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門が少し開いていたのでパチリ。やっぱりここの家も日本で言うところの玄関がない。みんな縁側から部屋に入るのだろうか。どうも韓国の信号は良く分からない。三叉路で体面に変わった信号があるのはまだよく見れば意味があるが、どうして一方側に信号が付いていないのか。扶蘇山城麓まで歩いた。ここに観光案内所がある。松菊里遺跡の行き方を聞く。幸いにもこの辺りから急速に足の痛みが引いていった。いったいなんだったんだろ。元気が出てきて扶蘇山に登ることにした。以前来たときとは違うコースをたどることにした。扶蘇山(海抜106m)は百済サビ時代の山城がぐるりと回っていて、その下の都を守っている。私はわざとコースを外れてこのようにその城壁伝いに歩いてみた。時々道がなくなる。今回の旅の癖で、土器探しが始まった。三つほど見つけるが、確かなものだと思えない(結局途中で捨てた)。見晴台にたどり着いた。夕方の金河(クムガン)(昔の名前は白馬江)が綺麗だ。ここから小さな扶余の町が見渡せる。そしてこれが百済の最後の都だったのである。ここからさらに西に行くと、百済滅亡の折に多くの女人が貞操を守るために命を投げ捨てたという落花岩(ナッカアム)やそれを祀ったゴラン寺があるが以前行ったので今回は行かない。夕陽を浴びて、松林の森が妖しく紅く色づいていた。一番下に下りてみると、これから整備されるであろう王宮跡の広い敷地があった。これから10年後に来ると、扶余も大きく変わっているに違いない。この写真は最大規模の建物跡(東西35m、南北19.25m)。そのあとモーテル前の食堂でトンカス(豚カツ)を食べた。韓国では何故か豚カツがカルククス(うどん)と同じ価格。ボリュームがあり、美味しい。少し肉が薄くて質が悪いのを除けば、こんなに大きくてカリカリに揚げていて、私は好きだ。ご飯が少なめなのもよい。そのあとモーテルに帰り、せっかくなので少しネットサーフィンをした。11月1日の記事のコメントにローマ字で「今、扶余です」「釜山-晋州-釜山-金海-慶州-大邸-ソウル-議政府-扶余と移動してきました。明日、松菊里遺跡に行って、私の今回の遺跡めぐりの集大成になるはずです。23日には、帰っているはずです」と書いたのだが、果たして通じていなかったかもしれない。キンパブ2,500 シップ薬2,000 宿30,000 定林寺博物館2,000 イヤホンガイド3,000 本(国立博物館+茶戸里遺跡)9,000 昼食7,000 扶蘇山入山料2,000 コーヒー1,500 夕食4,000合計 66,000w【お知らせ】明日から6日ほど旅に出ます。広島を経て九州に行くつもりです。と、言うわけでしばらくお休みします。ご了承ください。もしかしたら、ネットカフェから更新するかも知れません。
2011年07月29日
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ちょっと遠かったが、国立博物館まで歩いていった。やっぱり新しく文化会館なるものを併設中だった。この10年で扶余の地は建設ラッシュだ。一時この地方へ首都移転の構想があったからだろうか。扶余国立博物館。私の訪れた初めての地方国立博物館である。日本で国立博物館というと、ものすごいりっぱなものを考えがちであるが、韓国には主要な都市にはたいていある。日本で言えばほとんど県立博物館と考えてもよい。そうとは知らずに、最初に来たときは感激してここの展示物で韓国の遺物のほとんどを見た気になったものだ。これは博物館前に展示している天王寺出土の石佛。同体に比べ頭が大きい。柔和な表情をしている。高麗時代作。博物館の入り口にはやっぱり今も松菊里遺跡の模型が飾られている。この遺跡はおそらく日本では一番よく知られている遺跡で松菊里型といわれる丸い竪穴式住居は日本列島に数多く広がった。しかし、そのままストレートに広がったわけではないことも今回気がついた。例えばこのような三角の石包丁は日本ではほとんど見つからない。また校成里遺跡の有溝石斧も日本では珍しい。扶余の西を流れる金河流域では細形銅剣が広く採用されたようだが、日本では珍しい。中国、韓国、日本の歴史年表をしばらく眺めながら、私はしばし妄想にふける。例えば、私の小説の主人公を西暦150年に韓半島に渡らせたとすると、金官伽耶国が成立して100年、百済は170年、楽浪郡は270年、高句麗は190年の歴史を持っている。ということを頭に入れながら話を作る必要があるな、などと思っていた。実際は伽耶国のキムスロは100歳以上生きていたことになっているから、彼が渡韓した時にはまだ生きていることにしてもいい。実際、国造りを始めたばかりだろう。しかし、その頃百済は国の体裁を充分持っていたと考えていいだろうし、中国を背景に楽浪郡は大都会だったろう。しかし、鉄を力に武力に依らなくても大国と充分渡り合える経験を彼は金海伽耶を通じて持つことになる。そして20年朝鮮半島に居て、日本列島に帰ると倭国大乱の真っ最中だった。……百済最盛期の最高傑作、百済金剛大香炉が展示されていた。以前来たときには他へ出張していて見ることの叶わなかった代物だ。複雑な装飾が全面を覆っていて素晴らしい。しっかり見ることができた。ただし、照明が暗く、やっぱり上手く撮れていなかった。申し訳ない。隣になにやら新しい建物が出来ていたので、こっそり入ってみる。文化財保護センターみたいなものだった。気がついたのは、あまりにも発掘土器が少ないということ。もしかしたら、完品土器しか採取していないのではないか。まさか聞くわけにも行かず、こっそりと出る。足が痛くてずっとビッコを引いているのだけど、タクシーを拾うのが嫌で観光案内所の方向に我慢して歩いていると、以前昼食で入ったことのある食堂を見かけた。サトクッパブ食堂。片言と手振りで注文したのが懐かしい。たぶんあの時と同じでサトクッパブを注文。やっぱり青とおがらしが出てきた。味噌はお店ごとで工夫があるのだろう。見慣れない小皿があったので聞くと「貝だ」という。やはり近くに河があるので採れるのだろう。貝の塩からである。この店は全体的に味付けは辛い。汁ご飯には牛のなにかの肉が入っている。あとで「サトは牛の肉だと思うけどどこの肉ですか」と聞くと、「牛の頭だ」という。牛の頭というと、ソモリクッパブだけかと思っていたら、こんな呼び方もあるのか。微妙な違いがあるのだろうか。さすが肉を食べる文化を持つところは奥が深い。弾力のある美味しい肉でした。この店は釜でじっくり汁を煮ているのが売りなのか、外に出るとこのような釜場があった。ともかくお店の人と(気楽に)話せるようになったのは、この7年間の私の大きな成長である。
2011年07月28日
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11月16日(火)晴れ 16日目 非常事態発生。昨夜から急に足の甲が痛み始めた。最初はこむら返りかと思った。しかし、朝になっても痛みは治まらない。かえって少し増したような気がする。じっとしているとなんでもないのだが、右足に体重をかけると痛くて歩くのが大変つらい。腫れてはいないみたいだ。考えられるのは昨日の大長今テーマパークで転んだときに足を挫いたのか。しかし、あの時は痛くなかったのだ。遅く来る筋肉痛だろうか。もしひびがはいっていたら……。歳を考えると急に不安になる。ここで撤退か?とりあえず一日様子を見ることにした。しかしこのモーテルには泊まりたくない。昨日泊まろうとしたら無理やり特別部屋の500w高い部屋を取ろうとしたのだ。昨日泊まったのは、30000wの適当に綺麗な部屋だったけど、今日は高くていいから快適な部屋に泊まりたい。脚は痛むけど、部屋を変えることにした。朝食を食べながら部屋探しをする。キンパブはなかなか温かくておいしかった。薬屋で貼り薬を買う。ちょっと歩いてソンハクモーテルにする。値段を聞くと「三万w」という。まあいいや、その部屋で行こうとすると女将さんは「コンピューターしたいか?」と聞く。したい、というと素敵な部屋に案内してくれた。4万Wでもおかしくない部屋だ。まったくもって宿選びは博打である。少し元気が出たので、昼前に足を引きずりながら観光に出る。扶余に来たのは2回目である。前回は三回目の韓国旅行のときに、2003年ごろ?、日帰りで来たのだ。初めて見る地方の町だった。大都市ソウルに慣れた眼に、中心街の店でも薄汚れた店があってショックを受けた覚えがある。ところが、今回見回してみると、潰れそうな店はほとんどないし、こざっぱりとしていて綺麗な町じゃないか。足が丈夫でありさえすれば、街中の観光は総て半日で済んでしまいそうな小ささなのである。私の目がどうやらいつの間にか韓国に慣れたようだ。埃だらけの道路や窓も、慣れてしまえば不快ではない。宿から歩いて直ぐのところに定林寺址(チョンリンサチ)博物館があった。博物館は最近出来たらしいけど、見覚えのある塔があった。昔は一面原っぱの中にぽつんとあの塔だけがあった。扶余に都があったとき(百済シビ時代)、残っている唯一の百済遺跡である(新羅統一の折に総て破壊されたらしい)。538年からある石塔だとすると、日本にもない古さだ。石塔の前まで歩く元気はない、ゆっくりと博物館を回る。小学生の団体見学が来ていた。定林寺の伽藍配置はこのようなもので、飛鳥寺や山田寺、また中国の寺とも比較していましたが、全然違う独特な配置だそうです。この時代の仏像は、確かに奈良時代の仏像に似ている。
2011年07月27日
