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田中沖縄防衛局長の発言要旨は以下のとおり。-防衛相は環境影響評価書を『年内に提出する』ではなく『年内提出の準備を進めている』とあいまいに言っているのはなぜか。 (女性を)犯すときに、『これから犯しますよ』と言うか。 -沖縄は66年前の戦争で軍がいたのに被害を受けた。 400年前の薩摩藩の侵攻のときは、琉球に軍がいなかったから攻められた。『基地のない、平和な島』はあり得ない。沖縄が弱いからだ。 政治家は分からないが、(防衛省の)審議官級の間では、来年夏までに米軍普天間飛行場の移設問題で具体的進展がなければ辺野古移設はやめる話になっている。普天間は、何もなかったかのようにそのまま残る。(2011/11/29-13:13)ざっと報道を見渡すと、田中某の発言では彼の人間性だけが問題になっているようだ。確かにひどいとは思う。辺野古への強引な基地建設はごう姦的な行為であるという認識があり、さらに、ごう姦してもいいのだという認識さえあるということだ。ただ、一方で問題になっている「辺野古の環境影響評価書を年内に提出するか否か」の是非について、コメントした朝の番組はなかったのが気になる。実際、防衛相は再三「準備を進めている」どころか「年内の評価書提出に変更はない」と言っている。しかし、このこと自体が大問題なのである。沖縄問題というと、いつもその本質をはぐらかし、個人の問題や感情問題にすり替える傾向がある。沖縄県議会でも「全会一致」で評価書提出断念を議決しているが、この発言を機に本土でも「そもそも辺野古アセスメントとはなんなのか」を議論すべきではないか。このことについては、11月25日付の平和新聞が詳しい。沖縄県議会の意見書には、政府年内提出の方針は「国防費削減を迫る米上院の国防権限法案の成否次第で日米両政府が窮地に追い込まれるため」だと指摘している。またもや、アメリカの「ために」無理押しをしようとしているのである。そもそも、この辺野古アセスは違法性、非科学性、満載なのである。以下平和新聞より。 沖縄・生物多様性市民ネットワークの花輪伸一さんは、アセス「方法書」や「準備書」の過程で防衛省が行ってきたことを示し、アセスの違法性と非科学性を訴えました。 防衛省が方法書を公開する前に事前調査(環境現況調査)を強行し、水中ビデオカメラ、パッシブ・ソナー(音響探知機)設置等によってジュゴンを追い出すなど、野生生物や自然環境に悪影響を与えた上で「ジュゴンはいない」と結論づけたなどをあげ、「アセスは恣意的で、自分たちの都合のいい解釈をしていてる。同時に、防衛省にとって不都合な点を隠蔽してきた」と指摘。防衛省が隠し続けてきた垂直離着陸機MV22オスプレイ配備についても、アメリカではオスプレイ配備だけで環境アセスが義務付けられているのに対し、日本では含まれていないのはアセス法の欠陥だと断じました。 また花輪さんは、「大きな問題は、環境大臣が法的に意見を述べる場がないこと」と指摘。「大臣が意見を言えないのは飛行場建設はアセス条例で行っているため、交有水面埋立ては免許者が知事であるためだが、これはアセス法の欠陥だ。環境大臣は国の事業だけでなく、県が許認可権者になっているものに対しても本来は意見を言うべきだ」と述べました。アセスをめぐるこれから想定される動きでは、もし、12月にアセス評価書を沖縄県知事に提出したならば、来年3月ごろになるが、90日以内に知事が評価書に対し意見書を退出しなければならない。それを受けて4月に評価書の広告・縦覧が30日ある。そして、アセス結果が確定してしまう。6月に防衛省が沖縄県知事に交有水面埋め立ての許可を申請する、という動きになる。またもや、「国の強権」で辺野古の海が蹂躙される「法的条件」が整うのである。だからこそ、防衛大臣は、アメリカの事情もあって12月提出にこだわっている。しかし、それは道義的にも、科学的にも、法が欠陥だらけだという点でも、そして沖縄全県民の意思に裏切るという点で、断じて許してはならない。
2011年11月30日
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「マイ・バック・ページ」川本三郎 兄は、職業上のモラルが重要なことはわかるが、今度の事件の場合、その政治グループは、君がジャーナリストのモラルを持ち出してでも守らなければならないことをしているのか、自分にはただの殺人事件にしか見えないが、といった。 それから兄は、私の顔を見てゆっくりといった。「だって君、人がひとり死んでいるんだよ。何の罪もない人間が殺されたんだよ」(略)兄は最後に「あの事件はなんだかとてもいやな事件だ。信条の違いはあっても、安田講堂事件やベトナム反戦運動、三里塚の農民たちの空港建設反対は、いやな感じはしない。しかしあの事件はなんだかいやな気分がする」といった。(p178-p179)この兄の言葉は、映画では巧みに違う脚本に書き換えられているが、重要な言葉であった。私は今年の6月、山下監督の「マイ・バック・ページ」という映画を見て、最初は川本三郎をモデルとする妻夫木が全共闘運動に全面的に寄り添っており、それを映画でも追認しているというふうに捉え、反発した。しかしながら、今は違うと思う。映画はこの本の中にある一つのエピソード、高校生モデルの保倉幸恵との本の少しの「触れ合い」を大幅に膨らませたものになっていた。その視点は、その保倉に「あの事件はなんだかいやな気分がする」と語らせたことで、明確である。私は映画の「視点」を支持する。そしてこの本の中にあるように、「わたしはきちんと泣ける男の人が好き」(p41)と、保倉に言わせている。これが見事に効いていた。映画では、「きちんと」かどうかは観客に委ねられているが、妻夫木は最後に男泣きをするのである。今年100本以上映画を見たが、邦画のベストワンはこの映画になると思う。一方、本を読んでわかったことは、川本三郎は結局この朝霞自衛官殺害事件だけは「間違った方向」であったことは認めているが、全共闘事件全般は、ぜんぜん間違っていないと思っているということだった。69年から70年にかけて日本の反体制運動は次第に過激になっていった。爆弾闘争も始まっていた。70年の3月には赤軍派による日航機よど号ハイジャック事件がおこっていた。今にして思うと、こういう過激な行動への傾斜は"世界のあらゆるところで戦争が起きているというのに自分たちだけが安全地帯に居て平和に暮らしているのには耐えられない"という、うしろめたさに衝き上げられた焦燥感が生んだものではなかっただろうか。"彼等は生きるか死ぬかの危機に直面している。それなのに自分は平和の中に居る"。この負い目を断ち切るには自ら過激な行動にタイピングするしかない……。(p106-p107)こういうふうに一連の事件を曖昧に「擁護」している。「過激な行動」を「焦燥感」という「個人の問題」に摩り替えているところが、特徴である。川本三郎は朝霞事件で自らの証拠隠滅の罪を認めた直後に起きた浅間山荘事件については、「事件のことを話すのもいやだった。自分の事件のことも、連合赤軍のこともすべて忘れてしまいたかった」と思考停止の状態になっていることを告白している。おそらくこの本を書くまで15年ずっと思考停止だったのだろう。だからその15年後に、全学連議長の山本義隆や京都の滝田修を評価しているのである。私は79年に大学に入った。いわば、10年遅れた世代、しらけ世代全盛のときに人生で最も重要な選択を迫られた世代である。だからこそ、私は彼らに詰め寄る「資格」があると思っている。あなたたちが「全共闘運動とはなんだったのか」真に「総括」しなかったから、(もちろん力不足だったことは否定しないが)私はついに「活動家」になることができなかった。活動をするにはほとんど孤立無援に陥った。「あなたたち」とは誰か。その責任の「一端」は全共闘にだけではなく、そのシンパとして周辺に居た川本三郎たち、あなたたちの未だにこのようなことを言っているところにもあるのだ、と。
2011年11月29日
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「楊令伝6」北方謙三 集英社文庫呉用が楊令を見つめてくる。「行こうか、梁山泊へ」「ほう、本気になったか」「いままでも、本気だった。本気であるがゆえに、勝つ道筋が見えなければ、立つこともできなかった」「そんな道筋はどこにもない。俺たちにもないが、童貫にもない」「確かに、そうだ。私は、確かに、いや楊令殿自身に、手を握って引き摺り込まれたかったのかもしれない」「いくらでも引き摺り込んでやる。反吐が出るほどにな。俺が足りないと思っていたものが、これで揃った。あと足りないのは、兵力ぐらいなものだ。それはおまえの頭でなんとかして貰うしかない」「わかった」この巻は大きい戦の続いたシリーズの「転」巻のようものだ。今まで揃った漢たちの小さなエピソードを繋げている。一番大きいのは、聞煥章の人生に決着がついたことである。思えば、優秀な男だった。優秀なだけの男だった。頭だけよくて志がない男が国政に係わるとろくなことがない、ということの象徴のような男だった。「水滸伝」で消えるべきだと私は思っていた(あれだけ多くの漢がなくなったのだから、敵役の重要人物も死んで欲しかったという意味である)。生き残るにはそれなりの意味はやはりあった。彼が企てた燕州の「夢」は、その後いろいろとバリエーションを持ちながら活きていくのだろう。ただ、そういう男の運命の決着の付け方としては、これは私は一番相応しかったと思う。扈三娘にとっては、可哀想だったが。彼女には悲劇ばかりが襲い掛かる。美人薄命ならぬ、美人薄運か。せめて、長生きしてもらいたいものだ。候真の昇格(?)も非常に興味深い。童貫の王進の里訪問も大きなトピックだった。おかしいなあ、と思っていたが、青蓮寺も禁軍もちゃんとここのことは把握していたのだ。それでもここを急襲するようなことは何故かなかったのだという。少し青蓮寺を好きになった。意外にも吉田戦車の解説は今まででピカイチのものだった。楊令のことをよく理解している。日本には珍しい「革命小説」いよいよ快調である。
