全22件 (22件中 1-22件目)
1
昔、仲間内で無神経なやつに「お前は少なくとも絶対鬱にだけはならないよな」といってやると、「僕もそう思う」と良く返されたものだ。(この人物評は私に対しても良く使われた。私も少なくとも私は鬱になるタイプではないと思っていた)お互いに笑って納得していたものである。しかし、それは今ではまちがいだった、と分かっている。鬱は誰でもなる病気である。どんな性格であろうが、例外はない。確かにこの漫画のツレのように、完ぺき主義者で人一倍がんばるタイプの人が鬱にはなりやすいのば事実。だからといって、自分の周りとか自分はかからないと思ったら大間違い、ここ十数年色んな人が鬱になるのを見て来て確信した。ただ、ちょっとした理屈は知っているが、案外実際鬱になった人とどのように付き合っていけばいいのか、分かりやすく書いた本は少ない。ましてや、コミックエッセイとして書かれたのはこの本が唯一無二だろう。ツレがうつになりまして。細川貂々 幻冬舎文庫実は6月にNHKが三回のミニドラマ化をしていて、私は大いに楽しんだ。(演じていたときは夫婦生活はすでに破綻して苦悩の真っ最中であったに違いない)藤原紀香が鬱に苦しむ原田泰造の夫を実に的確に支えていて、みごとな純愛ドラマになっていた。藤原紀香を少し見直した。この夫婦はお互い夫のことを「ツレ」と呼び、妻のことは「テンさん」と呼んでいた。子供がいないので、イグアナをペットとして飼っている。この本を買ってみた。この本には載っていないけど、ドラマではツレの事を漫画にした後にツレが「こんな本を出してよかったのだろうか」と思い悩む。ところが、感想がはがきやメールで次々と舞い込む。「苦しんでいる人か私だけじゃないとわかった」こんなに生活に密着しながら、「明るい」うつ病読本はそれまでになかっただけに反響は大きかったらしい。ツレは大いに励まされ、出版記念講演に夫婦ともども出ることを積極的に同意するのである。「僕のようなものでも役に立つことができた。そのことを少しでも皆に返したいんだ」人は一人では完結して生きていられない。何かの役に立っている…この実感ほど生きていくうえでの糧はない。
2009年07月31日
コメント(6)
普通なら、なんでもない事件である。もちろん連続殺人なので大事件なのであるが、幾つかの偶然であっさり犯人は捕まってしまう。『殺人の追憶』の頃から既に20数年が流れている。ずさんな捜査もあまりないし、あの頃常態化していた拷問における犯人自白も固く(もしかしたら日本よりも厳密に)禁じられていた。(これには独裁国家だった頃の反省があるに違いない)しかし、やはりあの頃と同じことはある。権力に対する信頼感のなさ、これが映画全体を貫いている。(ソウル市長をめぐるエピソードはその象徴)監督・脚本 : ナ・ホンジン 出演 : キム・ユンソク 、 ハ・ジョンウ 、 ソ・ヨンヒ 、 キム・ユジョン 、 チョン・インギ 、 チェ・ジョンウ 緊張感がずっと続く。少し説明不足のところはあるが、全体的にリアルに話が進み、スピードが落ちることはない。韓国ドラマではお母さん役が多い二人の女性が犯人にあっさり撲殺されるところなんか見ていられない。犯人像は一応の説明がされるが、基本的に理解不可能の『現代の闇』とでも言うべきものである。それに、警察と元刑事現在デルヘル支配人の両方から犯人に次第に近づいていくが、それをあざ笑うように終盤の殺人が起こる。これは何を意味しているのだろうか。捕まりそうで捕まらない。現代の闇。日本でも増えてきた不条理殺人、猟奇殺人。観客を怖がらせ、焦燥させ、希望を与え、絶望させる。本物の闇が少しだけ覗く。映画の醍醐味ではある。新人監督次回作が期待大。素晴らしい才能である。ついでに言うと、これを見たからと言ってソウルの小路が危険だということではないと思う。危険度で言うと、東京の横道の方がもっと危険だろう。見るべきは、大都市ソウルの街中にあのような迷路みたいな道がいまだにあるという設定で、何の不自然もないというところだろう。飲む前、飲んだ後の小路巡りはなかなか楽しいものである。
2009年07月30日
コメント(2)
lalameansさんが『風が吹くとき』の映画評を書いていて、それにコメントをしようとしたら長くなりそうだったので、今回はコメントを記事の代わりとしたいと思います。(^_^;)lalameansさんは 最初のうちは、老夫婦の核兵器に対しての無知さ、 戦争をよき思い出としてとらえている傲慢さ、 国や政府の発表を信じきっている愚かさに腹を立てながら観ていましたが、 老夫婦の互いをいたわり合う姿に、次第に感銘を受け、 知らなかったらしょうがないよなぁという気持ちになってきました。 そう核兵器や被爆を、大型台風の襲来あるいは 破壊力の大きいミサイル兵器ぐらいに考えていた老夫婦の姿は、 外国特にいわゆる先進国の人たちの、典型例な姿なのかもしれず、 世界中の多くの人たちの核兵器や被爆についての認識って、 この程度なのかもしれません。と、書いています。ホントその通りです。私はたぶん1986年の公開数年後、レンタルビデオ屋さんで借りて見た覚えがあります。外国の核戦争映画はここまで来た、ととにかく感心しました。ペーソス溢れる絵柄と明確な主張、そしてなんと言っても『被爆の実態』のまあ正確な知識、これからは外国の核戦争を扱った映画も変わるかもしれない、そんな期待を抱かせる映画でした。ところが、一本の映画では世界は変わらないということをその後のハリウッド映画は次々と証明します。しかも日本人がそのことに目くじらを立てないことに、とてつもなく幻滅しました。昔から言うと、『トゥルーライズ』(1994)これは最後にシュワちゃんと ジェイミー・リー・カーティスが自国の近海の海の上で爆発させた大型核兵器をバックに大団円のキスをするところで終わるのです。バカいうな。これが大団円 ? しかもアメリカはもちろんのこと日本でも大ヒットしました。「ブロークン・アロー」(1995)盗まれた核弾頭の争奪合戦なのですが、なんと国定自然公園の中、地下で核爆発させたから『ノープロブレム』とばかり、次の場面に映るわけです。あの公園はもう何十年と地下水が汚染されるに違いありません。最近では「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」(2008)です。最初の頃、インディは至近距離で核爆発にあい、いくら鉛の冷蔵庫の中に隠れていたとしても、放射能の嵐の中で助け出され、身体を洗われて『ノープロブレム』になるのです。