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1989年冬に滋賀・安土城跡に行った時の写真です。安土駅から歩いて、安土城跡まで登りました。織田信長が築城し、天にそびえるように見えた天守閣があったとされる安土城ですが、安土城跡の土地が思っていたよりもはるかに狭かったことに驚きました。東海道新幹線で車窓から安土城跡のある安土山を見ると、再び安土城跡まで行きたいと思います。ーーーーーーーーーーー↓ 1989年冬の安土駅。↓ 安土城跡への道。↓ 二王門。↓ 本丸跡。↓ 安土城天守跡。琵琶湖が見える。
2024.09.26
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2018年2月10日、佐賀県の肥前名護屋城に行きました。名護屋城址を散策していると、九州電力・玄海電子力発電所が見えました。↓ 九州電力・玄海原子力発電所。 (左は4号機、右は3号機)↓ 3号機↓ 4号機。↓ 玄海原子力発電所。↓ 肥前名護屋城から玄海原子力発電所を臨む。
2023.10.12
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2018年2月10日、佐賀県の肥前名護屋城に行きました。前回のブログでは、「観光案内所付近 → 東出丸 → 三ノ丸 → 本丸 → 天守台跡」と上って行く部分の写真を紹介しました。今回は、「天守台 → 遊撃丸 → 二ノ丸 → 搦手口 → 観光案内所付近」に下って行った部分の写真を一部紹介します。ーーーーーーーーーーーーー↓ 肥前名護屋城 本丸。東郷平八郎が「名護屋城址」と揮毫した石碑が建っている。↓ 天守台跡。↓ 本丸多聞櫓跡(ほんまるたもんやぐらあと)本丸の西側と南側は、ある時期に築城時の石垣(旧石垣)をそのまま埋め込んで新しい石垣(新石垣)を築き、大規模な拡張を行っていたことが明らかとなっています。その本丸西側には、新たに多聞櫓(たもんやぐら)とそれに続く南西隅櫓(すみやぐら)が建てられました。多聞櫓とは長屋状に造られた櫓で、主に武器や食料の倉庫として使われました。ここでは当時の礎石(そせき)がほぼ1m間隔(6尺5寸を1間(けん)としが場合の半間)で南北に長く並んでいる様子が発見されています。ーーーーーーーーーーーー↓ 三ノ丸櫓台(さんのまるやぐらだい)この櫓台は、名護屋城で最大規模を誇り、その西側正面には城内最大の鏡石(かがみいし)を用いて、石垣を築いています。平成6年度の解体修理では、栗石(くりいし)の一部に大型石材を使用していることや、石材を1尺(約30㎝)単位の規格で割ろうとした矢穴跡を確認しています。その石垣の裏からは、宝篋印塔(ほうきょういんとう)の一部も見つかっています。ーーーーーーーーーー↓ 二の丸。本丸の西側にあり、武器、兵糧などの建物があったといわれている。ーーーーーーーー↓ 馬場櫓台(ばばやぐらだい)この櫓台は、本城の櫓配置の中でも特異な例であり、なぜか馬場の通路途中に設けられています。平成7年度に解体修理を実施しましたが、石材として鏡石(かがみいし)状の大石だけに野面石(のづらいし)、その他には割石(わりいし)を用いている点や、割石の裏面に割石の失敗や作業を中止した痕跡を残す点に他と異なる特徴があります。ーーーーーー↓ 本丸南西隅石垣(ほんまるなんせいすみいしがき)平成8年度に解体修理した前面の石垣は、復元すると10m以上の高さとなります。石垣の途中に横長で薄い石材を用いる特徴がありますが、この石材の大部分が割れたために、石垣崩壊が進んだと考えられます。ーーーーーーー↓ 遊撃丸(ゆうげきまる)。文禄2年(1593)に明国の講和使節として来日した沈維敬(遊撃将軍の使者)の宿舎となったことから、この名称が付けられたといわれています。ーーーーーー↓ 搦手口(からめてぐち)前方の斜面は搦手口と呼ばれる、名護屋城に5つある虎口(こぐち:城の出入口)のひとつです。搦手とは城の裏側という意味で、表側の大手に対する言葉です。城の守りを固めるために通路を屈折させた、典型的な喰違い虎口(くいちがいこぐち)の形状をしています。↓ 城のかげ溜池。↓ 観光案内所近くに戻った。
2023.10.11
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2018年2月10日、肥前名護屋城址を見学しました。佐賀県立名護屋城博物館を見た後、東出丸、三ノ丸を進み、本丸に上がりました。本丸中央には、東郷平八郎が「名護屋城址」と揮毫(きごう)された石碑があります。天守台跡もあります。「肥前名護屋城図屏風」(佐賀県重要文化財)には5層7階建て(地上6階、地下1階)の豪壮な建物が描かれており、その高さは石垣から約25~30mであったと推定されています。ーーーーーーーーーーー↓ 名護屋城博物館から観光案内所を通った所。↓ 旗竿石(はたざおいし)の説明(寄贈者:松前佐喜子・袈裟丸ひろ子・袈裟丸代美)この石は、文禄・慶長の役に際して名護屋城周辺に滞在した諸大名の陣屋に、軍旗や馬印などを立てるために、玄武岩質の自然石でつくられた「旗竿石」と呼ばれるものです。昭和15年(1940年)頃、名護屋村から唐津市坊主町の民家に移設され、再び、鎮西町名護屋の地にもどされたものです。中央に直径26.5cm、深さ12cmの円形の穴が穿ってあります。↓ 旗竿石。↓ 名護屋城址。↓ 東出丸の案内。東方に張り出した長方形の曲輪(くるわ)で、千人枡(せんにんます)とも呼ばれています。大手口・三ノ丸警護のための侍詰所(さむらいつめしょ)があったと推定されます。↓ 東出丸。↓ 三ノ丸に進む。↓ 三ノ丸の案内。三ノ丸は、本丸より一段低いところに位置する東西34間(68m)、南北62間(124m)の曲輪(くるわ)です。↓ 三ノ丸。↓ 三ノ丸。↓ 本丸大手門に進む。* 【本丸大手門】 三ノ丸から本丸への入り口に、二層の豪壮な門が築かれていた。後に仙台(青葉)城主伊達政宗が城の大手門に移したという。国宝であったが、惜しくも第二次世界大戦(昭和20年:1945年)の空襲で焼失した。(肥前名護屋城歴史ツーリズム協議会の肥前名護屋城パンフレットより)↓ 名護屋城址本丸。本丸中央には、東郷平八郎が「名護屋城址」と揮毫(きごう)された石碑がある。↓ 東郷平八郎の揮毫「名護屋城址」。↓ 天守台跡。ここは名護屋城のシンボルである天守(閣)が建てられていた天守台です。「肥前名護屋城図屏風」(佐賀県重要文化財)には5層7階建て(地上6階、地下1階)の豪壮な建物が描かれており、その高さは石垣から約25~30mであったと推定されています。↓ 天守台跡。ーーーーー↓ 有田焼でつくられた諸大名の陣の場所案内。(案内板と写真を対比させた)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー↓ 呼子大橋。
2023.10.10
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2018年2月10日、佐賀県立名護屋城博物館に行きました。館内には名護屋城と城下町の1/300スケール模型が展示されており、当時の名護屋の様子がとてもよく分かります。ーーーーーーーーーー名護屋城に隣接する丘陵に、豊臣秀吉の正室おね(ねね:北政所)の甥の木下延俊(きのしたのぶとし)の陣があり、そのそばに名護屋城博物館が建っています。佐賀県立名護屋城博物館のパンフレット「大名の陣屋跡~特別史跡木下延俊陣跡~/屋外常設展示 常設展 日本列島と朝鮮半島の交流史 4 特別史跡名護屋城跡並びに陣跡 1997.5」に、木下延俊の記載があるので、一部を紹介します。「木下延俊は、天正5年(1577)に木下家定(いえさだ)の三男として生まれました。豊臣秀吉の正室おね(北政所、高台院)の甥(おい)にあたります。当時の所領は、播磨三木郡(はりまみきぐん)の内2万石であり、その後の関ケ原の戦いの時は東軍につきその功により慶長6年(1601)、豊後速見郡日出(ぶんごはやみぐんひじ)城主として3万石の封を得、寛永19年(1642)に66歳で没しました。延俊の後、木下氏は転封もなく、日出(ひじ)藩主として幕末まで16代続きました。」ーーーーー木下延俊の兄弟ですが、5男は秀秋です。豊臣秀吉が毛利輝元に秀秋を養子にという話を持ってきました。毛利輝元の3男である小早川隆景が、輝元の養子にするのはまずいと考え、自分の養子にするとしたため、小早川秀秋となりました。関ケ原の戦いでは、静観していた小早川秀秋に対して徳川家康が怒り、小早川軍に鉄砲を打ち込ませたので、小早川軍が西軍の大谷軍を攻めて流れが変わり、東軍の勝利になったという有名な話があります。その後、小早川秀秋は岡山城主となりますが、2年後に亡くなり、子供がいなかったので改易となりました。ーーーーーーーーーーー↓ 名護屋城と城下町の1/300スケール模型。↓ 名護屋城と城下町。名護屋城は16世紀末、豊臣秀吉が文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)に際して築いた城で、総面積約17万㎡と当時では大阪城につぐ規模を持っていた。海との間には大きな城下町が形成され、城の周囲には120以上の全国の大名たちの陣屋が築かれた。この大都市には、10数万もの人々が居住したといわれている。この模型は「肥前名護屋城図屏風」をもとに復元・制作したものである。○模型縮尺 1/300○製作監修 西 和夫(神奈川大学工学部教授)↓ 名護屋城と城下町。中央の天守閣がある場所が本丸。その左から手前まで、遊撃丸、二の丸、弾正丸が続き、搦手口がある。奥は名護屋浦の海や、徳川家康の陣が見える。↓ 中央は天守閣。天守閣の左は遊撃丸、手前は二ノ丸、左奥の堀は鯱鉾池と台所丸。↓ 名護屋城から名護屋浦を臨む。↓ 名護屋城(左)の近くにある中央の陣は、豊臣秀吉の正室おね(ねね:北政所)の甥の木下延俊(きのしたのぶとし)の陣。このそばに、現在は佐賀県立名護屋城博物館がある。↓ 天守閣と本丸(中央)。 その下は水手曲輪(左下)、遊撃丸(中下)、二ノ丸(右下)↓ 名護屋城と鯱鉾池の位置。↓ 名護屋浦から名護屋城まで続く道。奥が名護屋城。手前が徳川家康陣。↓ 名護屋城(奥)と、徳川家康陣(手前)の位置。武家屋敷や城下町が続く。↓ 奥に名護屋城。中央付近に徳川家康陣、下の方に本多忠勝陣。ーーーーーーーーーーー↓ 諸大名の陣屋位置。ーーーーーーーーーーーー文禄の役当時の大名は位置図。【似顔絵のある大名】1)鍋島直茂、2)加藤清正、3)島津義弘、4)毛利輝元、5)加藤嘉明、6)福島正則、7)長曾我部元親、8)古田織部、9)石田三成、10)豊臣秀吉、11)前田利家、12)山内一豊、13)徳川家康、14)蒲生氏郷、15)伊達政宗
2023.10.09
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2018年2月10日朝、佐賀県立名護屋城博物館に行きました。豊臣秀吉の朝鮮出兵に関連して、陶磁器、朱子学、活字、朝鮮通信使の展示があったので、紹介します。↓ 佐賀県立名護屋城博物館の内部。ーーーーー↓ 陶磁器。今日高い評価を受けている唐津焼や伊万里(「有田)焼は、優れた技術を持った朝鮮の陶工たちによって始められた。別名「やきもの戦争」といわれる文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)で連行されてきた多数の陶工集団の技術力は、日本の陶磁器生産に画期的な発展をもたらした。↓ 唐津焼とは肥前一帯で焼かれる陶器の総称で、16世紀後半には朝鮮の陶工たちによって焼かれていた。文禄・慶長の役を境に本格的な大量生産体制に入り、三島・刷毛目・絵唐津など多種・多彩な技法が発展した。↓ 粉青沙器 鉄絵人参葉文瓶 朝鮮時代(15~16世紀)本作は粉青沙器と呼ばれ、朝鮮時代を代表するやきものである。唐津焼のもととなった制作技法によって作られている作品である。また、本作は粉青沙器の中でも「鶏龍山手」と呼ばれるもので、白土を塗った上に鉄絵具で朝鮮人参の葉を描いたものである。↓ 肥前陶磁の発達文禄・慶長の役で連れてこられた李参平は、元和2年(1616)、有田において日本で磁器の焼成に初めて成功したといわれている。以来、有田皿山を中心とする磁器の生産は飛躍的な発展を遂げる。1640年代には色絵が誕生し、17世紀後半にはその名声が遠くヨーロッパにまでおよんだ。この17世紀後半から18世紀が、まさに肥前陶磁の全盛期である。↓ 連行された陶工たち陶工たちは、九州・山口の諸大名の支配・保護の下で上野焼・高取焼・薩摩焼・萩焼などを興し、また、唐津焼きにも大きな変革をもたらした。現在でも、窯場の周辺には異国の地で望郷の思いに駆られた無名陶工たちの遺跡が散在する。ーーーーーーーー朱子学文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)により朝鮮から連行された人々の中には朱子学者もいた。彼らは日本の学者との交流を通じて、日本の近世朱子学の発展に寄与した。君臣上下の身分秩序を重んじる朱子学は、支配体制を支える思想として為政者に歓迎され、徳川幕府や各藩の厚い保護を受けた。↓ 近世朱子学と姜沆慶長2年(1597)南原の戦で藤堂高虎の軍に捕らえられた姜沆(カンハン)は、伊予国大津(現愛媛県大洲市)に連行された。すぐれた朱子学者であった彼は、後に近世朱子学の開祖と称される藤原惺窩(ふじわらせいか)に出会い影響を与えた。↓ 洪浩然と佐賀洪浩然は文禄2年(1593)晋州付近で鍋島直茂に捕らえられた。浩然は直茂の子勝茂に仕え、学問の素養を認められて京都五山に遊学した後、佐賀藩の儒者となった。明暦3年(1657)浩然は家族に「忍」の字の書を残し、勝茂に殉死する。墓は阿弥陀寺(現佐賀市)にあり現在も手厚く守られている。↓ 洪浩然↓ 洪浩然書「忍」(複製)明暦3(1657)年4月8日 本館蔵洪浩然は、文禄の役に際して佐賀の兵に捕らえられた人物。その後、佐賀藩士となり、藩主鍋島直茂・勝茂に仕えた。書に秀で、現在も県内外に作品が伝わっている。明暦3(1657)年3月、勝茂が江戸で死去すると、洪浩然は追い腹を切った。本史料はその際に家族への遺訓としてしたためられた絶筆である。ーーーーーーー↓ 活字印刷。朝鮮は前代の高麗時代から、世界に先駆けて金属活字によるすぐれた印刷文化を有してきた。文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)により、銅活字や朝鮮本が持ち去られ、印刷技術を持つ人々が日本へ連行されたといわれる。朝鮮の活字印刷文化は、日本の印刷技術に影響を与え、近世初頭の日本において活字印刷が一時盛んに行われた。↓ 朝鮮活字 朝鮮時代 名護屋城博物館蔵朝鮮の活字印刷で使用された木活字。ーーーーーーー↓ 文禄・慶長の役後、徳川家康と対馬の宗氏との努力により、朝鮮との国交が回復した。朝鮮からは平和との友好の使節「朝鮮通信使」が来日し、徳川幕府や沿道の各藩の盛大な歓迎を受けた。また釜山には倭館がおかれ、両国の人々は盛んに交流した。朝鮮は江戸時代の日本が正式な国交を行っていた国であり、260年間も続いた善隣外交は世界史的に見ても非常に稀なことである。↓ 朝鮮通信使朝鮮通信使は、徳川将軍の代替わりなどの折りに日本からの要請に応えて派遣された。この使節団は朝鮮の国書を携え、正使以下300~500人にも及び、その中には学者・画家・楽隊なども含まれていた。12回に及ぶ通信使の来日は、鎖国制化の日本の人々にとって、外国の文化に直接ふれることのできる貴重な機会であった。↓ 朝鮮通信使行列絵巻 江戸時代中期江戸時代中期の狩野派絵師狩野常信の作で、天和2(1682)もしくは、正徳元(1711)年の通信使の様子を描いたものです。来日した通信使の姿を記録しようと、通信使の行列を書いたこうした絵画が様々な立場の人から注文され、数多くの作品が描かれました。↓ 唐子人形 名護屋城博物館蔵旧中山道沿いの滋賀県五個荘町小幡(ごかしょうちょうおばた)では、現在も制作され続けている。↓ 朝鮮人行列次第 延享5(1748)年 本館蔵延享5(1748)年、第10回朝鮮通信使の来日を控えて京都で出版された冊子。内容は、通信使の行列を開設するもので、いわゆるガイドブックである。この時の来日は前回から30年ぶりのことで、その様子に庶民たちも高い関心を寄せていたことがうかがわれる。ーーーーーーーーーーーーーー↓ 絵本豊臣君勲功記 安政4(1857)年~明治15(1882)年 本館蔵江戸時代後期、幕府によって秀吉伝記の出版は大きく制限されていたが、幕末になるとそれらも緩み、再び秀吉関連の書物が人気を博すようになる。「絵本豊臣君勲功記」は、豊臣秀吉や加藤清正などの逸話を豊富に盛り込みながら、秀吉の天下統一までを描く読本。途中までは優れた武者絵を描いた歌川国芳が挿絵を担当している(国芳没後は松川半山が担当)江戸時代後期以降に人気を博した太閤記関連の読本は、現在に至る豊臣秀吉や加藤清正などのイメージ形成にも大きな影響を与えている。明治時代になると、大陸進出を行った英雄、関白として天皇を補佐した人物という視点から秀吉の再評価が積極的に進んだこともあり、本書は全80冊・発行期間25年に及ぶベストセラーとなった。
2023.10.08
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2018年2月10日朝、佐賀県立名護屋城博物館に行きました。豊臣秀吉による朝鮮出兵に関し、日本軍と朝鮮・明軍の武器の説明があったので、紹介します。ーーーーーーー【日本軍の武器】長い乱戦の世を経験した日本軍は、攻撃に有利な武器を持っていた。特に16世紀半ばに日本に伝えられた火縄銃は、戦の形を変え、文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)においても、日本刀とともに強力な武器となった。また朝鮮側に投降した日本の将兵(降倭)は火縄銃、日本刀の製法や使用法を伝えた。ーーーーーーーーー↓ 朝鮮・明軍の武器武より文を重んじた政治体制下にあった朝鮮軍の主な兵器は、伝統的な弓矢と大小の銃筒であった。また明軍は仏狼機砲(ふらんきほう)などの大砲を以て戦争に臨んだ。しかし命中精度の高い火縄銃と日本刀のほうが戦闘にすぐれ、朝鮮・明軍は苦戦を強いられた。ーーーーーーーーーーーーー↓ 文禄・慶長の役 空虚なる御陣/上垣外憲一/講談社/講談社学術文庫P100~102この朝鮮の役での日本軍の勝利は、鉄砲と日本刀によってもたらされた、といえる。日本刀の鋭利さは、すでに倭寇の害によって中国・朝鮮ではよく知られていた。~東莱(トンネ)城の戦いでは日本軍大刀が勝敗を決した、とフロイスは書いている。-「双方ともに大いに奮戦したが、朝鮮人は頭上に振り翳される日本人の大刀の威力に対抗できず、ついに征服された」。また有名な碧蹄館の戦いでも、日本軍の勝因の一つに、日本刀の鋭利さが挙げられている。賊(日本軍)のほうはみな歩兵で、かれらの打ち振る刀は、3、4尺におよび、鋭利無比のものであった。賊はその鋭い刀を左右にはげしく打ちふるい、人馬の区別なく斬り伏せた。まったくその勢いには抗すべき道がなかった。(『懲毖録(ちょうひろく)』)しかし、なんといっても、日本軍の最も強力な戦力となったのは、鉄砲であった。~『懲毖録(ちょうひろく)』ではその鉄砲について次のように描写している。日本人は戦闘に習熟し、しかも機械は精巧である。昔は鉄砲がなかったが、今それを所有している。有効射程、命中率は弓矢に倍する。・・・弓矢の技は百歩にすぎず、鉄砲は数百歩におよぶ。飛んでくるさまは、風、あられのよう。とても抗せるものではない。この小銃の集中射撃の威力で、日本軍は次々に勝利を手にしていったのである。ーーーーーーーーP120~122『武功夜話』は、平壌の戦いで日本軍は鉄砲隊1500挺で明兵に撃ちかけたところ、「豈(あに)はからんや大明の大筒(おおづつ)雷音とともに城中へ飛来、一度に数千人打取られ」と、その大砲の威力のすさまじさを描写している。『武功夜話』には、明の大砲がいかに日本側の脅威となったかを示す言葉が繰り返し出てくる。「すなわち大明兵の大筒落ち掛かり候いては、如何様(いかさま)味方の鉄砲勝りたるといえども支え難く」、「平壌3日を支えきれず落去に及び候。これは小西摂津守弱みには非ずなり、大明の玉薬身方に勝り候故に候なり」、「数百門大筒百雷一遍に落ちたる如く、如何なる堅塁もみじんに相成る」等々である。いかに明軍の大砲の威力に日本軍が驚き、恐れたかがわかる。日本軍は飢えと寒気にも苦しめられた。凍死する者もあとをたたなかった。都(漢城)においては越冬は苦しく兵糧は不足、1日2度に減じ雑炊(ぞうすい)を喰いつなぎ候。薄着のため手足寒気にやけくさり、指先自由を失う者多数あり、鉄砲打ちかねたる者数知れず。寒死する者その後を断たず候なり。(『武功夜話』)~『日本史』は次のように描写する。日本軍は雪や氷の上を歩き馴れない上に、朝鮮人やシナ人が用いている厚い皮靴の使用を知らず、寒気と水分に弱い草鞋(わらじ)を履いていたので、その苦痛は言語に絶し、多くの者は足の親指が凍傷で落ち、そのいくつかは当時日本へもたらされている。食料不足と寒気による凍傷、落伍して死ぬものもあり、命からがら漢城に逃げ帰った者も、別人のようにやつれ果てていた。負傷者、病人は捨てていかれた。ある者は田の中を這いまわったり、口を指して食物を求めたりした。(『懲毖録(ちょうひろく)』)力なくして身もつかれ、親を討たるる人もあり。兄を討たるる者もあり。・・・手足は雪にやけはれて、着物はよろいの下計(ばかり)、さも美敷(うつくしき)人なども、山田のかかしと衰えて、あらぬ人かとも見も分かず。(『吉野甚五左衛門覚書』)小西軍は雪と氷の朝鮮の山野を、惨憺たる辛苦をなめて漢城に逃げ帰ったのである。一方、さらに北方の威鏡道にあった清正軍も厳しい寒気に苦しめられ、義兵の蜂起の盗伐に奔走する状況に追いこまれていた。