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チャングムテーマパークはそれなりに楽しめました。と、まあ一般観光をしたあとバス乗り場のほうに帰っているとMBC(韓国2大テレビ局のひとつ)の大きな建物があった。隣は明らかに撮影スタジオであった。誰かスターが歩いていないかなとか、中を覗き見できるところはないかな、とか探したけど無理だった。なるほど、こんな人里はなれたところに大きな車で移動しながら撮影しているわけだ。韓国ではいたるところにこのような前衛芸術のような像が置かれている。偉人のリアルな実物よりも大きめの銅像とこのような前衛芸術が韓国美術の二つの潮流である。バス時間の調整のためにテーマパーク内の食堂で軽食を食べた。まつりソーメンとお品書きには書いている。普通の熱いソーメンなのであるが、お祭のときにこのようなソーメンが出るので名づけられたらしい。揚州駅に戻り、チョンゴク駅に向かう。ところがソヨ山駅で電車は止まり、そのあとは一時間に一本の電車に乗り換えなければならないということが判明した。これで行ったら、悪くするとここで一泊しなければならない。迷った末、行こうとした遺跡は青銅器時代ではなく旧石器時代の遺跡で博物館もなさそうだということもあり行くのを諦めた。駅でジャガイモのかりんとうを買ったらこれがまた食べ応えがあった。ソヨ駅のトイレです。珍しく近代的。ここは逍遥山登山の入り口で、入り口のほうまで行ってみるとものすごい数の食堂が並んでいた。韓国のハイキング熱は日本の比ではない。韓国人口の三分の一が集中するソウルの市民たちは、暇があると近くの山に登りたがる。それが自然に親しむことだと勘違い思っているようだ。お店の隣ではキムチを作るために白菜を漬けていた。ものすごい量である。入り口辺りに「フリーダムピースミュージアム」というのがあったので、博物館フェチの私としては期待していったのであるが、今日は月曜日、やっぱり休み。やっぱり軍人教育のための戦争博物館の雰囲気だった。どうやらFREEDAM PROTECT PEACEという意味らしい。漢字で言うと「自由守護平和博物館」となる。韓国の軍隊がどれだけアメリカナイズされているのか見たかったのであるが、残念である。しかしこの門、「平和」の文字を間違っている。彼らの主張がどれだけ「いいかげん」かこれを見ただけでも良く分かる。近くに基地があるためか、迷彩服や軍隊の車が目立った。これが、まあ韓国屋台フードのカルチャーショックの代表選手、ポンテギである。カイコのさなぎを煮ている。今回は釜山に帰ったときに食べたけど、味の癖はない。でもそれほど美味しいものでもない。栄養食だと思えば食べれます。ソヨ駅からソウル南部バスターミナルまでなんと約2時間かかった。けれども電車賃は充分昨日チャージした分で賄えた。(約2000W-150円)地下鉄がソウル市民の足だということが良く分かる。一号線の最初のほうは地上線である。おじいさんが自転車に乗って入ってきた。もちろん堂々と老人専用座椅子に座る。自転車で乗り入れてもOKなの?彼は二駅ぐらいで直ぐ降りたけど。バスセンターで扶余(プヨ)行きの切符を買う。旅のお供にコーヒーと野菜トーストを買った。その場で温めて作ってくれる。扶余まで2時間の旅、今日は移動だけで午後は総て潰れた。けれどもこれでソウルとは完全におさらばである。扶余に近づいた。バスの車窓から川辺の夕暮れが美しい。宿は近くでとり、夕食は歩いて迷った末にもやしキムチ鍋で軽食にしてその後焼酎を飲んだ。もしかしてこの酒がいけなかったのか……。バス1,000 大長今テーマパーク5,000 ソーメン5,000 お菓子2,000 コーヒートースト3,000 ソウル→扶余11,000 宿30,000 夕食とおつまみ8,000合計 65,000W
2011年07月26日
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11月15日(月)晴れ 15日目モアモーテルは綺麗なモーテルでした。宿運は続いている。現金が少しになったので銀行で四万円のみ換金した。1360W/100円になっていた。少しレートが上がっている。議政府駅からさらに北の揚州(ヤンジュ)にむかう。そこに「大長今(チャングムの誓い)テーマパーク」があるのだ。このとき、私もいまさらにチャングムを見ていて、11月に行ったころには済州島に島流しされた辺りであった。さすがに観光スポットだけあって、駅にパンフや案内所はあるわ、バスの運転手はテーマパークというだけで分かってくれるわ、とっても楽である。この京畿道パンフを見ていると他の地域に先史時代の遺跡がある。ちょっと遠いけれどついでに行き方を教えてもらう。大長今テーマパークはバスで15分ぐらいのところにある。セットを見てみると、ほとんどのシーンはここで撮っていたということがわかる。水刺間(スラッカン)らしき台所は場面に応じて幾つかの場所が使われていたことが分かった。どこもそうだったが、撮影用の場所なので実際に見てみると、ゴミゴミしていて綺麗ではない。しかし、テレビで見るとそれがライトマジックで本物に見えるのである。中国の観光客が多く来ていた。あちらでも放送されて有名なのだろう。チャングムとミン・ジョンホが時々出会っていた書庫である。一番印象的なのは、チャングムが母の形見の書物を隠した処です。隠したのは建物の下ですが、そのそばの松ノ木の根元には母と韓尚宮が一緒に作った柿の酢を壺に入れて隠した場所があります。これをめぐってすれ違いドラマの醍醐味を見せてくれたわけですが、ちゃんとそこには壺が埋められていて、何故か「龍の彫り物」が入れられていました。どういう意味なんでしょ?実はこのあと、ふと躓いて転んでしまった私でした。足捌きがオカシイのか良く転ぶ私ですが、むかし柔道をしていたおかげでいまだかって転んだときに打ち所が悪くて怪我をしたことがないのが自慢です(時々自分から一回転して受身をします)。ところが、このとき大きな失敗をふたつしました。ひとつはどうやらこのときに日本から持ってきていた万歩計を落としたらしいのです。今まで韓国旅行で一回万歩計を落としています。今回は気をつけていたのですが……。この日から毎日二万歩近く歩いていた記録が途切れることになりました。そして、さらにもうひとつ。幸い、このあとすぐに歩けるようになったので、まったく問題ないと思っていたし、事実ずーと全然痛くなかったのですが、この夜大変なことが起きてしまうのです。それはまた明日の話。お茶の試飲所があって、日本人に対して熱心な商売をしていました。それぞれのお茶の効用がここではきちんと実物を添えて書かれていたので、私的にはとっても勉強になりました。もちろん買いませんでした。旅の最終日に釜山の市場でこれの約1/4ぐらいの値段で、五味子茶とあまどころと棗茶を買ったわけです。その後四ヶ月ぐらいかけてお茶でいただいたわけですが、効果のほどは分かりませんでした。でもたぶんその他の要因だと思いますが、体調は好転したのでまた市場で買いたいと思います。
2011年07月25日
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韓国旅行記を今日だけ止めて昨日岡山で初日を迎えたひとつのドキュメンタリーの監督を迎えてのトークを記録したいと思います。「PEACE ピース」上映の後、監督トークがあったのでそのメモを元に再現してみます。あくまでも私のメモを元にしているので、ニュアンスは違っているし、もし間違いがあれば訂正ください。地元岡山ということで、なんと出演者の監督の義理の父母、柏木夫妻と済生会病院の石原医師そして(初めて見ました)美しい奥様も会場に来られていて、しかも義父の柏木さんは壇上に上がられて質疑に応えてくれました。結果的には柏木のお母さんも石原医師も会場から答えてくれました。映画上映の前に監督から一言だけ挨拶があり、「映画が終ったら見慣れた風景が変わって見えたならば嬉しいです」とありました。本当にこれからは(橋本さんの住まわれていた)運動公園前の風景が今までとは変わって見えるようになると思います。上映後に質疑応答がありました。映画あらすじ(goo映画より)岡山に住む柏木寿夫は、養護学校を定年退職した後、障害者や高齢者を乗せる福祉車両の運転手をしている。老人と散歩したり、買い物に付き合ったり、一緒に食事したり…。その傍ら、自宅の庭で野良猫たちに餌をやり続けている。ところが最近、外部の“泥棒猫”の侵入で、猫の間に緊張が高まっている。寿夫の妻・廣子はヘルパーを派遣するNPOを運営している。彼女は週に一度、91歳の独居老人、橋本さんの生活支援に出かけていく。監督・製作・撮影・編集 想田和弘 監督「(この映画を撮った動機は)最初韓国のパジュ(国境沿いの町)でドキュメンタリー映画祭で「平和と共存」をテーマに映画を撮ってくれという要請があって、始めは躊躇した。私はテーマありきでは撮らない。予定調和になってしまう。ところがたまたま実家に帰ったら、お父さんが野良猫に餌をやっていて、猫と人間の交流ならば撮れるのではないかと思った。泥棒猫と言われているあの猫がぱっと餌をとってばっと逃げるところを偶然撮れてしまった。出来るのではないかと思った。」監督「フィルムは32h回しています。今回は一番短くて14日間の撮影でした。」監督「(字幕のあり方を聞かれて)今回は岡山弁字幕版、字幕なし版、英語版の三つのバージョンがある。今回三人で字幕をつけた。妻がずっと手話をやっているという背景もある。聴覚障害者は(字幕の付く)洋画しか見ないと聞いていた。」監督「(平和や社会の見かたについて聞かれて)私のは「問い」についての映画だと思っている。あくまでも私の解釈だけれども、福祉と戦争は真逆だと思っている。福祉は一人ひとりの事情に合わせるでしょ。足の悪い人がいたならば送り迎えをする。一方戦争は橋本さんの一銭五厘の話じゃないけどどんな事情があろうが召集令状が来たならば戦争に行かないといけない。僕は福祉の精神が行き渡ったならば戦争はなくなると思います。」監督「(核について聞かれて)原発はずっと止めてほしいと思っていました。ぼくは今回の事故は台本主義の破綻だと思っている。「原発は安全だ」という台本が一人歩きしていて、でも現実はそれを聞いてはくれない。改めて台本主義のドキュメンタリーはダメだと思う。」お父さん(柏木寿夫)「(出演してみて)全体を通して何の緊張もなく、おっカメラ撮りょんかい、というくらいだった。素のままでやっているままだった。普段の自分が映っている」実際、ホントに映画のまま自然体の柏木さんでした。奥さんも壇上に上がってほしい、と監督から要請があったのですが、それは最後まで断っているところが奥さんらしいと思いました。