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明日の朝出発し、下関港からフェリーで釜山港へ、そのあとはほとんど予定を組んでいないまたまた行き当たりばったりの旅です。どうなることやら。今回は、あまり古代にこだわるつもりはないのですが、どうしてもテーマは古代、平和、映画にならざるを得ない気がします。それとどこまで節約して旅が出来るかも‥‥‥もともと貧乏なのでそういう旅になります。空前絶後の円高ウォン安を楽しんできます(^_^;)。というわけでしばらくお休みします。大晦日には帰国後第一声を届けられると思うのですが。
2011年12月22日
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「親鸞 上」五木寛之 講談社文庫お坊さまは、じっと忠範の顔をみつめて、ため息をついた。「この子の目にやどる光は、ただごとではない。なにものをもおそれず、人の世の真実(まこと)を深くみつめようとするおそろしい目じゃ。こういう目をした子に、わしはこれまで一度だけ会うたことがあった。京の六角堂に詣でるために紀州から上京してきたという母子じゃったが、その幼い子が、やはりこのような思いつめた深い目をしておった。いま、そのことをふと思い出していたところじゃ。たしか、法師、とかいう名前であった。母親が六角堂に万度詣でをして授かった子だとか。その子の目が、忘れられずに心に残っていたのじゃが、同じ目をした子にふたたび会うとはのう。このような目に見つめられると、悟りすましたわが身の愚かさ、煩悩の深さがまざまざとあぶりだされるようで、おそろしゅうなる。一歩まちがえれば大悪人、よき師にめぐり会えば世を救う善智識ともなる相と見た。心して育てなされ」この言葉は忠範(のちの親鸞)の心にずっと残る。或いは「自分には放埓の血が流れている」という意識をずっともっていたということになっている。この坊さんの言葉に出てくる母子はおそらく法然とその母親のことだろう。この前私は岡山県美咲町の誕生寺に行った時、「旅立ちの法然像」を見た。上巻では、親鸞(この時はまだ比叡山修行僧の範宴)は法然の説教を聴いているが、まだピンときていない。本当の出会いは、おそらく範宴が世の様々な「罪」「煩悩」に出会って以降になるのだろう。「親鸞」に初めて出会ったのは、中学二年のときだったと思う。吉川英治を読み始めて、初めて自分で買った文庫本だった(文庫本の吉川英治全集が出始めて直ぐだったと思う)。それ以降、その本は擦り切れるほど読んだ。何か自分に引っかかったのだと思う。今回の五木版はどうやらその「親鸞」の数倍はある長さになるようだ。視点も、吉川版よりもずっとずっと庶民の視点に近づいている。私が何に引っかかったのか、暫らく付き合って行きたい。
2011年12月19日
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録画していた「24ファイナルシーズン8」見終わった。思えば、9.11直前から始まり、テロ対策室CTUのジャック・バウアーは、テロと正義との狭間で、何度も何度も選択を強いられた。ある時は、一人の命と国家、家族と国家とどちらを優先するのか、を選ぶ。最初は自らの妻を犠牲にしてでも国家を選んだジャックも、そのために妻や恋人が犠牲になり、シーズン途中からは明確に娘や恋人を選ぶようになった。また、イラク戦争の失敗を受け、国家を敵に回してでも、守るべきものはあるのか、彼はずっと「究極の選択」をしてきた。この最終シーズンでは、なんとアメリカ、ロシア両大統領がジャックの敵になる。それは、つまりアメリカ自体が迷いに迷った10年間だった。ということを示しているだろう。このシリーズを通しで観ると、アメリカの「原罪」が見えるかもしれない。
2011年12月17日
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「シャレコウベが語る」松下孝幸 長崎新聞新書かなりマイナーな処から出ている新書なので読んでいる人は少ないと思うが、前作「日本人と弥生人」の内容をさらに深化させて、かつ読みやすくさせていた。2001年発行であるが、その間に土井が浜弥生人骨のルーツが中国山東省にあることを突き詰めたというのが、一番大きい。もちろん、それが直接祖先が中国からの渡来人であったというようなことは言っていない。それどころか、韓国の人骨はほとんど調べていないのが現状のようだ。著者は韓国には勒島意外には人骨が発掘されていない、などと言っているが、釜山大学にもあったし、ほかにもあったはずだ。勉強不足ではないか。面白かったのは、弥生時代の「殺人事件」を人骨の解明から推理したパート。土井が浜の124号人骨は以前よりも突っ込んだ推理がされていた。びっくりしたのは、14本もの鏃(やじり)が打ち込まれていた特異な人骨だというふうに展示されているが、当の館長は骨に総べて当っていないということで、実際は「体に打ち込まれなかったかもしれないと考えている」と言っている。そして、致命傷はここにはない鏃が頭に打ち込まれていたのである。それは鉄錆がついていたことで明らかになった。そして殺されて直ぐに顔面を破砕されている。これらのことから、シャーマンとしての責任を取らされたのだろう、と以前と同じ結論だった。もう一つ面白かったのは、青谷上地寺遺跡の脳が残っている人骨への所見だ。戦争があった、ということではなく、脊椎カリエスという病気を怖れて周辺地域の弥生人が全員を虐殺したという所見を述べているのである。傾聴に値する。紀元二世紀の遺跡だけに、これは一つの事件として覚えておくべきだと思った。
2011年12月16日
