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インターネットのなかでみだりに個人情報を開示すると、よからぬやからに悪用されることもあるので注意が必要だ。とはいえ、通常のつきあいでは名前を知ったり、電話を知ったからといって直ちに迷惑行為を受けることはないだろう。僕は定期的に川柳の同人誌を発行して、いままで郵便で送っていた。B6の冊子だから定形外、200冊くらいを送るとなると郵送料もなかなかバカにならない。それで、運送業者のメール便というものを利用することにした。これだと重量を気にせずに定型郵便の料金くらいの値段で運んでくれるからだいぶお得だ。最近は個人情報が商用に利用されるようになって、たとえばNTTでなくても電話番号がわかると、その人の住所がわかるソフトが売られている。宅配業者もそれをつかって、到着先の電話番号を入れるだけで、ナビゲーションに目的の家を探し当ててくれることになっている。はじめて荷物を出す人でも、電話番号を言えば迷うことなく荷物をとりにくるのは、住所と電話がナビとリンクされているからだと思う。僕はいままで、相手先の電話は入れてなかったので、迷ったあげく戻されてくる封書がだいぶあった。郵便局は、近所にだいぶ詳しいが、宅配業者は配達をアルバイトなどに委託していることが多く、郵便屋さんほど丁寧に住所をさがすことがないのだ。返送の多さを業者に小言をいったら、ラベル用ソフトをもってきた。これでラベルをだせば完璧だということなのだ。そこで、僕も住所を入力しはじめたのだが、電話のわからない人が多いのだ。実は、僕は電話を調べるソフトを使っている。本名と県名を入れるとたちどころに候補者がでてくる。候補者とは、同姓同名のひとがでてくるのだ。そのなかから該当の住所のところにある電話番号がわかるという仕組みになっている。あるいは、電話番号を入れると住所氏名がすぐにでてくるのだが、かならずしも誰もがヒットするとは限らない。ことに、女性はヒット率が低い。大概が、電話の名義が亭主の名前になっているからだ。そして、もっと手に負えないのがペンネームだ。川柳や俳句などの短詩人は、作品を発表するのに雅号というペンネームをつかう人が多い。それだとやっぱりヒットしないのだ。これは、使う方には不便だが、社会的には良いことではないだろうか。日本中、個人情報が一元的に露出しているのではやはり心配だ。 それで、「旬」を読んでいる人にお願い。自宅の電話番号を教えてください。もちろん、掲示板に書いてはダメですよ。メールか私書箱に入れてください。もっとも、ここによく訪れている人の番号はわかっていますから、不要です。ときどきこっそり来ている人だけでけっこうです。ついでに、「旬」を読んでみたい人も、連絡をください。これも、メールで住所と電話を知らせてください。僕がその電話の相手を訪ねまわるなどということは、たぶんしませんからご安心を!
2004.01.31
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娘はある商社系列の宝飾部に勤めている。その娘から電話が入った。「お父さん、転勤が決まったからね。今度は山梨の○○店の店長だよ。」「へぇー、店長。お前なんかで大丈夫か。」「うん、店長って言ったって5、6人しかいない店だから…。」「山梨だったら家ともそんなに遠くないし、給料も上がるんだろう。よかったな。」「良くないよ、愛知から離れたくない。だって、つきあっている人が愛知だもん。」「なんだぁ、オイオイ! 聞いてないぞ、いままで一度もそんなこと言ってなかったじゃないか。まさか結婚するって言うんじゃないだろうな。いや、結婚はしてもいいけれど、すぐになんて言うんじゃないだろう。」と、急に慌てだす父親です。先頃帰郷したときには、「私も一所懸命はたらいて親孝行するから、お父さんたちも元気でがんばってよ。」などと珍しく純孝なことを言うものだから、不安、いや、予感は感じていた。「こんど連れてゆくから。」「こなくてもいい!」「いやなの。」「いや、お前のことは信頼しているから見なくてもだいじょうぶだ。」「怖いんだ、いいよそのうちに一緒に行くから。」「怖いはずがないよ。だけどその日は忙しいから、来るんなら来年かさ来年でいいからな。」と、ちょっと往生際のわるいひとときがありまして、それでも、いつまでも子どもだと思っていた娘でも恋人なんぞできたかと、感傷にひたる今日この頃でありまして……。
2004.01.30
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いやはや、よっぽど怒っていたのか誤字脱字だらけの文章でした。ヒマがあったら読み直してください。 今日は模様替えしました。白鳥の写真は僕が撮影したものではありません。ちょっとすがすがしい雰囲気でしょう。「日本経団連は、会員企業が政治献金を行うときの基準とする政党策定評価で自民党に高得点をつけ、会員企業に自民党への献金を促し、政治への影響力を目指すことにした。」というニュースが今朝の新聞に載っていました。「企業献金」、ようするに仕事をひきだすために金を出すと(賄賂になるから)間接的に政党に献金をするか、ODAや仕事おこしにそれなりに便宜を図ってくださいよ、という「間接賄賂」のことですね、ひらたくいえば。政治には金がかかるからと企業に資金提供をもとめるということは日常的に行われています。しかし企業献金は政治と企業との不正常な関係がおこりやすく、鈴木元議員疑惑に象徴されるように、政治の目的が曲げられやすく汚れやすいものです。それに、選挙のたびに裏金的要求がエスカレートすることがたびたびでした。そこで「政治資金は、公的助成と個人献金で賄うことが望ましい」と経団連なども言い出して、「政党助成金」なる法律をつくって、税金で既成政党を養うことにしたのは1993年頃だったのでしょうか。わかりやすくいうと、政党助成金は、政党への生活保護のようなものです。これで、派閥の長にだけお金が集まるということがなくなったため、派閥のたががゆるみ、弱小派閥から総理や大臣がでることも可能になったわけです。たしか、政党助成金をつくることに反対した共産党以外の既成政党はすべて受け取って、それで政治を行ってきたのはご承知のとおりです。しかし、何かと抜け穴をつくって、企業献金はいまでも行われています。これを、「いまの献金の額ではあまり言うことを聞かないから大幅に増額しよう。」と、大企業の大元である経団連が率先して言い出したのですから、ことに政権党のみなさんは内心笑いがとまらないと思います。まさかこの話しに飛びつくのではないでしょうね。これは学歴詐称どころの話しではないですよ、政治をカネで買おうと堂々と言ってきたものに、腰を振ってついてゆくようなものですから…。鈴木宗男元議員への企業献金は賄賂だった、使い方がヘンだ、疑惑の総合商社だとして、袋だたきにあったのはつい最近のことです。じっさい企業献金とワイロの線引きなんて、海の上の境界線のようなもので、あっても自覚のむずかしいものです。国会議員に高い給料を払いながら、所属政党にまで税金で助成するということは、高給取りのいる家庭になおかつ生活保護を与えるような違和感を感じます。たしかに、自分がその立場だったらこんなつごうのよい嬉しい法律はないでしょうが…、お手盛りでつくるのですからね。でも、その方々を選んでいるのは我々有権者ですからこれはガマンするしかないですね。まがりなりにも、「政治をクリーンにするために(ワイロ同様な)企業献金を絶とう」と、法律をつくりながら、その政党生活保護制度ができたら、企業献金もまた復活しようというのでは、呆れてものも言えません(って、言いますけれど)とにかく坊主丸儲けどころの話しではありません。政党への点数付けも、要するにどのくらい自分たちに都合のよい政治をしているかでつけるわけですから、なにをかいわんやです。しかし百歩譲って、「政治にお金がかかることを同情して企業献金をしましょうよ」という主旨が本音のものであれば、国に献金管理団体でも設けて、そこに一括納入し、議員一人ひとりに平等に振りわけたらどうでしょう。これでは自分たちのつけた点数に反映されないというかも知れませんが、いまの議員配分は有権者の投票配分とはかならずしも一致していなくて、自民党などは国民の点数をはるかにオーバーした議員数になっているのですよ。だから、議席の多い自民党にはたくさん渡るわけですから、経団連の意図にそったものになるはずです。どんな悪法でも、いちど作ったルールは守るべきでしょう。助成法に反対した共産党も、できてしまった以上やせ我慢をしないでくれるというものは受け取ったらどうでしょう。反対したから受け取りをしないというのでは、議会制民主主義のルールからもちょっと疑問だと僕は思います。ところで、選挙があるたびに感じることですが、内側からみると選挙活動がいかに馬鹿馬鹿しいルールにしばられているかわかります。法定ビラに候補者名が載せられなかったり、政党だけが政策宣伝カーを使えたりと、驚くほど既成政党や現職、そして政権党が有利なように法律で足かせがはめられています。これもそれも既得権ルールでつくられてきたわけですが、有権者の得票率と議員数の比率をくらべてみるとその効果のほどはあきらかです。世の中とても公平にできているなどとはいえません。しかし、ルールをつくった以上守らなければなりません。スキーのジャンプで日本が勝ちすぎるといって、ルール変更を重ねられたことがありますが、政治はそれ以上に露骨なルール変更を重ねてきています。こんどの日経連の方針は、場合によってはそのルールさえ無視すという公言ではないでしょうか。もっとも、「各家庭も苦しいでしょうから平等に企業献金しましょう。」とでも言ってくれれば、僕もここはガマンして静かにしていますがね。今日は、ちょっと固い話題でしたが、ほんとうは政治は台所に強くつながっているんですよ。国の借金もほんとうは僕らの借金と一体なんですよ。700兆という借金も、これまで膨らませてきた政治家の皆さんが責任をとって払うのではなく、国民が負担するのですよ。こんな殺伐とした文章を読んだあとは、「ひろあ☆日記」にいってみませんか。もうだいぶ前に開いているのに、まだ500カウントにもなっていないのが不思議なくらい素敵な日記です。ここで汚れたこころが洗われるでしょう。
