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上手く描けてるじゃねえか、わんわん、 江戸のお犬様子を持って 近所の犬の名をおぼえ 江戸川柳犬の退屈 縁側へ あごを乗せ 江戸川柳犬の声 今すてる子を 抱きしめる 江戸川柳 徳川綱吉公のお犬様騒動いらい、犬は人間の友になりましたなあ、 江戸の町には誰が飼うのでもない野良犬がうろうろしていて 店前や道には犬の糞が転がっているので要注意だ。 夜になれば犬の遠吠えがあちこちから聞こえてくるのが江戸の町だ。 浪人の用心棒ですが、あっしも野良犬でござんすよ、 <飲みすぎですよ、旦那、わん、>犬は孤独な浪人の友でありまする。 ~人間とは弱くて孤独なものでございますな~笑左衛門
2026年01月28日
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毎度、へた絵画廊にござりまする。 よくそんなへたくそな絵が描けるもんだ!何をおっしゃいます、芸術ってえものは奥が深いんですぞ。 江戸四宿(千住、板橋、品川、内藤新宿)の枠内と本所深川が 江戸の枠内だが、その江戸を外れれば、どこものんびりと、田舎の風景が広がって いる。 上絵にある一軒家には江戸から逃げてきた盗賊でも隠れているんでしょうか、 岡っ引き狐の権八親分お縄にしようと出張ってきてますね、 親分!こんなところまで、追いかけてきなさんなよ、 隠居暮らしにしては 寂しそうですね、 枯れ葉を集めて巣ごもりでもするんでしょうかね、 板橋宿から新大橋を渡れば、田畑が広がり、 ぽつんと一軒家もあったんでしょうね、 甲州道、布田宿を過ぎさらに甲州道を下ると下石原、近藤勇の生家のある場所にでます。 そのすぐ先が多摩川縁でのどかな風景が広がります。 ~かがり火の影にぞしきる玉川の鮎ふす瀬には光そひつつ~玉川の鮎は<御菜鮎上納御用>として将軍家に献上されていほどの味だ。 玉川は魚の宝庫で、鮎の他にも、 やまめ、ます、オイカワ、かじか、うぐい、鰻 などが住んでいた。 上絵は多摩川の漁師の家だろうか、、、笑左衛門
2026年01月25日
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毎度、笑左衛門ブログの中からの抜粋、下手画廊でございます。 ~へたくそな絵からでも江戸の臭いが嗅げますかねえ~ 江戸の町の風景に蕎麦屋はかかせねえ、 江戸の町は伊勢屋稲荷に犬の糞なんて申しますが、 そば屋を外しちゃいけませんねえ、どこを歩いたって蕎麦屋の暖簾の下がっていない 町はありませんよ。 そば屋といっても<藪、更科、砂場>なんていうちゃんとした店構だけが 蕎麦屋だけじゃありません。 二八蕎麦、ニ八十六の一杯16文のかけそばを売る立ち食い蕎麦屋も繁盛してますよ、 なんてったって、夜中遅くまでやってる、風鈴をぶら下げた屋台の風鈴蕎麦屋が 人気だが、夜鷹や夜の仕事人相手の夜鷹蕎麦という、滅法安い屋台蕎麦屋もあったが、 ちょいと不潔だったという話でございますがね、 どっちにしても、せっかちな江戸の町人にとっちゃあ、蕎麦は手っ取り早くて 人気がありましたね、なんてったってどっかで聞いたことのある、 安い、旨い、早い、の三拍子が揃ってましたからね、 一件落着!ご存じ 当山金四郎さまが大活躍の北町奉行所でございます。 江戸の町は南町奉行と北町奉行が取り締まっていました。 江戸の町を北と南に分けていたわけじゃありません、隔月の当番制で交代で江戸を見張っていたのです 南町奉行には名奉行大岡越前、北町奉行には 御存じ遠山の金さんこと遠山影元がおりました。 日本橋本町2.3丁目、大伝馬町周辺には薬草や薬を扱う薬種問屋が軒を連ねております。本町三丁目に40軒の店が軒を連ね、そのうち9割が薬種問屋でございまして、本町全体では60軒もの薬種問屋があるそうで、医者も72人もいるそうです。 ~本草を道へならへる三丁目~ 江戸川柳~三丁目匂はぬ見世は三四軒 四丁目もまだちらほらと匂う也~江戸川柳まあ、病気がちの人はこの辺りに住めば安心ですな。笑左衛門