監督「(今回の作品について)気に入らないところはない。今回はするすると出来てしまった。ドキュメンタリーの神様が降りてきたみたい。母が福祉の制度を批判しているときに鳩山さんの演説がラジオから流れていたのもそう。橋本さんが戦争体験の話をするのもそう。あれは事前の打ち合わせは一切やっていないから、あの空気が撮れたのだと思っている」監督「(取材者との関係性について聞かれて)選挙のときは自分の存在を消そうと思っていた。今は自分が映ってもいいや、と思っている」済生会病院の石原医師「最初お話が来たとき、(テレビに何回か出た経験から)変な扱いになるのを心配したけど、今回作品を見て台本主義じゃないことが良く分かった。今回は普段のままが出ていた。私は方言を出して診療するスタイルなんだけどそのままだった。橋本さんの普段の生活は知らなかったけど、見れてよかった。」私も質問してみました。「橋本さんがなくなられたのが最後にあって、ショックでした。彼の最後は撮影から何ヵ月後で、葬式はどのようだったのですか。それと、黒猫のその後の様子を知りたい。」監督からではなく、一番事情を知っている奥さんとお父さんが答えてくれました。奥さん(柏木廣子)「一ヵ月半後になくられました。普通生保(生活保護受給者?)の葬式は1-2人の参列なので、そのイメージで行ったら、若い人がたくさん来られていてびっくりした。福祉関係だけでなく、何らかの付き合いのある人。30人くらいだった。ギターの演奏もあって心のこもった葬式でした。」末期肺ガンにかかりながら愛用の「ピース」のタバコを離すことができない91歳の橋本さんの様子は、なんか私の父の最後にも似て心に撃つものがありました。彼の最期が淋しいものでなくて、本当によかったです。お父さん(柏木寿夫)「ハートのシロは実はこの二月に亡くなりました。この二年間2-3日に一度の点滴をうっていたのだけど、ついに‥‥‥。クロは、撮影は二年前の11月でしたが、あれからすこしづつみんなの中に入っていった。最初は泥棒猫特有の眼の輝きを持っていたけど、今は優しい眼になっています。」絶対平和を声高に叫ぶものではないけれども、監督の言うように「戦争と福祉は真逆である」ということを雄弁に語るドキュメンタリーであったと思います。これこそ、「平和と共存」ですね。映画は「テーマありきの映画ではない」けれども「ある程度の予感を持って、撮っていって、いろんな対象映像の中から自分の主張を出す見事な編集をした」「ドキュメンタリーの王道」を行った作品だと思います。監督の「監察映画」という言い方に付いては、私は当初「選挙」に付いて書いた折にコメント欄で監督から反論をもらっており、主張の訂正をしています。今回はその「観察映画」の一番善いところが出た作品なのではないかと思います。地元の試写会でしか味わえない、豪華なゲストを迎えて貴重なお話を聞けた有意義な時間でした。
2011年07月24日
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タサン遺跡を目指してバスは漢江の水の調整所みたいなダムを通り過ぎる。遺跡の前で下ろしてくれたのはいいけど、そこからさらに1キロぐらい歩かないといけないらしい。まあ、それはいい。どうも雰囲気が古代遺跡ではないみたいだ。地図の絵を見ると、真ん中当り、昔の貴族の家みたいなところに茶山(タサン)遺跡地(ユジョクチ)と書いてある。行ってみてわかったのだが、どうも朝鮮時代の超有名な人のお墓があるところらしい。私しゃ、来る前に観光案内所の人に聞きました。そうすると彼は「1000年以上前の遺跡らしい」とか「青銅器時代の遺跡らしい」とかいっていた訳です。真っ赤な嘘でした。みなさん、安国駅前の観光案内所で少し日本語が出来るイケメンの男の言うことは絶対信用しないでください!!と、一応言って置こう。韓国の場合、「遺跡」というとまさに「のこっている跡」ぐらいの意味で、日本のように「古代の跡」という意味ではないということを肝に銘じた。そういえば、韓国で「古墳」といえば、単に「古い墳墓」ぐらいの意味だった。そんなこんなで、一応タサンさんのお墓も参ってみました。彼の住居もきちんと保存されています。博物館ありました。実学博物館です。タサンさんは天文、物理、地理に貢献した偉い学者さんのようです。初期の朝鮮通信使にも二回参加しているらしい。やっぱり地元の食堂の味を確かめたくて、目に付いた「チュオタン(どじょう汁)8000w」という看板に惹かれて入ってみました。そしたら(客は私一人しかいなくて閑だったのか)ご主人がしばらく付き合ってくれました。ここのご主人は54歳。根っからここの住人らしいのですが、高校で少し日本語を学んだらしく、片言の日本語と片言の韓国語で少し話をしました。「ここに観光できたのですが、ここの遺跡を青銅器時代とか三韓時代の遺跡かと間違ってきてしまいました」「そうです。ここは400年前くらいの遺跡です」「今分かりました(^^;)」等々話をしている間に料理が来ます。私には少しから辛かったようです。おかずも珍しく1/3ぐらい残してしまいました。「この鰌はこのあたりで獲れたものですか?」「そうですよ」「このおかずの牡蠣もここで獲れたものですか?」「そうですよ。このおかずの総て、私が畑で作ったり、獲ってきたものです」所謂、パンチャン(おかず)は地元の食材が使われていることには気づいてはいたが、彼の食堂のようにあんまり人が来ないような食堂では本当に材料も自給自足なのかもしれません。これは今日の最大の「収穫」でした。写真のテレビを見ているのがご主人です。この遺跡はソウルの中を流れる大河漢江の上流にあります。あまり開発されていない漢江をみるという目的もあったのですが、遺跡の護岸はちょうど工事中であまり見ることはできませんでした。元来た道を帰って中央線に乗りました。今日は日曜日、にわかハイキングたちの集団に囲まれてしまいました。泊まりは地下鉄一号線を北に走って議政府(ウィジョンブ)駅にしました。ここにプデチゲ(部隊鍋)通りがあると、かの安国駅前観光案内所でもらったパンフに載っていたからです。プデチゲ(部隊鍋)はずっと軍隊の兵士が食べていたものだと思っていた。しかし、発生はそうではなく、朝鮮戦争で食べるものに困った庶民が空腹を満たすため、議政府では在韓米軍の横流しのハムや肉などを炒め、「プデ炒め」として売ったのが始めだといわれています。この「おでん食堂」はそれを一番最初に作った店だということで行ってみた。プデチゲは安い料理だという印象だったけど、ラーメンを入れると一食8,000w。焼酎もつけたので私的には高い夕食になった。味は単にいろんな具が入っているラーメン鍋です。場所は泊まりのモアモーテルのおばさんに聞いて行ったのだが、帰ってプデチゲ通りのどこに行ったか聞かれたのでおでん食堂だというと、明らかに不満顔。「みんな猫も杓子もあの店に行って本当は旨い店はほかにあるのに」という顔だった。地元の反応は古今東西同じである。ちなみに入る前に通りの値段だけはチェックしたが、値段協定があるのか総て同じ値段だった。通りの近くで、バッティングセンターがあったので少し運動。キョトンカード15,000 バス2,000 コーヒー1,000 キムパブ1,500 昼食8,000 夕食11,000 宿30,000 バッティングセンター2,000合計 70,500W歩数 17,720歩
2011年07月22日
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11月14日(日)晴れ 14日目今日は昨日買った地図で見つけた茶山(タサン)遺跡へ行くことにした。9時過ぎにモーテルを出て、安国の観光案内所で行き方を聞くという手順。男の案内員が「チョンチャンリ駅で降りて2003-1から3のバスに乗ってください」と教えてくれた。その通りに待った。二回もバスに乗り過ごしてしまい、一時間以上も待ってしまった。ずーとひたすら待っていればそんなことはなかったかもしれないが、20-30分ずーと待つのが勿体無くて、目の前のロッテデパートに登ってしまったのが悪かったのだと思う。ここはデパートの屋上。閑散としています。でも日曜のデパートです。昼からダーツ投げのアトラクションでもあるのかもしれない。観光地ではない処のロッテデパートは、地下が食品売り場、1-2階婦人、3階紳士、4階食堂のオーソドックスなデパートだった。こういう食堂のカレーは6,000w-7,500wのそれなりに高価なカレーです。待ちに待った。昼近くになって小腹が空いたのでデパート前の小店でオモニからキンパブを買った。1,500w(120円)、最近少し相場が値上がりしている。2003番バスがやっと来た。「タサン遺跡に行きたいのですが」「わしはそんなの知らんよ」とバスの運転手さん。思いもかけない返事である。このまま諦めるか迷ったが、それも悔しい。確か電話の1330番は日本語ガイドの電話だったよな、と思いかけて見ることにした。果たしてそうだった。調べるというのでしばらくしてかけ直すとあの案内書の兄ちゃんのいったのと似ても似つかない行き方。「電車に乗り換えてトクサ駅という処から2001-2番のバスに乗ってください」とのこと。今まで観光案内所の「若い人」は優秀である、という認識をしていた私ですが、改めました。「若い男はその限りではない」地下鉄から中央線に乗り換えて電車に揺られながら地図を見ていると、可愛いアガシ(お嬢さん)が「どこかお探しですか」と綺麗な日本語で声をかけてくれた。「この遺跡に行こうと思っているんです」「昔お父さんに連れて行ってもらったことがあります」「なにか博物館みたいなものはありましたか」「昔でしたから……」「ところで日本の方ですか」「いいえ、母親のほうが日本人なんです」なるほど、韓国なまりのほとんどない完璧な発音である。「その荷物、荷台に上げたほうがいいですよ」と彼女は親切に私のリュックサックに気を使ってくれた。「うん、ただ少し重たいので……。持ってみます?」女性には重たいだろうとは思っていたけど、果たして彼女は一センチも持ち上げることが出来なかった。「だから上に上げたくないんです。今回遺跡を見るために韓国をいろいろ回っているんですが、そこで買った本でちょっと重たくなって……」ということで、なぜ韓国の遺跡を回るか説明。歴史の話に移っていった。「いま、朝鮮半島の歴史では中国が古朝鮮を建国したということを主張していて、朝鮮の国土がなくなってしまうという問題が起きています」という話題を持ち出してきた。韓国にとっては領土問題は竹島だけではないようである。彼女によると、中国側の根拠はたった一人の中国人(名前失念)が当時建国したということらしい。「そうだとすると、おかしいですね。朝鮮民族がどのくらい住んでいたか、というほうが問題です」ことの当否はどうであれ、私は断然彼女の肩を持つのであった(^^;)。ひとつ驚くことがあった。私は話しぶりから大学生だろうと思い、彼女に「どこの大学ですか」と聞いた。「高校生です」時々感じることだけど、このときほど韓国の若者の成熟度を感じたことはなかった。日本の若者とは違って、明確に自分の意見を持っているのが韓国なのである。彼女は途中の駅で降りていった。トクサ駅(一つ前の写真)で降りて、バスに乗った。ソウル市内から続く漢江(ハンガン)に沿って東に40分くらい走ったのであった。