2004.01.29
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今朝の伊那地方は零下15℃です。給湯の管が凍ってしまったようですが、日中は良い天気ですからきっと回復することでしょう。第三セクターとやらで地方自治体が税金を投下して、観光客めあてに「宿泊施設」や「温泉」、「レジャー施設」などの事業を競うように造ることが流行りました。まだやっているのかな…?ことに竹下首相が各自治体に一億円づつばらまいて、自由に使ってよろしいなどという「ふるさと創生資金」のときには、日本中に馬鹿馬鹿しい建物などができたことはご存知のとおりです。この地方にも、どの市町村にもといって過言でないほど温泉施設ができ、わが大臣の生まれた村にできた豪華なお風呂も、平日には貸し切りにも等しい優雅さです。ところで、当市にもそんな経過の建物があります。周囲にめぼしい観光地もない辺鄙な場所にある、十数年を経過した平凡な造りの建物です。市でもてにおえず、民間のある方に管理委託をしていたのですが、このたびその人が去ることになり、その地域からゆくすえの相談を受けています。暗くなってから行ってみたのですが、何にもない辺鄙なところということで、周囲に光がないため、星が都市部では考えられないほどきれいに輝いていました。そして静けさは、周囲の森から動物の足音が聞こえてきそうなほどです。意欲のある人がいれば、管理運営をまかせたいという市の意向のようです。しかし、単なる食いつぶしではダメです。もし、私ならこんなアイディアがあるからまかせてみないかという人がいたら、場合によっては僕が紹介者になりますから、いかがでしょうか。それとも「楽天広場」の会員施設にでもしましょうか。5、60名泊まれる大きな浴場つきの宿泊施設ですが、今は雪に埋もれています。 いのししもでそうな…
2004.01.28
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イラク関係のニュースとその解説は
2004.01.27
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志穂音さんが日記に「小生意気道」に精進しますなどと書いてあるものですから、触発されて一言書いてみましょう。「小生意気」は当然「生意気」とは違いますね。おわかりのように「小」にポイントがあります。たとえば「悪魔」と「小悪魔」とではまったく意味が違ってしまいますね。このように「小」には「小味」があります。【小味】とは、こまやかで、趣きある味という意味です。「小」をつける言葉はいくつもありますね。「小資本」でする「小商い」。「小意気・小粋」は、ちょっと粋なこと。何となく粋なこと。ちょっとしゃれていること。と「小」が効いていますね。「小ぎれい」「小ざっぱり」「小ぎたない」「小うるさい」「小利口」「小ざかしい」も「小」によって雰囲気が伝わります。「小役人」というのは公務員を「小馬鹿」にした言葉でしょうか。その動作を軽く行う意味を表すために「小耳にはさむ」「小腰を屈める」とも使いますね。唱歌にもつかわれている「夕焼け小焼け」「おお寒小寒」などは語調を整える意味で使われています。面白いのは、互いにしたり、相競うことにも「小」を使っています。今では平仮名をあてますが、「ゆるしつこ」、「駆けっこ」などです。「おしっこ」なども、子どもたちの連れションから生まれたのかもしれません。また、状態をあらわす「どんぶらこ」「ぺちゃんこ」の「こ」も「小」が転じたのではないでしょうか。「ペチャパイ」は、そこからもう一転がりした言葉でしょう。えー、だから(?)志穂音さんの「小生意気」は「生意気」とはまったく別ものなのです。(こじつけの汗、汗)
2004.01.26
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今日は当市のリーダーを選ぶ選挙がありました。昨年の選挙疲れがあったのか、8年ぶりの市長選挙で天気が良かったのにもかかわらず投票率があまり伸びなかったようです。現職が強いという下馬評もあって、市民の期待感も弱かったのかも知れません。冒頭の川柳ではありませんが、市政も退屈から抜けきるところまでは届かなかったようでした。(まだ開票しているわけではないので当たるかはわかりません。投票の出足での判断です。)最近は、どの選挙も投票率が低下する一方です。投票時間の延長、不在者投票の要件緩和、在外投票などの投票率をあげるための環境整備は進んだのに大きな効果は出ていません。なぜでしょう。今度の選挙にかぎらず「入れたい人がいない」という声もよく聞きます。これは良い候補者が出ていないという意味にもとれますが、有権者にもおおいに問題がありそうです。広報もロクに読まずに「誰に入れても同じ」といってしまう人が多いのですが、これは違うということを強くいいたいのです。たしかに、前例を踏襲するだけの政治では誰がやっても同じでしょうが、たとえば長野県政をみればそのへんは如実にわかります。意欲があってやる気のあるリーダーが頭にたてば、全体への波及効果はかならずあるものです。ただ、やる気があっても、いまの政府の「米国追従路線」のような困った「やる気」は考えものですが…。全体的な選挙をみると、政党の二極化をすすめた結果、個性的な政党や政治家が少なくなっているということも、低投票率の背景にあるのかもしれません。 今年は参議院選挙もありますが、増え続ける無党派層という人たちの行き場所を政策の面でもきちんと受け入れてくれる政党がでてくるのでしょうか。さんざん裏切られつづけてきた結果、政治的不感症がますます増えてしまうのはゆゆしき状態だと思うのですが…。殺伐とした話題だけでもつまらないでしょうから、趣を変えますが、先の川柳の作者には星になりにいくトロピカルレストランという句もあります。トロピカルレストランにはきっと彼が待っているのでしょう。そこにでかけるときには、ちょっとおしゃれをして星になりにゆくなんてちょっと素敵だと思いませんか。 ところで、アメリカの牛、そしてニワトリこの世は大丈夫なんでしょうか。
2004.01.25
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わが家の猫は、アメリカショートヘアー系の雑種で名前をテンという。牝だがオテンバがひどく、生後1年もたたないうちに父親もわからない子どもを身ごもってしまった。あまり早く避妊手術をして子どもの産めない身体にしてしまっても可哀想だとおもい、自然のままにしていたのだが、以来、何度も親に黙って不純異性交遊をつづけ、そのつど里親捜しに苦労させられてきた。飼い主がいうのも何だが、誰からも可愛い美猫といわれる。身体もやや小柄で眼つきもいい。そのため、子猫が成長してもきっと親に似るだろうと、たいがい喜んで貰ってくれていたのだが、ある家に貰われて成長した子猫をみて驚いてしまった。まるまる太っているうえ、わが家のテンとはまるで似つかわない不細工さではないか。あきらかに父親の血をひいているらしい。そこで、いつまでも詐欺的に子猫を押しつけていては申しわけないと、とうとう避妊手術に踏み切った。これで少しはおとなしくなるだろうと思ったのだが、まだ牡猫が訪ねてくるのだ。わが家は猫専用の出入り口があって、猫は自由に出入りできるようになっている。そこから、例の不細工な子猫にそっくりな牡猫が出入りしていたのだ。これまでどうも餌の減り方が早く、わが家の猫にしては食事の後が散らかりすぎていると思っていたら、案の定なのだ。そこで、猫の入り口を家から出ることはできても入れないようにしていたのだが、鍵のかかっていない窓を開けて入ったらしい。2日ほど前、職場から帰って家に入ったら、家中が臭い。なんと、家の中のあちこちにマーキングをしてあるいたらしい。これにはさすがの僕も、怒り心頭。つぎの日に、わが家の芝生にいた不細工な牡猫にホースで水をかけてやった。信州の冬は寒い。普通ならこたえるはずだが、その日は天気もよくあまりこらしめの効果がなかったらしい。次の日も訪ねてきたらしい痕跡があった。もっとしっかり追い払わなくてはならないのだろうか。可愛い娘をもってしまった親の気持、皆さんもわかってくれるだろうか。 ね、美猫でしょ!
