全21件 (21件中 1-21件目)
1
『学歴の耐えられない軽さ』が、とても印象深い本だったので、 私の著者・海老原さんに対するイメージは、とても良い。 現在、就活に関する書物は、巷に溢れかえっているが、 そんな中で、本著を手にした理由は、そこにある。 そして、本著を読んでみると、データを次々にこれでもかと繰り出してくる。 まぁ、世間で一般的に受け入れられている状況を否定するためには、 このような手法を用いることが必要となるのは、大いに理解できるところだが、 そればかり連発されると、読む方は疲れてしまうのも事実……それでも、頑張って読み込んでいけば、やはりナカナカ鋭い指摘が並んでいる。 東大と京大で卒業生は毎年6000名。 これに北大・東北大・名古屋大・大阪大・九州大を合わせるともう1万9000名となる。 一方私立では、早稲田と慶應の卒業生だけで毎年1万8000名。 つまり早計旧帝大で卒業生総数は3万7000名。 さらに、東工大・一橋大・東京外語大・神戸大といった専門分野トップ大学を加えると、 年間卒業生は4万5000名に迫る。 そう、超のつく難関大学の卒業生だけでも4万5000名もいる中なかで、 人気企業の採用は平時で2万、多くて3万。 難関大学出身者でさえ、容易にこんな企業には入れていない。 そんな企業群の「慣習」である新卒固執が、世間の常識となる異様さ。 そして、マスコミがこの目立つ存在である 「人気企業」×「難関大学生」ばかりにスポットを当てた過誤。 こんなボタンの掛け違いで、就職問題は解決とはほど遠い方向に動き出してしまった。 大学は年間に約55万人も卒業生を生み出す。そのうち就職希望者は45万人程度。 そして就職できる人はアベレージで35万人。 対して、たかだか採用ワク2万(卒業生比たった4%!)の人気企業の風習をいじったところで、 大方の一般学生にとっては何の問題解決にもならないはずなのに。(p.16)さらに、 要は、世間受けがよくて学生もその親御さんも見栄を張れるような 「主要企業」への就職者数は、5万~10万人、全就職者の5人に一人程度。 どんなに好景気でもその数は全体の3割に満たないような状況であり、 その他の圧倒的多数(7~8割)は、無名企業に就職している。 そして、こうした無名企業と一般校の学生の間で、ミスマッチが起き、 最終的に10万人程度の未就職者が生まれる。 この構造を前提に考えると、上位1割にも満たない超人気企業と 有名校の組み合わせにおいて起きる「新卒偏重」問題は、 騒いだ割に効果が少ないことがすぐにわかるだろう(p.66)この状況を踏まえ、著者は「中小企業」にスポットを当て、世間でまかり通っている「間違った定説」を駆逐しつつ、その問題解決に向けて、提言を開始するのである。そして、そのエッセンスは、巻末の城繁幸氏との対談に集約されている。
2012.06.30
コメント(0)
「涼宮ハルヒ」シリーズ5作目となる本著は、 「ザ・スニーカー」に掲載された2作品に、書き下ろし1作を加えた構成。 最初の「エンドレスエイト」は、夏休みネタ。 無限ループを脱出するため、ハルヒがしたいことを見つけろ! 二つ目の「射手座の日」は、ゲームネタ。 『僕は友達が少ない 』でもゲームは頻繁に登場するが、 こちらの方が、私としては断然面白かった(有希大活躍!!)。 もちろん、刊行時期は、こちらの方が相当早い。そして、最後の「雪山症候群」が書き下ろしで、最も長い。『涼宮ハルヒの退屈』掲載の「孤島症候群」を受けての作品ということになるが、ミステリーの度合いは減退し、SF調が前面に出た作品となっている。「オイラーの多面体定理」が登場したりして期待感は高まるが、最後は少々尻すぼみの感。まぁ、今巻の収穫は、鶴屋さんへの期待度が、次第に高まってきたところか。
2012.06.30
コメント(0)
「涼宮ハルヒ」シリーズ4作目となる本著は、 前巻のような短編の寄せ集めではなく、 まるまる一冊、表題作のみの一つのまとまったお話し。 そして、読み応え、完成度共に、これまでの中ではNo.1。 12月18日、キョンが北高に辿り着くと、世界は一変していた。 1年5組の教室には朝倉凉子がいるのに、ハルヒがいない。 1年9組はクラス自体が存在せず、それ故、古泉もいない。 そして、朝比奈さんも長門もすっかり別人になってしまっていた。12月19日、状況打破に向け行動するが、長門宅で朝倉を交え、おでんを食すに留まる。12月20日、男女共学で進学校になっていた光陽園学院で、ハルヒと古泉を発見。そのハルヒは、三年前の七夕の出来事と、ジョン・スミスの名前だけは憶えており、彼女が部室にSOS団のメンバーを強引に集結すると、長門の緊急脱出プログラムが起動した。ここからは、キョンが時間を行ったり来たりの、少々ややこしい展開となる。そして12月18日、時空改変者がその行為をした直後に、再修正プログラムを起動して、キョンは元の世界を取り戻すことに成功する、はずであったが……どうやら、彼には、もう一度時間を行き来する必要があるらしい。と言うことで、今回のお話しは、さらに続編があることを約束することで一応の決着を見た。そして、今回のお話しのメインは完全に長門有希であり、ハルヒの存在感はとても薄い。そういう意味でも、今回は、まさに『涼宮ハルヒの消失』というタイトルがピッタリ。しかし、巻を重ねる毎に長門の存在感が増していくように感じるのは、私だけだろうか。
