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僕は、囲碁というゲームをたしなむ。最初に覚えたのが高校時代だったが、ほとんど打ってないし勉強もしないのであまり強くない。せいぜいアマの2段くらいか。兄はその僕に5目ほど置かせるから、7段格でアマとしてはかなり強いといわれる部類にはいる。その娘、つまり姪は将棋で高校、大学と女流チャンピオンになって、奨励会に入ってプロをめざしたが念願はかなわず、今は小学校に勤めている。囲碁・将棋は実力の差がモロにでるゲームで、対等の条件で戦った場合、アマチャアのトップでもプロの最下段者にさえまず勝てない。どちらもしばしば同類のゲームとして扱われ、非常に奥が深いこと、プロがいることなどの点では同じだが、ゲームの特徴や性質はというと、囲碁と将棋は対照的といっていいほど違う。将棋を知っている子供と、囲碁を知っている子供は、おそらく十対一以上の比率で将棋に分がある。ところが、年配者を対象にすると、この比率は逆転、圧倒的に老人には囲碁のほうが多くなる。なぜ、一般的に子供が将棋を好み、老人が囲碁を眼むのには、大きな理由が2つある。一つ目の理由としては、将棋が一見わかりやすいゲームだという点が挙げられる。王様を取れば勝ち、という目的がはっきりしている。囲碁の場合は陣取りゲームなので、盤が広いうえ、どこに陣地を取るかは自由で、毎回毎回全く違う陣取り方法になってくるから、勝敗が数えてみるまでわかりにくい、ということがある。また、将棋は、局面がどんどん動いて、中盤になるともう「詰み」もある。つまり、常に波乱に満ちており、非常に刺激的だ。これに対して囲碁は、一局のプロセスが長く、刺激が少ないのでややとっつきにくい感じがする。将棋は王様を取るか取られるか、100対0か0対100かの勝負だが、碁は陣取りなので、49対51で勝敗がわかれるという、互譲的要素のはいったゲームともいえる。つまり勝負だけでなくプロセスを楽しむゲーム、という側面もある。つまり、徹底的に相手を打ちのめすのが将棋なら、全局的なバランスを考え、相手にも陣地を与えながら自分も陣地を確保していく、その道程を楽しむのが囲碁。陸上競技にたとえれば、将棋は短距離走、囲碁はマラソン、ということになるのかな。将棋は局地戦の積み重ねで、最後に王を追い詰めて勝負を決するわけだが、囲碁は大局観が大事で、互譲のバランスをとりながら、最後に少しだけ勝つというのが、本来のおもしろみだ。だから局地戦にこだわる人はあまり強くなれない人が多い。政治家には囲碁をたしなむ人が多いが、これは囲碁の戦いの局面には社会心理に通じる場面がしばしばでてくるためと思う。欧米型ビジネスには将棋をイメージし、東洋型ビジネスには囲碁がイメージされる。勝つか負けるかの二者択一のビジネスと譲り合っても最後に勝てばいいという違い。なぜ、このようなことを縷々述べるのかというと、僕が社会や仕事のなかで行動していることは、どちらかといえば囲碁の考え方がベースになっていることが多い。人付き合いにしても、相手を全肯定、全否定ということはあまりない。たいがいの人には、プラス面があればマイナス面もある。光と陰のようなもので、強い光があればそれだけ濃い影が生ずる。比較的、マイナス因子をもった人に興味をもつのは、それだけ隠れたプラス因子があるはずだという確信のようなものがある。これは囲碁というゲームから得た思想のような気がする。ということで、あまりにも実戦不足で強くなれない僕の囲碁であるが、こんな程度でもよいという人であれば、わが山荘でお相手を願いたい。お待ちしている。
2008.01.31
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高校時代に教わった、恩師といえる教師ふたりがご健在で近くにおられる。ふたりとももう90歳近くにもなられるが記憶力もたしかで、高校時代に僕のしたワルさをいろいろ覚えていてくれる(汗)。T先生は、先生の授業をさぼってワル仲間と学校下の川まで魚獲りに行ったときには、廊下に並ばされて教科書で頭をぶったたかれた。I先生は、やはり授業中に花見をしているのをみつかり、放課後の補習仲間に入れられた。そのふたりとも、卒業するとたびたび手紙をくれて、何かと心配してくれた。そんなことがあり、それ以来ず~っと親しくおつきあいしていて、ご自分の本を出版したりするたびに相談相手として呼び出された。教師からしてみれば、不良ほど可愛いということだったのだろうか。僕と言えば、その頃の癖が身についたまま今でも不良をしているわけだが、「不良」ということばも、考えてみれば幅が広いと思う。不良とは良くないから不良という。栄養がなければ栄養不良、消化が悪けりや消化不良、台風が来れば天候不良。菓子の袋には「不良品は取りかえます」と印刷してある。だけど、人間は生まれたときは不良も良品もあるわけがなく、それがいつのまにか良い人と不良に分かれるのは、世間の通念に適応できるかということなのだろう。世間には法律があるので守らねばならない。法に反すれば非行で、不良と非行は違う。見えざる道徳というルーールもある。労働の義務、税金支払いの義務、子育て、近所づきあいと数え出したらきりがない。戦後民主主義の標語のような「一生懸命働けばむくわれる」ということばを信じて、おめでたい半生をおくってきたが、そうでもないということに気づいてからは、残りの人生は非行にならない程度の不良ですごそうと思っている。若い頃に抱いていた50歳代、60歳代のイメージと、いざその歳を迎えてみた実感があまりに違った。「人生わずか50年」というコトワザに従えば、ここで一度リセットして、51歳を1歳と考えてゆけば、60歳は10歳、70歳にしてハタチとなる。100歳になれば第二の50歳で、人生が2回おいしかったということになる。チャップリンは73歳のときに子どもを作った。相手は4番目の妻である。アインシュタインは、ノーベル賞を受賞したらその賞金を妻に渡すという条件で離婚した。マルクスは家政婦に手を出して男の子を産ませ、脅迫されてエングルスの世話になった。ヘーゲルは家主の夫人に手をつけて、子を産ませて法外な金を要求された。先人の不良は、老いてますます色っぽいが、しかしまあこういった大物の不良にはなれそうもない。せいぜい「無印不良品」をめざすのである。といったことを恩師の先生方に言ってみたらどう答えるのだろう。はたして「好きなようにしろ」と言ってくださるかどうか。
2008.01.29
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ネーブルの樹の下にたたずんでいると 白い花々が烈しく匂い 獅子座の首星が大きくまたたいた つめたい若者のように呼応して 地と天のふしぎな意志の交歓を見た たばしる戦慄の美しさ! のけ者にされた少女は 防空頭巾をかぶっていた 隣村のサイレンがまだ鳴っていた あれほど深い妬みはそののちも訪れない 対話の習性はあの夜 幕を切った これは茨木のり子の詩だ。寺山修司は、この詩につぎのようなことばを述べている。ここに歴史に官能さえ感じている一人の女を感じる。私は彼女が空襲によってはじめて知らされた「意志の交歓」のすばらしさを、やがては人間との交際のなかで果すであろうことを疑わない。しかし、彼女は書いている。 わたしが一番きれいだったとき わたしの国は戦争で負けた そんな馬鹿なことってあるものか ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた それにしても、毎日水道が凍ってします。毎日、マイナス10度以下の日が続くとは氷河期にでも、戻るのか。
