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「誰か親戚の者が、援助を申し出てくれたのかも」「いいえ、そんな方がおられるくらいなら、あんな風に困窮されるわけがありません。それに、あちらのお屋敷の方々は、昔から妙に気位が高くて。大した身分でもないくせに、婿君の世話も派手にしておられましたしね。わたくしも隣家のよしみで少しでもお助けになればと、米や菜などを融通しようとしたこともあるのですが、施しは受けたくないと断られたのですよ」「そなたがいつもの調子で恩着せがましく言ったからではないのか」「まあ、あんまりな。でも、もしそうだとしても、あれほど落魄(おちぶ)れ果てていながら、施しを受けずにどうして暮らしていけましょう。吉祥様は自分の美しさを鼻にかけて、昔から誇りばかり高い方でしたけど、今は見る影もないではありませぬか。わたくしのような下賎の者の施しでも、男に身を任せて糧を得るよりは、よほどましでございます」 多聞丸は手水の手を止め、思わず口に出して呟いてしまっていた。「吉祥殿がまさか」「中務大輔様もおいたわしい。あの世の蓮の上で地団太(ぢだんだ)を踏んでおられることでしょう。あれほど吉祥様を自慢に思い、手中の珠といとおしんでおられたものを」 乳母は嫌なものでも拭き取るように、多聞丸の手を手拭いで少々乱暴に拭いながらぶつぶつ言った。多聞丸は驚愕のあまり、思わず吐き気がしてきた。 まさか、あの吉祥が男を引き込んでいる? それも、婿に取るのではなく、誰とも知らぬ通りすがりの男を。 多聞丸はそれ以上何も考えられなくなり、そのまままた衾(ふすま…寝具)を被って、寝所に引き篭もってしまった。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2013年11月26日
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「まあ、そうでしたか。それは嫌なものをお聞かせいたしましたね」 乳母は多聞丸に手水の角盥(つのだらい)を差し出しながら、苦虫を噛み潰したように露骨に眉を顰めた。「嫌なもの?」「ええ。若君には申し上げにくいんでございますけれど」「何だ」「吉祥様には、このところあまり良くない噂が」「噂?」「はい。もちろん、噂でございますよ。お隣から召使がいなくなって以来、わたしくもあまりお隣とは親しくしておりませんから。でも、下仕えの雑仕どもが言うのですよ。近頃、見慣れない男が隣の屋敷の西の門からこっそり入っていくのを見ると。しかも、それが一人や二人ではないと言うのです」「どういうことだ。その男たちは、一体なんなのだろう」「わたくしも嫌なことは考えたくはないのですが、その男たちの姿を見るようになってから、隣の屋敷に時折食べ物やら衣やらを商う者たちが頻繁に出入りするようになったとか。中務大輔様の北の方が亡くなってから、そんなことはとんとなかったことですからね」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2013年11月25日
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その時、多聞丸の焦燥はふいに破られた。 荒れた庭を挟んだ西側の築地塀には、外の小路へ続く小さな門がある。その門が薄く開き、黒い人影が庭へ入ってきたのだ。 高い烏帽子を被ったそれは、明らかに男のものだった。 その人影に気づいた吉祥は、月を眺めるのをやめて優雅に頭を下げる。男は慣れた様子で欠けた階(きざはし)を上がると、吉祥の方へ身をかがめてその手を取った。そして、そのまま吉祥を抱き寄せて、共に寝殿の奥へ入ってしまったのである。 その様子を、多聞丸は呆然と見詰めていた。 まさか、男が通ってきているのか? 多聞丸はしばらくその場に立ち尽くしていた。だが、いくら待っても、男は再び妻戸から出てこなかった。 多聞丸は、ふらふらと庭木戸へ戻り、自失したまま自分の屋敷へ帰った。そして、そのまま一睡もできなかった多聞丸は、翌朝手水(ちょうず…洗面のこと)の支度をしにきた乳母につい聞いてしまっていた。「隣の……」「何でございます」「隣の、吉祥殿には、新しい婿君が参られているのかな」「どうしてそんなことを」「いや、別に何でもないのだけれど。昨日の夜、うちの庭をそぞろ歩いていたら、向こうの屋敷から男の人声がしたので」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2013年11月20日
