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阿部昭吾『続 深谷の先人たち』2008年 から■関連する過去の記事 深谷地方の先人を称える碑(2025年03月19日) 岩崎恂美(深谷の先人 1)(2025年03月21日) 大原槐軒(深谷の先人 3)(2025年04月03日)遠藤温は、深谷屈指の豪農で名望家であり、戊辰戦争に際しては軍監増田繁幸の顧問格として従軍し、戦後は新しい宮城県の行政基盤確立に努め、政治家、弁護士として終始前向きに行動した人物である。遠藤温は、字を伯理、号を深谷、通称久三郎。文政6年(1823)桃生郡深谷北村小崎屋敷に生まれる。生家は代々醸造業を兼ねる豪農で、祖父佐覚は深谷大肝入を勤仕。父賀依は27歳で早世、母相沢氏は去って再婚。隣地に分家幾五郎家、北村金堂の斎藤氏、須江村の亀山氏、大窪村の矢本氏など近郷近在の豪農に親戚が多い。祖父の佐覚は、天保飢饉に家産を傾けて賑恤した。遠藤佐覚の天保賑恤については、石巻奥野屋久作の記す『天保耗歳鑑』に、斎藤善治右衛門と並んで記載がある。その後を継いだだけに、家計苦しく再建に苦労したが、天稟理財の才があり数年ならず旧に復したのでみな温の才幹に驚いたという。幼少から読書を好んだが、医を志して涌谷の蘭医角川作庵に指示し、次いで、弘化2年(1845)23歳で、蘭医で儒者の涌谷家中坂元道逸の塾(拙存堂)に入門。おそらく道逸を通じて首藤杏村、十文字栗軒らを知り、涌谷出身の碩学斎藤竹堂に学ぶ機会を得る。こうした師友の影響で、温は医を捨てて経史経世の額に専念することになる。嘉永2年(1849)27歳で藩校養賢堂に入学。学頭は大槻平泉。修学怠りなく疑義を諸儒に質して研鑽に努めた。矢本村酒造家桜井庭五郎の次女茂与と結婚し(年月不明)、嘉永5年30歳で、長女徳子(今五郎の妻)が出生。嘉永6年には醸法研究のため江戸を遊歴して大槻俊斎(赤井出身の蘭医)に投宿中、養賢堂の盟友だった岡啓輔(千仭)に勧められて府学昌平校に入学。安政元年には岡と横浜で初めて米艦を見る。昌平校の寮内でも書生間で開国鎖国の論が激しくなったが、温は家郷の事情で帰郷する。32歳。安政3年、岡を伴い石巻に粟野一平(元仙台藩士だが官を辞し石巻で船問屋を営み文人墨客と論戦した人物)を訪ねる。安政5年次女直子(遠藤良吉妻)出生。安政6年藩に養賢堂資金として400両を献金し士籍(いわゆる献金番外士)を得る。このころから勤王論者として活発な政治活動を始める。若いころ蘭医を志したことから海外に目を向けていたので、攘夷論には否定的だったが、王政復古の大義から尊攘派に与していた。同志には、三好監物、石沢俊平、岡啓輔、山内耕烟(本吉郡入谷の豪農で南画家として全国を遊歴修行した人物)ら。万延元年(1860)、38歳。岡啓輔を仙台に訪ね、同道して大年寺で僧(弗云、良完)と時勢を論じ、安政の大獄を論難する。偶然にもその夜岡邸で井伊大老の変を知る。元治元年(1864)42歳には、岡啓輔を伴い大槻磐渓宅で磐渓(開国佐幕論)と激論。明治元年正月、46歳。岡、茂貫大橘とともに、執政坂英力を訪ね、討会論を主張して激論。2月には、同志石沢俊平、岡啓輔と連署で、藩主伊達慶邦に討会建白書を提出。3月には、参政三好監物の命で、岡とともに奥羽鎮撫使一行(大山、世良両参謀)を松島に迎える。4月、討会軍に従軍、増田繁幸の幄謀に参与。閏4月、藩論一変し討会をやめ会津の謝罪嘆願を周旋することに決定。温は、参政坂本大炊と官軍参謀世良修蔵を訪ねるが、瀬上主膳(鹿又梅ノ木邑主)らの世良殺戮で水泡に帰し、憤然と帰郷する。以後、岡啓輔、山内耕烟らと謀り三好監物を擁してクーデターを期したが事前に露見。三好は自刃、岡は投獄、温は湖上や山中に潜み捕吏をのがれる。明治元年9月、仙台藩降伏。ふたたび増田繁幸らに招かれ、帰順係応接方として復職出仕。46歳。氏家厚時、増田らの降伏謝罪の内議に与ったり、遠藤充信に属して政府軍との交渉にあたる。10月、新政府の召喚で上京する藩主父子に従い、世子宗敦の侍読となる。明治2年2月、世子の帰仙で、温は請うて昌平校に再入学し、舎長、大学中助教に抜擢される。47歳。明治3年5月仙台藩の参事氏家厚時らに請われ、仙台藩少参事に就任。長女徳子に迎えて嗣としていた今五郎(松山茂庭氏家中大友盛)に家産を任せ自身は仙台南光院丁に別宅を設け移る。明治4年仙台県権参事となる。50歳。在任中は地租改正に尽力し、その成功の速さは府県中第一だったとされる。明治6年、学制が発布されると、温は参事塩谷良翰とその実施計画を策定。地租改正同様に県下の事情をよく踏まえたため、文部省の基準を下回ったに関わらず高く評価され、以後全国のモデルプランになったという。