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必要が生じたため、気が進まなかったのだが、書類を読むことになった。いや、読む、というほどのことではなく、単に眺める、という程度のことに過ぎないが、内容に目を通さずに承認するわけにはゆかない状況になった。ほんとうは、内容を見るつもりすらも無かったのだが、「至急、承認してください」と言いながら僕のオフィスに入ってきたクリステルが、僕の横にいて、僕が、該当書類(ウン百行の電子データ)を読んでいる(正確には、読んでいるフリをして、眺めている)のを見ているので、しばし眺め続けるほかないのであった。それにしても、事務部門のデータというのは、どうして、こうも(僕には)理解できないように作ってあるのだろうか。いったい、どこを見たらいいのか。こんなデータを読みこなせるクリステルは、とても人間とは思えない。しかし、その後に、悟ったのであった。事務部門の方々は、僕のオフィスの机上にある書類のなかの、二階の偏微分方程式とか、装置の電気回路図などを、きっと、今の僕と同じ思いを持って眺めているに違いない、と。そうして、クリステルが、僕のことを、どんなふうに思っているか、が、瞬時に判ったのであった。うむ、御互い様、ということだろう。
2006年01月30日
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今日は、2006年01月27日である。そう、モーツァルト生誕から、満250年にあたる日だ。さぞかし欧州は、この日を祝う人々でにぎわっているだろう、と、御思いのかたもいらっしゃることだろう。自分自身も、その一人であった。最近までは。昨日の夜、僕は、レッスンの後に、先生(つまり、C嬢)に尋ねた、「明日、1月27日は、どういう日か、ご存知ですか」、と。それに対する彼女の答えは、「ええ。金曜日です。」だった。それから、今朝。超美人秘書に尋ねた。「今日、1月27日は、なんの日か、知ってる?」「ええ。もちろん、」という答えに、さすがは彼女だ、と思った僕だった。そして、その直後に、僕は、この感想が誤っていたことを知った。彼女は言った。「ええ。もちろん。週末の前日。」と。フランス人2人に尋ねた自分がいけなかった、と悟った。だから、次には、カテジーナに質問した。プラハ出身の菜園、いや、才媛が、モーツァルトのことを知らない筈はない。返ってきた、カテジーナの言葉は「たくさんの御馳走を、ゆっくりと食べる日」。うむ、モーツァルト生誕を祝うのだろう、さすがだ。「どうして?」という僕に、彼女は言った。「週末の始まりだから」。以上、僕のまわりには、2006年01月27日という日付から、モーツァルト生誕250周年ということを真っ先に思い浮かべる欧州人を見つけることはできなかった。騒いでいるのは、日本人だけなのだろうか。
2006年01月27日
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年が改まってすぐの時期に、アンネ・ゾフィー・フォン・オッターの“LAMENTI”で「アリアンナの嘆き」を聴いて以来、モンテヴェルディの作品も、聴かなくてはならないと思い始めた。同様に、『オベロン』の全曲盤を聴いて後は、ガーディナーによる、種々の演奏も聴いてゆかねばならない、と決意を新たにした。以上の背景に基づけば、今回、ガーディナー指揮による、モンテヴェルディの『聖母マリアの夕べの祈り』を入手したことの必然性は、自明であろう(ただし、何故か、ハニーは、僕の、かくも明快なる論理展開を理解してくれない)。今回、買ったのは、イギリス・バロック管/モンテヴェルディ合唱団による、1989年のライヴ録音[ARCHIVレーベル]。この作品を聴くことじたい、初めてだったのだが、とにかく圧倒された。曲の美しさ。合唱の素晴らしさ。オーケストラの音色の柔らかさ。録音の音質、残響、立体感。ケルビーニの『レクイエム』に比べると...といった感想めいたものが頭のなかに浮かびそうになったのだが、その直後、ヴェスプレとレクイエムとを比較すること自体がナンセンスであることに気付き、取り消し。そう、これは、ヴェスプレ。典礼の音楽なのだ。人間を圧倒する存在としての神にひれ伏す、という姿勢の祈りではなく、常に人間のまわりにあって、人間を-そうして、あらゆる「生」を-見守ってくれている神との、自然で濃密な交感。厳かだけれども、重苦しくはなく、明るく、澄んでいる。
