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映画を見る前にひさしぶりに原作を買って読んでみた。思えば、27年ぶりに読んだ「カムイ外伝」第二部の絵である。カムイ外伝映画ではいろいろと制約があったからかもしれないが、やはり残念な部分が幾つも幾つもある。スガルは抜け忍である。前半、スガルは何度も何度もカムイに助けられるにもかかわらず、カムイを殺そうとする。(数えると5回試みている)「助けるのは罠だ。私には家族がある。どんな危険の芽もとっておかないとならない」それがおそらく忍びの技以上に彼女が十数年生き延びてきた知恵なのだろう。しかし、白土三平の「語り」はこのように言う。「人を信じえない抜け忍の宿命に、その心がとらわれている限り、スガルの幸せが続くのはいつの日までか」そのようにこの原作「スガルの島」は始まるのである。それにしても、いちばん最初の「女左エ門」は絵的にもすばらしい出来である。戦闘場面のスピィーディーさ、リアルさは今までの忍者漫画の水準を軽く超えている。歴史考証も素晴らしい。岡本鉄二の絵は完璧だ。今回「ビックコミック」で始まった「カムイ外伝 再会」によって、それがどこまで維持されているのか、あるいは変化しているのか、見届けなくてはならない。さて、人を信じられないスガルの一方で、スガルの夫半兵衛は海で生きるものは助け合わなくてはならないという。「助け合うには、信じあわなければならない。海で生きるものは、海で死ぬ。鳥も魚も人も、みな同じじゃ。海を信じぬものはない。信じられるかどうかじゃなくて、信じることが必要なんじゃ」(映画はこの重要なせりふを採用せずにテーマを台無しにしている)そしてスガルの子供サヤカは「一目ぼれ」の力によって無条件にカムイを信じる。そして半兵衛の言葉は「抜け人カムイの心に深く響いた」と白土三平は書く。カムイがそうやって、抜け忍の宿命から抜けることが出来たかのような瞬間、そしてスガルでさえもついにはカムイを信じるに至った瞬間、抜け人仲間「渡り衆」を率いる頭の不動が実は追忍そのものであり、渡り衆ならびにスガルの家族を惨殺し、カムイをだまし討ちにするのである。もしスガルが不信感の塊であったならば、あの水がめの毒には気がついたかもしれない。しかし、死んでしまった。そこに、抜け人は単に「信じる」だけでは超えられない「壁」があることをも、白土三平は最後に見せる。「外伝」はあくまで外伝である。カムイが人を信じ、自由になり、真の幸せをつかむためには、「カムイ伝」で正助や竜の進らと共に「闘う」ことでしか実現できないことを言外に白土は言っているのではないか。わたしにはそう思えてならない。不動の性格描写も明確である。映画では単なる残忍な人間としてでしか描かれていないが、おそらく渡り衆を信じさせるためには数年は要したはずである。それだけの計画性も必要なのである。渡り衆を全員殺したときのせりふは「愚か者らめ、それが掟を破ったものの末路よ。今こそ裁きが下ったのだ」と呟く。彼の発想は今流に言うと、「勝ち組」の発想そのものだ。また、公儀隠密を殺してカムイを助けた理由を「わしらは国元から発した追忍よ。あんな公儀の別働隊に手柄を横取りされてたまるか」という。つまり成果主義の人間なのである。彼はまさに82年の段階で「新自由主義」の思想そのもの、あるいは「資本主義」の思想そのものの人間であるときちんと描いている。映画では不動はふてきにわりとかっこよく死ぬが、漫画では本当に惨めに残酷に死んでいく。非常に現代的なテーマがあったのである。つくづく映画の失敗が残念でならない。もちろん漫画版も完璧ではない。半兵衛が一白を手に入れる動機は分かるが、あまりにもリスクが高すぎるように思うし、不動が最初からカムイを見張っていた描写があるが、渡り衆をしながらそんなことは果たして可能だったのか、疑問であり、最後スガルは不動に千本を投げる機会があったとしたならば、どのようにしてかめに毒を入れたのかよく分からない。そういうご都合主義的な展開はある。しかし、カムイ外伝は比較的大河物語「カムイ伝」と比べてまとまっており、カムイが全面的に活躍するし、エンタメとして独立している。しかも、このあとには不動に育てられ、親の敵としてカムイを逆恨みする百日のウツセも登場する。ぜひとも映画第二段を企画してほしい。
2009年09月30日
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原題は「The Ugly Truth」。この作品の主要舞台となるテレビ番組の題名である。字幕では《あの真実》と訳していただろうか。しかし、そんなはずはない。少し調べてみると、《醜悪な》とか《道徳的にけしからぬ》とかの意味が踊っている。私はてっきり《下半身の》という意味かなと思っていた。要はそういう展開の作品である。どうしてあんな字幕になったのか、不思議でならない。監督 : ロバート・ルケティック 出演 : キャサリン・ハイグル 、 ジェラルド・バトラー 、 エリック・ウィンター 、 ジョン・マイケル・ヒギンズ 、 ニック・サーシー 久し振りの大人のラブコメディである。ハリウッドでは時々下半身ネタ満載のコメディで佳作がある。(ともかく気持ちよく笑わせてくれただけで佳作である。えっ、不快だった?まあ、そこあたりは好みの違いということで…)こんなオリジナル脚本が書けるのだから、リメイクやらシリーズ物やらに頼らないで、いい脚本家を育てたらいいのに。マイクがアビーに男を落とす為の秘策を語る。「仕切らない」「説教をしない」「結局は見た目だ」等々。納得した。正直、わたしも本音のところではそんな女性がいい(^_^;)けれども、男と女はそのように三言で語れないところがあるのも「真実」なのだろう。マイクが元の仕切り女に戻ったアビーに愛の告白をする。ハリウッド映画だからお決まりの展開であり、ぜんぜん驚くに値しないとは思う。けれども、結局マイクはアビーのどこがよくて愛を告白したのか、この映画では明らかにはなっていない。あるいは微妙なジェラルド・バトラー の演技に任されている。もしそれを明らかにしようとしたならば、下半身コメディではなくて、もっと真面目な映画を一本作る必要があるのだろう。世に恋愛映画が尽きない理由である。
2009年09月29日
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私は初めての記事を書いた。私の大学では1960年の5月から6月にかけて、学生や教授たちは何をしてどのような思いであったのか、説明ではなく、事実でもって表現しなくてはならない。つまり、インタビューの内容でそれをすべて表現しなくてはならない。私は何度も書き直しを命じられたはずだ。しかしすでにインタビューは終わっている。新入生に再インタビューの申し込みは酷だと先輩は判断したのであろう、文章的な誤りは直しが何回も出たが、文化部のOKは出た。しかし、編集会議でのOKが必要である。編集長K氏や次期編集長H氏はやはり根本的なところを突いてきた。「安保とはどういうものかなのか、これでは分からない」K氏は三回生経済学部の先輩。実に温厚な人だった。少しのミスにはこだわらない、親分型の人で、どれくらい助けられたか分らない。H氏は同じ人文学部でやがて研究室まで一緒になる二回生だった。非常に鋭い人で、この人だけが卒業後記者になった。「安保がどういうものかわからない」書いている本人が分かっていないのだから当然といえば当然であろう。しかし、それを地の文で説明しようとすると、半分くらい説明だけの記事になることを先輩たちは分かったのであろう、私は本来聞くべきだったそのあたりのことは何一つ取材ノートに書き留めていなかった。一言二言の直しが入って、結局、強行採決をした政府に対し、「このままでは日本の民主主義がだめになる」という危機感で、安保反対のデモの波が広がった、というような「歴史発掘」になったのである。私はそれはそれで大切な事実だと今でも思っている。しかし「本質」はそれだけではなかったろう。安保自体が持つ危険性に対して、戦後初めてそして最大の民衆エネルギーが対峙した、それは歴史的な瞬間だったのではある。事実でもって本質を描く、それは取材しているときにすでに本質を掴んでいなければ、描き得ないものなのである。私は闇雲に突っ込んで「本質」の端を少しかすっただけなのである。この場合、「支配する側」に立つのか、「支配される側」に立つのか、それが問われていたある意味「分かりやすい例」であった。もちろん記事の内容は支配される側に立たなくてはならない。そういう広い観点で現代史を見なくてはならない、新入生には「難しい例」ではあったが、自分はこっちの側に立つのだと「選択」すれば、後は学習すれば書く事のできる記事ではあった。しかしその「選択」は学習によってなされるのではない。決意、によってなされるのである。ちなみに記事の第二段はがらりと変わって吉田キャンパスのグランド隅になぜか建っている山口大学埋蔵文化財センターの取材になった。山口大学は遺跡の上に大学移転したのである。今の私が取材したならば、大好きな考古学のこと、非常に充実した記事になっただろうが、このころの私は何の関心も無かった。たんに「キャンパスは遺跡の上に建っている」ということを伝えただけの記事になった。これぞ「歴史発掘」だとO先輩は慰めてくれた。以下次号。
2009年09月28日
