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こんばんわ、みなさん。11月です。はやいものであと二ヶ月で今年もおわりです。早すぎます、大学のころは時間がたくさんありました。することがたくさんあり、金はないが自由がありました。今は金も時間も余裕もない。こんなはずじゃあなかったです。今日は朝から予約弁当・・つかれました、夜は雨の中配達。今日はここまでにします、YOUTUBEの「昨日悲別で」の続きをみて、寝ます。なぜが、下宿の45度の急な階段が懐かしいぼくです。
2010.10.31
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こんばんわ、みなさん、台風がそれました。昨日は寝れないので司馬遼の昔の文庫本を読んでましたが、大阪夏の陣で、最後、大坂城が家康の手に係り、焼け落ちて淀ギミと秀頼らが自決するシーンを読んでいて、何回読んでも、この本はすごい、どこから読んでも圧巻です。おそらくぼくの先祖もやまの上から、大坂城の焼けるシーンを夜景でみていたと思う、大坂城が焼けるたびに歴史が変わる、そう書いてあった。何度も何度も焼けるのである、時代が変わる。ぼくらの今の時代もその過渡期でどこにゆくやら変わるのである。最近、TUBEで見ているのが、20数年前の倉本先生の「昨日、悲別で」のドラマ、今のサスペンスのようなつまらないものでなく、炭鉱の架空の町、悲別の話。話の展開でよく出るシーンが、これでもか、というぐらい「喫茶店」での会話。喫茶店に入り、話をする。何かあれば、昔はよくそうしたものです、この喫茶店も気がつけばかなりの店がたたんでしまった。学生のころは、喫茶店で友人とたむろするのがすきで、24時間の喫茶店でどうでもいい話を明け方までして、そのまま、下宿に朝帰り、結局、そのまま寝てしまい。学校をサボる、そひて、その行動でまた、モラトリアムになるんだ。話をする、そのことが喫茶店でおこなわれているのも携帯電話ですましてしまう、ということもおおいにあるだろう。そうゆう、余裕の時間というものさえも失いつつあるこの時代。
2010.10.30
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こんばんわ、みなさん、近隣の商店街が廃止になり、つぶされてスーパーのビルができるという。何とか、踏ん張って頑張っていた15店舗、四店は移転、11店は廃業。下水や上水の配管が老朽化し、設備を改善できぬことや経営者の高齢化、いろいろの苦悩が感じられたのでした。63年の月日ということです、63年前といえば、戦後すぐのこと神戸の町は空襲で何度もやられ、一帯は焼け跡。戦後復興では、造船製鉄製糸、そして輸出入、神戸はたくさんの労働者を地方から集め、小さな文化住宅に家族が住み長屋ですごし、市場に買い物へ行く、その風景もいまや、大昔のこと。まだ、1995年の震災あたりは活況のなごりがあった。数々のものが少しずつなくなり、喪失してゆく。時代は変わりゆくのなのだ、そう自分にいいきかせてもどこか、なにか、空しさが漂う。「街」というのは、いろんな人がいて、いろいろな世代がいていろいろな店があって、それでいて、懐かしいもの。震災で残ったものの、15年もたち結局、スクラップ。喪失の時代、ぼくはこう呼ぶ、無機質なスーパーには、ココロはあるだろうか、ひとつのものをうるのもかうのも人の手に・・。ぼくの町の商店街もつぶれてしまった。目をつぶればそこに働く人や行き交う人がいる、花やのおじさんや、かつおぶしをうるおじいさんお菓子やのちいさなおばさん、魚屋のおおきなおばさん肉屋でコロッケをあげていたパーマのおばさん、かしわやのおじさん、果物やの夫婦、目をつぶればそこに
2010.10.29
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2010.10.28
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皆さんこんばんわ。二日続けてUP後に消えると言う始末で更新できませんでした・・。更新しないとアクセスがぐんと減りますね、不思議なものです、親コアラさんのとこなど500はくだらないアクセス、ぼくんとこは250平均でしょうか。内容が乏しいときなど記事を書く気になれないのですが打ち出すといろいろイメージが沸いてくる・・テレビはめっきり見なくなった、これもこのままチデジナンミンになりそうです。見ていてもつまらなく、テレビを見ている人を傍観すると明らかにどこか違いを感じます。
2010.10.28
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阪神淡路大震災から15年もたちなんで、あんな地震がおきたのかいろいろ地震の勉強をしてこの地震は学説として「水」の仕業であるということをききました・・。プレート移動説の中で、なぜ、プレートは移動するのかマントルの流れと言うものは見たことないくせになんで動くのか。。。疑問の塊ですフィリピンプレートが一部裂けていて、その上に淡路島から能登半島あたりまであり、少しまえまではそこが大断層地帯か大昔の地殻構造線か・・ということで福井地震やこの線上の数々の地震が説明つくそうです。六甲山の成型にある花崗岩は300万年前の存在があった三田富士であり、いまのではない、それそのものは地殻変動にあって、存在してないのですが、噴出した溶岩のみがのこり、その火山そのものがフィリピンプレートの割れ目から噴出したものではないか、と思うのです。日本そのものの成り立ちがプレートのせめぎあいで存在できたもので本当に興味深いことであります。
2010.10.28