明治7年、嫡孫久三郎出生。明治9年、官を辞し状師(弁護士)となる。宮城県で最初の弁護士とも伝えられる。また、自宅で醸醤業を始め大いに繁盛する。かたわらで後輩の育成に努め、門下に木村敏、遠藤良吉、佐藤運宜、矢本平之助など。明治12年(1879)府県会がはじめて開かれると、温は仙台区から選出されて県会議員、同副議長になる。57歳。議長は増田繁幸。明治17年には、県会第5代議長。明治23年、第一回総選挙に宮城第5区(桃生、牡鹿、本吉)から当選、代議士となる。温は平生藩閥政治を非難し、立憲政治の本義を主張していたので経綸大いに期待されたが、翌24年病に倒れ辞職。以後在褥6年、明治29年(1896)6月4日逝去。74歳。碑は松島町瑞巌寺境内。維新で勤王派として大義を標榜した温の盟友で、漢学者でもある岡千仭の撰文である。書き手は当代きっての書家鳴鶴日下部東作である。
2025.03.28
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阿部昭吾著『続 深谷の先人たち』2008年 から■関連する過去の記事 深谷地方の先人を称える碑(2025年03月19日) 遠藤温(深谷の先人 2)(2025年03月28日) 大原槐軒(深谷の先人 3)(2025年04月03日)岩崎恂美(碑の所在 石巻市広渕 広渕寺境内。文久2年、旭山遠藤温撰)登米郡桜岡村前田家の長子だったが、弟に生家を継がせて仙台藩医岩崎某の養子となる。郷里に帰って開業するが、広渕の山内玄安が死亡し寡婦を妻とすると、治療を請うものが多くこれに応じた。常に貧乏人を心配し、貯えが無くなることもしばしばであった。天保7年飢饉で疫病が流行すると、藩命で医術を尽くし多くを回復させた。また、家塾を設け児童に教授し、全村で教え子でないものが少ないほどだった。享年73歳。妻は寿村氏(2女生んで没す)、次いで梶原氏(玄安の寡婦)、菅井氏、いずれも先に没し、戸佐氏(2女)。玄安の娘富尾に桃生郡人伊藤道碩を養子として玄安を襲名させるが、富尾が没したためその一女を養う。
2025.03.21
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深谷地方(現在の東松島市と石巻市にまたがる)にある先人の碑について読んだ。著者も語っておられるように、郷土史を学ぶ大変貴重な資料だ。今回は、顕彰されている先人と碑の所在地などを抜き書きした。碑に刻まれた偉業の概要などは日を改めて。■阿部昭吾『続 深谷の先人たち』2008年なお、ここで「深谷」について記しておこう。石巻市民として桃生郡牡鹿郡をエリアに仕事をしていた私にはイメージは沸くが、上掲書にもあるように、昨今「深谷」の地名は忘れられようとしており、唯一残った「深谷病院」の名称も消えた。鎌倉時代に小野城主長江氏が所領し、東松島市と旧河南町の全域をさす(上掲書序文から)。藩政期の桃生郡は幕末時点で65村あり、南部の深谷(1郷23村2浜)は、小野本郷と広渕代官所を擁していた。明治5年大区小区制により、深谷は宮城県第10大区となる(17の小区)。何度か大区の統合を経て、明治11年郡区町村制により、桃生郡が設置される(郡役所は広渕村、明治21年相野谷村に移す)。明治22年町村制により郡内に15村が発足する。このとき「深谷村」が誕生(←広渕村、北村、須江村、塩入村、大窪村、赤井村)。深谷エリアではほかに前谷地村、鹿又村、鷹来村、小野村、野蒜村、宮戸村。なお明治29年に深谷村は廃止され、旧各村が分立(ただし、旧塩入村と旧大窪村は大塩村となる)。■岩崎恂美(医師、教育者)所在 石巻市広渕 広渕寺境内文久2年、旭山遠藤温撰■記事 岩崎恂美(深谷の先人 1)(2025年03月21日)■遠藤温(宮城県参事、代議士、弁護士)所在 松島町瑞巌寺境内明治33年4月、岡千仭撰文、日下部東作書■記事 遠藤温(深谷の先人 2)(2025年03月28日)■大原槐軒(教育者)所在 東松島市赤井小学校校地内明治30年5月21日、岡千仭撰文、入木道正伝上田司書■記事 大原槐軒(深谷の先人 3)(2025年04月03日)■佐藤知足(教育者)所在 東松島市矢本 佐藤喜多子氏邸内明治28年4月、木村敏撰文■小池裕齋(教育者)所在 東松島市大塩 清泰寺境内大正6年4月、宮崎公男撰文、伊達万寿書■小池裕齋の妻澄(墓碑銘)所在 東松島市大塩 清泰寺境内明治43年10月、祭主小池迂叟■桜井けさ(助産婦)所在 東松島市西福田肘曲新墓地昭和3年4月、尾形米夫撰文■佐藤永儀(教育者)所在 東松島市上下堤創作活動センター構内明治27年8月、小西皆雲撰書■東齊塩場碑(東名塩田の経緯と開発者名和良元直の功績)所在 東松島市東名如月庵享和壬戊戌、志村士轍撰文■尾形大進(教育者)所在 東松島市宮戸小学校構内昭和15年、瀧熊之助撰文、池田青巌書