2008.01.28
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川柳での師である時実新子について書いている。そんなわけで、彼女(先生)の語ったり書いたりしているものをまとめて読んでいるのだが、なかなか含蓄のあることばがつぎつぎにでてくる。若い人の中には老人を「老人」という特別な人種のように括る人がいる。誰が初めから老人であるものか。老人の胸のうちには青春の血も壮年の血も現存しているのだ。それらが発酵し練り上げられて、完成に近い人間になっているのだ。尊敬に値する存在なのだ。私が影響を受けた人たちに共通するものは、ある種のヤクザっぽさであったように思う。ヤクザは礼儀正しい。人情に篤い。一匹という意識に生きている。ヤクザは約束を守る。いつでも狂える真面目さを持っている。何よりも強烈な個性を秘めている。もちろん私のいうヤクザはその辺のチンピラではない。大親分の立姿である。ほんとうのつらさは真昼間に襲う。夜の孤独やつらさはそれに比べて平凡だ。指のキズの痛みは指を切った人にしかわからない。ついでに言えば、指を吸ってくれたからって、その男があなたを愛しているとは限らない。生来血の好きな奴もいるのよ。文字通り波瀾万丈を生きたからこその、名言の数々である。もちろん、まだまだたくさんあるが、それを全部披露してしまっては今書いているものが、なんだったかということになる。興味のある人は僕の個人誌で…(って、売り込んでいる)。ところで、僕がブログで書いている暴力団やヤクザは、いわば東映ヤクザの延長でのことで、実際のヤクザとは違う。その世界はまったく詳しくないが、実際の彼らは情け容赦ないシビアななかにいるのだろう。いわゆる昔風のヤクザは希少種となり、巧妙に経済界、政界などにも寄生して、われわれの目の届きにくい世界で暗躍している、ということだろう。それでもときどきは、こんな小さな街に巣くう彼らが、名刺とか、行政への告発状などの依頼にきて、なかには文章の推敲を頼まれたりするのである。喧嘩をするにも脅しをするにも、昔のように脅迫罪の証拠に直結するような体裁はとらない。彼らも、いうなれば“ことば”を大事にしているのである。もちろん違法なものはお断りするが、なかには恩人へのわび状などがあったりすると、つい親身になって力をかしてしまうのが僕の甘ちゃんなところである。誤字や文法上の矛盾を指摘したりすると、コワモテが消え、まるで少年時代の悪童にもどったかのように純朴なテレ笑いをみせたりするのである。
2008.01.26
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最近も暴力団同士の抗争で発砲事件がおきている。ときには組員でもないのに拳銃による事件も起きている。以下は、さる事情通が、ほろ酔いかげんで語ってくれた話である。出回っている拳銃の多くがロシアのトカレフだという。ロシアの暴力団は、日本の極道に秘密ルートで拳銃を売りつける。ロシアの暴力団は「日本のヤクザが一番だましやすい」と言う。なぜならヤクザはムショ暮らしを経験している者が多く、長い間刑務所にいて、俗世間に汚れず生一本で純情なんだそうだ。ほんとかなー、単に単純なだけではないのか。ともかく、パンチパーマに刺青を入れて、見た目にはコワモテだが、女を与えて、うまい料理を出して、サービスにサービスを重ねると、すっかり信用してしまって、コロリとだまされ、粗悪品の拳銃でも高く買ってくれるのだそうな。逆にだましにくいのは日本のビジネスマンで、ちっとやそっとのサービスでは心を開かない。うっかりすると、ロシアの暴力団がだまされて、必要にないものを売りつけられたり、たかられて根を上げることもあるという。日本人はヤクザよりビジネスマン、そして政治家のほうがずるがしこくて汚れている。かの「ムネオハウス」なども彼らの頭に入って語っているのだろうか。こう指摘されて、恥じるべきか自慢すべきかとまどうか、なるほどそういうこともあるかなと…。まあ普通の市民にとって、暴力団抗争は架空のお伽話である。もとより自分たちとは無縁の世界で、口では「暴力団はよくない」と言い、抗争があれば「早く抗争を終結させて、安全な市民生活をとりもどせ」と言う。内心は、マルボウ同士ならいくらドンパチやっていいから「決着を見せてくれ」と思っている不届き者も少なくないのではないか。かつての「山一戦争」では4年間で25人が死傷した。決着に人の死は不可欠であり、オヤジたちはそこに、男の生きる道をかいまみて、スポーツ新聞や夕刊紙におどる抗争詳報に目をこらしたのである。まあ、本音と建て前のちがうのが現代オヤジ世代の特徴ともいえる、のかな。それにしても冷える…。
2008.01.25
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団塊付近の世代の青春時代は、東映は鶴田浩二や高倉健のヤクザ映画が全盛だった。おもてむきはともかく、政府の組閣人事よりヤクザの最高幹部会人事のほうに興味を感じる人のほうが多いのではないか。極道世界では、親分を殺られて何もしないで終わりということはまずない、という。これを極道の倫理というが、極道でなくたって、日本人は昔はみんな仇討ちは天下の美風と考えていた。主君や父を殺した者を討ちとって報復することは、権利というより義務だった。曽我兄弟の仇討ち、「忠臣蔵」でのバカ殿様の仇討ちに集団テロでおよんだことなど、さまざまな仇討ちが美談とされてきた。仇討ちが禁止されたのは明治6年になってからだ。このところ日本でも凶悪事件が日常化している。息子や娘、家族を殺された肉親は、だれもが殺人犯に殺意を抱く。自分が被害者の家族ではなくとも「自分が親なら犯人を殺しに行く」と公言する人も少なくない。もちろん、法律の壁があるからそれは不可能である。いくら被害者の肉親とはいえ、犯人を殺せば、やはり殺人犯となる。生き残った家族の生活や人生を思えば、いくら憎くても泣く泣く報復をあきらめる。フラストレーションがたまるしすっきりしない。これは筋道がつかず、納得がゆかない。それをヤクザ映画の極道はやってのけたから、ヤクザと知りつつみんな観に行ったのだろう。「やられたらやり返す」という倫理観は、昔の日本人の精神構造にあった。してみると、なにがなんでも仇を討つ、という極道の倫理は、近代化された日本に置き去られた「美風」といえなくもない。殺人犯を何が何でも死刑にすることが、ほんといの意味での報復になるのかは疑問だが、被害者が報復できない以上、法律がなんらかの納得できる処罰を与えるのは当然のことであろう。しかし、弱き者に強く強い者に甘い日本の法制度、やっぱり泣きをみる被害者が続くのだろうなあ。競争社会での落ちこぼれになってゆく性格的弱者をのみこみ、弱肉強食の仁義なき社会構造につけこみながらヤクザ組織ははびこってゆくのだろうな。
2008.01.23
