全27件 (27件中 1-27件目)
1
名作映画「カサブランカ」の成功は、偶然の要素に恵まれて辛くも成立したもののようだ。はじめてこの映画を通してみたとき、緊張感溢れるキビキビとした進行とは裏腹に謎めいた迷走感がそこかしこにあるのに気づいた。たしかに20世紀映画史上で、最大の完成度を誇る素晴らしい作品なのだが、なぜか尋常一様ではない。酸いも甘いもかみわけた男リックは「生涯ただ一度愛した女性」ルイザとはからずも再会します。第二次世界大戦下の犯罪都市モロッコでのことでした。しかも恋敵に伴われて。その恋敵はファシズムと戦う英雄であり、リックとは異なる勇気の持ち主でした。彼は賄賂と女性が大好きな警察所長、偽パスポートの売人、流れ流れてきた女性歌手、その歌手にぞっこんのバーテン、いかがわしく雑駁な人々に失った自由と尊厳を目覚めさせていきます。これらの人々を加えて愛憎劇が繰り広げられ、リックとルイザも以前運命によって断ち切られた恋を燃え上がらせていきます。しかし限られた脱出の機会を捉えて、リックは彼女達を出国させ、自らはルイザとの愛の思い出に生きることを決意します。その別れの美しさ、リックの男気に映画ファンは涙したものです。バーグマンの潤んだ瞳、ボギーのぶっきらぼうなやさしさ渋さ、警察所長との友情などなど、見せ場山場は今や映画の金字塔になりました。何年経っても色褪せないこの作品は私たちのハートを捉えて離しません。そしてこの映画の虜になることの、なんと心地よいことよ! 映画ファンを魅了し続けて, 2004/1/24 By sato (埼玉県草加市) - 埼玉のsatoさんのような熱烈な「カサブランカ」ファンを輩出するこの映画は、ほとんど作品世界にカルト的傾斜を生じさせているほどの匂いたつ存在感がある。これは認めざるを得ないのだが、しかし不思議な映画だ。主人公リックとかつての恋人ルイザは、「状況」に翻弄されているとはいえ相互にたがいへの愛情よりも反ファシズム闘争に関与する思想の同志であるかのように設定されている。本来ならば思想的同志ならではの親密さから恋愛に発展する筋あいのものが、たまたま恋に落ちた二人の男女が、実はそれぞれ密かに反ファシズムの闘士だったというわけなのだ。スペイン市民戦争から第二次世界大戦に続く「大状況」が存在することは、ともかくもその状況とは別にこの二人の恋人たちにはもうひとつの「小状況」が特異にからんでいるのである。映画「カサブランカ」の神秘的なまでの成功は、このカップルのなりたち難い重層的な抑圧的な時代にもかかわらず、耽美的な恋愛感情を描こうとすればこうなるはずだという不可避さが示現している点ではないだろうか。それは悲恋には違いないのだが、その「不可避さ」のリアリティが、この映画の作品世界の魅力の最大のものだろう。このリアリティの示現は、実のところギャンブルのようなものだったらしい。ルイザ演じる女優イングリッド・バーグマンの「自伝」によれば、映画制作の現場は混乱を極め映画制作者、監督、脚本家らはハンフリーボガードの演技方針を混乱させるほど、連日連夜大喧嘩だったらしい。つまりシナリオは存在しているようであって、存在してはいなかった。書き換えと修正の連続。つまりは支離滅裂な流れに、結果として示現したもののようだ。
2008年07月28日
コメント(2)

映画「カサブランカ」の話題は、このブログで過去に何度かとりあげた。郷ひろみの歌う「哀愁のカサブランカ」で、<セピア色した映画>と呼ばれているそれにあたるのではないだろうか。I fell in love with you watching Casablanca Back row of the drive in show in the flickering light Popcorn and cokes beneath the stars became champagne and caviar Making love on a long hot summers night I thought you fell in love with me watching Casablance Holding hands 'neath the paddle fans in Rick's Candle lit cafe Hiding in the shadows from the spies. Moroccan moonlight in your eyes Making magic at the movies in my old chevrolet Oh! A kiss is still a kiss in Casablanca But a kiss is not a kiss without your sigh Please come back to me in Casablanca I love you more and more each day as time goes by I guess there're many broken hearts in Casablanca You know I've never really been there. so, I don't know I guess our love story will never be seen on the big wide silver screen But it hurt just as bad when I had to watch you go Oh! A kiss is still a kiss in Casablanca But a kiss is not a kiss without your sigh Please come back to me in Casablanca I love you more and more each day as time goes by Oh! A kiss is still a kiss in Casablanca But a kiss is not a kiss without your sigh Please come back to me in Casablanca I love you more and more each day as time goes by I love you more and more each day as time goes by郷ひろみの歌よりも、元歌の作曲家 バーティヒギンズの歌詞は名作映画への敬意が深いのか映画に伴って知られたフレーズが散りばめられている。