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先日テレビのニュースで少々驚いたのが、これ。大崎市鳴子で東北地方の高校生による相撲大会があったが、日本三大草相撲の地とされる鳴子で、全国こけし祭りのこの時期に毎年開かれる、というのだ(9月7日NHKニュース)。8校から35人が参加したという。さて、日本三大草相撲とは。大崎タイムスの記事が詳しくて、次のように説明されていた。第27回全奥羽招待高校相撲大会が9月7日、大崎市鳴子温泉の温泉神社常設相撲場で開かれ、東北地方から集まった8校計35人の高校生力士が土俵上でぶつかり合った。その結果、団体は松韻学園福島が初優勝を果たした。同神社は、源頼朝が平泉征伐の戦勝祈願に相撲を奉納したと伝えられ、相撲場が設置されている。神社の縁起を記した碑文によると、鳴子は九州の明鳥、東京の浅草と並ぶ「日本三大草相撲」の一つとされている。
2025.09.10
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久慈次郎(明治31年(1898)~昭和14年(1939))は、日本野球黎明期のヒーローで悲運の名捕手。明治31年(1898)、盛岡市加賀野に生まれる。旧制盛岡中学校(現盛岡第一高等学校)を〔ママ、おだずま注〕入学しすぐに野球を始め、卒業後、早稲田大学に進学。2年生の秋から捕手として試合に出場し、4割3分3厘の高打率をあげ不動の評価を得る。大学卒業後は名門野球チーム、函館太洋倶楽部(函館オーシャン)に所属、永く函館市に在住。函館では運動具店の店主として10人近くの従業員を雇う企業家でもあった。昭和6年(1931)と9年(1934)、来日したアメリカ大リーグ選抜チームとの日米野球大会のために結成された全日本チームに召〔ママ〕集され、捕手兼主将に選ばれた。昭和9年(1934)はベーブルースやゲーリックといった大リーグの伝説的な名選手に対し、若き沢村栄治やスタルヒンたちをリード。このときの全日本チームが母体となって本格的プロ野球チーム「大日本野球倶楽部」(後の東京巨人軍)が誕生する。大日本野球倶楽部の久慈に対する評価は非常に高く、破格の待遇(三原脩や水原茂の5倍)で入団を誘われたが、久慈はその申し出を断わる。それは昭和9年(1934)3月の「函館大火」により市が壊滅的なダメージを受けており、そんな函館から離れることができなかったためである。そして久慈はプロ野球には身を置かず、プレーしながらアマチュア野球の発展に貢献しようとした。しかしながら久慈次郎の名は東京巨人軍の初代キャプテンとしてしっかりと記録されている。その後、函館復興に心血を注いだ久慈を政治の場にという声が上がり、積極的な選挙活動は一切行わなかったが、上位当選で函館市議となる。昭和14年(1939)8月19日、運命の日が訪れる。選手兼任監督として札幌市円山球場での札幌倶楽部との試合に臨み、1対2とリードされて迎えた7回、フォアボールで一塁に向かう際、ホームベース上で次の打者に指示を与えようと振り向いた瞬間、飛び出した二塁走者を刺すべく投げられた相手捕手のボールが右のこめかみを直撃。久慈はホームベース上に倒れ込みそのまま動かず、2日後、ついに帰らぬ人となった。札幌から函館に向かう久慈の棺を乗せた列車は、停車駅ごとに熱烈な野球ファンが駅に詰めかけ、久慈の死を惜しんだといわれている。久慈の死を受け、都市対抗野球では第18回大会(1947年)から、敢闘精神あふれる選手に与える賞「久慈賞」を設けた。また昭和34年(1959)に創設された野球殿堂では、正力松太郎や沢村栄治らと並び、第1回の殿堂入り選手となった。■盛岡商工会議所『盛岡もの識り検定試験参考書 もりけん本スーパーVer.2』2012年 から
2025.09.09
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宮城県大郷町の町長選挙は、6選をめざす現職と前議長の新人の一騎打ち。投開票日の昨日(8月31日)、新人が現職を破る結果となった。当選(石川)2,541時点(田中)2,027投票率は73.22%であり、前々回を7.24下回った(前回は無投票)。SSP構想を推進する現職に対して、石川氏は見直しを視野に議論するというスタンスで、明確に是と非が対立する構図ではなかった。河北新報の記事では、この伝わりづらい主張が、構想に反対する層だけでなく中間的な意見の人たちを取り込むことに成功した、と評している。また、SSPの是非じたいとは別に、田中氏の強引なやり方をどう評価するかも投票行動のひとつの判断軸だったろう。石川氏は、構想反対派を中心に町議6人が支援したというが、今後、構想をどう扱うのかが大きく注目される。■関連する過去の記事 大郷町SSP問題について(再び)(2025年04月18日) 大郷町問題(続)-直接請求と争訟について(2025年04月16日) 大郷町の議会解散騒動を考える(2025年04月12日)
2025.09.01
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