2023.10.07
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2018年2月10日、佐賀県立名護屋城博物館に行きました。室内には、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の海戦で使用された双方の軍船模型が展示されていました。日本軍の安宅船(あたけぶね)、朝鮮の亀甲船(きっこうせん)を紹介します。↓ (船首側)画面左は日本軍の安宅船。右は朝鮮の亀甲船。 (船尾側)ーーーーーーーーーーー【日本水軍の安宅船(あたけぶね)】文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)当時、日本水軍の最強軍船である。攻撃力・防御力などの面で他の軍船よりすぐれ、近代の戦艦に相当する。この模型は「名護屋城図屏風」に描かれた安宅船などをもとに復元・制作したもので、総矢倉形式の船体に二層の屋型を持つ。○模型縮尺 1/10○船の全長 38.0m○船の幅 11.7m○監修 石井謙治(日本海事史学会会長)↓ 「名護屋城図屏風」に描かれた安宅船。↓ 安宅船の模型展示。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー【朝鮮水軍の亀船(コブクソン)(亀甲船:きっこうせん)】文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)当時、朝鮮水軍が誇る戦艦で、李舜臣(いすんしん)将軍が創作したと言われている。日本との海戦で活躍し、朝鮮水軍を勝利へと導いた。この模型は「李忠武公全書」の亀船などをもとに復元、制作したもので、船の覆板を亀の背中のように装甲し、船内には天字銃筒(てんじじゅうとう)などの大砲を備える。○模型縮尺 1/10○船の全長 36.0m○船の幅 10.6m○監修 金在瑾(大韓民国学術院会員)↓ 亀船(亀甲船)の絵図。↓ 亀甲船の模型。ーーーーーーーーーーーーーーーーー↓ 司馬遼太郎 街道をゆく 2 韓のくに紀行/司馬遼太郎/朝日新聞社/朝日文庫P48~50で、日本海軍と李舜臣率いる朝鮮水軍の戦いが記されているので紹介します。李舜臣は良く知られているように、豊臣秀吉の朝鮮ノ役、朝鮮側でいう壬辰倭乱に、朝鮮軍をひきいて驚異的な活動をし、数度にわたって日本の水軍を撃破し、物理的には八割方の制海権を確立して、全般の戦局に重大な影響をあたえた人物である。「倭、本(もと)水戦に慣れず」と、明の『両朝平攘記』にあるように、日本人は古来水戦が不得意で、室町期の倭寇なども海上戦がにが手だったことは被害国の明でも常識になっていた。ただ陸上へあがると、その強さは明や朝鮮側の手に負えなかった。朝鮮ノ役における豊臣軍も同様であった。その朝鮮側における水戦の功は、ことごとく李舜臣に帰せられるべきもので、かれの足をひっぱろうとした大官はいるにせよ、かれの統率上の協力者や戦術上の協力者はだれもいなかった。当初、朝鮮の水軍はじつに弱かった。このため慶尚右水使元均という将は倭と戦うには李舜臣の出馬を乞うしかないとおもい、数度使いを出したが、李舜臣はかんがえこむばかりで返事をしなかった。このあたりが当時の官界のむずかしいところで、うかつに立ちあがればあとでどういう罪科をもって陥れられるかわからない。ついに立ちあがり、戦隊をひきいてさまざまに作戦し、藤堂高虎の水軍を覆滅した。李舜臣の文章の一端をかかげると、日本軍の軍装を描写していうくだりに、「およそ倭人、紅甲鉄甲、各色の鉄頭、口角の鬛(りょう:ひげ)縦横なり。鉄広、大金冠、金羽・・・などのごときにいたりては、奇形異状、侈(し)を極め、奢(しゃ)を極め、鬼のごとく獣のごとく、これを見る者、神を驚かさざる者なし」と、日本の織豊時代の具足のぜいたくさとその形状の異様さにふれている。この藤堂高虎の水軍をやぶったのが、玉浦の海戦である。ひきつづき釜山付近の唐浦の海戦でも大いにやぶったが、この両度とも李舜臣は銃弾にあたって軽傷をうけているところからみても、みずから先頭に立って指揮したのであろう。かれの戦況報告書である注進状をみても、明の将の常套の手である戦果の誇大報告というものはあまりない。さらに閑山洋の海戦をたたかって勝ったときの注進状も、日本側の記録とへだたりがない。そのあと、李舜臣はべつに功を賞せられることなく、牢に入れられてしまう。まことに李朝の官界というのは苛烈で反目嫉視が多く、やることがじつにめめしい。中国史には大功を樹てた者が図に乗ってあとで害をなしたといういくつかの例があるが、しかし李舜臣はそういう人柄ではなかった。再度の役(日本でいう慶長の役)のときには李舜臣は牢にいた。朝鮮の水軍がまたたくうちに惨敗した時、李舜臣はふたたび牢から出されて戦わされるのである。当時、朝鮮では中国のことを、「天朝」と、敬称していた。天朝からも大規模な水軍が応援にきていて、その提督は陳璘(ちんりん)という凶暴な人物だったが、李舜臣はこの男と対立せず、この男の協力を得るために、「戦功はみなあなたの名前にしますから、指揮は私にゆだねてほしい」とたのんだ。こういうあたり、李舜臣の謙虚さと政治手腕というのは尋常なものではない。陳璘もすでに李舜臣の腕を知っていたので、この取引をよろこび、自分の明艦隊をも李舜臣の指揮下にゆだねた。これによって李舜臣は露梁津の海戦をたたかい、大いに日本水軍をやぶった。この海戦中、李舜臣は銃弾によって右わきを射ぬかれ、戦死した。
2023.10.06
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2018年2月10日、佐賀県立名護屋城博物館に行きました。豊臣秀吉が朝鮮出兵を行った文永・弘安の役に関する史料が展示されており、じっくり見る事ができました。書状と唐織りは目を引きましたので、一部を紹介します。ーーーーーーーーーーーー文禄元年【1592)4月、豊臣秀吉は諸大名に命じて朝鮮への侵略を開始した。しかし、李舜臣将軍の率いる朝鮮水軍や義兵として蜂起した民衆がこれに反撃を加え、来援した明軍とともに日本軍を南海岸まで撃退した。慶長2年(1597)2月、講和交渉が決裂し秀吉は再度侵略を命じたが、この時も日本軍は敗退を重ね、翌年秋に撤退した。7年間にわたる戦禍は、朝鮮半島全域に及び大きな被害を与えた。ーーーーーーーーーーーー↓ 豊臣秀吉朱印状 天正20(1592)年4月22日付 本館蔵文禄の役開戦直後に発された豊臣秀吉の書状。紙が切断されており宛所は不明。内容は、虎皮2枚の礼とともに、名護屋城での普請が完了したことを聞いて褒めているもの。虎皮を送り、名護屋城の築城にも関わった宛所の人物は果たして誰か。断定は難しいが、日付や内容から第3軍の大友吉統や黒田長政、もしくは第4軍の島津義弘・毛利吉成などが該当する可能性がある。なお、この書状を発した時点で秀吉はまだ名島城(福岡市東区)にあり、名護屋到着は3日後の4月25日であった。↓【意訳】虎皮2枚が私のもとに届いた。うれしく思う。名護屋の普請も終え、対馬に渡海したとのこと、もっともなことである。なお、詳しくは増田右衛門尉(増田長盛)が伝える。卯月22日(秀吉朱印)ーーーーーーーーーーーーーーーーー↓ 黒田家譜(くろだかふ) 江戸時代(成立:17世紀後半~18世紀初頭)本館蔵古文書や口伝をもとに、福岡藩主・黒田家の基礎を築いた藩祖・孝高(官兵衛)、初代藩主・長政の事績を叙述する。三代藩主・光之の命で藩儒・貝原益軒が編纂し延宝6(1678)年に上呈された(その後3度の校訂が行われた)。「黒田家普」中では、文禄・慶長の役についても大きく紙幅が割かれており、朝鮮国や中国の歴史書なども利用しながら主君や家臣の奮闘が詳細に描かれる。名護屋城については、孝高(官兵衛)が縄張り(全体設計)を、長政が「総奉行」を担当、天正19(1591)年10月から初めて翌年2年に終えたと記している。なお、本史料は江戸時代の写本である。↓ (意訳)(秀吉が名護屋城の)縄張りを孝高にお命じになり、孝高が地割りを定めた。総奉行は長政にお命じになり、7(天正19年)10月から斧初めが行われた。翌年2月に営作は完了した。ーーーーーーーーーー↓ 直茂公譜(なおしげこうふ) 江戸時代(成立:18世紀前半)本館蔵佐賀県の藩祖・鍋島直茂の事績を編纂したもの。文禄・慶長の役についても大きく紙幅が割かれており、威鏡道侵攻や蔚山城攻防戦などの記述も詳しい。名護屋城の築城については、蓮池城(佐賀県蓮池町)の天守を献上したことや大手口の櫓(やぐら)を担当したことが記されている。その真偽のほどはさだかではないが、名護屋城の築城にあたっては、大名たちが領国の建物を再利用して短期間に仕上げたことが当時の記録にもみえる(フロイス『日本史』)。ーーーーーーーー↓ 加藤清正あて豊臣秀吉朱印状 天正20(1592)年5月16日付 本館蔵文禄の役開戦(4/13)から次々と朝鮮軍を破った日本軍は、わずか20日後の5月初旬に漢城(現ソウル)を陥落させた。すでに国王(宣祖)は明国の支援を求めて北方の平安道へ脱出していた。本史料は、その知らせを名護屋城で受けた豊臣秀吉が、漢城にいる加藤清正に宛てた書状である。主な内容は、朝鮮国王を捜索すること、小西行長と相談しながら統治を進めること、逃亡した住民は居住地に戻すこと、秀吉が滞在するための「御座所」を構築すること、などである。後半部には、秀吉も船が揃い次第渡海する予定であることが見えるが、6月頃から水軍の劣勢が伝えられる状況となり、渡海は延期された。ーーーーーーーーーーーーーー平壌(ピョンヤン)城攻防図 朝鮮時代 大韓民国国立中央博物館 原蔵文禄2年(1593)1月の平壌城の戦いの模様を描いたもの。城内の日本軍を、李如松の率いる明・朝鮮軍が盛んに攻撃している。この戦いで敗北した小西行長らは漢城(現:ソウル)に引き揚げたが、その後講和への動きが急速に進むことになった。↓ 平壌(ピョンヤン)城攻防図 朝鮮時代 大韓民国国立中央博物館 原蔵ーーーーーーーーーーー↓ 北政所あて豊臣秀吉自筆書状(複製)文禄2(1593)年5月22日付 本館蔵・原資料は佐賀県重要文化財文禄の役の開戦から1年後、名護屋に在陣中の豊臣秀吉が大阪にいる正室「おね」(北政所)に宛てて送った自筆の書状。明国との講和交渉の過程で使節団と対面すること、明国が条件を受け入れれば戦さを収める予定であることなど、戦況の報告を行っている。また、追而書(おってがき:追伸)には、「二の丸殿」(淀殿)が懐妊した知らせに対して「めでたい」と述べている。本史料を含め、名護屋から秀吉が「おね」にあてた書状は、現在までに12通確認されている。いずれも仮名を多用した丁寧な筆づかいで、”筆まめ”な秀吉の性格がうかがえる。↓ 【意訳】①本文大明国より詫び事のために勅使(明国皇帝の使者)が名護屋までやってきています。条数書(和平条件)を示したので、それに従うならば許し、開陣(もしくは凱陣)して引きあげるつもりです。朝鮮国で普請(日本軍の城の建設)などを命令しており、もう少し時間がかかりそうですが、7、8月には必ず会えますので、安心してください。②追而書(おってがき:追伸)この間より少し体調がよくなったので、最初にあなたに手紙を書きます。また、二の丸殿(後の淀殿)が懐妊したという知らせは、たいへんめでたいことです。私たちは子どもがほしいとは思っていなかったはずですので、そのつもりでいて欲しい。太閤(秀吉)の子は鶴松(2年前に死去した実子)だけであり、今度の子は二の丸だけの子として考えてもよいのではないか。5月22日 太閤(秀吉) おねへーーーーーーーーーー↓ 慶長の役(丁酉再乱)あくまでも明の服従を要求する秀吉と、秀吉を日本国王に封じるという明側の主張の相違により和平交渉は決裂した。慶長2年(1597)2月、秀吉は再侵略を命じ、慶長の役(丁酉再乱)が始まった。その目的は文禄の役に参陣した武将への恩賞地として朝鮮半島南4道を獲得することにあったといわれる。↓ 戦争の経過約14万の日本軍は朝鮮半島南部で戦争を再開したが朝鮮・明軍の攻撃や兵糧不足などにより敗退した。慶長3年(1598)8月、秀吉の死を契機として日本軍の将兵は撤退し、前後7年間にわたる戦争は終結する。ーーーーーーーーーーー↓ 加藤清正条書案 16世紀末 本館蔵朝鮮半島に在陣している加藤清正が、日本国内の家臣に宛てた指令書。「きんさう薬」(傷薬)、名護屋にある馬具、「よき酒」「かつお」「よろず肴」などを送るように求めているほか、鉄砲については”出来次第に50丁でも30丁でも送るように”と厳命している。簡単なメモ書きではあるが、領国から頻繁に物資を運んでいたことをはじめ、名護屋がその中継地として機能していたことなどが分かる貴重な史料である。なお、清正は他の書状でもしきりに鉄砲を求めており、その重要性が高かったことがうかがわれる。ーーーーーーーーーーーーー↓ 鍋島直茂(なべしまなおしげ)あて豊臣秀吉朱印状 文禄3(1593)年12月20日付 本館蔵金海(キメ:慶尚南道)に在陣を続ける鍋島直茂(佐賀城主)にあて、豊臣秀吉が発した書状。前年の8月から明国との講和交渉が開始されたことを受けて、すでに大規模な戦闘は行われていなかったが、西日本の大名はこの時点でも釜山周辺での在陣を続けていた。内容は、日本軍が在陣する城(倭城)に備蓄されている兵糧米入替えを速やかに実施したことを褒め、長期に及んでいる在陣へのねぎらいの言葉が続く。そして、将兵のうち半分ないし3分の1を交替で帰国させることを認め、再来年には関白・豊臣秀次も名護屋城まで赴く予定であると述べている(ただし、秀次は文禄4年7月に自刀)。その後、3年余におよぶ在陣を経たのち、慶長2年(1597)年夏頃から2度目の侵攻が本格的に開始される。↓ Q)どうして文章が上下でさかさまなの?A)半分に折った紙を裏返して書いたから。① 紙を半分に折り、書き始める。② 紙を横に返して続きを書く。文末に宛名を書き、朱印を押す。ーーーーーーーーーーーーー↓ 早川長政等連署状(鼻請取状) 慶長2(1597)年 本館蔵慶長2(1597)年8月、毛利秀元・加藤清正・鍋島勝茂らの軍勢が慶尚道の黄石山城を攻略した。本史料は、その際に鍋島勝茂軍が得た鼻の数を目付衆(秀吉の代役としての監視役)が確認した事を証する文書である。これは膨大な首級に代わり鼻を戦功の証としたことによるもので、この「成果」が日本国内に留まる秀吉へと報告されていたと考えられる。現在、同様の史料が鍋島家や吉川家、黒田家などにも残存しており鼻の合計は3万に上る。なお、近年の研究によって、これらの発給時期が同年8月~9月に集中することが指摘されており、その背景についても検討が進められている。ーーーーーーーーーーーーー↓ 朝鮮国礼曹俘虜刷還諭告文(複製) 1617年 本館蔵(原史料も同)江戸時代初期に来日した回答兼刷還使(朝鮮通信使)が、持参した文書。文禄・慶長の役において捕らえられ、日本国内に居住している者に対して帰国を呼びかける内容で、朝鮮国の礼曹(外交・祭祀。科挙等を担当した機関)が発している。前回(丁未年・1607年)の使節に従って帰国した者には、罪を許し、夫役を免除するなどの特典を与えたことを示し、早々に使節のもとに出頭するよう勧めている。文禄・慶長の役において捕らえられた人々の数は数万人ともいわれる。江戸幕府を開いた徳川家康は、朝鮮国との国交回復を進めたが、その過程で数度にわたってその帰国もはかられた。しかし、使節の来日自体が10年程度間隔が空いたこともあり、次第に帰国する者の数は減少し、約6~7千人にとどまったとみられている。ーーーーーーーーーーーーーー↓ 肥前名護屋城の内部は、狩野派などの画家による障壁画で装飾され、絢爛豪華なものであった。朝鮮半島では悲惨な戦いが行われていたが、名護屋城や各大名の陣屋では能・茶の湯・連歌が盛んに催された。城下町は軍事都市・国際都市として賑わい、「肥前名護屋城図屏風」には、多くの品々を商う店、往来する人々、ポルトガル人や明の使節も見ることができる。ーーーーーーーーーー↓ 能装束「唐織」 現代/本館蔵名護屋城在陣中、豊臣秀吉は能に没頭した。畿内から能役者を呼び寄せたほか、自らも大阪から道具を取り寄せて練習に励み、正室である「おね」に宛てた手紙では、早くも「能をい十番覚えた」と述べている。この衣装は、秀吉も名護屋で舞った「杜若(かきつばた)」という演目で使用される現代の衣装である。また、秀吉が熱中したことによって、在陣した大名衆も能や狂言を頻繁に開催したことが記録に残っており、堀秀治陣からは、実際に能舞台の遺構も確認されている。ーーーーーーーーーーーーー↓ 菊桐文蒔絵風呂道具(複製) 桃山時代/佐賀県立博物館原蔵(原資料は佐賀県重要文化財)小城藩・鍋島家に伝来した風呂道具。菊文と桐文の蒔絵が施されており、豊臣秀吉が鍋島直茂の屋敷を訪問した際に調えられたと伝わる。当時、屋敷に浴室を持てる者は少なく、来客に風呂を準備することも、茶事や酒宴等とともに重要なもてなしの一つであったことだろう。なお、本資料は、制作当時の様子を考慮しながら復元した複製資料である。
2023.10.05