それでも、この映画が単なる恋愛映画だと思ってしまう人が圧倒的に多いだろう。映画の主人公、ハンフリーボガート扮するリックは戦乱のパリにあって美しい女性と不本意な離別をするのだが、その女性が実は反ナチスの活動家と同伴してアフリカはモロッコで彼の経営するサパークラブに姿をあらわすという不思議な話だ。地下活動中のレジスタンスの闘士が、なぜ彼の下に恋仇同伴であらわれるのか、というところがシナリオの妙である。リックは、すでにスペイン市民戦争で反政府組織に武器を供与するかたちの支援で奔走した過去のある人物とされている。映画でカサブランカにいる現地警察署長が、リックの履歴を掌握しているとされていた。これは面白い状況設定で、ただの実業家ではなく<意外にセンチメントな男>なのだと警察署長の言及がある。当時のスペイン動乱をどのようにみるのかは、以後の現代史を貫徹する大問題だ。いまなおそれは指摘されている。「国家主義」的な独裁政権下に、「社会主義」の総本山とされていた スターリンの党派が叛乱を抑圧する動きにでるし、「国家社会主義」の陣営では台風の眼と目されるヒットラー率いるナチスドイツもスペイン市民戦争の封殺には爆撃を辞さないという派手な介入を行う。ピカソ描く「ゲルニカ」の作画の背景には、この状況がある。強圧的な「国家主義」「社会主義」、「国家社会主義」のすべてに抗して闘った時代の精神。それはこの映画「カサブランカ」の主人公リックとかつての愛人たちの日常だったのだ。この映画の哀しい別れの意味が、歌謡曲の目線だけではけして理解できはしない。
2008年07月27日
コメント(0)
「個人の自由」が、実のところ権力ないしは国家の安定と無縁に存在することはありえないと橋爪は指摘する。これは昨今、珍しくない意見だが戦後生まれの自分たちには狡猾に隠されて遠ざけられていた思念である。戦後憲法を、まるごと信奉する人たちは日本国憲法に謳われた箇条が、人類固有の普遍性に立脚したものだなどと夜郎自大に述べ続けた。われわれはその教職者たちの都合のよい妄想のような教壇からの洗脳に無邪気に反応していた時代がある。いまだに、その「幻想」に染まっている人たちも多い。国家が法律を毅然として執行する強権的な実行力、それが結果として我々個々人に「個人の自由」が存在するかのように仮象しているのである。ところが、この仮象に過ぎない「個人の自由」が戦後肥大した巨大なサブカルチャーとしてあたかも反権力の根拠のように機能している。そこにスターリニズムやら反スターリニズムなどと標榜しつつも、ようするに共産主義の謀略的隊伍が潜り込んだ。吉本隆明は、それらの隊伍の中で極めて不思議な挙動を示していたと思われる。つまりその隊伍の中にありながら、個人の自由と可能性についての根拠を示そうとした。それは不思議な、不思議な努力だったと思われる。その不思議さは80年代に刊行された「反核異論」という著作で極大化したように印象する。80年代後半、ソビエト連邦で勃発したチェルノブイリ原子力発電所における核暴走事故が日本にも全国的な反原発運動を引き起こす。その個々の参加者の大多数は、一部は党派を担ってのものであったとしても、現実には高度資本主義社会のヒラの市民たちだった。巨大エネルギープラントににわかにおこった大災害に際して、国家と党派のあいだの垣根は相対的に小さくみえた。吉本隆明の不思議な努力は、一気に滑稽に見え始めた。そんな気がする。
2008年07月26日
コメント(0)
橋爪教授の論では、やはり吉本隆明という人は「良心的な共産主義者」のカテゴリーにある存在なのだと改めて思った。橋爪大三郎が、共産主義者であるかどうかは別にして彼が吉本隆明から学んだものはその前提に「良心的な共産主義者」という存在感が担保されていたのだということは自分にとっては確認しておかねばならない事だと思う。自分は、いわば実存主義者であって、事実あの陣営の人たちからは「軽侮の感情」を込めて座談の席などで「きみのような実存主義者は・・・」と言われたことが何度かある。こちらにすれば、これは名誉な勲章のような気分なのだが・・・「国家社会主義」の隆盛を時代背景に、「良心的な共産主義者」を目指すという動機がいまや完全に風化しているとは思うのだが、必然的にこれを補助線として彼らの思想を読み解きしようという私の動機を理解してもらうことは、おそらく楽天ブログの読者大多数にはなんらの意味を生じないだろうと確信する。だが、これが意味を生じるような可能性がいまの時代にあると自分の嗅覚が動くわけなのだ。だから執拗に、このテーマを追っている。
2008年07月25日
コメント(0)
自分の交遊に、楽天ブログはけっこう大切な位置づけになってきている。にもかかわらず、このブログのPM(直メール)機能はいまいち快適ではない。新着メールがあるにもかかわらず、折り込まれたままだと気づかないのだ。リンクをいただいた方の、事前連絡もさっき 読んだ。みなさま どうも失礼ばかり致しております。楽天ブログのリンク先の方は、寛容な人ばかりで甘えてしまって・・・
2008年07月24日
コメント(0)
