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今、等々力亜紀子さんの第四歌集「紅珊瑚」を、手にしている。桃の節句の3月3日に、短歌研究社から発行された、美しい紅珊瑚色の布表紙の一冊。緑のカバーで、帯は無い。等々力さんは、バンクーバーの短歌会に、毎月、短歌の総合雑誌を10年も送り続けてくださったコスモスの先輩であり、私たちの会が、カナダにいながらにして、日本の歌壇で次々と発表される新しい作品や、歌論を鑑賞することができていたのは、一重に等々力さんのおかげである。そのほかにも、等々力さんは何かと気をつけては、私たちの会を育ててくださったので、バンクーバーの会にとっては、指導者の鈴木英夫先生(神奈川)がお父さん、創立者の高橋安子さん(福島)がお母さんなら、等々力さんは大きなお姉さんである。私が「コスモス」に入ってよかったと思うことの一つに、「ご自分には何の得にもならないのに、他の人のためにひたすら尽くすことができ、また実際に尽くしていらっしゃる先生・先輩方」が、各地に大勢いらして、短歌の勉強以上に「人としての勉強」をさせてくださることがある。そういえば、コスモスの4月号に選者の仲宗角氏も「・・・・・ 私は、短歌詩型が好きで、苦しみながら憑み寄ってきた。歌が上手になることよりも、人間としての思いを深めることと自分の言葉を大切にしてきた。以後もそうあろうと思っている。」と書かれているが、きっと、等々力さんにもそういうお考えがあるのではないだろうか。今回は、歌集をまとめることが決まってから、いろいろなご事情が重なってしまったのを心配していただけに、この一冊が立派に出来上がったことが殊にうれしく、とにかく、今日は時々表紙をなでては喜んでいた。内容については、数日後に書きたいと思っている。
March 31, 2006
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コスモス短歌会札幌支部の支部報「コスモスさっぽろ 45号」をいただいた。会員の作品15首ずつ、「宮先生の歌鑑賞」として、1首ずつ抽出しての鑑賞文、「鑑賞・批評」として、会員の作品への鑑賞文、「散文」としてエッセイ4篇とあとがきからなる一冊だが、常に「宮柊二」を念頭においての支部の勉強態度がよくわかる。「コスモスの支部だから当然といってしまえばそれまでだが、なかなかこれだけのことをやっている支部は少ない。私など、「コスモスさっぽろ」を頂戴するたびに、「ああ、もっと宮作品を読み込まなくては・・」と、いつも思うのである。みなさんの作品の中で、私がとくに好きだった作品を2首ずつ以下に抽出して、感想に変える。石川幸枝さん「雪国のいろ」より一日をあくなく降りし雪雲の夕茜して街に片寄る (結句が魅力的)札幌に一番似合ふアカシアが枝をたわめて若夏を咲く (待たれていた夏!)植村浩詞さん「マンモスの臀」より 夏帽子かぶり捩花さがしをりにはとりのごと左見右見して (比喩が面白い)打楽器のごとく木魚をたたきをりぽつくり寺に人集まりて(なんだか身につまされて) 大西武子さん「ドミノカップ」より秋明菊の種冷蔵庫に眠らせぬ桜の頃に蒔かんと思ひて(あともう少しの冬眠?)一度だつて楽な試合などありはしないジーコ監督毅然と言へり(実戦者ならではの言葉) 工藤資造さん「冬のしかかる」より生活の悲鳴のごとも聴こえくる寒夜流せる焼芋やの笛(厳しい冬の土地ならでは)雪壁のあひだの道を過ぎくれば視野ひらけたりコンビニちかし(まさに、冬がのしかかかっている印象) 久保啓子さん「蓮の花咲く」より雨、霰、霙、吹雪をくり返し抜きさしならぬ冬に入るなり (「抜きさしならぬ」が効果的) 碑おもての文字分かぬまで黒ずみし寒冷地稲作発祥の碑そういう碑があるのですか!司馬遼太郎の「菜の花の沖」を読んでいて、その時代にの北海道に興味を持ち始めています。久保田静子さん「雨の庭園」より使い古り箍のはづれし四斗樽と共に捨てたり過去のしがらみ(出来そうで出来ないこと)水無月の雨の庭園人気なく裾ぬらしつつ夫と巡りぬ(しっとりとした一首。第四句がリアル)後藤美子さん「つひの日」よりさささ、さささ、風なき闇の宙(そら)に満ち雪くだり来るひそかなる音(第一句の字あまり、句点入りの擬音がとても魅力的・効果的かつ新鮮)つひの日はいついづくなるわれに来む翅透きてすいとアキアカネゆく(下の句への飛躍が巧み)さかい廣さん「朝の笑顔」より 六十五歳の節目に検診受けてみぬ背丈の縮みを知りて驚く(え?私もそうでしょうか?65歳だし・・・)ヒヨドリの啼きゐる雪の森の道実をもつやどりぎ粉雪こぼる (小さくても鳥はたくましくて)長くなったので、続きは明日に。
March 30, 2006
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天気予報大きく外れ今日晴れて春の日差しがあたりを包む 数知れぬ桜花鞠ゆらゆらと風に揺られて少し重たげ咲き満ちて幾多重なる薄紅の花びら越しに春の青空華やぎて満開となる桜花かすかな風にもはらはらと散る 日向へと日向へと身を乗り出してチューリップ咲く競ふがごとく皆同じ日差しに向かひ咲き揃ふ黄色鮮やかラッパ水仙その筒をまつすぐ前に向けて立つフォツティッシモのラッパ水仙黒うさぎわが足元に近づきて耳をぴくりと口もぴくりと細切りの人参をやる人の居て兎はすぐに食べ始めたり犬を連れ散歩に来ている人を見て兎はさつと姿を隠すチョコチョコと走りて止まりまた走る落ち着きのない小さなリスが目が合へばピクリと動き我を見る リスにテストをされゐる我かお互いの首を目がけて突進し雄の鴨二羽何を怒れる叫びあひ脅かしあひてバタバタと激しく動き二羽が闘ふ戦ひの二羽に構はずマイペース 芝生に餌を食む他の鴨たちそれぞれが芝生に影を引きて立つ渡りの雁も池の真鴨もカナダ雁尾を振りながらクワックワッとリスや兎を追ひ立てて行く東京の善福寺池とよく似たる美しけれど平凡な池その胸を頂点とする三角形池に描きて鴨が泳げり「鳥たちに餌をやらないでください」と誰も読まない看板が立つやうやくに雨季の終わりが近づきて人も草木もほつと寛ぐ
March 29, 2006
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十五年目に共に買ひ替ふ われは三年、妻は五年の連用日記(中西正博 コスモス4月号より)15年前、夫婦で同時に買った日記。中西氏の方は3年連用だから、5冊が終ったところだけれども、奥様は5年連用をお買いになるから、3冊が終わり、今年は「共に買ひ替ふ」。3と5の公倍数である15という数の面白さもあり、また3年を選ぶ精神状態と、5年を選ぶ精神状態の微妙な違いも面白い。それぞれの期間は、自分があとどれだけ生きていられるかについての「自信」の程度が決めさせるのだろうか? そして、この次は、また15年目には仲良くご一緒に買い替えなくては・・・夫婦だからといって、何から何まで同じにするだけがよいとは限らない。普段はそれぞれの考えにしたがって、それぞれ自由に行動していても、要所要所では、一致点を楽しむ。円満の長続きのこつは、このあたりにあるのだろう。以前、友達が、「主人が退職してからは、よく一緒に絵の展覧会に行くの。でも、それぞれの好きな絵をそれぞれがじっくりみるから、会場では別々よ。何も同じ絵の前で立ち止まらなくてもいいじゃありませんか。」と言っていたのを思い出す。新婚の頃の彼女だったら、きっと会場でもご主人と手をつなぎっぱなしで、彼の好きな絵の前ではたちどまり、自分の好きな絵でも彼が興味をしめさなかったら素通りしていたのだろう。こんな感じの連帯も、「夫婦としての成熟」のひとつの型として魅力的だ。