2026年01月21日
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江戸ぶら 千住宿 槍かけ松 ~やっちゃばに 賑やかに並ぶ 千住葱~ 文禄3年墨田川に千住大橋が架けられると千住は日本橋から北へ二里八町(8.7キロ) 奥州街道、水戸両街道、日光街道の江戸への出入り口の関門として急速に発達した宿場町であった。 「さすがに奥州道、日光街道、水戸街道だ、賑やか騒々しいや、 右手はやっちゃばでございますね、 景気のいい声が聞こえますね、粋と鯔背がぶつかってますね、」 「千住宿は江戸の果てなんて言われてるがね、 東海道の品川宿、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿が 江戸江戸四宿だが、なんといっても、千住宿は、江戸と日光東照宮を結ぶ「将軍家の参道」だから 一番だね。 千住宿は、千住町が本宿で、千住掃部宿・千住河原町・千住橋戸町が新宿 荒川対岸にあった中村町・小塚原町のは南宿(下宿)で併せて十宿が千住宿だ。 江戸の果てなんて言われてるがね千住宿は江戸四宿の中でも群を抜いて大きい宿場だよ、」「おいおいおい、道の真ん中のかかしさんよ、じゃまでぃ、どいたどいた!」 日本橋か神田へでも運ぶのだろうか、やっちゃば通りから出てきた大根を山のように積んだ、 荷車に曳かれそうになる。 千住宿の周辺は野菜栽培の農村が多く、初めは野菜の市が立っていたが、 大橋が架かり、陸上の便もよくなり、併せて隅田川の水運を利用し河川からの荷揚場にも便利なことから、 諸方から荷が集まるようになり、<千住のやっちゃば>として賑あうようになったのだ。 日光街道奥州街道は千住までは供用だったため、街道を行きかう人も多かった。 ~旅人絶ゆることなく、もっとも賑はへり~ 参勤交代などで、千住宿を通る大名家は64家もあり、 日光参拝の旅人、飛脚、商人、武士、百姓、など様々な人で行き交う街道であった。 だが、街道から目をそらせば、千住はひなびた畑が広がる風景で、 大橋の土手に立てば、遠くには筑波山が見渡せたし、 法螺貝の音のする、船の屋根から湯気をあげている湯船の合図だ。 「彦五郎、湯船に浸かるか?、湯舟は4文、町の湯屋は8文だから安いぞ、」 川岸に漂う湯船は、荷揚げ人足ややっちゃばで汗をかいた軽輩たちが利用するのだろう。 墨田川にはちょき舟や、茶舟、屋形舟、屋根舟に荷運びの帆をあげた弁財舟などが 川面を行きかっていた。 「彦五郎松尾芭蕉の奥の細道の出発地が千住だと知ってたか?」「へえ?、深川の芭蕉庵じゃねえんですかい?」「深川から千住までは船に乗ってきて、千住の地から 奥の細道の旅に出たんじゃよ、」 ~千住からみやげの苞(つと)は水を飲み~松尾芭蕉 ~ゆく春や 鳥なき魚の目は涙~松尾芭蕉 (魚とは、苞(つと)に包まれた千住の名産の鯉のこと 苞(つと)は 藁や葦、竹皮などで編んだ容器)「ご隠居あっしは千住といえば、酒合戦が浮かびますよ、豪華な酒の呑み比べ宴会。優勝者は酒を7升5合も飲んだと云うじゃねえですか、」 「彦五郎は酒か、わたしはね、 水戸黄門さまの<槍かけ松>を見て見たいね、 千住宿入口にある清亮寺の門前に老松が茂っているんだが、その老松の幹が折れ曲がり、 街道に張り出し覆い被さっていたのだよ、 江戸入府のために水戸を出発した徳川光圀の行列の槍もちの槍が、清亮寺の老松にぶつかっ前に進むことができなくなったのだ。 大名行列は、宿場に入るときには槍持ちの奴が行列の威容を誇るために大槍を高く捧げ持つて練り歩くのが慣わしなので、 槍持ちは老松を避けて槍を横に倒して通ることはできない。 