ヤフーチャットでは、パソコンをさすがに保持こそしてはいても相対的に低所得者層の生活実感が読み解きできる。彼らの将来不安についての憂鬱ぶりは、相当なものだ。平素はバカバカしい冗談や、猥談を繰り返している連中であるけれど、突然景況についての話題に転じたり、金融収縮の厳しさについて意見交換になったりする。大抵は、彼らの内部でも知られた消息通が見通しや将来予想を述べるなどして熱心な意見交換を行う者と、それを傍観するギャラリーとにわかれる。だが無関心とはまるで違う。求職中であるものや、ひきこもり状態にある連中ですら今後の経済の動き次第では尋常ならざる変化が来るという予感が共有されているようだ。8月を過ぎ、北京オリンピックが終わる前後から世界的な同時株安が演出されるだろうという見通しが流れている。各国の財政当局者がいくら協調して演出しようともこの地合の悪さは悲惨なものだ。どだいウソで塗り固めたような市場の様相は、早晩地金がはがれることだろう。
2008年07月23日
コメント(3)
橋爪大三郎東京工業大学教授は、吉本隆明を取り上げて「国家社会主義」の時代の思想として描き出した。「国家主義」の思想と「社会主義」の思想が対峙しているわけではなく、むしろ野合して「国家社会主義」を形成する世界的な流れの中で、その時代に際して反権力の倫理的な根拠として個人の可能性と役割を踏査した、それが吉本隆明の思想だというわけである。しかし、自分自身の記憶を手繰り寄せても吉本隆明は共産主義者の新興勢力であった往時の共産主義舎同盟(安保反対闘争時代のブント)という、れっきとしたセクトの同伴者、ないしは活動家だった。党派が相対的に小さく、雑派であるということはこの際には問題ではないだろう。ほんとうに正しく個人を極めていたとするのならば、党派的な活動、さらにいえば共産主義者であることに辿りついたのだろうかという素朴な疑問がある。子供時代、共産主義者という存在は日本共産党であれその他周辺の雑派であれ基本的には「陰謀団」「陰謀団員」という教えられかたをした。すでに世間的にはいらざる波風を立てるものという認識が存在していたものなのである。その時代に、あえて反帝国主義と反スターリニズムという「新意匠」で学生層に絶大な支持を受けたというのが吉本隆明の今日に至る金看板なのである。だが、その学生層とやらに、ほんとうに普遍性があるのか否か。橋爪教授の著述だけからは窺いしるべくもない。
2008年07月22日
コメント(0)
ほぼ3ヶ月ほど、ヤフーメッセンジャーでチャット定在者の面々を観察してきた。彼らの特徴は、付和雷同。大勢集まっているところに、一斉に流れる。漢字ログが嫌い。大きい声で発言する者(声、ボイスともに)に依存する。無職、またはひきこもり、乃至は求職者が当然多く、長時間自宅にいる連中がその中心となっている。その顔ぶれは、種々雑多だが概して鬱屈しているため、奇矯な発言が多い。常態的に笑いがとれる人が、敬意を払われているがその目線には社会性が希薄でテレビニュースすら見ていないふしがある。想像以上に、その輪郭がみえてきた。パソコンを使用しているが、孤独で相互依存的な彼らがネットで世論形成など到底おぼつかない。典型的な「無告の民」という印象が涌いた。仕事でバリバリと活躍している連中は、目的が明快なので彼らとは絡まずに小規模で閉鎖した空間で時間限定で遊んで解散する。グループとして疎通がない。インターネット上のアクセスと言われるものは、こういう層が反応するようなテーマを投じればいくらでもあがるのだろう。だが、そこに積極的な意味があるとは思えない。吉本隆明の述べる「大衆の原像」などというものが、いかにつかみ処のない仮想のものだったかと改めて思う。彼らに共通するものは、家庭や地域に居場所がないという状況だろう。
2008年07月21日
コメント(0)
橋爪大三郎教授(東京工業大学)は、吉本隆明を恩師と述べるほどなのでその思想遍歴についての踏査は徹底している。そうとりあえずは、思えるのである。自分自身が読みこんだ手感触に、橋爪の「腑分け」は大きな違和感がない。まずこれが素晴らしい。むしろ深く踏み込んで多くの知見が漏られている。普通、新書本でこれだけの収穫があれば十分すぎる。極東ブログで「駄本」と一蹴されなければならない理由はないと思う。ただ、吉本隆明と橋爪大三郎両名の歴史的な役割が際立っているがゆえに彼らの限界も自ずと明瞭になる。そいうことだろう。それはそれで立派な仕事だ。俗っぽい矜持で、駄本だと決め付けるのはお利口さんのクセにすぎない。次回は、その限界について自分なりに述べてみたい。限界を眺めることは、自分のポジションを読むことでもある。吉本隆明の思想の起点を、思想形成時点における状況に「国家主義」と「社会主義」の野合とみる橋爪大三郎の示唆はたいへん興味深い。野合なのか。ほんとうに野合だったのだろうか。
2008年07月20日
コメント(0)
極東ブログというのを読むと、この橋爪大二郎の「永遠の吉本隆明」を取り上げていて、駄本だと決めつけている。駄本という意味が、少しわかりにくい。極東ブログといわれているものは、いわゆるアルファブロガーと呼ばれている、あの一連のウェブプロパガンダに指名された連中のひとりだ。ネット上の世論形成の目的で、あらかじめ品質チェックされている人物なのだろう。どうやら橋爪大二郎についても、吉本隆明についても批判的な立場のようだが何を言っているのかは良くわからない。橋爪大二郎の「永遠の吉本隆明」は洋泉社から出ていて新書本形式になっている。すくなくとも いわゆる吉本解説本の中では高い水準で吉本隆明の著述を解説しているとものだと私は受け止めている。橋爪大二郎の解説が懇切丁寧で平易な表現を用いているから、軽侮されていいとは思わない。橋爪は、実に折り目ただしく吉本隆明を読んできているし、解説書としては今日入手できるものでは最高のもののひとつだろうと思う。極東ブログが、同書を駄本だと述べている理由は橋爪が口述筆記させてつくられた安手な図書だという思い込みに端を発しているようだ。緻密な論考があるわけではないといいたいようだ。しかし口述なればこそ、橋爪の吉本隆明に対する同伴歴が如実に姿をあらわしているわけである。同書は、おすすめできる。・・・だが、誰も読みはしないのだろう。