March 28, 2006
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コスモス四月号が届いた。本当は、金曜日に届いたのだけれども、まだ、三月号を読み終わっていなかったので、今日まで開くのを「我慢」していたのである。今月の私の作品は、武田弘之先生の選で、以下の4首。めずらしく、どれにも添削が入らず、提出したままの形で掲載された。一世紀生きおほせたり初日の出」と詠みましし人つひに身罷る12月17日の日記にUPした作品を推敲して出したものだ。この方は、中学時代の担任の先生で、100歳になられたとき「一世紀生きおほせたり初日の出」墨書堂々賀状が届くということがあり、圧倒されつつうれしく思っていたものだったが。ふた晩をかけてふつくら煮ふくめる 母の好みし丹波黒豆12月31日の日記のにUPしたお料理編より提出。 煮しめから蒟蒻を選り食べてをり太りたくない息子の妻は1月1日の日記にUPした作品を推敲して提出。突然にウォーウワオーと絶叫す常は寡黙な火災報知器1月6日の日記にUPした作品を推敲して提出したもの。4月号掲載の詠草締め切りは、1月25日。ちょうど、私がこのブログを立ち上げた頃に詠んだ歌から選んで推敲を加えて投稿したものが掲載される第1回目であった。ちなみに私の望みは、一生に一首でよいから、自分で気に入ったと思える歌を詠むことである。 (そろそろ、急がなくっちゃ)
March 27, 2006
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湾沿ひの重工業群白髪をふり乱すごと煙吐きをり(近藤孝二 コスモス二月号より)近藤孝二氏は愛知県の方なので、中京工業地帯のことを描写していられると想像する。風向きの変化の激しいなかで、煙がしきりと煙突から吐き出されている様を、「白髪をふり乱すごと」との比喩で表されたので、工場自体もしゃにむに稼動している様子が伺われ、公害についていろいろ言われる地域の難しさも感じられる。「白髪」とあるので、白い煙だろうから、一時のように黒煙がもくもくとたっていた状態よりは、随分改善されているのではあろうが。たまたま最近、仕事上の必要があって、四日市市の「ばい煙に関する規制」を読んだのだが、A4で40ページ近くにわたり、かなり細かい規定が出されている。工業は必要であり、かつ、大気汚染は害を及ぼすものであり・・・なかなか解決の難しい重い事柄を、事実を述べることから考えさせる、さすが大ベテランの作品だと思った。
March 26, 2006
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アンパンマンが意外にうまく描けたので今日は孫から尊敬されぬ もうすぐ2歳になる孫のマークは、アンパンマンのリトミックのDVDがお気に入りだ。ふと思いついて、彼のクレヨンを借りて、その辺にあった紙にアンパンマンの絵を描いてみたら、案外、それらしい形になっていき、途中からわかってくれた彼は「パンパンパン!」と声をあげながら、大喜び。(「アンパンマン」とはまだ言えないのです。)赤い洋服のところだけは一緒に塗って、出来上がり~!普通の定義で言えば「うまく描けて」いるというわけではないけれども、少なくとも「ウルトラマン」の絵ではないとわかるし、本気になって尊敬のまなざしで見られると、相手がベビーでも悪い気はしない。だいたい、私がどなたさまからでも「尊敬」されたなんて、昔、彼の父親のために、ウルトラマンのアップリケのある上履袋を作った時以来じゃないかしら。というわけで、冒頭の1首になったわけだが・・・・ ここで、最近の記憶はあやしくなっても、昔の記憶はかなりしっかりし始めているワタクシ、はたと気が付いた。。小島静子さん(小島ゆかりさんのお母さん)が、以前、コスモスにこれに良く似た作品を出していらっしゃったのだ.早速、何年の何月号だったかと調べ始めたものの、たくさんの本を見直す根気を途中で失ってしまったが、とにかく「お手玉が上手にできたので孫から尊敬された」というような内容だった。この作が頭の中にあって作ったのだとすると、上記の1首はコピーとなるから、確認するまでは、私の作とは言いきれない。ざーんねん。それにしても、この「孫」さんが、角川短歌賞受賞者のなおさんか、その妹さんのどちらかだろうと思うと、月日の経つ早さと、子供の成長の早さに感無量だ。うーん・・・・。 うちの孫は、どんな青年になるのだろうか・・・・追記その後、「されぬ」という終り方に抵抗があったのでいじっているうちに、使いたかった「尊敬」という言葉が消えてしまった。残念だけれども、それならそれで、人真似の心配がなくなるから、よかったかな?アンパンマンが意外にうまく描けたので今日はバアチャン人気上昇
March 25, 2006
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夕去れば祈る形に影なして木々立てりけり冬の林に(渡辺幸一『銀座短歌』20号、2006年1月)ロンドンの金融界の第一線で活躍される渡辺さんの、どちらかと言えば動きの多い作品が多いなかでの、静かな静かな、それだけに一層心にしみる1首。「夕去れば」で、あたりが暗くなってきたときに、作者の視野の中では、冬の林にならぶ、少しうつむき加減の木が、黒い影となって、「祈る形に」立っている。(普通には使い方が難しいといわれる「なして」も、ここでは見事に収まって味を出している。)心細いような怖いような情景だが、「祈る形」と見ると木が大自然に対して恭順の姿勢を示しているようにも見えるところに、作者の心情が投影されていて、写生であると同時に、一首に深みと美しさが出ていると思った。「立てりけり」と丁寧な述べ方にも、作者の思い入れが感じられる。これは「イギリスの冬」というタイトルで発表されているいる20首の中の1首である。前半12首には生活感のある時事詠があり、13首以後が、しみじみと作者の心情を分析しているような作品になる構成で、これは15首目にあたる。渡辺さんがお住まいのロンドンと、私のすんでいるバンクーバーは、緯度がほぼ近いせいか、自然環境がよく似ているので、後半の部分は、とくに自分の目で見ているように理解できるし、また表現の勉強にもなる。また、バンクーバーには、ブリティッシュ・コロンビア州と名乗るだけあって、昔のイギリスからの移民の人たちが名づけた町の名前、道の名前にも、イギリスと同じ名前が実に多い。