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♪ 渾身の一首ではなくよろこびを素直に歌いて詠進とせむ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 平成最後の「歌会始」の入選作を私なりに何時ものように考察してみた。今回のお題は「光」。 単に頭で考えるのとは違い、こうして文章にすることで見えなかったものが見えてくる。飽くまでも私の個人的な感想で、読み違うことがあるとも思うが、まあ、どんなコンペでも審査員の意見は大きく分かれるもの。ですから、他人の事はさて置いて感じたことを記録するつもりで書いておくとします。歌の分類は、今回はしないでおく。☆ 土佐の海ぐいぐい撓ふ竿跳ねてそらに一本釣りの鰹が光る 「ぐいぐい撓ふ竿跳ねて」がいい。鰹が掛かって引っ張り込 む、それを想いっきり跳ね上げていく一連の様子が過不足なく描 かれ、「そらに一本釣りの」が10音で大きく字余りになっている ことで、弧を描いてスローモーションのように釣られる鰹を目が 追っていく。心憎いまでの技術の勝利。 ☆ 剪定の済みし葡萄の棚ごとに樹液光りて春めぐり来ぬ 剪定、葡萄、樹液、畳みかけるように詠われて、巡りくる春が 光り輝いて眼前に浮かんでくる。ストレートに素直に、何の脚色 もなく提示されることで、読み手は安心して心を預けることが出 来る。捻ったり異化された歌は好まれない。 ☆ 湿原に雲の切れ間は移りきて光りふくらむわたすげの絮(わた) 情景描写が的確。時間の推移と視点が雲から湿原に移動してわ たすげがクローズアップされる。ふくらむのがわたすげの絮では なく「光りふくらむ」と先に置いたことで、光が強調された。 ☆ 大の字の交点にまづ点火され光の奔る五山送り火 大の字の一か所の交点は金尾あるいは金輪と呼ばれ、そこに先 ず火が入った後一斉に五方向に向けて火が点けられる。余分なこ とには一切触れず、この一点に焦点を当てたことで至近距離で見 ている様な臨場感を産んでいる。松明の熱さまでが伝わってくる ようだ。 ☆ 分離機より光りて落ちる蜂蜜を指にからめて濃度確かむ 毎年、同じ場所で採ったものでも天候や花の具合によって味も 変わる。それを今年はどうかと確かめる、収穫の喜びの中の緊張 の瞬間。「光りて落ちる蜂蜜」と呼応して、プロの厳しい目の輝 きをも連想させる。情景が的確に表現されて動きが手に取る様に 眼前に浮かぶ。 ☆ 光てふ名を持つ男の人生を千年のちの生徒に語る 源氏物語は架空の人物を描いているにも関わらず、千年の間受 け継がれてきた事によってあたかも歴史上の人物のごとき存在 感。IT社会の現代においてもなお語り継げることの驚きと喜 び。それを感じながら教壇に立つ教師冥利を想う。あえて「名を 持つ男の」と字余りにすることで、歌が流れてしまうのを避けて いる。 ☆ ぎりぎりに光落とせる会場にボストン帰りの春信を観る 海外に流出してしまい、そのアメリカで大切にされている浮世 絵が里帰りした。ギリギリまで照明を落として大切に扱われてい る今。価値を見出せなかった当時の日本人が見たらどう思うだろ うか。感慨深い思いで観ているが、浮世絵そのものには触れてい ない。 ☆ 無言になり原爆資料館を出できたる生徒を夏の光に放つ 原爆の悲惨な状況を見て重苦しい気持ちで一杯の生徒たち。そん な生徒に幸せな光に満ちた今を実感し、「大切なのは繰り返さな い事」だと気付いてほしい先生。「夏の光に放つ」というストレ ートな表現でその思いを的確に表現してみせた。 ☆ 風光る相馬の海に高々と息を合はせて風車を組めり 風力発電の風車を海岸に組み立てている。きらきらと輝く海に風 を受け、発展の象徴として回り始める。組んでいる本人は地元出 身なのだろう。誇らしげでもあり、喜びでもある。「光る」「高 々」という言葉にその雰囲気が良く出ていて、こちらの心にも希 望の情景が広がっていく。「相馬」の地名も効いている。 ☆ ペンライトの光の海に飛び込んで私は波の一つのしぶき 初々しい青春の一頁。多分、初めての経験なのだろう。「光の海 に飛び込む」にその感じがよく出ている。結句で「一つのしぶ き」と言い切ったことでその場の作者の喜びが良く出た。ペンラ イトの光が左右に動く中で青春を楽しんでいる様子が伝わってく る。 平明で素直な中によく考えて作られているうたばかり。テクニックよりも情感と情動がいかに素直に外連なく描かれているかが評価のポイント。 どの歌にも通底しているのは「よろこび」でしょうか。正月の歌として読んで晴れ晴れするような歌が求められるのは、趣旨から思えば当然の事かも知れません。 次回のお題は「望」です。
2019.05.30
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♪ 揖斐川に立夏の風のひかりあり麦の穂ゆれてきらめいてゆく‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ とうとう隣家が売りに出されたようだ。主が高齢となり管理が出来ないという事らしい。下見に来る人は多いもののまだ買い手がないとのこと。弟さんが代わりに家財道具を整理したりしていて、時どき来ては下見の客の対応などもしているらしい。 どうなっているのか気になっていたので、丁度来ていた弟さんに二階から声を掛けた。それであらましが分かったというわけ。彼は小3から小6まで住んでいたらしく、私がここへ来た時にはすでに引っ越していて接点が全くなかったことが分かった。存命だったお祖母さんのことや、2年ほど住んでいた娘さんの子供(3-4歳のころ)にカミさんがピアノを教えていたことなど、上と下との塀越し対話。 歳を聞けば私とおなじくらいだと言うので確かめたら、四軒先の長男と同級生で61歳だという。ずいぶん若く見られたものだ。「夜目、遠目、笠の内」ということばがあるが、10mほど先の大仏を下から眺めた風で、ちょっと違った印象を受けたのだろう。 昨日も人が出入りしていて、不動産業者が興味を持った客を連れて来ていたようだった。2,000万という声が聞こえたので、それが売り出し価格らしい。家は古い平屋(蔵もある)で価値はゼロに近いだろうが、庭は整備されているし、かなり広い。土地代だけでそのぐらいの値になるのだろう。 細い路地で車が入れないことと、玄関が名鉄の線路わきにある。すぐ横を電車が通ればかなり喧しいというところも大きなネックで、建て替えもかなり手間がかかることを考えると、なかなか買い手は付かないかも知れない。 悲しいかな、直ぐ傍にある放置家屋の仲間入りをする運命かもしれない。 ここのお庭の恩恵を受けている我が家としては、誰かが住んでくれないと荒れ放題になってしまうので、そればかりは回避できないものかと気になるばかり。木は伸び放題になり、草が生い茂っては広い庭がかえってアダになる。ハクビシンなど入り込んでは堪らないし、やぶ蚊の巣になっても困る。 雨上がりなのにカラッとした爽やかな風が吹き、さぞ強かろう紫外線を含んだ五月の陽射しが樹々の葉を照らしている。先日行った揖斐地方の麦畑が思い起こされる。生まれ故郷の茨城県にも麦畑があって、ストローの語源でもある麦のあの特徴的な茎と穂が意味もなく好きだった。 小満の頃になるといよいよ麦秋が近づき、やがて刈り取られて夏野菜の栽培に取って代わられる。麦畑はやや寒冷な地でしか見られないので、そんな風景に出会うととても懐かしい。 大きな事故もなく無事に終わった10連休。連休明け初日の朝、会社ではエンジンが温まるまで少し時間がかかるんじゃないのかな。
2019.05.07