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こんばんわ、みなさん、今日もまた悲しいニュースを聞いた。小学六年生の女の子がいじめにあい自殺したということ、子供の自殺は悲しすぎる。学校が問題視されてゆくことだろう、また、税金から賠償金慰謝料問題が支払われる。こういう案件では「学校の管理手落ち」が争点となり、認識していながら対策を打っていたか、具体的であったかどうかと言う問題がでてきて、当事者たちは法廷に連れ出され処分されるのだろう。しかし、子供は母に贈るマフラーを首に巻いて死んだと言う、この意味は深いということを暗示している。繊細で優しい女の子であったのだとおもう。いじめをされたことはココロのなかの暗い影になり、自殺を免れても幼少期思春期に受けたココロの傷は深く、成長過程であり、精神も未熟であるから社会に入ってもトラウマのようなものが絶えず付きまとう。学校の状況をどうあるものか、ぼくは知らないが校長というものは、店長と同じであり商品というものは生徒であり、そのおかげで飯を喰うという意識がどうも教育者には欠落している。顔を見れば一目瞭然であるはずだ、顔を見ず黒板とテキストばかり見ていてはいけない、瞳と顔の状態を見ないといけない・・。学校の取り巻く環境は最悪だ。一難去ってまた一難、一番、憶測であるが、悪いのはいじめのリーダーであり、おそらく陰湿で残忍な子供で、その子供の親は馬鹿な親であろう、信じがたい態度や思考をする親にも子供にも先生たちは悩んでいることだろう。それに若い先生を中心とした、ココロの乱れ。警官にも多いが、盗*撮、買*春。多すぎるのである、自覚が足らないといえばおわり、この裏には何かが隠されている。ストレスが強い仕事である反面、精神的に弱い、誘惑や欲望に弱い人間が、多いのである。いじめは犯罪の予兆でもあるわけです、微罪を繰り返し、しまいには勝田清孝のような人生にもなりうるんです、学校をうらみ、先生を恨む、やがて社会全体をうらみ反社会的な人間となり、大きな事件を起こし、罪もないひとを殺害する。いじめ、脳気質的な損傷、家庭環境の劣悪、これらが、三位一体となり、連続および、大量殺人のジャンキーを作ってしまうのです。
2010.10.25
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こんばんわ、みなさん、今日はまた、お客さんが一人亡くなっていました。ご主人が脳梗塞で要介護のひとで、何年も何年も介護しよくうちの弁当を買ってくれたり、配達してたりしてたが、半年以上まえから姿が見えないので、娘さんにきくと、二月になくなったとのこと・・あんなに元気でがんばっていたのに、介護されている人が元気で、先に介護していたひとが亡くなるパターンをよく見ます。たいへんさが伝わるのです。弁当屋10年になるけど、数多くのお客さんが亡くなった・・・顔が数々浮かびます。今年も御節の予約をはじめましたが、既に二人亡くなったとのこと・・最後のお正月だったんですね。みんな、いつかは人生を卒業する。亡くなったおばさんのことを思うと雨のなか、気が沈み涙がでそうになりました。いつも思うのは、その涙は別離の涙、同情であってはならぬ。立派に生きたと褒め称えてあげること、店を閉めて、かたづけてをしているとなぜか、あのおばさんが来たようなきがした。「今日は娘と孫とお父さんの弁当、持ってきてくれてありがとう」そう、聞こえたような気がした。ぜんぜん、儲からない、いやなことばかりだけどあの家に今日は弁当を買っていただいて食べていただいてありがとうございました。人生ご苦労様でした。と、
2010.10.24
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こんばんわ、みなさん、お元気ですか?悲しくて寂しい歌がココロに響いていた、あの時代。ぼくたちは何かに押しつぶされそうになりながらも必死にあがいていたのかもしれない、戦争のあとの傷跡がずしりと日本を覆っていたのはソ連崩壊まで続いていたのだろうかとにかく、差別偏見暴力の時代であった。哀愁の時代は70年代後半から80年代中ごろまで続く、とにかく哀愁があれば、歌はヒットするのである、そして、ハスキーかもしくはハイトーンか少し変わった声であれば、人は聞き耳をたてて聞く姿勢を持つのである。そこから、歌のワンフレーズのなかの言葉をキャッチしミミのなかでぐるぐるとまわりはじめその歌を知らずにくちづさむ。深夜放送ラジオを聴きながら、夜の家族の寝静まった家で一人寂しく机に向かい、頭に入らない単語や方程式や年号を何のためにやるのかさえ疑念を持たぬよう暗記暗礁の競争と忍耐力の受験戦争。あの時代特有のトーンみたいなものたとえば、AMラジオの雑音みたいなものレコードの針を落としてすぐに流れるザーという音黒電話のけたたましいベル音、あの時代特有のにおいみたいなもの近所の文化住宅の窓から匂うカレーのにおい貨物電車が通過するときの匂い長い黒髪の女の子の匂い思い出そうとしても思い出せない同級生の名前記憶のかなたに
2010.10.23
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こんばんわ、みなさん、youtube見ていただけましたか?しかしまあ、くだらないことをやってましたあ。放送のなかで危険なこともいってますが、凶悪犯人の「勝田清孝」のことをいっていた、もうすっかりこのことを忘れていて丁度1983年ごろ逮捕され自供でわかり、数多くの人を殺し強盗を行った、そのご、最近になって死刑。ほんと、こいつは悪魔の化身のような人間だった・・。
2010.10.22
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番組は途中からです、ぐだぐだですが雰囲気だけ、つたわれば、これは最終回の総集編・・北山達夫はぼくです。はるのひさんありがとう
2010.10.22
