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ついに出た、という感じだ。国会議員定数削減の動向に対して、秋田県議会が12月8日に全会一致で決議。その概要は次のようなものだ(当ジャーナルで要約、下線も)。------------・決議名「地方の実情を踏まえた国会議員の定数削減に関する決議」・本県は全国で最も深刻な人口減少と少子高齢化。医療、交通、産業振興、教育、防災など、生活基盤維持に課題を抱え、国の支援と地域の声を国政に届ける仕組みが、これまで以上に求められている。・国で検討されている国会議員の大幅な定数削減案は、人口比のみを基準とし、広大な面積と人口減少という構造的問題を抱える地方の実情を十分に踏まえたものとは言えない。・国会議員の数が減り住民の声が国政に反映されにくくなることは、地方の持続可能性の確保という国全体の課題に逆行し、地方創生を掲げる国の方針とも整合性を欠く。・また、人口減少地域の選挙区面積が一層拡大し議員活動の実効性低下が懸念。困難を抱える地域住民と議員との距離が広がることは、民主主義の根幹を揺るがす結果とも。・こうした実情を踏まえ、本県議会は国において次の事項の実現を求める。1 地方の実情を踏まえ、地方の声が適切に国政に反映され得るよう慎重かつ丁寧な検討を行うこと。2 国会議員の定数削減については、単に人口比の基準による一律の見直しではなく、地方の地理的条件・人口動態・行政需用等を総合的に考慮した制度設計を行うこと。------------代表民主主義制において、国会議員を選ぶ手続が不可欠だが、その際に国民による投票の価値は平等であるべき、つまり選挙区や定数の定め方は人口比が基準であり、それは当然の事、あるいは絶対的なものだと多くの日本国民は思っているだろう。しかし、海外には例えば面積を基準とする事例があるという。私は今年の4月、知人を介して知り合った大手企業OBの方と歓談していて、世代間格差や都市と地方の問題から一票の価値を変えることも検討に値するのではと、あえて話題提起したら、海外滞在も長いその方が、国土に占める面積で票を配分する事例があるんだ、と教えてくれた。実際に我が国の現在の選挙制度も、完全に人口比例かというとそうでもない。全国を一選挙区とするなら格差問題はないが、選挙区の設定は、ひとまとまりの地域の代表という合理的な性格付けとして立法政策の範囲内だろうし、現実に国民の支持もあろう。(なお、憲法は47条で地域別選挙区を前提にするとの解釈があろう。机上論だが、地域選挙区を廃止して全国区オンリーにすると違憲なのかも。)そして、選挙区という仕組みを設けるとなると、各選挙区の定数をどう設定するかも絡んで、どうしても不均衡問題が生じる。行政区画や経済的まとまりを全く無視して線を引くわけにはいかないし、また、時間の経過で不均衡が拡大してしまう技術的事情もある。かつて参議院議員定数訴訟で最高裁は、都道府県単位を選挙区とすることについて(5倍以上の格差があった)、都道府県が歴史的、経済的、社会的に独自の意義と実態を有する政治的なまとまりのある単位として、立法政策の範囲内とした。こうしてみると、非人口的要素は、じつは現状でもおのずと考慮されているのだ、ということができる。政策的には一人別枠方式(廃止されて現在はアダムズ方式)や、参議院選挙区における都道府県単位の選挙区設定と定数配分についての一定の合理性など、人口比率を徹底していない側面がある。もっとも、これを「非人口的要素」といっても、あくまで人口比例が大原則で、多少の政策的配慮ないし技術的事情から格差が出ている構図だ。しかし、あくまで人口比例に立ち戻るバネが常に張られている感覚だ。一票の格差がどの程度までなら許されるか、という図式自体が、それを物語る。前置きが長くなったが、このように、我が国では「非人口」要素を加味しているとはいっても、あくまで人口比例が前提として共通理解だ、というのが一般的な感覚だろう。そこに対して、いわば積極的に、あるいは人口比例と別個対立の要素として、「面積」を持ち出したのが秋田県議会の決議だ。これが、ついに出た、と冒頭に記したゆえんだ。実態に即していえば、定数削減(全国で小選挙区を25減らす場合)で秋田県の選挙区が3から2に減ることが見込まれる。代議士の数が減るわけで、大きな問題だ。数理的にみれば、一票の価値は、決して地方部で高く都会で低いという一方的なものではない。全国の定数を人口で割って各県の定数(選挙区の数に一致)を決めるのであって、それ以外の要素はないから、アダムズ方式にしても計算結果として地方部だって一票の価値が低くなることもある。ただし、小選挙区の「面積」は地方部では必然的に大きくなるという現象が起きる。この定数減と面積増大に着眼するのだ。後者の面積の点にスポットを当ててものをいうのは、これまであまりなかったのではないか。面積といっても、そこに住む人間以外の生物の権利を考えよとか、自然環境や国土保全の観点を持ち出すのではない。有権者はあくまで人間だ。実質的な狙いは、地域選出の議員が減ること、また、選挙区が広くなってしまい住民と議員が遠くなること、を危惧するのであるから、人口比例を真正面から否定するものでなく、やむを得ず「面積」を持ち出したともいえるだろうが、それにしても、人口減少社会と地域格差がここまで極まってきたことの証左であり、(衆院の現行の小選挙区では定数で調整できないこともあり)面積を持ち出すしかない時代に突入しているのかもしれず、その点ではやはり「ついに来た」のではなかろうか。