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多聞丸は顔にかかる蜘蛛の巣や鋭い萱の葉を避けながら、ゆっくりと寝殿の方へ近づいて行った。 だが、急に寝殿の方からぎいっという大きな音がして、驚いた多聞丸は思わず側の茂みに身を隠した。 古びた妻戸が軋(きし)みながら開き、中から薄い単(ひとえ)を纏(まと)った女の人影が現れた。 それは吉祥だった。 ゆっくりと簀子に歩み出てきた吉祥は、穴の開いた床板を避けながら腰を下ろすと、そっと月を見上げた。 青い月明かりが、吉祥の顔を照らしている。それはまさに天女のような美しさだった。 昔より幾分ほっそりとした頬、抜けるように白く滑らかな額、その上を流れ落ちる額髪の艶やかさ。素肌の上に萎(な)えた緋の袴をつけ、縹(はなだ)の薄物を纏っただけの胸元には、白い乳房の丸みが微かに透けて見える気がする。 多聞丸の胸がどきりと高鳴った。 吉祥の息遣いを感じる。その肌の温もりさえも。 これほど側近くに吉祥を感じたことは、子どもの頃吉祥にまとわりついていた時ですらなかった。 空には中天に差し掛かる月があるだけで、辺りには誰もいない。 多聞丸は息が苦しくなり、眩暈(めまい)さえし始めた。音が辺りに響いてしまいそうで、ごくりと唾を飲み込むことさえできない。急に自分の腹の底から込み上げてきた欲望の激しさに、多聞丸は思わず拳を握り締めていた。 だが、多聞丸はそのまま身動き一つできなかった。 少年らしい羞恥なのか。まだ大人に成り初めたばかりの気後れなのか。それとも、ただ単に勇気がなかっただけのことか。 ほんの一歩、その場から足を踏み出すだけで、事は足りる。そう思えた。 だが、その一歩が……多聞丸にはどうしても踏み出すことはできなかったのである。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2013年11月19日
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兵衛佐が去った年の翌年の夏、多聞丸の元服の式がようやく執り行われた。 烏帽子親は父の長兄で、老齢だが未だ近衛大将を勤める人物だ。 式の間中、父は始終にこやかに長兄の機嫌を取り結んでいた。というのも、父は冬の間に俄かに卒中で倒れ、一時は出家も考えたほどだったのだ。 幸いなことに、父は何とか持ち直したが、体力はなかなか回復せず左半身に少し麻痺が残ったせいもあって、右兵衛督の職は辞してしまった。それで、多聞丸の後見を長兄に委ねようと考えていたのである。 式が無事に終わり、それに続く祝いの饗宴も果てると、長兄は帰宅し、父は酒に酔って眠ってしまった。初めて大勢から酒をすすめられて少し気分が悪くなった多聞丸は、女房たちも下がって屋敷が静まり返ると、そっと部屋を出て庭に降りた。 月は明るく、夜風は冷たい。火照る頬を撫でながらしばらく庭をそぞろ歩いていた多聞丸は、ふと築地塀の片隅の暗がりに気がついた。 それは、あの懐かしい隣家への木戸だった。 今はすっかり葛や蔓草に覆われ、ここ数年誰かが開けた様子もない。試しに蔓草を毟(むし)り取り、力を込めて扉を押してみると、まだ蝶番(ちょうつがい)は錆びついてはいないようだ。 多聞丸は扉をきしませながらさらに押し、その向こうの景色を見て驚いた。 隣家の庭先は、まるで狐狸の棲家のようだった。丈の高い夏草が見渡す限り生い茂り、何年も枝を払ったことのない庭木が、蔓草に絡まれながら不恰好に立ち並んでいる。 中務大輔が丹精をこめて草花を育て、幼い多聞丸がそこら中を駆け回ったあの小さな庭の面影は、いまやどこにもない。 かつては瀟洒だった寝殿も、西の軒先が崩れてもう半ば廃墟と化している。簀子にも穴が開き、簾も朽ちて垂れ下がっていた。 だが、東の半分はまだかろうじて古びた御簾が下ろされており、未だ人の気配があるようだ。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2013年11月18日
