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コバルトブルー色 五月の空 つばめゆく五月。もう五月、まだ風が寒いのですが、空の深いいろは、コバルトのブルー。そんな歌をどこか思い出しました。つばめはそらをすいすいととび、巣作りの仕事に懸命です。時の流れは速く、あっというまに一日が終わりました。 今日と昨日のハザマにお送りします、深夜風呂具ビン。ご案内は長七です。本日の一曲目、ひととして / オフコース オフコースの歌はぼくのこころの「原風景」のようなものであります。心のエネルギーというものがあるとすれば、オフコースの歌はある種の「潤滑油」みたいなところがあります。自分の三畳一間の6000円の狭い部屋で、ヘッドホーンでラジカセにLPから録音したこの歌を聞いていたのを思い出す。1981年は思い出がたくさんありすぎる。だいぶ前の日経新聞の「交遊録」というところに友人が僕のことを勝手に書いて、その記事のことを昔の友人が突然見つけ、僕に知らせてきた。驚いた僕は新聞を買いにいった。それから、だいぶたち、元町のほうで働く人が来て、「新聞を見たよ」という、聞けば、大学の先輩という。大徳寺の近くに下宿をしていた、といっておられた。いまでも、何年か間はあくのだが、下宿の集まりをしているんだ、そう、いっておられた、僕の下宿の話も深夜ブログ便で何度もしているうちに、事故で亡くなった福井の友人が夢に出てきて、みんなにあいたい、という。それらがきっかけで、先日、僕の店で同窓会お開いた。しかし、同窓会。という言葉は、そのものはあんまり好きでない。自慢大会のような部分もあったり、なにかしら、嫌だ、だから、ミィーテイングの名称にした。27年ぶりに会う人もいて、50歳を迎えているひともいて、もう、いいおじさんであった。やさしさにさようなら / オフコース ひとつのきっかけがいろいろなことがおきてくる。1981年以前、1982年以降、と二つの紀元前後みたいに、友人の事故死があった、その友人の死んだあとに、その部屋の住人となった、O君、その友人が二人。それ以外は、福井の友人をよく知るひとたち、その事故をきっかけに、僕の中では「化学変化」のようなものがおきた、時間はない、時間は有限である。だから、無為にすごすのはよくない。何か自分を責め、後輩たちに説教をした。無駄な時間をすごすな。風に吹かれて / オフコース 僕が愛読していた、藤原新也の「メメントモリ」という本、その本の中でインダス川のほとりのことが書いてあり、もともと彼は写真家なので、遺体を焼く風景、インダス川で清める姿、などがあった。同じように、ある後輩は僕のその本を読み、いたく感動し、インド旅行へいったという。青空と人生と / オフコース その本を読んだぼくも、人が生まれて死んでゆくことを深く考えることが、彼の突然の事故死で影響されたのである。心のエネルギーというものがあると、昔、ユングは唱えた。其のエネルギーには方向と強さがあり、ベクトルの向きは「内向する力」「外向する力」があり、どちらに働くかで、その人の性質のようなものがきまるという。心のありようで、自分の考え方も方向もきまり、行動や人生もそれでしらずしらずにきまるのである、インダス川のほとりで、死期が近づく中、家族たちと其のときを待ち、別れをいい、家族が木々をあつめ、「荼毘に付す」。其の煙る光をみて、人生を思うのだろう。文明社会といわれる日本では、死は隠されるように忌み嫌われるようにマイナスのベクトルがつくのである。病院の中で死んでゆく、しかたのないことだが、人生の尊厳は、最後の瞬間の燃えるたいまつのようだ、と、ある人はいった。其のたいまつの明かりをもらい火するように、自分のたいまつをあかあかとかざし、生きてゆく。そういうことを20歳のとき、僕は考えていたのだ、あれから30年弱。煩悩の中で忙殺されて、霞のような人生であるのだけれども、もう、一度、あの本を読みたい。そう、思ったのである、哀しいくらい / オフコース
2010.04.30
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葉桜の 空 雲行く風 さつきまえひさしぶりの晴れ渡るそら、皐月がさこうとしている、すがすがしい天気であった。桜のきも、葉桜のきれいないろがでて、空ににじむみどり時の流れは速く、あっというまに一日が終わりました。 今日と昨日のハザマにお送りします、深夜風呂具ビン。ご案内は長七です。本日の一曲目、To Be With You/MR.BIG もう四月もおわりです、早いものです、昨年は今頃すでに「新型インフルエンザ」の予兆が出てきてたなあ、と思い出すのです。ワクチンが大量に残り、期限切れれば廃棄しなければいけない、とのこと、当時の大臣はそれどころでなく、新党のことで頭いっぱい知らぬ顔です、しかし、あの騒乱はひどかったものです。ウイルスなどの感染によるこれからの対策において勉強になった部分もある反面、混乱する日本人のふがいなさもなります。あれだけ、マスクがないとか騒いで、マスクばかりしていたひとびとは誰もマスクはしていません。マスクの死に在庫はかなりあるだろうとおもいます。Men at work今夜はここまで、おやすみ
2010.04.29
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緑吹く 山並みなみと 春戻り 長七ひさしぶりの 青空、春らしいおだやかな気候、みると、山並みの木々の新芽が日の光を反射し、緑が拭いている様子ではないだろうか・・。時の流れは速く、あっというまに一日が終わりました。 今日と昨日のハザマにお送りします、深夜風呂具ビン。ご案内は長七です。本日の一曲目、Air Supply I'm all out of love 下宿の話。僕が住んでいた下宿は、一軒やの長屋の京都で言う、「うなぎどこ」という建築様式、厠は奥にあり、スペインで言うパテイィオという小さな中庭のようなもののあった。うなぎどこという名称は、京都の町では小さい町で、土地を有効につかうべく、長ほそく、奥に長い家になるのだ、何とかどうり、東入る。とかいう不思議な地名で、郵便局員はよく郵便が配達できるとおもうものだ、それでも、都市の区画の地名地番をつけるやりかたがあり、味気ない何番地になるんだろう。横の家は豆腐屋、親子二代続くもので、どうやら先代はなくなったようで、僕らの世代より少しうえのお兄さんが若い嫁をもらって、必死に働いていた。ぼくらとは対照的な存在だったようなきがする。朝四時過ぎからコンプレッサーの音が響いていて、最初はびっくりしておきたものだが、すうヶ月たち、慣れた。気にはならない音になった。母親が台所で朝、まな板をたたく音のように、そういえば、いつからか、まな板はまな板でなくなってしまったね、もう、全部、木じゃない。二曲目George Benson - Love X Love街並みというのがあり、欧州などの名だたる町はとても整備され、何年も同じ風景をかもちだしている、日本の風景の一番の最悪は、電柱電線派手な看板、それに無節操な町並みであろう。これは日本を物語ることである、昔はこうでなかったはずだ、「公」というものがおざなりにされ、無節操個人主義が勝手な風景をつくりあげたのである。三曲目ATLANTIS - keep on movin' & groovin'話題を変えて、東京銀座の歌舞伎座が解体建て直しをされるそうである、なんとか、昔の姿のまま再構築させるのが文化であるのだが、日本はそういうのはしない、もちろん安全性を考慮してのことだとおもうが、とにかく、「破壊」が好きな民族であるとおもう。大坂城も秀吉が作り上げたものを夏の陣で「灰」にして、その上を石や残土で積み上げて再び大坂城をつくりあげた、この城が燃え落ちることを大坂の人間に視認させる役割もあったのだとおもう。幕末にも不審火で燃え、太平洋戦争でも空襲でもえおち、戦後、しばらくして、鉄筋で城を作り今に至る。司馬遼太郎さんは、その城が燃えるたびに日本の歴史が大きく変貌した。いわば、時代の先駆けるたいまつのようなものだったのかもしれない。そう書き残している。つぶすことが好きな民族でもあるが、流用もしているのだ、戦乱で焼け落ちたのではなく、聚楽第のように豊臣の都合でつぶす場合は門など移設して他の寺院につかったりしているのだ。大事にすることはしているようだ。100年たって残る町並みをつくってこその「効率化」のよい土木になるとおもうのですが、建築屋はそれでは儲からないんだろうね。 今夜はここまで
2010.04.28
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桜散る 苗代水や 星月夜 いつも桜の木々ばかりいた、桜がちり、苗代の水の上に花びらがあり、風流である、しかも夜、星や月の光まで反射して、とてもきれいなものだ、蕪村。景色を切り取るのが絶妙なり。時の流れは速く、あっというまに一日が終わりました。 今日と昨日のハザマにお送りします、深夜風呂具ビン。ご案内は長七です。本日の一曲目、岡本真夜 - そのままの君でいて上海のあの件で有名になり、いい歌です、最近の歌はさっぱりですが、まあ、僕の中だけですが、少し違うな、オリジナリティがある、インパクトがあり、メッセージがある、そういうのがいいのですが、この子はその点、すごいとおもいます。1990年生まれで20歳。大分の生まれ、女が男のような感じになりつつ、今の女の子はこういうかんじかなあ、とおもうのです。歌い方も演歌のこぶしのような力の入れ方が新鮮です。阿部真央「伝えたいこと」 本日の二曲目しかしながら、ルックスがロングヘアーの黒髪。いいですね、しかし1990年なんてのは昨日のようの感じです。80年代を懐かしく思うぼくですが、そう考えると、僕らの世代が産み落とした世代であるわけです。1990年。80年代が終焉を向かえ、バブルに突入し、世の中が変わりつつあったとき、ソ連が崩壊し、東西冷戦構造が終わり、価値観が変貌し、今へ道があそこにあるのです。2010年の今。困難を極める日本。もう立ち止まり、行く手に迷う今。どうすんですか、普天間の基地は、という感じです、完全にこれでぽっぽ政権は終焉寸前でありやんす、今日は異人館の近くのロケ現場に弁当の配達をいったんだね、前もいったんだけど、異人館の場所は狭い道で急な坂がおおく、バイクがなかなか、たいへん、上らない。やっと、ついた、そのロケはある撮影で、某M○Sさん、若いスタッフに話しかける「僕は昔、千里の放送局にいったり、やんたんにはがきだしたり、してたんですよ・。」若いスタッフは、「そうですか、いまの撮影の責任者は元ラジオのやんたんのADですよ!」名前を聞いたけど、思い出せなかった。店に帰る途中に思い出した。日曜日の夕方のつるべの「わいのわいの90」という番組のADさんではなかったのだろうか、そうか、17の高校のときのぼくを思い出していた、その瞬間、シンクロナイズしたような気がした、おそらく、現場では休憩にはいり、僕の弁当をひろげ、さっきの若いスタッフが「この弁当やさん、昔、ヤンタンにはがきよく出していたそうですよ・・。」