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♪ 脳内にハッピーがいてひょっこりと顔を出してる絵を描いている‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ NHKは相も変わらずステレオタイプの報道をしている。何を思って盆・暮や大型連休時の旅行する家族のインタビューなど流し続けているのか。 下の新聞投書にもある様にゴールデンウィークは、日米貿易摩擦の深刻化を打破するためプラザ合意が結ばれて同時に円高不況となった1985年、バブル景気が始まった時期のあだ花だということ。 1985年(昭和60年)は、いじめ問題が深刻化し「いじめ自殺元年」といわれた年であり、ポスト団塊ジュニア誕生の少し後に当たる。意識の下での一億総中流社会真っただ中といえる。 つくば博開催。「おニャン子クラブ」が誕生。電電公社・専売公社が民営化。東京ディズニーランド〜成田国際空港の間直通バスの運行開始。 男女雇用機会均等法が成立。神戸淡路鳴門自動車道の大鳴門橋が開通。初の日本人宇宙飛行士として土井隆雄、内藤千秋(現姓:向井)、毛利衛の3人が決定。桑田真澄・清原和博の「KKコンビ」が活躍。 NTTが携帯電話「ショルダーフォン」を発売。『スーパーマリオブラザーズ』発売。東海道・山陽新幹線の新型車両100系がデビュー。VTR一体型ビデオカメラ「キヤノビジョン8」発売。中核派など過激派と機動隊が大規模衝突を起こす(10.20成田現地闘争)。 過激派による国電同時多発ゲリラ事件。初のスーパー銭湯「万葉ポカポカ温泉」がオープン。 「飛石連休」が1985年(昭和60年)の「国民の祝日に関する法律」によって5月4日が日曜日や振替休日でなくても「国民の休日」になった。2008年(平成20年)に振替休日の規定が変更された。 朝日新聞 は「be between」で、「10連休遠出しますか?」というアンケートの結果が載っていた。 労働者の4割が非正規雇用で、7人に1人が貧困層という今の日本で、10連休が取れるのは全体の3割しかいない。学生と公務員、企業人では半分程度しか享受できていない。 サービス業は却って激務になるし、非正規雇用で収入減に直結する人がどれだけいるか。請負業の会社などは取引先が10連休を取ると月収が3分の1に激減するという。 何が働き方改革だと怒っている人も多い。休みを増やせば消費が増える=経済効果という古い思考を捨てられない、食うに困らない政治家と役人が自分たちのために作ったシステムじゃないかと訝る。公務員にも例外はあって、平成最後&令和初日を記念して大量に出るであろう婚姻届・出生届の受付をさばくために出勤する人もいるにはいるが。 5月は連休明け頃から理由不明確な体や心の不調に陥る「五月病」の症状が見受けられる場合があり、それを助長する事にもなりかねない。 医療機関は、4月30日と5月2日を開院として、例年の連休より1日多く休みとするような対応が多いとか。外来診療は10日間休診するところもある。手術も連休の間はほとんど行われない可能性があるというから、病気やケガをするわけにもいかない。 銀行・郵便局は一般企業や公務員と同じで10連休。郵便局は保管・管理に問題があるため2日は配達するらしい。ゆうパックなどの受け付けは午前中だけ休日用の窓口で行う。拡大します。 50キロ100キロの渋滞(今年は期間が長い分、分散されるので多少はましらしい)で車の中で過ごす時間の方が長いんじゃないかと思うようなのを旅行と言えるか? 「皆が行くから、自分達も行かなければ」と短絡的に思う人がいかに多いか。思考を停止したネズミの集団のように、「人が人を呼ぶ」群集心理のドツボに嵌まって、つくづくお人よしだなあと思う。 そんなのをわざわざNHKがニュース番組で流す必要があるか? 旅行に行けない人の代わりに一見楽しそうな家族を映して、一緒にその気分を味わいましょうってか? その視点と価値観は、あの金正恩様と変わらんじゃないの? 上から目線で・・
2019.04.28
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♪ にっぽんは明治以前に活きていたAI時代を江戸に生きらん‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 実生のイロハモミジが徒長して、雨に当たるとその重さに耐えきれず、大きく曲がってしまっていたので、思い切りカットした。大きな剪定は秋に行うのがいいようだが、木が元気なら幾らでも新芽が出て来るようなので大丈夫だろう。 しかし、この歳になって実生からモミジを育てて盆栽にするなんて、無謀というか無駄な行為というか・・。一生懸命やって10年やそこらで出来上がるものでも無し、その後を継いでくれる人が居なければ徒労に終わってしまう。 お隣さんはお祖父さんが庭に沢山の鉢を並べて丹精込めていたが、後を継いだ息子さんには全くその気がなく、全部処分さててしまった。たった一鉢も残っていない。 盆栽は海外でも人気が出て、遠路はるばる買いに来る外国人も増えているようだ。女性にも人気で愛好家が増え、矯めつ眇めつ眺めてはうっとりしている。緻密で繊細な日本人が、箱庭のような島国に住んで培ってきた美意識が、ようやく年齢、男女、国籍を超えて理解されるようになったのは喜ばしいことだ。 モミジはカエデに比べて弱いが、強い剪定をしてもよく芽吹くので枝作りのしやすい樹だとか。斜幹や模様木、株立ち、石付き、筏吹きなど、いろいろな樹形に仕立てることができる。寄せ植えにしてモミジの林を作るものいい。 モミジの枝は立性で、枝がどうしても立って伸びてくる。そこで横に張るように枝を作るために、次に出る芽の方向を見ながら芽摘みを繰り返し、細やかな枝先に仕立てていく。かなり手間がかかるのでご隠居さんの暇つぶしには持って来いだったのがよく分かる。 場所をとらず金も掛からない(凝ると大変だが)。文句も言わないし、継続して一生関わって行ける。手間を掛ければかけるだけ良いものが出来、計算と計画性と時には英断も必要になる。生きものが相手なだけに油断できない。その性格と癖を見抜いての四季折々の世話は、ものぐさで無頓着な人には無理だが、テキトーでもそこそこ楽しめる懐の深さもある。 精神安定剤的な面もあってストレス解消にもなる。心を通わせて慈しむという感覚になれれば、そんな幸せな事はない。 昨日の朝日新聞「be between」に「孤独は平気ですか?」というアンケート記事が載っていた。 何と何と、「平気」と答えた人が71%もいる。「孤独は平気」と答えた人にいつからそう感じているかも聞いていて、「大学生・20代以前」と答えた人が約6割。親を亡くすなど、若い頃から孤独と向き合ってきた人は少なくないらしい。 「家族があってもなくても、病気と向き合うと孤独を感じる。でも、この孤独感には、自分だけのものでない普遍性というか、ある種の連帯感もある」という声も。「孤独が平気」と言えるのは健康で生活できる金銭があればこそという声もあるし、「孤独」と「孤立」を分けて考えるべきだという意見も多いようだ。 核家族は当たり前になり、未婚も増え、年齢を超えて独り暮らしは日常的なものとなっている。 明治維新以降、欧米礼賛でつき進んできた日本も今、ようやく本来の姿に戻りつつあるように思う。「日本人の本質は欧米人のそれとは全く違うのであって、猿真似をしてもしょうがない。」と思うようになって来たんじゃなかろうか。 スポーツの世界でもコンプレックスを感じる必要が無くなったのも大きいだろうし、価値観が多様化していることもある。 減速経済と不安定な社会情勢の中で、どう生きるかは個々人の価値観に委ねられてきている。タブーがどんどんなくなっている今、他人が何と言おうと自分の価値観で生きていける社会になりつつある。「無理して自分と異なる意見に同調するぐらいなら孤独を選ぶ」(神奈川、69歳男性) こんな状況の中で、今、江戸時代の庶民感覚が見直されているような気がします。とにかく270年ほど戦争が無い期間が続き、様々な文化が醸成されて花ひらいた時代。価値観も多様で、たとえ貧乏でも楽しく暮らしていた。相互扶助精神が当たり前にあり、リサイクルの仕組みもあった。 金が金を産むような異常なこともなく、自然と共に本来の人間的な生活をしていたんじゃないだろうか。 盆栽人気はその一端を見せているように思うのですが、如何でしょうか。
2019.04.21
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♪ あちこちに栴檀草(センダングサ)の実の棘が付きまといいる。国政選挙 世界中が時代を逆行させているような有様で、テクノロジーだけが進歩していくのは考えてもそら恐ろしい。人間の本質はどこにあるかという問には、1000年も前に遡って答えを見つけるしかないかのごとく混沌としている。 人類は、栴檀草(センダングサ)の実に覆われた中に放り込まれているような気分で、21世紀初頭を喘いでいる。「お前もこの中に放り込んでやろうか」と思いたくなる輩ばかりが、国政を担っている現実が恐ろしい。担い手の無くなった畑に蔓延っている。 「コセンダングサ」の種はひっつき虫の代表的な草で、非常に厄介なシロモノだ。冬枯れの草むらにその刺々しい種を付けた茎を広げて、ウッカリ入って来る動物を待ち構えている。 釣り針の返しのような逆向きの棘が放射状に伸びていて、衣服が軽く触っただけでスッと引っ付く。そうなると簡単には取れない。ズボンに付けばチクチクするし、特にセーターの様なふんわりした素材は要注意だ。 大都市集中と過疎、少子化と人口減には目くらましの政策で誤魔化すばかりで、根本的な部分には目をつぶる。課題は山積しそのどこにもいい顔をしようとするには無理が生じる。“無理を通せば道理が引っ込む” 3・11が8年目を迎えた日、サイレンに合わせて一分間の黙祷をした。 復興のシンボルに五輪を据えて、法螺ばっかり吹いているこの国の長。8年経っても復興からは程遠い状態を尻目に、自分のライムライトを強めるために巨費を注ぎこんでいる。小心が故に虚勢を張って平気で厚顔をさらせる状況が続いていて、なお四期目もあるとか言っていることが実に悲しい。なんか文句あるかっ! 雀を追い払って独り占めするヒヨドリ。その周りで、雀は餌にあり付けないのを離れたところで鳴いて眺めているばかり。