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2018年2月10日朝、佐賀県立名護屋城博物館を見学しました。肥前名護屋城図屏風(複製)が展示されており、次のように記載があります。桃山時代~江戸時代前期本館蔵(佐賀県重要文化財)名護屋城と城下町の様子を克明に描いた絵画で、秀吉の御用絵師として名護屋城内の数々の障壁画を手がけた狩野光信の作と推定される。画面中央に大都市「名護屋」の賑わいを、その上半には名護屋城と諸大名の陣所を描き、下半には豊臣軍の旗艦「安宅船(あたけぶね)」が浮かぶ名護屋浦が広がる。画面左端(5.6扇)中央付近の城下町の通りに明国使節団の行列が描かれており、文禄2(1593)年5月にこの地で行われた講和交渉をモチーフとしたものと考えられる。桃山時代の城と城下町の詳細を描いた絵画は極めて貴重であり、数例しか残っていない近代初頭の「都市図」として、研究価値の大きさが注目されている。ーーーーーーー佐賀県立名護屋城で購入した「『肥前名護屋城図屏風』の世界」には、2つの「肥前名護屋城図屏風」が紹介されています。 一部を記載します。「肥前名護屋城屏風」は、16世紀に日本国内を統一した豊臣秀吉が「文禄・慶長の役」と呼ばれる大陸・朝鮮国への侵攻を行った際に、国内拠点となった「肥前名護屋城」を描いたものです。現在、一般に公表されている当時の肥前名護屋を描いた絵画資料としては、同系統の構図で描かれている名護屋城博物館蔵本(「名博本)」と群馬県個人蔵本(「群馬本」)の2点が知られています。~屏風絵は、名護屋城の北北東約2㎞にある加部島天童岳(標高112m)後方上空からの眺望として描かれ、名護屋城を頂点に末広がりに展開するその城下域(武家屋敷・城下町等)や名護屋城周辺域の諸大名陣屋等の広大な範囲が鳥瞰的構図で緻密に描かれ、それらは現況や発掘調査等との整合性も高く、往時の名護屋の繁栄を知る貴重な資料となっています。↓ 肥前名護屋城屏風桃山時代 伝 狩野光信筆佐賀県立博物館 原蔵文禄2年(1593)夏頃の、肥前名護屋城と城下町の景観や風俗を描いた屏風。5層の天守を持つ名護屋城を中心として、周辺にある大名の陣屋で町屋、湾に浮かぶ安宅船(あたけぶね)、明の使節の行列などを詳細に描写している。↓ 肥前名護屋城屏風(名博本)。↓ 【5・6扇】 名護屋浦に安宅船が見える。↓【5・6扇】上から。外津浦(ほかわづうら)、石屋町、女郎町、筑前町、塩屋町、大谷吉継(おおたによしつぐ)陣、明使の行列、蔵地、寺沢広高(てらさわひろたか)陣、材木町、名護屋浦、徳川家康別陣、地獄浜、加藤嘉明(かとうよしあき)陣、呼子口。↓ 【3・4扇】↓ 【3・4扇】上から串崎、串浦、豊臣秀保(とよとみひでやす)陣、名護屋城、天守、本丸、遊撃丸、三ノ丸、東出丸、水手曲輪(みずのてくるわ)、上山里丸(かみやまさとまる)、下山里丸(しもやまさとまる)、台所丸、厩(うまや)、鯱鉾池(しゃちほこいけ)、兵庫屋町、徳川家康陣、茜屋町、竹ノ丸、古里町、弁天島、天童岳、加部島。↓ 【1・2扇】↓ 【1・2扇】上から五島列島、平戸島、大戸浦(おーとうら)、黒瀬、上杉影勝(うえすぎかげかつ)陣、厩(うまや)、ムギハラ町、波戸浦(はどうら)、船瀬。↓ 名護屋城。↓ 天守閣。↓ 名護屋城と陣屋敷の地図。ーーーーーーーーーーーーーーー↓ 佐賀県立名護屋城で購入した「『肥前名護屋城図屏風』の世界」には、2つの「肥前名護屋城図屏風」が紹介されている。名博本と群馬本。↓ ① 名護屋城博物館所蔵本(名博本)名博本は、出所・伝来等の詳細はよくわかっていませんが、六曲一隻の屏風として仕立てられる以前は(昭和40年:1965年)前後、美濃紙を繋ぎ合わせた大きな画面で竪八つ、横三つに折りたたんであったようです。その後、屏風に仕立てられて昭和43年(1968年)6月に東京古典籍會主催の「古典籍展観大入札會」に出品され全国的に大きな話題となり一般に知られるようになりました。昭和45年(1970年)に佐賀県立博物館の所蔵となり、昭和54年(1979年)の佐賀県重要文化財としての指定を経て、平成11年(1999年)に管理換によって佐賀県立名護屋城博物館(平成5年:1993年)開館の所蔵となり現在に至っています。↓ ② 群馬県個人所蔵本(群馬本)群馬本は、群馬県佐波郡(現在の伊勢崎市)の旧家に、「唐津城図(仮称)」と共に六曲一双の屏風として所蔵されていました。所蔵者の話では、明治初期に旧藩主(伊勢崎藩)の酒井家からこの一双の屏風を購入したものと伝えられています。屏風絵の名称についての伝来はありませんが、その当時から一隻が肥前名護屋城の屏風絵であることは知られていたようです。この一双の屏風は、平成17年(2005年)に公表されて一般に知られるようになり、現在は名護屋城博物館の寄託資料となっています。制作年代については、建物・人物等の描写表現・技法・色彩等から江戸時代後期(18世紀中頃~19世紀前半)の制作で模本の類と推定されています。製作者についてははっきりとしていませんが、描写技法等から狩野派統計の絵師によって制作された可能性が指摘されています。ーーーーーーーーーーーーー↓ 佐賀県立名護屋博物館。↓ 蒙古襲来13世紀初め中国大陸の北部に興った蒙古は、周辺諸国への侵攻を繰り返しながらヨーロッパ・アジアにまたがる大帝国を建設した。その過程で高麗(こうらい)も、6度に及ぶ侵略を受けた。高麗は長期にわたって激しく抵抗したが、ついに蒙古の圧力に屈し、講和した。その後蒙古は高麗を前線基地として、2度の日本遠征を行った。↓ 文永・弘安の役文永11年(1274)と弘安4年(1281)に、蒙古は高麗を従えて九州北部を襲った。蒙古の服属要求を日本が拒絶したためである。暴風雨により侵攻はいずれも失敗に終わったが、蒙古襲来(元寇:げんこう)の政治的・社会的影響は大きく、鎌倉幕府が解体していく遠因となった。↓ 高麗・日本への蒙古襲来。↓ 通信符朝鮮時代(1453)毛利報公会 原蔵朝鮮王国が大内氏に与えた通行証。印面は「通信符」の文字の右半分で、左符は朝鮮に保管され勘合を行ったと思われる。側面に「朝鮮国賜大内殿通信右符〉、背面に「景泰四年七月日造給」の銘がある。↓ 図書朝鮮時代(1520)岸朝子氏 原蔵「図書」は朝鮮政府が日本人に通行証として与えた銅印。印文は「吉見」で、通行者の名前を刻している。受図書人は、朝鮮へ派遣する使者に持たせる書簡に図書を捺して自己の遣使であることの証明とした。
2023.10.04
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2018年2月10日朝、佐賀県・呼子町から歩いて名護屋大橋を越え、名護屋城址にある佐賀県立名護屋城博物館に行きました。「呼子観光マップ」と、肥前名護屋城歴史ツーリズム協議会の「陣屋めぐりマップ」により、歩いたルートを紹介します。佐賀県立名護屋城博物館で購入した資料『「肥前名護屋城図屏風」の世界』を見ると、群馬県個人所蔵本の屏風には、「船橋・制札場」として、入江(名護屋浦)に船22隻が並べられ、その上に橋が置いてあり、海を渡れるようになっています。屏風図の位置を見ると、船橋があった場所は、今の「名護屋大橋」がある場所ではないかと思います。↓ 呼子観光マップ。 呼子から名護屋城博物館まで、雨の中を歩いた。(青い線のルート)↓ 名護屋大橋の位置。 当時はこの橋の所に、船橋が掛けられていたと思う。途中に伊達政宗陣跡、黒田長政陣跡の表記がある。ーーーーーーーーーーー↓ 肥前名護屋城歴史ツーリズム協議会の「陣屋めぐりマップ」。大名の陣の場所が分かる。 赤い点線は、名護屋城までのルート。↓ 名護屋城 陣跡めぐりマップ。ーーーーーーーーーーーーーーーー↓ 呼子から名護屋城跡まで、雨の中を歩いた。↓ 伊達政宗陣跡の標柱。↓ 名護屋大橋。 城があった時は、この下に船橋があったのではないかと思う。佐賀県立名護屋城博物館で購入した資料『「肥前名護屋城図屏風」の世界』を見ると、群馬県個人所蔵本の屏風には、「船橋・制札場」として、入江(名護屋浦)に船22隻が並べられ、その上に橋が置いてあり、海を渡れるようになっている。屏風図の位置を見ると、船橋があった場所は、今の「名護屋大橋」がある場所ではないかと思う。↓ 名護屋大橋から北側を臨む。↓ 寺沢広高の陣屋敷があった場所。↓ 奥は徳川家康の陣屋敷があった場所。↓ 正面は加部島。↓ 正面は加部島。 名護屋大橋から見た名護屋浦。↓ 加部島の天童岳。↓ 加部島に掛かる呼子大橋。↓ 呼子大橋の手前部分は、加藤嘉明の陣屋敷があった場所。↓ 加藤嘉明の陣屋敷があった場所。↓ 徳川家康の別陣があった場所。↓ 伊達政宗の陣屋敷があった場所。ーーーーーーーーーーーーーー↓ 名護屋大橋から南側を臨む。左は黒田長政の陣屋敷、左と中央は真田真幸の陣屋敷があった場所。中央の奥の方は、結城秀康や石田三成の陣屋敷があった。↓ 名護屋大橋を渡った。↓ 道の駅 桃山天下市。↓ 名護屋城址に着く。↓ 名護屋城博物館に進む。↓ 大手口前井戸。↓ 名護屋城跡周辺案内図。↓ 名護屋城博物館。
2023.10.03
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2018年2月10日、肥前名護屋城を見に行きました。前回のブログで、肥前名護屋城や文禄・慶長の役に関する手持ちの資料を紹介しましたが、今回はその続きで、私の本棚にある司馬遼太郎さんの本から紹介します。司馬遼太郎さんの書かれる文章は、とても読みやすく、情景がありありと浮かんできます。色々な話題を紹介されており、勉強になります。ーーーーーーーーーーーー↓ 関ケ原 上巻/司馬遼太郎/新潮社p105~106豊臣の天下が安定し、秀吉がついに外征をはじめ、家康をともなって、朝鮮渡海の大本営である肥前名護屋城に滞陣していたころ、退屈のあまり、仮装園遊会をもよおした。瓜畑の上に仮装の町をつくり、旅籠、茶店なども建て、諸侯にも仮装をさせた。こういう遊びをする点では、秀吉は天才的な企画者であった。会津若松92万石の蒲生少将氏郷(がもううじさと)が担い茶売り、旅の老僧が織田有楽斎(おだうらくさい)、五奉行のひとり前田玄以(まえだげんい)が、長身肥満のいかにも憎さげな尼姿、有馬則頼(ありまのりより)が「有馬の池坊」の宿のおやじ、丹波中納言豊臣秀保(とよとみひでやす)が漬けもの売り、旅籠屋のおやじが、秀吉近習の蒔田権佐(まきたごんのすけ)、その旅籠でさわがしく旅人をよびこんでいるのが、美人できこえた奥女中の藤壺(ふじつぼ)。~秀吉自身が、怪しげな柿色の帷子(かたびら)に黒い頭巾(ずきん)をかぶり、菅笠(すげがさ)を背中にかけ、藁(わら)の腰蓑(こしみの)を引きまわして、きたない瓜売りのおやじになっているのである。~仮装の町の辻にでっぷりとふとったあじか(土運びのザルに似たもの)売りがあらわれたのである。家康であった。いかにも不器用に荷をにない、荷をふりふり、「あじか買わし、あじか買わし」と呼ばってきた。内心、おそらく不機嫌であったろうが、秀吉の機嫌を損じてはなるまいとおもったのであろう。必死に売り声をはりあげてくる。これにはどっと沸き、ーそっくりのあじか売りじゃの。と目ひき袖引きする者が多かった。ーーーーーーーーーーーーーー↓ 功名が辻(三)/司馬遼太郎/文藝春秋/文春文庫。p54文禄3年、秀吉が朝鮮渡海の大本営である肥前名護屋城に在陣していたときのことだ。6月28日、というから、盛夏のころである。暑くもあり、長陣で退屈でもある。名護屋在陣の将士は、ようやく士気がだれはじめていた。秀吉は、そういう人情はいちやはく察する男である。かといってそれをひきしめるために、むずかしい訓令などは、かれは出さない。「なにか、遊びの趣向はないか」と秀吉はそんなことに頭をつかった。「わっと場内が割れかえるほど笑うような趣向が」と、かれはお伽衆や、奥むきの女官などにきいた。みな、ほどほどなことをいった。どの案をみても秀吉は、「いかん、世に在ったことじゃ」といった。すでに先例のあったような催しはやりたくない。「奇抜な!」といって人が手を打っておどりあがるような趣向をかれは望んでいる。ついにかれは、思いついた。仮装園遊会をすることであった。武将の一人々々に意外な変装をさせ、たがいに相手を笑いながら一日をすごそうというのである。そこで、そのための奉行を臨時に置き、いっさいを準備させた。これが、日本における仮装園遊会のはじめで、その着想が奇抜なだけではない。仮装して登場する人物も、日本史上もっともけんらんたるものであった。徳川家康以下の戦国生き残りの英雄豪傑が、おもいおもいに仮装して出場するのである。ーーーーーーーーーーーー↓ 司馬遼太郎 街道をゆく2 韓(から)のくに紀行/司馬遼太郎/朝日新聞社/朝日文庫p118~119あらかじめ慕夏堂について語っておかねばならない。『慕夏堂記』(正確には『慕夏堂文集』)という朝鮮の古い漢文がある。かつてそれを手に入れ、なんとなくながめているうちに、おどろくべきことが書かれていることを知った。豊臣秀吉の朝鮮の役(朝鮮にあっては壬辰の倭乱)のとき、兵3千人をひきいる日本の武将が朝鮮側に降伏したというのである。かれはのち武功をかさねて王寵をこうむり、武官ながら二品という大臣相当の官位にまでのぼり、土地をたまわってその族党や家臣が一村をなし、その子孫が無事太平の世をたのしんでいるという意味のことが書かれているのである。p120『慕夏堂記』によれば、なにぶん1将のもと3千人という大量投降であり、ゆゆしい事件であるといっていい。主人公の名は沙也加という。沙也加とは日本名を朝鮮漢字に音だけうつしたものだが、サヤカなどという日本名はちょっとありそうにない。サヤカ。朝鮮音でいうとサイェカ。サエカに似る名なら、たとえばサエモンと考えるとどうだろう。左衛門。可は筆記する場合に門とよくまちがう。はじめはおそらく「沙也門(さえもん)」とでも書かれていたにちがいない。まあそれはどちらでもいい。ーーーーーーーーーーーー↓ 司馬遼太郎 街道をゆく11 肥前の諸街道/司馬遼太郎/朝日新聞社/朝日文庫p48 松浦半島に、夜が来てしまった。外津(ほかわず)からいそぎ東へひきかえした。途中、名護屋の浦を通った。浦のはるかな高所に、橋がかかっている。浦を眼下に見下ろしつつ通りすぎるのである。右手が、山であった。車の前照灯が、右側の崖を照らした。「堀久太郎陣跡」という看板が出ていた。こういう海辺で”名人久太郎”の名前に出くわそうとは、思わなかった。しかし考えてみると、当然ではあった。久太郎、名は秀政、官名はいろいろある。美濃の人で、もともとは斉藤道三の家人であった。少年のころに斉藤氏が没落し、織田信長に近待して寵愛された。さらには秀吉に仕えた。秀吉が朝鮮侵攻の大本営をこの松浦半島の先端の名護屋に置き、この道路の右側の山に築城し、非出陣の諸大名を曲輪(くるわ)々々に住まわせた。堀久太郎も、そういう一類のひとりである。「陣所跡」があっても、ふしぎではない。ーーーーーーーーーーーー↓ 司馬遼太郎 街道をゆく13 壱岐・対馬の道/司馬遼太郎/朝日新聞社/朝日文庫p94~96さて、朝鮮通信使のことである。徳川日本がこういう国使をかの国からよびつづけたというのは、この閉鎖的な政権にとっては異例であった。鎖国時代の外界との通風孔は、長崎という針の穴のような場所で中国、オランダとのみほそぼそと制限貿易をしたほかには、この朝鮮通信使という形態の風通しがあったのみである。家康の在世中の慶長12年(1607)に徳川家の天下をよろこぶ和平的な使節がやってきて、幕府はこれを手あつくもてなし、これがその後のしきたりになった。徳川期、この来聘(らいへい)は前後12回におよぶ。李氏朝鮮は、家康と徳川幕府に好意的であった。当然なことで、前代の豊臣政権が朝鮮に対して悪すぎた。何の名分もなく朝鮮に出兵し、前後7年間、朝鮮と朝鮮人にあたえたうらみと惨禍は深刻という程度のことばでは言いあらわせない。その秀吉が死に、家康が豊臣家の筆頭大老として在朝鮮の諸大名をひきあげさせ、ほどなく家康の天下になった。朝鮮にとっては豊臣政権への報復を家康がやってくれたようなものである。家康は幸いにも朝鮮出兵に加わっておらず、一兵も送っていなかった。秀吉が日本列島の西半分の諸大名を動員し、半分の兵を控置したからである。ーーーーーーーーーーーーーーー↓ 司馬遼太郎 街道をゆく15 北海道の諸道/司馬遼太郎/朝日新聞社/朝日文庫p71天正18年(1590)10月末、現在の北海道の道南地方の要地に割拠していた松前(当時、蛎崎:かきざき)慶広(よしひろ)が、冬近い津軽海峡をわたって(前田)利家に会いにきたのである。~慶広は各地を転々して他の諸将にも会った。目的は秀吉へのとりなしをよろしくと懇願することであったが、どの将も慶広の人体をみて好感を持ったにちがいない。p72~73慶広は、このまま二カ月近い日数をかけて京へのぼった。従者には何人かアイヌがいたといわれる。秀吉はよろこび、かれを聚楽第(じゅらくだい)で謁見した。このとき秀吉は奏請して慶広のために従五位下民部大輔(じゅうごいのげみんぶだゆう)をもらってやっている。p74~75慶広が京から松前へ帰ったこの年(天正19年・1591)9月、秀吉は朝鮮への侵略の軍令を諸将にくだすのである。幸い慶広には何の義務も命じられなかった。しかしかれは陣中見舞いのつもりか、すかさず上方(かみがた)へのぼるのである。大阪に着くと秀吉は九州の名護屋城に移ったという。慶広はさらに九州へゆく。いたいたしいほどである。文禄2年(1593)正月2日、慶広は肥前名護屋城についた。北海道人が九州へ行ったのは、記録としては慶広とその従者が最初である。秀吉は驚いたであろう。慶広が到着して3日後に志摩守に任じさせている。秀吉は朱印を捺した公式書類も与えた。松前において、諸方より来る船頭商人等、夷人に対し、地下人(じげにん)に同じく、非分の儀申かけるべからず~つまりは、松前氏をアイヌの保護者であるとし、あわせてアイヌに非分を働く外来者に対する司法権も与えた。ーーーーーーーーーーーーーーー↓ 司馬遼太郎 街道をゆく36 本所深川散歩 神田界隈/司馬遼太郎/朝日新聞社/朝日文庫p186~187藤原惺窩(ふじわらせいか)(1561~1619)は独立自尊のひとであった。師さえなく、独学でまなび、生涯、他人にも仕えなかった。さらに世の大名という者を軽侮(けいぶ)していた。かれらは暴力でのしあがっただけではないか、というのである。ただ、豊臣家の諸大名のあいだで、惺窩をまねいてはなしをきくことが、小さな流行になった。関白豊臣秀次にまねかれ、一度は応じたが、二度は応じなかった。このため危害を加えられそうになり、その難を避けて九州にくだり、朝鮮の役のために肥前名護屋城にいた豊臣秀吉の行営(こうえい)下に入った。名護屋滞在中、2,3の大名のために講義をした。そのなかに、家康もいた。ーーーーーーーーーーーーーーー↓ 司馬遼太郎 街道をゆく41 北のまほろば/司馬遼太郎/朝日新聞社/朝日文庫p308余談ながら、蠣崎信純がこの蠣崎(下北半島)を落去してから136年経った文禄2年(1593)、信純から5代目の松前慶広(よしひろ)が、歴史の照明のなかに登場する。松前慶広は、豊臣秀吉のまえで平伏しているのである。ときに秀吉は、諸人の不安を押しきって朝鮮に対し無名の師をおこしつつあり、その指揮所を、九州北部の名護屋城に置いていた。松前にいる慶広は、本州北端の津軽藩などと同様、中央の情勢に敏感だった。慶広は、すでに天正16年(1588)、前田利家ら秀吉にちかい人達のとりなしを得て、秀吉に京の聚楽第(じゅらくだい)で拝謁していた。名護屋城での拝謁は、二度目になる。松前慶広は、すでに40半ばであった。秀吉は、大いによろこび、松前藩の北海道における交易の独占を許可したりした。そのとき、慶広は、あざやかな錦の胴着を羽織っていた。陪席した徳川家康が、「志摩守(しまのかみ)(慶広のこと)の錦、一向見馴れぬが」なんという錦か、と問うと、慶広はすかさず脱ぎ、家康に贈り、「蝦夷錦(えぞにしき)」と申します」といったことは、この『街道をゆく』のどこかでふれたような気がする。ーーーーーーーーーーーーーーーー↓ 故郷忘じがたく候/司馬遼太郎/文藝春秋/文春文庫「16世紀末、朝鮮の役で、薩摩軍に日本へ拉致された、数十人の朝鮮の民があった。以来4百年、やみがたい望郷の念を抱きながら異国薩摩の地に生き続けた、その子孫たちの痛哭の詩」ーーーーーーーーーーーーー↓ 司馬遼太郎の街道Ⅲ 愛した辺境/司馬遼太郎/週刊朝日編集部/週刊朝日/朝日文庫p239~252 沈壽官家の少年(上)、(下)沈壽官家の祖先は、豊臣秀吉の2度目朝鮮出兵(1597~98年)のため、故郷を奪われた人々のなかにいた。島津軍は全羅北道南原(ナムウォン)(朝鮮半島南部)で約80人の朝鮮人陶工をつかまえ、薩摩に連れて帰っている。14代は自分の先祖をユーモラスに、「よほど、運動神経が鈍かでしたろうな」と司馬さんに語っている。ーーーーーーーーーーーーー↓ 播磨灘物語(四)/司馬遼太郎/講談社/講談社文庫p260~262秀吉が朝鮮へ出兵したとき、秀吉の羽柴時代からかれと戦野で生死をともにした武将の多くが渡海した。~如水の黒田家5千の兵も、長政にひきいられて従軍している。ただ如水は家督を長政にゆずっているために秀吉のもとにいた。文禄2年2月、如水は浅野長政とともに、秀吉の訓令をたずさえて在韓軍に連絡すべく渡海したことがある。このとき、如水は釜山にちかい東萊(とうらい)の本営で滞在した。そのころ、石田三成、増田長盛、大谷吉継といった文吏派の3人が、軍監として早くから朝鮮に滞在していたが、ある日、如水らと何事かを相談すべく東萊にやってきた。「ただいま石田治部少輔どのらがお見えでござります」という取次があったが、たまたま如水は浅野長政と碁を打っていた。「お待ちねがうように」と如水がいったがかれはなんとなく物憂かったのであろう。如水にとって、秀吉が老いて狂したかとしか思えぬようなこの朝鮮出兵そのものが物憂かった。戦況は思わしくないだけでなく、士卒の士気も衰え、前線から逃亡して北九州の沿岸に逃げかえる者も多い。秀吉の意図を体して正気で駆けまわっているのは石田三成ら文吏派の奉行たちぐらいのものであり、その連中が作戦のうちあわせにやってくるということ自体、如水にはわずらわしかったのであろう。如水は、忘れてしまった。碁をうちおわって気づいてみると、三成らは憤慨してひきあげたあとだという。このことが、三成の口から秀吉の耳に入った。あとで如水が前線から帰国し、伏見に登城して秀吉の謁を乞うたが、秀吉はゆるさなかった。(もはや、ここまでだ)と、如水は思ったであろう。秀吉の幕僚としてながく仕えてきたが、いまは三成らがその位置におり、如水は過去の人になった。かれは三成と正面から争うことを避け、秀吉に詫びを入れるというかたちで頭を剃った。如水、如水軒という隠居号を公的にも称するようになったのは、このときからである。ーーーーーーーーーーー↓ 新史太閤記(上)、(下)/司馬遼太郎/新潮社/新潮文庫豊臣秀吉が天下を取るまでの事が書かれているが、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の前で物語が終わっている。司馬遼太郎さんはこの部分を書きたくなかったのではないかと思う。