というのだろう、そして、昔のラジオのことを彼は思い出し、時の流れと偶然の再会を感じるのであろう。堀内孝雄 時の流れに この歌は中村ゆきのぶという人の歌だがべーやんのものしかみつからなかった。ゆきのぶが、わいのわいの90につるべとでていて、彼もまた産業大学であった、なかなか、いい歌をつくるんだが、売れなくて、結局、喫茶店のマスターになった。ゆきのぶの喫茶店の場所というのが、ぼくの福井の友人が事故で死んだ現場の近くだった。その店もゆきのぶはたたんでしまい、冷凍食の配送をしながら、今もギターをひき、きらきらアフロというテレビ番組の最後のちらりとでてくる。ザ・ムッシュ-泣き虫ロポポこの歌はつるべが愛し、ぬかるみの世界というラジオで何度も何度も流していた。20歳前後、歌を愛し、歌で生きる道を歩みながらなかなか、その道は厳しく、現実はやめてゆくひとがおおく、あべまおさんも、30年後、どうなっているだろうか、同時期に京都で活躍していたバンジョーをつかった、バックスバニイしあわせ京都 京都のまちを鮮やかに思い出します。やはり、京都に似合うのは路面電車。僕らが学生のころはなくなってましたが、泪橋 茶木みやここの歌のうつくしさは、詩の内容もありますが、みやこさんの声の素朴さもありますね。友と別れた、なみだ橋・・・・。北山杉 うめまつり 今日の大学へ行くことをあこがれるようになるのです、京都の町を愛して、その町を歌う歌が、たくさんあったんだ、いまは、なにがあるのだろうか。最後にこの歌でお別れです、今夜もおつきあいありがとうござんした。 ふるさとは春です 浦部雅美
2010.04.27
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行く春や鳥啼 魚の目は泪芭蕉が「おくのほそみち」に旅立つとき、門人知人が隅田川まで見送りにきてくれた。この魚の種類は春の魚であろう、行く春や 金なき 嫁の目は涙、 長七 おそまつ!時の流れは速く、あっというまに一日が終わりました。 今日と昨日のハザマにお送りします、深夜風呂具ビン。ご案内は長七です。本日の一曲目、DAVE GRUSIN & LEE RITENOUR/EARLY A .M. ATTITUDE ATTITUDE という単語は、「姿勢」「態度」という語彙である。しかし、僕はこの言葉の意味がいまだによくわからない、午前中の早い時間のゆったりとしたかんじ、なんのことか、さっぱりわからない。外国語というのは本当に難解で、特にドイツ語はむずかしく、中国語も発音など苦労するものであった、当時、中国は下目にみられていたことをおもいだす、共産党の全体主義ががちがちで、日本の円借款などの支援などが行われ、今のような中国になるとは誰も想像はしなかったのである、今の学長が、中国語学科の教授であった、一昨年のイタリアの大聖堂での落書き事件のときに長いメールを抗議をこめて学長に送付した、学長は丁寧な返事をよこし、お詫びをしていた、数ヶ月たち、当事者の学生を引き連れ、自費でイタリアにゆき、落書きを消すボランティアに、いったという。すばらしい行動であり、尊敬の値する人物であった。二曲目。Giorgia - Per fare a meno di te 世界を旅するインターネット。1980年のころには想像もできないものである、当時はいろいろな技術が試験的にほそぼそとやられたいたぐらいで、日本語の変換できるワープロでさえ高価なもので、この難解にある日本語をどうするのか、できるわけないとおもっていたもの、携帯電話もNTTもない。電電公社と国鉄の時代である。いまだに、国鉄といってしまう僕は、昭和の人間である、平成の世の中は20年もたつんだが、どこか違和感を覚えてしまうのだ。京都の町は四月の今頃は新入生歓迎コンパが行われる時期だ、いや、もうだいぶすぎたかもしれない、僕たちの下宿のリーダー的存在 K先輩が卒業した。追い出しコンパは何回も何回も行われ、先輩の存在は絶大で、いなくなると、さみしいものがあった。僕は四回生になり、卒業を必ずすると、目標を定め、毎日毎日学校へいっていた。初恋/村下孝蔵下宿にも新しいメンバーがきた。大阪の川西からきた、N君であった、浪にんをしていた、すでに20歳をむかえようとしていた。「友人たちをよんでおいで、下宿の僕の部屋で歓迎会をするよ・・。」N君は友人たちを三人連れてきた、二年前に亡くなった福井の友人の友人も訪ねてきてくれた、僕の部屋にはいつもたくさんの人が来てくれて、楽しい歓迎会となった。下宿を追い出されたF君、福井の友人のクラスメイト、Kさん、友人の友人のMさん、これもそれも、全部、下宿の中で知り合った人々。亡くなった友人がそこにいたという存在感をいまさらながら感じていた。丁度一年前、同じように歓迎会をした、そのときは、亡くなった友人の部屋のあとにO君という学生がきて、彼の友人たちを同じように呼んでしたのだ、そのときはK先輩は、まだいて、なんと、K先輩は新入生の友人のひとりの女の子に恋をしてしまったのだ。その話はまた今度、いや、前にもしたのかな・・・。おやすみ。
2010.04.26
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煮物系。。フライもの系・・・中華系です。
2010.04.26
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春陽気 道行く 君は見返り美人長七 おそまつ!道行く女の子たち、今日はみんな、輝いていた。春の花が咲くように、振り返らずにあるいていれば、後ろからみていても、美人間違えなし!と思うのであった。こんばんわ、時の流れは速く、あっというまに一日が終わりました。 今日と昨日のハザマにお送りします、深夜風呂具ビン。ご案内は長七です。「見返り美人」有名な日本の芸術。この背景の作品は17世紀、菱川師宣という絵師が絹の生地の上に肉筆でかいた、これが、元祖「浮世絵」のはじまり、この絵画からえんえん、幕末維新まで、この浮世絵というある種の「メディア」として、確立されてゆく。風景をたのしみ、旅をした気分になる広重の東海道五十三次など、しかしだ、アップでみると、この美人、あんまり現代の美人ではない、それよりも、このスタイルのかっこよさと、この帯の締め方がニュートラッドとなったのです。帯と着物の宣伝の意味合いもあったようです。いまでゆう、ファッション雑誌、というわけ、今日の一曲目。日本の「和」を大切にした、姫神の神々のうた日本の失われし、音、笛の音をモチーフにしていて、ボーカルの女性の巫女の叫びのような歌が印象的です、姫神のCDは一枚ももっていないのですが、また、きこうとおもっています。1981年4月某日。ぼくは大学の学生たちが集う、ピロティ広場という人口芝生の上で寝そべり、ぼんやりとしていた。下宿をはじめたばかりの二回生。サークルはもう入るまいとおもっていた、大阪弁が変であると、関西人の僕に土佐弁の先輩がつけた文句がいやになり、すぐにやめた。「何をやっても、長続きしない、根気のないやつ」 それが僕であった。楽しそうに女の子たちと話すサーファーぽい男たち、こういうやつには実に嫌いだった。元来、暗いのである。打ち破れない壁みたいなものをたくさんつくり、壁に阻まれ、もがくのがそういう時期であり、精神年齢をあげれるかどうかもその時期にすごし方によるものだろう。しかし、今はそうでもないが、若いときは「美人」というものが珍種動物のように興味がわくのである。フランス語学科の尾崎さん、彼女がキャンパスを歩けば、誰しもが立ち止まり降り返る、胸に大きな本を抱き、決してズボンははかず、いつもスカートであり、清楚であった。「あんな、美人、うちらのスペイン語にはいないなあー」そう、つぶやく。「わるかったわねー!!!」と怒りながらぼくの肩をたたくひとは、Y子さんであった。彼女は、はるか彼方の北海道のその彼方にある実家、帰省するのに二日かかったのよ。Y子さんの親は政府の農業試験の開拓の仕事をしていたのだ、天真爛漫の彼女は、ぼくがどこにいても、見つけると手を振り、叫ぶのであった。名前を呼んで、僕は恥ずかしくなり、逃げていた、下宿にも何度も何度も電話をくれ、先輩がいつも電話の取り次ぐときに、「また、Y子さんからだよ、電話!」と僕のふすまをたたくのだ。先輩の部屋は電話の前にあり、ぼくはいつもヘッドホーンでオフコースのテープを聴きながら、電話に出るのがおくれるのであった。ぼくが冷たくしていると、とうとう、電話もなくなり、たまにしか声もかけてくれなくなった、悪かったかな・・と、ぼくは反省していた、しかしながら、Y子さんはサークル仲間に彼氏ができたと、うわさにきいた、しかも京都大学。そのサークルは「京都の歴史を歩く会」とかいうもので、京都市観光協会とかなかのいいサークルで、僕もそこからいいバイトを回してもらったこともあったのだ。藍美代子 「女ひとり」 すばらしい歌ですね。京都のイメージが沸くうたです。藍さんは、歌唱力もかなりあります。風小僧哀愁の歌なのだ、あの時代は哀愁の感情が満ち溢れていたのだ。話がそれてしまった。見返り美人、というものが発想そのものが斬新で、その後に浮世絵というジャンルを続かせるのは相当のことえあり、歴史的なものであるのだ。不連続帯のように旧主悪弊のようなふるい文化を否定し日本はいまがあるのだけれど、みんな、どこかでつながったものであり、古い物が新しき感覚で受け止めるのは僕だけであろうか。
2010.04.25
