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少し、のんびりさせていただきます。 蕾という題で作られた川柳。皆さんもいかがです。いずれこの蕾も叛くうす紅よ いち子さくらさくら蕾も笑う四月馬鹿 さい子キリッと口閉じて男になる蕾 千里定食屋の水仙蕾もちにけり 香蕾から蕾にかかる長電話 陽州なんとなく芥子の蕾に涙する 正人蕾なれど男の部屋の真中に 和いくばくの命で蕾見つづける 鉱平父さんが嫌いになってゆく蕾 かずお痛いからそっと大きくなる蕾 眞紀子
2006.01.31
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木蓮も、 南天も、暖かそうでした。今朝は強い南風が吹いていました。小さいけれど、おいしいラーメン屋さんがあります。その店の前のうちにこんな絵が飾ってありました。きっと自分で描いたのを見てもらいたいのでしょうね。
2006.01.30
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仙丈ヶ岳と高遠町多忙中につき、もう3,4日日記の更新ができないかも知れません。とりあえず、景色だけでお茶を濁します。さあ、一服どうぞ。えーと、写真の説明がまちがっていました。毎度のことですが、訂正します。ゴメンチャイ! 杖突峠からの蓼科山と諏訪地方 同じく、北八ヶ岳の横岳と下は茅野地域いとまちさん写真とても素敵です。もちろん文も・・ですが。杖突峠カラチの市を写した写真ですが、最初の写真、きれいな三角形の山は蓼科山、その横のどっしりした山は北八ヶ岳の横岳だと思います。ありがとうございます。ずいぶんいい加減なことを書いてしまいました。
2006.01.29
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正月のわが社玄関「手鏡事件」の植草氏が教壇復帰へという記事を読んで、なんとなく思ったことがある。経済評論家として活躍していた植草教授が、女子高生のスカートの中を手鏡でのぞいたとされる罪で地位も職も失った事件は、本人はずっと否認してきたから、真相は藪の中だ。それにしても、冤罪だとしたら本人にとっては屈辱的な事件で、同情を禁じ得ない。追い打ちをかけるわけではないが、もし実際に行われたことを前提として考えてみたい。電車の中で痴漢が、異性の尊厳を無視するような犯罪行為をすることは当然ながら厳罰に処すべきだ、と思う。捕まえたら、陰毛を全部剃ってしまうとか、そのときに手が滑って、元凶を切り損ねてしまったとしてもいい、とさえ年頃の娘をもつ親としては思う。ただ、“手鏡でスカートの中を覗く”という行為は、実害という点ではほとんど無かったに等しいと思う。いやだからといって、そうしたことを推奨するわけではない。女性には理解し難いかも知れないが、妙齢の美人(不思議に美人でなければダメである)が胸元の大きく開いたドレスを着ていれば、10人のうち9人の男の視線は胸元に行ってしまうだろう。僕は、叶姉妹は大嫌いなタイプだが、近くにいればやっぱり眼が動かないという自信はない。また、スカートも同じだ。ミニスカートからスラッとした健康的な足が目の前にあれば、より足の支点に近いほうに眼が行ってしまうのは、10人のうち9人の男だろう(誰だ、俺は残った1人だというウソツキは!)。そこに積極的に手鏡をもちだすかどうかは、見つかった場合に植草教授のような過酷な試練に耐える自信があるか、先のことを考えられないノー天気野郎かどちらかだろう。ここでは、規則としてこれが犯罪行為だとして決められているから、みんな手鏡など持ち歩かないのである。かの昔、ノーパンシャブシャブ喫茶なるものが流行って、ノーパンでスカート姿のウエートレスが鏡の敷いてある床の店で応対するという方式に、ジャパニーズ役人たちが病みつきになったという情けない世相があった。これでわかるように、捕まらなければ(女性からみたら)そんなくだらないことで歓んだりするのが男の性である。そういったことでは、ホリエモンはじめライブ・ドア幹部たちもノーパン喫茶と駅の階段との区別がつかなくなったと同等の、情けない男たちだったということだろう。しかしである。では、そういう性癖をもっているのが彼らだけかというと、そうではないと思う。本質的には、塀の内側にさえ落ちなければということで、似たような手法は行われてきただろうし、これからも行われていくだろう。それがビジネスの世界だと思う。だからこそ、きちんとした明確なルールがつくられてゆかねばならないだろうし、でないとこの天下を揺るがせたホリエモン騒動も生かされないことになる。えっ、ノーパン喫茶? 僕は行ったことないよ、いやホント。
2006.01.25
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ライブドア事件と構造計算偽装事件に共通するのは、社会的信頼を偽ってまで仕事をしていたということなのだが、さもありなんアメリカ産牛肉もやっぱり…。これらの事件は、小泉政治のありかたが大きくかかわっている。という話題は評論家の皆さんにおまかせして、ちょっと伊藤公介議員について思ったことを書いてみたい。実は、伊藤公介議員はわが地域の出身。ごくごく田舎の貧しい出なのに立身出世した人だ、った。僕の住む市の高校の出身なのだが、なぜかこの学校を出て国会議員になっている人は多い。という前書きは置いて、この伊藤公介議員がヒューザーの口利きをしていたのか、あるいはワイロに相当する政治献金などを受けていたのかということになると、“受けていた”と考えるのが妥当だろう。しかし、伊藤公介は「ハイそうでした、私が悪うございました」とは考えていないだろう。なぜならば、これがこれまでの政治の世界の常識で、みんながやっていたことだからだ。彼をかばうつもりは毛頭無いが、日本の政治構造について書いてみよう。