2008年07月19日
コメント(0)
![]()
図書館から借りてきた。いわゆる吉本隆明本と言われる一連のそれだ。持ち帰り眺めていても読もうという意欲がわかない。かつて彼に影響を受けた人たちが多いということだけは分かる。ただ、彼の発言とその影響力がいまも維持されているとは到底言い難い状態にあると思う。往時は、彼の発言は時代の青年になんらかの強いインパクトがあると考えられてきた。しかし、彼を絶賛して持ち上げる人士もいる一方で80年代からの吉本隆明に「迷走」の印象を抱くのは避け難いと思う。彼は、思想家だとされている。橋爪大三郎は、師として吉本隆明を遇するかのように「戦後思想の巨人」だと彼の近著で持ち上げている。これは油断してはならない。橋爪は、持ち上げておいて腑分けを行い、吉本を解体するという役務を執り、その準備を宣言しているようなものだからである。彼、橋爪は「戦後思想」そのものをまな板にあげるつもりなのだろう。だが、まな板の上に吉本隆明では・・・なにやら侘しい気がしてしまう。吉本隆明のさまざまな言説の中で、もっとも核心の位置にあると思われるのが「関係」というヘーゲル語彙を駆使した論及だろう。彼の幻想国家論も、その基礎の上に展開したものだとされている。橋爪は、国家社会主義の時代を青春期で生きた人間、特有の動機を吉本隆明に見出す。「国家主義」と反対極にあると思われる「社会主義」が、端緒に対立しながら融合を果たして「国家社会主義」を形成するに際して時代の流れに抗して反権力を志すことの困難さを痛感させられる。これは戦後においても例外はないと思う。国家主義陣営も、社会主義陣営も強力な官僚機構を目指して融合を遂げてしまう以上、反権力という立場は一切の個人にとっては「自己無力化」を意味する。そんなことを試みたバカは少ないと思うが、具体的には私自身がその「個人」を理念とするしかない状況に陥った経験をくりかえし味わっている。吉本は、ヘーゲルから「関係」をひっぱってきているが具体的には「国家社会主義」に包囲された状況を暗示していると考えてよい。そう橋爪は語っているように思う。なんの話なのかと思っている人たちも多いかもしれないが、これは今の日本の恐慌同然に追いやられている時代状況にも重なりあう極めて今日的な課題解決の方法論として忌避できない重要度の高いテーマだと私は思う。つまりは古びてはいない。さりとて、吉本隆明が解決策を暗示しえたか、といえばそれはそうではない。つまり彼が橋爪のいう「戦後思想の巨人」でありつづける間は、われわれは経済の奔流に巻き込まれて迷走し続けなければならないのだと言い換えても良いだろう。
2008年07月18日
コメント(0)
【ワシントン=渡辺浩生】米証券取引委員会は15日、金融株を対象にした空売り規制を一時的に強化する緊急命令を発表した。米政府系住宅金融2社や大手金融機関の株価急落が続いており、SECは規制強化で相場操縦や不当な取引の監視を強め、パニック売りなど市場の混乱を防ぐ。 30日間の暫定措置で、対象は連邦住宅抵当金庫(ファニーメイ)と連邦住宅貸し付け抵当公社(フレディマック)のほか、シティグループ、メリルリンチ、リーマン・ブラザーズなど大手金融19銘柄。ニューヨーク証券取引所に上場するみずほフィナンシャル・グループも含まれている。 空売りは、保有しない株式について株券を借りるなどして売りつける手法で相場下落局面で利益を得る。今回は、株券を借りずに行う「裸の空売り」で、今後は株券の受け渡しが必要となる。SECのコック委員長は、この種の空売りが株価操縦やパニック売りにつながり「金融機関の安定性に重大な脅威となる」と指摘。上場株式全体を強化することも検討する。世界的な株価暴落の流れで、連日株価が急降下してきたことは皆さんご存知のとうり。しかし、さまざまなブログで騰がる下がるとうるさい中で自分はこの「なんでもあり」な状況を嘆息してきた。人為的作為にしても、無理無体の連続というものだろう。FRB連邦制度準備委員会の機能強化するなどという歴史的な反動をおこない世界のインフレリスクを撒き散らしてまで景気をインチキでささえようという意思が、今回暴落局面でヘッジファンドのワザを封殺する挙にでた。そこへもってきて原油価格が、突然のように下落しあっというまに10ドルも下がっている。おそらく世界の株価が一時期急騰することだろう。しかし、この黒魔術はほどなくうせる。8月の暑い季節をはさんで、ふたたび恐ろしい規模での暴落がくる。そんな気がしてならない・・・
2008年07月17日
コメント(0)
父親が、滅多に本を読まない人だった。幼児期から、本を読むという習慣を与えられなかったからだと思う。実家が、長男に読書するような「悪しき習慣」を間違っても与えるべきではないと、慎重に書物を取り上げたからだろうか。そういう事ではなく、陸軍の軍馬生産農家にあっては、とてもではないが周囲に無縁で私物として図書を持つことは不可能だったようだ。教養的な図書を読んでいるような状況にある人間が屋敷内に誰一人としていなかったのだろう。子供時代に、なんどか父親の実家に出向いてみても屋敷の棚という棚にただの一冊のまともな書籍もおいてなかった。読み書きソロバンなどといっても、伝票や帳票や資料だけで、雑誌一冊もみあたらない。せいぜい「家の光」と婦人雑誌だった。戦前は、そうとう大勢の人たちが出入りしていた屋敷だったらしいが例外なく読書人はいなかった。というよりも、本を読むような時間はけして与えられるような家風ではなかったのだろう。だから自分が小遣いでクロガネのスチール書架を購入したときには、父親は心底驚いたようだった。怒ったわけでもなく、買うことを止めたわけでもなく、せいぜい嫌味を言っていた程度なのだが、たぶん単純に驚いていたのだろう。