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日本武尊を祀る能褒野(のぼの)神社を散策。3/20(金) 13:53県道639号線の北方向。道路脇に案内板の『日本武尊御墓』この辺りの桜の蕾は硬い参道入口の石柱は『縣社 能褒野神社』能褒野王塚古墳(景行天皇皇子日本武尊能褒野墓)御幣川と安楽川の合流点に近接する、標高45m程度の段丘端部に所在する前方後円墳である。全長90m、後円部径54m、同高9m、前方部幅40m、同高6.5mで、北勢地域最大規模の古墳である。この古墳から採取されたという鰭付朝顔形円筒埴輪や器材埴輪から4世紀末頃の築造と考えられる。これらの埴輪は、奈良県北部地域や京都府西南地域との関係がうかがえ、畿内周辺地域の勢力が、濃尾地方へ伸展するルート上にある地理的条件によってもたされたものであると考えられよう。日本武尊(倭建命)が東征の帰路に伊勢国能褒野(能煩野)で薨じたとの『記紀』記述により、明治12年(1879)内務省によって「景行天皇皇子日本武尊能褒野墓」に定められ、墳丘の修復に併せて、畿内の王陵墓に倣い周庭帯が設けられた。しかしながら、近世においてはこの古墳が日本武尊の墓という認識はほとんどなかったものと見られる。周囲に十数基の円墳が所在し「培塚」とされているが、これらは後期古墳と考えられる参道を登り石鳥居。能褒野神社の一の鳥居は、JR亀山駅前にあり、二の鳥居は亀山宿の手前にあった静かな参道を進む、宮内庁管理の敷地常夜燈が建ち左側の石柱には「日本武尊御墓参道」能褒野神社境内入り口能褒野神社能褒野神社鳥居と拝殿めずらしく記帳する弥次さん、私も記帳した拝殿の扁額「御祭神日本武尊 能褒野神社」拝殿から参道を振り返る拝殿、社務所石柱には「能褒野墓 飛地ほ号 宮内庁」14:07駐車場で鳥のさえずりが聞こえてくるズームアップすると14:10能褒野神社の東側にある『奈具志理神社跡』の石柱。所在地:三重県亀山市田村町水乃神の碑【倭建命(ヤマトタケルノミコト)之碑】 倭建命は、今からおよそ1600年前に活躍された人で、当時の天皇(父親)の命令で日本の各地 へ遠征し、国内の戦乱を平定されたとされる古代の英雄であり、その神話は今でも人々に永く 伝えられています。東北地方の戦乱を平定された後で、故郷を偲んで和歌を詠まれ、能褒野の 地でその短い生涯を閉じられました。 尚、倭建命が東北の地に遠征した時、その地に子孫を残されて、その子孫が何年かの後、天狗 の姿に身を変えられ亡き父(倭建命)のお墓がある能褒野に辿り着き、その後此の地に住み着か れ原家の御先祖様になられたとのことです。【水乃神の碑】 此の碑は、倭建命の妻であった弟橘比売命(オトタチバナヒメノミコト)をお祀りしています。 弟橘比売命は夫の倭建命が遠征の時、荒れ狂う海に自ら飛びこまれて、荒海を鎮め夫を助けら れたとされる神話が永く伝えられています。この神話が水にまつわるとのことで、水乃神様と して倭建命の側にお祀りしました14:13奈具志理神社跡を後に、交差点の右側角に石柱があるが14:20伊勢国府政庁跡所在地:三重県鈴鹿市広瀬町政庁は、中央政府から派遣された国司を中心に、儀式や饗宴などが行われていた国府の中でも最も格式の高い施設です。伊勢国府の政庁は、正殿・後殿・脇殿・軒廊などからなり、周囲には東西約80メートル・南北110メートルの築地塀を巡らしています。政庁の建物はすべて瓦葺礎石建物でその配置や大きさは近江国庁によく似ています。正殿・後殿・脇殿の基壇は、今も森の中に1メートルほどの高まりとして残っており、全国的にも貴重な遺構として保存されています畑の中に林として残っている廻りは畑伊勢国府政庁跡を振り返る14:26国道1号線へ戻ると、もう何度も見たプロペラ機。中古建設機械販売店の社長が組立てたと日本橋から411.8km機体には日本国。