2025.03.19
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昨年は初めて通過したものの(2024年6月、下記記事リスト参照)、トンネルの写真を撮っていなかった。二度目となる今回は画像を収めた。旧東北本線(山線)の根廻トンネルだ。最初のは(下の画像)、愛宕側から品井沼方面に進み(北進)、トンネルの手前。近づいてみる。古いことがよくわかる。外は早春のやわらかな天気だが、隧道の奥からは何やら異質の硬い空気が向かってきた。トンネルを通過してから、振り向く(南側を向く)。工法のことはわからないが、当時の技術を駆使してしっかりと造ったから、いまも現役なのだろう。この道路は割と頻繁に車も通っている。熊が出るらしい。愛宕方から北進してトンネルを抜けてさらに(品井沼方に)進むと、町道は現在の東北本線より高い位置でピタリと東を並走する。やがて、大管踏切で平面交差して町道は本線の西側に出る。(昨年の記事では「大菅」踏切と書いたのだが、今回現地では「大管」踏切と表示があった。)■関連する記事(品井沼、元禄潜穴などとその周辺) 品井沼開拓資料館、元禄潜穴入口、品井沼駅(2024年06月12日) 元禄潜穴第6ずり出し穴(松島町根廻)(2024年06月11日) 明治潜穴公園(松島町幡谷)(2024年06月10日) ふれあい広場(明治潜穴出口、松島町根廻)(2024年06月09日) 元禄潜穴の穴尻、一分間停車の碑(松島町根廻)(2024年06月05日) 東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その12)愛宕駅、高城川架橋(2024年06月03日) 青木存義(松島第五小学校の碑)(2024年05月25日)■「利府線(山線)の跡を訪ねて」シリーズの一覧・利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その10)松島町桜渡戸、初原(2024年06月01日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その11)松島町初原、旧松島駅(2024年06月02日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その12)愛宕駅、高城川架橋(2024年06月03日)■関連する過去の記事(東北本線のルートについて。なお記事リスト鉄道敷設史をご覧ください) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2025.03.11
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■岩本由輝『東北開発人物史』刀水書房、1998年 から(適宜、当ジャーナルで要約・再構成しています。なお、当時の政治経済情勢が大変参考になるため、また岩本氏の人物描写に引き込まれ、ついつい詳しく引用しています。)1 経歴 - 誕生から卒業まで内ヶ崎贇五郎(うんごろう)は明治28年、富谷村の12代続いた造り酒屋内ヶ崎酒造店の五男に生まれる。父内ヶ崎儀左衛門、母サダ。なお、長男豊一郎、次男隆次郎(五代目藤﨑三郎助)である。贇五郎3歳の時に父が38歳で逝去、祖母の晩酌の相伴をするなど可愛がられ、後年に自身は3歳から飲み始めたと語る。贇五郎は小学校の校庭で遊んでいるうち教室に入り込むなど学校が好きで、母サダは校長に頼み込んで、明治33年に学齢期より2年早く村立尋常高等小学校尋常科に通学した。良い成績で進級し、明治37年3月尋常科を卒業する。高等科進学に際しサダは贇五郎を仙台で勉学させることを考える。儀左衛門の死後、サダは長男豊一郎の後見人として家業を切り盛りしてきたが、豊一郎が19歳となり、母が贇五郎と弟の豊治を連れて仙台に出ることに賛成した。すでに、次男隆次郎は親戚の藤﨑家養子となり、長女たけは仙台市の田丸祐一郎に嫁いでいた。贇五郎は母たちと仙台市覚性院丁に住み、37年4月仙台市立立町尋常高等小学校高等科に入学した。成績は良く、普通ならば高等科2年を卒えて中学校受験だが、学齢に達していない贇五郎はさらに2年間高等科に通い、明治41年3月卒業し、無試験により(高等科卒業成績が2番だったため)4月に宮城県立仙台第一中学校(現仙台第一高校)に入学した。大正2年2月、やはり2番の成績で仙台一中を卒業する。このあと、大正2年9月に(当時の高校と大学は9月新学期、7月卒業)、第二高等学校第二部工科に入学し、大正5年7月二高を卒業する。