2023.10.02
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2018年2月10日、肥前名護屋城を見に行きました。この城は、豊臣秀吉が朝鮮出兵をするための前線基地として、天正19年(1591年)、肥前名護屋の地に城を築きました。わずか5カ月で築城されたと言われ、全国から集まった諸大名の陣屋が130以上も建てられました。当時の大阪城に次ぐ大規模な城で、人口20万人を越える城下町が出現したそうです。豊臣秀吉は1592年(文禄元年)、1597年(慶長2年)に朝鮮派兵を行い、文禄の役、慶長の役と呼ばれています。1598年に豊臣秀吉が病死し、兵は撤退となりました。歴史は好きで、学生時代から本をよく読んでいました。特に司馬遼太郎さんの本は大好きでした。私が肥前名護屋城を訪れた時も、司馬遼太郎さんの本を複数冊持っていきました。NHK大河ドラマ「どうする家康」を見ていると、豊臣秀吉の朝鮮出兵について放送されるとの事で、肥前名護屋城で撮った写真と、手元にある本を読み直しています。手元にある資料本を一部紹介します。(司馬遼太郎さんの本については、次回に紹介予定です)ーーーーーーーーーーーー詳説日本史 改訂版 2012年3月5日発行/石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦(ほか9名)/山川出版社。(長男が高校を卒業するときに、いらないと言ったので、私が資料としてもらった)。↓ P155 秀吉の対外政策と朝鮮侵略。1587(天正15)年、秀吉は対馬の宗氏を通じて、朝鮮に対し入貢と明へ出兵するための先導を求めた。朝鮮がこれを拒否すると、秀吉は肥前の名護屋に本陣をきずき、1592(文禄元)年、15万余りの大軍を朝鮮に派兵した(文禄の役)。釜山に上陸した日本軍は、鉄砲の威力などによってまもなく漢城(現、ソウル)・平壌(現、ピョンヤン)を占領したが、李舜臣のひきいる朝鮮水軍の活躍や朝鮮義兵の抵抗、明の援軍などにより、しだいに戦局は不利になった。そのため現地の日本軍は休戦し、秀吉に明との講和を求めたが、秀吉が強硬な姿勢を取り続けたため交渉は決裂した。**1593(文禄2)年からはじまった和平交渉では、和平の実現を急ぐ現地の武将たちの判断で、明の降伏や朝鮮南部の割譲などを求めた秀吉の要求は明側に伝えられなかった。その結果、明は1596年に使者を派遣し、秀吉を「日本国王」に封じ、その朝貢を許すという態度をとったので、交渉は決裂した。↓P155 文禄・慶長の役要図。↓ p1561597(慶長2)年、秀吉はふたたび朝鮮に14万余りの兵をおくったが(慶長の役)、日本軍は最初から苦戦をしいられ、翌年秀吉が病死すると撤兵した。前後7年におよぶ日本軍の朝鮮侵略は、朝鮮の人を戦火にまき込み、多くの被害をあたえた。また、国内的には、ぼう大な戦費と兵力を無駄についやす結果となり、豊臣政権を衰退させる原因となった。ーーーーーーーーーーーー新編 史料日本史/東京法令出版。(これも長男からもらった)↓ p204~205【秀吉の侵略計画】それから(以下のように)語った。予もすでに(最高の)地位に達し、日本全国を帰服せしめたうえは、もはや領国も金も銀もこれ以上獲得しようとは思わぬし、その他何ものも欲しくない。ただ予の名声と権勢を死後に伝えしめることを望むのみである。日本国内を無事安穏に統治したく、それが実現したうえは、この(日本)国を弟の美濃殿(羽柴秀長)に譲り、予自らは専心して朝鮮とシナを征服することに従事したい。それゆえその準備として大軍を渡海させるために(目下)2千隻の船舶を建造するために木材を伐採せしめている。なお予として伴天連らに対して、十分に艤装した2隻の大型ナウ(ポルトガルの3本マストの帆船)を斡旋してもらいたい(と願う)他、援助を求めるつもりはない。『フロイス 日本史』↓ p206鼻の請取状ー秀吉の朝鮮侵略「昨今の首代鼻九捨(90)、慥か(たしか)に請取り申候。恐々謹言。八月廿一日(21日)」この史料は、鍋島家文書中の慶長の役の際の鼻の請取状の一部である。秀吉は、首の代わりに鼻を切って送ることを命じ、判明する限り吉川氏18,350、鍋島氏10,901に及んでいる。また、日本に連行された捕虜も2万から3万に及び、特に陶工の連行により有田焼や薩摩焼が始まった。朝鮮の建造物や文化財の破壊・略奪も著しく、朝鮮民族にとってこの侵略は「壬辰の悪夢」として深く心の傷となり残っていくのである。ーーーーーーーーーークロニック 世界全史/講談社/1994年11月15日第1刷発行。結婚するとき、妻に買ってもらった本。p4771592年6月4日、(朝鮮は)日本軍の来襲を迎えた。これが朝鮮で壬辰倭乱、日本で文禄の役とよばれる秀吉の朝鮮出兵の始まりである。~多数の鉄砲を装備し陸戦にまさる日本軍のまえに、朝鮮軍は敗退をかさね、開戦から20日ばかりで首都漢城(ソウル)は陥落、さらに北上をゆるして小西行長に平壤を奪われ、加藤清正には北東国境の豆満江近くまで進出され2王子が捕らえられた。北西国境の鴨緑江岸の義州まで落ちのびた(朝鮮王)宣祖は宗王国の明に援助を求め、朝鮮の国土は日明両軍の戦場と化していた。~ 1592年8月14日、釜山南西の閑山島の沖合で、李舜臣の率いる朝鮮艦隊が、豊臣秀吉の派遣した日本水軍を撃破し、制海権を奪回した。さる8月5日、秀吉が水軍に出撃命令を発したのに応じ、脇坂安治の船団60余隻が釜山の西の熊川を出港した。一方の李舜臣は、前日、朝鮮南西部の根拠地麗川を進発し、この日、釜山南西の巨済島と固城半島のあいだの水道で脇坂船団と遭遇、暗渠の多い閑山島沖に巧みに誘い出して39隻を撃破した。↓ 陥落寸前の東來城。釜山に上陸した小西行長率いる日本軍は、その北にある朝鮮南岸の守りのかなめ東來城を1日で陥落させた。銃をかついだ日本兵が多数とりかこみ、戦力の差は歴然としている。↓ 亀甲船を中心に鶴翼の陣をしく李舜臣の艦隊。上部を厚板で覆い、鋭い鉄剣を前面に植え付けた亀甲船は、船首から煙幕を吐き、舷側からは大砲を放った。帆走のほか、櫂でこぐこともできた。ーーーーーーーーーーー「肥前名護屋城図屏風」の世界/佐賀県立名護屋城博物館。2つの「肥前名護屋城図屏風」の詳しい紹介がなされている。①名護屋城博物館所蔵本「佐賀県重要文化財」6曲1隻 本紙157x350cm②群馬県個人所蔵本 6曲1双 本紙168x380cm。ーーーーーーーーーーーー↓ 佐賀県立名護屋城博物館 パンフレット↓ 名護屋城跡探訪マップ。ーーーーーーーーーーーーー↓ 肥前名護屋城/肥前名護屋城歴史ツーリズム協議会↓ 陣跡めぐりマップ。ーーーーーーーーーーー↓ 呼子エリア観光マップ。↓ 伊達政宗陣跡、黒田長政陣跡の位置。ーーーーーーーーーーーー↓ 文禄・慶長の役 空虚なる御陣/上垣外憲一/講談社学術文庫この本を読むと、この戦いの経過がとても良くわかる。「秀吉の朝鮮出兵はなぜ行われ、何を残したのか。日朝双方の史料の精密な読み込みを通じて鮮やかに描き出される、戦いにいたる交渉過程と苛烈な戦闘、戦後処理の実状。そして、戦火と蛮行のはてに人々が見出した、友好の懸け橋・朱子学の可能性とは。近現代の日朝関係まで影を落とす「空虚」な戦争を、東アジア史の視座から問いなおす壮大な試み」ーーーーーーーーーーーーーー↓ 現代語訳 三河物語/大久保彦左衛門/小林賢章訳/筑摩書房/ちくま学芸文庫。p226「朝鮮出兵と秀吉の死」文禄元年(1592)、高麗の戦といって、太閤は出陣し、名護屋(唐津市玄海市)に布陣。家康も名護屋におもむく。諸軍勢は高麗国に出発する。辰の年(1592)出陣なさり、午の年(1594)の3月ご帰国なさる。
2023.10.01
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2018年2月10日午後、唐津城の天守閣で展示物を見ました。唐津城のマスコットキャラクター「唐(から)ワンくん」と、アニメ「ユーリ!!!on ICE」のパネルが置いてありました。唐ワンくんは、2008年の唐津城築城400年記念で誕生しました。唐津藩最後の藩主である小笠原長行の兜を被り、手の肉球の模様は、寺沢氏が入る前に唐津を治めていた波多氏の家紋「三ツ星」となっています。2016年に「ユーリ!!!on ICE」という男子フィギアスケートのアニメが放送されましたが、その舞台が唐津ということで、キャラクターのパネルも置いてありました。室内は、唐津の歴史や唐津焼の説明がありました。面白いと思った展示を紹介します。↓唐ワンくんは、2008年の唐津城築城400年記念で誕生した。唐津藩最後の藩主である小笠原長行の兜を被り、手の肉球の模様は、寺沢氏が入る前に唐津を治めていた波多氏の家紋「三ツ星」となっている。↓ 2016年に「ユーリ!!!on ICE」という男子フィギアスケートのアニメが放送されたが、その舞台設定が唐津ということで、パネルが設置されてあった。↓ 唐ワンくん。↓ 髙橋是清(たかはしこれきよ)と唐津の俊英たち ~英学校耐恒寮(たいこうりょう)~明治4年(1871)唐津藩は英学校耐恒寮(たいこうりょう)」開設のため、東太郎と名乗るアメリカ還りの18歳の若者を教師として招きました。この人物こそ、のちに内閣総理大臣・大蔵大臣となる髙橋是清その人でした。是清は、教室では日本語を使わず、すべて英語で教えました。その指導のもと、開校後半年で後輩に教えることができる生徒も現れたそうです。また、藩の専売事業である和紙と捕鯨の利益を財源に、50人の生徒を250人まで増やし、その中には3人の女子も含まれていました。こうして開校した耐恒寮ですが、廃藩置県ののち閉校となり、是清も明治5年(1872)唐津を去ります。髙橋是清が耐恒寮で教えた期間はわずかですが、教え子たちの中から、各界をリードする人材が数多く育ちました。↓ 耐恒寮の主な出身者。辰野金吾(建築家 東京駅・日本銀行本店など)曾禰達蔵(建築家 慶応義塾図書館など)天野為之(経済学者 早稲田大学学長)掛下重次郎(法律家 大審院判事)大島小太郎(唐津銀行頭取)ーーーーーーーーーーーーーー【捕鯨】「一頭捕れば七浦潤う」といわれた捕鯨は、唐津藩の主要産業でした。漁は呼子の小川島を拠点として、12月から4月にかけて冬の極寒の海で行われました。図は、2艘1組の双海船が張った網代(あじろ)に勢子船(せこぶね)が鯨を追い込み、銛を突き刺している所です。鯨の背には、運搬用の網を通すためにいち早く飛び乗り、鼻(潮を吹く所)近くに刃物を突き刺す「ハザシ」の姿も描かれています。捕獲された鯨は肉や油を取るだけでなく、骨や髭まで余すところなく利用され、鯨への感謝をこめ供養も行われました。ーーーーーーーーーーーーーー【紙漉(かみすき)】↓ 和紙は、江戸時代のはじめから唐津藩の重要な産業であり、各村に梢(こずえ)を植えるよう奨励していました。刈られた梢は各村で蒸し煮した後、紙漉職人に渡されました。紙漉職人は、表皮の黒皮を取り除いた後の「白皮』を天日で干し、灰汁(あく)で煮て漂白して洗い、それを板の上で叩きます。叩いて綿状になった梢を漉船(すきふね)に入れ、黄連(糊:のり)を加えて掻き混ぜ、この液を簀(す)(細い竹ひごや植物の茎を編んだもの)で漉し取りました。ーーーーーーーーーーーーー【石炭】享保年間(1716~1735)に北渡多村の岸岳(きしだけ)の北西にある岸山のドウメキで石炭が発見されると、薪や炭に代わる燃料として採掘が開始されました。石炭は「まぶ」と呼ばれる坑道を幾筋も掘って採掘され、暗い坑内にはサザエの殻に火を灯して入っていました。掘り進めると水が湧きだすことも多く、釣瓶(つるべ)や「スホン」という道具を使って汲みだしたり、溝をつくって排水しました。掘り出された石炭は、船で唐津城下(松浦川河口)まで運ばれました。ーーーーーーーーーーーーーーー【鯛網の図】鯛漁で使用する網には、ヒノキで作った「ブリ」という木製の浮きが数多く付けられていました。この「ブリ」をつけると、どれだけ深い所でも網の中に入った鯛は「ブリ」の外に出ることができないと記されています。鯛網は、岸から5~7里(20~28km)も離れた沖から引き込むこともあります。ーーーーーーーーーーーー【駒捕(こまどり)の次第】馬渡島(まだらしま)には、江戸時代前期に藩が経営する馬の牧場が設けられていました。駒捕は毎年2月の初卯日(はつうのひ)に行われ、放牧していた「夏牧(なつまき)から捕獲場であるくぼ地の「冬牧(ふゆまき)」に馬を追い立てて捕まえました。子馬や母馬を棹(さお)で追い出した後に、一頭ずつ捕まえ、綱をつけて繋ぎ場に連れて行きました。捕獲した馬は船に乗せて運び、唐津大渡り(松浦川河口の渡し場)で開かれていた馬市に売りに出されていました。ーーーーーーーーーーーーー唐津城天守閣。↓ 唐津城入場券(2018年2月10日)↓ 唐津城パンフレット。↓ 唐津城の歴史。↓ 歴代城主の家紋。
2023.09.26
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2018年2月10日午後、小雨の中、唐津城を見学しました。前日夜に舞鶴公園を散策して、ライトアップされた唐津城を見ましたが、今回は唐津城の天守閣に上がり、景色を楽しみました。小雨が降っていたのが残念でした。唐津城は、豊臣秀吉の家臣、寺沢広高が慶長7年(1602年)から7か年の歳月を費やして完成しました。築城には、肥前名護屋城の解体資材を利用したそうです。城の周りの砂浜が、翼を拡げた鶴のようにも見えることから、別名「舞鶴城」と呼ばれています。城主は、寺沢、大久保、松平、土井、水野、小笠原と代わりました。明治10年に本丸跡は舞鶴公園とな り、その後昭和41年(1966年)に、天守台跡に唐津城が建てられました。↓ 2018年2月10日午後、舞鶴公園の唐津城を見に行く。↓ 唐津城。↓ 二ノ曲輪。(中段広場)。看板に、「がんばろう九州!熊本、大分」とある。↓ 右が唐津城天守閣。中央が大手門、左が化粧櫓。↓ 大手門。【天守閣からの景色】↓ 西の浜海水浴場。 奥には九州電力の火力発電所の煙突が見える。右は大島。↓ 九州電力の火力発電所の煙突。2019年から解体作業が始まり、現在は無い。↓ 早稲田佐賀中学・高校。↓ 町田川。↓ 町田川と城内橋。↓ 手前は舞鶴橋、奥は松浦川と松浦橋。↓ 松浦川、松浦橋と、宿泊した唐津第一ホテルリベール。↓ 左は唐津湾と虹ノ松原。手前は舞鶴橋。右は松浦川と松浦橋。↓ 奥は虹ノ松原と鏡山。↓ 虹の松原。↓ 唐津湾。左から大島、鳥島、高島。↓ 大島。↓ 鳥島。↓ 高島。↓ 唐津城。↓ 城主は、寺沢、大久保、松平、土井、水野、小笠原の6家。↓ JR筑肥線の松浦川鉄橋から見た唐津城。↓ 唐津火力発電所の煙突。(今は解体されて無い)
2023.09.25
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2018年2月9日夜、佐賀県の唐津城を見に行きました。唐津城のある敷地は、舞鶴公園になっています。唐津城は別名舞鶴城と言われますが、城の周りの砂浜が、翼を広げた鶴のように見えたからだそうです。鶴舞公園では、ライトアップされた唐津城や、街灯の光が美しい舞鶴橋を見ました。夜食はジョイフルでハンバーグセットを食べました。↓ 舞鶴公園の坂道を上る。↓ ライトアップされた唐津城。↓ 街灯の光が美しい舞鶴橋。↓ 神社。↓ 舞鶴橋から見た唐津城。↓ Joyfull
2023.09.24
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2018年2月9日夜、佐賀県の唐津城を見に行きました。城内橋を渡り唐津城に行く途中、通路の壁に、唐津くんち曳山のタイルがありました。タイルを撮影していたので、紹介します。↓ 2018年2月9日夜、唐津城の城内橋。↓ 唐津城に行く途中、通路の壁に唐津くんち曳山のタイルがあった。唐津曳山(からつやま)唐津神社の秋季例祭を「唐津供日(くんち)」と呼んでいます。この神祭の御神幸に従うのが「唐津曳山(からつやま)」です。文政2年(1819)に、刀町の石崎嘉兵衛が同志の大木小助らと、赤獅子を作り唐津神社に奉納したのが初めといわれ、それから明治9年までの57年間に、15ヵ町から曳山を次々と奉納いたしました。(うち紺屋町の黒獅子は、明治中頃損滅)これらの貴重な町人文化の遺産は、先人たちの心意気によって、今日まで守り継がれています。からつくんちは例年11月2日の宵ヤマに始まり、3日の文化の日を中心に4日まで盛大に行われています。この曳山行事は国の「重要無形文化財」、そして曳山は県の「重要有形民俗文化財」になっています。↓ 唐津曳山(からつやま)。↓ 一番山 赤獅子 刀町 文政2年(1819)↓ 2番山 青獅子 中町 文政7年(1824)↓ 3番山 亀と浦島太郎 材木町 天保12年(1841)↓ 4番山 源義経の兜 呉服町 天保15年(1844)↓ 5番山 鯛 魚屋町 弘化2年(1845)↓ 6番山 鳳凰丸 大石町 弘化3年(1846)↓ 7番山 飛龍 弘化3年(1846)↓ 8番山 金獅子 本町 弘化4年(1847)↓ 9番山 武田信玄の兜 木綿町 元治元年(1864)↓ 10番山 上杉謙信の兜 平野町 明治2年(1869)↓ 11番山 酒呑童子と源頼光の兜 米屋町 明治2年(1869)↓ 12番山 珠取獅子 京町 明治8年(1875)↓ 13番山 鯱 水主町 明治9年(1876)↓ 14番山 七宝丸 江川町 明治9年(1876)
2023.09.23
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2018年2月9日夜、佐賀県・唐津城の遠景を撮影したので、一部を紹介します。まるでゴッホの有名な絵画「ローヌ川の星月夜」のようで、雰囲気がとても似ています。↓ 唐津城、舞鶴橋、松浦川の夜景。(2018年2月9日撮影)↓ 唐津城天守閣。↓ ゴッホ「ローヌ川の星月夜」(1888年)。
2023.09.22