しょうがねえ、街道に張り出した老松の枝を切ろうとしたとき、 騒ぎに気付いた光圀が籠から降りてきて、見事な枝振りの老松をご覧になり、大槍を老松の枝に立てかけ、 お供の者どもと共に老松の風雅な容姿や周辺の景色を眺めながらお茶をすすったということじゃ。 この名松を切るのは惜しいと考えた光圀の粋な采配ぶりに、お供の者はもちろんのこと、住職や付近の村人たちまでが感涙にむせんだという。 以後、水戸藩に倣ってここを通る大名行列は門前で松に槍を立掛けて休むようになったのだそうだ。 水戸黄門様のよい話じゃろう、ほら、見事な松じゃろう、」「でもご隠居、街道の邪魔と云えば邪魔でございますね、」 ~風流に 邪魔された道 老松に~ 拙作川柳ですがね、 老松も結構ですが若い飯盛り女のいる遊郭が気になりますね、」 「千住宿には百五十人の飯盛女を置くことが幕府から許されてて、岡場所も45軒あるそうだよ、 千住節なんて小唄もあるくらいだ、彦五郎も安心しな、」 ~千住女郎衆は錨か綱か 上り下りの舟とめる~千住節 「ご隠居、これで江戸江戸四宿歩きましたね、何処の宿場も近くに行楽地を抱えてて、 飯盛り女がいて、賑やかで、男の遊び場にもなってますねえ、」「そうだな、千住近辺にもな、西新井大師、大鷲神社、牛田薬師、性翁寺、関屋の里、鐘ヶ渕、綾瀬川、 など自然の景観が美しい場所が多いよ、 彦五郎には、宿場の外れにの仕置き場の小塚原の刑場の方がお似合いかな、」「終いにはお世話になりますかねえ、、てへっ!、、」 笑左衛門
2026年01月18日
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江戸ぶら 板橋宿のお米 「はて、、彦五郎、明日は板橋宿へ参ろうかと思っている、 お米という娘の供養をしたいと思ってな、」「へっ?、馴染みの飯盛り女ででございましたか?」「そうじゃないよ、儂の遠縁にあたるのだが、お米という娘は聞くも涙語るも涙の 不幸なめぐりあわせの娘なのだよ、」「板橋じゃちと遠い、籠でまいりますか?」「板橋宿は日本橋から数えて1番目の宿場で二里半だ、 明け六つ(六時)に出れば、五つ半(九時)までには着くだろうから、歩きますよ。 板橋宿は川越街道の起点で、武蔵国豊島郡下板橋村の一部で、東海道の品川宿、甲州街道の内藤新宿、奥州街道・日光街道の千住宿と並んで 江戸四宿の一つとして栄えている宿場だ。 板橋は江戸との境界でな、板橋上宿の入り口にある大木戸より内側が「江戸御府内」「朱引き」 すなわち、江戸ってえわけだよ、」「内藤新宿宿の四谷大木戸、品川宿の高輪大木戸とおんなじでございますな、」 てくてくてくてく、 ご隠居と彦五郎は商人や旅人が行き交う中仙道を二時(ふたとき)ちょっとも歩いろうか、 「この辺りが板橋刑場だな、馬捨て場だが後に近藤勇が処刑された刑場だ。」 「ずいぶん淋しいとこですね、ただの草っ原のようですがね、 でも、だんだん賑やかになってきましたね、、、、板橋宿に差し掛かりましたな、」 「板橋宿往還の長さは20町9間(約2.2km)もあり、 上宿、仲宿、平尾宿からなり、上宿と仲宿の間に魚影が濃く釣り糸を垂れる人も多い石神井川が流れているんだ。その石神井川に板の橋が架かっていて、それで、板橋と呼ぶんだそうだ。 本陣は仲宿に1軒、脇本陣は各宿に1軒ずつ計3軒が設けられていて、 旅籠は総計54軒あるそうだ。 板橋宿の中心的の仲宿には、問屋場、貫目改所、馬継ぎ場、番屋があり、 上宿には、江戸へ商いに来る木賃宿(商人宿)や馬喰宿が建ち並んでいて 賑やかだそうだよ。」 「ご隠居あっしらは平尾宿にいたしましょうね、 平尾宿には茶屋や酒楼が立ち並び、飯盛り女(宿場女郎)が150人はいるってえ話ですよ、 飯盛旅籠が軒を並べて、遊女が客の呼び込みですから、そりゃあ賑やかでございましようね、 江戸からひとっ走り、吉原なんぞより安くて情があると、平尾宿に遊びに来る輩もおりますがね、 ~板橋と聞いて迎えは二人減り~ 板橋宿には近くの農村からの遊女が多くて、垢抜けしていないとも云われてますが、 どうでしょうか?