機体の重量はどのくらいあるのか14:40亀山の『樋口本陣跡』を探しに亀山市街地へ旧東海道(県道565号線)の路肩へ車を止め、前方は江ケ室交番前旧街道を振り返る、商店街はこの日もシャッター街亀山のアーケード街にある『樋口本陣跡』公園には『旧佐川邸跡』の石柱この木は榎?、木の下に石柱『旧佐川邸跡』立札に何か書いてあったのか14:54前回(1/21)見落とした『浄土宗 終南山光明院 善導寺』所在地:三重県亀山市西町327左の石灯籠寄進は『板倉勝澄公』山門からの本堂元は亀山城本丸付近にあり、岡本宗憲が築城するにあたって現在地に移転したと伝えられる古刹です。境内には亀山城本丸から出土した石造物が安置されているほか、墓地内には江戸時代初期の亀山城主三宅康信室である清光院墓塔や藩校明倫舎学頭の柴田右仲墓(市史跡)があります15:15水口宿へ行く途中遅い昼食をとるために関宿へ立ち寄るが、時間が中途半端で「支度中」と。目的地はここ『山石』であったのだが!所在地:三重県亀山市関町中町521 百五銀行関支店前かんばんには「亀山 みそ焼きうどん」、和洋レストラン上記食堂の軒先には『山石 岩間家』幕末に建った建築で山石は、明治・大正にかけての料亭であった。また廂の屋根の隅に唐獅子の置物が取り付けられているのは、厄除けの一種と思われる江戸後期・明治・大正・昭和のレトロな雰囲気の中でお食事はいかがですか 山石この看板を見て来たのだが、残念ながら支度中、またいつの日か訪れたい山石を振り返る。今日は三連休の初日で観光客も散策していた関宿の京方面観光客が散策、弥次さんもレストランを探しに地蔵院近くへ移動、街道裏に車を止める15:21弥次さんが地蔵院横の『会津屋』前で立ち止まり所在地:三重県亀山市関町新所1771-1メニューおこわが人気の店、今回の道中で数回店先に来たが、時間が遅かったり早かったりで食べれずようやく念願叶う店内に入り「山菜おこわ・そば」1,180円をオーダーそば・おこわとも美味しかった。おこわに南天の葉がなんとも風情がある店内では孫を連れて来店女の子で10カ月?15:51既に、ひな祭りは終わっていたが『会津屋』の札。『会津屋 森元氏宅』会津屋は鶴屋、玉屋とともに関宿で有数の大旅籠であった。明和から天明にかけて会津屋の前身山田屋で育った小万が女の身で亡き父の仇を討った烈女「関の小万の物語」は有名である 最後の弥次喜多移動日-続く
2020.04.30
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東海道五十三次の最後の弥次喜多道中の、延べ日数30~32日目の挑戦へ。今回は京都三条大橋のゴールを目指すので、3泊4日の旅を弥次さんに計画願った。天気が良いとのことで、3月20日(金)の朝弥次さんに我が家へ来ていただき出発。いつものよ うに今までで見落とした所、尋ねたいところはとのことで日本武尊を祀る『能褒野(のぼの)神社』をリクエスト。カーナビを『能褒野神社』にセットし、いつものように一般道路優先で出発。3/20(金) 6:11 春分の日今日も朝から天気が良く富士山がくっきりと見える西湘バイパスからの箱根の山並み、正面は二子山、右に駒ケ岳6:24西湘バイパスの酒匂川辺りからの富士山6:46標高846メートルの箱根峠へ。三連休の初日だが新型コロナウイルスの影響か渋滞もなく順調にここまでくる6:53山中城の裏側を走るバイパスからの富士山国道1号線からの函南辺り6:55食堂 富士見平所在地:静岡県三島市谷田2304-7食堂は時間が早く開店前。食堂の外観は営業しているのか?の感だがネットで調べると、ボリュームたっぷりの定食が自慢で、お刺身、麺類、おつまみなどメニュー数が豊富であると店の裏を箱根峠からの新国道1号線が走り、旧国道はこの上を右へ入る左側は旧国道1号線、右へ上ると旧東海道の『山中城址跡』「食堂 富士見平」横の旧東海道最近バイパスが完成し、この旧東海道も完成していた。