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2013年9月10日、JR岡崎駅から歩いて岡崎城まで行きました。城めぐりをした後、今度は名鉄バスで岡崎駅まで戻る事にしました。殿橋近くにあった名鉄バスの停留所では、案内板に電光掲示板が付いています。例えば、岡崎駅行きのバスが遅延しており、何分頃到着予定など、細かい交通情報が表示されていたので、とても感心しました。乗車したバスは、「どうする家康」のラッピングがしてありました。バスは名鉄東岡崎駅を経由して、JR岡崎駅まで行きました。JR岡崎駅から東海道線で名古屋駅まで移動しました。土砂降りの雨が降ってきたので、車窓が雨で良く見えません。矢作川の鉄橋から岡崎城の天守閣が見えるかもと思い、一生懸命探したのですが、よくわかりませんでした。途中の安城駅では、「南吉の夢が叶ったまち安城」という看板が目に入りました。童話「ごんぎつね」で有名な作家・新美南吉さんが、昭和13年に安城高等女子高の教師として教壇に立ちました。列車はその後、名古屋駅に到着しました。楽しい岡崎城散策でした。↓ 2013年9月10日。 朝はこの道を、荷物を持ちながら岡崎城まで歩いた。帰りは名鉄バスに乗ることにした。↓ 殿橋近くの名鉄バス停。↓ 名鉄バス。↓ バスの窓から撮った写真。乙川と奥に岡崎城の天守閣。↓ 名鉄バスの車内。↓ 名鉄東岡崎駅。↓ JR岡崎駅に到着。「どうする家康」ラッピングバス。↓ 13:12 大垣行の新快速に乗ることにした。↓ JR岡崎駅。↓ 土砂降りの雨。↓ 車窓から、矢作川の向こうの岡崎城を探したが、よくわからなかった。↓ JR安城駅。↓ 安城駅では、「南吉の夢が叶ったまち安城」という看板があった。童話「ごんぎつね」で有名な作家・新美南吉さんが、昭和13年に安城高等女子高の教師として教壇に立った。↓ 苅谷市。↓ JR刈谷駅。↓ 東海道新幹線とJR東海道線が並行している区間。↓ 名鉄。↓ JR金山駅。↓ JR名古屋駅に近づいてきた。↓ JR名古屋駅到着。
2023.09.20
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2023年9月10日、岡崎城へ行きました。「どうする家康 岡崎 大河ドラマ館」で、NHK大河ドラマ「どうする家康」の俳優衣装など、色々な資料を見ることが出来ました。観光お土産店で、まるや八丁味噌、カクキュー八丁味噌などのパンフレットを頂きました。今回は味噌についてパンフレットで勉強です。岡崎城から岡崎駅までは、徒歩を止めて、バスで戻る事にしました。バス停まで、国道1号線を東に歩き、岡崎市康生通南の陸橋を渡って南に進みました。この1号線をもう少し東に行くと、徳川家康の正室であった瀬名(築山御殿)が移り住んだという、築山の地があるそうです。「どうする家康 岡崎 大河ドラマ館」↓「どうする家康 岡崎 大河ドラマ館」前で記念撮影。↓「どうする家康 岡崎 大河ドラマ館」。↓ 観光みやげ店。ーーーーーーーー株式会社まるや八丁味噌のパンフレット。ーーーーーーーーーーー↓ カクキュー八丁味噌(合資会社八丁味噌)。ーーーーーーーーーーー↓ 岡崎城・大手門。↓ 岡崎城そばの国道1号線を、東に戻る。↓ 岡崎市康生通南の陸橋。ここを右に曲がり、岡崎駅方面のバス停に向かう。*この1号線をもう少し東に行くと、徳川家康の正室であった瀬名(築山御殿)が移り住んだという、築山の地がある。↓ まちと繋がるミニガイド「ぽけっとこりん」↓ 岡崎城、交差点の陸橋、築山の位置。
2023.09.19
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2023年9月10日、岡崎城に行きました。「どうする家康 岡崎 大河ドラマ館」で、「どうする家康」の俳優陣についてパネルがあったので、紹介します。(撮影可)
2023.09.18
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2023年9月10日、岡崎城に行きました。NHK大河ドラマ「どうする家康」について紹介されている「どうする家康 岡崎 大河ドラマ館」を見学しました。撮影可能なエリアの写真を一部載せます。↓ どうする家康 岡崎 大河ドラマ館。
2023.09.17
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2023年9月10日、岡崎城に行きました。岡崎城の天守閣近くに、龍城神社があります。徳川家康が生誕した日に、天守に近い井戸(龍の井)から金鱗の龍が舞い上がったと伝えられている神社です。徳川家康と本多忠勝の二人が、祭神として祀られています。11時から、「グレート家康公(葵)武将隊」のメンバーが、花時計のある広場で演武をされていました。↓ 龍城神社。↓ 花時計。↓ 「グレート家康公(葵)武将隊」のメンバーが、演武を行った。↓ からくり時計。
2023.09.16
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2023年9月10日、岡崎城に行きました。天守閣からの景色を紹介します。↓ 岡崎城。↓ 天守閣石垣と穴蔵。岡崎城の天守は、天正18年(1590)に城主となった田中吉政の時代に創建されたと考えられる。天守閣石垣は花崗岩の自然石を用いて築かれている。北・東面には巨大な鏡石が入る。場内で最も古い石垣である。天守台の石垣の内部は、地階として石垣に囲まれた穴蔵となっている。↓ 東側。↓ 南側。↓ 西側。↓ 北側。
2023.09.15
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2023年9月10日朝、徳川家康公の生誕地である岡崎城に行きました。大手門から岡崎公園に入ると、公園案内無料ガイド受付所がありました。30分程度の短い時間でも可能ですかと尋ねると、短時間でも大丈夫と言われ、男性の方にガイドしていただきました。下記点をご説明頂きました。1)徳川四天王の本多平八郎忠勝公銅像。(戦場では57戦無傷であったが、家では小刀で指を切ってしまった話)2)徳川家康公のしかみ像。(徳川家康が武田信玄と戦って大敗し、命からがら浜松城に戻った時、自分の姿を描かせた、徳川美術館所蔵の「徳川家康三方ヶ原戦後画像」を基にした石像)3)空堀。(最近の豪雨で伊賀川から溢れた水が空堀に入り込んだ。まだ水が残っている)4)東照公産湯の井戸。(徳川家康:幼名竹千代が取り上げられ、最初に浸かった産湯を汲んだ井戸)5)坂谷邸跡。(竹千代が生まれた坂谷邸)6)東照公えな塚。(竹千代の胎盤(えな)が埋められたとされる塚)7)長寿のクスノキ。8)石垣の矢穴。(石を割るためにノミを入れる穴)9)刻銘石。(石垣工事で、石に刻銘を彫った)10)岡崎城の石垣。(穴太衆:あのうしゅうの仕事)11)岡崎城、徳川家の歴史。12)岡崎城の総構えの広さ。ガイドの方の話で一番記憶に残ったのが、岡崎城の総構えの広さの話です。広島大学の先生の記事を見せていただき、岡崎城の総構えの広さは、江戸城、大阪城、小田原城に次いで4番目との事でした。しかし、ガイドの方の意見としては、4番目が姫路城で、岡崎城は5番目ではとの話でした。いずれにせよ、岡崎城がそのように広い城だったことに、とても驚きました。ガイドの方には、とても分かりやすく説明をしていただきました。本当にありがとうございました。↓ 2023年9月10日、岡崎城大手門。↓ 公園案内無用ガイド受付所があった。↓ ガイドの方に、30分のガイドをお願いした。↓ 徳川四天王の本多平八郎忠勝公銅像。戦場では57戦無傷であったが、家では小刀で指を切ってしまった話を聞いた。↓ 徳川家康公のしかみ像。徳川家康が武田信玄と戦って大敗し、命からがら浜松城に戻った時、自分の姿を描かせた、徳川美術館所蔵の「徳川家康三方ヶ原戦後画像」を基にした石像。ガイドの方から、徳川家康が、浜松に逃げ帰った時に、馬上で脱糞した有名な話も聞いたし、この時の徳川家康の衣装を見ると、本当に戦場から帰ってすぐに描かれたのかどうか、季節的にどうかなど、色々な意見があるようで、それを聞くのも楽しかった。↓ 空堀。↓ 最近の豪雨で、岡崎城側の伊賀川が増水し、敷地内も水浸しになった。空堀も水が入ってしまい、まだ水が残っているとの事。↓ 東照公産湯の井戸徳川家康:幼名竹千代が取り上げられ、最初に浸かった産湯を汲んだ井戸。↓ 坂谷邸跡(竹千代が生まれた屋敷跡)。↓ 徳川家康の父、松平弘忠。↓ 東照公えな塚。徳川家康:幼名竹千代の胎盤(えな)が埋められたとされる塚。↓ 長寿のクスノキ。↓ 龍城堀が見える。↓ 石垣の矢穴。石を割るためにヤを入れる穴。ノミで叩いて岩を割る。↓ 刻銘石石垣工事で、担当が分かるように、石に刻銘を彫った。岡崎城では2種類あるとの事。①②↓ 岡崎城天守閣。↓ 岡崎城と記念撮影。↓ 岡崎城と家康公遺言碑。↓ 家康公遺言碑。わが命旦夕(たんせき)に迫るといへども、将軍斯(か)くおはしませば、天下のこと心安し。されども、将軍の政道その理にかなわず、億兆の民艱難(かんなん)することもあらんには、だれでも其の任に変わるべし。天下は一人の天下に非ず、天下は天下の天下なり、たとへ他人天下の政務をとりたりとも四悔安穏にして万人その仁恵を蒙らばもとより、家康が本意にしていささかも、うらみに思ふことなし。元和2年(1616年)4月17日 家康公 75歳甍於駿府城 大樹寺57世 宏天 謹書↓ 東照公遺訓碑。人の一生は重荷を負(おい)て遠き道をゆくがごとし。いそぐべからず。不自由を常とおもえば不足なし こころに望おこらば困窮したる時を思いだすべし、堪忍は無事長久の基(もとい)、いかりは敵とおもえ勝事ばかり知りて まくる事をしらざれば害其身にいたる、おのれを責て人をせめるな、及ばざるは過ぎたるよりもまされり。慶長九年卯月家康。↓ 岡崎城の石垣。穴太衆(あのうしゅう)が組んだ。
2023.09.14
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2023年9月10日、JR岡崎駅から歩いて岡崎城に行きました。岡崎駅でゆるキャラ「オカザえもん」の自動販売機に気をとられ、その横のコインロッカーに気が付かず、重い荷物を両肩に掛けたまま、歩き始めました。オカザえもんのインパクト、恐るべし!。事前に調べておらず、駅から城まで近いと想像していたのですが、8時45分に出発して、9時35分に城に着いたので、約50分かかったことになります。4kmちょっとはあると思います。岡崎駅から岡崎城までの途中で撮った風景写真の一部を紹介します。ほとんどの方は、このような写真は興味が無いと思いますが、私は大好きです。後で写真を見ると、その時の街の雰囲気や、自分がその時に考えていたことなどを、ありありと想い出すことが出来ます。↓ 岡崎城、豊橋市、安城市、名古屋市の位置、↓ JR岡崎駅から岡崎城まで歩いたルート。4キロ以上あった。荷物が両肩に食い込んで重かった。↓ JR岡崎駅 / 愛環鉄道(愛知環状鉄道)。↓ JR岡崎駅前ロータリー。↓ 岡崎城に向かって歩き始める。↓ 岡崎駅前郵便局。↓ マンホール(やはぎばし)。↓ 電車通りの敷石。大正元年より昭和37年までチンチン電車のレール保護に使われていたもの。↓ マンホール(岡崎城と花火)。 ↓ 中日新聞羽根専売所。↓ 岡崎協立病院。↓ 岡崎市シビックセンター。↓ マンホール。(岡崎城 5万石)。↓ 西光院。↓ 岡崎協立病院。↓ 重い荷物を両肩に掛けて歩いた。肩に食い込んで痛かった。↓ 岡崎市戸崎町陸橋。↓ イオンモール。↓ GATEAU TATSUMIUA。↓ スーパー銭湯 葵湯。↓ イオンシネマ。↓ 岡崎市明大寺陸橋。↓ 生理学研究所。↓ 右方向に名鉄・東岡崎駅がある。↓ 名鉄名古屋本線。 電車が走っている。↓ 名鉄名古屋本線の鉄橋。↓ 岡崎市明大寺本町陸橋。↓ 暑いので、自動販売機で購入。↓ 乙川 (菅生川:すごうがわ)に掛かる殿橋。↓ 乙川(菅生川:すごうがわ)の奥に、岡崎城が見えてきた。↓ 岡崎城。↓ 殿橋。↓ 乙川の殿橋を渡る。↓ 殿橋の東側。↓ 厭離穢土 欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)。↓ 家康公生誕の地。 祝第6回全国まちゼミサミット。↓ 岡崎市康生通南陸橋。国道1号線が通る。↓ 国道1号線を進む。↓ 東隅櫓。↓ 浄瑠璃姫の供養塔。京都鞍馬寺で修業した牛若丸(源義経)と浄瑠璃姫は、矢作川で出会って恋に落ちた。数日後、牛若丸は奥州平泉に行くために浄瑠璃姫と別れたが、浄瑠璃姫は分かれの悲しみのあまり、川に身を投げて死んでしまった。↓ 徳川家康公生誕の地 岡崎。↓ 岡崎城・大手門。(岡崎公園)↓ 岡崎城中東海道二十七曲がり。東海道を岡崎城下に引き入れ、27曲がりのくねくね道とした。防衛などの目的。↓ 2023 いけばな龍生派屋外展 in 岡崎。
2023.09.13
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2013年9月10日8時半、JR岡崎駅に到着しました。岡崎駅では、「ようこそ、徳川家康公生誕の地 岡崎へ」という紹介案内がありました。また、ゆるキャラグランプリで大変有名になった、岡崎の「オカザえもん」が、自動販売機やソウルフード案内ポスターに描かれていました。この日、10キロ以上のカバンを二つ持ってきており、駅のコインロッカーに入れようと思っていました。ところが、オカザえもんの自動販売機を一生懸命見ているうちに、その横にあったコインロッカーをうっかり見落としてしまい、結局荷物を肩に担いだまま、岡崎城まで歩くことになりました。(今回ブログを書くので写真を見直したところ、写真にコインロッカーが写っていたことに気が付いた次第です)↓ 2023年9月10日 8:30 JR岡崎駅。↓ JR岡崎駅の改札口を出たところ。↓「ようこそ、徳川家康公生誕の地 岡崎へ」 家康公ゆかりの史跡。↓ どうする家康 岡崎。↓ JR岡崎駅前ロータリー。↓ オカザえもん。 ゆるキャラグラプリで全国的に有名になった。岡崎の漢字からデザインされている。(顔の部分は「岡」という漢字でできている)*このオカザえもんのデザインを一生懸命見ていたところ、その横のコインロッカーをうっかり見落としてしまった。ロッカーが無いと思って、重い荷物を持って、岡崎城に向かった。↓ 氏名:オカザえもん。(岡崎衛門之介)生年月日:1972年7月1日生まれ(岡崎市政記念日) 身長:180cm性別:男性格:やさしくて短気血液型:О型(OKAZAKIだから)趣味:ジャズ音楽鑑賞、現代美術鑑賞特技:自己流ダンス好きな食べ物:岡崎まぜめん、八丁味噌を使った料理。作者:斉と公平太備考:奥さんに逃げられ、オカザえもんJr.という4歳の子供もいる。↓ 岡崎市観光案内所。↓ どうする家康 岡崎 大河ドラマ館のポスター。↓ 岡崎に来たなら絶対に食べたい! 岡崎を代表するソウルフード。五平餅、フルーツサンド、いかまんじゅう、くずもちバー、団子、かき氷、↓ からあげ、味噌カツ、岡崎まぜのん、岡崎おうはん、味噌田楽、おでん、もろこしうどん、味噌煮込みうどん、おかざきカレーパン。↓ 岡崎駅前ロータリー。↓ 8時45分。
2023.09.12
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2023年9月10日朝、新幹線で東京から豊橋まで移動し、東海道本線の特別快速・米原行きに乗り換えて岡崎駅まで行きました。豊橋駅から岡崎駅までの風景を紹介します。↓ 豊橋駅の広告。「どうする家康/どこ行く家康」↓ 東海道本線・豊橋駅。↓ 8:09 豊橋駅発 特別快速米原行き。↓ JR東海 313系Y109編成。(豊橋~米原)↓ 車内の様子。↓ 奥に、豊橋鉄道・新豊橋駅が見える。↓ 豊橋鉄道・新豊橋駅。↓ 豊橋鉄道(豊鉄)。 ↓ 豊橋鉄道 新豊橋駅。 豊橋鉄道渥美線は、三河田原駅まで。↓ 名古屋鉄道(名鉄)車両。↓ 名古屋鉄道1000系。↓ 名古屋鉄道1000系。(1806)岐阜行き。↓ 豊川。↓ 豊川放水路。(手前は東海道本線。奥は名鉄名古屋本線)↓ 車内の吊り広告。↓ 遠くに、蒲郡市のラグーナテンボス大観覧車が見えてきた。↓ ラグーナテンボス大観覧車。↓ ラグーナテンボスの施設と三河湾。↓ ラグーナテンボスの施設。↓ 子安弘法大師像。(蒲郡市三谷町南山・金剛寺にある)↓ 画面右は竹島。左は竹島町の森。↓ 三河湾ヒルズホテル。↓ 蒲郡駅近くにある竹本油脂株式会社(ごま油で有名)。↓ 竹本油脂株式会社。↓ 蒲郡駅。↓ 蒲郡駅。↓ 蒲郡駅プラットフォーム。↓ 蒲郡浜町緑地のクレーン群。↓ ボートレース蒲郡 競艇場。↓ 岡崎駅に到着。8時半。↓ 岡崎駅で下車した。↓ 岡崎駅。↓ 岡崎駅改札口
2023.09.11
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2023年1月から、NHK大河ドラマ「どうする家康」を見ています。それが終わると、TBS日曜劇場「VIVANT」を見る流れでした。「どうする家康」を見ながら、徳川家康の生誕地である岡崎城に行こうと思い、2023年9月10日早朝、新幹線ひかりに乗車し、東京駅から豊橋駅まで移動しました。車窓風景を紹介します。新幹線の車窓は、何度乗って見ても飽きません。↓ 2023年9月10日 東京駅。↓ ひかり631 6時21分発。↓ 東京駅。↓ N700 SUPRAME シュープリーム。↓ N700 A↓ 東京駅を出発。↓ 高輪ゲートウェイ駅付近の開発。↓ 車内販売が近く終了になる予定。↓ 丹沢と富士山。↓ 丹沢。↓ 富士山。↓ 酒匂川。↓ FUJIFILM 富士フィルム小田原工場。↓ 富士川と富士山。↓ 掛川城。↓ 掛川市役所。↓ 大井川。↓ JR東海 浜松工場。↓ 浜名湖。↓ 浜名湖ボートレース。↓ 豊橋駅近く。↓ 豊橋駅。↓ 名鉄車両。↓ 豊橋駅出口。↓ 壺屋。↓ 豊橋駅 東海道腺乗り換え口。
2023.09.10
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2023年6月17日、名古屋城の金シャチ横丁で味噌カツを食べた後、「鯱上々」という店に入りました。店内には実物大の「金の鯱」が展示されており、迫力があります。また、店内の入り口横に大きな輪切り材があり、大谷翔平選手のサインが付いていました。木造天守に使用する木材(月山松:がっさんまつ)この木は、復元する木造天守に使用する予定の松材根本部分の輪切り材です。岩手県奥州市の月山(がっさん)神社が保有する境内山林で伐採された、推定樹齢350~400年の年輪が緻密で真直ぐな非常に品質の高い松材です。この貴重な松材は、復元する天守の3階床を支える最も長い梁(長さ約16m)に使用する予定のものとなります。今回、この松材が伐採された岩手県奥州市出身のプロ野球選手、大谷翔平選手にサインを頂きました。(大谷翔平選手のサイン:2023年3月4日)↓ 「鯱上々」店内にある原寸大の金鯱。↓ 木造天守に使用する木材(月山松:がっさんまつ)↓ 大谷翔平選手のサイン 2023年3月4日。↓ 鯱上々。ーーーーーーーーーーー↓ 名城 金鯱水(きんこすい)。おいしい名古屋の水道水。
2023.07.04