高校入学のころ既に電気をやろうと決め、中学校以来のボートも続けた。大正5年9月、贇五郎は上京して東京帝国大学工科大学電気工学科に入学。主任教授は鳳秀太郎(与謝野晶子の実兄)で、親戚の藤﨑家が四谷区塩野一丁目29番地に立てた金剛寮(宮城県出身学生の宿舎)に住んだ。大正8年7月、工学部電気工学科(大正8年2月の学制変更で学部制)を卒業して、大学推薦で大阪電燈株式会社に就職した。2 大阪電燈から大同電力へ大阪電燈株式会社は明治22年設立で、創業時の施設は老朽化し、また発電所の増設も課題だった。贇五郎が入社したのは、わが国最初の火力の大規模発電所として春日出第一発電所(2万kW)を完成させた頃で、技術者は張り切っていた。しかし、建設費負担で株式が無配に転落するなど社内には動揺があった。もっとも、贇五郎には、芦屋の船場の御寮はんの隠居屋に下宿して、ご隠居さんから小唄や歌沢を教わり、晩酌が二本付くという余禄があり、その後の贇五郎の処世に役立った。半年目の大正9年1月には新設の日本水力株式会社に出向を命じられ、丸の内の三菱仲15号館に勤務となる。日本水力は、大正8年に大阪電燈、京都電燈株式会社、北陸電化株式会社の三社が出資し、水力電気を大阪電燈と京都電燈に売電する目的で設立された大会社である(大正9年1月北陸電化を合併して資本金5千万円)。大正9年4月の第一次大戦反動恐慌で日本水力は金融の道を断たれ、贇五郎らは発注の解除に奔走する。そこで、日本水力は、木曽川開発で大阪に給電しようとしていた福沢桃介の大阪送電株式会社及び木曽電気興業株式会社と合併することになり、大正10年1月に大同電力株式会社(社長福沢)が設立される。贇五郎も大同電力に出向となり、名古屋の旅館にしばらく下宿する。大同電力はまず木曽川に読書(よみかき)発電所(40,700kW)を建設することになり、贇五郎が担当となり長野県西筑摩郡読書村三留野(みどの)に赴任。建設現場の宿舎で若い者と酒を飲んで気焔をあげた。ときに、福沢桃介(諭吉の長女房子の夫)は日本最初の女優川上貞奴を愛人として三留野に連れてきたが、こうした私行に反感を抱く贇五郎が口にするなど脱線話が伝わる。大正12年12月に工事は完了し、逓信省の試験には贇五郎みずからハンドルを握って試運転をした。完了後は読書発電所主任としてしばらく三留野に滞在する。大正13年3月、贇五郎は大阪府北河内郡門間村(現門真市)の大川橋変電所主任となり、大阪の社宅に住むようになる。ここは読書発電所から送られる電気を配電する施設である。その夏に、上司の技術課長藤波収(のちの北海道電力社長)に呼ばれ、川崎金属飛行機の工場(神戸)を視察する福沢社長の随行を命じられる。辞退すると、藤波はどうしても君でなければ駄目というので、しぶしぶ同行した。一日の視察だが、贇五郎は福沢から貴重な教訓を与えられ、福沢桃介という人物を再認識する。実は、福沢が知人の娘の世話を依頼されたため、人物テストをするための同行だった。まもなく、博多の若松築港株式会社重役高橋達の次女まさと見合いをして、大正14年9月挙式。贇五郎30歳、まさ22歳で、大阪府豊能郡池田町(現池田市)に新居を構えた。12月には大阪支店工務係主任となるが、この間6月から社内の労働委員会のメンバーとして労働問題の処理にあたっている。やがて経営者となったときに貴重な経験となる。3 五大電力の時代昭和2年金融恐慌、昭和4年にはじまる世界恐慌を経て、電力競争が批判されて電力統制論が台頭する中でも、五大電力(下記)は地位を強くしていった。・東京電燈株式会社 =(供給地盤)関東・東邦電力株式会社 =(供給地盤)中京、九州、四国・大同電力株式会社 =卸売・日本電力株式会社 =(供給地盤)関西、卸売・宇治川電力株式会社 =同上中でも、大同電力の成長は特にめざましかった。昭和5年11月に、内ヶ崎家13代当主の長兄豊一郎が亡くなる(45歳)。継嗣がないので贇五郎が14代当主となり、12月に家督相続したが、家業は叔父(父儀左衛門の弟)文之助を内ヶ崎酒造店代表とした。昭和9年には、結婚10年目で待望の長男儀一郎が誕生(贇五郎38歳、まさ30歳)。昭和11年9月、五大電力は北支電気事業調査団を派遣するが、贇五郎は大同電力の代表として参加する。調査の結果、天津に2万kWの火力発電所を建設が妥当との結論を出している。この調査旅行の際、大陸にいる日本人の中国人に対する傲慢な態度に心を痛めている。帰国した贇五郎は、調査課長兼任のままで工務部発変電課長に任ぜられる。昭和11年10月、逓信省は電力国家管理案大綱を発表する。すでに昭和10年5月頼母木桂吉を中心に電力国営案が練られ、昭和11年3月、2.26事件後の広田内閣の庶政一新の題目の一つとして、逓信大臣となった頼母木が、民営国有の特殊会社を設立して発送電を一括して政府が管理し、電気料金を2割引き下げるとする方針(頼母木案)を示す。