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タイトルの句を書いた女性から頼まれた句集の編集が終わり、印刷・製本にまわった。恋愛におけるこころの機微、人間関係のおかしみ、かなしみをとても巧みにあらわしている、いい句集にしあがった。下の写真の方だが、現在はとても饒舌で歯切れが良い。しかし、昔はどちらかといえば内気でおとなしく、無口なほうだったという。それが、人からは気が強いといわれるほどに口が達者になったのは、神戸で自分の喫茶店を開店したことが理由だという。喫茶店は閑静な官庁街であったが、そのなかに誰でも知っている某有名暴力団の組事務所があって、毎日のようにコーヒーの出前注文があったという。最初は恐る恐る配達していたが、彼らも組近くのカタギの人々には紳士的で、悪さをするようなことはなかったという。しかし、そこに出入りしているチンピラの女たちの態度はあまり良くなく、言葉遣いも横柄だったという。女たちは、おとなしく応対しているとますますつけあがり、生意気な態度で、支払いも金を床に投げ出し、拾わせるようなこともあったという。そんな女たちには、態度で示してあげないとと決心した彼女は、負けまいと、生意気な女には強い態度で接するようにして、口には口で応対してきた。現在の、関西系オバチャンそのものの話し方は、そこで鍛えたものだという。まさか、関西オバチャンがみんな丸暴に鍛えられているわけばないわな。 愛しきものはすべて幻君もまた 抱きしめられて玉虫色になるボタン句集にはこんな句が満載。読んでみたい人には、感想を書くという約束をしてくれれば、10人の方に謹呈する。ご希望の方は、僕にメールに入れてほしい。ところで、ご本人はこの写真の時代からもう半世紀ほど経っているから、これを手がかりに捜しても絶対に本人はわからないと思うよ。
2008.01.22
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僕の場合ブログは半分は息抜き、半分はベツで使う文章をまとめるメモ代わりに書いている。皆さんのブログも、失礼ながらどちらかと言えば仕事のあいまの気分転換に読んでいる。ようするにティータイムである。しかし、ブログを読んでいるおかげでときには、背筋を伸ばして読むほど、大きな知識や示唆を受けることがあり、もしかしたらどこかの総合研究所で再教育を無料で受けている、と思うことがある。ことにシャルドネさん、秀0430さんのブログはまったくエントリーの性質が違うが、質量にはただ敬服するばかりだ。もちろん、知識ばかりでなく、他の方々にも様々な恩恵を受けているわけだが、ポケットの小さい僕としてはいつものペースで書くしかない。秀0430さんの記事から、ちょっとズレるが宮台真司氏が以前僕がブログに書いたケータイ小説から映画になった「恋空」、そして現代の若者や人々の感情のありかたについて触れていたので、ちょっと紹介しよう。是非はともかく、携帯小説を元にこういう映画が作られ、驚いたことに館内の女子高生らが全員号泣する。大変なことになったなと思いました(笑)。以前だったら単に「駄作だ」と批判すりゃ良かったんですがね。今や批判しても観客には届かないし、届いても何の役にも立たない時代になりました。 「脊髄反射化」の傾向は3,4年前に「死に落ち」映画が流行したときからです。『いま、会いに行きます』(04)とか『世界の中心で、愛を叫ぶ』(04)とか。「死に落ち」映画に注目するべき理由は、「死に落ち」映画じゃないのですが『ALWAYS 続・3丁目の夕日』の評価にも関わることです。というように同作品を評価しての感想ではない、むしろ僕同様に、現在の若者たちの、感情が短絡的になって、認識が頭を通過せず、脊髄反射のように感情と結びつくということに驚きを感じている。それが何からくるのか、ヒントらしきものが書かれていた。過去10年間にわたって「自分の両親は愛しあっていると思いますか」という質問をゼミの学生にしてきました。イエスの答えはどんどん減って、今は4割を切る。6割以上は「愛し合っていない」または「子供がいなかったら別れているに違いない」と答えるんですね。僕が2000年に行った調査では、「両親は愛し合っていない」と答える学生は、「恋人がいる」と答える割合が低く、しかし「性体験の人数」が多い。逆に「両親が愛し合っている」と答える学生は、「恋人がいる」と答える割合が高く、しかし「性体験の人数」が少なくなります。ちょっと痛いデータですね。最近の学生は「恋人がいる」割合が減りました。我が大学も1割台。1990年代前半には4割前後でした。裏腹に、性交経験者の割合は倍増し、性体験の人数も増えました。「恋人がいる割合が減り、性体験の人数が増えた」ことと、「両親は愛し合っていないと答える学生が増えた」ことが符合します。何が起っているのか明らかです。ロールモデルの問題ですね。両親が愛し合っていると感じる子たちは、「将来は自分も愛に満ちた恋人関係や夫婦関係を作るぞ」と自信を抱けるようになります。逆に、そうでない子は、ロールモデルが不足しがちなので、自信を抱けなくなるわけですね。つまりは、愛に満ちた家庭を作る自信がまったく存在しないという状態での、「家族仲良し」的なドラマや映画の享受なんです。このことが、そうした映画やドラマを、現実を描いていないという前提で――あらまほしき家族の妄想を描いているという前提で――享受するということに、結びつくわけです。まあ、僕もあまり胸を張って「愛」をいえる状態にはないが、純正母乳で育つ子供たちが減ったことや、父親としての意識の存在が希薄になってきていることも、ひとつの要因でもあるのだろうか。すべてがわかりにくい時代になってきた。
2008.01.21
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「おやじ法」のついでに「おやじ」というものについて考えていたら、寺山修司の「書を捨てよ街へでよう」の一節を思い出した。寺山修司は当時、僕ら一部文学かぶれ少年たちのバイブルであった。それは、文芸であり、戯曲であり、演劇や評論、あらゆる面で若者の煽動者であったからだ。その寺山修司の「おやじ」についての一文を書庫の片隅からみつけてきた。 どうして親父たちが速いものを嫌いなのかといえば、それは親父たちが速度と人生とは、いつでも関数関係にあるのだと思いこんでいるからである。 あらゆる速度は墓場へそそぐ――だからゆっくり行った方がよい。人生では、たとえササの葉一枚でも多く見ておきたい、というのが速度ぎらいの親父たちの幸福論というわけなのだ。 だが、速度がおそいほど経験が拡張されるという親父の人生観は、まちがった反科学の認識の上に立っている。親父たちが、ぼくらにのこした文化の遺産は、実はきわめて素早いものばかりだった。ヨーロッパではマラソンの走者からロンジュモーの駅馬車をへて、天体ロケットヘとたどりついた2600年の「速度の歴史」が、わが国では文化そのものの形態のなかに妊まれていたのである。エジプトの文化のように書簡、壁画、玩具、墓、ありとあらゆる廃品とガラクタを保存し、思い出によって文化の輪郭をえがこうとする死者の文化、凝固と石の世界史観や、インドの文化のように一切を忘れてしまおうとする非歴史的な文化、鉦とねはんとのリグ・ジェーダから仏陀までの宗教の有機体にくらべると、わが国の文化は「速度」の文化だといってもいいだろう。 さくらが咲いてすぐに散るまでの「時」の、一瞬を永速と感じずにはいられない日本人の、美学の根底をながれる速さへのあこがれは、「一番速くこわれてしまう粗悪輸出商品」から、世界で1ばん速い詩としての俳句にいたるまで、数えきれないほどのこじつけ材料をもっている。というように、当時、高度成長の波にもまれながらも奮闘するおやじをからかっている。そして、カミカゼ特攻隊で、まじめに人殺し労働にはげんだ親父が、肉体的におとろえはじめて「速度」を忌み出す頃、ぼくたちの週刊誌のグラビアにはスポーツカーや盗塁王、そしてジェット機など、速いものの記事が氾濫する。速度は、ぼくたちのなかでは次第に存在論を形成しはじめるが、親父たちの肉体ではついて来るのがムリなのだ。速度といえば、サラブレッドのことを思い出し、「ホースニュース」紙をわしづかみに競馬場へといそぐ親父よ。レースにおける速度は比喩の世界のものだが、ぼくたちにとって速度は実存なのだということを、あなたにはどうやって説明したらいいのだろう。と嘆いてみせている。そのころ煽動されつづけていた少年たち、つまりわれわれが今はおやじとなって、落日の日本丸のなかで翻弄されつづけているのである。