2004.01.24
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先日、自殺しようとしたここの病をもつ青年が、病院をたらいまわしにされている間に亡くなってしまったということを日記に書きました。ところが、その問題の病院で同じようなケースが何件も発生していることがわかりました。たとえばそのひとつ。腹部の激痛を訴えたお年寄りがまだ大丈夫だろうと軽い診断で返され、それでも痛みが治まらないため、別の開業医に診てもらったら腸捻転と判明、すぐに同病院に再送されたがその間に腹部で腸が破裂して亡くなってしまった。など、このほかにも幾つかの事例がつぎつぎと集まってしまいました。これは調査してみる必要がありますので、病院名を明らかにします。同病院で問題のあった方がおられましたら、このHPのメール覧に連絡をしてください。もちろん、相談者のプライバシーに関わることがらや当事者の許可のないまま内容を無関係の第三者に開示するようなことはありませんので、安心して事例をご報告ください。問題の病院は、最近完成した「伊那中央総合病院」です。ことに、同病院に患者を送った病院からも対応を批判されています。どのように調査するかはまだ確定しておりませんが、まずは事実関係をきちんと調べてから、改善をもとめてゆくことになります。当市は、明日投票の市長選が行われております。該当病院の広域市民への利便性については、前期の公約のなかで高々と掲げられて、今回も成果が書かれています。公約が正確なものであれば、現状の事例が起こり得るはずがないと思うのですが、このことも、まもなく決まるであろう新市長につきつけてゆくつもりです。
2004.01.23
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回覧板さん回覧板さんが書いておられることにとても共感します。それと同時に、ものごとを判断することのむずかしさを感じます。僕たちが社会を考えるとき、多かれ少なかれマスコミや風聞を判断材料にします。僕は、それが正しいか間違っているか判断する前に、とりあえずは向こう側に身をおいて考えてみようと思っています。たとえば犯罪があったときには犯人の立場として考えてみるということです。魔女狩りと同様なケースはしばし日本でもおきました。有名なものでは、関東大震災のときの朝鮮人虐殺事件があります。これなどは恣意的に誤った風聞が流されたことからおきた事件です。多数は普通、ニュースなどから正しそうな意見につきます。そして、ほぼその考えがあたります。何度かそうした行動があたってきたとき、10の行動すべてが正しいと判断しがちになります。実はこれが危険で、本当は10のうち7か8が正解で、残りが間違っていたということもあり得ます。ましてや戦争などの報道は、勝利者側からの情報をもとに流されることが多いわけですから…。その残った2か3が決定的に重要な問題だったりします。魔女狩りにおちいらないためには、大勢に流されることなく正確にみきわめる視点が大切ではないでしょうか。また、回覧板さんの提起に、正面からこたえていないことになるかも知れませんが、たとえば「自衛隊の派遣」についても、僕は100パーセントの確信をもって反対しているわけではないのです。無責任のように思われるかも知れませんが、もしかしたらあんに相違して喜ばれる仕事をして短期に帰還できるかもしれません。いや、そう望みたい気持ちです。しかし、もし無事に任務完了できたときに、当然のようにこの実績を踏み台に次の対米協力が待っています。こうした繰り返しが常習化したときに、かならずといっていいくらいどこかで決定的な破綻が訪れます。たとえば、スペースシャトルの事故のように完璧を期した仕事でも、何度目かの大事故はおこるものです。これが、国全体の命運をかける国防問題となれば、一度の失敗が数十年の努力すべてを水泡に帰すような命取りともなりかねません。ましてや、隣国に問題を抱えているとなればなおさらに慎重を期さなければなりません。外交を考えるとき、僕はたとえ遠回りでもすべてをやわらかく包み込みながら解決をめざすという方法がベストだと確信しています。歯がゆくすべてを満足する結果はでないかもしれません。しかし、人生も外交も、ハッピーだけで終始することなど望んでも無理なことだとわりきれば気が楽になります。アメリカがいまイラクで行っていることは、イスラエルがパレスチナでやっていることと同じレベルでイスラム諸国からみられているのではないかという危惧をもっています。そうだとしたらこの先延々と泥沼の戦いをつづけ、そして日本も、無自覚にその歯車として巻き込まれていくことになります。イスラム諸国が、日本を「アメリカのいいなりになっている気の毒な国」とみるか「アメリカのいいなりになっている憎むべき国」とみるかは、僕には正しくは判断できませんが、砂漠に暮らす人々のイスラムにたいする誇りは、自爆攻撃をみても半端ではないと思います。楽観論は捨てるべくでしょう。日本はいままでイラク国民にとって、敗戦から奇跡的な復興をとげたあこがれの国として親しみをもってみられてきたようです。これは日本が意識してそうしたスタンスをとったからではなく、半世紀以上コツコツと積み上げた実績でようやく培われたものです。人は信頼関係があるときと、無いときでは同じ行動をとっても、全く別の反応をされるものです。かりにアメリカが本当に善意でイラクを助けようとしていても、根付いた不信感があるかぎり利己主義、偽善的な侵略者というようなみかたをされていくことでしょう。米兵の死者が500人、イラクの民間人の死者が10000人を超えたそうです。その犠牲者の家族や身内が、なおこの戦いが正しいものであって、平和と正義のために殉じたと納得できるか否かは、僕たちのようにマスコミなどの情報だけで判断している者たちより、直感的な当事者たちの判断のほうが絶対的に正しくて、しかもとどめようのない結論になるのではないかと、僕は思います。魔女狩りについての、一般論としてはとても同感します。回覧板さんの、このところされている提起はつい忘れがちなとても大切なところを押さえていると思います。それに正面から答えていないことへのもどかしさもあるかと思います。答えを誰かが代表して発言して、それにみんなが頷くというパターンは、やはり一つの魔女狩りに似た状況をつくりだしかねません。一人ひとりが、自分の頭で考え、判断するということが、本当の意味での民主主義だと僕は思っています。かつて、連合赤軍の事件、オーム事件などのときにもしかしたら自分も魔女を糾弾する側にいたのではないかと、反省もこめて―。
2004.01.22
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このところ天気がめまぐるしい。当地方は冬には零下10度以下になることもたびたびで、気温は凍みあがるという言葉ほどに下がるが雪は比較的少なかった。過去形にしたのは、ここ数年何十年ぶりかというドカ雪が降ることがあって(毎回そういうのもヘンだが…)、おもわぬ苦労をさせられているからだ。最近は一年おきくらいに、豪雪地のようなとんでもない雪降りになる。昨年は少なかったから、今年は降る可能性が高いのではないだろうかといまから戦々恐々としている。雪が降ると、楽しいのは動物たちとの接近戦ならぬニアミスがはじまる。鳥は地表のえさが隠れてしまうので、民家の付近に集まりだすから、二階のベランダや軒先などに餌を撒いたり鉢にいれておく。ちょっと困ったことに我が家にはオテンバ猫がいて、ときどき餌にきた鳥を捕らえてしまうことだ。家のすぐ近くに道路を横切る獣(ケモノ)道があって、夜中に事務所から帰って行くとき、狐や狸、ハクビシンと出会うことがある。不思議なことに、狐も狸もハクビシンも同じ場所を横切るのだが、そのためときどき車に撥ねられる動物がでる。そのほとんどが狸だ。毎年1,2匹は撥ねられてしまう。 虎はいません、ときどき大虎にはなりますが…狐も狸も犬科なのに敏捷性がだいぶちがうようだ。猫が車にはねられることが多いのは、車のライトが網膜にあたると一瞬何も見えない状態になり、その場に立ち止まってしまうからだと聞いたことがある。狸も同じ状態になるのだろうか。その点、狐は敏捷で身のこなしも美しい。このへんは食料が豊富なのか、毛並みもよく自動車のライトに照らされると、光を帯びて神様のつかいのようにさえ感じる。人間でもときどき女狐などという冠をつけて呼ばれることもあるが、むかしから狐には人を魅惑する資質を備えているのかも知れない。
2004.01.21
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さすがわが家付近にはでないが、山際の集落には猪が出没して農作物を荒らし始める。猪は、雪深い地方には棲まない。足が短いため、雪深いと行動がままならないためだ。何かとても共感をおぼえて、気の毒な感じがするのは僕が同類のためだろうか。当市にグリーンファームという産直市場があり、小林さんというこの地域では知らない人はないという奇人(?)が社長をしている。この小林社長は個性が強いため、ときには陰口をきかれたりすることもあるが実はとてもヒューマニストで人のみならず動物の面倒見もいい。(といっても、少年時代には小鳥や野ウサギを罠で捕らえて食べていたようだが…)そこにはミニ動物園とみまごうばかりにさまざまな動物が飼われている。珍しいものでは駝鳥、猪、ときには熊、もちろん山羊やポニー、そしてウサギやアヒルなどの小動物も同居している。迷子の野生動物の子どもなどがいるとここに持ち込まれるため、それらが居着いてしまうのだ。ちなみに駝鳥は、迷子だったわけではない…。そもそもグリーンファームを始めたきっかけは、強いアル中だった人を更正させようとニワトリを放し飼いにして面倒をみさせたのが始まりだ。コケコッコ牧場の卵の販売が、地域の人々が自家用に作る野菜の余ったぶんの販売、農協に虐められてきた生産者を組織して、産直市場へとどんどん発展して、今では億という月商をあげるようになった、ようだ(帳簿をみたわけではないので…)。ある日訪れたところ、ブタが放し飼いになっている柵のなかで小林社長が汗をかきながら穴を掘っていた。何をしているのか聞いたところ、猪とブタを結婚させてあげたいのだけれど、牝ブタが大きすぎてカップリングができないのだという。そこで、ブタの身体が腰のあたりまで入る穴を掘ってあげているのだという。なるほど、これなら猪のあしが短くてもとどく。雄猪はどのようにモーションをかけたのか知らないが、めでたくカップリングが成功して、まもなくかわいいイノブタが生まれた。小林社長のこころづかいは、人間だけではなく動物にもゆきとどいているようだ。当地を訪れたら立ち寄ってみるといいだろう。ムツゴロウ王国ではないが、小林さんが面倒を見ているさまざまな動物たちが歓待してくれるはずだ。
