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書き込むほどのことでもないのだが、今朝の河北新報朝刊で誤字を見つけた。1面で「日本式介護人材 ベトナムで育成」という大見出しの記事。宮城県などの介護やクリーニングの事業者でつくる組合が技能実習生を受け入れているのだが、JICA事業に採択されてベトナム現地の関係機関を9月に訪れる。そして、ベトナム北部のハイズオン省にあるハイズオン医療技術大にスタッフを派遣して、同大の教員に、日本語や日本の習慣を踏まえた介護のノウハウや指導方法を伝えて「マスタートレーナー」として育成する、などの内容だ。そして、その大学施設での介護実習の風景の写真が載せられている。その説明(キャプション)では、「ハンズオン医療短大での介護実習」と書かれている。(なお、続けて「短大は昨年9月に医療技術大に統合された」とある。)自宅に配達された紙面を見たのだが、念のため、ネット版でみても同様。いま(夜10時台)も直ってはいない。社内でだれも気付かないものか。7年くらい前か、高校野球で古川高校が「ゴールド負け」という記事があって、そのあとオンライン記事では「コールド負け」と訂正されていたことを思い出す。
2025.06.18
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今朝の新聞記事(6月12日、河北新報)に、松戸市長に就任した松戸隆政さんの話題を取り上げて、市名と同姓の市長は、現職だと行田市の行田邦子市長(ただし読みは、こうだ)が居て、過去には久慈市の久慈義巳さん、久慈義昭さん、いわき市の岩城光英さん、保谷市(現西東京市)の保谷高範さんの4人だという。全国市長会によると、との説明だ。この記事はあくまで市が射程範囲で、都道府県や町村には触れていない。すこしネットで見てみたら、市長では過去に復帰前の石垣市に石垣用中市長がいたという(産経記事)。全国町村会の名簿では同姓はいない(同)が、過去に在職した人ならいるだろう。都道府県だと、宮城県の宮城音五郎知事だ。予想を覆して当選した「学者知事」で、博識はあっても政治経験がなく、総花予算で財政悪化を招いたとされる。宮城県には多い姓ではない。宮城知事は埼玉県出身だ。都道府県が別になる都道府県名の姓なら、山梨県の長崎知事、和歌山県の宮崎知事、佐賀県の山口知事。現職だけでも多い。日本人の姓の成り立ちが地名由来が多いから当然こうなる。宮城県でも過去には千葉知事がいた。まずありえないのは、(姓が)北海道知事だろうか。■関連する過去の記事 宮城県の民選知事列伝(07年1月30日)
2025.06.12
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宮城電気鉄道の第1期線である仙台ー西塩釜間は、大正12年8月に工事に着手し、大正14年6月5日に営業を開始した。高砂村でも、福田町停留所、高砂停車場で、部落有志が村当局とともにそれぞれ設備をなして祝意を表した。しかし、福田町、高砂の両駅をめぐっては激しい紛糾があった。この福田町停車場問題は、福田町駅と高砂駅のいずれにするかで、当時の政友会と民政党の政治問題にもなって紛糾し、結局双方に設置することとなったものである。■参考 佐藤芳男『仙石線物語』2017年(本記事はおだずま再構成。なお、佐藤さんは1937年塩竈市生まれ、日本共産党塩釜地区委員長をされた。塩釜時事新報の連載をまとめた本とのこと。)1 問題のはじまり会社は福田町停留場の位置について、大正12年6月に認可を得ている。用地買収を始めた当初、数名の地主が応じないので、土地収用法の適用も考えたが年月を要するので、むしろ予定地点を放棄して高砂駅を設置しようとした。これは宮城電鉄社長山本豊次談によると(後出大正14年2月5日河北新報)、中野に停留所を要望された際(次の段落に叙述)に種々考えた結果なのだという。