2008.01.19
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最近は、いや最近だけではないが凶悪な少年犯罪が頻繁におきることとなって「少年法」についての規定を厳しくすべきだという論調が多く目につくようになった。はたして罰則を厳しくすることが犯罪の減少につながるかどうかは疑問だが、今日はその問題ではなく、作家の嵐山光三郎がアンチテーゼとして「オヤジ法」の制定を、という小文を書いていたので内容を紹介してみたい。結構共感したのだが、もちろん大真面目に読む必要はないですよ。以下、嵐山流に要旨をかいつまんでみた。「少年法」というのは、非行のある少年に対し、刑罰によらず保護処分によってその改善をはかる制度である。「少年法」の冒頭第一条に「この法律は、少年の健全な育成を期し、非行のある少年に対して性格の矯正及び環境の調整に開する保護処分を行うとともに、少年及び少年の福祉を害する成人の刑事事件について特別の措置を講ずることを目的とする」とある。「少年法」による少年審判は非公開の法廷でなされ「審判は、懇切を旨として、なごやかに、これを行わなければならない」とも規定されている。ならば、オヤジはどうなるのか。かりにオヤジを50歳以上と規定する。四十歳でもいい。いろいろ意見のあるところだろうが、20歳以上から成人という現行法にそって考えれば、「50歳からオヤジ」とするのがきりがいい。50歳をすぎると、オヤジは体力が弱る。思考力も低下する。ビッグバンだインテリジェントビルだという世の動きについていけない。はやりの音楽だってどこがいいのかカイモクわからない。流行に遅れ、最新技術についていけず、ノイローゼになる。たえずリストラの対象にさらされ、それでも会社にしがみつけば旧時代の遺物としていじめられる。再就職をさがしに職安にいけば若いアンちゃんにさげすまれ、運よく再就職してもイバラの道が待っている。家のローンは払い終わっていないし、子の学費はかさみ、家に帰れば妻の愚痴をきかされる。思い切って若い社員に近づけばおやじ臭いと追い払われる。ヤケで酒を飲もうにも金はなく、たまに取引先からお酒をおごってもらえば、帰宅の道でオヤジ狩りにあったりする。オヤジ狩りをする少年たちは「少年法」で守られているが、オヤジを守る法はなにもない。これは不公平ではないか。ここんとこは、時代の現状にかんがみて「オヤジ法」を制定していただきたい。これはオヤジを保護する法である。「オヤジ法」の内容に関しては、これまた意見のあるところだろう。「オヤジ法」の精神は「非行のあるオヤジに対して刑罰によらず、保護処分にして性格の改善を行う」ことであって、基本は「少年法」の精神と同じである。 以下は嵐山光三郎の私案である。五十歳になったら、警察より、自動車免許証型のオヤジ手帳が渡される。オヤジがなにか事件をおこして警察に逮捕されたとき、このオヤジ手帳を示せば、罪は免除される。例えば若いアベックを殴ってつかまったとき、警察官にオヤジ手帳を示せば、「や、そういうことだったんですか。オヤジなら仕方がありません」と敬礼されて釈放される。これは、何度も許されることではないので、持ち点を10点とし、減点法によって免罪されることとする。タチション1点、食い逃げ2点、酔っ払い運転3点、のぞき4点、寸借サギ5点、ひったくり6点、放火7点、銀行強盗8点、通貨偽造9点、婦女暴行10点。点のつけかたにも異論はあるだろうが、これは私案である。とにかく合計10点まではおとがめなし。弱者であるオヤジがこういう犯罪をせざるを得なくなった時代状況を酌量して「特別の措置」を講ずるのが「オヤジ法」の精神である。「少年老い易く学成り難し」というが「オヤジはすでに老いてしまって学は忘れてしまった」。老い先短いのはオヤジのほうである。残り少ない余生を考えてオヤジを保護する。オヤジ手帳の持ち点10点を使いきって、まだこりずに悪事を重ねるオヤジは、オヤジ鑑別所に収容する。ひとくちにオヤジといってもいろんなのがいる。悪いオヤジはしょうこりがない。これは少年の場合も同じである。矯正してなおるオヤジもいれば、矯正しようにもしようがないオヤジがいる。しかし、その場合でも「その個性と環境に即した特別の処遇をすることによって社会適応性を回復させる」ことが望まれる。オヤジ鑑別所で、確信犯と認定したオヤジは、オヤジ院に入れる。少年院があるんだからオヤジ院があっていい。初等、中等、特別、医療オヤジ院の四つがあり、適性のオヤジ院で矯正教育を受ける。そのためのオヤジ保謹上は、年とった女優さんになっていただきたい。往年の美人歌手も悪くない。フツーのおばさんだっていいが、愚痴をこぼすおばさんはやめていただきたい。日々のレクチャーは、庭いじり、ミニゴルフ、相撲大会、珍芸大会、陶芸、盆踊り、野球大会、浪曲鑑賞、俳句、家具修理、草むしり、昼寝、ペンキ塗り、といったオヤジ好みのものを中心とし、愛と誠意をもって行う。かくして非行オヤジは社会人としての適性をとり戻し、社会に復帰することになる。オヤジ手帳を配布されても非行に走らないオヤジだっているはずだ。20年間無失点のオヤジには、マル優のワッペンを進呈する。このワッペンをつけているオヤジは生活功労者である。マル優マークのオヤジはすべて人間国宝として、電車代、バス代を無料とする。オヤジはこれぐらい保護されてしかるべきなのだ。いや、僕も本気に共鳴してきた。
2008.01.18
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最近は結婚(したくても)できない男が増えている。周囲をぐる~っと見回しても、片手では足りないほど思いつく。その割に、何度も結婚を繰り返している男もいるのだから、不公平といえなくもない。しかし、老人ホームは攻守逆転しているようなのだ。介護士をしている友人から聞いたのだが、入所者の割合は7:3あるいは8:2くらいで女性が多いそうだ。当てずっぽうに推測すれば女のほうが長生きをする、つまり男は入所する前に死んでしまう確率が高いということ。それと、家で自活できる収入が男のほうが多いということ。老人ホームに入るということへのプライドも男の壁となって邪魔をするのではないか。しかし、友人の説明を聞く限りでは、若い時代にモテなかった男は、ぜひとも老人ホームを利用すべきではないだろうか。友人の話では、当然のことながら年齢に関係なく恋愛感情や嫉妬心がある。老人ホームでもいろいろなカップルが誕生する。人を恋い愛し合うという感情は、呆け予防にも効果が認められていて、職員も積極的に認め、ときには同衾も許可しているという。まあ、間違って子供ができてしまう可能性もないわけだから、いいだろうが…。しかし入所者の子供としては、自分の母親が父親以外の爺さんと……は、ちょっと複雑な気持ちだろうなー(わがままというものだが)。なかにはそんな姿を「色呆け」などと嘲笑する職員もいるというが、それは人間の本質に対して認識不足で失礼というものだ。介護側にいる資格はない。呆けといおうか、老いて世俗のしがらみがはがれてくれば、人間本来の根源的な欲求だけが残ってゆく。「飯はまだか」と四六時中訴える食欲だけのこるより、異性愛、愛を求める欲がのこるほうが絶対にいい。そこで、圧倒的に数が少ない元モテナイ爺さんの出番がある。いや、モテナイといっても、男からみてなぜもてないのか不思議に思うことがある。容姿も、人柄もしごくいい人に、結婚できなかったさんが多いのである。反対に、こんなヒドイヤツがなぜと思う男が、以外にスイスイと女から女へと渡り歩いている。というのはどうでもいいことだが、ただひとつ問題がある。どうしても男女比率のアンバランスがあるから、三角関係が生まれる。また、年齢を重ねるごとに気が強く、性格が厳しくなるのは女性のほうが多いようだ。だから長生きもできるのだろうけれど…。かくして、三角の真ん中に入った爺さんに対してイジメが始まってしまうそうだ。もちろん中高生のようなものではなく、あらぬ過剰な噂を流したり、故意にぶつかったりと…。そんなことで、転んでそのまま寝たきりになり亡くなったという気の毒な方もいたとか。うむー。老いてからモテルのも楽ではなさそうだな。