2011年11月28日
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「楊令伝5」北方謙三 集英社文庫「方臘殿に、お伺いしたい」燕青は、階を見あげて言った。「この乱で、血が流れすぎた、とは思われませんか?」「燕青、叛乱では、血は流れないのか?」「多すぎたのではないか、と申し上げております」「ひとりの血も、百人の血も、同じだ。一万であろうと、百万であろうと、俺の信徒どもは、死ぬほうが幸福だと信じたのだ。大地は血と同時に、信徒の喜悦も吸った」「わかりません」「わかる必要はない。俺は叛乱を起こして、面白かった。生きて生きて、生ききった、といま思える。教祖だけやっていては、そんな思いは得られなかったと思う」「流れた血が多すぎました」「どれほど多かったのだ。半分だったら、それでよかったのか?」「いえ」「血は流れるものだ。生きていれば、血は権力に吸われる。その権力に刃向かって流した血ならば、吸われる血よりましだっただろう、と俺は思う」「言い訳に聞こえます、方臘殿」「燕青、言い訳をしているのは、おまえだ。梁山泊は、これから宋と闘うのだろう。その時に流れる血の言い訳を、いまからしているのではないか」一瞬、そうかもしれないと燕青は思った。志のために流す血、と言える。しかし、方臘は笑い飛ばすだろう。「流れる血に意味はない。血は、ただ流れるだけだ。それが、連綿と続いた、人の世というものだ」方臘は再び背を向け、階を上っていった。方臘対童貫の戦に決着がついた。方臘側の犠牲、70万。ほとんどが信徒で、抵抗もなく死んでいった。燕青は、この小説では珍しく、何度も何度も繰り返し方臘に詰め寄った。ここでの問答は、この巻だけの問題ではなく、所謂「革命」の何たるかを問う永遠のテーマだからだろう。もちろん、ここでは結論は出ない。この巻で楊令は一挙に「水滸伝」以上の革命拠点を占領してしまう。しかし、それでは終らない。これから、「革命」が始まる。
2011年11月27日
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「モダンタイムス」(上)(下)伊坂幸太郎 講談社文庫「自分たちのはめ込まれているシステムが複雑化して、さらにその効果が巨大になると、人からは全体を想像する力が見事に消える。仮にその、「巨大になった効果」が酷いことだとしよう。数百万人の人間をガス室で殺すような行為だとしよう。その場合、細分化された仕事を任された人間から消えるのは?」「何だい?」「『良心』だ」「まさに、アドルフ・アイヒマンか、それが」岡本猛がストローで氷をまた、かき回し始めた。「じゃあ、その仕組みを作った奴が、一番悪い奴だ」私は単純に言い切る。「機械化を始めた奴が?誰だよそれは。それに仕組みを作った奴だって、たぶん部品の一つだ。動かしているのは、人というよりは目に見えない何かだ」(上巻P278-P279)なんだかだんだんと伊坂幸太郎が芥川のように思えてきた。頭がよくて、社会の本質を見据えているのに、社会を斜(しゃ)に構えて書くことしかできなかった、そして自殺した人物。この作品の中でも芥川の言葉が印象深く引用されている。「危険思想とは、常識を実行に移そうとする思想である」ところで、芥川の場合、「危険思想」とは「社会主義思想」のことであった。果たして伊坂の場合、どうなのか。「人というより目に見えない何かだ」というのが、私にはマルクスの「人間疎外論」のように思えて仕方ないのであるが。そして「アリは賢くない。しかし、アリのコロニーは賢い」という「国家」というものに、斜(はす)から捉えた小説になった。今回は「魔王」で提示された「独裁者とは何か」ということの伊坂なりのアンサーがある。結局、独裁者でさえ、一つのシステムの中に組み込まれて自由を持っていない。ということになっている。じゃあ、どうすればいいのか。「勇気を持て」「考えろ」ということなたのだろう。しかし、私はやはり伊坂の「逃げ」に思える。今回、本当ならば殺されても自然な主人公たちがのうのうトラストを迎えているというのすごく安易に感じるし、某元大阪府知事の「独裁けっこう」というへんな流れに対して肯定ではないにせよ、斜に構えることしか効果は無いこの小説に対して、少し幻滅したということもある。明日は、このままでは「独裁者」が誕生しそうな雰囲気である。もちろんこの某元大阪府知事も決して信念を持って「大阪を変えよう」と思っていないことは、斜から見れば、見えるほどに見える。それでも「変化して欲しい」と住民が望むというのならば、もう何をかいわんや。いつもの伊坂に比べて、伏線として使われる「名言」が嫌にひつこく使われていて、「切れが悪いな」と思っていたら、どうやら漫画週刊誌の「モーニング」に連載されていたらしい。その読者用に書かれたのだと思い、納得した。結果、同時期に作られた「コールデンスランバー」のような傑作とはなっていない。
2011年11月26日
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「報道災害【原発編】事実を伝えないメディアの大罪」上杉隆 鳥賀陽弘道 幻冬舎新書今年の三月から六月くらいにかけて、本屋の棚は活気がなかった。読みたい本が並んでいなかった。何の本かというと、言うまでもなく原発関連の本である。3.11から約一ヶ月、すべての国民が情報を欲していたと思う。もちろん、テレビは24時間震災と原発の番組をしていた。けれども、テレビは、そして新聞も、政府と東電の広告塔となっていたかのごとく、記者会見発表を鸚鵡返しのごとく、繰返していた。その後、後出しジャンケンのように、次々と前の発表が覆されていく。そのことを批判しながら報道した大手テレビと新聞はほとんどなかった。だからまとまった原発の情報が欲しかった。そしてメディアの嘘を暴く本も欲しかった。いま、本屋の棚を見ると、原発関連の本が所狭しと並んでいる。そういう状態になるのに約3-4ヶ月かかった。今までと比べると早かっただろう。しかし、ほんとうに必要な時にはなかったことを考えると、遅かったともいえる。この本はそういう種類の本である。とくに、3.11直後のマスコミのどうしようもない病根、記者クラブ制度について、徹底的に批判した本である。日本報道協会を立ち上げて、記者クラブを通さずに独自に記者会見を行う道を初めて作った上杉隆さんと元朝日記者の鳥賀陽弘道さんの対談形式で急遽作られた本である。対談なので、マスコミの嘘が一つ一つ精査されて時系列的に分析されて出てきているわけではない。特に上杉さんは、当初クラブ記者から「デマ」呼ばわりされていて、相当怒りながら話しているので、ずいぶんと話が飛んでいる。それでもその怒りながら話した前半のほうが、とっても面白いという種類の本である。新書は最近特にそうなのだが、特に今回は雑誌的な価値があると思う。けれども、この特別な時期に書かれた雑誌なので、資料的価値は高い。彼らの発言で記憶に残したい発言要旨を以下に羅列する。●震災当日の官房長官会見にフリーの記者は入れなかった。週一回金曜にはフリーも入れるようになっていたにも拘らず。そして入れるようになったのは、3月18日から、一週間に一回。●工程表をだせ、と質問する記者は一人もいなかった。フリーの我々がしつこいくらいに言ってやっと出た。そして新聞は一面トップで、何の疑問もなく載せる。一面に批判はぜんぜんしていない。たぶんニューヨークタイムズだったら、「こんな工程表は実現不可能だ」と書いているはずです。●今後20-30年間、日本の漁業は絶望的です。海洋投棄は、海は広いから放射性物質は薄まるというバカな事をメディアは言っていますが、小学生でも習う食物連鎖を知らないのでしょうか。アメリカで日本から食材を運んでいた高級店は潰れています。半導体産業も潰してしまった。半導体は放射能汚染されるとダメですから、すでに輸入停止になっている。●原発事故が遭った直後に調べたら、朝日新聞は50キロ圏外、時事通信は60キロ圏外に逃げているのです。この原稿は原発から50キロはなれた支局から書いています、とか正直に書いてくれればいい。自分たちは安全圏にいながら、「安全です」と書き続けるのは罪ですよ。南相馬市の市役所の皆さんは激怒していました。●大げさでなく、ほんとうに全部なんですよ。今ニュースになっている原発事故の案件、ほとんど全部フリーランスの記者たちの質問がキッカケなんですよ。二号機の格納容器の漏れ、ベントの遅れ。それからゴムが溶けたという案件、メルトダウン、炉心溶融、プルトニウム、海洋汚染、住民被爆、しかし、それはだれか政府高官や東電が積極的に発表したということにしちゃう。●日経の記者が実際に「勝俣会長様」とちゃんとマイクを通して会見の場で呼びかけています。日本インターネット新聞社の田中龍作さんが勝俣会長のマスコミ同伴の中国旅行について追及していたんです。マスコミ側が払ったのは、たった五万円です。そのとき、うしろから日経の記者が叫ぶんです。「独りよがりの質問をしてんじゃねぇーよ!」●今回の震災報道、日本の報道だけ見ていると、読者は「安全だなあ」としか思えない。