中野の要望とは、大正12年12月、高砂村長遠藤音右衛門、多賀城村長鎌田猛両名の連署で、田子と八幡の中間の中野字只屋敷地点(おだずま注、現在の中野栄駅近くのようだ)に停留所設置の請願書が出された。請願の趣旨として、中野字只屋敷に隣接する部落は出花、曲田、蓬田、向田、追分、沼田、北新田の各区と多賀城村の高橋区、停留所が設置されると利便性が生まれるのは高砂村和田、蒲生町及び中野成区で、これらの部落には戸数540、人口3300余おり、県道、鉄道が通ると将来村の開発、交通運輸、子弟の教育の便が成る。請願地点の停留所は前記部落民の乗降が最も便宜の位置で、この地点を通過するだけでは、田子、福室両部落が恩恵に与るだけ。村と部民のためこの地点に停留所を設置すべき。この中野案は会社側が停車場との間が短距離なので設置しないことにしたのを知り、高砂郵便局長花淵源吉などが、中間地点の北福室に変更するよう山本社長に懇請し、安価で敷地や人夫の提供も申し出る。会社は調査の上、建設費の少額などを理由に北福室に変更申請を行うこととなった(大正13年9月20日)。これを知り福田町の有志家たちが会社側と交渉、政治家にも運動方を依頼して、部落の間の紛糾となったものである。1-2 (おだずま解説)旧村についてここで、地域を知る前提として旧村を記しておく。宮城郡(陸方2郷27村)のうち、明治22年の町村制施行の際に、岡田、蒲生、田子、中野、福室の5村が、高砂村となる。上の地図は昭和50年代のもの。まだ中野栄駅はない。2 福田部落の対応福田部落は大正13年7月頃から、従来通りの福田町停車場を請願してきたが、同年9月鉄道大臣に陳情書を提出。高砂村会議員佐藤松三郎など10名、区長10名、吉田源太郎外4500名の連記署名入り。陳情の趣旨は、こうだ。大正12年に宮電が工事にあたり、停車場を高砂村福田町字原嶋に設置するから線路敷地の買収を社長から依頼された。高砂村長が町民に訴え、佐藤松三郎、菅野源太郎を代表として、将来の村の発展のため私利をなくし安価で会社の買収に応じるよう、所有者との交渉を働きかけ、約1800坪を確保した。工事中の田畑への被害も我慢してきた。すでに認可が下りたにもかかわらず、敷地が水害にあったことがないとは疑わしいと言い立て、それを口実に福室部落に移転するという。福田町は高砂村の中枢で、役場、小学校、郵便局もあり、居住する住民も福室部落の10倍、もし福室に移転するなら多数の住民は不便を強いられるから、移転認可をせず直ちに取り消すように、と陳情している。県選出代議士藤沢幾之助外5代議士を介して嘆願書も提出している。3 福室部落の対応他方、福室部落を中心に大正13年10月、県知事上田満平あてに「請願書」及び「宮城電気鉄道停留所位置認可指令請願理由書」が提出された。この概略は、高砂村は中野、蒲生、福室、岡田、田子の旧5か村からなり、田畑1800余町歩、戸数1200、人口8000余の県下唯一の大村で、仙台塩釜の中間に位置し仙塩県道が中央を通る交通上便利なところだが、七北田川が交通上障害となり中野、岡田、田子の3か所に分かれ経費が膨張し村民負担が増大、この解決が求められている。停車場の予定変更は村民の希望と一致しており、村の最西端の荒寥たる田野に面した福田町停車場予定地はほとんどの村民は便益を受けず、中野停留所の設置を要望することになった。新旧予定地の比較がある。・新予定地区(部落) 中野五区、蒲生二区、福室一区、多賀城高橋、新田(十区)戸数 7百余人口 5千・旧予定地区(部落) 田子四区、福室一区、岡田二区(七区)戸数 4百余人口 3千6百さらに、新予定地の利点があげられる。福田橋を起点としてみれば、旧予定地周辺のうち岡田二区はむしろ新予定地の方が便利という。また、旧予定地は仙塩県道と3百間余隔たり新道が必要で、村財政窮迫から実現不可能だが、新予定地は県道に接する。