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こんばんわ皆さん、お元気ですか・・今日はオフでしたがいろいろ動いていまして、王将に食いにゆきました。ぼくがすかいらーくにいたころ、社員たちは王将をひそかに馬鹿にしていた部分がありますがそれも、関連会社のバーミアンのことがあってのこと、しかし、今、完全に王将は一人勝ちし、バーミアンはひどい状況になっています。いまさらながら驚くすごさは、オペーれんしょんはぜんぜん変わっていない、ベルスターもいれない。あのテーブルで押すやつ、押したらくるやつ、あれはぼくも反対したんです、導入したとき便利ですが、あほになるのです、テーブルを見る力お客さんを見る判断ができない人間になる。。それに、いまだにオダーエントリーシステムを入れない、あの無線の器械でオーダーをとるきかいあれも実は無駄なんです、凄く高く、リース代は月に凄いかねを払わないといけない。伝票に印刷があり、マイクで叫ぶやりかたのほうがはやい・・。早い料理提供。ボリュームがあるし、再認識されるのは当然、
2010.10.21
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そのうち、冬眠するのかあ
2010.10.20
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みなさんこんばんわ、先ほど記事をUPしたのですが、消えてしまいました。落ち込んでおります。二回も書く気力はありませんので、もう、寝ます。楽天のばかやろー
2010.10.19
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こんばんわ、みなさん、お元気ですか、ぼくは今日、憤死するぐらいでした、ひさびさ、激怒してしまいました。おもえば、すかいらーくから、ガストに転換し、すべてすかいらーくのときのこだわりを否定し、客数が倍増をし、いままでのやってきたことは、なんだぁったんだろうと、悩み苦しみ。とうとう、軽いノイローゼになり、辞表を胸に仕事をしていた。ファミレスというものが経営として成り立たず、収益のラインを超えた人件費や客単価が低く、利益が上がらないのが問題となり、一難じだいとなっていたのが1993年のころ。しかし、サービスしない、ドリンクバーの導入で、店は荒廃し、上客はすべて、ロイホかデニーズに流れ、高校生の子供たちが深夜遅くまで占領しヤンキーやくそがきがたまるようになり、どんどんモラルが低下していった。どうしようもないDQNの連中の苦情クレームが多発し、働く人々のココロもすさんでいく。低価格化という路線はそういう危険を含んでいた。今日、あたまにきたのは70過ぎのじいさんふたりであった、よくくるのだが、居酒屋代わりに店をしでかい声で猥談をし、あげくのはてに、よめはんを口説きだすのだ、ぼくらには事情があって、子供がいない、そのこともねほりはおり聴くわけだ、しまいには、オレなら妊娠させるぞとか旦那の血液型と同じだからとか、今度のみゆこうとか、挙句には、旦那は子供の作り方を知らないのではないかと、言い出すしまつ、さすがのぼくも頭にきて「ええかげんにせい、おっさん!」と怒鳴る。年金生活をしながら優雅にくらし、自分の武勇伝ばかりでかい声で話しデリカシーのかけらもない。日本がだめだとか、どうの項のいいながら、今の時代をなげくことは自分らは何をして生きてきたのか、何のために生きているのか思い出すのはガストのときも、DQNのやつがたくさんいた、しかし、いつも、「本部にいうぞ!オレは本部のなんとかをしってるぞ!」と、いう、雇われとしてはそれ以上言えない。自分の店でこうも侮辱されたのだから、入店はお断りします。なんで、客は偉いとおもうのだろうか、自分は常に正しいというものをもてるのだろうか、朝から晩まで仕事して、弁当を作って配達してまじめに暮らす夫婦を愚弄する人間は決して許さない。客である前に人間であり、人間としての尊厳をもてないような輩は人のサービスを受けるしかくない・・
2010.10.18
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こんばんわ、みなさん、今日は夜、少し寒いと感じた、なかなか、昼は暑いがほんとうに続く暑さであります。夜には、大垣からツイターの友人が店にこられ帰り際にバイトの女の子に言ってお帰り、きずかなかった・・。話をする暇もなかったのです・・。インターネットをやり始めたころ1996年ごろかチャットブームがあり、かなりはまっていた、ぼくはそのころある店のマネジャーだったので、それをいうと次から次へと店に来る人がいまして、ぼくがどんなひとか見に来て手をふっているのです。あれは不思議な感覚でしたね、オフ会というのがあって、いつも誘われるのですがもちろん土日は仕事ですからいつも不参加。あるとき、東京の会議で大田区に泊まっていると、大田区の近所のチャット仲間が突然あおう、とかなり、翌日も埼玉のひとがあおう、とかなり、かなりわけ輪から何状態で話をしたのをおもいだす、そういう付き合いもすぐに消えてしまいます。ネットのつながりというのは、ここもそうですが不思議な感じがしますね、まあ、ぼくが店をしているので来易いという部分もありますが昔の友人はあんまりこないので、いったい、そのつながりはなんだローとも思いますまた、ツイターというものは不思議なつながりで有名人などは、なかなか、返してくれない返事を。返せるわけないね、ひとつ打ち込むと100以上のRTが帰ってきてその全部を返し終わるには数時間、読むだけでも数時間。そんななかでもよく返してくれる人もいますね、あの松本隆さんと少しでも会話できたのはうれしかった、ルビーの指輪の話もしたかったんですが、松田聖子の話だけでおわった、太田裕美の話はだめだったな、佐野史郎さん返してくれます、返す人も、実は孤独だったりして、インターネットは孤独な社会を浮き彫りにするところでもありますね、でも、注文のできるし予約もできるし、なんでもできるので、ほんとうの「革命」であるのだとおもう。
2010.10.17