少しでも社会の中で政治の裏側を見る機会のあった人なら、だれでも純粋でクリーンな政治など日本に存在しない、ということは薄々了解している。了解していないとしたら、気がついていないだけだ。にわかに信じられない人には、僕の実体験を一例として語ってみよう。僕の高校時代の友人は某一流大学を出て、政府系機関の広告物を扱う大手の広告代理店に勤務している。高校時代からの親友だったこともあり、彼からさまざまな仕事を回してくれていた時期がある。その彼からあるとき、某公社(ぶっちゃけた話、今のNTT)の定期的PR誌をやらないかと持ちかけられた。年に数千万という金額の仕事だから、丸投げ状態でもちゃんと儲かる、といういう願ってもない話しであった。 聞きに行くと、うまい話しにはやっぱり「ここだけの話し」という尾ひれがついていた。その仕事をやるにあたっての条件があり、地元のM代議士の紹介状をもらってくること。仕事のある間はその代議士に所定の献金をすること。それさえ守ってくれれば上との話しはついている、というのだ。なぜ、僕のごとき零細業者にそんな話しがあったかと言うと、当時の某公社の副総裁は彼と同じ 町の出身、(ちなみに伊藤公介氏も)で次期総裁とも目されていた実力者だった。友人の説明によると、総裁になるには政府の実力者たちとの連携が必要だとのこと。あとは言わずとも理解できた。M代議士は大蔵省キャリア出身で、政府の中では大臣などの重要ポストを何度も務めるなど大物といわれていた人だ。僕とも遠い血の道いわば血縁ということで、親戚や親なども応援していたから、貰おうと思えば紹介状は容易だった。もちろん友人は、うだつのあがらない僕への思いやりとしてもってきた話しで、純粋に好意のものだった。考えさせてくれと持ち帰ったが、(自分で言うのも気恥ずかしいが)当時の僕は血気盛んな正義漢だった。とりあえず、父親にことの顛末を話してみた。すると、頼んであげるのはかまわないが、紹介状を貰ったららお前は義理でも選挙でも応援しなければならないぞ、それが人付き合いの常識というものだ。それがお前にできるか? と問われた。その頃、M代議士の力(?)で村から南アルプスを越えて山梨県に通じるスーパー林道が計画されていて、僕は大反対であったが、父はどん詰まりの村にとって悲願の道だとして推進派にいた。それまで環境問題を中心に、保守的な父親とは何度も激論を重ねてきた経過があった。時には叔父がなかに入ってオロオロとなだめられたこともある。もう、言うまでもないだろう。せっかくの友人の申し出は丁寧に(でもなかったかな)お断りしてしまったのである。友人は、せっかくのチャンスなのにもったいないな、と言って惜しがったが当時の僕はそのくらい、いずれまっとうに稼いでみせるくらいに思っていた。それからン十年。僕の出たというより、某代議士のでた山奥の村は、スーパー林道もでき、つぎは南アルプス奥地へのダム建設の計画が進行していた。村には工事道路を口実に、山を削り、まっすぐで広い歩道つきの立派な道ができ、様々な立派な施設も建設された。狭かった田んぼは住宅地を造成するような費用をかけて(補助金で)構造改善され、広々とした。それも減反政策で、半分近くが米作りを休んでいる。最近では、もともとあったダムの点検のためということで、山側に高速道路のような道ができたが、たぶん人より狐や狸の往来のほうが多いだろう。ご存じ、田中県知事の「脱・ダム宣言」により予定のダム建設は頓挫近くなったが、国交省は延期だけだとしていまだに調査(継続)予算をつけている。これらの費用は、工事するところがなくなった今でも消化しなければならないため、さまざまなイベントや工事を計画してやむなく使っている、とダム建設にかかわる関係者から聴いた。これは現在もつづいている。もし、田中知事が降ろされるということにでもなったら、この工事計画は復活してゆくのだろうか。自分の生まれた村でありあまり書きたくないのだが、M代議士がでる選挙では、村人は手弁当で応援にかけずり回り、この村からは毎回80パーセントを超える信じられないような得票率を出している。村中某宗教政党も真っ青な雰囲気である。村では、(この代議士を応援しない)僕は共○党員だろうということになっている。これも親戚の元・社会党系の村議でさえ言っているのだから、これらの方々の思考に無党派、リベラルというポジションはないのだろう。現在では、M代議士は引退して、その息子が議員として引き継ぎ、かの首相派閥に所属し「若い力で国を改革する」と言っている。当然ながら、この親子の代議士に金銭もふくめスキャンダルらしきものは一度もでていない。むしろ、“クリーン”で力のある国会議員として、広い支持を集めている。ちなみに、M某元代議士は伊藤公介代議士と同じ高校を出ている。そういば、マリオネット首相の糸をひいているといわれる飯島秘書官もすぐ近くの町の出身だ。二人の違いは、地元に密着して地域のための政治活動を主体にするか、東京にでて国のための政治活動をするか、という違いだ。伊藤公介氏をかばうわけではないが、彼が政治を志した頃はクリーンそのもののイメージだった。土建政治や汚職まみれの政治を無くしたいという理想をもっていた。政党も新自由クラブという、青臭い政党に属していたことからも、伺えるだろう。山奥の清流から下っていった魚が、ドブ川で生息するうちに体質が変わってしまったのだろうか。かれは、今でも自分がなぜ犯罪者のように糾弾されなければならないか、本当は理解していないのだろう。だって、自分の周囲には、税金を私物のように使いまくっている政治家がいっぱいいるのに、それから比べれば、献金をもらったとしても微々たるものだ。(われわれ庶民感覚とは違ってもだ…)そのように思っているに違いない。こんどは、アメリカによるBSE偽装問題が(やっぱり)おこり、いかに日本そして小泉首相が、どんなにいい加減なやり方でもとおると思われているかが白日の下に明るみなった。こんな政府中枢にかかわる大事件がつづいても、多くの日本人は寛容の精神とチルドレン人気にうかれ、小泉改革とやらを支えていくのだろうか。ホリエモンも、ヒューザー、総研も、実は日本の政治風土、そしてアメリカの求める秩序無き規制緩和が生み出した、小泉改革の副産物あるいはポリープのようなものではないだろうか。利用できるときにはいいようにチヤホヤ使われ、用がなくなれば潰しにかかる。これらの“ポリープ”が摘出できれば、日本は健康できれいな身体に戻るのだろうか。それらの陰で、もっと大きな病気がすすんでいるということはないのだろうか。いや、僕などが憂いることはないのかも知れない。この日本の政治をつくり支えているのは誰でもない、この日本に住んでいる国民、有権者なんだから…。 いまこんなことを書いているヒマがないんです。本当は…。
