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何度も書いて未練たらしいと思われるかも知れませんが、僕は“青春後期”自分では青春のつづきだと思っています。“青春”などとあえて言うのは、青春の危うさを暴露しているにすぎませんが、恋するこころを失っていない限り青春だと思うのです。もちろん、妻もそうであって欲しい。「青春なんて言葉は、過ぎてしまった大人たちだけが言う言葉。そのまっただ中にいる僕たちにとっちゃ、その言葉の意味なんて、わかっちゃいない」若者達はそうかもしれません。僕の子どもたちはまさに今が青春まっただ中、そうだなと思います。しかし、青春の醍醐味なんて過ぎ去ってしまわないとわからないものなのです。われわれの世代になると、必ず「あのころ」といえば思い当たる「ころ」があります。あのころ……。生意気で、わがままで突っ張っていて、ひとりで生きたいという顔をして、家に帰るのがいやで、両親がそばに来たりすると、「あっち行けよ」なんて言っていた、あのころ。僕もそのように、親は煙ったいものでしたが、僕の子どもは親に対して親のような口をきいて「そろそろ大人になったら」、などといいます。僕等の世代から上では、その言葉が出てくると、ちょっと歳とってきたかなと思って間違いがないですね。その言葉とは、「あのころはよかった」という言葉です。気がつくと出ているんです。何かしている時に、「あのころはよかったよなあ」などと、投げやりな雰囲気で。これが出てくると、危ないそうです。大丈夫、あなた。ほんとうに大丈夫?
2005.01.31
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自分でアレンジした遺影が飾られ…昨日、若くして亡くなった女性の告別式がありました。遺影といっては不釣り合いなほど、明るくひまわりのように笑いかけていました。実は、その写真も亡くなる2週間ほど前に彼女が選び、額を飾るイメージも自分でコーディネートして用意したものです。彼女の最後のわがままは、誰にも病気のことを知らせないで欲しいということでした。自分がこの世から居なくなっても、周囲の人々には明るいままの姿をイメージしていて欲しいから、というのが希望でした。通夜の席で、友人は親戚の長老から「オレたちに知らせないとは、いくら何でも…」と叱られていました。僕は娘との約束を守った家族をエライとほめました。僕が事情を知っていたのは、昨秋、彼のそぶりに怪訝を感じて問いつめたからです。もちろん周囲には知らなかったこととして過ごしました。病院での様子は先に書いたとおりです。意識のなくなる寸前まで、家族や友人たちに別れの言葉を呟きつづけていたそうです。友人夫婦は、娘の手を握って代わりに聴いてあげたといいます。 人一倍元気だった彼女が、病気らしい病気をしたのは今回が初めてです。その初めての病気がいのちを奪ってゆきました。病弱で母親から半分もらった腎臓を移植をした彼女の姉が、一心に両親を介助している姿がけなげでした。妹のぶんも長生きをしてくれることでしょう。一病息災といいます。持病と同伴しているくらいの人のほうが歳を重ねてから丈夫になっているということはよくあることです。こんな川柳もあります。病弱を武器にしておりしたたかに 小林恵美子もっといえば、誰もが病気をもっていてそれが表面にでているか、チャンスを伺って潜在しているかの違いだけかも知れません。そんな病気を見下げてやるくらいの気持でおつきあいすればいいのでしょう。薄笑い強い女になってゆく 久保田美椰彼女の遺志そのもののように、晴れ渡って山には銀雪が輝いていました。誘い合った文芸ともだちと、追悼句を寄せ書きして祭壇に供えました。しんしんと出会い確かに帰路は雪 河野基樹
2005.01.30
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と宣言したのは、平塚らいてう(らいちょう・明子)でした。女偏の字は、出世魚のように変化して面白いですね。女の子が好きなのは順当。良い女が娘。女の末が妹はわかるとして、女と市でなぜ姉なのでしょう。女の家が嫁。女の古いのが姑。波のできた女は婆。己(おのれ)の女が妃。おんなが三人寄って姦しいのも正解。とはおなじみのバリエーションですね。これに対して、男で思いつくのは嬲(なぶ)るくらいです。歌手の谷村新司が、「男を分解すると「田」と「カ」だから、タカが男ということでしょう。」といっていましたが、まあねーそんなものでしょう。そうそう、先日、僕は「女は海ですか」と書きましたが、星に喩えたり、花に喩えたり、森に喩えたりしますが、僕は月がいいなー。太陽の光を受けて輝く(反論がありそうですが…)。谷村は「天使」に喩えていいます。「女は神が地上に落とした天使だ」と、キザなことをいっています。それだけでおけばいいのに、「ただし、足から落ちた方と、顔面から落ちた方がいるということです」などと、失礼なことをいうんです。僕なら、「お尻から落ちた人と、胸から落ちた人がいる」というでしょう。落ちたところが腫れた。ちなみに、ウーマンリブの走りのような平塚らいてうですが、こんな記事を見つけました。裕福な家庭育ちで女子大卒、才媛といわれた平塚明子(雷鳥、23歳)が3月21日、遺書を残して家を出た。かねて男嫌いで哲学、禅に凝っていたということで周りは厭世の自殺を心配した。ところが数日後、雪の塩原尾花峠で心中未遂の平塚と文学士・森田米松(草平、28歳)が一緒に保護された。事件は当時盛んな自然主義を地で行くスキャンダルとして世上をにぎわした。世間の指弾を浴びた森田だったが夏目漱石の援助を受け、この心中未遂事件を素材に小説「煤煙」を発表。作家の仲間入りした。 「読む年表・20世紀と昭和天皇」らいていも、なかなかの女性だったんですね。死に損ねて女は強くなってゆく。女が強いくらいで、世の中はちょうどいいんです。今日の日記に、こんな歌を見つけました。ふさわしい句があります。◆深さなど確かめてないで飛びこめ そしてわたしの愛に溺れろ ◆楓。。愛告げて千羽の鳥をおどろかす 情野千里 やっぱり、女性は太陽のようでした…。
2005.01.29
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もうこれは殆どの人がご存知だと思うが「ビッグコミックオリジナル」という大人のまんが雑誌がある。漫画はあまり開かなくなって久しいが、何を隠そう、この雑誌だけにはついのめり込んでしまう。読んだことのない少数の人にあらためて紹介するが、下手な小説よりずっと含蓄のある作品が並んでいる。極論すれば、このなかのどれにも感じるものがないという人とは人生を語りたくない、といったらオーバーかもしれないが、そんなくらいだ。やまさき十三と北見けんいちの「釣りバカ日誌」は映画化されているのでいっそうおなじみだと思う。作者のやまさき十三氏は東映出身、かつて東映争議があったとき労組で最後の13人になるまで闘った人。そこから十三という名前がついたということは、同じ労組にいた映画監督の伊藤俊也さんに聞いた。ジョージ秋山の「はぐれ雲」は、なんといってもはぐれ雲の女房のおカメがいい。水島親司の「あぶさん」はプロ野球にあまり興味のない僕でも好きだ。主人公のあぶさんも、たしか僕等と同世代の設定のはずだ。「風の大地」というゴルフ漫画もいい。青年が名勝負をしながら育ってゆく過程が、爽やかに描かれている。村上もとかの「龍 ―RON―」は、激動の昭和初期を描いた大傑作だと思う。僕がワクワクしながらまず最初に開くページだ。西岸良平の「三丁目の夕日」は、僕等の小学生時代の記憶にタイムスリップさせて、ほろっとできる。一丸の「あんこ坂のお医者さま」の主人公はキュートで可愛い。楽天アイドル(リンク友だち)のchappiさんが、もしお医者さんだったらこんな風ではないかと思わせるイメージだ。そして、弘兼憲史の「黄昏流星群」という作品。これは青春の黄昏付近、つまり団塊の世代の男女をテーマにしていて、身につまされるストーリーが多い。僕とてこんなに大胆な恋愛などあるわけはないが、大人の男女が織りなすラブストーリーのドラマは、どこかで自分が体験したことと重なっている(という人もいることだろう)。 食わず嫌いのあなた、一度開いてみなさい。ちなみに、昔は白土三平や手塚治虫などよく読んだが、現在はこれ以外の漫画を読むことがほとんど無くなってしまった。黄昏、ということかな。 今日、リンクしてくださったきむちゃん216のページをごらん下さい。僕の住んでいる付近をとても詳しく紹介してくれております。今日の日記では、生まれ育った村のことがでていて、驚きました。合併協議会の予定ですと、もうすぐ、市に呑み込まれて村のが消えてしまうのが残念でなりません。個性のある土地を平準化してしまう、これははっきりいって、悪政です。 この岸辺の集落で生まれ育ちました。
2005.01.28
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僕は、たいがい実年齢より若く見られるようだが、団塊の世代であるから中年から熟年に入るかという歳に入っている。同年齢の友人たちと会ってみて感じるのは、同年であっても、意識感覚には上下10歳くらいの開きはあるのではないかと思う。しかし、年代なりのイメージというものはあるもので、最近もある女性に正確な生年月日を問われ、正直に答えたところすこし驚かれてしまった。年齢を重ねるということは恥ずかしいことではなく、むしろそれだけ人生の厚みをもったということで、誇らしいと思っている。ただ、年齢に固定観念をもたれている人には、イメージの落差が期待を裏切るようで申しわけない気分にもなることも事実だ。僕は、若いころを、そして今を語り合うことのできる年代になれたことを、幸せだと誇りに思っている。人は年輪とともに垢とともに魅力を積むものだが、団塊の世代の人間は揉まれてきただけに味わいのある人間が多いと思っている。もちろん、僕のように薄っぺらなのもいるが…。32歳で亡くなった女性の通夜に行った。乳癌であった。友人の多い人だったようで、親類縁者に混じって、若者たちが何十人となくお別れに訪れた。美しく死化粧を施された遺体は活動的な彼女の生前を偲ばせるものであったが、いうなればすでに一個の物体でしかない。遺体を前にして、通夜の酒盛り(田舎はこうなんだ)が賑やかに開かれ、幼い子どもたちが走り回っている。息を引き取るまで、一週間以上も不眠不休で付き添ってきた家族たちは、つぎつぎに訪れる弔問客にペコペコと挨拶を強要(と思える)させられ、ゆっくりとわが娘との別れに浸るいとまも与えられない。僕は早々においとましようとしたが、父親である友人に引き留められるままに、酒で唇を湿しながら、娘が産まれたときから、つい数時間前に息を引き取るまでのことを、繰り返し繰り返し、聞かされていた。少なくとも礼儀知らずな僕が、彼と話し込んでいるうちは弔問客の相手をせずとも済むと思って、とうとう近所の人たちが引き上げるまでつきあってしまった。友人は、今夜は娘のそばでゆっくり眠るつもりだという。絶望的な寂しさのなかにも、解放された安堵感の光を見たようだといったら穿ちすぎであろうか。みんな、僕より先に死んではいけない。せめて、1日は長生きしてください。
2005.01.27
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このところ、さだまさしの歌にこだわlりますが、彼の詩にとても興味があるからです。曲もすばらしいけれど、彼の才能はとくに詞に現れています。つぎの詞を書いたときの彼はまだ青年期だったと思うのですが、公園という虚構広場の哀しみをしっかり掴んでいます。1公園のベンチで僕は過ぎた愛の哀しさを数えるひとりそんな午後子供はブランコの順番 争い:(中略):別れた人の横顔を思い出せば いつも涙顔SUNDAY PARK2年老いた人が 菩堤樹の葉陰で居眠りしながら 涙ぐむ足元に新聞紙:(中略):鳩が舞い立つ晴れた午後には こんな密かな哀しみ方があっても いいだろうSUNDAY PARKSUNDAY PARKSUNDAY PARK歌の中に出てくるのは、子供と老人そして「僕」だ。ライフサイクルを子供、青年、壮年、老人という段階に分けてみよう。この歌では青年の眼からみた設定になっている。出ていないのは、壮年である。壮年(僕)は日常の生活に追われて、ふだんは公園には目もくれず足早に通り過ぎている。あるとき、公園のベンチにふと目がとまるとき、壮年としての僕等に、果てしない哀しみと寂しさを知ることになるのだ。子どもも老人も、社会の歯車からは離れた存在として、この公園に遊ぶ。子どもには希望が、老人には達観がある。しかし、壮年期。リストラや定年というフルイにより、しがみついていた社会の歯車から引き離されたときに、とてつもない不安と絶望感に襲われるのである。公園のベンチに腰掛け、過ぎ去りし希望の時代と、これから向かえる老いという現実へ、寂しい眼差しを向けながら、僕等はどのようにして踏みとどまればいいのだろう。さだまさしの詞は、このように、青春後期(と僕は自分を位置づけている)の男の胸にもズキンズキンとしみこんでくるのである。 以前「おんなざかり」という日記で書いた女性が今朝亡くなった。まだ、30を少し越えたばかりだ。今は知らせを受けたばかりなので、まだ書くべき言葉が見つからない。おいおい書くことになろうが…。
2005.01.26
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僕は四方八方を山に囲まれて育ちました。南アルプスの山麓ですから半端ではありません。空は細長いものだと思っていた、なんていうと冗談だと思うでしょう。でも、それが大げさではないほどの谷間の村だったのです。今は街に住んでいますから、日照時間が1時間は違うでしょう。というわけでもないでしょうが、海を見るとなぜか胸が騒ぎます。海岸にでて潮の香りを嗅ぐと、何かおこる予感がするのです。たとえば、恋とか。たとえば、津波とか。海を母親に喩える人がいますが、海は、あきらかに女ですね。波打ち際に立っていると、できたら、このまま呑み込んでくれないかと思ってしまう。それはもしかしたら、羊水に戻りたいという潜在意識なのかも知れない。身籠もって、羊水をもったときに女は海をもったことになるのでしょうか。では、身籠もるまえの女は湖、とでも…。子どもの頃、夢の中あった海あれは、おねしょでした。