(ちなみに、私のすんでいるリッチモンドという町と同じ名前の町も、ちゃんとロンドン郊外にあって、ちょっと感じも似ているのです。)人種間の問題を詠まれる作品も、同じような問題に接している私たちには、他人事ではない。一連の中で、特に私の印象に残った最後の5首を以下に引用する。我にまだ野心あるかと問ふごとく真冬に紅き薔薇(しやうび)が咲きぬまだ、野心はある、もちろん。 真冬の薔薇の勁さ、美しさに真向かったときに、作者は、自分のその心に気がつくのだ。悔いのなき一生(ひとよ)ならねどイギリスの大地の霜を踏みしめて行く悔いがあっても、それはそれ。しっかりと「イギリスの大地の霜を踏みしめて行く」と、肯定・納得の一首。冬の夜に一行の詩を書きてをり母語の響きを確かめながら「母語の響きを確かめながら」に、特に納得。母語を常に聞いている日本での作歌と違い、耳にするのが母語でないことが多い場合、母語の響きを確かめながら、綴っていくのが、日本の外で歌を詠む時に忘れてはならないこと・・・デス。来し方と行く末ひとり思ふとき異邦の夜に雪降り始む肯定している人生だけれども、「ひとり」「夜」「雪」とそろうとやはり・・・凍てる夜の赤き星座を仰ぐなり我はひそかに勇気欲りつつ男性的な悩み方が感じられる一首。こういうときの作者は,勇気凛々の人を装っているのだろう。
March 24, 2006
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この一首(2006年3月号コスモスより)今月の選択範囲は、「その2集」で、入会して日の浅い方が多い。今回選んだのは、以下の一首。二回目の対面となる(カレママ)は我よぶ前にひと呼吸あり(中畑真弓)(カレママ)のわずかな緊張が「ひと呼吸」に象徴されて微笑ましい。まだ二回目ですものね。作者の方は大丈夫? 以上が、字数にあわせた正式の感想だが、さらに言えば、きっとこの(カレママ)にとって、(カレ)が、お相手を引き合わせようとしたはじめての息子さんなのではないだろうか。作者も、内心では少し緊張して対面に場に臨んだのだろうけれども、(カレママ)の方もまだぎこちない・・・(それとも、作者の方は、今の時代のことだから、あまり緊張なんかしないのかな?)(カレママ)という言葉を、短歌の中にさりげなく使っているのが、普段着の歌になっていて好ましい。ただ、もし私だったら、「我よぶ前に」のところ、字あまりになっても「我をよぶ前に」と「を」を入れたいと思った。カレママに会いに行く立場も、ムスコカノジョが会いにくる立場も、すでに両方経験した私としては、こういう短歌を読むと、両方の緊張感が懐かしく思い出される。 その昔、多分二回目くらいの対面の時に、私のカレママは、庭に咲いていた香りの高い鈴蘭を剪って、プレゼントしてくれたっけ!!カレの方は「おふくろにしては気が利いている」なんて照れていたけれども。
March 23, 2006
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ものの名や人の名ふつと消ゆるときありて吾が魂(たま)余所見をしたり (末継由紀子『銀座短歌』20号、2006年1月)物忘れする短歌ばかりを抽出するようだけれども、この一首の場合、四句・五句が気に入って、素通りできなかった。あぁ・・・ 魂が余所見をしてるのか・・・。 だから、「忘れる」というわけではなくて、「ふつと消える」のね。そして、魂が余所見を止めたときに、ものの名も人の名もすっと現れて、脳の中の定位置に帰ってくるのだ。「冬少女」というタイトルで、この号に発表されている作品には、最近のもの7首の後、昔の思い出を歌った以下の3首があって、懐かしく、また「銀座短歌」にふさわしい内容だと思った。防火用水柳の下に据ゑてある街頭写真屋撮りし一葉 あ、そんな写真、私も持ってますよ。・・・と引っ張りだしたのが、11/5と記入のあるこの一葉。最初、昭和11年5月に撮影された写真かと思ったが、「大きな箱は菊子の帽子」と書いてあるので、たぶん、これは11月5日だろう。菊子は私の姉で昭和12年1月生まれだから、これは昭和12年か13年の11月5日の銀座だと思う。 着物の裾を翻して銀座を歩いているのは、27-28歳くらいだった母。この着物は、紫の濃淡の銘仙の矢絣。後ろの方に小さく写っているのは、市電かな?「街頭写真屋さんが知らないうちにとった写真なのよ。」と話に聞いていた。この写真には防火用水の容器はないけれども、隣の柳の下にはあっても不思議はない。(今では、同じような間隔で、歩行者用灰皿が設置されていて、必ず何人かが、立ち止まって煙草を吸っているけれども)手を引かれ父と来し銀座四丁目 奥暗く近藤書店ありき次にこの一首があるところをみると、上の一首もたぶん、末継さんがまだ「幼女」でいらした頃の思い出だと思う。(ということは、この写真よりは、数年後というところか。)洋書がたくさん置いてあったので、近藤書店には私も学生時代にはよく行ったし、今でも、帰国のときに銀座に行くと、覗いてみることが多い。最近は、「奥暗く」という感じではないけれども、同じ所に長くある店が多いのも銀座を再訪する楽しみを倍加する。竹林のごともズボンの脚ばかり 銀座三越迷ひ子のわたし銀座三越で迷子になった「幼女、由紀子さん」の視線からみると、目の高さにあるのは、「ズボンの脚ばかり」。 心細さが、記憶としてずーと残っているのかもしれない。「竹林のごとも」という比喩にもうなずける。これは、具体としては子供の頃のことだけれども、心象風景としては、自分の生き方を見失ったときの人間の心細さともとれる。途方にくれるというのは、こんな感じだと思う。
March 22, 2006
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昨夜は、Michael Dylan WelchさんによるHaiku Workshop、"Haiku: It's Bigger Than You Think" が開かれるので、めったにないチャンスでもあるし、どんなものだか、行ってみたいと思っていた。しかし・・・・どうも気が乗らない。「TANKA ならまだしも、HAIKUだから、きっと私にはわからないわ。」と、謙虚(?)な気持ちが時間を追って強くなる・・・・というのも、野球のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の決勝が午後6時から実況され、それが日本とキューバーの試合になったからである。ここは、やっぱり、野球ファンの主人との平和的関係維持を優先して、家でテレビを見ることにするしかない。(入場無料でなく、すでに切符を買ってあったイベントだったら、行ったかもしれないけれども)で、正当化のために、実況的、即詠的試作を数首。6時よりの試合の準備にイチローは1時半より練習せしとふ4時間の練習すませ堂々と試合に臨むイチロー選手(私なら、試合の前にもう疲れてしまって、タイヘンだ。でも、この2首、短歌ではなくて、報道。数日中に作り直すべしっ!)たちまちに4点とられしキューバチーム大ホームランをすぐ打ち返す (松阪は、最初に打たれたのに、崩れなくてえらいと思った。