2011年07月21日
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昔の弓道場だったと言う黄鶴亭といのがあった。その上に登る道がついている。馬鹿となんとかは登りたがるので登っていくと、やっぱり頂上には運動公園があった。ハラボジがやっぱり運動している。見晴らしはやっぱりそんなにいい訳ではない。これは防衛上か大統領府の青瓦台は枝が邪魔をして良く見えない。向かいの山が山城で、南側にソウルタワーが良く見えた。写真は南側。かすかにソウルタワーが建っているのが見えるだろうか。今日の午後の目的は近くの光化門文化ホールで行われている伝統演技常設公演「PAN」を観ることにあった。写真は文化ホールから青瓦台方面を眺める。山の麓が大統領府である。チャンゴや銅鑼、鐘、太鼓の打楽器音楽を間奏としてパンソリやユンノリ、仮面ノリの触りで構成された「韓国芸能を見た気にさせる」公演である。それぞれに字幕がついていて、韓国芸能の入門篇にはいいと思う。パンソリはやっぱり「感情のうた」だった。今日の触りは「清沈歌」。庶民の孝行娘が王妃になる夢物語と突然父親の目が治るという奇跡物語である。あらすじは荒唐無稽なのであるが、「父親の目から涙がぽたり、ぽたり、ぽたり、」と落ちるさまを謡うその間が素晴らしい。感情が揺さぶられる。仮面ノリも本来の風刺性が薄まっている気もするが、アドリブなどは理解できたので楽しく見れた。総勢13人ほどの小さな楽団だか、客は200席ほどの部屋に80人ほどしか入っていない。一日の日当10万W(7千5百円)も貰っていないだろうなあ、と思いながら見ていた。終ったあと、出口のところで銅鑼や太鼓を叩いて送ってくれたので写真を撮ることができた。若い女性はみんな美人です。みんな一つか二つの一芸を持っている。おばちゃんたちは記念写真を撮っていたが、私はそんな度胸はありませんでした。そのあと観光案内所に行って明日の行き方を聞くつもりだったが、ミョンドンで見つけることが出来なかった。諦めて市庁広場に行った。G20サミットの記念行事がまだ行われていた。南大門市場まで行った。ホットクを買って小腹を満たす。ここの観光案内所は両替もしていたのを思い出したからだ。しかし行ってみると、銀行より高い気がしたので取りやめる。ソウルの地下鉄はふと気がつくと、東京と同じように乗降が自動ガラスで仕切られていた。変なところで日本に追いついている。乗り換えの忠武路駅では無名か有名かは知らないが、歌手の弾き語りをしていた。観客は日本と違い、中高年男女を中心に20名ほど。韓国の中高年は演歌と言っていい歌謡曲を真面目に聞く。歌謡曲がまだ生活に根付いているのではないか。この駅は映画のレリーフをはめ込んでいている。ソウルの駅はこのように駅ごとにコンセプトがある。そのあと景福宮のコインロッカーから荷物を元に戻す。景福宮西側の通りにある多福モーテルに宿を決める。写真を撮るのを忘れたが、木造の部屋で古いから30000Wと安いのだが、わりと綺麗な所だった。当りである。夕食はその近くのモッサム屋で一人分のモッサムを了承してくれた。モッサムとは豚肉をキムチで包んで食べる料理。此処のも美味しかった。コインロッカー1,000、故宮博物館の解説器1,000、昼食8000、「PAN」30,000、キョトンカード5,000、ホットク1000、宿30,000、夕食10,000、ティー2,800合計 78,800W歩数 22,556歩
2011年07月20日
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昨年11月1日から22日にかけて決行した韓国旅行の記録をまた始めます。どこまでいけるか分りませんが、早く終わらせないと次の旅が待っています。今までの旅行記は左のカテゴリーの韓国旅行(09~)を参照ください。11月13日(土)晴れ三泊したので大元旅館を辞することにした。以前と違ってここで宿泊者の交流はなくなった。シャワー室が各部屋についたのが原因だろう。今度ソウルに泊まる時は違うところに泊まれる様に準備しておこう。けれども一泊35000wが上限だ。景福宮にいくと閲覧式をしていた。故宮博物館に行ってみる。大幅な展示替をしていた。御真(オシン)は当代隋一の画家が選ばれ描いている王の肖像画らしいが、それほど芸術的価値があるとは思えない。建物を建てるときに火災から守るための護符である。「龍」の字で「水」という字を書いている。という。歴史ドラマでは王宮の医者はみんな鍼治療に長けていた。このような教科書があったようだ。これは王妃用のかんざし。そういえば、チャングムでも王妃様がまったく同じものを挿してた。このとき、ベトナム阮朝(1802-1945)の宝物の企画展をしていた。これは皇帝勅封である。改めてベトナムも漢字文化圏なのだと感じた。この前と同じようにここの食堂で故宮料理を一品だけ頼んだ。コルドンバン(骨菫飯)である。19世紀末料理本「是議全書」に載っていたという。味の薄いビビンバというかんじだった。景福宮を西に歩く。ここには観光地化されてていない昔ながらの韓屋が並んでいる。旅館があったので入ってみたけど部屋は空いていなかった。良く分からないけど「瓦葺きだけが韓屋だと!保存するなら、全部購入しろ!」と書いているのではないか?日本と主張する部分がちょっと違う。なぜかいざというときにバリケードに使うものがあった。なんに使うのだろうか。誰か教えて!社稷のほうに歩く。ソウルはいま紅葉真っ盛りであることに気がついた。
2011年07月19日
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平和行進に行ってきました。今日は絶対雨なんか降らないと思っていたのに、午前中は無情の雨。午後は台風の風もあって相当涼しくなりました。今日のコースは岡山入りして3日目。岡山市東区役所(旧西大寺支所)から富山を経て、東山原爆慰霊碑前に行き、岡山県庁まで行きます。岡山は全コース制覇している私ですが、このコースはどうやら25年ぶりみたいです。25年前、岡山では1-2件しかなかった益野のローソンがあったところは現在はパン屋さんになっていました。その益野の休憩所ではトマトが出ました。「ここはトマトと柿が出るんだ」「これは黄色いトマトよ」「エー!」ということで、黄色いトマト初試食。少し甘みがある、本当にトマトでした。今回の平和行進の特徴はなんと言ってもあらゆるところで脱原発が語られたことです。出発集会の区長挨拶からして「原発と原爆は同じです」というくらい。いつものシュプレヒコールに付け足して「ノーモア・フクヤマ」も叫びました。今日の行進の大きな特徴は、途中から山の上に登って東山霊園に行くこと。その原爆慰霊碑の前で、岡山市の被爆者会の人たちも迎えて集会をします。会長の方も言っていましたが、会の平均年齢は既に80歳を超えました、いまが若い人たちに運動をバトンタッチする最後の機会です。今日は「岡山は青年デー」ということで、大阪から来た人が羨ましいというくらい青年が集まっていました。会のあとは一人ひとり線香をお供えします。今年の東京-広島の通し行進者は神奈川の西崎さんという方。県内通し行進者は弓田さんと中務さんの2人。今年も彼らがシュプレヒコールや歌を元気よく先導しました。今日の歩いた歩数 33,148歩
2011年07月18日
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女子サッカーが世界一を決めた。0-1から盛り返し、2-1からさらに盛り返した。実力では明らかにアメリカの方が上なのに、耐えて、耐えて、耐えて、耐えて、最後まで諦めずに盛り返した。特に延長での澤の同点ゴールは神がかりだった。PK戦でのみんなの笑顔も良かった。失うものは何もない、楽しむだけだ、という気持ちは全てをやりきったものだけがいえることなのだろう。勇気をもらった。素晴らしい。
2011年07月18日