新予定地は福田橋から3百50間(おだずま注、約640メートル)、北に福室の大部落が風雪を防ぎ、出水の恐れもないが、旧予定地は福田町から420間と遠く、雲洞院墓地の北裏の淋しい田畑。藤川が氾濫逆流して水中に浸る恐れ。4 宮城郡長の回答鉄道省監督局から宮城県知事あての照会(大正13年9月26日)があり、10月13日、県から宮城郡に「宮城電気鉄道停車場の位置変更に関する件ー比較調査の上回答ー」の照会が出された。これに対する宮城郡長糟谷哲郎から、県内務部長あてに10月29日付回答がある。郡長の回答書は、甲(田子)乙(福室区)を比較し、次のようにいう。(1)県道等との連絡甲は福田に接近し、福田は県道仙台蒲生と岩切及び七郷方面に通ずる町村道との十字路上にあり更に仙塩道路の分岐点にも近接。乙は、仙塩道に近接のほか、多賀城及び中野方面に通ずる町村道に接近。(2)連携部落の利便高砂村内において連携する部落は点々人家散在。福田は役場及び小学校の所在地にして戸数200、主に商業を営む蒲生は仙台及び塩釜への連絡は福田を経由しなければならない。甲より福田まで約5丁、蒲生まで約1里。乙より福田まで6丁、蒲生まで約30丁。(3)既往供水の実例甲乙とも冠水したることなし(4)利用区域の名勝と人口比較甲利用を便とする区域は、福田、田子で、乙は北福室及び向田。甲は約3700人、乙は約3300人。(5)高砂は東西約3里南北3里の地積を有し、七北田川が中央を両分する。いずれか一方に停車場を設けると他方が不便になる。ことに本村は郡内有数の米産地で、輸出上停留所をこの停車場以外に適当なる箇所にさらに必要だ。5 塩釜警察署長の報告また、治安面で塩釜警察署長警部木村三郎からの報告書「報告 電鉄停車場争奪問題に関する件」が知事あてに出されている。高砂村福田町に決定しすでに認可を受け今春起工線(ママ。おだずま注:起工せん、では)としたところ、高砂村長と多賀城村長連名の上停車場の予定地より東方25丁の同村中野字只屋敷(宿在家と称する部落)に停留場設置方を請願したので、会社側が調査の結果、停車場と短距離なので設置しないことにした。しかし、高砂郵便局長花淵源吉(憲政会派)は従来福田町に郵便庁舎を借り受け北福室の自宅から通勤していた関係上自己の便宜のため停車場の予定地と停留場を設置せんとしたところとのやや中央に位置する前記北福室に停車場の位置を変更せしめんと社長山本豊次に対し停車場を変更するなら敷地を安価に提供し人夫も寄付する条件で変更方懇請したるが如く、そして予定敷地は福田町に接近し位置適当なるも田地の土盛りその他工費多額を要するに対して、北福室は位置不適だが現畑地で地価低廉かつ土工費も少額などから、山本社長は北福室に変更すべきことを応諾するに至る。これを知りたる福田町の有志家佐藤松三郎、伊藤重左衛門、安達葛四郎等は現場維持方を会社と交渉し、かつ仙台市伊澤平左衛門に運動方を依頼するなど相対峙して紛糾した。而して、両位置の適否、地方民の意向などを視察すれば次の通り。(1)位置の適否予定地(福田町)は、戸数約200人家連軒し、同村のやや中央にして乗降上一般便宜の地なり。変更すべき地(北福室)は、会社からは土盛りその他工費は少額、かつ暗渠費(約800円)及び人夫の寄付あり利益になるが、この場所は、付近人家40軒散在に過ぎず不適当。(2)地方民の意向両部落民は各自の利便より打算し互いに自説を主張し我田引水に過ぎず、公平な観察からは福田町を適当なりと認めている。(3)政党関係変更の首謀者たる郵便局長花淵源吉は憲政会系として憲政会宮城県支部長の村松亀一郎と現場維持。福田町は佐藤松三郎など政友会系に属し、政友会支部長の伊澤平左衛門に運動方を依頼している。以上の如く、目下両部落民はその成り行きを傍観し至って平静なり。然れども位置変更されるならば福田町部落民は紛擾を起こす情勢にある。現場維持なら大きな紛擾なきものと認められる。6 当時の河北新報の報道から・大正13年8月8日「電鉄福田町停車場問題」高砂村の宮城電鉄停車場問題で村民が二派に分かれ大騒ぎしている。