2004.01.20
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言葉について考えてみました。このところの政治ことばを聞いていると、言語明瞭意味不明な言葉が気になってしかたがありません。ことに、こんどの「イラク派兵」に至る経過について、小泉首相や石破長官の言葉は単語としてははっきりしているのにもかかわらず、俯瞰してみると矛盾が多いんですね。そして、その明確な単語になんととなく納得してしまう人がいることにも、不思議を感じてしまいます。単語をちりばめて接続詞でつなげば、なんとなく明瞭な発言に聞こえてしまうのですね。接続詞はご存じの通り「そして」「しかも」「しかし」「したがって」「にもかかわらず」などですが、こうしたつなぎ言葉で積み木細工のように並べられると「派遣もやむおえないか…」となってしまうのが不思議です。日本語はとても優れたことばだと思いますが、優れているだけに使いこなすのが難しいのですね。つい、面倒なことはサラッと聞いて納得したつもりになってしまう。これは怖いですよ。ただし、逆に論理的に文章を書こうとしたら、この接続詞を使いこなすだけで、名文とはいかないまでもそれらしい内容にできあがりますから、どうぞ試してみてください。ああ、なにか意味不明な文章を書いてしまったようです。もういちどミドル英二さんのメルマガで勉強しなおしてきます。皆さんもご一緒にいかがですか。
2004.01.19
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子が産まれ泣きたいほどに嬉しくてどきどきとして新雪を行く 原千春 この歌を読んであなたならどんな情景を思い浮かべますか。後を読み進む前にまず情景を描いてください。 さて、ここから浮かんでくるのは、若い妻に初めての子どもが産まれたときの新米パパの心境でしょうか。それとも、お姉さんに初めての赤ちゃんが産まれて会いに行く妹の情景でしょうか。それとも、お母さんに初めての妹が産まれたときの女の子の心境かな…。と、それぞれにさまざまな情景が描かれたことと思います。この歌は「朝日新聞」の朝日歌壇での佐々木幸綱選での入選句です。佐々木幸綱もこの歌から受けた初々しい情景をコメントとして書いていますから、だれもがこの歌からリアリティーをもって感動を受けとることのできる短歌だったのでしょう。この作者、原千春さんはいわゆる精神的な障害をもつと認定されている女の子です。精神障害は、現在では統合失調症ともいいますが、さまざまなタイプがあります。躁鬱病、人格障害、トラウマ、境界性人格障害、多重人格、パニック障害、アルコール依存症、自閉症…などさまざまな症状があって、どれかひとつ、あるいは幾つかをもっている場合に相当します。こうあげてゆくと、現代人は誰もがどこかにあてはまってしまうかも知れません。僕も家族依存症だといわれているし…。そのなかでも、一般社会のなかに適応ができにくいひとが、晴れて(?)精神障害者と社会的には認知されるわけです。千春ちゃんは、お母さんのやっている障害者のための作業所を手伝っています。以前にも書いたことがありますが、お母さんは手作りパンの店をやっています。働いている人たちもさまざまな障害をもっていますが、チームワーク良く切り盛りして、おいしいパンを焼いています。パンの評判もなかなかで、市役所の売店や一般のレストランでも使ってくれているようです。隣にはやはり障害者たちで運営するレストランがあり、千春ちゃんはそこのウエィートレス兼レジをしています。テキパキとはいきませんが、あまり流行らないレストランなので彼女でも十分まわってゆくのです。スープは唐沢君という男性が担当していますがなかなかの凝り性なので、とてもおいしいスープを出してくれます。店員は、五、六人いるのでしょうか。常時は客より多いようです。店員が見ていると食べにくいこともあるんですね…。いつものことですが、話題がわきにズレてしまいました。千春ちゃんの短歌に戻ります。
2004.01.18
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この短歌は、実は現実の世界のことではありません。千春ちゃんは独身で、お母さんも兄弟も子どもを産むような気配はもちろんありません。では、誰から産まれた子どもなんでしょう。千春ちゃんにはいま現実の家族がいます。産んでくれたお母さんと再婚したお父さんです。実の父親は離婚して別の生活を送っています。しかし心のなかにはまったく別の家族がいて、こころのなかで生活しています。いわゆる多重人格とでもいうのでしょうか、そこにいる家族も千春ちゃんにとっては大切な家族で、現実の家族とおなじように歳を重ね、減ったり(亡くなる)増えたり(産まれる)しているのです。こころのなかにいるもうひとりの千春ちゃんが産んだ赤ちゃんに現実の千春ちゃんが会いに行く気持ちを謳ったのが、このときの情景なのです。そして、それをお母さんお父さんという現実の家族も祝福してあげている。千春ちゃんも嬉しそうに微笑んでいるという情景がそこに生まれているのです。文学でも文芸でも、創作にはイマジネーションが求められます。ノンフィクションであっても、確認できた事実と事実をつなぐものは、推論というイマジネーションに負うところがあるのだと思います。よく思うことですが、障害をもっている人たちは、逆にはとても特化された感覚をもっていることが多いものです。幻視とか、幻聴なども、僕たちが見えないもの、聞こえない音や声がくっきりと見えるのだといいます。同じ色、同じ音を聴いても、もっと鮮やかだったり刺激的だったりすることもあるのだといいます。これは、ないものを見ているのだと僕たちは考えますが、実は僕たちに見ることや聴くことのできる能力が欠けているのかも知れないのです。そして、千春ちゃんのつくる短歌は、僕たちの感じることのできない世界をリアリティーに映してみせてくれたのだともいえます。
2004.01.17
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精神的な障害をもつ人たちに、社会的な認識はとても低いようです。障害者たちで運営しているレストランも、同じ境遇にある子どもたちをもつ家族や福祉にたずさわる人たちが訪れるほかは、変わり者(まっ、平たくいえば僕たちのことです)がときどき行くくらいで、あまり繁盛しているとはいえません。味が悪いということではなく、そういう環境のところに足を運ぶ意識が薄いというのが現状でしょうか。また、大阪池田小の児童殺傷事件が起こったとき、報道機関は大きくこの事件を取り上げ、ことさら容疑者の精神科への入・通院歴や診断名について、大きく報じました。この事件は精神障害者本人や家族などにも、大きなプレッシャーを与えました。「周囲の人に危険な目で見られるようになった」「精神障害者復帰施設建設反対運動が起こってしまった」といった相談が数多くあったそうです。精神障害と凶悪事件とを容易に結びつけた報道によって、通常に暮らしている精神障害者や精神科に通院している人たちは大きな心の傷を負ったのです。覚醒剤などの幻覚症状で、凶行におよぶことがあるということは知られているところです。しかし、ほとんどの精神障害者が傷つけるとしても、その相手は自分自身であって他人ではないのです。自分への殺人(自殺)というケースが大多数なのです。これは、優しすぎてとか、楽になりたい、解放されたいという欲求がより強まったときに、発作的にクスリを飲んだり、手首を切ったり、身を投げたりとしてしまうのです。最近も原さんのグループに入っている仲間のひとりが、この暮れに亡くなりました。衝動的にクスリを飲み、苦しんでいるところを発見され、救急車で市営の病院に運ばれましたが、精神障害者ということで、胃洗浄もせず、点滴でかたちだけの手当をしただけで救急医療の施設のない、隣の市の精神科病院にたらい回しされました。数時間後にその病院に着いたときには、心停止状態でした。送られようとした病院は、患者が以前治療を受けていた病院ですが、そこに行くことを本人は嫌がっていました。市営の病院では、患者のことをくわしいのだろうという判断だったのかも知れません。
2004.01.16
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なぜこのようなことが起きたのでしょうか。亡くなった男性は母子家庭で育ちましたが、青年になってから家庭内暴力を頻繁に起こすようになり、母親は青年を捨てて家を出ました。このとき、母親はわが子が精神的障害をもっているということを知らず、グレて粗暴になったと思いこんでいたようです。青年は、福祉関係のボランティアたちの援助をうけるようになり、それからのケアーの効果があったのか、ひとの変わったように優しさを取り戻していったようです。共同作業所で覚えた工芸に優れた才能を発揮し、将来が楽しみといわれていた矢先の事件でした。鬱などをもつ障害者が死を選ぶとき、好転していく過程が多いようです。専門的なことは僕にはわかりませんが、ふと、自分の現実が見えてしまったとき、あるいは躁が行きすぎた状態といったらいいのでしょうか。当市では昨年、この地域医療を広域で担うべき新しい公営の病院が完成しました。最先端の施設を導入して、建物も立派です。ところが、病院の対応にはもうひとつ良い評判が伝わってきません。“仏つくって魂入れず”という言葉がありますが、現代医療はとかく最先端な治療器機ではかられがちです。折から市長選挙が始まっていて、この病院の建設も現職市長の大きな実績として手柄あつかいされています。たしかに、この不景気の中でも、大病院や駅前ビルなど立派な建物が完成して、街の景観もいくぶん明るくなったかのようにみえます。しかし、これらの建物に“魂”が入ったのだろうか、と感じながら宣伝カーの行き交う街並をながめているところです。亡くなった青年の身柄を、身内は誰も引き取りにこなかったそうです。火葬から葬式まで、すべてをボランティアグループと青年の仲間たちでおこなったそうです。「約20万円あれば、葬式ができることがわかって勉強になったわ」と、パン屋の原さんはいいます。何度も母親を説得して、ようやく青年のお骨を引き取りにきてもらったそうです。母親に捨てられてからこれまでの、青年のたどった生ざまを噛むように説明して、ようやく母親の涙をみることができたそうです。しかし、母親の実家では青年の骨を同家の墓地に埋葬することを許してはくれず、まだ母親のもとにあるようです。障害を負ったばかりに、亡くなってからも不幸な運命を背負わなければならないのでしょうか。いや、それともようやく母親と二人の平穏な日々を過ごせることを喜んでいるのでしょうか。精神障害という、ひとつの病気の抱える重さを感じたこのごろです。