●「情報を出さなかったおかげでパニックにならずにすんだ」なんていう人までいる。正しい情報が出されなかったために、正しい対策がとられなかった。とられた対策が適切なものかどうかも判断できなかった。そのために被爆してしまった人がいる。そんな事実よりも、「パニックにならずにすんだ」ことを喜ぶのはおかしい。●普通の国なら原子力災害時には最悪の事態を想定して国民の生命を守ることを第一優先にしますよ。そしてメディアのほうも東電や政府が隠そうとする情報があったら「なぜ隠すんだ」と追求するのが仕事なんですね。ところが、日本の場合は東電が嘘をつけば官邸も騙され、そしてそれをチェックする機関であるはずのテレビ・新聞も一緒になって騙される。●ぎりぎりだった自由報道協会の設立。立ち上げたのは、2011年1月26日。オープンな記者会見の場を作ることができた。これが2ヶ月遅れていたならば、震災後、権力側から何の情報も出てこなかったかもしれない。でもホントは、政府の記者会見が解放されそうだった、後もう少しだった。●いまはiPhoneとかアンドロイド携帯が一台あれば、簡単に生放送ができてしまう時代なので、時代が味方をしている。●小沢一郎が自由報道協会の記者会見に出てきた段階で、記者クラブの敗北になっていた。桂敬一さんが「ネットの強さですよ。だいたい勝負あったと思います」と言った。●記者クラブでは各社でメモを共有する。そしてそのメモがデマだったら、間違えて各社でデマを流してしまう。→これの最たるものが、9月の厚生労働相辞任のときに起こった。●4-5年前、朝日新聞の本社前の食堂で衝撃を受けた。労働組合のチラシに「今期マイナス1%を要求」と書いてあった。要するに労組が賃下げを要求した。1999年に会社に強硬な要求をした給与担当部長が突然組合自身によって解任されたのは、有名です。朝日は、原発がなくても電力が間に合いそうだということは言わない。その同じ論理で、今の購読料が適正料金なのか説明責任を感じていない。社員の平均年収が1300万円であることが適正なコストなのかってことも説明しない。株も公開されていないから、全く外部に説明しない。●具体的な原発報道災害の例は、先ずメルトダウン、情報を二ヶ月隠蔽したことでそこから推測される健康被害、人的被害を食い止められなかった。格納容器損傷についても同じ。汚染水も海に漏れている。そして放射性物質の飛散、3月15日の放射線量を発表しませんでしたけど、定点観測では毎時40マイクロシーベルトという強い数値が出ている。飯館村、福島、二本松、郡山、白河、伊達、全部15日までに急激に数値が上がって、今すこしづつ下がっている。
2011年11月25日
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【送料無料選択可!】春を恨んだりはしない 震災をめぐって考えたこと (単行本・ムック) / 池澤夏樹/著 鷲尾和彦/写真文学者の池澤夏樹が今回の震災に対してどのような言葉を紡いでいたのかを確かめたかった。理学部出身の池澤夏樹が今回の震災と原発事故に対してどのような知見を持っているか確かめたかった。池澤夏樹は震災の当日、高知県の田舎で一報を聞き、仙台の親戚の叔母のために情報を集め、やがて23日には仙台に行っている。その後、何度も被災地に取材とボランティアで訪れる。行動する文学者の面目躍如であろう。しかし、その中で生まれる言葉はそれほど衝撃的なものはない。私たちの知見とそれほど変わらない。そのことを私はとりあえず、確認した。そうか、この数ヶ月の震災体験というのは、「国民的体験」なのだ。この数ヶ月、何を見て、なにを感じ、何をしたか、ということは、これからずっと先、何十年も先、語り継がれるべきことなのである。もちろん、所々はっとするような言葉はあった。それならば、進む方向を変えたほうがいい。「昔、原発というものがあった」と笑って言える時代のほうへ舵を向ける。陽光と風の恵みの範囲で暮らして、しかし何かを我慢しているわけではない。高層マンションではなく屋根にソーラーパネルを載せた家。そんなに遠くない職場とすぐ近くの畑の野菜。背景に見えている風車。アレグロではなくモデラート・カンタビーレの日々。それはさほど遠いところにはないはずだと、この何十年か日本の社会の変化を見てきたぼくは思う。(p97) これを機に日本という国の局面が変わるだろう。それはさほど目覚しいものではないかもしれない。ぐずぐずと行きつ戻りつを繰返すかもしれないが、それでも変化は起こるだろう。 ぼくは大量生産・大量消費・大量廃棄の今のような資本主義とその根底にある成長神話が変わることを期待している。集中と高密度と効率追求ばかりを求めない分散型の文明への一つの促しになることを期待している。 人々の心の中では変化が起こっている。自分が求めているものはモノではない、新製品でもないし無限の電力でもないらしい、とうすうす気づく人たちが増えている。この大地が必ずしもずっと安定した生活の場ではないと覚れば生きる姿勢も変わる。(p112)
2011年11月23日
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日本原基地調査をした時の昼食は「つるや」だった。いま全国的に岡山県北のB級グルメが注目を浴びている。ご存知だとは思うが、先のB1グルメ全国大会で、蒜山のひるぜんそばが大会優勝を勝ち取り、津山のホルモンうどんが二位を勝ち取ったからである。しかし、25年前2年間津山に住んでいた私としては、ずいぶん意外ではある。どちらも割りとマイナーなたべものだった。あのころ、私がずっとお世話になっていたのは、このつるやのラーメンであり、うどんだった。ここは朝から夜中までやっていて、何でも揃っているいわば賄いつきのコンビニだったのである。ちょうど25年前からコンビニが岡山にも進出してきていたが、たぶんこのつるやがあっために、津山のコンビニ進出は10年以上遅れたと思う。現在でもコンビニの数はあまり多くない。驚くのは、「つるや」がコンビニに淘汰されずに健在だということである。この間の劇的な流通再編を考えると驚くべき粘り腰だといえる。それもこれも、地元に根ざしたこの豊富な惣菜の種類だろう。ここでは、100グラム158円の惣菜バイキングをしていたが、味とコストで考えると、とっても満足できる。私がこの日の昼食で買ったのは、これ。約200グラムで、きんぴらと野菜炒めと、鰯の南蛮漬けと牡蠣のフライをを一個づつ入れた。おにぎり二個とあわせて、495円ですんだ。田舎料理を食べた気分である。基地調査に帰りには、地元の焼肉屋アチャコ(東津山駅前)でホルモンうどんを食べた。ホルモンうどんはもともと焼き肉屋の締めの料理だったのである。私が知らなかったのは、あのころは焼肉屋で食べて飲むというのは贅沢だったからにほかならない。ひるぜんそばにしても、ホルモンうどんにしても、味噌だれはこの地方の家庭の味なのだろう。ソース味に慣れている人たちにとっては、それが新鮮に感じたのだ。
2011年11月22日
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1月20日、毎年恒例の自衛隊日本原基地の基地調査をしました。日本原基地は駐屯地と広大な演習場を抱えた、中四国最大の陸上自衛隊基地です。広さ約1900ヘクタール。年間250日から300日近く演習が行われており、岡山県の自衛隊員だけではなく、中四国からほとんどの駐屯地から「演習」に来ている。例えば、伊丹、明野、千僧、今津、福知山、桂、大久保、八尾、信太山、青野原、海田市、米子、出雲、三軒屋、山口、善通寺、松山、高知から2010年度には来ている。その参加延人員123520人、実に演習場がある奈義町の人口の約20倍である。自衛隊の本来任務とは何か。災害救助ではない。このような演習場で、「人を殺す練習」をすることだ。特に「実弾」演習は日本原でも増加傾向にある。2000年には年113日だったが、2010年には178日になった。今年は3月から6月まで福島へ仕事を集中していたので、もしかしたら来年のデータは178日がずいぶんと減るかもしれない。しかし、けっしてこれが半減するということはないだろう、というのは今日の調査を案内してもらった地元のMさん(勝田郡平和委員会事務局長)の言である。この演習場は過去五年間で三回も日米共同訓練を実施しており、自衛隊の演習もより実践的な内容になっている。まさに米軍一体となっていつでも「外で戦争ができる部隊」としてその性格を変えつつある。Mさんの地道な調査で、この10年間、装備、演習内容共にそれを裏付けるものばかりである。例えば、特殊武器防護隊(化学部隊)の参加、110ミリ個人携帯対戦車弾や120ミリ迫撃砲(縮射弾)の実弾演習が過去最高になったこと。レンジャー部隊の訓練、ヘリコプターの「国際平和協力活動訓練支援」の演習、などである。去年も問題になったが、2010年度も徒歩訓練が9回行われた。参加隊員は1063名。一回の参加で350人行進したこともある。半分が白昼の行進だという。約6割で警察の許可を得て空の小銃を携帯している。一番遠くに出かけたのは、夜間ではあるが、東粟倉から美作を通って勝北、日本原に戻るコースである。奈義山の縦走も夜間何回もしている。去年このことを書くと、コメント欄で奈義町民の女性の方らしき人から「町民も自衛隊が普通に見えるところ訓練をしていてもショックを受けるなんてありません。少なくとも奈義町で育ってきて自衛隊の訓練を目の当たりにして「ショックを受けた」なんて人は見たことがありません。」という意見をもらった。しかし、Mさんは「そのかたはそうかもしれないが、普通の人は出合ったらびっくりすると思う。