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それに、今は清盛の言いなりになってすっかり息を潜めておられるかに見える後白河院は、一体どんな心持ちでこの平氏の栄耀を眺めているのだろう。 堀河の知っている子供の頃の後白河院は、暇さえあれば今様ばかり歌っているきかん気な少年だった。 だが、この世の権力の渦に巻き込まれていくうちに、あの少年も父や母と同じような仮面を身につけていったのであろうか。大人になってからの後白河院は、いつの間にか心の中で何を考えているかわからない鵺(ぬえ)のような人物になってしまったようだ。 堀河にはそんな後白河院の心中を推し量ることはできなかった。それに、風の便りに噂を聞くだけで、もう何年もお会いしていない。 後白河院ばかりではなく、他の知り人や縁者にも、堀河はこの西山の山荘に隠退してからほとんど会うこともなかった。というより、八十歳も過ぎた今となっては、もう生きている人の方が少ない。 待賢門院所生の六人の皇子女のうちご存命なのは、後白河院と、母君に良く似た絶世の美女と評判だった上西門院だけ。 保元の乱の時、お気に入りの頼長を見捨てて保身に走った忠実は、知足院に篭って隠居した後、十年ほど前に死んだ。 源頼政は上手く保元・平治の乱を乗りきり、今は清盛に擦り寄ってしぶとく生き残っている。あの眉間の皺に平氏への鬱憤(うっぷん)を隠しながら、いつかきっとと源氏の返り咲きを狙っていることだろう。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2013年08月30日
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そのような中から、結局全てを制してのし上がって来たのが、あの正盛の孫に当たる平清盛であった。 正盛自身は、あの獅子王の事件からしばらくして、長年の肩の荷を下ろしたかのように六波羅の館でひっそりと死んだ。 だが、その子の忠盛は上手く鳥羽院に取り入って重用され、追討使となって瀬戸内海の海賊を鎮圧したことをきっかけに、西国の財力と武力を一手に集めることに成功した。 それを受け継いだ息子の清盛は、保元・平治の二つの乱を巧みに乗り切って、伊勢平氏の勢力をさらに伸ばした。 その後も着々と昇進を続け、仁安二年にはついに従一位太政大臣となって、位人臣を極めることになったのである。 その上、翌年妻の妹である建春門院平滋子の生んだ高倉帝が即位。そして、つい先頃、清盛の娘である平徳子は高倉帝の中宮となった。 まさに、わが世を望月になぞらえた藤原道長の栄華を彷彿とさせる繁栄を謳歌しているのである。 確かに、今のこの世は、平氏が権勢を誇る武士の世になったのだろう。だが、それは果たして、あの獅子王が夢見たような、武士が武士らしく生死をまっとうできる本物の武士の世であろうか。 堀河には、今の奢(おご)り高ぶった平氏の世が、まるでひとときの陽炎(かげろう)のように思えてならなかった。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2013年08月26日
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崇徳院は、讃岐に配流されてから八年後の長寛二年に、讃岐の配所で亡くなった。 その死に様は、あの母君譲りの美貌と優れた歌の才には相応しからぬ、恐ろしくもあさましいものであった。 崇徳院は京への帰還を許されず、それならせめて後世の菩提を祈ろうと、三年もかけて自らの血で大乗経を書写したという。だが、その経を都の然るべき寺で供養するよう願ったところ、そんな切なる小さな要望ですら無情に拒否された。院はあまりの仕打ちに憤激し、生きながら天狗の姿になると、自分の舌先を噛み切って、その大乗経に国家滅亡の誓いを血書したと伝えられている。 そんな崇徳院の呪いは、今のところはまだ咒力を発揮してはいないようだ。 崇徳院の死に先立つ平治元年、藤原信頼と源義朝の軍勢が、後白河院の三条烏丸御所を襲って炎上させた。信頼と対立していた信西入道は、御所から辛うじて脱出したものの逃亡中に自殺し、その首は謀反人として梟首(注)された。 