2004.01.15
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戦争の形態が違ってきたためであろうか、イラク戦争に関する記事でも読者がおもわず引き込まれるような記事が少なくなっているような気がする。かつて、僕たちの少年~青年時代にかけてあったベトナム戦争は、戦場をあるときは兵士と、またあるときは民衆のなかに紛れて駆け回るジャーナリストがいて、その写真や記事におもわず引き込まれ、自分もその場にいて涙するような思いにかられることも少なからずあった。カメラマンでは、岡村昭彦、沢田教一、石川文洋、酒井淑夫、嶋元啓三郎、峯弘道、一ノ瀬泰造、小川卓、秋元啓一、若林 弘男等々が数々の緊迫感のある写真を伝えていた。ご存じの名前も幾人かあるかと思うが、沢田教一や酒井淑夫はピュリツァー賞を受けている。そのほかの人たちも、数々の作品賞を受賞しているが、もちろん賞のために撮っていたのではあるまい。カンボジアで26才で死んだ一ノ瀬泰造氏については、99年にNHKで彼の生き方を描いたドキュメンタリー「地雷を踏んだらサヨウナラ」が放映されたので、記憶に残っている人もいるだろう。石川文洋氏はの講演はお聴きしたことがあるが、戦場におけるジャーナリストがいかに死と隣り合わせたところで事実を伝えようとしているかがひしひしと感じた記憶がある。石川氏のほかの、上記に名前のあげたカメラマンはほとんど取材現場などで亡くなっている。報道のために殉死することが、本人たちにとってどんな意味をもつものなのかは、僕にはわからない。しかし、一途に事実を伝えようとした彼らの姿勢によって、世界が動かされたのも事実だとおもう。
2004.01.14
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『週刊金曜日』の本多勝一氏は朝日新聞記者として、ベトナムから優れたルポを送っていた。本多氏の文章がきわだっていたのは、実際に見たものは見たもの、聞いたことは聞いたこと、本人が推定したことは推定したこととして、それにふさわしい用語と位置で書かれていたことだ。伝えられる内容に、あいまいなものが何もなかったから読者は本多氏の伝える“事実”の集積から紡ぎ出される「意味」や「主張」に賛成するしないにかかわらず、本多氏のつたえる文章とともに動き、判断するという行動様式になっていったのだと思う。もちろん彼はジャーナリストで、煽動者ではなかった。しかし、感情をないまぜにすることなく事実のみを客観視して伝えたからこそ記事が生きた文章として読者に届いたのではないだろうか。当時は、ジャヘナリストたちの真実をとどけようという熱意によっても反戦の火がいっそう高まるといった側面があったように、今は思える。最近のジャーナリストの文章に、本多氏の書いた文章のように事実を伝えられることなのに、つき動かされることが少なくなっているように思うのは、自分の眼で見たものと、発表されたものをドロ粘土のように練り合わせ、つくられた記事が多くなっているのではないだろうか。あるいは過酷なことを求めているかも知れないが、風聞や一方の側から発表されたものは、9割がた疑ってかからなければならない。にもかかわらず、いわゆる大本営発表で記事をもとに書くということは、真実を伝えることの多くを放棄した態度とみられても仕方がないのではなかろうか。事実を、真実を、情報が錯綜する時代だからより確かなものが欲しいと思う。 ところで、あえて言えば近年の本多氏の文章はジャーナリストとしての手抜きが感じられる。もちろん、とるに足らない事例だが、我々とちがって書くことによって大勢に影響力を与えているのだから、いささかの手抜きもされるべきではないと思う。ただし、あげ足とりをする趣味はないので、ここで書くことはしない。
2004.01.13
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それぞれ個々に持つ信仰とは別に、信州にはおおきくわけて二つの信仰があります。ひとつは善光寺を源にする善光寺信仰。善光寺の本尊は日本最古の仏像と言われており、説話や史書に仏教の日本伝来の証を物語っているとされています。もうひとつは諏訪大社を源にする諏訪神社信仰です。諏訪神社は豊饒を祈る信仰とされていますが、水を治める神としても各地に奉祭されました。 信仰といっても、特定の宗派といえるものではなく八百万の仏さまや神さまたちの集まったお寺や神社ですから、わけへだてなく誰もを受け入るという、実に日本的、よくいえばおおらかでファジー、悪くいえばいいかげんでルーズな信仰なんですね。僕の住む伊那谷は、諏訪大社の影響が強く、諏訪から南アルプスに沿って静岡県の秋葉神社までの道すがらを秋葉街道といって、信仰の街道が貫いていたのです。その街道沿いには、縄文時代から脈打ってきたのではないかと思える信仰を起源にするさまざまな祭りや習俗が息づいており、それがとても素敵な文化としていまも残っています。ちょっとゴウインかもしれませんが、その文化が自然なかたちでの「平和」とか「人権」と結びついていたのではないかと、今年の僕たちのグループではその勉強会をしてみようかということになりました。なぜ「平和」や「人権」かというと、この地方では昔から「民衆」や「大衆」というひとくくりにせず、一人をタマスと呼んで尊重する習慣があったのです。タマスはタマともいい、悪玉善玉のもとになった言葉です。玉とは宝物のこと、ひとりの宝という意味にもなります。古語には、現代語よりステキな言葉がたくさんあります。たとえば、性器の俗名などは現代語約では書くのがはばかれますが、「古事記」のなかでは実におおらかな表現方法で、男性器や女性器を紹介しています。そのひとつ天の岩戸開きにでてくる神様たちのふるまいから、さわりを少しだけ紹介してみましょう。天照大御神を誘い出す大宴会の準備は大わらわです。こうして、岩戸の前には八百万の神々が、わいわいがやがやと勢ぞろい されました。そこへ登場してきたのが神々の人気者、あめのうずめ(天宇受売)でございました。天の香久山のひかげのかづらをたすきにかけ、まさきのかづらを髪飾りにし、魔よけの笹の葉を手に持っています。そして、ステージがわりの大きなおけを伏せてその上に乗り、とんとんリズムをとりながら面白おかしく踊り始めました。おけは打楽器のように大きな音を鳴り響かせています。調子に乗ったあめのうずめは、しだいしだいに神がかり状態になり、踊り狂い出したのでございます。乳は左へ右へ、上へ下へと揺れ動き、裾はめくれて女陰(ほと)はあらわに見え隠れしました。日本初のストリップでございます。そのようすがとてもおかし く、神々はお腹をかかえてどっと笑ったのです。『咲ひ』と踊りは、邪気を払う呪術のひとつでもあるのです。そのどよめきは大音響となり高天原中に響きわたりました。そればかりか、あめのうずめにつられて八百万の神々も立ち上 がり、思い思い体をゆすって踊り出し、岩戸の前のにぎやかさは今やたけなわです。「世の中は暗く嘆いているはずなのに、どうして外はにぎやかに笑い踊っているのだろうか?」岩戸の中の天照大御神は不思議に思い、そっと戸を細めに開けました。現代語では書きにくい「ほと」なる言葉は「誉処」「御処」とも書かれたとどこかで読んだことがあります。昔は、子孫繁栄の象徴として敬称されていたわけです。男根もまた、おなじように信仰の対象として石の彫刻などの造形物として各地に残っています。いや、このようなことを勉強しようということではなく、人間がなぜ生き延びてきたのか、「平和」とか「人権」がことさらの言葉としてではなく、この伊那谷の文化に息づき隠されているのではないか。そのキーワードが言葉や祭りの踊りにもある……のかも?というようなことに取り組みます。たぶん何百年とつづいた素朴な祭り体験もスケジュールに入ってきますから、興味のある人は一緒にご参加ください。どうも僕が書くと、イロがついてしまうようです。ちょっと忙しくて書きっぱなしですから、間違いなどあると思います。ほどほどに眉に唾をつけてお読みください。また、折々に紹介もしますから呆れずにおつきあいくださいな。
2004.01.12
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阿久悠さんという作詞家については皆さんもご存じでしょう。少し懐かしい歌では「また逢う日まで」「北の宿から」「勝手にしやがれ」「UFO」など、たくさんのヒット曲に詞を書いています。若々しい詞を書いていますが、「瀬戸内少年野球団」の時代に生まれていますから僕たちより一回りも年上になります。阿久悠さんの著書に、僕のニュース詩『ただ時の過ぎゆかぬように』という本があり、つらつらと読んでいます。正直に告白しますと、自分の中でものごとへの感覚が鈍ってきたかなと思うときには、よりすぐれた感性をもっている人たちの文章や作品に触れて、リフレッシュさせています。ようするに刺激をもらうということなんですね。その阿久悠さんの文章のなかに、〈ことばがことばの値打ち以上に力をもつというのが、とてもいやなのです。たとえば「平和」にしろ「自由」にしろ「平等」にしろ、なくてはいけないものですが、「平和だからこういう考えに従え」というのは怖い。平和ではないものが出てくる可能性があります。〉というくだりがあります。いまは「平和」という言葉を僕たちも使い、さまざまなところから露出過剰のようにでています。阿久悠さんの危惧が端的にあらわれているなー、とつくづく思います。今日も日本各地で「ピースサンデー」的な行事が行われ、それとは別なかたちで政府も「平和のための」自衛隊イラク派遣が既定の事実として進んでいます。僕たちは、こころの隅で無視されていることを承知しながら〈クラクションを鳴らして〉います。阿久悠さんがいいます。〈新聞や放送のことばから、「平和」や「平等」や「権利」や「人権」が消える日がきたら、どんなにすばらしいかと思う。〉とのべ、〈しかし、ここで注意しなければならないのは、「消える」であって「消される」ではない。消される日であってはダメです。僕らが見ていなくてはいけないのは、これが消えたのか消されたのか、そういうチェックであって、右が正しいとか左が正しいという意味のチェックでは、たぶんない。〉とも書いています。いまは、「テロ」とか「国際貢献」という言葉とともに、「正義」とか「平和」という言葉も飛び交っています。これらの言葉か聞かれなくなる時代、それは、とてもユートピアな世界なのか、それとも悲観的世界[pessimism]なのでしょうか。いずれ、そのどちらかに傾く日が来るような気がします。