2006.01.21
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世の中、騒然としていますね。平成の乱といったところですか、さて…。といいたいところですが、オトボケをひとつ。 血液型が、A型だから神経質で几帳面、O型だからおおらかでずぼら、などというような分類を本気に信じている人がどれくらいいるのでしょうか。A型だから、B型だからという区分けはひとつのジョークのようなもので、何かヘマをしたときに笑ってすませるためのショックアブソーバーのようなものです。本当に血液型で性格が決まってしまったら、せこい保険会社が黙っていないでしょう。「あなたは○型だから、保険料が2割増しになります」とか「残念ですが、○型の人は契約をお断りします」などと、なるはずです。また、人種を皮肉った小咄もよくありますね。・米国では、法律で禁止されていないことは、全て許されている。・ドイツでは、法律で許されていないことは、全て禁止されている。・ロシアでは、法律で許されていても、全てが禁止されている。・フランスでは、法律で禁止されていても、全てが許されている。・日本では、法律で禁止するものには全て抜け穴がつくられる。このようなたとえ話を読んで怒り出す人がいたら、それはヤボというもので、ニヤリと受け止めてこそ“粋”でしょう。人はそれぞれ違ってあたりまえで、環境や性差など絶対的なものは当然ありますが、だからみんな同じ範疇にならないのは当然です。これと同じように“男とは”とか“女とは”という話題を書くときも、読む手とのあいだに、暗黙のルールがあるのだと思います。男にもおんなの腐ったのも女より色っぽいのもいる。女にも男っぽい人もオヤジっぽい人もいる。“男だから”とか“女だから”というのは、SEXや既成社会の都合にあわせた区別でしかないわけです。だから、性の区別によって“こうである”というのは、血液型や国柄の小咄のように、一種のジョークのひとつであって、これを理解せずに語るのはヤボというものだと思うのです。相手の足りないものを埋めあいたいのが、男と女。それだって誰でもいいというわけではない、まっぴらゴメンということもあって、それが個人個人の違いというわけですから…。言えることは、相手の足りないところを貶しあってばかりいては、なんのトクにもなりません。ブログも同じ、僕がここで書いているのは息抜きのようなものです。皆さんの日記からエネルギーをもらって、ひとときの安息を得られる。喜怒哀楽を共感できるから、また今日も書こうという気になれる。楽しくやりましょうよ。ぶつかるなら大きな相手にぶっつかりましょうよ。コメント、二つばかり削除しました。
2006.01.18
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“大吉”だったら素直に信じよう。大凶だったら、これ以上落ちないと思おう。小泉純一郎は、ヘタをすると日本をアメリカに売り飛ばしかねない男だと思っているが、こん間の行動を精査して(というほどのことではないが)見ると、逆に反面教師としては学ぶべきところがとても多いように思う。そのひとつ。物ごとの成功とか不成功は、その人の能力とか思いこみが左右する、ということだ。この間、彼が首相としてやってきたことは、過去の自民党政治の常識では考えられない手法だった。最近の選挙なども象徴的にそうだった。過去は、派閥の力関係で候補者も決まってきたし、よく言えば清濁あわせのむ、実際には烏合の衆を、目先の利いたリーダーがアメとモチを使い分けて上手にコントロールしていた。それを、共産党以外の、大きくは共産党も含めてだったかも知れないが、野党も補完して自民党長期政権が続いてきたといっても過言ではないだろう。ことに社会党と公明党は功労賞ものだった。しかし、そうした枠組みを無視するがごとく、自分対○○というアメとムチに置き換えて、現在までのところは見事に手玉にとっている。その功罪はここではのべるつもりはない。ここまでできたポイントは何だろうと考えてみた。かなり勝手な推論であるが、僕は彼の「強い思いこみ」だと思った。思いこみは、信念とも似ているが、単なる信念とも違うと思う。信念は、自分の大儀のために貫き通す決意のように、目標に対する行動規範のようなものだ。しかし「思いこみ」は、自分が“こうなるはずだ”という動機付けさえあれば大儀がなくてもできる。自派閥の会長さえも変人奇人扱いした戦法を貫き、成功させたのは、「こうなるはずだ」という“思いこみ”があったからだろう。ここで、わが身を振り返る。これまで自分が人生でうまくいかなかったこと、失敗したことなど数えきれないが、これは自分に対する逆の“思いこみ”が働いていたと思う。どこかで自分に自信が持てず、うまくいかなかったときに「ほら、思った通りやっぱり失敗してしまった」とか「きっとつまづくだろう」と、自分で思いこんでいたような気がする。ほんの数回の不成功で、自分には能力がないのだと勘違いしていたのではないだろうか。高校時代の同級生で、当時よく退学にならなかったと思うくらいワルだった男がいる。成績も、下から数えた方が早かったと記憶している。