本というのは、読み捨て。雑誌を買っているところも目撃したことがない父親が、自分の家で息子の自分が本棚を買うとは、夢にも想像していなかった事態だったのだろう。といっても、自分もたいした本を持っていたわけではなくバラバラにおいてあるのが不便なので整理の都合で書架を買っただけである。当時は、学校の図書館にある本を読むのに夢中で自分で本を買うということに興味も意欲もなかった。だから、二十代や三十代になって派手に本を買ったものは、たいはん実家においてきて現状では自分の周囲には本らしい本はない。ながい時間のあいだに、わが家は変わったものだと思う。しかし本を買うという習慣は、ほぼ皆無に近いようで義理で購入する以外、楽しみで本を買うことは他界するまで父親にはなかった。母親は、ひたすら棚にある息子が購入した本を読んでいるらしい。理由は、本を買うということが許し難いほどの贅沢、無駄づかいだという感覚があるからだと思う。滋賀にかぎらず、生産県にはこいうオヤジやおふくろのようなパーソナリティは多かったに違いない。楽天ブログにやってきて、本を書くとか売るとかをテーマにしている人たちが多いのに驚いた。つくづく本というものは、特殊きわまりない商品だと思う次第だ。
2008年07月14日
コメント(0)
まず、温暖化の程度は東北大の先生の推定とたいして変わらない、摂氏で0.74 ± 0.18度と出ていますね。但し、1979年以降の上昇率はそれ以前よりもかなり高めになってます。原因の方は、温室効果の影響が一番大きいというのが主流のようですが。もちろんそれに反対する科学者も大勢いることは確かなことで、どちらが正しいか、というのは我々素人には判断できません。どちらに組するか、もう少し詳細な検討が必要なのでは?僕の読んだ限りでは cozycoachさん (2008/07/13 03:45:29 PM)「われわれ素人に判断できない」という理由は、実のところ簡単だと思う。情報が公開されていなかったり、情報がおさえられていたり、情報の流布を手控えられていたり、ようするに情報を操作されているからである。我々は、ひろく言論について関与したり、異論を述べたり、「詳細な検討」を提起したり、検討に参加したりすることがあらかじめ不可能なかたちで、「温室効果ガス」仮説を強要され続けている。このようなプロセスの全体が、科学の名に値しないということなのである。過剰な抑圧の存在する社会では、科学は成立しないと言いかえても良いと思う。巨大な科学的文明が、非科学的な動機で推進されることはありえるのである。
2008年07月13日
コメント(0)
わざわざ夜にヤフーメッセンジャーを使ってチャットルームをみている理由は、インターネット利用者の素顔を感じ取りたいと思ったからだ。ネット常在組を近接して眺めていて、ようやく今の状況が見えてきたような気がする。ネット上で、チャット部屋に朝から夜までいる連中は一種の「ひきこもり」である。彼らは、結果として外で勤務できない事態にあり、安い遊びとして孤独感をまぎらすためにチャット質にやってくる。いつもトグロを巻いているので、コアなかれらを中心に井戸端会議が果てしなく続くのである。夜は、勤務から帰ってきた連中が加わるのだが相互に浸透することはない。勤務者らは、ストレスの多い職場の人が多い。無職でひきこもりしている連中とは、最終的には話題や、関心事が交差しにくい。だが、唯一世代観やふりかえった過去の話題ならば疎通する面もある。だから、延々懐メロのカラオケが続く。ギターで弾き語りをする一群のひとたちがいる。彼らは擬似的な「近隣住民」を演じて、カタルシスを求めている。冷静に眺めていて、きわめて安くあがる遊びだ。将来の老人施設の社交を先取りしているように思う。
2008年07月12日
コメント(0)
NHKを筆頭に地球温暖化の主因を「温室効果ガス」だとする大嘘の垂れ流しは、いまに始まったことではないにせよ、80年代あたりには遠慮がちな気配が存在した。昨今は、これみよがしに、おそれいったかとでも言うかのようにかさにかかって温室効果ガス削減を騒がしく述べ立てている。すでに、自分の側では「温室効果ガス仮説」の謀略的な性格は既知のものだ。↑リンクかけています。ほんとうに二酸化炭層は、百害あって利のないものなのだろうか?二酸化炭素が増えれば植物にとって非常に育ちやすい環境になる。小学生時代に習った。今のような気温上昇の幅で人類に とって破滅的状況をもたらすのならば、とっくの昔に人類は絶滅している。先ごろ紹介した動画にも、語られているとうりだ。都市部のビル屋上緑化には炭酸ガスの増加は、貢献することだろう。なにせ大気を構成するガスの中で、二酸化炭素は、わずか0.054%なのである。NHKをはじめ報道機関の職員どもは、どいつもこいつもアホばかりだといわざるをえない最近のことだが東北大学某名誉教授がこの100年間の気温上昇を0.64度だと発表したという。驚くほかはない。東京で国土交通省が怠慢なために高層ビルが地域を覆い排熱がこもって高温化したような事例は、人為での失策だと思うが、マクロに大気圏を眺めれば地球温暖化は、冷静に考えてその程度なのである。繰り返し私は、述べてきたが「温室効果ガス仮説」などという謀略的なデマが横行する理由は、過剰なまでの排熱垂れ流しの中国やインドなどを庇いたてながら、炭酸ガス排出利権化を目指す一部産業資本との国際的謀略にある。これが根底にあるのだ。NHKは、80年代からハリケーンの映像や竜巻の映像を流しまくってあたかも環境リスクが増える一方であるかのような印象操作を繰り返してきた。その証拠のVHSを私は、当時から手元に持っている。海面上昇で銀座が沈んでしまうという噴飯ものの映像を提供したメンバーもテロップに流れている。この連中は、自分らが他界したあとにやってくる洪水を歓迎しているようなものだ。我々の後に大洪水あれ。 Apres nous le deluge 後は野となれ山となれ。なおle deluge(大洪水)とはノアの洪水のことをさす。 我の後に大洪水あれ Apres moi le delugeともいい、これは、1757年フランスがハプスブルクと組んでプロイセンのフリードリヒ大王と戦い敗れたとき、ルイ15世またはルイ15世の愛人ポンパドゥール夫人が相手に言ったとされる。 デタラメを垂れ流す報道機関の編成担当者らは、世が世ならば皇居前広場あたりでギロチンにかけられても不思議ではない。歴史はそのような教訓を放っている。