五大電力はじめ事業者は強力な反対運動を展開するなかで、管理案大綱が発表されたのだった。昭和12年6月、近衛内閣が登場すると、逓信大臣永井柳太郎のリードにより、12月第73帝国議会に関連4法案(永井案)を提案、昭和13年3月に成立をみる(8月施行)。4月の国家総動員法の公布(5月施行)で、反対は許されない雰囲気となった。4 日本発送電(日発)の発足大同電力の常務だった藤波は、国家管理が必至との判断から、大同電力を一括して国策会社に出資してその中で事業を進めるべきとの考えを持ち、気心の知れた贇五郎にたびたび説くようになる。贇五郎も藤波の決意に賛意を表明するが、社長増田次郎(昭和3年に福沢から代わった)ほか社内の大勢は国家化管理反対の姿勢を崩さなかったので、意見の表明は勇気のいることだった。4法案成立を受けて、藤波は増田に対して、小売りの少ない当社は会社ぐるみ新会社に入るべきである、名を捨てて実を残すにはそれしか方法はない、と進言。国策会社の日本発送電株式会社への一括出資という持論を献言したのだった。増田は他事業者との協調維持の観点から、最初から賛成はしない。贇五郎も気が休まらない毎日が続いたが、部下の瀬戸千秋と平井寛一郎が藤波や贇五郎に賛成したことは心強かった。そしてついに藤波が増田の説得に成功する。昭和13年10月、大同電力は贇五郎を、瀬戸、平井ら20数人とともに日本発送電株式会社設立事務所設営のために東京の帝国ホテル向かいの逓信省の建物(バラック)に派遣された。ここで、技術面の責任者として設立準備を進めた。昭和14年2月、大同電力は、所有設備の一切を日発に出資または譲渡して解散を決定。大同電力をはじめ公営を含め33事業体が発送電設備の大半を日発に出資することになった。寄合所帯の総裁を誰にするかで最後までもめたようだが、結局増田次郎が初代総裁に就任した。昭和14年4月、日発は発足、また電気庁が設置された。4月1日の午後、増田は全社員を集めて訓示をおこなった(電力資源の有効開発、低廉な配電、公益優先の精神で国家最高の目的達成を第一義とする、など)。これは藤波の意見を容れて贇五郎が原稿を書いたといわれる。日発では、藤波は理事長兼工務部長、贇五郎は参事兼送電課長に任ぜられた。発足当時の日発は経営が厳しく、昭和14年は渇水で水力発電が麻痺し、補うための火力も石炭不足で思うに任せなかった。昭和16年1月には増田が責任をとり辞任、2代目総裁には日本電力株式会社社長の池尾芳蔵(かつて国家管理案反対の急先鋒)が就任。この間、政府は配電部門に統制を加える方向を打ち出し、昭和16年1月に配電事業統制要綱を発表、9月には配電会社設立命令が出された。戦時体制のもと、昭和17年4月には、東北配電株式会社など9つの配電会社が発足している。日発にも変化があり、昭和16年10月に各電気事業者に対する第一次強制出資が行われる。12月には東北振興のための設立された東北振興電力株式会社が日発に合併して解散し、同日に日発東北支店が置かれた。ところで、贇五郎は昭和16年10月、富山事務所開設事務所長を命じられ富山に赴任する。廃止された支店の復活だが、内実は池尾による左遷である。贇五郎に付けられた本社社員は1人だけ。池尾は日発設立を推進した藤波や贇五郎が煩わしい存在にみえたが、理事兼工務部長の藤波に手出しできない分、贇五郎を狙い撃ちにしたようだ。このとき、贇五郎は単身赴任。丈夫でない妻まさに北国の寒さが思いやられ、また、儀一郎が国民学校に入学したばかりだからであった。赴任にあたり当時衆議院副議長で一族の内ヶ崎作三郎から富山県知事町村金五(のち北海道知事)あて紹介状をもらっており、町村は事務所開設の建物として教育会館を貸してくれ、また、事務所要員として富山県営電気の職員の採用を依頼してきたため、一挙に70人の部下ができた。配所の月をみる思いの贇五郎だったが、こうして日発富山事務所が発足し贇五郎は所長となった。しかし池尾の御殿女中的な仕打ちが続き、昭和17年4月事務所は富山支店に昇格するが、支店長は田波芳三、贇五郎は支店次長に格下げ人事だった。昭和18年2月田波の後任支店長桜井督三でも贇五郎は支店次長のままだった。池尾により出世が遅れた贇五郎だが、しかし、この出世の遅れが敗戦時の追放から免れることになった。昭和18年8月、池尾が辞任し第3代総裁に新井章治(関東配電株式会社社長)が就くと、処遇も一転。昭和19年4月贇五郎は本社に呼び戻され工務部長に就任。同日、藤波は関東配電の副社長に転じている。このあと、昭和20年4月、贇五郎は日発東北支店長に赴任。