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「エー!僕だけで取材に行くんですか。ムリです。」などというような口答えはしなかった。私は素直な新入生だった。私は県庁に赴いた。そのころ、山口県の県庁はまだ全体が木造の平屋であった。戦災を免れていたたためか、いくつもの建物が長い廊下で繋がれて、非常に広い迷いそうなところであった。反対に言えば、歴史的な由緒ある建物であった。一般的には産業の中心に県庁はあるものであるが、山口県はその役割は宇部市や徳山市にふられていた。なぜか県庁所在地には文化的な建物しかなかった。伊藤博文や山県有朋、或いは岸信介を生んだ山口県、歴代の政治家たちに何らかのこだわりがあったのかも知れない。複雑な木造の廊下を歩いて、何も知らない新入生の私は、受付でB氏を呼んでもらったのであるが、電話に出たB氏は突然やってきた得体の知れない学生を訝しがり、今忙しいので後で連絡するといって、私たちの連絡先を聞いただけて会ってくれなかった。(今から考えると当然といえば当然であろう。)私はすごすごと戻っていったのであるが、やがて会ってもいいという連絡が来る。もしかしらA教授に私たちの新聞会が怪しいものではないと聞いたのかかも知れない。20年前の学生で当時学生自治会委員長だったというB氏は、いまはスーツを着たただの中年のおじさんに見えた。私はおそらく用意してきた質問を機械的にしていったのだろうと思う。中年おじさんは当時を懐かしむようにいろいろと話してくれたのだと思うが、今ではほとんど覚えていない。ただ「なぜ60年安保闘争を始めたのか」と聞いたとき、次のように言ったことは、私が書いた記事の中心的な言葉になったし、生涯忘れることの出来ないものでもあった。「私は安保問題の難しいことは良く分からなかった。けれどもあの国会の強行採決を知って、このままでは、日本の民主主義はだめになるかもしれない。ただ、その危機感だけで、集会を準備したし、デモもやっていったんだと思う。」突然目の前の中年おじさんが、私たち学生の仲間に見えた。それは当時の自覚的な学生たちの正直な言葉だっただろう。そしてそれは当時としてはすでに(そして今も)失われつつある言葉だったろう。私はそのインタビューという「事実」を採取することに成功したのである。全国闘争と組織の関係、集会とデモの関係、そんなことのイメージをぜんぜん持っていなかった私は、聴くべき言葉をずいぶん逃していたと思う。私はもう少し突っ込んで、たとえば次のような質問もしてみるべきだったかもしれない。「あの当時のことを思い出してみて、現在の日本や学生に対して、何か思うことはありますか。」過去の歴史から現代を照射する、そういう試みも面白かったかもしれない。しかし、まあ何とか私の「初めての取材」は終わった。次は私の「初めての記事」である。
2009年09月27日
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八つ場ダムをめぐっていろんな情報が錯綜している。こういう場合、わたしは「真実は何か」というふうには情報を見ない。ある「偏見」をもとに「真相は何か」というふうに物事を捉えようとする。そのとき大事なのは、人の意見ではなくて、「事実を基にする」ということである。マスコミ報道から突然流れてきた膨大な情報に対し、八ツ場ダムをストップさせる千葉の会が、以下のような反論を載せている。「みんなの八つ場パーフェクトガイド」(PDF)ここで、地元住民を名乗る女性の発言やら、東京や千葉の県知事の発言などに対して数字を挙げて一定の反論をしている。旬の疑問におこたえします!検証 ウソ or ホント?1. 八ッ場ダムは継続するより中止した方が高くつく?2. 八ッ場ダムはすでに7割もできているので、今さらストップできない?3. 八ッ場ダムを造らないと河川の水を使う権利がなくなる?4. 八ツ場ダムは渇水対策のために必要?5. 八ッ場ダムは利根川の洪水対策として重要?読ませてもらった。数字のマジックは色々あるので、私はいちいち検証することはできない。けれどもどのような立場に立つのか「選択する」ことは出来る。「支配される側に立つ」「一番弱いものの立場に立つ」その原則を出来るだけ守りたいと思う。一つ明らかになったのは、すくなくとも一定の立場から流されている現在のマスコミ報道は、この数字のまえには大きな矛盾を抱えているということである。このような数字は「事実」であるから遅かれ早かれ、国民の前に明らかになる。誰が得をするのか、それはやはり現在の工事を継続した大企業と天下り役人と一部住民であることは間違いないだろう。そういうものの立場には私は立たない。継続した場合、誰が損するのか。差し引きで税金を多く払う国民と県民である。未来においてえんえん無駄な金を使う国民県民であろう。そして破壊される自然であり、その自然の元に暮らさざるをえない地元住民だろう。問題は、ずっと国の政策に翻弄され続けてきた地元住民は正統な保証をもらったとしても傷は残る、という点であるが、この場合工事を継続しても傷つく。こういう場合は、地元住民も抵抗の精神を示して欲しいと願わざるをえない。私の立場は、さしあたり、このようなものである。
2009年09月27日
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初めての取材、そして記事を書いたときのことを書こうと思う。私は新聞会では最初文化部に所属した。文化部の企画会議でのこと。大学から五分ほど離れたところにあるアパートの部室での会議である。先輩は二人。新入生は私とあともう一人ほどいたか。先輩Оさん(♂)はは国文学二回生で、文学青年で、文章を書きたいということだけで、新聞会に入ってきていた。中原中也の生まれた湯田温泉に下宿していて、可愛い彼女がいた。ちゃらんぽらん青年のように見えて真面目に文学研究にいそしんでいる部分があった。「透徹」という言葉があることをこの先輩から初めて教わった(後に大学講師に)。先輩Sさん(♀)は国史三回生。非常にかわいらしい人で、入学式のときに新聞会の説明会があることを宣伝していたのが彼女である。この女性の存在がなかったら、私がこの妖しげな部屋に入っていったかどうか心許無い。「○○くぅん」と泣きそうな感じで人の名前をよぶのが特徴的であった。もっとも最初の新歓コンパの中で、すでに彼氏がいることが判明するのではあったが。(後にその人と結婚)S「くまくぅん、何かやりたい企画ある?」私「別にないです。」O「じゃあ、この前から始まった新企画「歴史発掘」をすればいい。」私「……」S「それがいいわ。くまくぅん、歴史好きだといっていたし」O「次はわが大学の60年安保をするのでよろしく」私「はあ。60年安保で何を取材するんですか」O「60年安保で、うちの大学ではどういう動きがあったか、当時の関係者から話を聞くんだよ」私「……」O「大丈夫。足で書けば何とかなるって。」まあ、だいたい企画会議というのはこんな風に強権的に決まっていくものなのであった。しかし、大学入りたての私にいくら文化的な記事とはいえ、「60年安保」とは。「足で書く」とはジャーナリズム用語である。今でもそうであるが、記者クラブで発表された情報をそのまま記事にする記者が多い。それに対して、真のジャーナリストは、自ら足を運び、たくさん事実を掴んで、その中からどれだけ本質に関係することを選び取って記事にするのかが「よい記事」の基準なのだと、私は一応「学習会」で学んでいたのではあった。記事は机の上で生まれるのではない。現場をどれだけ歩くか、にかかっている。しかし、はたして60年安保とは何か、その本質も知らないような男に、「よい記事」は書けるのであろうか。最初の取材だけはOさんがついて来てくれた。60年安保のころのことを知っている人でまだ大学に残っている人は限られている。私たちは経済学部の名物教授、A氏のところに赴いた。その取材の前に私は60年安保のことを少しは学習して行ったのであろうか。今思い出して、どうしても何か本を読んだという記憶がない。高校生のときに松本清張のノンフィクション『昭和史発掘』を読んだ記憶があった。その本の中では、安保条約を強行採決する国会議事録が採録してあった。それを読むと採決の瞬間は議場が騒然として、議事録にも載っていないのであった。果たしてこれで採決といえるのか、高校生の私は日本の最高議決機関である国会というものに初めて不信感を覚えたのではあった。しかしそれ以上のことを私は知らない。A教授はマルクス経済学の雄であった。A教授は、珍しくも60年安保を取材しに来た大学新聞の記者に対して、今から思うとアポなしの突撃取材だったのにもかかわらず、非常に丁寧に応じてくれた。おそらく、当時どれだけ学習会がどのくらいの頻度で開かれたか、デモ行進がどれくらい行われたか、特に強行採決のあとでは、学生と労働者が共同でデモを行って画期的であった、というようなことを話されたのだと思う。安保自体の危険性の説明もあったかもしれないが、私の頭を素通りしていっただろう。私は安保反対のデモ行進は国会周辺だけで行われていたと思っていた。こんな田舎(失礼)でも、そんな動きがあり、学生と大人が共同してそういうことをしていたということにまず驚いた。当時はまだ、浅間山荘事件や、内ゲバの記憶が生々しいときであった。学生運動というのは「怖く、世間から孤立している」というイメージが一般的であった。「当時の安保闘争は、本当に国民的な大闘争だった。」とA教授は言った。Oさんは「当時学生だった人で今もこの町に住んでいる人はいないか」教授に聞いた。今から思うと最も適切な人にその質問をしたのだろうと思う。A氏は明らかに当時の反対闘争にかかわっていた人なので、反対闘争の学生の中心人物の動向をちゃんと把握していた。「今県庁に勤めているB君は当時の学生自治会の委員長だった人で、当時のことを話せると思うよ。」私たちは教授に感謝して、研究室を離れた。O先輩は次は私だけで取材を命じた。以下次号。
2009年09月26日
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崔洋一監督は白土三平とのスペシャル対談でこのように言っている。「ぼくの前後の世代の多くの映画監督にとって、白土先生の「カムイ伝」はいつかチャレンジしたい高い山なんです。その根底に流れているものを腹のそこに抱えながら。その大河性を基準にして「スガルの島」(「今回の直接の「外伝」の原作)を描きたかったんです。」(「ビックコミック」9.25号)その監督の思いは意外なほどに私には良く伝わった。オープニングを漫画「カムイ伝」から直接とってきたのも驚いたし、「外伝」には無い非人村のエピソードを入れているのにも驚いた。「貧しさゆえに忍びになり、忍びゆえに抜け忍になった。カムイが自由を手にする日はあるのか。」という意味のナレーションが何度も流れる。これは「外伝」全体のテーマであり、その根底には「真の自由を得るためには、個人の力では実現しない」ということを言外に言っているのである。崔監督のこの映画には確かに「正伝」に繋がる思いが流れている。監督・脚本 : 崔洋一 原作 : 白土三平 脚本 : 宮藤官九郎 出演 : 松山ケンイチ 、 小雪 、 伊藤英明 、 佐藤浩市 、 小林薫 、 大後寿々花 、 土屋アンナ 、 芦名星 松山ケンイチのカムイは思った以上によかった。あと大後寿々花が小雪を喰っていた。さすがだと思う。数年前に宮崎あおいに続くのは彼女しかいないと思っていたのであるが、その日は案外早く来そうだ。17世紀の漁村の風景はよく作っていると思う。