ところが、それから一月も経たぬ間に、今度はその信頼が二条帝を擁した藤原公教方から謀反人に追いやられたのである。六条河原で始まった合戦の結果、信頼は捕えられて斬首され、信頼方の主力であった源義朝は逃亡先の尾張で討ち取られた。 保元の乱の時、父である源為義と対立して後白河方についた源義朝は、その後上手く立ち回って一旦は河内源氏の勢力を盛り返したものの、結局は父と同じように敗残の身となった。 今、河内源氏の主流で生き残っているのは、義朝の子で伊豆へ配流されている源頼朝くらいであろうか。*注=きょうしゅ。さらし首のこと。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2013年08月21日
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西行は目を閉じて数珠を持った手を合わせた。堀河はそんな西行の顔を見ていたが、ふと以前聞いた噂を思い出して尋ねた。「そなた、讃岐でお隠れになった崇徳院の陵にも詣でたそうじゃの」 西行は目を開くと頷いた。「はい。もう四年ほど前でしょうか。私は出家する前から、崇徳院には随分と近しくしていただいておりました。さすがに品格のある良い歌をお詠みになる方でしたな。院と夜を徹して歌道を語り合ったことなどを、今でもよく思い出します。あの保元の乱の折りも、何とかお力になれぬものかと、崇徳院が逃げ込まれた仁和寺へ馳せ参じたものの、結局は大したお助けもできなくて。それがずっと心残りで、崇徳院が讃岐へ去られた後も、伝手(つて)を頼って文など差し上げていたのです。いつか讃岐の配所をお訪ねしようと思っていたのですが、そうできぬ前にお隠れになられるとは」 西行は無念げに俯いた。堀河は荒れ果てた寂しい配所で、遥か京の方角を見上げる崇徳院の姿を思い浮かべる。「讃岐はどんな所であった?」「崇徳院がおられた配所は、今は跡形もなくなっておりました。白峰というところにある御墓は、治天の君であられたお方の陵としてはあまりにも粗末なもので。私は少しでも院の御霊をお慰めできればと、長い間経を読んで参りました」「男は良いな。どこにでも自由に旅ができる。そなたは讃岐ばかりか、陸奥にまで足を伸ばしたことがあるそうではないか。わたくしなど、待賢門院様のお供をして行った熊野が関の山。わたくしもできることなら、讃岐まで行って崇徳院の御霊をお慰めしたいものじゃ。あのような悲惨な御最期を遂げられるとは。母君思いの、優しくて美しいお方であったに」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2013年08月20日
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しかし、世の中というものは皮肉なものだ。 そのように妹さえ捨てて見事に政界を泳ぎきった実能も、翌年あっけなく死んだ。朝廷を牛耳ってこれから権力を振おうとした矢先のことだった。 堀河は色白で目許の涼やかだった実能の顔を思い出す。 あの温和な美貌のどこに、このような変わり身の早い冷酷さがあったのだろうか。 獅子王の一件の時、摂関家との争いを徹底して避けようとしたのも、正盛の言いなりになるふりをしてその動向を逐一把握していたのも、世の乱れを憂う清廉さではなく、権謀術数に長けた政治家としての老獪さの現れだったのかもしれない。 堀河は心の中に浮かぶ実能の面影に向って、小声で念仏を唱えていた。西行はしばらく庭の桜の方を見やっていたが、やがて低い声で言った。「私は子供の頃から桜が好きでしてね。あの桜子という名前も、私が桜好きなのを知っておられた実能様が、とっさに付けてくださった名前だったのですよ。そう言えば、実能様とはじめてお会いしたのも桜が縁でした。父にくっついて実能様のお屋敷へうかがった時、私はお庭の桜があまりにも見事に咲いていたので、その満開の花に包まれてみたいと、その梢にこっそり攀(よ)じ登ったのです。ところが、立派な枝を一本へし折ってしまって。下に落ちて腰は打つし、父にはこっぴどく叱られるし。実能様にもきついお叱りを受けるだろうと覚悟して、お詫びの歌を一つ詠んで差し上げると、それを実能様はいたく気に入ってくださいましてな。なかなか風流で面白い小童だと、それからは何かにつけて目をかけて可愛がってくれました。私が出家したのを最後まで惜しがってくださったのも、実能様でしたよ」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2013年08月16日