7月9日夜から翌日未明にかけての仙台大空襲では支店も焼失の憂き目にあった。5 東北配電と労働問題戦後は、被害を受けた施設の復興、占領軍との折衝、また労働組合の結成により組合との交渉も日常業務となった。組合の中には日本共産党の指導で引き回されたところも多かった。日発では、昭和20年12月に本店従業員組合が組織されたが、東北支店でも同月、各職場別の従業員組合が結成された。しかし、日発本支店の組合は労使協調路線をとったので、贇五郎は支店長として苦労は少なかった。ところが、昭和21年2月に発足した東北配電株式会社従業員組合は、最初から日本共産党指導のもと、委員長に入江浩、書記長に佐藤栄蔵を選び、即日会社に8か条の要求をつきつける。従業員を我が家の使用人のように考えていた東北配電社長の橋本万之助は、初めての団体交渉の場で立腹して興奮し、そのまま社長を辞めてしまう。代わって副社長遠藤伍一が社長になるが、5月1日メーデー当日に姿をくらます。従組は、社長の一切の権限を組合委員長が行うと宣言し社内を占拠する異常事態となった。このため、憂慮した宮城県知事(東北六県行政協議会議長)千葉三郎と東北地方商工局長宮脇参三は、贇五郎に東北配電副社長就任を要請する。再三固辞するも、千葉や宮脇が日発総裁の新井に働きかけたことから、新井の口添えで5月31日ついに、火中の栗を拾う思いで贇五郎は日発東北支店長を辞し、東北配電副社長に就任した。50歳であった。この間、日発及び各配電会社の組合により、昭和21年3月、全国電気産業労働者単一組合結成懇談会(愛知県蒲郡町)、4月には日本電気産業労働組合協議会結成準備大会(伊東市)が開かれ、6月25日に東北配電従組は中央大会を開き、日本電気産業労働組合協議会(電産協)に加盟を決定。電産協は7月6日に全国結成大会(金沢市)を開き、8月19日発足の産業別労働組合会議(産別)に加盟。産別における日本共産党フラクションの跳梁は目に余ったが、その産別の中核的な組合が電産協であった。そのあと、電産協は、2.1スト挫折後の昭和22年2月に単一組合結成を決議し、5月、日本電気産業労働組合(電産)の結成大会(京都市)を開催。なお、東北配電従組はこれに応じてすでに2月に解散を決定、5月には電産東北地方本部結成大会(新潟市)が開催された。東北配電副社長として出社した贇五郎は、従業員の冷たい態度に迎えられた。まずは、社内占拠を終わらせるため、理事の堀豁(とおる)と相談しながら、組合交渉では逃げないこと、できない約束はしないことの2つを守ることとした。これは、かつて大同電力工務課主任のころの労働問題処理の経験を生かした。毅然とした贇五郎の態度に、組合員には単に怒号を浴びせても進展しないと察知する者が出て、6日目に組合は一応占拠をやめると通告してきた。次に対応しなければならなかったのは、遠藤社長(会社に出てこない)が約束した協定(人事に関しては組合と協議して決定する)を改めることだった。9月の株主総会で贇五郎は取締役副社長、堀は常務取締役(労務担当)となり、正面からこの問題に取り組む。11月に遠藤社長は辞任し(公職追放)、贇五郎が名実ともに取締役社長となった。ただし、昭和22年2月1日に予定された2.1ストの挫折により、スト計画が労働運動への日本共産党の介入だったことへの反省が各方面から起きる。産別民主化同盟の結成の動きがそれだが、電産の中にも共産党批判を鮮明にするみどり会が組織される。組合が人事管理を行っていた東北配電でも、人事の不公平感から当の組合員の中にも不満が高まってきた。そのような不満を階級意識の欠如とする組合の態度が、さらに組合に対する不信を増大させた。東北配電従組が解散し電産東北地方本部に改編される(上述)と、一般組合員は一層組合から遊離した。そして、多くの組合員は、安易に組合に妥協して雲隠れした遠藤前社長の約束など有効性がないことを知るのである。社長としてできることは約束するができないことははっきり拒否する贇五郎の態度が、信頼されるようになってきた。贇五郎が工学部出身出身で数字を挙げて粘り強く説得する態度も幸いしたかも知れない。かつての組合闘士に聞いても、橋本のように団体交渉の場で激高して辞表を書いたり、遠藤のように組合の言うがままに協定書を書いて姿をくらますような社長は、今でも非難するが、贇五郎の名を挙げて非難する者はいない。6 電気事業の再編成昭和22年12月、過度経済力集中排除法が公布施行され、昭和23年2月22日に、日発、東北配電など9配電会社が同法適用の第二次指定を受ける。これと同時に、持株会社整理委員会から電気事業再編成計画書の提出を求められ、4月に日発は全国送配電一社化案を、9配電は各区域別の発送電一環会社案を提出した。