2012.06.30
コメント(0)
「涼宮ハルヒ」シリーズ3作目となる本著表題作「涼宮ハルヒの退屈」は、 時系列的に言うと、『涼宮ハルヒの溜息』よりも前の出来事。 そして、『涼宮ハルヒの憂鬱』より先に『ザ・スニーカー』に掲載された作品。 その経緯については、「あとがき」で著者の谷川さん自身が述べている。 続く「笹の葉ラプソディ」は、仮題「朝比奈みくるの困惑」とされていた作品で、 『涼宮ハルヒの憂鬱』の中で、谷口が語った「東中校庭落書き事件」の真相が、 思わぬ形で明らかになるというお話し。 既に3年も前から、SOS団のメンバーは関わりを持っていたのだった。3つめのお話し「ミステリックサイン」は、ハルヒがHPのため考案した「SOS団のエンブレム」が引き起こした事件のお話し。コンピュータ研の部長を捜索し、全長3mのカマドウマと相対することになるが、この事件を演出したのは、どうやら長門さんらしい。そして最後の「孤島症候群」は、完全なるミステリータッチのお話し。クローズドサークルとなった孤島の別荘で、殺人事件が発生。最後は、何とキョンがその真相を突き止める。これも、ハルヒの退屈を紛らわせ、非日常的な現象を発生させるのを防ぐための事件だった。
2012.06.24
コメント(0)
「涼宮ハルヒ」シリーズの2作目。 今巻も、前半は既視感を憶える内容。 それは、『僕は友達が少ない』でも登場した、文化祭での映画ネタ。 もちろん、本著の方が先に刊行されてるので、似てるとすれば『はがない』の方。 ただし、高校における文化祭での映画作りは定番中の定番。 「お話しが似てる」と指摘するのは、かなり的外れなことだろう。 しかも、『ハルヒ』の方は非日常系学園ストーリー。 後半には、『はがない』では決してみられない展開が待っていた。未来から来た朝比奈みくる、地球外生命体に作られたヒューマノイド・インターフェイスの長門有希、『機関』という謎組織から派遣された超能力者の古泉一樹。そして、この三人ですら存在自体が何だかよく分からないという涼宮ハルヒ。 朝比奈さんによると『時空の歪みの原因』で、 長門は『自立変化の可能性』と言い、 古泉はシンプルかつ大仰にも『神』と呼んでいた。(p.145)そんな、ハルヒが映画作りに没頭する中、彼女の荒唐無稽なフィクションが、現実社会のノンフィクションへと変更されていく。朝比奈さんの装着したコンタクトレンズからレーザービーム等が発射されたり、ハトが真っ白になったり、ねこが喋ったり等々……、ハルヒは気付いていないけど。そして、最後は映画の一応の完成と、文化祭での上映終了と共に、何か拍子抜けするほど、あっさり何事もなく終わってしまった。ハルヒの謎も、全く解明されないままに。ところで、鶴屋さんも普通の人間ではないのか?
2012.06.23
コメント(0)
『ハルキとハルヒ』という本についての記事を新聞で見つけた。 村上さんのファンである私としては、ぜひとも読みたいと思ったわけだが、 何せ「ハルキ」については、ある程度の知識を持ち合わせているものの、 「ハルヒ」については、全くの無知状態である。 そこで、『ハルキとハルヒ』を読む前に、「ハルヒ」を読んでおこうと思った。 『1Q84』を読む前に、他の村上さんの作品を読んでおこうと思ったのと同じ。 もちろん、『風の歌を聴け』だけ読んで、村上ワールドが理解できないのと同様、 『涼宮ハルヒの憂鬱』だけ読んで、ハルヒの世界が分かるとは思えない。そこで、とりあえず、9冊ほどまとめて買ってみた。現時点での最新刊(と言っても1年も前の発行だが)『涼宮ハルヒの驚愕』だけを残し、今は、テーブルの上にドンと積んである状況。そして早速、最初の一冊である本著を読んでみた。ライトノベルというジャンル、そして各種設定の事情からか、『僕は友達が少ない』と酷似しているというのが第一印象。もちろん、作品としては『涼宮ハルヒの憂鬱』の方が、その出版は遙かに早い時期であるから、『僕は友達が少ない』の方が、『涼宮ハルヒ』シリーズに似ているのである。しかし、唯一の違いは、『僕は友達が少ない』では、かなり個性豊かで、変わり者が多いとは言え、あくまで普通の人間しか登場しないのに、『涼宮ハルヒ』シリーズに登場するのは、普通の人間ばかりではないと言うこと。宇宙人モドキや未来人、超能力野郎が存在するという、非日常がベースがそこにはある。しかも、このお話で描かれる世界そのものが、涼宮ハルヒという一人の少女によって作られたものではないかと受け取れる下りもある。実際、その辺の所はどういうことになっているのかは、今後の作品を読まねば分からない。この世界観に、何か村上ワールドに通じていく部分があるのだろうか?