お試しになりますか?」「お米という娘はな、平尾宿の紫藤楼という飯盛り旅籠に奉公していたのだが、 二十二で病に侵され、板橋宿本陣の飯田家の菩提寺で、文殊院という遊女の投げ込み寺があるのだが、お米はそこに葬られているんだよ、」 ~お米は<一緒に江戸で暮らそう>と、十六の時に村の与八に騙されて平尾宿の遊郭紫藤楼に売られたのだが、無垢で純情なお米は与八を信じ、いつか迎えに来てくれると固く信じていたので、 宿場女郎の中でも希望をもって明るく暮らしていたそうだ。 宿場に来た客に抱かれた後、お米は必ず上宿にあるご神木の<縁切榎> にお参りするのだった。 街道に枝が覆うように張っている榎の大木が悪縁を切ってくれると信じられている縁切榎だった。 お米はその縁切榎に向かって手を二つ叩いて頭を下げる。 <あたいは、与八さんだけのもの> つまり客との悪縁を断ち切るため毎夜縁起りして与八を待つのだった。 幾度も幾度も裏切られ、廻りの女郎からは嗤われてもお米の純真が曲ることはなった。 だが、その願いが叶うこともなく、 与八という与太者はお米からとことん搾り上げた末に 板橋宿場を仕切っていた遊侠、橋爪の富三郎に斬られて死んでしまったのだ。 風の便りにその噂を耳にしたお米は、生きる希望をなくし、がっくりとし、 飯も食わずにやせ衰え、挙句梅毒に侵されて死んでしまったのだ。 ご隠居と彦五郎は文殊院の無煙塔に線香をあげ手を合わせた。 「お米さんの所縁の方でございますかな} 住職が声をかけてきた。 「遠縁のもので、供養に伺いました」「文殊院の墓には板橋宿の哀れな女人が何百人も葬られておるのじゃ、 板橋宿ができた頃には、亡くなった女郎は馬捨て場に捨てられたこともあったのじゃが、 それではあまりにも哀れだと、文珠院に葬ることにしたのじゃ、 平尾宿の女子は半分は男に騙され、半分は貧しさ故に売られた 自分には非のない宿命を負わされた可哀そうな女子なのじゃ。 だがな、お米はそんな因縁にも挫けずにひたすら与八を待つ続け、 縁切榎に縋っていたのだろうな、 平尾宿の遊女は、どうしても投げやりになり、希望を失いがちになるが、 お米はいつも明るく振舞っていたそうじゃよ、 あるかどうかではなく、信じて待つことで、明るく振舞うことができたのじゃ、 お米は可哀そうなだけの女子ではない、信じる尊さを知っていた女子でもあるのじゃ、」 「彦五郎、平尾宿で泊まる気がまだあるか?」 「いいや、ご隠居、上宿の木賃宿でようございますよ、」 合掌、 笑左衛門
2026年01月14日
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江戸ぶら 品川宿のはぐれ雲 江戸ぶら 品川宿のはぐれ雲 「彦五郎、品川宿の面白い人物<夢屋の雲>という人を訪ねようと思ってるんだがな、」 「天才作家、ジョージ秋山さんが描いている<はぐれ雲>の雲さんですよね、 はぐれ雲の絵草子はあっしも貸本屋で借りて読んだことがありますから知ってますよ、 品川宿と云えば、仕掛人藤枝梅安の居宅も品川宿から目黒川を登った雉子の宮の近くでございましたな、行きましょう行きましょう、品川宿へ、」 「日本橋から品川宿までは凡そ二里だ、半時もあれば着くだろう、」 浮き浮きしながらご隠居と彦五郎ははぐれ雲の品川宿へ足を進めた。 ~それまでは 只の寺なり 泉岳寺~江戸川柳 ~生首を始めてみたと 和尚いい~江戸川柳 赤穂浪士の義士の墓所があることで世に知られるようになった泉岳寺、 芝増上寺を右に見てから金杉橋を渡る。 さすがに西国と江戸を結ぶ五街道の中でも最重要視されている、 東海道で、武士は無論、商人、農民、庶民、 それに、富士山詣や、お伊勢参りに出かける旅人も多勢いて賑やかで 街道には七軒茶屋をはじめ、茶店団子やなどが軒を連ねていた。 道の両側にでんっと石垣を築いて構える高輪大木戸を無事過ぎる。 