贇五郎は(かつて創立に関わった)日発はいまや使命を終えたとして、解体再編成を主張し、先頭に立っている。このとき念頭にあったのは、日発に合併された東北振興電力の役割の継承であり、これを贇五郎は「東北地方の振興はまず電力から」と表現した。東北配電は、贇五郎とともに経営改善に尽力していた常務取締役の堀を取締役副社長にする。ところが、東北振興電力の使命を継承しようとしたもう一つが、同社の姉妹会社として設立された国策会社の東北興業株式会社だった。東北興業は、昭和24年4月過度経済力集中排除法の指定解除の前後に、東北振興電力が有した水利権を回復して利用する北上川水系総合開発計画策定に着手する。これに対して、東北配電は昭和25年2月に、東北興業の自家用発電計画と同じ水系に別途の発電計画を発表し、以後両社は激しく対立し政治問題化する。贇五郎は東北興業に継承する力はないとみて、譲るつもりはなかった。電気事業再編成の方は、日発案が国家機関的立場で、9ブロック分割案が完全な民有民営の立場だが、このほかに電産の労組の立場から全国一社化案もあった。それぞれに政治的立場が絡んだが、昭和24年11月、GHQの指示で通産大臣の諮問機関として電気事業再編成審議会が設置され、松永安左衛門(元東邦電力社長)を会長として審議を開始。昭和25年1月の答申では、日発と9配電を解体し、新たに9ブロック別に会社を設立することまでは同じだが、ブロック間の融通を行う会社を別に設立する多数意見と、融通会社を設けない松永私案が併記された。GHQは2月に審議会案に反対を明らかにする。そこで、政府は松永私案に修正を加え、ブロック間の融通は新設する公益事業委員会の調整に委ねるとの案でGHQの了承を得て4月法案(電気事業再編法案及び公益事業法案)を提出するが、結局与野党の反対で審議未了となった。11月、マッカーサーが吉田首相に再編促進の書簡を送りつけ、政府は臨時閣議で抜き打ち的にポツダム政令により電気事業再編成令および公益事業令を公布した。これが現在の9電力会社体制の基礎になる。昭和26年4月、東北配電と日発は歴史を閉じる。7 東北電力の発足昭和26年5月1日東北電力株式会社が発足。日発の東北地区の設備と東北配電の全設備を継承し、資本金9億円。贇五郎は取締役社長になる。会長には白洲次郎(吉田茂首相の側近。電気事業は素人で一切を贇五郎に任せた)、副社長の一人に東北配電で労務問題で苦労を共にした堀豁を、また、常務の一人に日発設立にあたり大同電力から行動を共にした瀬戸千秋が就任。贇五郎は「日本の再建は東北から、東北の開発は電力から」をモットーにリーダーシップを発揮。贇五郎56歳、最も油が乗り切っていた。最初に取り組んだのは急速に増大する需要に対応する電源開発であった。その最大の問題は、日発解体に伴う9電力相互の電源帰属問題だが、当時わが国最大の電源と期待された只見川筋の未開発地点は未決定のままだった。東北電力は贇五郎の指揮で、5月1日(発足の日)に福島県から水利利用許可を得て、12月に柳津・片門両発電所の建設にとりかかる。これに対して、東京電力による水利使用計画変更申請があったが、福島県は昭和27年7月に申請を返戻し、8月には東京電力の水利使用許可を取り消した。東北電力は、9月の総理大臣裁定を得て、さらに上田・本名両発電所建設に着手した。その以前の8月に、東京電力は福島県知事を被告に行政処分取り消しを福島地裁に提訴したが、これは訴外の東北電力との只見川の電源開発をめぐる争いだった。昭和29年1月、東京電力の取り下げで解決している。贇五郎が工事着工の既成事実で積極的に対応したのは、東北の電力資源は東北で使用すべきとの信念に基づくものであり、また会長の白洲が吉田首相の側近だったことも有利に作用した。東北興業が進めようとした北上川水系総合開発についても、いったん閣議了解までいったものを昭和26年6月までに断念させている。ここでも白洲の政治力が大きかったようだが、贇五郎は東北興業にはすでに開発する力がないと見抜いていただろう。東北開発の主役が古い国策会社から新しい公益事業に移ったことを示している。8 東北開発の主役として贇五郎はこうして重くなった東北開発に対する責任を自覚し、必要な調査活動を積極的に展開する。根津知好の主宰する日本経済研究所に総合的調査を委嘱するとともに、電力問題については進藤武左衛門、港湾施設については豊田雅孝、地下資源については吉野信次、合成繊維について伊藤忠兵衛、農業振興と肥料工業については荷見安を、それぞれ専門調査委員会の委員長に据えた。その成果が、一連の調査報告書となり、のちの東北開発促進の基本資料として重要な役割を果たす。