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苗代や鞍馬の桜もちりにけり田植えの準備にある農家の苗代、鞍馬の遅い桜も葉桜になり、山並み伊吹の景がめにうかぶ、蕪村の俳句。蕪村の見たシーンが文字でよみがえる。こんばんわ、時の流れは速く、あっというまに一日が終わりました。 今日と昨日のハザマにお送りします、深夜風呂具ビン。ご案内は長七です。Andrea Bocelli - Besame MuchoANDREA BOCELLI アンドレア・ボチェッリ1958年、イタリアのトスカーナ地方ピサ近郊に生まれる。生まれつきの弱視であったが、両親により類稀なる音楽の才能をピアノ、フルート、サックスフォンのレッスンにより引き出される。12歳のとき、サッカー中の事故ですべての光を失うが、地元ピサの大学では法律学を専攻し、博士号を取得し卒業。弁護士の仕事に1年間たずさわり、その後テナー歌手へ転身。1992年、イタリアのロック・スター=ズッケロが、3大テナーとして知られる偉大なテノール歌手、ルチアーノ・パヴァロッティのデモ・テープ制作をアシストするアーティストを探していたところ、当時ピアノ・バーで弾いていたボチェッリに目を止める。ズッケロの紹介で1993年、イタリアのレコード会社、シュガー・レーベルと契約、1994年デビューを果たす。1996年、サラ・ブライトマンとのデュエット「君と旅立とう(タイム・トゥ・セイ・グッバイ)」はヨーロッパの人々を熱狂させ、この曲を収録した『ロマンツァ』は、現在全世界で2,000万枚以上のセールスを上げている。『夢の香り』(1999年発売)では、セリーヌ・ディオンとのデュエットを実現。 クラシック界でも、2000年に発売したアルバム『ヴェルディ・アリア集』が全米ビルボード・クラシック・チャートにおいて24週連続1位となり、この記録は未だ破られていない。2000年、日本独自企画盤のベスト・アルバム『愛のために』を発売、そして、現在、その中の楽曲「大いなる世界」がサントリーのCMにて、モルツ・スーパー・プレミアムのイメージ・ソングとして使用され、日本でも大ヒットを記録。 いきなり、鞍馬からイタリアに飛びましたが、母校は鞍馬の近く、後輩がイタリアの大聖堂に落書きした事件を思い出したしだいです。こんばんわ、城たくやです。満天の星を抱きながら、欧州の空をとびゆく、ジェットストリーム、(三回叫ぶエコーツキ)イタリア語とスペイン語はよく似ていますが、その言葉は美しく、歌に似合います。80年代、郷ひろみがカバーした、あのフリオを思い出します、二曲目は、Ana Gabriel & Julio Iglesias - Historia De Un Amor鞍馬街道は山深く、うねる道を京バスやトラックが走り、観光客のバスがその混雑に拍車をかける。鞍馬には、「火祭り」というものが秋にあり、京都三大奇祭にあげられているのだ。私が学生のころ、原付のバイクであてもなく友人たちと昇っていったのを思い出す。鞍馬の歴史は相当古い。平安のよりも奈良の時代あと、鑑真が建立したという。この火祭りの経緯はよく知らないが、春の訪れを知らせる、奈良のお水とりのこともあり、もしかしすると、ゾロアスターの火への信仰が影響しているのではないかと、憶測する。大学を卒業し、京都に行く機会もどんどん減り、今はもうだいぶ京都へはいくことがない、遠い存在である。距離的な遠さよりも、気持ち的な遠さを感じる。そこにあるのは、「時間」という、感覚であろう・・・。源義経
2010.04.24
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春雨や暮れなむとしてけふもあり今日は何とか雨はあがりましたが、このところの寒さには戸惑うものがあります。春雨や しまいストーブに 灯油なし 長七おそまつ!日本にはすばらしい文化、情緒的な風情がたのしみものでありましたが、いつから過去を捨て去り、殺伐とした日本になりにけり、ああ、誰がこうした日本人。こんばんわ、時の流れは速く、あっというまに一日が終わりました。 今日と昨日のハザマにお送りします、深夜風呂具ビン。ご案内は長七です。一曲目は、こちらです、どうぞ、想い出写真 日本では先進国の中でダントツ、自殺がおおい。なぜにこうおおいのか、コアになるべきものがないからなのか、精神的な重圧や衝撃的なことなどがかさなり、心を閉ざしてしまい、脳が機能しなくなり、不眠になるプロセスを経て、自己破滅しようとする。いわば、ひとつの病であり、予防予知し回避できるものである、人気絶頂であったアイドルの岡田有希子さんが自殺したことは衝撃的な事件として生々しく報道された、これは当時ではワイドショウーなどが過剰な取材や演出などで世間を扇動し、若者が多数、飛び降りをしたという事件を呼び、沈静化させるべく国会でも論議されるほどの現象となった。佳桜忌親御さんはいまだにその悲しみは深いものであろう、散々反対し、芸能界を志すことの告白を受けたときに、学年で一番をとり、模試などで五番以内を取るとか、難題をすべてクリアし、高校から東京に向かい、芸能界デビューを果たした。この映像では目の下のくまがひどい、不眠症になっていたのだろうか、一番の危険なことは寝れない、脳がやすめないということである。この番組では泣いているのだが、これもなんらかの予兆ではなかったのではとおもいます。突然脈絡もなく涙が出てきたり、悲しくなるのはPTSDの影響もあるのです、震災ではこの病がひろがり、ぼくもそういった現象に襲われたことがありました。しかし、この番組では本番の前にその映像をさらしてしまう。悪循環させてゆくのです・。この事件の衝撃はすごく、後追い自殺が多数おこったことです。自殺の伝播性には科学意的な解明がされていませんが、僕の憶測的推測とすれば、若い人々は感受性がするどく、また精神的に脆弱であり、なんらかの形で岡田さんの気持ちを全部受け止めてしまうのだとおもうのです。自殺の原因はなんであるか、憶測が飛び交いましたが、相手とされた峰岸さんも「片思い」で、彼の役者イメージは相当悪くなり、苦労を重ね、もう最近ですが闘病の末、お亡くなりになった、片思いの末に自殺していると、日本国民はほとんど自殺しなければなりません。それだけの原因ではないとおもうのです。誰かの悲しみを背負ってしまった、悲壮伝播だとおもい、それにあわせて、元来の海馬組織の脆弱さがあったのではないか、と思います。彼女が自殺して、そのマネージャーも数年後、事務所のトイレで自殺してしまうのです。そのマネジャーは先日薬物で逮捕された酒井のりこさんの育ての親であった。精神的「負」というものがどんどん伝わり、酒井さん自身も生まれてすぐに親に捨てられた波乱の人生でそこに至るのです。事実は闇に葬られ、すでに長い年月がたちます。年々増加する自殺者の対策は遅れております、これはまさに、「戦争」です。精神戦争であります。1986年4月8日、彼女がなくなった、 先日、マスコミに誓約書を書かないと取材させないと芸能界復帰した沢尻エリカさん、彼女のマスコミへのあの映画の「別に・。」発言は驚くもので、結果、かなりに間、干されてしまったのだが、なぜに彼女はマスコミに対しての嫌悪感を抱くのであろうか、それよりも敵愾心のほうがあっているのではないか、と思うのである。エリカさんの誕生日は、実は1986年4月8日。今夜もつまらない話を読んでくださりありがとうございました。 先日、ある若者に質問された、「人生の目的はなにですか?何のために生きるのですか?」困難カツ難解で哲学的、抽象的普遍的テーマは、人類の最大の苦悩かもしれない。ぼくは、答えた。「人生の目的は、それを捜し求めるためのものであり、かつ、意識し行動するかどうかでまったく違ったものでもあるが、往々にして忘却の彼方にあるときもあり、108の煩悩にまぎれて見失うときでもある・・。」奇しくも、仏教の花祭りは4月8日であった、お釈迦様がお生まれになって、あれを叫んだとされるものです。 天上天下唯我独尊
2010.04.23
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菜の花や月は東に日は西に六甲の摩耶山から、蕪村が峰を降りるとき、夕暮れの大阪湾の雄大な景色を切り取るように文字に収めた。当時、六甲の峰峰は「菜の花畑」が多かった、山ろくには小川の水を利用した、水車小屋がたくさんあり、菜種の油を精製していた、江戸の夜の照明を支えたのであろう、長七の先祖も江戸初期は、油屋であったらしい、月が東にのぼり、夕陽が沈む瞬間で、春の澄んだ安定した天気であったのだろうけど、今日はかなりの土砂降り。こんばんわ、時の流れは速く、あっというまに一日が終わりました。 今日と昨日のハザマにお送りします、深夜風呂具ビン。ご案内は長七です。一曲目は、こちらです、どうぞ、春雨 村下孝蔵レコードに傷をつけた、その歌詞の一節、離れて暮らす恋人の別れの歌、村下さんの歌は、主人公は少女の気持ちがおおいですね。冬に送るつもりで編んだセーターが渡せず、春の雨の日に、解いている、詩人ですな、続いての歌はもう少し古くなりますが、GOODBYE DAY 来生たかお姉が書きとめた散文の紙切れに、曲をつけ、歌ができたという。彼のモノトーンのような歌い方はこころにひびくものでした。夢の途中 冒頭の歌詞、「さよならは、別れの言葉でなく 、再び会うまでの 遠い約束、いまを嘆いても 胸をいためても ほんの夢の途中・・」信長が愛した、狂言の「人生は夢幻なり・・」というフレーズを連想する。春の日の激しい雨は、木々たちの潤いとなし、新芽のほころびを濡らすのであった。私たちは春の中でみゆきさんは、この歌の中で、春があやまちの源といっている、孤独や色々な苦悩を春の日に思い返すことなどを、ちからずよく、歌っている、柏原佳恵さんに提供した、「春なのに」この春は三月の別れの歌ですが、独特な雰囲気をかもちだすみゆきさんの春は、人とは違うニュアンスの「春」であります。この歌の歌詞「記念にください、ボタンをください、青い空に捨てます・・。」制服のボタンをください、というのは当時流行したが、いきなり、青い空に捨てるという展開に、驚いてしまったものです。しかし、青い空にボタンが飛んでゆく景色が写るはいり、情景描写はあざやかなものとなります。ところで、近年は学生は制服も変わり、金ボタンの襟ず目の黒いせい服はみかけなくなりました。ボタンをください、といわれても ボタンがないのです。携帯のボタンしかないのではなだろうか、そう、僕はボタンください、なんて、言われたことなかったです。持てるやつは、ほとんどボタンがないという。学生服というものは便利であったのと、つくづく思うのです、へんな、ネクタイとブレザーでしゃつをだして、ズボンをずらして、そういう姿を見ると、情けないとおもうのです、
2010.04.22
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大塚アナがなつかしいのです。めずらしいのをみつけた。ここ こっちも懐かしい・・ NC9
2010.04.22