山中城辺りからまっすぐ下りて来る完成した旧東海道からの富士山箱根旧街道:浅間平地区の石畳復元・整備慶長9年(1604)江戸幕府が整備した東海道の中で、小田原宿と三島宿を結ぶ、標高845mの箱根峠を越える箱根八里(約32km)の区間に当たる。この旧街道には、通行の人馬を保護する松や杉の並木が作られ、道のりを正確にするための一里塚が築かれ、またローム層の上で大変滑りやすい道なので、延宝8年(1680)頃には石畳の道に改修された静岡県下の「夢舞台東海道」登り口に芭蕉の句碑「霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き 芭蕉」7:05国道1号線を下るこの先の「三島塚原I.C」から伊豆循環自動車道へ入る、前方は、三島・沼津市街地伊豆循環自動車道からの富士山宝永山噴火口をズームアップ7:41国道1号線の「東田子の浦」辺りからの富士山、西からの風が強いようで雪が舞う7:54由比バイパスから三保の松原、日本平を望む。薩埵峠からの富士山も綺麗であろうが、既に撮影しているので今回は先を急ぐ8:48掛川の粟ヶ岳の「茶文字」、以前は松を植えていたが現在の木は、『ヒノキ』とのこと。旅友から「幼少のころ遠足で行った」とのコメント、あれから40年記憶がいいですね!9:48国道1号線(浜名バイパス)の浜名大橋今回の弥次喜多道中で何度目の通行になるか?11:05国道23号線(岡崎バイパス)の『道の駅 筆柿の里・幸田』。所在地:愛知県額田郡幸田町大字須美東山17-5筆柿が気になり、トイレ休憩で立ち寄る幸田町観光案内所道の駅 筆柿の里・幸田パーキング。道の駅にはレストランもあり、メニューで「筆柿味噌カツ丼」980円、丼ご飯の上に千切りキャベツ、その上に揚げ茄子と豚カツ、胡麻ダレをかけ、その上に柿ペーストがある筆柿ようかん、筆柿極上ゼリー特産物の「筆柿(通称:珍宝柿)」形が筆の穂先に似ていることから「筆柿」とよばれ、幸田町が生産量日本一を誇ります。富有柿や次郎柿より約一カ月早く収穫でき、一足早い秋の味覚として親しまれていますとろーり食感「たま麩」どのようにして食べるのか、安いので買えばよかった!12:23国道23号線を走り木曽川に架かる「木曽川大橋」12:25揖斐川に架かる「揖斐長良大橋」12:48国道23号線を走り四日市市街地に入ると渋滞。裏道を走ることに、この先を右折して山側へ12:53国道1号線を横切り、県道64号線を西方向へ進む13:08久保田橋北詰交差点を左折して三滝川を渡る13:12久保田橋を渡り南詰交差点を右折して国道477号線を三滝川の上流方面へ進む。この先の、新尾平橋南詰交差点を左折して県道8号線を南下する引き続き県道8号線を南下13:49能褒野(のぼの)神社駐車場所在地:三重県亀山市田村町1409のぼのの森公園古代より伝えられる「日本書紀」や「古事記」によると、景行天皇の皇子日本武尊は東征の帰路に、この地「能褒野」で亡くなり墓が営まれたとされています。その日本武尊御墓周辺の良好な自然環境と四季折々の木々が広がる、のぼのの森公園での散策をお楽しみくださいヤマトタケルの能褒野御墓(亀山市田村)「能褒野王塚古墳」 能褒野王塚古墳は、全長90m、高さ9mの規模を持ち、4世紀後半の築造とみられる北勢 地域最大の前方後円墳です。平安時代以降、ヤマトタケルの墓の所在地は不明となってい ましたが、明治12年(1879)に内務省によって能褒野王塚古墳がヤマトタケルの墓と定め られました。「能褒野神社」 能褒野御墓が定められると、墓に隣接してヤマトタケルを祀る神社創設の機運が高まり、明 治18年(1885)に能褒野神社が創社されました。ヤマトタケルのほか、オトタチバナヒメ(弟 橘媛)タケカイコノミコ(建貝児王)が祀られています。また、明治41年(1911)には、式内社 の県主神社や那久志里神社などが合祀されています駐車場の前は県道639号線の南方向設備の銘板をズームアップ『亀山市井田川・能褒野汚水第一中継ポンプ場』 最後の弥次喜多移動日-続く