彼が、今では数十人の社員を抱え年商数億という事業家として活躍している。彼とどうかすると飲む機会があるが、そのたびに驚くことがある。酒場などで、おっ美人だと目を惹く女性がいると必ず声をかける。そのうち、ちゃんと親しくなってしまう。悔しいが、僕はあまりにも美人だと気後れしてまともに話もできない(あなた以外は…ね)。彼は“自分はモテる”という絶対的な自信をもっている。一度や二度断られても、それは礼儀ぐらいに思って、何度でも接近して、けっきょく親しくなってしまう。相手が根負けするまでアプローチするわけだが、これは並の男にはなかなかできないことだろう。このように、仕事でも“絶対うまくいく”という信念をもっているのだろう。彼が部下たちをみると、彼の方針や行動を気の毒なほど信頼している。そうして、人材も集まり活気がある。僕からみれば、危なくて手を出せないと思うことでも、彼にとってはそれほど難しいことではないのだ。小泉首相や彼の行動を、(ちょっと強がって言うと)支持もしないし、うらやましいとは思わないが、このアクティブな思いこみの強さだけは見習うべきだと思う。今となっては、いささか遅きに失したが、だ。みんながアクティブに、小泉首相、そしてホリエモンや村上某ばかりの世の中になったら怖いが、“生きる”ということでは、ささやかであってもアクティブな“思いこみ”が必要ではないだろうか。われわれ庶民こそ“思いこみ”をアクティブに!ちょっと、らしくなかったかな。
2006.01.16
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ボンボさんの「なかなかできないこと... 」に触発されて、僕もここしばらく気になっていたことを書きます。1月2日の朝、車で家から事務所に向かうとき、交差点の真ん中に鳩くらいの大きさの鳥が落ちていました。どうやら車に激突したらしく、無惨な姿で血を流し死んでいました。新年早々縁起でもないなと思って、信号待ちにそれを見ていたのですが、そのとき、対向車線に停まった車から、若い女性が飛び降りてきて、その死骸(?)をハンカチに包み、胸に抱きかかえて車に乗せているのです。後ろから「プップー」と、警笛音が聞こえ我に返ったのですが、僕も斜め向かいに停まった車も、その光景を見て、信号が変わっても動こうとしませんでした。いや、信号が変わったことには気づいていましたが、その女性の行動が終了するまで動いてはいけない気がしていたのです。たったそれだけのことですが、今でもなにか気になっているのです。この田舎では道路に動物が轢かれていることが珍しくありません。僕の家の近くでも狸やハクビシンが轢かれている姿を年に1、2度は目撃します。一度は帰宅途中に、狸が轢かれているのを見つけました。降りて触れてみたら死んではいたもののまだ暖かかったので、車に乗せ家に持ち帰りました。もしかしたら狸汁という手もあるのではないかと思ったわけですが、朝起きたら案の定、妻にこっぴどく叱られました。僕のような不純な思いでなく、轢かれた動物をいつか誰かがかたづけているのです。ほとんどは保健所や役所、道路管理者がかたづけているのでしょうが、なかには慈悲のこころでかたづけている人もいるのかも知れません。数年前に、僕の飼っていた犬が車に轢かれて、骨折したまま路傍にうずくまっているところを助けて、獣医さんのところまで運んでくれたのも若い女性でした。役所から連絡があって、その女性の家にお礼に行ったときに、手に包帯を巻いて出てきました。抱き上げるときに犬が痛がって手に噛みついたそうです。それでも捨てておかずに連れていってあげてくれたことに感謝せずにはおられませんでした。だから僕は、一概に「近頃の若い者は…」と否定的なもの言いをすることに与しません。むしろ、他者に対する優しさは僕などよりあるのではないかと思っているのです。あの女性は、鳥の死骸を持ち帰って食べようとしたわけではないでしょう。きっと庭の片隅にでも埋葬したのでしょう。ハンカチに包む表情は、とても哀しげで慈愛にみちているように感じましたから…。僕が気になっている理由は、実のところよくわかりません。若い女性が、道ばたで死んでいる小動物を収容している姿に感じるものがあったのか。その女性が、美しく神々しく見えたから気になっているのか、なぜかこころに残っているんです。
2006.01.14
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人がリラックスできるのは風呂が一番だろうと思う。風呂にはいつでも入れるように24時間風呂を取り付けてあったが、長い間使ってガタがきていたので新しいのと取り替えた。以前のは40万円以上もしたのに、ネットのオークションで入札したら、新しいものがとんでもない安値で買えてしまった。ということで、昨夜は音楽を聴きながらのんびりと風呂に浸かった。音楽といってもカセットデッキから風呂場のスピーカーまで線をひっぱってきてあるだけだが…。目をつむり、ぬる目のお湯に浸かっていると、時間がそのときだけゆっくりと流れてくるような気がしてさまざまな感情が脳裏をよぎる。母の胎内でもこのように羊水に包まれ浮かんでいたのだろうと思ったり、きっと今自分の脳内をα波が流れているのだろうと感じたりした。聞きかじりだが、フランス語では母の中に海があるといい、漢字では海の中に母がある。僕たちが母の胎内から生まれて来るように、アメーバーから人類まで地球上のすべての生物は、海の中で35億年という長い年月を過ごしてきたわけだ。生物が陸にのぼるようになったのは、およそ4億年前だというが、海こそがあらゆる生物の故郷なのだという。海も母の胎内も、ともに水に満たされていることを思えば、僕たちは今もなお、羊水の記憶だけでなく、海の記憶をも体内のどこかにもっているのに違いないと思った。そう思うと、こうして風呂のぬる目のお湯の中にいると、ゆったりと安らかな気分になれるのが納得できる。以前、何かの番組かレコードで母の胎内の音というのを聞いたことがある。ザザーとかズーンズーンとか浜辺の波打ち際にいるような、なにかとても懐かしいものを感じた気がする。きっと集音マイクをつければ、男の体内でも音は録音できるのだろうが、どんな音になるのだろう。たぶん母親の胎内のようなやすらぎは与えてくれないように思う。などとつまらないことを考えているうちに、お湯の中で眠ってしまったらしい。ドンドン! とドアを叩く音がしてわれに還った。家人に風呂場で倒れていると思われたのかもしらん。