田中優子教授が「カムイの服は良く調べている」と感心していたように、そこは見応えがあった。ちなみに備中松山が舞台になっていたが、現実の松山城からは海は見えません。あれは架空の土地です。お間違えなきように。しかし、である。作品としては残念な出来に終わってしまった。クドカンは何を思ってあんなぶつ切りの脚本を書いたのだろうか。「抜け忍の身で一番恐ろしいのは、追っ手ではなく、何も信じられなくなる己の心である」ということが今回の映画の大きなテーマなのであるが、スガルの徹底して人を信じられない心は中途半端な描き方であるし、原作にある半兵衛たち海の男たちの「信じる心」は中途半端にしか描けていない。そして裏切り者は単に「狂った心」で裏切ったのだというようにしか思えない、説得力の無い裏切り方であった。だからどうしてスガルが簡単に死んでしまうのか、説得力持って描けていない。この映画で繰り返し描かれているように、抜け忍はめったなことでは人を信じない。だから、あの最低の裏切り者が罠を仕掛けようとしたならば、それこそ数年かけて信じさせる実績を作らなければならなかったはずである。今回、彼が裏切りを実行に移すきっかけはカムイとスガルという獲物も手中に入ってきたからだと、いうのならばそれとわかる描写が欲しかった。それまでして、手柄が欲しいあの裏切り者の心中をきちんと描いて欲しかった。そして、それほどまでに欲しかったかカムイの首のはずなのに、どうして大頭は最後を見届けずに帰っていったのか、全く謎である。「信じる」-「信じない」の微妙な分岐点を、明確に描くことがこの映画の全てだった筈なのであるが、見事に失敗している。おそらく監督の想いは空回りしていたのだろう。しかし、この映画版によって白土三平が九年ぶりにカムイを書く気になった。そのことだけは喜びたい。
2009年09月25日
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二日目。まずは瓜割(うりわり)の滝に行ってみる。日本名水百選に選ばれていて、近くの水汲み場には朝からたくさんの人が汲みに来ていた。クマゼミが落ちてきた。もう秋なのである。羽が傷ついている。近くの杉の木に留めてやる。もう汁を吸う元気はないだろうけど。小浜市の福井県立若狭歴史民族資料館に行ってみる。ここは、縄文から弥生、古墳、律令、中世、近世の若狭の歴史と民俗が満遍なく展示されている。縄文博物館にない視点の展示もあって面白かった。たとえば、写真にあるように石斧柄の作り方はいわれてみればそうかそういう作り方があったんだと納得。博物館で古墳マップをもらったので、すこし周りの古墳を探しに行った。丸山塚古墳は6C中ごろの円墳。S28年の大水害のときに円丘もろとも崩されたらしい。副葬品としては、鏡や大刀、馬具、よろい、水晶製三輪玉など色々出ている。すぐ近くにあるきれいな前方後円が残っている十善の森古墳。丸山塚と同じような副葬品が出ているが、できたのは6C初め。小浜市の水産市場に行ってなにか昼食を物色する。食堂は20分も待つということだったので、店で握り鮨を買って、その場で食べた。お茶とカニのあらが入っている味噌汁は無料でついてくる。一応鮨の上(1000円)を買ってみたのだけど、ネタが新鮮な以外はふーんという感じ。味噌汁は抜群にうまかった。けれども、10分ごとに商品を持ってきていたので、飛ぶように売れていたのだろう。市場だからと言ってすべてが安いわけではない。ショックだったのは、昨日の鯖缶がうまかったので、じつは朝の滝の売店で一缶420円で買っていたのである。ところが、この市場では330円で売っていた。悔しいのでここでも二缶買う。小浜といえば、オバマ。当然いたるところにオバマグッズが溢れていた。とうとう一つも買わなかった。1500円のTシャツを買えば、オバマ会員になれたのだけど、なんか気恥ずかしい。けれども、この食べ物もお水も美味しい町が平和のオバマで潤うのは喜ばしいことではある。海を見ながら西に向かう。この二日はいい天気だった。舞鶴市に着いた。一度来て見たかった『引き上げ記念館』に行って見る。戦後もはや60年以上たって、来館者はまばらなのではないかと予想していたのであるが、なんの、次々と車が入ってきて、にぎわっていた。シベリア抑留のご苦労は大変なものがあったのだろう。白樺の皮をノート代わりにしている歌集やつらい労働の写真などを見る。たしかに、戦争そのものに対する分析はない。よって反省もない。だから、記念館の一番初めに書いている「平和の誓い」にはただ平和を願う、祈りみたいなものだけがあるのである。しかし、けれどもここは平和を願うところなのだと思う。靖国神社の博物館にあってここに無いものがある。『愛国心』そして『御霊』という言葉である。だからこそ、戦友会の記念樹の隣に『平和を願い戦争に反対する戦没者遺族の会』の記念樹も植えることができるのだろう。日本はついに戦争責任をあいまいなままに終わらせた。その弊害が、たとえばこのような記念館で『平和を願う』という本当に『切実な願い』が単なる『願い』だけに終わるようなそんな建物しか作れないという結果に結びついているのだろう。舞鶴市には自衛隊の海軍施設がたくさんある。自衛隊の施設はすぐに分かる。なぜか。塀の上は全て鉄条網で仕切られているのである。こういう仕切りは日本や韓国の米軍の施設でよく見た。米軍のときには仕方ないと思っていた。なぜなら塀によって『国』が仕切られているのだから。けれども自衛隊の場合は、どちらも日本だろう?しかし、自衛隊の場合は中に入れば『日本ではない』のかもしれない。帰りも、若狭舞鶴自動車道で帰る。神戸のジャンクションに入るまで10キロ、40分ぐらいずっと大渋滞にはまってしまった。それでも、ETC1000円がなければ、決して行くことがなかった地域だろうと思う。(行って帰るだけで交通費16000円くらいかかる場所が2000円でいけるのである。しかも時間的にもたぶん車で行くからこそ機動力があって色々なところに行けた)CO2の問題は残るけれども、満足のいく旅であった。総走行距離は715キロでした。
2009年09月24日
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なんとか小さな休みが取れたので、小旅行をしました。今まで一回も行ったことがないから、北陸へ。その入り口の福井県若狭に行ってきました。やっぱり『古代と平和を訪ねる旅』になってしまう私でした。初めてのETCです。吹田が25キロの渋滞というラジオ情報を聞いて、急遽コースを変えて舞鶴若狭自動車道を通って行くことにしました。正解でした。行程が短くなり、途中の追加料金もかからずにすみました。小浜西ICで降りて若狭三方の縄文博物館へ。途中、私市円山古墳が高速のトンネルの上にあるのを見つけました。高速を作るときに発掘されたのでしょうね。製作直後のように円筒埴輪が周りを二重に巡って、きれいに復元されています。古墳にとってよかったのか悪かったのか。そして、当時山頂にどうしてあれだけの古墳を作る必要があったのか。それはそれでドラマがあったには違いない。去年加曾利貝塚の博物館に行ったので、二度目の縄文時代専門博物館でした(2000年開館でまだ新しい)。西日本には、縄文遺跡が少ないので、このような博物館はとても新鮮でした。本当にこの縄文時代は豊かでかつ高度な文化があったのだということを確信できる展示でした。写真は泥層に埋没していた杉の根です。ここには豊かな杉林があったということです。泥層に埋没していたからこそ残りました。そのように水の中にあったからこそ、残った木製品が大量にあって、ここは縄文時代のタイムカプセルとなったのです。世界最古の稲作遺跡である中国のカボト遺跡の遺物と類似した漆あるいは布などの遺物が多数出土しているこの貝塚は、ここで稲作が同時期に始まっていても決して不思議ではなかったのです。けれども始まらなかった。説明文には二つの理由があると書いていました。ひとつは稲作に適した広い湿地がなかった。ひとつは稲作を必要としないほど、食物が豊かだったのです。再現ドラマやジオラマ、丁寧な展示を見ると、木や布の加工技術は鉄製品がないのにもかかわらず、サヌカイトや石斧その他専門用具を使って非常に精巧に作られています。刺激をたくさんもらいました。うれしい言葉がありました。『縄文の心は平和の心』私の想いと同じです。この遺跡には戦争につながる遺物はついに発見されていないのです。弥生時代から基本的には戦争は始まった。つまり人類の歴史から言えば、つい最近始まった。だからこそ戦争は無くすことができる。何がないのかを発見する。それも大切な発掘です。遅い昼食。近くの縄文プラザで『ダチョウ串カツ御膳』(1,100円)を食べました。ごはん古代の赤米でした。ダチョウの肉は豚のひれ肉のさらに脂肪分がない部部みたいな味でした。食堂からは国際的に重要な湿地として、ラムサール条約に基づく登録湿地となっている三方五湖を眺めることが出来ました。いまはこんな石碑しか残っていません。すぐ近くに川が流れ、山と山とに挟まれた平野がずっと続いています。弥生時代にかけて湿地地帯になったことがこの遺跡を守りました。観光地図にあった脇袋古墳群というところに寄って見ました。五世紀の前方後円墳や円墳が五つほど集中しています。ここは後から行く熊川宿のように古代から交通の要所として栄えたところだったのでしょう。面白かったのは西塚古墳という前方後円墳。見ると分かるように前方部分がそっくり削られて田んぼになっています。けれども、形だけはみごとに残っている。とうやら昭和18年に国指定になったみたいで、土地の百姓も代々この形は守らないといけなかったのでしょう。バチ型の土地を苦労して米を植えているさまをちょうど刈り入れが終わったところなので綺麗に撮る事ができました。近くのおじいさんに聞くと「わしは80年近くここにいるけど、田んぼはずっとこの形じゃった」という証言を得ることができました。少なくとも、80年は《バチ型》の田んぼは守られたのです。古墳自身にとってはほんの一瞬の出来事だろうと思います。熊川宿をそぞろ歩き。ここは小浜から京都に向かう鯖街道の重要な宿のひとつでした。古代、若狭は朝廷に食料を献上する御食国(みけつくに)のひとつでした。日本海で獲れた魚や貝が遠路はるばる京都に運ばれ、特に18C後半からたくさんの鯖が若狭の海で陸揚げされ、『鯖街道』と称されるようにもなったのです。宿のひとつにこんな表示を見つけました。ちいさく「わかさ九条の会」という文字が見えます。がんばっているんだね。うれしくなりました。熊川宿で一夜の泊を尋ねると、宿泊施設はすでに埋まっている。すぐ近くの山の上の宴会ホテルに泊まりました。夕食は断って、熊川宿で買ったつまみで一杯。この鯖缶詰を買った食料品店のおばちゃんは「この缶詰は小浜ぐらいでしか売っていない。400円するんだけど350円にしてあげる。一度食べてごらん。ほんと美味しいから。お土産にいいよ。」と、言っていましたが、本当に美味しかった。唐辛子が入っていて、ピリ辛だけどあまり辛くなくて、旨みが濃い。そうして土地の食べ物は土地の酒にあう。甘口のお酒「わかさ」とよく合った。熊川宿のきく家製造の焼さば鮨もおいしゅうございました。満足です。
