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みなさま、こんばんわ、もう三月になりました。卒業の三月。お別れの三月であります。「さよならだけが人生だ」井伏鱒二が漢詩を訳したもので、80年代、寺山が演劇で引用し、有名になったと記憶している。前句があり、花に嵐のたとえもあるように・・となる。きれいに咲く花も嵐がくれば、すべてをうしなう、短い花の運命でさえ嵐の前では危うい、人生も短い、花の命にたとえてるのか、ぼくは、人生の中で別ればかり、さよならでおわるものが人生に他ならないと考察していたのだが、この漢詩を書いていた人。千武陵 曰く勸君金屈巵満酌不須辭花發多風雨人生足別離作者はさよならだけが人生とはいってはいない、人生は別離に足りる、しかし、その約は的確かつ表現がすぐれている。友人と別れのさかずきをしたのであろうか、酒をつぎ、その杯を空にして返してぼくにもついでくれ杯は時間、時間のクロスであり、シンクロであるのだ。何回も出会い別れる人生に、一杯の杯でかみしめるほどの短さを感じる。しかしながら、現代、人生はいくばくか長くなり、寿命が延び、脳かすかすかになっても生きえてゆく長い老後があらたに人類に出現した。みつばちのことを思い出していた、みつばちが絶滅の危機であるという、蜜蜂が消滅してゆくメカニズムが科学的に解明されていないが、温暖化の要因ではないかと弁当屋のぼくはひそかにおもうのだ、みつばちがいなくなるのは農家の死活問題、あわせて人類の食糧事情の悪化、環境破壊、生態系の崩壊、第六の絶滅、と連鎖するのかもしれない。第六の絶滅は何度も僕が寝ながらのべておるのが、人類の破滅である、人類の数は増えすぎた、大杉。かなり話がそれてしまった。話を戻すと、人間の寿命は延びた、昔は30数歳でなくなるのが普通であり、千の漢詩の時代はひどく、人生はみじかい、ということを嘆いたのであろうか。私の中ではさよならがあればこそ、こんにちわ、があるのだと思うし、煌くような短い人生でも何らかの影響、誰かしらに与えるのである。こんにちわだけが人生である。(意味なし)
2010.02.28
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こんばんわ、みなさん、神戸ではしんこ漁がはじまりまして、これがはじまると春の到来です、しかし、近年の乱獲などにより漁獲高は毎年減る一方、魚屋のおっさんも手間なわりにもうけすくないから、したくないとか、ズラーと並ぶ行列、いかなごのクギニを作り親戚にくばるためです、これは震災のあとのお礼がぶ^むとなり、昔からあったのですが子供のころは相手にもしない味でした、今になって、おいしいとおもいますが、これが家々でぜんぜんちがうのです。うちのおかんもたきまくりおくりまくりのお金を散財してました、春となると思い出すのは、長七食堂の苦節のオープン準備です。いろいろもめたおして、融資もだめになり、もう辞めるしかない、というとこまでいきました、しかし、なんとか、オープンでき、今に至ります、いかなごの炊いている家々の匂いをかぎながら妻とふたりで、オープンチラシを一軒一軒いれにゆきました。大学四年のとき、外食産業にゆくときめたとき、友人が「なんで、大学まででて、皿洗いするのか?」と僕に暴言を吐いた、聞き流していたが、内心、ぐさっときた。入社してしごかれまくり、右も左もわからないのに、放置して次から次へと仕事を与え、パンクさせ、どなりちらす店長。この店長も実は大学の先輩であった、まあ五年も上ですが、毎日毎日怒られるので、数えていたんだ、36回怒られていたのだ、しかしだ、知らないうちにその怒る癖が僕に染み付き、数年後の広島のしんてんで教えているとき、怒鳴りまくっている自分にきがつかない、ぜんぜんバイトは定着しない、100人取って数人しか残らない。あるとき、広島の女子高生がメモをくれた「いつもおこってばかりいてはだめです、顔をみてびっくりします」ぼくは、はっと、気がついた、こんなことをしていてはだめだ。笑顔で仕事しなければならないし、怒るのはやめよう。まあ、怒るのはかなり減りましたが、それから10数年たち、会社をやめ、FCを弁当屋でやり、そこも辞めて自分のブランドの店をあくことが出来た、年賀でしか友人につたえられなかったがすぐに電話して来てくれた奴がいた、「おめでとう、夢がかなえたな!」そう、あの時僕に暴言を吐いた友人であった、しかし、彼もたまごやにはいり、福井支店の新規店舗を任されたのはいいが過労で体を壊し、透析の体となってしまったのだ。彼の言葉の重みを感じたのだ。いろいろな人生のクロスがあるな、と思うのです。
2010.02.27
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こんばんわ、みなさん、お元気でしょうか?シンクロというのは、同時に起こること、偶然にでく食わすこと、行うことであります、ユングの理論でありますが、科学的に実証はされていない。ぼくが脳科学者であるならば、脳細胞の化学変化をスプリング8で検証し、DNAかそれらしき組織構造的な脳の働きを遺伝的なもしくは民族的な構造で、同時に同一の思考をする可能性の高さを考えてみたい。(ほとんど、妄想)たとえば、行動的にあさがおさんのぶろぐをみているときにあさがおさんはぼくのぶろぐをみていたりする。鶴瓶がよくテレビでいっているのは彼が人との出会いについて貪欲かつ楽天であり、常に彼の周りにそういう状況がおきやすいようにできているのだ。70年代の半ば、鶴瓶がかけだしのころ、関西では人気だが、関東ではなかなか成功しなかった、当時の文化はラジオにおいて、関西と関東は分離しており、独自性をもち、ネットするのはオールナイトニッポンぐらいであった、そこで、鶴瓶に関東の人気深夜番組のセイヤングからのオファーがはいる、火曜日である。しかし、関東の人は知らない、受けない、はがきも数枚しかこない、僕は関西からクーガーのラジオのアンテナを回しながら文化放送をきいいていた、番組の間から、いつも彼は裸になる、ラジオだからわからないが、ラジオ放送を裸でするのだ、ほんのすこしのことでも大笑いになるのです、3時に終わり、文化放送では全国に、三時からトラック野郎さまのための「走れ歌謡曲」がはじまるのだが、つるべはそこへゆき、裸でアナウンサーを笑わそうとする。番組はすこしずつ人気が出てきたが、ラジオでは春と秋に聴取率調査が始まり、その間にプレゼントとかしまくるのだ、数字をとるために、ぼくも高校の時、調査票の依頼を受け書いたことがある、しかし、つるべの番組がそのときだけスターに変わるという、そこで、彼はまたもや東京への足がかりをうしないます。そういう大切な時期だからこそ、自分の力でためすのだが、何にもならないのである。 鶴瓶はつねに戦い、自己主張をしていた、お笑いだけでないのだ。その個性が好きだったので番組をすべて聴いていた、シリアスな部分が一番のいいところである、そこがあるからこそ、演技もできる。山田洋二監督の「おとうと」の撮影のときもすべて、一発OKであったそうだ、たいてい役者は30回ぐらいテークを取らされるのである、そこがやはりすごいのである。常に彼はサインを拒まぬ、写真もOK,背景はぼくがワイのワイの90分という番組に参加したときに撮影したもの、気軽にわらって、ポーズをとる、このスタンスは30年後の今も変わらない。すべての人に一対一で応対する。学ぶべきものである、彼のラジオ番組はほんとうにどれもおもしろいものだった。
2010.02.26
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あることを思い出し、検索する。京都の下宿の近くの店「ドジハウス」さがすと、あった。たしか、犬がいてドジという名前、どう考えても犬は30年も生きない、ということは?それにしても北山どうりはいろんな店があった。 千成食堂。小山元町の、ランチが300円の学生のためにやすいものをだしていた、夜でもランチはあるのだ、競馬新聞を読む親父さんのおたのしみは土曜競馬だった。おくさんはたまにコーヒーをくれる、息子は野球部、娘もいたなあ。もう閉店したらしいと後輩にきいたことがある、ありがとう、千成のマスターおかみさん。ぼくもなぜか、食堂をしているんだ。元気かな?僕の原点はあの店でもあるんだ、大好きなみせだった。N氏の競馬中継をきいたいたかもよ、ほんと、繋がるんだよ人生は
2010.02.26
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こんばんわ、みなさん、本日もおいでくださりありがとうございます。このブログもいろいろなテーマをもとにおこなってきた。なかでもオフコースの話が最近めっきりへりまして、そちらのファンのひとにはもうしわけない、また、思い出しつつ書いていこうとおもいます、オフコースのことは誰のこころのなかに「原風景」のように残っています、オフコースの話と、深夜放送の話からラジオについてそこから自分のミニFMの話へと続くもの、そこでは思わぬ展開で再会をこのブログではたしました。そひて、鴨川のほとりの下宿の話。どこまで、話したのか整理しないとだめ、そして、いまや消滅しつつある「ファミレスが好きだった話」尽きない話であります。まあ、全部つながっているのですがラジオも聞かなくなりました。子供たちはラジオの聞き方もしらないし、ラジオ欄という新聞のコーナーはいつからか、テレビ欄の下のほうから追いやられ、深夜ラジオ放送は衰退をしている模様。ぼくらが聞いたラジオの時代は、若者の自由区、殆どの学生はラジオ聞きながら勉強していたとおもう、夜中に家中が静まり返り、スタンドのあかりだけつけて、家族を起こさないように静かにイヤホンでラジオを聴く、ヤンタンにもはがきを良く出した、一発ギャグの笑いをとるものと、ストリーじたての物語から、一発ギャクで覚えているのは、当時、ミッチーといえば、三橋美智也であった、ミッチーはCMなどでも人気があり、紅白にもでていた。「とんびがくるりとわオ書いた・・」という歌。それから当時、映画の恐怖ものがはやり、ゾンビがではじめたころ、それをかけて、ミッチーの新しい歌。「ぞんびがくるりとわおかいた・・」というもの、原田のぶろうと笑光(後の嘉門達夫)は大笑いで受けてくれた、いま、ぼくのなかではまったくおもしろくないのだが、気をよくして、続編をつくり、翌週にもはがきを送り採用された。