2006.01.13
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昨日の日記で少し、リリー・フランキーの書いた『東京タワー』(オカンとボクと、時々、オトン)という本について触れたけれど、とても面白かったのでこの作者のことをちょっと調べてみた。発言がとってもいい、さすがだね。ちょっとかってに盗んで紹介します。全部読みたい人は、リリー・フランキー 発言集・480選へ飛んで堪能してください。ところで、日記をつづけて更新していますから先に昨日の日記を読んでからこちらへ…。・「飲み屋のオカマが『人は汚れれば汚れるほど、涙もろくなる』って言ってたよ」・「セクシーで上品で料理がウマくて行儀がいい・・・お嫁さんにするなら杉本彩だよ」・「『松たか子って美人?』って聞いてる女ほど醜いよ」・「松たか子みたいに『女が見て、何かひとこと言ってやりたい』っていう点を『色気』っていうんだよ」・「女友達同士だと同情しあうことはあっても 向上しあうことはないよね」・「オレは首輪を自分で買ってきちゃうような人が好きなんだ」・「処女は白が似合うよ」・「コピーライターの仲畑隆志さんは『女は23の時が一番いいんだ』って言ってたよ」・「杉作J太郎は『オナニー1万回分でSEX1回分だ』って言ってたよ」・「女は、10代はクールな人、20代は面白い人、30代はお金持ち、40代はかまってくれる人、50代は健康な男を好きになるんだ」・「女の人の膀胱炎は、汚い指で触ってるか、触られてるかのどちらかだよ」・「姉歯事務所の人って『オレよりも悪いことしてる人っていっぱいいるのに・・・』っていう目をしてるよね」・「外国人から言わせると日本人の女性は外国人とのSEXに関して『イージー』なんだって」・「みんな自分がヤってると思ってるど、半分はヤラレてるんだよ」・「ド根性大根がハヤってるけど、そのうちド根性電信柱とかが話題になるんじゃないの?」・「潮吹きっていうのは日本だけの技術で、未だに解明されてないんだって」・「友達でダイエーとかの広告でババシャツを着ているモデルさんを見て、ものすごくヌイてる人がいるんだ」・「テレビを見てると、なんでもないコマーシャルを見てて急にオナニーをしたくなるんだ」・「観月ありさとか工藤静香とかの細い人に『軽くヤバい』って言わせて焦燥感を煽ってるよね」・「二の腕はぷにぷにしてないとダメだよ。ぷにぷにして男の唇を塞げるぐらいじゃないと」・「姉歯事務所の人ってボロボロの家に住んでるけど、あれって絶対、お金をそんなにもらってないよね」・「おしゃれなデザインをつくるっていうのは簡単なことで、そこにちょっと崩れたところを作って色気を出すことが難しいんだよ」・「女の人でよくSEXの途中で寝るっていう人がいるけど、テンションが下がるよね」・「昔、SEXの途中で女に寝られたことがあるんだけど、それでも腰が止まらない自分に対して寂しさを感じたんだよね」・「日本語が喋れない英会話の先生っているけど、日本をナメてるよね」・「芝浦マンションのCMにSMAPが出てるけど、5人全員が出るっていうことは家賃にそのギャラ分のお金が上乗せされているっていうワケであって、それを見抜けないような世の中ではダメだよね」・「めめたん(安めぐみ)は『サブラ』で自分のおっぱいを丸く見せてる感じが良くて『分かってきたね~』って思ったよ」・「細かいことを考えて悩むことがいかに無意味かっていうことは多くの音楽が表現してるよ」もっとも、こんな言葉でニヤニヤしている僕のレベルが低いということなのかな(苦笑)
2006.01.10
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あまり認めたくはないのだが、人生も半ばを過ぎたころから脳細胞が日々死滅してゆくのを実感する。言われる前に認めておくが、記憶力が悪いのは小学校のときからで、自分が興味をもつ学科以外はとんとメモリーが働かなかった。忘れ物は常習で、何度立たされたかも忘れてしまったほどだ(自慢している場合ではないが…)。最近では、姪の結婚式の日取りを忘れていて慌てたし、大事な会合を忘れて欠席したこともある。小さなことでは、毎日書ききれないほどだ。そんなことから、母の晩年を思い出している。母は48歳のときに脳溢血で倒れ、以後20年近くをリハビリと闘病の生活だった。僕ら兄弟は家を出て都会で働いていたため、父と二人暮らしのときだった。倒れた当初は病気の行く末を悲観して、このまま死なせて欲しいと父に泣きついたそうだ。父母がそのような状態でいることにいたたまれず、東京にいた僕は故郷に帰って生活することにきめた。できの悪かった僕を、かわいがってくれた母のことを捨ててはおけなかったのだ。ところが、生家は山深い田舎だったので仕事にならず、家から15キロほどの距離にある現在の町で仕事を始めることにした。もう30年も前のことである。そのとき、ついてきた人がなぜか現在は妻になっているのだが、そのことはまあいい、若気のいたりだった。その後、リハビリを重ね、歩行や農作業なども問題なくこなせるようになったが、記憶障害は徐々に進行していった。物忘れがとてもひどくなっていったのである。それまでの母は、本も良く読んでいたし、僕の手紙から文法の誤りなども指摘してくれたほどだから、当時の田舎の主婦としては知的レベルも高かったように思う(親バカ?)。女学校にあがるのは村で2、3人しかいなかった頃、家から30キロも離れた道のりを通った。