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春の海 ひねもす のたり のたり かな蕪村。ひねもす、この言葉、この響き、何の語源なのか、一日中、といういみです、春の穏やかに輝く海を見ながら、のんびりと、縁側にでもすわり、ゆっくりとするのもいいなあ、という意味ですね、春の日のあったかさと、ぼんやりとした情景。蕪村はまさに、その瞬間をデジカメのように景色をこの言葉の間に埋め込みました。何百年もたっても、いろあせない、日本の風景、情感をいまに歌えるのでし。こんばんわ、時の流れは速く、あっというまに一日が終わりました。 今日と昨日のハザマにお送りします、深夜風呂具ビン。ご案内は長七です。一曲目は、こちらです、どうぞ、瞑想 尾崎亜美 京都のメインどおりといえば、河原町通りであった。三条河原町にあるカトリック教会の大司教が僕の大学の先生であった、スペイン語とスペインの歴史についての授業がえんえんとあったのだ。しかしながら、あんまり、ぼくはあまりいい印象をもつことも、おそらく、もたれることもなかったのだろうと、思う。あまりにも僕は「無知」過ぎて、「思慮浅い」人間だったから、その東南、タクシー乗り場には深夜、たくさんのひとがならんでいた。時は1981年12月半ば過ぎ、そこに僕はいない。いたのは福井の友人A君。サークルのメンバー、タクシーの列の中、A君は、買ったばかりの借金してかったダウンジャケットを着ていた。その光景のことは、その数日、下宿のK先輩の部屋で聞いた。「 タクシーが来る前に、なんとか、いおうとがんばったんだ・・。」彼は、列の前にいた、サークルの女の子に告白しようとしていた。まさか、飲んでかえるときにタクシー乗り場で告白するのもどうかとおもうが、ずるずると機会を失い、とうとう、最後のチャンスがあらわれたのだ。一台、また、一台、タクシーが着て、待っている人々が車に乗りこみ、自分たちは前へ前へゆくのだ、あせるのだ、偶然 尾崎亜美 寒い12月であった、とうとう、タクシーがもう次に来たときに、「ぼぼくと、つきあってくれないか?」脈絡もなく、唐突に彼は告白したらしい、驚く女の子に待ち受けているのは、数秒の沈黙と、なすすべもなく、「早く、乗ってくれませんか?」 タクシーの運転手の催促であった、返答もあいまいのまま、彼だけが取り残され、タクシーを乗らず、歩いて下宿まで向かう、振られた、そう考えるのが妥当。彼氏がいたのか?好きな人ぐらいいたか、そう自問自答しながら、河原町の歩道をあるく、向かい側の協会のクリスマスツリーがむなしく見えた。岩崎良美 化粧なんて似合わない その話を数日後、K先輩とA君は話していた、「そうか、みゆきちゃんにふられたかあ・・・。」K先輩はつぶやいた。ぼくはその名前を聞いて驚いた、K先輩は続いて、こういった、「俺も、富山の高校で告白してふらてたんだ、みゆきという名前だったんだ」もう一度、驚いたぼくは、インスタントコーヒーを吹きそうになった、どてらの袖で口を拭きながら・・。「ぼくも、みゆきちゃんには、ふらてたんです。」三人とも、顔を見合わせた、僕の場合は美由紀ちゃんで、福井の友人は美幸ちゃんで、先輩の相手は、美雪ちゃんであった。想い出がいっぱい/H2O時は無限のつながり。シンクロナイズされた瞬間であった。この歌を聴くと思い出すのだ、あの下宿の階段を上がる彼の足音、先輩の声、三人とも、同じ名前で振られた偶然性は、なんの必然性があったのか、それから、数日たち、下宿のメンバーで忘年会をして、因縁のタクシー乗り場から下宿にかえるとき、彼は「ここで、ふられたんだ・。」とつぶやく。しかし、その数日後のクリスマスイブに彼は交通事故で死んでしまうのだ、一年がたち、彼のしのぶ会をした、そのときは先輩もぼくも参加、なんと、あの美幸チャンも参加、ぼくは、ひそかにリベンジを計画していた。日付ははるかな昔、古いアルバムにうつるその写真、「大人の階段のぼる君は・・」この歌を聴くとおもいだします。そのリベンジというのは振られた彼にかわり、手をまわし写真を撮ることでした。彼がなくなって、その女の子も友人と下宿をたずねてきました、彼女も、とっさのことやいろいろなことをおもいだし、さぞかし、つらかったんだとおもいます。かわいいみゆきちゃんとにやけた僕の笑顔を見ながら、最後はこの曲です。風のように 小田和正
2010.04.21
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花の色は移りにけりないたずらに わがみよにふるながめせしまに いつもこの時期になると思い出します、この和歌を、小野小町がのこした新古今に残したものです。こんばんわ、時の流れは速く、あっというまに一日が終わりました。 今日と昨日のハザマにお送りします、深夜風呂具ビン。ご案内は長七です。我が身、世にふる、ながめせしまに、自分の若さも、この世の時代ではあっというま、眺めていると、庭にある花が雨に降るように、という花の命と自分のはかなさを感じたのでしょうか、今夜の一曲目は、We're All Alone - Boz Scaggs 三条大橋は向かい川の木屋町祇園に向かう若者でごったがえしていた。当時はまだ、三条京阪から路面電車で大津に向かう路線があった、1980年代は混在する時代であったんだと、思うのである。僕が待っていたのは米国に留学していた友人が、京都に来たい、というので、待ち合わせ。「おお!ひさしぶり!」肩をたたいて、再会を喜ぶ。このF尾くんは中学三年のときからの友人、一人日本の大学に行かず、米国の州立大学に浪人して入学した。「どこ、いく?」「どこでも、いいさ」どこ行くあてもなく、三条大橋をわたり、田園、という有名な店に入った。時の行方~序・春の空/春の空 森山直太朗 会話はとりとめもなく、米の大学の話と、イエローモンキーといわれ、喧嘩したことや。「おい、イエローPYGではないのか?」隣の席のカウンターに座る女の子がくすっと、笑った。「こんばんわ・・。」ショートカットの女の子だった。「わたしね、いくつに見えますか?」女の子は僕らに尋ねてきた、この質問は何度も何度も出くわした、何度も何度も返答に困るのだ、「うーん・・。」 僕はうなった、友人はトイレにふらりと席を外れていった。「ぼくは、いくつにみえますか?」ぼくは、お返しに質問した、「そうだな、・・・ 20歳かな」簡単にばれてしまった、と僕は思った、「ちがうよ、18だよ」 18のわけないやろ、と友人が僕の頭をこずく、松田聖子 蒼いフォトグラフ 年齢の話をしていると、友人は観光できていた外人と話はじめ、僕はそのこと二人になった。二人とも、顔を見あわせた、「うそでしょう・・・。」僕らは互いに免許証を取り出し、テーブルの上に、向かい合わせで並べた。生年月日がまったく、同じであった。女の子は大津、僕は神戸。ふたりとも驚いた、「付き合ったら、たいへんね。誕生日おなじだもの・・。」僕はそのときまで、同じ誕生日であったのは、小学せいのとき6年間クラスで同じであった、「ぎおん」くん、しかしらなかった、しかも、今飲んでる場所は、祇園。シンクロナイズされた瞬間であった、互いに誕生日の中途半端なことの嘆きのテーマでずっと、話した。友人が「おい、もう、俺、電車なくなるからかえるよ」ぼくはあわてて、駅まで送ることにした。駅に向かう河原町のアーケードで、「ところで、おまえ、さっきのこの連絡先、聞いたのか?」「あ!」僕は聞いたけど、聞いたのだ、確かに・・ A Tribute To Nicolette Larson - For A Dancer 「あのさ、連絡先おしえて・・。」ぼくは、かなり酔っていて、コースターの裏にペンで書いてもらった。それを、テーブルの上に忘れてしまったのだ・・。もう、30年近い月日が流れ、名前も顔も忘れしまったが、誕生日だけは覚えている。もう、いい母になってることだろう、おやすみ。
2010.04.20
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2010.04.20
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芭蕉が旅した奥の細道を歩いていけたら、と思う。 こんばんわ、時の流れは速く、あっというまに一日が終わりました。今日と昨日のハザマにお送りします、深夜風呂具ビン。ご案内は長七です。Earl Klugh - Dance With Me ふと、僕が思い出す風景は 四月の風が心地よい加茂川べりのベンチ、丁度、植物園の向かい側にある。髪の長い女の子がずっと、本を読んでおり、時折、流れる川の流れに目をおとし、まぶしそうにみていたのだ。僕はその流れる髪の美しさに立ち止まり、二つ手前のベンチに、腰掛けて、髪の長い女の子を見ていた。僕は見るともなしに買ったばかりの本を取り出し、読むことにした。佐藤正午の「永遠の二分の一」。しかし、本を読むことができず、二つ向こうのベンチを見てしまう、ぼくのべんちは女の子のベンチより 風下であった丁度、かざしもの僕に、女の子の髪の匂いがほのかに匂ってきたのだ・・・。かすかであった、かすかでも、息ずかいのような風を感じた。Earl Klugh-Heart String ココロが奏でる、ギターが、軽やかな旋律が流れた。時折、女の子はこちらを見るのだ。ぼくは、その視線がこちらに向いているのを感じた。気が付くと、女の子は本をたたみ、かばんを持ち、去っていった。「ああ、かえってしまったよ・・。」 がっかりしたぼくは、ベンチの上で寝そべり、本を枕にした。加茂川の流れの音と、遠くで遊ぶ子供たちの声をかすかに聞きながら、 寝てしまった。 Earl Klugh - This Time 何日かたち、三条京阪のごった返す駅まえに僕はいた、「こんにちわ!」 見覚えのある女の子が僕に声をかけてきた、「ええ、と、どこかであいましたか?」僕は心臓が高鳴りながらもとぼけていた。「ほら、植物園の前の川のベンチにいたでしょ・・・。」笑いながら髪を掻き揚げた、「ああ、そういえば・・。」白々しく話す自分がなさけなかった。すると、向こうから女の子たちがやってきた、髪の長い女の子はその仲間と待ち合わせをしていたようだ、「 またね! ベンチであいましょう!」そういいながら、手を振り去っていった。僕もあわてて手を振り、しかし、雑踏の三条大橋の中に見失った。1982年の出来事であった。Earl Klugh - Crazy For You 今夜の選曲は長七でした、アールクルーのギターの音色はこころを落ち着かせます。あの風景は 風とともに匂いとともに僕の頭の隅のほうに・・。時を超えて流れる景色はあざやかなものであった、この先の物語もゴタブンにもれず、常連さんならご理解予想できるように・・。無くしたものを探しに行こう。加茂川、鴨川、思い出の川。
2010.04.19