2009年09月23日
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先週の土曜日19日、岡山県の50もの9条の会が集まった実行委員会主催「活かせ憲法!守れ9条!岡山のつどい」に行ってきました。きたがわてつさんの歌で始まり、(「9条」「日本国憲法前文」を初めて生で聞きました。ものすごく新鮮!)藤本義一さんのトーク、小森陽一さんの講演ととても盛りだくさんの企画でした。やっぱり注目したのは、小森さんの講演。今回の「政権交代」を受けて、どのように憲法の課題を語ってくれるか、注目していました。最初、酒井法子の話から始まります。彼女の騒動が8月3日に始まったのはなぜか。警察はすでに22日に容疑は固めていたのだから、いつ逮捕してもよかった。「これは悪質なメディアジャックだと個人的には思っています」8月4日に何があったか。クリントンが北朝鮮に電撃訪問をした。実はこのことは非常に大きな意味があったのだが、メディアは一通りの報道をしただけだった。と、いうところから90-94年にかけての(本当ははじめての)政権交代の歴史と、今回の類似点、はては50年代の北朝鮮を巡る日本と世界との関係の類似点をたった一時間で駆け足で説明して、「今が色んな悪法を無くすチャンス。そして、(参議院選挙までの)この一年間が憲法運動の正念場だ。」といいます。「庶民にとって、記憶力こそが力です」と、いうのですが、レジメを完全に無視しながら話した内容をここで整理して書くのは至難の業です。(ところどころしかメモしてないし)でも、前回の政権交代(この時代のことをメディアは意図してかぜんぜん報道していない。これも大変大きな問題ではないかと今ふと思いました)のとき、小沢が、「政治改革」「国際貢献」といいながら実現したのは「小選挙区制による財界言いなりになる二大政党制」「憲法九条をなし崩しにするPKO法」であったことをまざまざと思い出したのでした。私は小沢一郎は大嫌いだ、とことあるごとに言って来ましたが、あのときの気分をまざまざと思い出しました。どのようなことを言ったのか、覚えている限り書こうと思います。しかし、小沢の意図は簡単に実現したわけではなかった。そのごたごだか、あの政権交代だったのです。90年の湾岸戦争は、89年ベルリン崩壊のあと国連決議が戦後二回目に成立した二度目の正式な国連軍事行動でした。(一回目は朝鮮戦争)そのとき海部首相の幹事長だった小沢一郎は「国際貢献」を言い出し、今までの自民党の憲法解釈を変えて「国連決議があるならば海外派兵はOKだ」といい始めます。国連平和協力法を提出するのですが、やっぱり憲法との整合性が説明つかず「廃案」になります。そこでPKO法案を出すのです。リクルートでごたごたして宮沢喜一に首相になるけれども、宮沢喜一はPKO法はピストル以上の武器携帯を認めなかった。それで小沢は自民党を飛び出して、いろいろあって細川政権を誕生させる。そして「小選挙区制になれば、選挙に金は要らなくなる」とか変なことを言って小選挙区制を成立させるのです。話が早口でいまいちよく分からなかったのですが、実はこのとき、世界的、アジア的には、ソ連のバックアップがなくなった北朝鮮がエネルギー不足解消のために原発開発に乗り出し、それが「核兵器開発の口実になる」と言うアメリカのキャンペーンにつながり、一発触発の第二次朝鮮戦争の危機になっていたと言うのです。それを回避したのは、アメリカの提案に対して韓国の金泳三大統領と金大中の意思による拒否と細川首相の拒否によって頓挫します。細川首相はそのとき「拒否するのならば佐川急便の疑惑をばらすぞ」と脅されたと言います。それでもいい、と言って拒否したことが深夜の突然の辞任につながったと小森さんは言うのですが、私には初耳でした。そしてそのあとに94年、ビル・クリントン政権下でカーターの北朝鮮訪問があって、北朝鮮との「合意」が成立するのです。それがきちんと続けばよかったのだけど、その直後に金日正死去があってまた混沌としてしまう。そのあと、村山社民党と鳩山の党が自民党とくっついて村山政権が出来上がるのですが、アジア危機があったので、村山社民党も「安保は合憲」と言わざるをえなかった。と小森さんは言います。これが俗に言う社民党の「村山トラウマ」と言うやつで、社民党が今回民主党と「連立」を組んだときに、90年台と同じ轍を踏まないように、と言う意識は常にあるようです。歴史は繰り返す。さらに言えば、50年代の憲法危機も北朝鮮の戦争がきっかけでした。このの戦争に備えるために51年警察予備隊、52年保安隊、53年自衛隊と海軍、空軍を増やしていくのですが、どうしても憲法による足かせがあるために、「憲法を改定するために」55年自由党と民主党が「大連立」をして自民党になるのです。そのときの首相が鳩山一郎でした。鳩山一族は「血筋として」ばりばりの改憲派です。けれどもこのとき、国民の意思が「2/3の自民党」を許さなかった。小沢が二年前に自民党の「連立」を極秘に合意して国民の総すかんを食い、民主党内からも批判されたとき、小沢の頭にあったのは、55年の未完の憲法改定劇だったのは間違いないと思います。ああ、日本国民はいつもぎりぎりのところで、憲法を守ってきた。と改めて私は思いました。しかし、役者は今そろいました。小沢一郎と、サラブレッド鳩山。そして一方で、日本国民。一方で、世界は動いています。ブッシュの世界戦略はことごとく失敗し、だからこそ最後は政策転換して北朝鮮のテロ支援国家としての「肩書き」をはずしました。そして六カ国協議はアジアの平和の枠組みの「基本」となりうるものです。北朝鮮、韓国、日本がアメリカ、中国、ロシアにもし一致団結して非核化を迫ってきたならば、断れない雰囲気ができつつあります。だからこそ、オバマはプラハ演説をしたのではないか。そんなとき、被爆国日本が「核の傘論」に固執しているのはあまりにも世界情勢を読んでいない。いまこそ、「攻め」のときです。九条を守り、活かすことを軸に、憲法の各条文を現実化する草の根の運動を大きくして、どれだけ政府の方針を一年間で左右させるかが、これからの日本の未来を決します。…すみません、「記憶力は力」といいながら『うろ覚え』で書きました。おおよそこのような意味のことを言っていたと思うのですが、文責は私にあります。ただ、集会の前にいつものように私学助成の署名をしていたので、私も協力をしました。『今年はいつもと違うでしょ』と聞くと、『そうよ!いつもぜんぜん相手にしなかった国会議員も今回は民主党の二人の議員が紹介議員になってくれているわ』『今年がチャンスですね!』『もちろんよ!』小森講演で、ひとつだけ残念なことがありました。この日は、2009年9月19日でした。この前亡くなった9条の会世話人加藤周一は1919年9月19日生まれです。生誕90年だったのです。記念すべき「9」の日だったのです。九条の会事務局長の小森さんが、どうしてそのことに触れなかったのか。時間がなかったから仕方ないとはいえ、本当に残念でした。
2009年09月21日
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小旅行、今日は小浜を通って舞鶴へ。帰りはやっぱり高速の渋滞にひっかかり、このように余裕でメールも送れるというのろのろ運転です。
2009年09月21日
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いま福井県若狹に来ています。やっぱりテーマは「古代と平和を訪ねる旅」になってしまう私。
2009年09月20日
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大学の授業の内容など、今では覚えているはずもないが、いくつかは鮮明に覚えている言葉があるものだ。本多勝一の「事実とは何か」の関連で興味深い話を聞いた。けれども誰が話したのかは覚えていない。先生すみません。教養学部、日本史の授業だったと思う。「私は漫画はあまり読まないが、白土三平の「カムイ伝」だけは面白いと思う。この漫画は江戸時代初期の身分の構造が非常によく描かれている。物事というのは上から見るよりも下から見たほうが、その全体像が良く分かるものだ。武士の側から見た歴史は型にはまって、整然としているように見えるけど、これを支配されている側から見ると、その悲惨さやダイナミックな動きが良くつかめる。白土三平は、それを百姓から見るのではなく、それよりも更に差別されている「えた・非人」から見たところに独創性があった。支配されている側から物事を見ると、その世界の本質がつかめる、ということはジャーナリストの本多勝一も言っている。」ここの話には本多勝一だけでなく、私の大好きな白土三平の「カムイ伝」まで出てくる。だからいまだにこの話を覚えているのである。当時大学生になって初めてカムイ伝に出会った。あの二十一巻の大長編を何度読んだか覚えていない。非人の身分から実力による飛躍を求めて忍者になり、そこでも絶望して抜け人になったカムイと、百姓の身分からよりよき生活を求めて苦戦を強いられる庄助と、武士同士の権力争いから剣の道を学び、やがて庄助たちに共感して城の城主までなるが、江戸幕府という大きな政府に敗北してしまう竜の進と、商売の才覚によって身分を越えた力をもとうとする夢屋と、その他女性、子供、動物さまざまな人間たちが入り乱れる大河ドラマである。大学の講師がこの漫画の魅力をアカデミズムの面から証明してくれたような気がして大変嬉しかった覚えがある。そして本多勝一の説も歴史家が評価してくれていた、と嬉しかった。そうなのだ。だから「支配される側に立つ」ということは、「本質を掴む」ということなのだ。しかし「現場」では、そうそう理屈通りにはいかない。ちなみに今日は映画「カムイ外伝」初日。楽しみだけど、こういう構造までは描けていないだろうなあ。以下次号。(しばらく連載は飛びます)