(バスもロクに走っていなかったなかでだ)薄紙を剥がすように快復するということをよく使うが、母の病気は薄紙を重ねるように進行していった。こういう病気だからしかたがないが、後のほうになると料理のガスの火を消し忘れたり、サイフも持たずにバスに乗ったりと相当危なくなった。そしてとうとう近くの特別養護老人ホームに預かってもらうことになった。料理で、もう少しで火事になりかねないことが何度かあったからである。料理をしなくていいと言っても、やめなかったのだ。僕は週末になると、家族を連れて施設を訪れた。母は、幼い孫たちとリハビリ室で遊ぶのを心待ちにしていた。車いすに乗せて、外に散歩にでると僕ら兄弟の幼い頃の話を懐かしむようによくした。気づいたのは、病気がすすんで身の回りのことも不自由になってきた母が、驚くほど鮮明に昔の記憶を語ってくれたことである。僕が高校時代に、こっそりガールフレンドたちとキャンプに行くことを知って知らぬフリをしていたこととか、僕の布団の下にあった発禁書のタイトルなどまで覚えていた。それが、そのうちに語る記憶が中学生時代、小学生時代、幼児期へと下がってゆき、自分の幼い頃の昔にまで遡るころには、相当に痴呆(認知症)がすすんでいた。不思議なことに、病状がすすむにしたがって古い記憶へと移っていったのである。最後には、それさえもおぼろげになり、子供と孫の名前の区別さえつかなくなり、口もきけなくなって、しばらくしてから亡くなった。母が亡くなってから、図書館で調べ物をしていたときに、偶然に井上靖の『月の光』という作品を見つけて、読みながら釘付けになった。作者が母の介護をする様子を書いた内容であった。そこでは、枯葉の軽さにも等しい肉体と毀れた頭をもった老母の生態から、作者が何を発見していくのかが克明に記されていた。作者が発見したものは「母は消しゴムで己が歩んだ人生を消してゆく。消しゴムは老いである」(「花の下」)という事であり、また「母はどうやら自分が歩んできた長い人生を、70代、60代、50代というように、歩んできた方向と逆に消し始めている」(「月の光」)という事であった。作者は、老母が老いという消しゴムで、己が人生を歩んだ方向と逆に消し始めているのに気づき、しかもそれが母親だけを見舞った特異な現象でない事を発見している。例えば義母は、亡くなるすこし前からだんだん子供になって行き、死ぬ2、3日前にはとうとう本当の赤ちゃんのようになってしまう。お乳のつもりで指をくわえてちゅうちゅうと吸うのである。しかし、70代、60代、50代、40代と、自分が歩んできた長い人生を逆に消して行くとすれば、すべてを消し去ったあとに一体何が待っているか、作者は科学者のごとく冷厳な目と詩人の哀しい心で、そこには死だけが残っていると、老母をじっと見守るのである。というような内容だったが、それは僕が母との会話のなかで感じていた感情そのものだった。僕が不思議に思いながら、形にできなかったことを井上靖は文章として見事に表現していた。と、ここまで書いていて、はじめに書き始めてきた内容とだいぶズレてきたことに気づく。僕が書こうとしたことは、僕も記憶障害があるのではないかということだ。やっぱり、認知症がはじまっているのか。気のせいか成人した子供たちのことより、育てていた頃の記憶のほうが鮮明になってきたような気がする。今日、図書館から貸し出してある本の期日が過ぎているから、返却するようにという電話があったという。そうだ、それでこの日記を書こうとおもったのだ。やっぱり始まっているのか…。借りた本は、リリー・フランキーの『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』これも、亡くなる母上のことを書いているけれど近頃にない面白さ、★★★★お薦めです。
2006.01.09
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なんとかならないか、雪。いま、川柳雑誌社からの依頼で「難解句」について書いている。書き始めて難しいと思ったのは、これを読む人の読解レベルによって書き方を変えざるを得ないということだ。つまり、川柳や俳句は同じ作品であっても読む人のレベル(読解力)によってかなり違った解釈になるからだ。と考えていたところにタイミングよく、秀0430さんが「論理的な理解と芸術的な理解について考える」という日記を書いてくれた。これはつぎのようなコメントの交換を受けての文章だが、さすがにこの人の論理的な組み立てはすばらしい。この日記を受けて書きたいのだが、いまは仕事が手一杯なので後日の機会にしたい。昨日の日記「壊れる日本人」たちについてもそれぞれ考えさせるコメントを頂いた。トラックバックしてくれた ようちゃん2号さんの日記についても読んでみて頂きたい。友人の相談にかこつけて軽々しく書いてしまったが、これらのコメントの返事も冗談で返事を返せるような内容ではない。後日、もう少し掘り下げて日記の中でまとめてみたい。
2006.01.07
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日本各地の豪雪地での大雪による被害が深刻になってきた。こんなときこそ自衛隊の機動力をフル活用すべきではないだろうか。もちろん雪の中にミサイルをぶっ放せなどといっているのではない。トラック輸送や人手をかけなければできない仕事が山となっている。県や市町村では限界がある。雪害対策だけでも行政の機能はすでに目一杯となっているし、その職員たちも家や家族は大雪のなかに埋もれているのだ。なぜ国は災害出動を指示しないのだろう。急げ!北陸地方、東北地方、長野県北部から大地震のあった新潟県も大変なことになっている。マリィジョー♪さんの日記では「自衛隊要請拒否!助けてください…」と悲鳴が聞こえている。 一段落ついたら動かなくてはならないだろう。ぜひ皆さんも!若者よ、いまこそ行動を!