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「運命の人 2」山崎豊子 文春文庫TBSで1月から連続ドラマ化されるそうだ。日曜夜九時、「南極大陸」の後続、いわばTBSの看板番組の扱いである。主演は沖縄機密漏えい事件で逮捕される弓成に本木雅弘、その妻で夫の不倫にショックを隠せない役、松たか子、弓成と共に逮捕されやがて「衝撃の手記」を出す不倫相手に真木よう子。当然、沖縄返還をめぐるありとあらゆる矛盾と問題が浮かび上がらなくてはならないが、はたしてどこまで描くのか。ちょっと注目である。これは毎日新聞記者の西山氏をモデルにした小説。事の発端は沖縄返還時の機密漏えい事件である。米軍用地の復原補償費を日本が肩代わりするという密約を記者が外務省の女性事務官からコピーまで入手し、それが社会党代議士の下に漏れてしまったという事件である。政府は、それを記者が愛人関係にあった事務官に強制させたということで起訴をした。そうなると、国民の知る権利対、国家公務員法違反という問題のすり替えという対決になった。しかし、ことの本質は、そもそも米国が出すべき費用を最後まで日本が肩代わりする、その後「思いやり予算」を始めとした対米従属化関係の是非をと言うということだったはずだ。実はこれと同じことが、今回沖縄普天間基地問題でもまたもや起こっている。今回は、裁判闘争にはならない。なぜならば、機密をばらしたのが、ウィキリークスだからである。税金約5000億円以上を投入して、米領グァムに新たな海兵隊基地を作る計画は、沖縄の海兵隊8000人とその家族9000人をグァムに移転して、「沖縄の負担を軽減する」というのが建前だった。しかし、ウィキリークスはその数字が「日本の政治的効果を最大限利用するために故意に多く見積もられた」「実数からかけ離れた」数字であることを告発したのである。これは2008年12月19日付の駐日米大使館発公電にはっきり述べられているという。このジュゴンのすむ辺野古の環境を壊し、嘘で固めた海外の米軍基地を建設し、米軍を強化するために使われる米軍再編強化に日本は総額1.3兆円を使うという。大震災でどのようにカネを作り出すか、日本全国民が喘いでいるときに、許すこのできない「従属」の構図がある。そのことの「本質」を果たしてこの小説は描くことができるのか、3巻4巻を注目したい。
2011年12月14日
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「運命の人」(1)山崎豊子 文春文庫やっと山崎豊子の(おそらく最後の)長編小説を読み始めた。「不毛地帯」からずっと読んできた読者としていつも思うのは、山崎豊子の長編は小説という名の告発小説だということだ。「この作品は、事実を取材し、小説的に構築したフィクションである」この一文がわざわざ巻頭に載ることの意味は大きい。固有名詞だけを替えて限りなく事実に近い世界を描いているのが山崎豊子の長編である。しかも、その取材は徹底していて、おそらく事実無根の話はないだろうと私は見ている。その証拠に、明らかに個人・団体が特定できる問題山積みの歴史的事実が満載なのにも係わらず、今まで一回も訴えられていないことから、それは明らかだ。今回は、沖縄機密漏えい事件にまつわる、所謂西山記者の裁判をテーマに扱う。今まで、商社の政治癒着、日本人二世問題、中国残留孤児問題、日航問題、等々日本の政治の「周辺」を扱ってきたが、今回はほとんどその本丸、国会周辺を記者の目を通して描いている。今回の主人公は、毎朝新聞の弓成。日米機密を暴いた記者を裁判にかけて不倫問題に貶めて潰したのであるが、正義の人物というふうには描いていなくて、小平(大平のこと)番の特ダネ記者として、特ダネのためなら何でもするような人物として描写している。実際そうだったのだろう。たとえば、こういう描写がある。政治家は、新聞記事の書かれ方一つで、生かされも殺されもするから、保険の意味で、盆、暮に、番記者はもとより各社編集局長に30万、政治部長に10万、有能な若手には銀座の一流テーラーのお仕立て券つきワイシャツといった通り相場の挨拶が届く。それ以外に昇進祝、海外出張の折の餞別にも気が配られる。むろんそれを受け取るか、返送するかは、各社各人の判断で、毅然としてはねつける記者たちも多い。弓成の自宅に届いた"越前もなか"は、30万円が菓子折りに添えられていた。時節柄明らかにポスト佐橋を見据えた実弾攻撃で、"二角小福"戦では、お手柔らかにとも、田淵・小平連合ができた際には宜しくともとれる。弓成はバナナ王である北九州の父に、輸入ものであるパパイヤを空輸してもらい、その中に"越前もなか"を添えて、目黒の田淵邸へスマートに返したのだ。田淵は言うまでもなく田中角栄だろう。いやに具体的なので、おそらくこれと同じことがあったに違いない。噂には聞いていたが、政治家のマスコミへの金の使いようは、昭和46年当時でこれなので、ものすごいものがある。しかし、たぶん大げさではないだろう。国会機密費というものがあって、これと同じことが行われていたということがつい最近明らかになったばかりだ。こういうことが堂々と行われていたということは、受け取る記者や編集局長そしてテレビ関係者が少なからずいたし、今も居るということだ。今ならば、10万が20万、30万が50万円だろうか。いや、五万円であれにせよ、我々庶民の「常識」とはかけ離れている。こういう人たちが、マスコミと称して現在も、橋下フィーバーを作り上げたり、原発批判を3-5ヶ月も遅らせたり、しなかったりしているのだ。ああ、書けば書くほど頭にくるので、これについてはもう書かない。この物語の中心的な「事実」、沖縄機密については、一巻目であっさりその真相が書かれる。沖縄返還名協定の際に、沖縄の土地などの復原補償費は米側の支払いとなっているが、事実は日本側の肩代わりのだという「密約」なのである。このとこについては、二巻目でも問題になるだろうし、私もいろいろと書きたいことがあるのであとに譲る。
2011年12月13日