2012.06.23
コメント(0)
私は「時間がもったいない」という思いがとても強く、 周囲からすると、いつもバタバタ、あくせくしてる人間に見えると思う。 それでも、自分としては、まだまだ時間が足りない、 もっと、自分が自由に使える時間を産み出したいと、いつも思っている。 そこで、和田さんによる時間管理指南書である本著を手にした。 そして、本著を読んでみると、 「あぁ、自分と同じだな」という所が何ヶ所もあった。 これには、ちょっと嬉しい気分にさせられた。本著で示される「和田式時間術!9つの習慣!」は、次のようなもの。1.途中で「見切る」 これが、なかなか私には出来ない。 「そこそこできたら満足とする」「常にパーフェクトを求めることは無駄が多い」 これらの言葉を、胸に刻んでおきたいと思う。2.「ついで」を使う これは、私も多用する手段。 ただ、このことにあまり執着しすぎると、逆に効率が悪くなることある。 すぐ出来ることは、すぐやってしまうことも大事かと。3.他人に頼る これは、私のモットー「他力本願」。 各分野において、自分より優れた能力の人々を身近に置いて、 それらの分野については、徹底的に頼ってしまおうというズボラな私。 4.仕事は「1週間単位」でする 先を見通して、計画的に時間を使いましょうということ。 土日は、いざという時のセイフティーネット。 まぁ、誰でもそうしている気がするけれど。5.自分が「つくらない方法」を考える 簡単なものからサッサと片付け、重要なものは時間をとってジックリ丁寧に。 「好きなことは犠牲にしない」「自分を追い込むと仕事時間は速くなる」は納得。 「本は自分が必要なページだけを読む」は、私には雑誌でしか出来ないな……6.「苦手」を克服しない 私もゴルフもギャンブル、異性関係もしない。 理由は和田さんと同じ。 「失敗してもゼロになるわけではないという発想」は納得。7.時間を買う 「時間をお金に換算する発想」については、私も同様の考え方。 ただ、やはりそこには個々の経済力がどのようなものかが関わってくる。 その時間の価値と財布の中身とを天秤にかけることになるわけだが……8.あえて「時間」を気にしない これは、それが出来る環境にあるかどうかが大きな問題。 縛りが多いライフスタイルの者にとっては、これは無い物ねだり。 時間を選べる自由度が高い人なら、仕事に合った時間帯も考えられそう。9.「習慣」を変える 「睡眠と食事をきちんと確保すれば、あとはどうにでもなる」 これは、私も全く同意見。 どの業種でも「仕事のできる人」はきっちり休む - でありたい。さて最後に、本著で私が最も印象に残った部分をご紹介。 たとえば「絶体絶命の大ピンチ」というとき、なにが「大ピンチ」かというと、 客観的な情勢の重大さより、自分だけで問題を抱え込み、 一種の思考停止状態に陥ってしまっていることです。 どんなピンチでも、自分が冷静に頭を働かせることができれば、 まだ脱出の可能性があります。(中略) こうした状況で一番大切なことは、ピンチだと思ったときに、 恥をしのんで泣きを入れられる人がいるかどうかです。(p.145)
2012.06.23
コメント(0)
文庫化までされているのだから、結構売れている本のはず。 著者も、今や有名人である。 全182ページであるから、スラスラと読めるはず。 それでも、私のページを捲るペースは、あまり良いものではなかった。 目次を見ると、そこで採り上げられているテーマは、興味深いものが多い。 「確かに、そうだな」と思える言葉が、多数並んでいる。 にもかかわらず、本文を読み始めると、ピンとこない 結局、付箋を一枚も使用しないまま、読了してしまった。一つ一つのテーマについて、記されている文章があまりにも少ないせいか、どれもこれも、尻切れトンボの感が拭いきれず、「結論は?」と聞きたくなる。思いついたことをライターに語り、それを文字化してもらっただけという印象。文章化してもらった後、推敲・加筆すれば(してると思うけど……)、深みが出たのでは?