2025.12.28
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荒巻地区の宅地開発と団地の愛称について、地域の資料を読んで記した(下記12月14日記事)。秀衡街道を歩いて「うぐいす丘町内会」の看板を目にしたが、団地の愛称が町内会名に受け継がれたものも多いだろう。そこで、町内会の名前を調べてみた。(仙台市公式サイトから)●荒巻地区町内会連合会(単位町内会数35)葉山町内会,葉山親交会,荒巻みのり会,通町北裏青葉会,二月会,中才町内会,荒巻もみじ会,荒巻親睦会,荒巻北杜会,荒巻みどり会,荒巻親和会,ハイライフ北仙台町内会,神明会,山手町内会,手戸連合町内会,北山団地町内会,菊田町町内会,荒巻本沢西部町内会,荒巻本沢中区町内会,荒巻中央町内会,荒巻北区町内会,荒巻東親睦会,グリーンプラザ自治会,西あけぼの町内会,東あけぼの町内会,堤町西裏町内会,新堤町町内会,堤町共栄会,青睦会,北山泉会,北山青峯会,津々美自治会,ライオンズマンション山手町町内会,ダイヤパレスヒルズ山手森町内会,モナミすみれ会●北仙台地区連合町内会(20)荒巻泉ヶ丘町内会,水の森町内会,うぐいす丘町内会,森が丘町内会,杜の里町内会,平和台町内会,あおば自治会,ひばりケ丘町内会,幸福ケ丘町内会,白鷺町内会,第二勝山町内会,勝山町内会,こだま町内会,大山団地町内会,藤森町内会,鷺ヶ森むつみ会,双葉ケ丘西町内会,双葉ケ丘町内会,※北根地区親和会,※北根町内会(※は台原北部連合町内会にも)■関連する過去の記事(仙台の団地造成史) 荒巻地区の新町名と宅地開発史(2025年12月14日) 仙台の団地名を考える(荒巻方面)(2012年5月27日) 昭和30-50年 仙台の団地造成の概要(その2)(2012年5月22日) 昭和30-50年 仙台の団地造成の概要(その1)(2012年5月22日) 仙台の団地名を考える(再び)(2012年5月20日) 仙台の「団地名」を考える(後編)(2011年12月11日) 仙台の「団地名」を考える(前編)(2011年12月11日) 仙台圏の宅地開発史を考える(2011年1月5日)■関連する過去の記事(中山街道、秀衡街道、その周辺地域) 古海道東の公園たち(荒巻地区)(2025年12月07日) 中山、北中山、南中山(2025年01月07日) 水の森公園の叢塚と供養塔(2023年08月03日) 人口ゼロの北根村(2015年11月8日) 北根と七北田街道(2011年10月24日) 近世までの東山道と中山古街道、七北田街道(2011年10月23日) 中山峠の狼(2011年10月6日) 中山道と狼石(2011年1月13日) 仙台のロータリー(その12)中山吉成(その2)(2011年1月11日) 仙台のロータリー(その11)中山吉成(その1)(2011年1月10日) 仙台のロータリー(その10)桜ヶ丘ロータリー(2011年1月9日) 飛び地の多い上谷刈(2010年11月15日) 中山道を考える(再び)(09年11月23日) 忘れられた宿場町 根白石(09年11月4日)(奥州街道について) 朴沢の話(09年5月13日) 朴沢をめぐる(続・画像)(09年5月2日) 朴沢をめぐる(09年5月2日) 中山(なかやま)道を考える(09年3月25日)(根白石街道) 中山道のむかし(09年3月23日)(根白石街道) セントラル自動車が奥州街道を復活(09年2月13日)
2025.12.26
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ふと思った。仙台から三陸・常磐道で移動する場合、いわきと気仙沼でどちらが近い(早い)のか。・仙台東IC→気仙沼中央IC 118km 1時間43分・仙台東IC→いわき中央IC 144.5km 1時間50分(平日800出発で比較、どらプラによる。)沿岸部の宮城北端と福島南端は、自動車利用の場合、仙台からは同程度の時間距離といえる。なお、直線距離(仙台市役所と各市役所の間)を測ってみた。・仙台市役所ー気仙沼市役所 93.6km・仙台市役所ーいわき市役所 135.4kmいわき市ホームページの案内では、次の通りだ(表記では「約」が冠されるが省略)。・鉄道(特急ひたち) 仙台駅ーいわき駅 2時間3分・高速バス 3時間・マイカー 1時間50分気仙沼市の公式観光情報サイトによると、以下(ここも「約」を省略)。・車で行く 泉ICー一関ICーR284 2時間10分・同上 多賀城ICー気仙沼中央IC 2時間・高速バス 3時間・電車 仙台ー一関ー気仙沼 30分+1時間25分・同上 仙台ー小牛田ー前谷地ー気仙沼 45分+15分+(BRT)2時間30分