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2023年6月17日、名古屋城を駆け足で散策しました。天守閣は耐震問題があるため閉館中でしたが、その周辺を巡りました。(名古屋城のパンフレットと、各所の案内板の内容を記載しています)ーーーーーーーーーーーーー↓ 名古屋城天守閣。金の鯱が見える。金の鯱(シャチ)鯱は空想上の生き物で、水を呼ぶと言われていることから火除けのまじないとされてきました。名古屋の金鯱には慶長大判1,940枚分の金が用いられ、徳川家の権力・財力の大きさを示しました。金鯱の詳細写真手前 雌(南側)高さ:2.579m、重量1,215㎏、金板の種類:18K、金板の厚み:0.15㎜、うろこの枚数:126枚、金量(18金K)43.39㎏写真奥 雄(北側)高さ:2.621m、重量1,272㎏、金板の種類:18K、金板の厚み:0.15㎜、うろこの枚数:112枚、金量(18金K)44.69㎏ーーーーーーーーーーーーーー↓ 天守閣(奥)と、西南隅櫓(せいなんすみやぐら)/未申櫓(ひつじさるやぐら)慶長17年(1612年)ごろに建てられ、未申(ひつじさる)櫓と呼ばれた。外観二重、内部三階建ての珍しい形態である。二階の西、南西に張り出しがあり、この下に石落としがある。床に開閉式の穴があり、石垣に接近した敵兵を銃撃する仕掛けであった。櫓は明治後期から大正期ごろに自然災害で倒壊したが、大正12年(1923)、宮内省により、故材を用いて再建された。鬼瓦に菊紋が見られるのはそのためである。↓ 西南隅櫓。ーーーーーーーーーーーーーーー↓ 東南隅櫓(とうなんすみやぐら)/辰巳櫓(たつみやぐら)本丸の南東隅にある屋根二重・内部三階の櫓。出窓には石落としが設けられている。かつては武具が収められていた。↓ 東南隅櫓。↓ 名古屋の名所を配したマンホール。ーーーーーーーーーーーーーー↓ 本丸表二之門(ほんまるおもてにのもん)。古名は南二之門。本丸大手の外門で、内門である表一之門とともに桝形を形成していた。本瓦葺の高麗門で、軒周りは漆喰塗りとし、柱や扉に金具を打ち付けている。現存する数少ない名古屋城創建時の建造物である。↓ 鉄板張りとし用材は木割りが太く堅固に造られている。門の左右は土塀で鉄砲狭間が開いている。ーーーーーーーーーーーーーーーー↓ 本丸表一之門跡(ほんまるおもていちのもんあと)本丸大手(表門)の東側の石垣をまたぐように、表一之門(櫓門)が建てられていました。慶長17年(1612)頃の建築と見られます。北側と西側の石垣上には、多門櫓(長屋状の櫓)が隙間なく建てられていました。南側の表二之門から侵入した敵を、櫓門と多門櫓の三方向から矢で攻撃する構造でした。このような四角形の日理場をもった城の出入口を、桝形虎口(ますがたこぐち)といいます。多門櫓は明治24年(1891)の濃尾地震で大破し、取り壊されたと見られます。表一之門は昭和20年(1945)の空襲で焼失しました。↓ 消失前の本丸表一之門。(門の横の大きな石が目印)↓ 大きな石が目印。 第二次世界大戦の空襲で、表一之門は消失した。ーーーーーーーーーーーーーー↓ 名古屋城本丸御殿。名古屋城本丸御殿は、尾張藩主の住まいとして徳川家康の命により慶長20年(1615)に建てられⅯした。寛永11年(1634)には将軍のお成御殿として上洛殿(じょうらくでん)が増築され、格式高き御殿として知られていましたが、昭和20年(1945)の空襲で天守閣とともに全焼しました。名古屋市では、平成21年(2009)1月から本丸御殿の復元に着手し、平成25年5月には入口にあたる玄関、謁見の場である表書院(おもてしょいん)などの公開を開始しました。↓ 名古屋城本丸御殿本丸御殿は、初代尾張藩主の居城・政庁として使用するため、慶長20年(1615)に建てられ、後に将軍専用の宿館となりました。総面積は約3,100㎡、部屋数は30を超える平屋建ての建物です。昭和5年(1930)には、天守とともに国宝に指定され、名建築として知られていましたが、昭和20年(1945)の空襲により焼失しました。平成21年(2009)から復元工事を開始し、平成30年(2018)6月8日に全体公開となりました。ーーーーーーーーーーー↓ 名古屋城天守閣。名古屋城は昭和5年(1930)、城郭建築における初めての国宝に指定されましたが、昭和20年(1945)の名古屋空襲により本丸のほとんどを焼失しました。しかし名古屋のシンボルとして天守閣の再建を望む市民の声は日に日に高まり、昭和34年(1959)ついに天守閣が再建されました。再建された鉄骨コンクリート造の天守閣は、外観は昭和実測図に基づき正確に再現され、内部は消失を免れた本丸御殿障壁画(有用文化財)や武具などを展示し、名古屋城の歴史を市民に紹介する博物館としての機能を果たしました。現在耐震性が低いことに対応するため、天守閣を閉館しています。↓ 名古屋城の天守閣の中には入場できません。(現在、耐震性が低いことに対応するため、天守閣を閉館しています)↓ 不明門。(焼失再建)土塀の下に設けられた門。本来北側と御深井丸をつなぐ門であるが、厳重に施錠され「あかずの御門」と呼ばれていた。左右には槍の穂先を並べた剣塀(つるぎへい)が続いている。昭和20年(1945)に焼失し、昭和53年に復元された。↓ 不明門。↓ 剣塀(つるぎへい)大天守と小天守を連結する櫓台は、高い土塀で囲われ、堀の軒に鋭い槍の穂先がぎっしりと並べられている。大天守への敵の進入を防ぐもので、剣塀と称されている。↓ 堀の軒に鋭い槍の穂先がぎっしりと並べられている。瓦の下に、ずらりと穂先が並んでいる。
2023.07.03
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名古屋城では「名古屋おもてなし武将隊」「徳川家康と服部半蔵忍者隊」という団体が活動されています。2023年6月17日、名古屋城の二之丸広場に行くと、その演武がありました。
2023.07.02
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2023年6月17日、名古屋城に行き、刻銘石と加藤清正の石曳像を見ました。↓ 名古屋城入口。↓ 特別史跡 名古屋城名古屋城は、御三家筆頭尾張徳川家の居城であり、初代の城主は、江戸幕府を開いた徳川家康の第九男義直です。慶長14年(1609)、家康みずから築城を決定し、翌15年に石垣普請が着工され、1617年に大小の天守や各櫓が完成しました。普請を命じられたのは加藤清正ら西国の大名20名で、城内の石垣には目印として各大名が刻んだ刻印が多数残っている。慶長20年(1615)に本丸御殿、元和3年(1617)には二之丸御殿が完成し、二之丸御殿、御深井御庭なども整備され、名古屋城は天下の名城としてその名をとどろかせました。明治維新後、名古屋城は陸軍省の所管となり、名古屋鎮台司令部や兵舎がおかれましたが、明治26年(1893年)に宮内省に移管され「名古屋離宮」となりました。昭和5年(1930年)12月、名古屋市に下賜されると同時に国宝に指定され、翌年から一般公開が始まりました。昭和7年(1932年)には、名古屋城全体が特別史跡に指定されました。昭和20年(1945年)5月、第二次世界大戦末期の空襲により、天守や本丸御殿など国宝建造物24棟が焼失しましたが、焼失を免れた3つの隅櫓と3つの門、空襲の直前にとりはずされていた本丸御殿障壁画1047面が、戦後重要文化財に指定されました。昭和34年(1959)、天守閣と正門が、ほぼ昔通りの外観で再建されました。平成21年(2009)には本丸御殿の復元工事が始まり、平成25年(2013年)に玄関・表書院部分が完成しました。現在も、平成30年(2018)の全体完成をめざし工事が進められています。↓ 消失前の名古屋城本丸御殿と天守閣。↓ 名古屋城正門(旧榎多門)ここにはかつて、榎多門(えのきだもん)と呼ばれる櫓門(やぐらもん)がありました。南側に「冠木門」(かぶきもん)と呼ばれる外門、北側と西側の石垣上には多門櫓(たもんやぐら)(長屋状の櫓)が建てられていました。内門の榎多門とあわせて、防御力の高い城郭の出入口である、桝形虎口(ますがたこぐち)が形成されていました。榎多門は明治24年(1891)の濃尾地震で大破し、代わりに明治44年、旧江戸城から蓮池門(はすいけもん)(元禄17年・1704年ごろ建築)が移築され、石垣も組み直されました。国宝に指定されていましたが、昭和20年(1945)の空襲で焼失しました。現在の正面は昭和34年に、旧蓮池門を鉄筋コンクリート造で、外観復元したものです。↓ 明治12年(1879)~24年撮影。手前が通称「冠木門」、この内部が現在地である。↓ 大正2年(1913)撮影。蓮池門の移築後。周辺は陸軍用地であったため、軍用機が上空を飛ぶこともあった。↓ 名古屋城 入場券販売所。↓ 名古屋城正門 (旧榎田門)ーーーーーーーーーーーーーー↓ 刻銘石この石は、名古屋城の普請(土木工事)に従事した(西国)20大名のうち、筑後藩主田中忠政(福岡県柳川)が担当した丁場の大手桝形石垣に使用された物です。380有余年前、石垣構築に心血を注いだ大名たちの労苦のほどを窺い知ることができます。刻銘 「た中ちくこ守石」(田中筑後守石)総重量 :約2.5屯(トン)石の種類:花崗岩設置 :平成8年8月8日*石の端の部分に、石を割るために彫った「矢穴」が連続して見える。↓特別史跡 名古屋城 絵地図。ーーーーーーーーーーーー↓ 加藤清正公 石曳きの像↓ 清正の石曳(きよまさのいしひき)天守の石垣普請は、加藤清正に割り当てられた。巨石を運ぶにあたり、清正自ら石の上に乗り音頭をとったと伝えられている。本像は、その様子を模したもの。↓ 清正公石曳きの像。
2023.07.01
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2023年6月17日、名古屋城に行く途中、加藤清正像と篠島の矢穴石を見たので、紹介します。↓ 名古屋城と加藤清正像。↓ 中央に名古屋城が見える。↓ 名古屋城と加藤清正像。↓ 加藤清正像。ーーーーーーーーーーーーーー篠島の矢穴石(しのじまのやあないし)矢穴とは石を切り取る際に彫られた穴であり、矢穴を使って石を切り取る方法は戦国時代の終わり頃から使われ初め、道具を変えつつ現在も用いられています。名古屋城の石垣には「矢穴」が残された石が多く見られます。意思の切り取り方はは、まず「セットウ」と「ノミ」という道具で、切り取ろうとするラインに沿って矢穴を彫ります。次に矢穴に断面が三角形状の「ヤ」を差し込み、叩きます。ヤが叩かれると矢穴を押し広げるように力が加わり、矢穴に沿って石が切り取られます。割れた面には歯型のような矢穴の列が残ります。しかし、矢穴を彫っても思い通りに切り取れるとは限りません。石は目と呼ばれる割れやすい方向があり、矢穴が目に沿っていなければ割れません。また、矢穴が目に沿っていても割られなかった石もあります。そのような石には表面に矢穴の列が残ります。展示しているのは知多半島の先に位置する篠島(しのじま)に残されていた石です。矢穴の形から江戸時代に彫られたと考えられ、当時の意思を切り取る技術の一部を観察できる資料です。篠島には矢穴の残る石が多く点在し、加藤清正が名古屋城の石垣を築くために篠島で石を採ったという伝承も残されています。↓ 篠島の矢穴石。↓(1)割ろうとするラインに沿って「セットウ」と「ノミ」で矢穴を彫ります。(2)彫られた矢穴に「ヤ」を差し込み、上から叩きます。(3)石の「目」に沿っていると割れ、割れた面に矢穴の列が残ります。割れなかったり、割らなかったりすると、石の表面に矢穴の列が残ります。↓展示しているのは知多半島の先に位置する篠島(しのじま)に残されていた石です。矢穴の形から江戸時代に彫られたと考えられ、当時の意思を切り取る技術の一部を観察できる資料です。篠島には矢穴の残る石が多く点在し、加藤清正が名古屋城の石垣を築くために篠島で石を採ったという伝承も残されています。ーーーーーーーーー↓ 名古屋能楽堂。
2023.06.30
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2021年10月29日(金)午後、妻と一緒に小田原城へ行き、天守閣からの景色を見ました。西の方角には、石垣山が見えました。1590年に豊臣秀吉が小田原城を包囲した時、秀吉は小田原城を見下ろすことができる石垣山に、俗にいう「石垣山一夜城」を造りました。城を造った後に、全面の木を切ったので、小田原城からは、急に城が現れたように見えたようです。司馬遼太郎さんの本を読むと、ここで豊臣秀吉と徳川家康が立小便をしながら話をし、家康が三河から関東の江戸城に行くことが決まりました。私はこの辺りの話が大好きで、何度も読みました。それから伊豆半島、真鶴半島、伊豆大島、江の島、三浦半島、大磯丘陵、丹沢の大山、三ノ塔、塔ノ岳、蛭ヶ岳、檜洞丸などが見えました。丹沢は、時々山登りをしたことがあります。小田原の「外郎(ういろう)売り」は、歌舞伎の長台詞で有名で、外郎という薬を売る口上です。私は学生の頃、台詞を全部覚えました。東海道の地名が続く有名な一部を紹介します。「おっと合点だ、心得田圃の川崎・神奈川・保土ヶ谷・戸塚を走って行けば、お灸を擦り剥ぐ三里ばかりか、藤沢・平塚・大磯がしや、小磯の宿を七つ起きして、早天早々、相州小田原、透頂香。隠れござらぬ貴賤群衆の、花のお江戸の花ういろう」それから、小田原で有名な「インドゾウのうめ子」のプレートがあったので、紹介します。ーーーーーーーーーーー司馬遼太郎さんの本の中で、小田原城や石垣山一夜城について記載がありますので、少し紹介します。ーーーーーーーーーーーーーーー↑ 小田原城。↑ 小田原城天守閣入口。【西側】【南側】↑ 西湘バイパス。↑ ズームで写す。↑ 小田急ロマンスカーMSE60000形。↑ 小田原名物の外郎(ういろう)。 【インド象のウメ子】↑ インド象のウメ子。↑ インド象のウメ子の紹介文。ウメ子は、昭和25年(1950年)に推定3歳で来園したインドゾウです。約60年にわたり多くの市民と観光客から親しまれていましたが、平成21年(2009年)9月17日、推定62歳で永眠しました。このレリーフ(作 柏木康兵)はウメ子の来園に尽力いただいた西村楽天氏から昭和31年(1956年)に寄贈されたものです。↑ 小田原城歴史見聞館。↑ 銅門(あかがねもん)。↑ 「東京エクストリームウォーク100キロ」の小田原城会場。ーーーーーーーーーーーーーーーー手元にある司馬遼太郎さんの本で、小田原城に関するもの。 「司馬遼太郎と城を歩く/司馬遼太郎/光文社文庫」↑ 「司馬遼太郎と城を歩く/司馬遼太郎/光文社文庫」。↑ P65~73に、「小田原城と『箱根の坂』」として、小田原城と北条早雲の記載がある。「鞍作りの伊勢新九郎が、京から駿河へ下り、やがて北条早雲として関東一円の覇者となる - その数奇な人生を痛快に描いた長編小説。↑ P69 【小田原城データ】ーーーーーーーーーーーーーーーーーー「箱根の坂/司馬遼太郎/講談社文庫」 (北条早雲について)↑ 箱根の坂(上)、(中)、(下)/司馬遼太郎/講談社文庫。↑ 「箱根の坂(下)/司馬遼太郎/講談社文庫」裏表紙の解説文。「関東制覇をめざして、先ず伊豆を切り取った(北条)早雲は、越えがたい箱根の坂を越えて、ついに小田原攻略に成功した。まさにこの時、戦国の幕が切って落とされたのである」↑ P338~339。北条早雲が箱根を越えて小田原を奪取した事が書かれている。ーーーーーーーーーーーーー「関ケ原/司馬遼太郎/新潮文庫」↑「関ケ原(上巻)、(中巻)、(下巻)/司馬遼太郎/新潮文庫」「関ケ原(上巻)/司馬遼太郎/新潮文庫」↑ P104~105。小田原城を包囲した時、豊臣秀吉と徳川家康が石垣山で連れ小便をした時の話。「秀吉は関東の支配者であった小田原の北条氏を攻囲したとき、ある日、石垣山の本陣から小田原城を見下ろし、不意に、『徳川殿、徳川殿』とよび、『俗に連れ小便を申す。お前もなされよ』と、がけっぷちへ歩みより、前をたくしあげて放尿した。家康もやむなく放尿した。『あれをみなされ』と秀吉は眼下の小田原城を指さし、『あの城のほろぶも、時日はござるまい。北条氏がほろべば、関東八州は貴殿に進上つかまつろう』家康、おどろくまもなく、『さればどこに城をきづきなさる。江戸という郷村がある。そこがよろしかろう』と言った。秀吉は、家康がその実力で切りとった三河、駿河、遠江、信州、甲州など日本の中部に蟠踞(ばんきょ)していることが豊臣家の治安上おもしろからず、五州から一躍八州の太守にする、という餌をもって箱根から東へ追った、というわけである」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「功名が辻(一)、(二)、(三)、(四)/司馬遼太郎/文春文庫」↑「功名が辻(一)、(二)、(三)、(四)/司馬遼太郎/文春文庫」(土佐の大名になった山内一豊の話)↑「功名が辻(二)/司馬遼太郎/文春文庫」P230~231に、「石垣島一夜城」について記載がある。「『関白殿下はどこにお住まいでございましょう』『いまは早雲寺だが、どうやら小田原城を見おろす場所に大きなお城をおつくりあそばされるようだ』秀吉の秘密城ができあがりつつある」「秀吉が、小田原城攻撃のためにつくった付け城というのも、この男の性格を知るうえでおもしろい建築である。単なる野戦用の急増の建物ではない。天守閣まである。場所は小田原城の西南方の高地石垣山にあり、そこからは敵城をゆうゆう見おろすことができる。『大阪城、聚楽第にまさるとも劣らず』とさえいわれるほどの大規模なもので、本丸のまわりだけで二百四十間もある。工事は、秘密におこなわれた。前面に樹木が繁っているため、小田原城から何も見えない。工事半ばで、城の木組みに戸障子をはりつけて遠目には壁に見せ、しかるのちに前面の樹木を伐りはらわれたから、下の小田原城内の者は、『あっ』と息をのんだ。一夜にして城が湧き出るように出来あがっていたからである」↑ P234~235。 石垣山での豊臣秀吉と徳川家康の連れ小便の場面。「秀吉は急に尿意をもよおしたらしい。『さてさて、小便をしよう。どうじゃ徳川殿、おなじするなら二人いっしょにやろう』『はっ』家康もやむをえず前をまくった。放尿しようとすると、秀吉は、待った待った、ととめて、『敵方にひっかけてやれ』と二人で石垣のはしへ立ち、小田原城の方角にむかって放尿し始めた。しながら、『どうだ、この城と北条領、攻めとれば即刻そなたにつかわそう』家康の関東入りはこのときにきまった」ーーーーーーーーーー「新史太閤記(上)、(下)/司馬遼太郎/新潮文庫」↑ 「新史太閤記(上)、(下)/司馬遼太郎/新潮文庫」豊臣秀吉が日本全土の統一をするまでの物語が書かれているが、この本には「小田原合戦」について、全然触れられていない。
2021.11.14