元来同社は村当局に対して福田町に停車場を設置する条件で土地買収方を依頼してきたので、交渉の結果地主も普通一段歩600円の土地を450円で買収に応じ、会社もこれを諒とし工事に着手した。しかし同村の福室部落の融資が停車場位置変更運動を会社に持ち出した結果、会社では実地測量の上同地なら工事費に余裕が生じると突如位置変更を申し込んできたので、福田町は大いに驚き、早速区民招集協議の結果、工事変更と条件撤回されては死活問題になると、交渉委員を選任し今後とも多少の犠牲を払い妥協してもらう目的で会社に交渉したところ、会社から工事費の関係で変更したとの答弁だったため、委員は工事費ならある程度まで捻出寄付する旨誓約書を申し出たがやはり交渉不調で引き揚げた。福田町に属する5部落300名は更に会社に考慮を促すと言っているが、これがために村会議員も二派に分かれ、町長(ママ)の態度曖昧と評判されている。・同年12月23日 高砂電鉄問題 ー協調気分に傾く・同年12月29日 停車場問題はいよいよ紛糾 ー村長助役共に辞職・同年12月30日 「3百余名大挙して事務所を包囲 ー宮城電鉄の停車場変更から憤慨した福田部落民」29日宮城郡原ノ町苦竹の宮城電鉄に向け、同郡高砂村福田部落民300余名が殺到し、事務所を包囲、きわめて不穏なりとの急報に接し、原ノ町派出所の桜井隼人部長は仙台署に急報すると同時に南の目苦竹南小泉その他駐在巡査を招集して現場に駆け付け鎮撫策を講じているが、血の雨を降らさんばかりの形勢なることから、高等主任梶原警部補は高砂相沢佐々木啓治部長(ママ)伊藤刑事などとともに現場に急行し協商に努めている模様。原因は、会社で最初福田部落に停留所を決定し有志家の奔走にて設備中如何なる事情か同社では突如福田側に無断で停留所を福室部落に決定したため、福田側が極度に憤慨し会社重役連を詰問すべく示威運動となったと推測される。「代表者3名を警察部に招致、趣旨を聴取」仙台警察署の高等主任梶原警部補の鎮撫により一時平穏に帰したが、部落民は3人の陳情者を選定し、29日午後知事官邸に面会を求めたので澤田高等課長は一同を警察部へ招致し趣旨を聴取中である。小学生の同盟休校又は同盟滞納等の不穏な計画もあるので、塩釜警察署とも連絡を取り合って善後策を講じている。「停車場問題で滞納休校 ー福田町町民はいよいよ騒ぐ」宮城郡高砂村福田町の宮城電鉄停車場問題はますます紛糾し村長辞職に至ったが、福田町民の意思は容易に動かず、あくまで目的貫徹の運動を続けており果ては福田町より高砂小学校に通学する児童の登校を阻止し税金滞納の挙に出る計画をめぐらせている。目下小学校は冬季休業中だが、明年1月6日より決行と示威運動しているものもあるとか、警察当局も万一を警戒している模様。・大正13年12月31日「福田部落民無事帰村 ーその後不穏な形勢はない」・大正14年1月16日「停車場問題と郡長の態度 ー奇怪な風説があり県も調査中」・同年1月22日「停車場問題出郡長は板ばさみ ー無根の風説が流布されるのは心外と語る」・同年1月29日「高砂停車場問題解決条件」去る26日東京呉服橋末広亭に山本社長、伊澤、内ヶ崎両代議士及び福室側から花淵源吉、福田町側より佐藤松三郎氏が代表として会見し熟議の結果、会社としては一旦福室に停車場を設置すべく鉄道省に申請し近く認可に至らんとしつつあるので変更できないが、その代わりに福田町に停留所を設置して福田町側の面目を持たせることの調停案が成立したので、今後紛争を起こさないことを誓い手打ちを済ませた。なお、会社側では認可あり次第直ちに工事に着手すべく諸般準備中で、昨日帰仙せる村松亀一郎氏も問題の解決を見たことは会社にも地方にも喜ばしいと語っていた。・同年2月1日「高砂停車場問題の条件」確実なる妥協案は下のごときもので、いまだ何れに停留所を置くかについては鉄道省の指定に任せ何れともまだ決定せざるとの由である。