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【村上春樹/時代と歴史と物語を語る】◆善悪が瞬時に動く時代をいかに生きるか静岡新聞4月17日の朝刊に掲載された、村上春樹のインタビュー特集について触れたい。私は決して“ハルキスト”と呼ばれる村上春樹マニアとは違う。だが、高校生のころから村上の著書を愛読し、今に至る。とはいえ、作品のすべてを支持しているわけではなく、中にはとうてい受け入れられないものもあるわけで、盲目的なファンとは言えないことが心苦しい。 さて、インタビュー記事についてだが、内容は大きく3つに分かれている。1つ目は、『地下鉄サリン20年重くのしかかる死』という見出し。事件が起きたのが平成7年のことなので、あれからもう20年が過ぎてしまった。同年に阪神大震災にも見舞われたというのに、あのオウム真理教のおかげで、世間はすっかり地下鉄サリン事件への批難や同情、恐怖と言ったものへとシフトしていってしまった。そんなオウム信者に対し、村上が取材したところ、その多くが「ノストラダムスの予言」を本気で信じているのを知ったと。 「彼らが10代のころに“ノストラダムスの予言”について書いた本が出て、それをテレビなどが盛んに取り上げた。“1999年に地球は滅びる”という不安があり、さらにそこに“スプーン曲げ”に代表される超能力信仰みたいなものが刷り込まれていった」 私自身、あのころを思い出してみると、確かにマスコミに踊らされたような記憶がある。いたずらに不安を煽られたような、、、だが、それも一時的なことで、しょせんはオカルトに過ぎないのだと、何となく冷めていった。 「そんな素地があるところに麻原彰晃が現れて、超能力っぽいことを少しやってみせると、すぽんとはまっちゃう。人間の心をクローズドサーキット(閉鎖回路)に引き込み、外に出られなくし、精神の抵抗力を失わせてから、サリンを散布させる」 あの時、オウム信者ら実行犯は、サリンというとんでもない化学兵器の必殺性を知っていた。知った上での行為は、麻原に対する絶大な尊崇の念と、帰依に違いなかった。だがそこに、罪のない一般の人々の人命が多数奪われることへの重大な過失を見出すことはなかった。停止した思考、想像力の欠如としか言いようがない。洗脳、マインド・コントロールされていた以前の問題ではなかろうか。 「麻原が信者に与えたこのような物語はいうなれば悪しき物語です。僕らはそれに対抗する力を持った物語を書いていかなくてはならない」 村上の意見に私も賛同する。私たちを取り巻く環境には、様々な物語が存在する。自分本位で深みを欠いた物語は、たいてい出来過ぎていてキレイゴトだけど、魅力的である。そこにどっぷりと浸からないよう、日ごろから対抗の力を備えておかねばならないと思う。 2つ目は、『ベルリンの壁崩壊以後ロジック拡散』という見出し。村上は「アルジェの戦い」という1960年代に作られた映画を、久しぶりに見たと。この作品は、フランスの植民地だったアルジェリアが、独立のために戦うという内容だそうだ。作られた当時、この映画を見た村上は喝采を送ったらしい。植民地のアルジェリアの人たちが善で、そこを統治するフランスが悪という構図だからだ。 「でも今、これを見ると、行われていること自体は、現在起きているテロとほとんど同じなんですよね。それに気づくと、ずいぶん複雑な気持ちになります」 つまり、この世には絶対的な善もなければ、絶対的な悪もない。「善悪とは静止し固定されたものではなく、常に場所や立場を入れ替え続けるもの」なのだ。この価値観を受け入れるのはとても難しい。“白黒ハッキリする”という考え方を真っ向から否定するものだからだ。強いていえば、“ねずみ小僧”をイメージしてみたらどうだろう。(これは私なりのイメージ・トレーニングだが。)金持ちからがっぽりお金を盗んで貧乏人にそのお金を配ってやるねずみ小僧は、ヒーローである。だが、ねずみ小僧は紛れもない窃盗という罪を犯している。善悪の固定されない筆頭だ。村上は、そういうロジックの消滅について、「自分の無意識の中にある羅針盤を信じるしかない」と述べている。ならば、その羅針盤はどこから生まれてくるのか。 「体を鍛えて健康にいいものを食べ、深酒をせずに早寝早起きする。これが意外と効きます。一言でいえば日常を丁寧に生きるということです。すごく単純ですが」 私が村上春樹という作家が好きな理由は、この明快な回答にある。難しいことを四の五の言わずに、とても簡潔で、だれでも今すぐ始められそうな答えだからだ。もちろん、三食きちんと食べて早寝早起きすれば、みんながみんな善悪を簡単に規定できない世界を乗り越えていけるかと言えば、そうではない。