2019.03.13
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♪ 無意識に見るが夢なり目標と言わずに夢と呼ぶを信ぜず‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 最近、毎日のように夢を見る。夜中の2時ごろに一度目が覚めて、それから再び寝付いたタイミングで見るらしい。夢を見るというのはレム睡眠中のことなので、その間は熟睡していないことになる。 レム睡眠とノンレム睡眠は約90分周期で規則正しく繰り返され、これが一晩に5、6回繰り返される。しかし、それはあくまでも平均値であって、周期は70〜110分間と個人差がかなり有るらしい。眠りは寝入りばなが最も深く、睡眠の後半になるとノンレム睡眠は浅く短くなり、レム睡眠が増え 夢を見た後にノンレム睡眠に入ると、たいがいの人は夢を見たことだけは覚えているが、内容は殆ど忘れてしまうのが普通の様だ。 夢を見ている時は意識も働いていて、夢の中でいろいろと思考し夢をコントロールしながら見ている。それで、 “この夢は絶対覚えておいて書き起こしてやろう” なんて考えている。しかし、その後に再び寝入ってしまって忘れてしまう。 横尾忠則や栗本薫なんかは、夢を作品したり題材にしたりしているのが不思議で、羨ましくも思う。枕元に夢ノートなんかを置いておいて忘れないようにメモするらしい。これはやはりプロ根性の為せる業だ。 レム睡眠のレムはREM(Rapid Eye Movement)すなわち「急速眼球運動」のことで、寝ている人がレム睡眠に入っている時に目を見ると瞼の裏で眼球が急速に動いているのがよく分かる。熟睡せずに夢を見ているかも知れない時だ。 レム睡眠では、記憶と学習に関わる扁桃体(へんとうたい)や海馬の大脳辺縁系が活動していて、情報の整理、統合が起こり、記憶の定着が起こっていると考えられている。しかし、それは一部の事であって、夢を見ている間はそんなことをしているとはとても思えない。 断片的に覚えている昨夜の夢を書き出してみようとしたが、その内容は今思えば支離滅裂なもので、筋道立ててはとても追えない代物だ。 何でここであの人が出て来る? 何でそうなる? という様なところがたくさんある。夢を見ている時はそれでよかったはずなのに、客観的に見てみればつじつまが合わないのが不思議だ。それは、論理的な思考をつかさどる前頭葉の一部の活動が低下しているかららしい。 また、深いノンレム睡眠時にも夢を見ることが分かっていて、その時の夢はレム睡眠時の夢とは反対に、シンプルで平坦なストーリーが多いと言われているとか。 栗本薫のような小説家ともなれば、普段では考えられない夢の展開や状況が面白いのだろう。実際には無いものを作り出すには持って来いのものが、眠りながらにして手に入るわけだからね。 創作の練習のつもりで短編に纏めてみるのも面白いかも知れない。エッセーや日記とは別物なのだから、不明な部分や辻褄が合わない部分は好きなように創作して補えばいいわけだ。 高齢になって夜中に目が覚めるのは仕方がない事のようだ。基礎代謝の関係からか、眠りのパターンが変わって浅いノンレム睡眠が多くなり、中途覚醒が目立って来るらし。 ここまでハッキリと覚醒が増えるとなると、ロクに寝てない印象を持つのも頷ける。体力を使わなくなれば肉体の休息は必要なくなるわけで、むしろ眠れないのを嘆くこと自体が無意味ということにもなるが、絶対量が減る上に眠れないとなると結構深刻なのかもしれない。
2019.03.03
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♪ 蹴リ上ゲシ相手ハ如何ニ夢ノ中 現に布団の斜(はす)に跳ねおり‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 久し振りの事。昨夜、夢の中で足蹴りして布団を跳ね上げた。 何かの理由で部屋の中に入れられ、危害を加えられそうになり、隙を見て脱出。階段を駆け降りるのを追って来た相手を、下から思い切り蹴り上げた。その瞬間に、足が布団を蹴り上げたことに気づいた。襖をけ破ったことが有りその事がフラッシュバックし、“あっ、またやってしまった” と。その瞬間に目が覚めたわけで、蹴り上げた相手は2mほど跳ね上がったが、落下するところを見ていない。 夢とはいえ身体が反応して実際の行動に出るというのは、あまり穏やかじゃない。脳の誤作動か、夢遊病と一緒の現象なのかどうか知らない。「若いねえ!」とか言われそうだが、普段そんな事考えてもいないので何でかとは思う。 ただ若いころから、何かが有って激しい怒りが湧いても、その後の事を瞬時に判断して自制しまう癖があった。“本当は怒らせると恐いんだぞ” という思いを抱きつつ実際には何もしないというのは、単に臆病なだけかもしれない。そういう思いを抱いていたことが、無意識の残渣として残っていて、夢という脳内リアルに顔を出すのかも知れない。 身近に、「殺してやりたい人がたくさんいる。」と言う人がいて訝しく思っていたが、明確な言語にならない姿で自分の脳内にも潜んでいるのかも。夢のお蔭で、それらを発散させられていると思えば、まあ、受け入れるしかない。 夢占いによれば、『怒り』は、「周囲の人の不満や実力不足をあらわしています。夢主が独りよがりでいることを警告しています。誰かに怒鳴り散らしているのは、夢主の未熟さや自分に対する不満や憤りをあらわします。」とある。私はこういう類のものを信用していません。 また、フロイトの夢判断は、今では非科学的として否定されている。フロイト 「夢が脅威に対して、シミュレーションをしている」という科学者の理論があり、現実世界の脅威に対処するために「不安な夢を多く見ている」という。 夢は、“記憶の整理と、反復することで記憶を確かなものにしている” というのは定説になっています。 また、全く知らない人や場所が、夢に出て来ることはあり得ないという。何らかの形で目にしている(映画やテレビなど)ものが無意識で記憶されているというわけだ。前世が云々という話が出て来たりすると訳が分からなくなる。 また、夢の特徴的なところは、落下しても最後までいかずに ”着地しないで” 必ず終わる。昨夜の夢も、蹴り上げた相手は着地には至らなかったのはそのためか。非現実なこと故、結末はないという事らしい。
2019.02.27
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♪ やま上に見下ろしている大仏の昭和は遠くなりにけるかも‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ N氏が先日(2月8日)に行った聚楽園の大仏。「しあわせ村」と一体になった東海市指定文化財に指定されている公園の中にある。名鉄聚楽園駅から見上げると、森の中から顔を出す大仏。 N氏が他県から引っ越しして来て、電車から初めて見た時は何だか気味の悪い感じがしたと言う。異常に大きい頭部が見えて、その異様な大きさがあのモスラやゴジラの不気味さと重なって見えたらしい。 異様に大きいものに畏怖を感じるのは人間として真っ当な感覚だろうと思う。(地図は拡大します。)後に名古屋駅前ビル群を従えた聚楽園大仏(にゃん福閑人) 名古屋の実業家・山 田才吉が建立し、紆余曲折あって1927年(昭和2年)に昭和天皇のご成婚を記念して開眼供養された。現在はまちのシンボルになっている。絵葉書「上野山大仏殿 全景」(愛知県知多郡聚楽園)当時は最新のレジャーランドで大勢の人が訪れたらしい。 鉄筋コンクリート製で、高さは18.79mあり、鎌倉の大仏(11.5m) 、奈良の大仏(14.98m)より大きい。 2016年4月に初めて「しあわせ村」に行ったときの写真 当時のブログに詳しく書いているので、興味ある方はそちらをご覧ください。 何故こんな大仏のことなんか書き始めたのか、自分でもよく分からない。 