でも、夫によると、ホームランンを打たれた方が、2塁あたりにいられるよりも、楽なのだそうだ。・・・そうだったのか・・・。) アメリカのテレビ実況アナウンサー「オガサワーラ」が言ひ難(にく)さうな「マツザーカ」と言ふのに慣れし解説者その変化球の説明をする(固有名詞は、言葉が違うと本当に発音しにくいので、アナウンサーや解説者に同情解説のジョン・ミラー氏は「オオサン」と王監督を呼びて親しげ(ミラー氏は王監督の選手時代のことに詳しく、一本足打法の生まれた経緯の説明までしていた)イニングの合間を使い少しずつ食器を洗ひガス台を拭く (上の空で後片付けをしたわりには、何も壊さず・・・さすが私はベテラン主婦。)6対1を6対5まで持ち込みてキューバチームも負けてはいない最終回どんどん点が入りきてテレビの音量少しく上げる (興奮のなせるわざ?・・マンションなのに、困ったものです。) そして最終回に10点にして、日本が勝ち・・・大柄の王貞治を胴上げし日本チーム満面笑顔(おっと、新聞の言葉のままだといわれるぞ。)胴上げをアメリカ野球ではせぬことを改めて今思ひ出したり「胴上げ」の英語を探せぬ解説者「thrown into the air(宙に投げられ)」と王を描写す今朝開くNYタイムズ、スポーツ面 胴上げ場面の写真がトップ胴上げはアメリカでは習慣がないためか、胴上げについての定まった英語表現はまだないようだ。たとえば、ニューヨーク・タイムズでは、Sadaharu Oh, Japan's manager, was thrown into the air by his players after their victory in the first World Baseball Classic. また、ロスアンジェルス・タイムズでは、the Japanese hoisted their venerable manager, Sadaharu Oh, into the air.さらに、カナダの全国紙グローブ・アンドメイル紙ではManager Sadaharu Oh was tossed into the air by his huddle team on the pitcher's moundと表現されている。これがこのまま消えてしまう英語になるのか、どれかに統一されていくのか、今後に興味がある。最後に、今昔の感をこめて「早実の投手で四番の王選手」私が最初に見し王さんは(その昔、高校野球の予選を、見に行ったのです。何しろ、私も王さんと同じ齢だから・・・)
March 21, 2006
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ここ三日ほど晴れたので、桜が美しくなった。毎年、桜の歌を数首は詠むことにしているのだが、先例が多いだけに、とてもとてもとても難しい。・・・・・それでも、やはり毎年残しておきたいと思うのは、日本人のDNAか? 遠近法の見本のごとく収斂す写真の中の桜並木は目路の果て桜並木の霞む箇所山影青く空に続けり煙るごと淡く霞みてほのぼのと桜並木がまつすぐ続く日本より来し苗なれどカナダでは桜が勁き花として咲く桜咲く住宅街の真昼どき車も人も犬も通らず あああ 三日ほど晴れ日続きて薄紅の桜はなびらほんわり開く日本より移りて十年まだ若き桜にやさしき淡き紅色校庭を囲ひめぐらす塀のなく桜並木が境界となる老木の枝と枝とがからまりて桜のアーチを宙に掛けたり 校庭を白き桜に囲ませて小学生はランチの時間青空に触れむばかりに白く咲く大島桜に似る花たちが桜にも路上駐車の車にも光注ぎてうらうらと春
March 20, 2006
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青森の福士りかさんは、平成12年の第47回コスモス賞受賞者。歌集に「フェザー・スノー」(平成14年)がある。その福士りかさんがHPを立ち上げられたと伺い、早速たずねて「さすが!」と思った。diaryの部分は、短文に短歌一首。いつものとおり、ことばに無駄がなく、それでいてゆとりがある。短歌の部分だけ、以下に引用する。ゆるやかにつながってゐる カウンターに座る独りと独りと独り缶詰の缶のギザギザ そのむかし危ないものはギザギザだつたそろそろと氷の轍すすみゆく この轍解けるまでの晩冬 コスモス誌上の月々の作品には、1字空けの表記はほとんど見かけられない福士さんの作品だが、HPにUPされた作品は3首とも1字空けが有効に使われていているのも興味深い。geologには、短歌もUPされているが、片歌(577)が紹介されていて、私には目新しい。いまわれは素焼きの器 深々と夜に木枯や梢いくたび枝を打ち合ふざつくりと夜の降りきて津軽晩秋これからはたびたび訪問させていただこうと、楽しみにしている。
March 19, 2006
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知る誰もなかりしあの頃あの気負い今日は誰もがカズとのみ呼ぶ(永田和宏 角川「短歌」1月号より)同じく「短歌」の2月号の巻頭エッセイに、この一首は引用され、「年末にハワイ島で開かれた国際学会に呼ばれ、河野裕子と一緒に一週間ほど滞在した。」との書き出しで、知らない人ばかりの会議に気負って出て行った頃と、知人が多くなって、発表のほかに人にあって専門分野の話をする楽しみをもつようになった心の変化が書かれていた。そのレベルはそれぞれに違っても、ある程度の年配になれば誰にでも、「なんであんなに気負っていたのだろう」と思うほどの気持ちで仕事をした時代もあり、また年月を重ねて自然に振舞えるようになった自覚のもてる時期もあるしで、感覚的にとてもよくわかる状況ではないかと思う。永田先生の場合、その間に、その世界での実績が、人々におのずから認められ、「学者、永田和宏」が確立したのに違いない。1月号の一連には他に以下のような作品もあった。デフォルトで笑っているよと言いたれば五頭連れ立ち笑いつつ来る 前の一首から「五頭」はイルカのこととわかる。「デフォルトで笑」うとは、まさにそのとおりの表現で楽しい。そういえば、デフォルトで笑っているような人間も時々いたりして・・・あ、「デフォルトでしかめつら」な人はもっと身近にいるぞっ!知らぬことが恥ではなかったあの頃はただまっすぐに質問をして その道に深く入るにつれ、そういうところが違ってくるのだ・・・熱帯の鳥はほがらか夜中二時に押しかけて窓辺に騒ぎやまずも 透き通った声で、まっくらなうちに鳴き始める熱帯の鳥。 「鳥目」には無縁らしい。日付変更線を跨げる頃ぞ今日の夜がなめらかに昨日の夜へ滑りこむ今日が昨日に変るのは、太平洋を東に向かって移動している時。もういい加減、飛行機の席にいるのがいやになった頃、日付変更線を通ります。どこにも線がひいてあるわけではないし、ガタンと超えるわけでもないけれども、厳然として存在する日付変更線。私の主観だけでいえば、この変更線のおかげで、あるときはながーい一日になり、あるときは一日がどっかに行ってしまい、ただただくたびれるのでアリマス(?)