2008年07月11日
コメント(5)
松本零士 と、槇原敬之が対立している。年長の松本が、槇原敬之を訴えている。盗作問題というのだが、実害があったというよりも意地がからんでいるようだ。ちょっと庶民感覚では理解できない。また対立点を是々非々してゆくと、素人考えが理解できるようなものではなさそうだ。法解釈というものは、印象批評になじまない込み入った背景を招き寄せるからだ。法廷での槇原敬之の主張は、結局知らなかった。知る機会がなかった。知っていても意図して松本作品から盗む明らかな犯意があったわけではないというようなものだ。事実がどういうところにあるのかは、分からないが法廷での裁判沙汰になるというのは松本霊士が、圧倒的な論拠と庇護されるべき法的な有資格があると思い込み判断を仰ぐという手段にでてものだと思う。槇原敬之も当初は、敬意を表して松本に対して謝罪の電話をいれていたらしい。その謝罪の電話以後こじれているもののようだ。なんだかばかばかしい。いや対立点が、ばかばかしいというわけではない。たぶん世代的な感覚の違いが、言葉のやりとりで増幅したのではないかという印象がある。相互に主張や言い分があるのは当然として、相手に理解を求めようとして結果的に相互に横たわる感覚的な差異が著しく大きいと次第にわかってくる。これは自分自身も日常体験しているところだ。われわれの生きている社会では、この個々人の感覚が相互に対話を行いながら相違を乗り越えて新しい結論に導かれてゆくというような「高度」な文化民度のかもし出される余地は皆無のようだ。松本零士も、ただの債権債務問題に堕してしまうのを承知で法廷に訴状を持ち込んでしまう以外にすべが無かったのだろうか。松本零士も槇原敬之も、見事に時間と夢を裏切っているではないか。■ 松本零士 「銀河鉄道999」 エターナル編第1話 (1996年初出) ほか → 「時間は夢を裏切らない 夢も時間を (決して) 裏切ってはならない」 ■ ケミストリー 「約束の場所」 (作詞・作曲/槇原敬之) (2006年) → 「夢は時間を裏切らない 時間も夢を決して裏切らない」 → 「未来は夢を裏切らない」 (CD帯)
2008年07月10日
コメント(0)
大分の教育委員会の就職斡旋汚職について。いまごろ何を言っているのか、って思う。教職員の採用について教育委員会が贈賄 収賄を行っているのは、「この国」では常識レベルだ。教職員の水準がみるみる低下して、育てられている子供たちにも大きな影響がでている。みな知っていることではないか。兵庫県で祖父の死去に際して、葬儀に出席する子供に「祖父は肉親から遠いから忌引きにならないので皆勤賞はなくなる」と言った担任がいたらしい。朝から晩まで部活だとか称して子供たちを寄せ集めて家族から子供たちを取り上げる頑迷な教師たち。なんのことはない地域のコンクールで大量受賞しようという自分たちの功績を演出したいだけの動機がみえみえだった。こういう反社会的な教諭たちが、反社会的な方法で教員採用されてきた歴史を軽く半世紀以上眺めてきた。自分の中学時代の同級生は、自分よりもずっと日本史の成績が悪かった。にもかかわらず奈良の教育委員会に伯父がいるとのことで奈良の中学校で歴史教師になった。その一方で、国立教育大学を卒業しても、教員に採用されないという実例がゴロゴロあった。70年代の話である。「この国」の国民も、それを知っていて沈黙してきた。何かの変化の兆しか。とは言えなるようにしかならない。そう思う次第だ。
2008年07月09日
コメント(0)
もともと早起きな人間だったが、ここのところますます早起きになっている。ざっと5時には眼が覚めるが、最近は4時に眼がさめてしまうこともある。まずシカゴ、ニューヨークの株式市場や先物取引の動静を眺める。アナリストの「お気に入り」のブログやらクローズの掲示板などを眺める。さいきん静岡県のパン屋さんの歌声にはまっている。美声の持ち主である。彼女のスティカムで動画配信されている素晴らしい歌を聴きながら、楽天ブログを更新したり記事を書いたりしながら、朝の食事を取る。ビリージョエルの唄を練習したり、英語学習ソフトを起動させて使ったりしながら頭が起きて来るのをまって6時前後には移動を開始する。ほとんど渋滞なしに1時間ぐらい走っている。滋賀も景観が美しい時間帯だ。移動時間中に、聞ける音楽ソフトやら英語学習ソフトを物色しているのだが、なかなか適当なものがみつからない。早起きすると寝つきがいい。早寝といっても12時ぐらいまで起きていることも多いが、いずれにせよ秒速で寝つける。体調は、すこぶる良い。
2008年07月08日
コメント(0)