しかし、村上春樹のコトバは、決してキレイゴトではない。意外に規則正しい生活こそが、健康で文化的な精神性を養うものだということを、少なくとも私は実感している。 3つ目は『東アジア文化圏大きな可能性』という見出し。村上は歴史認識の問題にも触れていて、「ちゃんと謝ることが大切」だと述べている。この点に関しては、私の考えと少し違う。歴史的背景とか文化・伝統がこれほどまでに異なる日中韓において、お互いを理解し、受け入れ合うというのは、ほとんど不可能に近いような気がするのだ。 「相手国が“すっきりしたわけじゃないけれど、それだけ誤ってくれたから、わかりました、もういいでしょう”というまで謝るしかないんじゃないかな」 と、村上は述べているが、つまりそれって謝る=(イコール)賠償金などを払い続けていく、ということなのか?まさか、コトバ上だけの話ではないだろう、謝るということは。 また、原発の再稼働についても触れている。 「地震も火山もないドイツで原発を撤廃することが決まっているわけです。危険だからという理由で。原発が効率的でいいなんて、ドイツ人は誰も言ってません」 そうそう、英語の得意な村上ならではの“「原子力発電所」ではなく「核発電所」と呼ぼう”という提案には賛成だ。nuclear plant =核発電所と訳すのが正しいそうだ。*原子力=atomic power 毎日、新聞記事を隅から隅まで読んでいるわけではないけれど、こうして興味を持った特集について、自分なりの意見を織り交ぜて考えてみることは、とても大切なのではと思う。村上春樹が米国に滞在したおり、「メディアの論調の浅さにがくぜんとしました」と述べているが、私たち日本人にとっても他人事ではない。簡単なことではないが、「開かれた回路で再生される物語の意義」を考えつつ、この住みにくい世の中を生きていこうではないか。 静岡新聞(平成27年4月17日[金])『村上春樹さん 時代と歴史と物語を語る』より☆次回(読書案内No.163)は未定です、こうご期待♪★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2015.05.24
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【中島梓/コミュニケーション不全症候群】◆コニュニケーション不全に陥る原因を鋭く考察するいつだったか、こんなことがあった。ショッピングモール内にある上りエスカレーターに乗っていた時のこと。私は左側に寄って乗っていた。私より2~3段上を、年配の女性が堂々と真ん中に乗っていた。後方から走って来た二十代男性が私の横を通り越し、年配の女性のすぐ真後ろまで来た時、ものすごい大きな「チッ!」という舌打ちをした。私のところまで「チッ!」という音がしたのだから、もちろん年配の女性も気付かないわけがない。おもむろに避けた。すると、すぐさま二十代の男性は女性の脇をすり抜け、バタバタと一段抜かしで上っていった。だからどうだと、ここではマナーについて語るつもりはない。思うに人間なんて、だいたいはこうなのだ。楽園のような国ではない限り、世の中はもともと住みにくいし、暮らしにくい。世の中にマナーとか道徳、あるいは宗教があるのは、人間という本来はそれほど優しい生きものではない種を、抑制しておかなければならないからだ。 私は、人間の側面を飾り立て、「誰でもやればできる」「夢は叶う」などの安易な励ましで何万部と売れたようなハウツー本が大嫌いだ。今もそれは変わらない。そんな中、『コミュニケーション不全症候群』と出合った。すでに10年以上も前のことだ。作家の中島梓は、心理学者でも何でもないのだが、自身が「コミュニケーション不全症候群」の代表者的存在であることから、徹底的に分析、考察してみようと思い立ったらしい。中島梓にはもう一つペンネームがあり、栗本薫という名の方が知られているかもしれない。早大文学部卒で、SFから推理小説など幅広いジャンルから人気作品を発表している。しかし、2009年に56歳という若さで他界しており、今はもう、あの緻密で斬新な新作に触れることはできない。 『コミュニケーション不全症候群』を読んでいて、私なりに目からウロコだったのは、人間なんて「じっさい自分のことしか考えられない存在であった」というくだりである。 「もともとヒューマニズムだとか、隣人愛だとかというコトバが生みだされなくてはならなかった事自体が、私たちがもともとそういうものを内包していたわけではないことを物語っているのだ」 私は膝を打って「そのとおり!」と言ってしまった。