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2021年10月29日(金)午後、妻と一緒に小田原城址公園へ行き、小田原城天守閣内の展示室を見ました。小田原城の歴史ですが、15世紀中ごろに大森氏が小田原に築きましたが、1501年に伊豆・韮山の北条早雲が大森氏を攻めて統治します。その後、上杉謙信や武田信玄に攻められるも、籠城戦で退けます。ところが、天下統一を進める豊臣秀吉が、1590年に小田原城を兵糧攻めにしました。結局、5代続いた小田原北条氏は降伏して開城します。そして、豊臣秀吉の天下統一が成されます。小田原城には、徳川家康の重臣・大久保忠世が城主となりました。その後、1614年には大久保忠隣が改易され、小田原城が破却された後、幕府直轄となりました。1632年には稲葉正勝が城主となり、小田原城の修築工事が開始されますが、1633年には寛永小田原地震が起こり、大きな被害が出ます。稲葉氏は小田原城を大規模に改修し、近代城郭に形を変え、1675年に小田原城の修復工事が完了します。1686年には大久保忠朝が城主となりますが、1703年に元禄地震があり、天守や城の施設が倒壊、焼失します。1706年に元禄地震で失われた天守が竣工しますが、1706年には富士山が噴火し、1782年には天明地震で、天守が傾きました。1853年には小田原大地震があり、被害が出ます。明治時代になると、小田原城は廃城になり、天守などが売却・解体されます。昭和に入ると、1938年に小田原城址が国指定史跡となり、1960年には天守閣が復興されました。ーーーーーーーーーーーー↑ 小田原城址公園へ歩いて行く。↑ 案内図。↑ 常盤木橋へ進む。↑ 常盤木橋。↑ 常盤木門。↑ 常盤木門。↑ ニホンザルがいた。↑ 本丸広場。↑ 小田原城。↑ 小田原城天守閣。↑ 記念撮影。↑ 天守閣入口。↑ 記念撮影。↑ 遊園地が見える。↑ 小田原城の最盛期の姿の模型。(スケール:1/700)この模型は最盛期の小田原城の姿を示す「寛永年間小田原城郭(くるわ)総図(宮内庁図)を基に再現された。ーーーーーーーーーーーーーー↑ 小田原城の城主たちと小田原城のあゆみ。↑ 北条氏綱(ほうじょううじつな)像/ 早雲寺蔵。北条早雲の嫡男。(二代目)。領地を武蔵(東京都・千葉県)、駿河、下総(千葉県の一部)まで拡大した。↑ 北条氏直(ほうじょううじなお)像/ 早雲寺蔵。小田原北条氏の5代目。豊臣秀吉による小田原合戦の敗北後、高野山へ追放され、その翌年に亡くなった。小田原北条氏は北条早雲から5代約90年間続いた。↑ 大久保忠世(おおくぼただよ)/ 小田原城天守閣蔵。1590年、豊臣秀吉が小田原北条氏の小田原城を兵糧攻めにした、小田原合戦の終結後、小田原城の新たな城主となったのは、徳川家譜代(ふだい)家臣である大久保忠世だった。忠世が小田原城を近代的な城郭へ再整備していくも、亡くなってしまう。城主を引き継いだ息子の忠隣(ただちか)は、幕府に許可なく養女を結婚させたことを理由に、1614年に改易させられ、小田原城は幕府の直轄領になり、城は破却された。↑ 大久保彦左衛門(おおくぼひこざえもん)と『三河物語(みかわものがたり)』/長福寺蔵。大久保彦左衛門は実名を忠教(ただたか)といい、大久保忠世(ただよ)の弟である。彦左衛門が有名な「三河物語」を執筆し、徳川家の事績などを書いて後世に残した。↑ 稲葉正勝(いなばまさかつ)/ 神奈川県立歴史博物館蔵。三代将軍徳川家光は、南関東の守りとして、幕府の直轄領であった小田原に稲葉正勝を入封した。小田原藩が復活し、稲葉氏は小田原城の城郭と城下町の整備を進めた。稲葉正勝の母は、春日局(かすがのつぼね)である。↑ 三代将軍徳川家光の乳母・春日局(かすがのつぼね)/麟祥院蔵。稲葉正勝の母は、徳川家光の乳母として有名な春日局(かすがのつぼね)。春日局は将軍となった家光を補佐し、稲葉正勝も小姓時代から側近として家光を支えた。正勝は早世したので、息子の正則が家督を継いだ。春日局は正則を助け、稲葉氏と有力大名との婚姻を実現させた。春日局の死後、正則は小田原の紹太寺(しょうたいじ)に供養塔を建て、その菩提を弔った。↑ 稲葉正則(いなばまさのり)像/ 神奈川県立歴史博物館蔵。稲葉正則は小田原藩第2代藩主。稲葉正勝の嫡男で、春日局の孫。↑ 大久保忠真(おおくぼただざね)像/ 小田原城天守閣蔵。1685年、稲葉正通が越後国高田(上越市)に転封(てんぽう)になり、大久保忠朝(おおくぼただとも)が小田原に入封した。71年ぶりの小田原復帰となった大久保氏、1703年の元禄大地震、1707年の富士山噴火とその火山灰が堆積した酒匂(さかわ)川の頻繁な洪水といった大規模な自然災害が長期化し、被災地は復興が完了するまで幕府の直轄地となった。大久保忠真は、小田原藩第7第藩主で、二宮尊徳(金次郎)を表彰した。↑ 二宮尊徳(金次郎)像/ 報徳博物館蔵。二宮尊徳(金次郎)は、1787年、今の小田原市栢山(かやま)村に生まれ、1818年には藩主・大久保忠真(ただたね)から表彰された。忠真は大久保家の分家がある下野国桜町領(しもつけのくにさくらまちりょう)(真岡市:もおかし)を荒廃から立て直すため、尊徳を藩に登用し、桜町領の復興を任せた。
2021.11.13
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深大寺城(じんだいじじょう)については、遠藤周作さんの本「日本紀行『埋もれた古城』と『切支丹の里』」/遠藤周作/知恵の森文庫」を読んで初めて知りました。記載部分を紹介します。P9:「ソバで有名な深大寺(じんだいじ)を訪れる人は多い。しかし、すぐそばに深大寺城の跡があって、ここに比較的、遺構が残存しているのを知る人は少ない」。P14:「たとえば蕎麦で名高い深大寺に行けば、茶店に腰かけるよりも寺よりも、そこから500メートルほど歩いた地点に未だに残る深大寺城の空濠の跡を眺めるのに心せく始末であった」。遠藤周作さんの作品ですが、最初に読んだのが「沈黙」でした。それから少しずつ本を買っては読んできましたが、旅行について書かれた本が好きで、何度も読んでいます。他にも遠藤周作さんの本を読んで、世田谷城や渋谷城の事を知り、見に行きました。これらの城についてはまた別の機会に紹介したいと思います。戦国時代の深大寺城の歴史です。北条早雲(ほうじょうそううん)は伊豆から相模国を制圧しました。早雲の家督を継いだ嫡男の北条氏綱(ほうじょううじつな)は、関東制圧のため大永4年(1524年)に扇谷上杉朝興(おうぎがやつうえすぎともおき)の江戸城を攻め落としました。上杉朝興は川越に逃れて形成を立て直しましたが、天文6年(1537年)に亡くなりました。嫡男の上杉朝定(うえすぎともさだ)が家督を継ぎ、家臣の難波田憲重(なんばだのりしげ)に命じて天文6年(1537年)に古い郭を再興してできたのが深大寺城です。多摩川の反対側には北条氏が守る小沢城があり、深大寺城は小谷城に対抗するための城となりました。しかし、天文6年(1537年)7月、北条氏綱は深大寺城を攻めず、直接扇谷上杉氏方の河越城を攻め、朝定は松山城に敗走しました。これにより川越城は北条家の拠点となります。深大寺城はそのまま廃城となりました。深大寺の南に水生植物園があり、その一角に深大寺城跡があります。濠の跡を見ることができます。↑ 遠藤周作さんの本の中で、旅行について書いてある本は繰り返して読みました。「忘れがたい場所がある/遠藤周作/光文社」「日本紀行『埋もれた古城』と『切支丹の里』/遠藤周作/知恵の森文庫」「眠れぬ夜に読む本/遠藤周作/知恵の森文庫」↑「日本紀行『埋もれた古城』と『切支丹の里』/遠藤周作/知恵の森文庫」深大寺城について紹介した部分がある。↑ 深大寺の南にある水生植物園。↑ 東京都神代植物公園 水生植物園。↑ 公園の地図。手前が水生植物園。奥が深大寺城跡。↑ 深大寺城跡。↑ 深大寺城 そば畑。↑ 土橋、空堀。↑ 画面中央が土橋。左側が空堀。↑ 建物跡。↑ 建物跡。↑ 土橋が続く。↑ 土橋。↑ 第一郭跡。江戸時代の城の本丸にあたる郭(くるわ)。↑ 深大寺城跡の石碑。↑ 水生植物園まで下る。↑ 水生植物園案内図。↑ 水生植物園。↑ 深大寺城跡の夕日と水生植
2021.03.10
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2020年11月22日、京王よみうりランド駅から読売ジャイアンツ球場に行く途中、山道に入って小沢城跡へ行きました。小沢城址にある掲示板「小沢城址 (平成19年12月吉日 小沢城址里山の会 多摩区まちづくり推進協議会)」を見ると、城の歴史が詳しく書いてあり、とても勉強になります。小沢城は、鎌倉時代、北の防衛線として作られた山城だそうです。近くは多摩川が流れ、天然の要塞として、府中方面を見渡せる拠点でした。城主は稲毛重成(いなげしげなり)で源頼朝(みなもとのよりとも)の重臣でした。妻は源頼朝の妻・政子の妹の綾子です。愛妻家だったそうですが、妻の綾子が亡くなると出家し、城を長男の小沢重政(おざわしげまさ)に譲り、4キロ南にある桝形城(ますがたじょう)に移りました。桝形城跡は小田急線向ヶ丘遊園駅近くの生田緑地にあります。近くには藤子・F・不二雄ミュージアムや川崎市立日本民家園があり、見に行ったことがあります。小沢城の近くは、鎌倉街道が通る交通の要衝で、鎌倉時代から戦国時代にかけてたびたび合戦の舞台となったそうです。下記の合戦が紹介されていました。① 鎌倉時代末の元弘3年(1333年)、新田義貞(にったよしさだ)の軍勢と北条高時(ほうじょうたかとき)の幕府軍が小沢城近くの分倍河原(ぶばいがわら:府中市)で合戦をしました。「太平記」には、多摩川の防衛線を破られた幕府軍は新田義貞によって滅ぼされた事が記されています。②南北朝時代には、足利陣営の分裂により観応2年(1351年)、足利尊氏(あしかがたかうじ)の弟・直義(ただよし)の軍勢が立てこもる小沢城を、足利尊氏の子・義詮(よしあきら)の命を受けた関東の武士・高麗経澄(こまつねずみ)が攻め落としました。③戦国時代の永世元年(1504年)には、扇谷上杉朝良(おうぎがやつうえすぎもとよし)を助けるため、北条早雲(ほうじょうそううん)の軍勢が山内上杉顕定(やまうちうえすぎあきさだ)の軍を打ち破りました。④享禄3年(1530年)には、小沢城の争奪戦があり、城近くの小沢原で北条氏綱(ほうじょううじつな)の子・氏康(うじやす)と武蔵最大の勢力を持つ上杉朝興(うえすぎともおき)との大きな戦いがあり、若干16歳で初陣した北条氏康方の勝利が「小田原記」に記されています。この小沢城址には、空堀、土塁、物見櫓、館、馬場、井戸跡などの遺構が残っています。江戸時代には富士山信仰の場として利用されました。小沢城址の峰沿いには、文化3年の祠や、万延元年の富士登山33度大願成就の記念碑があります。↑ 小沢城の位置。京王よみうりランド駅と京王稲田堤駅の間にある。多摩川の近く。↑ ジャイアンツ球場に行く途中から小沢城址に進んだ。↑ よみうりV通りの途中に、小沢城址に行く多摩自然遊歩道入口がある。↑ 多摩自然遊歩道を進む。↑ 天神坂。↑ 祠。↑ 小沢城址。↑ 小沢城址。↑ 小沢城址の自然遊歩道。↑ 小沢城址の石碑。↑ 小沢城址にある掲示板「小沢城址 (平成19年12月吉日 小沢城址里山の会 多摩区まちづくり推進協議会)」。大変詳しい説明が記載されており、勉強になった。↑ 富士登山の記念碑。↑ 大きな碑は昔の冨士講(富士山信仰の講社)の33回登山記念碑で、明治9年(1876年)に建立された。↑ 小さな碑は、さらに古く万延元年(1860年)に建立された。↑ 物見台。鎌倉時代から南北朝、室町、戦国時代に至る約380年にわたり、敵を見張っていた場所。当時は江戸から秩父方面まで関八州が広く見渡せた。↑ 古井戸の跡。小沢城の古井戸の跡で、台地の下にあった館の生活用水として使った。昔は深い穴だったが、危険であるため付近にあった「つぶて石(城の防御投石用の石」などで埋めたと言い伝えられている。↑ 浅間山。↑ 浅間山と浅間神社。↑ 浅間神社は富士山信仰の神社だが、碑には「武州橘樹郡菅村 世話人惣村中 文化三寅年」とある。↑ 屋号の物語。ここから先方に見える家は、昔から屋号が「鷹の巣(たかのす)」と伝えられている。由来は徳川将軍家が明和10年(1729年)頃から稲毛領の村々をお鷹狩場として、度々鷹狩が行われた。一行が当地に宿泊したとき、お鷹匠役人の定宿になっていたので「鷹の巣」と屋号がつけられた。↑ 記念撮影。↑ 稲田(菅)探照灯基地跡。多摩区の丘陵地帯には、太平洋戦争の末期まで、米軍の空襲に備え数か所の探照灯基地があった。探照灯は高い空を飛ぶB29爆撃機を照射し、高射砲と連携して攻撃するための物。この付近の窪地にも防空隊の探照灯基地があり、兵舎、電源車、探照灯、調音機などが設置されていた。↑ 下りた所。↑ 京王稲田堤駅まで歩いて行く。↑ 天宿橋。↑ 三沢川。↑ 京王稲田堤駅が見えてきた。↑ 京王稲田堤駅。↑ 京王稲田堤駅。↑ 調布駅まで乗車する。↑ 多摩川を越える。↑ 京王閣競輪場。↑ 調布駅。
2021.03.07
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2018年4月10日、広島城の天守閣に上り、広島市の景色を楽しみました。↑ 広島城天守閣。【広島城天守閣からの展望】↑ 画面中央に見える山は、武田山(たけだやま)。右は広島市立基町高校。↑ 手前は広島市立基町高校。↑ 中央奥に見えるのは、阿武山(あぶさん)。↑ 奥は牛田山(うしたやま)。↑ 広島市牛田早稲田方面。↑ 中央には二葉山(二葉山)、右はRCC中国放送。↑ 二葉山(ふたばやま)。山頂には仏舎利塔がある。↑ 手前はRCC中国放送。奥右の白いビルは広島駅そばのホテルグランビア広島。↑ 右の高いビルは、アーバンビューグランドタワー。↑ 画面左と中央は広島総合庁舎。その間には、うっすらと黄金山(おうごんざん)が見える。昔、黄金山の麓に住んでいた。天体望遠鏡で星を見たり、写真を撮ったりしていた。↑ 右側は広島県庁東館。↑ 中央はリーガロイヤルホテル広島。↑ 広島城の堀を進む遊覧船。↑ 右は県立総合体育館。↑ 県立総合体育館の奥に見えるのは、世界遺産・宮島の弥山(みせん)。↑ 広島中央公園。↑ 基町高層アパート。↑ 天守閣の内部。↑ 売店。↑ 日本酒のアイスを食べた。↑ 歩いて広島駅へ行く。女学院前。↑ 広島駅近く。↑ 広島駅近く。↑ 折り紙デザインのマンホール。↑ 広島駅の「ぶちうま館」。↑ お好み焼き・みっちゃんに行く。↑ お好み焼きを食べないと、広島に来た気がしない。↑ JR広島駅新幹線北側プラットフォームから見た二葉山(ふたばやま)。山頂に仏舎利塔が見える。整備再開発をしている。
2020.08.06
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2018年4月10日、久しぶりに広島城へ行きました。今まで5回以上訪れた城は、広島城、岩国城、松山城、熊本城、江戸城(皇居)、大阪城ですが、広島には長く住んだことがあり、広島城はしょっちゅう遊びに行っていました。広島城ですが、戦国時代の大名であった毛利元就(もうりもとなり)の孫である毛利輝元(もうりてるもと)が天正17(1589)年、広島県安芸高田市にあった郡山城(こおりやまじょう)から太田川河口の三角州に移って城を築くことにしました。天守閣は文禄元(1592)年から慶長4(1599)年にかけて作られました。三角州の広い土地に瀬戸内海の島々が見えることから、広島という地名なり、城は広島城となりました。毛利輝元は慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで西軍の総大将となったため、戦に負けた後、徳川家康から周防・長門(すおう・ながと、今の山口県)に減封されます。その後に福島正則が芸備(芸州:広島県、備州:岡山県)49万石で慶長6(1601)年、広島城に入りました。元和3(1617)年に太田川が洪水となり、福島正則は幕府に城の修復許可を申請するも、許可が下りる前に修復工事をしたということで、幕府からとがめられました。元和5(1619)年、将軍徳川秀忠は福島正則を津軽に転封し、和歌山2代藩主浅野長晟(あさのながあきら)を広島に転封させました。浅野家は明治時代の版籍奉還まで、12代にわたって広島城主を務めました。1945年の原爆投下により広島城は壊滅しましたが、天守閣は1958年の広島復興大博覧会の時にコンクリートで復元されました。二の丸は平成元年から6年にかけて、木造で復元されました。広島護国神社、広島大本営跡、中国軍管区司令部防空作成指令室跡も紹介します。↑ 2018年4月10日、広島城の二の丸。平成元年~6年に再建された。↑ 二の丸の太鼓櫓(たいこやぐら)。↑ 多門櫓(たもんやぐら)。↑ 平櫓(ひらやぐら)。↑ 御門橋(ごもんばし)と表御門(おもてごもん)。↑ マンホールの蓋。(鯉と紅葉)。↑ 史跡広島城跡。↑ 二の丸表御門(おもてごもん)復元。表御門は天正期末(16世紀末)頃の建造と推定され、昭和20(1945)年の原爆被爆による消失までの約350年間存続していました現在の表御門は、平成元年の広島城築城4百年を記念して復元に着手し、平成3年に完成したものです。↑ 御門橋(ごもんばし)と表御門(おもてごもん)。↑ 平櫓(ひらやぐら)。↑ 表御門(おもてごもん)をくぐった所。↑ 二の丸に入る石段。↑ 二の丸の内部。↑ 広島城再建天守閣の鯱瓦(しゃちかわら)。昭和33(1958)年、天守閣再建時に制作された再建天守閣の初代鯱瓦。原爆で倒壊した広島城を再建する際には、過去の図面や外観写真などが参考にされたが、鯱瓦については細部が不明であったため、福山城の鉄筋御門の鯱瓦などを参考にして作成された。この鯱瓦は平成3(1991)年の台風19号により破損したため二代目に取り換えられた。その後二代目は芸予地震(平成13年・2001年)に破損し、現在天守閣の屋根にあるものは三代目。↑ 吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)全域模型(1/1000)。郡山城(現広島県安芸高田市)は広島城築城以前の毛利氏の居城であり、郡山全域を要塞化した。↑ 江戸時代には太鼓櫓の2階に時を告げる太鼓が置いてあり、朝夕太鼓を打ち鳴らして城門の閉会や藩士の登場の合図にしていた。↑ 二の丸の表櫓。↑ 二の丸の太鼓櫓。↑ 堀の鯉。↑ 被爆樹木 マルバヤナギ。爆心地から740m。ここで被爆した。被爆して生き残っているマルバヤナギはこの木だけ。↑ 中後門跡。↑ 広島護国神社の鳥居。↑ 広島護国神社。↑ 本丸の下段から上段に行く石段。↑ 広島大本営跡。↑ 広島大本営跡。明治27(1894)年8月に日清両国に戦端が開かれたのち、それまでに山陽鉄道が開通していたことや宇品港を擁するといった諸条件により、同年9月広島市に大本営が移されることとなり、広島城内にあった第五師団司令部の建物が明治天皇の行在所(あんざいしょ)とされ、ここに大本営が設けられた。明治天皇の広島滞在は、同年9月15日から翌年の4月27日までの7か月あまりに及んだ。その後、建物は広島大本営跡として保存されたが、原爆により倒壊し、今は基礎石のみ残されている。↑ 中国軍管区司令部原爆慰霊碑について明治6年、この広島城内に広島第五鎮台が設置され、その後第五師団司令部となった。以来その部隊は、萩の乱、西南の役、日清戦争、日露戦争、北清事変、シベリア出兵など幾多の戦役で活動した。一連の日華事変、太平洋戦争において第五師団出兵後の広島では、留守第五師団司令部、広島師団司令部、広島師管区司令部、中国軍管区司令部と名称、組織、使命はその都度変化しながらも多くの師団、旅団を編成して送り出していたが、昭和20(1945)年8月6日午前8時15分、原子爆弾の一閃により壊滅した。この地では、軍人軍属だけでなく学徒動員されていた旧比治山高等女学校の生徒が被爆し、亡くなった。↑ 中国軍管区司令部 防空作戦室(爆心地から約700m)。広島城とその周辺には、多くの軍事施設(中国軍管区司令部など)があり、ここには半地下式の防空作戦室が設けられていた。ここでは多くの軍人、軍属に混じって、学徒動員された比治山高等女学校の女学生たちも働いていた。原爆で市内の電信電話は破壊されたが、かろうじて残ったここの軍事専用電話を使って、女学生が広島の壊滅を通信した。これが広島の原爆被災の第一報と言われている。↑ 被爆後の防空作戦室周辺。1945年10月 米軍撮影。
2020.08.05