2020.04.29
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この時期例年だとゴールデンウイークになり、日本各地の観光地も混雑、また今年は東京オリンピックも後3か月になり聖火も各地を回り新聞、TVはこの報道であったろう。しかし今年は新型コロナウイルスの感染も先が見えず、GWも緊急事態宣言で「外出自粛要請」が出されどこへも行けない毎日、私も80%接触を避け畑で作業。4月16日(木) GWに野菜を植えるために準備畑を耕していると『イソヒヨドリ』が一羽畑を耕すと幼虫が出てくるのでそれを目当てにイソヒヨドリは、スズメ目、ヒタキ科に分類される鳥の一種。アフリカとユーラシア大陸に広く分布する鳥で、和名どおり海岸や岩山などで多く見られる。全長23cm、オスは頭から胸、背、腰までが青藍色、腹は赤褐色、翼は尾は黒っぽい。このイソヒヨドリはオスであろう鳥は眼が良いのか飛び降りてすばやく幼虫を捕まえるくちばしに幼虫をつかみ私の近く2~3メートルで動き回っていたハクセキレイも飛来幼虫を3匹ぐらい食べると満足なのか鍬の柄の先に留まり3月5日に飛来した『ジョウビタキのオス』幼虫を投げると食べてくれる4月21日(火)庭先で咲くマーガレットフクシアアカバナ科の低木で、花が美しいので鉢植えなどでよく栽培される。日本では訛って「ホクシャ」などとも呼ばれる私の目にはイヤリングに似た花でもあるが、後方にクンシラン(君子蘭)クンシラン(君子蘭)十二単(じゅうにひとえ)和名は、花の咲く様子を宮中の女官などが着る十二単に見立てたものである。俳句の季語は春である石楠花サクラソウオダマキ方向をかえてバックから旅友から頂いたイチゴサヤエンドの花スナップエンドウの花ブルーベリーの花三本植えているが今年はどれだけ実が付くか近くの川沿いではツツジが咲き桜の時期も終わり学校は休校で静か学校の花壇ではチューリップが咲き最後に我が部屋で咲かせた胡蝶蘭を一鉢。この他に玄関先で紅・白が三鉢咲いているどこかへドライブしたいが、最近は往時のように県境には関所(検温)が。明日から、弥次喜多道中最後の道中記をアップします。 END
2020.04.28
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三筋の道へ入ってから雨足が強くなる。水口宿の名物は広重の保永堂版『東海道五拾三次 水口』に描かれているように干瓢で、そのほかは葛細工の行李や釜敷、煙管(きせる)だった。代々の水口藩主が干瓢と葛細工で作ったお茶の釜敷を大名間の贈答に用いたので、全国に有名になった。また野洲川をはじめ川や水田が多く泥鰌が取れたので、旅籠では一年中泥鰌汁を出した。2/22(土) 12:48三筋の道の旧東海道(真ん中)を進む弥次さんが立ち止まり何かを撮影、右側に『御菓子匠 一味屋』の看板問屋場跡問屋場は、宿駅本来の業務である人馬の継ぎ立てを差配したところで、宿駅の中核的施設として、公用貨客を次の宿まで運ぶ伝馬と、人足を用意しました。水口宿では、江戸中期以来ここ大池町南側にその場所が定まり、宿内の有力者が宿役人となり、運営にあたりました12:49菓匠 一味屋(いちみや)所在地:滋賀県甲賀市水口町京町5-18店先には「東海道水口宿 一味屋」の石柱が建つ。文政年間創業、水口銘菓や季節の生菓子を豊富に取り揃えている感じの良い奥様で、店内を撮影させていただく。創業200年で現在は6代目のオーナーで老舗菓子店。賞状も多く掲げられていたお土産に「忍術最中」を購入、店内で草餅を食べる12:57一味屋の前の正面の松の下に『問屋場跡』の石碑東海道水口宿大池町所在地:滋賀県甲賀市水口町本町12:59東海道水口宿大池町のからくり時計石柱は「大池町」、奥に「大岡寺(だいこうじ)」「古城山」からくり人形は午前9時・正午・午後3時・午後6時に動きます上段が時間になったら開くからくり。