いくら話が面白くても、これだけで日本人たるものこの映画を支持しちゃなりません。そして極め付きはこのまえの「ターミネーター4」です。この作品は近未来ではなく、現代においてコンピューターの暴走で全世界に核兵器が落ち、それで全世界のほとんどが死滅することになり、その後生き残った人間が2018年に反撃をするというドラマです。そんな全面核戦争の後なのに、まったく登場人物たちは放射能に対する防御を施していません。十年やそこらで放射能汚染や被爆の恐怖がなくなると思っているのか。バカヤローといいたい。ともかくこれは『教育』の不在のなせる業です。わずかな放射能が人を一生苦しめる、ということを私たちはいろんな本や、映像、そして直接本人から聞くことによって多かれ少なかれ皆知っています。無知ということはこの場合、完璧に罪になるということです。その意味ではオバマがヒロシマに来るということは、大きな意味があります。ぜひとも実現して欲しい。漫画の世界では『はだしのゲン』より14年前に被爆の恐怖を扱った漫画を最近になって読みました。日本の政治家はひどいものばかりですが、文化的には明らかに半角の面では世界最高水準なのです。この漫画に付いてはまた書きます。
2009年07月29日
コメント(6)
ソ・ジソプの映画復帰ご祝儀映画である。監督・脚本 : チャン・フン 原作 : キム・ギドク 出演 : ソ・ジソプ 、 カン・ジファン 、 ホン・スヒョン ヤクザのガンペと映画俳優のスタ。出会うはずのなかった二人がある日偶然、高級クラブに居合わせた。サインを求めるガンペに、「短い人生、無駄にするな」と言い放つスタ。彼は新作映画のファイトシーンの撮影で、リアルなアクションを追求する余り、共演者に怪我をさせてしまう。その事で、相手役を引き受ける俳優がいなくなってしまった。困り果てたスタは、周囲の反対を押し切り、ガンペに「映画に出ないか」と持ちかける…。(goo映画より)メイキングDVDが映画公開のまえに出回っていた。映画館にはやっぱりオバサン連中ばっかり。映画俳優になりたかったヤクザ(ソ・ジソプ)とヤクザのようにリアルな演技を追及する俳優(カン・ジファン)、その二人のが渾然一体となりやがて別れていく。しかし、結局撮り方が悪いとしか言いようがない、俳優のプロモーションビデオのようにしか思えない。キム・ギドクと何処が違うのだろうか。キム・ギドクならあと30分枝葉を切っただろう。そして、極めて哲学的、寓話的な映画になっただろう。この二人はいかにも今の韓国にいそうで、全然寓話性がない。だからソ・ジソブよくがんばったね、というオバサン的感想しか出ない。
2009年07月28日
コメント(0)
モスバーガーで、おじいちゃんが注文をしに来ました。若い女の子が聞きます。「お召し上がりでしょうか?」「はあ?」「こちらでお召上がりですか?」「はあ?」女の子は少し声を大きくして、「お持ち帰りですか?」「わからん」「こちらでお食べになりますか?」「はあ?もうええ!かえる」お嬢さんお嬢さん、おじいちゃんなんだからそんなに早口で言ったんじゃだめですよ。それにもっともっと分かりやすい言葉を使わなくちゃ、たぶんおじいちゃんは『何を注文しますか』という言葉を期待していたのに、ぜんぜん違う言葉が来たから理解できなかったんだと思いますよ、と後で言いたかったけど、下を向いてもくもくと作業をしているのを見たら何もいえなくてそのまま出てきちゃいました。
2009年07月27日
コメント(4)
「俺にとって痛いのは 外の世界だけさ」監督 : ダーレン・アロノフスキー 出演 : ミッキー・ローク 、 マリサ・トメイ 、 エヴァン・レイチェル・ウッド 勘違いしていた。過去の栄光にすがった落ち目のレスラーの話かと思っていた。たとえば今はほとんど試合もなくて再起をかけて戦うロッキーに近いあらすじを想定していた。もちろん暗い話だということは聞いていたので、成功はしないのだろう、つらい現実もきちんと描くのだろうと思っていた。最初1980年代の華やかな活躍を載せた新聞紙面がずっと続く。そこまでは予想とおり。しかし、私の考えはあまりにも甘かった。打ちのめされた。確かに88年の華やかな紙面が終わった20年後から始まるこの作品において、主人公は貧しい。トレーラーハウスに住み、それさえも家賃が払えないで締め出しを食ったりする。けれども彼には試合があるのである。しかもいまだにメインイベントを張る中心的なレスラーなのである。サインもせびられる。週末以外ではスーパーでアルバイトをしている。こういうのにぴったりの言葉がある。ワーキングプアである。なぜなのか。医療保険が高すぎるのであろうか。その可能性はある。心臓のバイパス手術を受けても、アメリカの悪名高き高額医療費で困っているという様子はない。レスラーの医療保険は相当高いのだろう。その払いだけで家を手放し、家族からも見放された可能性はある。このあたりの状況は映画を見るだけではよくわからない。どこかにうまく解説をしてくれているブログはないだろうか。レスラーにとって、90年代は悪夢のような時代だったのだろう。日本でもそうだ。たとえば80年代ちょくちょくあった岡山武道館の興行は全くなくなった。福田体育館の興行でさえ、この10年間は全く見たことがない。テレビの深夜枠が無くなったのは一体いつのことだっただろうか。私は全然プロレスファンではないので、その辺りの事情は分からない。きっとどこかのブロガーが解説してくれているに違いない。娘とストリッパーとのエピソードも非常に痛い話。この男は、まったくなんの技巧も使わずに女を口説いたり、娘に謝ったりする。だからこそ成功するし、だからこそ失敗する。マリサ・トメイ の体を張った演技には脱帽。 私は打ちのめされた。これらは結局、レスラーだけの世界ではない。この前発表された『09年度経済財政白書』では「我が国の就業者の過半数が年収300万円未満の貧困層」だということが発表された。「格差の主因は非正規雇用の増加。派遣社員は正社員と比べ一貫して失業率が高い。」というようなことが指摘された。それを作ってきたのが、90年代以降のアメリカを手本にした労働政策である。レスラーはボロボロになりながらも仕事はある。けれども人間らしい生活ができる仕事はないのである。「ミッキーロークは私だ」全労働者の半分以上は共感をもって彼を見上げるに違いない。命と引き換えに彼は誇りを持って跳んだ。さて、俺たちは…!?