2012.06.23
コメント(0)
今巻は、哲人皇帝マルクス・アウレリウスが、 二人皇帝の一人・弟ルキウスを失った後、 一人で、その困難な時代に立ち向かっていった様子と、 その実子・コモドゥスの皇帝就任及びその統治を描いたもの。 第一次ゲルマニア戦役、将軍カシウスの謀反、 そして、第二次ゲルマニア戦役と、戦いの時代が続くローマ帝国。 マルクスは、その最中、ドナウ河畔で死を迎えた。 後継者は、すでに共同皇帝の座にあった、18歳の息子・コモドゥス。 いかに善政を布いても、反対するものは必ずいる。 誰もがいちように満足する統治は統治ではないからで、 必ずいつか、公憤によったにしろ私憤に駆られたにしろ、 最高権力者に対して不満をもつ者は必ず出てくる。 その場合にもしも、適当な人物がいれば、反対派はその人をかつぐ。 内乱は、こうして起こるのだ。(p.130)マルクスは、このような事態を未然に防ぐため、実の息子を後継者とし、その継承をスムーズに行うために、共同皇帝にしていたのだった。そして、皇帝となったコモドゥスは、第二次ゲルマニア戦役の終結を宣言する。蛮族との間に講和が結ばれた。この「屈辱的な講和」に対する不満が、コモドゥスの評価を最悪なものにしていく。しかし、塩野さんは、この新皇帝の判断は正しい判断であったと擁護する。 ただでさえ市民の支持率の低下は必至、これに加えて、元老院からは冷淡に迎えられ、 能力を認めたがゆえに登用した後継者からも理解されないような政略を、 ティベリウスもハドリアヌスも実行できたのは、その有効性を確信していたからである。 だが、同時に、彼らが二人とも、強烈な自己中心主義者でもあったからだった。 つまり、悪評に強かったのだ。 それに二人とも、四十代から五十代という、 世評に左右されることの少ない成熟した年齢でこれを敢行している。(p.163)19歳の若き新皇帝は、父である前皇帝の遺言である戦役続行より、その終結に固執した。そして、この決断は、結果的に「六十年の平和」をローマにもたらしたのである。ただ、塩野さんが、コモドゥスを弁護するのはここまでで、それ以後の彼については、「統治者としてすべきことは何ひとつやらないで過ごした」と一刀両断している。22歳の時点で、実の姉に殺害を謀られたコモドゥスは、31歳で、愛妾と寝所づき召使によって暗殺された(動機は全く不明)。
2012.06.23
コメント(0)
『終わりの始まり』全3巻シリーズの始まり。 途中、『すべての道はローマに通ず』という特別企画をはさんだので、 お話しとしては『賢帝の世紀』シリーズの続きとなる。 今巻の主役は、五賢帝時代の最後を飾る皇帝マルクス・アウレリウス。 紀元138年、次期皇帝に決まっていたアエリウス・カエサルが突然逝去。 そして、1か月を経ず、アントニヌス・ピウスが後継者に決定。 しかし、ハドリアヌスが、中継皇帝後に真の後継者として期待していたのが 自らが推薦し、三度も執政官に就任した重臣を祖父に持つマルクスだった。ハドリアヌスが予想したよりも約十年遅れて、マルクスは皇帝の座に就任。だが、マルクスは、皇帝に就任するのは自分一人でなく、弟のルキウスの二人だと宣言。ルキウスは、マルクスと同様、アントニヌス・ピウスの養子で、9歳年下の人物。こうして、前例のない二人の皇帝並立という形の治世が始まった。すると、これまでの平穏な時代が嘘だったように、次々と問題が湧き起こってくる。飢饉と洪水、そして、パルティア王国のアルメニア王国への侵入。半世紀の間、戦役と無縁で過ごしてきたローマ帝国であったのに、誰よりも戦争とは遠い気質の哲人皇帝マルクスが、軍団を指揮することになってしまった。マルクス同様、ルキウスも軍事経験がなかったが、体力と年齢を理由に、ローマ全軍の最高司令官として東方に向かうことになる。5年に及んだパルティア戦役にローマは勝利し、盛大に凱旋式が行われた。しかし、間もなくゲルマニア戦役を迎えようという頃に、ルキウスは39歳で亡くなる。 ***さて、今巻で私が一番印象に残ったのは、この部分。 だが、快晴つづきであった次の日に雨が降ることは珍しくない。 一般の市民が誰でも雨傘を用意するくらいならば、指導者は必要ないのである。 一般の人よりは強大な権力を与えられている指導者の存在理由は、 いつかは訪れる雨の日のために、人々の使える傘を用意しておくことである。 ハドリアヌスが偉大であったのは、帝国の再構築が不可欠とは誰もが考えていない時期に、 それを実行したことであった。(p.68)その時代に生きる人々が、その真の価値に気付いておらず、それ故、評価もしてもらえず、反発さえ示されてしまう可能性のある行為。しかし将来のことを考えると、それを断固として成し遂げていく必要がある。その実行を迫られる指導者は、何と孤独で困難な役割だろう。
2012.06.23
コメント(0)
巻末の「解説」を含めて494ページの大作。 私がこれまでに読んだ百田さんの作品の中でも、 『永遠の0』に次ぐボリュームである。 しかし、その読後における作品の存在感は、全くレベルが違うものだった。 お話しとしては、きちんと成立しており、滞ることなく、スムーズに流れていく。 しかし、流れていくばかりで、澱んだり、深まったりするところがあまりない。 「解説」までもが、とらえどころがなく、心に引っかかるところがない。 『グロテスク』のように、ドロドロした部分が、もっと前面に出ていれば……もちろん、この作品を通じて、何も得られなかったわけではない。お話しの中で開陳される成形手術の技術の数々には、本当に感心させられた。中でも、蒙古襞や目頭切開については、とても参考になった。これからは、TVでタレントさんの目元をよく観察してみようと思う。