下段はつねに動いているからくり。上段にひとり、壁際で頭をゴンゴンうちつけている人がひとりいます。時間になると水口囃子を演奏してくれるからくり人形(ネット情報から)からくり人形を振り返る。左側に観光用の駐車場がある13:01旧東海道を進む『いまむら呉服店』雨足が強くなり、倒壊前の古民家?民家の前に建つ社歩道面のタイル「みなくち」昨年のポスターがまだ貼られていた水口本町 郵便局雨の中、三筋の道(旧東海道)を進む当初予定の今日のゴールは、JR草津線の三雲駅の予定だが雨が強くなったのでこの辺りで中止にと思いながら進む、この辺りは「平町(ひらまち)」カラーの「みなくちおすいマンホール」左側に「米屋町(こめやまち)」の石柱13:10三筋の道の最終ポイント。ここまでの歩数は、23,000歩宿場町の水口天下を握った家康は、慶長6年(1601)東海道を整備し、五十三の宿駅を置いて公用輸送を確立、この時水口も宿駅となりました。宿場は、町数27、家数718と発展、俳聖芭蕉も逗留し「命二つのなかに生たる桜かな」の句を残しています。庶民の旅が盛んとなった江戸後期には40余の旅籠と本陣・脇本陣があって客引きで賑わいました。宿場の名物には干瓢・葛細工・煙管・泥鰌汁等があり、夏の風物詩「かんぴょう干し風景」は歌川広重の浮世絵によって広く世間に知られました前方に近江鉄道の踏切手前に馬渡川に架かる小さな「石橋」石橋から三筋の道を振り返る。中央が旧東海道。ここにも、からくり人形がある雨が強いためほどほどに移動石橋から振り返る江戸時代初期はここが「京口」とされていました。年頭に勧請縄が張られた際には、旅人は被り物を取り、馬から降りて通っていました。水口はこの「石橋」を境にして、水口岡山城の城下町として整備された以東と、寛永以降水口城の築城などにともなって発展した以西に大きく分けられます。石橋の下を流れる小川は、水口岡山城の堀から流れる「馬渡川」です。また、東と西では、水口曳山祭のお囃子の曲調も異なります13:13弥次さんも靴が濡れここで止めようと中止にし「近江鉄道水口石橋駅」の駅舎へ。ここまでの歩数は、23,500歩。駅舎内に入ってから、ますます雨足が強くなる、風が無いのが幸いだった貴生川駅行きの電車は、13:58近江鉄道線 旅客運賃表乗車電車まで45分ありどうするか検討、貴生川駅(250円)へ行ってもそこからホテルへはタクシーになるので、ここからタクシーに乗ることにしタクシー会社へ電話15分ほど待つことに駅のホームへ上がり貴生川方面先程の「石橋」、米原方面駅舎内に掲示されていたポスター2020年2月7日(金)~3月1日(日)の毎週、金・土・日曜日に運行 3銘柄の大吟醸酒が楽しめる + 9銘柄の地酒が飲み放題 + おでん&特製料理 乗車料金は、4,800円(税込み)、近江鉄道1日乗り降り自由近江鉄道 鉄道マスコットキャラクター 駅長がちゃこん13:40タクシーでホテルへ戻り、ホテルへお礼(車の施錠忘れ対応)を述べ、13:45にホテルを出発して帰路に着く。自宅への到着予定は一般道優先で0:30。14:07今朝歩いた道に沿って走ると、国道1号線の土山支所前交差点にある『平成万人灯』。今朝もバスの中から撮影した平成万人灯は、石種:白御影石、高さ:9.33m(基礎上)、重さ:156.8トン。夜間は火袋が点灯すると同時にライトアップされ、街道を往来する車や人達の道しるべとなっている。またいつの日かこの道を走ったとき対面するのか土山宿、坂下宿、関宿、亀山宿、庄野宿、石薬師宿、四日市宿沿いに国道1号線、23号線を走る。15:42前回の道中でも食べた「かつや名古屋四港店」立ち寄る。この頃には雨も上がり曇り空にヒレカツをオーダー、安くておいしかった17:10国道23号線(蒲郡バイパス)の蒲郡I.Cを出て、上大内東交差点を右折して県道73号線を北上。17:22国道1号線の音羽蒲郡I.C交差点に突き当たり、ここを左折して、御油宿方面へ17:50国道1号線の豊橋市内この辺りの吉田宿は、昨年の9月26日(木)に歩いている自宅へは、箱根越えで 22:10に到着。東海道延べ日数29日目の今日の歩行数は、24,000歩でした。次回は、3月に京都三条大橋を目指しいよいよ最後の道中となる。 END