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昨日は、参りました。1時半からこれを書いて、UPしたとたん、サービス停止。で記事は喪失。何回目だろうか、記事が突然きえたり、そうなるたびにここを出ようと決心するのだ。昨日のテーマは 「匂い」であった。京都市北区大学のまわりは、まだまだ田んぼがおおく、6月からげろげろと泣き出す田んぼの道を歩いたものである。。田んぼがひろがり、下水も完備しておらず、鴨川から引いた農業用水が流れる水が勢いよくきこえたもの。田舎の匂い。肥料の匂いである、四国の店に転勤になったとき、店から町全体が肥料のにおいがすごいのが、本当におどろいた。しかし、不思議なものでそこにすむとその匂いは消えてくる、鼻がその匂いに対して反応しなくなる。大学二年のときに、魚屋でバイトした、最初は魚くさいのなんの、家にかえると、近所の猫までよってくる、母もくさい、という。しかし、本人はその匂いはだんだんわからなくなる。下宿しだして、いろいろな友人の下宿を訪ねて、泊まったりもする、しかし、どこもくさくて汚い、それに本人の体臭。タバコのにおい、共同台所には生ごみ、くつのくさいにおい、それらがミックスされて、独特な異臭を発する。しかしだ、それもだんだん慣れてくるとなんともなくなるのだ、新大阪駅で徹夜でバイトしていたころ、新幹線の食堂のくいのこしなどのごみを、地下のゴミ捨て場に捨てに行くのだが、そこがまた、この世のものとはいえない匂い、ねずみやごきぶりや、水溜りがあって、なかなかそれはなれないものであった。ひたすらごみを分別しているところがあった、新聞紙と週刊誌、空き缶もアルミと鉄、それを圧縮するところ、ひたすら三人でやっている、そこのところがまたすごくくさくて、空き缶の中の残りのジュースやビールなどたれてきて、その汁でコンクリートまで腐食していた。しかし、一ヶ月に一度は、紙切れのごみのなかから、万札や千円札もでてくると、おじさんはいっていた。下宿の独特のにおいと、汚さは慣れてくると心地よいものであった、あれはきっと、動物の本能である、マーキングみたいなものかもしれない。みんなあのころはタバコを吸っていたから、鼻は麻痺していたとおもうけど、トイレも共同で水洗でないし、台所には何日も洗わないラーメンの鉢。持ち主は卒業したかもしれない。あの80年代のころには、ペットボトルは存在していなかった、政府はそれを認可するのは国会で論議していたのをおもいだす、業界のごり押しなど、金献などもあったろう、とにかくあんな便利なゴミはあのころはなかった、ビンである、コーラの1Lでもビンであった、たしか、ビンの回収促進のために、保障金10円を取られたとおもう。友人の東と、放置されている、そのビンを集めまくって、酒屋にもってゆき、1000円ぐらいかせいだことがある。話がそれています。一番のいいにおいは無臭であるとおもうのですが、都会では人工的な匂いが満載し、えげつなくきつい香水をつけるひとがいるだけで、気分がわるくなります。この匂いというものが自然界にある、微生物やウイルスなどのものに関係しているとおもいます。人によって出す匂いはそれぞれ異なります、それもその人が動物である証で、ある種のタグをつけているようなもの、もって生まれたそれぞれの特徴というものです。やはり、それぞれのもつ匂いというものは大切であり、匂いの記憶というものは大事であり、脳の中の高等な分析を必要とされてるのだ、と思うのです。あの下宿の部屋の匂いを思い出す。再現はできないが、どこかで覚えている。それは景色と音とは別な形で記憶しているのだろう、これは本当に不思議だ。しかしながら、味覚も老化し、甘いしかわからなくなるそうだが、匂いも老化するのだろうか。老化するのではないだろうか・・。
2010.04.18
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J.D.サウザー(John David Souther、1945年11月3日 - )は、アメリカ合衆国デトロイト出身のミュージシャン、シンガーソングライター。ソロ・アーティストとして活躍する傍ら、多くのアーティストに楽曲提供を行ってきた。1970年代にブームとなったウエストコースト・ミュージックを影で支えた。イーグルスやリンダ・ロンシュタット、ジャクソン・ブラウンなどと交流を持ってきた。特に、イーグルスとは深い関わりを持っており、「もうひとりのイーグルス」とも呼ばれた。裏方の仕事としては楽曲提供だけでなく、バック・コーラスなどでも頻繁にゲスト参加を行った。ソロとしても1979年のアルバム『You're Only Lonely』が大ヒット。AORに通じるアダルトな音作りで、ロック・ファンを魅了し、日本では1991年に映画「波の数だけ抱きしめて」の挿入歌として起用され、2006年に三菱・アウトランダーのCMソングに使われた。また、台湾のガールズグループ、S.H.Eが「Only Lonely」というタイトルで中国語でカバーしている。YOU'RE ONLY LONELY
2010.04.17
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みなさん、こんばんわ、お元気ですか、めっきり寒くなりまして、「なごりどかゆき」が降る不思議な気象。アイスランドの何とかという火山が噴火し、欧州の飛行機はとびにくくなったとか、一方、アメリカでは隕石がふってきてようです。なんだか、天変地異のことがおこりつつあります、日本も最近は大きな地震が収束しつつあるので、こういうときが一番こわいかも、日本の地図を見ていると、昔から変な形だとおもつたもんです、琵琶湖と淡路島の形が相対的に似ているのはどうも不思議であった、琵琶湖の周辺にはかなりの活断層がはしっておるので、琵琶湖の成形には地震とのかかわりがおおきかったのでしょうか?さて、話題がつまってしまいました、何を話そうか、もともと、このブログは深夜放送的なしゃべるように書くものを目指していました。学生時代は深夜放送が好きで、毎晩毎晩遅くまで個性あふれるDJたちの放送を聞いていました。彼らの語る人生や学生時代の思い出なんかを聞くのが好きでした、地元のFM放送がえらいことになっていて、かなり、もめています。数年前から変なことをしているとおもってましたが、FM放送が全国に広がり、マイカーではFMを聞き、AMラジオはもう聞かなくなったのに、今見てみるとAMのほうが元気そうでスポンサーもついてFMは地方をみていると、かなりやばそうなところがあるのです、音楽ばかり、しかも同じようなものばかり流していたせいもあり、放送の流れを中断させるような、ラジオショッピング、意味の無いコーナーなど聞いていて、思わず消してしまう、昔、よき聞いていた地元ラジオのリスナーのひと、「いなかのおばちゃん」というひとがいて、よく番組に投稿していた、が、さっぱり聞かなくなり、だいたい、リクエストもあんまり受け付けず、指定曲のオンパレード。で、NHKFM大阪の番組をふと聴くと、その「いなかのおばちゃん」はメールを読まれていた、ああ、このひとも、ほかに流れたんだ、・・。そうえいば、大好きな放送が突然終わると、その時間はチュウナーをまわしどこか違う放送をさがす、後の番組はあるだけ聞きたくないのだ、つボイノリオのオールナイトが終わったときがかなりの衝撃で、彼が事務所をやめて名古屋に帰ることでそうなったのだが、そのときは実に残念だった、すごい人気があり、話術もあり、テンポもあり、知識があり、番組は流れるようにすすむのだった、つボイさんも運がなかったのだが、その生き方は尊敬できるのである。
2010.04.16
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1995年10月16日にFMラジオ局としては全国で46番目、大阪で3番目に開局した超短波放送局(FMラジオ)で、日本初の外国語放送として開局した局である。愛称はFM COCOLO(エフエムココロ)。COCOLOは、COMMUNICATION(通信)・COOPERATION(協力)・ LOVE(愛)の各単語の頭2文字を組み合わせた合成語で、発音どおり「心」をイメージしている。主な対象地域は、関西2府4県。場合によりそれ以外の地域でも受信ができる。1995年1月17日に発生した兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)の際に(とりわけ英語圏以外の)外国人への情報提供メディアが乏しい現状が浮き彫りとなり、外国語放送局の設立が早急に進められた。このことは放送事業を管轄する郵政省(現在の総務省)も積極的で、1995年までに大阪と東京で外国語放送局用の周波数割り当てと免許交付を行っている。大阪では主要株主となる関西電力など企業連合が関西インターメディアを設立し、FM COCOLO開局に至った。現在は外国語放送局が形成するネットワークMegaNet参加局のひとつ。ちなみに、このFM COCOLOも含めて外国語放送局はすべてラジオ局では異例の「広域免許」で認可を得ているが、これは、外国語放送の性格上、都道府県単位ではとても経営が成り立たないとの郵政省の判断があったからである。2010年4月には、番組制作をFM802が設立した番組製作会社に委託する新体制が発足した。これに伴う改編で、外国人向け放送と自治体提供番組を除く全ての番組が刷新されたほか、FM802と関係のあるDJの出演も行われるようになったウルフマン・ジャック(Wolfman Jack、1938年1月21日 - 1995年7月1日)は、アメリカのラジオDJ。本名ロバート・スミス。ニューヨーク・ブルックリン出身。代表的なラジオ番組は、アメリカで制作されメキシコのAM放送局で放送された「ウルフマン・ジャック・ショー」で、同番組は日本ではFENで放送された。また、映画「アメリカン・グラフィティ」では本人役でラジオDJとして出演し、「地獄のモーテル」(1980年)では牧師役、同1980年、TV番組「新・宇宙空母ギャラクティカ」第8話にて、本人役で出演している。1995年4月にTOKYO FM開局25周年記念特別番組「赤坂泰彦の東京?ニューヨーク25時間スペシャル」をニューヨークから生放送。この時、赤坂泰彦とダブルDJを行う。1995年7月1日、心臓病のため57歳で死去。2005年2月1日から2006年3月30日までInterFMで「Tommy Hilfiger Presents Wolfman Jack Show」として放送されていた。 2010年4月からFM COCOLOでデジタルリマスター版を放送している。
2010.04.16
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こんばんわ、みなさん、なんか、自律神経系が不調で昨日も眠れず、本日は睡眠三時間でなんとか、やってきて、さっき「ドリエル」を一錠だけ飲んだのですが前頭葉が抑えられるようなかんじがします、前頭葉が活発に動いているのは交感神経が働きすぎてるのか、ほんとに頭悪いくせに、アイドリングばかりの脳。子供のころは眠れない夜なんてのなかったな、下宿にいた学生時代もいつも「眠い」「眠い」。後期試験、なんとか、親の迷惑かけないように、試験勉強で徹夜、連日連日。徹夜、しかし、範囲もひろいし、ノートも抜けてるし、出席も何回は抜けていて何よりも、やる気がこらない、つまらないんだね、大学の勉強は。徹夜をずっと続け、意識朦朧と、非効率な勉強をしていると、夜中、腹が減るんですね、夕方、千成食堂で、めしをくったんだが、深夜は、なかなか店がやっていない、北山どうりの「北国ラーメン」か、同志社まえの、なかうか、下鴨あたりの吉野家か、ゆくのだ、同志社まえの「なかう」には、友人がバイトしており、商学部であたまのいいやつだった、下宿の友人の友人で、どばー、とカウンター^席にお客さんがはいり、「ぼくはなみ」「ぼくはおおもり」「ぼくはなみ」「ぼくは牛皿」と、口で注文を受ける。で、なんか、別のことを言われると、カウンターのバイトは一瞬にして、覚えていた注文をわすれる。ああ、わからなくなった・・。しかし、友人の西のというやつは、ベテランで、ウラでギュドンをもりつける仕事をしながらも、すべての注文が頭にインプットされていて「はい、あそこ並。こっち大盛り・・。」すべてのオーダーを処理。すごいなあーと関心しながら、単語のひとつ頭に入らないぼくは偏差値の差を感じたのである。一方、北国のラーメンは、強面のおじさんがひとりでやっていて、深夜、毎晩ぼくがゆくと、「にいちゃん、これのみ」とビールを抜いてくれた、スタミナどんぶりをいう、ホルモンを煮込んだおいしいドンぶりでビールをただでくれたので、それを飲みながらすっかりうれしくなり。しかし、ありがとうございました、と下宿にかえり、一本のビールですっかり酔っ払い、そのまま寝てしまった。ノートの間から昇る朝日。「やばーい!」時計を見ると。すでにテストの時間は終了。。。「やってしまった・・。」作業服を着て働く父の姿が頭の中をよぎる。急いで、学校にゆき、先生に謝りにゆくと、スペイン人の先生はやさしく、「次の私の担当する法学部のテストの一番まえでうけなさい」といって、テストを受けさせてくれたのだ、廊下の向こうには友人たちが「おい、テストどうしたんだ」と、言って心配していた、テストがなんとか、終わると、次は帰省しバイトが待っているが、とりあえず、寝るんだ、どうしようもないくらい眠いなんと、36時間も寝てしまった、先輩が死んでるのかと、心配して起こしに来たあの時の恐怖の朝は何回も何回も夢にでてきた、それがテーマに、歌もあるのにはおどろいた、この歌はいいんです。ここ