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2019年8月4日朝、約15キロの荷物を持って、熊本駅から富合駅に電車で移動しました。フリーゲージトレインが見える陸橋に行きましたが、早朝で車両は建物の影に入っていたので、宇土(うと)城址に行ってからまた戻ることにしました。宇土駅で下車してコインロッカーを探すも、駅には無いとの事なので、荷物を持ったまま歩いて宇土城址に行きました。宇土城址は小高い丘にあり、公園になっていました。小西行長の銅像があります。キリシタン大名である小西行長は1558年、大阪・堺の豪商である小西家の子として京都で生まれ、最初は備前岡山の宇喜多直家に仕え、その後豊臣秀吉の側近として水軍を率いて活躍し、1588年、宇土、益城、八代など肥後南半分の領主として宇土を本拠としました。1589年に築城を開始後、文禄・慶長の役で先鋒として2度にわたり朝鮮半島に出陣します。1600年の関ケ原の戦いでは西軍に属して敗戦し、京都六条河原で処刑されました。42歳でした。関ケ原の合戦後、肥後一円を治めた加藤清正が、宇土城を自分の隠居所とするために大規模な改修をしましたが、隠居することなく1611年に亡くなりました。翌年幕府の命令で城は破壊され、1637年の天草島原の乱後も徹底的に破壊されました。宇土城址を見た後は歩いて富合まで歩いて行き、太陽の光があたったフリーゲージトレインの写真を撮りました。その後は鉄道で、大牟田駅まで行きました。↑ 荷物を両肩に掛けて歩く。↑ 熊本駅前。↑ 熊本駅から富合駅へ行く。↑ 富合駅着。↑ 富合駅から、フリーゲージトレインが見える場所まで歩く。↑ フリーゲージトレインの車体が見えてきた。↑ 陸橋を渡る。↑ 陸橋からフリーゲージトレインを撮影する。↑ 朝早く、太陽の光が当たらない。↑ 建物の陰で車体が暗く見えるので、太陽が高く昇るまで、宇土城址に行く。↑ JR宇土駅前。 駅にはロッカーが無いと言われた。↑ ロッカーが無いので、そのまま荷物を持って宇土城址に行くことにした。↑ 宇土のくまモン。↑ 天草三角(みすみ)線の踏切。↑ 天草三角線と九州新幹線。↑ 宇土城址に向かって歩く。↑ 宇土高校、宇土中学の入り口。 この奥に宇土城址がある。↑ 近世宇土城跡に行く。中世跡は次の機会にする。↑ 宇土城跡入口。↑ 墓地を通る。↑ 市指定文化財 宇土城跡(城山)↑ 近世宇土城跡解説。↑ 近世宇土城跡と城下町の想像図。↑ 宇土城址から墓地を見る。↑ 宇土城址は公園になっており、皆さんがゲートボールをしていた。↑ キリシタン大名の小西行長像。↑ 小西行長(こにしゆきなが)は1588年に肥後南半分の領主として宇土城主となった。宇土城築城とともに城下町を大規模に整備し、今日の宇土市街地の基礎を作った。1592年に始まる文禄・慶長の役では先鋒として朝鮮に出陣するが、開戦当初から早期の和平交渉を模索したため、軍事優先の熊本城主・加藤清正との間に深刻な対立を引き起こした。1600年の関ケ原の戦いでは石田三成率いる西軍の中心人物となり、戦いに敗れて京都で処刑された。キリシタン大名であった行長の遺体は、イエズス会宣教師に引き取られた。その死は当時のヨーロッパで大いに悼まれ、亡くなって7年後の1607年にはイタリアのジェノバで行長を主人公とする音楽劇が作られたほどであった。↑ ジュリアおたあ。豊臣秀吉による朝鮮出兵で先鋒をつとめた小西行長は、戦いで孤児となっていた朝鮮人の少女「おたあ」を宇土に連れて帰った。「おたあ」は行長の妻ジュスタに仕えてキリスト教の洗礼を受けた。洗礼名は「ジュリア」であった。関ケ原の戦いに負け、小西行長は京都で処刑されたが、ジュリアは徳川家康がいる江戸城で奥方などに仕えることになった。その後、徳川家康が駿府城(静岡県)に移ると同行し、直接家康の世話をしていた。1612年に家康がキリスト教を禁止し、ジュリアに棄教を迫るも従わなかったので、ジュリアは東京の神津島(こうづしま)に島流しとなった。その後1620年に長崎、1622年に大阪にいたことは分かっているが、その後の消息は不明。↑ 宇土城址の石垣。↑ 熊本県立宇土高校創立100周年、宇土中学創立10周年。↑ 第八代横綱の「不知火諾右エ門(しらぬいだくえもん)。宇土出身の横綱。↑ 宇土駅まで歩く。↑ 宇土駅。 次の電車が当分来ないので、富合駅まで歩くことにした。↑ 富合駅まで歩く。↑ 宇土市から熊本市に入る。↑ 陸橋が見えてきた。↑ 陸橋からフリーゲージトレインを撮影する。太陽の光が当たっている。↑ 富合駅から電車に乗り、熊本、大牟田まで行く。熊本で九州新幹線が平行して走る。↑ 田原坂。西南戦争の激戦地近くの駅。↑ 西南戦争を歌った民謡の「田原坂(豪傑節)」の歌詞。「雨は降る降る 人馬は濡れる 越すに越されぬ 田原坂」。↑ JMU:ジャパンマリンユナイテッド有明造船所。熊本県玉名郡長洲。↑ 長洲駅。金魚の「ランちゃん」。 九州金魚すくい選手権大会がある。↑ JR大牟田駅。↑ 大牟田駅前。↑ 大牟田市庁舎。
2019.10.25
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人吉に来たら、必ず人吉城の本丸跡まで見に行くことにしています。人吉城跡ですが、鎌倉時代初期に、遠江相良荘(とおとうみさがらしょう:今の静岡県中部)で鎌倉幕府の御家人だった相良長頼(さがらながより)が、源頼朝(みなもとのよりとも)の任命で人吉荘の地頭となり、人吉城を修築したとされています。その時に出土した三日月模様の石から、繊細な三日月を意味する繊月(せんげつ)城とも呼ばれています。本格的な築城は12代当主の為続(ためつぐ)の時代の1470年頃とみられます。球磨(くま)郡を統一した相良氏は、八代や薩摩方面へと領土の拡大を図り、戦国大名として発展しますが、1587年の豊臣秀吉の九州征服により、相良氏は球磨郡だけを支配することになります。1589年には20代当主長毎(ながつね)が石垣工事に着手し、1639年の21代頼寛(よりひろ)の時に、球磨川に面した石垣が完了しました。その後に櫓(やぐら)など工事をして人吉城が完成します。相良氏歴代の居城として明治4年(1871年)の廃藩置県まで使用されました。(人吉城の写真は、2019年8月3日午後撮影)↑ 史跡 人吉城。(繊月城:せんげつじょう)。↑ 大手橋から多門櫓(たもんやぐら)を見る。↑ 多門櫓の中に入る。↑ 甲冑など展示物を見た。↑ 水の手門の辺り。↑ 河合奈保子さんのファンなら、良くご存じの場所。↑ はね出し石垣。 石垣の上に、石が出ている。↑ 御下門(おしたもん)。↑ 三の丸跡。↑ 二の丸跡。二の丸には、城主の住む御殿が建てられていた。↑ 人吉城 本丸跡。↑ 本丸跡。↑ 城を下っていく。↑ 於津賀社跡(おつかしゃあと)。初代相良長頼(さがらながとも)の入国前の人吉城主であった、平家の代官の矢瀬主馬祐(やぜしゅめのすけ)を祀る霊社跡。第二代頼親(よりちか)が建立した。板葺きの神殿と拝殿の2棟があったが、現在は礎石が残っている。↑ 球磨川。
2019.10.18
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2019年4月7日、岩国城天守閣からの景色と、二の丸広場の桜を撮影しました。↑ 岩国城天守閣から見た景色。 桜と錦川。↑ 錦川。 手前が金城橋、 奥が錦帯橋。↑ 錦帯橋。↑ 二の丸広場のからくり時計。 動く時間 9:10~16:55の15分毎。曲目:10分 童謡メドレー、25分 鵜飼音頭、 40分 鵜飼音頭、 55分 美しき天然。
2019.04.28
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2019年4月7日、山口県岩国市の岩国城へ行きました。吉川公園は桜が満開でした。岩国城ロープウェーで一挙に山頂駅まで移動し、そこから徒歩5分で岩国城です。岩国城や吉香公園には毎年のように訪れています。30回以上は来ています。岩国城の初代領主は吉川広家で、毛利元就の子である元春の三男です。1600年の関ケ原の戦いでは、毛利輝元が西軍の総大将になりましたが、西軍になることに反対していた吉川広家は、黒田長政を通じて徳川家康から、毛利領の安堵を取り付けていました。ところが東軍が勝利した後、毛利領安堵の話は反故にされ、周防と長門の2国を広家に与えるとの話になりました。広家は徳川家康に対し、自分は2国はいらず、あくまでも毛利領安堵をお願いしたいと手紙を書き、最終的に毛利家が防長2国を治めることが許されます。吉川広家は岩国を治めることになり、徳川家康から城造りを許され、1608年に岩国城が完成します。ところが1615年の一国一城令で、岩国城は取り壊されました。その時の天守台跡が残っています。岩国は1868年に藩として認められましたが、1871年に廃藩置県があり、藩が無くなりました。今の岩国城は1962年にコンクリートで再建されました。吉香公園から城が見える場所に天守台も移っています。↑ 吉香公園の桜と、佐々木小次郎像。吉川英治氏の小説「宮本武蔵」に、佐々木小次郎が錦帯橋近くで、柳の枝が燕を打ったのを見て、ツバメ返しの剣法「巌流」を編み出したと書かれている。↑ 佐々木小次郎像の頭の傍に、岩国城が見える。↑ 岩国城と桜。↑ 岩国城。↑ 銀雲閣。↑ 岩国城ロープウェー。吉香公園の山麓駅と標高200mの山頂駅まで、3分で結ぶ。↑ ロープウェー。↑ ロープウェーからの景色。 銀雲閣。↑ 錦帯橋と錦川。↑ 臥竜橋(がりょうばし)。 奥はJR岩徳線。↑ ロープウェー山頂駅から岩国城まで徒歩5分。↑ 檜(ひのき)が並ぶ。↑ 檜皮(ひわだ)の採取。 檜皮は神社仏閣の檜皮葺屋根(ひわだぶきやね)の材料になる。山口市の瑠璃光寺五重塔などにも使われている。↑ 大釣井(おおつるい)。この大井戸は、1609年、岩国城と同時期に掘られた。非常時に武器弾薬の倉庫にもなる。↑ 1615年、一国一城令により取り壊された岩国城の天守台跡。↑ 旧天守台。古式穴太積み(あのうづみ)でできている。 下の部分が当時の石垣で、上部は修復したもの。↑ 1962年に建設された岩国城。 旧天守台から場所を変え、吉香公園側に造られている。↑ 岩国城の入り口。↑ 吉川家略伝。↑ 徳川家康が吉川広家に宛てた書状。漢字で読める部分を一部抜き出す。「今度 関ケ原及一乱 会戦 之会議お達し 加勢 出馬 入 働 輝元 国変 毛利 見了 他変 長門周防 国 お達 永 充行」「三河家康 慶長五年の月 血判 吉川広家方」 これがスラスラと読めたら楽しいのに。↑ 防州岩国錦帯橋図。↑ 防州岩国錦帯橋之真図。↑ 天守閣からの眺め。 桜と錦川、錦帯橋。↑ 宇野千代(うのちよ)さんの紹介。小説家、随筆家、編集者、着物デザイナー/1897~1996山口県玖珂(くが)郡(現:岩国市)出身、岩国高等女学校(現:岩国高等学校)卒業。大正10年に処女作「脂粉の顔」で懸賞短編小説一等入選、作家としてデビュー。昭和11年に女性ファッション雑誌「スタイル」創刊、その斬新なセンスをいち早く形にする。昭和32年、代表作「おはん」で野間文芸賞受賞、その後も数々の賞を受賞。昭和58年「生きていく私」を発表しベストセラーになる。平成8年、98歳で死去。勲二等瑞宝章受章。錦帯橋下流の川西地区にある生家は、数々の資料とともに一般公開されている。
2019.04.27
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2016年7月30日、博多の福岡城(別名舞鶴城)を散策しました。関ケ原の戦いの後、黒田長政が築城しました。黒田長政が自分のゆかりのある備前国福岡にちなみ、福崎というこの地名を福岡に変えました。大濠公園のハスを見たり、福岡城天守台跡から、福岡ドームや福岡タワーを見る事が出来ました。広場の一角に平和台球場の碑がありました。昔はここに平和台球場があり、パ・リーグの試合が行われていました。小学校の頃はラジオで広島カープの試合を聞いていましたが、パ・リーグの速報も入り、「平和台球場」の途中経過もありました。西鉄ライオンズ、太平洋クラブライオンズ、クラウンファイターライオンズなど、チームの名前も変わっていきました。↑ 大濠公園のハスの花。↑ 平和台野球場の碑。↑ 昔はここに、平和台球場があった。↑ 福岡城の石垣。↑ 祈念櫓。鬼門封じの祈念をするために建てられた。↑ 福岡城天守台からの景色。↑ 福岡ドーム。↑ 大濠公園のスターバックス。
2019.04.10
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2018年12月2日、妻と一緒に江戸城天守閣跡を見ました。1457年に太田道灌により城が作られましたが、その後徳川家康が入城し、徳川時代に3度天守閣が建て替わりました。1607年に徳川家康が5重の「慶長天守」を造り、2代将軍・秀忠はこれを解体後、1623年に「天和天守」を造りました。さらに3代将軍・家光が1638年に「寛永天守」を再建しています。1657年の明暦の大火で天守閣は焼失してしまいました。天守台は再建されたものの、天守閣は再建されることが無く、富士見櫓が天守閣の代わりとされました。↑ 特別史跡 江戸城跡。江戸城は1457年に太田道灌によって創築されたが、1590年に北条氏が滅亡し、徳川家康が以上をここに定めた。以来、家康、秀忠、家光の三代に渡って西の丸、北の丸の増設や外郭の整備が行われ江戸城の総構が完成した。明治維新後、江戸城は皇居となり、昭和24年(1949年)に西の丸下および現在の皇居を取り巻くお濠の地域が「国民公園皇居外苑」として一般公開され、昭和44年(1969年)からは北の丸地域が加えられた。↑ 皇居東御苑へ進む。↑ 江戸城 天守台。↑ 1657年・明暦の大火で「寛永天守」が焼失した。その後、1659年に加賀藩4代藩主の前田綱紀によって天守台が再建された。しかし、天守については、4代将軍・徳川家綱の後見役である会津藩主・保科正之が、「天守は近世の事にて、実は軍用に益なく、唯観望に備ふるのみなり。これがために人力を費やすべからず」と意見し、再建されなかった。↑ 天守台のスロープ。↑ 天守台の広場。↑ 北桔橋門が見える。↑ 江戸城天守台から見た江戸城本丸御殿跡。天守台近くから「大奥」、「中奥」、「表」と続く。「大奥」は、御台所と呼ばれた将軍の正妻、家族、女性達の生活の場。「中奥」は、将軍の日常生活、政務を行う場。「表」は、将軍の謁見など公式な儀式・行事、幕府諸役人の執務の場。「表」の右側には赤穂事件で有名な「松の廊下」があった。1701年、播磨赤穂藩主の藩主・浅野内匠頭が、松の廊下で吉良上野助を斬りつけ、浅野内匠頭は即日、第五将軍・徳川綱吉の命で切腹させられた。吉良上野助にはお咎めなく、喧嘩両成敗がなされなかったということで、筆頭家老であった大石内蔵助を含む47人が1703年に吉良邸にて討ち入りを行った。↑ 天守台で記念撮影。↑ 桃華楽堂。香淳皇后の還暦を記念して昭和41年(1966年)に建てられた。↑ 同心番所。↑ 大手門。↑ 大手門。↑ 巽櫓。
2018.12.08
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2018年11月25日午前、埼玉県行田市の忍(おし)城を見に行きました。忍城は室町時代に成田氏により築城されました。豊臣秀吉が北条氏の小田原城を攻めた時、石田三成は2万人の兵を率いて忍城を包囲し、豊臣秀吉が岡山の備中高松城で行ったように水攻めにしました。忍城主の成田氏長は小田原城に籠っており、代わりに忍城は成田長親が守り抜きました。石田三成軍2万人に対し、成田長親側は500人とされています。結局小田原城が開城されたので忍城も開城しましたが、北条氏の支城で落城しなかったのは忍城だけでした。この時の戦いについては、和田竜さんが「のぼうの城」という本に書かれ、野村萬斎さんが成田長親役をした映画も公開されました。JR行田駅で無料の自転車を借りて、水城公園を通り忍城に行きました。今度行くときは、ゆっくり街を巡ってみたいです。ちなみに行田市は池井戸潤さん原作TBSドラマ「陸王」の足袋製造会社「こはぜ屋」でも有名ですし、さきたま古墳(丸墓山古墳)は石田三成の陣があったところですが、埼玉の名前の由来になったと言われています。↑ JR行田駅。(埼玉県)↑ 上野駅から高崎線で移動。↑ JR行田駅前。 「足袋蔵のまち行田」。↑ 駅の観光案内所で、無料の自転車を借りる。↑ 途中で見つけたマンホール。忍城の絵。↑ バスのラッピング。↑ 水城公園。↑ 借りた自転車と公園。↑ 水城公園周辺案内図。↑ 忍城が見えてきた。↑ 城のそばにある忍中学校と天鼓門跡。↑ 忍(おし)城。↑ 忍城址。↑ 映画「のぼうの城」。野村萬斎さんが成田長親役をした。↑ 城窓から景色を見る。↑ 西側。富士山や秩父連山が見える。↑ 北側。赤城山、尾瀬、男体山が見える。↑ 忍城で記念写真。↑ 上越新幹線。 自転車で行田駅に戻る途中。↑ 楽しい自転車の旅。
2018.12.01
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2016年8月28日、福井城に行きました。朝倉氏が滅亡後、越前一向一揆を平定した柴田勝家が越前北ノ庄を与えられ、この地に北ノ庄城を築城しましたが、賤ヶ岳の戦いに敗れ自害し、城も焼失しました。その後1600年に徳川家康の次男である結城秀康が68万石で入り、6年の歳月をかけて築城しました。しかし、1669年に天守が焼失し、再築されませんでした。↑ 福井城。↑ 福井城の御本城橋。↑ 福井城 御廊下橋。↑ 結城秀康公像。↑ 結城秀康公。 慶長5年(1600年)、関ケ原の戦いの後、越前68万石の大名となった結城秀康公(徳川家康の次男)は、翌6年に北庄(後の福井)に入り、新しい城の建設と、柴田勝家にはじまる城下町の大改造に着手した。多くの民の力と汗に支えられ、およそ6年の歳月をかけて完成した城下は、都市としての福井の原形をかたちづくり、今日の福井市発展の礎となった。平成14年4月 (財)歴史のみえるまちづくり協会↑ 福井城天守。福井藩の初代藩主結城秀康は、慶長6年(1601)から約6年をかけて福井城(北庄城)を築城し、本丸には壮大な店主が偉容を誇っていた。残されている天守絵図によれば、外観は4層であるが、最下層の階髙を高くとって2階分の床を張っており、内部が5階になっている。絵図では高さが約28メートルあり、天守台を含めると約37メートルにもなる。今に残る天守台と控天守台には大きな礎石が並んでおり、天守台の北半分に店主が建っていたのであろう。4層5階の壮大な天守も、寛文9年(1669)4月の大火で焼失して以来、再建されることはなかった。↑ 福井城天守台。 奥は福井県庁と福井県警本部。↑ 福井城天守台。 昔はここに天守閣があった。↑ 天守台から見た控天守台。↑ 1948年6月28日に発生した福井地震(M7.1)で歪んだ控天守閣の石垣。
2018.11.06
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彦根城の天守は大津城から移築されたとされています。天守の周りにあった建物は、明治時代に取り壊されています。快晴でしたが、遠くはかすんでいました。伊吹山、築城の予定候補地であった磯山、石田三成の城があった佐和山、琵琶湖の多景島、荒神山などを見ました。聴鐘庵でお茶をいただきました。金亀という金粉が付いたお菓子が出ました。ひこどらというどら焼きを食べ、近江鉄道の鉄道むすめ「豊郷あかね」も見ました。↑ 彦根城天守。↑ 鉄砲狭間。↑ 彦根球場の先には、うっすらと白い伊吹山が見える。↑ 伊吹山。↑ 琵琶湖と磯山。 ↑ 磯山。ここも築城の候補地だったが、最終的に彦根山に決定した。↑ 琵琶湖と多景島。↑ 荒神山が見える。↑ 着見櫓跡から佐和山を見る。↑ 佐和山。石田三成の佐和山城があった。↑ 彦根駅から城へ続く通りが見える。↑ 彦根城。↑ ひこにゃんと記念撮影。↑ 聴鐘庵。↑ お茶をいただく。金亀というお菓子。↑ ひこどらを買う。↑ 近江鉄道の鉄道むすめ、豊郷あかね。
2018.01.26
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2018年1月16日に彦根城へ行きました。28年ぶりです。1600年の関ケ原の戦いの後、井伊直政が石田三成のいた佐和山城に入城しますが、彦根山に築城することになりました。普請が始まるも、井伊直政は鉄砲傷がもとで1602年に亡くなり、長男の直継が引き継ぎます。大阪冬の陣、夏の陣を挟み、1622年頃、彦根城が完成しました。井伊直政は赤い甲冑を着け、赤鬼と呼ばれていました。司馬遼太郎さんの「関ケ原 下巻 司馬遼太郎 新潮文庫」p270~273に、関ケ原の戦いの朝、深い霧の中を井伊直政が隊将の松平忠吉を連れて戦場を進み、宇喜多隊と接触したので銃撃したことが書いてあります。これをきっかけに戦いが始まりました。↑ JR彦根城。↑ 彦根の地図。↑ 風俗図(彦根屏風)国宝のコピー。井伊家に伝えられており、箱根城博物館で年1回公開。↑ 井伊直政像。↑ 彦根城は別名「金亀城」と呼ばれ、その由来が書いてある。↑ 駅前通りから彦根城を臨む。↑ 護国神社近くから天守閣が見える。↑ 彦根城天守(国宝)↑ 彦根城の図。↑ いろは松。昔は47本あり、いろは松と名付けられた。高知県から移植。↑ 中堀。 左側は武家屋敷があったところで、今は滋賀県立彦根東高校がある。↑ 正面は佐和口多門櫓。↑ 彦根城天守。↑ 佐和口多門櫓。(重要文化財)↑ 内掘の橋。↑ 廊下橋。戦時には落とす。↑ 天平櫓。左右対称なので天平櫓と名付けられた。豊臣秀吉が築城した長浜城の大手門を移築した。↑ 太鼓門櫓。↑ 彦根城天守。大津城から移築された。↑ ひこにゃん。
2018.01.25
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