2004.01.11
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『信濃毎日新聞』に紹介されていた、英検1級に合格したという中学生の植木安友香ちゃん、なんと信大の植木先生のお嬢さんではないですか。信大の先生方は肩の凝らない人が多いというのか、僕のような変わりたちが親しくしていただいている先生方が多いのですが、そのなかでも一番若い人です。僕たちグループの活動にもたびたび参加していただいています。先生というより真面目で熱心な青年だと思っていたら、子どもまでつくっていたとは…。この植木達人先生は、信州大学農学部森林科学科の助教授ですが、『足元の森林を見直す』をテーマに、現場を重視した研究をしていて、一般の人たちに公開講座を開いています。わざわざお金をかけて「森林講座」で学ぶために信州まできた人たちと力をあわせて森林の再生事業にとりくんで、成果が広がりつつあります。森を大事にするということは、放置することではなくそこに訪れ、きちんと手を入れ、経済的にも活用すること。間伐材はいまに資源の宝庫として見直されるかも…。植生を偏らせることのないように多品種にすることなど、森を再生させる実践的研究をつづけています。戦後の建築材伐採跡の植林計画により、針葉樹ばかりにして洪水被害や、生態系に大きな影響を与えてしまった反省もあって、良い森をつくる研究は地道に進んでいます。長野県知事田中康夫の森林政策を先取りした活動といってもいいでしょう。信州大学のすばらしいところは、個性的で多様な教授が既成観念にとらわれない研究をして、それを現地で生かしていることでしょうね。赤蕎麦を生みだした氏原暉男先生は、ケシ栽培で有名だったヒマラヤに移住して、蕎麦栽培を指導して、とうとう現地の主要作物をケシから蕎麦に根付かせてしまったという、どこかの国のODAの方々に見習ってもらいたいような実績をあげています。こうした活動をしている先生たちの活動も、多くは自腹をきって活動していますね。好きでやるのだからそれでいいという考え方もできますが、自費でできる活動は限られてしまいます。国費をバラ撒くようなODAにカネを使うより、きちんとしたNPOなどの組織に使わせたほうがずっと有効だと僕は思うのですが…。いま、国の財政難を契機に、国立大学の独立行政法人化案を発端とする最近の急激な改革の動きがありますが、財政難の国が、反対の多い自衛隊イラク派遣に膨大な国費を垂れ流し的に使って、大学などへのわずか数百万円の補助金を削りだしているのには、なにをかいわんやです。そういえば、絶滅が危惧されている雷鳥の研究をしている、大町の山岳博物館への補助金も打ち切りになったそうですね。自衛隊イラク派遣問題も、戦争に反対するという観点だけでなく、膨大な費用のしわよせが、日本全国でおこなわれている地道な活動にドカッとしわ寄せされるということからも反対すべきなんです。すっかり話しが脇にずれてしまいましたが、その英検1級の植木安友香ちゃん、将来は国連に勤めて戦争を無くすための仕事をしたい、世界平和に役立ちたい、という夢を語っています。お父さんも、平和への活動にとても理解のある人ですから、実現の可能性がありますね。ところで、英検の1級って新聞で紹介されるほど大変な資格なんですか…? 珠算一級とか、簿記1級とおなじように思っていた。
2004.01.10
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以前、友人たちと愛知県にある「愛知たいようの杜」という福祉施設を訪れた。ここは、特別養護老人ホーム(特養)と幼稚園、介護福祉士などを育てる専門学校が、30万坪という広大な一つの森の中に併設して建てられている。と、ここまではそう目新しいものではないが、そのコンセプトが素晴らしい。入所者は「杜人(むらびと)」さんと呼ばれている。敷地内は、丸太小屋風に建てられた施設と土の道、というようにとことん自然の姿にこだわって設計されていた。施設は可能な限り開放的に運営され、そこにいる人々は(どれが職員で、どれが外部の人か区別が難しいが…)みんな礼儀正しく、気さくで、ニコニコイキイキと働いていた。特養施設のお年寄りのプライバシーは尊重され、入所者の部屋は一軒の家とみたてられ、自分の家具を持ち込むことも、施設内にある食堂や喫茶店でのヒマ潰しも自由、夕方五時から開店するビアホールで飲むのも自由(小遣いの範囲でだろうが…)、もちろん所内恋愛も…。そして、これまた開放的な幼稚園から、幼児たちが(引率でなく)遊びに訪れたり、中庭に棲む動物たちの世話をしたり(されたり)、芸術作品の創作に励む人あったりという楽園が、杜のなかに繰りひろげられている。ここに入所してから痴呆症が改善されたという人が大勢おり、人間には、木や動物などの自然と、のびのびと生活できる環境がいかに有用かが、実感できた。ちなみに人気があって、僕がここに入所するためには、今から申し込んでおかなくてはムリかもしれないが…。今はどのようになっているのだろう。ニワトリも飛び交っていたような…
2004.01.09
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僕も「憲法」を教典のように唱えるだけという建前平和主義にはなじめないものがあります。そういう意味では「憲法改正」という文言には動かされるものがあります。現「日本国憲法」をより厳密に運用できるように補強するための「憲法改正」ということであれば両手をあげて賛成しましょう。しかし、これはたぶん現政権下で「改憲」を目指す方々が意図するものとは違う方向なのでしょうね。〈日本国憲法が「自衛隊のイラク派兵」など現実におこっている情勢とあわなくなっているから、(これ以上拡大解釈のしようがないから)「日本国憲法」は捨てて、「自衛隊派兵」と整合性のある憲法を作ろう。〉という主張であれは、これは本末転倒なものですから許さざるべきものでしょう。しかしどのような方向であれ、国民の3分の2以上が合意して変わったものであれば、どんな憲法になろうともその下に従う、というのが国民としての義務で、民主主義のルールでしょう。僕は、基本的に「日本国憲法」はとても良くできた法律だったと思っています。問題は少しずつムリな拡大解釈を重ねてきた結果、気がついたら誰がみても一線を越えて「憲法違反」をしていることにあるわけです。しかも、本来なら法律を守らせるべき政府が率先して憲法違反をしていることに問題の主要なところがあります。これを「自衛隊派遣」がルール違反なら、ルールを変えれば良い。というのでは、サッカーでオフサイドがダメならオフサイドは廃止すればいいという論理です。あるいは、卑近にたとえれば、みんな浮気をするんだから浮気もできる婚姻制度に法律を変えよう、というようなものです。こういう変更を「ご都合主義」というのです。もし、現実が原則から外れてきているのなら、原則の位置を変更するのではなく現実を原則に近づける努力をすればいいのです。浮気が避けられないものであったなら、うしろめたい気持ちでコッソリとすればいいのです。国際協力とか人道支援の必要性については、ほとんどの国民が認めていることです。問題はそれをダシにして、原則まで変えようという姑息な意図にあるのです。国際協力とか人道支援は、アメリカやイギリスと同じ方法でなくても十分できます。ましてや、イラクのみならず世界各地から援助を求められています。日本の力量で、本当に必要なところにできる力量で支援をすればいいのです。と、かくいう僕は政治家ではありません。平均的な日本人なら誰もが思いつきそうな範囲で自分の考えをのべているだけです。政治家ではありませんから、述べたことにすべて責任をもつことはできません。日本の進路についてはひとりひとりが考え、正しい選択してゆけばいいことで、僕の意見もBARABARAさんの意見も、意見のひとつとしてこれを読む人達の参考にしてもらえばいいことでしょう。竜頭蛇尾という言葉もあって、威勢がいいだけではなかなか、うまくいかないことが多すぎます。 「アクション111」のお知らせ**********************************〈以下転送大歓迎!〉□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□1月11日の「アクション111」(自衛隊のイラク派兵に反対する行動)まであと5日(1月6日現在)と迫りました。1月11日1時、11分は、これ以上無駄な血が流されないよう、イラクへの自衛隊派遣に反対し、いっしょに祈り、平和の音をならしましょう。当日、東京は日比谷公会堂へ、大阪は中之島公園 女神像前へ集まろう!詳しくはこちらへhttp://f26.aaacafe.ne.jp/~actone/event.htmlそしてここから、様々な市民によるアクションを展開しましょう!アイディアを持ち寄って、互いにシェアし、行動しましょう!きっと、ここから世界を変えられます。※尚このアクションは、市民の有志によるもので、特定の宗教や団体とは一切 関係ありません。運営はすべてボランティアとカンパによって進められています。□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ホームページ上に当日のチラシがあります。http://cgi.f26.aaacafe.ne.jp/~actone/【東京アクションについて】 当日は、横井久美子さんらミュージシャンのステキな歌に加えて、NY在住のイラストレーター黒田征太郎さんによる、迫力に満ちた非戦の「ライブペインティング」もあります。 