2010.04.15
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平野博文官房長官は15日の記者会見で、14日付の米紙ワシントン・ポストが鳩山由紀夫首相について、47カ国の首相・閣僚が出席した核安全保障サミットにおける「最大の敗者」と報じたことに、「一国の首相に対し、いささか非礼だ」と不快感を示した。 記事では、鳩山首相を「不運で愚かな日本の首相」「お金持ちの息子」などと紹介した上で、オバマ大統領とは非公式な会談しかできなかったと指摘。平野氏は「たとえ10分であろうが、有意義な機会だった」と反論した。これは先日の「米国のいいなりにならない」というコメントの反撃。まあ、いいじゃないか、事実だし。基地はいらん!といえばいいやない
2010.04.15
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国土交通省は1日、6月から一部の高速道路を無料化するのに合わせ、有料区間で一定の走行距離を超えると料金が上がらなくなる「上限制」を導入する方針を固め、各高速道路会社と最終調整に入った。首都高速と阪神高速を除く全国の路線で普通車は2000円、軽自動車は1000円、大型車は5000円など車種に応じて上限を設定する。上限距離に届かない近距離の利用者にとっては、実質的な値上げとなる。高速道路の原則無料化を掲げた民主党のマニフェスト(政権公約)に反するとして、批判の声が出そうだ。知恵は自民のほうがあったのだな。意味なし法律がどんどんできるみたいです。前のほうがいいやないか、と思います。
2010.04.15
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こんばんわ、みなさん。お元気ですか、たくさんのアクセスありがとうございます。300を超える平均となりましたが、あいかわらず、通過してゆくだけですね、まあ、いいっすよ、しかし、ひも理論とはなんだ?宇宙をひとつのひもとみたててどうのこうのらしいが、まだまだ、わからないことが多い。科学が急激に進歩したのもここ100年だし、いまある、携帯電話や灰ぶり車やパソコンもこの10年たらずではないか、だいたい、なんで携帯電話が存在できるのか、論破できるひとはいるのか?といいたい、なんもしらんと、当たり前のように使うガキドモ、無人島へいってそれらを発明してみろ、といいたい。ぼくもできませんがね。ひも理論よりも相対性理論や量子力学、素粒子なんとかの物理のほうが先に学ぶべきですが、物理は難しい。偶然に出会うこともひも理論では当然のことなのか、学生のとき北海道をひとり旅して。出会う人を記録していった。100数人のひととであい、話をした。その中で、何回も何回も出会うひとがいたり、四国の宇和島を旅しているときであった自転車青年が釧路の港を自転車では走っているのをみたときは、お互いにびっくりして氷付いたのを思い出すんだ。京都の嵐山で出会った神戸女子薬科大学の学生の女の子が三人いて、そのうちの二人と、浜頓別のある道でばったりとであったときはお互いに指をさして口があいた。それも丁度、交差点のような、ところで向こうから来た彼女たちと、こちらから行く僕ひとりそれがその地点で出くわす、偶然であるのにはおどろいた。それで、泊まるところも浜頓別のYHであるといい、原生花園に一緒にあそびにいったのである、その原生花園に行く途中に僕の大学のクラスメイトの女の子がバイクで偶然、とおりかかり、合流した。クラスメイトの女の子とは北海道の礼文島で会う約束をしていながらぼくがすっぽかし、いかなかった、そこで、クラスメイトの女の子は運命的出会いを果たす。今のだんなさんと出会うのである、このだんなさんがまた、物理の世界の学生で、宇宙開発事業団にはいりNASAにもおったらしい。しかしながら、浜頓別のYHでは再び再会がまっていて、津田塾のかしこい女子大生二人組みと出会うのであった、彼女たちは「りんこう」といって自転車と鉄道で旅をしていた、まず、ぼくがそのたびの起点とした、積丹のかもいYHでであう。そのときは気にはしなかった、二日後、札幌の駅でであうのであった、まあ、またあったね、でおわり、その後、ぼくは利尻島へとむかうのであるが、これも事情があったのだが省略。そのフェリーでもばったり津だ塾とであう。それで三回目、で、浜頓別で四回目の出会いを果たす。そして、今度は富良野ホワイトYHで泊まると、そこにも現れた五回目の再会。ふたりは、あのスカイラインの宣伝のなんとかの木を探していたとか、それで、終わると思いきや、就職し、本社が三鷹のほうにあるので、吉祥寺の駅のホテルにいると、駅の前にみたことのある、ああ!またであったね、それで二回ほどあって、ここまできたら普通は結婚まで行くのだろうけど、いかない、そこで終わるのである、ぼくは仕事のことで頭がいっぱい、しごかれてとばされ、もう、再会はしなかった、もしかして、再会していてもきずかなかったのかもしれない、そういう同期化する心をもっていたのだとおもう。引き寄せる力みたいなのがあったのだろう、浜頓別に話を戻すと、ほかの男子たちは、偉い僕の周りに女の子があつまっているのでいぶかしんるんだね、そのとき、神戸薬科大学の女の子が電話しながら泣いている。実家の和歌山に電話し、祖母が死んで、葬式だという、もう、間に合わないけど、実にへこんで落ちこんでいるのだ、大好きなおばあちゃんがなくなり、そのときにいなかったとは、ぼくは、肩を抱いて、慰めた、「そんなことはないよ、明日かえればいい、札幌まで送ってあげるよ」僕は翌日、彼女たちを送るために札幌まで浜頓別から移動し、無事に帰れることを祈りながら見送った、彼女たちとは神戸で何度も会ったが、僕のほうが余裕がなくなりあえなくなった。言いたいことの半分も言えない、女の子と話することもできなかった僕は、なんとか克服し、話ができるようになって、でも、その先はなかなかゆけないのである、初恋のみゆきちゃんは、そのころ、結婚へと向けて動いていたのだ、出会い別れていても縁のあるひとはまたあうし、会わない人もいる、その会うこともなんかの理由があるんだろうけど、なかなか、その意味を理解できるほどの人間性は備えられない。浜頓別も積丹かもいも、富良野ホワイトのそれぞれのYHはもうすでに何年も前に閉鎖されてしまった、さみしいかぎりである、北海道でであった人々、今は、どうしているだろうか、僕は元気で生きています。また、会えるひまで
2010.04.14
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こんばんわ、みなさん、お元気ですか?本日は7年目の開業日でしたが、ひまでした。こけそうです、昼はそこそこくるのですが、まあ、これからがんばります。寒暖の差がはげしい今日この頃、今日も何台も何台も、霊柩車をみたね。ああ、この人の人生はどういうもんだったのか・・。と、いつもおもうのです、縁起でもないとかいいますが、僕はそうはおもわない、いつも、声をかける、心の中で「お疲れさん、人生」再び、魂の世界にもどり、次元の違うところにゆくんだね、そこはどこかしらないが、神戸市バスの広告に、「直葬」15万、とか書いてある。葬儀屋の世界も価格競争、デフレ化否、ここまできたかよー、おいおい、と思うのです、日本では焼いて埋葬しなきゃいかん法律があるみたいですが、なんだかなあ、と思うのです。今日、ベントウの配達をしていると、前方路地から軽が出てきた一旦停止するかどうか、で僕のほうが先に直進、しかし、軽は、無視して、僕のバイクのほうへ、止まるだろうと思うけど、とまらない、後ろの荷台に追突。ぼくは、よろけながら、驚いて停止、後ろの車もびっくり。バイクを止めて、すぐに、後ろの車のひとが「あいつ、にげようで・・。」僕は驚いたが、自分のバイクはほとんど無傷、これも不思議。バックしたが、いない、しかし、次の配達にいかないと、で、あきらめて店に帰る。どうみても、おかしな運転であった。以前にも驚く光景を二回見たことがある、追突し他事故現場で、二台とも何事もなかったように去っていったのだ、しかも、二回も、僕の部下だった社員も、ひどい経験をしていて、信号を待って、いると、後ろから車が追突、もうかなり古い車だったので、ぼろぼろになり、降りようとして相手を見ると、教習者、しかも、そのままダッシュで逃げていったのだ、しかし、ここからが信じられない行動、ぶつけられた部下は、そのまま、運転、中古車センターにゆき、新しい車を購入し、それを廃車にしてもらったそうだ、心が広いというか、もうひとつ、事故で思い出したのが20年ほど前、抗ヒスタミン剤を飲み、車で運転、渋滞の道でうとうとしてしまい。前の車にぶつけてしまった、降りて誤り、警察にきてもらい。その人は会社がすぐ近くで、不動産の怪しそうな会社。とりあえず、車は保険で、体のほうは医者にみてもらうということで、夕方に実家電話あり、車はもう古いのでいい、ということ、診断も大丈夫だったとのこと、それで、レントゲン代だけ、だしてくれればいい、とのこと。ぼくは、翌日その人の家まで誤りとお金をもったいゆく、「本当に、ありがとうございました」と、彼はいうのです。ぼくは、ぶつけて感謝されるというのはどういうことなんだろうと、思っていると。「会社を辞めたんです、ひどい会社ということがわかったんですよ。」彼は転職したばかりで、大阪で編集の仕事をしていたが、転勤を拒否し、転職。その会社には二日目だったそうで、会社のひとは、みんな、事故のことをいうと、「くびがいたいといえ、体がわるくなったと、保障をしこたまもらえ」と、言われたのである、そういうことをいうひとばかりなので、怖くなって、それで、やめた、大学の夜学に通い、人生をやりなおす、踏ん切りがついた。というのであった、ぼくは、おどろいた、そういう、縁もあるのだな、とね、
2010.04.13