2009年07月26日
コメント(8)
映画の終盤、山本医師が訪問看護講習会である問題を出す。『一切質問は禁じます。いわれたことをやってみて下さい。先ず紙に真四角を書いてみてください。その上に丸を三つ、書いてみてください。そしたら、それを隣の人と見比べてみてください。』みなさん書いて見ましたか?私も映画を見ながらイメージをわかせてみました。すると映画の中で講習者が書いている図を見てびっくり、私のと90%違うのです。ちなみに私のイメージしたのはこの記事の一番最後に入れている図です。みなさんのとはどうでしたか ? 山本医師は受講者に言います。「そのうように人は全部、見方が違う。見方が違うとまったく違ったものが見えている。そのことを知った上で対応していこう」この映画はそのように我々に全く新しい視点を開いてくれる映画である。岡山県岡山市にある、外来の精神科診療所「こらーる岡山」。カメラは、代表の山本医師を頼ってやってくる患者たちを、ありのままに捉えていく。診療所に入って来るなり、抑えきれない不安をぶちまける女性。やがて平静を取り戻した彼女は、カメラに向かって、泣き叫ぶ自分の赤ちゃんの口を思わず手で塞ぎ、殺してしまった過去を淡々と話し始める。写真を撮り、詩を書いて、自分の気持ちや世界観を表現する男性は、10代の頃に発症。その後25年間、先生の診療を受けているという。さらにカメラは、医師、スタッフ、ヘルパーなど心の病を患う人々の周辺まで写していく。(goo映画より)撮影・録音・編集・製作・監督 : 想田和弘 出演 : 山本昌知(「こらーる岡山」代表・精神科医師) まえ『選挙』の上映のときに岡山に来た想田和弘監督は「今岡山のある精神病棟で次のドキュメントを撮っている」と話していた。ああ、これがそうだったのか、また凄いドキュメントを撮ったものだ。映画の中で監督の義母の写真も出てくるので、どうやら岡山は監督の妻の実家らしい。その縁でこつこつと撮って来た作品なのだろう。例によってナレーションも字幕も一切入らない。最初と最後に『精神』と題字が入って監督名が出るだけである。思うにドキュメンタリーとしてはまさに王道の撮影態度であろう。題名も07年の撮影時の待合室の張り紙に『映画の撮影があります。メンタル(仮題)』というのがあった。最初はそんな題名を考えていたのだろう。だからこの映画は、映画に出ることを了承した人たちしか出演していない。現在、メンタルヘルスはわたしたちの周りにありふれた病気になった。けれども40年間この統合失調症に付き合っているというある男の人が言う。「健常者と我々の間にはカーテンがある。健常者が我々にカーテンを張っていることもあるけれども、我々が幕を張っている部分もある。けれども俺はあるときから自分からの幕は取り払った。」何故彼は取り払うことが出来たのか。それがこの映画の肝の部分だろう。彼の出演はその一回だけである。彼はむしろ健常者よりもしっかりしていて、知的な人間にさえ見える。そういうこと含めて映画全体が彼の言葉を裏つけている。いくつか、びっくりする話を患者は淡々とする。「泣き叫ぶ自分の赤ちゃんの口を思わず手で塞ぎ、殺してしまった」のもその一つであるが、「お金がなくて街を歩いて身体を売った」というのもその一つであるし、薬の袋詰めをしている女性が話をしだすと(まるで事務員にしか見えなかったが)実は患者の一人だったというのもその一つである。一方で、彼らは実に誠実な態度を示すし、時々ドッキリするような哲学的に深遠なことを言って見せたりする。コラール岡山は住宅地の真ん中にある古い住宅を改装した実に開けた精神病棟である。山本医師は『じつは給料は10万円くらいなのよ。わたしたちより低い』と事務員さんたちは言う。05年は自立支援法ができようとした年だった。コラール岡山にも喫茶や作業所、牛乳配達所などが併設されているが、このままでは立ち行かなくなる、と患者と事務員一緒になって悩んでいた。今はいったいどうなっているのだろうか。ひどく気になって、先週あったはずの監督トークショウで質問が出なかったか、映画館の支配人に聞いてみたが、『出なかった、分らない』ということだった。気になる、全国のいろんな施設がたたんだり、方針転換をしたりしているのをニュースやブログでも見ているだけに気になる。最後のエンドロールで『追悼』という文字とともに突然3人の患者の名前と写真が出た。「えっ!?」思わず声が出た。映画の中では、全然死にそうな感じではなかった。2年の間に彼らに何があったのだろうか。特に、その中の一人の男性は、病状も過去も何も喋らずずっと寝転んでいるかタバコをくゆらせている方だったが、『スガヤさん』の話だと朝日高校三年間一番、東大に行って岡大医学部にもいったエリートだと知らされていた。映像の彼を見ると、そんな感じは一切しないのだが、岡山の人間にとってはこの一連の学歴は嘘の学歴とはちょっと思えないのである。朝日高校といえば、岡山の普通高校ではトップの高校なのである。また岡大医学部は確かに東大クラスの実力がないと入れないはずだ。そんなエリートが病気になるのは、なんかありえる話だと思えた。しかし、まさか死んでしまうとは!!ラストのエピソードはどうしてあのようになったのか。なんか突然のぶつ切りの様に思える。さまざまな解釈が可能だろうと思う。一見彼はたちの悪い『クレーマー』のように見える。土足で上がって施設の電話を勝手に借りてえんえん市営住宅に入るための交渉をしている。役所側の対応はうんざりしているのが読み取れる。しかしここまで交渉術に長けているのだからこの人は患者ではないのではないか。とも思える。やくざっぽい人なんだろうか。けれども、彼はタバコの灰が床に落ちそうになるのを避けて外で電話をし始める。五時を過ぎて施設の職員が『帰る時間なんですが』と言うと、素直に電話をやめる。『今日もカプセルですか』職員が聞く。どうやら住宅確保は彼にとっては切実な問題のようだ。しかも決して土足で入ってきたわけでもないことが分る。ここで私は先の山本医師の言葉を思い出す。40年間ここに通い続けた男の言葉を思い出す。先ずはこちらからカーテンを閉めることはやめよう。人の『精神』はまだまだ謎が多い。だからたぶん面白い。
2009年07月25日
コメント(0)