2025.12.25
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金ケ崎の町並みがすばらしい。下記文献を読んで、ぜひ時間をとってゆっくり探訪したいものだと思った。次のようなことが記されていたからだ(以下要約をしるす)。薩摩藩の麓集落は113か所、伊達藩の要害は21か所あり、いずれも藩の守りの前線基地として藩の重鎮がお頭に送り込まれた。重伝建地区である金ケ崎は、伊達藩北端を守る要害で、要害の東には舟運の幹線である北上川と胆沢川が流れ、西側には奥州街道が通じる。人と物資が行きかう交通の要衝でもあった。金ケ崎駅から、かつての町屋筋である旧奥州街道沿いを進み、旧諏訪神社(現・金ケ崎神社)の赤い鳥居の前を右折し、要害の核心部への導入路に出る。旧諏訪神社には、かつて菅江真澄が訪れて、ここからの絶景を讃えて須輪神社法楽八景和歌を詠み奉納している。要害内は緑豊かである。それは、武家屋敷の周りを囲むエグネと呼ばれる杉、松の高木からなる屋敷林や、サワラヒバの生垣、庭の樹木などで満ち溢れているからだ。緑に包まれた十数軒の武家屋敷は、600から1000坪を越えるものが主流で、江戸期からの屋敷地割を留めている。屋敷内奥に野菜畑や、柿、栗など自給自足の生産の場が設けられ半農半士の生活を偲ぶことができる。主屋の多くは鉄板葺きに変わっているが、柱や梁や間取りは当時のままである。多くは今も住居としているので、内部を見学できるのはレストランに再利用しているお屋敷や、曜日限定公開で茅葺屋根が美しい旧坂本家住宅や、復元された旧大沼家侍住宅(片平丁)である。■読んだ文献 米山淳一『続・歴史鉄道 酔余の町並み』駒草出版、2016年■リンク・金ケ崎観光マップ・国選定 金ケ崎町城内諏訪小路重要伝統的建造物群保存地区■関連する過去の記事(金ケ崎町) 金ケ崎町は大きな「ケ」で決まり(07年9月29日)
2025.12.19
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前回記事(古海道東の公園たち(荒巻地区)(2025年12月07日))で調べた荒巻地区について、さらに町名の由来や昭和の宅地開発の歴史を知りたくなって、水の森市民センターの図書室を訪れたら、素晴らしい資料に出会うことができた。『荒巻地区平成風土記』(荒巻地区平成風土記作成委員会、2011年)である。以下に、同冊子により勉強した成果を記します。◆住居表示の整備で荒巻は12町に 仙台市の都市区域は、慶長以来の城下町を中核に、昭和初期、4次にわたる周辺地域との合併で膨張したが、町名・字名の数が多過ぎた。旧荒巻村だけで148もの字名があり、昭和に入って、よほど整理されて59字となっていた。その町割も複雑で地番が入り乱れていた。加えて、昭和30年代以降、周辺部に出現した新興住宅団地では、宅造業者が勝手に町名・地番を決めたものもあり、甚だしく一体性・整合性を欠いていた。 このような事態が全国各都市に共通して見られるに至り、昭和37年5月「住居表示の整備に関する法律」が制定され、ようやく各都市とも住所表示の合理化に取組むこととなった。仙台市は早速、同39年から着手している。 新しい町割は、一見して分かる道路・河川・鉄道等で区切り、新町名の選定は、旧来の町名を基本としたが、さらに由緒ある、親しみ深い好名があれば考慮する等、地域住民の意向を尊重しながら進められた。 当荒巻地区では、まず昭和43年2月、通町関連の5町から実施され、第2次は52年7月本沢、第3次は翌53年7月堤町等、そして最後に62年菊田町で終了を見た。着手以来、実に23年の月日を要し、59の旧字名が整理・統合されて、別表の通り12町となった。参考までに、あけぼの町は北海道から沖縄まで全国に71、青葉町は56町、山手町は47町といずれも人気の高い町名であることが判明している。◆青葉町一一杜の都・仙台のシンボル 伊達政宗は、京都五山にならって仙台城の鬼門に当たる北山に東昌・光明・覚範・資福・満勝の臨済五寺を配した。いずれも伊達家先祖の菩提寺である。ここに明治初期、政宗を祀る青葉神社が建置され、隣地の鹿島・香取神社と並んで霊地となった。 その門前町・寺町としての旧通町、北山町、さらに通町北裏・穴田下堤のそれぞれ一部が加わって成立した町である。その中核は、青葉神社、東昌寺、光明寺の広い境内一円の北山丘陵である。住宅街をなした部分は、この北山丘陵の表側(通町・北山町)と裏側(穴田下堤)の傾斜面である。 新町名は、この地に鎮座する青葉神社の社名と仙台の中心市街地の北側を縁どる貴重なグリーン地帯の景観とにあやかったもの。青葉山、青葉城、青葉通、青葉城恋歌と「青葉」は仙台のシンボルである。この感銘を一身に背負う住民として、新町名の採択に異論のあろうはずもない。 因みに、東昌寺の樹齢500年とされるマルミガヤの巨樹は、国指定天然記念物になっているが、毎年この樹の下で野外コンサートが開催される。(写真 マルミガヤ前での野外コンサート風景)◆あけぼの町一一希望の持てる朝ぼらけ 仙台市荒巻字北裏の全部と穴田東・川竹・北鷺ケ森・古海道東の各一部が合体して「あけぼの町」となった。