2005.01.25
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文芸などを趣味にしていると比喩でモノを語ることが多くなります。そのくせ、常套句というものがとても気になります。比喩は物事の説明に、これと類似したものを借りて表現することですが、当然、類似したものの効果により、それがよりくっきりと印象深くならなくてはなりません。すると、誰もの了解事項を使いたくなります、いきおい常套句になりやすいというジレンマに陥ることになります。よく、結婚式の祝辞でつかわれる言葉、「人という字は支え合っているから人であり、支えがなかったら立つことができないのです」というようなのが、それですね。仮に川柳でこんな陳腐な比喩をつかったら、標語川柳として軽蔑されてしまいます。しかし、言語のなかでも覚えるのが難しいと言われる日本語ですが、漢字は本当に良くできた言葉だとつくづく思うことがあります。難しくなるのは、応用される範囲が広いからなんですね。以前alex99さんと英語俳句について語ったときにもそれらしい話しをしましたが、漢字は文字そのものが意味を内包表記しているため、漢字を見ただけでなんとなく状況を飲み込めてしまうという利点があります。もちろん、そのための誤解を生じることもありますが…。僕は、都会の雑踏が苦手です。雑踏の中を歩くと無性に孤独を感じるからです。それと同時に、孤独のなかに自分もひとりの人間なんだなーと思います。ここで常套語がでるのですが、人の間と書いて人間。今は、人と人という孤独たちが揉まれあいながら生きている、だから人間は孤独なんだ、と。揉まれあいながら、この孤独のひとり一人にさまざまな物語があって、その殆どは誰にも知られることなく消えてゆく……。日記帳だと三日坊主で書けないのに、この楽天日記に日々記すことができるわけは、自分以外の孤独、物語と出あえるということなんだろうと、勝手に了解していたりするのです。
2005.01.24
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苺さんの日記にも紹介されている第4回「詩のボクシング」全国大会を観ました。放映したのは、渦中にあるNHKの教育テレビです。子どもの頃、民放で「月光仮面」などを観ていると、父によってすぐにNHKテレビにチャンネルを切り替えられた、あの敵のような局です。NHKの肩を持つわけではありませんが、最近は6:4くらいでNHKを観ることが多くなってしまいました。僕もオジンになったということでしょうか。子どもにとっては7時頃は面白い番組が目白押しのゴールデンタイムでした。なのに、父は無慈悲にもチャンネルを回す。するとたいがいニュースを放映していて、辛気くさい中年アナウンサーがニコリともしないでニュース原稿を読んでいました。父があんな無慈悲をしなければ、僕は今頃、わけもわからずに小泉内閣を支持するひとりになっていたのかも知れないのに…。最近のニュース特番などで、北朝鮮のテレビアナウサー、殊にあのガッチリした中年女性の居丈高に読みあげる姿が映ると、怖いものみたさといおうか、つい吹き出してしまうのですが、いま当時のNHKニュースを今観たらやっぱり笑ってしまうかもしれません。ほんと、どんな明るい話題でも、誰かの追悼番組のような表情でニュースを読んでいましたからね。なんの、ところが最近はNHKも美人アナウサーを使い、にこやかに放映するようになったものですから、僕も、とうとうお年寄りの仲間に引き入れられてしまったというわけなんです。ところで本題の「詩のボクシング」、これはなかなか面白い。昨年も、知人の川柳作家が登場したこともあって期待して観ていましたが、残念ながら1回戦3;4で惜敗してしまいました。審査員の1人もやや知人の川柳人だったのですが、彼女が相手側に入れたのが痛い勝敗の分かれ目になりました。残念だったね、○野○里さん。といってもこれはしかたがないことでした。実力差は殆ど無かったから、審査員の彼女もさぞかし迷ったことでしょう。迷ったら相手側というのが同文芸に席をおくもののフェアな態度というものでしょうからね。今年の対戦は、僕もすべて予想採点してみました。勝敗が予想とはずれたのは1組だけでした。それも3:4の僅差でしたが、やっぱり僅差勝負では女が強い(偏見?)。その僕が入れたのに負けた矢木沢竜平君(27歳)の詩は、数字を意図的にちりばめた手法がなかなか斬新と思ったものです、が、女の膜、いや、壁は厚かった、というところでした。ところで、詩のボクシンクのことを知らない人のために、簡単な概要を引用しておきましょう。まもなく各地で予選が始まります。■「詩のボクシング」は、ボクシングリングに見立てたリング上で、2人の朗読ボクサーが交互に自作を身体全身を使って朗読し、どちらの朗読がより観客に届いたかをジャッジが判定する「言葉のスポーツ」、「言葉の格闘技」です。「詩のボクシング」は、自分の言葉を声にする場です。音声詩人の楠かつのりが、 1997年10月に日本朗読ボクシング協会(JAPAN READING BOXING ASSOCIATION=JRBA)を発足し、「詩のボクシング」と銘打ち、2人の朗読ボクサーが交互に10ラウンド朗読して闘うタイトルマッチが行われたのが、その始まりです。「詩のボクシング」はディベートではありません。決して屁理屈をこねて相手をねじ伏せるような不毛なことばをつくり出す場ではありません。言葉をまっすぐに声にして、それをしかっかりと受け止める心を育む場です。参考までに、2005年1月30日の午後1時からNHK-BS2で放送される「詩のボクシング」小・中学生大会をご覧いただければ幸です。また、2005年の8月初旬には、高校生「詩のボクシング」全国大会が開催されます。 ―日本朗読ボクシング協会・公式ホームページより―ということです。どうぞ挑戦してみてください。ところで、今年の9月4日には「長野県川柳大会」があり、そこでのアトラクションには川柳による朗読という試みがあります。これもたぶんエキサイトしたものになると思いますから、物見高い人はご来場を! チョンチョン!
2005.01.22
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さだまさしが「やさしさ世代」の旗手といわれたのは70年代の後半だった、ように思う。女の子に、「結婚相手を選ぶとしたらどんな人がいい」と、月並みな質問をすると「やさしい人」という答えがダントツだ。本音では“三高”というのも心の片隅にあるのだろうが、まずは「優しさ」がトップにたつ。そうして、さだまさしの曲がつぎつぎにヒットしてきた。仮に、さだまさしが堂本剛や木村拓哉のような容姿だったら、これほどにヒットはつづかなかったと思うがどうだろう。演歌の代表的なフレーズ「♪優しさと甲斐性のなさが裏と表についてくる」のやさしさは、ちょっと毒をはらんだ優しさだが、さだまさしの曲にでてくる優しさは、親しみやすさという意味での優しさのように思う。僕も、家族や近い友だち以外には「やさしい」といわれることがママある。これも、ブサイクゆえのありがたい錯覚なのかも知れない。さだまさしの代表曲のひとつに「あまやどり」がある。これなどは、まことに普通の女性たちがもとめる等身大の「やさしさ」真理をみごとに描いていると思う。では等身大の「やさしさ」とは何かを「あまやどり」にみてみよう。ある雨の降る日、軒先に雨やどりした青年に一目惚れした女の子が、後日また偶然にもその彼と再会し、やがてとうとう青年からプロポーズされるようになるという歌だった。ごく平凡な女の子の平凡な夢が、偶然が重なって叶えられていく。目の前にふと現われたイイ男が、都合よく求婚してくれるという物語は、年頃の女の子が誰でも抱く幻想のようなものだ。素敵な彼が現われないかなと思えば現われ、また会いたいと思えば偶然にも再会する。そればかりか、願いもしなかった結婚まで手に入れる。乙女ちっくなほのぼのとしたやさしさが、ユーモラスな語り口によって展開されている。実は〈雨やどり〉が与えるやさしさの印象は、そこに登場する青年から出てくるものである。青年はいつもオッチョコチョイの役を演じている。スヌーピーのハンカチを傘がわりにさせられたり、晴れ着のスソをふんづけたり、虫歯をみせて笑ったり、穴のあいた靴下をはいていたりする。〈雨やどり〉は明るい笑いを誘うが、それは青年のこうした行動からわき起こるものだ。女の子は「素敵な彼」が現われることを期待していた。「素敵な彼」、つまり完璧にカッコいい彼であったが、ところが現れたのは誰にでも見つけることのできそうなドジな青年だった。カッコよく立ち回って、私を守ってくれそうな彼ではなく、私を見守って、笑わせてくれそうな彼、私を傷つけない彼なのである。最近は、家庭でも学校でも、このような親や先生が求められているような気がする。やさしい友だちの延長としての親や先生である。最近の「やさしさ」は凛とした「男らしさ」ではなく、おもしろい「やさしさ」なんだろう。このマンガチックな要求に男どもは応えるべきなのだろうか。
2005.01.21
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聴くたびに少し胸キュンとなる歌をだれでもひとつやふたつもっているのではないだろうか。僕にとっては南こうせつの「神田川」や、さだまさしの「無縁坂」と「檸檬」がすぐに思いつく。ちょっと「檸檬」について書いてみよう。 「檸檬」 さだまさし あの日湯島聖堂の白い石の階段に腰掛けて 君は陽だまりの中へ盗んだ檸檬細い手でかざす それをしばらく見つめたあとで きれいねと言ったあとでかじる 指のすきまから青い空に カナリヤ色の風が舞う 食べかけの檸檬ひじり橋から放る 快速列車の赤い色がそれとすれ違う 川面に波紋の広がり数えたあと 小さなため息まじりに振り返り 捨て去る時にはこうしてできるだけ 遠くへ投げ上げるものよこの歌の“檸檬”からはそう、お茶の水の丸善での出来事を書いた、梶井基次郎の「檸檬」を思い起こす人もいることだろう。梶井の「檸檬」は、お茶の水駅裏通りの画材店丸善の画集のうえに“得体の知れない塊「檸檬」”を置いてくるというこころの世界を書いている。さだの「檸檬」は、まるでその画集の上から檸檬を持ってきたかのように書かれている。その場にいたわけでもないのに、さだが檸檬を聖橋から神田川に向かって放るという情景が鮮やかに脳裏に映える。僕は青春時代に、本郷界隈に住んでいたことは前にも書いた。国電から本郷への最寄り駅はお茶の水。普通は、スクランブル交差点のあるお茶の水橋を渡って、順天堂病院の前を通って本郷通りへと歩いたのだが、事情があって遠回りしたいときには聖橋を渡った。いつもの道を歩くと、バッタリと知人に出会う確率が高かったからだ。聖橋付近は都会にしては静かで、近くには小公園や「湯島聖堂」など格好の散歩コースがあった。もちろん、ひとりで歩くわけではないから、人目に触れにくい場所が欲しかった。夕暮れの“湯島聖堂の白い石の階段”。はじめて、やわらかい異性のくちびるを感じた遠い記憶もその付近に微かに残っている。さだまさしの「檸檬」を川に放るという今でいえば顰蹙行為が、まるであの頃がタイムスリップしたようにリアルにのこる。たぶん、さだまさし自身の体験が下敷きになって書かれた詞なんだろうが、梶井の小説もどこかにかすめたのかもしれない。芥川龍之介の掌編「蜜柑」も、投げるという行為がひとつの情景を描いているが、さだまさしはこの物語も読んでいたのだろうか。やや記憶があいまいだが、そのほのぼのとした情景の一節を紹介してみよう。 ある冬の夕暮れ、知識人風の「私」が疲労と倦怠感を抱いて列車に座っていると、同じ車両に赤い頬をした田舎娘が乗りこんできた。娘は何を思ったか列車がトンネルを通過している最中に窓を開ける。途端に煤煙がなだれこんできて「私」はむせかえった。トンネルを抜けると踏切の柵の向こうに三人の男の子供が声をはりあげていた。娘はそれに向かって懐に持っていた蜜柑を五、六個放り投げた。奉公に出る姉を見送りにきた弟たちなのである。「私」はそのときの蜜柑の色の鮮やかさをはっきり覚えている。それまでの疲労と倦怠も一時的に忘れ朗らかな気持ちになった。というようなものだ。投げた蜜柑、そして檸檬。この短い文や詞のなかに、放たれた物体の放物線の先にある未来をも予感させられる。
2005.01.20
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小林とむぼさんが来ていました。今年の4月16日から5月8日まで、駒ヶ根高原美術館で「小林とむぼ作品展」(仮称)を行うため、会場の下見と打ち合わせ、ついでに密会のためです。密会といっても、僕の川柳の教え子がアシスタントとして密着同行したため(残念ながら)怪しいことは何もない、のです。「駒ヶ根高原美術館」は、中央・南アルプスに囲まれた駒ヶ岳のふもとにつくられた美術館で、池田満寿夫、藤原新也、瀬戸剛、そして草間弥生の現代作家の個別展示室。ほかにゴヤやドーミエ、浜田知明、大竹伸朗などの作品が特別展示室で展示されておりますが、そこに小林とむぼの異次元が23日間にわたって仲間入りすることになりました。さて、ビッグネームの作品群のなかで、小林とむぼ作品がどのような存在感を示すかワクワクしているところです。開催運営には僕もお手伝いしますので、当然ながら連動して幾つかの仕掛けも用意される予定です。つきましては、4月16日にオープニングパーティー(まだ打ち合わせなし)があるでしょうから~17日に、とむぼファン+僕のリンク友だちのオフ会でもと策略中!。といっても、当の本人とはなにも話しをしてありませんが、僕がいうのだからそうなのでしょう。16日の夜は高原のペンションを用意する予定です。信州の美しい春が満喫できる季節です。ほら、今からカレンダーにチェック!