昭和が終わって、明治生まれの父親と大正生まれの母親を持ち、戦後に生まれて40までを昭和で過ごし、平成の大半は子育て。そして70歳となった今年、平成も終わろうとしている。 新しい元号となって何年生きるのか。せいぜいあと10年ほどかと思うと何だか切ない。10年なんてあっという間に過ぎるだろう(健康なら)。 明治も大正もはるかに遠くなって、昭和も今や、歴史の一部となりつつある。平成が30年という実感がなく、いつの間にかそんなに経ってしまっていた感じ。平成の30年間は必死だったのだ。今になってそのことを思う。 “サラリーマンを全うしていたらどうだっただろうか” などと思ったりもするが、やはりそれはあり得なかった。しかし思えば、子どもが生まれたのを機に脱サラなんて、あまりにも無謀なことをよくもやったもの。必死で生きて、二人の子供も育て上げた。 不平と不満、不遜と自己顕示、無力感と自己嫌悪、驕慢と偏見。自分と向き合い、一人相撲を取る。自分の中で何度も繰り返されるこれらのものと戦いつつ、一国一城の主はすべてが自己責任。 責任転嫁をする相手は、必然的にカミさんになる。酷い言葉を浴びせて泣かせたことが何度もあるが、本当によく耐えてくれた。今は感謝しかない。 山の上にズンと頭を出し、訪れる人がいてもいなくても、そこに鎮座している大仏。何もしては呉れない。無言のままに街を見下ろしているだけ。 そう、富士山と同じだ。その存在感に憧れていたのかも知れない。そんな存在になれなかった自分を、今、残り少ない時間と照らし合わせている。
2019.02.16
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♪ 遠慮せず臆せず頼り平静は自己を貫く猫とし生きん‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 朝方、ピピが外出から帰って来てわたしの布団の上に乗って来ることがある。カミさんの方に行く時もある。最初、その違いの意味が分からなかった。分け隔てないように気を使って、両方に行くようにしているのかとか。まさか、そんな事はないだろうと観察していたら、大概はカミさんが起きると一緒に階下に下りて行く。どうやら腹が減っていて餌が欲しい時らしい。 そんな日は、夜中にエサを食べに戻ってきて階下で「餌がな―い、腹減ったー」と鳴いている時だ。寒いし、面倒だし、無視していると諦めて、また外に出て行く。明るくなった7時前、寝ながら手を伸ばして撮った。 足元から乗ってきて、そこに留まっていてくれればいいものを、何故か顔の近くまで移動して来る。そこで、前足の爪を立てて揉むようにしながら、おっちらおっちらと上下させる。1分以上やっている。 それからドカッと横になって体を凭れかけるのでこっちは身動きが取れない。背中が密着して暖かいのだろうが、こちらは窮屈だし重たい。寝返りもままならない。強引に寝返りを打つと凭れていたのが解かれて、ピピの体がその位置を占拠することになる。起きる時間だし、身体を起こして半分抜けだしたところでパチリ。 ヤツは何事もなかったように、微動だにしない。これ以上の幸せはない極楽三昧。鼻を塞いでも起きないんじゃないかと思うほどに熟睡している。羽毛ふとんの上に毛布が掛けてあるので、そりゃあ暖かいわな。 餌を食べにカミさんと階下に降りと朝は、ストーブの前に陣取っている。その後、二階に上がって来てくる。布団に風を入れるため設えがされていないと、PCの前の私に訴えて来る。「寒いのに、寝る場所がにゃーい」「何とかしてー」とうるさい。 しかし、炬燵に入ることは滅多にない。細かい毛が密集しているので結構寒さには強いらしく、炬燵は暑すぎるのだろう。ストーブの前に寝ていても時どき外に出ては、火照った体を冷まし、また当たっている。このまま昼ごろまで起きてこない。 甘やかしすぎたなぁー。何でも言いなりだ。カミさんなんか「かーわいーい!」なんて言いながら頬ずりしてるし、餌も欲しがるだけ与えている。「寒くなーい?」と言いながら炬燵布団を捲ったりしているし・・。 猫にはそうしたくなる、そうさせる何かがある。 猫の「ツンデレ」は自己本位の究極の理想形だと思ったりする。人間社会ではさすがにここまで極端では通らないので、その中間を織り交ぜていく。 困った時は遠慮せずに他人に頼る。それ以外は他人に左右されず、自己を失う事無くマイペースで。 猫の人気が高まるのは、そこに理想の世界を見出すから。憧れであり、リスペクトできる身近な師匠なのだ。 27日にはこう詠んだ。「こんな感じで行きましょうよ!」という意味を込めて・・♪ ツンとデレだけじゃ淋しい三つ目の顔を加えてリベラルをゆく
2019.01.29
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♪ ツンとデレだけじゃ淋しい三つ目の顔を加えてリベラルをゆく‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ “周りと同じでなければいけない” という感覚で凝り固まっている日本人って、一体何なんだろう。 自然災害の多い島国で、事あるごとに辛酸をなめて生きて来た中で培われた、同調精神なのかも知れない。火山国ゆえに山岳の占める割合も高く、山と山の間の盆地や川の流れる谷あいの限られた場所に居を構えて生きて来た。平野がないところも多く田畑を維持するのも大変なところへ、台風や地震に見舞われ、日照りや冷害に加えて水飢饉などもある。 都に住む公家や町人とは違って、農村に住む人々は少ない土地と田畑に命を預けて細々と生きて来た。災害が起これば地域が手を取り合って助け合うことで何とか生き延びて来た。そんなところでは、村とい集団の一部となって個人の自由など許されない。少しでも掟を破れば村八分となって困窮するばかり。そんな同調圧力が日本人の体に、DNAの中に組み込まれているのだろうか。 現代になっても、心とは別のところでその因習が顔を出し、出る杭は打たれるべく弾圧をしようとする。異質なものとして排除しようとし、それが正しい事なのだと疑いもせずただ単に無意識の行動として現れるから始末が悪い。 高齢者だけならまだしも、若者らにも染み付いている。家庭、地域、学校など諸々の環境に滲み込んでいるものが、子供が育っていく間に体の中に刷り込まれていくのだろう。 いじめをするのは、殆どが自分を認めてほしいという自己顕示欲から来ている。それは大人も子供も変わらない。強いものに立ち向かうのは骨が折れるので、安易な弱い者をいじめることで優越感に浸る。裏を返せば劣等感の表れでもあるわけだ。 いじめをする子の家庭には問題がある場合が多い。自分を認められていない、居場所がない、家庭不和など何らかの違和を抱え、心の中の得体のしれない齟齬と戦っている。アメリカの研究では、タバコを吸う人の多くは精神的な問題を抱えていると言われている。それと虐めは同根のものなのかも知れない。 同調圧力と虐めがセットになるのも日本独特の特徴なのか。ネットでの炎上を一概には言えないが、虐めと同調圧力とが根底にある事は否めないでしょう。匿名という隠れ蓑を着てはいるが、ハンドルネームでの自己顕示に他ならない。抑圧されている何かから自分を解放する手段として、ネットに書き込んでは憂さを晴らしている。賛同と注目されたい一心で一生懸命なのだ。 こいつらはバカだアホだと言うのは、煙草を吸っている人にバカだアホだと言っているのと同じ事になる。 心に虚ろな穴があるのを自分では気付かずにいる。 それは誰にでもあるものかも知れず、その穴に気付いた時から人は人として生き始めるのかも知れない。
2019.01.27