『ターミネーター4』のところで私はこのような感想を述べた。「繰り返し、繰り返し、決められた未来を作り替える話なのである。それほどまでにアメリカという国は、未来に不安を持っているし、そしてそれは作り変えなければならないと思っているらしい。選ばれたものの誇りと不安二つわれにあり。アメリカという国は常に『選ばれたもの』でなければならず、そしてそれはヒーローを要求する国なのである。」突然にやってくる『審判の日』。そのことを扱った映画が特にアメリカでは、昨今富に増えている。今年に入ってからでも上記の作品のほかに『地球が静止する日』『ウオッチメン』あるいは『ドラゴンボールエボリューション』を入れてもいいかもしれない。たいていはギリギリのところでヒーローが地球の滅亡を回避する。監督・製作・脚本 : アレックス・プロヤス 出演 : ニコラス・ケイジ 、 チャンドラー・カンタベリー 、 ローズ・バーン 、 ララ・ロビンソン 、 ベン・メンデルソーン さて、この作品はそういう流れの中での映画の中で珍しく面白い作品だった。前半までは。未来は『決定』されているのか、『偶然』なのか。科学者であるニコラスケイジは偶然論者であるが、その根拠を揺るがすような予言の書を手にしてしまう。そして予言通りに起きる大惨事。飛行機事故と地下鉄事故。この二つの描写はちょっと歴史的な悲惨なCGが作られた。見応えがある。しかし、後半は全くのご都合主義。何がって、それを言っちゃあ完全ネタバレになるのだから言いにくい。もっと『決定論』vs『偶然論』という興味深いテーマを深めて欲しかった。えっ、深めているって? あれで? もっともそう感じるのは、私は唯物論者であるからに他ならないだろう。神を信じているものにとっては、非常に深遠な、見事な映像なのかもしれない。最後にはなんとエデンの園まで出てくるのだから。日本人の信じる神はあくまで現世利益であるところに特徴がある(by加藤周一)商店街で見た七夕の短冊です。
2009年07月25日
コメント(4)
二週間ほどまえ商店街に飾ってあった七夕の短冊に書いていた願い事です。ホントそうですね。期待できない人がうじゃうじゃいますが、それでも政治の力に頼らざるを得ない。きちんと選びたいものです。さて、このまえの日曜にこのような展示会に行ってきました。ユーラシアの風新羅へ展新羅と日本、そしてオリエントの遺物を渾然一体として展示しており、興味深い展示会になっていた。(展示場所 岡山市立オリエント博物館)たとえば、慶州からはガラス容器やガラス珠、角杯、馬形土器などが来ていたが、それらは西アジアのイラン・イラク・トルコから運ばれたものが多く見られるのである。そしてそれらはなぜか百済や中国からは出土しないのである。ということで何が分かるか。これらの品物はシルクロード経由だか、中国を通らず、中央アジアを通って新羅をとおり、日本にもやってくるという交易の道が存在したということなのである。慶州龍江洞古墳には明らかに西域人(ヨーロッパ系の顔立ち)と思われる文官像も出土している。慶州の博物館に行ったことはあります。けれども、そこの展示説明が読めないためにたんに文物を見ただけでしたし、たぶん読めたとしてもここまで分析していなかったはず。日本は本当に細かい仕事をしています。日本の考古学はすばらしい。岡山での展示が終わると、8月1日から9月6日まで東京サンシャインシティ文化会館の古代オリエント博物館で展示が始まるそうです。
2009年07月23日
コメント(0)
今日は平和行進に行ってきました。過去の歩いた記録はこことここです。つい最近発掘した過去の写真はこことこことにあります。今日歩いたのは久しぶりに地元の倉敷。倉敷市役所から水島、連島を通って高梁川をわたったところで終わるコースです。朝の挨拶で通し行進者のMさんが「オバマ効果で例年になく参加者も増え、自治体も真摯に対応してくれている」と言っていました。オバマ演説は絶対のものではありませんが、「今が核兵器を本当に廃絶する道をつけるチャンスだ」と皆が思っています。平和行進の楽しみの一つは休憩所のお接待です。ここの休憩所ではお茶やジュース、ミカンやトマトが振舞われました。さて、平和を訴えながら歩く平和行進ですが、午前中はなんと言っても「日食」です。岡山では9時44分に太陽が欠け始め、11時02分にもっとも大きく欠けます。岡山では84%が欠けると言われていました。ところが、この日はあいにくの曇り。歩いているときは時々薄日が差すのですが、休憩時間に果たしてみることができるのか、不安でした。11時過ぎ。水島寿公園に着くと、「岡山星空を愛する会」の方が日食観測フィルターを無料で提供していただき皆で見ました。このとき、偶然にも空から薄く日が差してほとんどの人が8割がたかけた日食を見ることができました。私も見ることができたのですが、いかんせん、このフィルターは小さすぎてカメラに収めることができないのです。私は別に用意していたセロハンを通して一生懸命撮影してみたのですが、どうもうまく撮影できませんでした。それらしきものを撮影したので一応載せます。(雲がじゃまをして上手く形が撮れていません)このとき、世界は暗くはならなかったのですが、それでも明らかに薄暗くはなりました。日が照っているのにうす曇りの世界といっていいのでしょうか。一時間後の世界とは確かに明るさは違っていたと思います。皆既日食、一生に一度は体験してみたいですね。この平和行進のコース、今年からついに「市民行進」がなくなってしまいました。日本生協連が平和行進にかかわらないと決定して数年、20年以上続けてきた県内行進がついに無くなったわけです。「自主性に任せる」という方針は、『そんな金にもならない(平和運動は)やめよう』という生協の方針が徹底した数年であったわけです。『「よりよき暮らしと平和のために』ではない、『平和とよりよき暮らしのために』ではないとだめだ、平和だ、平和こそが大事なのだ』といって生協のスローガンを決めた初代会長賀川豊彦の精神は今いずこに。
2009年07月22日
コメント(6)