今度は早口言葉。「坊主が屏風に上手にとんびのえをかいた」のパロディーえ「ゾンビが屏風に上手にゾンビのえをかいた」と、これも大うけでヤンタンバックをもらえた。つまらないことを頭の体操で考えてネタノートというものを作って、ストックしておき、送るのだ、ヤンタンの放送が主で、月曜日のつるべの番組は競争が激しく、水曜日ののぶろうの番組と木曜日の鶴光角の番組におくった。だいたい聞いていると、採用される人は同じ人が多く、月曜日のつるべの番組は「高下隆」という神戸市灘区の僕より年下の子がつるべから支持されていた。つるべは夜の10時からの番組ではがき読み整理で、昼過ぎには千里山に行き、熱心にはがきを読むのだ、つるべの番組ははがきの数でもダントツ多く、それを読むには至難の業が必要。まず、つるべは自分のノートに面白いはがきをだすやつのリストがあり、はがきの裏面をよまず、面白いはがきをだす人の名前を探し出し、ピックアップし、そこから、各コーナーの面白い読むべきはがき順番をつけてゆく。深夜放送ラジオというのははがきが命で、放送を生かすも殺すもはがきしだいである。面白い放送が面白い人をよび、双方向で相乗効果を及ぼす。つるべのラジオを聴き続けて、ある番組のあつまりで、とうとう、高下隆と友人にになり、つるべの角座ライブなど見に行くことになった。彼のセンスは抜群できっとどこかで放送作家にでもなっているのでは、と思う。ヤンタンでもらった戦利品はみんなにやってしまい、ほとんどない、バックもあんまりいいものでなく、キーホルダーも・・。であったが、はがきを読まれるというあの瞬間はたまらないものであった。ペンネームであるから、誰もわからないのだが。
2010.02.25
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明日への遺言 特別版(DVD) ◆20%OFF! 先日お亡くなりになられた、藤田まことの主演映画、2008年の「明日への遺言」を先日見ました。この映画は裁判の模様がほとんであります。まず、岡田資さんでありますが、岡田 資(おかだ たすく、1890年4月14日 - 1949年9月17日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。岡田資は中尉時代の1916年12月から約1年間半にわたって、陸軍士官学校の7期後輩である第30期第3中隊第3区隊長を務めている。この第3区隊員の中には、後に、日中和平工作に尽力し、バターン戦線では兵団本部からの米比軍捕虜千余名の処刑命令に抗して釈放した陸軍少将今井武夫がいた。 岡田は1930年には秩父宮付武官を務めている。 若者を愛した人で「青年将軍」の通称があった。 第十三方面軍司令官兼東海軍管区司令官を務めていた1945年5月14日の名古屋空襲の際、撃墜され捕虜となった米軍のB-29爆撃機搭乗員27名を自らの命令(旧陸軍内での法的根拠は与えられており、私的制裁の類ではない)で処刑した(11名は軍律会議で死刑判決、処刑は6月28日、瀬戸市付近。残り16名は5月14日空襲より後の捕虜、略式手続きのみで7月12~15日に軍司令部庁舎裏にて4回に分けて処刑。処刑方法はいずれも斬首であり、このことも戦犯裁判での争点となった)。戦後、国際法違反(捕虜虐待罪)に問われ、B級戦犯として連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に逮捕され、軍事裁判(横浜法廷)に掛けられた。戦犯裁判での岡田は米軍による空襲について「一般市民を無慈悲に殺傷しようとした無差別爆撃である」「搭乗員はハーグ条約違反の戦犯であり、捕虜ではない」と徹底的に主張し(岡田自身は、これを『法戦』と呼んだ)、検察や米軍関係者による爆撃の正当化を批判、捕虜虐待の罪に付いても全面的に争った。一方「私ひとりが一切の責任を負う」として、捕虜処刑に関わった部下を庇い、自ら責任を負う発言を繰り返す。この様な岡田の高潔な姿勢は、米軍検察側や裁判官の心をも動かし、最終的には米軍側が「名古屋空襲は無差別爆撃であり国際法違法である」との見解を導き出すに至る。1949年9月17日、巣鴨プリズンにて絞首刑が執行された。処刑に当たり、裁判を担当した検事・弁護人を初め、国内でも秩父宮から助命嘆願や減刑の要望書が出されたり、GHQ側の法務担当官から「終身刑が相当である」「絞首刑ではなく銃殺刑(軍人にとって、銃殺刑は名誉を重んじた処刑方法と欧米では考えられていた)とするべし」との意見も出されたが、当初通り絞首刑による死刑が執行された。熱心な日蓮宗の信者であり、他の戦犯死刑囚に対し仏教思想に基づく勉強会を開くなどして、精神的な支えにもなったと言われている。名古屋空襲もひどいもので、そのやり方のひどさは、裁判の模様をみていると戦争のおろかしさ、一般市民を殺戮する模様にいきどうろをかんじた。戦争は勝利の論理で、戦争に常道はない、悪道あるのみ、戦争のことは学校では殆ど教えてくれない、ターぶーの80年代であった。
2010.02.25
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こんばんわ、みなさん、本日は昼間20度をこえるときもあり、驚いたのです。あんまり熱いと、地震がおこるのではないか、といううわさが神戸ではいつもささやかれます。地震における説のひとつとして地下水の動きが関係あるとことです、その水がどう影響するかはわすれましたが、未だにそのメカニズムが解明されていないので・・。計算式のようなものがせきれば、地震予知も可能になるんですがね。日本人が優秀な理由のひとつに、災害にたいしての知恵や苦労、など危機に対しての一致団結などがあったともおもいます、台風や、大雨や、地震、大火事など災害は周期的に日本を襲ったのでありましょう。しかしながら、日本の金メダルはムズカシヨウデス。前にも述べたが、メダルの数なんてどうでもいい、今日のマオちゃんの演技をみましたが、完璧だった。あの顔は充実の顔。あれでいいのだ。思い存分やったのである、19歳そこらで本当にすごいことをします、人生の頂点がそこであればその後の人生はどうあるのか、本当にたいへんだとおもいます。
2010.02.24
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人生はさまざまなことがおき、人と出会い、影響し、与え、道が出来てくるようである、先日来のあのラジオの後輩が、店に訪ねてきた、27年ぶりであった、人生49年近いうちの彼との人生のクロスタイムズは二ヶ月半あまりであったが27年間もお互いに忘れずにいたことが呼びよせることとなったのだろう。僕があの下宿で後輩たちとミニFMラジオを開局して、そのリクエストをしてきたのがN君であった。なんども電話をかけてきて、サークルにいれてくれとたにむんだ。すぐに打ち解けて一緒に放送をした。そのぼくが27年後の阪神大震災のある団体の弁当の配達の帰りにたまたま聞いたラジオ、そのラジオを聴くともなしに聞いていて、内容が不思議なニュースがひとつあり、どういうやつが流しているのか、と、そこで、「担当はNでした」と聞いた、思わずブレーキをかけ、「ええ、いまいったな!言った、言った、」何度も自分で確認し、あのN君だとすぐにわかった。27年前のぼくの下宿で彼は熱く夢を僕に語る光景が目に浮かぶ。「アナウンサーになりたいんです。」目が輝いていて、そういう人間はなかなかいなかった。「ぜったいなれよ!」と僕ははげました。27年後の本日、2月23日。僕はこういった。「君は本当に偉い、努力したせいだ!」本当にそうおもった、ぼくの夢を彼に託した部分もあったのだ、あの27年前の時点では就職が内定し、外食産業で働くことが決まっていて、ラジオが好きだったぼくは、ラジオの夢は小さな海賊放送で達成したのでいいとおもっていたのだ、人生は短い、それを教えてくれたのが死んだ下宿の友人。迷う悩む暇はない、時間がないんだ。そう思っていた、しかし、時間はあったのだ、単にモラトリアムのどうしようもないやつだったんだ。なかなか、夢を持つことがない若者が多い、それは実に悲しい。仕事しながら後輩の社員に夢や理想をもち、人生の計画を立ててゆかないと、会社のつかわれるだけだぞ、といっていた、揺ぎ無い自信というものをもち、誇り高い自分でいたい。たがが自分、されど自分、自分というものは認識をきちんと持たねばならぬ、刻苦勉励してこその自分である。とおもいつつ、再会に昔の自分を見た、情けない自分がそれを見た。
2010.02.23
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こんばんわ、みなさん、お元気でしょうか?連日藤田まことさんの追悼のドラマとか映画とかやっていますが、本日の「あさま山荘」のやつは、あんまりよくないな、とおもいました、日本の新作映画は殆どみません、しかし、海外のはDVDであのつたやのDISCASで年間すごい数みます、もう、見るものがそろそろなくなってきました。アングルが難しいんですね、映像のテクが、まあ、文句はさておき、藤田まことさんの演技はつねにすばらしく、たっているだけで存在そのものがドラマをうみます、必殺ものはよくみました、あのカット割りは映像はすばらしいものでした、映画をとっていた京都の撮影のひとだろうね、影をつかうところはすばらしかったね、それに比べると本日のはぐだぐだ、せりふもわかりずらい。藤田さんの借金はすごいことになっていたらしいが、実は逆に彼がハングリーでいたからこそ、仕事に熱が入り、死ぬ前でいい作品を残せたのではないかとおもうのです、さだまさしさんが成功し、島までかって、タモリなどのバッシングがはじまったときには音楽をやめようとおもっていたらしい、そこで、中国にゆき、映画をつくり、大失敗し、えんえん、大きな借金を背負い、そのためにライブをし続け、作品をつくるつづけた、いわば彼も追い込まれ、搾り出すような人生を歩んだのではないかとおもう、だからこそ、いまの彼がいて、尊敬に値するのだ。借金にひつさつされて、とか報道されたが、それは違うとおもう、仕事をすることはもう彼にはお金関係がなく、スルーするものだから、それがればこそ、欲にかられることもなく、一般市民のような演技ができたのではないかとおもう、ぎらぎらした成金のやらしさ、というものがなく、どこかの修行僧のような印象を常にぼくはもっていた、偉大なる人であったのだ。何事も背負い苦労して生きている人はその人自身はしんどいかもしれないが、見ていると輝いているように感じる、拝金主義のぎらぎらしたやつが、いかに手を汚さず、苦労せず汗を流さず、生きている姿は反吐がでそうになるのだ。彼の演技と作品は明日も働き続けるだろう、