2005.01.19
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NHKが制作した「戦争をどう裁くか」をテーマにしたシリーズの2夜「問われる戦時性暴力」は、日本軍「慰安婦」制度を裁いた「女性国際戦犯法廷」をとりあげて、戦時性暴力を考えようというものでした。シリーズのテーマは「裁き」でしたが、番組のテーマである「裁き」を明確に伝える場面を消してしまったということで、証言に関わった人たちにより裁判が起こされ、係争されているものです。ここでは阿部・中川両氏の関与があったか否かについては置くとして、NHKの幹部がこの番組に対して、「公平・中立を欠く」と現場に指摘したのは「(慰安婦の)彼女たちの証言は、(加害者たちのの証人はいないし)信憑性がない」としていました。その後、元兵士たちが「女性国際戦犯法廷」で証言したわけですが、この証言も信憑性に欠けるとして、削除を指示したものでした。今度、内部告発をしたNHKの長井チーフプロデューサーは、この裁判では直接改ざんした側として糾弾されている立場にあったわけです。うるとびーずさんから、番組がカットした証言部分を再現したサイトの連絡を頂きました。まずは、次の、政治圧力によって消された「戦場の証言 をクリックして、削除された部分の証言をお読み下さい。また、この告発問題に対して疑問を呈している発言も紹介しておきましょう。「NHK戦争裁判の大いなる錯誤」日本の従軍慰安婦問題に関わる人々の多くは、以上のような国際規模の怪し気な、はっきり言えばCIA謀略の構図を、まったく知らずに、いわば「利用された」のです。国際的な謀略の嘘は、「ホロコーストの嘘」と「ユーゴ民族浄化の大量虐殺・レイプの嘘」ですが、日本国内の底流には、南京「大虐殺」と吠える言論詐欺師、本多勝一の「百人斬りの嘘」報道のボロ隠し、さらにはその本多を文化大革命とやらの時期に中国に送って、北京支局の存続、つまりは金になる情報源の確保を図った「似非紳士」こと元戦犯、朝日新聞「株式会社」の醜い嘘八百商売が控えています。(WEB雑誌『憎まれ愚痴』)よりこれと比較して読み、信憑性がどちらにあるかは皆さん自身でご判断ください。
2005.01.17
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今日の「サンプロ」で、安倍幹事長代理は「(番組が)ひどい内容になっていると側聞していたので、NHKだから公平公正にちゃんとやって下さいねと言った」「北朝鮮拉致事件を追求している我々を陥れようと言うワナだ」と、濡れ衣を主張していた。話しを聞いていると、そうかNHKが気をきかして勝手にやったことなのか、『朝日新聞』のワナだったのか、とも思える語り口だった。このような番組の内容が事前に「永田町あたりの情報」に入り知るところだったという。「源義経」の内容がある程度知られているのと、このような番組の子細内容が事前に流れるのとでは、いささか違うと思うけれど、そういうもんですかね。それともNHKは“危ない番組”は事前に永田町ふきんに情報として流すきまりにでもなっているのだろうか。この事件もそのうちに、辻褄のあわないところが羅列されて、安倍・中川両氏の濡れ衣か、NHKの勇み足かがはっきりすることだろう。それとも、あいもかわらず“ヤブの中”かな。ところでこの「濡衣」という言葉はどこから出てきたのだろう。たとえば、雨が降ってきたので、雨やどりをするつもりで一軒の酒場にはいった。しかし、なかなか雨はやまず、結局、上着を濡らしながら、遅く帰路についた。“こんなに遅くまで何をしてたの、さては……”という奥さんに、男は「それは濡衣だよ」といったとか。こういう話かと思ったが、どうやら無実の罪を「濡衣」という語源は『和泉式部集』までさかのぼるようだ。継母が無実の継娘のことを、漁夫の塩垂れ衣を証拠に「密夫がいる」と、実父に告げ口をしたという伝説がもとになっている、ということだ。この「漁夫の塩垂れ衣」がどうして「密夫がいる」ということになったのか、これがわからない。どなたか教えて?早速ご返事をいただきました。♪翔子さん 濡れ衣とは、無実の罪。根も葉もない噂。濡れ衣を着せる」や濡れ衣を着る(着せられる)」と使われる。濡れ衣の語源・由来濡れ衣は、元々、雨水や海水などに濡れた衣服のことで、文字通りの意味であった。現在の意味として使われたのは、平安時代頃からで、語源は諸説あるが、次の順で有力とされ、3番目の説はただの駄洒落と考えられる。1.継母が先妻の娘の美しさを妬み、漁師の濡れた衣を寝ている娘の枕元に置いたため、漁師との関係を誤解した父が、娘を殺してしまったという昔話からの説。濡れた衣服が早く乾けば無罪、乾かなければ有罪とする、神の意思を受ける裁判が、かつて存在したと考え、その神事に由来するという説。「無実」という語は、「実が無い」と書くことから、「みのない」が「蓑無い」となり、雨具として使われる蓑が無いと衣が濡れるため、「無実」を濡れ衣と呼ぶようになったとする説。
2005.01.16
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自分では性格は穏やかなほうだと思っていたのだが、ある文芸友だちにいわせるとそうでもないらしいのだ。「お前は正論を吐いているつもりでも、逆に“虫が好かない奴だ”と思ってしまう人間もいるんだから、あまり刺激するような文章は控えたほうがいいぞ」と真顔でいう。考えてみるに、性格は素直ではないのかも知れないな、とは思う。黙っていればいい人でいられたのに、親切な忠告したばかりに、十年たった今も恨まれていることもある。(忠告を聞いてくれていれば、あんたはいい人になっていたのに…)なんて呟いてみても後の祭りというのだろう。つい最近も、自分の文芸論を書いたのだが、それが斯界批判だとお小言をいただいた。いや、書いたからといって、自分が絶対正しいなどといいはるつもりはない。そこにも「異論があればぜひお聞かせ願いたい」と、つけくわえて書いた。しかし、返ってきたのは反論ではなく「批判している」というお小言なのだ。そこで「なぜ? 間違っているなら教えてよ」と言ってみるとなおさら、「虫が好かない奴」という烙印をくっきり押してくれる。僕は、文芸らしいものを囓ってから、ずっとこのスタイルでやってきた。「思ったことを書く」。好いてくれない虫が半分いても、好いてくれる虫が何人かいればいい、と思っているのだが、友だちは心配して「余けいなことを書かなければ、お前はみんなにいい奴でいられるんだから、わざわざ…。」と忠告してくれる。これが僕にはカチンとくるんだなー。「仮に確信がなくても、自分の意見を表明することが“人間としての主体性”、つまり生きているアイディンティティだとは思わないのかなー。アイディンティティのない人間は生きているとはいわない。この世をただよっているだけじゃなんだよ」などといってしまうから、ますます好かれない“虫”を増やしてしまうんだろうか。「蓼食う虫も好きずき」、とても勉強になった。何となく感じていたけれど、口に出来なかった。書いてくれてスッキリしたよ。などという手紙やメールがきたりするから、つい調子にのってしまう。こんなわけで“虫”も忙しい。ところで「虫」ってなんだ。昔は、体や感情など原因はよくわからないが影響を与えるものを“虫”といい、人の体内にいるものとされていたようだ。だから「虫が好かない」とは、本人の意志とは別に、体内の虫が嫌ってるということであって、(俺はお前のことを嫌いじゃないけれど、俺の中の虫が…)というような意味なんだろう。同様の理由で、“腹の虫”“虫が知らせる”などもある。また楽天友だちには“本の虫”も多いなー。仕事中の僕のように“虫の息”なんてのもある。ところで、NHKの番組にイチャモンをつけて内容を変えさせたウジ虫議員。クレームにへいこらと乗った虫ケラ職員。公共放送を何とこころえる。仮に偏向があったとしてもそれが制作者の主観というもんだ。そんなことでふらふら揺れてしまう国民だと思ってるんかい! なめたらあかんぜよ。……と、ぶちかましたいところだが、きっとこれまでも味をしめているから、こんな姑息なチャチを入れるんだろナ。虫酸がはしるぞ!もう1ヶ月もすると啓蟄になるのかな、またゾロゾロ虫たちがはい出してくるのだろうか。
2005.01.14
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No.1NHKの特集番組に対して、自民党の中川・阿部両氏がクレームをつけた問題がしばしば採り上げられている。表現というものは、どのように作ろうと制作者の主観がはいるものだ。つまり、公平・公正といっても相対的なもので、絶対的に正しい判断などというものはあり得ない。それを観て、自分の思想に近いものと判断するのか、その逆ととるのかは視聴者の自由であり、さまざまな情報を参考にして判断してゆけばいいことである。もちろん、極端な性描写や暴力場面などの可否は、局の倫理規定などで判断してゆくべきものであろう。さて、この問題を内部告発したチーフプロデューサーが自ら記者会見をした。マスコミの取材などに対して、当初は注意したことを認めていた中川・阿部の両氏だが、ここにきて一転NHKに圧力をかけたということを否定している。どちらが正しいのか真偽のほどは不明だが、asahicom にこの間の事情が詳しいので参考にされたい。この番組は「戦争をどう裁くか」4回シリーズの第2回として、01年1月30日夜に教育テレビで放送された「問われる戦時性暴力」。00年12月に東京で市民団体が開いた「女性国際戦犯法廷」を素材に企画された。 ところが01年1月半ば以降、番組内容の一部を知った右翼団体などがNHKに放送中止を求め始めた。番組関係者によると、局内では「より客観的な内容にする作業」が進められた。放送2日前の1月28日夜には44分の番組が完成、教養番組部長が承認したという。 翌29日午後、当時の松尾武・放送総局長(現NHK出版社長)、国会対策担当の野島直樹・担当局長(現理事)らNHK幹部が、中川、安倍両氏に呼ばれ、議員会館などでそれぞれ面会した。 中川氏は当時、慰安婦問題などの教科書記述を調べる研究会「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」代表、官房副長官でもあった安倍氏は同会元事務局長だった。 関係者によると、番組内容の一部を事前に知った両議員は「一方的な放送はするな」「公平で客観的な番組にするように」と求め、中川氏はやりとりの中で「それができないならやめてしまえ」などと放送中止を求める発言もしたという。NHK幹部の一人は「教養番組で事前に呼び出されたのは初めて。圧力と感じた」と話す。 同日夕、NHKの番組制作局長(当時)が「(国会でNHK予算が審議される)この時期に政治とは闘えない。番組が短くなったらミニ番組で埋めるように」などと伝えて番組内容の変更を指示したと関係者は証言。松尾、野島両氏も参加して「異例の局長試写」が行われた。 試写後、松尾氏らは(1)民衆法廷に批判的立場の専門家のインタビュー部分を増やす(2)「日本兵による強姦や慰安婦制度は『人道に対する罪』にあたり、天皇に責任がある」とした民衆法廷の結論部分などを大幅にカットすることを求めた。さらに放送当日夕には中国人元慰安婦の証言などのカットを指示。番組は40分の短縮版が放送された。 このいきさつを巡り、NHKで内部告発をしたのは、当時、同番組の担当デスクだった番組制作局のチーフ・プロデューサー。番組改変指示は、中川、安倍両議員の意向を受けたものだったと当時の上司から聞き、「放送内容への政治介入だ」と訴えている。 一方、中川氏は朝日新聞社の取材に対し、NHK幹部と面談したことを認めた上で「疑似裁判をやるのは勝手だが、それを公共放送がやるのは放送法上公正ではなく、当然のことを言った」と説明。「やめてしまえ」という言葉も「NHK側があれこれ直すと説明し、それでもやるというから『だめだ』と言った。まあそういう(放送中止の)意味だ」と語った。 