ルパンの消息2005年にカッパノベルズが出版されたときに書かれた著者の「改稿後記」にはこうある。― 「ルパンの消息」が私の作家としての原点であることは言うまでもない。15年前に書いた怖いもの知らずの処女作であり、新聞記者を辞めるきっかけとなった人生転機の一打であり、推理作家としてデビューしそこねた因縁浅からぬ作品であり、これまでに私が書いた小説の中で唯一未刊行の"隠し玉"でもあった。だからノベルズの上梓に向けて臨んだ今回の改稿作業は嬉しくもあり、懐かしくもあり、そしてほろ苦くもあった。「新・ルパンの消息」になってしまわぬよう、ストーリーと登場人物は無闇に弄らず、作品全体に物語として膨らみを持たせる加筆に腐心した。作業を進めながら、書いた当時の熱っぽさと荒っぽさに驚くとともに、15年という歳月の長さに感じ入ることしきりだった。「まる15年の"時効寸前"に日の目を見る」この作品は、まさに物語そのものも15年前の自殺とされた女性教師の墜落死が実は殺人だったということを垂れ込んだ情報で動き出す小説である。確かに少し粗っぽさはある。けれども、三億円事件まで絡めながら、実に青春小説になっていて、きちんと読ませる小説になっている。ところで今日は衆議院が解散した日である。歴史上最長の選挙戦に突入したわけであるが、私もだんだんと選挙モードに(^_^;)と、行ってもバナーを貼るぐらいですが。produced byおわらんきーブログ
2009年07月21日
コメント(0)
『御堂関白記』(上)藤原道長著 講談社学術文庫自筆本が残る最古の日記らしい。摂関時代の最盛期を築いた藤原道長の日記である。それが今回初めて全文現代語訳された。少しづつ読みつつある。さすがに知識不足が顕著で、なかなかついていけていないが、まさか道長もこれが印刷されて後世の一般庶民が読むとは思っても見なかっただろう、ある意味無防備に自らをさらけ出しており、知的好奇心を刺激してくれる。もちろん、誰かに見られてもいいように書かれていると思う。(写本がたくさん残っているということはそれが前提で書かれているということだろう)それに、紫式部日記とかのように自らの心情は(いまのところ)ほとんど書かない。式典でだれそれが何を言った、だれそれが貢物を持ってきた、等の記録集ではある。とはいっても、まだ50数ページしか読んでいないのでえらそーなことは言えない。それでも今のところ、面白いなあ、と思ったこと。「物忌が重かったので、外出しなかった」等の記述がよくある。陰陽師によって、「この日はよくないので外出しないように」とよく言われていたらしい。それでも必要な場合は夜に参籠させるし、門外で会うこともあったらしい。たとえばこんなのもある。「犬産があって穢にふれたので、物忌簡を立てた」私なんかはこういうのは興味深い。一般的に日本民俗学的に言うと、穢れの概念で産後の血を嫌うというのは日本に特徴的らしい。しかし、平安時代からそれが常識として確立していたのか、これは中国伝来の知識ではないのではないか、といろいろと気になるのである。道長の心情は書かれていないし、政略的な気持ちは書かれていない。しかし、こんなにも、式次第や一人ひとりに物忌があったり、ともかくも殿上人たちはめんどくさい儀式に生きている。たいへんだなあ、と思った。「月の明るかったことは鏡のようであった」という感想は、明かりといえば油灯火しかない時代の面白い感想である。娘の彰子に「女御宣旨が下った」(999年11月7日藤原彰子12歳)といって、喜びを隠していない。今で言えば小学生の娘を男(天皇)の嫁にやるのがそんなにも嬉しいのか、と言ってやりたくなる。もっともそれが当時の平安貴族の「常識」ではあったのである。その日はなんとたくさんの人が「慶賀を奏上した」ことか。1000年2月15日に「月蝕があるはずであったが、雨が降った」という記述があった。びっくり。そのころすでに月蝕は「予想できる」ようになっていたのか。はたしてその頃日食は予想できていたのだろうか。明後日日食があるのだが、岡山の天気は曇りということになっている。源平合戦の頃、やはり岡山の水島で日食があった。源氏の兵士は全く予想していなくて驚いてあたふたとし、平氏は落ち着いていたので、このときは平氏が勝ったということになっている。陰陽師はいわば日本の最高水準の学問府であり、それを平氏は管理していたのだろう。たぶん日食も予想していたのに違いない。明後日、平和行進は水島を通る。これも一つの縁だろうか。是非、晴れ間の覗いて欲しいものだ。
2009年07月20日
コメント(2)
コメディ映画だと思っていた。評判は聞いていたので、爆笑をするやつではなくて、小ネタを次々とかまして二時間の間くすくす笑いっぱなしで、終わった後「まあ面白かったね」と言って忘れ去る映画だと思っていた。【21%OFF!】純喫茶磯辺(DVD)監督: 吉田惠輔出演: 宮迫博之 / 仲里依紗 / 麻生久美子 / 濱田マリ / 和田聰宏 / ダンカン / ミッキー・カーチス / 斎藤洋介 / 近藤春菜(ハリセンボン) DVDで見たので、途中何度も中断しながら見て全然集中していなかったのだけど、それでもこの作品は「傑作だ」と思った。思いもかけず「感動作」なのである。 小ネタがなければ、小津映画から続いている日常を見事に切り取った純和風の映画なのである。優柔不断で、こずるくて、「生活をいい加減に生きているんだけど真面目に生きている」人たちを、つまり自分(たち)の分身を見事に切り取った作品になっている。 麻生久美子は映画の空気を見事に切り取っていて、美人なんだけど、空気が読めずに、「下手に」生きている姿を見事に演じ、高校生の娘役の仲里依紗はもうまるで「素のままでやればいいよ」と監督に言われたのか、本当に素のままで演じていて、笑ったり、ぶりっこしたり、怖がったり、落ち込んだり、切れたり、人の弱点を遠慮会釈なく責めたりする様を見事に「演じて」みせている。いやあ、ほかの作品も見てみたい。そこでもこれだけの存在感を発揮していたら、注目株に数えなければならない。宮迫博之の方は堅実にダメ男を演じている。お客の人たちも見事な怪演を見せている。基本的に無駄な演出が見当たらない。 ところで、もう一人のアルバイトウエイター役近藤春菜が「守護天使」のカンニング竹山にクリソツなんだけど、まさか同一人物ではないでしょうね。こちらはどう見ても女で、あちらはどう見ても男だったのでたぶん違うとは思うのですが…。いや、本気で聞いています。と、知り合いに聞くと笑って『確かに似ているとよく言われている』と言っていました。私は別に小ネタとして聞いたわけではないんですが‥‥‥。私最近テレビ界のタレントに疎くて…。