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♪ 過去にのみ居場所のあるを疑わず時の流れに背を向ける人‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 時間は前から流れて来て、後ろへと過ぎ去っていく。船の舳先に立ってその流れに立ち向かうのが人生だと、私は信じている。 鴨長明の方丈記、「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。・・・」のように、すべては時と共に流れ去っていく。 その流れ去っていった過去に固執するほど無意味なことはない。しかし、その過去に縋って生きている人のいかに多いことか。過去の来し方を褒めてもらうことで、自分の存在意義を見出そうとする。碁会所に通い、碁を差しながら自分は “どこどこの大学を出た” とか “有名企業の部長だった” と自慢しながら、相手と比較しあるいは相手を見下しては満足する。 ゴルフ場やクラブなど様々な社交の場で、日々同じことが繰り返されている。過去の経歴を捨てられず、過ぎ去っていった思い出の中に生きている人々。 この様な人々は “生きた屍” 同然であって、脳は活性化されることなく間違いなく呆け老人になってゆく。 脳の為には、新しいものにチャレンジすることが一番いいわけで、思い出の中に埋没しては脳が死滅し萎縮してゆくばかりだ。 口先でいくら大ぶろしきを広げて見せても、脳の活性化には繋がらない。好奇心と探求心をもって、例え小さな事でもやった事のない事に挑戦していくことが必要。過去なんか披歴して自己満足したところで、周りの誰も喜ばないし魅力を感じることもない。 立派な葬儀をするのは(亡くなった人の供養もさることながら)、残された人々の心を静め、癒すためだ。有名人の「お別れの会」にしてもそれは明確なこと。 「立派な葬儀をしてほしい」と言い残して死んでゆく人は、案外少ない。有るとすれば、残された人たちが肩身の狭い思いをせずに済むための方便に過ぎない。 一線を退いてからもまだ存在を知らしめ、生きて来た証しを認めてほしいという思いは、一体どこから来るのだろうか。過去に未来はない。当たり前の事なのにそこへ焦点が当てられる。歴史に名を残こそうとする足掻きにも見える。 現世の水面から、過去という水中に潜って魚を追い、未来という空中に飛び出してゆくという夢。「川鵜的幻想」とでも名付けましょうか。
2019.01.20
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♪ ジェンダーやセックスまでも均されていよよ消えゆく末世ならんや‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ わが家で孫が、保育園のスモック姿で遊ぶのを見るのは初めて。 制服が個性を隠してしまうのは幼児とて同じらしく、何だか別の子どもの様に感じる。 女の子を育てた経験もないしカミさんもピンクの服なんか着たことがないので、薄いピンクの服がなんだか新鮮に感じるわけだ。 “女の子なんて育てる自信がない” なんて、ずうっと言い続けていたのを思い出す。想像しただけで、“可愛すぎて食べちゃうんじゃないかとか” とか、思春期から成人へ変わりゆく時期に起こる諸々のことを思うと、息苦しくなってくる。彼氏が出来て、娘をかっさらって行くという悲劇を想い、人生論など語れないヤツだったらどうしようとか・・。 成人なりたての、娘と同じぐらいの女性とみだらな関係を持つなどとてもできなかった。そんな自分のクソ真面目な性格が、そのようなアホな幻想を抱かせたのだろう。 女性は、男とは全く違う生き物だと意識した思春期から、そのイメージが抜けるまでには随分の時間が要った。ようやく並列の存在として見られるようになったのはごく最近で、相手側の立場になって物事を考えられるようになってからのことだ。 女性は男にとっては喜ばしい存在であり、娘、おんな、女性、婦人、淑女、女優、スポーツウーマン、夫人などなど、魅力的な異性はこの世にいっぱいる。嬉しい事だしかけがえのない事だと思わずにはいられない。
2019.01.19
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♪ ぬらぬらと浮き沈みして光りおる得体のしれぬものを掴みぬ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 久々にN氏の登場。彼は人の顔を判別するのに長けていると自慢する。とはいうものの、古い映画を観ていて出てくる俳優の若い頃の顔を見て、それが誰だか分かるという程度の事。自慢するほどの事でもない。 彼がそう思うのは、奥さんがまったくその辺の事に疎くて、まったく気付かないでいるので鼻で笑っていたりするからだ。そのくせ洋画を観ているときなど、誰が誰やらわからなくなっているのを見ると、言うほど大したことではないのは明白だ。トム・ハンクス まあそれでも、古い洋画に出ている俳優が誰だかがすぐに分かるのに変わりない。どうやら顔認証というより、個体識別が得意という事なのかも知れない。 歳がいっても若い頃の面影は案外残っているもので、その特徴を瞬時につかんでそれが誰だか分かるわけだ。しかし、その能力が他人よりも長けているかどうかはまた別の問題だ。 彼は、人の顔に対して特別な感情を持っているらしいと思うことがある。人相を意識するというか表情に敏感というか、顔に現れている何かをとても強く意識する。それは無意識のもので、直感で内面を汲みとろうとする習性があるらしい。 サンドイッチ現象と言われるものからくる疎外感と、持って生まれた内向的な面がない交ぜになって、子どもの時から人を見る目が違っていたようなのだ。意思の疎通が下手で自己表現が出来ず、そこからくる批判的な視線に抗いながら相手の心を斟酌する癖がついてしまったらしい。 相手の顔色をうかがい、自分に対してどう思って接しているのかを意識しているうちに、顔の表情と心を読むのが習わしになったのだろう。何を考えているか、どんな人間なのか、表面的な部分からでしか分からないのに、本質的な部分を見抜いてしまう。相手は堪らないだろう。そんな人とは付き合いたくないと思うし、変なヤツだと毛嫌いもするだろう。創成期に透視実験で用いられたゼナー・カード 霊が見える人がいるように、人の本質的なものが見えてしまう人もいるんじゃないか。理屈ではなく直感的なものなので、言葉では説明できない。心は顔に出る。いくら口先でいろいろ言っても、目や顔に出ている。それが分かってしまうというのは、良い事かと問えば、間違いなくNOだろう。そんなもの見えてしまったら、辛いし生きにくい。見えないから平気でいられるわけで、黴菌や病原菌が肉眼で見えたらまともな神経ではいられないのと同じだ。 彼は、そんな風だから人との付き合い方が下手だ。ちょっとした会話でその人の本質が見えた気がしてしまうという。初対面の人でも、会って3分も話をすればその人がどんな人だか分かる、と嘯いていたこともある。そういう風だから組織に属することが苦痛でたまらない。虚飾と見栄、本心を見せずに探り合い、自信がないのに見え隠れする自尊心。自分を見ている様で居たたまれなくなるらしい。 人の裏側を見る癖は欠点であって、何の役にも立たない。離婚しようと悩んでいる人から相談され、その相手の心が手に取るように分かって離婚を決意させたことがある。そんな人生相談のような場面でない限り、百害あって一利なしだ。 そんな彼も高齢者の仲間入りをし、裏側を見るようなことを避ける術を覚えたようだ。欠点は誰にでもあり、完璧な人間なんて存在しないことを心に念じ、相手の良い面だけを見るようにしているらしい。そのお蔭で心が軽くなったとは言っているが、ものの本質をついつい見てしまう癖は抜けないらしい。 自然のあるがままの姿に心を寄せ、大自然の嘘偽りのないものに囲まれながら、つましい余生を送りたいと思っているようだ。
2019.01.12
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♪ 孤を求め 魂(たま)彷徨える悦楽に 入り浸ってる満員電車 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 「iPod」ほど孤独になれる世界はないと言う人がいます。 周りと隔絶した状況を作り出し、自分だけの音の世界に浸っていられるというのは有る意味でとてもいいことなんでしょう。 通勤・通学の鬱陶しい満員電車の中で、そのストレスを少しでも軽減できるというのは幸せなことです。最近は、本を読んでる人よりもケイタイを覗いているか音楽を聴いている人の方が遥かに多い気がします。登校や出勤の前に、脳を緊張から解きほぐしておけるというのは良い事に違いありません。 ウィークデーだけでなくウォーキングやジョギングの間も、車や自転車に乗っている間も聴いているとなると些か気になります。危険だという事の他に、常時、脳の中に音の刺激が与えられつづけている状況は良くないと思うんです。 騒音なんてのは論外ですが、音の無い静かな状況というのも脳は必要としてるんじゃないかと思うんです。脳を休めて、瞑想するような空白の時間が”情緒を養う”のだとしたら、それを無視するわけにはいかないのではないでしょうか。♪ 大衆の中に孤独でありながら耳を塞いでなを孤に浸りをり 生れた時からTVが点いていて、TVに子守りをさせている様な状況が有りました。そんな中では情緒は育たないし、落ち着きのある子供に育つはずがありません。 