2012.06.16
コメント(0)
フジテレビ系月9ドラマ『鍵のかかった部屋』において、 6月18日に放映される第10話と、25日に放映される最終話の原作である。 巻末の対談まで入れると604ページにも及ぶ大作。 2回に分けて放映しても、おそらくその全てを映像化するのは難しいだろう。 『鍵のかかった部屋』は、今クールのドラマで、唯一しっかり見続けているもの。 榎本径を演じる大野君は、これまでのイメージと一味違う良い演技を披露し、 『怪物くん』とは対極、『魔王』とも異なるキャラ作りに成功している。 大野君の起用は、番組プロデューサーが原作を読んでのイメージからだという。そして、このドラマがきっかけで、今回本著を手にすることになった私の方だが、読後の防犯探偵・榎本に対するイメージは、大野君とは決して遠いものではなかった。逆に、大野君は見事にそのイメージを演じていると、感心させられた。まぁ、読書前にドラマを散々見ているから、その印象に引きずられている部分は大だが。それに比べると、青砥純子のイメージは、明らかに戸田さんとは異なる。戸田さんも、これまでの作品とはヘアスタイルなどイメージチェンジをして、このドラマに臨んでいるようだが、弁護士という職業に携わる雰囲気があまり感じられない。私のイメージでは柴崎さんか(こちらは『聖女の救済』の読後感を引きずっているようだ)。さて、お話しの方は、期待通りに面白かった。いや、期待した以上に面白かったので、次週から放映されるドラマも楽しみになってきた。少々くどいところや理屈っぽいところは、頭のイイ人が書いたお話だなとは感じたけれど。そして、読書中にこのお話のトリックに思い至る読者は、まず存在しないだろうとも思った。
2012.06.16
コメント(0)
ここまで来ると、主役はハッキリ言って内海薫である。 小説では『ガリレオの苦悩』から登場し始めたキャラだが、 TVドラマでは、既に柴咲コウさんが以前から演じており、 福山雅治さん演じる湯川学と対を成す、メインキャラクターであった。 ところが、今回はこれまで放映されたTVドラマ以上に主役である。 もちろん、美味しいところは湯川が持って行ってしまうわけだが、 お話しの中における存在感は、彼女のほうが遙かに大きい。 草薙は登場頻度は高いものの、あくまでもサブキャラである。今回のお話しでは、犯人は最初から明確である。ただ、その犯行の手口や真の動機については、薫たちもなかなか辿り着けない。最後に明らかになる真実については、驚きもあったが、やや脆弱さも感じた。それでも424ページを一気に読ませてしまう筆力は、流石に東野さんである。
2012.06.16
コメント(0)
イノベーション・クリエーターと称する著者から、大学生に向けて、 238ページの中に、100のアドバイスを詰め込んで刊行された一冊。 最初の1ページに、かなり大きな活字で、格言的なアドバイスを掲載、 そして次ページは、普通サイズの文字で、その説明をするという構成。 これが、100回繰り返されるだけだから、 空き時間を見つけて読み進めれば、あっと言う間に読了できてしまう。 手軽に読めることに重点が置かれているので、内容に深みを求めてはいけない。 また、その内容も玉石混淆ゆえ、自分に合ったものを取捨選択する必要がある。そんな中、私が印象に残ったのは、「高校時代の話でいつまでも盛り上がる人は、将来成功しない。」というもの。 成功していくグループは常に未来の話で盛り上がり、 落ちぶれていくグループは常に過去の話で盛り上がる。(p.75)最近、若者の一部に、強力な地元志向を持つ者がいる。高校どころか、中学校や小学校時代の交友関係を、いつまで経っても保持し続けている。そこから一歩踏み出して、新しい場所で新しい関係を築くことには、あまり熱心でない様子。いつまでも親と一緒に同じ家に住み続け、こどもとしての日々を過ごしている。 続いては「親友というのは、成功した時にきちんと拍手してくれる人間のこと。」というもの。 テレビや新聞に顔を出しているような有名人の成功に対しては、比較的拍手を送りやすい。 圧倒的にレベルが違う人に対して、人は嫉妬しないからだ。 ところが身近な人となると、こうはいかない。 嫉妬心が芽生えてきてどうにも落ち着かない。(p.95)これは言い得て妙。何も補足するところがない。あと、「これは、なかなかイイナ」と思ったのは、次のもの。現役大学生の段階では、ちょっとピンとこないかも知れないが。 『「いい男(女)がいない」と言う人は、理想の相手が現れても相手にされない』(p.118) 「ピンチを一度も経験したことのない人生が、最もピンチ」(p.154) 『「自分にはこれといった才能がないと思うなら、「スピード」か「量」で勝負する』。(p.204) 「本当は嫌いなことなのに、間違って成功し続けたら毎日が地獄の人生になる」(p.212)
2012.06.16
コメント(0)