2009年07月19日
コメント(0)
「キサラギ」があまりにもよかったために、少し期待しすぎたのかもしれない。もっと爆笑できるものだと思っていた。監督 : 佐藤祐市 出演 : カンニング竹山 、 佐々木蔵之介 、 與真司郎 、 忽那汐里 、 寺島しのぶ くすくす笑いが続き、ハートウオーミングで終わった。監督は基本的にはいい人なのだろう。「女の子を守る」というのは「レオン」以来、私の好きなテーマの一つである。しかし、いかんせん女の子があまり魅力的じゃない。(可愛いんだけどね)また主人公のカンニング竹山も実際魅力的じゃない。入り込めなかった原因だろうと思う。結局脇役、佐々木、柄本が生きていたので、最後まで退屈せずに見ることが出来た。一番よかったが、鬼嫁こと寺島しのぶ。ほんの少し見せる素の顔が彼女の心情をよく出していた。後で思えば、1日のこずかいを500円に限定しているのは、まっすぐ家に帰ってくるための作戦だったのかもしれない。
2009年07月19日
コメント(0)
償い幻冬舎文庫 矢口敦子去年本屋さんが発掘した文庫ということで、20万部突破のミステリらしい。なんかよくある話という気がしてそんなに乗れなかった。(私の採点は辛いのです)36歳の医師・日高は子供の病死と妻の自殺で絶望し、ホームレスになる。流れ着いた郊外の町で社会的弱者を狙った連続殺人事件が起こる。日高はある刑事の依頼で「探偵」となる。つまりホームレス探偵というところが少し目新しいわけです。そして「たまたま」そこには前に命を救った15歳の少年がいて、少年はそうとは知らずに彼と知り合いになる。彼には何か「心の闇」があるみたいです。ホームレス探偵は彼が犯人ではないか、と疑い始めるが、当然彼を逮捕しようとは思わずに‥‥‥。最後のどんでん返しを演出するための無理やり作ったストーリーの気がして、感心しなかった。ホームレスの描写は少し詳しく描かれている。以下のような描写は作者の取材努力の結果だろう。しかしそれはおそらくホームレスの一面に過ぎない。東口の奥は、ゴミ・ステーションに掘り出し物が多く、意外に暮らしやすいのだ。賞味期限ながら食べられるハムやチーズなどが手に入る。古本屋に売れる類の本もある。だが、何人もの野宿者を養えるほどの量ではない。だから大事な情報はみだりに公開しない。(85p)キリスト教系の「野宿者を支える会」というのが岡山にもあるそうだ。その方たちが数えたところによると、岡山市という一地方都市に生きている野宿者(ホームレスという言い方はしないらしい。ホームレス=野宿者ではないからだろう)は120人だそうだ。正社員が没落するこの民間ボランティアの層は日本は薄い。それだけにホント頭が下がる思いです。アメリカの場合、セーフティネットつまり社会保障は日本以上に弱いけれども、それを民間ボランティアがカバーして来たという面がある。堤未果「社会保障の弱い部分を支えてきたのはNPOと教会ですね。貧困者を救済するNPOはそこらじゅうにありますし、やっぱりキリスト教の国だから事前精神が根付いています。教会主体で運営されているスープキッチンと呼ばれる無料給食所があり、そこに行けば餓死しないようになっています。」(略)湯浅誠「私2001年にニューヨークのローアーイーストサイドというマンハッタン南の貧困地域のスープキッチンに並んだことがあります。びっくりしましたよ。(略)教会の人がね、列を作っているんですよ。食べに並んでいるんじゃないですよ。スタッフが列を作っている。一人の前に一品づつあるんですよ。そういう人が30人くらい並んでいて、30品目ぐらいあるんですよ。もらう人はそのなかから自分が食べたいものをもらう。バイキングですね。(略)堤未果「アメリカのこうした「たすけあい意識」は食べるものもないという最底辺までいった人たちにとってかなりの救いになっていると思います。ただし、スープキッチンが受け皿になってしまっているために、根本的な原因、そうした人々を生み出している政策そのものがみえにくくなるというデメリットも無視できません。(略)セーフティネットとは本来国の責任の一つだからです。国が主体になって守るべき国民の生存権が教会とNPOに押し付けられている。それがスープキッチンの落とし穴です。」(「正社員が没落する」角川oneテーマ21)日本の場合、スープキッチンもない、社会保障の削減には今国会でついには「やめる」といわなかった。さて、『派遣きり』にあった人たちで運よく寝ぐらも見つけて失業保険ももらえた人でも、このご時勢やっぱり仕事を見つけられずにまたもや野宿生活に舞い戻る人たちもいるだろう。さらに追い詰められる人はまさにこれから出てくる可能性があります。選挙できっちり意思表示したいですね。「セーフティネットとは本来国の責任の一つだからです。」produced byおわらんきーブログ
2009年07月18日
コメント(2)
北村薫の『鷺と雪』が直木賞を受賞した。やっと受賞した。ともかく嬉しい。「鷺と雪」は英子とベッキーさんシリーズの第三弾目。完結編だそうだ。このシリーズ第一作目については感想を06年8月に書いた。(「街の灯」)1932年(昭和7年)、東京の上流家庭の女学生、花村英子となぞの運転士、別宮みつ子ことベッキーさんが、日常の謎、小さな事件を解いていく物語である。と紹介している。「昭和7年の上流生活を垣間見る。微かに聞こえる軍靴の響き。」と感想を書いたのであるが、その見方が間違っていなかったことは、第二弾の『瑠璃の天』で多くの人がそのことを指摘していることで意を強くした。 北村薫は昨年『玻璃の天』を上梓し、このベッキーさんシリーズ第二作目が、やはり直木賞の候補になった。思いやりがあって利発、けれども世間知らずの英子さんと、英子さんの推理をまるで「円紫さんと私」シリーズの円紫さんのように助ける謎のお抱え女性運転手のベッキーさんのコンビは、果たしてどのように発展していくのであろうか。読みたいのだけど、小説は文庫本か新書にならないと買わないという私の美意識のせいで、おそらく読むのは三年後くらいになりそう。北村薫はしばらくは直木賞も芥川賞も取れないのではないか、と書いたのはつい一ヶ月ほど前だった。(「ひとがた流し」)「行間に多くのものを詰め込む作業は大衆小説とはいえないのではないか。だとすると、北村薫は多分ずっと直木賞も芥川賞も取れない。作風として直木賞受けしないのである。」今回もたぶん行間に多くのものを詰め込んでいるのだろうけど、推理小説は大衆小説であるという『一般常識』のおかげで取れたのかもしれないし、東野圭吾がそうであったように、この作品が今までのよりも突出して素晴らしいのではなくて、今までの作品総合に対する受賞だったのかもしれない。まあ、ともかくおめでたい。おめでとう。