神明町のバス通りと水の森1丁目とを南北に結ぶ市道で、あけぼの町は東西に二分された形である。事実二つは生い立ちも性格も異なる。 東側は昭和14、5年以降「曙分譲地」の名で売り出され、戦時中、製薬会社ができた頃から急速に開発が進んだ。あけぼのの名を冠した町内会「あけぼの会」が昭和35年生まれた。狭く入り組んだ露地を挟んで立つ家々の庭に、よく手入れされた鉢植えが並んでいたものだ。 戦後、それまで一面の杉林だった西側の新しい土地に家が建ち始めた。東よりは若い世代の人々が住む小ざっぱりした住宅やアパートが点在し、ここに新町内会「グリーンプラザ自治会」が同52年誕生した。そして53年、統合の時、先住の「あけぼの会」を引き継ぐ提案に対し、西側が譲歩する形で、「あけぼの町」の名が決定した。 枕草子の「春はあけぼの」。明け方、朝ぼらけ、あの空の薄紅に黄みの交じった色は、何か希望を持てる色だ。町名に平がなを当てたのは優しい。◆荒巻神明町一一支えたい鎮守の森 江戸期、今の神明社があった場所が小谷萱(こやがや)と呼ばれたが、古びて、ひっそり鎮座する古祠が、住宅群に囲まれていた。北山町の一部と、荒巻字神明・神明下・牡丹・神明川淵・下神明下・南間田下・南間田上の一部を合わせた地域を荒巻神明町とし、頭に荒巻を冠した。氏子たちの鎮守への尊崇の念と、荒巻の地名への愛着がそうさせたのであろう。無論、他の神明社との混同を避ける目的もあった。単なる神明社では、伊勢堂神明か、桜ケ岡神明か、はたまた榴ケ岡神明か、区別がつかない。 古老の話によると、藩政以来、村の集会はすべてこの神明社を利用し、太鼓で時刻を告げたという。また寺小屋の代わりに、子供たちの学習の場にもなった。しかし、今日「地域の人たちの関心は薄い。淋しいことだ」と古老は嘆く。拝殿には常時、鍵がおろされている。耳を澄ませば、境内の樹林を渡る一陣の風韻が聞こえる。 一歩境内を出ると、神明町は密集住宅地であり、細長い商店街が続く。スーパー、郵便局、銀行、病院、小学校、何でも用の足せる便利な町である。最近の話題は、建設中の大型店の完成後の雲行きだという。◆山手町一共同墓地に眠る先住者 旧集落名の北山町と、荒巻字白石道北・山下上・山下中・手戸・裏新田・山新田・山下土手が合体して、新しく山手町となった。JR仙山線の鉄路を隔てた北山霊園の北で、東は荒巻街道、北は梅田川の流れに囲まれ、仙山線北山駅に近い。 終戦まで、この一帯は森林の茂る丘陵地で、戦後いち早く引場者のための市営手戸住宅が70戸ほど建設された。当時は道路や水道が整備されておらず、小学校へも遠いという悪条件であったが、鋭意これを克服し、住みよい環境を確保した。 新町名は、中心集落の山新田の「山」と手戸の「手」を合成したもの。町の地形ともマッチしており、好名である。東京の山手音を想起させる感じもある。ここ山手町17番地には江戸時代から荒巻本沢に住んでいる先住者たちのご先祖が眠る共同墓地がある。◆北山1丁目一泉岳がはっきり見える 古くからの北山町と支倉通・通町のそれぞれ一部を合わせて、北山1・2・3丁目の新北山町が生まれた。古くから北山と呼ばれ、城下町の北辺を画したのは、伊勢堂から東へ堤町の鹿島崎に連なる北山丘陵であった。そしてこの北山の南山腹に、北山五山と呼ばれる名刹が建置され、青葉神社・香取・鹿島両社も鎮座している。その南麓を通町から西へ中山街道に沿っている町が、昔からの北山町で、おのずから社寺群の門前町を形成していた。 北山1丁目は、北山丘陵の北側を走っている仙山線を以て荒巻神明町との境界とし、西は輪王寺の西側を北上する荒巻街道、南は中山街道に沿っている旧北山町の南裏、東は覚範寺と青葉神社の境内を以て、ほぼ境界としている。そして、この北斜面に住宅街が東西に細長く発達している。泉岳を眺望できる地の利はあるが、永年、運搬車・消防車・救急車の入れない狭い道路が、住民の悩みの種になっている。 北山1丁目で、満勝寺に代わって五山の一つに加わった輪王寺は、伊達政宗とともに梁川・若松・米沢・岩出山・仙台と六遷、今や東北曹洞宗の大本山と仰がれているが、元禄4年(1691)に建てられた仁王門には、湛慶(たんけい)作といわれる仁王像が安置され、池泉式回遊庭園とともに知られる。(写真:輪王寺庭園)◆荒巻本沢1~3丁目一銅谷は製鉄の名残り? 荒巻字菖蒲沢の全部と瀧道山・龍道(たつみち)・山添・雷神のそれぞれ一部を合わせて本沢1丁目、下銅谷・銅谷・水門下の全部と北川・北川山のそれぞれ一部を2丁目、また字苗代の全部と川平・北川・北川山・鳶巣山のそれぞれ一部を3丁目とした。 本沢という地名は、明治38年の帝国陸地測量部の地図に掲載されているから、すでに100年以上も前から存在したことは間違いない。地域の古老の話では、戦前、陸軍の演習でこの地域にきた兵土たちが「本沢」という呼び方をしていたという。しかし、地籍としての字名は存在しない。つまり総括的な通称であったと思われる。 一方、銅谷という地名は、江戸期の絵図をはじめ、文献にも明記され、戦後の住居表示整理まで残っていた。