2020.04.27
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雨の中、水口宿へ向けて歩くが風が無いので助かる。水口宿は東海道50番目の宿場町である、また水口は古代から東国や伊勢への道が通り、室町時代には宿が形成され足利将軍の伊勢参宮時には休泊所となった。天正13年(1585)秀吉の家臣・中村一氏が水口岡山城を築いた際、宿場町として整備され、現在の町並みの基礎となった。江戸側の出入口から三筋の道に分かれる珍しい町並みはこのときに造られた。2/22(土) 12:11スギ林の中に『八幡神社拝殿』八幡神社石鳥居が珍しく二個連続して建っている拝殿前から境内、旧東海道の南方向水口町の古木・名木の『スギ』補助棒が付けられた『観音堂』観音堂の前に建つ『新城観音堂の小絵馬』八幡神社境内に建つ観音堂は、本尊に馬頭観音をまつり、古くから交通関係者の信仰を集めたと伝えられる。堂内には二百あまりの素朴な小絵馬が奉納され、特に水口宿の旅篭や宿役人など、東海道の往来によって生計を立てた人々から奉納されたものが目立つ。奉納の盛期も、東海道利用の消長と重なることから、江戸時代の交通に関わる民俗資料として貴重であるもともと新城の200m北に最澄が創建したとされる天台宗の寺院「天水寺」の本尊でしたが、天正年間(1573~1592)に兵火に遭い廃寺となり、のちに八幡神社で祀られるようになったとされています境内には遊戯施設もあるが倒壊が怖い12:19八幡神社から旧東海道に戻り、案内板に従い右斜め方向へ進む民家の塀の上で、まるで手招きしているようだが12:22旧東海道を進むと右前方に今にも倒壊しそうな民家、一部倒壊しているが東海道の松並木江戸時代東海道の両側には松並木が整備され、近隣農村がその管理を行いました。並木は風や日差しをよけ、旅人の疲れを癒したのです。街道の清潔なことと、手入れの行き届いた松並木は、東海道を通行した外国人も賞賛した記録があるほどでしたが、先の大戦を境にして、その多くが失われました。水口宿に程近いこのあたりからは、松並木の合間から古城山が望まれ、絵のような景色であったと思われます12:25雨の中を傘をさして進む弥次さん、前方は古城山(水口岡山城跡)水口岡山城は、天正13年(1585)、秀吉の家臣の中村一氏が水口岡山城を築きました。その後、増田長盛・長束正家と、いずれも五奉行の一員が城主になっています。標高282mで、山頂から鈴鹿峠から蒲生一帯を一望することが出来ます。関ヶ原合戦で西軍に味方し落城しました。現在では石垣がわずかに残り、曲輪は山頂及び中腹にあり、これを区画する堀切や竪堀の跡が認められます旧東海道を進み右側には古民家を進むが街道が狭い右側に小さな社坂を下ると前方に、国道307号線の秋葉北交差点。左の小高い所に『大師寺』大師寺本堂所在地:滋賀県甲賀市水口町秋葉5-8真言宗のお寺で弘法大師が祀られている。住職が西国八十八ヶ寺の土を集められ、これに因んだ石仏がちょうど八十八あり、ここに来れば、八十八ヶ寺廻りができると12:30秋葉北交差点を渡り、山川に架かる『山川橋』。ここまでの歩行数は、20,900歩山川橋を渡ると右側に『秋葉水公園』石柱には「東海道五十次 水口宿」と刻んであったが「三」は忘れたのか?弥次さんは雨が強くなり先を進む。五十次は、品川から50次目とのこと、できるならば「目」も刻んでほしい!