2009年07月17日
コメント(4)
昨日に引き続き、昔の写真を発掘した。03年平和行進の写真です。笠岡市の城見保育園では毎年横断幕を広げて平和行進参加者を励ましています。毎年のことなんだけど、これがまた毎年新鮮で嬉しい。「原水禁世界大会パンフ」被爆国として9条を持つ国として(北朝鮮の「衛星打ち上げ問題」に対し「迎撃体制」一本やりで対応した日本政府は)根強いアメリカの核の傘に対する「依存」政策がある。(いくつか興味深い例を挙げているが省略)自分の国はアメリカの核を当てにして、膨大な数の基地とミサイルを受け入れながら他国には「やめろ」と言ってみても、説得力がないことは明らかです。日本政府は、国際政治の場で、核兵器廃絶の努力をしていると言います。しかし、現実の行動、国連での討論などを見てみても被爆者や国民を失望させるものです。(たとえば核廃絶に実効性のない国連・日本提案などをしている)核の傘依存政策をやめて、核の密約を廃棄し、「非核三原則」を実行すべきです。今核の傘の下では米軍基地の再編強化が進んでいます。横須賀に現水力空母ジョージ・ワシントンの配備、岩国の北東アジア最大の空軍基地計画、グァムの米軍基地に7千億も使う協定を2月に調印、北朝鮮ミサイルにパトリオットミサイル配備、イージス艦をハワイ沖に出動米軍と「迎撃」実験…。全国に広がる非核日本宣言。首長424人、意見書採択は229自治体へ。いま来年のNPT再検討会議にむけて世界で「アピール 核兵器のない世界を」を支持する署名に取り組んでいる。いま日本で暮らす被爆者の数はおよそ24万人。またアメリカ、カナダ、ブラジルに移り住んだ被爆者は3600人、韓国だけで2400人もの人が、いまも身体と心の傷と戦いながら三度核兵器を使わせてはならないと願い続けています。原爆症認定集団訴訟は国の敗訴を続けながら、今も続けられている。平和行進が岡山を歩いています。いまから51年前(1968年6月)原水爆禁止国民平和大行進が被爆地広島から東京にむけてスタートしました。歩くという素朴な行為が市民の共感を広げ、行進にはそのとき100万人が参加したといいます。以来毎年平和行進は取り組まれ、全都道府県と7割を超える(!)自治体を通過し、毎年10万人が参加する国民的行事になっています。私は22日に歩きます。そのときにはまた新しい写真が追加されることでしょう。下の写真は07年の平和行進。岡山市の表町商店街を歩いているところです。ここを歩いているとき、署名・カンパ隊が出動します。
2009年07月16日
コメント(0)
久し振りにインターネットが復活したので、怒涛の記事三連発。映画の記事を二つ書いて、最後はパンフの紹介。そのまえに、最近発掘した「昔の写真」から2000年平和行進のときに写した写真を紹介。核兵器反対人形を思いっきり頭に乗せて愉しんでいました。さて、今年の原水禁世界大会は行けそうにない。しかし今年の原水禁大会は面白くなりそうだ。現職の米国大統領の核兵器廃絶宣言を受けて、全世界の草の根平和運動家がどのように反応しているのか、見ることができる大会だからである。参加した人は是非レポートをお願いしたい。せめて今年の世界大会のパンフレットを読んで、私なりにまとめてみたい。この200円のパンフは毎年発行されるが、毎年その年の核反対運動のまとまった学習資料になっている。(値段の割には全面カラー36pで充実している)いつもは丁寧に読まないのだけど、今年はきちんと読んでみたい。(2回に分けて紹介する)最初はやはりバラク・オバマが4月5日チェコ・プラハで「アメリカは核兵器のない世界を追求する」と宣言したことに対する解説が載っている。この核政策転換の直接の背景には、それまでのアメリカの核不拡散政策、とりわけイラク戦争の破綻です。もともと2003年のイラク攻撃は、力の秩序を目指すアメリカのおごりと、広がる反米感情の中で核兵器が拡散していく事への恐怖が結びついたものでした。しかし、イラクにアメリカが口実にした大量破壊兵器はみつからず、約束した平和や安全も訪れませんでした。逆にアメリカへの反感はさらにひろがり、孤立は深まり続けました。同じ時期、イランの核開発を巡ってもブッシュ政権は核使用や先制攻撃の脅しをかけ、問題をこじらせました。‥‥‥と、たんにオバマ大統領の個人的な発想から廃絶宣言が出たのではなく、世界史的な流れと、アメリカの政策の行き詰まりと、世界的な世論の高まりから出たものだということを明らかにしている。そうして、核廃絶の意義を解説している。一定まとめてみたのだけど、さすがに後で読んで見ると何を書いているのか分らなくなっていたので省略。次回は日本の課題に付いて述べます。
2009年07月15日
コメント(4)
二度店で探したけれども、原作は既に売り切れ。もう一回細部を確かめて映画に望みたいと思ったけれども、まあ原作と比べるのも酷な話だったのかもしれない。監督 : 岩本仁志 脚本 : 大石哲也 原作 : 手塚治虫 出演 : 玉木宏 、 山田孝之 、 石田ゆり子 、 石橋凌 、 山本裕典見た感想としては、案外玉木の悪役の魅力がにじみ出ていて、悪くはなかった。しかし魅力はそれだけだった。反対に言うと、山田孝之の「良心」としての存在感があまりにも薄い。90%は玉木の使いっぱしりじゃないか。この映画を、同じく米軍の存在が原因でとんでもない怪物を作ってしまった韓国映画「グエムル」と比べると、何が足りないかがよく分る。一つ、米軍の存在がいかに危険なものかを「グエムル」は象徴的だが、明確に描いていたのに比べ、「MW」の場合はついには「米軍」という文字が出てこなかった。横田基地は「東京基地」というふうに言葉替えが行われ、この最悪の化学兵器が何故作られ、どのように日本政府と取引が行なわれ、どのように管理されていたのか、結局明確に描かれない。