だれもそういうことをちゃんと言ってくれる人がいない中、中島梓のようにガツンと事実を語ってくれる人がいて、胸がスカッとしたのだ。そういうことをきちんと分かっていなければ、世の中すべての人が常識とか礼儀を知っていて当然、などという発想には至らないはずだからだ。 日本における公害問題や凶悪事件などは、統計から見ると、実際には減少傾向にあるようだ。それでも尚、現代というのは人間がかつて経験したこともないほど暮らしにくい時代であるという。(物質的な面で言えば十分に恵まれている国ではあるが。)中島梓があらゆる視点から分析・考察した結果、その原因は「過密」であると述べている。実験例としてあげているのは、水槽の金魚やフナである。生存に必要なための空間の確保の必要性が、いかに重要かが分かる。一定限度以上の数を、狭い水槽に入れると、魚たちは互いに攻撃的になり、弱いものから淘汰されてゆく。結果、調和の取れた数まで減ると、それ以上の共喰い行為はピタリと止む。この自然界における本能とはスゴイものだ。 こんな小さい島国にギュウギュウひしめき合って暮らす私たちは、程度の差こそあれ、皆、病んでいる。互いの顔色を見て、互いの言動に一喜一憂しながら、自分のテリトリーも確保できないまま浮遊している。狂暴な人・人・人の渦巻く波に、私たちは道徳や倫理、あるいは神仏の力を借りて、どうにかこうにか暮らしている。今後、人口減少が加速することで、経済的には苦しくなるかもしれない。年金制度が破たんするかもしれない。けれど、それなりに生存スペースが確保されることで、人間としての最低限度の住みやすさ感じられるようになるかもしれない。 『コニュニケーション不全症候群』では、他にもダイエットに関する強迫観念についても述べられている。選別される側の屈辱や恐怖は、やはり女子の方が過酷だ。ダイエットは今や、国民すべてと言っても過言ではないほどの関心事である。それはすでに精神のボーダーを越えようとするまでの病的なものが蔓延している。 これらの内容は、今を生きる私たちに烈しく警鐘を鳴らすものであり、今一度考え直すきっかけを与えてくれる。繰り返し読むのには、最高にして優れた評論エッセイである。 『コミュニケーション不全症候群』中島梓・著☆次回(読書案内No.162)は未定です、こうご期待♪★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2015.05.18
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【大統領の執事の涙】「父さん、何しに来たの?」「デモに参加しようと思って」「仕事を失くすよ」「お前を失ってしまったからな、、、すまなかった、、、許してくれ」欧米製作の作品を見ていつも思うのは、キリスト教圏における神とその御子(イエス・キリスト)の関係を、作中の父と息子に投影させたものが多いということだ。『スター・ウォーズ』はその最右翼だし、今回視聴した『大統領の執事の涙』も、おおむね父と息子のドラマである。もちろん内容としては、ホワイトハウスで7人もの大統領に仕えた黒人執事の物語ではあるが、根底には正義に目を向ける真っ直ぐな息子に、やがて父が近付いていくというドラマである。父は家族を守るため、今ある現状を受け入れ、危険からはなるべく遠いところにあるよう心掛けている。妥協から得られるあきらめと忍耐力で、父は家族の楯となっている。一方、息子は白人の顔色をうかがいながら働く父に反発を覚え、大学にも通わなくなり、公民権運動に参加するまでになる。(さすがに過激派のブラック・パンサーでは、自分の目指すものと違っていたため脱会する。)対立する考えに、お互いが相容れない状態となって何年も経過していく。 ストーリーはこうだ。日常的に黒人差別が行われていた時代のアメリカ南部。セシルは農園で両親とともに奴隷として働いていたが、ある事件がきっかけで父は殺され、母は正気を失ってしまった。その後、セシルは農園を去り、生きるためにホテルのボーイとして働くようになる。そんな折、セシルのそつのない接客が気に入られ、ホワイトハウスの執事として抜擢される。それ以来、約30年に渡って7人の大統領に仕えた。一方、2人の息子にも恵まれたが、長男は反政府運動に身を投じ、二男はベトナム戦争へと出征するのだった。 この作品は、実在の黒人執事・ユージン・アレンがモデルとなっていて、彼の波瀾万丈の人生がつづられている。主人公のセシル役に扮したフォレスト・ウィテカーは、やっぱりスゴかった。「世の中をよくするため、白人に仕えている」というタテマエの基に現状を維持していくのだが、内心は複雑なものを抱えていて、それがまた見事に演技として反映されている。チョイ役だが、大統領役としてロビン・ウィリアムスやらジョン・キューザック、それにアラン・リックマンなどが出演していた。実物の大統領と似ているか否かは別として、ニクソン役のジョン・キューザックなんか、なかなかの演出だった。 公民権運動の歴史を知る上で、学生さんが見るのには最適なのではなかろうか。ただし、やや長時間の作品なので、ゆっくりと腰を据えて視聴できる時間にでもご覧下さい。 2013年(米)、2014年(日)公開【監督】リー・ダニエルズ【出演】フォレスト・ウィテカー、オプラ・ウィンフリー