2008.01.17
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日本製紙が、再生紙の基準にあわないものを再生紙と偽っていたという問題が明るみに出て騒動になっている。■コピー用紙も偽装 「古紙100%」実は1割 日本製紙朝日新聞 2008年01月16日17時00分http://www.asahi.com/national/update/0116/TKY200801160221.html 製紙大手の日本製紙(本社・東京都千代田区)の再生紙の年賀はがきが、契約で決めた古紙の再生割合を大幅に下回っていた問題で、同社がコピー用紙やノート、封筒、製本用の印刷用紙などでも年賀はがきと同様の「偽装」を繰り返していたことが16日、明らかになった。100%古紙とうたった製品で、実際には11%しか含まれていない場合もあった。 環境省は同社に対し、さらに過去にさかのぼり、製品ごとの配合率など詳しく調査するよう指示した。鴨下環境相は、公正取引委員会への通報など関係機関との連携を検討することも明らかにした。 ちょっと喩えがワルイかも知れないが、過去にも結婚経験がある相手だと聞いて結婚したら、ずぶの初婚だった。なんだ、こんなに若いのを…、もっとテクニシャンだと思ったのに。なんて怒ったフリをしているという、ようにも感じられる。印刷や出版の仕事をしていると、環境問題に関心をもっている団体や個人から「再生紙」を使って欲しいとたびたび指定される。その都度、「再生紙はやめたほうがいいですよ。環境に悪いし、値段が高い」というのだが、(きっと、面倒だから再生紙を使いたくないんだな)というような不服そうな顔をされる。今回の日本製紙(これから、他の製紙メーカーもでてくるはずだが)の虚偽納品は、起こるべくしておきた出来事だ。印刷用紙などの古紙をパルプ代わりに使うためには、パルプとはケタ違いの漂白作業が欠かせない。漂白の効率をあげるには多量の塩素が使われる。塩素を使うときに、塩素ガスやダイオキシンが発生するのである。ちなみにパルプだけであっても漂白しない紙はクラフト紙やダンボール紙の色になる。インクを除去するための塩素量は、パルプの比ではない。だからコストも高くなる。また、再生紙比率をたかくするとコシの強い製品ができない。だから、製紙メーカーはゴマをしてもパルプを多くしたいのである。再生紙があたかもリサイクルの優等生のようにいわれることとなり、環境派という人たちが再生紙を使う風潮は、実は自分の首を絞めている行為なのだ。しかし、製紙メーカーはそのことを強く主張しない。再生紙だとして、古紙比率の少ない紙を多く出荷できれば、儲かるからだ。見た目もいいし、コスト、環境すべてにおいて再生紙比率が少ないほどいいのだ。かといって、古紙を埋めたり燃やしたりすればいいというのではない。再生紙の使い道としては、昔あった、あの真っ黒いチリ紙。そしてクラフト紙やダンボール。あの色をがまんすれば、無理な漂白をせずに済む。トイレットペーパーなど実用的には真っ白い必要性はないはずだ。包装紙だって、クラフトで十分ではないだろうか。食品には、黒酢だとか、黒豚、黒和牛など黒ばやりだから、黒チリ紙など消費者が積極的に受け入れるようにしたらどうだろう。環境のことを考えて再生紙を注文するくらいなら、黒チリ紙を使うことをお勧めする。といっても、売っていないんだよねぇ。せいぜいくらふと紙か。ところで、今は古紙の値段が上がっている。いわずと知れた中国での需要が多いためだが、これは多くはダンボールに使われている。中国なら黒チリ紙も使われているかも知れない。過去には、日本の古紙は再生紙率が高いということで、国際的には2級品扱いされていたが、現在は引く手あまただという。それは、分別回収が徹底していて、異物の混入が少ないことを評価されてといわれていたが、実は再生紙率が低かったということも、きっとあったのだろう。
2008.01.16
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つぎの漢字によみがなをつけてみよう。 1、愉む 2、滑べる 3、流行る 4、外れ 5、悖徳者 6、鬱憤 7、糾明 8、鉦 9、行跡 10、動揺つぎのことばの意味を考えてみよう。 1、張本人 2、かくらん 3、不同調 4、不問に付す 5、悖徳者 6、糾明 7、行跡 8、動揺の色 9、アフェア 10、悠々、半日の清談を愉む以前の国語力について調べていてみつけた資料で、25年ほどまえに石黒修によっておこなわれた調査である。それは、当時、新聞に連載されていた獅子文六の小説「自由学校」の1回ぶんの文章のなかから合計18のボキャブラリーをえらび、インテリ層を対象に「読み方」と「意味」をどれだけ理解しているか、を調べたものだ。解答者は、男13(大卒8・専門卒4・中卒1)、女7(大卒3・中卒4)、計20名。その結果、完全にできた者0、一つもできなかった者0、二つできた者1、三つできた者4、四つできた者3、五つできた者6、10できた者2、最もよくできた者は18であった。一番できなかったのは、よみの5で僕もできずに当てずっぽうに「ボットクシャ」と読んでみたが外れた、つぎにできなかったものは7、意味の方に至ってはサソタンたるものであった、ということだ。この小説が発表されたのは、もう30年もむかしのことであり、さいきん出された全集では、ふりがなだの注解だのがつけられているくらいであるから、こんにちの読者におなじテストをすることは適切ではない。しかし、解答者は、学歴はともかくとして当時の社会では、インテリの部類にはいるはずである。この調査をした石黒修は、新聞を読む層で、インテリとそれ以外の区別として、新聞小説まで読む者とテレビ欄しか利用しない者とでわけている。僕のような、テレビ欄と小説は読まないが、それ以外は全部目を通さないと落ち着かないという人間は、テリヤキ層とでもいうのだろうか。 答え 1、たのしむ 2、すべる 3、はやる 4、はずれ 5、はいとくしゃ 6、うっぷん 7、きゅうめい 8、かね 9、ぎょうせき 10、どうよう 1、張本人(その事件を起こすそもそもの原因となった人) 2、かくらん(かき乱すこと。混乱させること。) 3、不同調(調子をあわさないこと。調子が揃わないこと。) 4、不問に付す(取り立てて問題にはしないでおく。) 5、悖徳者(道徳にそむきもとる者) 6、糾明(罪・不正などを問いただして事実を明らかにすること) 7、行跡(日頃のおこない。身持ち。行状。) 8、動揺の色(動揺する様子) 9、アフェア(事件; (pl.) 事務, 仕事; 用事; 関心事; (パーティーなどの)集まり; 情事; ) 10、悠々(余裕があって慌てない様子)、清談を愉む(世俗を離れた、趣味・芸術・学問などの高尚な話を楽しむ。)など、j間違っていたら訂正してください。