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今日が祇園祭「山鉾巡行」(7月17日)、「神輿渡御」(7月17日)等ハイライトとなっている。ツイッターの中にこのような呟きがありました。RT @fuwa1Q71 祇園祭はもともと当時、京ではやったさまざまな疫病や災いを祓い、東北で大津波を起こした貞観地震の鎮魂のために行われた厄払いの祭だったおいわれています。そういう意味で今年の祇園さんはちょっと特別なんですよね。posted at 11:13:04もうその頃から日本全体で、大震災を乗り切ろうという伝統は出来ていたということのようです。以前記事にしたこともあるので、写真を探したのですが、いいのが一枚もありませんでした。山鉾の見事さは私の記憶の中にインプットされていたみたいです。そうこうしているうちに今日、22年間とっていた朝日新聞の勧誘員がまたやってきました。丁寧にお断りしましたが、今回は「試読紙」なるものも持ってきてくれていたので、試読しました。「声」の欄にこんなのがありました。金沢市に住む70歳男性の方です。「読書会が脱原発決議 その訳」 私たちは、本好きが集まった金沢市読書会連絡協議会というささやかな団体です。 福島第一原発の事故を巡っては、政府や東京電力の行き当たりばったりの対応にうんざりしてきました。それもあって4月17日に開かれた今年度の総会で、「原発推進をやめ、即刻原発の廃棄に取り組むべきだ」とする決議案が提案されました。 「地方の小さな読書会がそんな決議をしてどういう意味があるのか」「そもそもそんな決議をする資格があるのか」などというご意見がありました。 私たちは、「好きなときに好きな本を自由に読める」という、小さな幸せだけを求めてきました。政治とは関係なく「そうした環境を守りたい」という一心でやってきました。今回の原発事故で、福島ではそういう環境が失われてしまったのです。 私たちは原発廃棄のためであれば多少の不便は我慢します。70代以上の国民は、はるかな過酷な環境で頑張ってきたのです。 結局、提案された決議案は全会一致で可決されました。思えば、日本にはおそらく何万何千万という数のコミュニティが存在しています。読書会、映画会、コーラス、料理会、飲もう会、女子会、男子会!?そのひとつひとつがこのような決議を上げても決しておかしくない。なぜならば、何らかの小さな目的を持ったコミュニティの運営に障害になるような施設に対して、反対を表明する権利は、誰であろうと妨げられることはないからです。だから「資格」はある。「意味」はあるかもしれないし、ないかもしれない。これは9条の会よりも遥かに広がる質と可能性を持っているかもしれない。
2011年07月17日
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久し振りに現説(考古学の現地説明会)に行ってきました。少し遅れていったのでほとんど説明は終っていて、私は説明を終えた調査員を捕まえて詳しい説明を聞いたのでした。幸いにも質問者は私独りで突っ込んだところを聞くことが出来ました。今回の調査は、日本の代表的な弥生遺跡である百間川遺跡のひとつ沢田遺跡(旧二号線百間川橋の下南隣)で、弥生時代前期から井戸や倉庫と考えられる半地下式の大型土壙、集落を区画する大溝から木葉文の描かれた壺の出土、弥生後期の綺麗な田んぼのあとなどが出土したことが特徴です。沢田遺跡は岡山では二例しかない環濠が発見されていることで有名です。今回調査した大溝は(絶対可能性はないということはないそうですが)環濠ではないのですが、以前見つかった環濠集落について私の疑問をぶつけました。「環濠の大きさは小さいと思うのですが、最高で何軒の住居があったのですか」「6軒です」「だとすると、戦いから守るための環濠ではないですね」「環濠の役割は防御のためだけにあったのではない、とだんだん考えられるようになりました。環濠があった時代は前期から中期までです。稲作が取り入れられて定住が始まった頃であって、土地への執着が、環濠という形で土地を区画するという行為になったのではないか。実際ここの環濠は逆茂木があるわけではなく、飛び越えようとしたら飛び越えることの出来る幅です。」「けれども、住居は環濠の外にもあったわけでしょ。だとすると、環濠で区画する意味がわからない。私は環濠の中に聖なるものがあったとすれば、納得するのだけれども」「そういうものは見つかっていないし、たぶん違う」「じゃあ、選ばれた人たちだけが環濠の中に住んでいたのか」「前期にそういう階層意識があったと思えない」結局この環濠は「戦争のための環濠ではない」ということだけが明らかであって、本当の意味についてはまだ分かっていない、ということなのだということは分かりました。岡山の遺跡からも武器は見つかっている。けれども、戦争を準備していた部族なのかというと、最後まで違う人たちだったのだ、というのが私の「仮説」です。さて、これが弥生後期の田んぼです。綺麗な田んぼで、大きさも現在の普通の田んぼの半分くらいから1/4位の大きさです。津島遺跡の田んぼと比べると非常に大きい。なぜ大きいかというと、この頃は鉄器が普及していて、土地を平らにして水を万遍に行き渡らせることが出来たからです。この一枚が当時の百姓の一軒の土地かというと、おそらくそうではない。当時百間川遺跡にはずーと田んぼが広がっていた。このくらいの大きさが彼らの美的感覚にはちょうどしっくりくるということだったのかもしれない。畦は簡単に見つかったらしい。そして一部だけれども稲株跡も見つかっている。洪水で覆われた遺跡だからこそ成果である。稲株あとが思ったより規則正しくないということで、どうやら議論があったらしい。確かにここは意見の分かれるところですね。私は「この畦にある跡は稲株ではないか」と質問しました。ちゃんとこれも議論していたらしい。畦にあるのが何か分からないけれども、たぶん何らかの植物の址とか足跡だったかもしれない。とにかくへこんでいる部分は総て洪水でタイムカプセルとして残っているのだそうだ。今回見つかった前期の屋根付き倉庫用の土壙。大型の倉庫が建てられるのは弥生時代中期になって以降であって、前期にあるのはこんな簡便な倉庫ばっかりだったようだ。しかし、底はきっちり平らにしており、規則正しく柱穴があり、倉庫だったことは間違いない。底が板だったか蓋はあったのかどうかはわからない。たぶん長期保存には向かなかっただろう。鼠対策等ができていなかったからだ。前期の小壺の蓋も出土していた。初めて見た。壺の蓋は前期中期までは結構出るらしい。私は前の講演のとき、日本では土器の蓋は出ないと教えられていたし、実際見ていないのでないのだと思っていたが、蓋が出てこないのは後期になってからだということだ。もちろんお米は煮て食べていたので、何らかの形で蓋は必要だったのではある。おそらく土器製のふたから木製蓋に変わったせいだろうが、韓国との比較についてはいまひとつ分からない。このふたは韓国でも見られない。穴に糸を通して持上げるのだが、上の写真が表。模様がある。下が裏。きちんと穴の大きさに対応した蓋になっているところが大変細かい。日本らしいと思う。弥生時代の壺型土器を飾る文様のひとつに木葉文があります。この文様は前期でも古くからみられる文様で、百間川沢田遺跡においても、南側の丘陵裾で前期前葉の壺から見つかっています。しかし、その時の文様は、方形の区画内に四葉状の文様が描かれていました。今回見つかったのは、前期後葉の壺からで、三つ葉で方形区画も描かれていない。しかも木の葉文様のしたの飾りをよく見てみると、書き順が文様が描かれた後に線で区画していることが見て取れます(一部文様の上に線が引かれているのが見える)。これによって、調査員の人は「この文様の書かれた意味が長い年月の間に薄れていったのでは」と述べていました。文様の変化は弥生時代において、作り手の交代ぐらいでは簡単に変化してはいません。しかし、この文様の変化がどのくらいの期間で起きたかは興味があります。調査員の人はとうとう教えてくれませんでした。最近の土器編年議論に対して大変戸惑っているからだそうです。100年単位なのかどうか。もし20-30年単位ならば、所謂文様の変化はその裏にある深い「思想」の変化ではなくて、「モード」の変化である可能性がある。四葉状の文様に実は深い想いがあるのならば、数十年で変わらないと思う。けれども、もしかしたら深い意味はあったかもしれないが、作り手は封印したのかもしれない。小説家はひとつの文様をめぐって5代ぐらいに渡って女性の歴史を紡ぐことが可能にならなければならない。いろんな想像が出来ます。沢田遺跡の既に発掘したところは現在では遺跡公園になっています。後景には古墳時代、早期から後期にかけて非常にたくさんの古墳が眠っている操山がそびえています。
2011年07月16日
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気になるニュース逆転現象、9都道府県に拡大 最低賃金が生活保護下回る 厚生労働省は13日、最低賃金で働いた場合の収入が、生活保護の給付水準を下回る「逆転現象」が宮城県や埼玉県など9都道府県で起きているとの調査結果を明らかにした。2010年の最低賃金改定時と比べ、4府県増えた。 同省は調査結果を、同日の中央最低賃金審議会の小委員会に提出。政府は最低賃金の底上げによる早期の逆転解消を目指しており、11年の地域別最低賃金の審議にも影響を与えそうだ。 都道府県ごとに決まる地域別最低賃金が新たに生活保護水準を下回ったのは、埼玉県と京都府、大阪府、兵庫県。10年に逆転していたのは北海道、宮城、東京、神奈川、広島の5都道県だった。2011/07/13 21:33 【共同通信】 心配なこと。これがそのまま、最低賃金の引き上げだけに結びついてくれればいいのだが、この前政府は年金生活者との整合性を持たせるために生活保護費の引き下げを検討する、と発表したばかり。ネット世論もこのようなものを聞くとすぐ、「もう働くのは止めた!」などとそれを煽る。そうではなくて、ことの本質は「生活できる賃金とはいったいどのような水準なのか」という標準生計費をはっきりさせることなのだ。私が最低賃金を経験してきたことで言うと、たいてい最賃より生活費は3-5万不足していた。詳しいデータが手元にないが、京都総評の調査では独身男性の水準生計費は月19万円だったと思う。月12-3万円だととっても足りないのだ。最賃の引き上げ。最賃1000円以上は確か民主党の公約であった。
2011年07月15日