私も一回だけ、早朝に出会った。ドキッとした」という。こういうことを「普通」のことだと言っていたならば、やがて山陰の町でやっているように白昼堂々街中を訓練として迷彩服が行進するという「戦時の風景が普通」という日本になるかもしれない。調査参加者からは「何か運動を起さないといけない」という声が聞こえた。午前はMさんから資料報告を聞き、午後から演習場内を自動車で゛見て回った。普通は日曜日は自衛隊員は休みなのだが、この日はなぜか非常に大掛かりに新たな道路つくりや整備をしていた。これは「潜入射場」である。土豪に隠れて的を撃つ訓練をするところだ。ここは最近新設された。「01軽対戦車誘導弾射座」である。小さく三角に見えるオレンジ色のところに戦車用の弾を当てるらしい。あそこまで約400mあるらしい。それゃあ、確かに訓練が必要です。射座でなにかの台だろうか。それを120ミリ榴弾砲の箱が流用されていた。日本の化学工場の名前がついている。「武器は日本製なのか……」と私が呟くと、「そんなのは常識」と参加者から言われた。「いや、憲法九条を持つ国として、そんなのは日本の国民の常識じゃないでしょ」と私は反論した。果たしてどちらが正しいでしょうか。ここは戦車射座である。遠くにかすかに見える徹甲が標的だ。日米共同訓練を始めて作られた「都市型訓練(テロ対策訓練)施設」が新たに作りかえられていた。最近の整備「訓練」にしても、この施設の作り変えにしても、来年に四回目の日米共同訓練がある準備ではないか、というのがMさんの意見である。やはり、一番「仕分け」しなくてはならないのは、これら「破壊」しか生まない防衛費なのではないか。こういう無駄な「訓練」に使う金なのではないか。シートをかぶって素人が見たらなにやらよく分からないが、トラックの列の手前から二列目からは短SAM(短距離地対空誘導弾)が置かれている。一基36億円だそうだ。少なくとも四基は確認できた。
2011年11月21日
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「おまえさん」(上)(下)講談社文庫 宮部みゆき男はどこまでも莫迦で。女はどこまでも嫉妬やきだ。どっちも底なしだ。俺はもう勘弁してもらうよ。長い1200頁以上にも及ぶ本格時代推理モノの今回は、本格的な恋のあれこれの話だった。人間の心は底なしである。宮部の小説はいつも長いが、描いていることはいつもその一点だ。雑誌での連載は09年に終わり、後は終章を描くだけになっていたのに、今まで延びてしまい、「申し訳ないから……」と単行本と文庫同時発売になったいきさつは、推測するほかはないが、宮部が恋の落し処に未だ迷っているという証左なのだ、と私は思ったね。同じ年齢(とし)の私が思うのだから、間違いは無いと思うよ。白髪の多い薄い鬢を指で掻いて、源右衛門は初めて恥じ入ったようにうつむく。「やはり、わからん」むしろ学問を続けるほどに、わからないことが増してゆくようだった。「それでも、儂は学問をしてよかった。人というものの混沌が、その混沌を解こうとして生み出した学問が、儂にわからぬことの数々を教えてくれた」
2011年11月20日
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「鷺と雪」北村薫 文春文庫「お嬢様。……別宮が、何でもできるように見えたとしたら、それは、こう言うためかもしれません」「はい?」ベッキーさんは、低い声でしっかりと続けた。「いえ、別宮には何もできないのです。……と」「……」「前を行く者は多くの場合―慙愧の念と共に、その思いを噛み締めるのかも知れません。そして、次ぎに昇る日の、美しからんことを望むのかも―。どうか、こう申し上げることをお許しください。何事も―お出来になるのは、お嬢様なのです。明日の日を生きるお嬢様方なのです」わたしはヴィクトリア女王ではない。胸を張って《I will be good》と即答することはできなかった。 だが、この言葉を胸に刻んでおこうと思った。昭和初期の上流階級の日常に潜む「謎」を解く趣向の「ベッキーさんシリーズ」はこの本にて終る。09年の「玻瑠の天」のとき、あと3年待たないといけないなあ、と思っていたが二年と少しで文庫になった。急いで読んだ。足掛け七年をかけて、英子さんの未来を描いたのだとつくづく思う。最後まで、「日常の謎」を描きながら、一方で「時代」をも描くという難しい課題に挑んだことに敬意を表す。改めて、「ベッキーさんは未来の英子さんなのだ」という宮部みゆきの喝破に敬意を表す。上流階級の純真で賢くて英明な女性の日常の思考の推移をきちんと描いているが、それでも彼女は「外の世界」を少しだけ垣間見る。「不在の父」ではルンペンの世界を、「獅子と地下鉄」では上野を根城にする少年少女の小犯罪集団を、そして「鷺と雪」では2.26事件を。ベッキーさんはずっと思っていたはずだ。「外の世界は大人になれば否が応でも見えるようになる、眼をつぶることのできない女性だからこそ、しっかりと守って生きたい」。と。あそこで終わって正解だった。文庫の解説にはシリーズ全体の構想がどこから出たのか、という「謎解き」がされている。北村薫は、なんと一番最後の場面からこのシリーズを創って来たのだそうだ。なるほど、だから最初の章に服部時計店がでてきたのではある。北村薫は松本清張の「昭和史発掘」のたった数行のエピソードからこのシリーズの着想を得たという。2.26事件について書かれたところである。それは以下のようなエピソードだった(普通の人がここからあのような話を作れるかどうかということは、また別の話)。官邸の電話は一本だけ残して、みんな切った。「その残した電話が銀座の服部時計店の番号と似ていたらしく、ハットリですか、という間違いの電話がずいぶんかかってきた」(石川元上等兵談)
2011年11月19日
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11月8日、児島文化センターで市民文化祭特別企画「活弁シネマライブ」というのを見ました。 無声映画を活弁で見よう、という企画です。活弁士は前座で郷土の活弁士むっちやんかっちゃという夫婦の岡山弁での活弁。トリにプロの活弁士・美人の佐々木亜希子さんがが85分の大作を演じてもらいました。最初の「子宝騒動」(昭和10年)は喜劇の神様と呼ばれた斉藤寅次朗の最高傑作。貧乏人の子沢山、失業中の亭主福田さんが生まれそうになっている女房のためにお産婆代を稼ぐために近所をあちこち、金満家の豚を追って大奮闘するという話です。昭和の下町の風景がとっても貴重。会場大爆笑でした。次は佐々木さんの「結婚哲学」。なんと1924年米国作品。大正13年度キネマ旬報ベストテン芸術的優秀映画の第二位の作品です。監督はエルンスト・ルビッチ。こちらは淀川長治さんが「映画の神様」と呼んだ人らしい。見事な艶笑コメディでした。二組の夫婦と一人の独身男が引き起こす恋愛騒動です。かたや親友のだんな様にフォーリンラブ、かたや同僚の親友に横恋慕、奇妙な五角関係、結末やいかに……。この映画ができて12年後の日本映画を見たから余計にそう感じるのかもしれませんが、米国の映画水準はやはりすごい。俳優の決死の「動き」だけで話を作らざるを得なかった昭和初期とは違い、コメディではあるが、「気持ちのすれ違い」が笑いを生むのであって、それを演じる俳優たちは眼の演技だけでそれを説得力を持って表現するのです。見事な心理描写。淀川長治さんが絶賛するはずです。そして佐々木弁士は五人の声音を見事に使い分け、トーキーと全く変わらない、いや、監督の意図を超えてそれ以上の台詞回しになっており、すばらしいものでした。また、特筆すべきはエレクトーン(?)演奏が着いているのですが、もうこの映画ぴったりの曲を編曲或いは「作曲」してその場面に合わせて演奏してくれていたのです。野原直子さんという地元の方なんですが、びっくりです。いまや、活弁上映は、総合舞台芸術と言っていいと思います。そして、佐々木弁士は美人でした。
2011年11月18日
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「岡本唐貴自伝的回想画集」東峰書房 (1983発行)この本をなぜ読もうとしたか。それはこの著者が白土三平の父親であるからだ。なぜ父親であるというだけで、読もうとしたか。それは、白土三平にとって父親はとても大きい存在であるのにも拘らず、ほとんど語られてこなかったからである。この本の存在を知ったのは、「白土三平論」(毛利甚平著)による。途中で図書館の貸し出し期間が終わったので、まだ半分くらいしか読んでいないが、初めて纏まった岡本唐貴の著書に気がついた。もう一つこの画家に興味を覚えた理由に、わが郷土の人だということがある。岡本唐貴が生まれたのは、現在の岡山県倉敷市連島町西之浦の腕というところらしい。西之浦は良く知っている。彼の実家はそこの地主みたいなところらしい(いつか調べようと思っている)。父親はそれを嫌って若いときから家に居つかず、職業を転々としている。おかげで唐貴(本名は登)は三歳のときから暫らく笠岡の海のすぐ近くに住んでいた。カブトガニ戯れて遊んだ記憶が鮮明なようだ。その後、長崎に行く。小学校は西浦小学校に入り、その後五年の時に常盤小学校に転校、すぐに西浦に戻りここで卒業している。彼はここの裏山から晴れている時は四国の剣山が雪をかぶっているのが見えたと書いているが、現在はその間に水島と丸亀の工業地帯があり、絶対に無理になった。小学校時代に絵の才能を自ら認めるようになる。しかし、絵が得意な子供は日本中に山のようにいる。