊張が生じているのと全く同じように、人間においても上部と下部の間に絶えず「緊密(平衡)」が存在するからこそ、この誤謬に気づくことは、一層重要である。医学分野において優先的に探究すべき事は、本来、この「緊密(平衡)」の制御という点にある。 (素粒子論でいえば、負のエネルギーのネガと正のエネルギーのポジやフェルミオンとボソンの超対称性を意味する。宇宙論でいえば、負の世界と、正の世界があり、前者が霊界で、後者が、物質界であることがわかり、霊界の方が実際、次元として広いことがわかる。 これは、人間が三次元空間、或いは知的に進んで、時間という概念で捉え、時間を加えた四次元時空間という概念しか具体性をもてないことからわかる。例えば、5次元物質を構築することはできない。超弦理論では、11次元が数学的に提唱されているが、神学では、天使の位階により人間の上に9次元、人間及び物質界を含めると12次元であるといわれている。 ちなみに、聖書では、天地創造は7日でなされたとあるので、日は神デウスの意味で、デウスからデイに変化したが、7注の神々を中心になされたとあるので、いまも創造は継続中だが、7進数を基になされ、7次元といえるだろう。 人間の進化段階が、7進数で構成され、それらが、三位一体で進むので、111から777の段階まであり、666の段階になると、人類のなかで、最大の悪魔性が発揮されるという。だから、ヨハネの黙示録では、666は悪魔の数とされるという。言葉になおすと、ソラトという「太陽悪魔」になるという。余談だが、最近、どこかの石油会社が、この名を使っているのに驚いた。 イラク戦争は、石油を巡って起こされ、イスラム教とキリスト教の対立も、石油利権から起こっているともいえる。) この緊密(平衡)は(今回は暗示だけにして、以後の考察で更に詳しく述べる)、二つの器官に集中する力のなかに、つまり、松果腺と、いわゆる粘液腺のなかに現れている。松果腺においては、上部の力全てが現れ、下部力の粘液腺の力や、脳下垂体の力に対して緊密な関係を成している。 ここには、真の緊密(平衡)関係が成立している。この緊密(平衡)関係に関して人間の状態全体から見解を打ち立てるなら、更なる治療プロセスの為の非常に良い基本原理が得られる。 この事に関しては次回に譲る。質問全てに入っていくつもりだが、その為の基礎を作り上げなければならない。
2008年11月06日
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一面において、植物化の出現に対抗する戦いを、循環プロセスのなかに見つけることで、人間内部の、つまり腸内の動物相及び植物相の克服へと進んで行く必要があるように、下部から出発して、本来の(上部の)神経-感覚人間へと進んで行く必要がある。 この神経-感覚人間は、人間の生活全体にとって、通常考えられているよりも、ずっと重要である。科学が、抽象に高められた為に、次のような事を、適切な方法で考慮する可能性が全く失われてしまった。 この神経-感覚人間を通じて、例えば、光と、光に結びついた熱とが、(体内に)入り込んでくるが、この神経-感覚人間は、内的な生活と密接に関係している。なぜなら、光と共に入り込んでくる計測不可能な存在は、諸器官において変容させられる必要があり、そして、この計測不可能な存在は、計測できる領域に存在するものと同様に、器官を形成することを、考慮する可能性を失ってしまった。 神経-感覚人間が、人間の組織化にとって特別、意味を持つことは、全く考慮に入れられていない。 下部人間のなかに、より深く下降していく場合、腸内植物相の形成力から、腸内動物相の形成力へと下降していくが、人間の上部へと昇っていく場合は、内部植物相を克服する領域から、人間のなかの絶えざる鉱物化、いわば人間の硬化を克服すべき領域へと上昇する。 下方へ下降する場合;腸内植物相→腸内動物相 上方へ上昇する場合;内部植物相の克服領域→鉱物化、硬化の克服領域 ここで、いわば外見的に、頭部の骨化が他の部分より顕著であることから見ても、人間は上へ向かって進化するほど、器官を通じて、正に鉱物的になる傾向が強まるということを研究できる。 この鉱物的になるということ、これは人間の生体組織全体にとって大きな意味をもつ。 というのも、これは繰り返し留意すべきことだが(公開講演においても指摘してきたが)、人間を三つの部分、すなわち、頭人間、胴体人間、四肢人間という三つの部分に分けるとき、これら三つの部分が並列的で、外的空間のような境界をもつと考えてはいけないからである。 質的に区分するなら、人間は、当然全くの頭人間である。本来、頭の存在が、人間全体に拡がり、その主要な部分が(現在の)頭だけにあるといえる。他の部分、つまり循環と、四肢及び新陳代謝についても同じで、これらも常に人間全体に拡がっている。 この為、当然、頭ないし頭部人間にとって存在すべきものが、素質として、人間全体のなかに存在しているが、この人間全体における鉱物になっていく素質は克服しなければならない。 今日の人間が、遺伝的霊視能力から導出されてきた古代の著作を紐解いても、いまでは何も理解できない分野というのは、正しくこの事である。 なぜなら、結局、パラケルススの言う「塩プロセス」について読んでも(3)、今日、ほんの僅かな人しか、正当な意味を読み取ることができないからである。 ところで、この「塩プロセス」というのは、丁度今特徴を述べている領域(鉱物化、硬化の克服領域)にあたり、「硫黄プロセス」というのが、その前に述べた領域(内部植物相の克服領域)にあたる。 (3)パラケルスス「オープス パラミールム」参照。 下方へ下降する場合;腸内植物相→腸内動物相-硫黄プロセス 上方へ上昇する場合;内部植物相の克服領域→鉱物化、硬化の克服領域-塩プロセス
2008年11月05日
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