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こんばんわ、みなさん。お元気ですか。ぼくは元気ですが、つかれております、何を述べようか考えても何も浮かばない。あれを思い出すのに時間がかかり、情熱が気持ちがうせる。あれだよあれ、名前がでてこないし、今日ひらめいたこと、忘れてしまうメモしないといけないね、アイデアや発想はその場でね・・テレビもつまんないので、もうとうに卒業した・・あのチデジの頭北で、見ないことにしたテレビ。ラジオは聞くに堪えない、あの「ラジオショッピング」のくだらなさはなんだろーか昔は番組が主体で、CMは付属でした、しかし、そのCMにはエッセンスが隠されていて知らずにかったりしていた、しかし、いまや、どきついCMばかりで大阪弁のおばさんのCMなんぞはやりつくした菅(あえて菅)があるのにいまだにつかっている。「個人差はありますが・・」と何回もいう。10キロやせた20キロやせた、しかも二週間でそれはどこか悪いのですよ・・・。何回も何回も朝から晩まで繰り返す、だから、消す、聞く意欲がうせる。
2010.10.16
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こんばんわ、みなさん。今日は昼前に弁当の配達中にまたもや交通事故に遭遇バイクと車でしたが、バイクのおばあさんはふっとんで、左足の関節の裂傷をおい、おそらく肋骨も何本が負ってました、たまたま、とうりすがりの看護士のおじさんがきて、傷を見てくれて足はぼくの手ぬぐいで巻いて応急し、救急が車で待ちましたが今回は15分ほどで救急が来ましたが、すこしおそかったようです。客観的に事故を冷静にみると原因分析ができるのですが、当事者は混乱思考になって、自分の非を認めようとしない、事故目撃の立て看板が多かったのはそういうわけ、しかし、最近の立て看板もへりつつあり、事故も減ってきている、それは不況で車の通行量が激変に少なくなっているからか、今回の事故はBMと原付バイク、しかし、BMはさすがに強く、傷はすくない。おそらく徐行の車に原付がぶちあたって、人間が飛んだのであろう、物理学的に観察すると、バイクが飛ばしていたのがわかる。ぼくも大学のころ、BMに原付で激突して15メートル跳んで田んぼにつっこんだことがある、ほとんどぼくが悪いのだがその車に乗っていてのはどこかの組の親分さんで「おい、おまえ学生か、許してやるよ・・」といって去っていった。ぼくはめがねが割れてバイクはぼろぼろ、そして、その冬にぼくの下宿の友人がバイクで事故死、即死。それで、余計に落ち込んだ。ひどい運転をしていたぼくが生きて、ヘルメットをつけていた彼が死ぬとは生きていることの罪悪感というか、そういうのがずっとある・・。事故は本当にいやなものだ。
2010.10.15
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こんばんわ、みなさん。昨日はアクセスが増加。そして、FM関係者のひとがきてくれて、元みたいですがみんなIt関連にでも転職しているのだろーか。あの深夜放送が盛んであった時代はいつごろからいつまでだったのだろうか考えてみると、60年代後半から90年の半ばくらいまでだったような、受験生が多かった、子供が多かった時代によく聴かれたんだな第一世代は、非常にコアで若い局アナがやるんですね、当初は放送局も深夜はタクシーの運転手や水商売の人が聞くとおもいこんで受験セイがきくことを想定していなかった。口コミでひろがり、小さなトランジスタラジオで広がる時代。関西のヤングタウンも、斉藤努アナが始めた、そのなかでアマチュアの音楽を流そうというわけで、群がり起こるように 北山修や加藤和彦、杉田二郎などがでてきた、ヒットをとばし、レコードの会社などはびっくりし金になるところには人が集まるようになり、音楽と深夜ラジオが一体化してゆくんですね。第二世代は、関西では、落語家が人気を持ち始め、仁鶴や三枝の放送が面白いと人気がでてテレビにも波及し始め、お笑い界の人々が席捲し始める。MBSのおおなべさんは、アナウンサー、お笑いのひと、音楽のひと、のこの三人をあつめ番組を成立させるパターンがでてきて、スポンサーも受験産業などがつくようになり、放送作家がつくようになる。寺崎要もこのころから活躍するようになり、かなりの人が聞くようになる。第三世代は、その中から大物シンガーソングライターが出てきて、放送局が後援したりしてコンサートツアーをしたり、レコードレーベルと提携するようになり、また、アーチストを抱える事務所の力が大きくなり、関西ではヤングジャパン、関東ではユイの事務所などが力をもちはじめ、その事務所の売りたいひとを強引にDJにさせたりして、構図がおかしくなったゆく。第四世代は、女子大生の素人のおねいちゃんがブームになり、番組のおもしろさよりもブース内での雰囲気みたいな感じで、この企画をしたものたちがラジオをどうとらえていたかしらないが、たとえば、京都のハイヤング京都や文化放送のセイヤングなどは、歴史の幕を閉じてしまうのだ。リスナーというのは5年周期で入れ替わる。しかしながら、「流れ」というものがある、その流れはDJたちの存在であり、ファンというものである。そのファンというものを断ち切ったことになり、数年間は流れが止まり、その後通常の深夜放送に戻そうと思ってもファンは違うところにいってしまうのだ。以降はまた別の機会に、妄想を読んでくださりありがとうございます。
2010.10.14
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ダイヤモンド社から1981年に創刊、隔週で発行されていたFM情報誌。レイアウト等は、1978年に創刊した同社発行の自動車雑誌「CAR and DRIVER」と編集部が同じフロアということもあって近似しており(発行も隔週と同じ)、姉妹誌の関係であった。FM情報誌としては最後発でありながら、競合誌よりはるかに安い定価200円という低価格も手伝ってか、もっとも多くの売り上げを誇っていた(最盛期には40万部を超えていたと言われる)。当時、競合するFM情報誌として「FMレコパル」「FMファン」「週刊FM」があった。既存の競合する他誌との差別化を狙い、競合他誌が、A4サイズ平綴じの製本スタイルだったのに対して、大判のB4サイズ中綴じの製本スタイルで出版。