街道を振り返る、右上に『大師寺』前方の坂を登ると右側に、『東見付(江戸口)跡』12:33坂を登ると右側角に、「東見付(江戸口)跡の前に『ようこそ水口へ 水口宿』」東海道水口宿東見附(江戸口)跡見付とは近世城郭の門など、外と接し警備を行った場所をさす。この地が水口宿の東端すなわち「江戸口」となったのは、野洲川の川原に沿って通じていた東海道が、山手に付け替えられ宿の東部諸町が整備された慶長10年(1605)以降のことである。特に天和2年(1682)の水口藩成立以降は、水口はその城下ともなり、町の東西の入口は警備の施設も整えられた模様である。享保年間(1716~1736)作成の「水口宿色絵図」によると、桝形土居がめぐらされ、木戸や番所が置かれている。「伊勢参宮名所図会」(寛政9年刊)に描かれた町並みは、この辺りの風景を描いたものと考えられる。なお、西見付(京口)は宿の西端、林口五十鈴神社の南側にあった東海道五十三次、保永堂版「水口」水口特産の干瓢(かんぴょう)を干している東見附(江戸口)跡を振り返り、水口宿へ入る東海道水口宿旧東海道筋に背の高い『田町・片町曳山蔵』所在地:滋賀県甲賀市水口町秋葉1お囃子と曳山のある宿場・城下町 曳山蔵 田町・片町大きさは、全巾:3.85m、全長:4.83m、全高:6.2m、車径:1.2m<水口曳山祭り>水口神社の春祭りで、江戸時代中期の享保年間(1716~1735)に宿場町であり城下町であった水口の活力を背景に、町民の力によって創り出された近江東南部を代表する都市型祭礼。賑やかな曳山巡行と江戸祭り囃子の流れをくむ「水口囃子」で知られます。4月19日 宵宮、 4月20日 例大祭・曳山巡行片町の石柱松原町の石柱ここの石柱も東海道五十次だ、一般的に知られているのは「五十三次」なので「目」を!石柱の側面に品川から五十次目と刻まれていたのか?旧東海道右側に『本門佛立宗 日風寺』所在地:滋賀県甲賀市水口町元町8-21大きな石には、日風寺と刻まれており、右奥に新しい本堂12:40街道左側に『水口宿脇本陣文右衛門跡』所在地:滋賀県甲賀市水口町元町9-8旧水口宿脇本陣この建物は、水口宿の脇本陣の一部とされ、文久3年(1863)の「水口宿内軒別書上帳」の中に記述がみられることから、19世紀前半の建築と推定されています。現在残る建物は当時の一部のみとなっていますが、脇本陣の特徴である大きな間口・奥行が見られ、もとの家屋規模は水口随一の大型町家であったと想像できます。その構造や蟇股などの装飾は石部宿や土山宿の本陣にも類似性が見られます旧水口宿脇本陣の一部の間取り図作坂町にある『水口宿本陣跡』この本陣の写真は当日(2/22)は雨で撮り忘れましたので、3/20移動日に撮影したものです。折角説明板等が建てられているが、ごみ収集場所にもなっており見落とした。収集場所はもう少し考えてほしいものですね!本陣の跡地の中央に『明治天皇聖蹟』、左奥に『明治天皇行在所御旧跡』の石柱この地は江戸時代水口宿の本陣が置かれていたところです。本陣とは大名・旗本・宮家・公家・幕府役人などが休泊するための施設で、これを補助するものとしては脇本陣があり、水口宿ではその両方が宿の東部の作坂町にありました。本陣は規模が大きく、一般の旅籠屋には許されない門・玄関・書院などがあって格式を示し、その経営には宿の有力者があたりました。この本陣は代々鵜飼氏が経営にあたり、間口も一般の三軒分に相当する広大なものでしたが、明治2年に行われた明治天皇の宿泊をもって、その歴史を閉じ、その後建物は撤去されました本陣前から旧東海道を進む右の家の商売は「仏匠堂 ぬし又本店」各宗仏壇仏具製造販売・位牌・修理・洗いせんたく左の家は「桔梗屋文七」12:42三筋の道入口には『高札場跡』があった。現在の三筋の道は一方通行になっている高札場、作坂町集会所、公衆電話BOX高札場跡「お達し」を公示する掲示板で、まちの中心のひとめにつきやすい辻、橋詰、出入口等に設置されました。