2010.02.22
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カツカレーあんかけ風どんぶり。少し不思議な感じですが、あんかけの白菜をのせたしたにかつがあります、
2010.02.22
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こんばんわ、みなさん、お元気でしょうか、ラジオの話。ラジオを聴くことがない若者たち、深夜放送などもいまはNHKなどで眠れぬ年配者の支えとなっておるようです、ラジオ文化というものが花開き、実を結び、散りそうないま。AMはまだ広告などタレントなどいろいろさかんであるが、FMの弱体化は悲しいもの、ラジオからいつも音楽が流れ、802のヒロさんの番組から洋楽を学んだものです。その昔はAM放送で音楽が流れ、ヒットの兆しをつくるものでありました、いわゆるぼくもせっせと番組にはがきを送る「はがき職人」でありました、当時はこの言葉はなくナイナイがめいめいしたと思います、深夜放送ラジオは基本は生であり、CMもそんなになく、はがきを読むレコードをかけるのくるかえしで聞いていてもたのしいもの、北に国からのテレビの初恋のやつで、れいちゃんがじゅんくんになんどもリクエストを送り、最後に気がついてあいにゆくしーんがあります、ラジオのリクエストにメッセージとともに曲をおくり、告白するというしゃれたものがあったのです。まあ、でも、ほとんどそういうのはしない少年たちでしたが、少年のころというのは些細なことで傷つき悩むものです、いじめられたり、いろんなことで、そういうことを相談するという社会的な救済のような部分もあったのです。ぼくも勉強するためにラジオを聴きはじめたのが、ラジオを聴くために勉強をするようになり、夜の9時からよく朝4時まで聞いてました、オールナイトの二部はなかなか聞けるものでなく、眠たくて仕方ないので、録音テープ120分のを片面録音し、翌朝聞いたりしていた、大阪OBCのぬかるみの世界も一回目からひたすら聞いていて、大学に通学する一年のときには朝5時おきの始発で京都までゆくために録音しておいて、電車の中で聞きながら聞いていたのだが、ぬかるみの世界という番組は真夜中に聞くもので早朝に聞くものではない、そのぬかるみの世界とい番組は、つるべと大阪の放送作家新野新というひとがふたりでトーク展開してゆくだけの番組なのだが、この番組ははがきや投書がおもしろく、聞いている人がかわったひとがおおいのでそれだけでどんどんもりあがるのである、つるべとしんのはいたこのようなもので反応感覚の変化球がすごかったのである、日曜日の深夜枠というのはたいていメンテナンスとかで放送はしない、電波もおやすみ。だから、この放送が人気が出た理由はそこにもある、ほかの半島の妨害電波や極東の違法電波も休んでおり、この番組は北海道から沖縄までのエリアに電波がとぶという異常なローカル番組であった、ネットせずして全国制覇。そして、つるべをしらない地方の人々も大阪をめざすようになり、半年に一度は全国縦断電話、と題し、真夜中に聞いているかどうか事前にはがきをもらったひとに電話をかけるのだ、これがじつにリアルでおもしろかった、ぬかるみの世界の番組については、明日に続く。
2010.02.21
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』アンデスの声は、エクアドルを主な拠点として活動しているプロテスタントのキリスト教放送団体HCJBの海外向け放送の呼称である。本部はアメリカ・コロラド州のコロラドスプリングスにある。HCJBは1931年、エクアドルの首都・キトにある仮スタジオで世界最初のキリスト教伝道放送を行ったのがスタートとされており、それ以来エクアドル国内向けのテレビ・ラジオ放送のほか、国際短波放送を全世界に向けて12言語、並びにエクアドルの地方方言22言語を使って放送を行っている。ロゴマークは地球を手ですくうイメージのイラストが使われている。またHCJBとは、スペイン語で「イエス・キリストが祝福する日」という意味の「Hoy Cristo Jesús Bendice」の頭文字から取ったものである。日本語放送は太平洋放送協会の協力で1964年5月1日から尾崎一夫氏らが中心となって、まず日系人や日本人移民が多く暮らす南アメリカ向けに放送を開始し、その後同年に日本・極東アジア向けに、更に後で北アメリカ向けにも放送された。日本語放送の開始アナウンスでは、開始当初は「さくらさくら」、その後1990年代から日本・極東アジア向け放送では「コンドルは飛んでいく」をアレンジした音楽(IS)が使用されていた。現地在住の尾崎一夫・久子夫妻を中心に30分番組(南アメリカ向けには1時間番組)を実施し、キリスト教関係の番組だけでなくリスナーから提供された投書の紹介、スタジオを訪れたリスナーとの対談などが行われた。 2000年で一旦短波による定時日本語放送は打ち切られた。2000年12月31日の短波による定時による最終放送では、「蛍の光」の合唱の後、尾崎一夫が感涙の余り終了アナウンスコメントを詰まらせながら行ったという。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』移動: ナビゲーション, 検索アンデスの声(あんですのこえ)は、エクアドルを主な拠点として活動しているプロテスタントのキリスト教放送団体HCJBの海外向け放送の呼称である。本部はアメリカ・コロラド州のコロラドスプリングスにある。目次1 概説 2 日本語放送 2.1 現在の放送時間と周波数 3 日本のHCJBワールド・オフィス 4 外部リンク [編集] 概説HCJBは1931年、エクアドルの首都・キトにある仮スタジオで世界最初のキリスト教伝道放送を行ったのがスタートとされており、それ以来エクアドル国内向けのテレビ・ラジオ放送のほか、国際短波放送を全世界に向けて12言語、並びにエクアドルの地方方言22言語を使って放送を行っている。ロゴマークは地球を手ですくうイメージのイラストが使われている。またHCJBとは、スペイン語で「イエス・キリストが祝福する日」という意味の「Hoy Cristo Jesús Bendice」の頭文字から取ったものである。[編集] 日本語放送日本語放送は太平洋放送協会の協力で1964年5月1日から尾崎一夫氏らが中心となって、まず日系人や日本人移民が多く暮らす南アメリカ向けに放送を開始し、その後同年に日本・極東アジア向けに、更に後で北アメリカ向けにも放送された。日本語放送の開始アナウンスでは、開始当初は「さくらさくら」、その後1990年代から日本・極東アジア向け放送では「コンドルは飛んでいく」をアレンジした音楽(IS)が使用されていた。現地在住の尾崎一夫・久子夫妻を中心に30分番組(南アメリカ向けには1時間番組)を実施し、キリスト教関係の番組だけでなくリスナーから提供された投書の紹介、スタジオを訪れたリスナーとの対談などが行われた。 2000年で一旦短波による定時日本語放送は打ち切られた。2000年12月31日の短波による定時による最終放送では、「蛍の光」の合唱の後、尾崎一夫が感涙の余り終了アナウンスコメントを詰まらせながら行ったという。日本語による放送はその後、インターネットによるストリーミング(2001年4月1日~2002年3月31日 Windows Mediaによる)やオン・デマンドによる放送(2002年4月1日~不明 RealAudio使用。その後臨時にMP3を使用したこともあった)と、年に1~2回、短波で臨時放送を行った。 2003年7月、HCJBの日本語部及び尾崎一家はアメリカのイリノイ州ホイートンに移る。 2004年5月1日の臨時短波放送で、日本語放送はキトからは最後の送信となると同時に、同日、新たに出来たオーストラリア・カナナラ送信所からの初めての日本語放送が行われた。その後も臨時の短波放送はそこからの送信で行われ、更に日本の熱心なリスナーの定時放送復活の声に支えられ、遂に2006年6月3日に、同局のオーストラリア送信所から日本語放送が土・日の週2回の放送にて復活することとなった。これに伴い、東京都新宿区のウエスレアン・ホーリネス教会連合の淀橋教会に、日本のHCJBワールドオフィスが構えられることになった。尚、2002年11月から、インターネットを介したメールマガジンの発行が行われている。なお尾崎久子は2006年9月没した。
2010.02.21
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こんばんわ、みなさん、今日はラジオのはなし。 僕が中学のときお年玉でかったのが、ナショナルクーガー115、当時のBCLラジオブームでエクアドルの何とかという泣き声のCMを見て、ソニーはスカイセンサーという高感度のラジオをだして、全世界の短波ラジオを聴くブームが始まったのである。ヤフオクでもいまだに人気がある、ジャイロアンテナというのがうえについており、電波の方向にあわせて回すのがとてもかっこよかったのである。短波ラジオを聴いていてもぜんぜんあきてしまい、聞いた日時と場所、電波状況を放送局に出すのだ、封書で、確か返信封筒をいれて、ベリーカードというのがもらてた、それがとてもきれいなのである。国際的な感覚を養えるというわけ、でも、なかなか放送をキャッチできず、たしか、時間もなく、やはり、世俗的に人気である深夜AMラジオ放送を聴くわけである。小学六年あたりになると、友人たちが夜の10時からはじまるヤングタウンという番組がおもしろいぞ、ヤンリクのにかく頭のマッサージおもしろいぞ、といううわさがしきりであった、が、健全な悪がきのぼくの小学時代のおねむタイムは9時であり、10時まで起きれるなんてのはむりだった。イヤホンで聞きながらねてしまうのだが、子供から大人の入り口をみたように、深夜放送を聞くのはおねいさんおにいさんのことで、わくわくしながらこっそり聞きはじめたのである。MBSヤングタウンという関西の深夜ラジオは関西では絶大なる人気を持ち、月曜日から土曜日まであり、後になって日曜日もあるようになるが、中学生のほとんどが聞いていたのである、FMラジオはNHKしかなく、民放はひとつだけで音楽を流すだけの「エアchek」というしろものに役になったのである。当時、各家でステレオの普及率はまだまだであり、トランジスタラジオが安く、自分でも買え、その後モノラルのラジカセが出てきて、カセットテープが普及しだす。実を言うと山のようなカセットテープがまだまだもっている、驚くべきことだが磁性体がしっかりしており、再生できる、テープはあっても、問題は再生のデッキである。話がそれてますが、気にせず、再生録音のステレオカセットデッキはどこの家にもステレオのコンポとしてあったのだ、しかしだ、少しまえの粗ごみにどれだけのステレオたちが捨てれろだったか、レコードも捨てられていた。見るだけにむなしく哀しいものだった。しかしながら、カセットデッキが動かない理由のほとんどが、ピンチローラーという簡単なゴムの時間的な劣化によるもので、他の電気的なものは無事なのらしい、しかし、新しい物を買わせるメーカーはおかまいなし、ひどいものです。ぼくもカセットを聞きたいばかりに、ヤフオクで何回もデッキを落札しだめにし、今のは一台ありますが、アンプのガリ音がひどく聞いてない状態。ガリ音というのはボリームをまわすときに、抵抗器の接触がわるいのか、それがいかれているのか、がりがり、いっておとが悪いのです、ええと話がもどらないまま、今夜は撃沈、寝ます。明日からラジオの話続けます。