読者層は十歳台から二十歳台の若者、それもマニアックでない層をターゲットとし、それ故、音楽記事はクラシックやジャズといった既存のFM情報誌が中心に取り上げていたジャンルは傍らに置いて、邦楽や洋楽のポップス系が中心だった。また、FM情報誌がほとんどカバーしないアイドル歌手も毎号結構な記事の分量で取り上げていた。オーディオ機器の紹介記事に関しても、海外ブランドの何十万円や何百万円単位のハイエンド機は取り上げず、家電量販店レベルで買える国内家電メーカーのコンポやラジカセなど比較的廉価なものが中心であった。創刊時から1988年まで、当時新進気鋭の鈴木英人のイラストを毎号の表紙に採用し、付録でその表紙のイラストを象ったカセットテープケースのレーベルは特に人気を博した。なお、表紙の作品群は画集にもされ、1984年に「FM STATION ILLUSTRATED」として別冊扱いで刊行された。この画集にもカセットテープケースのレーベルが再び付録として付けられている。当初は番組表欄を地方ごとに分けて販売していた(最盛期は北海道版、東北版、関東版、中部版、関西版、中・四国・九州版の六版体制)が、販売部数減少に伴い1995年10月5日号からは全国誌化。1997年8月5日号からはタイムテーブル掲載を廃止して「ニューJ-POPカルチャーマガジン」と題し一般音楽誌への路線変更を行ったものの、部数減少に歯止めがかからず、1998年3月をもって休刊となった。ヤフオクFM雑誌の中ではミーハーではあったがぼくは読んできたFMファンなどでは、オーディオの紹介があり、高いいいコンポが紹介されていました。FMを取り巻く環境でもぜんぜんいまとは違った。音源としての活用が、やはりレンタルの躍進で消えていったのである。
2010.10.14
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2010.10.13
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2010.10.13
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BGMは ボブ・ジェームス彼の作品は以前にも紹介したがLPのじゃけっとがかっこいいのであります、フュージョン系の人は、センスのいいじゃけがありました・・・。【Aポイント+メール便送料無料】ボブ・ジェームス Bob James / Touchdown (Bonus Track) (輸入盤CD)【YDKG-u】彼を知るきっかけとなったのが、クロスオーバーイレブンというNHKの深夜FMラジオであった。ココロが落ち着くにはピアノの音や、弦の音が一番いい、あの波長のウエーブが人間の聴覚にはいいのだろうとおもう。あのナレーションも最高でした。「もうすぐ、時計の針は12時を回ろうとしています。今日と明日が出会う時―クロスオーバー11…」大人の雰囲気で、かっこよかった、選曲がよく、FMファンなどで確認しながらきいたものナレーションがよく、随筆のようでもあり、散文のようでもありイメージを持たせるものであった。ぼくが聞いていたころは津嘉山 正種で、彼の声が一番好きだった。CDがいろいろでていますが、ほとんど手に入れてますがひとつだけ手に入れることができません、勿論あの豪華なしろものは購入できません、【送料無料】クロスオーバーイレブン~アカサカ・ムーン~/オムニバス[CD]【返品種別A】【smtb-k】【w2】赤坂ムーンといいもの、そのイメージだけです。 【CDアルバム】/【smtb-TK】【メール便送料無料!】オムニバス/クロスオーバーイレブン~タイム・アフター・タイム~ 【CDアルバム】/【smtb-TK】これがマニアの間で入手困難とされるもの、廃盤でプレミアム1万は超えるはずです。 【中古】【CD】クロスオーバーイレブン洋楽パーフェクトコンピレーション「クロスオーバーイレブン」!クロスオーバーイレブン・プレミアム・ボックス(CD)【フォーク・ポップス CD】もう、これはかなり聴き応えがあるとおもいますが、お金がないので買えません。 もちろんCMなどがはいらない放送でリクエストでなく、選曲は専門の人が行い聴いていてもここちよいものばかりでした。NHKがこれをやり、民放はあのジェットストリームでありました、この放送はぼくはオープニングが好きで、深夜飛行機に乗っている感じがして、おきれば外国の町に着き、イメージが広がるものでした、なによりも城さんのナレーションが素敵でした、彼以外の放送は聞かなかった、しかし、城さんもかなり前になくなった。城 達也1995年2月25日没
2010.10.13
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楽天ブックス: 深夜放送がボクらの先生だった - 村野雅義 : 本この本はもう絶版のようですが数年前に購入し読みました。関東圏の深夜放送であり、時代は60年代の深夜放送が始まった時代のようです、双方向であり、アカデミックでもあり、実験的でもあり当時の深夜の放送の文化を知ることができる本です、作者はラジオが大ファンであり、その道へ進むようになり実際に憧れのひとと仕事をするのですが、そこでのやりとりは残念でした、とにかく、この当時はまだ、放送作家構成作家のようなひとはいないようで手探りでなおかつ手作りで行われたものである、あの当時はまだ文化圏として関東関西中部など分離していた、ネットワークが築かれ、徐々に文化圏は崩されてゆくのだが、関西には関西の深夜放送があり、関東にはパックインやセイヤングなどが存在していたのです、音楽もそれにあわせ、京都の大学を中心にでてきたカレッジフォークと早稲田などのサークルから出てきた音楽と対比されていました。作者の熱い思いが伝わる本で、まさしくぼくらにとっては「兄貴」であり、「先生」であるのが深夜放送のDJでした。あの時代にありがとう、あの放送にありがとうです。
2010.10.13
