全3件 (3件中 1-3件目)
1

藤原桜扇こと島岡久子さんが亡くなった。昨年の11月27日のことである。ぼくは亡くなる10日ほど前に入院していた飯田市の健和会病院に見舞ったが、そのときには深い昏睡状態で、呼びかけても応答がなかった。一昨年の暮れ近くにご夫婦でぼくのところを訪ねてくれて、その1週間後に脳梗塞で倒れて入院したから、1年近い入院生活であったがその間、穏やかに弱ってゆき、まことに静かな別れとなった。彼女にこんな句がある。 病室の窓の美しすぎる月 神様に近づく鈴を振りつづけ川柳人としてはぼくの大先輩であった藤原桜扇さんが紆余曲折を経て信州に住むようになり、島岡幸義さんとの老後結婚をして以来、車で2時間ほどの距離があったが、親しくお付き合いをして戴いてきた。島岡夫妻には、それぞれに波乱に満ちたドラマチックな人生があり、長い長い助走のすえたどり着いた運命的な出会いがあった。そのふたりを結びつけたのが“林檎”である。島岡幸義は単一品種としては日本一ともいわれた林檎農園を経営してきた。そこで生まれる林檎がふたりを引き寄せ、人生の晩年のドラマを彩った。 淋しさはすすき千本抱いたとてふたりの紆余曲折、さまざまな葛藤を経て、七〇歳を超えた再々婚同士のカップルであった。周辺からは、さまざまな好奇に満ちた視線や陰口もあったようだが、ぼくから見る島岡夫妻はじつに豊に老後を過ごしておられ、でき得ればぼくの老後もかくあらんと思えるような、理想的な夫婦像をみせてくれた。思いつくと二人で旅に出かけ、美味しい店ができたと食べに行き、好奇心のままに日本中の何処にでもでかけて、ぼくら夫婦を食事に誘っては土産話を聞かせてくれた。桜扇さんが、人生で一度だけの句集と思って出した第一句集『桜扇』はぼくに発刊のすべてをまかされ、農園のオーナーたちや繋がりのある文芸関係者に配られたが、川柳と縁遠かった一般の人々に思った以上に評判となった。地方のマスコミでも大きく紹介されたこともあって、本を希望してきた人が何人もいた。見知らぬ人から「これが川柳なのかと感激した」「心のどこかにひそんでいた想いを代弁してくれた」といった感想の手紙が数十通に及んだ。そして、本を通じて島岡夫妻の人柄を知った人々との新たな交流が拡がった。ふたりの文学的下地や人柄もあってのことだが、互いの誕生日には手紙を交換しあっていたという。ぼくも原稿の間に紛れていたその一部を目にしたことがある。そこには、さりげなく互いの健康を気づかう、じんわりと体温を伝えあうような温かみのある文章が綴られていた。“愛”の形はさまざまなものがある。肌を触れあい、家族としての気持ちを深めあうといったことの無くなった年代になっても、すべて超越し、ありのままにお互いの人生を許し、労り合う、長年の歳月を寝かせた古酒の味わいのような夫婦の姿として、ぼくには見えた。そのひとつに、川柳にも関わってきた人ならではの、印象的な言葉が、強くぼくの脳裏に焼きついている。 それは、「いつまでも二人の朝が続くように…」というものだ。若者の言葉としてであれば、色っぽさも感じようが、残された時間を噛みしめてゆく年齢になっての言葉であることを噛みしめれば切実な希いである。ぼくは、その一行のなかに「晩年」という痛みを互いに労り合う姿を認め、新鮮な感動を覚えた。 花の芯しんから泣いてひとり旅先日、島岡幸義さんを訪ねてきた。先立たれて1ヵ月を経た島岡さんは、看病のときと打って変わったやつれようが痛々しかった。言葉にも、ところどころに錯綜が見られ、妻を亡くした現実を受け入れ難いようにも感じられた。「カアちゃんが居なくなると、男はダメなものだよ。何をしていいのか、何から手をつけたらいいのかちっともわからん。生きていてくれるだけで良かったのに…」と、繰り返し繰り返し、つぶやく言葉にはかつての生気がなかった。仏壇に向かっては「ほんとうに死んじまったかのう」と語りかける姿に、慰める言葉もなく別れてきたが、立ち直るまでにはもう少しの日数が必要であろう。 あの世からこの世へかかる糸電話ところで、故人の句集『桜扇』がぼくの手元に預かっているものが20冊ほどある。もし、読んでみたいという人がおれば、差し上げますからご連絡をください。
2017.01.05
コメント(0)