2010.02.20
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こんばんわ、みなさん、御元気でしょうか「サラリーマン金太郎」のテレビはほんと、ぐっときますね。あれだけの熱のあるひとはいません。自分だけがよければいい、要領をかまし、ごまをする。そういうやつばっかしです。まあ、やっかみもありますが、ぼくもリストラされたようなもんです。汗水流して働いて、休みもなくて、入院までしてはたらいて、15年間、退職金は70万たらず、アアーメン。ちん、思い出すのは新規店舗で休みが取れず、2月から5月までやすめず、あのときはほんとうにやばかった、休むことが罪悪と思いはじまる。若いからできたのだとおもうし、やり遂げた自信というものがあるが、40代なら新でいただろう。過労死するひとがおおいです。チェーンストアの店舗は加重労働をしいるパターンがおおいです、それに体質というか、組織の上と中ばかりみて、外としたを見ない。外はお客さんと世間、下は部下のこと。もう退社する人が総数の70%を超えるようで、常に若い平均年齢では疑うべきです、若い人に仕事を任すとか、キャリアプランがしっかりしている、といいながら、そういう美辞麗句を並べるとこは逆です。自然にやさしい会社、というものに限ってやさしくないんですね、隠すためにいってるようで、やさしいのがあたりまえなら、言うわけがない、ぼくが辞めるとき、もう、なんか、がっかりした気分で辞めた、まあ、独立する夢を実現するためだったが、店を出て、自分の家にかえった。ひとりでそしたら、バイトの子たちが家まで追いかけてきて花束やいろんなプレゼントをくれたんだ。数日後、はがきがきて、採用して少ししかいない女の子がいて、その女の子も夢をもっていて。必ず実現するように、といったことのお礼と。「長い間ごくろうさまでした」といわれた、その言葉と文字に救われたね。あのときのことをわすれずにまた、がんばるよ。
2010.02.19
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そう、カーコは美人だった。美人なんとかつなぎ(忘れた)というコーナーがあり、そこで最後のほうのゲストにきた、カーコはよかったね、放送の後、深夜喫茶店にゆき、話をした、しかし、極秘ネタであるが、覆え局長もしらないのだが、三秒で振られた。「時間ある?ごはんでもたべにゆく?」「ええ。だめ、おかあさんがだめって・・」なんでやんねん、弁当屋の親父の話、深夜ラジオが好きだった。という物語はいまだ、蜜柑背。
2010.02.19
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昨日は年中無休の深夜ブログビンを欠席しまして、もうしわけないです。 食い物やのプロとして情けないことに食あたりをして、やばかったです。朝からなんかむかむかしてまさか妊娠したかもなんておもうこともなく、だんだんを熱がでてきて、ああ、これは風邪かと、思いつつ、一年の半分以上はマスクをしているし、手洗いうがいをし絶対に仕事を休まぬように風邪インフルだけはかからぬ努力をしていたのんです。だから、せきをしているひとがいたりすると逃げたりすぐにうがいをしたり、まあ、努力をしているのです。話がそれますが、サザンの桑田さんはコンサートでまわるとき前後はマスクを必ずし、のどを大切にしている話を聞いて、さすがだとおもったのです、話もどって、熱がでてきてかなり気分がわるくなって、足がじんじんしてきて筋肉痛だとおもいきや、熱くして風邪薬のんで、寝たのです。数時間して、手がしびれてきた、足もしびれ、呼吸もつらくなり、目まいも。ああ、もうだめ、119に電話して、いやそれだけはやまておこう・なぜなら、よく消防にも弁当を運んでいるかおなじみの救急隊ならやばい、いやここはなんとか、耐えよう、そこから、恐ろしい吐き気。バケツをもってきて!そこからバケツ半分ほどの嘔吐、連続。汗だらけになり、8度近い体温はいっきに6.5分に下がり、呼吸も出来て、気分は戻りました。ああ、これはあきらかにあれです。しかし、同じものを食べていた奥様は無事。ひとつだけ違うものを食べていた、酸度いっちです。たまごさんどです。ゆで卵を切ったのをまるごといれているやつですが、中の黄身がすこし火のとおりがあまいな、とおもいつつ、食べてしまったのです。今日もその店へゆくと恐怖の酸度は販売していた。思い起こせば20年前、四国丸亀のバイパスのあるコンビにでかった、スコッチエッグ風のコロッケ、このときも黄身がやばく、あたりました。このときもひどい症状。黄色ブドウ球菌、こいつが頭をよぎる。食べもんやの不文律として、そういう苦情はいわない、というのがあります。しかし、たまご、とくにそういうのは本当にやばいです、すぐの食事なら問題ないですが
2010.02.19
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こんばんあ、みなさん、お元気でしょうか?神戸地元のFMラジオ局がえらいことになっており、粉飾決算を繰りかえし、新社長が旧経営陣を訴えるとのこと、神戸のこのFMはもともと、地元の兵庫県などが出資し、淡路島出身の阿久悠さんなどが発起人となってできたものですが、ダイエーなどのスポンサーが撤退し、CMなどの収入も減少し続け、社員の給与も遅配気味でもあったそうだ。なかなか、地方のFMが独立経営してゆくのは難しいようだ、彼らはいかに広告で稼ぐかなのであるが、DJの交代も頻繁におこない。人気が出れば変わるような不思議なことをやっていた、やはり、ラジオ局の経営はむずかしいのであろう、下宿のFM局で知り合った、大谷大学の永縄潤君はどうしているのか、大いに心配なのである。今年の震災の日の弁当配達の日、たまたま、車で帰るときに耳にしたニュースアナウンス、その担当が彼であった。なかなか、連絡がつかないがうれしかった。ぼくはよく下宿で福井の友人と話していたとき、地元にはFMの民放がない、なんでないんだ、という話、もっと、こんなに周波数があいているのに作ればいいものを!とおもい、それがきっかけとなり、MINIFMという海賊放送を下宿で始めた。そこでぼくが土曜のリクエストタイムの放送のリスナーの一人が彼だった、まあ、リスナーはおそらくすんごくすくなかったとおもうが。そこで、彼もサークルの中にはいり、僕の部屋に来て放送をするようになった。 僕の部屋で、永縄君と夢を語り、彼が、どうしてもアナウンサーになりたい、という熱い夢を語るので、必ずなるんだ!ということを励ましていたことを思い出しながら、偶然聞いたカーラジオ・・。 、今回のこの騒動、この渦の中でどうしているのだろうかとおもう。ぼくはこの神戸のラジオは好きだったが、この数年の様子はひどいものだった、店の近所にターザン山下というDJがいて、顔見知りなのだが、彼もまた京都同志社のOBなんだが、彼もKISSFMの看板DJとしてたくさんの番組にでていたにもかかわらず、春の番組の編成ですべて首になり、仕事を求め家族を残し、単身名古屋の愛知FMで朝の番組をしている、ラジオのDJたちは給与もすくなく、ほとんどが弱い立場のフリーなので、すぐに仕事が激変する環境にあるのだ。そういう環境では人材は育たないはずである。ターザン山下も、もしかすると、僕らが作ったサークルの関係したひとかもしれない。
2010.02.17
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ポークのじっくり煮込み、チーズ和え、サラダもつきまして、580円/540円。もちろんごはんもみそしるもついています。
2010.02.17