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西行は経を読み終わると、厨子(ずし)に向ったまましばらく頭を垂れていた。堀河はその後ろ姿に向って言った。「わたくしくらいの歳になると、昔の知り人はみな死人ばかり。こうやって御仏に向って念仏を唱えていると、今は亡き方々の顔が次々と浮かんでくる。そなた、実能様のことを覚えておるか」 西行は顔を上げて堀河を振り返った。「もちろんですとも。かつての主家でございますれば。実能様には、幼い頃からずいぶんと可愛がっていただきました。ただ、出家した後は、時々ご挨拶に伺うだけでご無沙汰をしてしまいましたが」 そう言うと、西行は顔を背けて指先の数珠をまさぐっていた。西行は実能に複雑な思いを抱いているようだ。それは、堀河とて同じだった。 実能は獅子王の一件では忠実と対立する立場にあった。ところが、それから数年して待賢門院の立場が揺らぎ始めたのを悟ると、何と忠実の気に入りの息子頼長を娘婿にして手を結んでしまったのである。 最も信頼していた兄に裏切られた形になった待賢門院の心痛はいかばかりであろう。そのせいか、それ以後兄妹は少しずつ互いに距離を置くようになってしまった。 その後も、実能は着実に昇進を続け、頼長の妻となっていた娘が死ぬと、今度は若造のくせに権高な振るまいが目に余る頼長を見限って、鳥羽院と美福門院側に接近していった。 そして、保元の乱では後白河帝側につき、乱で勝利した後は廟堂の長たる左大臣に昇り詰めたのである。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2013年08月06日
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堀河は西行の声に合わせて途切れ途切れに経文を呟きながら、その鳥羽院のためにも祈った。 鳥羽院は、待賢門院の死から十一年後に崩御され、今は鳥羽殿の一角にある安楽寿院の三重塔に眠っている。 待賢門院の存命中から、鳥羽院は白河院の遺志を巧みに掻い潜り、白河院時代に不遇であった者たちばかりか本来白河院の近臣であった者たちをも、次第に味方へつけていった。そして、いつの間にか絶大な権力を握り、白河院の後を受けて院政を押し進めることになったのである。 確かに鳥羽院は比較的穏かな性格で、白河院のように強烈な個性を発揮して人々を制圧するようなことはなかった。しかし、巧みに人の心を操りいつの間にか味方につけてしまう手腕は決して侮れない。それは、白河院の引き立てで台頭した平氏が、いつの間にか鳥羽院の元に擦り寄っていたことからもうかがわれるだろう。 昨日の敵は今日の友。勢力図は日毎に移ろい、誰が敵か味方かすら判然としない有様だった。だが、鳥羽院がおられた間は、院が重石となってそれらの勢力の均衡を保つことができた。 ところが、保元元年七月二日に鳥羽院が崩御すると、それからわずか十日も経たない七月十一日に、時の今上後白河帝に組する軍勢が、崇徳院方の立て篭もる白河殿を急襲したのである。 合戦は短時間のうちに決着し、後白河帝方が勝利を収めた。世に言う保元の乱である。 この乱の結果、崇徳院は讃岐への流罪に処せられた。今上の兄でもある上皇が、四国の僻地へ配流されるなど、前代未聞のことである。また、忠実の愛子であった頼長は逃亡中に矢傷が元で敗死、あの獅子王の子であるという源為義も捕えられて処刑された。 この事件を切っ掛けにして、王朝の雅やかな時代は終わりを告げ、武力を持つ者が支配する武者の世へと、時代が転換して行くのである。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2013年08月02日
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