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こんばんわ、みなさん、全堺のいや、堺でなかった、世界のみなさん、ドイツもあなたもごくろうさん、イタリアのあなたもご苦労さん。昨日は米軍空軍のひともきてくれました、何か御用はありましたか?普天間については言及していません。昭和の時代はげんきだったなあ、と思い出す今日この頃。その話はおいておいて、今日はあの日です。4月13日。2003年、イラクに米軍が侵攻をし、泥沼のイラク戦争を始めた、そのころ、私たちは、長七食堂を開業したのだ、全然関係ないが。4月13日というひが、頭にのこっていた。2月の末にそれまでやっていた、某大手のベントウやのFC営業をしていた、が、立ち退き問題と、ざまざまな利権のトラブルがあり、かなりのお金をどぶにすてるようなこととなり、再び、一から店をすることになった。神戸市の融資を申請していたが没にされ、途方にくれていたころ、義理母と義理弟が開業資金を貸してくれた、なんとか、オープンのめどがついたものの、さまざまな問題がおきて、たいへんでんした。4月13日は友人の誕生日であったのだ、しかも、二人も、なおかつ、みゆきちゃんがすきだった、西条秀樹の誕生日だった、まったく関係ないんですが、店が閉まっている間、妻と、前のベントウ屋の顧客さまに一軒ずつ挨拶にまわり、200軒ほどまわり、足がくたくたになった。新しいバイトもはいり、心機一転。近所の人々がどんどん、開店祝いをくれた、お客さんが開店祝いで数万円くれたのは本当に驚愕すべきことだった、どこかからきいたのか、ファミレス時代のバイトのひともきてくれた、しかし、お客さんが殺到し、売り上げが3倍にもなった、通常20時閉店であったが、殺到するお客さんで22時すぎまで店をしめれなかった、というものも、営業がつぶれて時間がかかりすぎたのだ、一番まずいオープンであった、数々の店の新規開業をしてきて、営業が遅れてしまうのが一番まずい、すぐに売り上げが落ちるのである。案の定、数週間もたたないうちに売り上げは落ちた。それでも何とか七年やってきた、死に物狂いです。今日も土砂降りの雨の中、配達しまくりでした。明日からもまたがんばりたいと思います。ところで、話は変わりますが、コンサートでよく光るペンライトを振りますがこれは西条秀樹の発明です、コンサートに光るものをもってこい!とファンにいったそうです、あるファンは、さばをもっていたそうです。ということで、おわり、最後に彼の歌を聞いてください、ヤング万
2010.04.12
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上野さん、いいバンドでした。ほんものです。30年たってもいい音楽です、もう一度!ここ
2010.04.12
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この映像のばっくに、バッドボーイズのドラムセットがうつる。財津さんがまったくうつらないというすごい映像、姫野さんわかい。ここ
2010.04.12
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この歌をイルカさんは歌うのをためらい、辞退した。この歌のすごさを感じていたらしい、楽屋でしょうやんが説得し、歌うことになった、色々な人の胸になかにある、それぞれの物語。駅でのわかれ、この歌もせつなをかんじる。ここ
2010.04.12
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暗い歌ばかりはやっていたのだが、当時も今のこの独特の世界観。が、好きです。哀愁の歌の、ギターのせつなさ、なんで、あんなに「せつない」時代だったのかせつな で生きるからなのか。ここ
2010.04.12
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下宿の隣から聞こえてきた、ギターの音。窓を開け、歌の本をみながら、歌う彼を思い出す、ここ
2010.04.12
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こんばんわ、みなさん、本日も一日おわりました、学生のころはラジオでこの時間はFMをきき、ステレオでクロスオーバーイレブンかジッェットストリームを聞いたものです。城タクヤさんの放送がよかったし、飛行機のたびもいいのだ、クロスオーバーイレブンを聞くたびに、洋楽を聴くようになりました、80年代の音楽は実に多彩、売り上げもいまの10倍はあったのではないか、下宿でいつも話していたのは、福井の友人が、いかに地方のFMがないかこんなに周波数あいているのに、米国のようにがんがん24時間放送が桁違いにあり、日本の電波郵政事情は実に遅れていたのだ、それに業を煮やしたのが、大学生などのミニFMであったのだ。自分たちでやればいいのさ、いとも簡単に、いうのだが、なかなか、うまく行くわけ無い。電波を飛ばす、ということはたいへんなこと、しかし、今、FMをマンションで聞こうとおもっても、コンクリートが分厚くて、高層ビルも多く、色々な電波が飛び交い電波事情は最悪な状態なのであーる。テレビがデジタルの移行するのもそのあたりがあるのかもしれない。昔はみんな木造だったし、リモコンのなかったし神戸といえば、高層ビルは貿易センター36階だけだった、そういうことで、radikoというのができて、パソコンでラジオが聞けるようになったのだ、これも色々弊害があるのだが、既存の放送局との問題で、地域の人しか聞けないようにしている。ぼくにしてみれば、ニッポン放送など聞きたいのだが、神戸ではあかんのです。テレビも全然見なくなったし、ラジオも壊れたまま放置してるし、ミニラジオは感度わるいしね、しかし、震災のときはラジオはたよりだったよ、絶対ラジオをなくしてはいけない、カーラジオからの情報は貴重なものです、しかしなあ、ラジオもつまんないからな・・。
2010.04.11
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かめさんのいもうと、いい歌です。ここリッキー(さっきのバッドボーイズとちがう)この歌¥もさいこいです。ここ亀渕友香ゴスペル歌手、ボイストレーナー。北海道札幌市生まれ、その後東京都で育つ。実兄は株式会社ニッポン放送取締役相談役の亀渕昭信。叔母はジャズシンガーだったという(『徹子の部屋』より)。1968年、R&Bグループ「リッキー&960ポンド」のボーカルとしてデビュー。1980年、米国人と結婚のため渡米。1987年に帰国し離婚後、音楽活動を再開。ジャズライブ、ミュージカル、映画音楽、テレビ出演などの活動をしながら、ボイストレーナーとしても多くのミュージシャンを手がける。 1993年、ゴスペルグループ「亀渕友香&The Voices of Japan(VOJA)」を結成。 現在もライヴ、コンサート活動、アーティスト楽曲コーラス、TVバックコーラス、小中高校での芸術鑑賞会など、幅広く活動中。 2009年より、ソロライヴ活動を再開。ジャズスタンダードや、アコースティック編成など様々なジャンルでライヴ活動中。1998年から2006年まで「VOJAコーラスアカデミー」の学長を勤めた。 2007年には「VOJA Voice Art College」を開校。校長を勤める。
2010.04.11
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オフコースも伝説になっているが、バッドボーイズも伝説だ。リッキーがHPを書いてくれているので、その略歴はそこでここリッキーの歌
2010.04.11
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ザ・バッドボーイズ チークを踊ろうこの歌は吉田拓郎がつくったんだ、大阪で活躍していた彼らをみとめ上京させたのはあの上野博さん、当時、オフコース、杉田二郎、イルカと、このバッドボーイズがその事務所にはいる、その事務所の名前は、杉田二郎さんの犬の名前、ええ、と、わすれた、思い出すから、ここ当時伝説のコピーバンド。
2010.04.11
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これもいいです、ここ
2010.04.11
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これもおすすめ、いい音です。ここ
2010.04.11
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ボーカルは松尾ジュン、松尾さんはうまい、ほんと、うまいボーカル。松尾さんは決して、その後、「ジュン」といわれるのを嫌った。ここ
2010.04.11
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こんばんわ、みなさん、お元気ですか?僕は疲れています。昨日はいい天気で、20度まできましたね、春の風がここちよく、あの歌が頭の中を流れます、尾崎亜美の春の予感。尾崎さんのイメージは、「春」ですね。ハスキーな声と、独特な旋律ラインが斬新でした、そういえばですね、奥さんと僕が会話していたのですが、春になるカネボウとか資生堂とかがですね、コーセーもそうですが、新卒の女の子がこぞって化粧しだすので、それ目当てのCMがいつからか、なくなったなあ、とね、化粧も高校からがんがんしてるんで、もう改めてやることもないか、1977年、いまから33年前、このCMは覚えています、ここ小林麻美さん、かわいいです。いま、どうされておるのか?現在は芸能界引退されています。長い黒髪が素敵なひとでした、僕はいまだに長い髪のストレートの女の人が大好きです、もう絶滅危惧種である、いない、春の風にそよぐ髪を手で押さえながら、歩く姿は昔はよく大学でみたものです、フランス語学科に相当な美人がいまして、階段ですれ違ったり、ピロティーで見かけたろするのでした、その人は尾崎さんというかたで、卒業写真の個人のところに隣接していておどろきました。尾崎つながりで思い出したのです。なんか、今の女の子たちをみていると、オヤジ化現象で、歩きタバコは平気だし、もう文句いわれずに吸えるのはそこだけかもしれないが、風俗の女の子のほうがまともな格好しているんだね、実のところ、この現象は危険だとおもうのですが。
2010.04.10