March 18, 2006
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カナダを留守にしていた間にたまった郵便物の中に、星と森国際短歌大会事務局からの第八回大会作品募集案内があった。今年は「音」という題で、短歌とTANKAを募集している。この団体のことを、私はよく知っているわけではないのだが、数年前に総合雑誌で広告を見てから関心を持っていて、発表作品だけはネットで見るようにしているし、応募してみたこともある。この短歌大会が他のこの種の大会と大きく違う点は、入選作品が披講されることだ。日本語の短歌が披講されるのは、歌会初めのニュースなどで見聞することがあるが、TANKA が披講されるのは、珍しいのではないだろうか。昨年までは気づかなかったのだが、今回、ホームページをたずねたら、入賞作品各一首の披講をwindows media player またはReal playerで聞くことができることがわかり、早速拝聴。感動してしまった。初めて聴いたTANKAの披講は、オラトリオのような響きで、美しかった。もしも・・・本当に、もしもの話だが、私のTANKAがこんな風に披講されたら、どんな気持ちがするだろうと、想像するだけでも、けっこう楽しい。また、ここのTANKAの選者がJames Kirkup氏であるので、かなり潔癖な選がなされ、賞に「該当者なし」とされる年もあったと記憶している。 また、氏の選である以上、ここでは、英語の音節で数えて厳密に5-7-5-7-7になる詩形しか、TANKAと認められない。(日本語の31音節は英語にすると25音節くらいに相当するのではないかと解釈して、31音節よりも短い詩をTANKAとしている人が多いのに対して、どちらかといえば、今日では、少数派ではないかと思う。)ちなみに、氏がTANKA JOURNALに寄せられるTANKAも見事にその型を守って詠まれている。氏が英国で発禁となったThe Love That Dares To Speak Its Name の著者だとは信じられない気がするけれども、短歌でも時には破調が許される時代に、たまには、5-7-5-7-7の英語で、厳密にTANKAを詠んでみるのも、よい訓練になると思う。・ ・・と、偉そうにいろいろ書いてしまったから、今年は「枯れ木も山の賑わい」方式で応募してみようか・・・・な?最後に James Kirkup 氏がTANKA JOURNAL27号に寄せていられる5首を引用する。Photographs by E.Shiki: Tanka by James KirkupHeavy falls of snowwhere whiteness illuminatesall it touches --- but not the snow-plough’s cabin wherestorm lamps enshrine the driverWith a snow-mower digging deep paths through the driftsof whiteness --- blowingfountains of snowflakes higherthan the sky’s electric blueDark waters undera bridge’s cavern, radiantwith these branches offlowering cherries, that soonstart falling….floating away….Under mounting treestheir dead leaves are scattered likecast-off clothing alongpathways the storm has taken ---now abandoned battlefields.These hooded housesraising their great eyebrows oncalm wooden facadeshave a comfortable look of protective meditation.
March 17, 2006
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住宅街の屋根は闇夜にひしめいてゆっくり月に向かってのびる(小島なお 角川「短歌」1月号より)昨夜、ベランダから外を見ていたときに、この一首を思い出した。14日が満月だったらしく、昨夜も大きく丸い月が出ていた。月夜なので、屋根の上面だけは光っているのだけれども、眼下の住宅街自体は暗く、屋根は「闇夜にひしめいて」いた。「あ、この歌は、こういう情景から発したのだな」と思って改めて読み直して、さらに、「ゆっくり月に向かってのびる」に感動した。月夜の、少し不気味な雰囲気にぴったりな表現である。月の明るさに惹かれている屋根=自分。自分の世界から抜け出したい屋根=自分。そんな思いが、ややシュールな世界を作り出していると思った。作者は9階にお住まいなので、時々、こういう情景を目にされるのだろう。余談ながら、同じような、上に月があり、地上の暗いところに、住宅街の屋根がたくさんならんでいる景色が、私の目の前にも広がっていたので、写真をここにUPしようと思ったが、どれも「黒の中に白や赤の点々が見えるだけの、何が写っているのかわからない写真」になっていたので、やむなく中止。 残念!
March 16, 2006
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雨晴れて東の空にほのぼのと春の虹立つ今日の終りを内側の紫が雲と溶け合ひて虹の七色柔く穏やか森の木が虹を透かして七色に染まりて立てり少し明るく虹ひとつ消えたる後にまたひとつ少し南に寄りて立ちたり途中より空に溶け込む虹の弓彼岸に続く橋かもしれぬ レインボウは空に架かれる雨(レイン)の弓(ボウ)或は雨(レイン)のリボン(ボウ)にも似る虹の脚立つところには金の壷埋められゐると誰が言ひたる虹の脚立つやに見ゆる森近く短歌仲間の一人が住まふ虹の弧をくぐりて帰雁のひと群れが東の空に遠ざかりゆく
March 15, 2006
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針と針すれちがふとき幽(かす)かなるためらひありて時計のたましひ(水原紫苑)「奥村晃作短歌ワールド」で紹介されていた一首。時計の針と針がすれ違うときは、本当にちょっとためらいの一瞬があるように感じる。そんな瞬間は何回もあるけれども、特に真夜中の12時。真上に向かって動いて来た針が闇の中で一瞬一緒になり、またわかれていく時、そこに何かが起こりそうで・・・でも何もおきない。時計のたましいがその存在をちょとアッピールするのかな?実は私にとっての今日は、日本からカナダへの移動日であった。時差が17時間あるので、私にとって2006年3月14日は41時間あったことになる。自分で飛行機を操縦するわけでもなく、ただ座って、上げ膳据え膳をしていただいているだけなのに、なぜこんなに疲れるのかと思うほど疲れたが、それでいて、カナダ時間の夜中が、日本の昼間だったりするので、夜はなかなか眠くならない。こういう夜中は、あたりが静かであるだけに、時計の音が妙に気になる。チク、チク、チク、チク、チック、チク という感じで、すれ違った針と針。そこでちらりと顔を見せるのが異次元の世界だったりすると、SFの世界に入り込めるのだろうが・・・。