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「楊令伝一」北方謙三 集英社文庫ついに始まった。待ちに待った北方「水滸伝」の続編である。私のカテゴリーには「水滸伝」というのがあって、ここに北方歴史モノをぶち込んでいます。単なるエンタメ作品だといえば、その通り。別に読まなくちゃいけないような必読書でもありませんが、私の大のお気に入り。図書館で借りることを自ら禁じて文庫版が出るのをずっと待っていました。約三年間。これから約15ヶ月、胸躍る漢(おとこ)の世界に浸れます。「水滸伝」全19巻の概要を著者自身が書いています。楊令の視点から見事にまとめていて、この二ページの一文自体が独立した作品になっています。そのまま、書き写したい。内容もそうですが、「文体」も私のお気に入りなので。 何もかもが、真暗だった。 覚えているのは、顔の青い痣からだ。青面獣・楊志。賊徒に破壊された村から救い出されたその日から、その顔の持ち主が、楊令の父となった。 楊志は、「替天行道」の旗を掲げて腐敗混濁した宋の支配を覆さんとする反乱組織、梁山泊の一員だった。ある日、梁山泊の仇敵・青蓮寺の謀略によって、楊志は闇の軍に囲まれる。息子を守るため、楊家伝統の吹毛剣をふるって百人を斬り、楊志は壮絶な戦死を遂げた。そのときに浴びた火の粉によって、楊令の顔にも楊志に似た痣がついた。眼に焼き付けた父の死の光景は、顔の火傷と同じように、けっして消えることはないだろう。話す言葉を失い、ただ「強くなりたい」という思いだけが、楊令の中で大きくなった。 楊志の死後も、楊令の居場所は梁山泊にあった。楊令の体には、父の遣った剣が強く刻み込まれている。やがて、豹子頭・林冲に剣技を鍛えられるようになった。林冲立ち合いに、言葉はなかった。ただ打ち据えられる苛烈な稽古だったが、ひとりの男として対等に向き合ってくれているのだと感じた。 梁山泊は楊志の後継者として、青洲軍将軍であった秦明を同志に引き入れる。楊令は秦明のもとで養育されるが、秦明を父と思い定めることはなぜかできなかった。ある日、熱を出した楊令のために、一人の男が薬草を取って崖から落ちて死んだ。その蔓草を秦明から手渡されたとき、溢れ出す涙を止めることは出来なかった。男の命が、そこにあった。以来、小さな布袋に入った蔓草は、楊令の懐にしまわれている。 やがて魯達に連れられて、かつて史進や武松も暮らしたことのある子午山へと送られた。子午山に隠棲する王進から、楊令は本当の強さを学ぶ。王進とその母と、同じく子午山に預けられた長平と穏やかな暮らしを続けていたが、成長した楊令の元へ、病を得た魯達が訪れた。魯達は、梁山泊の同志たちとその志のすべてを楊令に語ったあと、憤死する。魯達が楊令に伝えたことの本当の意味は、まだ分からなかった。 宋との戦は最終局面を迎え、ついに禁軍最強の童貫元帥が出陣した。激戦の末、梁山泊の要衝は、ひとつひとつ陥されていく。楊令は梁山泊に合流するため子午山を降りるが、カクキンとともに北に行き、女真族の阿骨打について遼と闘った。梁山泊では秦明、林沖らが戦死する。戻った楊令は林冲亡き後の黒騎兵を率い、父譲りの吹毛剣で兜を飛ばし頬を斬るも、ついに童貫を討つことはできなかった。 かくして、梁山泊は陥落した。官軍に包囲され炎上した梁山泊で、楊令は頭領の宋江から「替天行道」の旗を託される。楊令にとって、生きることは別れの連続だった。瀕死の宋江に吹毛剣で止めを刺し、自らの胸に問いかける。人が生きることはなんなのか。すべてが闇のようなこの世に、光はあるのか。 敵中を斬りぬけ、楊令は、ひとり梁山湖へと跳んだ。曙光を求めて。第一巻は梁山泊陥落より三年後。まだまだ助走である。楊令は遠く女真族が起こしたばかりの金国で幻王と名乗り、梁山泊とは一切連絡を絶っていた。やがてこれから北宋の滅亡が描かれるのだろう。そのとき、梁山泊の生き残りたちはどうなるのか。楊令はどうなるのか。新しく登場してきた英傑たちの落とし子たちはどうなるのか。「魯達が楊令に伝えたことの本当の意味は、まだ分からなかった。」と、書いているがそれはおそらくこの「楊令伝」を予言しているのだろう。男たちは寡黙だ。語る言葉ぽつぽつと。魅力的なのはやはり新しい人物たちだ。武松と燕青に鍛えられ体術の達人になりつつある候真、自信家でそれだからこそ危うい花飛燐、まだ12歳秦明の落とし子秦容の才能が開花していくさまを見るのはどきどきする。
2011年07月14日
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図書館革命 角川文庫 有川浩あらすじ原発テロが発生した。それを受け、著作の内容がテロに酷似しているとされた人気作家・当麻蔵人に、身柄確保をもくろむ良化隊の影が迫る。当麻を護るため、様々な策が講じられるが状況は悪化。郁たち図書隊は一発逆転の秘策を打つことに。しかし、その最中に堂上は重傷を負ってしまう。動謡する郁。そんな彼女に、堂上は任務の遂行を託すのだった―「お前はやれる」。表現の自由、そして恋の結末は!?感動の本編最終巻。 まあ、なんていうか物語のほうは置いといて、表現の自由をテーマにこんな小説が成立してしまうという現代はどういう時代なのだろうか。こんな小説をも許される自由な世界なのか、それとも小説家のアンテナがこういうテーマを選んでしまう危機的な世界なのか。昨今の石原、橋下某小皇帝たちの言動を見ていると、後者のような気がする。児玉清の巻末特別対談も最終回になった。どうしても納得いかないのが、ついに最後まで著者は文庫版あとがきでこの対談相手への追悼の言葉を語らなかったことだ。三巻目、四巻目は充分間に合ったはずなのに、である。それが単に著者の美意識ならばいい。検閲ではないが、会社側からの何らかの圧力がないのならばいいのだが。収録は三月の初めだったという。既に死を意識していたと思うのであるが、それを微塵も感じさせない。ともかく好きな本を褒め上げ、著者を立てるという姿勢に徹している。ものすごいプロ意識であった。
2011年07月12日
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毎年この時期になると、ときどき岡山市の表町商店街の七夕飾りのメッセージを紹介します。2005.7.22009.7.23実はこの七夕メッセージは、単なる飾りではない、ということに今年気がついた。この前、日本平和委員会の事務局長千坂氏が来岡した折に「岡山では平和の波おかやまという夏の平和の取り組みがあるのですが、その一環として七夕の時期に毎年商店街に千羽鶴をずらっと吊るして飾ってている。」と言うと、ものすごく驚いて「それは全国的にも珍しい平和の取り組みです!そんなすばらしいことをしているなんて知らなかった!」とえらく感激していたのでこちらがびっくりしたのでした。この時期になると、いろんな労働組合、学校、病院などが千羽鶴を思い思いに商店街に吊るして飾るのです。年中行事になっているので、「今年も千羽鶴を折る季節になったのね」というかんじです。今年はその写真も紹介しましょう。 それと、同時に七夕のさおにみんな思い思いにメッセージを書いているので、それも紹介します。当然、身近の日常的な願いもたくさん書かれています。「ホタルみたいです。イケメンきてほしいです。たくさんきてほしいです。ひろた先生たおれないでね」中学生「内定ください。平和な生活送りたい。髪フサフサおねがいします」性別年齢不詳ドラえもんやキティちゃんの絵も付いていました「香代子の王子様が早く見つかりますように」「早く姉ちゃんと三人でくらせますように」でもやっぱり大震災を受けて東北の人を心配する短冊がたくさんありました。今年の特徴です。「こまっているひとをたすけられるつよいひとになれますように」幼稚園「じしんがきませんように。東北の人が元気になりますように」「はやく東北の人たちの笑顔が戻りますように」中三ひとつ残念なのは、一言も原発の文字を見つけれなかったこと。岡山には遠い世界の出来事なのだろうか。
2011年07月11日
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サッカー女子ワールドカップを見て寝不足気味です。耐えて、耐えて、耐えて、ワンチャンスをものにする、日本らしい勝ち方でした。このまま世界に名前を刻んでほしい。6月は映画館で見た映画は11作品。夏休みに入る前の端境期。例年この時期には力作が多い。気になる作品はぜひクリックしてください。ちなみに★5で満点。☆は0.5点です。6/2 「パイレーツ・オブ・カビリアン生命の泉」★★☆6/5 「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら」★★★★6/9 「マイ・バック・ページ」★★★★☆6/13「軽蔑」★★★6/16「プリンセス・トヨトミ」★★★6/18「127時間」★★★ 「東京公園」★★★★6/19「奇跡」★★★★☆6/23「X-MENファースト・ゼネレーション」★★★★6/27「キッズ・オールライト」★★★★6/30「SUPER8/スーパーエイト」★★★☆
2011年07月10日
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「踊る大捜査線」は日本映画の何を変えたのかこのテーマについては、既に一回記事に書いた。去年の夏、日本映画専門チャンネルがインタビュー特集を編集したものを見てメモしたものに私の感想を付け加えた。この本は、まさにそのインタビューを新書に起こしたもので、私のメモより正確にかつ、当たり前のことだけど詳しくなっている。それならば、もうこれ以上付け加えることは無いのではないか?そうかもしれない。しかし、この本は、一点のみあの番組より大きな変更があるのである。それは最終章のこの作品のプロデューサー亀山千広のインタビューである。なんと、彼はそれまでの9人のインタビューを全部見た上で、彼らに反論、付言をしているのである。反則といえば、反則。ただ、この亀山インタビューを見れば、この本のいいたいことは総て見えるという仕組みになっている。そして図らずも、彼が反論しなかった点こそ、「踊る」の最大の弱点なのではないか、と私は思うのだ。まず、彼の反論を見ていこう。テレビのレギュラーのときから「犯人のバックグラウンドを描かない」という方針をとっています。そのことが日本映画をだめにしていったのではないかという、荒井晴彦さんなどの厳しい意見もあります。(略)参考にしたのは「ER」など、当時復活しつつあったアメリカのテレビドラマです。これはモジュラー型と言って、主な出演者全員に光を当てる群像ドラマです。