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こんばんわ、みなさん、 お元気ですか?寒すぎて大変な配達でしたが、夜は度暇で参り候。いろんなバイトを面接して採用して、訓練した、その数は何人だろうか、10数店舗を経験して、一年に面接するパートアルバイトは新規のお店なら150人は年間に面接する、1991年の新店のときは応募者が異常におおく、一度に別々のテーブルに座りながら10人面接し、もう、誰が誰がわからなくなり、思い出せないような人は採用できなかったり、もう疲労困憊してきて、オープンの前に倒れそうになった。一番の店舗で大変なのは人件費のコントロールでこれが実にやかましい会社だった、おかげで、店長の過労死が社会問題になり、二名の犠牲がでた。これも実は氷山の一角で、冷凍庫の中で棚卸のときに意識不明になり入院とか、そのまま亡くなるとか、訴えないひともいるので、もっと犠牲者がいることは予測できる、マクドナルドもそうだろう、ああいうとこはそうでもしないと、利益が出ない。いくらがんばっても現場の人間が汗水流して、売るのが利益になるのであって、本部の連中は文句言うだけで生み出すものはない。バイトの面接をしていて、僕が一番重視したのが、やる気であった、動機である、これは何でバイトするのですか?の答えに明確にこたえれるかどうか、親が片親でバイトして学費を稼ぎたい、なんていわれると、ぼくは心打たれて、採用の方向に進むのだ、片親とか、兄弟おおいとか、そういうことも聞けばわかるのだ。あとは、言葉つかいと挨拶返事ができているかどうか、これも殆ど親の家での教育に左右されるもので、きちんとしていないものはすぐに不採用にした。採用か不採用か、これはあまり悩むことがなかった。バイトは自分でコントロールできるが、社員は本部で採用なので、店にくると、どうしようもないのがおおかった、「こいつ、頼むよ」といわれるパターンで、どうしようもないのを配置されるのが多かった、そうなると、必然的に店の運営は傾き始め、成績は必ず悪化する、社員のせいでなく、店長のあきらめ、というものが出てくるの。怒っても怒鳴ってでも、人はなかなか変わるものでない、結論的に言うと、おだてるほうがうまくゆく、良いところを褒める、良いところを探し出し、そこを伸ばし、自信を持たせて悪い部分をカバーできるようになればいいとおもうのだ。よくいったものです、「怒られてありがとうございます」もう、どうでもいいやつには怒りもしない見向きもしない、だんだんと仕事なくす方向で・・。となるわけです。怒るのはしんどいです、特に若いときはいいですが、怒るときは相手が注意されている内容の把握よりも、感情が先に優先しており、内容が伝わりにくい、ということがあるのです。「もう!かえれ!」とか若いときによく激怒してましが。結論的に相手にするだけ無駄であると最後におもいました。しかし、熱くなるのも大事ですが、
2010.02.16
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こんばんわ、みなさん、 下宿の話。下宿の階段は急であった、たまに落ちるひとがいたりする、昔の家だからもちろん木造で暗くてすべりやすい。間借りなので、ふすまである、ふすまはノックしようがないのでたたくか、もうがばっとあけるのである。男ばかりの下宿なので、がばっとあけるとエロ本などをみているかもしれない。しかし、その先をよみ、ふすまをすこしあけておいて、こたつにもぐりこんでそのしているふりをする、そこをK先輩が階段をおりるときみるのである、下の後輩も同じようにしているふりをして、おどろかすのである、「おまえら、なにやっているのだ!」といって大笑いなのである。銭湯のかも湯から下宿まで100メートルぐらい、すぐなのである。走れば10秒もかからない。ここを裸でゆくのである、タオル一枚と石鹸を持ち、これは勇気が必要で下手をすると逮捕される。一回だけやった記憶がある、もちろん夜にである、番台に座るおかみさんはびっくりすのである、既に裸できているので、着替える必要がない。帰るときも服を着ないで走ってかえるので、速い。大笑いなのである。しかし、清純な女子高生が下宿の向かいに住んでいるので、危険である。以前にも記事にしたが家庭教師のバイトをたのまれても出来なかったこともあり、もてるわけがない、ばかなことをしているので、どうすれば、もてるか、そうだ、テニスである、テニスをすればもてるのであろう、K先輩とぼくと後輩で、近所のテニスの練習場にいった。下手とべらないようにはどうするか、当時、ウインブルドンでみていた、あの、なんとかという選手、掛け声、う、とか、わ、とか、気合で声をだす、それと、バンダナ。三人でうまい雰囲気をだしながらテニスの練習をしていると、突然、ひらひらのスカートをはいたカワイイお嬢さんがぼくらに近づいてきた、「すいません、テニス教えてくれませんか?」僕たちはキター!とばかりに目を合わせ、誰が教えるか、話し合った。しかし、まじめな先輩は、「ぼくらは下手なんで、無理です・・。」と正直に答えた、またもや、新喜劇のずっこけでおわった、テニスを教えてくれなんて口実で話がしたかっただけなんだ、それすらもわからない、 これではだめだ、もてるわけがない、暗い階段の壁につぎつぎとアイドルポスターを張り、美人になれるようにしようとした、当時デビューしたての北原佐和子、小泉今日子、河合なおこなどのポスターをはった。しかし、先輩が誰もみていないだろうとポスターにキスをしているのだ。ふすまから見てしまった光景に、いかりやの声が聞こえた、「だめだこりゃ」経営学部の先輩は女性の多い外国語学部の前にいつも昼やすみあらわれ、目の保養をしていた、ぼくは外国語学部ながら一向に女子と仲良くならず、男友達とあーだコーダ、話していると、先輩はいつも、もったない、というのであった。先輩が四年になり、新しい学生が入ってきて、そいつは外国語学部の英米語、フランス語学部が一番美人がおおいうわさであったが、下宿で歓迎会をするので、友人をたくさんつれてくるように、ほとんど命令口調で、必ず女子も二名以上で一階の広い部屋で、歓迎会が行われた、二人いた女の子は実にかわいいかんじのこであったが、一人の女の子は酒乱気味で高知の新入生に抱きついて離れず、やばい雰囲気になってしまった。もう一人の女の子は、帰る、と言い出し、「ぼくがおくるわ」といって、先輩が送っていった、しかし、なかなか帰ってこない、かえってきても先輩はるんるんとしており、ポスターにキスもせず、部屋の中にはいるのであった。どうも、先輩がおかしい、僕たちはその行動の謎を追及することとした、この先はまたこんど。
2010.02.15
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こんばんわ、みなさん。お元気ですか?今宵もおいでいただきありがとうございます。昨日はモーグルの上村愛子さんがおしくも4位でおわったとか、まあ、いいじゃあないか、とおもいます。メダルなんていらない、参加することの意義であるはず、メダルで思い出すのは円谷選手。マラソンのです。自殺しました。まわりのメダルへのプレッシャーに押しつぶされたのです。この自殺の連鎖は後の川端康成や三島由紀夫にも影響を与えたと僕は推測する。要するに、オリンピックは国と国の戦い。政治的な要素ありありのもの、よくないよ、だから、メダルとってこいなんて、いわないほうがいいんだ。 で、日本を韓国のサッカーも日本まけた、韓国は日本へのライバル精神がつよく、また幼少期より抗日運動を叩き込まれているので激しい闘志をみなぎらせるのだ。で、スポーツ全般にいえることは、日本の精神の脆弱化を感じるのである。で、あの態度が横柄な選手が取りだ出されているが、マスコミのえさに自分からなることはないんだがな、青鬼くんがいなくなって、マスコミのえさになるのが多分彼、増幅されワイドショーにでるだろうよ。もともと、日本全体における「礼儀のなさ」「先輩後輩目上、年配者への敬意」というものが欠落しているのだ、学校でも家庭でもそうだろう。なーなーになりまくりであります、僕が何回も唱えているように名目上でも男尊女卑の価値観がベースになり、どっちが右か野如く、どちらが偉く、尊重するか、を間違えるとこうなる。子供が偉くて、女が野放し、これが事実。いつものように話がそれます。女が野放し、というのは、やはり、歩きタバコの女性をみているとそうおもうし、携帯電話のマナーの一番わるいのはおばさんになりつつある。いつものようにぼやきが続きます。しかしだ、日本はなんでこうもいろんなことに負け続けているんもだろうか、僕が推測していたトヨタへの陰謀説もやはりあるらしい、本当にいつの世の中も日本はなめられていて、自尊心のかけらもない。いつものように話の方向性が行方不明です。推測や推論で事実関係を確認せぬまま憶測でこれを書く僕も僕だが、まあ、ひとつの意見として消化してください。日本が戦争に負けて、敗戦国となり、経済復興と輸出大国になり、経済的には米国と並ぶほどの国になって、しかし、またそこから、どつぼにはまり。これらの連鎖は経済復興は敗戦のリベンジであり、今の世の中はリベンジがおわり、再び負け戦のような経済であるとおもう、豊かさの裏には悲壮なる努力があり、貧しさの奥には日本としての崇高なプライドがあったのだ。もっと、自分の国を愛せよ、忠誠を誓え、というのだ。完全に話が飛んだところで、今夜はおわり、おやすみ。
2010.02.14
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こんばんわ、みなさん。200人以上のアクセスが続くのですが、反応がない、まあ、いいさ、ところで本日はあのバレンタインデーというものだ、今日、100円SOPで小学生の女の子たちがチョコを作るべくして材料を買っていたのを見て、ほほえましく感じたね、でも、ぼくらが小学生のころは、そんな、菓子屋の陰謀はなかったね、ないない、中学もない、高校は男ばかりでない、大学のときはもてないのでないが、四年になって、やっともらったね、郵便ポストの中にあった。働き出して、店長になり、30個近くもらったことがあった、義理チョコの嵐だ、もうお返しが大変だ、モロゾフで買い、数万円かかったのを思い出す、それに、もらったチョコを食べきれず、半年も冷蔵庫で死蔵していたことを思い出す、それにしても、あのチョコという代物はいったいなんだ。子供のころは鼻血がでたね、それにあれはなにか中毒のようなものがはいっているのだろうか、神戸の地元のモロゾフというのがあって、そこの陰謀がはじまりだという、僕の家はモロゾフのちかくで、昔はモロゾフの工場はすんごく、くさくて廃液をたれながしていた、もちろん今はそういうことないが、あの匂いは近所と通るたびにいやなものだった。ところで、バレンタインの愛の告白という儀式も、実は男尊女卑崩壊で形骸化しているのではないかと思うんだ、いま、よく聞くと、告白するのは女性化となって、男はいわゆる、草食系とかもうして、軟弱になりつつあるそうだ、なんだよ、あの眉毛、ほそいの、あれをみればわかる、だいたい甲子園の高校野球児の眉毛がほそいのはカルチャーショックだったよ、UFOを見たとき以上の衝撃だったさ、(話がそれています)バレンタインチョコをもらえない男子、まあ、クリスマスイブの一人男、と同じだ、言い換えてみると、母がいない子供の母の日や、父がいない子供の父の日にも共通する「世間の冷酷さ」を妙に感じる、みんながあるものといえば、なかなかない、一人でもないのなら、やめるべき。どこにでもいますが、「モテ男」そう、福山君みたいなもの、明日は若者男性の試練の日になるんだね、そういうのは気にする必要がないんだよ、つまらないことだ、大切なのは中身だ、どう生きてどう思うかだ、胸晴れ!といいたい。明日はバイトの女の子が持ってくるんだろうな、「ありがとう」というしかないな。もてない男子たちは、本当に嫌な日ですが、