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「吉祥殿が?」「親が生きていた間は何とか世話ができたけれど、その親も亡くなってこれほど貧しくなってしまっては、もはや身なりを整えてやることすらできない。内裏に出仕する武官であるからには、それなりの身なりでなければすまされない。だから、世話のできる他の裕福な通い所を見つけて、その家の婿になって欲しいと言われたのだそうだ。それでも、兵衛佐は吉祥殿を見捨てることはできないと、しばらくは無理をして通っていたそうだが、吉祥殿があまり度々そう勧めるので、ついに他の女の元へ通うようになってしまったという」「そんな」「確かに身勝手ではある。だが、吉祥殿の言う通り、このところのあの男の身なりはあまり褒められたものではなかった。宮中でも噂になっておってな。あの男を何かと侮り軽んずる者も増えてきた。それを考えると、兵衛佐の振る舞いも無理からぬことと思って、時々は文など送ってやるようにとだけしか言えなかった」 多聞丸は兵衛佐の顔を思い出していた。快活で男らしい憧れの面影。その顔に、多聞丸は心の中で唾を吐いた。もう二度と見たくない。 それと共に、多聞丸は吉祥の顔も思い出していた。哀れな吉祥。これから一体どうしていくのだろう。 翌年の春、兵衛佐が除目で上総介を拝命し、例の新たな妻を連れて任国へ赴任したということを、多聞丸は父の話で聞き知った。 それ以後、兵衛佐がどうなったのか、多聞丸は知らない。噂さえ耳に入らないということは、任国で死んでしまったのか、それとも都を捨てて上総の地に根づいてしまったのか。 いずれにしても、隣家の吉祥の元へ赴く兵衛佐の姿を見ることは、多聞丸の望み通り二度となかったのである。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2013年11月13日
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父はようやく納得したように多聞丸へ向き直った。「そうか、そなたは昔よく隣へ遊びに行っていたな。吉祥殿にもよく懐いていたものだった」 父は寝室の塗籠(ぬりごめ…注)に入って腰を下ろし、疲れたように脇息に寄りかかりながら言った。「いかにも、兵衛佐はもはや中務大輔殿の屋敷には通っておらぬ」「それはなぜでございます」「なぜというて、男が婿に入るのは、妻の家から受ける様々な世話を期待してのことだ。私のように、親から受け継いだ財産のある者は良いがの。そうでない者は、妻の実家の世話にならねば暮らしが立ち行かぬ。兵衛佐は有能な男だが、受領の家の四男で、ほとんど財産など持っておらぬからな。それに、あの二人には子もない。無理もないことだが」 そこで父はまた眉をしかめた。「だからといって、あれほど困窮しておる妻をそのままに捨て置いて、他の女の元へ通い始めるなど、あまりにも無情な振る舞い」「本当に、他の家の婿になったのですか」「そうだ。私もその噂を聞き、兵衛佐を呼び出して問い質した。私が中務大輔殿に、あの男を婿にどうかと勧めたのでな。亡き人に申し訳が立たぬと叱りつけたのだが」「兵衛佐殿は何と」「それが、これは吉祥殿が望んでのことだと言うのだ」*注「塗籠」…寝殿造りの建物の一角に作られる、窓などの開口部が少ない部屋。物置や寝室などに使われることが多い。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2013年11月12日
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まさか、あの親切で頼もしい兵衛佐が。あれほど吉祥と仲睦まじく過ごしていたのに。 それに、あの吉祥を捨てることができる男などいるだろうか。 乳母の話だけでは心もとないので、深夜になってようやく戻ってきた父を捉まえると、多聞丸はさりげなく尋ねてみた。「父上、隣の中務大輔様の婿君になられた兵衛佐殿は、もはや隣にはおいでになっていないのですか」 父は難しい顔で眉をしかめながら言った。「その話を誰に聞いた」「乳母でございます」「あのおしゃべりめ。そんな話を子どもにするとは、後で叱っておかねばなるまい」 多聞丸は少しむっとしながら言葉を返した。「私はもう子供ではございませぬ。年が開けたら十五歳になるから、そろそろ元服させようと、この間おっしゃってくださったではありませぬか。それに、隣家の方々にはずいぶん可愛がっていただきました。乳母の話が本当なら、あまりにもお気の毒で」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2013年11月11日