私も小学校中学生のころ、絵が得意でいつも五段階評価で五だった。何が彼を絵描きに、しかもプロレタリア画家にしたのか。小学校卒業(1916)後は、岡山市つづいて神戸市に出て、父の家業に従事した。働くことは楽しかったが、父は家業に失敗し、倒産寸前に追い込まれ、古本屋を始める。それを唐貴にまかせた。1917年米騒動と労働争議を目撃。「兵隊が機械的に人を殺すのを見て、言いようのない驚きを感じた」と書いている。驚くのはここまでの経緯が、ほとんど白土三平と酷似しているのである。白土三平(岡本登)も、ものごころ付く時から父親のために引越しを繰り返し、貧乏な環境で過ごし、小学校卒業後から直ぐに働き出し、独り立ち、そしてほとんど同じころに「血のメーデー事件」に出会い、警官が人民を倒すところを目撃している。恐ろしいくらいに似ている。この経緯で思うのが、やっぱり「サスケ」で大猿と同じ道をほとんど疑問もなく歩むサスケの姿である。唐貴はよく働き、一家を支えるまでになる。その時、父が脳卒中で倒れ、なくなる。1919年唐貴はいったん病を治すために店をたたんで郷里に帰る。直ったころ、遺産分けで50円の現金を手にする。かれはそれで全部油絵の道具を買った。白土三平はこの年のころには既に紙芝居の仕事にかかっていた。物語を作る方向にいっていた事で、少し父親との人生と違いが出始める。祖父・叔父の仕事を手伝いながら、唐貴は小作人が年貢を納めに来た時の葛藤を体験する。唐貴は帳面を付けているのだが、「葛藤は米の計り方にあり、升目の微妙な計り方が地主対小作の暗黙のたたかいの場になった。斗枡と一升枡の計り方は息を呑むような微妙な呼吸で、米ツブの流し込み方、升のきり方まで、すごい緊張ぶりで私はほとんど感じ入ってしまったことであった。これは農村生活のもっとも基本的な社会的・人間的対立と葛藤の象徴のようなものであることをそのとき深く感じさせられた」と書いている。この文章は私は重要だと思う。当時、小学校卒業で働いていた少年は山のようにいた。しかしほとんどは社会主義者にはならなかった。しかし、唐貴はすでに神戸という都会で一つの店を立ち上げ、運営、終らす体験をしている。その上で、権力が人民を殺す場面も見た。その上でこの封建時代の象徴のような場面をじっくり観察できた。宮沢賢治が金貸しの父親の職業を直感的に人道的立場から嫌っていたのとはまた違い、唐貴の場合は明確に「階級対立」という眼でこれらの職業を観察していたのである。ここから「プロレタリア運動」へは直ぐである。ちなみにこの場面は白土三平の「カムイ伝」の中でほとんどそのまま描かれる。何処かで父親から話を聞いていたのに違いない。唐貴は画家を志して17歳で神戸に出て、友人浅野孟府に出会う。そして二人で東京に出る。中央美術展で「夜の静物」入選。また、「神戸灘風景」も入選して1922東京美術学校に入学、1923年関東大震災に出会う。駒込の友人宅で震災。一瞬外に出るのが遅かったら、家に押し潰されていたという。坊ちゃんの画家との比較については既に述べた。唐貴はデッサンこそ残さなかったが、比較的詳しくこの日のことを描写している。相当ショックだったみたいだ。短い間に目まぐるしく、描き方が変わったと告白している。暫らく神戸三宮に居て、三宮神社の境内のカフェ・ガスというレストランでサロンみたいな交流をする。アナキスト、新聞記者、学生、労働運動家、詩人、文学的サラリーマン、それに画家、演劇人。のちの書き方で唐貴はこのように自らの青春を総括している。「私は神戸で、少年時代労働者街の近くに住み、又青年時代に神戸の東西にある工業地帯で、大きなストライキに出会い、身近な人たちもそれらの動きとの関連があった。私は身をもって社会の底辺におかされたと覚悟した時、生きていく道は、階級闘争のあの生命力をつかむことだと深く感じた。私は三科運動の崩壊を必然と受け止め、方向転換を志した。 階級闘争の道による人間回復、個人主義から集団主義へ、ペシズムからオプチシズムへ、ダダ的な破壊から、絵画の新しい生命力の回復へ。」1926年、いよいよ彼はプロレタリア美術運動に入る決心をする。1928年、共産党大検挙の巻き添えで第一回目の検挙。1929年、岡山県立美術館にある大作「争議団の工場襲撃」(正確には本人による再生)が完成する。1930年唐貴、結婚。1931年、日本プロレタリア美術家同盟書記長。39年再検挙。共産党に入っていなかったので不起訴になった。そのあと、唐貴は小林多喜二の通夜に立ち会う。つまりは、そのようなところまで唐貴は入っていたということである。唐貴は三時間ほどで多喜二ののデスマスクを写生し終える。この絵はそのときの絵ではなく、この画集の為にもう一度思い出して描いたものである。1943年、唐貴はあと一年半だと考えて、家族と共に信州に疎開する。この辺りは、非常に正確な情勢判断だった。唐貴は決して政治的人間ではなかったが、生涯をかけて階級闘争を闘うことで当時の情勢のもっとも鋭いところに居たのである。ここにも、情報の多寡が情勢の正しい判断に必要ではないという見本がある。信州で長女が生まれたときの喜びを画集に描いている。唐貴は戦後を複雑な気持ちで迎えた。「私はプロレタリア美術運動の出直しを、より広汎なより健康な民主主義的美術運動としてやりたかった。ところがふたをあけてみると、政治色の強い民主主義美術運動であった。」唐貴は「中に入ってみなくちゃわからんだろ」という理屈の元に日本共産党にも入党するのであるが、結局約10年後には離党している。唐貴の言う「より広汎なより健康な民主主義的美術運動」の姿は抽象的であり、しかも戦後の高揚とレッドパージが準備されているあの状況下で可能だったのかどうかは分からない。ただ、今の状況下では可能だったかもしれない。唐貴の美術理論は探してみないと分からないし、専門ではない私には理解できない(一部だけ探して読んでみた)が、一旦党に入り、離党し、晩年になって穏やかにプロレタリア美術を一貫して追求したこの姿に、私はやはり白土三平の姿を重ねざるを得ない。唐貴はこの自伝をあらわして直ぐに他界した。
2011年11月16日
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ふくやま美術館は二回目。この博物館めぐりで、一番見所があった。とくに、特別展示として「小林徳三郎と東京モダン」というのをしていた。徳三郎(1884-1949)の名前は初めて知ったが、実は今読んでいる白土三平の父「岡本唐貴自伝的回想画集」と比べると、同時代の画家として対極にあるような気がして興味深かったのである。これは美術館のエントランスホールに掲げているバラディーノ・ミンモの「行く者、とどまるもの」である。福山で生まれてはいるが、幼いころ東京の伯父の養子となって東京高等工業学校、東京美術学校と進んでいるから、いわばいいところの都会人として成長していたということになる。そして岸田劉生のヒュウザン会に参加、紀伊国屋、資生堂で個展を開いている。一方岡本唐貴は1903年倉敷市に生まれた。どうやら祖父は地主のようだが、父親はどうもそういう血筋を嫌って非正規労働者として転々としていたらしい。唐貴は郷里西浦の小学校こそ卒業したが、生涯何度も何度も引越しをしている。生涯貧乏とは離れなかった。16歳の時に米騒動を目撃。やがて次第にプロレタリア美術運動にのめりこんでいく。活躍の舞台は共に東京ではあるが、作風は当然大きく違う。何の苦労もない徳三郎であるが、たぶん一瞬だけ二人が接近した時がある。関東大震災の時だ。二人とも東京にいて、その後二人とも郷里(唐貴は母のいる神戸)に帰っているのであるが、徳三郎は発表は一切しなかったが、震災で道端に死んでいる男たちをスケッチしている。たくさんの徳三郎の絵画の中で、それだけが異彩を放っていた。一方、唐貴は震災の時はスケッチどころではなかった。震災の混乱の中を上野公園やあちこち歩き回る。しかも知り合いから「あんたたち、朝鮮人と間違えられて匕首をもった人に付けられていたよ」と注意を受けるくらいだったという。もしかしたら、匕首を持った男はここぞとばかりアカの噂のあった唐貴たちを狙っていたのかもしれない。此処で二人はほんの少し接近するが、やがて唐貴はさらに先鋭化していき、逮捕が繰返されるようになる。戦争の時代、徳三郎は資生堂の社長から箱根の別荘を紹介されてゆっくりと静物や景色を描いている。唐貴は更に困窮を極め、家族も登(白土三平)等子供四人になり、大阪朝鮮人部落、信州等引越しを繰り替えす。どんな絵を描くか。それは、持って生まれた素質ももちろんあろうが、生まれ出ずる環境も一種決定的であった、のだと私は思ったのでありました。それは、おそらく白土三平の場合にも当てはまるだろう。
2011年11月15日