好天に誘われて、近くの高烏谷山(たかずやさん)に登ってきたかの昔、日本の国技だったという大相撲は、一時はハワイ勢が強くて大相撲の黒船といわれたが、蒙古襲来以来、現在はすっかりモンゴル勢に制圧されてしまった感がある。わが信州出身の御嶽海あたりに頑張って貰いたいのだが、モンゴル勢の壁を崩すには幼いうちからモンゴルへの武者修行にでも出さなければ無理かもしれない。モンゴル出身力士の強さは、モンゴル相撲の伝統をひきつぐ足腰の強さがあるのではないかといわれているが、やはりハングリーなチャレンジ精神と、チンギスハンの血をひく闘争心があるのかも知れない。アメリカの牧場となりさがった日本でぬくぬく育った肥満児とは所詮土台が違うということなのか…。モンゴルは、日本の4倍ほどの国土に230万人、ほぼ長野県の人口ほどが住んでいるだけだ。今でこそ世界の最貧国のひとつだが、その昔はチンギスハン(幼名はテムジン)が建国したモンゴル帝国が一時は世界を制覇する勢いだった。第五代のフビライ・ハーンは西は中部ヨーロッパ、北はシベリア、南はインドという広大な地域を治め、中国の南宋をも制圧し、元朝を確立した。向かうところ敵なしで、朝鮮半島を経て日本への襲来をかけたのもこの頃だ。ところが二度にわたる台風に襲われ、日本制服どころか船と兵を失い、ほうほうのていで引き上げることになった。この台風を日本を守る“神風”だと信じ込んでしまった後世の日本のリーダーたちオバカちゃんたちが、無謀な戦争をしかけて国を滅ぼしかねないところまでいってしまったのは、因果はめぐるということなのだが、神頼みはろくな事にはならない。それはさておき、栄華を誇った元朝も、中国の明朝に破れモンゴル高原に撤退させられることになったのだが、国も大きくなりすぎると脆さを露呈してしまうものだ。明朝に破れたのが13世紀半ばで、それから18世紀まで戦乱がつづいたというから、さすがに強固だった国も、戦乱で疲弊しきってしまったのだろう。戦争で長い栄華を勝ち取った国はいない。18世紀には、全モンゴルが中国の清朝に支配され、19世紀に入りロシアの支援で独立し、社会主義国としてロシア→ソ連の影響を受けていたが、ソ連の崩壊によって、ようやく独立できたのだから、一旦、国を危うくすると、何世紀にもわたる疲弊を経験しなければならず、建て直すのは容易ではない。と、簡単に歴史的背景を書いてきたが、遊牧人の血をひくモンゴル人たちは元は世界に君臨したというプライドも高く、一旦火をつけると闘争心も激しいものをもっている。また、貧しい食生活だが精力は抜群だという。そうとうな老人たちであっても、若者に負けないほどその方は強いという。いや、なぜ強い相撲取りが輩出するかを書こうとしていて、つい横道にそれてしまった。今年も、横道にそれながらの一年になりそうな気がする。チンギスハンの末裔たちかも…??
2017.01.03
コメント(0)

中央アルプス・甲斐駒ヶ岳山頂(2016.8)昨年の暮れに、まもなく還暦を迎えようとしている男性が訪れた。用件を聞くと、「信州こころんで働きたい。生活には困っていないので給料は無くてもいい。まだ働く意欲や活力は十分に残ってつもりだから、障がい者の皆さんと自然のなかで働かせて貰えないだろうか。」という。障がい者施設なら、この地方に幾つもあるのに、なぜウチを選んで来たのかを訪ねてみた。「福祉関係を望むなら、こころんがいいと会社からも薦められた。それに御社の理念が気に入っている」と、当社が掲げている理念を声を出して暗唱してみせた。学歴、経歴も、もし若ければ一流企業でも申し分ないと応えるだろうレベルだ。1時間ほどの応対ののち、社内で検討させてくださいと保留して帰って戴いたのだが、ひとつの感慨を禁じ得なかった。その彼が勤めていたのは、ぼくの会社のメーンバンクとしている銀行。後半の10年ほどはいくつかの支店長をしていた。その銀行とは40年以上もの長いつきあいだから、我が極零細企業の財務内容はつつぬけである。もちろん、貯金はほとんど無く、多いときにはン千万円の借金があった。この銀行は、普通ならとっくに手放したであろう札付き劣悪企業を、じつに辛抱強く助けてきてくれた。銀行社内では当社はかなり評判が悪かったはずである。ようやく、この歳になって借金こそかなり無くなったが、貯金残高は相変わらずだ。財務内容だって良いとはいえない。この男性も元支店長として当社に関わったことがある。しかし銀行が推薦し、元支店長も仕事をしたいという。その理由を語ってくれたが、それはここに書くべきことではないだろう。ただ言えるのは、これまでの経営努力を、社員も含めての会社の品格として認めてくれたということだ。それについては素直に喜びたいが、本物になるにはまだまだ経営努力や創意工夫が必要であることは、ぼくが一番知っている。ことに、人材の補充については慎重に考えなければならないと自覚しているから、安請け合いはできないが、新しい年を迎えるにあたって感慨を抱かさせてくれる出来事だった。今年一年、皆さまのご多幸をお祈り致します。
2017.01.01
コメント(0)
全3件 (3件中 1-3件目)
1
![]()
![]()