2009年09月19日
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続きを書く前に、なぜ大学新聞を作るところが、「新聞部」ではなくて、「新聞会」なのかを説明したいと思います。新聞会は自治組織だったのです。そのころ私の大学には教養学部などの学部自治会のほかに、五大自治会というものがありました。文化会と体育会。(役割は分かりますね。文科系サークル、体育系サークルを統括する役割です。)そして我らが新聞会。そして、大学祭実行委員会と女子学生の会です。新聞会は大学新聞を発行します。大学祭実行委員会は、年一回の大学祭を統括し、補助金を与えます。女子学生の会は……うーむ、どうしてこれが全学生に責任を持つ自治組織になったのか私にはわかりません。今で言うジェンダーをテーマにやっていたとは思うのですが……。これらの運営はすべて学生が行います。これは学生が当局から勝ち取った成果なのでしょう。それはそれでいいのです。自治組織という錦の御旗があるとどういうことができるか。新入生が入学する前に、自治会の会費を請求する手紙を送ることができるのです。つまりこれらの自治会は新入生たちが何やなんやら分からんうちに金をふんだくり、財政基盤を持った団体なのです。よって新聞会は新聞を作って「売りつけ」なくても良かったのです。新聞ができたら教養学部の前で配りまくっていました。年間100万近くはお金が入ってきていたような気がします。年11回ほど発行し、アパートの部屋代を払うとそれは飛んでいく金ではありました。不思議なことに誰も、金を横領しようなどとは考えなかったし、疑われたこともなかったのです。それは他団体に対しても同じでした。そういう意味ではあのころどの学生も清らかでした。もちろん私たちは新聞上で、会計報告はしましたし、年間方針も出しました。しかし非常にいい加減だったのは、私がいた四年間のうち、一度も外部監査は導入しませんでしたし、やろうやろうといいながら、大会を開くことができませんでした。あれで果たして自治組織だといえたのかどうかは今でも大きな疑問です。そのあたりの事情は他の五大自治会も同じでした。そんな「自治組織」だったのです。学生らしい自主性と潔癖さ、そしていい加減なところが混じった組織でした。新聞会は当初文化サークル棟の中に部室があったそうです。しかし、先輩の言うにはそこを暴力でもって追われたとのことでした。当時文化会の中には大学祭実行委員会の部室もあり、女子学生の会の部屋もあり、彼らが「一定の学生たち」の影響を受けていく中で、新聞会は独自の財政基盤もあることだし、「イデオロギー的に対立」していたのです。そういう意味では新聞会が追われるのは必然だったのでしょう。構外のアパートに部室を構えたのはそういうことです。今から考えるとそういう「対立」の中に自分を置くというのは非常にしんどいことだったはずです。そういう事情がはっきり分からなくても、空気を察して、だんだんと敬遠していく手もあったのではないか。今になって思うとそんなことも思うのですが、どうも当時はそういうことはぜんぜん考えなかったみたいです。これを書いて初めて分かったのですが、私はいろいろ悩みながら新聞会に残ることをその一年後二年後に決めたと思っていたのですが、どうやら最初の日にすでに「選択」していたみたいです。本多勝一の言う「支配される側に立つ」ということが「真実」なのかどうか私には今も分かりません。ただ、私は明らかに1979年4月のこの日、「ある立場」を選んだのです。私の大学生活四年間は「新聞」にどっぷり使った四年間でした。私がこの大学に入学したのは西の小京都といわれる山口市の町から吉田へ大学移転したすぐあとで、周りは田んぼだらけでした。私の交通手段は最初の一年間は自転車。その後はカブという安いバイクでした。カブで10分くらい走らせた更に田舎に私の下宿(下宿代一万円)はあり、その下宿と大学構内と新聞会部室と活版印刷所(この印刷所は今では文化遺跡とでもいえる活字を組んで印刷をするところでした。「銀河鉄道の夜」で放課後ジョバンニが活版所で活字拾いのアルバイトをしていたあれです)それと時々本屋と喫茶店。それの往復が私の四年間でした。しかし私はその中で、何かを選択し、何かを表現し、そして失敗していったのです。ジャーナリストとして、そして社会に生きるものとして大切なことは、その閉じられた世界でも充分に学んだはずです。そのことをもしかしたら振り返ることができるかもしれない。いまさっき「真実」という言葉を使いました。この「真実」という言葉を厳密に使ったのは、本多勝一でした。学習会のレポートの二編目のことを書いておきたいと思います。「事実と『真実』と心理と本質」真実とは何か。ベトナム戦争での例。取材中に記者が殺された。生き残った記者は解放戦線(北ベトナム)がやったのだという。ハノイ放送は「サイゴン政府軍(南ベトナム)がやった」のだという。こういうとき「真実はどちらか」という表現がとられることが多い。真実とは「正確な事実」に過ぎないのではないか。以下、いろんな辞典を調べてみて、真実は他国の言葉には存在しない。真理ならある。哲学辞典によると真理はそれぞれの立場により違う。キリスト教の真理、スコラ哲学の真理、佐藤栄作の真理、殺し屋の真理、殺される側の真理……。そうか!「真実」は必ず「事実」または「真理」に分解してしまうのだ。ただ、どういうときに真実を使うのだろうか。「真実」とは、事実または真理を、より情緒的に訴えるときに有効な単語なのである。ベトナムの事件はある記者が「正確な事実」を調べ上げた結果、解放戦線が記者を誤って(米兵と思って)攻撃したと分かったとする。この事実を、記者が「ベトコンの無差別攻撃」と書いた場合、この記者は「事実」を書いたとしても、大きな過ちを犯していることになる。一方で米軍が意図的な無差別攻撃を連日限りなく続けている事実との比重から考えても誤っているが、それ以上に、ベトナムの国土を米軍が侵略しているという「本質」の上に立った記事ではないから。真実という日本語はルポから避けたほうが良い。ルポに関しては次のように言うことができます。「事実によって本質を描く。」この文章は1969年のものですが、「ベトナム」を「イラク」に置き換えることも出来るでしょう。日本のジャーナリストは、日本の青年やジャーナリストがイラクで殺されたとき、果たして「事実によって本質を描いた」でしょうか。以下次号追記 ところで、今日無事に70万アクセスを超えることができました。踏んだ方はいつものように「名無しの権兵衛」さんだったようです。始めて四年と四ヶ月、こんなにも早くここまで来たのは、読者の皆さんのおかげです。なぜならば、これだけの読者がいなければ、めんどくさがり屋の私がこんなにもコンスタントに記事が書けている筈が無い。本当にありがとうございます。
2009年09月18日
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70万アクセス記念大型連載始まるついに明かされる「再出発日記」ブロガーの過去30年前の地方国立大学の実態三流雑誌並みのあおり見出しを作ってみました。明日ぐらいに70万アクセスを達成すると思いますが、今回は踏んだ方には別に「記念品」はありません。ご了承ください。その替わりと言ってはなんですが、めったに「自分のこと」を語らない私が赤裸々に過去を語りたいと思います。とはいっても、私の大学時代の思い出です。しかも四年前に書いた文章を加筆訂正して紹介するので、あまりすごいということでもないのですが‥‥‥。一部差しさわりのある人も出でくるかなと思い、あまり公にしていない文章なのですが、良く考えたら30年前のことです。大学名も、団体名も出してももういいでしょう、と思ったのです。もちろん文責は私にあります。まえに50万アクセスだったかな、記念に私の過去を書いたときに、大学時代に新聞会に入ったことが大きな転機だったこと、本多勝一「事実とはなにか」に大きく影響されたことを書きました。そのことを今回(おそらく)数回に分けて全面的に展開したいと思います。同時に私の過去の失敗に付いて懺悔と反省をしたい。飛び飛び連載になると思いますが、左のカテゴリー「山大新聞会」を設けますので、まとめて読むときはそこをクリックしてください。(出来るだけ集中連載にしたいと思います)‥‥‥と前置きが長くなりました。先ずは私が1979年春、第一回目の共通一時を終えて国立の山口大学に入学して、(今まで部活動は柔道ばかりだったので、今度こそは文科系のサークルに入ろう、一番候補は新聞部だ)と思って新聞会の説明会に顔を出したところから始めます。そのとき、教養学部の一室を借りた説明会に顔を出したのは、私を含めて初々しい顔が四人でした。編集長だと名乗った三回生のK氏は一通りの説明を終えた後、「実は部室はここから少し離れたところにあるんよ。今日はそこでちょうど新聞理論の学習会をしているんだけど、ちょっとだけ覗いてみないか」と言うわけです。もうまるきり学生だけで、立派な新聞を作っているというだけで興味しんしんだった私はいちもにも無く付いていったわけです。新聞会の部室は大学の中にはありませんでした。(もう30年前の話です。今はどうなっているのかぜんぜん知りません。)大学から五分くらい歩いたところの普通のアパートの一室に部室はあったのです。あまり違和感を覚えなかったはずです。それまでにすでに「大学とは変なところだ」というカルチャーショックを充分受けていたせいかもしれません。緑色の鉄製の扉を開けて入るとそこは「部室」そのものでした。一部屋六畳の空間の中、左脇には本棚があり、いろんな本とともに、「78年総括」やら、「文化部」やら背表紙のあるファイルがはみ出しながら雑然と並べてあり、長机をはさんで、先輩の編集部員たち6人ほどがニコニコしながら座っていました。そいう雰囲気の中でおもむろに「定例の学習会」が始まり、その日はジャーナリズム論のバイブルというべき(私はもちろん知らなかった)本多勝一の本を読んでいたというわけです。本多勝一著「事実とは何か」でした。この本はジャーナリスト論の短文を集めたものです。私が最初に接したのは未来社刊の単行本です。しかし、学習会のレポートに出てきたのはそのうちの二編だったと思う。この本と同名の「事実とは何か」(「読書の友」1968)と「事実と『真実』と心理と本質」(日本機関紙協会『機関紙と宣伝』1969)。話の筋上、この二編の内容をまず詳しく紹介します。