自閉症、アスペルガー症候群、広汎性発達障害、注意欠陥・多動性障害などはっきりとした原因は特定されていませんが、幼少期の発育段階でなんらかの影響が関わっていることは想像できます。 愛情不足もあるでしょうが過剰情報もあるんじゃないか。常に何かが鳴り続けている環境。いちじくりん(山元加津子)さん撮影 静かな日だまりで雀のさえずりを聴く、「虎落笛(もがりぶえ)」に冬の寒さを想像する、しんしんと降る雪を思う夜、等などイマジネーションの広がっていくような時間を持つこと。 今、益々少なくなっていく自然との対話の中で、その機会を努力して作らないといけない。 無音の中の”何と饒舌なことか”を知ってこそ、音楽の素晴らしさもいっそう理解できるというものです。 溢れるモノに埋没することに慣れ過ぎて、”空っぽ”を恐れる現代人。 絵画の世界に「空間恐怖症」といわれるものがある。空間を恐れるためにどんどん書き加えていって、空間を埋め尽くしてしまう。そんな状況を想像させる昨今です。 脳は、高齢者になるまでずっと成長をし続けます。その過程で脳の置かれる状況と在り方は、非常に重要なのは言うまでもありませんね。 ★虎落笛(もがりぶえ)・・・冬の烈風が柵・竹垣などに吹きつけて、笛のような音を発するのをいう。冬の季語。「日歌」が千首を超えたのを機に「游歌」とタイトルを変えて、2009年2月中旬より再スタートすることにしました。★ 「ジグソーパズル」 自作短歌百選
2010.12.09
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♪ 竹の端(は)を叩けば音の響くらに波紋は君の胸へととどく ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 伝え合う相手がいなくなった時、人は孤独になるという。 世の中から取り残されて、何処からも何の音沙汰もない状態に置かれればそれはさびしい事でしょう。人は存在を無視されること、見捨てられることが一番辛いことです。 人々は伝える相手を求め、日がなパソコンに向かってモノを描き写真を載せてブログ更新に励んでいます。もし、だ~れも訪問してくれなかったら、更新する気力も失せてただ虚しさに底知れぬ孤独を味わうことになる。 コメントを求めて他人のブログに足跡を残しては返信の待ち、自分のところを訪問してくれるのを期待して待っている。 誰かと話がしたい。誰かに思いを聞いて欲しい。また、自分の存在を知ってほしいというのは、万人に共通の思いでしょう。 「人間嫌いの人恋し」。 煩わしい人間関係や価値観の違う相手に自分を知らしめる事の難しさに人間不信、人間嫌いになったとしても、孤独には耐えられないというわけです。 伝えたい相手がいるというのは幸せなことです。伝えたい思いが有ると言う事も幸せなことです。 その思いが強ければ強いほど相手に伝わるエネルギーは強くなります。その思いは波動となり時空を超えて伝わって行きます。 言葉や文字にもある種の波動が有るように、想念にもそれは存在するのだろうと思います。「以心伝心」の言葉のように、思いは必ず伝わります。 悪い思いも、良い思いと同じように伝わってしまいます。 こちらが良いと思っている相手からは良い感情を持たれるし、嫌いと思っている相手からは大概嫌われているものです。 ただ、利害を含んだ想念はそう簡単には行かないようです。 邪念が混じるせいなのか、波動が乱れてすんなりとは伝わってくれません。多分、恋愛感情には「利害と欲」と言う邪念が混じる場合があって、一方通行と言う片思いで終わる事も多いようです。 無欲の心から出ている”思い”は、相手に向かって真っ直ぐに伝わって行くのだと、信じて疑わないのが一番いいのでしょうね。「日歌」が千首を超えたのを機に、「游歌」とタイトルを変えて、2009年2月中旬より再スタートすることにしました。★ 「ジグソーパズル」 自作短歌百選
2010.10.21
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♪ 裏切れば自ずと吾に返り来む鏡の中の影見つめべし ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 生きていく中でどうしても嘘をつかなくてはならないことがあります。自己防衛のためがほとんどですが、それは有る意味仕方がないことですね。 「嘘も方便」。嘘をつく事で上手くゆく事もある。嘘が方便ではなく目的になったっている場合は最悪ですね。そして怖いのは、嘘が嘘を呼び、嘘の上塗りをする事になって収拾がつかなくなること。 小さなウソが発端で、そのウソを隠すためにまたウソをつく。そうしてどんどん袋小路に入って行って、最後には追い詰められることになる。 人を騙すための嘘は最も性質が悪いですが、自分に嘘をつくことはそれ以上に良くないことです。自分を騙し裏切ることは自己否定に繋がります。自己の尊厳を蔑にするものです。 生きるために、自分を抑えて周りに合わせていくことは大切ですが、それで自分が無くなってしまっては意味が有りません。 合わせているつもりが、”朱に交われば赤くなり”知らずにそこの色に染まって行きます。また”類は友を呼び”ますます色濃く染まって行きます。自分を抑えているつもりが、何時しか自分を見失い本当の自分が分からなくなってしまいます。 また、本当の自分を知っていないと、自分を維持する事など出来ません。 自己と向き合い自己を見つめるためには「孤独」になることが必要です。孤独を恐れ、群れてつるんで自己を隠していては、自分と対峙することなど出来ません。 自分を維持するためには敵を作ることありますし、八方美人ではいられなくなります。世の中は相対的に出来ています。 絶対が無い以上どちらに付くかが問題になりますが、「中立」でいることが一番だと思います。身体はどちらかに所属するにしても、心は中立・ニュートラルでいることが重要なのです。そうすることで漸くアイデンティティは保たれるのだと思います。 私の理想は、完全中立自主防衛です。 どこかの国の防衛戦略みたいですが、こうする事でどちらもを公平に見られる。また、こうしていないと自分を維持できないのです。 「結局、誰でも自分しか頼るものはない。腹の中に、千の光輝をもつ太陽をもつことだ。ほかのことはどうでもよいのだ。」パブロ・ピカソ「日歌」が千首を超えたのを機に、「游歌」とタイトルを変えて、2009年2月中旬より再スタートすることにしました。★ 「ジグソーパズル」 自作短歌百選
2010.10.16
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♪ 世を経(ふ)りて角の取れゆく石ころのまろびし先の広き海原 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 初めは角のとがった石ころも、あちらこちらにぶつかって少しずつ角が取れて丸くなっていく。俺が俺がと自我を通しては衝突を繰り返す青春時代。 ひねくれ者に生まれた私は、初対面の人にさえ「あんたは辛辣だねぇ」と言われたことがある。自分に自信が無いのに自我意識だけは人一倍で、虚勢を張ってとんがっていた。 我を通せば壁に当たる。自分の思い通りになんか行かないのが世の中だ。ぶつかっては角が欠け、転がってはすり減って、伸びかけた”なまいき”の芽を摘まれてはまた伸ばす。 流されて、揉まれて擦れて削られて、いつしか角の無くなりぬ。そうして出来た石ころの、それぞれ違う形には流転の日々の影もない。 出生も来歴もまたそれぞれに違う石たち個々人の長い時間の経た先の、丸くて滋味をたたえる穏やかなりし姿には心惹かれるものが有る。 平穏無事が理想でもその現実はままならぬ。ぶつかり転んで叩かれて、蹴られ踏まれて転がりぬ。そうしてまーるくなった故、そこに何とも言えぬ深い魅力のにじみ出る。そんな数多の経験を積んで重ねてきた人は、安心も信用も出来る存在なり。 やりたいことをやりもせずリスクも負わず凡凡と、不平不満を胸にして無い物ねだりの”たら・れば”人生。ただ無闇に年をとり、洞を抱えて浮草の流れ流れて虚無の中。 角が取れずにいい年を晒してツノを振りかざし、とんがるままに青臭く。こんな輩は信用もできないばかりの恥さらし。 自分がどんな人間か未だ定かならざり。苦労をして来たつもりでも、魅力の溢る諸兄には比べものにもならざりし。だまだ角が取れ切れず、とんがり凸凹あばた面見苦しきことはなはだし。 このあと10年、如何に生きどんな人生歩むのか。ああ当分はよたよたと自分探しの旅烏。風に吹かれてころころとまろびて行かむぬかる道。 梵字を描いた丸い石、平らになって海原に星を眺めていたりけり。 理想の姿を夢に見て、最期を迎えるその日まで自分の道をぼちぼちと歩きつづけて行きませう。「日歌」が千首を超えたのを機に、「游歌」とタイトルを変えて、2009年2月中旬より再スタートすることにしました。★ 「ジグソーパズル」 自作短歌百選