(1)停車場の設置場所は鉄道省の認可通りにて異議なきこと(2)停車場を設置されない方には停留所を設置すること(3)停留所を設置の方に対して、停車場設置の部落より金3千円を提供すること・同年2月5日「福田福室の工事同時に着手して同時に使用する計画 山本電鉄社長談」山本社長はこう語る。高砂村内の停車場位置について村内の紛糾を惹起したことは遺憾に堪えない。実は中野に停留所を設置してもらいたいとの要望(おだずま注、大正12年12月、中野字只屋敷地点に設置の請願書)があった際、種々考慮の結果、停車場を福室に変更すればその中央に位置するが故に村内の利便ともなり且つ会社の建設費を節約しうるので、変更設計を立てたのであった。然るに村内では、電鉄の利用に重きを置いた結果面白からぬ事象を現出すべしとて福田町に停車場を設けるべしとなし熱心に唱導された。かくして延遷し解決に手間取る有様となったところ、各方面の同情となりことに本県選出の代議士及び県会議員の斡旋を受け去る24日関係者の会合を東京で開いたのを端緒とし福田町福室間の妥協が急転直下的に進捗し、26日には停車場は福室に停留所は福田町に設け、かつ福室より停留所建設費として3千円を福田町へ提供することにて解決を告げるに至った。かくして今月2日付で認可の指令を発せられた。以上の如く各有力者の尽力を煩わしそんなない多数者に心痛せしめたことは慙愧の他はなく、今後ますます奮励して一般の期待に副うべく各方円の援助を受けたい。されば、福田町と福室の建設工事については同時に着手し同時に使用せんとの計画を進めている。・同年2月16日「宮城電鉄 高砂条件ー遂行は容易」1月下旬円満解決した高砂村停車場問題は、その条件として福室より福田町停留所の建設費中金3千円を提供する件について、一部落では負担に堪えうるか疑問ありというが、会社においてもいよいよ起工の場合には有利の採算にて福室側の負担を遂行せしむるよう取り計らうというから、一概に現金提供と見たる一部の推察は杞憂に過ぎまいとの事である。
2025.06.04
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松島の観瀾亭で茶を一服いただいたあと、建物敷地(松島博物館の北側、国道45号の上)で、碑を眺めた。(要約)青木存義先生は明治12年松島町幡谷に生まれ、明治39年東京帝国大学を卒業し、東京音楽学校教授、文部省図書編集課長、新潟高等学校長。昭和10年57歳で没す。文部省在職中に「どんぐりころころ」「菊の花」「さくら」など文部省唱歌を多数作る。「どんぐりころころ」はふるさと松島の幼い日をしのび作詞された。先生の次男故富己雄殿令室佐和子殿の染筆を得てここに勒して伝える。昭和59年4月 撰並書松島町長武山仁治昨年、松島第五小学校でも、碑を見てきたのだった。■関連する過去の記事 青木存義(松島第五小学校の碑)(2024年05月25日)
2025.06.02
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仙石線の高城町駅や人工河川高城川などで、宮城県民に馴染んでいる「高城」について、町史を開いて勉強してみた。■『松島町史(通史編Ⅰ)』平成3年3月28日、松島町史編纂委員会編集 から1 高城の歴史 ー 高城保・竹城保(のちに高城保、高木保とも)の範囲は、現在の磯崎、高城、根廻、幡谷、初原、(利府町)赤沼などにわたっていたとみられる。・保とは、国衙領の中にあって、在地領主の開発による私領的な性格の土地のこと。・陸奥国で保が成立するのは11世紀後半とされる。このころには郡の性格も、郡司が一括して支配する体制から、多くの領有者が分割支配する体制に変わる。宮城郡内では、高用名、八幡庄、南宮庄、竹城保、など。・竹城保の初見は文治2年(1186)の塩竈神社文書。保内に塩竈神社領が存在。・鎌倉時代には頼朝が奥州藤原氏を倒した戦いで功のあった御家人に、奥州の郡、庄、保、名(みょう)などの土地やその中の村の地頭職に補任する形をとった。