もともと銅谷は、根白石に3ヶ所、実沢に1ヶ所、仙台藩全体で129ヶ所も見つかっているが、烔谷と書き、昔、砂鉄をタタラにかけて銑鉄を作るタタラ製鉄の場所を指す。本沢では未調査なので遺跡は発見されていないが、多分にその匂いがしてならない。 昔の村長、当時の肝入りを務めた山田正人家、東海林家をはじめ、庄子家、高橋家、相沢家等、旧家が健在であるのは頼もしい。◆荒巻中央一歩行者専用橋がご自慢 荒巻字北川・北川山の全部と川平・古海道東のそれぞれ一部を合わせて荒巻中央とした。10数年前までは山の中で、狐も出歩いた場所が、西に中山、西北に桜ヶ丘、北に水の森と大団地群に包囲され、この辺りが何となく中央の感じになったのも無理はない。少々面映ゆいが、思い切って「中央」と付けてしまった。(写真:荒巻橋一右側が歩行者専用橋) ご自慢は、荒巻橋の脇に歩行者専用橋を付けたこと。これで荒巻橋は車が2台すれ違えるから、神明町の交通渋滞も緩和されると踏んだ。結果は必ずしも期待通りに行かなかったようだが、アイディアは十分評価されてよい。 古海道東という古めかしい名の土地と一緒に暮らしてきた山田一族、一条一族等が健在である。市営バスの臨時ターミナルとなった五差路の運営に力を貸し、また町内の水道敷設のため、いち早く水道組合を設立して頑張ったのも、この人たちであった。表通りには、商店街がある。ここの商店主には「通い」が多いというが、一人一人が知恵を出し合って、文字通り「中央」を誇れる町にしてほしい。◆葉山町ーJRに5分、地下鉄に4分 青葉神社の北裏に位置し、旧荒巻街道やJR仙山線にほど近い通町・通町北裏・穴田下堤・中才のそれぞれ一部と穴田・南間田下の旧集落を合体し、葉山町とした。南には青葉神社や東昌寺等の鬱蒼とした森、北は梅田川を隔てて全山の青松を背景とする住宅地帯を望む景勝の地。しかもJR北仙台駅に5分、地下鉄駅に4分、バス停には2分と交通至便の地である。 葉山御用邸、葉山温泉等、好印象があり、語調もいいので、この新町名は人々に歓迎された。交通至便、しかも小川が流れる静かな環境も好感され、日毎に人口を増やしてきた。この地域内には早くから老人ホームの長生園・楽生園が設置され、高齢者介護の実績を積み重ねてきた。◆堤(おだずま注、ママ)2丁目一堤人形は足軽の内職 JR仙山線・北仙台駅の西側踏切に立ち、「陸羽街道踏切」という掲示板を眺めつつ、北に一歩踏み出すと、すぐダラダラ坂である。ここは往年「焼物の町」として賑わった堤町の入り口である。 江戸時代初期、この地を城北の要衝とみなし、梅田川を堰止めた穴田池の堤を陸街道に充て、街道筋に足軽屋敷を配した。堤の北の鹿島崎には日浄寺、正眼院、浄眼寺の三寺を置いた。この一帯は景色も良く、街道の往来もあって、活気があった。 町名の堤町は、「土手八丁」の別名もある堤に由来する。堤(ママ)2丁目は、通町北裏の全部と堤町、荒巻字穴田東、三本松、山田のそれぞれ一部を合わせたものである。 この街は、良質の陶士に恵まれ、足軽たちの内職として制作された堤焼によって知られ、冬季の作業として堤焼人形も制作され、特産品となった。◆菊田町ーー狐沢も姿を消す 今の仙山線北山駅の西方一帯は、江戸期から菊田山と呼ばれる丘陵地で、梅田川の水源地帯でもあった。昭和に入ってからも、夜間、狐が行列して鳴いて歩く姿を、しばしば見たとは、近くに住む古老の話である。 字名は江戸期以来一貫して、菊田・菊田山・狐沢の三つであった。ここに開発の手が入ったのは、昭和47年以降で、仙山線ガード近く2ヘクタールほどが千代田苑という名称で造成・販売された。住所は、それぞれ旧字名のままであった。同62年7月に至り、荒巻では一番遅れて住居表示の整備が行われ、三つの小字が統合されて菊田町となった。 梅田川の源流といえば、中山のウドウ沼の湧水は水門をオーバーフローして流れ落ち、また国見ヶ丘の臨済沼・弁財天堂裏の湧水は東北福祉大キャンパス内の調整池を経て急勾配で梅田川に注ぐ。梅田川は2つの水源に恵まれている。【以下、荒巻圏の団地開発】◆開発適地の評価、公的開発が先行 藩政初期、仙台城下町の建設に際し、北山丘陵以北に押し込められ、続く明治・大正の都市計画では、「山岳丘陵ヲ控エ発展ノ余地ナシ」と無視された荒巻である。一転、戦後の住宅難で、北方丘陵地が注目され、特に荒巻地区は評価が高かった。開発適地が広く、高度も程々、地質上の難点もなかったからである。今、その範囲を旧国道4号線(現県道泉仙台線)以西、北山丘陵以北、県道仙台北環状線以南と限定し、これを荒巻圏と見立てて、住宅団地開発の足どりを整理する時、怒濤のように激動した日々が思い起こされる。 戦後いち早く出現したのは「荒巻県営住宅」で、昭和23年、南間田中(みなみまたなか、仙山線北側の緩斜面)に建坪35m2の可憐な住宅群が500戸建設された。共用井戸、道路は農道跡で雨天にはぬかるみ、劣悪な環境であった。続いて24年以降、手戸に「市営住宅」が70戸出現、31年には仙台市が神明町の農道に沿って、水田を宅地に転換し分譲した。ぬかるみがひどく、梅田川の氾濫で床上浸水にも見舞われた。31年以降、県住宅協会による「北山団地」が56戸、堤町でも24区画が分譲された。いずれも公的開発であった。