2008.01.14
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寺山修司の少年の頃の詩を読んでいてこんなのがあった。 キスと二つ並べて書いてみる。キスキスである。さかさに読むと、スキスキとなる。これはとてもいいな、と男の子は考える。漢字で書くと「好き」という字は女ヘンに子という字。つまり、女の子である。これも、とてもいいな、と男の子は考える。 男の子はことし十五歳である。 ラブと二つ並べて書くとラブラブ。さかさに読むと、ブラブラである。なんだか知らないけど、ちょっと恥ずかしいな、と男の子は考える。寺山といえば、オドロオドロしい作品が多いが、天才は若い頃からいい感性を備えているものだ。こんな初々しさをもっていたとは。初々しいといえば、黒井千次の『春の道標』のシーンもなかなかのものだった。 明史は、唐突にりんごに齧りついた。ばしっと鳴って厚い皮が破れ、酸っぱい味が口を走った。 「こっちから齧ったから……。」 彼は反対を向けて躊躇いがちにりんごを差し出した。いらない、と断られたら全部ひとりで食べねばならぬ、と考えながら。 「ううん。そっちがいい。」 薄暗がりの中にぼんやり白く見える明史の齧り跡に目を重ねてりんごをかむ棗(なつめ)を感じた。顔を伏せて彼女のりんごを噛む音を彼は聴こうとした。舞台の上を動く人物の足音が邪魔だった。 彼は黙って手を出した。まだいくらも食べられていないりんごが返ってくる。彼女が新しく齧ったと思われる場所に深く歯をたてた。まるで彼女を食べているみたいだった。胸が激しく鳴って、りんごを呑みこむのが苦しかった。 「少し、ちょうだい……。」 棗の手がおずむずと伸びてくる。 「全部、食べなぃで……」 明史はその手にりんごをのせながら囁いた。自分の声はりんごの匂いがしてりんごの味がするに違いない、と思った。 彼女の口と同じ匂いで同じ味だ、と思った。いかがですか、皆さんもン十年前にこれに似た懐かしい追憶の景色があるのではないでしょうか。10代の頃は、さりげない一つひとつの出来事にも清冽なエロスを感じたものです。
2008.01.13
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M どうだろう、最近は教育による男女意識の差がかなり縮まっているように思いますが…。言葉の棲み分けも減ってきている寂しさも僕は感じます。T ♪ある特定の権力者が、必要あって長い年月を掛けて、当たり前の様な男女差を作って来たように考えています。というようなやりとりがあって、男女の肉体的な違いのほかに、これまで「男らしさ」「女らしさ」というものが、生まれたときから自然にそなわっている、先天的なものか、後天的なものかということについて少し考えてみた。これまでなら、「男と女」、この二つの性を考えるだけで充分であった。しかし、最近はテレビなどで中間の性の人々が多く露出するようになっている。もし、彼らが解剖学的な男性、女性でありながら、元々心はその反対ということになるなら、「男らしさ」「女らしさ」は先天的なものとなる。自分が、きわめて女性的であると思えば女、きわめて男性的であると思えば、男という選択をするわけだが、これは単に好みの問題でなく先天的に肉体に反して備わったものだろうか。もし、家庭や自分をとりまく生活環境によって変わっていったとしたら後天的なものということになるのだが、きく限り子供の頃から自分の性に違和感をもっているようだ。要するに、「自分は女である」あるいは「男である」と自ら認めること。これをジェンダーのアイデンティティというのだそうだが、こういうことは性をきっかりと規定した、かつての戦時中のような社会では成り立たなかった。解剖学的に男なのに「わたしは女よ」といって、徴兵検査を逃れようとしても、許されなかったであろう。もし、そんなことをいったら、非国民として処罰されられたに違いない。それからみると、いまはずいぶん自由になった。といっても、解剖学的な性と反対の性を名のることは、かなりの辛さと難しさがあると思う。現実に体は男だけど心は女、逆に体は女だけど心は男、という性同一性障害に悩む人は、潜在的なものまでくわえると、6、7万人はいる、というが、テレビなどで見る限り、「体は男だけれど心は女」という人のほうがはるかに多いように思う。本当にみんな先天的なものだろうか。後天的にニューハーフを選択した人はいないのだろうか。「男らしさ」「女らしさ」が、ほ乳類などの動物の世界で考えれば、種の保存という一点では役割がはっきりとわかれるが、普段は人間ほどは感じられない。ということは、人間のらしさとは後天的なものなのだろうか。う~ん、わからなくなってきた。
2008.01.11
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共同出版という悪徳商法的手法で売り上げを伸ばしていた「新風舎」につづいて、「声に出して読みたい日本語」や「間違いだらけのクルマ選び」「清貧の思想」などベストセラー本を連発する堅実経営で知られていた草思社が民事再生法の適用を申請したというニュースには、出版界もいよいよここまできたのかという感慨と驚きを感じる。負債総額は22億5千万円だという。この会社はベストセラーづくりが上手で、自社から「不思議なほど仕事がうまくいく「もう一言」の極意」なんて出しているのに、読んでなかったのだろうか。この会社のホームページに「Web草思」というのがあって、時々は読んでいた。それが、昨年末に急に休刊宣言をして、編集長がいいわけめいたものをダラダラ書いてあった。それが次の文なのだが、行き詰まりがわかっていて書いたのだろうか。(前略) Web草思を「終わり」ではなく、休刊と称するのはそういう訳だ。2007年12月27日、本日をもって終わりなのか。もはや終わっていたのかもしれないし、まだ終わっていないのかもしれない。途切れたかのように見えて復活した漢の王朝のように。 この世の物事には、始まりもなく終わりもない。ただ、うたかた、そう見えるだけなのかもしれない。始まりも終わりもないのは、言葉だけだ。真性の言葉を生み出した不断の思考だけだ。際限なく考えつづける者には終わりも始まりもない。そうした言葉が、このWeb草思に綴られてきた、と思いたい。(後略)Web草思は楽しみにしていたのにつぶすのはもったいないなー。ところで「新風舎」と同様な商売をしている「文芸社」という会社もあるが、こちらはまだ大丈夫なんだろうか?ここも自社を冠にしたコンテスト企画で応募者を集め、最終予選あたりまで気をもたせて、残念でした入賞できませんでしたがこのままではもったいないから当社と共同企画で出しませんか、ともちかけるものだ。しかし共同企画といいながら、零細出版社の僕の感覚で言えば、3~7倍近くも費用負担をさせるというトンデモ商売なのだ。それに「書店に並ぶ」も売りにしているが、普通の個人が書いた本が全国の書店に置かれて売られるなんてことはまずあり得ない。せいぜい著者近くの本屋にいいわけ程度に置かれるだけだ。それにしても、こんなに暴利をあげていてなぜ潰れるのだろう。わが零細もそろそろかな?