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今日iPhoneを何気なく洗濯機の中に入れてしまった。一回回したあとに気がついたけど、後の祭り。修理すれば、一週間で直るそうですが、ありとあらゆるデータが一瞬で消えました。iPhoneの日記にいろいろメモしていたのに( ; ; )。その他、思い付きやパスワードを付属のメモアプリに書いていたのですが、それも消えました。この半年のダイエット記録も消えました。五キロぐらい痩せたんですよ。これからは、フェイスブックやその他保存の効くアプリに記録します。しょうさんのブログで紹介されていました。感動したので、そのまま転載します。特に太文字にしたところが、目が覚めるような思いをしました。あらゆる運動に、効く処方箋なのではないかと思った次第です。教育基本条例案で大きく揺れる大阪の仲間から、「アメリカの競争教育から大阪をみる」という講演会の報告をいただきました。米国の現実に基づいた話で、非常に説得力のある内容だと感じています。以下に転載しますのでぜひご一読ください。堤未果さんの講演「アメリカの競争教育から大阪をみる」は聞き応え十分、ある意味戦慄を覚えるものでした。内容を紹介します。メモからおこしているので不正確なところもあるかもしれません。昨今報道されたウォール街のデモは、1%のリッチ層が他の99%の生き方を決めてしまうことへの抗議であったというところから話は始まります。デモの先頭には「Education Not for Sale」「We need teacher」のプラカードが。 アメリカで2人に1人の先生が5年以内に辞める事態だといいます。その理由は「落ちこぼれゼロ法」。そのきっかけは2001.9.11テロ。アメリカが思考停止に陥った画期だといいます。テロ後、ブッシュ政権は対テロ戦争を名目に社会保障や教育予算を削減、そして愛国者法で監視社会の強化がはかられ、対テロを理由に異論が言えなくなっていって人々は委縮していったといいます。教育でも、「学力が低すぎる」ということが問題となり、国が学力を管理する流れが「落ちこぼれゼロ法」になります。この法案がでたのが2002年の春。いきなり出てきた法案です。その柱は政治介入と厳罰化、点数至上主義、そして民間の力の活用です。まさに、「教育基本条例案」そのものです。堤さんいわく「条例案は弁護士さんがつくったそうですが、彼はアメリカにもいたようで参考にしたのでは」とのことでした。そして数字ではかれないものまで、あらゆるものが市場化されていきました。現場の先生たちは公務員で工夫がないと攻撃され、ノルマが課せられるようになります。先生の勤務時間は長くなり、ノルマを達成するため成績改竄などのインチキが横行していったそうです。ここは小野田先生も集会でお話されていましたし、堤さんの本『社会の真実のみつけかた』にも詳しく述べられています。お話にでてくる競争においたてられていく子どもと先生たち親たちのすがたが痛ましく思えました。教育の市場化で戦慄を覚えたのはここからのお話です。アメリカでは、教育予算の削減で給食のおばちゃんを解雇し、かわって大手ファストフードが学校給食に参入していき、そして給食が民営化されたそうです。出される給食は高カロリーで味が濃いファストフード・ジャンクフード。その影響で子どもたちはみるみる肥満に陥ります。今やアメリカでは3人に1人の子どもが肥満だとか。ミシェル大統領夫人が肥満撲滅キャンペーンをはじめたそうですが、それは「もっと運動しましょう。」というレベルのもの。こうした肥満傾向は大人にも拡大し、結果的に医療費を押し上げることにつながっていきます。そして虫歯と貧困の関係にも驚きました。こうした食事をしているとどうしても虫歯になります。虫歯になってもアメリカは国民皆保険ではないので医者にかかれない。保険のない人がたくさんいるのです。虫歯になると、顔だち・容姿に影響して就職にも苦労するようになって仕事をえられない若者がたくさんでるそうです。貧困に陥った若者をリクルートするのが軍です。アメリカの学校は「落ちこぼれゼロ法」によって軍に個人情報を提供することが義務付けられています。若者のケータイに軍のリクルーターが電話をかけ、「大学に行ける。資格がとれる。仕事が得られる。」という殺し文句で次々と兵隊にして、アフガニスタンなどにおくりこみます。堤さんは、「教育の市場化をベースにした経済徴兵制」と表現していました。アメリカでは戦争も市場化され、高収入の派遣社員の仕事はアフガンやイラクの私兵です。そうした私兵は正式な戦死者には数えられないといいます。運よく生きて帰って除隊して、大学に行っても近年アメリカの学費の高騰は著しいとのことでした。教育予算が削られたからで、まだ教育がよかった時代を経験した親から「なんとか大学には行きなさい」と言われて学資ローンを組む。しかし、学資ローンの負担に耐えられない人が続出し、今や6人に一人はそういう状態だといいます。破産という手も学資ローンに限っては消費者保護法からはずしてしまって使えなくしているそうです。死ぬまでローン負担がついてまわる。そんな事態です。給食にしても保険にしてもアメリカの企業は儲かると思えるものにどんどん入っていって、利益をあげると必ず政治家に献金をするようになるといいます。政治家と大手企業の癒着の構造ができあがります。堤さんが、アメリカのビジネスマンにインタビューすると、日本はどうしても進出したい市場だそうです。給食も保険も参入したい。しかし、規制があるし、憲法9条もある。しかし、虎視眈々と参入をねらっている。TPP問題もその延長上にあります。しかもそこには支持率低迷の中で再選をめざすオバマ大統領の政治的思惑があるといいます。堤さんは、政治が市場化を入れる時の手口があると紹介してくれました。それは1)敵をつくる 2)ワンフレーズをばらまく 3)内容はぼかす 4)議論させない 5)マスコミは一部しかみせない の5点です。なるほどと思わせます。そして市場化に対抗するための手法も紹介してくれました。すなわち、1)大きな流れをみる 2)世界/過去の事例をみる 3)異なる層の関心をつかむ 4)相手を叩くより本質をアピールすること 5)良き代案を出すこと 6)わかりやすく/面白く/ワンフレーズで これまたなるほどと思いました。「教育の問題だけじゃなくて、医療も、働き方も、エネルギーももう一度全部一緒に考えて、どんな社会だったら子どもたちに手渡したいのか、どんなふうに社会に住んでいけるのか、国を信頼して家族やコミュニティとつながっていけるのか、どんなふうに教育でまなぶことの楽しさをつかんでいけるのか、その全体像をイメージすることが大事だと思います。」「自分は和光学園で、先生とのむすびつきが強かった。いろいろ悩みも聞いてもらった。社会に出て壁にぶつかったきに・・授業じゃないですよ、そんなものは忘れちゃったんですけど(笑い)先生が一緒に何かを体験してくれたりとか、喜んでくれたり、泣いてくれたりとか、思い出とか体験とかうれしかったこと、そういうことが自分の背中をおしてくれて力になった。