2006年01月22日
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昨年たてた大目標が、あった。「できれば、今年末迄に、ミュンヘンの“Lucia-Popp-Bogen”に行くこと。」ところが、情けないことに、未達成であった。あるページに書いておきながら。いや、待て。必ずしも未達成とは言えない。理由(その1):よく読むと、「できれば」と、書かれているではないか。これは、「達成可能であれば、達成しよう」の意であり、「達成できなかった場合、それもまた一興」の意だと解釈できる。理由(その2):さらによく読むと、「今年末までに」とあるのみで、この目標でいう“今年”が、いったい何年なのか、明確では無い。うむ、なかなか巧妙に仕掛けてある。違うか。理由(その3):たしかに、ミュンヘンの“Lucia-Popp-Bogen”には行くことはできなかった。しかし、ポップさんゆかりの場所、それも、少なくとも2箇所に行ったではないか。ケルン歌劇場と、某ホテルとに。以上から、昨年の目標の達成率は、100%であったとは言えないものの、0%であったと結論することも出来まい。実際、算出してみると、達成率は「62.73%」となった。それほど低い値でもない。なお、上記達成率の算出法に関しては、業務上の極秘事項ゆえ、詳細を記すわけにはゆかない。大気圧、保有するCDの枚数、及び、体重を変数とする偏微分方程式に、大幅に直観を加味して編み上げた、画期的手法であって、「味噌煮込みウドンに関する実験科学的研究(第92報).中性子回折法による、麺の遊泳状態についての発作的解析.」にて報じた研究を行っている際のセレンディピティである、と記すにとどめる。
2006年01月18日
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ジャン・クロード・マルゴワール指揮、La Grande Ecurie et la Chambre du Roy(王室厩舎 王室付属楽団)による、モーツァルト『レクイエム』.この指揮者とオケには、1986年のジュスマイヤー版による録音がある。ただし、僕は未だ手に入れていない。それよりも先に、今回、自宅の近くにあるCDショップで見つけ、「K617」レーベルから2005年に発売された一枚を購入した。SigmundSigismund Neukommなる人物により、1819年にリオデジャネイロで作られたという、“Libera me”が、最後に加わっている演奏(このCDを買うまで、そのようなバージョンがあることを、僕は知らなかった)。なにやらキワモノに近しいものかと、なかば警戒しつつ、聴き始めた。オケが小編成であるぶん、歌い手の声が、よく聴こえるし、すっきりとした演奏で、嫌味がない。そうして、“Lux aeterna”のあとに続く、“Libera me”.これは、すごい。素晴らしく、劇的。ここを聴かせるために、マルゴワールは、それ以前の部分(つまり、普通に演奏される場合の、『レクイエム』の全体)を、故意に抑えた作りにしたのか、とも思えたほどだ。演奏会として聴くことができたら、さぞかし感動的だろうな、と思いながら、聴き終えた。そうして、その直後に、驚いた。拍手に。なんと、ライヴ録音だったのだ。音質の良さも、極上。
2006年01月15日
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モーツァルトの、「ヴァイオリン、ヴィオラと管弦楽のための協奏交響曲、変ホ長調」K.364.ダヴィド・オイストラフ(指揮とヴィオラ)、イーゴリ・オイストラフ(ヴァイオリン)、ウィーン・フィルによる、1972年のライヴ録音。僕は、自分がこのCDを持っていることを、知らなかった。より正確に記せば、昨年、ポップさんのモーツァルト『レクイエム』を聴くために、三枚組のCD“VIENNA PHILHARMONIC (1972-1981)”を手に入れたのであったが、『レクイエム』以外のディスクに何が収録されているかを、僕は、気にもしていなかったのだ。