2010.10.15
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♪ 均質を望むひ弱な生きものが異質を厭い個を消しゆきぬ ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 若者に蔓延する個性嫌悪症候群とも名付けたい、没個性崇拝の風潮。 皆と同じでない事への不安を抱え、仲間外れになる事への恐れから個を消してゆく。そして、ただ無意味にオタマジャクシの様に寄り添っている 最近の若者は、孤独を恐れ、一人になる事を極端に嫌う傾向があるようだ。そして、友達がいない事が、さも落後者でもあるかのような意識を持っている。 心を通わせるわけでもなく、ただ寄り添っているだけで安心する烏合の衆。似非友情に埋没する事で、やっと存在を確認して生きてる脆弱の新人類だ。 17日の「天声人語」の記事には驚いた。 ある大学で、入学後1週間もしないうちに「友達ができない」と学生が相談にきたそうだ。「努力したがうまくいかない」という。 1週間で友達が出来ると思っているその事が問題だと。 学生たちは友達がいない寂しさより、いない恥ずかしさに耐えられないのだという。「暗いやつ」と見られたくない。 周囲の目が気になって学食で一人で食べられない。あげくにトイレで食べるものもいるらしい。 昨今、「友達がいなさそう」というのが、人への最も手厳しい罵倒ではないかと、作家の津村記久子さんは書いた。 人格の根本部分を、あらゆる否定をほのめかして突くからだという。 携帯電話に何百人も「友達」を登録して、精神安定剤にする学生もいるらしい。 一体、どうしてこんなひ弱な生き物になったのか。 核家族化が進み、人に囲まれる事が少ない環境で育ち、コミニュケーションが苦手なうえに自分を主張する必要のない生活に慣れてしまっている。 それが集団の中へ入って、どう振舞ったらいいのかが分からず、自分を抑えて周りに合わせる事で溶け込もうとする。 それが習い性になって、ますます没個性に落ち込んでいく。 人と違う行動を起こす事で反発を喰らうのを恐れ、そうしている自分にも嫌悪感を持っている。だからいつまでも自信が持てない。 それで、個性を発揮している者に対しての憎悪が生れ、排除しようとする意識が生まれる。 陰湿ないじめの背景にあるものは、自分たちと異質なものへ対するアレルギー反応と言えるのかもしれない。 度が過ぎると、自分自身にも害を及ぼす。 弱いものほど残酷だという。 強くなって、孤(個)と向き合わなくてはならない。 人は本来孤独なものなのだから。「日歌」が千首を超えたのを機に、「游歌」とタイトルを変えて、2009年2月中旬より再スタートすることにしました。★ 「ジグソーパズル」 自作短歌百選
2010.09.19
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♪ 悪球に手を出し揚げ句好球を見逃がす凡夫 刹那刹那の絶対急行 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 「今」は瞬時に過去へ移行しながら、未来へと突き進んでいく。 困難を覚悟で、未来を予測するという必要に迫られながら我々は生きている。 未来が分からなければ先手を打つ事も出来ず、対処療法的処置に明け暮れるという事になる。それは過去へ移行する間の足掻きに過ぎない。 現在と未来の”接点”をどう予測するか、それですべてが決まると言ってもいい。 好球必打が出来るのは、イチロークラスの極わずかな者だけ。それ以外のものは配球を読まなくてはならない。 配球の読みさえ当たればホームランも可能だ。 くそボール球に手を出し、ど真ん中の球を見送る。悉く読みが外れた哀れな結果を多々見せつけられると、それがいかに難しい事かが分かる。 野球に限らずスポーツは人生の縮図のようなもの。同じ強さなら、先を読み切った方が勝ちだ。 物凄いスピ-ドで時間は過ぎ去って行く。 川の流れに例えると、川上から川下の一方向へ流れる川に浮かぶ錨を下ろした舟が、自分のいる現在という場所と例えられる。 時間は勝手に上から下へ移動してゆく。現在を通過して瞬時に過去へと流れ去っていく。 船から落ちたその刹那、現在から過去の領域へと移る。それが死というものか。 未来は透明、何も色が点いていない白紙の状態。 自分の色で染めて、明るい未来にする事が出来るのが最大の喜びでもある。「日歌」が千首を超えたのを機に、「游歌」とタイトルを変えて、2009年2月中旬より再スタートすることにしました。★ 「ジグソーパズル」 自作短歌百選
2010.09.08
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♪晩年の熊谷守一の絵のような静かな静かな島の生活 島に移り住んで第二の人生を送る夫婦が言う。「静かな音を聴く」毎日が楽しいと。 何もない事の豊かさは、何もない処へ身を置いてみないと分からない。 余分なものをそぎ落としたシンプルでストレートな生活。熊谷守一「鬼百合と揚羽蝶」 様々なものが溢れて、なんでも有るのが当たり前の今の生活。 そんな中では便利が身に染み付いていて、少しでも不便な事があると不平が出てくる。 欲望は自ずから欲望を生み、際限なく膨らんでいきます。知らないうちに人の心に増殖して、ガン細胞のように蝕ばんでいく。 新聞もTVも携帯電話もない生活を想像してみるといい。 果たしてその環境に耐えられるか・・・・・。 無人島で生活しなければならないとしましょう。 たった一つだけ好きなものを持って行けるとしたら、貴方は何を持って行きますか? 私だったら「百科事典」ですね。 パソコンと言いたいところですが、電気も何もないところでは使えない。 「百科事典」さえあれば、あらゆる事を知ることができて退屈はしないでしょう。 生活に必要な情報は網羅されているし、森羅万象を体で感じつつ知らない事と対峙しながら、一つづつ調べていくという毎日は楽しいでしょう。 自分という生命体と動植物とが一体となって、同じレベルで生きていくという生活。生きているという実感を毎日、感じていられるのではないでしょうか? 発見と感謝の毎日であることは想像に難くない。
2009.06.24
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♪ 夕照に光る海辺の石たちの来歴を問う明治は遠し 国の未来に命を掛けてきた明治人の気概は、今の日本のどこにもない。一度手に入れてしまうと絶対に手放せなくなる「安定」というポジション。平和が続いてきたことで骨身に沁み込んでいる「安定」と概念。そこから外れる事への恐怖と不安。人を考える場合にどの部分に価値を置くかで存在の意味が違ってくる。生物学的な見地か、あるいは万物の霊長としての見地か。はたまた神を持つ特殊な存在としてか。地上の営みにおいて安定というものが果たしてあるのだろうか。弱肉強食、自然淘汰。生々流転、諸行無常。安定を手に入れたと思っても、次の瞬間には命を脅かされるかも知れない。そんな不条理は人間にとっても例外ではないでしょう。安定期に育った今の若者の悲嘆にくれる様子は、安定以外を知らないゆえの絶望に満ちている。少なくとも団塊の世代以前の日本人は、もう少し世の中に対する心構えが違がっていたように思う。生まれ落ちたその時代によって人間の有り様が違ってくるのは仕方のないこと。しかし、人間は過去の歴史を認識することでそれをカバーできるのが他の動物と違うところでしょう。運命や宿命と言ってしまえばそれまでのもの。しかし、真摯に生きるか不遜に生きるか、傲慢に生きるか謙虚に生きるかを選択できる余地は残されています。どうすれば良いかはだれでも分かっている事なのに、それを個人の意志でやり通すことが案外難しい。初めて経験する人生の毎日毎日が、目先の事で精いっぱいのまま過ぎてゆく。それが限界をもった人間という生き物の正体なのでしょうか。 お願い「日歌」が千首になった記念に「ベスト百」を皆さんに選んで頂いています。貴方もお好きな短歌を選んでくださいませんか?下記の中から、気に入ったものがありましたら投票をお願いします。(何首でも結構です)番号をメールでお送りいただくか、コメント欄に書き込んで下さい。ご協力いただいた方に、「石に描いた梵字+言葉入りハガキ」のお好きなものを「2枚」差し上げます。終了しました。
2009.05.20