月一というスゴイペースで、続々とコミックスが刊行され、 「何か変だな?」と思っていたら、 本作のジャンプ連載が、既に終了していたことが分かった。 即ち、コミックスも来月発売される20巻がシメの一冊と言うことになる。 元々、自分たちの作品が「アニメ化されたら結婚」という大目標に向け、 最高が秋人と共に、好敵手たちと凌ぎを削って頑張るというお話しなので、 亜城木夢叶が、アニメ化されるような作品を誕生させ、 その声優を亜豆が務め、結婚という夢が叶えば、それがまさにゴールイン。もちろん、ゴールを先送りにすることも、ゴール後、新たなゴールを設定し直すことも出来ないわけではないが、大場・小畑コンビは、今回、そのいずれをも選択しなかった。秋からアニメの第三シリーズが始まる前に、大きな決断を下したわけである。この辺りの経緯は、本作における最高・秋人コンビの選択と微妙にリンクしており、結構リアリティーに溢れている。また、『RIVERSI』という作品に『DEATH NOTE』を重ね合わせ、色々と想像を巡らせてしまうのも、私だけではないだろう。さて、今巻のお話はと言うと、エンディングに向けて、着々と布石が打たれていく展開。最高と秋人は、エイジとのアニメ枠獲得競争に勝利するものの、最高と亜豆の関係が世間の知るところとなり、大騒動に発展。この苦境を、最高と亜豆が乗り越え、見事ハッピーエンドを迎えることになるのだろうが、騒動のメインステージを、ネットの掲示板に据えた着眼点は秀逸。そして、亜豆というキャラに、あまり良い印象を持っていない私ですら、本巻最後のコマに描かれた亜豆は「なかなかかわいいな」と思った。
2012.06.16
コメント(0)
副題は「おじさん」的思考2。 『「おじさん」的思考』同様、文庫版である本著が発行されたのは2011年だが、 単行本は2002年に刊行されたものである。 内田先生が「文庫版あとがき」で書かれているように、ネタとしては古い。 しかし、『「おじさん」的思考』に比べると、随分読みやすくなった印象。 半年にして、読み手を選ぶ一冊から、読み手を選ばない一冊へと進化している。 第1章は、女子大に勤務する内田先生ならではの、面白い構成。 臨場感があって、なかなかイイ感じ。 人間が精神的に追いつめられる状況というのは、 端的に言えば「一人で生き、一人で運命と対峙し、一人で責任をとり、一人で問題を解決する」 ことを強いられる状況のことである。(p.13)人は一人では生きていけない。まさに、人間は社会的動物である。 人間は「もの」を欲するのではない。 人間がその存在をかけて欲望するのは、「他者と物語を共有すること」、 すなわち「承認され、愛されること」なのである。(p.114)やはり、人は一人では生きていけない。まさに「マズローの欲求段階説」である。 「大人」とは「子どもから大人だと思われている人間のことである」。 これに尽きる。(p.29)子どもの頃、「大人」は子どもと何かが違うはず、「大人」になれば、何かが変わるはず、と思っていたけれど、いざ「大人」と言われる年齢になってみると、それまでと何も違わず、何も変わらなかった。自分は相変わらず、子ども時代からの延長線上を生きている自分のままだった。 人間の社会では、他者に対して政治的に優位に立ちたければ、 「断定できないこと」についてさえ断定的に語ることが必要であり、 断定的に語るためには、自分の「ほんとうに思っていること」を言おうとしてはならず、 誰かが「断定的に言ったこと」を繰りかえすしかないのだ。(p.53)なるほど……断定的に語ることが出来る人は、そんなふうにしていたのか。第2章も内田先生らしく、私がこれまでに読んだ著作の原型が随所に見られる。そして第3章は、フェミニズムについての鋭利な論述とロングインタビューが絶品。 ご存じのとおり、だいたい一番攻撃的な人というのは、 自分は善人で、本質的に正しい、という大前提がある人ですよね。(p.226)自分自身に対し絶対的な自信を持ち合わせていることが、攻撃的でいられる条件だったのか。
2012.06.03
コメント(0)
文庫版である本著が発行されたのは2011年7月25日であるが、 単行本は2002年の4月に刊行されたものである。 内田先生にとって、2作目のエッセイに当たるものだそうだが、 元記事は十年以上も前、21世紀になるかならないかの頃のものである。 それ故、採り上げられているテーマもそうだが、 内田先生自身の論述にも、時の流れを感じさせられた。 現在に比べるとまだ若く、とんがり気味の思考・書きっぷりであり、 フランス現代思想の専門家としての論述に、多少の難解さも感じてしまった。それでも、内田先生は内田先生である。本著の中にも「!」と思わせる所は、随所に見られる。 ものごとが単純でないと気持が悪いといいうのは「子ども」の生理である。 「大人」はそういうことを言わない。(p.25)デジタル的、二者択一を求める人々を一刀両断。世の中、そんなに単純ではない。 人間的ファクターが充実している労働環境にいれば、 (「フレンドリーなクライアント」「公正な勤務考課のできる上司」「有能な同僚」などなど)、 私たちはかなり過酷な労働でも、相当の薄給でも、それを楽しむことができる (だって、職場に行くのが楽しいんだから)。(p.59)私が仕事や職場に求めるのも、まさにこういうこと。そうでない状況は、相当キツイ…… いまの社会では、「自分らしくふるまえ」「自分の個性を全面的に表現せよ」といった 「自我を断片化して使い分ける」ことに対するきびしい禁忌が幼児期から働いている。 そのような社会では、「ある局面においての私」と 「別の局面での私」というものを切り離す能力は育たない。 そして切り離せない以上、 「もっとも傷つきやすく、もっとも耐性に欠け、もっとも柔軟性を欠いた私」なるものが あらゆる場面でまっさきに露出してくることは避けられないのである。(P.76)世の中、単純ではないのだから、そこに生きる人間も、そうそう単純ではいられるはずもないと言うことか。
2012.06.03
コメント(0)