そして、協奏交響曲が収録されていることを知ったのは、昨晩、つまり、手に入れてから約10ヶ月が経ったあとだった。このCDが、納豆とか、味噌煮込みうどんで作られていたら、賞味期限が過ぎてしまっていたであろう。実に、あぶなかった。買ったディスクには、ICタグを応用して、在庫管理をすべきかも知れない。うむ。ところで、協奏交響曲(K.364)。この曲を、あまりに思い入れたっぷりに、ゆったりと演奏されると、僕は、なにか胸やけのような気分を覚えるのだが、上記オイストラフ盤、軽快なテンポが心地良い。第二楽章の冒頭等が、もう少し速くてもいいかな、と思えたし、また、録音が立体感に乏しいと感じられたのでもあったが、もちろんこれらは、素人のイイガカリに過ぎない。全体に、すっきりとして、後味のいい演奏だ。ただ。やっぱり、あの演奏のほうが格段に素晴らしい、と改めて思った。“あの演奏”とは、過去に(ライコスダイアリの時期に)も書いた、五嶋みどり、今井信子[御二方の敬称を略します]の御二人と、クリストフ・エッシェンバッハ指揮/北ドイツ放送響による、2000年の録音[SONY].名手三人-オケも数えて、“四者”と書くべきか-による、きわめて理知的で、しかも、つややかな演奏で、何度聴き返しても、聴き飽きることがない、極上の一枚。もちろん、当地に持参してある。
2006年01月14日
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ごく一部の人々のあいだで(例えば、同僚である美女たちや、超美人秘書のあいだで)広く知られているように、僕は、仕事柄、仕事をしない。この僕の状態を見かねた彼女たちの画策があるのではないかと推定される。次々とレポートが送られて来る背景には。今年こそは、なんとしても、この現状を打破することが必要である。オフィスでの睡眠時間を確保するために。ならば、どうするか。感嘆である。いや、簡単である。僕の替わりに仕事をしてくれる人間を、新規採用すればよいのだ。そうすれば、一日中、オフィスで眠っていられるし、出勤すら、不必要だ。以上の、一分の隙も無いストーリーの下に、極秘計画を進めてきた。しかし、である。どこかで、ストーリーが少々狂った模様だ。なにゆえに、一日に百人分の履歴書を読まねばならぬ事態になったのだろう。この事態を、解決せねばならぬ。おお、そうか。僕の代わりに、それらの履歴書を読む人間を採用すれば、よいのだ。なんと、簡単で、確実な解決法であろうか。うむ、一分の隙も無い。
2006年01月12日
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表題のCD、正確には、“Czech Danses, Bagatelles and Improptus”というもの。Regisレーベル[RRC 1223]から昨2005年に発売された一枚。録音は1992年と書かれているから、過去に別レーベルから出されていたものの再発売かと思われる(調べていないが)。チェコ舞曲(14曲)と、バガテルと即興曲(計8曲)が収められたCD。とても楽しい。録音も、くっきりとして、明晰。ピアノ演奏は、ラドスラフ・クヴァピルというかた。恥ずかしながら、僕は、このかたの名前すら知らなかったのだが、これまでに、チェコの作曲家たちによるピアノ曲の全曲録音を成し遂げているかたらしい。チェコ舞曲集ショパンの作品群に比べると、もっと、直截的で、躍動的な舞曲。また、ブラームスのハンガリー舞曲集と比較すると、より西欧的な印象。まあ、こうした記述は、個人的な印象に過ぎないし、無意味に近いだろうが。人工照明のコンサートホールで聴くよりも、陽光の射す戸外で聴いてみたいという気がする作品たちだ。“Little Hen”,“Oats”,“Little Onion”などといった題名も、いい。バガテルと即興曲どれも、独特の雰囲気をもっていて、聴いていて楽しい。なかでも、“Pohadka”(Fairy tale),“Laska”(Love),“Ravast”(Joy)の三曲が、面白い。
2006年01月10日