高城保では、相馬氏一族の者が若干の村々の地頭職に任ぜられた。・相馬氏は将門の子孫を称し、下総国相馬にいた御家人。有力な御家人千葉常胤の子師常が相馬市を継いでから勢力を得て、平泉討伐に参戦。戦功で行方郡の地を与えられ、さらに高城保内にも一族が所領を有することになった。・この時代の所領は必ず分割相続されたので、高城保内の相馬氏の所領は、波多谷村(幡谷)、長田村(現在の高城を含み西に広がる)、根崎村(根廻)、鴿原村(初原)その他に広範囲にわたった。・鎌倉時代以降、相馬氏は撤退する。当時の豪族は子孫への分割相続から、基盤強化と独立維持のため、嫡子単独相続に切り替わった。これが大名領形成につながる。相馬氏は本領の行方郡に移って、遠隔地の所領は放棄したとみられる。・留守氏が、高用名(多賀国府周辺)を本領として、高城保内にも拠点を有したと推測される。岩切城合戦の直後の長田城の戦いでは、長田に留守氏の勢力が及んでいたと推測される。■関連する過去の記事(宮城郡と保について) 中世の郡、保、荘と宮城郡の特殊性(その2)(2012年5月6日) 中世の郡、保、荘と宮城郡の特殊性(その1)(2012年5月6日)2 江戸時代の高城・高城本郷は、江戸時代の重要な宿場町。金華山道、気仙道、石巻街道が通る。・高城宿は、繫栄した。・高城町(おだずま注:高城の町場ぐらいの意味か)は、高城川に沿い、北から本町、新田、河原町の町並みが三折している。磯崎にそそぐ田中川の流水を利用して、西柳から本町、新町に及び、現在(注、大震災前)の役場付近で東に曲がり、農協の前を過ぎて磯崎土堤に添って、大部分は磯崎お蔵の前で海に流れ込んだ。・高札場は、本町の明神橋に通じる広場(現在の鈴国商店付近)にあったと伝えられる。(おだずま注:高城字町75番地に鈴国商店があるので、ここだろう。まさに街道の辻だ。)3 明治以降の経緯・明治5年、大小区制。現在の松島町の地域は、第三大区。小16区に3村(桜渡戸、松島、初原)と赤沼、小17区に4村(高城、根廻、磯崎、幡谷)、小18区に3村(小泉(その後北小泉と改称)、幡谷、手樽)。・明治11年、郡区町村編制法。大小区制を廃止し、郡区制。郡と町村の名称を元に戻した。・明治21年市制町村制、22年新市町村が誕生。・高城郷の各村は、赤沼、浦戸を除くと、10か村が合併して松島村となる。松島、桜渡戸、高城本郷、磯崎、幡谷、北小泉、手樽、初原、根廻、竹谷。その後そのまま町制に至る。4 町史の記載からうかがえる「地区」の認識について(議員選挙結果)・議員の選挙結果。明治22年の第一回。高城地区から3,松島地区から3,手樽と竹谷から各2名、本郷、磯崎、根廻、北小泉、初原、桜渡戸、幡谷から各1名、と記載されている。・〔おだずま註〕ここでは、本郷と高城が別地区になっている。そして、議員数からすれば、本郷が高城より規模が小さいのだろう。・高城地区と本郷地区の数が、合わせて5名だが、その後、高城地区5で本郷地区ゼロの年もあった。5 本郷区域分割問題・明治31年の村会で、高城区の住民から、高城と本郷を分割することの願いが村会に提出され却下されている。(町史p499)・以下は、資料編Ⅱp1262 から・区域分割願(赤間作右衛門外33名)、明治31年4月3日。〔おだずま意訳〕従来高城と本郷は一区としているが、高城と本郷は人情風俗習慣等を異にし、土地の状況甚だしく相違ある。一同不便が少なからず、この際、区域と共有財産の分割をされたい。・4月5日、高城本郷区長石田長三郎今野昌治外103名から分割の義に関して願い(下記)が出たが、斎藤源兵衛の説に全会一致で決する。・その願いとは、高城区有財産の分割に関するもので、本郷区の建議は、区有財産分割の理由に人情風俗の相違を挙げるが、分離せざるを得ない理由といえるか。また、この建議を議題として可否を決するとすれば、一区一村の安寧秩序を紊乱する恐れあり。