2010.02.13
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こんばんわ、みなさん。お元気ですか?駅舎の話がでましたが、きのう、駅というものかわった。京都駅も駅ビルになる前の姿しか頭の中のイメージしかない、北陸の温泉地に向かう雷鳥や夜行のきたぐに、日本海、白鳥、立山、いろんな列車があった、湖西線が出来る前はすべて、米原経由。東海道と北陸は電気の系統が違い、直流と交流で、電気の切り替わる地点があり、そこでは通電しない。一瞬消えるんだ。駅といえば、駅弁、僕が弁当屋になるのも駅弁がすきだったからかもしれない。富山のますのずし、米子のかにめし、神戸駅のにくめし、浜松のうなじゅう。いろんな駅弁をたべたな、景色おみながら、ゆったりとした時間がながれる。向かい合わせの席、これがまたいいのだ、知らない人と話すのだ、旅先でのきっかけをつくる、上野駅から仙台に向かう急行松島、あのときにであったおばさんをよくおもいだす。もう、21のころだったから28年もまえのことだ。仙台に嫁入りし、実家は東京。老いた母が仙台まで会いに来た。数日とまり、仙台駅に見送りにいったおばさん、老いた母が一人上野駅までかえるのが心配で汽車にとびのり母を上野までつきそって、とんぼ返りで仙台までかえる、そのとき、ぼくの座席の前に座っていたのだ、その話を学生のぼくに話すのだ。仙台のかまぼこやみかんやいろんなものをぼくにくださるのだ。「どちらの学生さんですか?」ぼくは、「京都産業大学です。」と答えたのだが、「あああ、農業大学ですか、」といいはじめ、ぼくが、「北海道までゆくのです。」と答えると、「ああ、酪農の仕事にゆくのですね」と決め付けていた。僕は否定もせず、そうです。手伝いにゆくのです、と答えた。ゆったりとした時間が流れていたようにかんじる、旅は行くまでがたのしいものです、新幹線とかいうものは昔からすきでありません、新幹線しか選択肢がないのは実に味気のないたび。大切な何かをなくし続けている今、喪失の時代。そのたびのよさもなくしている。駅といえば、「伝言板」それにひなびた田舎の駅にある「落書き帳」旅人が残してゆくメッセージを読むのがたのしかったな、伝言板の片隅にさようならという文字を残し、去って行く君。この一節だけで歌にも映像にもできる。イメージがわくね、旅の話もたくさんあります、また機会があればここでかきます。二年の終わり、春休み、高知の坂本龍馬の地を訪ねたことがある、一人旅で四国をまわった、まさか、その8年後、四国で働くとも思わずに
2010.02.12
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こんばんわ、みなさん、今夜おいでいただきありがとうございます。昨夜のフジテレビの「不毛地帯」岸部さんの演技は本当に素晴らしいとおもう、それにしても二時間ドラマとは違い、筋立ても間合いもきちんとされていて、情景をきちんと描いている、見ていていつも思うのは、電話のことである。黒電話の登場、懐かしいあのベルの音である、あの音は忘れていた昭和の音がする、電話はどこでも玄関にあった、あの音は大きく、いろんな思いが残る。いろいろな音が失われたような気がする、昭和の時代が懐かしく思う音である、今は電子音が煩雑に使用され、波長もおそらくきざきざのデジタル波で、アナログの音が追放された、たとえば、雑音まみれのAM放送の音、イヤホンで聴く、深夜放送。モノラルで音が汚くても、暖かいものであり、そこで話す人の存在を感じた、聞くことがなくなっただけで、今もあるのだろうけど、雑音まみれの深夜放送は懐かしい音、駅のホームのベルの音、けたたましくなる音、ホームで別れ、あわただしく長距離の深夜、夜汽車にのる、がたんごトンときしむ客車の音、線路の音、通過する踏み切りの音、空調がない、扇風機だけの車内。窓を大きくあけているから、いろんな音が聞こえるのだ。豆腐を売りに来るラッパの音、夕暮れに聞くと、家に早くかえりたくなる。いろいろな音があってこその風景、たとえば、戦争の焼け跡の町に響く、蒸気機関車の汽笛、人々はそれを聞き励まされたという、音は人の心の中にいろんな思いをもたらすのだ、不毛地帯の昭和の風景をみて、電話の音がけたたましくなるのを懐かしく感じた、レコードの針を落とす音、ざーというのノイズ、あの音楽が始まる数秒前の音はわくわくさせたものです。不便であったけれども、その不便はいろいろなおまけをもたらせてくれたのです、「間合い」というものだとおもうのです。音は光の速度よりも遅く、まあ感じるのはかみなりだけだとおもうけど、きっと脳の判断処理は微妙に、光の感覚のあとに音の感覚が感じられ、音が印象ぶかくおもうのでしょう。水のせせらぎや木の風がそよぐおとなど、自然の中の音を聞くと心は安らぎます、電子音、合成音は違和感を感じ、耳障りにおもうのです。仕方ないことですが、最後にCDの音は絶対にレコードの音を超えることは出来ない、そう思います、
2010.02.11
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こんばんわ、みなさん、暑かったり寒かったり、激しい気候です。温暖化といながら「ドカ雪」が降る、不思議な気候。この先地球はどうなることやら、エコエコといいながら、いつも「どこがエコやん」と思うことばかり、アイドリングストップというステッカー貼っていても誰もとめないエンジン。一番おかしいとおもうのは、各新聞の会社。こいつらは新聞で、さんざんエコとかいいながら、自分たちはぜんぜん、エコちゃう。たとえば、膨大な折込広告、あれは殆ど無駄です、マンション買った人に股入れてるし、子供がいないとこに子供の広告など、一番ひどいのは、「押しがみ」。よく見かけることがあった、新聞販売店というのは殆ど零細の自営。ある程度部数はきまったもので、販促をしてもたかがしれている、しかし、それに上乗せして新聞を毎日おくりこむ、それらの代金は販売店がはらうのだろうけど、問題はその残った新聞、膨大な新聞、読まれずそのまま古紙回収のトラックがくるのだ。前から不思議な光景とおもいつつ、押し紙の話を聞いてから納得。論説委員がエコロジーとかどうのこうのいう論調で記事を埋めるのは、まさしく、空に城を築くが如く、ああ、忘れたその言葉。とにかくだ、環境にやさしい、という会社にとってそれはうそがおおい。大企業病みたいなとこもある、だいたい、この地球にいろんな生き物がいて、人間だけがえらそばり、いまさら環境どうのこうのいいながら、地球にとっては、人類の存在そのものが、イランのだよ、と、思っているに違いない。人類が滅亡して、環境は改善されると、創造主はいらついているだろう、またまた出ました、「第六の絶滅」説。この地球で栄えた生き物は五回絶滅している、巨大隕石であったり、スーパーフリークという火山の爆発であったり、おごれる平家ひさしからずや、なのだ。新聞も夕刊から枯れ始め、そのうち、ネットでの新聞配付になり、販売店は消滅することとおもう、そうすれば広告分、新聞連載の広告は会社分、ちらしは販売店分、どちらも消滅し、その分、ネットでの広告がさかんになるだろう。とりあえず、あの無駄な哄笑何万部のための「押し紙」は早く辞めるべきだ。手数料でとればいいのだ、無駄な印刷物をだすな、以上。新聞配達はごくろうさんです。
2010.02.10
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はい、こんばんわ、今夜もおいでいただきありがとうござんす。さて、トヨタがえらいことになっていますが、あれはきっと陰謀です、日本の車へのいやがらせです。しかしまあ、マスコミもJALのことをさんざんこきおろして、次の血祭りは、トヨタかいな、まあ、そのうちおさまるでしょう。テレビがつまらなくなったわけはいろいろありますか、見ているほうも程度がおちて、作るほうもそれにあわせるもんだから、レベルがおちるのです。昔のテレビは威厳があったようなきがする、一家に一台だったし、茶の間でコタツに入りみかんをたべながら、ほのぼのとしていたなあ。素人参加番組がおおかった、パンチDeデート、ボンじの娘をよろしく、とかね、プロポーズ大作戦のもおもしろかったね、それからラジオも公開録音とか番組は必ず双方向であることが基本であった。いつしか、垂れ流し片方放送になったね。ピッタシかんかんの話は以前にもたしか、しましたので省略。さがしたのですがここ
2010.02.09
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松田聖子の「sweet merories」はいい歌だとおもう、最初確か、B面だったけど、人気がでて、Aに変わった。懐かしい傷みだわ。誰しも抱えている、いろんな悩みとか迷いごととかコンプレックスとか。いろんな傷みがあるもの、強面の親分のBMWにぶつけてお許しを得た僕の足の痛みは、もっと深刻な心の痛みとなるのは半年足らずのことであった、CBCホールの控え室で打ち合わせをしていたが、話のネタにインパクトが無く、ぼくもどうしていいのかわからず、とりあえず、下宿の貧困の食い物などの話題を中心となっていいた、司会のいまのざこばさんは、やさしく、まあ、本番がんばろ、というが、水谷ミミさんは「あんまりおもしろくないんね、他にないかな?」と番組のすべりを心配していた。案の定、僕のトークはゲレンデの如く、すべり倒していた。もう、記憶が確かでない。おかずがないときはごはんに醤油をあえる、マヨネーズをかける、この話はミッドナイト東海におけるつるべの話で、実は作り話であった、好きな女性のタイプは?ぼくは迷わず、答える。ロングヘアーの似合う足のきれいなひとです。それでは、ご対面!と、舞台の真ん中の扉から女性が出てきた。身長180センチもある、外人の顔立ちの女性だった。ああ、ぼくはこれはあそばれているとおもった、驚いてオーバーリアクションをしてしまい、その女の子にしつれいなことをした。このあたりは、何度も記事にしていますのでカットします。名古屋の女子高生たちからの取材。