安倍氏は「偏った報道と知り、NHKから話を聞いた。中立的な立場で報道されねばならず、反対側の意見も紹介しなければならないし、時間的配分も中立性が必要だと言った。国会議員として言うべき意見を言った。政治的圧力をかけたこととは違う」としている。 番組内容を事前に知った経緯について両議員は「仲間から伝わってきた」などとし、具体的には明らかにしていない。 NHK広報局は「(内部告発に関しては)守秘義務がありコメントできない。番組は、NHKの編集責任者が自主的な判断に基づいて編集したものだ」としている。 (01/12 08:52) No.2 長井さんによると、01年1月下旬、中川昭一・現経産相らが当時のNHKの国会担当の担当局長らを呼び、番組の放送中止を求めた。NHKの予算審議前だったこともあり、担当局長は放送前日の午後、NHK放送総局長を伴って再度、中川氏や安倍晋三・現自民党幹事長代理を訪ね、番組について説明。放送総局長は「番組内容を変更するので、放送させてほしい」と述べた。 同日夜、ほぼ完成した番組をNHK局内で局長らが試写。その後、長井さんらに対し、番組内容の変更が指示された。 さらに翌日には、元慰安婦の証言部分など3分間のカットが指示され、通常44分の番組は40分という異例の形で放送されたという。 番組改変の指示について、長井さんは「これまでの現場の議論とはまったく違う内容。現場の意向を無視していた。政治家の圧力を背景にしたものだったことは間違いない」と述べた。 また、長井さんは「海老沢会長はすべて了承していた。信頼すべき上司によると、担当局長が逐一、海老沢会長に報告していた。会長あてに作成された報告書も存在している」と説明した。その上で、「制作現場への政治介入を許した海老沢会長や役員、幹部の責任は重大です」と訴えた。 長井さんは、NHKの「コンプライアンス(法令順守)通報制度」に基づき、昨年12月9日に内部告発した。だが「通報から1カ月以上たった今日にいたっても、聞き取り調査さえなされていない」と話した。 長井さんは87年に入局。ディレクターやデスクとして、NHKスペシャル「朝鮮戦争」「毛沢東とその時代」「街道をゆく」などを手がけてきた。 中川経産相と安倍幹事長代理は「偏った内容だ。公正な番組にするように」などと指摘したことは認めているが、安倍氏は「NHK側を呼びつけた事実はない。番組の中止などは求めていない」としている。 また、NHK広報局は海老沢会長が了承していたとの指摘について「そうした事実はない」とコメントした。 〈NHK広報局の話〉 当時の担当者が様々な国会議員に対して、事業内容などを説明した際に、この番組について話題になったことは事実。しかし、これによって、番組の公正さ・公平さが損なわれたということはない。編集責任者が自主的な判断に基づいて編集して放送した。コンプライアンス推進室は通常の手続きに従って調査をしている。調査の途中経過については通報者に知らせている。 ◇ 「私もサラリーマン。家族を路頭に迷わすわけにはいかない。告発するかどうか、この4年間悩んできた。しかし、やはり真実を述べる義務があると決断するに至りました」。そう言って長井さんは涙声になり、言葉を詰まらせ、ハンカチで目をぬぐった。 「告発による不利益はないか」と尋ねられ、「不利益はあるでしょう」と答えてからだった。 現場のスタッフ全員が反対したという、放送直前の3分間の番組カット。その中には中国人元慰安婦の証言も含まれていた。「被害者の声だけは何とか守りたかった。最後まで闘えなかったことを反省している」。そう言って長井さんは、再び目を赤くし、唇をかんだ。 ◇ 〈NHKのコンプライアンス(法令順守)通報制度〉 放送法などの法令やNHK倫理・行動憲章などの内部規範に違反または違反しそうな事実があるとき、職員らが通報できるようNHKが04年9月から整備した内部告発制度。一連の不祥事を受けて整備された。通報窓口は外部の法律事務所に置かれている。通報があるとNHKの専門部署がその内容を調査し、必要な場合には不正行為の停止を命じることができる。職員は調査に協力する義務を負い、通報者に不利益な取り扱いは行わないとの規定がある。 (01/13 14:27) この問題については、sowonさんの日記「NHKの編集権と政治家の圧力」に詳しいのでごお読みください。
2005.01.13
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あるネーミングの必要があって、ネットで「ふれあい」というキーワードで検索してみた。なんだ~、624,000件もあるではないか。ネットに載らないところまでいれたらいったい何件あるのだろう。いかに日本人から「ふれあい」が無くなっているのか、ほんと愕然としてしまった。これだけ使われているということは、ないからにほかならない。ほら、緑の減ってきた街ほどやたら使いたがる『水と緑の○○市』(いっけねー、これはウチの街だ)という「緑」。これまでほとんど意識していなかったが、みまわすと「ふれあい広場」「ふれあい公園」「ふれあい商店街」「ふれあい会館」「ふれあいセンター」「ふれあい館」「ふれあい美術館」「ふれあいの里」………etc。上げていったら「ふれあい…」で、この画面は溢れてしまう。ほら、あなたの身近にもあるでしょう。動物行動学的な距離感からいって、こんなにやたらと触りっこするなんてことは不自然なことだと思うのに、なぜことさらに「ふれあい○○」と宣言するのだろう。「ふれあい」を求めるということは、逆にいえば人々が孤立して、コミュニケーションが不足し、どこか寂しい日常を過ごしていることになる。かつてのような大家族は崩壊して久しく、核家族から個食の時代へ移行したといわれ、一家団らんには父親が不在であり(あっ、僕のこと?)、親たちは必ずしも子供に老後を見てもらおうとは思っていないといった意識調査の報告はある。これは寂しさを誘う状況だ。年功序列、終身雇用の雇用慣習も消えて、会社人間として帰属しようとしてもその条件がないわけで、人生はいよいよ一人で生きるしかないという時代である。そこで寂しい人たちがコミュニケーションを求め、「ふれあい広場」へ集まろうという段取りなんだろうか。昔のように村落共同体のなかでプライバシーもなく、おにぎりのように固まって生きてきた日本人なら、わざわざ「ふれあい」なんてことをいい合う必要はなかったはずだ。日本は江戸時代に形成されたアジア的封建的村落共同体の心理的拘束から完全に外れてしまったようだ。それがこんなにも「ふれあい」を流行らせた背景ではないのだろうか。「ふれあい」という、うたい文句で不気昧なのは、ただ「ふれあい」たいということだけが宣言されている点である。その目的や中身がさっぱりわからない。ロクに木陰もつくらないふれあい広場でいったい何をするというのじゃ。ただ黙々と手など握りあっても仕方があるまい。いきなり女性の胸にふれあったら痴漢である。そんなことよりも、たとえば鬼ごっこをすれば結果的に人はふれあうことになる。相撲をしても、洒を飲んでも、喧嘩をしても、恋をしても、結果的にコミュニケーションをしていることになる。にもかかわらずただ「ふれあい」というのはどうしたものか。「ふれあい」とは結果的に生じた状態をあらわす言葉なのに、いきなりそれが目的のようにとらえられて、そのまま使われている側面が不気昧ではないだろうか。どうも、何をしたらいいのかわからないということまでを、この言葉が表現しているように思う。あるいは、何だってかまわないからふれあいたいのかも知れない。とするとこれはいったいどういう寂しさなのか。ところで、このところ忙しかったから、ひさしぶりにカラオケに行って「ふれあい」でも唄おうか。一緒にどう…、ふれあい。
2005.01.12
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カトリーヌ・ドゥヌーヴmsk222ただ、心身とも満たされて、円満な家庭のなかにある女性が、職業のひとつとして売春を選択するという可能性がどれほどあるのでしょうか?alex99さんあぁぁ・・・!川柳の巨匠も、朝日新聞の「声」欄のレベルか。人間(特に潜在意識や秘めた欲望)は、そんなに紙芝居のような単純なものですか?カトリーヌ・ドゥヌーヴ主演の「昼顔」という映画を観てください。msk222カトリーヌ・ドゥヌーヴの「昼顔」ですか。観ていませんが、たしか上流家庭で育ち、幸せに結婚して、嫁いだ先も恵まれた環境なのに、ふとした好奇心から日中だけ娼婦をすることになり、その娼婦館の人気者になってしまう、という粗筋の映画でしたね。ちょっと違いますが、実際にあったケースでは、以前に「東電OL殺人事件」と呼ばれた事件がありました。東京電力の総合職をしていたOLが、夜は娼婦をしていて、殺されたことから明るみに出た事件です。 桐野夏生が小説として、佐野眞一がルポタジューとして書いています。昼は勤務先の東京電力で女性管理職として仕事をこなし、夜は渋谷円山町に一人で立って、毎晩客をとって、終電で家に帰るという生活をしていたというものです。そのSEXの場所がてあたりしだいで、駐車場でも公園でも平気だったという江戸時代の“夜鷹”並みのちょっとショッキングな事件でした。「昼顔」は観てないのでまだコメントできませんが、東電OLの場合は、生い立ちや男への不信感から自分の破滅願望のようなものがあったのではないかと思います。そして最近、毎日のように送りつけられてくる「下半身でおつきあいください」や「人妻などからのお誘い」のメール、はじから削除していますが(ホントだってば)、それらも背景は、一種の病気かマル暴のひもつきではないかと思っています。まともな女性も混じっているのでしょうか? この分野については知識不足です。いずれにしても、家庭でも職場でも満たされて、なおかつその道に入るという奇特な女性はごく特殊なケースではないかと思っておりましたが、一般にあるのでしょうか? もし、僕の娘がその立場だったら耐えられませんが、alex99さんならOKなんでしょうか。このへんの真理は僕にはわかりませんが、いずれにしても川柳とは別次元の問題です。昔、おおらかだったことは分かります。万葉の頃の“通い夫”ならずとも、夜這いの風習、祭りの晩の無礼講…etc.この頃、サービス業のひとつとして春を売っていたり、フリーセックスのような状態もあったことは理解しています。では、この時代の女性たちにとって幸福な制度であったか、ということになると、僕には肯定しがたいひっかかりもあるのです。マッサージなどのサービス業とくらべ、自由恋愛の場合は性病などに罹る確率が高く、また、子どもの父親の所在が判明しないと養育などにも支障がでるのではないかと…。かつての日本にもあったようですが、モンゴルの遊牧民などのように、パオの下で生まれたらそのパオの家族という、おおらかなしきたりがあった場合は、それもまたオツではありましょうが…。そして、買売春の是非というものも、そこの社会の時代時代にあわせて、決めてゆけばいいことですが、男だけで決めると問題を残すのではないでしょうか。仮に合法化するとしたら、そのことで不幸になる人を増やさないというシステムが前提になると思います。さらってきて娼婦にするとか、絶望の果てになるとかでなく、できれば胸を張って、職業にいそしめるということになれば、もしかしたら僕も……(ナイ、ナイ)。小林とむぼさん♪若い頃の私はそのままでした。言い寄る男性は全て何も見えない、私の内面の醜さも見えないような人間だと、考え、そのくせ、内面の醜さがバレル事に怯え、心から男性と打ち解ける事が出来ず、誰も愛す事が出来ない人間なのだと自分の事を悲しく思っていました。貶めたいと云う欲求に強く駆られたりもしました。(うわーーい、屈折してたな!)だから、より、自分の中の女性を拒絶していました。はい、ここからは買売春とは別の話題ですね。むかしアイドル歌手になりそこねた頃のとむぼさんは、男達はみんな自分の美貌につられて言い寄ってくるのではないかと“誤解”していた。自分から“女らしさ”をとれば、まっさらな自分を愛してくれる王子様が現れるのではないかと思っていた。しかし、ちゃんと現れているではないですか。王子というには仕事に勤勉すぎる伴侶だったかも知れませんが、“女らしさ”も含めて愛してくれた。口に出して言わないだけで、十分伝わってくるのに、近すぎてわからない人が約ひとり…。今は、醜いオバサンとなり、言い寄る人の言葉には真実を感じてしまうかも・・・「醜い」とは、何を基準にしていうのだろうかと、いつも思います。僕の理想の女性像は「縄文のヴィーナス」ですから、たしかに現代女性は好みからは外れますが…。ま、これは冗談として、そんなに大勢に言い寄られることが幸せなんでしょうかねー。今の私は、上記の考えと、また少し違います。その後の変化で今があります。そうでしょう、そうでしょう。信じられる、いろいろな形の愛情で満ちあふれています。ふふふ・・・思い込みが好きなんですってば・・・(*^_^*)vそれはそれは、結構なことでした。今年はこちらで“とむぼ人形展”が行われます。愛情あふれる展覧会になるといいですね。 小林とむぼ作品のアリスちなみに、僕の理想の女性像