・『東北の電力と産業振興』昭和26年1月刊行・『東北の港湾と産業振興』昭和26年10月刊行・『東北地方の電力需要』昭和27年10月刊行・『東北の電力と工場誘致』昭和28年3月刊行・『東北の地下資源と産業振興』同上・『東北のチタン砂鉄資源』昭和29年3月刊行・『東北の農業振興と肥料工業』昭和29年4月刊行・『東北の石灰石資源』昭和30年2月刊行・『東北の産業振興と合成繊維』昭和30年7月刊行贇五郎には財界はじめ社会活動が期待され、すでに東北電力創立前から、昭和25年4月日本経営者団体連盟(日経連)常務理事に、昭和26年4月宮城県経営者協会理事長に就任した。また、昭和27年3月東北経済調査協会会長、8月には東北電話協会連合会会長。11月には、経済団連合会(経団連)理事と日本電力調査委員会委員となる。昭和28年3月には仙台商工会議所会頭と東北6県商工会議所連合会会長、6月には宮城県信用保証協会会長にも就いた。昭和29年4月には東北電気協会会長、7月に日本商工会議所常議員、8月には東北電業会理事長となり多忙を極めた。9 東北開発三法昭和30年1月、鳩山内閣施政方針演説で東北開発推進を約束する。贇五郎はこれまでの調査結果を積極活用する決意を固める。7月に経済審議庁から改組された経済企画庁が策定した「東北地方総合開発調査実施要綱」が9月に閣議報告された。贇五郎ら東北の各商工会議所の幹部が日商および東商の代表と懇談し、東北開発懇談会(10月に東北総合開発懇談会)を発足させている。こうした活動の結果が、東北開発三法の形で現れた。・北海道東北開発公庫法(←北海道開発公庫法の一部改正) 昭和32年4月成立・東北開発促進法 昭和32年5月成立・東北開発株式会社法(←東北興業株式会社法の一部改正) 同上昭和32年8月には、東北開発促進法第4条による東北開発審議会委員に贇五郎ら35名が任命され、9月には会長に就任。審議会が策定した東北開発促進計画(昭和33-42年)は、昭和33年8月閣議決定された。この間、東北電力は只見川など水力中心の大規模電源開発を画したが、昭和31年9月着工の八戸火力発電所は火主水従の方向に切り替えるものだった。昭和32年10月には仙台火力一号機の建設が開始。贇五郎がこれらを新鋭火力電源開発と称した。・昭和33年6月 八戸火力発電所1号機 運転開始(以下同)・同年10月 同上2号機・昭和34年10月 仙台火力発電所1号機・昭和35年11月 同上2号機・昭和37年6月 同上3号機このように東北電力の事業は順調だったが、昭和34年1月5日、仙台市消防出初式に出席した贇五郎は、その場で倒れた。東北大学学長黒川利雄らの診断で延髄被蓋症候群で予断を許さないということであったが、3月末に一応退院し社長職務に復帰。日本経済新聞は10月から「私の履歴書」を連載(18回)した。同年10月に白洲会長が退任し、昭和35年5月には贇五郎も社長を退任して、相談役に就いている。10 その後東北電力社長退任後、昭和36年6月、贇五郎は東日本興業株式会社取締役会長に就任。昭和36年には内ヶ崎酒造店の代表社員として甥の欣一と経営を手掛ける。昭和36年10月仙台市名誉市民に推挙、同月、東北経済開発センター会長に。10月には宮城県経済審議会会長に就任する。さらに、昭和38年2月宮城県社会福祉協議会会長、10月には宮城県福祉事業団理事に就任するなど、悠々自適というわけには行かなかった。なお5月には東日本興業社長を辞任、相談役に就任している。このあと、贇五郎は昭和43年6月に東北電力名誉相談役、昭和55年4月同社名誉顧問に推戴される。昭和57年9月22日、満87歳の3日前に嚥下性肺炎で亡くなる。11 参考文献(原典に記載のもの)河野幸之助『内ヶ崎贇五郎』日本時報出版局、1959年12月東北電力社史編集委員会編『東北電力20年のあゆみ』東北電力株式会社、1972年3月新妻規矩雄編『東北電気事業五拾年回顧史』電報新報社、1976年4月内ヶ崎贇五郎流芳録編纂委員会編『内ヶ崎贇五郎流芳録』東北電力株式会社、1985年4月■関連する過去の記事(岩本由輝さん著作をもとにしたもの。他にもあったかも) 原田好太郎と山形の機械工業(2025年01月25日) 東北開発の具体像(2023年04月06日) 中央からの視点だった東北開発(2023年04月02日) 東北という呼称の初現 ー 「東北」の形成(2023年03月26日) 仙台藩の経済と財政を考える(5) 升屋と中井(2011年3月5日) 仙台藩の経済と財政を考える(4) 藩財政の構造と御用商人(2011年3月5日) 仙台藩の経済と財政を考える(3 本石米と買米制度)(2011年2月20日) 鮎川と鯨の歴史(2011年1月29日)
2025.03.03
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