ですから「ER」は緊急救命室を舞台にしていますが、患者のドラマは描いていません。(略)この現実をありのままに描くのが現代のドラマだと僕たちは思いました。だからテレビドラマではひとつの犯罪を描くことはしないと判断したのです。あえて言わせてもらうと、必ずヒーローが勝って、その瞬間世界が平和になる、というようなことを一切描かなかったのが、うけた理由のひとつかもしれません。映画館に入ったときと出たときとでは、何も世の中変わっていないけれど、主人公に同化して痛かった、よかった、笑った、泣いたという経験が出来ればいい。今までの日本映画も、かなりの作品がそうだったのではないでしょうか。例えば山田洋次監督の「男はつらいよ」などは、マンネリといわれながらも、お客さんは毎年正月になると映画館に足を運んだ。テレビで放送することが前提だから、セックスも暴力もない映画が増えて、健全でつまらなくなってしまった。これも荒井晴彦さんの指摘ですが、こういう意見もこれまでにも当然聞こえています。(略)映画化したからと言っていきなり残虐になるとか、いきなりセクシーになるというのはひとつの手としてはあるかもしれませんが不自然です。亀山さんは、荒井さんの批判かには雄弁に「反論」しているのですが、白木緑さんの意見に対してはトタンに歯切れが悪くなります。テレビ局がかつてない興行成績を稼ぐヒット作を出しても、映画界全体の興行収入は横ばい。なぜならば、それは観客を増やしているのではなくパイの奪い合いをしているだけだからだ。白木緑さんはそう指摘しています。それはその通りだと思います。でもぼくらは少しずつパイを広げていくことをめざしているつもりです。(略)もし「何もすることねえな。映画でも見るか」という人が映画を見に行って「意外とおもしれえじゃん、これ」という体験をさせることが出来たら、「今度休みにすることがなかったら映画にいこう」と思うようになるかもしれない。だとしたら、映画界の未来は明るい。実は、白木さんは「パイの奪い」を一番に問題にしたわけではありません。「観客を増やしていない」それはつまり、「踊る」は結局「映画ファンを増やさなかった」ということを問題にしているわけです。確かに、「意外とおもしれえじやん」と思った人はいるかもしれない。けれどもデータ的には違うということも一方で出てきているわけです。白木さんは「踊る」だけの責任ではない、と何回言及しています。映画ファンを増やす取り組みは映画界全体でしなくてはいけないことではあります。けれども、パイの奪い合いの結果、「二時間で人生を変える」映画を見損なって潜在映画ファンを喪った可能性はどうなるのでしょう。白木緑さんは別のところでこういうことも言っています。テレビ界は偶々「映画」というコンテンツを作っているだけだ。「だからもし次ぎに映画館よりももっと魅力のある、お客さんが喜んでくれる場所が見つかったらどうなるか。それはおそらくネット空間だと思いますが、そこへコンテンツは移動していってしまうでしょう」亀山さん自身の意思とは別にそういうことは起きるかもしれない。そういう批判に対しては、亀山さんは沈黙しています。もちろん「踊る」だけの責任ではない。けれども、「踊る」が育てたテレビ主導の「邦画バブル」はもうあまり続かないでしょう。「踊る」と同じ手法で作った今年の「sp」の無残な内容、小ヒットで終った結果などを見ているとそう思うのです。「噛めば噛むほど味が出る」そういう映画に出会うこと、それを広めること、それはもしかしたら、私たちブロガーの仕事なのかもしれません。
2011年07月09日
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今日は水曜日、一週間で一番「疲れた」という言葉が飛びかう曜日らしい。ちょっと疲れたので、いいかげんな書評でお茶を濁します。「騙し絵 日本国憲法」清水義範 集英社まずい、変なものを手にとってしまった。のちに作者はこの小説のコンセプトをこのように言っている。「真面目に考えて不真面目に作品にする」「21の異なるバージョンによる全文」があったり、第九条を1946年と1996年で分けて小説化してみたり、憲法の条文をいろいろな寄せのパロディで作ってみたり、工夫している。それはそれで面白い試みなんだけど、一応憲法なので、小説大変面白くございました、と簡単に済ませれないのが私の悪い癖である。だから小説の裏読みをしようとすると、とてつもなく面倒で長い時間がかかって、なおかつこの記事も長くなって、なおかついつものように分かりにくい記事になってしまうことは目に見えて明らかだった。しかも、図書館で借りたものだから、期限があさってに迫っている。というわけで、やっぱり大変面白うございました、という一言で済ませてしまおうと思う。96年の発行だから、当然既に文庫版が出てヘタをすると絶版になっているかもしれない。機会があればきちんと向かい合いたい。特に第三章「ハロランさんと基本的人権」はとっても挑発的な小説。この「変な外国人」のハロランさんの憲法論に対して、「誰が批判しようとかまわないけど、お前にはこの憲法は「ひとつの大嘘」だとは言われたくない」と大変反発しました。一応挑発には受けて立ちたいと決意表明をしておく。
2011年07月06日
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「地を這う魚」吾妻ひでお 角川文庫名作「失踪日記」のあと、やっぱりまだまだ「鬱」から抜け切れなかったり、アルコール依存症の再発恐怖を背後に持っていたりする危うさを持ちながら、初めて自伝的なマンガを描いたのがこれ。内容的には70年当時彼が憧れていた永島慎二の「黄色い涙」の世界なのであるが、吾妻は吾妻らしく男はすべて動物や爬虫類、景色はいつも魚が飛んだり這ったり化け物だらけの世界、自分と女の子だけ人間という吾妻ワールドになっいる処がとっても面白い。69年から70年にかけて、アポロ11号の月面着陸や東大紛争、万博があった年であるが、いつもカネがない吾妻くんは山手線をぐるぐる回って宿としていたり、仕事行くのに電車賃足りなければコーラのビン一本5円を集めて40円にして行ったり、毎日25円のラーメンを食べたり、大判焼き6個50円をカロリー源にしたり「懐かしい」(?)世界がぐるぐる出てきている。しかし、背景の化け物の世界を描き込まないと気が済まない様な病的な強迫観念を感じるのは私だけだろうか。吾妻さんの健康、大丈夫だろうか。いや、放射能がうようよしている異世界。化け物だらけのこの世界、現代の東京だといえば、その通りかもしれない。今日の呟きからジャーナリストの鈴木さんはしばらく郷土へ里帰りをしていたようです。kou_1970 鈴木 耕 人間は強いのか弱いのか。多くの死者が出た場所のすぐそばでは、普通の日常の暮らしが始まっていた。その限りでは、かなりがんばって復旧作業はなされているようにも見える。しかしその一方で、多くの人たちが逃れ、また自殺者もかなり出ているとも…。ほんとうに、人間は強いのか弱いのか… kou_1970 鈴木 耕 玄海町周辺30キロ以内のの10市町村が、玄海町岸本町長の「暴走」に困惑しているらしい。特に、玄海町を取り囲むような位置にある唐津市の坂井市長は「安全性への不安は払拭されていない」と反対の意向。佐賀県伊万里市や福岡県糸島市も疑念を表明。当然だと思う。kou_1970 鈴木 耕 「いま動いている中で、もっとも危険なのは玄海原発1号機」と井野博満東大名誉教授(金属材料学)東京新聞7月2日。運転開始から35年が経ち、原子炉の金属がひどく脆弱化している。もし地震などでECCS(緊急炉心冷却装置)が作動し急激に冷やせば破断のおそれ」と警告。東大にもまともな人も。ずっと原発問題を追ってきたジャーナリストの鈴木さんの呟きを見ていると、「世界の終わり」に対して、絶望と希望をいつも交互にか感じていているのが分る。
2011年07月05日
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午前中に家の前を「なんまいだ」が通り過ぎた。この行事に付いては、五年前に書いている。そのコメント欄で教えられたが、全国にある「百万遍」のひとつではないかということだった。百万遍は全国的に行われていますが、もともとは京都の知恩院(ちおんいん)の百万遍行事に由来するものです。八世)・善阿(ぜんあ)が流行病(はやりやまい)がおきたとき、7日間に百万遍の念仏を唱えて鎮めたので、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)から「百万遍」の寺号)と大数珠を賜りました。以後、知恩院では念仏を唱えながら大数珠を廻す行事が定例化)しました。今回事前に配られている説明文(「町史」の抜粋)を読むと、まさにその通りだったので、少しつけたしたい。しかも、この町史にある通り木版手すりのお札もきちんと今回は配られていた(もともとずっと配られていたけど、最近気がついただけ)。見て分るように、明らかに疫病除けを意味している。それはつまり仏教行事が土着民俗の虫除けに結びついたということなのだろう。この前世界遺産になった平泉もどこが評価されたかと言うと、仏教思想が日本の土着思想と混在する様がきれいに残っていたことを評価されたのである。私の部落に既に純粋農民はほとんどいないと思うが、それでも民俗行事は21世紀になっても残り続ける。今ではサラリーマン世帯の子どもの情操教育の一環となっているようだ。形を変えながら、けれども大きくは変わらず、外来思想をゆっくりと日本風に変えたとき、日本の民族は大きな失敗はしてこなかった。(米国製の発電施設をそのまま取り入れた誤りに付いてはここでは述べない)町史にはこうある。「なんまいだ」の行事は、まず前日、木刷りのお札をお寺に持っていって祈念してもらい、当日になると、青少年の男子が二十人も三十人も集まり、大きな数珠をお寺から借りてきて、子どもたちが輪を作り、数珠をぐるぐる回しながら鐘や太鼓を打ち鳴らす音にあわせ「なんまいだ」、「なんまいだ」と唱えて、部落内の家々を回る。このときにお礼も配られる。各家では主人を初め家族全員がこれを出迎える。そして「数珠をいただく」と称し、一番大きい数珠玉(南無阿弥陀仏が彫り込んである)を高く捧げていただき、悪い病気にかからぬように祈り、百姓たちは虫がつかず豊年であるように祈った。「なんまいだ」というのは、もちろん南無阿弥陀仏の意味だ。子供の頃は「なんめえだよ」と覚えていた。むかしは家の表から入り裏口へ通り抜けた言う。またかつては旧暦6月15日に行なわれていたが、現在では7月第一日曜になった。神社を中心にするところと、寺を中心にする子ども会と二つあるらしい。今日はあいにくの雨であるが、彼らの「なんめえだあよ、だあよ、だあよ」の声と太鼓の音は遠くからでもよく聞こえ、大きい数珠を触らせてもらった。(いつもの遠慮が出て、いい写真は撮れませんでした)今年は一年無病息災でいけるかな。