文藝春秋に連載されている『日本人へ』をまとめたもの。 リーダー篇が、2003年6月号~2006年9月号に、 本著が、2006年10月号~2010年4月号に掲載されたものである。 今回は、自民党から民主党への政権交代期に書かれた時事エッセイ。 ちなみに、今年の3月号に掲載されたのは、連載106回目の一文で、 マリオ・モンティ内閣の改革に関する「スーパー・マリオの大実験」。 『リーダー篇』のp.128に、連載をやめさせてくれと願い出たものの、 編集長から一蹴されたことが記されているが、その後随分長く続いている。本著を読むことは、私にとって『ローマ人の物語』を読む助けに大いになった。しかし、逆に『ローマ人の物語』を読んでいない読者にとっては、少々理解が難しいのではないか、と思われる記述も散見された。まぁ、本著を手にする人の多くは、私同様『ローマ人の物語』の読者でもある気がするが。 七百年も昔にキリスト教側の敗退でケリがついているはずの十字軍でさえも、 今なおイスラム側では侵略戦争としているくらいなのだ。 つい半世紀前に終わった戦争が侵略とされてもしかたがないのではないか。 ゆえに私には、日本がしたのは侵略戦争であったとか、 いやあれは侵略戦争ではなかったとかいう論争は不毛と思う。 はっきりしているのは日本が敗れたという一事で、 負けたから侵略戦争になってしまったのだった。(p.220)「勝てば官軍」、これが世の常であることを再認識させられた一文。 それに、歴史共同研究を日韓中に限らず他国との間にも広げることが実現できれば、 日韓と日中の共同研究に費やすカネと時間さえ無駄にならなくなるという、 メリットにもつながるのである。なぜなら- 第一に、日韓と日中の間の共同研究を、ワン・ノブ・ゼムにしてしまう働らきだ。 第二は、比較することでより明らかになってくる実態を、日本人だけでなく、 韓国人も中国人も自らの目で直視できる、というメリットである。 こちらの会議では怒号と卓をはげしくたたく音で終始するのに、 なぜ別の会議では、話が静かに学問的な雰囲気のうちに進むのか、と。(p.50)これは、とても良い提案だと思った。しかし、現在はどういう状況になっているのだろう?ニュース等でも、あまり話題に上ってないようなので、あまり上手くいっているとは言えないのだろう。 サミットでのイタリアの震災地ラクイラへの支援に、 日本の耐震技術の粋をつくした体育館を建てて贈るという考えがひらめいたのには、 技術というハードをソフトに使うやり方を、日本もまねしてはどうかと考えたからだった。 地震多発地帯のあの街に避難所にも使える体育館を建てて贈ることは、 イタリア人への援助に留まらない。 世界の地震国全域に日本の耐震技術で浸透しようということにもつながるのだ。 イタリアの隣にはギリシアがある。そのギリシアの向こうにはトルコ、シリア、ヨルダンがあり、 イラク、イラン、アフガニスタンにパキスタンとつづく。 しかも、これらの国の北側には、資源はあっても耐震技術はないユーラシア諸国が控える。 (p.216)これも素晴らしい提案だと思う。当時、麻生首相がサミットで確約した日本側の援助として、省エネ型電球2万個、紙で作る音楽堂用の大型テント、体育館を贈ったことは記述されているが、その後、この取り組みはどのような広がりを見せたのだろうか?これも、ニュースで見たり聞いたりした憶えがないので、上手くいかなかったのか。
2012.06.03
コメント(0)
読み進めていくと、誰しもが思い当たるところがある。 普段、何気なく使っている言葉のなかに、 相手を不快にさせたり、落ち込ませたりするものが結構あることに驚き。 日常の会話を振り返り、大いに反省させられた。 しかし、さらに読み進めていくと、 「どうすればいいのか?」と戸惑ってしまうのも事実。 そういう言葉を使わないよう気を遣いすぎ、語らな過ぎるのもダメなのだ。 コミュニケーションは難しい。さて、本著の内容は、巻末「解説」にある、次の部分に集約される。 1.一般化(あなたは、特別な存在ではありません) 2.陳腐化(あなたは、とるに足らない存在です) 3.差別(わたしとあなたは違います) 4.比較(あなたは、わたし(ほかの誰か)より、劣っている) 5.上下(あなたより、わたしのほうが上です) 6.勝敗(あなたより、私のほうが偉い。優れています) 7.評価・忠告・批判(あなたは十分ではありません) 8.疑い(あなたのことは信頼できません) 9.否定(あなたは、間違っています) 10.被害者(あなたは、わたしたちの加害者です。あなたが悪い) 11.自己正当化(わたしは正しい。わたしは間違っていません) 12.脅迫(もし、○○なら、悪いのはあなたです) 13.拒絶(わたしはあなたが嫌いです) 14.無関心・無視(わたしはあなたに関心がありません) 15.孤立化(みんな、あなたが嫌いです) 相手のことばの裏に、こうした「意味」を感じとったとき、 人は、不快になり、ある人は落ち込み、ある人は仕返しを試みます。 そして、これらの「意味」は、実は多くの場合、受け取る側の「誤解」というより、 言う側が百も承知で(少なくとも無意識のレベルでは)、伝えているものなのです。 では、なぜ、わざわざ相手をおとしめ、自分から嫌われるようなことを言うのかといえば、 本文中でも度々触れているように、それ以上に優先させているものがあるからです。 それは何かといったら、「勝つこと」です。 少なくとも「負けないこと」です。 そうでなかったら、自分の価値がなくなってしまうという、根拠のない恐れのためです。 そして、相手から自分を守ることです。 脅かされる前に、相手から自分を守るためです。(p.147)言葉の裏に潜む隠しきれない感情が、相手を不快にする。それを隠そうとするところに、そもそもの原因があるとも言えなくはないか。
2012.06.02