2008.01.09
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ちょっと娘のことを考えていたらこんな映像と出会ってしまいました。縁起でもないと思いながら、つい二本も観てしまいました。 余命2ヵ月の花嫁 1余命2ヵ月の花嫁 2
2008.01.08
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16歳の少年が包丁を振り回したというニュース、どうやらいじめなど人間関係の悩みから、精神的な病にまで進み凶行におよんだということだが、それにしても通り魔的自暴自棄にまで追い込まれる前に、なんとか予知できなかったのだろうか。最近は少年たちの親殺しなど、やりきれない事件が頻発しているが、たぶん本人たちは凶行の瞬間、自他の人生にとっての重大性を理解できていなかったことだろうと思う。男の子たちはなぜキレるのか、そして、女の子はなぜ男の子ほどキレないのか。数十年前のわが身を振り返って思い起こすに、多分、少年が少女に比べて、性的な欲望が異常に高いからだろう。男にとって、十代後半の頃は押さえがたいほどに性への欲求が高まることがある。ときには全身から頭まで熱病状態になって、我慢する力が急速に失われる。こういうとき、なにか些細な刺激があっただけで、たちまち点火して暴発してしまう。僕も少年時代、自分だけがそういう悪癖があるのではないかと悩んだことがあった。ところが、友人たちの誰もが似たような状態を過ごしてきたことを、後になって知った。こうした場合、誰かを思いきり殴るか、まわりにあるものを蹴とばすか、射せいするか、のいずれかしかなくなる。これが過ぎれば、犯罪にまで結びついてしまうのである。この衝動の最も強いのは、16、17、18といった、十代の後半のときだと思う。だからこの時期の男の子は、徹底的に働かせるか、スポーツでしごくか、可能なら連日セックスさせるかの、いずれかをさせるのが適切な対処法なのだろう。しかし現代ではこの時期、机に縛りつけて、ひたすら勉強せよ、と強制するのだから、性欲だけ空転して、おかしくなるのもあるいは当然である。こういう男の子の生理について、母親はあまりわかっていないのではないだろうか。自分の少女時代の体験からして、恋いに恋する思春期のロマンチックな像を描いて、男の子の生理については理解したくても、知りようがなかったのではないだろうか。その点、父親はかなりわかっているはずであるが、その種のことを話すのはいささか照れくさいので直接、そういう問題で息子と話そうとしない。できれば触れないで過ごしたいというのが、大方の父親の考えで、子供は母親にまかせてしまうから、齟齬が生じてゆく。かくして、なにもわからぬ母親だけが、息子と対して清く正しく育てようとして、問題をおこすことになる。僕の娘が高校時代に、家にボーイフレンドを招いたことがある。親に挨拶をせずに自室に入れたので、彼氏が帰ったあとで娘を説教したら強く反抗したので、思わず叩いてしまったことがある。妻にも手をあげたことがないのに、娘に暴力を振るってしまったことに反省て、娘に長い手紙を書いた。娘も手紙で、信じてもらえなかった悲しさを綴ってよこした。僕は、誰もが通過するこの年頃の男の生理について、手紙にしっかりと書いた。どうしても会いたかったら、グループで会うか図書館など二人だけにならない場所にするようにと厳命(お願い?)した。しかし、娘はそれ以来数年はボーイフレンドを紹介してくれることはなかった。その点、息子たちは、少し気に入った彼女ができれば必ず親に紹介して意見を求めた。僕も、息子たちの部屋から怪しげな雑誌やビデオなどが発見しても、見て見ぬふりをした。自分の若い頃だって、発禁本の世話になったのだから、当然といえば当然だ。間違って、よそ様の娘さんに間違いを犯してしまうより、自分でコントロールしてくれたほうが、どれほどましか知れない。ワルいものを目にするのも成長の中では自然の摂理なのだ。男の子を野放しにして、女の子にだけ厳しくするのはあるいは不公平かも知れないが、しかし、男の子にはやはり放電は必要なのである。勝手な推測は危険だとは思うが、犯罪的自暴自棄にまで追い込まれる子供たちの母親は、いがいに健気な頑張り屋さんが多いのではないだろうか。少年も日頃は母の頑張りをわかっていたろうし、心の底では感謝していたのではないだろうか。一般論ではあるが、真面目で、世間さまにうしろ指をさされない子供にしたいとするあまり、無菌培養のような子育てをした場合、過充電の危険性があると考えたほうがいい。頼りないと思っても、できるだけ息子の成長教育には父親が関与したほうがいい。どんな父親でも、多かれ少なかれ自分の少年時代の押さえがたい欲求を経験してきているから、自らにてらして息子が、過充電に陥いりそうな危険の察知はしやすいはずだ。そして母親は、男の子にはあまりいい子を求めすぎないほうがいいとだけ忠告しておきたい。ちょっとワルくらいは大目に見てあげて欲しい。もちろんどの子にも個人差はあるのではあるが。 この手の記事を書くと、禁止ワードとなってアップできなきなってしまう。どの部分がいけないか、示して欲しいのだ、楽天さん。
2008.01.07
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昨日、食事をご一緒したご夫婦は、お二人とも結婚3回目同士で、共に死別が1回、離婚が1回というカップルであるが、3度目にしてようやく互いに理想の相手とめぐりあえたようにイキイキとしている。家も3度建てれば、いい家ができるというが、結婚についても同じことがいえるかもしれない。といっても、僕の場合はそれをするにはまず離婚をしなければならないし、首尾良くできたとしても3度までは物理的に無理だろう。ということは余談として、ちょっと気になっているのが「バツイチ」という言葉。僕は、いわゆる言葉狩りには断固反対するものだが、こういうさりげないイジメ言葉には疑問を感じる。バツイチとはいわずと知れた、離婚した男女のこと。このバツイチ、どこから生まれたのか不明だが、一説によると、離婚を届けた場合に戸籍の配偶者欄に、「×」を印すことからきたとか。もちろん、結婚に失敗という意味でのバッテンという意味とは違うのだろうけれど。しかし離婚した人をバツイチと呼ぶのは、少し厳し過ぎるのではないか。多くの場合、離婚は、どちらかの都合、あるいは両方の都合により伴侶選択の過ちをただし出直すことである。それも多くは、若いときの選択の誤りの訂正である。それがバッテンだといわれたら、過ちを正しようがなくなる。古来から、「過ちを正すに、はばかることなかれ」というではないか。実際、20代や30代で、見あやまり、過ちをおかすことは無数にある。たとえば20代でいいと思っていた音楽や絵画などの趣味が、40や50代になると、あまり好きでなくなったり、若いとき感動した小説や映画が、年を経てつまらなくなることなど、かぎりなくある。音楽や小説や映画でそうなのだから、ましてや、男や女の選び方で間違う例は、はるかに多いに違いない。それを、世間に誤っていましたと公表して、バッテンだといわれるのでは、いささか可哀相ではないか。しかも、離婚は大変な体験である。第一、結婚はかなりのいい加減な者でもできるが、離婚はそう容易にできることではない。僕も過去には1度や2度は離婚を考えたことがあるが、優柔不断で決心もできなかったし、勇気もなかった。どう考えても、結婚するときの何倍もの、決意とエネルギーが必要となるはずだ。もっとも、一方的に別れさせられたり出て行かれた場合は、多少違うだろうけれど。このようなおおいなる体験を経た人は、精神的にも人間的にも、一廻り大きくなったに違いない。そんな人をとらえて、バツイチと烙印を押すのは少しひどいのではないだろうか。じやあ、どういえばいいのか。いつか、作家の渡辺惇一が提唱していたが、「マルイチ」という言葉である。たとえば、離婚した男がいたら「彼はマルイチだよ」と紹介する。むろん女性についても「彼女はマルイチだよ」と。当然のことながら、二度離婚したら「マル2」で2重丸。3度離婚したら三重丸。周囲をみても、2重丸の人などとても語らっていて人生に造詣も深く人間的に楽しい人が多いように思う。家庭内バイオレンスでカミさんに二度逃げられたという彼はちょっと例外だったけれど、総じて人間として豊かな人が多いと思う。
2008.01.06