80年代から温室効果ガスの仮説は、一度も信じたことがない。以下の映像にある異論派の科学者はみなさんが思っている以上に多いのだ。自分は、北陸と関西で仕事をした経験がある。温室効果ガスが存在するという体感は到底なかった。日本海側で豪雪、氷点下、なのに大阪京都ではぽかぽか陽気。こんな温室がつくれるだろうか。つまり炭酸ガスが増加しているということと、温室効果となんら連関がないのだ。ほんらい温室内に温度差がこれほど生じるはずがない。そう思われないだろうか? だからNHKだろうが、教育テレビだろうが私は温暖化効果ガスの話題や報道は一切信じてこなかった。ただしくは「地球過剰排熱問題」だ。削減すべきは炭酸ガスではなく、過剰排熱規制なのだ!4年もこのブログを読まれている方はごぞんじのとうり。The Global Warming Swindle(地球温暖化詐欺)オリジナル◆以下は日本語訳つきですThe Global Warming Swindle(地球温暖化詐欺) 1/8The Global Warming Swindle(地球温暖化詐欺) 2/8The Global Warming Swindle(地球温暖化詐欺) 3/8The Global Warming Swindle(地球温暖化詐欺) 4/8The Global Warming Swindle(地球温暖化詐欺) 5/8The Global Warming Swindle(地球温暖化詐欺) 6/8The Global Warming Swindle(地球温暖化詐欺) 7/8The Global Warming Swindle(地球温暖化詐欺) 8/8
2008年07月07日
コメント(1)

今朝のサンデープロジェクトは、桝添厚生労働大臣が完全に霞ヶ関の厚労官僚に「敗北」したという風に決定印をうっていた。桝添が、どうせ早晩厚生労働族に取り込まれるのは読めていた展開だった。運用損などと称して外資に向けて6兆円弱もの規模で国富垂れ流しにしたのは、彼らの利権を守るために「星条旗の代紋」を使ったという事にほかならないと推量する。なるほど、これに闘いぬけるようなタマがこの国の総理経験者、閣僚、官邸のどこにも存在しないという事なのだろう。星条旗の走狗 厚生労働省らが、官邸を陵駕するという構図の中で、日本の株価が操作され、先物が自在に演出され、対ドル相場がドル高誘導される。ここまで日本を売りに売って、保身するわが国の中央官庁とは結局のところ「GHQの残置諜報機関」のようなものだと思わずにいられない。
2008年07月06日
コメント(0)
公的年金の積立金を運用する年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)は4日、2007年度の運用損益が5兆6455億円の赤字で過去最大を記録し、市場での運用利回りがマイナス6・41%となったと発表した。 この結果、07年度末の累積黒字は7兆4108億円で、06年度末の13兆562億円から大きく減少した。 市場運用分を含めた運用資産全体の過去5年間の運用利回りは平均4・03%だった。厚生労働省の財政計算に基づく長期目標(同0・96%)を上回っており、GPIFは「単年度の実績だけで評価するのは妥当ではない」としている。 07年度末の市場運用分の資産額は91兆3073億円だった。資産別の運用利回りは、資産の6割以上を占める国内債券は3・31%だったものの、国内株式がマイナス27・97%で最も悪く、外国株式もマイナス17・10%と低迷した。 今回の結果に関し、舛添厚労相は同日の記者会見で、「国際比較をした時に極めて低い。改善努力は考えてしかるべきだ」と述べ、運用方法の見直しなどを検討する考えを示した。(2008年7月5日 読売新聞)以前から、くりかえし年金の使途がおかしいのではないかとこのブログで述べてきた。まさに追認するかのように、読売の7月5日で上掲の記事が流れている。彼らもついにこの時代をおくればせながら言及せざるをえない事態にあるのだろう。年金の運用が赤字、5兆6455億円馬鹿にするのも、ほどほどにして欲しいというものだ。運用が予期せぬ経済の天変や、いたしかたのない相場状況で出損を強いられたなどというのであれば誰も文句を言いたくてもいえないだろう。いや、それでも公的性格の高い年金の運用で大幅な赤字をかかえるというのは、大問題だ。財政当局は、ほんらいならば切腹ものだろう。これまで何度も指摘したように、国民のセーフティネットを基礎づける年金とその運用が実のところ相場や株価の高値づかみの局面で、それも外資系を利するようなタイミングで実にばかげた介入をして数週間もせぬうちに含み損をかかえるというような動きが物凄く多いのを、素人の我々や市場関係者も目撃しているはずだ。つまりは、年金の運用を担当している中央官庁の連中やら、厚生労働省の「天下り先」である年金積立金管理運用独立行政法人なるものが実態で外資の手先、または内通者の牙城であるということではないか。桝添要一が、この連中の反国民的、反日的なることを見抜いているのならば厚生労働省、行政法人ともども「生首」をかっさばいて示すべきだろう。こんなもの運用でもなんでもない。土蔵破り、銀行ギャング、列車強盗と大差ないではないか。しかも、その規模たるや5兆円を遥かに越える。なにが財源がないだ。この責任、厚生労働省全体で、私財を投げ出してでも償ってもらわねばなるまい。そう思われないか、ご同輩。
2008年07月05日
コメント(2)
昨晩のニューヨークの上げ反転は、背後でヘッジ売りをまじえてのものらしい。一層の激しい暴落を予兆させる。プロではないので資料がみつからないのだが、詳しい方がおられたらご教示願いたい。鉄鋼株暴落など自分の関心事にも近い。狂気のような原油高で、日本の離島では周回便の船が減便になっていると聞く。減便が続くという事は、日本の国土でありながら本島と隔離される文字どうりの「孤島」となることだ。昨日の報道でも、通院に3時間かけて病院に通っている方が島へ戻るのにまた3時間、治療に3時間と泣く泣く過ごしている事例があった。これは氷山の一角だろう。減便だけではない。エンジンの出力を限界まで抑えて船を運航させているので洋上でもまともに進まない。主婦が一日9時間も治療行為でフェリーを使うなどというのは、無医村である離島地域では事実上死ねと言っているようなものなのではないか。そう示唆していた。航空機も減便が続いているが、実態として日本の国土と資産が縮小(シュリンク)している。経済活動の次元でも、巨大な縮小が進行している。生活物資の高騰はわれわれの生活の様相を劇的に変えている。まちがってもことこの件については、ヨタを綴っているつもりはない。