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こんばんわ、昨日はUP下とたん、消えてしまい、そのままやる気をなくし寝てしまいました。昨日はラジオ関係者10年に辞めた人が来て書き込んでくれて感慨深いものでした。深夜らじおがすきだった、40人しか読んでくれませんでしたが、なんとか補正推敲してもう一度書き上げて行きます。単純に深夜放送が好きなだけでは物語がなりたたないし、ぼくが深夜ラジオを通して好きになったのが「鶴瓶」の深夜放送でした。彼を通していろいろなことを学び、勉強もスポーツもできない、勿論ルックスも悪く、ギターも弾けないぼくは深夜ラジオに逃避していたのかもしれません。勉強をしていい成績をとることがよしとされ、肩身の狭い思いしながら中学をすごすのですが、結果的に工業高校しかいけない学力。そこでまた、鶴瓶のラジオでの大学時代の四方山話を聴いて、ぜひ、大学にゆきたいと思うのでした、学校にいってもいじめや暴力、かつあげなどひどいものでした。そんななか、普通科に進んだ初恋の美由紀ちゃんに告白するのですが自分との学校のレベルの差に自己嫌悪を抱きながら同じ町に住みながら文通をするのです。このあたりまでがストーリーですが、ほとんど実話ですがあのころはみんなラジオを聴いていた、テレビは居間にしかなく、11PMも見たいがみれない親父の独占物がテレビであったような気がします。ラジオが衰退しつつあります、AMは盛り返しているようですが、地方のFMなどは経営が成り立たないところもあるようです、しかし、ぼくはその経営の根本というものが不思議です、そんなにコストがかかるのか、そんなに複雑なものか・・テレビもラジオも番組制作などは「まるなげ」状態がおおく、自社で作る能力が失われつつあり、地元のFMなどは局アナさえいず、ニュース読むのも派遣社員かバイトです。これはたいへんなおかしい状態です。
2010.10.12
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こんばんわ、みなさん、先ほどまでミニFMの番組の最終回のテープをこっそりと聴いていてました、自分ながら大笑いしつつも赤面しつつ聞いてました。ひどい放送です。いつかデジタル化してTUBEにUPします。最終回では10月から始まったものの総集編でありまして、ぼくのは女子大の前にゆき、インタビューをするというとんでもない企画で聞いていても赤面するものでした・・・。不思議なもので、今日はあまりにも暇で落ち込んでいたのですが、流れるラジオからファンファーレとともにニュースが流れ、そのぼくの番組を聴いて参加してきた彼がニュースを読んで、ぼくは自分の店で聞いている、1983年の秋に四カ月の付き合いだけだったが、夢をかなえラジオの仕事をしている。その彼もいろいろたいへんであるという。何事も自分の夢で召し食うのは苦労が耐えぬもの、人とは違う道を歩んできたぼくはそう思うよ。ミニFMはもうどこもやっていないようで、変わってコミニュティFMのものが人気のようですがおばかな時代もあってよかったとおもいます、大学へ行ってなにをしてるの?と両親にいわれそうで、決して言わなかったのですが、まあそれもあり、就職することにしたのですが、何でも夢中になるのかいいことだと思います。番組をしていた女の子が辞めて新人が入り、また、後輩も次々と辞めてしまい、メンバーはどんどんあとでかわったようです。放送しても反応がないというのが苦痛のようでした。ぼくもおそらく20から30人ぐらいしか聞いてなかったのではとおもいます。それでもいいのです、
2010.10.10
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こんばんわ、みなさん、今日は雨でした、雨の日はたいへんです。雨が降るたびに寒くなり落ち葉が道を埋めます。そんななか、彼岸花が咲くというふぃしぎな光景。それにしても彼岸花自体も不思議な花です。別に彼岸という仏道が始まる前から存在していたんだろうけど此花は中国から来たらしく、ひとつのものからどんどん自生したという説がある、また毒性があり、農作物を守るという意味合いもあるらしい、それにしても不思議なもの、曼珠沙華という別名も持ちます・・。稲作の伝来とともに来たのか、遣唐使の誰かが持ち込んだのか歴史のロマンです。
2010.10.09
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彼岸花 今頃咲いて 季節無こんばんわ、みなさん、1970年代から80年にかけてはアイドル全盛時代で、中三トリオとか百恵淳子などのアイドルが乱立し、テレビにかじりついていたことを思い出します。松本隆さんは数多くの作詞をおこない。そのセンスは抜群で数多くのヒットを生みました。彼の作品の多くは、題材として「少女から大人にかわる」その瞬時的なココロ模様を巧みに描いています、彼の描くところは映画のイメージであったり、小説のイメージです。昨年のNHKにおける元春の番組で言及した、「ありとあらゆる本を読み、ありとあらゆる映画を見た」と・・。シーンが浮かぶ詩というのはその源はそこであったかとおもうのです。そして、彼がまず認められた、太田裕美の「木綿のハンカチーフ」この歌を出す前には大反対されて、それまでいろいろ難癖をつけて自分の作った文に加筆されつづけ、不満いっぱいの彼は、この作品はいじるなと、売れなければ責任をとり、辞めるという・・。しかし、この対話形式の物語風の木綿のハンカチーフは大ヒットするのです。この作品というのは落語のおちのように、最後まで聞かないと題名の意味がわからない、当時、ラジオ放送でのカットされたり、テレビで何番かはしよられたりするなか、この歌は長いけれど最後までながさる終えなかった・・。太田裕美さんの歌はピアノ演奏によるメローかつ哀愁の歌が多かった。彼女のかもちだすものがいろいろな人のイメージに伝播させたのだとおもうけれど、哀愁の時代であったから余計に心に響いたのかもしれないが、全体に暗い感じがおおかった。しかし、1980年に現れた「松田聖子プロジェクト」によると、完全に変わり、明るさ満開でかつ、ことばじりもあのテンションの高い女の子のことばになったのである。どこか、影のある歌がおおい時代が70年代後半、その感じにあきあきしたのか、凄く明るい歌が出始めたのが80年になってからである。あわせて歌謡曲といえばそれ専門であった人々が製作したのが、80年からはユーミンや財津さんなどが作り始め、感覚が斬新でかつ若返りを果たしたのではないかとおもう。いまといえば、よく知らないのだが、ぼくが思うに、作り手のイメージもわかない。太田裕美のもつものと松田聖子のもつものがそれぞれちがい、イメージも違うのですが、当時は妹的な感じと、恋人的である感じで対照的であったともおもう。