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年末年始の一大事業といえば最近までは年賀状であった。「…あった」と書くのは、数年前まではデザインから印刷までオリジナルでしっかりと手を入れて、数日たっぷりとかけてつくっていた。印刷ではあったが、スクリーン印刷というプリントゴッコを高級にした版画形式のもの(といっても、一枚一枚手刷り)で、自己満足で凝ったものをつくっていた。人によっては、僕の年賀状を額に入れて飾ってくれるという奇特な方もいて、それなりに力を入れてつくっていた。ところが、最近はカラープリンターでお手軽につくれる年賀状ソフトができて、猫も杓子もそれなりに美しい年賀状ができる。住所もソフトに宛名を入れておけば簡単に印刷できてしまう。それで、すっかり凝ったものをつくる意欲がなくなってしまった。毎年、250~300枚出しているのだが、年末の2、3日を年賀状に費やしていたのが、小1日で出来てしまうのはありがたいのだが、なんとも味気ない。ということで、なるべく出すのを減らそうと今年は年賀状だけのつきあいの人の住所は大胆に削除した。ところが、減らした数の分だけ新しい年賀状が増えてしまう。心を鬼にして、ある程度は頬被りして来年こちらのことを忘れてくれるのを待つしかないとは思っている、のだが…。その点、年賀欠礼は助かる。それを機会に、来年は忘れたフリをすればいいのだから…。ところで、困った年賀状といえば、毎年1、2通差出人の住所はもちろん名前が書いてない年賀状がある。けっこう親しげな文面なのだが心当たりがない。これは、推理を楽しめということなのだろうか。また、おとそ気分も薄れてきた、4、5日頃になって出してない人から来る年賀状。返事のタイミングがどうもあまり良くない。こんなに遅れるなら、出してくれなければいいのに…、と思う。しかし、僕も大晦日の31日に出したから、やっぱり今頃迷惑がっている人もいるのだろう。そんな人、返事は不要だよ。相変わらず、赤ちゃんやペットの画像をデンと載せてある人もいるが、貰ったほうからすれば、本人が思うほどかわいいとは思えないのではないだろうか。やはりいいなーと思うものは、良い詩や句を書いてあるもの。手彫りの版画とか、自分の肉筆で手をかけてあるなーと思う年賀状。僕は、先に書いたように失格であるが、それでも出す半分くらいは手書きでそれぞれ、何らかのコメントをつけて送っている。何にもコメントしないのは、単なる社交辞令とか、語るべき言葉が見つからない人、あるいは切れてもいい人。いや、書き忘れた人も若干。それと機械化されてちょっと不安なのは、宛名がプリンターまかせだと、出し忘れても気がつかない人もたぶんいると思う。手書きだと、一応確認はできているのだが…。年賀状不要論の人も少なくないが、僕は年賀状という習慣はあったほうがいいと思っている。年末のわずかな作業で人とのつながりをいちおう確保できるのだから、まあ、重宝といえるのではないだろうか。
2008.01.05
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愛知にいる娘のところに行ってきます。販売業の店長なので、正月返上で働いています。今夜も9時まで仕事だそうです。独身最後の親子での正月なので、一緒に寝てあげようかな。いえ、隣には妻もおりますから…。
2008.01.03
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いつも性的好奇心いや痴性的好奇心、もとい知性的好奇心をくすぐってくれるalex99さんの今日の日記人生観を変える分子生物学で書かれている番組は残念ながら見逃したのだが、日記で要点をとてもわかりやすく抽出してくれてあり、新年早々お年玉をもらったような気分になれた。感謝!そこで、僕も新年ぐらいは少し高尚ぶって書いてみようと思う。といっても、底の浅さはぬぐいようもない。新春早々の深いつっこみはゴカンベンを(笑)。この番組で語っている福岡伸一教授の語る、人間も長くても1年ほどでたえず入れ替わる分子でてきているとする説明、考え方?は、alex99さんならずとも目から鱗だ。僕は、もともと宗教多元主義的な指向をもつものだが、こんな科学的説明が宗教界に普遍的に拡がれば、宗教のもつ意味も変わってくるのではないだろうか。むしろ逆に利用しようとする輩もでてくるのかな?そこで思うのだが、一人の人間がこの世に生まれてきてから成人するまで、その過程をつぶさに見れば、精神的なものは科学のように進歩していないことは自ずとわかる。むろん環境衛生の発達や医学の進歩、さらに育児法の改善などで、幼児の死亡率や育児の困難さは減りはしたが、生まれてきた子が育つ過程は、昔も今もそう変わらない。生活が豊かになって、肉体的な発育は多少早くなっても、精神的な面ではまったく同様で、零歳の子はひたすら乳房を求め(零歳児だけではないか(笑))、3歳くらいまでは本能のままに生き、4、5歳頃から急速に知恵はついても所詮は自己中心的。小学校に入ってから集団生活の掟や取り決めを教えられるが、といって必ずしもそれを守るわけではない。ましてや勇気や正義感(一般論であってブッシュのいう正義のではないよ)、英知や隣人愛などといった、いささか高尚な精神作用は、このあとさまざまな形で教えられはするが、これを守るか守らないかは、その人のいる環境や性格によって変わってくる。要するに、この種の精神的なことは、住んでいる社会がすすんでいようがいまいが関係なく、あくまでその人個人の問題なのである。こうした個々の人間に比べて、科学や文明が進歩するのは当然で、それはこの分野では、先人の業績の上に次代の人の業績を重ねていけるからである。そういった意味では、分子生物学者の福岡伸一氏もその先進的代表者としてその範疇に入るのだろうが、これからの時代では精神作用においても積み重ねられてゆくような研究はなされないだろうか。最近、偽装問題で企業倫理が問題になって糾弾されてきた企業の多くが、二代目三代目だということを考えると、創業者の精神的な思想は代を重ねるごとに薄れ、自社の商品同様に変質してしまうように思える。古川柳に「売家と唐様で書く三代目」(初代が苦労して築き上げた財産も三代目ともなると、道楽にふけって財をすりつぶし、家を売りに出すようになり、その売家札はいかにも道楽者のたしなみを思わせる唐様のしゃれた書体であるという。ズキッ、身にしみるなー)とあるように、すべてとはいわないが倫理観がかならずしも遺伝子のうえで世襲されてゆかず、マイナスにさえなっている現象が多い。一企業であればそこがダメになって済むことであるが、これが政治の世界だとそうはいかない。わが代表たちの愚行愚政が、そのまま我々はもちろん後世の孫子にもふりかかるからである。それでも、政治の世襲制はますます拡がり、無力感のただよう庶民との乖離がすすんでゆくばかりだ。結局、それを許している我々にその責任はあるのだが…と。それが避けられなものだとするなら、世襲の上にのるべき彼らには、せめて精神分野のまし積みだけはきちんとする、国民を裏切ったら一族郎党獄門に処されても異議なしとするくらいの意識をもたせた帝王学をするなど、最低限のルールが必要なのではないだろうか。だいたい世襲議員の一族が億という資産を残せることは、歳費だけで計算したら本来はあり得ないはずなのだから。なんて、いくら新年からぼやいてみても現状は変わるはずもない。まあ、他人事にせずに選挙民が変わってゆくしかないのだろう。今年は総選挙もありそうだし。 みなさま、今年もよろしく。お手柔らかに…。
2008.01.02
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今日の甲斐駒ヶ岳 あけましておめでとうございます。新年早々から山荘にご家族でお泊まりの方があり、やはり今年もあわただしい年になりそうです。兵庫県尼崎市から、なんとノーマルタイヤでお越しになりました。山荘付近は真っ白の雪景色で、今日は南アルプスがキラキラと輝いていました。12月31日から1日にかけて雪が降り、その後の厳しい冷え込みで、零下10度近くまで下がったため水道管が数カ所破裂。毎年、1度か2度経験する大仕事です。風呂の水回りまで凍ってしまったため、親しくしている設備屋さんが元旦の夜までかかって修理してくれました。いやはや、ご苦労様でした。今日は、アルプスを一望できる露天風呂などをご案内、楽しんでお帰りいただきました。ようやく解放され、ブログを書いています。皆さん、今年もよろしく。仙丈ヶ岳
2008.01.02
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