「事実とは何か」新聞社に就職して教えられたことに「報道に主観を入れるな」「客観的事実だけを報道せよ」がある。そのことは「その通り」ではあるが、本多勝一はベトナム戦争の取材で、そのことに違和感を抱くようになる。「客観的事実などというものは仮にあったとしても無意味な存在である。」「主観的事実こそ本当の事実である」。つまり戦場には、無限の事実がある。砲弾の飛ぶ様子、兵士の戦う様子、その服装の色、顔の表情、草や木の土の色、土の粒子の大きさや層の様子、昆虫がいればその形態や生態、……私たちはこの中から選択をしなければならない。選択をすればすでに客観性は失われてしまいます。そして、そうした主観的選択はより大きな主観を出すために、狭い主観を越えてなされるべきです。米兵が何か「良いこと」をしたとする。それは書いてもいい。それは巨大な悪の中の小善に過ぎないこと。小善のばからしさによって、むしろ巨大な悪を強く認識させることができます。警戒すべきは「無意味な事実」を並べることです。戦場で自分の近くに落ちた砲弾の爆発の仕方よりも、嘆き叫ぶ民衆の声を記録するほうが意味ある事実の選択だと思う。そしてその主観的事実を選ぶ目を支えるものは、やはり記者の広い意味でのイデオロギーであり、世界観である。「ジャーナリストは、支配される側に立つ主観的事実をえぐり出すこと、極論すれば、ほとんどそれのみが本来の仕事だといえるかもしれません」この最後の言葉にジャーナリスト論の「ジ」の字もかじったこのない私は痺れました。その意見に私は「反論する余地」を持ちませんでした。彼の文章のどこに反論できるというのでしょう。そうやって見ると初めて、そのころ起こっていた中越紛争、あるいは世の中の対立の「謎解き」ができるような気がしたのです。私は大学に「何か真実みたいなもの」を求めて入っていったのだろうと思います。研究室は「国史」にはいるつもりでした。歴史が好きでしたし、歴史的事実を探し出すことで真実に近づける、そんな期待を抱いていたのかもしれません。しかし、私はこの学習会でそういうものは幻想であることを突きつけられたのです。ここにあるのは「偏見のすすめ」です。でもそういう風に世界を見ることで初めて私は「世界」を見る目を「開いた」ような気がしていました。「客観的事実というのは無いんだ」。「支配される側に立つ」とはどういうことなのか。私は「ワクワク」していました。 なぜ新聞会の部室が大学の構外にあったのでしょうか。それこそ、世の中の「対立」のひとつの例がそこにありました。私は本多勝一の言葉に感動したのですが、大学の中では「支配される側に立つ」というような抽象的な言葉では片が付かない様な事が山ほどありました。私はどういう立場に立てばいいのか。そのことが私の前に立ちはだかっていました。疾風怒濤の四年間が始まろうとしていました。以下次号。
2009年09月17日
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時代劇版プロジェクトXである。良くも悪くも。監督 : 田中光敏 原作 : 山本兼一 出演 : 西田敏行 、 福田沙紀 、 大竹しのぶ 、 椎名桔平 、 西岡徳馬 なるほど、職人の心意気とはこういうことなのだということがよく分る、まさにプロジェクトX的作品。戦闘場面は出てこないけれども、甲冑姿の兵士の大行列は見せるし、一つ山を城にする過程も良く描けている。大竹しのぶが素晴らしい。常に微笑を絶やさない、内助の功の典型を演じていて、おそらく大竹本人とはまったく違う人間なのだろうけど、非常に説得力ある演技で片時も見逃すことができない集中力だった。それに引き換え、福田沙紀の泣いても笑っても気持が全く入っていない「私は今演技をしています」的な演技は映画を台無しにする一歩手前のものだったと思う。若手女優でいい女優は多いが、彼女はこんな大役は10年早かった。西田敏行の演技を誉める人がいるが、私はあんなにも泣いてはだめだと思う。頭領として、もっと内に秘めたものを出してもらいたかった。城を作ることは上手く描けたと思う。しかし、その城が「歴史」にはならなかった。城と人との運命をきちんと最後まで描いてこそ、「火天の城」だろう。
2009年09月16日
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「ニューヨーク、美しい。守るに値する街だ」監督:トニー・スコット出演:デンゼル・ワシントン、ジョン・トラボルタ、ジョン・タトゥーロ、ルイス・ガスマン、マイケル・リスポリ、ラモン・ロドリゲス、ジェームズ・ガンドルフィーニ Story午後2時、ニューヨーク地下鉄運行司令部で働くガーバー(デンゼル・ワシントン)は、ペラム発1時23分の電車が緊急停止したことに気付く。しかも、その電車はなぜか1両だけほかの車両と切り離されて停止していた。胸騒ぎを覚えたガーバーが無線連絡すると、ライダー(ジョン・トラヴォルタ)と名乗る男が人質19名の命と引き換えに、残り59分で1,000万ドルを市長に用意させるよう要求してくる。 デンゼル・ワシントンも最近は「悪役」ついていて、地下鉄運転指令士の彼がいつトラボルタとつるむのかという「期待」もありながら、見ていて、どうやらそうではないとわかったこころには、終わっていた。それではつまらなかったかというと、合格点ではないが、退屈せずに見ることもできた。細かいカットを重ねるスコット監督の映像技術は健在。地下鉄は昔の汚かったニューヨークを再生したシンボルでもある。それを守るということは、オバマではなく、保守派のアメリカを守ろうという意思を示した映画だったと見るのは穿ち過ぎだろうか。
2009年09月16日
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この前紹介させて貰った『平和運動発展のために』に日本の平和運動の長所を述べて次のような記述がある。「第三は、憲法に違反し憲法を変えてまでアメリカの戦争に協力させようとする策動、世界最大の軍事大国の策動に対して、真正面から「軍事基地拡張反対!」「基地撤去!」「日米安保条約廃棄!」などを要求して敢然と戦っていることです。中には暴力的に強行されてしまった所もありますが、砂川基地拡張の断念や沖縄の普天間基地移設計画の難航、三宅島の艦載機訓練基地建設阻止、神戸方式の継続などなど、多くの成果を挙げてアメリカの予定とおりには進んでいません。日本の平和運動の力強さを示すものです。韓国、フィリピン、エクアドルなど、世界には米軍基地とのたたかいのすばらしい経験はたくさんありますが、日本のように長期にわたりこかつ全国各地の広範な地域で、住民ぐるみのたたかいを続けているのは、おそらく日本だけではないかと思います。」ここで例としてあがってはいないが、北海道矢臼別演習場で、実に戦後1964年から半世紀近く『反戦地主』として闘ってきた川瀬氾二さんのことを挙げることもできるだろうと思う。川瀬さんは米軍ではなく、自衛隊演習場として土地の強制収用に闘ってきたのであるが、本質は同じである。北の反戦地主・川瀬氾二の生涯話は聞いていた。けれども実はよく分かっていなかった。どうやって演習場のど真ん中に自分の土地を持ちながら反対を貫けたのか、生活をしていけたのか。今回この本を読んで、初めてその具体的な戦いと意義が分かり、素直に感動した。川瀬さんは1926年岐阜県の養蚕農家の6男として生まれる。戦後失業して途方にくれていたときに、北海道の開拓農民に志願して矢臼別に入植。苦労の末開拓したとたん、土地を自衛隊演習場の為の用地買収が始まる。そしてたった二軒を除いて立ち退きさせられて周りが全部演習場になってしまうのである。そのとき川瀬さんは強い信念があってとどまったのではなかった。ひとりの不器用な人間が、立ち退くのも地獄、立ち退かないのも地獄の中、消極的には『ほかに出て行く当てがなかったから』残り、積極的には反対オルグの人の『あんな戦争を二度繰り返さない為にも、それに結びつく動きに抵抗してほしい』という言葉に残るのである。北海道の大平原にたった二軒、それは想像を絶する寂しさと厳しさだと思う。米軍用の土地とは違い、法律的に強制収用はできない。そうして、日本有数の(当時としてはソ連侵攻時の最前線基地ともなりうる)矢臼別演習場の真ん中に民間の放牧地があるということになったのである。では交通はどうしたのか。彼らには小学校に通う娘がいた。その通学路のために国に道を作らせるのである。あるいは65年から毎年川瀬宅で『平和盆踊り』をする。花火が打ちあがる。冷戦が終わり、日米軍事大演習が始まったときでも、川瀬宅の屋根には『憲法』が大書されて、平和の空間になる。そういう平和団体との交流の中で、川瀬さん自身も鍛えられていくのである。周りの支援と本人の楽天性(それでも精神失調があったり、離婚の危機があったりはした)、そして創意工夫の平和運動で、ほかに例のない継続性と勝利の平和運動が北海道で続いている。著者は、若干33才の青年(『平和新聞』編集長)布施裕仁氏である。個人的な付き合いによって、ロングインタビューをしてこの本をまとめた直後に、川瀬さんは急逝してしまう。土地は次の平和運動家の世代に受け継がれている。沖縄にも反戦地主はいる。そして北海道にもこのようにいる。なぜ本土にはいないのか、という疑問はおいておくとして、日本の誇るべき平和運動の典型がこのように受け継がれることは誠に頼もしい。
2009年09月14日