2011年07月03日
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「吉備の弥生大首長墓 楯築弥生墳丘墓」福本明 新泉社私の考古学における最大の関心は弥生晩期の王権の移行であるし、そのために吉備の楯築遺跡には既に何十回となく散歩もかねて訪れているし(この前も松木教授から楯築の遺物の解説を受けたばかり)、遺跡の関連書も発掘者の近藤教授の著書含めて三冊は読破しているというのに、2007年に発行されたこの書物にはいろいろと学ぶところが多かった。全カラー印刷で非常に分かりやすく書かれているということがひとつ。専門的な話は横においておいて(それでも少し専門用語は入っているが)、最新の学説を良くまとめていることがひとつ。以下、刺激を受けた部分をかく。●カラーの「足守川流域の主な遺跡」をみると、同時期の弥生遺跡がたった四キロぐらいのところに本当に集中しているということが見て取れる。集落遺跡がざっと15、晩期弥生墳丘墓が三つ。急速な発展を可能にしたのは、この密集した遺跡があったからだろうし、何故急に発展したかといえば明らかに大陸との関係があるのだろう。●写真に突出部の発見の糸口になった列石が載っている。今度行ったときに確かめてみよう。この突出部に気がつかなければ、この墳丘墓がこんなに大きなものだと気がつくのがだいぶ遅れたことは間違いない。●意外にも楯築の象徴である立石は「地上部分が2-3mもある大きな花崗岩で、とくに加工を施した痕跡は認められない」とのこと。→絶対何らかの加工をしていたのだと思っていた。●「想定復元された楯築弥生墳丘墓」のカラー絵が載っている。きちんとした双形をとっていない。これも意外だ。●楯築は他にはあまり類を見ない木棺木槨墓なのであるが、土葬の断面のほんの少しの違いからそれだと類推したらしい。気の遠くなるような作業だったようだ。●歯が出土していた。「年齢は若年とするよりは熟年期を考えるのが妥当とし、性別は不明であるが、小ぶりな歯牙というかんじがもてる」とのこと。→副葬品を考えると、老齢の女性なのではないか。とは私の推測。それが吉備で最も特異な王墓として祭られ、しかもその祭祀の最初であり、しかもその祭祀が100年後には大和王権の祭祀に連なるというほど、決定的なものだったということ。これは何を意味しているのか。●副葬品は鉄剣一口と三連の玉類。鏡はもとより、大量の武器、農具といった品々もみられなかった。むしろ被葬者の愛用品が木棺に納められたという状態で、前方後円墳とは歴然とした違いが見られる。●排水溝があった。弥生墳丘部としては初めて。ひとえに木棺の腐朽を防ぐことに異様なほどに注意が向けられていたということを示している。もちろん30キロにも及ぶ朱もその一環。●中心主体の埋葬後に幾つかの埋葬があったことが確かめられている。→時間を置いているので、殉葬ではない。しかし、誰なのか。●楯築遺跡の特徴はほかに類を見ない特別な埋葬にある。立て石、弧帯文石、最古型式に属する特殊器台と特殊壺、他の追随を許さない墳丘規模と大量の朱の存在。●木棺木槨墓の例は、楯築のほかに岡山市雲山鳥打一号墳丘墓や総社立坂弥生墳丘墓、また山陰の出雲市西谷三号弥生墳丘墓などが知られている。そのなかで、楯築が規模や構造の複雑さで卓越していることから、吉備を中心に採用された埋葬方法であるといえるだろう。しかし、独自に成立したのではなく、楽浪郡古墓の棺槨との類似が指摘されている。しかも大量の朱も良く精製された良質の水銀朱のみが使用されており、徳島阿南の若杉山遺跡の朱とは違うことが明らかになった。産地は現在特定できていないが、これだけ膨大な量と質を供給できる産地として、中国や朝鮮からの搬入を考える必要がある。→私はひそかに楽浪郡の誰かが埋葬に先立ってプレゼントしたのではないか、と考える。●近藤教授は「朱の役割は引き継ぐべき霊を復活させ、その霊力を高めるために使用されたものである」としている。●割られて埋められていた人形土製品は首飾りや乳房のような表現が見られ、女性なのではないかという。武人ではなく、女性であるところが被葬者の気持ちが反映しているように思える。●円礫堆の中の土は黒色から黒褐色をしており、多くの灰や炭が含まれていた。祭儀の中で盛大に焚き火が行われたであろうを示ことす。さらには小モモやクスノキの一種、カジノキなどの種子も含まれていた。その他祭祀に使われた有機物の道具やそなえものも合ったに違いないが、腐朽してしまって今となっては知る術は無い。●土器類はほとんど穴が開けられており、飲食共食儀礼はあったろうが、象徴的な祭祀だったのだろう。人形や管玉勾玉、鉄製品、弧帯文石などは呪術具として穢れを祓う形代の使われ方をしたものと解されている。●もともと弥生時代中期から後期にかけて直会といえる農耕儀礼は出てきていた。ところが、後期後半になると、集落遺跡からその器台が減少し、首長墓に特殊器台として登場する。そのことは、農耕儀礼が首長の葬送に際しての儀礼に取り込まれたことを意味する。●著者は祭儀をこのように再現してみせる。林立する巨石に囲まれた中、なき首長の棺の真上に清浄な円礫が敷かれ、ふたつの弧帯文石がすえられている。それを中心として様々な儀器を使い首長の継承祭祀が執り行われるのである。盛大なかがり火の元、それは夜に行われた。火によって立石が照らし出され、その影が揺らめいている中で進行する。そして祭祀の終わりには小型の弧帯文石が砕かれ、土製品などの祭具も打ち毀されて役目を終えて円礫とともに盛り上げられる。一連の儀礼の最後に墓標のごとく特殊器台と特殊壺が立て置かれるのてある。このときご神体として伝世することになる弧帯文石も傍らに置かれていたに違いない。●特殊器台の胎土や施文に強い共通性が見られることから、備中のどこかの地で一括して作られていたのだろう。●大和から出土する特殊器台は最終型の宮山型が箸墓、西殿塚、中山大塚、弁天塚の四基の前方後円墳から出土している。特殊器台は首長間の擬制的な同祖同族関係とその階層性を示すものであったことを考えると、大和と吉備にその関係があったのか。しかし、吉備においては宮山型は前方後円型をした全長三八メートルの宮山弥生墳丘墓の一箇所でしか確認されていない。なぜか。近藤教授は「吉備における備中の大首長がその絶大な呪術性によって諸族の中枢の地位に擁立され、大和に移動・進出した。そしてその死に際して奈良平野の南東の地に前方後円墳を造り、宮山型特殊器台と特殊壺を持って前方後円墳祭祀を創始したのではないか」という見解を提出している。→私はこの説を支持する。よって、箸墓の主体は吉備からやってきたヒメミコである。●出現期の前方後円墳を構成する様々な要素のうち、少なくとも埴輪や竪穴式石槨、葺き石、朱の使用など幾つかにおいては吉備の弥生墳丘墓を中心に発展してきたと考えられる。⇒いずれにしても、ヤマト政権の祭祀の源流は吉備のしかも楯築墳丘墓にあったのである。
2011年07月02日
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今年も岩波文庫「読書のすすめ」をでいただいた。毎年この時期に呉れるのだと実は今年気がついた。気がついたときには既に第15集に入っている。こんななんだったらきちんと取って置くんだったと今思う。もちろん寄稿人によって当り外れはあるのである。それだけではない。今回冨岡多恵子さんが書いているのであるが、「こういうひとたちの読書のすすめ、あるいは読書法が、本など読まなくても心身健康でマトモに生きているひとにははたして役に立ってきたのかどうか。本が常に必要で、いわば本に密着して生きる職業の人の本談義は、たとえば大工さん―本職が仕事で使っている鑿(のみ)や鉋(かんな)の使い勝手や銘柄を素人にあれこれいうようなものではないかという気もする。」この言葉には共感する。私は最近必要があって「鏝」という漢字を初めて知った。荒鏝、ブロック鏝、煉瓦鏝、塗りつけ鏝、仕上げ鏝、目地鏝……、そんな言葉は50年生きていて、必要なかった。それでも生きていけた。世の中には読書を必ずしも必要としない人もいるのだということは、いつも頭の隅に持っておく必要がある。私のような別に「本に密着して生きる職業」ではなくても小さい頃から常に本が友達だったような人種は別である。私にはあり難い無料本なのである。今回赤川次郎さんがこんなことを書いている。これまで若い世代の人々に、私は、「読書は人生の予防注射になる」と言ってきた。(略)必要なのは「強さ」ではない。時として打ち負かされ、絶望しても、またそこから立ち直る「しなやかさ」である。けれども、私ももう63才になった。「人生の予防注射」は必要ないだろう。むしろこれからは、今までの人生で埋められなかった隙間を埋めていくような読書がしたいと思っている。私はどっちのために本を読んでいるのだろう。あいかわらず、手当たり次第の濫読はやめれそうにない。でもそろそろ、隙間を埋めていくのもいいかもしれない。煉瓦やブロックは綺麗に正確に積むことだけが重要なのではない。最後の目地仕上げが綺麗かどうかで全然仕上がりが違ってくる。目地鏝で僅かな材料を掬い取り隙間を埋めて綺麗に仕上げる。というのもなかなかな「仕事」なのである
2011年07月01日
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