教育はテストの点数、数字だけではかるものではなくて、その子の人生の中で繰り返し花開いて背中をおしてくれるものだと思います。これからの子どもたちにもそういう教育の宝物を残していきたいし、これからもがんばりたい。」と語られました。最後に堤さんは、ハリケーンカトリーナで未曾有の災害を受けたニューオーリンズの先生が、日本の先生に伝えてほしいと言っていた詩を紹介しました。ニューオーリンズは大水害をきっかけに復興特区ができて市場化が一気にすすんだといいます。学校も、公設民営のチャータースクールになり、民間手法で経営がすすんでいます。そしてつぶれる学校もふえているとのことです。大震災を経験したわたしたち日本はアメリカを反面教師にしないといけないでしょう。さて、その詩とは・・・。(アメリカでは有名な詩だそうです。)ナチスが共産主義者を弾圧したとき、私は不安になったが、自分は共産主義者ではなかったので何の行動も起こさなかった。次にナチスは社会主義者を弾圧した。私はさらに不安になったが、自分は社会主義者ではないので何の抗議もしなかった。それからナチスは学生、新聞、ユダヤ人と順次弾圧の輪を広げていき、そのたびに私の不安は増大した。しかし、それでも、私は何もしなかった。ある日、ついにナチスは教会を弾圧してきた。私は牧師であったので行動するために立ち上がった。しかし、その時は、すべてが遅すぎた。「私は、大阪も日本もまだ間に合うと思っています。ともにがんばりましょう。」と結ばれました。アメリカを反面教師としながら、あるべき社会のすがたを多くの人とかたっていくこと。堤さんの市場化に対抗する手法に学びつつ具体化していきたいと思いました。元気のでるお話が聞けてよかったです。
2011年12月11日
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「白土三平伝」毛利甚八 小学館四方犬彦氏の「白土三平論」が白土三平評伝の決定版だと思っていたのであるが、これはあくまで作品論であった。今年さらにその上を行く決定的に面白い本が出た。毛利甚八氏は「家裁の人」で知られるマンガ原作者であるが、千葉の白土家へ何度も足をを運び、白土氏から直接白土の人生を聞き、そしてなおかつ白土の住んでいた土地を調べて尋ねる、というドキュメンタリー作家の王道の調査を行った。実に面白い伝記評論だった。いくつか興味深かった点をメモする。戦前、プロレタリア画家の父・岡本唐貴は東京、大阪を転々としていたが、一時期大阪の鶴橋の近くにある朝鮮人部落にすんでいた。苦労して毛利氏はその地を突き止める。ここで幼い白土は高さんという人と仲良くなる。この辺りに、カムイ伝の被差別部落の原風景がありそうだと、毛利氏は考える。特に苔丸や竜之進が非人部落に逃げ込み、被差別の暮らしを身をもって体験し、自分の常識を高めていくというモチーフはここら辺りにあるだろうと。少年のころ、白土氏は「水中世界」という魚と漁をする人との葛藤の話を描いていたと言うのを聞いて毛利氏は思わず言う。「へぇ、そのころから弱者の立場から世界を見る視点は変わっていないんですねぇ?」白土氏は問われることが心外だという顔つきでこう答えたという。「だって、強い者から見る体験をしてないもの」社会への目覚めは早い。昭和21年(14歳)のころ、東京でアルバイトをしたりしているが、単独講和反対のデモに出かけたりもしている(19才のころ?)。そのころ、父・岡本唐貴もプロレタリア芸術運動の路線をめぐって仲間との乖離が進んでいたようだ。(「岡本唐貴自伝的回想画集」東峰書房1983)日本共産党へ入党申請をしてなぜか申請を受け付けてもらえなかったらしい。どのような事実関係があったのかは不明だ。今では調べようはないかもしれない。1952年、20歳の登青年は血のメーデー事件の現場に居た。まるで白兵戦のような現場で、人が撃たれた所も見たという。「これは「忍者武芸帳」や「カムイ伝」にとって役に立った」と白土氏は証言している。確かに絵を描く人間にとっては決定的な体験だったろう。そして、ここまでの人生経緯がまさに父岡本唐貴(本名は登)の人生と瓜二つだったと言うことは、既に書いた。そういえば、白土三平の本名も「岡本登」である。そうやって、父から子へ「影丸」のように「サスケ」のように、「何か」が受け継がれていくことを「宿命」のように背負っていたのが、白土三平という人生だったのかもしれない。「ガロ」という雑誌名は白土作品の忍者名から取られたものであるが、我々の道という「我路」という意味合いがあった他、アメリカマフィアの名前も念頭にあった戸という。「カムイ伝」初期の小島剛夕との協力の仕方や、別れ方がこの本で初めて明かされていて、びっくりする。白土は岡本唐貴の血を受け継ぎ、長男家長の役割を生涯持った。その白土が今独りになっている。残念でならない。千葉の大多喜町に商人宿があり、白土がやがて「カムイ伝」の仕事場として使い、若きつげ義春が一人残されて大きく脱皮する舞台になったという。この商人宿がまだ残っているならば、せめて当時の風景が残っているならば、ぜひとも一度は尋ねて見たい場所になった。白土の「様々な人物やモチーフが重層的に描かれていく」長編小説の手法は、白土の口から出てきたこととして「戦争と平和」「静かなドン」を読んだ記憶から得ているという。「カムイ伝」第一部が終ったあとになかなか続きを書くことができなかった理由は度々証言しているが、今回一歩踏み込んだ発言があった。「情勢が変わってしまい物語を書きにくくなった。新左翼とかが出てきて状況が変わってきたし、共産国がうまくいっていないことがわかっていた。俺自身も、これ以上仕事をすると身体がぶっ壊れちゃうのが分かっていた」新左翼が「革命のバイブル」と持上げたのは、白土にとっては迷惑だったのかもしれない。また、おそらく共産主義的ユートピアの崩壊或いは北海道の地で僅かに実現、というイメージを第二部以降に持っていたのかもしれないが、それの修正を余儀なくされたのだろう。だから、我々は一生待っても、アイヌの蜂起に竜之進やカムイが参加するという物語は見ることができない、ということなのだろう。「主題はアイヌと組んで、いろんなことをやる群像が居て、一つのことを追求すると、多くのことが失われるというようなドラマを考えていた。その群像を持つ過去を描くのが第一部で、第二部はその人物たちの放浪と白いオオカミの物語を考えていたんですがね。」しかし、白土のドラマつくりの特徴は同じテーマが繰返し、繰り返し、現れるというところにあった。「カムイ伝」第二部の特徴は、毛利氏が述べているように千葉・内房の海に暮らした体験と教育論にあるのかもしれない。ただ、それからはみ出ているところが、実は白土の白土たるところなのだと私は思う。第二部はずっと雑誌で読んでいて、実は途中で単行本も買わなくなった。しかし、もう一度その全体像を再検討するべきなのかもしれない。白土三平という漫画家の全体像を、別の言葉で言えば、戦後マンガ史の全体を明らかにするために劇画界の大きな峰の全体像を明らかにするべき時期が来ている。この本はそのための、そのためだけの本である。