少しは想像できるけれども、手塚が何のためにこの作品を作ったのか、その半分以上はうやむやに終わっている。東京基地内で米軍司令官はなんと単なる警視庁の刑事に対して「君たちの問題だ。きみたちで処理したまえ」などとのたまう。ところが、実際には刑事の存在は全く意味がなく、最後にのっとり機を日本政府の許可も得ずに東京湾上で爆破したのも米軍なのである。それも全くノープロブレムみたいだ。一つ、おそらくこの映画はこの夏数あるヒット作のうち中の下といったところだろう。全く不十分ながら、米軍犯罪を告発し、日本政府の共犯を示した作品はヒットしないだろう。ところが、「グエムル」は日本での評判はすこぶる悪かったが、韓国内ではダントツの観客の支持を得たのである。要は日本と韓国との観客の成熟度の違いが、二つの作品の出来にも反映していると見ることが出来るのかもしれない。ところで、原作では二人の主人公は恋人関係にあった。まえ宣伝で、「タブーに挑戦する」とかあったので、濃厚なラブシーンはなくても、それに近いものはあるだろうと踏んでいたのだが、まるきりなかった。がっかりである。玉木の悪の魅力を出そうとすれば、金と暴力、そして○ックスが必要不可欠だと思うのだが、女性とのラブシーンさえなかった。玉木が度胸がないのか、監督が度胸がないのか。全く理解に苦しむ。それでも、私は「久し振りの骨太映画だ」と評判の「ハゲタカ」よりも、こっちの方がよっぽど社会派映画だと思う。79点をあげてもいいかもしれない。
2009年07月15日
コメント(2)
やっと、インターネット復活です。二週間以上もまえに見ていた作品なのですが、やっと記事をアップできます。原題は「Vicky Cristina Barcelona」宣伝とポスターはまるで3人をめぐる三角関係を描いているかのようであるが、実はそうではない。堅実家のビッキーと「何を望んでいるのかは分らないけど、何を望んでいないかは分る」という奔放家家のクリスティーナの恋愛観と実際の恋との落差を描いた話なのではある。そのことを浮き上がらせるために、二人の直感的な芸術家の元夫婦バルデムとペネロペ・クルスを配したというわけだ。私的にはビッキー役のレベッカ・ホールの方が主役という感じがしたほどだ。監督・脚本 : ウディ・アレン 出演 : スカーレット・ヨハンソン 、 ペネロペ・クルス 、 ハビエル・バルデム 、 パトリシア・クラークソン 、 レベッカ・ホール 久し振りのウッディ・アレン作品。この間の幾つかの作品を見逃しているから、じつに5年ぶりくらいである。彼の作品を見るときは、一種の「お約束」としてどうしても了解していなければいけないことがある。ともかく彼の作品にはプチ・ブルジョワの知識人しか出てこない。彼の作品に対しては「生活感がない」という批判ほど的外れなものはない。ウッディ・アレン自身がほぼ生涯をかけてプチ・ブルジョワ知識人を生きてきて、背伸びもせずに、そこから見ることの出来る「人間」を描こうとしてきたのだから。ビッキーもクリスティーナも、よく見れば私たちの周りにいるかもしれない。「プディングの味は食べてみないと分らない」恋の魔法の前には先入観は役に立たないことを知るわけです。クリスティーナは最初の頃はまるで自分の分身みたいな奔放なペネロペ・クルス演じるエレーナに共感を持ちながら接するわけですが、次第とエレーナと自分は違う、彼女のような破滅的な恋愛はできないとち直感的に知るわけです。彼女の直感が正しかったことはその後の推移が証明する。げに恐ろしきは「女の直感」である。ウッディ・アレンはよく知っている。この作品で唯一つかみどころがないのは、ペネルペ演じるエレーナでしょう。作品の半ばから登場し、終盤でフェイドアウトし、最終版で見事にその存在を際立たせる。なるほど助演女優賞も頷ける。「女は怖い」という演技をさせたらこの女性はピカイチでしよう。
2009年07月15日
コメント(0)
三日前、当然インターネットが使えなくなったのですが、思ったより深刻な状況でした。 去年引越しをしたのですが、その時プロバイダも引越し出来ていたと思っていたのに出来ていなかったのです。(今までなぜだか使えていたのが不思議、でもありうるそうです) NTTと調整して回復するまで、あと十日近くかかるそうです。書きたいことは山ほどあるのですが、暫く更新はお休みです。 暫くは充電期間ですね。
2009年07月05日
コメント(4)
なぜか、昨日家に帰るとインターネットもメールも通じなくなっていました。システムの復元をしてみたり、ルーターをいったん切ってみたり、いろいろしたのですが、原因がわかりません。今日は、違うパソコンを借りてちょっとの間だけ使わせてもらっています。しばらくは、更新ができないかもしれませんが、よろしくお願いします。「原因」というと、今日さんが「原っぱの「原」は書けるのに、原理の「原」は、なぜ書けないか。 」という考察をしていました。原理の原が、書けないのは、低学年で、目で見える原っぱの意味の原は、教えるが、その後、頭の中だけで理解する原理の原の意味を軽く扱うか、素通りしている傾向があるからなのですね。覚えやすいかどうかの観点から言いますと、原っぱ原の方が覚えやすいですね。見えますからね。ところがもとの意味というのは、頭の中だけで理解する言葉(これを抽象語といいますね。)なんですね。だから、覚えにくいのでしょうね。このことから、漢字は、もとの意味と派生(ハセイ)した意味をきちんと指導する事が、大切なのですね。これは結局、現在の国政の貧しさの「もとの意味と派生した意味」をしっかりとらえる訓練を国民がしていないから、いつまでたっても同じことが続いているのとよく似ていると思います。なぜ「100年に一度の大不況」は起きたのか、昔あったはずの「溜め」がこんなにも干上がっているというのに、なぜ毎年2200億円もの福祉教育を削ることを許してきたのか。マスコミは、「原っぱ」しか教えません。けれども国民は圧倒的多数がマスコミを一番の教師として見ているようです。あっ、時間が来ました(^^;)まあ、そんなこんなで今回の故障の原因、いい教師を探したいと思います。
2009年07月01日
コメント(3)
全22件 (22件中 1-22件目)
1