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表題のCDは、以前から気になっていながらも、とくに理由もなく、もたもたしていて、ようやく手に入れた一枚。“気になっていた”のは、モンテヴェルディの「アリアンナの嘆き」を聴きたかった(この曲自体、未だ聴いたことがなかった)から。ラインハルト・ゲーベル指揮/ムジカ・アンティクァ・ケルン。この指揮者とオケは、マグダレーナ・コジェナーと、バッハの曲などをも録音していて、そちらのCDは、一文字違いの“lamento”。さて、「アリアンナの嘆き」。なにも、申しません。(と書きながらも、以下を記すのは、矛盾であるが...)ただ、ただ、感嘆、堪能。曲に、フォン・オッターの声に、そうして、演奏の全体に。「アリアンナの嘆き」のみならず、そのほかに収められている曲のいずれもが、いい。
2006年01月07日
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我ながら(ということは、つまり、あえてハニーに言われるまでもなく)、尋常では無いとわかっているが、“一期一会”精神のためであろう、また、入手してしまった。『ヘンゼルとグレーテル』の全曲盤を、である。カラヤン盤。この指揮者は好みではないのだが、リタさんが歌っていると知っては、買わないわけにはゆかなかったのである。ところで、このカラヤン盤CDは、八種類めの音源ということになる[ただし、ヴェルザー・メストや、ショルティのDVDをも含めて]。この程度では、まだ、かなりの数、とは言えまい。もっとも、モーツァルトの『レクイエム』であれば、先日、55種類目と56種類目となるディスクを手に入れたので、すこし増えてきた、と言えるかも知れない。それでもなお、イメルダ・マルコスさんの靴の数に比べると、誤差範囲またはゼロと表現しても良いであろう。いかん、話がそれた。カラヤン盤。アメリカの、Allegro Corporation というところから、2002年に発売された二枚組CD。ライナーノーツの解説が、ポップス歌手のエンゲルベルト・フンパーディンクの本名(Arnold Dorsey というらしい)への言及から始まっているところが、いかにも、アメリカで発売されたディスクらしい。オケは、ミラノRAI交響楽団。そして、聴き始めて、驚いたのであった。録音がモノーラルであることに、ではない。1954年のライヴ録音なのだから、驚くのは不当であろう。それに、第二幕終わりのパントマイムの劇的なことは、素晴らしい。この演奏を会場で聴かれた方々は、さぞかし、楽しんだことだろうな、と思う。また、シュヴァルツコップ(グレーテル)、ユリナッチ(ヘンゼル)、パネライ(お父さん)、という豪華メンバーに驚いたのでもない。それでは、何に驚いたのであったか。歌詞が、イタリア語であったことに、である。“Abends, will ich schlafen gehn.”が“Se me serba a Dio fedel”では、気分が出ないこと、この上ない。とは言うものの、砂の精と暁の精の二役を歌った、リタさんの声は、堪能した。フィルハーモニア管盤も、そのうち、手に入れねばなるまい。何故、“入れねば”となるのかが、自分には判らないのではあるが。
2006年01月04日
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「人知れぬ涙」。昨年末、滞在していた隣国の某四つ星ホテルでTVをつけたら、流れてきた曲。もちろん、ドニゼッティの『愛の妙薬』。いい声。名前は知っていたが、歌を聴くのは、初めて。ロランド・ヴィラゾン。ひとめ見たら、忘れられない顔だ。アディーナが、可愛い。スチル写真では見たことがある顔なのだが、名前が出てこない。結局、クレジットを見るまで、思い出せなかった。アンナ・ネトレプコ。ウィーン国立歌劇場のライヴ収録を、終盤の、たかだか十分ほどしか観られない、というのも、運がわるい。いや、“クレジットしか見られなかった”というのに比べたら、遥かにいいか。ところで。クレジットを見終えた後、ほぼ無意識のうちに、テレビのリモコンに「巻き戻し」[あるいは「(前のトラックに)移動」]ボタンを探した自分に、呆れた僕であった。DVD依存症が、相当に進行している。いかんとも しがたい。
2006年01月03日