◆民間開発の第1号は常盤団地 民間業者による開発第1号は、同35年、常盤常男氏等の海外引揚者共済組合によって造成された「常盤団地」である。旧国道4号線の西側の山に、その稜線とほぼ平行の道路を通じ、階段状に人家を列ねた。今は鷺ヶ森2丁目の東部をなしている。翌36年、その北方に、双葉建設(のちの双葉総合開発)による「双葉ヶ丘団地」が山の斜面そのままに造成・分譲された。今の双葉ケ丘1丁目である。 常盤団地は南に延びて、堤町西北の三本松に続<山地となり、その南に大山神社に連なる「大山団地」が小規模ながら整然と造成、38年、旧国道に面した東北斜面は、東一不動産の「東藤松団地」として開発された。41年、その西側に造成された勝山企業の「第一勝山団地」は、東斜面をコンクリートの大擁壁で覆った。49年、双葉ケ丘の創建者である双葉総合開発が、丸田山の斜面を削って「双葉グリーンハイツ」とし、現在の双葉2丁目を生んだ。その後、この高台がテレビ電波の送受信に好適であるため、東日本放送が着目、町内に小学校用地として残されていた遊休地を買い取り、社屋建設・移転を遂げた。◆古海道沿いに宅造ラッシュ 旧国道の西側の発展に遅れをとることなく、古海道(旧秀衡街道)方面にも、団地造成の波は押し寄せた。昭和35年、共済組合による「市職員共済団地」、その東南、今の水の森2丁目に仙台土地開発の「平和台」が造成された。さらに36年、平和台の東、今の水の森1丁目(当時は古海道東副(ひがしそい))にセルコホームにより「ひばりヶ丘」が出現した。39年には、平和台に隣接して、共済組合による「国鉄荒巻団地」「警友団地」も加わった。(写真:造成中の共済団地) 当時これらの団地は、北に走るカケス沢の上流にあり、ひばりヶ丘との間は山地で隔たっていたが、41年、その東斜面に横山商事の「幸福(さち)ヶ丘」が生まれた。続いて43年、勝山企業がカケス沢両側の山を削り、谷を埋めて「第二勝山団地」を開いた。古海道を隔てて西隣にあった三木ゴルフ場は84年(おだずま注、ママ)、旧泉市西部に転出し、その跡に大和団地(株)の「荒巻ネオポリス」が造成された。またひばりヶ丘の南側に、横山氏の所有する山林を崩して、第一開発が「北仙台グリーンプラザ」(現在あけぼの町)とし、その西には「希望ケ丘」が生まれた。まさしく宅造ラッシュであった。◆本沢の地主たちが協力した中山開発 昭和37年、東一不動産によって、今の荒巻本沢3丁目に属する山腹で、「川平東一団地」が開かれたが、軌道に乗らなかった。39年、双葉総合開発が、中山丘陵に乗り込んできた。「太陽の丘・中山ニュータウン」と名づけ、月急・滝道・鳶巣の三山を崩して、谷を埋める総面積142ヘクタールの大規模開発で、二十人山、六人山などの名で山林を所有する荒巻本沢の地主たちも、最初は渋っていたが、たっての要請に折れ、協力に転じた。 団地の中央を南北に12m幅の幹線道路を通し、電力研究所、国家公務員宿舎、尚絅短大、有名企業の社宅などを誘致した。41年9月の台風で、工事現場からの土石流が鳥滝不動尊を直撃、大惨事となった。完成まで約10年を要し、開発は成功したが、ほとんど同時に開発を進めた桜ケ丘とともに、朝夕の荒巻神明町の交通量に大きな負荷をかける等、思わぬ波紋をもたらした。 これより先、昭和38年、第一物産が滝道で「泉ヶ丘団地」の造成に着手、事業半ばで倒産した。しかも道路分を第三者に売却していたため、入居者たちが舗装・下水管の埋設に支障をきたし、その第三者と10数年にわたり交渉、最後は裁判に付し、一件落着という苦渋を味わった。また、滝道の北の細長い谷底は、46年、阿部勝治氏により開発、電話局分局、泉ヶ丘幼稚園が設置された。今の川平1丁目で、中山学区に所属している。中山開発に先立つ38年、中山2丁目南部で、永和商事(社長は台湾出身の方氏)による「荒巻永和台」、同時に貝ヶ森で恵通商事による「恵通苑」の造成が進められた。梅田川を隔てた菊田山側で、信三実業が「千代田苑」を開いたのは47年であった。◆挫折団地を生かした桜ケ丘、しんがり川平 川平沢を隔て、中山丘陵と向き合う丘の上に、昭和40年、丸春商会の「春日団地」が造成され、NHKの運動場の円形レストハウスが人目を引いた。同年、その後背に東北建設機動が進出、「桜ケ丘団地」の大部分の造成に着手した。46年には、ノースエンタープライズ社による「荒巻公苑団地」が開かれ、今の桜ケ丘3、4丁目をなした。先に東一不動産が放棄した桜ケ丘7丁目西半が、47年、東急不動産により「青葉台」の名で再造成され、その東北には、宮城学院女子大の広大な敷地が残された。 桜ヶ丘の入口に当たる丘の上に、前地権者の阿部勝治氏が築いた天守閣式「望岳荘」が話題を呼び、一方、桜ヶ丘に通ずる荒巻本沢2丁目の道路沿いに、スーパーマーケットを伴う高層マンション「荒巻ハイネス」(セントラルプラザ)が出現、地域商店街に衝撃を与えた。かってはホトトギスが鳴く静かな山村であった荒巻に、戦後わずか10数年で近代化の黒船が進入するとは、想定外の事態であろう。(写真:菊田町西の高台から造成中の貝ヶ森を臨む、昭和52年5月) 中山丘陵の北側頂上部に、かって明治不動産が放棄した「行楽園団地」は、45年、渡辺土建・東北不動産センターのジョイントで再造成され、川平2丁目の名が与えられた。