2015.05.10
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【ウルフ・オブ・ウォールストリート】「株屋の第一のルールだが教えといてやろう。たとえ投資家のバフェットでも、株が上がるか下がるかグルグル回るか分からない。もちろん我々にもだ。つまり、“バッタもん”だ。分かるか?」「“バッタ”、、、まがい物」「そう、まがい物だ。幻だ。存在しないんだ。物質じゃない、元素表にも載らない。まったくの幻だ」原作はジョーダン・ベルフォートの回想録で、『ウォール街狂乱日記ー「狼」と呼ばれた私のヤバすぎる人生』である。メガホンを取ったのはマーティン・スコセッシ監督。この監督にバイオレンスを表現させたら、もう目を背けたくなるような徹底したリアリティーにこだわる演出だ。今回は、ウォール街が舞台なので、どんなものかと恐る恐る蓋を開けてみたら、、、やっぱり徹底したバイオレンス!それは本物の暴力ではなく、薬物とか、男女のだらしない交遊とか、金銭に対する執着など、ものすごい暴力的に描かれている。 レオナルド・ディカプリオ扮するジョーダン・ベルフォートというのが、ある意味天才的な話術を駆使したトレーダーなのだ。もちろん、映画で描かれているのはお金に対するやたらな執着心だが、同時にある種の宗教性すら垣間見えて来る。顧客に大金を投資させて、株屋がその手数料を頂く----。この図式に本来は何の問題もないはずだ。だが、冷静に作品を鑑賞していれば、視聴者は、この金儲け至上主義のからくりに段々嫌気がさしてくる。 お金をタンスの肥やしにしておくのはバカだ、運用してこそ価値があるのだから、どんどん投資して儲けよう。こうして顧客を煽って投資させる。お金を儲けることが至福の悦びであり、幸福であるかのような錯覚を抱かせる。投資=(イコール)布施みたいなものだ。つまり、金こそが崇拝の対象なのだ! ストーリーはこうだ。ウォール街の投資会社に勤務することになったジョーダン・ベルフォートは、わずかな期間で頭角を現す。投資にはリスクもつきものだったが、少しぐらいの損など痛手にはならない富裕層を相手に、次から次へと上手い投資の話を持ちかけた。その後、ジョーダンは独立し、証券会社を設立した。巧みな話術で社員らを鼓舞し、金儲けがいかに素晴らしいことかを洗脳していった。顧客に投資させることは、会社が成長し、社員一人一人が裕福に暮らせることを意味し、お互いのメリットであることを刷り込んでいった。どんどん金持ちに投資させ、絞り取れるだけ絞り取ってやろうと煽った。それは決して悪いことなどではない、人生を有意義にし、退屈で平凡な日々とおさらばするためなのだと、悪びれることもなく口にした。ジョーダンは、日々を“ハイ”に暮らすため半ば薬物依存状態となった。美人でセクシーな女性たちを周囲にはべらせ、これでもかというほど肉欲に溺れる日々だった。 ディカプリオの演技は本物だ。そのぶん、見ている側は感情移入してしまい、ディカプリオが憎らしくなって来る。この金の亡者に何とかして煮え湯を飲ませてやりたい、、、そんな気になる。 金儲けそのものにケチをつけたくはない。なぜなら、生活のためにお金を稼ぐのは必要不可欠のことだからだ。じゃあ何が気に入らないのか?きっと、お金は金持ちだけが儲かるしくみになっていて、それを動物的嗅覚で嗅ぎ分ける賢い連中の懐だけがザクザク音を立てていることに、嫉妬しているのかもしれない。とはいえ、すべての金儲けに言えることは、話術のセンスがあるかなしかだ。これをマスターすれば、たいていの営業は成功し、客からの信用も得られるはずだ。さらに、金儲けを罪悪とみなしてはダメだ。これは救済である。幸せになるための「布施」なのだと、信じ込むことである。それに尽きる。以上。 2013年(米)、2014年(日)公開【監督】マーティン・スコセッシ【出演】レオナルド・ディカプリオ、ジョナ・ヒル、マシュー・マコノヒー
2015.05.02
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