2008年07月04日
コメント(0)
つい先ごろまで、14500円だ、年内に16000円だと言っていた日本株はあれよあれよという間に13200円にまで暴落中である。43年ぶりの記録やぶりの10日連続暴落だそうだ。また、騙しのように少しは戻すだろうが北京オリンピック閉会をまたずに深刻な暴落が襲ってくる可能性も浮上してきた。こんなものは予言でもなんでもない。すでに暴落していてもおかしくない日本株を、われわれの年金やら公的資金(税金)の化けたものを投じてまでして吊り上げていただけなのだ。そして消費税だというわけである。馬鹿にするのもほどほどにして欲しい。出先で顔見知りになったおばあさんが、昨日もボソッと口にした。「よその国ならば暴動がおきるのに日本はほんとうにおとなしくて不思議だ」温厚そうな老女ですら、普通にそういう事を口にする。そういう時代なのである。↓着色部分は、リンクかけています。2008/06/03うそつき合衆国 ↓着色部分は、リンクかけています。2008/06/26海賊跋扈の為替と株式の世界
2008年07月03日
コメント(1)
4年も前になるが、楽天に来る前はまだ@niftyにこだわりが残っていた。「りりぱっと」という不思議な提供性があったからだ。当時のおつきあいは、いまも多少残っている。数年前のことだが、もう相当過去のことのようだ。いまも考えてみると、あの「りりぱっと」というのは相当進歩点の高いものだった。残念ながら@niftyでは、そういう進歩点を経営収支の視点で毎回叩き潰してしまう。富士通という会社は、よくも悪くもパソコン通信前史で役務を負えてしまった会社のように思う。WEBには、現実の生活を持ち込もうという動機の利用もあれば、その一方で伸びやかに個人の可能性を増幅させようという発想も併走している。「双方向メデア」であるという事への期待は、後者において自分には多少あったのだが、やはりYAHOOのような巨大なWEBコンテンツを眺めての結果は、さほど芳しいものを印象しない。日々刻々と大衆化してゆくWEBコンテンツは、無気力な個人を瞠目さえるようなものでは到底なさそうに思う。あの「りりぱっと」にボィスチャット機能が加わっておればどうだっただろうかと夢想する。それとても、なにかよさげな期待を抱いているわけではなく、比較的自由な言説を維持することの快適さを想像するだけである。パソコン通信という特異な時代の遺産は、良くも悪くもWEBでは希釈散開しているだけのように思える。知らない人に、それがどういう意味があるのか説明するのも大儀だ。
2008年07月03日
コメント(0)
あの斉藤孝が、日経BPにコラムを書いている。普段、読んでいてもあまり啓発されることのないコラムが続いているが斉藤の話題はまさに今このブログで述べていることと軌をいつにしている。日経BP 6月30日齋藤孝:ロジックより“腹”が大事 人の総和は「声」に出る双方向メデアとしてのインターネットのWEBコンテンツに可能性があるのではないか、と考えながら眺めつづけてきたヤフーメッセンジャーだが大きなポイントのひとつ、それが人間の肉声について考慮の余地があると思った次第だ。このことは、ちょっと日常を思い出してみれば理解できるだろう。視覚的に「かわいい」「スタイルがいい」と思える人はたくさんいる。だが、それだけで心理的に距離が近づくことはない。一方、例えばラジオを聞いていると、相手の顔が見えなくても、その歌声や話し声に安心感や親近感を覚えたりする。「モテる男」の条件の1つは、声がいいことらしい。それは、声に人を揺り動かす力があるからだろう。実は聴覚の情報には、膨大な“隠れメッセージ”が存在するのである。失業中のひきこもりオヤジであっても、声質に恵まれていることは大きい要素だ。もっとも話芸に見劣りする人もいるので一概にはいえないと思うがロジックや表現力も、個人のもつ歌声、話し声には相当左右されてしまうという斉藤と自分は同じ思いを抱いた。個人が圧倒的な少数として、ネット上で孤塁をまもって言説を貫くなどというのは相当難しいと思うのだが、とりあえず最低限りなにかに恵まれている必要がある。その中でも声質というものは侮りがたい。ボイスチャット、ボイスブログの時代になり、痛感する。
2008年07月02日
コメント(0)
今回のガソリン値上げは、低所得者層には相当厳しい影響があるのではないだろうか。移動の足をうばわれて、バイクに乗り出す人も多いようだ。その程度でもすまない。影響されてさまざまな生活物資、消費財が価格高騰するだろう。ダイソーも100円で買えないものが増えてきた。政治の無為、無策というがこんなにガソリンが値上がりするのを事前に制止も対処もできなかったのは無策を通り越している。その一方で、パソコンの価格が相対的にみても安くなっているためか失業者が朝からヤフーチャットで一日暇つぶししているらしい。夜、のぞいてみるとボイスチャットで延々銭湯の番台のように粉をかけている人物がいて、どうやら長期失業したおやじだという。カネにもならないことを、よくやると思う。そう声をかけたら、「外へでかけるとカネがかかって仕方がない」「家で、ボイスチャットしているのが一番カネのかからない気晴らしなんだ」という答えだ。どうやら自分と同年らしい。ちゃんと腕におぼえの職人なのだが、昨今仕事が全然ないという。いわゆる流動性の高い派遣労働者やフリーターなどと違い、水準のある仕事ができる人間でも家で一日パソコンを眺めているしかないというのが独特の閉塞感をかもし出している。もはや立派に「ひきこもり」と言うべき段階だが、いわゆる20代、30代のそれではなく50代にまで状況が押し寄せてきているのに空おそろしい気持ちがする。
2008年07月01日
コメント(0)
全27件 (27件中 1-27件目)
1
![]()
![]()
![]()