番組がおわり、めでたくカップルとなり、控え室にもどり、相手にまあ、挨拶に行こうとアシスタントのひとにたずねた。「さっきの女性、どちらにゆかれましたか?」ぼくは聞くと、「ああ、あの子ね、正面から彼氏とでていったよ」そういって去っていった。僕はよしもとしん喜劇のずっこけをCBCのロビーでおこなった、よくよく思えば、その日一番の大うけであった、観客なしで、どうせやらせであるけれど、僕は一人モンであるのは真実であった。ギャラを三万もらい、正しくは源泉徴収一割引であったがポケットにおさめ、CBCホールのそとにでると、名古屋の女子高生がぼくをみつけあつまってきた。「さっき、出ていたひとですよね、文化祭で発表をするので取材させてくれませんか?」ぼくは内心、文化祭でどうやって、どういう目的で発表するのか?と考えたがつきそいの友人が、いこういこうというので、栄の地下街のある喫茶にはいる。彼女たちは有名な女子高でわざわざ、セーラー服をきて、しかもたくさんの人数10名ほどいた、リーダーらしき女の子が質問をかぶせてきた。「なんで、テレビにでたのですか?」そういわれても答えようがない、「でたいからでたのよ、理由はない」「さっきの人とは真剣にお付き合いするのですか?」そんなわけがないだろうと、おもいつつ、番組自体がやらせであるので暴露してもいけないし、ギャラももらったし。「ああ、つきあうのとちがうのかな」と答えた。つまらない質問を20数回して、終わった、文化祭にぜひともきてください、といわれても、どうせばかな大学生と書かれているのだろう。いけるわけもない、「ありがとう、ございました」といい、みんな出て行った、長い伝票を置いたまま、レジで全員の飲食代を払う、さっきの封筒から5000円なくなった、内心、僕は頭にきていた、なぜなら、番組の中では貧しい大学生、ご飯にマヨネーズかけて食べる話を聞いていたのか!取材したひとがおごるのが礼儀だろう、とおもいつつ、外へ出るとみんな並んでえがおで「ごちそうさまでした!」といわれ、「ああ、どうも」としかいえない小心者。写真も何枚も撮られ、文化祭でぼくのばかずらがでているのがあたまにうかぶ。ぴったしかんかんの予選落ちの話はあした。
2010.02.08
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はい、こんばんわ、みなさん、お元気でしょうか。日本海側の大雪、お見舞い申し上げます。先日、某テレビがワイドショウで大雪ランキングをしていたが、これもひどいはなしです。たとえば洪水ランキングや大雨ランキングをするだろうか?大雪で多くの生活の機能が停止しているというに不謹慎。あわせて、節分の青鬼、朝青の引退報道もばかげてる。散々こき下ろしてから、引退となると相撲としてはおしいのような報道。あげくのはてに引退三日後にハワイであそぶモンゴリアン、もうモンゴルはこりごりあん。まったく、相撲はみるきもしません、小沢のおっさん、世間は怒り心頭、石川議員もやめないという、もうこれも相撲と同じ「引退勧告」か、「辞職」の選択しかないよ。はとぽっぽの決断です。日本はどこもかしこもぐたぐた、どさくさにまぎれに法律すれすれに要領よくよあることが成功の秘訣らしい、 遠い記憶でおもいだせば、日本は「切腹」という武士の名誉があったのだ、潔く名前を汚さず責任を果たすのだ、武士だけであった。朝青も親分朝塩がきちんと指導していれば天狗になってはいないだろう、まあ、どうせ年末あたりでTBSが特番で朝青の格闘技でもするだろうよ、きっと。絶対見ないよ。それに亀だのボクシングも興味ないよ。くざけるんじゃあないよ、スポーツはまずは、「礼儀」だよ。
2010.02.07
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今夜も下宿の話。二回生になって、遊びほうけ、学校もさぼりがち、で内心、自分が情けなく。かといって、知的欲求は起こらず、サークルにもはいれず、バイトもながつづきせず、最悪の学生生活であった。何のためにわざわざ大学にきたのか?実につまらない。と思う自分と、親の姿をみると、僕のために働いて高校しか出れなかった父をみて、へこむんですな。サークルはまあ、一年の時には入れる時間がなかった。通学の時間とかね、でも一年の最後の12月だったか、落語長屋というところにはいろうとおもって、はいったんだ。しかし、先輩のひとことで愕然とし、辞めようとおもった、すぐに、根性なしというか、「お前の関西弁おかしいな?」といわれたんだね、しかし、その先輩はナント高知県の人間で関西弁がへた、こんなやつあかんわ、とおもったのです。笑いもベタであるし、そもそも落語はすきでなかった。しかし、最近になってある事実がわかったのだ、毒舌で芸能界を追放された北野誠は一年先輩で、もう、既に退部していたが、彼もまた、落語長屋に入り、先輩から同じことを言われ憤慨し、やめたそうである。関西人が地方人の言葉のひとに文句を言われて、たとえば、日本人がイギリス人に君の英語おかしいな?のようなこと、そんなこといわれてない。それに、そんなはずはない、事実そうだ。これはあの落語長屋の地方人の先輩の関西人の後輩への冗談の慣習であったのだ、まあ、そんなことはどうでもいいことなのだが、もう、こりごりという感じであった、そういうなか、昨日現れたあのかたが、テレビのバイトみたいなものにでないかというのだ、しかも、名古屋だけに放送されるもの、願っても無いことだ。ぼくはどこにいっても京都産業大学の学生というだけで、出たがりのやつ、ラブアタックの負け組みとか言われるのがいやだった、それにもまして、親父がテレビをつけて、もし僕があほなことをしていたら、「なんのために大学いかせとるんじゃあ!」と怒るに違いない。あの80年代の時代は、家庭の中では父親の威厳は強く、男尊女卑であり、親父のおかずには子供と必ず差をつけ、たとえば、カレーには生卵がつく、といったものがあり、逆らわず怒られず、というのがあったね、そう、親父にもばれず、金も稼げて、もしかすると念願の彼女も出来て、しかもテレビに出れるといった、そういうことなら、OKよ、と二つ返事であった。当日、一時間目だけをでて、あわててバイクで田んぼをとばしていた。早く行かないと国鉄ハイウエィバスに間に合わない。一旦停止の交差点を無視し、つっこむ、そのとき、目の前に外車があらわれ僕は外車の前に激突し、数メートルとんで田んぼの中に頭から着地した、バイクは大破し、見上げると、車はドイツのBMWであった、おもむろに派手なシャツを着てサングラスをした、おじさん、ぼくは、びびっていた、車は前が壊れていた、「おまえ、学生か?何で、そこでとまらへんのや」ぼくは、すいません、といなながら泥を落とし、痛い足をさすっていた。「学生か、しかたないな・・。」といいながらおじさんはなんと、去っていった、僕は驚いて立ちすくんでいると、車のうしろにあののちに抗争となるマークがついていたのにきがついた、すごい、いい親分であったのだ、千春がほれるのもわかるのだ、事故をしてもめけずに名古屋に向かう、推薦人の彼も学校をサボり、二人で新幹線代をうかすために、高速バスに乗った。名古屋に着き、時間がないのでタクシーにのり、栄にあったCBCにむかった。CBCといえば、つボイさんの本拠地、彼に会いに高校の時来たことを思い出していた。タクシーの中で運転手さんがたずねた。「芸能界にひとですか?」友人は知らぬ顔をしながら、そうです、と答えた、僕は驚いた、運転手はミラーで僕たちを見ながら、思い出そうとしていた、ぼくはすかさず、売れない漫才師です、と答えようとおもったが、辞めた。そして、CBCについた、打ち合わせがはじまる部屋にはいると、見たことのある放送作家がいた、あ!ラブアタックの放送作家だ!なんと、同じようなネタで名古屋でも番組をもっていたのだ、ぼくのつきそいの彼がその番組に出たとき、応援に行ったとき見ていたのだ、パクリかもどきか、そういう番組のようであった。この先は、明日お楽しみに
2010.02.04
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石川被告らの共犯として告発されていた小沢氏については、嫌疑不十分で不起訴処分とする見通し。特捜部は、小沢氏の立件を視野に捜査を進めてきたが、現段階の証拠では小沢氏の刑事責任追及は困難と判断したとみられる。 特捜部の調べによると、石川被告は平成16年10月に陸山会が東京都世田谷区の土地を購入した際、土地代金の原資4億円を収入として収支報告書に記載せず、土地代金約3億5千万円を支出として記載しなかった疑いが持たれている。サンケイ最初から小沢さんはわかっていたのだ、不起訴になることぐらい。まあ、このニュースはかなりダメージをミンスに与えたことだとおもうが石川議員は誰のためにそうしたのか、誰でもわかるずるいよ、あんた。
2010.02.04
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大相撲の横綱朝青龍が4日午後4時前から両国国技館で記者会見し、「(暴行問題で)皆様に大変ご迷惑をかけ、また、日本相撲協会にも大変ご迷惑をかけ、報道でも騒がせた。責任を取って本日引退をしました」と述べ、現役引退を正式に表明した。 朝青龍は現在の心境を問われ、「まだ何も考えていない。相撲に対する気持ちは深い」とした上で、一連の暴行問題について「あるのかどうなのか、殴ったのか殴ってないのとか、ということに対して、思いも深いし、横綱という責任を感じて、大変ご迷惑をかけた」と謝罪した。yomiuriやっとこれで終わりだね、真実はわからないが、ここまで相撲を冒涜する日本古来のスポーツを汚した罪はおおきいぞ蒙古襲来だったのだ。蒙古さいなら
2010.02.04