2010.10.08
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秋の夜に 流れる雲に 月影かな11/17に小田さんのシングルでます、「グッバイ」TBsのドラマ「獣医ドリトル」の主題歌です。しかし、なんんで、グッバイなんですかね。さよならをイメージしてはいけないんだろうえどミックスダウンもおわったようで、あとは工場のプレスがはじまるんですね。今年は小田さんの誕生日をすっかりわすれてました。秋の気配が来ているのかどうか、疑わしいですね。9月は完全に夏でした・・・。最近はほとんどテレビをみなくなりました。新聞もそうです、久々新聞を読んだら、広告が劇的に減少していて「かなり経営は圧迫されているな」と感じました・・。新聞は、本誌に載せる広告は新聞社のものでオリコミは販売店のものになるようです、読者から購読料もとるわけですから、広告も販売のお金も相当な収入になるわけです。印刷コストを考えても景気にいいときには、販促のおまけがかなりついたり、何ヶ月ただだとかいうのもできるのが理解できます、なにより、「押しがみ」とよばれる販売店泣かせの新聞を送付し、ほとんどすべてのおしがみはゴミになります、トラックがよくきてつんでいます、エコロジーを唱えている新聞は実に無駄なことをしてます。
2010.10.07
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こんばんわ、みなさん、昨日はるのひさんがコメントに残してくれた、松本隆先生がツイターをしてるので早速検索して、メッセージをいれると、RTを返してくれた。あの松本隆と会話できるとは、驚きの至り。昨日書いてた、松田聖子さんの生き方と松本隆の詩の世界が二重写しのように、なってましたね、と、コメントをくれた、先生もそう感じていたのだろう。ぼくは、その詩を歌うことでなりきる少女になった聖子さんはその詩でいろいろ学んだのかもしれないし、疑似体験のように女優が演じるようにそうなったのかもしれない。数々のゴシップ記事を書かれ、結婚離婚を繰り返し、ぼくの中のイメージもかなり悪くなってきたが、しかし、自分もいろいろなことを経験し50前になって、悪いのは彼女だけでないとおもうし、そのゴシップにも負けず生きてきた「強さ」というものに、感動するのです。あの80年代、下宿にかべにはたいていアイドル写真が貼られていて、たいてい、みんな、大型ポスターのアイドルと誰藻見ていないときにキスをするのであった。先輩が一番に唇を奪い、後輩はそのとき激怒し、次からはポスターの顔部分にラップをはるのである。松本隆のあの詩の世界そのものがぼくらの想いでのなかにあり、その歌を聴くと、タイムマシーンに乗ったようにその聴いていたときにもどる、聴いていた場所や着てた服や、においまで、思い出す。すべてが記憶の箱のなかにあり、その箱のキーが「歌」なのであろう、ぼくらの時代は音楽がいつもそこにあって、みんながそれぞれ好きな歌があり、いつもくちずさんでいた。話かわるが、いまの時代はどうも、平面的、二次元的であるとおもう。三次元的でないようなきがします。それは二次元のアニメであり、三次元的な映画であるとおもうのです、それぞれのクリえいターがその二次元で育ったのか、三次元で育ったのか、ということで表現力の奥行き間というか、残像間が違うようなきがする・・・・。
2010.10.06
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こんばんわ、みなさん。昨日のテープは送った。朝一で・・。おどろくことだろう、こっそりとひとりできくのだろうか、そして今日、タイトルのないカセットテープがでてきて聴いてみると、下宿のミニFMでぼくの番組の最終回であった。番組のスタッフはぼくを入れて四人いて、一回のNくんと、三回のあの再会を果たしたアナウンサー。もう一人は女の子で次次期に局長となるみかちゃんだった。女の子がいたのだが、止めてしまい、後釜に応援団のチアリーダーをやっていた学年一二をあらそう美人のみかちゃんがDJをしていた、ぼくは記憶がないのだが、そのころは卒論の締め切りで、要点と要論が自分でも理解できなくなり、それをまた、スペイン語で訳しなければならない作業でどうしようもないジレンマに陥っていた、それにもう、プレ入社で京都のすかいらーくにバイト研修がはじまり、それもたいへんであった、なおかつ、卒業用件単位もかなりやばく、がけっぷち状態で11月12月をすごしていて、12月は友人のバイク事故から2年たっても、乗り越えられるわけもなく、沈んだ気持ちも抱えた板。板?なんで、松田聖子の歌が気になるかという、ぼくなりの松田聖子論というのが最近湧き上がっているのだけれども、この話は大いにそれるんですが、松本隆の歌は、女の自立を目指すココロを描く伏線がありながら、恋模様を表現しているのだけれども、聖子はその歌詞のなかで生きている、生きてきたということ、話をもどすと、やっぱりかけていた。「瞳はダイアモンド」この歌詞は思い出のなかのトーンである。映画色の街 美しい日々が切れ切れに映るいつ過去形に変わったの?あなたの傘から飛びだしたシグナル背中に感じた追いかけてくれる優しさも無い映画色の町、その色は具体的にいうと、セピアのようなものか番組はというと、特にN君のレポートがよかったんですね。