2005.01.11
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昨日のつづきになってしまいました。皆さんの意見をお聞きしたり、書いたりしていると迷宮に迷い込んでしまったような気分になります(笑)。今日のところは、ご意見の列記にとどめます。なお、シャルドネさんが「不倫と経済社会」1~9で、この分野についてしっかりと考察していますので、それも併せてお読み下さい。ここでSEX問題をとりあげた僕の意図としては、児童の人身売買や婦女暴行などの暴力的SEXについて皆さんと考察してみたかったのですが、不十分ながらもその分野にも触れてくださったものと思います。秀0430さん 若者たちが語る「自分探し」というのは、役割存在でない、自分自身のアイデンティティーを求めるという気持ちがあるような気がします。自分が愛される存在である時、例えば、何か合理的理由があって愛されているというのは、一つの役割を演じているとも解釈できます。女の子であれば「可愛いから愛される」というのは、「可愛い」を演じている限りでの自分が愛されているという感じでしょうか。村上さんの小説には、容姿端麗でしかも抜群の能力を持ち、これ以上ないくらいのうらやましい素質をもった人間が出てきます。そういう人間ですから、女に持てるのは当たり前で、どんな女であろうとものに出来ない相手はいません。しかし、それは本当に自分が愛されているとは全く感じないのです。それは、かっこよくて、頭が良くて、金持ちである自分、そういう役割を演じている自分が愛されているのであって、本当の自分が愛されているという感覚がありません。そういう人間のSEXは、感情的なエクスタシーがないのです。求めるものは、肉体的なエクスタシーになってしまうという感じでしょうか。また、肉体的なエクスタシーが、その瞬間だけは、相手を求めている自分と、相手から求められている自分を感じることが出来るのかも知れないという感じもあります。買売春に関わる人間が、全てこのようなメンタリティを持っているとは思いませんが、単に生理的な欲求を満足させるというだけの単純なケースだけとも思えません。SEXの問題は、自分が何ものであるかという、きわめて実存的な問題に関わっているような感じがします。これは良くわかるような気がします。かなり実存的であり、倫理観もふくめて個人や社会の主観が決定してゆくものかも知れません。容姿の問題もそうですね。好感をもたれていると感じると、無理してでもそれに合わせざるを得なくなる。女性のダイエット志向についてもコレを感じます。その人の身体にあった体重や脂肪というものがあるはずなのに、とことん脂肪を敵視してしまうような…。SEXの問題もふくめて、倫理観・道徳観はいわば社会的規範というあいまいなところから発生して、なんとなく形成されたルールだと思います。ちょっと外れますが、直接的に他人に危害をあたえるおそれのあるものはベツとして、変態的(?)自分探しについても、なんらかの高度な解決法があるような気がします。 シャルドネ☆さんこの件、私はパスします。(笑)理由は、私の日記に相当ボリュームをかけて持論を述べました。一昨年の日記ですが、誰も再読しないだろうとフリーページに掲示しています。題して「不倫と経済社会」というシリーズです。ヒマな方があればご通読ください。http://plaza.rakuten.co.jp/hint2003/15005 「不倫と経済社会」1~9だいぶ前からUPされていましたね。個々には読んでいましたが、今回あらためて全巻(笑)拝読しました。シャルドネさんらしい、シニカルで科学的な視点での考察で面白かったです。所有という概念のないところに不倫という概念はないというのは、ある意味で生き物の原点であるとは思います。アマゾンだけでなく、モンゴルやイヌイットでは夫婦という縛りはかなりゆるやかだと聞いています。カンボジアに自衛隊の置きみやげ(笑)が大勢いるという話しは初耳でした。長い文章ですので、ここでは全体の紹介はできませんが、参考になるところの多い内容なので、ぜひ皆さんもお読みください。 まき~♪さん こんなコメントいいのかわかんないけれど、「忘れられた日本人」の、年に1回無礼講、とか、結構良いなあと実は思っています。・・ふふ。でも、そこで、できちゃった子どもを、誰も困ることなく育てて行っちゃう懐深さがあってのことですね。今やっちゃうと、あれこれつじつまがあわなくなるかしらね。「かわいいから愛される」というのは、結構危険。むずかしい。かわいいと思ってほしい、でも、自分だから愛してほしい。自分だけのものを持ちたい。受け入れられる自分でいたい。そのためには、人に合わせる、周りに合わせるというのも、とても必要で。日本に生きる彼女たちは、人に合わせるという基準が誰にいったいおもねっているのかわかんないまま、おもねって、気を使いながら生きています。そういう風潮はは、官僚もきっとそうだと思います。だから、それよりも個性を出したい人たちは疲れるし、あまり前向きなことをやると、出る釘は打たれるということにもなります。若者たちの自己主張および体制への反抗、従順、そんなものを観ていると、いつどういう方向に行くのか、楽しみで、苦しみであります。ところで、今の日本の体制は、いつかそのうち、どんな風に変化するんだろう。(はちゃめちゃな文章を面白半分に書いてみました。)いえいえ、なかなか含蓄のある内容ですよ。人間の行動はある程度規制できても、魂は簡単には縛ることができないのではないでしょうか。けっきょく、若者たちも無責任ではないと思います。それぞれが逡巡しながら未来を開いていってくれると信じています。政治体制はわからないれれど…。 ポンボさん >買売春と近親相姦との因果関係がよくわかりませんが?「テレザ」にも出てきますが、一夫一婦(四婦)制あるいは、固定化された家族制度なら、誰が誰の子か、誰の両親が誰なのかがはっきりわかるけれど、今ならDNA鑑定でわかるけれど、かつてなら売買春が一般化されていたなら、誰の両親が誰だか分からないから、うっかりすると近親相姦になりかねない、という意味でです。「テレザ」で、博士が交わったのが弟の娘だったってのが、ありましたよね。あれが、もっとややこしくなりかねない、から。子どもができなければ問題ないけれど、こどもができると、近親相姦がややこしく複雑に交差していって、そうなると人類滅亡になりかねない、から。という意味でです。これは、シャルドネさんによると、>科学的には、意外なことに近親相姦の発生によって被る実害は予想外に小さいです。>劣性遺伝ですか?劣性遺伝は、せいぜい統計的には100人中に4人。自衛隊員が>イラクに行って催奇性因子拾ってガンになる可能性と比べてどうでしょう。むしろ>少ないのじゃないですか?ということでそれほど心配ないそうです。だからどうぞとはいえませんが(笑)。ある面、体制維持にとって必要から生じたルールかも知れませんね。だって、僕の弟は僕の子どもでもあるなんてことになったら、大混乱。ということで、次からはもう少しのんびりしたテーマで書きましょう。えっ、それでは読まない?(笑)
2005.01.10
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SEX論議に、とても真剣にたくさんの意見をいただきました。レスで返すのが礼儀だとは思いますが、読みにくいので返事とともに日記に整理してみました。ちょっと長くなりますが、お読みになってご意見をくださればと思います。ちなみに、レスいただいたものについては、文字の色を灰色にしてあります。ポンボさん>う~ん、10月9日の当方日記で議論された内容なんですが。私の場合、売買春がいけないという、道義的なもの、感覚的なものなら、理解します。国家が法律で管理する理由がわからない、というものでした。これに関しては、↓の様にまとめてはみたのですが:>もしかして、こういう理由ってだめかしら?>うっかりすると、近親相姦でこどもができてしまうからってのは? ふと、思いついたのですが。これだと、近親相姦タブーの文化、世界中、歴史も長いし。買売春と近親相姦との因果関係がよくわかりませんが? 禁止すると、近親相姦に走るのではないかという心配でしょうか?>テレザ、モデル、いたのでしょうか? たぶんいなかったのでは? というよりも、いくらでも実例がありそうな。 混沌とした社会、暑かったらルーズになる。国土が広い。ってのじゃ理由にならないかしら。最近のニュースをみていると、ブラジルだけの問題ではありませんね。もっとも、昔からあったことでしょうが、子ども達の人身売買、これは買売春以前に犯罪ですし、そのうえ淫行は重罪にしていいと思います。しかし、延々となくならない。それなら、いっそ公的に性処理の場を提供して、犯罪というリスクを負ってまで成立する市場を成り立たなくさせてしまう、ということも理屈のうえではわかります。 まるまる茸さん msk222>それは、SEXという形をとっているが、実は性に依存した暴力として行われているのであって、暴力を振るうことによる歓びである。征服欲というものもあるかも知れない。>婦女暴行や強姦が、そういうものであるならば、やはり問題は人格でしょうね。性的衝動にかられても、普通の人は、相手やルールを無視してまで、達成しようとは考えない。思いとどまる何かを持っているから、社会生活が送れる。>なら、戦場ではどうなのか? と問われると、私には答える術はない。異常な状況、異常な立場、異常な考え方、普通ではない環境では、こういうテーマを持ち出す事自体がナンセンスのような気はします。なるほど、僕は平和な時代にこそきちんと分析しておいたほうが良いと思います。こんどの津波被災地域でもそうですが、戦争、内乱などの混乱時にいつも犠牲になるのは弱い立場の人からです。現に、国連のPKO(平和維持部隊)までがやっているとなると…。いかに、平和を維持することが大切かがわかります。話題にしにくいテーマですが、話題にできる時代にきちんと理解しておくべきではないかと思います。>では、売買春はどうか? お金で人を、また人の一部を取引きすることは、人身売買となんら変わらないと、私は思います。お金で頬をたたくようなやり方に思えてしまいます。まあ、喜んでたたかれているノーテンキな女の子もたくさんいるようですが(^^;)>日本のように平和な国では、自分の悦楽のために、貧しいところでは、生活のために、それぞれ春を売っている人がいるし、それを買っている人がいる。どちらにしろ、たくましい生き方をしているのならいいのですが...。ここですね、これはどのように理解するかによって変わってきます。人間が積み上げてきた倫理観として考えると否定すべきだと僕も考えます。しかし、もっとシンプルにわりきって考えると、サービス産業のひとつになるのかな、とも。マッサージで気持良くなることが良くて、SEXで気持ちよくなることが悪なのか、とか。