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この前の土曜日、電車で福山に行った。雨の日だった。倉敷駅前には雨の日になると250円が200円になるたこ焼き屋がある。何も調べずに行ったのだが、結局博物館めぐりになってしまった。福山駅前には福山城があり、その周りは文化スポットとして博物館、美術館が集中していて、とっても便利です。今まで二回ほど来た事はあるが、今回初めて訪れたのがこの福山城博物館。幕末の名老中阿部正弘を輩出した藩だったということを実は初めて知った。宮本常一の「旅の10か条」に倣ってとりあえず一番高いところに登る。映画「一命」でも描かれたが、福島正則の雄藩だった広島は徳川家光の時代に武家諸法度違反という言いがかりをつけられ、転封を命じられる。その後にこの備後の地に来たのはやがて水野忠邦を輩出する水野家。そこも転封。やがて徳川家の譜代大名阿部家が1658年から1871年の200年以上を治めることになる。そういえば、岡山も宇喜多秀家の時代から池田の時代へ、昇格と降格の大名人事があった。江戸時代の幹部もなかなか辛いね。福山城は典型的な平城であるが、北に小山を抱えて二重の濠を抱えたなかなかの要塞の役割をももっていたらしい。天守閣から駅方面を眺める。ここも初めて来たが、ふくやま文学館はいわば、井伏鱒二文学館と言っていいほど井伏の資料が充実していた。興味がないので、すらりと終る。ここも初めて。文学館の北側に福山市人権平和資料館がある。数少ない平和資料館の一つだ。公共施設らしく、どうもイマイチ無駄に広い。二階は同和資料館となっているが、もっと「人権」を幅広く展示すべきだと思った。さて、三回目の広島県立歴史博物館だ。前回はサラッと流した考古展示物をしっかり見ようというのがテーマだったが、やっぱりイマイチのものばかり。貝ヶ原遺跡の特殊器台「形」土器というのがあった。弧帯文様は既になく、埴輪に移る直前のように感じられた。此処の見どころは、なんといってもかんといっても、草戸千軒遺跡の実物大復原展示である。洪水によってタイムカプセルになった遺跡で、この展示は650年前南北朝の初夏の夕暮れの市場に焦点を当てているという。この遺跡によって、中世の姿が農村の風景から、世界的に貿易をする中世都市に変化したという意義がある。下駄職人の家である。ここの展示だけは写真撮影がオーケーだった。ジオラマだ。室町と言っても、現代の田舎の風景とほとんど変わらない。さて、つぎはふくやま美術館だ。
2011年11月14日
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11月22日(月)雨 最終日フェリーはほとんど揺れることなくいつの間にか下関港に着いていた。もう少し厳しい税関検査があるかと思いきや、簡単に終ってしまい肩透かし。下関は雨だった。思えば、行きの朝も雨で韓国の20日間はずっと晴天か曇りだった。そして帰りも雨だったということになる。下関駅で300円カレーを食べる。店のおばさんに「韓国旅行中ずっと晴天で、ここに着くと雨なんでびっくり」「ここいらもずっと良い天気だったけど、今朝突然雨になったのよ」「この店のお水は韓国よりも美味しいですね」「あらそう。普通の水とは違って浄水器を使っているのよ」「韓国でもお店の水はたぶん水道水じゃないと思うんだけど、なんか此処のは水が甘く感じるんですよね。それに水差しに氷を入れるサービスは韓国にはないんです」「そう。ありがと」「あ、それからカレーも美味しかったですよ、本当に!」300円にしてはホントに本格的カレーだった。釜山のフェリー乗り場で駅前のグリーン商店街ではwが使えるという張り紙を見た気がしたので、今日の昼食を調達しようといってみる。レートがいいので得だと考えたのである。この商店街は幾つかの店が韓国料理専門店だったり、食材屋だったりする。ところが、二軒ほどに「ウォンは使えますか」と尋ねたところ、「そんなことは聞いたことがない」という。がせねた、韓国の側のいいかげんな情報だったのか、私の勘違いだったのか。電車の切符を現金で買ったらもうほとんど現金がなくなったので、コンビニでクレジットカードで買うことにする。ヨーグルト、おにぎり、お茶、漬物、ワンパック焼酎を買って802円なり。ウォンで言えば、一万W以上の買い物だ。韓国の物価が懐かしい。韓国ならば、半分くらいの価格で買えるか。けれども、この物価でまた生活していかなければならない。電車賃も行きと同じで5780円。韓国ならば、バスで釜山とソウルを往復できる金額である。……ただ、10時3分発の長い長い各駅停車の旅をして思い返した。日本のローカル線にはホントに乗客が乗っていない。運賃はこれが精一杯なのだろう。車窓からはスーパー等の駐車場に車が一杯の場面を何度も見た。やはりなんやかんや言っても、日本は車社会なのだ。その前提が変わらないのならば、高速道路無料化は日本経済効率化の起爆剤になるかもしれない。(……と、この時の日記には書いている。今は昔の物語)いつもそうだが、外国から帰ってきたこの時だけ、私は日本文化評論家になる。外国の眼から日本を眺めることができるからである。懐かしい日本の山並みである。やはり日本の山は岩山が少ないと思う。古事記では、日本を泥をこねて作ったと書いているが、それは朝鮮半島から来た人たちの実感だったのではないか。つまり、あの記述あるいは伝説は、渡来人一世が作ったものなのではないか。日本のどの家も、韓国のスタンダードな家から見ると、「お屋敷」に見える。反対に言えば、一般家庭の家の大きさの違いが客観的に言って日本と韓国の国力あるい民力の違いなのではないか。しかし、それがいつまでも続くとは思えない。携帯と薄型テレビの普及率は、おそらく韓国は日本を抜いているだろう。以上、22日間、私としては最大の旅レポートを終る。一年かかってしまった。また12月23日からは、気楽な一人旅をしてきます。果たしてどうなるやら。コーヒー缶120 朝食300 電車5780 昼食802計 7342円
2011年11月12日
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市場に戻る。キムチはさすがにいろんな種類がある。店先にはこの倍くらいの種類を売っていた。映画の時間だ。「フェスティバル」である。韓国特有のエロチックコメディである。リュウ・スンボンなどの演技派がたくさん出ていてものすごく期待していたのだが、外れてしまった。釜山繁華街公開一週目日曜日の上映なのに、観客がなんと私含めて6人しかいない。韓国の人たちはもうこのような下ネタ満載の映画には見向きもしなくなったということなのか。客の反応を一番期待していたのだが、コメディ映画で少しも笑いが起きないということほどつまらないものはない。SM、女装、人形フェチ、がさつ男という偏向性癖を持っている彼らが最後には「自分たちの居場所」を確認するとというような話のよう思えた。俳優たちは頑張っていたが、途中で寝てしまった。昼食はぶらぶら歩いていて見つけた「カマソッ」という処で石釜ボッサム定食というのを頂いた(釜山市中区光復洞3街5-51)。釜山のせいか、釜ご飯の定食屋はたくさんあるようだ。ここのメインは釜炊きご飯である。丁寧にも、最後におこげ汁を作って食べれるように専用の汁まで用意されている。韓国ではオコゲご飯が一つの料理にまでなっている。郷愁を誘うのであろうか。韓国では汁を入れて食べる。一方、日本ではそのまま食べるのが一般的だと思うのであるがどうであろうか。日本でも一定の年齢上はオコゲご飯が一般的だったと思う。好き派と嫌い派に分かれるのであるが、私は徹底的に好き派だった。母親にわざと作ってもらってお菓子感覚で食べていた。だから基本的にオコゲは柔らかい。ここの店のは固くて好みではなかった。その後はお土産を買いに市場に戻る。大長今(チャングム)テーマパークで、肝臓と糖尿に良いお茶をメモしていたのだが、昨日の弥勒山に忘れてきた。とりあえず、五味茶とトングル茶と棗茶を買う。棗茶は効能は少ないが、味を調えるためにブレンド用に買った。テーマパークで買うより、1/3ぐらいになったと思う。市場のスーパーで、コチジャンやお菓子、それと重たくなるので迷ったが焼酎の「チョウンデイ」を四本買った。コンビニで買うより安い。さて、ターミナルに戻ってチケットを買う。106200w。行きが10400円だったので、レートを考えるとwで買ったほうが断然安く付く。日本で帰りの予約を取らなかったのは、このためであった。これが帰りのフェリーのカナリア号である。市場で次回の韓国旅行のために四万円の換金をする(この時はもうこれ以上安いレートは無いと思っていた)。最後のレートは1370w/100円だった。船のジャッキから釜山港を眺める。帰りの下関フェリーはすべてが円建てになっていた。もう帰りの電車賃と食事代くらいしか持っていなかった私は少々あせる。これが二等の部屋である。フェリーの中で、私とほぼ同じ年代で釜山で旅をして来たという人と同室になった。焼酎を四本買った私は免税本数が3本ということに気がつき、彼を誘った。飲みながら旅の話をする。彼は四日間釜山のみを回って飲み屋などでいろんな人と話をしている写真を見せてもらった。私とはまた違った旅をしていて、面白かった。朝食1,500 本20,000 映画7,500 昼食7,000 お茶のお土産14,000 その他お土産30,000 財布20,000 スーパーでのお土産18,950 コーヒー2,800 船代10,620 夕食600円計 227,950w+600円
2011年11月11日