2011年12月10日
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「1億3000万人の自然エネルギー」飯田哲也 講談社前著「原発社会からの離脱」を読み終えて、対談なので充分に語りきれなかった飯田氏が提唱する自然エネルギー100%社会の実態を詳しく、分かりやすく紹介する啓蒙本が必要だという思いをしたのであるが、さすがにみんな考えることは同じだと見えて、既に10月にそういう本が発行されていた。まさに啓蒙本である。まるで絵本みたいに文字が大きくなっているが、大切な文は大きくして、データや説明文は図・表、小さい文字で賄っている。それによって、見た目よりも豊富なデータも載っており、一般人の啓蒙本としては、先ず必要な知識が得られるようになっている。おそらく、自然エネルギーの情勢は日進月歩であり、ここに書かれていることも、あと数年すれば大きく書き換えられるに違いない。一番書き換えられなければならないのは、日本における情勢であることは間違いない。これを読むと、再生エネルギー買取法が成立したとはいえ、このままではまだまだ飯田さんの提案の方向には舵を切っていない。アメリカだけを見ていてはダメだ。ヨーロッパの現実を見ながら、よその国の長所を取り入れて日本式のエコ社会を実現していくのは、できる。それは日本の得意とするところだ。一番の障壁は、政府の「意識」であることは、おそらく間違いがない。
2011年12月09日
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「原発社会からの離脱」自然エネルギーと共同体自治に向けて講談社現代新書 宮台真司 飯田哲也(2011年6月20日発行)大震災の後、トータル的に自然エネルギーについて語れる人はこの人しかいないという状態になって、ずーとマスコミに出っ放しになっている飯田哲也氏の震災後初めての本になった。時間がないから対談本になっているのは仕方ない。いつかきちんと整理した自然エネルギーシフトへの啓蒙書を出して欲しいと思う。対談相手は、私は初めてだが、社会学者の宮台真司氏。氏によっておそらく今回の対談は歴史的な広がりを持った。今回の原発問題が、何度も繰返してきた日本の社会システムの過ちをまた繰返していることが明らかになった。歴史の教訓からどのように未来デザインを描くのかをある程度は示した。今回の原発問題が、戦前の大本営の失敗の歴史的教訓をそのまま繰返していることには気がついていたが、その問題の本質に「官僚問題」があり、それは幕末から続いていることについては、今回初めて知らされた。またびっくりしたのは、お二人とも私と同世代の1959年生まれ。大学入学時代には、しらけ世代全盛期で、その中で違和感を感じ、(身動きが取れなかったのは私だけだろうけど)人生を模索しながら生きて来たことに共感を覚えた。飯田氏は特に理工系の学部に進んだけど、今西錦司ゼミの学生と付き合う中でどうも鍛えられたらしい。表立っては行動に移せないけど、議論だけはする雰囲気があった。それが後々、原子力村の中枢に入っても違和感を覚えてそこをステップに次ぎに移る素地になったようだ。以下、幾つかなるほどと思ったところをメモ。●【宮台】日本は、政治が主導的だった時代は明治維新以降、ほんの僅かな間しかなく、長く見積もって明治はんばぐらいまでしか続かなかった。それ以降は役人の力が巨大な官治主義が続きます。(略)大正になると政党政治つまり民治主義になるけど、政友会と民政党の政党争いの末、政友会が民政党浜口内閣のロンドン軍縮条約締結を統帥権干犯として批判したのを機に、軍官僚が総てを握る。(略)政治家と行政官僚はどこの国でも対立するわけですが、日本では圧倒的に政治家が弱く官僚が強いわけです。政治家の活動の余地は単なる利権の調整しかないので、ドブ板選挙をするしかない。政策にはほとんどタッチできません。●【宮台】自立に向けて舵を切ろう、アメリカに依存する国であることをやめよう。田中角栄はそう考えて、対中国外交と対中東外交でアメリカを怒らせる独自路線を走ろうとしたわけです。それが例の「ピーナツ」という暗号が書かれたものが誤配されて見つかったという発覚の仕方で五億円事件まで行く。(略)いろいろな政治家に聞いてもアメリカの関与は良く分からないのですが、「田中角栄のようなことをやってはいけないんだな」という刷り込みにはなりました。●【宮台】行政官僚には「無謬原則」がある。官僚機構の中では人事と予算の力学が働くので、「それは間違っていた」とは誰も言い出せない。これは大東亜戦争中の海軍軍司令部や陸軍参謀本部問題でもあります。●【飯田】世界では自然エネルギーへの投資額が毎年30%-60%ほど伸びています。10年後には100兆円から300兆円に達する可能性がある。20年後には数百兆円、今の石油産業に匹敵する可能性がある。日本はこの投資の1-2%しか占めていません。日本は「グリーンエコノミー」の負け組みなのです。新しい経済を生み出す側で負けてしまっている。一方で日本は化石燃料を年間23兆円、GDPの約5%を輸入しています(2008年)。石油、天然ガス、石炭です。(略)(石油と石炭の)二つが、今後貿易黒字を縮小させるなど日本経済の負担になっていきます。新しい経済の側でどんどんチャンスを失い、しかも日本の電力は石炭だらけですから、その石炭代と、それで増えたCO2を減らしたことにするためのクレジット代でますます電気料金が上る。原子力はコストパフォーマンスが極めてお粗末ですから、新しい原発はできず、稼働率は低く、事故だらけ。それをまた石炭で補う。という極めて暗い未来像になります。→常識的に言えば、自然エネルギーへの転換が、日本の未来にとって、中国対策にとってでさえも、米国支配からの脱却という面でも、ベストな選択だろう。芥川の「危険思想とは、常識を実行に移そうとする思想である」という言葉が思い浮かぶ。唯一の心配は、飯田のこの試算がほんとうに正しいかどうか、ということだろう。●【飯田】霞ヶ関文学の本質はフィクションと現実を繋いでいく言葉のアクロバットです。●【宮台が飯田の半生を要約】p74