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Scientific American のウェブ版にあった記事。北米出身の複数の学生と中国出身の複数の学生とに、風景写真を見せて、それを見る際の視線を追うことで、状況認識のしかたを比べてみた由。記事の文脈からみると、調査は進行中である模様だが、前者は「より解析的」であった(特定の物体、対象に注目していた)のにたいして、後者は「一般に、より包括的(全体的)」であった、との結果になったらしい。結果としては、まあ、おもしろい(さらに、実験/調査を進めても、多少は意味があろうか)と思われる一方、出身地という、ただ一点だけの差に基づいての、挙動(状況認識)差を調べることに、さほど重要な意味があるとは思えないという気もする。さらに、意地の悪い見方をすれば、“出身国が違うのだから、挙動に違いがあるはずだ”という予断(固定観念)に基づいて行われている調査のようにも感じられ、まるで、数十年前の冷戦時代に(ひそかに)行われていたであろう実験に近しいものとの印象すら持った。 上記記事は、短いものに過ぎないので、調査がどれほどの母数に基づく結果なのか、判らないが、最低でも、個々の被験者のバックグラウンドなどの“個体差”をも勘案して行われたものだろうとは思う。ただ、それにしても、個人の生活をとりまく状況というものが、きわめて複雑になっている現在、「写真(刺激)-視線(応答)」の関係だけから「出身国(原因)-挙動(結果)」の記述を導こうという姿勢は、牽強付会とすら言えるようにも思われた。僕の、この印象のほうが、おかしいのだろうか。
2006年01月02日
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ウェーバーの『オベロン』も好きな曲だ。といっても、その序曲を何度かコンサートで聴いたことがあるのと、同じく序曲をクーベリック盤などのCDで持っていて、聴きなおすくらいでしかなかったが。この休みには、さいきん購入したガーディナー盤[2005年発売(PHILIPS).二枚組で22ユーロ(約3000円)]で、初めて全曲を聴いた。歌詞は、英語(ライナーノーツを読むまで知らなかったのだが、このオペラは、もともと英語で作られたらしい)。堪能した。録音も、実に立体的。素晴らしい劇音楽だ、どの曲も、が。とりわけ、合唱が、いい。第二幕、Huon, Reizaらが逃げる場面での四重唱。そのあとの、Chorus of Spirits.劇的で、躍動感にあふれる。Reizaのアリア“Ocean, thou mighty monster.”の、全曲の中での位置付けは、『魔弾の射手』での、アガーテの“Wie nahte mir der Schlummer”に相当するといってよいだろう(どうでもいいことだが)。二人(二匹?)の人魚の歌も、ゆったりと穏やかで、心地良い。どの歌手もいいが、とりわけ、Huonを歌ったJonas Kaufmannというかた(初めて聞く名前)の声がいい。物語の構成。登場人物は多いが、比較的、単純。もっとも、そうでなければ(つまり、人物が多くて、ハナシが複雑なら)観客は困るだろう。それから、“テレポーテイション”(笑)も使われているが、オペラを好む方々のなかに、これを反則だ、という人はいないだろう。荒唐無稽が許されるのが、オペラなのだから。ヨーロッパ人たちには、中近東という地域は、異国情緒とでもいった感情を抱かせる対象なのだろうと思う。だから、『ツァイーデ』や、『後宮からの逃走』などと同様に、『オベロン』でも、舞台にはアラブ世界が選ばれているのだろう(さらに、ワルモノを、欧州の外に設定しておくことで、近隣国との悶着が起こることを未然に防ぐ、といった意味もあるかも知れないが)。それから、聴き終えて、初めて判ったこと。『オベロン』という物語の発端は、俗な言い方をすれば、オベロンとティタニアの夫婦喧嘩なのである(このことは知っていた)が、このオペラには、役としてのティタニアは登場しないのである。なんとなく、肩透かしをくらった感じがした僕であった。
2006年01月01日
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