March 14, 2006
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紅椿いちりん落ちてその枝にいちりんほどの空(くう)咲(ひら)きたり(小島ゆかり『憂春』より)今の季節、東京では、紅椿がたくさん咲いている。そして、そのいちりんが落ちたとき、「その枝にいちりんほどの空咲きたり」・・・・。存在感の強い紅椿だけに、その後には、はっとするような「空(くう)」が存在し、咲(ひら)くのである。この見方、般若心経にある「色即是空、空即是色」と一脈通じるのではないだろうか? あるものはないのと同じ、ないものは実はある・・・。だが、その空の状態になれてしまうと、そこに紅椿いちりんがあったことの記憶さえ薄れてしまう。椿の美しさを歌うまでは誰でもするが、そこから「空咲きたり」と展開させられるのが、小島さんならではの感性だと思った。
March 13, 2006
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記銘力衰うる患者と今朝もまたロビイに遭いて行く手指南す (京 表楷 『ドクターズ・ハイ』より)「記銘力=近い過去(つまり新しいこと)を覚える能力」と注釈がついているが、この言葉には初めて出会った。もっとも、初めてであったのは言葉だけで、内容の方は、残念ながら日々に親しくなってきている。昨日会った「あの人」の名前が思いだせなかったり、そうかと思うと、「ず~っと昔の小学生時代、一緒に体育をサボった女の子の名前が中村一枝ちゃんだ」と突然思い出したり。広辞苑第五版では「記銘=記憶の第一段階。経験し、学習したことをおぼえこむこと。記憶材料などを覚えること。銘記」とのみかかれていて、あまり特別な意味には使われていないが、きっと、医学的には確立された言葉なのだろう。試みに検索をかけてみたら、多数の解説が得られた。(さては、知らなかった方が問題か?)だったら、一刻もはやく覚えておいて、脳の中の「遠い過去の記憶」の領域に入れておけば、広辞苑で認められるようになるころにも、ちゃんと覚えておけるというものだ。ドクターが、病院のロビイで、その患者さんに遭われて、毎朝のように、どちらに行ったらよいのか教えてあげなくてはならないような状態というのはかなり気が重そうだけれども、きっと、京先生は、まるで初めて尋ねられたように親切に教えてあげているに違いない。「指南す」などと少しふざけて。
March 12, 2006
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バンクーバーの3月歌会は、雪の日だったそうだ。私は、欠席してしまったが、バンクーバーの3月歌会詠草の作者名と得票数を、教えていただいた。一番得点の多かったのは、以下の二首で6票ずつ。★ 久々の冬の日差しの明るさに居間のカーテンいつきに開ける これには私も一票入れた。何気ないが達者な読み口だと思う。★ 戸惑ひてじつと眺むる水たまりを踏ませてやりぬ一歳の児に 歌いたいところがよくわかり、思わずにっこりしたくなるような1首。最初は水たまりを怖がっていても、じきに、わざとパチャッパチャッと踏んで歩くようになるのでしょうね。実は、私も内容的には共感していた作品だったけれども、迷った末、他の作品に票を入れてしまったのは、語順に多少の不安を覚えたからであったが、高得点になったところをみると、これでよかったのだろう。他に私の選んだ作品の★ 聞ゆるは風の音のみ太古よりこの森はかくしづもりゐるか は4票★ 目に見えぬ時の流れをまつぶさに今咲きゆく月下美人は は2票★ 糀、柚子、酒粕、味噌をよく使ふ父母の里なる高岡の食 は3票の支持を得ていた。 私が今回提出していたのは、以下の二首。「ずつと雨」とそれだけ言へばすむものを気象予報士さまざまに言ふ 1票 バンクーバーの冬は毎日雨ばかり。でも、天気予報のテレビを見ていると、予報士さんたちは、rain, shower, sprinkle, sleet, heavy rain, occasional rain, flooding rain, freezing rain, light rain, light shower, stormy rain, rain with wind, …その他、まあ、いろいろに表現する。プロとしては、毎日同じ「雨」のひとことで済ませるわけにはいかないのだろうが、晴れの日を望んでいる身としては、「どんな風に言っていただいても、雨は雨。諦めてるんだから、もう『ずーっと雨』で済ませて、さっさと別の話題に行こうよ・・。」という、本音の歌のつもりだったが、主観的に過ぎたかな? ★ 暖かき雨につられて咲き揃ふ赤紫のヒースの小花 2票 この回の締め切りは2月10日。本当ならヒースが咲くにはまだまだ早い。でも今年のバンクーバーは暖冬だったので、早めに咲きそろってしまったというだけの一首。ヒースは「嵐が丘」などにも出てくるとおり、スコットランドの荒地に自生している花だけれども、バンクーバーでは、少し大事に育ててやらないと消えてしまう。紫がかったピンクの小さな花を持つ潅木である。
March 11, 2006
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人前でゆまりするより恥ずかしい車内化粧を見せられてをり(京 表楷「ドクターズ・ハイ」より)井の頭線に乗ったら、斜め前の席で、若い女性がアイメイクに励んでいた。同行の方は、「電車の中であんなことをするのはきらい」とおっしゃって、私もそれには同意であったけれども、揺れる電車の中でアイラインを、目の縁すれすれに引いていく技術は相当なものだった。その間、「目の中にペンシルが入ったらあぶないな」とヒヤヒヤしていた私はといえば、「あまりジロジロみたら悪い」と思って目をそらすのだが、ついまた、彼女の方に目がいってしまい、思い出したのがこの一首。京さんは、40歳代の外科のドクター。いかにもドクターらしい表現だと思った。ドクターの目からみると、「人前でゆまりする」のは、手術後の人たちにとっての必然であり、恥ずかしがっていたらはじまらないことなのだろう。でも・・・やはり、私の場合、「人前でゆまり」の方がずーっと恥ずかしい・・・と思う。と同時に、車内化粧は一生することはないだろうけれども、「人前でゆまり」の方は、しないですめばありがたいくらいのことだから、「あ、ドクターの目からみたら、車内化粧より恥ずかしくない程度のことか!」と思うだけで、随分気楽になれる。
March 10, 2006