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こんばんわ、みなさん、寒い日々が続いていますが、僕の下宿は本当にシベリアのような寒さであった、といってもシベリアを知るわけでないのだが、京都産業大学は北区のはずれの神山というところにあり、冬になると雪がかなりふります、僕らが学生のころは田舎であって、田んぼもたくさんあり、下水もまだ、ぼっとんのところがあったほど、もちろん殆どが下宿でワンルームマンションというのは存在していない、寒い冬の今、昨日の合コンのことを思い出している。以前にもすこしここでも書いているので重複している、つゆさきのごろだったか、下宿のメンバーでなく、学部の友人の知り合いで、コンパづきのやつがいて、ひたすら「女子探索」をしているようなやつで、学生のうちにあそばなあかん。ということを常にほざいていた。ぼくも彼女がほしいとおもいつつ、そのときはまともに意識せず女性と話すことが不可能なぼくであった、どうも、目に見えないコンプレックスのようなものがあるのか、初恋のみゆきちゃんのイメージがのこっているのか、なかなか、好きな人が現れることがなかった。ぜんぜん、違う話にそれますが、無口でおとなしい友人がいて、クラスの女の子をどうも、すきになったらしく、しきりに家の車を持ち出し、あっシーナ生活をしていて、ぼくは、その女の子に注意したことがあった。どうみても利用してるだけのことだったのだ。しかしだ、20数年ぶりにその女のこ(といっても)話したら、「車で押し倒されてキスしたわ、すこしだけつきあったのよ」僕愕然とす、ぼくはおとなしい彼がそういうことをするなんて、実は僕よりも内面はおとなしくなかったし、つきあっていることもしらないまま。「おまえ、ええかげんにせい」という一言で別れたのよ、と僕に笑っていった、おいおい、僕にいわれたぐらいで別れるなとおもいつつ、反省したのだが、彼はその後、かなり落ち込んで学校も来なくなり、退学寸前までいったのだが、留年して何とか卒業して「行方知らず」ぼくは、車で女性を押し倒して無理やりキスなんてする、勇気はまだなかった。(まだということである)まともに普通の会話が出来ない。そういう僕が合コンにいってどうなるか、予測つくだろう。もともと、コンパは好きで、楽しく呑みたいというコンセプトでみんなが楽しく出来るために何回も何回も幹事をするような僕であった、場所は三条京阪のあるパブ、相手は某短期大学の寮生。5対5男のメンバーで彼女がいながら参加しているものいた、それもまったく理解できなかった。交互にすわるのだが、円形のテーブルでお互いに白々しい挨拶をして話すのだ、右回りになぜか、話パターンが続き、男前のY君がどうも人気で女の子が二人とも左右の子が会話し始めてバランスが崩れてしまい、あぶれたものがぼく、右を見ても左を見ても話すしとはいない、目の前にあるのはバーボンだけ、ひたすらバーボンを水割りで飲むと、くらくらしてきたなぜか、天の声がした。「イスの上にのり飛び跳ねろ」いや、天の声でない、「こいつな、おもしろいねん、つるたろうのとびますとびます、がおもしろいねん」僕に向かって男前のYは、「山車」にぼくをしようとした。当然、ぼくは酔いに任せて飛び跳ねると、テーブルの上のグラスがわれた、すかさず、店長が飛んできて注意をした。「ここは英国風のパブです、そういうことをするなら出て行ってもらいます」頭ごなしに注意、場はしらけてしまった。合わせて門限が迫るので帰ると言い出した。門限?時計は8時。なんたること、そこから店を出たのはいいが知らない間にメンバーは消えており、僕と二人の女の子が残された、そのうち、ぴっぴとかいうあだなの女の子が泣き出した、おいおい、泣いている、ああ、僕のせいかなと反省した、「わるかったよ、寮まで送るよ」ぼくははきそうなのをおさえながら、言った、「もう、こんなコンパなんかこない・・。」と泣きながらいう、周りの人たちは僕らを見て笑っている、僕は内心、僕も二度と合コンにはいかないと、思っていた、蛤御門の近くの寮におくり、さよならもいわずにぴっぴは帰っていった。ぼくは友人たちの合同コンパメンバーからはずされ、決して呼んではいけない男になってしまった。その次の合同コンパが再び行われたみたいで、僕がいないおかげで三組のカップルが出来、一組はゴールインし、子供が三人もいる。いわば、その子供の存在は僕が合コンで暴れたおかげであり、神はそのためにぼくに暴れろと啓示したのかもしれない。二回生の前期がどうしようもないことばかりだった。そういぼくに、テレビに出ないかという友人に誘いがきた。なんでも名古屋の素人参加番組の出えんのはなし、この話は明日に続く、
2010.02.03
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こんばんわ、みなさん。今夜も下宿の話をします。 不思議なもので、ひとつのことを思い出すと次々と箱を開けるように記憶が戻る、どこにあったのかとおもうぐらい、些細なつまらない事まで覚えている。そんな記憶力があれば、もう少し勉学にやくにたっろうに、いまさらいってもしかたない。オフコースの歌のこともその思い出のことも散々述べてきたが、オフコースの「さよなら」を聞くとあの冬を思い出し、オフコースの「時に愛は」を聞くと再びその次の冬を思い出す。下宿を始めるに何が必要か、三種の神器といわれるものは、「こたつ」「ふとん」「ビニールタンス」であったか、いや、「ラジカセ」も必要だし、電気スタンドも必要だった。自分で三宮のダイエーで買いこんで、バイトの友人の軽自動車で引っ越すことにした。春の日に、母親は見送りに出てきた、僕は土日は帰るつもりだったとか、いろいろ言ったので別れになるつもりはないが、母は感慨深げに笑っていたかおをおもいだす。171号線を京都へと向かう、下宿につき、大家さんにあいさつにゆく。他の下宿のメンバーにもあいさつにゆく。四つの部屋があり、二階に三部屋あり、一階には車庫と大きな部屋があった。何回も何回も夢にでてくる、下宿だ、いまだに忘れることが出来ない、思い出の場所。誰にでもあるだろう、みんなそうだ、ドイツの友人も西加茂の下宿を20数年ぶりに時間を割いて訪ねたとメールで書いていた。でも、もう無くて景色も変わり、がっかりしたと、行かなくて、行かないほうがよかったのかも、そう思いつつ、ドイツに帰る空で思ったのかもしれない、 下宿に荷物をいれて、石鹸を持って挨拶に部屋を訪ねた。下の大きな部屋は8畳もあり、そこには新入生がいた。O君である。「よろしく!」と挨拶する、彼は軽音楽部にはいるといっていた、隣の日当たりのいい部屋は先輩がいた、K先輩である。先輩はまじめそうなひとだった。北にある日当たりの悪い部屋には同志社二回のA君がいた。京都産業大学が三人、同志社がひとり。一軒の家をそれぞれ下宿として提供していた。もともと、グリル大塚という小さなレストランがあって、そこは潰して車庫になっていた、彼らとの出会いはさりげなく、印象も普通であった、二回生になってもぜんぜん勉強する意欲がわかず、せっかく下宿しても友人の下宿に泊まり歩き、下宿にはぜんぜんいなかった。というは、やはり、三畳一間の空間はあまりにも狭すぎるのであった。サッシ等はなく、ガラスの隙間からは冬は雪がはいってきたこともあった、風呂はもちろんないので、銭湯、金が無いので自炊をするつもりであったが、小さな釜の電気炊飯器でごはんをたき、ボンカレーをかけくうか、ラーメンをつくるか、その繰り返しであきあきしてしまい。近所の千成食堂に通うようになった。夏まではひどい生活をしていた、バイトも長続きせず、根性もない、ぶらぶらとした目標の無い大学生、モラトリアムナ自分に焦燥感をもつのであった。高校三年間、工業高校から大学に行くと言い出し、針路変更しまくり、外国語学部にはいったものの、どうやっても勉強身入らず、やる気も起きず、つるべの深夜放送で聞いた憧れのあの大学にはいったものの、現実にはまったく違うもの、誰かが現れて生活を変えてくれるものでなく、自分が変わればいいものを、三流大学の学生は大学をレジャーランドにしていると世間はいうのだが、まあ、そういう部分もあったろう。五月病というものが永延と続くような日々であった、下宿のメンバーは僕をよそに三人は急速に仲良くなり、当初は疎外感の塊だったような気がする、「おい、今度、平安女子と合同コンパやるから、こいよ!」そう、僕は相変わらず彼女の一人も出来ず、女子と話すのも緊張する、これまた度しようも無い人間だった、合コンの誘いを受け、嫌な予感を持ちつつ、三条京阪のパブにむかったのである、続く、
2010.02.02
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合縁奇縁ということがあります。こんばんわ、みなさん、おげんきですか、人と人の交わり、出会い、それらはすべて自分の意思とは別におきる、縁がもたらすもの、縁が会わすものであります。縁と縁が合い、合わさり出会うことになる、まさしく、縁とは希なる不思議なるものである。学生時代の縁というものも不思議なものであった、ぼくが京都の山奥、京都産業大学に通い、一年間神戸から何とか、2時間もかけて往復4時間も費やし、通学していた。あるとき、友人が、「一日の六分の一も通学に費やすと時間の浪費やな!」とほざいた。この口の悪い友人の放った言葉は見事ぼくのこころを突き刺し、2年からは絶対下宿をする、自分の金で下宿する、とはじめたバイトが二月の寒い今頃であった、魚屋のおっさんであった。コープの店頭販売で各地を回るバイトであった、ひたすら奥さん相手に魚をうるのである。二ヶ月休まずにバイトした、だんだん魚のにおいがしみつき、魚のくささもわかなくなっていた。「おまえ、よく売るな!一番よく売るぞ!」褒められていた、バイトすべて実はこの作戦ではまっていた、二ヶ月で25万の金が入り、早速、親に許可を得て、無理やり下宿OKさせて。下宿探しがはじまった。もう既に新入生がほぼ先に入居しており、二回生の僕は出遅れていた、学生課の掲示板を見ても数件しか残っていない、一番安い下宿を探し、小山元町というところにある、中山酒店所有の木造の下宿があった。横には同じように下宿を探す男がいた、僕は申し込み用紙をもらい、「な-1」の記号で申し込み用紙を書いていると、まったく同じ申し込みをを横の男がしているのではないか、ぼくは、気がつき急いで書いて事務員に渡した、横の男も数分送れて提出。しかし、彼は、もう締め切りましたこれは、といってつき返されていた。もし、あの時、僕がなんらかの時間の遅れで、彼が先に下宿に申し込みをしていたならば、これから会う人々と出会うことはなかったんだと、つくづく思う。合縁奇縁の事柄は些細な積み重ねがおこなわれるのだ。三畳一間6000円、礼金二万円であった。トイレ共同、風呂なしである。いろいろな人と出会い、いろんなことがそこから始まるのであった。つづく。
2010.02.01
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