>私個人としては、SEXは愛情の延長であってほしいと思っています。生まれる子供は親を選んで宿ると言われています。それならば、なおさら、愛情たっぷりのSEXからの誕生であってほしいな。それはもちろん、理想でしょうね。男も、ほとんどの人はそれを望んでいると思います。ただ、(買売春もそのときは)愛情と自らを錯覚させてしまいたい(=^o^=;)。>生ぬるいコメントですみません(^^;) 短い文章では語り尽くせないほどの思いはありますよ。女もホストクラブに通い、若い男の子を買うような時代ですから、一概に男だけを悪者にするわけにはいきませんね。もちろん、幼女虐待や強姦は別ですが...男は、家庭が満たされていても誘惑に負けたくなることがある。女の場合はどうなんでしょう、満たされないから……、ということがあるのではないでしょうか。とても参考になるご意見ありがとうございました。 alex99さん私は売春・買春が基本的に悪いことだなんて思っていません。どうして悪いのですか?もちろん、売春に関連している組織暴力とか貧困とかの問題はあるでしょうが、それは売春そのものの本質とは別でしょう?これはその通りだとおもいます。売春はビジネスとしては日陰者です。だから、暴力団や貧苦の果ての食い物にされやすい。ただ、心身とも満たされて、円満な家庭のなかにある女性が、職業のひとつとして売春を選択するという可能性がどれほどあるのでしょうか? もし、胸を張ってできるとすれば、それもひとつの文化かも知れません。芸者さんや舞妓さんはどうなんだろう?結婚だって一種の売春である結婚もある。あなたの結婚は売春ではありませんでしたか?う~ん、これはお互いさまですから、売ったり買ったりということですか。最近では、押し売りお断りの札を貼ってあったりして、お互いに…。(-_-;)昔の結婚は、家と家とのものだった。恋愛結婚なんて、100年の歴史を持っていません。たしかに、政略結婚や家同士の都合での結婚も広義には性の売買かも知れない。しかし、一種の必然性もあって納得(あきらめ?)をした。 >>alex99さんは男の多数を代表して発言しているのだと思います。女性に屈辱感がなく、マッサージなどのサービス業と同じものとして考えれば、それも正論かなと…。>どうしてこういう浅薄な失礼な解釈が出てくるのかな?そうですね、言葉足らずでした。すみません。僕の言いたかったのは、alex99さんの発言は、買売春に対してのひとつの透徹した見識で、男の多数が(胸の中では、ああこれだこれだと)肯定する意見だとは思います。このように言いたかったのです。僕も、魅力的な女性に誘われたら今でもフラフラとついてゆくかも知れない。金髪の女性に囲まれ鼻の下を伸ばした経験だってある。ベッドを共にしなくても、疑似恋愛や、ニアミスなら何度となく(^^;)あった。まあ、正直に書きにくい経験だってある。(カミさん、遙か昔のことだよ~ん)だから、買売春の道義的否定と、男としての現実の行動をどのように整理すべきか、とても難しい。そういうことでは、結婚というものもつきつめれば、alex99さんのいうとおりかも知れない。ただ、これをいいだすと法律は成立できなくなります。少しあいまいでも、どこかで線を引かなかったら収拾がつかなくなる。たとえば、学校で中学生や高校生が先生相手に援助交際をしても、買売春法がOKならば許すべきか、とか。教師だからいけないとしたら、ベツの問題もでてきそうだし…。僕がとくに問題にしたいのは、自分の意思が確定できない人(児童など)、精神的に育ちきってない少女(ローティーン世代など)が、暴力的にこの世界にひきづりこまれること。現実にさまざまな形で買売春が行われ、それが闇の世界を太らせている。このネットにしても、毎日何本となくあの手この手の誘惑メールが流れ込んでいるわけです。それがどうしても、健全であるわけがない。仮に、買売春が合法化されたとして、公営ギャンブルのようにきちんと整理できるものなのか、どうか。また、客として通う人達の意思が弱かったら、そこに溺れこんで家庭崩壊などの原因になる確率は、競輪や競馬の比ではないかと思うのですが…。ただ、性犯罪の予防には一定の効果があるとは思います。ご意見をお聞きしたいところです。文字数制限で、後は8日の日記につづけます。
2005.01.09
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9日の日記からつづきます。 k-nanaさん興味深いテーマです。>昔から、男性と女性の意見は分かれがちですねえ・・・^^;>土地とか文化とかによっても相当差があることだと思います。古代エジプトの近親婚は有名な話ですし、古代日本でも母が違えば兄妹婚に問題はないし。>貞操観念というのは、男系の社会に発達したものと思われます。野生動物の世界にもオスが他のオスの子を殺してでも、自分の子孫を残そうとするのはザラにいますし、そうした感覚がないとはいえなさそう。自分の獲得した女性(妻)が不特定多数の人と寝て、自分以外の男の子孫を残されては困るので、「キマリ」で縛ろうと考えた(日本は実は本来女系なので、古代や田舎にはそういう感覚がなかった・・・)>でも、「子孫は多い方がいい=妻も多い方がいい」から、力の強い男性は多くの女性を獲得しようとするのでしょう。ただ、野生動物の世界では文字通り、実力=パワーですが、人間の社会では、金だったり政治力だったり学問だったり美的感覚だったりするのが難しいといえば難しい、面白いといえば面白いところ。>で、そこにつけ込むのが特定の夫を持たなくてもいいと思える女性(笑)>どちらも結局、生きるためにシノギを削りあってきただけかもしれない。>しかし、多くの宗教で性がタブー視されるのは、やはり社会的に平和に暮らす上で、性的な乱れがトラブルに発展しやすい点が大きいからじゃないかなと。サルのように容易に子殺しをされてはたまらない、みたいな。>近親婚ではいずれ子供ができにくくなったり、遺伝的に欠陥が出易いのも、経験的に知るようになったので禁止されることになり。>それから、衛生的な問題。性病は古くからあったんでしょうね。>キリスト教のような一夫一婦にこだわる宗教などは、逆にそのあたり(社会的・衛生的な問題)を規制しなければやってこれない事情があったんじゃないかなとか。欧米人は精力が強そう(偏見)いやいや、k-nanaさんは僕よりずっと詳しい(^^;)!。しかし、>欧米人は精力が強そう(偏見)は、そう偏見です。日本人だって強い人は強い。(^_^)vミエ>・・ところで、最近の性産業には別の点もあるように思います。あまり詳しくは無いですけど^^;>女性が不愉快に思うのは、男女が対等ではないからでしょう。ポルノなど、どうしても女性が男性に屈服していく姿が多いように思います。>男性が、SEXそのものの楽しみ(性欲)よりも、支配欲と優越意識を持ちたいだけではないのかと思いますね。相手に銃を突きつけての強姦など、その最たるものかも・・・。なぜコンナノが楽しいんだろうと思うものがあふれてます^^;ですね。僕は男ですが、強姦については嫌悪感があります。そこまでゆく心理についてはよくわからない。しかし、環境によっては変身するかも知れない。戦場にでたら、それだけが楽しみだなんてなりかねない^^;…。しかし仮に、自分の娘が被害者だったら、どのような報復をするかわかりません。コワイですね。>近代以降、教養を積んできた女性の多くが売買春を汚らわしく思ったり、ことさら哀れに思ったりするのは、「ソンナコト」でしか支配感・優越感を持てない男性や、それに簡単に隷属する女性のプライドの無さに嫌悪感を覚えるからかもしれません。ああ、なるほど。>また、売春を職業にしなければならない女性の多くは、本人ではなく親がそれを強制した(つまり人身売買)のが普通ですから、子供を金で売り飛ばす親への嫌悪感は切り離せないこと・・・かな。樋口一葉の時代は、まさにコレですよね。女性の立場の低下は、江戸期より明治以降の方が激しかったという見方もありますし。あるいは、この時代は女にとって最後の切り札として、それを利用したという側面もあったのかも知れません。誰かが犠牲にならなければ家族が餓死するとか、口減らしのためとか…。それにつけても、まがりなりにも平和であることが大事だと思います。明治時代の軍人、乃木希典の妻は、嫁入りする娘に「閨では声をだしてはいけない」と諭した、というような話しを聞いたことがあります。性は歓びの対象ではなかった。いや、立派な意見をありがとう。 秀0430さん >村上春樹さんの小説には、SEXの関係だけの相手を求める登場人物というのが出てきます。それは、単に欲望を満足させるという目的だけで、愛情を抱くとかそういう面がほとんど感じられません。これは、お金が絡んでいなくても、本質的には買売春の問題につながるのではないかと思います。おおかれ少なかれ、男の作家が描くSEXには一方的なものが多いですね。女性ファンの多い渡辺淳一の小説にしても、男にとって都合の良いSEXが描かれています。性をものとしてみるのか、人格を与えてみるべきか…。逆に女の作家が描くSEXはファンタチック過ぎるような…。もっとも最近はそうばかりでもありませんが…。>欲望としてのSEXというのは、人間にとってどのような意味を持つのかという感じです。それは、かなり実存的なテーマとして語られているようにぼくは感じました。実存的ということでは、ちょっと難しいのですが、『生物の目的は何か?』という問い掛けに、生物学的な回答を示すと『個体の生存維持』と『個体の遺伝子の保存』『結果としての種の保存』と言う事が出来るが、人間を他の動物とは次元の異なる高次の生物だと考えたい人たちにとっては『生物学的な回答』だけでは不十分なものに思えるに違いない。『私たちはただ生きる為に生きるのではなく、性行為(セックス)をして自己の遺伝子を子孫に継承し、人類という種を保存する為にのみ生きているのではない』という主張は、『精神を持つ人間』『自尊心を持つ人間』にとって極めて自然な懐疑的内省である。というようなことを書いている人もいました。>村上ワールドの主人公は、最も大事な相手とはSEXが出来ないように感じるからです。ここでもズレるかも知れませんが、以前アニメフェチのオタクの生態をテレビで放映していましたが、漫画(バーチャル)の女性には異常なほど性欲をもつのに、現実の女性には怖くて近づけないという、男たちがでていました。当然30歳、40歳台になっても独身者たちです。このあいだの奈良の事件の容疑者をみていて、どこか似ているなと…。性のメンタリティーがどこかでずれてしまっているような。>買売春は、お金が絡むのが本質なのか、愛情とか感情抜きのSEXが本質なのか、難しい問題ではないかと思います。そのとおりですね。男は、愛情や感情抜きでもあり得る。あるいは女でもそうかも知れない。お金で割り切ったほうが後腐れ内という人もいる。お金が介在するのは不純だという人もいる。とてもむずかしい。 楓。。さん >男は、自分がその女にとって最初の男であることを望み、>女は、自分がその男にとって最後の女であることを望む。>なんちって(^^ゞ真理!>ペットを平気で虚勢する人間。>性犯罪者も去勢してしまえばいい。。。オォ! そうだそうだ。ペンチで引っこ抜け!(何てことをいわせるんですか(*^_^*)。しかし、みなさんレスのつけにくい話題に参加してくださって感謝です。
2005.01.08