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1月25日の日記にも書いたが、バンクーバーの短歌会では、地元の週刊邦字新聞「バンクーバー新報」に、不定期的にではあるが、作品を掲載している。このところバンクーバーから離れているので、実際の掲載は確認していないけれども、掲載されるべく2月に送稿しておいた作品は、以下のとおりである。日本語で日本の方々と同じように詠んで、作品には、他の地域の読者に理解が得られる範囲内での地域性があり、切り口がユニークであって欲しい・・などと、望みを言えば限りないけれども、毎月重ねていくうちに、一歩でもそこに近づければと思う。バンクーバー短歌会会員作品きらきらと部屋の隅々照らしゐしかの陽は何処 暗く雨降る(市)熱々の湯どうふの上のかつを節息吹きかへし腰をくねらす(沙羅)真白なる雲の中飛ぶ飛行機の窓より見ゆるは翼の先端(すみえ)水中の宇宙とも見ゆ真闇に夜光虫光る星のごとくに(たまき)山りんだう濃き紫を地に這はせ固まりて咲く溶岩の上に(とみこ)騒がしき人の世のこと無縁とて青き毬栗ひつそりと落つ(友)日曜の朝(あした)に茹でる鶏卵は犬もひとりと数へて四つ(奈津)連峯の紅葉が見ゆる贅沢や 余生耀ふわが家のリビングに(虹)灼熱の一日の予感朝焼けて地球の放つ汗ばむ匂ひ(希)真夜中の月の光を掬ひとり楓紅葉がひらりと落ちる(のりこ)海水と大河の水がせめぎ合ふ河口に鷺が急降下する(ふみ)林道の楓落葉をけ散らして引き綱離れし仔犬賭けくる(みき)誰が為に燃える楓か風に散る赤き葉あびて吾は歩まむ(みちこ)燈明の小さきゆらぎも悲しみの手招きに見ゆる側よぎるとき(むつ)何処から来たのかドクダミの花ひとつ朝顔の鉢にひつそりと咲く(淀)一夜明けストンと秋が落ちて来て物みな秋の貌(かほ)となりけり(蓮仁)ふと見れば我が足下で横になる小さき命の温もり確か(茜)二十五年隔てて会ひし君の顔笑みこぼれたり銀歯を見せて(あき)大橋でハンドル越しに見下ろせば鮭獲り船か河上りゆく(粟)
March 9, 2006
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なんとなく、まだまだのような来がしていたが、バンクーバーのグループの短歌会の日が迫っていた。ずっと前に詠草集は受け取っていて、すでに6首まで絞っていたので、それを慌てて4首にして送信。今回は自由題だったので、鑑賞する側としては、一首ごとに頭を切り替えなくてはならないから、頭の中は大忙し。でも、それぞれが「詠みたくて詠んでいる』内容なので、特色が出て楽しい。私が選んだのは、以下の四首であるが、さて、歌会ではどのような互評がだされるのだろうか。★ 聞ゆるは風の音のみ太古よりこの森はかくしづもりゐるか大きい歌で、視点がこせこせしていないところが、何よりうれしい。樹齢の高い木々に囲まれて立ったとき、その静けさから「太古」の森の静けさを連想し、それを表現したのが、作者の「手柄」だと思った。★ 久々の冬の日差しの明るさに居間のカーテンいつきに開けるバンクーバーの冬には、晴れの日が少ないことを知っていると、この歌はいっそうよく理解できると思う。たまにしかない、そんな晴れ日の喜びが、下の句によく表現されていると思った。★ 目に見えぬ時の流れをまつぶさに今咲きゆく月下美人は時の流れは、普通にしていれば目に見えないのだけれども、月下美人が開くときは、人々は、今か今かと見守りながら、その時の流れをまつぶさに感じていく。とてもよい場面を捉えたと思った。「咲きゆく」は「ひらきゆく」と読ませるのだろう。ルビをつけた方が親切かもしれない。★ 糀、柚子、酒粕、味噌をよく使ふ父母の里なる高岡の食人がふるさとを離れたときに、ふるさとの風習や言葉が徐々に失われていくのが常だけれども、その中で最後に残るのは「食」だという。高岡をふるさととするご両親のもとでは、高岡風の料理や味付けが家庭料理の基盤にあり、作者にも伝えられていたのではないだろうか。そして、その食材に接したときに、ご両親を偲ぶ心もひとしおになるのがよくわかる。糀、柚子、酒粕、味噌のどれをとっても、寒い富山の冬によく似合いそうな食材である。
March 8, 2006
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しあわせを作って売っているような「ふふふ」の暖簾揺れる製麩所(高知 山下和代) 3月5日の日経歌壇で、栗木京子さんが選んでいらした楽しい作品。「麩」がひらがなでは「ふ」なのは当然なのだけれども、それがのれんに染められ、人がくぐったり、風が吹いたりするたびに揺れて、含み笑いをしているようにみえる「ふふふ」情景を思い浮かべた読者も、思わず「ふふふ」「幸せを作って売っているような」と捉えられた作者の着想がユニークだし、「春」にふさわしい。そんな風なイメージが湧くのは、やはり作者にも何か楽しいことがあったときではないだろうか。余談だが、私は「ひらがな」が大好きなので、掲出のような作品を読むと、同好の士をみつけたようでうれしい。ひらがなは、日本で生まれた、日本人の筆(?)運びによく合う字であるような気がするし、実利的にも、むずかしい漢字を知らなくても、50個程度を覚えるだけで、とにかく文章を書くことができ、用をたすことのできるすぐれた表音文字だ。その上、絵のような面白さがあり、眺めていて味があるし、何よりもその曲線が美しい。漢字が意味的に楽しいとすれば、ひらがなは視覚的に親しい。以下、私の旧作。鰻屋ののぼりの「う」の字長く伸びはためけば鰻の泳ぐがごとしこれは、私が短歌を初めて数ヶ月のころに詠んだ一首。有楽町の線路沿いの道で、風の強いある日にみつけたのぼりの「う」だった。たまたま「婦人之友」の歌壇に投稿したら、宮英子先生が「嘱目詠だが、しつかり歌っている」と批評してくださり、そのまま短歌を作るのがとても楽しくなってしまった、「きっかけの歌」である。そのほかにも、ひらがなの「ね」の字のやうに背を丸め狸が二匹鼻を寄せ合ふ腰下ろしふつと溜息つくやうな平仮名の「ふ」のやはらかな線優しくて線しなやかで単純な「り」の字のやうな女でゐたいなど。
March 7, 2006
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大阪から東京に帰る。途中、京都で下車して南禅寺を見る。南天の珠美の赤が鮮やかに雨に洗はれ塀際に立つ 葉の落ちし細かき楓の枝先の一つ一つに白露宿る降り止まぬ雨の参道しつとりと方丈に向けまつすぐ続く 生ける虎見しと思へぬ探幽の描きし襖絵 虎が息づく薄暗き部屋の襖に虎二頭 竹の蔭より歩きだしさう水を飲む上目使いの虎一頭ほ暗き部屋の奥に潜めり五年前逢ひたる時と変りなく探幽の虎ぎよろりと睨む豹に今とびかからんとする虎の「ヨーイ!」の姿勢のままの四世紀金の色醒めし襖絵深み増し内から光を発して語る撮影が禁止されたる襖絵を絵葉書セットで買ひ求め来ぬ
March 6, 2006
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親戚の結婚式に出席のため、大阪に来ている。「イナ・バウワー!」と足を開きて背をそらし女童(めわらは)三歳(みつつ)キャツキャと笑ふ久々に着る留袖の黒色(くろいろ)が気になるほどの春の明るさ祖母の締めし織りの丸帯母が締め今日また我がきちりと締める留袖の着付けを済ませデジカメを帯の間に内緒で挟むとりあえず、参列前の試作でした。以下、参列中の試作 日本語に英語を混ぜて祝福す担当牧師は豪州の人ほどよくてきつちりとした礼をする接客業に慣れたる甥が大声で「ハイッ」と言ひたる花婿に幼き頃の顔が重なる今日言ひし「はい」の重みが分かるのは10年ののち、いや20年そして夜が更けて堂島のスカイラインを闇に描き赤きライトが点滅をする
March 5, 2006