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「死ぬ話をするんじゃねえ、生きる話だ」監督・脚本 : SABU 原作 : 小林多喜二 出演 : 松田龍平 、 西島秀俊 、 高良健吾 、 新井浩文 、 柄本時生 、 木下隆之 、 木本武宏 、 手塚とおる 、 皆川猿時 カムチャッカ沖。蟹を缶詰に加工する蟹工船・博光丸の船内では、出稼ぎ労働者たちが安い賃金で過酷な労働を強いられていた。少しでも手を抜くと監督・浅川の容赦のない暴力に晒されてしまう。労働者たちは仲間の1人・新庄の言葉に従って自殺しようとするも、結局死ぬことすらできなかった。そんなある日、新庄と塩田は漁の最中に博光丸とはぐれてしまう。そして冬の海で寒さに凍える彼らを助けたのは、ロシアの船だった……。(goo映画より)原作とは、筋立ては大幅に変えているが、そのエッセンスは53年に作られた映画よりも原作に忠実のように思えた。何度も「この現実は変わらない」と呟く労働者たち。仲間の死によって追い詰められ、そして立ち上がる労働者たち。一回目の反撃は成功したかのように思えるが、「国民を守ってくれている」と思っていた軍隊が資本を守るためにストライキ潰しにやってくる筋立て。そして最後の終わり方。「蟹工船」はどのように作っても、この映画のように時代性をあえて無視してポップに作っても、非常に映画的になる。発見したのは、すすけた劣悪な労働環境であるからこそ、茹で上げたばかりの「赤いカニ」がまるで労働者の血の色に見えて効果的である。ラストに向かって畳み掛けるように盛り上がっていく構成も映画的である。しかし、だからこそもう少し「きちんと準備」して作って欲しかったと思わざるをえない。メッセージ性はくどいほど伝わった。まるで演劇のようにセリフのやり取りでそれを伝えようとするのはどうかと思う。時々フラッシュバックで彼らの過去が描かれるが、あまり成功しているとは思えない。原作には無いけれども最初「来世で金持ちになるために」集団自殺を組織する新庄が、「生きるために」ストライキを組織して、リーダーとして死んで行くのは、少し頭で考えすぎの筋立てではないか。彼らの気持の変化はわかった。けれども、もう一方の資本家が魅力的に描かれていない。浅川は大声で叫ぶだけで、なんかステレオタイプの工場長にしか思えなかった。せっかくいい役者を使っているのに、残念で仕方ない。ストライキにいくまでに、サボタージュ、そして数人のストライキ、それがつぶれた後に組織的なストライキ、そしてそれがつぶれた後にセリフに頼るのではなく、労働者の知恵が見えるような組織性を持たせ、浅川の惨めな最後まで見せて欲しかった。やっぱり、時代をきちんと「現代」にして、一人ひとりの過去を丁寧に描き、資本の狡猾さ大きさを描き、群像劇として最後に彼らが団結をする、軍隊は機動隊などの警察に工夫する、そういうリアルな蟹工船の方が良くは無かったか?(資金の問題はもちろんある)今度は組織的な映画化を望みたい。「もう一度!」
2009年09月13日
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大人買いをしました。まとめて読んで、感想を書こうと思っていたのですが、そんな生易しい作品でないということを読んですぐに悟りましたので、まずは『上』だけ読んで、一冊づつ感想を書こうと思います。『夕凪の街 桜の国』を読んだときの衝撃は昨日のときのように覚えています。この本の三分の二ぐらいの薄さだったのですが、半日喫茶店から出ることができませんでした。けれどもあの作品は多分突然変異みたいなものなのではないか、そのように思っていたのも事実です。でも、あの作品はフロックではなかった。あくまでも『弱いものの視線から』世界を見ること。世界の全てを描こうとははじめから考えずに、けれども描いている『世界の片隅』については徹底的に描く。そして独自の視点から、非常に力強い反戦の「絵」が描ける。そのことは、まったく簡単なことではない。けれども、こうの史代はそれができる漫画家だったのです。たとえば、この表紙ををみてほしい。「この世界の片隅に」双葉社 こうの史代浦野すず。昭和19年、広島から軍都・呉へと嫁いだ直後の姿だろうと思う。顔はまるで少女といっていいほど、あどけない。けれども、割烹着の着こなしはまさしく戦前の人の着こなしであり、土間の描写は徹底的な取材の結果だろうと思う。上巻は先行短編三作品が最初に入っていて、これがまたすごい。浦野すずが8才か9才のころの初めてのお使いをする。人攫いにさらわれたようなそんな体験を『少女の視線から』描いていて、なんか賢治の童話に出てくるような不思議な話になっている。ところが、そこで初めて出会った年上の男の子の周作君が昭和18年になって『すずを嫁にほしい』とお見合いの話しを持ってくる。そこでどうもあの話は半分以上は現実だったことも分かる。『私はよく人からぼうっとしているといわれるので、あの日のことも昼間の夢ではないかとおもうのだ』と小さかったすずは思っていたのであるが、現実の話をあのように『優しい』タッチで描けるところがすごい。そして、本当は厳しい現実があるのに、すずの視線で見ると『世界が優しく見える』というのは、やがて中、下巻でどのように展開されるのか、私は見るのが怖いような楽しみのような気がしている。広島に原爆が落ちるまであと一年もない。広島にいるすずの両親と妹はどうなるのだろうか。その前に、軍都・呉にいる周作の運命はどうなるのだろう。あくまでも『世界の片隅』の物語として、こうの史代はどのように描くのだろう。
2009年09月11日
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「ビッグコミック」9.25号を買った。目的は「カムイ外伝特別鼎談」を見るためと、カムイ外伝再開の「広告」を確かめるためである。カムイ外伝が「カムイ伝第2部」終了後9年ぶりに再開される。三号連続掲載の「読みきり」としてである。しかし、この読みきりには大きな意味があると思っていた。「カムイ伝」再開の布石の可能性が十二分にあるのである。なぜならば、「カムイ伝」の場合は、白土三平独りでは決して描かれることは無い。80年代から始まったカムイ外伝ーカムイ伝の連載は白土三兄弟岡本鉄二(絵)、岡本真(マネージャー)の協力無しでは描けなかった。「カムイ伝」の終了は真が急逝してそれが頓挫してしまった可能性はある。しかしあとの二兄弟ももう歳だ。果たしてどれくらいの体力があるのか、それを今度の外伝連載で確かめなくてはならない。映画「カムイ外伝」宣伝のために白土三平が久しぶりに公に姿を現している。写真を見る限りはつやもよく、非常に元気そうだ。だとすると、気になるのは、今度の外伝の「絵」は誰が描くのか、ということだ。今回の「広告」ではそれはついに明らかにならなかった。今度の本連載でそれを確かめなくてはならない。次回「外伝-再会」はかつてカムイの幼馴染の抜け忍「伊児奈」が登場するのだという。カムイをして「彼女ならば抜けおおせるだろう」と言わしめた天性を持った抜け忍である。しかし白土のことだから、今度の登場はどのような意味を持つのか、気になることではある。あれだけの天性を持っていたスガルでさえ、あのような悲劇にあったのである。気になる。鼎談を読んでも、別にたいした発見も無かった。どれほどのものになっているのか、映画の方はお手並み拝見と言ったところである。
2009年09月10日
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今日の「マガジン九条」の雨宮処凛ちゃんの「フリーター労組のキャバクラ争議」には少し感動した。 今回一人立ち上がったキャバクラ嬢の店では、「深夜残業代の未払いや、遅刻や欠勤に対する高額な罰金。なんと当日欠勤で5万円とか」という問題があったらしい。 ご存じのように「第二十八条 勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。 」と憲法に書いているように、労働組合が団体交渉を申し込んだら、経営者はいかなることがあろうとも断ることはできない。ところが、このセクハラ店長、「店側は誠実な対応をしなかったという。よって、フリーター労組は労働委員会に不当労働行為の救済申し立てをし、その日の夜、団体交渉申入書を携えてみんなでキャバクラに向かったのだ。 」ということらしい。 お店に堂々と突入。お客さんとキャバ嬢が盛り上がるきらびやかな店に、突然場違いな貧乏人集団が乱入し、組合の若者が「団体交渉申入書」を読み上げる。騒然とする店内。ビビるセクハラ店長。そして当事者の女の子は突然店の真ん中に走っていったかと思うと、「セクハラするな!」「給料払え!」と大演説をブチかまし始めた。その姿は、異様にカッコよかった。なんだか泣きそうになった。セクハラ加害者の店長がいる前で、そして同僚の女の子やお客さんがいる中で彼女が全身で怒りを表明する姿は何か神々しくて、だけど、どれほど勇気がいることだろう、と思った。 さて、感動ばかりはしていられない。私も店の奥まで入っていってキャバ嬢やお客さんたちにことの経緯が書かれたビラを配る。ちなみにこの日はセクハラ店長の誕生日。フリーター労組のX氏はなんと「バースデーケーキ」を持参。突然店の中でケーキの箱を開けたかと思ったら、ろうそくを立てて火をつける。そして組合員全員で唐突に「ハッピーバースデー」の大合唱! 突然の展開に、店の酔っぱらいたちもワケのわからないまま全員で歌い始める。キャバクラに轟く「ハッピーバースデー」。そうして歌い終えた瞬間、フリーター労組はケーキとともに団体交渉申入書を突きつけ、退散したのだった。 さて、この団体交渉は始まれば、キャパ嬢には十分な勝算がある。処凛ちゃんによれば、「この「罰金」というのは、労働基準法によってその上限が決められているのだという。上限は日給の50%。月給の10%。しかも罰金を取るのであればそのことはちゃんと就業規則に明記しておかなければならず、その就業規則もちゃんと監督署とかに届けておかなくてはいけないという。全国に一体どれほどのキャバクラがあるのか見当もつかないが、私は「就業規則のあるキャバクラ」など見たことも聞いたこともない。」おそらくひとりキャパ嬢の勝利は全国のキャバクラに波及する可能性はある。おそらくキャバ壌の罰金金額は大きく引き下げられるだろう。(彼女の場合は交渉の過程で、今まで払った罰金は全額返ってくるだろうし、残業分も返ってくるだろう)噂は燎原の火のように広まるだろうから、一言言い返すだけでその店の罰金規定や、労働諸条件は劇的に変わる可能性はある。けれども、敵もさる者かってに「労働者の代表」をでっち上げて就業規則を作るだろうから、きちんと言わないと今までの違法だった金は返ってこない可能性もある。(どんな悪徳業者でも労基法以上のひどい労働条件は書けないから、就業規則がもしできればそれだけで労働環境は変わるだろうが)一番いいのは、コンビニ店長のユニオンが立ち上がったように、全国的なキャバ壌ユニオンが立ち上がることなのだが。 がんばれ、キャパ嬢! 一人からでも立ち上がれ! けれども一人では闘えない。
2009年09月09日