それから、岸恵子さんが集会当日、長文のメッセージを寄せてくださいます。沖縄から喜納昌吉さんに来ていただくべく現在交渉中です。大阪-東京の集会会場を結んでの携帯電話中継も行ないます。 会場に足を運んで下さる方は、EメールかFAXで、 「当日、会場に行きます! 5人で行くよー!」といった報告を事務局宛てにお願いします。 [A]1.11まで、あと1週間。EメールやFAXでこのメールや 上記ホームページに載せているチラシなどを、友人や仲間にど んどん転送してPRしてください。そして、御自身が会場に足 を運んでください。※日比谷公会堂は参加費500円頂きます。[B]集会に参加できない場合、1月11日にあなたがいる地域で、 お仲間と一緒にこのアクションに参加してください。報告し ていただけるとさらに有り難いです。[C]開催費用:30万円の会場費をはじめ、横断幕製作費、印 刷費、通信費など出費は嵩む一方で、1月4日現在約61 万円。もし、沖縄から喜納昌吉さんにお越しいただくとなる と、ノーギャラで演じていただいても、楽器や演者の輸送費 ・交通費などが必要となり、出費は他の雑費と合わせ最終 的には100万円近くまでいきそうです。赤字になるのはほぽ まちがいありませんが、これについては発起人である上原、 佐高、山口の3人と事務局の今井が負担させていただきま すので、御心配なく。 ただ、みなさんから小額のカンパを寄せていただければ 幸いです。口だけ出して、お金も時間も労力も費やさないと いう市民運動の悪しきパターンに陥らないようにしたいと考 えています。何とぞ、よろしくお願いします。 (なお1月4日現在のカンパ総額は0円です。ただし、黒田 征太郎さんより、「111枚の絵をカンパするから会場費に充 当して」と言っていただいております) ▼郵便振替口座(1月5日もしくは6日より利用可能です) 口座番号 00930-0-269828 口座名称 アクション111実行委員会 それでは、みなさんからの 「当日、会場に行きます!」という声をお待ち申し上げます。 本当に、きてくださいね。540-0004大阪市中央区玉造1-14-14-3F「アクション111」実行委員会事務局Email:iii@aqua.ocn.ne.jpURL:http://f26.aaacafe.ne.jp/~actone/TEL:090-5655-9577 FAX:06-6191-5313
2004.01.08
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「遊んであげない男」のタイプで、その道の達人(?)の方々からアドバイスをいただき参考になりました。このほかにも、飲むと会社や上司の悪口やグチをこぼしだす人。上に弱く下に威張る人。その場にいない人の悪口を始める人。口裏はすぐにあわせるのに行動しない人。もうひとつ僕があげると、タバコを食器の中でもみ消す人も好みではないですね。と、僕がぐだぐだいってもしかたがないですが…。ぼちぼちさんの「男が惚れる男」は、女性にも同じことがいえるでしょう。同姓から好かれる人は異性からも安心して好かれることでしょう。ところで、今日の地元のローカル紙に猿の写真を撮っている女性、みどりさんのことが載っていました。彼女はこのへんでは知らない人のない、漫画家・Hまんぷさんの奥さんなんです。ときどき家に寄らせてもらいますが、さっぱりとして楽しく、とても素敵な女性です。写真が趣味で四駆を駆って、野生動物たち、とくに野生の猿の写真を中心に撮っているんです。最近、山裾の畑や果樹園では猿の被害が大きく、捕獲駆除などでいじめています。そのため、野生の猿たちは人間への警戒心が強く容易に近づけないのですが、このみどりさんにはまったく警戒をしないのです。みどりさんが群れに近づきカメラを向けても、好きなように撮らせています。動物も、自分たちにとって危険な人間かそうでないか、ちゃんと見分けているのですね。動物にも好かれる人は、当然人間にも好かれる人だと思うのですが、いかがでしょう。ヘビに好かれる人が好かれるとはかぎらないでしょうが…。 『伊那毎日新聞』1/7版より解像度を下げすぎました、実物はきれいでしたが…。
2004.01.07
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という話題に女優さんたちのあげただけでは足りないらしく、追加のご意見をいただきましたね。ここは男性諸君のために整理しておきましょう(とかなんとかいって、僕の自戒にしますが…)。ひなまんまさんは「一緒に遊びたくない男・一般市民編」ときましたね。1.説教魔(オヤジ系に多いようです)2.蘊蓄魔(知識のひけらかしタイプは大シラケ!)3.自慢屋さん(誰も本気で聞いていないって……。)4.度を超した下ネタ連発の方(ご本人は楽しそうでも。ねぇ?)5.場の空気を読めない方。6.陰口、悪口、ウワサ話好き(不平不満だらけの方って、ホントつまらないです)さすがプロの物書き、観察が細かくていらっしゃる。いちいち頷ける。どれもいるいると言いながらも、胸がズキンと痛んだりして…。4の下ネタは、たしかに実力の無くなった男ほど多いような気がするけれど、僕もあまり好きでないんですね。これは女性と男性と感じる不快感は違うかも知れないね。5の場の空気、人の話をしているにそっぽをむいて隣の人と話しているようなタイプもそうだね。こういうの男からみても嫌いだよ。6の「陰口、悪口、ウワサ話好き」は女性のほうが多いのではないかなー。僕のつきあう男でこのタイプはまったくといっていいほどないから。エムツーさんは、それに加えて、1.「自分のことはよくわかっているよ」という顔をした感じ。2.「損得勘定が見え隠れ」する人。 という感じだそうです。唯乃葉羽さんは、「きれいな折り目のついたまっ白なハンカチを持っている男」ということへの解説をしてくれましたね。>♪これは、奥さんの匂いがぷんぷんという意味も在るのかな。男の癖に自分でアイロンかけるようなやつは嫌いだとか、ひょっとしたら、自分はハンカチにアイロンかけてあげたくなんて無いんだよって言う所なのかなあ。ふふふっ。ですか。男性代表の東京犬さんは>「鼻の小さい男」とは、要するに「ナニの小さい男」ということですかね? 鼻の大きさと比例するという説がありますよね(ホントかどうか、私は知りませんけど)。ちなみに私の鼻は普通サイズ(笑)。と、いいわけまでしている。鼻のサイズと比例ねー。男が気にするほど女性は気にしていないと思いますがねー。たいがいピッタリなんじゃあないですか。と、まあ大変勉強になりました(といって、どう生かしていいものやら…)。 死しても皮をのこすような男にならなくては…。
2004.01.06
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以前何かの対談で、女優さんたちが「こんな男とは遊んでやんない」というテーマで語っていた。僕は遊んでもらえるのだろうか、メモってみた。それによると。・酒の飲めない男。・すぐ金の話をする男。・鼻の小さい男。・唇のうすい男。・角刈りで眼がばっちりしている男。・おへそまで隠れるパンツをはく男。・オーデコロンをつけている男。・きれいな折り目のついたまっ白なハンカチを持っている男。酒が飲めないからあそんでくれないとは少しわかる。僕も酒を飲めなかったら人生の半分くらい損した気分になるだろうから…。でも、これは体質で飲めない男性には気の毒ではあるが…、でも、飲めない人はそのぶんサービス精神の多い人が多いけどなー。ハンカチは、いいがかりのような気がしないでもないが、何かわかるナー。・頭の悪い男とは話もしたくない。・ヘタな駄ジャレとマンガ好き。自分はどうなんだろう? 僕もついオヤジギャグを出してしまうし…。・酔ったふりして人の躯をべたべた触ってくる男。・誘っておいて店を出るとき“割りカンにしようよ”などというケチな男。これはそうでしょうね。でも、女優さんって誘いにくいよね。駅前の焼鳥屋とか養老乃瀧ってわけにいかないだろうし…。・人の肩を気安くポンとたたいて“ねっラクウにいこうよ、ラクに”なんて男が大嫌い。・変に性格が明るくて、生き方が気楽な男がいや。とおっしゃる。ああ、業界人には多いかもしれないね。・男の顔は哀しい顔がいい。哀愁というか、おかしくて哀しい顔がいいね。これは、今更変えようがないね。でも、おかしくて哀しい顔って誰があてはまるかな。渥美清は死んでしまったし…。そうだ、「北の国から」で黒板五郎を演じた田中邦衛なんかピッタリだな。でも、僕の顔はいまさら直しようがないし…。他にも、マメに気を使うとか、ブランド志向など、つまりいまの世の中の軽薄短小のイメージにそっているかるい男が最低だと思うという御意見もあった。もっともです。なにか、自分のことを棚に上げてよく言うよという気がしないでもないが、女優ではない普通の女性たちはいかがでしょうね。ところで男性諸君、すこしは参考になりますか。 ところで、僕はこんなイメージなんですが遊んで…。
2004.01.05