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12月22日、1月19日の日記に書いたHAIKU CONTEST の入選発表があった。入選作品は、http://www.vcbf.ca/qs/page/3583/3019/-1に出ているが、そのうちいくつかに試訳を試みた。 こうしてみると、HAIKUは完全に英語文化として確立しているのがよくわかり、楽しい。(お相撲も、いまにこうなるのかな?)最優秀賞(カナダ)に選ばれたのは、以下の句。 the long roadboughs of white blossomslight the way (Helen Baker、North Vancouver, British Columbia)続く道白き花枝に明るみて(紀子試訳)どこまでも長いみちが、桜の花の白にぼっとあかるんでいる情景。「はなあかり」という言葉がぴったり。 最優秀賞(アメリカ) cherry blossomsI fold my resumeinto a crane (Barry Goodmann、Hackensack, New Jersey)桜花履歴書を折り鶴にする (紀子試訳)仕事を探していることなど、どうでもよくなって・・・最優秀賞(国際)cherry treeeven the blind womanpicks blossoms (Rosa Clement Manaus, Brazil)桜の樹目見えぬ女(ひと)も花を摘む (紀子試訳)ブラジルの桜は、香りが高いのかもしれない。最優秀賞(ジュニア) stopped in traffic---on my windowcherry blossom (Sophia Frentz, age 13、Tauranga, New Zealand9渋滞の車の窓に桜花(紀子試訳)ニュージーランドでも、桜は美しく咲いている。13歳の少女が、桜を歌うこと自体が詩になりそう例年桜の開花が早いバンクーバーでは、今年は3月10日頃には、満開になる種類の桜もあるとの開花予想が発表され、3月20日にはHAIKUの講習会、25日には 吟行もある由。都合がついたら、出かけてみようかと思っている。あ、もちろん、私の投稿は、箸にも棒にもかからなかったようでアリマス。
March 4, 2006
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今月の選択範囲は、「月集」といわれ、先生級の方たちばかりの欄なので、なかなか抽出がむずかしい。あえて今月、私が「この一首」欄に投稿する予定の作品は、子のおらぬわれが子どもの世話をして子をもつ親が仕事へ向かう 大橋恵美問題提起の一首。良くも悪くも、こうして回っている社会状況の中で、親も保育士も納得できる線を求めながら日々を働く。字数制限での、投稿原稿には、上の青字の部分しか書けないが、この一首には、いろいろ考えさせられる。作者の大橋さんは、若い保母さん。作者と同じくらいの年齢の働くお母さんたちが、次々と大橋さんに子供を預けて仕事に向かわれるときに、預かる側としては、ふと、「あれ?」と思われたのだと思う。何気ないけれども、大きな問題を含む作品だ。自分で子供を育てることは、自然だし、後から振り返ればとても貴重で楽しい経験。これを逃すことは、親にとっても子供にとっても勿体無いことだ。この親たちは、子供に恵まれているのに、他の人に預けて「仕事」に向かう。子供がいない自分は、他の人の子供をあずかって「仕事」としている・・・。でも、両親が本気で仕事を続けようと思うと、どうしても子供を誰かに預けることになる。預けて外で働けば、自立した社会人としてのキャリアウーマン。そして預かった人も「仕事」として保育をするので、これまた自立したキャリアウーマン。一方、自分で自分の子供を育てるために、「仕事」をやめた人は、被扶養者になって、自立できない。ある程度、子供が大きくなって、また仕事に戻ったとしても、ずっと続けていた人に比べれば、社会的には何歩も遅れをとることになる。こういうとき、仕事をとるか母をとるかは、正解のない選択であろう。他に、候補にした作品は、以下の9首である。出まかせの喃語を言へばよろこびてはしやぐ母よ祖母も曾祖母も(桜井千恵子)刃を当つるりんごパキッと音に割れ七十七年目の秋が来てゐる(佐藤典子)3番は重態者の病室(へや)4番は欠けてとなりの5番へづつく(水島晴子)枝ほそく幹太やかに憩ふさま冬はけやきを美しくする(高野公彦)どうしても思ひ出せない上二句の空白に消ゆさくらはなびら(影山一男)けさ妻が「オハヨウ」と小声に言ひしこと若きナースが嬉しげに告ぐ(桑原正紀)かきつばた三十六本金泥の地にひしめきてさわがしからず(丹波真人)若き日の恋にも似たり帰り来れば逢ひたくなりてあへば苦しき(河北笑子)腕組むはいつも病むとき手術後の夫と腕組み風の道ゆく(小島静子)
March 3, 2006
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ご療養中だった安立スハルさんが、2月26日になくなられ、3月1日がご葬儀だったと伺った。安立さんは金にては幸福は齎されぬといふならばその金をここに差し出し給へ (『この梅生ずべし』昭和39年)の作者。最近あまり作品を発表されなかったようだが、以前は、ドキッとするような小気味のよい切り口の作品を発表され、私はいつも楽しみに拝見していた。鈴木竹志さんは、そこのところを現代短歌大事典(三省堂)に(作風)素材的には自己の生活範囲におおむね限られているため、一見写実的な生活詠の印象を与えかねないが、実際には知的な処理がなされていて、人生や生活に対する鋭い把握を見せる。また素材である事物や現象に対しては、知性的、直接的であり、ときには即物的でさえある。生活詠の中にに思想の要素を取り込んだことによって、歌の可能性を拡げることに成功した。と書かれている。手元にある資料の中から、私の特に好きな歌を引用して、ご冥福をお祈りする。馬鹿げたる考へがぐんぐん大きくなりキャベツなどが大きくなりゆくに似る瓶にして今朝咲きいづる白梅の一りんの花一語のごとし一皿の料理に添へて水といふもつとも親しき飲みものを置く有様(ありやう)は単純がよしきつぱりと九時に眠りて四時に目覚むるうつくしき毬藻のやうな地球といふそを見ることもなくて終らん長年のうちに短くなりし分われらは食みしやこの擂粉木を老い母につねに言葉をかくるべく仕事机ともろともに寄る老農は歩みとどめてひとの田の稔りに深き眼を据ゑつ
March 2, 2006
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角川「短歌」3月号を買った。小島ゆかりさんの大特集で、p69からp135までぎっしり。池田はるみさんのインターヴューから始まって、新作30首で結ばれた特集。文学的にも野次馬的にも読みでがある。特に、小島なおさんの「私の母は」の文章の中で、「ゆかりおかあさん」が生き生きと、限りなく元気に大活躍をしていらっしゃるのが、とても楽しい。ちなみに、ゆかりさんの歌集のタイトルの「憂春」は、お嬢さんたちが、それぞれ「思春」「青春」期なので、ご自分は何かとお考えのときに、思いつかれたそうだ。だったら、私はさしずめ「懐春」か・・・? そういえば、「芦花恒春園」もあったっけ。「恒春」もすてきだけれど、なんだか疲れそう・・・。以上、宣伝ムードで始まった3月でした。追記 その後「文芸春秋」3月9日号にも、小島さんについての記事をみつけた。見出しは、「女子大生歌人小島なおの母は短歌界一の美人」。お二人とも、花開いた感じ。
March 1, 2006
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