2011年12月07日
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「経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか」C.ダグラス・スミス 平凡社ライブラリー2000年発行、2004年文庫に収録された本書であるが、ここに書かれていることは、現代でも充分に通用する、どころか現代こそ大切な指摘が多々ある気がする。一章目において、著者は「タイタニック現実主義」について言及している。現実主義的な経済学者が「タイタニック」に、全速力と命令しようとしている。「スピードを落とすな」と。これがタイタニックの論理、「タイタニック現実主義」です。なぜそれが論理的で現実主義的に聞こえるのか。とても不思議なことです。ついこの前も、日本各地でこのような声が聞こえた。「(TPPという)バスに乗り遅れるな」。著者は言います。「『白鯨』の船長エイハブは自分の狂気を自覚していて、一等航海士にそれをこう説明する。「私の使っている方法と、やり方は総べて正常で合理的で論理的である。目的だけが狂っている」」思うに、目的を決定するのは、経済的智識や科学的思考ではない。ましてや、政治家や財界とのパイプでもない。豊かな教養に裏打ちされた「普通の感覚」なのではないか。つまり、私たちの直感を信じればいい。そうすれば、タイタニックは沈まなかったし、TPPでも歴史の批判に耐えうる決定をなすことができる、のではないか。以下、なるほどな、と思ったところはあまりにも多いのであるが、時間の許す限り書き写してみたい。●20世紀ほど暴力によって殺された人間の数の多かった100年間は、人類の歴史にはありません。(略)ハワイ大学のランメルの「政府による死」という著書の中では、国家によって殺された人の数はこの100年間で、203,319,000、つまり2億人にのぼる。もちろんこの数字は大げさかもしれない。でも、大げさだから半分にするとしても、あまり結論は変わらない。(略)もう一つ驚くことがあります。それは国家は誰を殺しているかということです。(略)殺されているのは、外国人よりも自国民のほうが圧倒的に多いのです。ランメルによれば、先の国家によって殺された2億人のうち、129,547,000、約1億3000万人が自国民だそうです。(p47-p48)●今の日本のいわゆる「現実主義」の政治家が、軍事力を持たなければ安全保障はできない、軍事力を持っていたほうが社会の安全を守られるといっているけれども、ではその根拠はどこにあるのか?証拠は?と聞きたいのです。頭の中の話ではなく、歴史の記録にある証拠はどこにあるか、ということを聞きたい。その証拠を見せて欲しい。日本の歴史で考えて見ましょう。日本政府はいつ一番軍事力を持っていたのか。軍事的にもっとも強かった時代は何年から何年までか、そして暴力によって殺された日本国民の数が一番多かったのはいつか。まったく同じ時代です。そういうことを考えるのが、現実主義ではないだろうか。今度は大丈夫だ、という根拠はどこにあるのか。その文脈で考えれば、日本国憲法第九条はロマン主義ではなく、ひじょうに現実主義的な提案だったと私は思います。(p53-p54)●貧富の差というのは、経済発展によって解消するものではない。貧富の差は正義の問題だと思います。(略)「正義」というのは、政治の用語です。貧富の差は経済活動で直るものではない。貧富の差を直そうと思えば、政治活動、つまり議論して政策を決め、それをなくすように社会や経済の構造を変えなければならない。(p128-p129)●競争社会を支えている基本的な感情は恐怖だと思います。暗黙のうちに存在する恐怖です。一生懸命働き続けなければ、貧乏になるかもしれない、ホームレスになるかもしれないという恐怖。あるいは病気になったら医者に行かねばならないが、でもその支払いができないかもしれないという恐怖です。(略)そういう恐怖があるのは、社会のセーフティネットが弱いからだと思います。(略)ほんとうの意味での安全保障(セーフティネット)のできた社会であるならば、その恐怖は減るはずです。その恐怖が減れば、健全なゼロ成長の社会は可能になるのではないか。(略)そういう社会を求める過程を、私は暫定的に「対抗発展(カウンター・デヴェロップメント)」と呼んで見たいと思います。(略)すなわち一つには、対抗発展は「減らす発展」です。エネルギー消費を減らすこと。それぞれ個人が経済活動に使っている時間を減らすこと。値段のついたものを減らすこと。そして対抗発展の二つ目の目標は、経済以外のものを発展させることです。(略)経済用語で言い換えると、交換価値の高いものを減らして、使用価値の高いものを増やす過程、ということになります。(p138-p141)●20世紀、特に20世紀の後半には、第二章、第三章で紹介したような政治経済論が世界的な覇権をつかんで「常識」になりました。「正統な暴力」を独占する国家をつくって、安全と秩序を守ってもらう。そしてその国家を単位としながら、産業革命から始まった経済システムを世界の隅々まで広げる。この過程は1945年までは「帝国主義」と呼ばれ、1946年あたりから「経済発展」と呼ばれ、最近では「グローバリゼーション」と呼ばれている。(略)けれどもこのものの考え方はそのうち変わると思います。それは歴史の記録を見ればすぐ分かることです。覇権を握った「常識」はこれまでも変わってきた。だから経済発展の常識も暴力国家の常識も変わる。これから変わるというより、もう変わり始めているのです。(略)自動的に人間の意識が変わるとは思いません。