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♪ 山にふじ里につつじの咲き乱れ死にゆくことは淋しきことか 死ぬことは悲しいこと辛いことではない、という考えが広まってしまうとどうなるのでしょうか。 実際、死ぬことは「永久の別れ」を意味しますから、そう言う意味では辛いことではあります。しかし、「会うは別れのはじめ」のごとく人生に別れは付きまとうことです。 ひと月ほど前だったでしょうか、朝日新聞の「天声人語」に103歳の母を看取った78歳の女性の話が載っていました。その母親の日記に、感謝の言葉に続いて書いてあったと。 「あの世で長いこと私を持っている、大事な人に電報を打ってあります。待ちかねて迎えに出ていることでしょう。喜びも半分、不慣れで心細さもありますが、待つ人に会える楽しみもあります」 何と清々しい天晴な境地なんでしょ。この年齢だから言えることかも知れませんが、かなり教養のある人とも感じます。 人生色んな事が有って思い通りにはいかないもの、生きている事は凄いことでありそれだけで価値のあること。そう思って生きてきた方のようにも思います。 「死」の中でも自殺は最も罪深いこととされています。与えられた生を自分の手で抹消してしまう事は神への冒涜であると。 もし、「自殺」をそんなに罪深いことではなく淡々と受け入れるような社会だったらどうなるのでしょうか。 自殺する人はもっと増えるのでしょうか、それとも減るのでしょうか。 私は、かえって減るような気がします。 何時でも死ねると思えば、もう少し頑張ってみよう、死ぬのはそれからでもいい、という気になるのではないでしょうか。 死そのものに重い意味がなければ、そこに執着する気も失せるでしょう。 これから先、人口がもっともっと増えてくると死への社会的な捉え方が変わっていくことは想像がつきます。 次元は違うにしても、「出来ちゃった婚」がこうも世の中に認知されて蔓延る社会が来るとは思わなかったように、自殺の概念も変わっていくと思います。 「人類が獲得した最大の美徳」なんて、ね。
2009.04.26
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♪ パノラマは万緑となりて出演のドラマは三分の一が過ぎ ドラマに見とれている内に、一年は、はや三分の一が過ぎようとしています。自分も出演している事さえ忘れ見とれている内にどんどん進んでいく筋書きのないドラマ。先は全く読めずどんな展開になるかは分からない。なのにさも分かっている風に演じるでもなく、ただ流されてゆく・・・。
2009.04.25
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♪ コメントを書き残すことの存外に重きこととて素通りてくる 人さまのブログに訪問しても、コメントというものはなかなか書けないものですね。 書いてくれたら嬉しいと思っているのに、それは結構重いことだと自分でも感じています。 今、自分が考えたり感じているテーマならそうでもないのでしょう。 しかし、少し違った角度の話しだったりすると自分の考えを纏めて文字にするまでに時間がかかります。 その結果、ちょっと面倒臭い感じが心を支配して、ついつい素通りしてしまうんですね。 共感してても反論があって同じことなんです。 文章を書くというのは、短くてもそれなりに頭を使います。 また、いい加減な事は書けないし思ったことは伝わらないと意味がないと、考えれば考えるほど億劫になってくる。 毎日多くの方が訪問して下さっているだけで有難いことだと思っています。感謝!。 その行為の中にあなたの心を感じています。
2009.04.21
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♪ また一人ネットに縁の繋がりぬ 市内の画家より初メールあり 同じ市内には結構色んなアーチストが住んでいるいるらしい。しかし接点のない人は、そのまま知らないで過ぎていってしまう。HPがあるお陰で、そんな見ず知らずの人とも繋がりが生まれたりする。そんなところがネット社会の面白いところ。リンクコーナーにまた一人、同じ市内に住む人物紹介の仲間が増えました。この「お勧めリンク」のページでは、自分と繋がりのある人をメインに、自分が関心を持った色んな人のサイトを紹介しています。ホームページを持っていない人もいて、そんな人を検索してやって来る人もいます。自分のHPが有るにも拘らずこっちへ訪問してくる場合もある。その様なホームページは、アクセスアップのための手順が抜けているのかも知れません。 私は50の手習いでPCを独学で始め、半年後にHPを立ち上げました。が狂いそうな思いをしながら、どうにかタグ付けでHTMLが書けるようになりました。苦労した分、今は簡単に更新が出来るのでアクセスは多い方だと思います。検索にも上位で引っ掛かるようで、そうなればもうヒット率が下がることはないですね。
2009.04.20
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♪ まだ空は数多にありて白い街不況の風の吹きぬけてゆく 白い街・名古屋は今、トヨタの好景気に企業の参入が増えて地価が高騰していたのが嘘のように静かです。お陰で高層ビルの乱立もしばらくは無さそうで、東京・大阪と違ってまだまだ空が街を癒してくれそうです。ビルに切り取られた四角い空は本当の空ではありません。何処までも突き抜けていくような空の広がりは、高層ビルからの眺めを壮快な気分にしてくれます。川の上の空間まで高速道路に奪われた大阪の街は、ちょっと息苦しさを感じてしまいます。Lisa Rienermannさんという方が撮影したのは切り取られたアルファベッド。GIGAZINEより文明とは何なんでしょうか。得るものと失うものとどちらが多いのでしょうか。それは現在を基準に考えている間は永遠に答えがでないのかも知れません。過去を振り返った時に、如何に失ったものが多いかを感じるものなのでしょうか。そうだとしたら、それは悲しく絶望的なことです。
2009.04.19
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♪ 萩の苗のやっと芽吹きて中空に 掴めぬままの魂(たま)彷徨いぬ 昨年の秋、安かったのでちょっと弱っていたのを承知で買って植えた、宮城野萩にやっと新芽が出てきたようだ。暮れに根元近くで切ってしまったのでちゃんと芽が出るかどうか心配していた。随分遅くなったがどうやら新芽らしきものが根元からでてきた。最近、毎朝違った夢を見る。身近な色んな人との関わりがそのまま夢となっているような夢らしくもない夢だ。それだけにあんまりおもしろい展開ともならず、目覚めてからの気分はそう良いものではない。自分が何を望んでいるのか何がしたいのかがハッキリせず、「今の夢は何なんだ?」と首をかしげる事も多い。現実では様々な要素に取り囲まれて本当のものが見えない。そのエッセンスが夢となって出てくるのだろうか。だとしても本当に自分が望んでいることが何なのかはハッキリしないまま。観念的なものではなく、ソウルの部分での本当の自分は何なのかが、朝もやの中のようにぼやけている。
2009.04.17
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♪ 平成は虚ろにありて魂乞いのうつうつとして過ぎ去りにけり 平成も20年が過ぎました。 産業はバブル期からそれ以後も資本主義の名のもとに様々な物質を生み続けてきました。 競争原理で生み出される利便性を追求した商品群は、人々に何をもたらしたのでしょうか。 便利という甘い誘惑に乗せられて、便利さを金で買う事に喜びを見出し、不便を罪悪のように思ってきました。 その結果、物質ばかりが溢れた世の中となりました。 軽い価値観の中で心の充足の無い、時間と金を浪費するだけの生活が当たり前になっています。 今、そんな生き方に疑問を持ち、物質に価値を求める事では心の充足は得られないということを考え直す時が来ています。 便利を手に入れるために、反対に失うものも多いことに気付くべき時です。 人間本来の持っている能力が過剰な利便性の追求の影に隠れて、あるべき姿からどんどん遠ざかっています。 今のままでは絶滅危惧種となるのを待つだけのホモサピエンス。その過程では様々な病気や精神異常、家庭崩壊や人間喪失など社会的問題が頻発するでしょう。 そうならない為にも、不便を楽しむぐらいの心の余裕を持ちたいものです。
2009.03.04
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