2006.01.06
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ひさしぶりに中学生時代の同級生が訪ねてきた。昔から、スポーツマンそしてひょうきんな男で、仕事に対してバイタリティーがあるが何をやっても成功しないという(…まるで僕を見ているような)、憎めない男だ。ひとしきりの雑談の後、きゅうに真顔になって、「息子のことで相談があるのだが…」という。聞くと、30歳にもなるのにいま流行?のニートだという。大学を出てから数年勤めた会社で挫折して以来で、最近では何か気に障ることでも言うと、キレたように暴力を振るいかねない状態だという。この息子とは、小さい頃に数回会ったことがあるが、溌剌としていていい子という印象だった。彼も、一緒に飲んだときに酔って、こんな親なのにいい大学に入ってくれた、と手放しで喜んでいたこともあったような…。うーん、最近はこんな青年がとても多いような気がする。ニートになるまでには、それぞれの理由があろう。しかし、そのうちの多くがあるパターンにたどりつく。まずは、本人の意識(甘え)の問題。つぎに育つ家庭環境。そして大きくは社会的環境的な要因。社会的要因としては、いま改革という名ですすめている“アメリカ型高度資本主義競争社会”では、落ちこぼれがでるのがあたり前で、社会的にもよほど思い切った補正施策がなかったら、この問題だけで日本はパンクしてしまうだろう。しかし、不思議なことに弱者をバッサバッサと切り捨てている小泉内閣を支えているのが、この弱者たちなのだから、もうやけっぱちなんだということなのだろうか。しかし、これを恨んでみても今の友人の息子にとって何の解決にもならない。根掘り葉掘り家庭状況を聞くうちに、やっぱりお定まりのコースが見えてきた。“家庭を省みない父親と教育熱心な母親”そうなんだな、このパターンが一番あぶない。えっ、僕のこと? たしかに家庭不在ではあった。だけど幸か不幸か零細自営業。反面教師としての背中だけはずっと見せてきた。子供の教育に関して、僕が妻にひとつだけ感謝することといったら、子供が元服(まあ15歳くらいか…)前に、子供に父親の悪口は言わず尊敬すべきものという演技をしてきたことだ。そのかわり子供が近くに居ないときの反動たるや…。もう、どんなに艱難辛苦の生活であったことか、ご想像くだされ。という、グチは横においてと。“本人の甘え”については、家庭や学校・社会の環境が大きい。たとえば、勉強さえまじめにしていればその他は二の次という雰囲気。親も教師も友達感覚。これでは、人との距離感がつかめない。そのうえ個室とテレビ、PCゲームなど…。昨今はゲーム脳という、ゲーム漬けだった人たちの脳機能の障害が明らかになってきているが、これとテレビは確実に自堕落的性格をつくりあげる。詳しくは、「kaoritalyたる所以」にも紹介されている柳田国男の「壊れる日本人」を読むと、納得できると思う。それと携帯の電磁波。ご存知のように携帯の電磁波はマイクロ波、これは強力な直進性があるから、電子レンジや衛星放送、無線LANなどに使われている。ヨーロッパでは、携帯の電磁波によって、神経系の支持細胞の異常分裂を刺激する可能性について指摘され、これが最悪の場合、悪性腫瘍の増殖へと進む可能性があるということで、子供には使わせない国もある。ただ、電磁波は少し離れると弱まるので、イヤホーンなどを使えば良いようだが…。この二つの併用によって、子供たちの脳は相当に痛めつけられている。もう、ダメになれというようなものだ。というような一般論は彼の息子には、やや手遅れ。どのようなアドバイスをしたのかは、ここでは書ききれるものではないが、大きくは、・遠回りでも、まず自分たち両親が変わるしかないということ。 (専門家のカウンセリングなどを受けるべし)・子供にやってほしいことは、口ではなく自分が行動でやってみせること。・必ず復帰すると信じて、おおらかに接してあげること。などなどだが、近くで僕を見ていたら、なんと自分のことを棚に上げて…、と妻の目がいっている。そうだよ、だから僕の得意技は“反面教師”なのだ。ああ、宿題がすすまない。
2006.01.05
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昨年からの宿題がまだ終わっていない。なのに、つぎつぎと来客で自分の時間がとれなくて弱っている。自分にも他人にも甘い性格は今年もつづきそうである。今日会った友人が「初夢にmskさんが出てきた」という。えっ、それは縁起いいじゃんとは応えたが、どうせろくな出方ではあるまいと夢の内容を聞いてみた。ちなみにこの友人は男。「いやね、句会をしていて、生意気にもみんなのつくった句を解説していたよ」と、いやにはっきり覚えている。それは、もしかしたらテレビのなかではなかった? と聞いてみた。「あっ、テレビ? そういえば大晦日から元旦の朝頃に出ていた?」と聞き返してきた。彼は、除夜の鐘のあとほろ酔い加減でうつらうつらしながらテレビを見ていたようだ。それで夢とテレビと混濁してしまったようだ。地元チャンネルの「除夜の鐘」の後の番組で、川柳の新春句会の様子が放映されていたのだ。昨年暮れに、僕たちが出演して収録されていたのを番組では新春だと偽って放送している。そうこうしているうちに、ワンパク時代の同級生が訪ねてきた。彼もまた「おい、2日のテレビに出ていたぞ」という。あんな番組を再放送するとは、よっぽど予算を削られているんだなと推測。僕はテレビは夜中の1、2時間飲みながら見るくらいだがどんな番組でも見る人はみるんだなと、妙に納得。でも、露出はほどほどにしよう何を言われるかわからない。ところで、なんて言ったっけあの彗星群3日の夜はそのつもりで待機していたのに、あいにくの雪空。残念無念。
2006.01.04