もっと単純なことで、覇権をつかんだタイタニック現実主義にどんな力があろうとも、人間にはもう一つの、本来の常識が備わっている。そう信じたからこそ、そのような言い方をしたのです。誰もが、タイタニックの外にある現実を見て分かるだけの力を持っている。幻想の中に居ても、その身に危機が迫れば、本来の現実主義に戻る能力を持っていると思うのです。(略)前に話したように、その変化が遅すぎて、大きな災難とともに訪れるのか、それとも積極的、意図的な改革によってなされ、それを回避できるのか、間に合うか間に合わないか、が重要です。ただ、仮に間に合ったとしても、人間が危機を意識し、産業資本主義、世界経済システムを変えることに成功したとしても、それは何かユートピアになるとか、地球を楽園にするというような、そういう甘い話ではない。それにはもう遅いのです。何年か前にある学生から聞いた言葉を借りると「放射能つきユートピア」しか成り立たないのです。災難はもう進んでいるわけですから、バラ色のユートピアの可能性は20世紀で潰れてしまった。しかし、この途中まで破壊された人間の文化、途中まで破壊された自然界にも、この破壊さえ止まれば希望は残っています。その希望は、文化と自然の両方が持つ大きな回復力にあります。(p223-p228)「誰もが、タイタニックの外にある現実を見て分かるだけの力を持っている」私は去年の今頃、ソウル市の片隅にあるノリャンジンという受験生の寮が犇(ひしめ)いている処を歩いた。そこにあるのは、たった一畳か二畳の部屋のなかで何年も資格を取るために10枚27000w(1900円)の食券で何とか食いつないでいる年取った学生たちの姿だった。そんな部屋にさえすむことができない学生もたくさん居ると聞いている。若者の就職率、非正規率、ともに日本を追い越している韓国は、未来の日本の雇用状況だとも言える。外から見ると、韓国の酷さが良く分かるが、日本の現実に浸っていると、日本の酷さには気がつかない。でも、それはいつかきっと、みんなが分かる日が来る。既に今年、国民的体験で「現実的未来」は「放射能つき破滅」か「放射能つきユートピア」しかありえない、と分かり始めたように。
2011年12月06日
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前回岡山城下町を歩いたのは、学芸員の案内の下であったが、今回はこの本をタネに歩いてみた。今日歩いたのは、津山往来といって江戸時代山陽道のほかに岡山城下から倉敷方面に抜ける庭瀬往来と北の津山方面に抜ける津山往来があり、その入り口辺りを歩いたのである。シンフォニービルからオリエント美術館の西に下りると甚九郎稲荷がある。この名前のお方が相撲を取って橋を壊したらしい。つまり当時はこの辺りに堀があって小さな橋がかかっていたのである。現在天神山会館のある辺りは岡山藩の支藩の鴨方藩主の池田信濃守の中屋敷になっていたらしい。その周りをぐるりと堀がめぐっていた。その跡が今も公園や道路などになって残っているし、その当時の石垣も残っている。この堀から北側の弓町は下級武士のすむところだったらしい。岡山城下は基本的に1945年6月29日の岡山大空襲で焼け落ち、昔の建物、特に江戸時代の面影は見る影もないが、ここがそうだったのだと思って歩くと例えばこの昭和の雰囲気を残した弓道場の存在に気がつき、今は知らないが、この道場主の祖先は下級武士だったに違いないなどと思うのである。東に歩くと、津山往来の基点辺りに当る。この辺りに藩の御厩(馬を繋げて置く所)があった。出石町。この辺りは材木問屋が今も多い。商人の町だったのである。一つ路地に入ると、戦災を免れたところなので古い家がまだある。津山往来沿いに榎本神社がある。当時から商人の信仰を集めたらしく、尾張、摂津、讃岐、安芸、美作などの商人が寄進した玉垣が残っているらしい。1685年の石の手水鉢、1800年の石鳥居や、1860年の石灯篭などがある。国道を渡ると、番町に入る。この辺りは下級家臣の居住地。就実学園の道路を隔てた向かい辺りの小路に入ると、古い家も多いし、小道がどうやら江戸時代そのままの面影を残しているようだ。ここで行き止まりかと思えば、まだ先があり、結局階段を上って旭川に出ることができた。津山往来はこうやって旭川沿いに北へ繋がって行ったらしい。
2011年12月05日
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「坂の上の雲 第三部」一回目を観た。「明治の国民のこの痛々しいばかりの高揚を理解しないと、この歴史は分からない。能力があれば、なんにでもなれた。この時代の高揚は、この楽天主義から来ている。米と絹しか産業のない彼らが陸海軍を持とうとした。が、兎も角も近代国家を作ろうというのが、少年のような彼らの目標だった。この物語は、その小さな国がヨーロッパの大国露西亜と対決し、どの様に振る舞ったか、という物語である」だいたいそんな意味のナレーションで始まった。今回は、旅順総攻撃で一回が終わった。露西亜の「近代的」な要塞の前に、大きな犠牲を払う回である。様々な学習運動と、大震災の前に、当初ナショナリズムを鼓舞しようとしたプロデューサーたちの意図は、霞んでいるかに、見える。しかし、映像ソフトはいつ迄も残る。何度もこの作品の無視してきたもの、歪めたものは、指摘されなくてはならない。思うに、日清戦争、日露戦争ともに、朝鮮半島を支配しようとした、帝国主義的な意図は、この作品から巧妙に隠されていた。日露戦争にしても、「ここで勝たなければ、どの国も金を貸してくれない」と叫ぶ。幸徳秋水の様な人間はもちろん出て来ない。坂本龍馬や自由民権運動の目標はこんな「近代国家」だったのだろうか。死屍累々たる旅順の丘をみながら、そんなこんなを思った。
2011年12月04日