この町内に、市中心部から転入してきた明成高校が開校した。行楽園の後背山地では、46年、勝山企業が「第三勝山団地」を造成した。今の西勝山である。 川平の開発は遅れた。荒巻土地整理組合が昭和51年、中山丘陵の北斜面、丸田沢以南の山腹を含めて、「荒巻宝団地」の名で開発、施工業者は間組・熊谷組であった。これが現在の川平3~5丁目である。これには、かつて東一不動産が階段状に削ったまま放棄した大平(おおだいら)西団地も含まれる。■関連する過去の記事(中山街道、秀衡街道、その周辺地域) 古海道東の公園たち(荒巻地区)(2025年12月07日) 中山、北中山、南中山(2025年01月07日) 水の森公園の叢塚と供養塔(2023年08月03日) 人口ゼロの北根村(2015年11月8日) 北根と七北田街道(2011年10月24日) 近世までの東山道と中山古街道、七北田街道(2011年10月23日) 中山峠の狼(2011年10月6日) 中山道と狼石(2011年1月13日) 仙台のロータリー(その12)中山吉成(その2)(2011年1月11日) 仙台のロータリー(その11)中山吉成(その1)(2011年1月10日) 仙台のロータリー(その10)桜ヶ丘ロータリー(2011年1月9日) 飛び地の多い上谷刈(2010年11月15日) 中山道を考える(再び)(09年11月23日) 忘れられた宿場町 根白石(09年11月4日)(奥州街道について) 朴沢の話(09年5月13日) 朴沢をめぐる(続・画像)(09年5月2日) 朴沢をめぐる(09年5月2日) 中山(なかやま)道を考える(09年3月25日)(根白石街道) 中山道のむかし(09年3月23日)(根白石街道) セントラル自動車が奥州街道を復活(09年2月13日)■関連する過去の記事(仙台の団地造成史) 仙台の団地名を考える(荒巻方面)(2012年5月27日) 昭和30-50年 仙台の団地造成の概要(その2)(2012年5月22日) 昭和30-50年 仙台の団地造成の概要(その1)(2012年5月22日) 仙台の団地名を考える(再び)(2012年5月20日) 仙台の「団地名」を考える(後編)(2011年12月11日) 仙台の「団地名」を考える(前編)(2011年12月11日) 仙台圏の宅地開発史を考える(2011年1月5日)
2025.12.14
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仙山線の北側、梅田川の左岸丘陵部は現在あけぼの町や荒巻中央の町名になっているが、古海道の名を冠した公園がある。その3つの公園を現地探訪した。■古海道東中公園(あけぼの町)荒巻コミュニティセンターの背後、荒巻ハイツの向かいに位置する。公園の南側には、林を抜けてコミュニティセンター正面側に通じる歩道がある(2025年夏に探訪)。■古海道東下公園(荒巻中央)市立荒巻保育所のすぐ坂道の下で、さらに南に梅田川に続く斜面(2025年夏)。この後3つめに紹介する古海道東上公園は、上記の下公園より北(丘陵の上部)にある。やや開けた感のある荒巻中央公園(次の画像、2025年夏)が保育所(画像の左奥)の北(撮影位置の背後)にある。夏の訪問時には上公園の存在に気付かなかった。■古海道東上公園(荒巻中央)夏に訪問できなかった上公園は、2025年12月の雪の日に、上の道から入って撮影した。以上、googleマップで位置を示すとこのとおり。仙台市公式サイトの旧新住所対照表によると、住居表示の際に小字名の「(荒巻字)古海道東」が、あけぼの町と荒巻中央のそれぞれ一部になった。なお、小字名「古街道東副(ひがしぞい)」は、水の森一丁目(一部)と水の森二丁目(全部)に変わっている(昭和53年、実施地区は北根・荒巻地区)。仙台市公式サイトの旧新住所対照表を見て記したのだが、これら2つの小字では海道と街道と、表記が違っている。また、対照表は旧字の五十音順配列で、(荒巻字)藤松の次にあるので、「こかいどう」ではなく「ふるかいどう」と読んだことがわかる。公園や地名に残されたかつての海道(街道)とは、私は、神明社から水の森に駆け上がる秀衡街道ルートを念頭に、政宗が奥州街道(七北田)を作ったために古海道(街道)となり、その東の地域という意味と思っているのだが、そうではなく、梅田川沿いに下流から秀衡街道や中山道に続く古海道(荒巻街道)を指摘する方も居られるようだ。次の画像は20年前の地図帳のページを撮ったもの。北山トンネル開通前で、セントラルプラザもある。公園が載っている。関連して見つけたもの。住居表示の対照表の中には、住居表示前の小字名に「荒巻字白石道北」があり、山手町(やまてまち)の9番(の一部)、11番(全部)、12番(9号だけ)、28番(全部)に町名変更されている(昭和43年、実施地区は通町地区)。このエリアは、仙山線北山駅(根白石踏切)から梅田川までの市道の両側の地域だが、この道は、山手町を過ぎて梅田川を渡る(菖蒲沢橋)と、中山入口交差点(ビバホーム)から中山団地本通り(バス通り)につながる。