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ポンボさんう~ん、10月9日の当方日記で議論された内容なんですが。私の場合、売買春がいけないという、道義的なもの、感覚的なものなら、理解します。国家が法律で管理する理由がわからない、というものでした。これに関しては、↓の様にまとめてはみたのですが:ねっ! みなさま、 もしかして、こういう理由ってだめかしら?うっかりすると、近親相姦でこどもができてしまうからってのは? ふと、思いついたのですが。これだと、近親相姦タブーの文化、世界中、歴史も長いし。まんまる茸では、売買春はどうか? お金で人を、また人の一部を取引きすることは、人身売買となんら変わらないと、私は思います。お金で頬をたたくようなやり方に思えてしまいます。まあ、喜んでたたかれているノーテンキな女の子もたくさんいるようですが(^^;)日本のように平和な国では、自分の悦楽のために、貧しいところでは、生活のために、それぞれ春を売っている人がいるし、それを買っている人がいる。どちらにしろ、たくましい生き方をしているのならいいのですが...alex99さん私は売春・買春が基本的に悪いことだなんて思っていません。どうして悪いのですか?もちろん、売春に関連している組織暴力とか貧困とかの問題はあるでしょうが、それは売春そのものの本質とは別でしょう?結婚だって一種の売春である結婚もある。あなたの結婚は売春ではありませんでしたか?昔の結婚は、家と家とのものだった。恋愛結婚なんて、100年の歴史を持っていません。 買売春の是非については、女性でもこのように分かれます。全体でいえば、たぶん否定的意見のほうが多いでしょう。もちろん、ポンボさんにしても、道徳的には否定され、無くて済むのであればない方がいい。とは思っているはずです。alex99さんは男の多数を代表して発言しているのだと思います。女性に屈辱感がなく、マッサージなどのサービス業と同じものとして考えれば、それも正論かなと…。もっとたくさんの意見を欲しいですね。とくに、買う側の本音の意見はこういうところでなければ出しにくいのではないでしょうか。僕は、買売春の是非という点でなく、それがとくに途上国の児童虐待に直結していることが気になっているのです。「テレザ」で描かれた現実(子どもの人身売買)が、ブラジルなどではいまだにあるのかとちょっと驚いたのです。しかし、現実には最も歴史の長い商売といわれるほど、どこにでも蔓延しています。そして、最近のニュースではこのようなものまで…。国連平和維持活動(PKO)の国連コンゴ監視団(MONUC)の要員らが、難民キャンプで少女に性的虐待をしたとされる事件について、国連は7日、内部監察局の調査結果を公表した。13歳の少女を含む女性たちが、卵や牛乳、2、3ドル程度の少額の現金を提供されて、性交を迫られたり売春を強要されたりする性的虐待を受けていたことが明らかになった。スマトラ沖大地震と津波は、多数の孤児を残し、こうした孤児たちをめぐる人身売買への懸念が広がっている。犠牲者が9万人を超すインドネシアでは、同国社会省の調べでナングロアチェ州に約3万5000人の孤児が残された。インドやスリランカでも多数が孤児になったと見られており、これら3カ国の政府は人身売買の予防策として孤児の養子縁組を当面禁止した。アメリカ前大統領クリントンは不倫相手のモニカ・ルインスキーに、自分はこれまでに500人の女と寝たと自慢しています。僕にはちょっと信じがたい話しですが、法廷で証言していてクリントン氏もヒラリー夫人に謝っているから本当なんでしょう。このように、百人斬りとか千人斬りとか自慢する男がいるのも事実です。これは単なる数を自慢しているだけで性欲とは言い難いですね。営業マンが何軒の家を回ったと自慢しても、業績が上がらなかったら自慢にもならない。処女崇拝も、数を自慢するのも、性能力が強いという、男のプライドをひけらかす悪しき習慣でしかないのです。SEXが女性への屈辱であるから、男はそれをやりたがるという論もあります。売春することが屈辱でもなんでもなかったら、(パートなどやめて)こんなにラクにお金を稼げる仕事に女性はどんどん進出するし、逆に男はそれほど興味を示さなくなるのではないかというのです。上野千鶴子はそのへんの心理をついて大胆な定言をします。著書『発情装置』のなかで、「性労働から社会的スティグマを拭い去るために、性交と人格を切り離し、性交を望んでいる相手に応じて性交させてやる仕事を、客の凝った肩をもみほぐすマッサージの仕事と同じようなサービス業として認めたら」というのです。つまり「このことで男は、SEXによる幻想を打ち砕かれて、結果的に買春する気を失うかもしれない。」としているのです。禁酒法のあった頃のアメリカでは、密造酒の販売でマフィアが荒稼ぎできた。解禁してしまったら、適正な価格に落ち着き、むしろ平和になるのではないかという考え方もできます。樋口一葉は、生活のために身体を売らざるを得ない女性たちを解放するためにはどのようにしたらいいかと、死ぬ少し前まで考えていたようです。この後現れてきた女性運動家たちによって「売春防止法」ができたのはご存じのとおりです。しかし、現実には形をかえて性産業は隆盛を誇っています。上野千鶴子の提案(?)が実現したとしたら、どのような効果をもたらすものか興味深くはあります。ちょっと会議がありますので、ご意見だけあげておきますが、レスなどは夜中か、明日になると思います。
2005.01.07
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先日書いた「テレザ」は実在のモデルをもとに書いているようだ。美少女テレザは13歳になる前に、軍人あがりの金持ちの乱暴者に売られた。その男に初潮前の処女を奪われるところから、波乱に満ちた人生を送りながら、ようやく幸せを掴み結婚するところまでの経過が書かれている。その粗筋は置くとして、この物語に出てくる好色な男達は、まだ熟していない果樹のような少女の処女を欲しがっている。主人公のテレザにとって、SEXは耐えられないほどの苦痛でしかなかったのだが、好きな相手とならその苦痛が嘘のように歓びに変わる、ということを知る。以前とりあげたイスラム諸国における女性割礼問題。そして日本中を震撼とさせた宮崎勤事件、最近おきた奈良の女子児童殺害事件。どれも男のゆがんだSEX観に根ざしている。本音で書くが、処女を奪うとか新婚初夜とか、(かなうものなら)男にとって何度でも体験したいという気持は、少なからずあろう。しかし、未成熟な少女に対する性的欲望。大学生による集団暴行事件などにもみられた、暴力による一方的なSEX。これはすべての男に普遍するものでは断じてない。たいがいの男は、少年期から青年期にかけて性への興味が急に膨らむ。そして、ある種の雑誌や先輩たちから得た知識から、なんとなく男とはそういうものだという刷りこみもできてゆく。なかでは、男の本能的なものだという語られかたをする。潜在するかしないかは別にして、どのようなSEXも男に共通する本能のような言われ方をすることがある。男にとっての性とは、尿の排泄と同様、溜まるのを堪えていると溢れてしまう、だから排泄が必要だという。しかし、性と排尿とは別のものである。たしかに少年期から青年期にかけては、性衝動を抑えがたいときが何度もある。しかし、他の興味に注意を向けているうちに収まったり、あるいは自分でそれなりに調整して、他人に迷惑をかけないようにしているのが普通だ。一定数の男のなかには、暴力的にでも思いを遂げたいという因子もあろう。それは、SEXという形をとっているが、実は性に依存した暴力として行われているのであって、暴力を振るうことによる歓びである。征服欲というものもあるかも知れない。戦場では、しばしば兵士による強姦が行われる。ユーゴスラビアが分裂したとき、またアフリカの戦場でも、逃げ遅れた女性を年齢に関係なく強姦したというルポを読んだことがある。アメリカ兵もベトナムで、その昔、日本軍も外地でそのようなことをしていたという。これらは男の性欲・本能なのだろうか。僕は、性欲というより女性への侮辱・暴力によって得られる欲望として行われていたのではないかと思う。戦場では、他民族への侮辱にしばしば性暴力が行われる。そして、ロリコン男たちも、少女をひ・暴力により、潜在するコンプレックスを鎮めているのであろう。テレザが好きな相手とのSEXで、同じことをしているのになぜこのように感じかたが違うのだろうと不思議がったように、本来のSEXは愛情をともなってこそ歓びを得られるようにできている。買売春にしても疑似恋愛によって男は歓びに変えている(のだと思う)。しかし、未成熟な少女への性暴力、婦女暴行、これらは性暴力による歓びであって、本能的SEXによる歓びとは別なものである。以前、女性であるポンボさんから「売春が本当にいけないことであろうか」という言葉をつきつけられたことがある。先ほど書いた樋口一葉の時代にも、買売春は日常的なものとして存在した。長くなってしまったので、これについては、皆さんの意見を伺いながらあらためて書き起こしてみたい。
2005.01.06
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本日、「テレザ」(東洋出版刊)を読み終えた。545ページという分厚さだが、全編性愛描写、いや、すさまじい性描写の多い本だ。時代によっては発禁処分されたかも知れない。しかし、問題提起も多い。ことに性差別、男の性欲についてこれでもかと書いてあり、正直にいって同性としても疲れた。20代頃に読んだ「チャタレー夫人の恋人」の意外な淡泊さとくらべ、厚いビフテキを何枚も食べた感じといったらいいのだろうか。 著者はJorge AMADAというブラジルの下院議員だった人で、2001年に亡くなっている。訳者は埼玉在住の明日満也さんという翻訳者だが、後書きを訳者の娘さんが書いているのは特筆ものだろう。この本は、世界各国で翻訳されているからベストセラーになっているのだろう。内容の問題意識が注目されているのだろうか、過激な性描写で売れているのだろうか。例えば、「互いに向き合い、抱き合い、少女の半ば開いた口が切望していた。口付けしたまま横になり、脚が交差した。固い乳房が柔らかい胸毛の森に出会って、脈打っていた。柔らかい太股が若者の引き締まった筋肉に押しつけられていた。ダンの性悪な手が下着の中に入り、死の眠りについていた金の薔薇が咲く黒い庭に届いた。その隠された不思議な場所で銅は金になっていた。ああ、愛しい人、テレザは口に出さずに繰り返した。(ここから過激になってゆく)」比較的大人しい部分でもこのような具合だから、興味のある人は読んで確かめていただきたい。ただ、この本に書かれている背景がとても重く、男としてやりきれないものがあり、読み終えるのに長い日にちを要してしまった。この間に口直しとして何冊も読んでいる。この本は、リンク友だちのポンボさんが紹介していたので、図書館に購入してもらったものだ。訳者はポンボさんの友だちという関係らしい。実は、感想を求められてもちょっと困る。性描写もすごいが、背景が僕にはピンとこない(誤解しないように!)。すごい問題提起が多岐にわたるからだ。模範解答を書くには僕の頭では生理不可能(もとえ、整理不可能)だ。しかし、書のなかででてくる、強姦、買春など、男の性について不快感をのちほど考察してみたい。それにしても、SEXとは美しくもおぞましいもの…。「旬」がまだ届いていない方、今週いっぱい待って届かないようでしたらご連絡ください。
2005.01.05
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スマトラ沖の大津波のことを書きたいが、正直にいって規模が大きすぎて僕の思考能力を超えている。小泉首相が、国連常任理事国入りへのアピールという思惑もあって、5億ドルという巨額な支援を打ち出した。このことにより、各国に支援額増額競争が起きているという。まあけっこうなことであろう。どんな災害でもこうあって欲しい者だ。あとは、これをいかに有効に被災者支援のために使われるようにするかだ。しかし、それにしても現地で今すぐ必要なのは、金よりも人や重機ではないだろうか。災害救助のノウハウをもっている自衛隊をもっと大規模に派遣できないのだろうか。サマワも撤収してインド洋沿岸にまわすいいチャンスではないだろうか。イラクにいるより本当の〔人道支援〕に絶対に役立つはずだ。そして忘れてはならないことは、スマトラ沖の大津波が起きたからといって新潟の惨状が消えたわけではない。500億円強出せるゆとりがあったなら、なぜ新潟ですみやかに出せなかったのか。まさかインド洋沿岸に予算を使ってしまったから、新潟の被災者は地力でなんとかせよなどとはいわないだろう。雪も多くなってきたのに家に帰れない人達はどうしているんだろう。一番困るのは、一部損壊や半壊家屋ではないだろうか。雪の重みがかかってきたときにどうなるか。柱や土台などにゆがみができている家屋が心配だ。国民の生命と財産を守るのが自衛隊の役割なのだから、なんとしても新潟でそれを実証して欲しい。このさい、思いやり予算やスターウォーズ計画などのムダ予算を切り、災害支援予算に回すべきだろう。僕も貧しいなかから新潟に送っている。