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「ラスト・サムライ」について、二瓶さんの掲示板に返事を書こうとしたら長くなってしまいましたのでこちらに掲載します。>映画は単純に娯楽としてしかみないので、特に深い感想はないのですが、死を恐れないまでに己を貫く、忠誠を誓う。物語としては綺麗で感動することですが、実際、自分の身の回りでああいったことがあれば、どういった形になっても「生」を選びますね。また、生きる道を選んで欲しいですね。死んでしまっては何もできない。僕も、前提として二瓶さんのとらえ方に賛成です。「娯楽映画」としては壮絶な戦いが必要だったでしょう。しかし、現実の戦争は兵士という人間をひとつの駒としかみていない、駒を動かす(命を手玉にとる)ことに喜びを見いだしたリーダーたち、壇上にあがったアジテーターに駆り立てられての戦争の狂気についてゆくことは絶対に否定してなければなりません。映画の中で勝元は、天皇への忠誠ということより、伝統的日本文化への忠誠に殉じたと僕は観たわけです。歴代天皇も都合良く利用されてきたのでしょうが、いつの時代でも戦争を始める人たちは、実にもっとらしい理由をつくって言いくるめてしまうものなのです。「武士道」という精神も、また都合良く解釈されて兵士たちに押しつけられてきたのです。明治維新は、いわば文明の分かれ目としての陣痛のようなものだったのかも知れません。戦いを経ずして近代国家に移行できればそれにこしたことは無かったわけですが、大局的には革命としては犠牲も少なく上出来だったほうでしょう。しかし、その後の、日清・日露戦争、第一次世界大戦と、結果的に上首尾に進みすぎたために、大陸への侵攻、そして無謀な第二次大戦に突き進むという、自滅的道筋をたどってしまったわけですね。これも数百万人の尊い犠牲と引き替えにして、ラッキーにも戦後の平和が築かれたわけだけれど、せっかくの平和憲法も世界にアピールすることもなくおざなりにしてきたため、アメリカの都合や政治家たちの様々な都合(これは沢山ありすぎますから別の機会にします)により、シロアリに食われるようにじわりじわりと浸食されてきています。それも、小泉内閣は柱までかじりはじめています。それにつけても「ラストサムライ」の戦いのシーンの迫力や面白さ、映像の美しさ、あの時代にあった倫理観の良いとおもえる部分はそれとして受け止めればいい。しかし、現実とフィクションの部分とはきちんと分けて考えるという冷静さは必要でしょう。そういった意味では二瓶さんのほうが冷静だったのかも…。最近も、士(さむらい)をきどって気に入らない相手方に銃弾を撃ち込んだり、暴力的示威行動をとる者たちが逮捕されましたが、武士道精神も曲解すればあのように凶暴なものになってしまうという危険性もはらんでいます。精神主義はとかく両刃の面を抱えているものです。ところで、日本国内からは圧倒的な支持を受けたこの映画をアメリカではどのように評価しているのでしょうか。米東部などの主要紙は、明治初期の日本を舞台にした映画「ラスト・サムライ」の批評を一斉に掲載し、「冗長」(USAトゥデー)「不出来」(ワシントン・ポスト)など厳しい見方が目立っている。 ワシントン・ポスト紙は長文の批評で、映画が武士階級を美化していると述べ、映画の歴史解釈を含めて徹底的に批判。ワシントン・タイムズ紙は、物語の組み立てに不自然さがあるとして「製作者の意図が奇怪なまでに裏目に出ている」と指摘した。(京都新聞)ということです。アメリカのマスコミは日本賛美に対してはやはり警戒感を抱くようですね。しかし、いまやアメリカが世界でもっとも危ない国になってしまったということを自覚して、自国の反省にページをさいて欲しいものです。映画で描こうとした時代の価値観として、戦いによってしか歴史を変えることができなかったということもあったでしょうが、現代では戦争により歴史を変えようとすることが、人類はもとより地球にとってもいかに危険で、また、不可能だということを、人類共通のものにしなければなりません。と同時に、二瓶さんのような若い世代が、日本の歴史や風土が培ってきたものを良いほうに生かして、世界の平和のためにも立ち上がって欲しい。このように言うと、大きすぎる話しと受け取られそうですが、世界平和も身近なものから始まる。身近な平和を得られずに世界平和など望みべくもないということで、まずは今年の仕事に頑張りましょう。
2004.01.04
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風の匂いも街の光も行きあう色もみんな新しい頬さす空気もすれちがう人々もみんな昨日よりすこし新しい掌から掌につたわる熱もほのかに香る汗さえもきのうより新しい 新しい酒で ほんのり酔おう みんなで酔おう
2004.01.03
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映画「ラストサムライ 」パンフレットより「ラストサムライ」を観ながら、不覚にもポロポロと涙がこぼれてしまいました。とても良くできた映画で、萎えかけていた日本人の魂をふるいたたせてくれる作品といっても過言でないでしょう。残念ながら、この映画が見せてくれた日本文化の美しさは、日本人では描ききれなかったものでしょう。これは、自分の性格を知っているのは自分だけれど、自分に気づかなかった性格を知らしめるのは、むしろ他人だということを端的に示しています。戦後日本が忘れていた、あるいは気づかなかった古き時代の美意識をよくぞ掘り起こしてくれたものと、感じ入りました。もちろん冷静に考えれば、映画の日本市場へのマーケッティング戦略として、日本文化・伝統への日本人の自意識をくすぐり、ヒットさせようという側面を感じないわけではありません。しかし、理由はどうであれ、われわれが忘れかけていたものを取り戻せたということでは意味のある映画だと思いました。と、まず総体的な印象をのべておき、見終わって感じたことも少し述べてみたいと思います。まず、押さえておかなければならないのは、この映画の観方です。この映画は史実に照らして観るのではなく、武士道精神という哲学を美的に語った娯楽作品として楽しむべきでしょう。映画で描かれる時代として明治初期が設定されています。西南戦争や鳥羽伏見の戦いと重ねて語ることができそうですが、やはり全く違うフィクションとして見ないと不自然になります。そして、この映画の柱ともいえる「侍(士)スピリッツ」の採りあげ方。多少の誇張があるものの良い面をあますことなく採りあげていましたが、悪い面はほとんど描いていませんでした。映画の構成としてはしかたがないでしょうが、当時の侍が、主君に忠誠を誓う背景は滅私奉公という当時の美風と同時に、生活安定や寄らば大樹などという没個性的で打算的な面もあったはずです。武士の時代は「忠臣蔵」に代表されるように、主君のバカな行動で一族郎党ごと犠牲にしてしまった赤穂家の例もあるように、プライドや意地だけで、自らのみならず無意味な死に至らせたり、犠牲を押しつけるという弊害もあったわけです。美しきよき伝統文化をもっていた反面、命の軽視、極端な階級差別を作り上げたのも侍社会の特徴でした。こうした現実を考えると、映画で描かれた「侍スピリッツ」がきれいごとすぎる観もなきにしもあらずでした。しかし、戦後アメリカの資本主義経済とデモクラシーですっかりスポイルされてしまっていた日本に脈々と流れ培われていたであろう美意識や魂を、皮肉にもアメリカ・ハリウッドが掘り起こしてくれたのだから、これは映画スタッフに感謝せねばならないでしょう。かくいう僕も、映画を観ながら涙がこぼれてしまったわけです。もちろん筋立ての良さもあったのですが、そのことより「日本的精神」の美学や意識をあらためて見せてもらったことへの喜びがあったわけです。僕らしくもないと思う人もいるかも知れませんが…。くどくなりますが、再確認しなければならないことは“運命を静かに直視し、己を磨き、主君に忠であること”というような「侍スピリッツ」にのなかにも、映画が伝えきれない別の側面があるということです。この映画によって、侍時代をすべてを無条件に肯定してしまっては、また誤りを犯すことになります。映画が描きだしてくれた、良い面での“スピリッツ”を再認識してこれからの社会や生活に生かしてゆけばよいのです。とかく権力者は、日本的復古主義への郷愁から精神の荒廃を嘆いてみせ“滅私奉公”や“階級社会”の利点を強調します。こういうご都合主義が、本当の日本の伝統美までも衰退させてきたということへの反省がないのです。先頃も小泉首相が、憲法前文の都合のよいところだけを引き合いに自衛隊のイラク派遣を正当化しようとしたのをみれば、典型的に理解できると思います。それはともかく、「ラストサムライ」の隠れたすばらしさは、南北戦争や先住民族討伐の非情さ、ヨーロッパ諸国の武器商人ぶりなど、当時の西欧やアメリカの傲慢な動きもきちんと押さえているところです。そういった意味でも、この映画は見る価値があります。アクション映画としての面もありましょうが、日本の原風景をみたてたロケ地ニュージーランドの景色も懐かしく美しい。画像としての美しさも見ものです。僕も、久しぶりに胸ふるえる映画を堪能できたという想いで映画館を出ることができました。 ゴールデングローブ主演男優賞のトム・クルーズゴーデングローブ助演男優賞の渡辺 謙 小雪も真田広之も好演していますいずれの写真も、映画「ラストサムライ」のパンフレットの中よりご紹介しています。
2004.01.02
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年賀状を徹夜で書き終わって、郵便局に出した帰りに初日の出を見ました。今日はきれいに晴れましたね。こういうのを日本晴れというんでしょう。若水で口をすすぎ朝風呂に入って身を清め、御神酒をいただきました。なんと言ってもお酒を飲むときには不純な気持ちを捨て去り、ひたすら飲むことに神経を集中するんです。こうすると料理がおいしい、何でもおいしく感じます。と言って飲み始めたらすぐに酔って眠くなってしまいました。夕べ眠ってないものね。目覚めたら、もう昼近くです。届いていた年賀状に目を通しました。皆さんはマメですね、僕の年賀状は今朝出したばかりだから、届くのは3日以降かな。年賀状は例年250枚くらい出していますが、朝届いた年賀状をみたら3分の1くらいが、まだ出してない人からの年賀状。今年もまた増えてしまいそうだ。慌てて追加の賀状書きです。おかげさまで、大切な1月1日がつぶれてしまいました。無信仰な僕も今日ばかりは竈(かまど)の神様に感謝して、神棚に進ぜます。新しいご飯を炊き、お酒とともに神棚に上げます。この日のために残してあった北陸のコシヒカリです。友人からのお裾分け、もつべきものは友ですね。ところで、水と同じように、米にも硬質米と軟質米があることをご存じですか。コシヒカリは硬質米です。そしてササニシキが軟質米の代表です。どのように違うかというと、コシヒカリはコシヒカリだけで炊くとおいしいごはんができます。ところが他の米と混ぜると味がダメになります。ゴマはできないんですが、実際はどうかな…、お米やさん。ササニシキは単品の味としてはコシヒカリに負けますが、等級の低い米と混ぜても、ササニシキの味で他の米をふんわり包んでしまいます。だから、ササニシキを安い米と併せて使うと経済的なんです。人間でもいますね、コシヒカリのような性格の人。ササニシキのような人。あなたはどちらでしょう。と、蘊蓄を語り始めると長くなりますから、このくらいにしましょう。皆さん、今年も仕事の邪魔にならない程度に遊んでください。よろしくね。 真実のほうばかり向く酔っぱらいこれ天根夢草さんの句でしたっけ
2004.01.01
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