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11月21日(日)晴れ 21日目朝一番で国際ターミナルに行って今日のフェリーの切符を予約する。まさか満席ということはないだろうと思っていたが、無事取れてほっとする。行きと同じ大部屋の二等である。国際ターミナルから出たところにある教保生命ビルには、ずっと気になる石碑があったので近づいてみる。「必死即生骨肉之情」とは穏やかならぬ言葉である。後ろに回ってみると、「第三歩兵師団創設地」とあった。第二次世界大戦ではなく、創設は1947年12月とあるから、朝鮮戦争末期釜山が占領されそうになった時の軍だろうか。朝鮮戦争ではさぞかし骨肉相食む戦いになったことなのだろう。また、いっぽうではこんな車も見た。昨日か今日か、結婚式で盛り上がるのだろう。ちょっと日本にはないような派手さがある。南浦洞にもどって映画のチケットを買う。それから市場を散策。遅い朝食である。キンパbの値は数年前から値上がりしていて、どうやら1500Wに統一されたようである。不味いところもあるが、此処のは美味しかった。しかも野菜汁まである。ひやかし歩き。味噌の種類だけでこれだけあるのならば、料理の味付けは奥が深いんだろうな。朝の目的は、じつは古書通りに行って韓日辞書を買うことだった。ところが、なんと日曜日は一斉休みらしい。これは困った。通りには小学生の絵がずらりと飾られていた。歴史のある古書通りで、地域の自慢なのかもしれない。一軒だけ開いていた。もう選んではいられない。そこにあった一番大きな辞書を買う。いい辞書だといいな。20000wと安い。古書通りを出たところでこんな階段があった。やっぱり上に上ってみたい。昨日の階段とは違っておしゃれな家が途中に建っている。登ってみると、南浦洞の市場をすべて見渡すことができる。大きなビルでも、やっぱり貯水タンクはある。釜山の水道事情は特殊なのか。
2011年11月10日
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西面のロッテデパートに着いた。映画館のフロアにはチョン・ドヨン様がイ・チャンドン監督とニコニコしている写真があった。カンヌで主演女優賞を獲った「ミリョン(「シークレット・サンシャイン」)」の時に舞台挨拶に来たのだろう。今日見た映画はこれ(日本での題名「義兄弟」)じゃない。カン・ドンオォンが嫌いなので選択しなかったのであるが、この日公開されていた韓国映画で一番見ごたえがあったのは実はこれだったということは、日本で映画を見た時に思い知った。洋画では「レッド」をしていた。ポスターではどうしてブルース・ウィルスが一番目立っているのか。確かに主役だったけど、作品的にはモーガン・フリーマン、ジョン・マルコヴィッチ、ヘレン・ミレン と同列に扱われていた。もう一つの洋画は「レット・ミー・イン」。日本では「モールス」として今年の夏に公開。日本の邦題は意味がないとブログ上では話題になる。韓国の題名は原題だけど、結局こちらのほうがよかった。とは、今だから読めること。このハングルを「LET ME IN」と韓国の人は読めるのだろうか。それから、ポスターを見る限りではまるで恐怖映画のような紹介をしている。違うんだけどなあ。結局映画は「トゥ・ヨジャ(「二人の女」邦題としては「女友達」を推薦)」を見た。夫の浮気に気づいた妻が、こっそりその愛人と会っているうちに、奇妙な友情関係が作られるという話です(話が単純なので、言葉が分からなくても何とかついていけました)。会場は公開週ということもあってか、150席ほどのホールに約9割方入っています。作品的にはダメでした。夫があまりにも無責任すぎる。濃密なドラマになっていない、となんとなく感じました。けれども、会場の反応には感心しました。最後のもっとも悲劇的な場面で、思いもかけず劇場は「大爆笑」していたのです。日本ではせいぜい「失笑」するくらいでしょう。だって明らかに監督は笑わそうとして絵を作っていないんです。韓国の映画ファンの作品をとことん楽しもうという「観客魂」を見た気がしました。韓国最後の夜の晩餐です。やっぱり焼肉が食べたい。南浦洞で最近できたみたいな安い焼肉屋に入りました。テベ三枚肉(豚肉)を頼みました。三人前からしか頼めないのですが、一人前が1900w(150円)と安いのです。焼肉は野菜で巻いて食べるのでとってもヘルシー。安いのでダメかな、と思ったけどお変わりを頼むとちゃんと持ってきてくれました。初めてですが、副菜に「ポンテギ」が付いていました。食べてみます。淡白な味のお肉という感じです。この日は太陽荘旅館二日目です。これで25000Wは安いと思いませんか。宿25,000 カップラーメン1,500 博物館本3,000 昼食3,500 たこ焼き1,000 映画8,000 コーヒー1,500 キョトンカードチャージ5,000 夕食8,700計 57,500
2011年11月09日
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面に地下鉄で行って、そこから10番バスに乗って、門?洞(ムニョンドン)壁画村で降ります。おじさんに「壁画村はどこでしょう」と聞くと、「あっちだよ」と直ぐ答えてくれました。有名らしい(遺跡めぐりをしているとこういうことはめったにない)。どうやら、観光地(?)らしく、壁に絵を描いている村ということで大きいカメラを持った中学生や若者のグループに3組ほどであったのでした。彼等は壁画を撮影しに来たのでしょうが、私の目的は違います。いつも脇役でお母さん役をしている女優が怪演した「母の証明(原題「マザー」)」という映画がありました。ウォン・ビンの兵役復帰第一作ということでも有名になりました。ドンジェ(ウォン・ビン)が住む村で殺人事件の舞台になったところのはずです。二人の住人に「ここは映画のロケ地ですか」と聞いて「そうだ」と言ってくれたので確かではある。ところが、雰囲気は確かにあるのであるが、映画のシーンにあるようなアングルがなかなか見つからない。夜のシーンが多かったので、壁画なんて映画では一度も出てこない。入り組んだ路地と坂道、そして貧民窟の雰囲気、あの映画の世界観です。結局殺人があった場所の特定はできませんでした。あれだけはセットだったのかなあ。暫らく歩いてみました。貧民窟ではないけれど、映画に使えそうな場所は幾つかありました。この辺りの家はことごとく貯水タンクを持っているのが特徴です。いや、これは釜山の町の特徴といっていい。釜山の水道事情なのでしょう。ここから見下ろす景色は釜山の典型的な密集住宅です。ところが、道を一歩隔てると隣には高級高層アパート群がある。韓国にはよくある風景です。なんというか、わざとやっているような気もします。「ここは開発に乗り遅れているんだぞ。早く取り壊しに応じろ」と言外に言っているのでしょうか。私的にはこの絵に芸術的価値を感じません。どうしてみんなが撮影しに来るのかがイマイチ分からない。撮影隊は一体何に美的価値を持っているのか。一旦降りて、今度は普通の住宅地をあがって見ます。坂道は子供たちの格好の遊び場所であるというのは、万国共通。モクハァ・スーパーマーケット。スーパーとは名ばかりの雑貨屋。日本ではこの手の店は街中ではことごとくコンビニに取って代わられたけど、まだ釜山ではそこまでは行っていないみたいです。何度も言っていますが、韓国の流通は日本のそれとは、二歩も三歩も遅れている。ロッテが流通を独占していて、あぐらをかいているせいでしょうか。電線の配線に職人的な技は感じられない。なんか素人が適当にやっているように思える。この坂道なんかには「芸術」を感じます。さて、バス通りまで出て、西面のロッテデパートで映画を見よう。
2011年11月08日
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よく整理され、アメリカの雰囲気を掴んだ映像だと思う。運動の意義と、可能性と、危うさがこの映像の中にある。
2011年11月06日
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次の目的地に行く前にこの日、街歩きをして気がついたことを幾つかコネタ的に紹介。。ディスカウントスーパーに入ったところ、柘榴4個1000wを「ざくら」と書いていたので、店長に指摘しました。「すみませんでした」とは一応言いました。こういう日本語の間違いに対して、指摘したら一応謝るけど、「ほんとうですか?それは大変だ!」という表情は全くない。つまりは「ケンチャナヨ」精神なんですね。街中にチャップリンの写真があったので、ちょっと文章を翻訳してみると「電気は国産だけど、燃料は輸入します」という電気会社のスローガンみたいなものが書かれてあった。どうも「国産」と「輸入」に関して、非常に敏感な世論ができているようです。当然李明博大統領の米国との二国間関税撤廃条約(FTA)の世論とのせめぎあいがこういうところにも現れているのかもしれない。街では「少女時代」(だよね?)の写真がずーと溢れています。この1-2年は彼女たちの時代なのでしょう。南浦洞でたこ焼きを売っていました。味を確かめるために、3個1000wを買ってみる。確かにカリカリと焼いて、中はトロリで、小さいタコも入っているのですが、何かが違う。あまり美味しくない。上手くいえません。出汁でしょうか。有名店らしい麺屋でビビン麺を食べてみた。少しの野菜とコチジャンと麺が絡んだ簡単なものです。まあ、安いだけがとりえの軽食ですね。この辺りは、釜山映画発祥の地である。それを説明する碑もあった。「幸座」という。さて、腹も詰めたことだし、これから壁画村に出かける。
2011年11月06日