往古の根白石街道(中山道)は、中山団地では今のバス通りより西側を通ったようだが、山手町の区間(根白石踏切から菖蒲田橋まで)はまさにこの市道だったのだろうから、白石道北なる小字名があったのだと思われる。また、住居表示実施前の小字に「荒巻字海道北」があり、主に現在の国見六丁目41番に変わっている(平成4年、実施地区は国見地区)。国見駅や文化学園大学から南吉成経由で芋沢に向かう街道のまさに北側だ。■関連する過去の記事(中山街道、秀衡街道など) 中山、北中山、南中山(2025年01月07日) 水の森公園の叢塚と供養塔(2023年08月03日) 人口ゼロの北根村(2015年11月8日) 北根と七北田街道(2011年10月24日) 近世までの東山道と中山古街道、七北田街道(2011年10月23日) 中山峠の狼(2011年10月6日) 中山道と狼石(2011年1月13日) 仙台のロータリー(その12)中山吉成(その2)(2011年1月11日) 仙台のロータリー(その11)中山吉成(その1)(2011年1月10日) 仙台のロータリー(その10)桜ヶ丘ロータリー(2011年1月9日) 飛び地の多い上谷刈(2010年11月15日) 中山道を考える(再び)(09年11月23日) 忘れられた宿場町 根白石(09年11月4日)(奥州街道について) 朴沢の話(09年5月13日) 朴沢をめぐる(続・画像)(09年5月2日) 朴沢をめぐる(09年5月2日) 中山(なかやま)道を考える(09年3月25日)(根白石街道) 中山道のむかし(09年3月23日)(根白石街道) セントラル自動車が奥州街道を復活(09年2月13日)■関連する過去の記事(仙台の団地造成史) 仙台の団地名を考える(荒巻方面)(2012年5月27日) 昭和30-50年 仙台の団地造成の概要(その2)(2012年5月22日) 昭和30-50年 仙台の団地造成の概要(その1)(2012年5月22日) 仙台の団地名を考える(再び)(2012年5月20日) 仙台の「団地名」を考える(後編)(2011年12月11日) 仙台の「団地名」を考える(前編)(2011年12月11日) 仙台圏の宅地開発史を考える(2011年1月5日)
2025.12.07
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仙台オープン病院に行くため、一年ぶりに、東仙台駅から初冬の朝を歩く。高校生たちにすれ違いながら、最初に越える丘陵部が御立場町だ。以前は気づかなかったが、看板が気に入ったので、画像を掲示します。通りの名付け方に納得したり想像したり。自分が歩いてきたのは、神宮坂なのだった。ここは、下記の2023年9月の記事の画像のすぐそば。利府街道を横断した先の坂道では、こんどは通学の小中学生たちとすれ違うのだった。■関連する過去の記事(松原街道、東仙台、燕沢、岩切あたり) 案内のネコ(2024年10月14日) 何事もあわてずいそがずまず相談(シリーズ仙台百景 43)(2024年10月14日)=苦竹の梅田川沿い 平田神社(宮城野区原町二丁目)(2024年08月22日) 原町苦竹の道知るべ石(宮城野区原町三丁目)(2024年08月23日) 平田橋(宮城野区原町三丁目・五丁目)(2024年08月24日) 延慶の碑(平田五郎)の新しい説明板(利府町)(2024年08月17日) パルテノン神殿?(シリーズ仙台百景 42)(2024年01月06日) 遊んではいけません(シリーズ仙台百景 40)(2023年09月10日)=鶴ヶ谷カトリック墓地 比丘尼坂(2023年09月05日) 大須賀森(鶴ヶ谷カトリック墓地)(2023年09月04日) 御立場町(2023年09月02日) 小鶴城跡(2023年09月01日) 利府町の埋蔵文化財(2022年5月7日)=板碑、延慶の碑について 南口新設 変わるか岩切駅周辺(2016年2月14日) 七北田川の自転車道、中野小学校、日和山(2015年11月22日) 今日の七北田川(2015年9月13日) 平田五郎の力試し石のあった神谷川と平田橋を探して(2015年3月28日) 平田五郎と力試し石 画像です(2015年2月27日) 平田五郎と力試し石(2015年2月23日) 仙台のアイヌ語地名(2013年4月18日) 燕沢の地名を考える(再論)(2013年4月14日) 四野山観音堂(2013年4月2日) 多湖の浦と田子(2012年11月8日) 茨田踏切(2011年12月31日) 仙台のロータリー(その4)東仙台5丁目(2010年11月26日) 清水沼のこと(10年9月8日) 七北田川の自転車道を楽しむ(10年5月3日) 岩切城そして仙台市北東部の古城を学ぶ(07年9月4日) 松原街道(07年8月18日) 漂泊の旅 岩切「おくのほそ道」(06年11月4日) 燕沢の名前(06年3月17日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2025.12.06
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