「ご隠居、折角でございますから、御殿山へ足を延ばしませんか、 あっしはまだ広々とした海というものを見たことがないんですよ、 なんでも、御殿山からは品川の海(袖ヶ浦)が眼前に広がる風光明媚な景色だそうですよ、」 「もともと、徳川将軍の鷹狩りの地で品川御殿が設けられた場所だからな、 のちに徳川吉宗様が植樹した桜が見事だそうじゃ、一見するか、」 ~御殿山 銀の扇に帆が映り~ 御殿山から品川沖に浮かぶ船、上総房州を望む雄大な海の景色を堪能し、 二人は品川宿へと足を速めた。 東海道の往来客を目当てにした茶屋や料理屋が軒を並べている。 品川宿は東海道の初宿であり、西国へ通じる陸海両路の江戸の玄関口として賑わい、 他の江戸四宿と比べて旅籠屋の数や参勤交代の大名通過の数が圧倒的に多かった。 東海道の往来は奥州・出羽より江戸を過ぎて京・西国へ赴く旅人、下る人は九州・西国・中国・畿内の国々より行く旅人たちで、参宮・金ぴら・大山詣り、富士詣、鎌倉、大磯の遊歴やら箱根の湯治、お伊勢参りと、貴賎を論ぜず通行する人多く賑わしきこと此上なしと云われていた。 東海道から江戸へ入る人もまたここで旅の垢を落とすのだった。品川は海に面していて、釣りも楽しみ、春は潮干狩り夏は納涼も楽しめ絶景の地であった。 だが、品川宿で忘れてはならないのが北の吉原 南の品川と云われるくらいに 遊郭が多いことであろう。品川宿の通りの真ん中に小橋が架かっていて、それより上は女郎銭店、橋より下には大店が並んでいた。 女郎屋は何れも大店で、中でも土蔵相摸・大湊屋などは名高い妓楼で、岡側の廓は後に御殿山をひかえ、浜側の妓楼は椽先より品川沖を見晴らしはるか向こうに上総・房州を望める。 品川宿は、江戸幕府より<飯盛り女>という名目で、旅籠に遊女を置くことを許された最初の場所で、飯盛り女(宿場女郎)の数は1,500人は下らないと云われている。 北の吉原 南の品川と云われる遊郭で品格も備えていた。 品川宿が江戸の南の色町と評判になると、江戸の町々から、 風光明媚な桜の御殿山や紅葉の海安寺、品川神社、などの名所にかこつけて、 品川宿へ遊びに来る旦那衆が大勢いて色町としても大いに栄えた。~飯盛りにはよすぎ 傾城には不足~ 川柳~飯盛りと 号して 奥の花やかさ~ 川柳 ~品川は波打ち際に 床をとり~ 川柳 「さて、ご隠居、浮浪雲の夢屋はどこでございましょうかね、 早く、雲さん、奥方のかめさん、長男の新之助に会いたいですな、」「ちょいと、団小屋の姐さん、 夢屋の頭の雲さんを知りませんか?」「夢屋ですか?あのはぐれ雲の?」「そうです、そうです、会ったことはありますか?住まいはどの辺りですかね、」「お客さん、あれは物語の中の絵空事でございますよ、 夢屋もなけりゃ、雲さんもいませんよ、仮にいたとしてもね、~お姉ちゃん、あちきとあそばない?~などと誰彼なく声掛けてお尻でも触れば助平行為で すぐにお縄になっちまいますよ、ははははっ!」 笑左衛門
2026年01月11日
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江戸の蘊蓄 江戸の町は諸国のごった煮 ~懐かしき 故郷残る 町の名に~ ~江戸の町 出自が転がる ごった煮か~ 「威勢がいいが、浮の助はどこの出自でぃ、」 「 神田明神下の銭形平次親分とおなじ、金沢町産まれのしゃきしゃきの江戸っ子でござんすよ、」 「で、おめえのお爺さんはどこの国の出だい?」 「加賀藩100万石前田家の足軽だって聞いてますがね、」 「だろうな、神田金沢町は加賀藩の下屋敷があったんで、 金沢という町名になったんだ。 ところで、浮の助どん、神田の産湯を使って三代続いて江戸っ子というんだよ、」 「じゃあ、あっしの息子からが本当の江戸っ子ですね、」 「家康様が江戸に幕府を開いて以来、 大阪、三河の国から人を呼んで江戸の町づくりをしたから、 その名が残ってる地名も多いんだよ。」 