ぼくはあそこ取材いってこい、というと自分の金で自分の友人とラジカセを担いでいってくれた、当時できたばかりの大阪のトウキュウハンズにいったりスポーツバレーにいったり、しかし、彼はぼくが卒業したあとFMを辞めてしまうのだ、詳しい理由はきかなかったが、就職のための勉強をするということでしかし、そのサークルにあとではいってきたこと、恋におちいり、結婚したとうわさで聞いておどろいた。それに、いまはKDDIのなんとか本部長になっているそうだ。自分で道を切り開き生きていった彼はえらいとおもう。もう一人の彼はその後、サークルをやめ、自分でアナウンサー養成学校にゆき夢のアナウンサーを実現させる。その志は尊敬に値する。番組で天気予報のようなものをしていて、発音もイントネーションもぐたぐたであったが、みかちゃんは「京都の冬はとても寒く。友人のIくんは、こんな寒いのはたまらないと郷里の北海道にすぐにかえるそうです・・。」という話をしていた、僕は聞きながら大笑いしたのだが、みかちゃんは、その後、FMの局長となり、しかも、スポンサーの喫茶店から追い出され路頭に迷うサークルを運営していったのだ、その話と関連性があるのか、札幌のひとと恋愛しいまは、北海道で暮らしているという、不思議な話。くだらないことを誰も聴いていないような自己満足的なものであったがみんな、情熱を持ち、がんばっていた。夢をもっていたというか、輝いていたというか、そういうのが青春だったのだろう。このことも膨らましてまた、物語を書いて見たいと思った、
2010.10.05
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昔の録音したカセットテープが出てきた。ミニFMのぼくらの放送の一回目の放送だった、何でぼくが持ち続けてきたかというとぼくの下宿の僕の部屋が部室兼放送局だったので、ぼくが引退、放送は別の場所へ移ったのでテープだけがぼくのカセットの棚にまぎれたのだろう、しかし、本当のところ、このカセットの山はよくぞ、生き残ったとおもうのです。下宿を出て、卒業のとき、実家に荷物を送った。カセットテープもたくさんあって、そのまま送った、しかし、仕事を覚えて慣れるのが必死でぼくは荷物をそのままにしていた、いつしか、ぼくの狭い勉強部屋は物置になり、ほこりの中に眠ることになった。持ち主であるぼくは、その後、転勤のために実家をでることに西日本を転々をし、カセットテープもそのままになった。84年から95年まではそのままだったが、阪神大震災が来て、ぼくの家は倒壊を免れた。この免れかたは、異様で、立て揺れは免れず横揺れは免れた。大きな仏壇がたおれもせず、ジャンプして2メートル飛んだことでその事実をもくし、この話はそれるのでカセットや本は崩壊し部屋はたいへんなことになったが、そのとき、母が捨てずに残してくれた。そして、カセットは再び眠ることになる、しかし、今度は母が亡くなる、父と姉が遺品整理をしついでにぼくの昔の持ち物を廃棄し始めた。ぼくはなんとか、LPやカセットを持ち出し、店に持って帰った。カセットデッキがない、カセットデッキをもっていたが、全部だめになり、聴くことができないのでヤフオクで落札、しかし、それも古く、だめになる。妻がこんどは捨ててもいいか、と言い出した。僕は聞くすべもないので、いいよ、と答える。粗大ごみのときに捨てようとしていたが、粗大ごみの日を二回もきずかなく捨てそびれたのだ。そこで、知り合いがいらない新しいカセットデッキがいらないか?といってきたので、もらった・・・。あ、カセットを聴いてみよう、とそれから聞き出した。TDKやソニーのテープは劣化しておらず、30年前の音とはおもえないほど、クリアーな音だった。何回も聴いた松田聖子のテープは、聞きすぎて音がわるかった、そんななかに、そのカセットを見つけたのだ、当時、大学生の一年ののりちゃんが、へたくそなDJで読むようにDJをしていた、が、とっても初々しく、曲もおしゃれな洋楽であった。このテープは、こののりちゃんにあげようと思い、明日でも群馬に住む彼女に送ろうと思う、三人の男の子育てに奮闘しているであろうのりちゃん、卒業して一回もあったことがないが、元気でいるのだろうか、そういえば、四回生のぼくが一回ののりちゃんに授業ののーとを借りたこともあったな、「テレビで今日、ロッキーの映画があるんです!」「そうか、みんなで、見よう!」ちいさな、ちいさなテレビにこたつにはいり、みんなで見た日曜ロードショウ。映画館にゆけば1500円だった、あのころは映画館は京都の町にたくさんあった。あのカセットが生き延びて捨てられず残った運命は、こののりちゃんに返還するためだったのか、とつくづく思う。もののあわれ、いや、ものをすてるのは、思い出を捨てることにもなる、でも、いつまでもおいておけない、ガラクタのようなものでも誰も相手にしなくなったレコードでもペンで書いたINDEXが消えてしまった古いカセットもいろいろなことがあり、いろいろな思いがあった、
2010.10.04
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こんばんわ、みなさん。80年代はMTVが流行った、なかでもぼくの好きだった映像をお届けしようCalifornia Girlsいかがでしたか?たくさんのびきにのおねえさんがでてきましたねデイヴィッド・リー・ロス(David Lee Roth デヴィッド・リー・ロス / Diamond Dave 輸入盤 【CD】, 1954年10月10日 - )はアメリカのミュージシャン(ボーカリスト・作詞・作曲家)、音楽家。ハードロックバンド、ヴァン・ヘイレンのボーカリストである。インディアナ州ブルーミントン生まれ。デビットの歌をもうひとつJust Like Paradise 80年代に登場したあの名曲「JUMP」バンヘイレンを脱退したロスは数々のロック曲のヒットをとばす、突き抜けた感のある独特のしぶいこえ。いろいろな音楽が花咲いた80年代は映像と音楽を結びつけイメージを増大させ聞き手に「スペース」をもたらせたのだ。聴く土壌があってこその80年だい。
2010.10.01
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