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前にも書いてきたように、k-nanaさんの日記を読んで、フィギアスケートへの思い入れと競技への知識の深さは十分わかります。目から鱗と感る事柄も実に詳細に書かれている。ただね、掲示板での書き込みは思い入れが上滑りしてしまって、知識を生かす議論になっていない。意見の公平を期すべきだとおもって意見の異なる、きっこさん、alex99さん、k-nanaさんの代表的な記事をリンクしてしまったけれど、本来は較べるべき内容ではなかったと反省している。僕らはエラソーなことを書いていてもフィギアなどスポーツは所詮野次馬であって、スポーツ紙を読むような感覚でしか接していない。例えば、耐震強度偽装問題とか米国産牛肉解禁問題とか、政治問題になると自分やその周辺にも関わるから、議論への身の入れ方も違ってくる。k-nanaさんはこれをわかって欲しいけれど、自分の考え方を伝えようとしたら、それなりの方法が必要だと思うよ。論破では人は変わらない。むしろ反発を招くだけだということは、イラク関連議論でもゴミのような書き込みで経験済みだったはず。そして、自分の意見に対して尻馬に乗って持ち上げてくれる人、これは風向きによって簡単に乗り換えることができる中身も骨もない人が多いと思ったほうがいい。むしろ異なった意見であっても、しっかり議論を交わしあえる関係のほうが結果として有意義なことが多いと思う。僕は、何のしがらみももたず匿名で言葉を交わすブログだからこそ、何人かの信頼できる友人をもつことができたと思っている。たとえ関係が壊れても0に戻るだけで失うものがないから、今、率直に言葉を交わすことができる。これがリアルの世界だったら、別の面のしがらみもあるから好き勝手なことばかり言ってはいられない。ほどほどにおべっかを言いながら世の中を泳いでいるわけだ、僕でも。しかし、ブログの欠点は顔や言葉以上の背景が見えないから、ついエスカレートしてしまうことだ。言い過ぎるってことは、言い足りないこと以上にマイナス点がつくものだよ。それはなぜか、ほどほどなレベルにある人は誰にでも“想像力”というものがある。相手の言い足りない部分を、想像力が補えたときに相手の意見は初めて自分のものとして咀嚼できる。相手の想像力を働かせることこそ、説得力だと僕は思うんだよ。もうここまで書けばわかると思うけれど、今回のk-nanaさんの意見は想像力を働かせるには言いすぎている。堪忍袋の緒が切れたところで議論は壊れてしまっている。成立していないんだね。後は、ようちゃん2号さんの意見に賛成だ。>「人の可能性に期待しよう」ということだな。>かけなくてもいいプレッシャーを選手にかけていると見えるかもしれないけれど、それ>でつぶれるようなやわな人たちではないのではないかな?>k-nanaさん、選手をみくびっていないかい?と、新年早々ちょっと厳しく書いたけれど、これはk-nanaさんに対するエールだと思って受けとめて貰いたい。僕はフィギアの選手選考にことのほか関心をもっているわけではない、単なるミーハーファンのひとりだ。k-nanaさんのように精通した知識と出会えるのもこのブログの良さだし、きっこさんのようなレアで猥雑(?)な情報、alex99さんの一種シニカルな見方もまたブログならではのものだとおもう。それらを、どのように自分のものにしてゆくかは、それこそ読者の判断であって、情報を信じる信じないも含め、取捨選択してゆく力を養うことが情報過多時代に生きる我々に求められていると思う。k-nanaさんのもっている情報に対する知識や能力については僕も日頃から評価している。だからこそ、他人を説得する力ももっと学んで生かして欲しい。ちょっと辛辣になってしまったけれど、僕からの辛口のお年玉だと思って受け取って欲しいな。今年もよろしく。
2006.01.02
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と詠んだのは一茶。正月くらいはのんびりと……、したいのにまだ年賀状が全部書き切れておりません。日記も三日坊主ならぬ元旦坊主になりそうなので、ひとまず中断です。送っていただいたお酒(○○さん、ありがとう)を舐めながら書いています。約250枚くらいになりますが、毎年少しずつ減らしたいと思いながらもなかなか…。喪中をきっかけにでもしようかと思うのですが、なんて言っていると、そのうち僕の喪中葉書になるかも知れません。今年は、喪中欠礼のはがきが約20枚届きましたが、半分までは減らせそうにないですね。年賀状がパソコンで自由につくれるようになり、みんなきれいで面白くなくなりましたね。今年届いたなかで変わった趣向といおうか、面白いと思ったのは友人カメラマンの家族ヌードです。ここにUPしたいくらいですが、プライバシーがあるので残念ですがオアズケ。家族4人みんなが裸(といっても、上半身のビミョーなところまで)、去年につづき2度目ですが、ぜひ毎年つづけてもらいたいものです。せめて、1歳の娘さんが成人する頃まで…。などと、よそ見ばかりしていて手がなかなか進みません。そんなところに元旦から仕事依頼が入りました。オイオイ、三が日くらい許してよ。そうなんです、今年は地方選挙があるので、それに向けた動きがはじまっています。地元では、この春には市町村合併による首長や議員選挙があります。夏には知事選があり、県政改革を進めてきた田中県政にとっていよいよ正念場です。このところ、国から地方までどこに行っても「改革」づくめです。あたかも「改革」がすべてかのように叫ばれていますが、したほうがよい「改革」とダメな「改革」があります。こんどの、構造計算偽造問題をチェックできなかった民間検査機関も“民営化”という改革のできそこないだったわけです。ミソクソをきちんと選り分ける目を養いましょうね。とと、書き始めると止まらなくなりそうです。年賀状やメール、全部に返事は出し切れないと思いますが、許してたもれ。
2006.01.01
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