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キムギドクの「うつせみ」で一言も喋らなかった青年を演じたジェヒが、今度は少年院帰りの工業高校の生徒で、校内の不良にいつも殴られているので、町の不思議なおじさんにケンカの技術を教わるという話。監督: シン・ハンソル出演: ジェヒキム / ペク・ユンシクハリウッドが作れば、次第と強くなっていく主人公は、最後は誰かを助けるためにヒーローになるだろう。韓国映画になると、印象は全く変わる。主人公はヒーローにはならない。訳アリのおじさんは言う。「ケンカをやって一つもいいことはないぞ。買っても負けても後悔する。」青年は答える。「今まで毎日後悔して来た。ケンカの技術を教えてください」輸入牛肉反対のロウソクデモのときも、韓国ではある場面では機動隊の衝突があった。ひ弱な日本人と違って、今の韓国の人たちも、ギリギリの場面では、暴力に対して暴力で立ち向かうことを厭わない。もちろん綺麗ごとではない。けれどもその「ケンカの技術」は日本人よりはよっぽどたくましいだろう。実はこの作品、3年前の韓国旅行のときに朝のテレビ映画で見ていた。セリフはわからなかったが、玉石混合の韓国映画の中では良質のものであるということだけは分った。今回字幕つきで見て、改めていい映画であった。残念ながら日本公開は一部地域だけだったみたいだ。訳アリのおじさんは「一線を越え」青年は越えなかった。そのギリギリの一線とは何なのか。それを言葉にするのは難しい。たぶんそれを描いた映画なのだろう。ただ、韓国映画には珍しく、悲劇では終わらず、さわやかに終わる作品になった。
2009年09月07日
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「ベルばら」が大好きな派遣社員28歳の三沢さんが、民衆のために立ち上がるオスカルに自分の姿を同調しながら、リストラが進む化粧品会社の中で独り立ち上がる。 派遣社員の置かれている状況を田中麗奈がコミカルに演じていて、快調である。録画していた二回分を見た。 一回目。同じ企画書を出しても正社員の意見が通ってしまう現実。お茶くみの正社員の給料が23万、スキルはよっぽどこっちが上の自分の給料は19万、それでいて明日は首を切られるかもしれないという危険が付きまとっている。「ずるいよ、派遣ばっかりいっぱい貰って」と怒りをあらわにする三沢さんに先輩の派遣社員は言う。「それは違うよ。正社員はもらっていいんだよ。私たちも貰っていいんだよ。憎むべきはもっと上、企業とか政治とか。えらそうな上の人たちよ。たぶんね‥‥‥」このセリフで、以前にあった超人的派遣社員ドラマより、しっかりとしたドラマであることが分る。 二回目。正社員女性は呟く。彼女なりに生活をかけて会社にしがみついている。憎たらしい社長の御曹司もそれなりにか会社を愛していることが分る。「仲間のために」「弾こめ、進撃」三沢さんは後先省みずに進撃する。 この時点で、漫画家俵あん(鈴木 杏)とのメールでのやり取りがまだ生きていない。全六回放送、これからが楽しみ。
2009年09月06日
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「遊びは終わった」監督 : 堤幸彦 原作 : 浦沢直樹 出演 : 唐沢寿明 、 豊川悦司 、 常盤貴子 、 平愛梨 、 香川照之 、 石塚英彦 、 宮迫博之 、 藤木直人 、 古田新太 、 森山未來 、 小池栄子 、 黒木瞳 今回は風呂敷をたたむ回なのだから、評価は前々回、前回と全く変わりません。荒唐無稽な話ならば、一つのウソのために他のところはできうる限りリアルに徹して欲しかったのに、三部作まで作ってこれを世界に発信するのが不安で仕方ない。最後はきちんとまとめたと思う。と、いうか、原作部分の未完成だった部分を原作者が付け足したといっていいだろう。以下ネタバレ(スクロールしてね)原作では、きちんと見れば真の「ともだち」は勝俣君だということは分る仕組みになっている。そしてその時点で原作は終わっている。残るのは、子供のときのいじめと、見て見ぬ振りが人類の三分の一を滅ぼす悲劇までに発展したという説得力のない展開であって、読者には自らを問い直し、後悔させるという効果があった。けれども、それはどれほどの効果があったのか、私は疑問でもある。そういう意味で、バーチャルの世界で、つまり観客の心の中に「具体的」にどのように解決したらいいのか示した今回のバージョンは、とりあえずすっきりした終わり方であった。
2009年09月04日
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「ニューヨーク・タイムズ(電子版)に掲載された鳩山論文」というのが話題になっている。その要旨は以下の通り。一、日本は冷戦後、グローバリゼーションと呼ばれるアメリカ主導の市場原理主義に翻弄(ほんろう)され続け、 資本主義が原理的に追求されていく中で人間は目的ではなく手段におとしめられて、人間の尊厳は失われた。 一、道義と節度を喪失した金融資本主義、市場原理主義にいかに終止符を打ち国民経済と国民生活を守っていくかが われわれに突き付けられている課題だ。 一、今回の経済危機は、アメリカ型の自由市場経済が普遍的、理想的な経済秩序を代表しており、 すべての国が経済の伝統と規制をグローバル(むしろアメリカの)スタンダードに合わせて修正すべきだとの考え方によって もたらされた。 一、グローバル経済は日本の伝統的経済活動を損傷し地域社会を破壊しており、 グローバリズムが進む中で切り捨てられてきた価値に目を向け直すことが政治の責任だ。 一、もう一つの国家目標は、「東アジア共同体」の創設だ。むろん、日米安保条約は日本外交の礎石であり続ける。 われわれは同時に、アジアに位置する国家として、地域の経済協力と安全保障の枠組みを築き続けなければならない。 一、金融危機は多くの人々に、アメリカ一国主義の時代の終焉(しゅうえん)を予感させ、ドル基軸通貨体制の永続性への 懸念を抱かせた。私も、イラク戦争の失敗と金融危機で、アメリカ主導のグローバリズムの時代が終わって世界が多極化の 時代へと移りつつあると感じる。 一、現時点では、支配国家としてアメリカに代わる国も、世界基軸通貨としてのドルに代わる通貨も、一つとしてない。 だが、中国が軍事力を拡大しつつ世界の主導的経済国家の一つになることは明らかだ。 一、世界の支配国家としての地位を維持しようと戦うアメリカと、これから世界の支配国になろうと狙う中国との間で、 日本はいかにして政治的、経済的独立を維持すべきか。これは日本のみならずアジア中小国の悩みであり、 地域統合促進の主たる要因であるこれを鳩山が本気で言っているのだとしたら、以前の記事で「新自由主義を推し進める国会を作ってもいいのですか」と言ったことは訂正してお詫びしなければならない。しかし当の鳩山氏はすぐにいいわけをしている。「「VOICE』という雑誌に載ったものを、その新聞社が一部を、抜粋をして載せたものだ。(略)一部だけとらえられて書かれていると。私自身が書いたものは決してグローバリゼーションの負の部分だけを、申しあげるつもりはなかったと。負もあり、正の部分というものも当然あると。」鳩山氏の評価はまだこれからであり、「お詫び」は保留ということにさせてもらいたい。けれどもこの論文で言っていることは、基本的にこれまでの自民党とは大きく舵を切った意見であり、大いに歓迎したい。ウソでもいいから、この方向で日本の未来を突き進んで行ってもらいたい。23日には憲法学者河上氏の言葉「今は選挙で『投票非暴力革命』ができるのだから、「あなたの一票、革命権」というようなスローガンのほうがいい。」というのを紹介した。今回の政権交代を「革命」という気は無いが、場合によっては大きく変わる一歩かもしれないし、間違いなく歴史の教科書に載る出来事ではある。ところが、8月31日フィナンシャル・タイムズの記事の末尾にこのようなことが載った。こういう事態になっても尚、自分たちには選択肢が本当にあるのかどうか、有権者は確信できずにいる。世論調査を見ても、個々の日本人に話を聞いてみても、日本の有権者は民主党の政策に心から同調して投票したというよりも、自民党に対して反乱を起こしたのだ。しかしそれでも日本人は、自分たちが本当の意味で主権を行使した、あるいは影響力を発揮したのかどうか、確信できずにいる。その証拠に30日の夜、こんなことがあった。あるイタリアのテレビ・プロデューサーが「民主主義の歴史的勝利をあちこちで祝っている日本人の画像をとってこい」と、カメラマンを外に送り出したのだが、そんな光景はどこにもなかったのだという。「何も録画できなかったんだ」とこのプロデューサーは嘆いていた。阪神が優勝したり、サッカー日本がワールドカップで一勝したならば、カメラマンは街中でいい映像を撮ることは出来ただろう。しかし、わたしたちも確信する。8月30日の深夜、「長い間の願いだった自民党政権が終わったぞー」と叫びながら町の中で人々がお互い喜び合う光景は「皆無」だっただろうと。その夜、12時を過ぎると日曜の夜なので特に静かに更けていっただろう。喜ぶ姿はあった。それは「選挙事務所」という閉じられた世界の中でえんえん夜通し続いただろう。これが日本なのだ。ウソでもいいから、自分たちで歴史の一ページを作らない。でもこれからだ。来年の参議院選挙、本当に自民党政治が終わる日は来る。あるいは、憲法を守り生かすことが決まる日、自分たちで花火を挙げる日は、まだこれからやってくる。
2009年09月02日
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「必ず二十四城のマンションに両親を住まわせてみせる。高いのは知っている。けれども私は労働者の娘だ」かつては劉備玄徳が都を構えた四川省成都。50年代の終わりにこの工場に移ってきた者。ここで70年代の青春を過ごしたもの。そして現代の高度成長期の中国でのし上がろうとしている高校出の娘。監督・脚本 : ジャ・ジャンクー 出演 : ジョアン・チェン 、 リュイ・リーピン 、 チャオ・タオ 、 チェン・ジェンビン かれらの古い考え方と新しい感覚が、当時の流行歌と共に語られる。インタビューは事前の打ち合わせが緊密なのか、よく整理されたものであるが、虚実織り交ぜた作品だという。いったいどこから嘘で、どこから本当なのだろうか。瓦礫とすすけた鉄の固まり、そして美しい女。現代中国をひとつの巨大工場の始まりと終わりをインタビュー形式で再現してみせる。この人の映画の作り方がわかってきた。前作よりもこちらのほうがよかった。
2009年09月01日
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