この議案はもとより共有財産の分離をいうのだから、両区協議委員の相互協議熟談の結果をもって村会に提出しなければならず、本郷区のみの提出の建議を採用し、高城区の意見を詮議しないのは公平を欠く嫌いがある。数百歩譲って分割するとなると境界をどうするか、両区の人戸の多寡によるなら本区の戸数がほとんどで、本郷区の得るところ僅々となるはずで、かえって、毛を吹いて疵を求むるの類にして、本郷区の不利益は推して知るのみ。本区は一区一村の円滑を希望し、自治制度の精神からも区別分区は不利不当と信じる。(ここまで)・これに対して、4月5日、村会議員の建議あり。本郷区画分割願の件に付き建議。村治上区画を設けるのは事務施行上の便宜であって、これを名として区域を分割して特立の形を造っては弊害が及び、自治体の精神に反し、一村法人の利益を全うすることができない。今般提出された本郷区域分割の件は、実に重大であるため、たんに机上の議論にて、軽忽な決議は紛擾をきたすことから、関係区民の意向と分割区域の土地の審査をし、結果報告を待って決議すべし。・全会一致で決する。・その後、4月16日第2回村会で議長預かり、結論は延期。・5月7日、第3回村会で、却下に決定。6 高城区財産・なお、その前の明治30年、高城区有基本財産規約書が定められている。→資料編Ⅱp1264・森林は実業に衛生に経済に重要だが、本区は従来森林に乏しく、今回区有財産取り締まりのため13名の協議委員を選任した。さらに、規約書を設けて将来に本区の基本を強固にしようと、村会の協賛をいただきたい。7 部落会及び其の連合会設置規程(昭和18年第12回町会)・大字区 高城・これに対応して連合会が2つ。(他の大字はすべて1対1になっているが。)・1つは、高城町部落連合会。その下の「部落会」は11ある。・「部落会」は、高城第一、同第二、同第三、同第四、同第五、同中部、同第六、同第七、同第八、同第九、同西柳。・なお、さらにその下に「区域」があり、ほとんどは部落会と同一。高城西柳部落会だけが、高城西柳、迎山、水溜地域の3つの「区域」がある。・他の1つは、本郷部落連合会。その下の「部落会」は、3つ。・三居山部落会(→「区域」は、反町、三居山、新橋右岸地域)・愛宕部落会(→「区域」は、動伝、愛宕橋両側地域、の2つ)・城内部落会(→「区域」は小森、明神、居網、石田沢、帰命院、の5つ)8 町史の記載からうかがえる「区域」の認識について(歴代区長の記載)・資料編Ⅱp1408に、歴代区長がある。明治期から昭和19年まで。高城区長はあるが、高城本郷や本郷はない。・しかし、歴代議員(村、町)のリストには、「行政区」の欄があり、本郷、高城、が並立している。昭和になっても同じ。9 町史の記載からうかがえる「区域」の認識について(明治30年の商人について)・明治30年の商人について、p552に記載がある。・「物品販売に従事する209軒のうち42.8%の89軒が高城町にあり、15.9%は町内にある。すなわち、全体の57.8%、半数以上が、この両域に集中している。宿駅としての機能及び海岸地域の来訪者など、江戸時代以来の人々の動きを中心に...」・「商人の集中している町内及び高城町においては...」・この表現には、少し驚いた。地元では現在(この町史は平成3年)、こういうのか。よくみると、次のp553の表では「町内」「高城字町」とある。現在の松島町内の二つの商業の中心地ということだろう。・ここにいう「町内」とは高城ではなく松島海岸の商業集積エリアで、住所にちゃんと「松島町松島字町内」がある。・また、ここにいう「高城町」は、統計表で「高城字町」を(代表地点として)拾い上げているように、住所でいう「高城字町」のこと、または(一般には)それを中心に旧宿場の栄えたエリアをさすのだろう。住所でいうと「高城字町」、「高城字町東一、同東二」があり、高城川から高城町駅まの一帯を、「高城町」と呼ぶのだと思われる。・文中には「範囲を広げて松島・高城両地区となると、全体の何パーセント」との表現もある。