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11月20日(土)晴れ 20日目太陽荘旅館の直ぐ隣に白山記念館というのがある。博物館フェチの私としては、ずっと気になっていた所。休館日と重なることが多くて中に入れなかったのであるが、今回晴れて入ることができた。白山安熙済(ペクサン・アンフィジェ1885-1943)は抗日独立運動家で、「この記念館があるところに白山貿易商会(1919-1928)を設立、運営し、1919.3.1の独立運動を始め、大韓民国臨時政府と国内外の独立運動団体を金と運動面で支援した人」だそうです。展示物は文字資料が多かったので割愛。資料館の片隅に何故か米が山のように積まれてあった。資料館の館長みたいな女性に聞いてみた。「これはなんですか」「貧しい人、孤児たちへクリスマスプレゼントをするためのものです」白山自体は素養は漢文学のようなのだが、今やこの記念館はキリスト教精神を持っている人の拠点になっているのかもしれない。「誰が寄付したのですか」と聞くと、「普通の人です」という答えが返って来た。袋には「白山 愛の米」と貼ってあった。観光案内所に行って、今日行くところを決めた。まず一度行ったことのある東山洞貝塚展示館に行く。貝塚展示館に入る前に小腹が空いたので展示館前のコンビニでカップラーメンを買って食べてみた。韓国のコンビニは例外なく食事ができるコーナーがあってお湯は常備しています。東山洞貝塚展示館に前に行った時は、ちょうど台風がやってくる直前で、周りを散歩するどころか、気が急いて中でゆっくりすることもできなかったのです。貝塚といっても、日本の弥生時代に当るものではなく、節文土器文化……縄文時代にあたる貝塚です。綺麗な模様の土器が出土しています。(もっとも、日本の縄文土器の美しさと精美さには叶いません。縄文土器は美的に言えば、世界一だと思う)この前叶わなかった図録も買って、貝塚はどの辺りですか、と聞いてみる。なんと、展示館のある前の広場一帯だった。この旅の習慣で「土器探し」を丁寧にやってみる。貝塚なので期待していたのだが、どうやら丁寧に埋め戻しているらしく全く見つけることは出来なかった。斜面に韓国のスミレが咲いていた。菫の花はどこでも一緒だけど、葉はその土地で微妙に違う。ここの葉は日本のそれより広い気がする。
2011年11月05日
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統営から釜山の西部バスターミナルに着いた。地下鉄カードのチャージを済ませて、フェリー乗り場のある中央駅で宿を探すことにしました。四十階段という観光名所らしきものをあがっていきます。この辺りは古い町並みが続いています。ライトアップした釜山タワーが見える。いわば、釜山の下町ですね。このクリーニング店では、ウエディングドレスをずらりと吊るして、ご主人が夜中までアイロンかけです。この通りには、印刷屋が続いています。古い機械が多い。競争に勝てるのだろうか、と要らぬ心配。下町をほろ酔い気分で歩くおじさん。結局宿は、名前に釣られて「太陽荘モーテル」に入りました。とっても古くて心配したのですが、25000wで、インターネットまで付いていて、まあまあ綺麗で、主人は気さくな方だったので、ここに連泊することに決めました。少しインターネットをしてから8時から夕食に出かけます。すぐ近くの「セマウル食堂」に入りました。ここは居酒屋にも拘らず、美味しいマッコリが一杯1000wで飲ませてくれて、ツマミも温トーフキムチが5000wです。キムチチジミが3000wととっても安い。もちろん美味い。お勧めの食堂がひとつ増えました。この日、ケーブルカーで弥勒山に登って降りる間に、大事なメモ帳を落としてしまいました。この旅では、日記帳と一緒に、いわゆるメモ帳をずっと携帯していました。ここに地図を書いてもらったり、意思疎通のためのメモを書いたり、書いてもらったり、そして慶州の食堂で出会った定年の日本人男性の住所や、慶州の金君のアドレスを書いてもらっていたのです。全く残念で、大変申し訳ない。見ているはずがないですが、もしわたしの書いたアドレスが残っているならば、連絡が欲しいものです。朝食800 コーヒー2,000 バス1,000 ケーブルカー9,000 おみやげ6,000 バス1,000 昼食4,500 つまみ5,000 バス1,000 統営→釜山10,800 カードチャージ5,000 宿25,000 夕食10,000 合計 80,300w
2011年11月04日
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弥勒山から来た道を帰ります。バスの中から橋沿いの町をパチリ。ここが、朝鮮戦争のときに激戦地になったんだね。アガシが薦めてくれた忠武キンパブの店は港に沿ってありました。その有名店の前には、さすが統営、お約束のようにイ・スンシンの亀船の復原船が浮かんでいます。中に入るには、お金がいるようなので遠慮して、その隣の資料館(無料)に入ってみました。これは亀船の内部構造です。思ったより、丸い形をしているのだなあ、と新発見。そして思ったより、複雑な構造です。韓国の刀は実に様々な形があるようです。忠武のり巻きの名店は二軒並んであるようです。左の方に入りました。これが統営名物・忠武キンパbです。普通ののり巻きにキムチとイカのキムチ和えが付いているだけのようです。美味しかったけど、特別な料理には思えなかった。私はのりまき部分が特別なのだという期待を抱いていたのです。けれども後から考えると、このおかずがあくまでもセットであり、絶妙なバランスをとっていたのでしょう。船で漁に行くとき、安価で栄養のある弁当として、欠かせないものだったのかもしれない。後でわかったのですが、おかずの方はお替り自由だったそうです。惜しいことをした。近くは市場だったので少し歩いてみました。この辺りで獲れるのは牡蠣といろいろな魚と昆布みたいです。日本と同じような港町の風景です。僅かな敷地に人口が密集しているために、山すそまでびっしりと家を建てる人たち。ただ、日本と若干違うのは、韓国ならば一区画に必ずあるとんがり屋根の協会は日本では珍しいことと、埠頭にあのような常設に近い「だべり場」は日本では作らないだろうな。露天で干し魚を5000wで売っていたので、数日の酒の肴に買って置きました。バスターミナルに戻って、コーヒー店のアガシにお礼を言って、釜山行きのバスに乗りました。着いたのは6時前。かって知ったる釜山です。
2011年11月03日
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ともかく韓国の(たぶん)名山のひとつに比較的楽に登ることができたのはラッキーだった。高さは461mとそんなに高くはないのですが、海沿いに聳えているので、とっても高く感じるし、第一景色が素晴らしい。平日の金曜日にも拘らず、実にたくさんの人が登っているのです。気持ちは分かります。一族郎党で来て、弁当を食べています。農村の様子もよく見えます。棚田を作っている。頂上の標札では、入れ替わり立ち代り記念写真を撮っていました。私も、実はここでは見せませんが、この旅で唯一の記念写真を撮りました。私は普通どの旅をしても「自分の写真」は撮りません。よくありとあらゆる景色に自分か友達のポートレートを入れないと気がすまない人がいますが、私はあれが理解できない。「旅の記念」は自らが何かを感じた「景色」があれば「必要充分」だと私は思っているのです。記念写真を撮る労力は一枚でも多くの写真を撮ることに費やします。でも一年か二年に一回ぐらいは、突然死んだときのために近影を撮るようにしています。統営の港町もよく見える。ここは基本的に岩山であって、所々怖いなあ、と思うところもあるのであるが、登ってみると爽快であった。けれどもこの女性のように、あそこまで岩の突端にはいけませんでした。コーヒー店のアガシが提案してくれなかったら、決して思いつかなかった素晴らしい「観光地」でした。一度は本格的な山登りをしたいと思っていたし、慶尚南道の海も見たいと思っていたので、とっても満足して山を降りたのでした。
2011年11月02日
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弥勒山に登る。所々に高山植物や木々の説明版があった。花の季節はおもに4-7月だ。だから何も無い。唯一葉が残っていて良く分かるのはこのトッカルの木だった。頂上付近の総合案内板である。歩いた順番は、一番のケーブルカー乗り場から二番、そして13番、14番(閑山海戦展望台)、12番、11番(朝鮮戦争展望台)、6番、9番、8番、頂上へというふうに歩いたのでした。少し大変だったけど、軽装でこんな高い山に登れるのはめったにない経験なので思いもかけず、大変よかった。14番のビューポイントに行って初めて知ったのであるが、秀吉との朝鮮戦争で李将軍(イ・スンシン)が最初の大勝利を収めたのがここ統営の閑山海戦だったらしい。1592年7月、北側からやってきた秀吉海軍73隻とイ・スンシンの53隻が対峙する。イ・スンシンは火に強い鉄甲でかためた亀船で組織する。そしてなんと鶴翼の陣をひくのである。兵法は良く知らないけれど、一般的には少ない兵力ではしない戦法ですね。それに釣られたのか、秀吉軍は正面突破を図る。戦いの経過がどうだったのかはよく知らない。ともかく李将軍は勝利し、一躍、現在に至るまで韓国でもっとも有名な英雄になる。ここで見ていて分かるのであるが、確かに大艦隊が通る水道はここしかない。しかも、ここに73隻が通るには一番狭い水道なのだ。万が一、ここでその戦いを見ることができたならば、手にら汗握るスペクタル場面を見ることができただろう。別のビューポイントでは、1950年の朝鮮戦争のときの北朝鮮とアメリカ軍との戦いの展望台もあった。これは海戦ではなく、陸上の戦いではあるが、「統営上陸作戦」と名づけられている。どうやら、統営市街地すべてが戦場になったみたいだ。帰り道では、閑山海戦の前哨戦、唐浦海戦のビューポイントもあった(どうやら港にいた三隻の秀吉軍を沈めたみたいだ)。韓国では、もっともっと手に取るようにこの戦いの詳細を知る人が山のようにいるんだろうな。吉備の鬼の城のような山城もこの山々の何処かにはあるみたいだ。
2011年11月01日
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