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こんばんわ、みなさん、昨日は近隣の菊水小学校の解体の記事を書きましたが、全国で7000近くの学校が廃校となっている様子。廃校統合にする理由は少子化の理由に他ならないが、その町の「活力」「経済力」を物語るとおもうのだ、まず、子供のくつ、くつした、服などの衣類、これは数年で大きくなるから、新しいものが必要、むかしは、「おさがり」がおおく、親戚のひとからもらう、というものがおおかったが、ランドセル、机、ノート、いろいろなものが必要、どの小学校の前にあった、「文房具屋」これもなくなった、みなくなった、子供たちが通う、駄菓子や、これもなくなった、90ちかい、おばあさんの家にベントウを一食すつ、配達していたことがある、ひたすら駄菓子やをし、夫は戦争で亡くし、「子供三人、育てタンや・・」そういっていた、駄菓子やの金のおつりがわからなくなっても「子供たちが店にきたら、お菓子ないと、かわいそうや・・。」そういいながら、長い間やっていたが、娘からSTOPがかかり、とうとう店はたたんでしまった、長屋の店は、つぶされ、駐車場になった。おばあさんはもうだいぶ前に引き取られ、どうしているかわからない。子供たちはスーパーか、コンビニでお菓子を買うのだが、そこにはあのおばあさんのような人はいない。たいてい、文房具屋さんや駄菓子さんのなか、悪さをするがきもでてくる、万引きだ、でも、そんなときも、きちんとしかって、注意されるんだ。いつもあの店の前をとおるとき、そういうドラマが昔あったんだとおもう、この世界が続く限り、この日本はどこに向かうのだろうか、大切なことがココロのソトへ毀れていないか、みんなの大切な学校がつぶされてしまい、悲しいといっていた子供を思い出した。思いでは心の中にあり、遠くに思う物なり、いつでも、風のように思い出すんだ、そう、言いたかった。ここ
2010.04.09
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イタリアンハンバーグとカボチャトヤサイノハーモニー580円、ライス、みそしるがついてます。
2010.04.09
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HP 解体が始まった二月、窓枠や中の黒板などがだされていった、校舎の菊水のマークがみえる。大正9年誕生した菊水小学校。その年といえば、85年ほどまえ、ソ連はまだない。出来立ての鉄筋校舎。昭和13年、まさか、廃校になるとは誰も予測がしなかっただろう、震災のときは多くの人、避難所になったんだ。そして、昨日解体作業は完了。多くの卒業生、何万という人間を送り出した学校。なんで、日本はこうなるんだね。ありがとう、菊水小学校校舎。
2010.04.09
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こんばんわ、みなさん、お元気ですか、昨日は久々休みですがお得意さんの予約が入りすこしだけ、仕事でした、馬場俊英さんがすきそうな、夕陽だったな、今日の夕焼け。きれいな空だった、夕焼けはすきだ、一日がおわる、太陽が最後に輝く、あれがいいんですね。ぼくが、洛陽を見にいろんなところに一人旅いったものです。下宿の隣の友人が交通事故でなくなった、次の春休み、バイトを少し休んで、四国に旅に出た、そのころはもちろん瀬戸大橋なんてのなない。まずは、神戸の青木にある、いや、あった、フェリー乗り場から徳島や愛媛、高松へ向かうフェリーがあった。トラックなどがたくさん集まり、シーズンとなると43号線まで車の帯がながれる。そのフェリー乗り場も震災でダメージを受け、淡路の大橋も瀬戸大橋もでき、需要も減り、六甲アイランドと中突堤に移設され、モールになっている。四国に行こうとおもったのは、父親が単身赴任で高松の新工場の責任者として赴任していたからだ、フェリーで高松にゆき、栗林公園の近くの父親の住処にいった、数多くの従業員とともに、寝起きをしており、そこでとまらせてもらった。そのフェリー乗り場の思い出だが、ここによく来る、ドイツのH氏の母親の実家が徳島にあり、彼はそこへ遊びに行くから、フェリー乗り場まで付いてきてくれ、といい、僕の実家は御影だったので、ついていったら、「たのむから、一緒にきてくれ」と彼はいうのだ、丁度、GWの休みで家に変えるつもりがそのままフェリーに乗って、まったく知らない人の家にやっかいになることとなった、小心もののぼくは、何日もただ飯を食うのがいたたまれず、数日で帰ったが、それから、春の旅を思い出すと、みたいのは、岬めぐりのあの「足摺岬」の落陽が目的であった、雄大な太平洋の落ちる太陽を見たい。それを願い、はるばると、高松から高知へゆき、高知では念願の桂浜の竜馬の大きな像をみて、なんとか、バスでたどり着く、誰もいない岬は、「自殺防止」の看板もあるし、その道を通れば必ず結ばれるという何とかという道があった、ちなみに、数年後、彼女を連れて、そこまでゆくが、見事に振られたので、それはうそであった。ぼくがしたかったのは、夕陽にむかって、ばかやろ^-といいたかった、まじめに荘おもった。なんで、お前は事故で死ぬのだ!ばかやろう、と、友人に言うつもりだった。そんなことをしてもつまらないことだが、
2010.04.08
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天王川に土手沿いの桜、きれいにきてます。 」昨年、廃校となった菊水小学校、解体がおわり、さらちになりました。これはチキンタツタ、桜にほんだけのこしてくれました。
2010.04.08
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あんべさんの歌はとても哀愁を帯びて、いいのです。kNEW BEST 1500 あんべ光俊 ここ
2010.04.08
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こんばんわ、みなさん、三寒四温の季節のハザマで桜は戸惑いながら散り行くものは実に侘びなのでしょうか、今日、新しく来た米の袋を見ると。福島、白河とありました、白河でできたお米であります、農家の方に感謝。白河といえば、あれです。白河の関であります、松尾芭蕉の「奥の細道」でありやんす。1644年誕生の芭蕉は、三重県の伊賀上野の生まれ、ここで「シンクロ」するのですが、まあ、一句、山里は 万歳遅し 梅の花郷里の伊賀に帰り、ふるさとの山里は梅の花も遅く咲く季節を詠むのだ。そう、ここで、「シンクロ」するのだが、僕の大学時代の友人の女の子がいるのだけれど、この伊賀上野の老舗の和菓子屋に嫁にいったのだ、老舗といってもすさまじい老舗であって、400年以上の老舗なんですね。僕は、地震にも興味があり、幕末のあのおそろしい三連発安政の大地震、あの大地震の引き金となったのが、伊賀上野大地震(1854)。これは芭蕉の時代からかなりあとで、内陸型の直下型地震、この地震のことをその友人に尋ねてのだが、「たまたま数年前に新築していて、大丈夫だったみたいよ」と、昨日のことのように話すのでまた驚いた。160年前のこともきちんと子孫まで言い伝え昨日のことのように嫁は話すのだ。僕の家はまったく、慶長七年の地震については言い伝えもなく、阪神大震災が来るとは夢にもおもわなかった。で、この老舗のお店が「桔梗屋」といい、桔梗の紋といえば、あの明智光秀、そして、今話題の坂本竜馬。この店に、芭蕉もきたというから、おどろきである。なんで、400年も存続したのか、まあ、僕の憶測であるが需要のバランスであるとおもう、藤堂高虎といえば、司馬遼太郎の歴史小説ではあんまりよく書かれていない、特に、大阪冬の陣夏の陣を題材にしたものでは、家康に擦り寄る高虎を絵がかれ、藤堂家の惨敗なども書かれている、なんで、あの四国の海の要衝の土地、今治から伊賀上野に移されたか、それは大阪の背景にある要衝の土地で、木津川、淀川を使うと、大坂へかなりの兵を送れる、しかも、さんざん、信長を悩ました忍者のち。そして、本能寺の変のあと、家康が堺から岡崎に戻る途中、危うく命をおとしそうになった、そのいわくの場所に高虎を入れたのだ、家康は絶大なる信頼を高虎にゆだねる。余談ながら、話それまくりのですが、鳥羽伏見の戦いで一番に寝返りを打ち、敗走する幕藩兵に銃を反転し浴びさせたのも藤堂家、歴史は繰り返す。ええ、と、何の話だ?元に戻しまして、しかしながら、藤堂家は京の文化を吸収し、色々な文化サロンなどを形成し、茶の湯、俳諧などを大切にする環境を作るんですね、そこです、そのときでるのが「茶菓子」であるのです、そこがポイントです。ベントウやの親父が米の産地を見て、白河とあり、芭蕉を連想し、芭蕉から伊賀上野を連想し、伊賀上野から、友人の店を連想し、友人の店の歴史のありようを妄想したのである。ああ、なんと、悠長な・・。しかしだ、400年の間には幕末維新の動乱、大正の米騒動、昭和の戦争、色々苦難があったはずじゃあ、しかし!今が一番やばい時代だと、嘆いていた。今の世の中の動きとグローバル化である、これが大変であると申されるのじゃ、まずは、原材料の高騰。あずきと砂糖なんですが、国産あずきはすばらしいものなんですが、ここにあの中国あずきなどが入ってきて、安いだけの菓子が出てくるのである。それと、観光が海外にシフトし、田舎の城や忍者屋敷などみに来る人は「激小」しているのである。米の袋から観光客の激変について、話が飛びまくった。花鳥風月を愛し、風のように生きた芭蕉。彼の生活が成り立ったのも、江戸という時代がある意味、教養ある文化を愛する富裕層があったということ、すべてのものは関連し、すべての道はひとつに通じる。it was Synchronized.ここ 通販もしてますので、どうぞ、ご利用ください、みるくはちみつとうふはすんごくおいしいです。
2010.04.07
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この歌はすばらしいのだ、魂がテーマであるの、ここ
2010.04.07
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この歌は小田さんの作品のなかで、心あふれた、すばらしい歌。友人の愛や家族の愛や、大事なものを教えてくれた、歌のちからはすごいんだ、ここ
2010.04.07
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この歌はあいつにささげよう。ひとり、ギターで下宿で弾いていた。隣の部屋から聞こえる歌は、下手なギターと彼の歌声、いつまでも、忘れんばい。ここ
2010.04.07
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この歌の歌詞はとてもいいのだ、若者への歌だ。君があるけば、そこに必ず、道はできる。 ここ
2010.04.07
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sakura が散るときこの歌が流れる。 ささやかなこの人生1976年に発売。
2010.04.07
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