2005.01.04
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中都会にはこんな光景も正月三ヶ日くらいゆっくり過ごしたいと思っていながら、そうさせてくれないのが年賀状。昨日はゆっくり帰宅したのだが、今年こそ出しそこねは少ないだろうと安心していたのだが、その考えは浅はかだった。また、250枚近く出してあるのに30枚以上も出していない人から来ている。例年そのくらいあるのだが、今年こそ来ないだろう、できたら縁を切りたいと思っている人が懲りもせずにくれる年賀が半分ほど、新顔が半分ほど…。もっとも、僕の年賀状を手にして(いい加減に止めて欲しいんだが…)と、思っている人もいることだろう。年々新しい人との付き合いができるんだから、日常のつきあいが殆どない人は消去してゆかないと際限もないことになる。結局、半日以上かかって追加分を書くことになった。皆さんはどのように人を整理しているんだろう。 ということで、年賀状を出し終えてから市内にある温泉に家族と出かけてきた。「見晴らしの湯」と名付けられているだけあって、眼前に南アルプスの山々と地域の風景画パノラマのように広がる風景を眺めながらの沐浴は気持ちが良い。雪庭のなかにある露天風呂に入り、暮れなずむ景色を眺めながら今年を思った。自分が関わらなければならない大きな行事を2つ3つ抱えている。懸案になっている施設の立ち上げも具体化してゆかなければならない。そのあいだ、仕事も干上がらないように工面しなければならない。結局、のんびり1年というのは、まだ夢の夢なのかな。1月1日の自宅付近は零下17度、今朝は零下13度、といっても家の中は暖かいので気なしでいたのだが、台所の水道が凍結して水が出ないという。幸い、風呂やトイレは大丈夫なので、生活に特別な不便はない。妻は「困った困った、食事の支度ができない」と言いながら、ちっとも困った顔をしていない。それどころかちょっと嬉しそうにさえ見える。
2005.01.03
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はい、てぬきのあいさつです。 あけましておめでたい人もおめでたくない人も今年も宜しくお願いします。 大晦日から娘のところに行ってきました。仕事で帰ることができないというので、息子を留守番に置いて2泊してきました。ということで、PCを今年始めて開けました。ひめはじめなんちゃって…。娘のところから、長野県から抜けたがっているという山口村にも行ってきました。当然、妻籠宿、馬籠宿も散策してきました。 雪が多くのでピリリと肌刺す鮮烈な空気が心地よかった。昨日は島崎藤村記念館を、ゆっくりと見学してきました。藤村は馬籠の生まれです。今日は妻籠宿です。妻籠は日本で始めて町並み保存条例を制定した地域です。江戸時代の家々がそのまま残っていますが、そこに生活する人々にとっては必ずしも暮らしやすいとはいえないでしょうね。そのうちの一軒で、蕎麦と五平餅をご馳走になってきました。蕎麦は旨かった。五平餅は、味噌が甘すぎました。 帰宅途中の昼神温泉で風呂に入ってきました。のんびりと穏やかな正月です。こんなのどかな一年になればいいなと思いました。
2005.01.02
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SEX論議に、とても真剣にたくさんの意見をいただきました。レスで返すのが礼儀だとは思いますが、読みにくいので返事とともに日記に整理してみました。ちょっと長くなりますが、お読みになってご意見をくださればと思います。ちなみに、レスいただいたものについては、文字の色を灰色にしてあります。ポンボさん>う~ん、10月9日の当方日記で議論された内容なんですが。私の場合、売買春がいけないという、道義的なもの、感覚的なものなら、理解します。国家が法律で管理する理由がわからない、というものでした。これに関しては、↓の様にまとめてはみたのですが:>もしかして、こういう理由ってだめかしら?>うっかりすると、近親相姦でこどもができてしまうからってのは? ふと、思いついたのですが。これだと、近親相姦タブーの文化、世界中、歴史も長いし。買売春と近親相姦との因果関係がよくわかりませんが? 禁止すると、近親相姦に走るのではないかという心配でしょうか?>テレザ、モデル、いたのでしょうか? たぶんいなかったのでは? というよりも、いくらでも実例がありそうな。 混沌とした社会、暑かったらルーズになる。国土が広い。ってのじゃ理由にならないかしら。最近のニュースをみていると、ブラジルだけの問題ではありませんね。もっとも、昔からあったことでしょうが、子ども達の人身売買、これは買売春以前に犯罪ですし、そのうえ淫行は重罪にしていいと思います。しかし、延々となくならない。それなら、いっそ公的に性処理の場を提供して、犯罪というリスクを負ってまで成立する市場を成り立たなくさせてしまう、ということも理屈のうえではわかります。 まるまる茸さん msk222>それは、SEXという形をとっているが、実は性に依存した暴力として行われているのであって、暴力を振るうことによる歓びである。征服欲というものもあるかも知れない。>婦女暴行や強姦が、そういうものであるならば、やはり問題は人格でしょうね。性的衝動にかられても、普通の人は、相手やルールを無視してまで、達成しようとは考えない。思いとどまる何かを持っているから、社会生活が送れる。>なら、戦場ではどうなのか? と問われると、私には答える術はない。異常な状況、異常な立場、異常な考え方、普通ではない環境では、こういうテーマを持ち出す事自体がナンセンスのような気はします。なるほど、僕は平和な時代にこそきちんと分析しておいたほうが良いと思います。こんどの津波被災地域でもそうですが、戦争、内乱などの混乱時にいつも犠牲になるのは弱い立場の人からです。現に、国連のPKO(平和維持部隊)までがやっているとなると…。いかに、平和を維持することが大切かがわかります。話題にしにくいテーマですが、話題にできる時代にきちんと理解しておくべきではないかと思います。>では、売買春はどうか? お金で人を、また人の一部を取引きすることは、人身売買となんら変わらないと、私は思います。お金で頬をたたくようなやり方に思えてしまいます。まあ、喜んでたたかれているノーテンキな女の子もたくさんいるようですが(^^;)>日本のように平和な国では、自分の悦楽のために、貧しいところでは、生活のために、それぞれ春を売っている人がいるし、それを買っている人がいる。どちらにしろ、たくましい生き方をしているのならいいのですが...。ここですね、これはどのように理解するかによって変わってきます。人間が積み上げてきた倫理観として考えると否定すべきだと僕も考えます。しかし、もっとシンプルにわりきって考えると、サービス産業のひとつになるのかな、とも。マッサージで気持良くなることが良くて、SEXで気持ちよくなることが悪なのか、とか。>私個人としては、SEXは愛情の延長であってほしいと思っています。生まれる子供は親を選んで宿ると言われています。それならば、なおさら、愛情たっぷりのSEXからの誕生であってほしいな。それはもちろん、理想でしょうね。男も、ほとんどの人はそれを望んでいると思います。ただ、(買売春もそのときは)愛情と自らを錯覚させてしまいたい(=^o^=;)。>生ぬるいコメントですみません(^^;) 短い文章では語り尽くせないほどの思いはありますよ。女もホストクラブに通い、若い男の子を買うような時代ですから、一概に男だけを悪者にするわけにはいきませんね。もちろん、幼女虐待や強姦は別ですが...男は、家庭が満たされていても誘惑に負けたくなることがある。女の場合はどうなんでしょう、満たされないから……、ということがあるのではないでしょうか。とても参考になるご意見ありがとうございました。 alex99さん私は売春・買春が基本的に悪いことだなんて思っていません。どうして悪いのですか?もちろん、売春に関連している組織暴力とか貧困とかの問題はあるでしょうが、それは売春そのものの本質とは別でしょう?これはその通りだとおもいます。売春はビジネスとしては日陰者です。だから、暴力団や貧苦の果ての食い物にされやすい。ただ、心身とも満たされて、円満な家庭のなかにある女性が、職業のひとつとして売春を選択するという可能性がどれほどあるのでしょうか? もし、胸を張ってできるとすれば、それもひとつの文化かも知れません。芸者さんや舞妓さんはどうなんだろう?結婚だって一種の売春である結婚もある。あなたの結婚は売春ではありませんでしたか?う~ん、これはお互いさまですから、売ったり買ったりということですか。最近では、押し売りお断りの札を貼ってあったりして、お互いに…。(-_-;)昔の結婚は、家と家とのものだった。恋愛結婚なんて、100年の歴史を持っていません。たしかに、政略結婚や家同士の都合での結婚も広義には性の売買かも知れない。しかし、一種の必然性もあって納得(あきらめ?)をした。>>alex99さんは男の多数を代表して発言しているのだと思います。女性に屈辱感がなく、マッサージなどのサービス業と同じものとして考えれば、それも正論かなと…。>どうしてこういう浅薄な失礼な解釈が出てくるのかな?そうですね、言葉足らずでした。すみません。僕の言いたかったのは、alex99さんの発言は、買売春に対してのひとつの透徹した見識で、男の多数が(胸の中では、ああこれだこれだと)肯定する意見だとは思います。このように言いたかったのです。僕も、魅力的な女性に誘われたら今でもフラフラとついてゆくかも知れない。フイリッピンの女性たちに囲まれ鼻の下を伸ばした経験だってある。ベッドを共にしなくても、疑似恋愛や、ニアミスなら何度となく(^^;)あった。まあ、正直に書きにくい経験だってある。(カミさん、遙か昔のことだよ~ん)だから、買売春の道義的否定と、現実的状況をどのように整理すべきか、とても難しい。そういうことでは、結婚というものもつきつめれば、alex99さんのいうとおりかも知れない。ただ、これをいいだすと法律は成立できなくなります。少しあいまいでも、どこかで線を引かなかったら収拾がつかなくなる。たとえば、学校で中学生や高校生が先生相手に援助交際をしても、買売春法がOKならば許すべきか、とか。教師だからいけないとしたら、ベツの問題もでてきそうだし…。僕がとくに問題にしたいのは、自分の意思が確定できない人(児童など)、精神的に育ちきってない少女(ローティーン世代など)が、暴力的にこの世界にひきづりこまれること。現実にさまざまな形で買売春が行われ、それが闇の世界を太らせている。このネットにしても、毎日何本となくあの手この手の誘惑メールが流れ込んでいるわけです。それがどうしても、健全であるわけがない。仮に、買売春が合法化されたとして、公営ギャンブルのようにきちんと整理できるものなのか、どうか。また、客として通う人達の意思が弱かったら、そこに溺れこんで家庭崩壊などの原因になる確率は、競輪や競馬の比ではないかと思うのですが…。ただ、性犯罪の予防には一定の効果があるとは思います。ご意見をお聞きしたいところです。文字数制限ですので、後は前日の日記につづきます。
2005.01.01
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