コメント(0)
こういう類の書物を手にするのは、 今後、そういう状況になってしまいそうな恐れが出てきたとき、 或いは、ある程度そういう状況になりかけているとき、 若しくは、もう既にそういう状況になってしまっているときであろう。 いずれにせよ、藁をも掴む思いで、読者はページを捲るのである。 そんな読者の思いに、本著はかなり応えてくれる一冊であると思う。 著者は、『不機嫌な職場』の高橋さん。 『職場は感情で変わる』と同時期に発売されたもの。 むしろ仕事は受け流すほうが大事なこともあると知るべきです。 だから、自分の中に、「ここまではやれるけれども、これ以上はやらない」という線引きをし、 「早くやれ」と言われるまで放っておくという柔軟さが大切になります。(p.52)元気な人にとっては、「何を甘いことを!!」と感じられるかも知れない一文だが、追いつめられ、潰れそうになっている人には、とりあえず、これくらいの余裕を持ってもらうことが、まずは大切なんだと思う。そしてこの後、著者はこう続けている。 “良い加減”で受け流せるようになると、 力の入れどころと抜きどころも嗅ぎ分けられるようになります。 さらに、リスクを考慮して、万一抜きどころが優先事項になったときに、 即対応できるよう準備だけはしておくといった働き方もできるようになるのです。これは、なかなかにレベルの高い働き方である。こんな働き方ができれば、まさに理想的であるとすら思える。そして、ここまで読めば、この一文は潰れそうな人にとってだけではなく、元気でバリバリ働いている人にも、十分当てはまるものだったのだと気付く。 嫌なことは忘れようと努力しても、かえって記憶に残ってしまうものです。 必要なのは、忘れることではなく、 “まぁ、どうにかなるさ”という前向きな気持ちになれるように、 自分に呪文をかけること、暗示をかけることです。 そうすれば、たいていのことは本当に時間とともに、状況が変わり、 どうにかなってしまうものなのです。(p.68)「時間薬」の効果がいかに絶大なものであるかは、私自身も身をもって知っている。その効果が現れるまで、いかに自分自身が潰れてしまわないよう、心身の消耗を最小限に抑え、自己の意識をしっかりと維持し続けられるか。そのための「呪文」「暗示」という言葉で示された自身への働きかけが、肝となる。 このように、人は追いつめられたときに、ネガティブなフィルターをかけてしまいやすくなり、 そのときに感情表現を周囲にうまく伝えられないと、負のスパイラルに陥ってしまうものです。 そう考えると、確かに最初は誰かに追いつめられたのかもしれませんが、 実はそれはきっかけにすぎず、 そのあとは結局自分を追いつめるのは自分自身である-という側面が見えてきます。 非難されたり、思いどおりにならないことに苛立ち、そこで物事や人の見方を決めつけ、 そのネガティブな感情フィルターをとおして自分自身を追いつめていく。 こうして自らを潰していく人が多いのではないでしょうか。(p.108)自分自身を追いつめているのは自分自身。そのことに気付くことが、負のスパイラルから逃れる第一歩である。 人生の選択肢の多さに惑わされないでください。 いま自分が何をしているかで、自分の人生を判断しないでください。 大切なのは、何をしているのかではなく、どう生きているかなのですから。 どう生きるかは、いまからでもすぐに変えられるのですから。(p.175)焦燥哲学的で、難解だが、要は「今、現在にだけとらわれすぎるな」ということであろう。人生は、今だけではない。過去もあれば、未来もある。そして、過去と現在は変えることはできないが、未来は変えることができる。
2012.06.02
コメント(0)
副題は『マスコミが「あのこと」に触れない理由』。 皇室、宗教、同和、政治家、官僚、企業、芸能人等々、 なぜ、特定分野や人物にだけ、マスコミは触れないのかについて、 あの「噂の真相」元副編集長が、自身の体験談を交え赤裸々に明かす。 その背景には「暴力の恐怖」「権力の恐怖」「経済の恐怖」があった。 メディアが恐れるもの、それは暴力であり、情報源を失うことであり、 そして何より、スポンサーを失ってしまうこと。 メディアも一営利企業として、その存在基盤を失うわけには絶対いかない。 要するに、グローバル化とは無縁に思えたこの国のメディアも、2000年前後を境に、 世界を席巻した新自由主義や市場原理主義の波に飲みこまれていったのである。 そして、ほとんどの新聞社、テレビ局、出版社は、10年前、 朝日新聞で当時の箱島社長が宣言したとおり、「普通の会社」になってしまった。 だとしたら、次に何が起きるかは明かだろう。 収益性と経済効率の追求が「最大の善」「最も優先されるべきもの」となり、 それ以外のことはすべて無駄なものとして排除されるようになる。(中略) 実際、こうしたメディアへの構造転換がもたらしたのは、経済の恐怖の増大、 たとえば広告スポンサーへの依存度が増したことで批判がより困難になったとか、 ステークホルダー、利害関係者の増加で報道できない対象が増えたとか、 そういうことだけではなかった。 権力にたてつくことも暴力にあらがうことも、 コストがかさむだけでマイナスでしかないという判断が下され、 少しでもトラブルが起きる可能性がある案件は徹底して忌避されるようになった。(p.253)「キー局から芸能リポーターが消滅した理由」も、本当のところは、本著を読めばよく分かる。芸能プロダクションの力関係が、こんな具合になっているとは、正直目から鱗であった。
2012.06.02
コメント(0)
全21件 (21件中 1-21件目)
1