・p556の表では、地域名の表示が、町内、高城字町、竹谷、松島、高城、初原、手樽、....と30くらい表示されている。10 行政区・明治22年一村となる。規則上は明治29年の区長及びその代理者任期規定がある。・高城区は、明治31年4月、人情風俗習慣等を異にし、土地の状況甚だしき相違があるため、分割する請願が出て否決。昭和19年に、行政区に代わって部落会が誕生して、本郷区が分割した。・昭和3年、行政区ニ関スル規程が制定され、松島、手樽、北小泉、竹谷、幡谷の5区が、1区と2区に二分割。高城区は1区から3区までの3分割に。合計17区となる。高城区は、新町、河原町を一区、本町を二区、本郷を三区、とした。・この行政区も昭和16年、戦時体制下で、あらたに町常会、部落会となる。・現在の行政区。12の行政区が設けられている。行政区は地方自治法発足と同時に誕生したものであるが、昭和53年、松島町行政連絡員設置規則が定められた。・p862 行政区の表(大字名)高城(区分)これが行政区だろうか。高城区と本郷区の2つ。他の大字では、竹谷が(区分で)上竹谷と下竹谷の2つになる。・高城区 →地区名 =西柳第一、同第二、高城第一、同第二、同第三、同新第三、同第四、同第五、同中、同第六、同新第六、割波、光陽台、高城第七、同第八、同第九、同第十・本郷区 →地区名=帰命院下、居網、小森、反町、三居山、愛宕、新橋(おだずま注:高城川を境界とするようだ。)以上から、おおむねこのように整理されるだろうか。・古来、高城は一帯の「保」を示す地域名・街道が整備された江戸時代には、その中心部が高城本郷として栄えた・明治以前の藩政村としては、高城(本郷)、根廻、磯崎、幡谷など・明治の町村制で、高城(本郷)を含む高城地域の大半は、松島村と合併し松島村(のち町)となる・近代の商業化や交通問題、また地区財産問題などもあり、旧高城村(高城本郷)は、町場の高城地区(高城町とも)と、高城川右岸の地区とに、区分される認識が表面化した・その際、右岸地区は、(高城本郷のうち町場ではないエリアというぐらいの意味で)本郷の名を称したもの正しくないかもしれない。高城に住んでいる人に、聞けば済むことなのだが。ちなみに、仙石線の「高城町駅」について。私は、かつて、県内最初の電車である「松島電車」の「高城駅」と区別するために、後から設置された宮城電鉄(現仙石線)の駅に「高城町駅」と命名したのだろうと思っていた。松島電車は1922年(大正11)開業で、1938年(昭和13)休止(宮城電気鉄道に譲渡され1944年正式に廃止)。省線(山線)の松島駅(初原)から松島海岸の五大堂付近に至る3.7kmの軌道で、駅は次の通り。・松島駅前・愛宕橋・高城・新富山・五大堂前松島海岸仙石線は、1925年(大正14)6月、仙台ー西塩釜間が開通、1926年(大正15)4月には本塩釜駅まで開通。第二期(塩釜松島間)は1927年(昭和2)4月に松島公園駅までが開業。第三期(松島石巻間)は、1928年(昭和3)11月である。すると、高城の地域にとっては、すでに1922年に軌道線の松島電車の高城駅が、高城川右岸の現在の国道45号上に存在していた時期に、新たに宮電が高城の中心部を通る形で開業したため、高城町の名を駅名としたのではないだろうか。たしかに、それで間違いではないと思うが、その時はじめて「高城町」という造語を区別のために鋳造したというのではなく(例えば大崎市の「松山町」駅は四国の松山駅と区別のため←確認していないが)、もともと地元に「高城町」という呼び方が受け入れられていたのだろう。■関連する記事(品井沼、元禄潜穴などとその周辺) 旧山線の根廻トンネル(松島町)(2025年03月11日) 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2025.06.01
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