駿河台は家康亡き後、駿府城にいた家来が江戸へやってきて 江戸湾を埋め立てのため崩して平らになった神田山の跡地に屋敷を構えたのだ、 駿河の国の人だから駿河台ってえんだ。 <三河町の親分>半七親分の住まいの神田三河町も、家康に従ってきた 三河の国の商人が住んだので三河町になったんだ。」 「家康様由来の地名が多いんでございますね、他にはどんな国の名がありますかね、 「日本橋には大阪町なんて町もあるよ、大阪からの廻船があの一帯の船着き場 に来るようになり、大阪方面の商人も移住してきたんで大阪町になったんだ。 堺町は貿易で栄えた泉州堺からの上方の廻船が頻繁に入ってきたんで、 あやかって境町になったと云われてるよ、 まだあるよ、伊勢屋稲荷に犬の糞なんて言われてるくらい、伊勢の国出身の商人 が続々と江戸に移住してきて、伊勢屋の暖簾を掲げて商いをしたんで伊勢屋の屋号は多いんだが、 舟入堀から堀留道浄橋一帯には伊勢屋の商う鰹節,海苔、乾物などの海産物の荷が場がって、 伊勢の国の人も住み着いたんで伊勢町河岸と呼ばれてるんだよ、 小田原河岸は江戸前の魚、相模湾の魚が陸揚げされた魚屋の町で、 日本橋魚河岸とも呼ばれてるよ。」 「じゃあ一杯酒と田楽で人気の豊島屋のある鎌倉河岸は 鎌倉の人に由来があるんですかね、」 「そうよ、江戸城改修の石を運ぶ人足や石工に 鎌倉の出の人が多くて、石を陸揚げした場所を鎌倉河岸というようになったんだ。 まだあるよ、佃島は摂津国西成郡佃村の名主森孫右衛門と23人の漁師が江戸へ下ってきて、 石川島近くの干潟を拝領して、埋め立てて佃島が完成し、移り住んだので、 佃島と名付けたそうだ。 数寄屋橋の尾張町は遠浅の海を埋め立てた造成したのが尾張藩なので 尾張町になった。 永代橋にふもと、佐賀町は肥前国佐賀の湊に似ているのでその名がついた。 神谷町は手廻組(右筆や茶道、乗馬や馬医、膳夫、儒者、軍法者など藩主の側役集団)に三河国八名郡郡神谷村出身が多かったので、 神谷町、浜松町は久右衛門町だったが、遠江国浜松の権兵衛が名主となると、故郷の浜松町と改称されたという、 三田四国町なんてもあるが、赤羽橋から南へ延びる道筋には 讃岐高松藩、伊予松山藩、阿波徳島藩、土佐藩などの四国の大名屋敷が集まっていたので三田四国町と称しているんだ」 「こうなると、江戸は諸国の郷里のごった煮でございますね、」「そうさ、江戸は諸国の掃き溜めって言われてるけどね、江戸幕府が開いてからもう、200年以上も経ってるから、 みんな江戸っ子の顔をしてるよ、、」 笑左衛門
2026年01月07日
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笑左衛門 新春詠の弐 夢のようだった正月もあっという間にいなくなり 町中で賑やかだった餅つきの音も消え、 裏長屋の番太はいつものように芋を蒸かしている。 ~初暦 貧乏長屋 ふかし芋~ 餅つきの 音がペタペタ 過ぎ去れば 長屋の番太 芋蒸かしてる 正月が 長屋の屋根を 通り過ぎ 破れた凧と 割れた徳利 正月も 朝から並ぶ 厠かな 今年こそはと 屁音響いて 子供らが 正月過ぎた 喧嘩独楽 夕暮れ悲し 独楽もとまりて 笑左衛門
2026年01月04日
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笑左衛門 新春詠の壱 お城にも、武家屋敷にも大店にも裏長屋にも 分け隔てなく正月はやってきて、 金持ちも貧乏人も嬉しくなるのが正月だ。 ~人並みに 正月を待つ 長屋人~ 暮れなずむ 長屋の屋根に 夕焼けが 正月くるか 分け隔てなく ほろ酔いの 初風呂嬉し 芋洗い おひねり積んで 福茶を飲んで 小僧見る 正月の空 奴凧 いつか飛べると 握った拳 笑左衛門
2026年01月01日
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