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去年の夏、22年間とり続けた朝日新聞をやめた私です。取っていないのですが、土曜日の朝、たまに喫茶店に行くとこの新聞があってたまに読んでみると、それはそれなりに新鮮です。土曜日はわりと一週間のまとめという意識があるのか、記者たちの思考が見えてくるような記事が多い。それらをずらりと眺めると、所々不満もあるけど、「今現在の動き・問題点」も見えてくる。例えば、田中某前沖縄防衛局長の暴言に関連して、一川防衛相も95年の沖縄少女暴行事件について「正確な中身を知らない」とのたまったらしい。任命責任も含めて、問責決議も可決見通しもあることから、交代の可能性が高いらしい。↑ここは、戦術的にはなんでもいいから「がぶりより」して、ともかく辞めさせるべきでしょ。(辺野古環境アセスは提出させてはならない)流通や消費者(日本チェーンストア協会、日本百貨店協会、日本生協連、日本消費者団体連絡会など)481団体が「生団連」を発足させた。「経団連が消費者の声を代弁していない」「東日本大震災への政府の対応は遅い。国民の生活、生命を守る団体が必要だ」と原発反対の是非などを問題にし、消費税反対などを政府に提言していく予定だという。↑よっしゃ!頑張れ!愛国者の原発反対が拡大している。藤波心さんのことも出ていたし、民族派新右翼団体「統一戦線義勇軍」の100人程度のデモも取材されていた。普通の市民のデモへの想いをツイッターが後押ししたという事例も生まれている。4月5日、「デモを行うとして参加したい人」という呟きを載せたら、1200人が参加したいと言ってきたという。それで「4.30脱原発デモ@渋谷・原宿」を企画した。1000人が集まったという。これは早い時期の原発デモだ。「日本各地で今日も集会やデモが開かれているが、その実態は完全につかめていない」(高橋純子著名記事)↑こんな形でデモが起こり出した。日本は変わってきている、と私は思う。東京電力の事故調査に関する中間報告が出た。「想定外」の津波を強調するもので、「自己弁護とも取れる内容になった」。↑東電には自己再生能力が全く欠如している。ここにも、頭がよいだけでは未来を生き抜くことができないということの証明がある。城南信用金庫が東電からの電気は買わないと宣言した。天然ガスからの発電の他の業者の電気などに代えるという。脱東電をすれば、東電も原発なしで電力供給できるでしょ、とほかの取引先にも呼びかけているという。↑個人の取り組みではないところがすごい。何かが変わってきている。その下では「欧米はスタグフレーション(物価上昇と景気低迷が同時進行)」という見出しがあった。↑こんな時に日本はアメリカだけに目を向けていていいのだろうか。「声」欄の下、「記者有論」のコーナーで(朝日新聞)那覇総局長の谷津氏は「問題なのは防衛局長の発言だけか」という。発言のあとでも野田政権は「お詫び」を言いながら、一日の審議官級協議で米国に約束履行を表明した。「私に言わせれば、彼等は酔ってもいないのに『それでも犯し続ける』と言っているに等しい」↑沖縄に住んでいると、こういう「声」が出てくる。本土にいる新聞論説人にこういう「声」は出ない。「沖縄を愚弄しているのは、誰か。本土に目を向けて欲しいのは、むしろそちらのほうだ」と谷津氏は一見政府に向かっていっているようだが、本当は本土の論説委員に言っているのではないか。為替レートが韓国が100w、7.12円でした(^^)/。↑私が韓国旅行をする12月23日までこのままで推移して欲しい(^_^;)。福井事件の再審が決定したが、検察は異議申し立てを出す意向だという。検察には膨大な「証拠」があるが、不利な証拠は出さない、という「構造」がある。これをくつがえしたのが、裁判員裁判で、事前の争点を絞り込む作業で、検察側が公判に出す予定のない証拠を被告側に開示を求めることができるようになったのだという。↑検察は既に不利な証拠があることを認めている。だからこそ、異議申し立てをして裁判の場でそれが出ないように圧力を掛けているのである。裁判にさえ出なかったら、あったこともなかったことにできる。しかし、それは我々庶民の「常識」とは違う。こういう「責任逃れ」の構造は今年いやというほど見てきた。東電も経産省、政府もそうであり、社会保険庁、厚労省の年金問題もそうだ。そして昔の戦争に対する態度もそうだった。もういい加減、こういう構造はやめにしようじゃないか。
2011年12月03日
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「峠うどん物語」(下)重松清 講談社上巻の方は9月に読んだのですが、やっと下巻のほうが貸し出しの順番が来ました。峠うどんは、斎場のすぐ近くにある。お客さんは葬式にやってきたけど親類じゃないので直ぐ帰るのだけど、気持ちの整理がつかない人ばかり。そういう中でお爺ちゃん夫婦のお店を手伝いながら中学三年生の淑子はいろいろなことを学んでいく。下巻は淑子の三年生10月から3月、高校受験までの話。「よっちゃん」「なに?」「まだ高校生のうちはめったにないだろうけど、おとなになったら今夜みたいなお通夜や告別式に出なきゃいけないことも増えるからね。覚悟しときなさいよ」「……けっこうつらいね」「でも、それが生きるってことなんだから。人生ってのは出会いと別れの繰り返しなんだからね」いつもなら笑ってしまうおおげさな言い方だったけど、いまはすんなりとうなずくことができる。「アメイジング・グレイス」のメロディーが耳の奥で鳴っているからだろうか。淑子はその日初めておじいちゃんのうどん屋で正式のお客としてかけうどんを啜る。同級生の女の子が受験の日に飛び降り自殺をしたのだ。話したこともない同級生だったから、涙は全然でない。お通夜のあとに食べたうどんの味は……。初めて葬式に出会ったのは、私の中学の入学式の日の次の次の日だった。なぜ覚えているかというと、母方のおばあさんが入学式の日の朝に亡くなり、ちょうどその時に我が家の瓦屋根の上でカラスが何回か鳴いたのである。「不吉だねえ」と話しているときに電話が鳴った。前日の夜まで連日看病に行っていた母はその時朝食を作っていたが、その知らせを聞き泣き腫らしていた。一度も話をしたことのない祖母だった。だから、一切悲しいという気持ちは生まれなかった。と思う。死に顔も見なかったと、思う。新しい制服で葬式に遅れて参加し、親類からちやほやされたのを覚えている。みんな優しかった。それは不思議な空間だった。そのとき、社会をほんの少し垣間見た。「人生ってのは出会いと別れの繰り返し」だっていうことは、今なら分かる。きちんとやっているとはいえないけれど。
2011年12月02日
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