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そうこうしている内に二年が過ぎ、とうとう隣家の北の方が亡くなってしまった。 日が経つに連れて屋敷はますます寂れていき、最後に残っていた女童すら出て行ったそうだ。噂を仕入れる人さえいなくなってしまったと乳母は言い、思いがけず兵衛佐のことを悪し様に罵った。「兵衛佐様というお方は、酷い人でなしでございます。隣の方々はあの婿君を大そう自慢しておいででしたが、いくら風采が良くても情のない殿方など何になりましょうか」「何のことだ?」 いつも兵衛佐の噂ばかりしていて、密かに好意を持っていたようだった乳母が、どうして急に悪口を言い出すのだろう。 不審げに問う多聞丸に、乳母は汚いものでも吐き出すように言った。「兵衛佐様は吉祥様を捨てておしまいになったのですよ。通って来なくなってから、もう二月になるとか。あれほど中務大輔様に恩を受けておきながら、世話をしてもらえなくなったからといって他の女に乗り換えるとは、あまりにも薄情なお方でございます」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2013年11月08日
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その間、多聞丸は自分の乳母から隣家の消息を聞いていた。乳母はおしゃべり好きの噂好きで、多聞丸が聞きたくなくても、何かと隣家の噂話をしたがったからである。 だが、それはあまり芳しいものではなかった。 まず、兵衛佐と吉祥が結婚した翌年、中務大輔がその頃都に流行った咳病にやられて亡くなった。病みついてからわずか三日での急死である。 何の覚悟も準備もしていなかった隣家では、主の死を嘆き哀しみ、大そう心細い有様であったらしい。それでも、中務大輔の北の方は気丈な人だったから、夫の葬儀もしっかりと執り行い、屋敷の差配も婿である兵衛佐の世話も怠りなく行ってきた。 しかし、その陰で人知れず無理を重ねていたせいであろうか。翌年には、その北の方まで病に臥すようになってしまったのである。 急に火が消えたようになった隣家では、召し使っていた女房や雑仕が、櫛の歯が欠けるように一人二人といなくなっていった。 狭いなりにきちんと整えられていた庭には雑草が生い茂り、野分で崩れた築地塀ももはや修繕されることはない。寝殿の軒先すら傾き、庇の間にまで風雨が忍び込むようになっても、どうすることもできなかった。 乳母の口からそれらを聞いた多聞丸は、懐かしい隣家の荒廃に胸が塞がれる思いだった。だが、まだ十歳を幾つか過ぎたばかりの童だった多聞丸にはなす術もない。 頼みの綱の父は、先帝が亡くなって御世が変わったため、その頃大そう多忙だった。その上、元々多聞丸の家も、血筋は良いがさほど裕福ではない。父は中務大輔の家を気にかけつつも、なかなか手が廻らないらしかった。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2013年11月06日
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それからのち、多聞丸はあまり隣家へは行かなくなった。 兵衛佐は暇さえあるといつも吉祥のところへ通ってきていた。隣家で兵衛佐の姿を見るたび、多聞丸の胸は痛んだ。 でも、それにも増して辛かったのは、吉祥の満ち足りた笑顔の方だった。吉祥はもうあまり多聞丸を構ってくれず、始終兵衛佐に寄り添ったり、何かと世話を焼いて楽しげだった。 それに、中務大輔をはじめとする屋敷の人々も、もはや多聞丸をそれほど可愛がってはくれなくなった。大切な婿のためには食べるものを食べなくても構わないというほどに、いつも兵衛佐に傅(かしず)いていたので、多聞丸に関心を払う余裕などなかったのだ。それは多聞丸にとって、ひどく寂しいことだった。 多聞丸の足は、次第に隣家から遠のいていった。 訪れる日が一日おきになり、十日おきになり……そしてとうとう、あの築地塀の木戸は開けられることもなくなり、やがていつの間にか生え伸びた葛の蔓に覆われてしまったのである。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2013年11月01日
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