水口宿では、作坂町と旅籠町の境、三筋町の北筋と真ん中の筋の合流するところに設置されていました。江戸時代には立札とも言われ、犯罪事実の公示・通報や、逮捕の協力を求めていました。特に寛永17年(1622)の宗門改役が設置されてからは「隠れキリシタン」取り締まりのため、密告への賞金制度等が掲示されました三筋の真ん中の道(旧東海道)を進むことに、左方向へ進む三筋の道、ピンクの道を進む旧東海道(真ん中の道)を進むと左手に『TAKUMIYA ダイニングカフェ』所在地:滋賀県甲賀市水口町元町6-612:45ここで二股になり右側が旧東海道(真ん中の道)で右側へ進むここの石柱も「東海道五十次 水口宿 旅籠町」水口宿は宿泊が少なく休憩が中心の宿だったので、留女の客引きは激しかった。留女たちは旅人の胸ぐらをつかみ、さらに手や足を取り無理やり旅籠に引き込んだと道中記にある 土山宿~水口宿 -続く
2020.04.26
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今在家一里塚の休憩所で持参のバナナを食べ、雨が激しくなってきたので、リュックにカバーを取り付け傘をさして出発する。2/22(土) 11:35今在家一里塚から隣接する浄土寺へ浄土宗 権現山 浄土寺山門所在地:滋賀県甲賀市水口町今郷 6.浄土寺東海道が大きく南に折れ曲がる角に権現山浄土寺が建っています。境内の近くには一里塚も残っており、かつては東海道を行く旅人で賑わったことでしょう。浄土寺は浄土宗に属する寺院で、本尊は阿弥陀如来、甲賀四国八十八個所の八十六番札所として、今も参拝をする人が絶えません。いつお寺が開かれたかは明らかではありませんが、延宝9年(1681)に再建されたと伝わります。現在は八幡神社の境内に移されていますが、かつては歯の神様として信仰を集めていた白山権現社が建っていました浄土寺本堂何か開催されたのか本堂前にステージ境内のクスノキ水口町の古木・名木樹木の所在 : 水口町今郷 浄土寺地内樹 種 : クスノキ(クスノキ科)樹木の説明 : 高さ25mに達する常緑高木。5月、新葉と旧葉が交代する。花は淡黄色。果実は 11月黒熟する。台湾の原産で古く渡来し、各地に植栽される。材からショウノウ をとる雨の旧東海道を進む街道左側に六地蔵旧東海道を進む11:44旧東海道を進み、県道549号線と合流、振り返り左が旧東海道、右は県道549号線説明板の一部が破損県道549号線に沿って歩き、旧東海道は斜め右方向へ進む振り返り合流点をズームアップ11:45左は県道549号線傘をさして旧東海道を進む屋号は『桶屋』田村まつりのポスターみなくちの集排用おすいマンホール11:50旧東海道の右側に『龍王山 宝善寺』所在地:滋賀県甲賀市水口町今郷789宝善寺本堂前には車が駐車傘をさして弥次さんが路地を入って行く、手前の石柱は『岩上不動尊 八坂神社 参道』ズームアップすると、鳥居の扁額は『八坂神社』宝善寺を振り返る雨の中、狭い旧東海道を進む11:54県道549号線と合流11:55県道に合流してすぐ右手に『岩上公園』。弥次さんが雨の中登るが引き返してくる岩上公園のご案内入口より徒歩5分で公園に登れます。中腹には岩神社が祀られており、頂上では野洲川の清流と遠望の鈴鹿山脈を見渡せます岩神のいわれかつてこの地は野洲川に面して巨岩・奇岩が多く、景勝の地として知られていました。寛政9年(1797)に刊行された『伊勢参宮名所図会』には、この地のことが絵入りで紹介され、名所であったことがわかります。それによると、やしろは無く岩を祭るとあり、村人は子どもが生まれるとこの岩の前に抱いて立ち、旅人に頼んでその子の名を決めてもらう習慣のあったことを記しています岩上不動尊 岩神社 参道11:56旧東海道は『岩上不動尊 岩神社 参道』の先を直ぐに斜め右方向へ進む12:02旧東海道を数百メートル進み左側に『浄土宗 日照山 永福寺』山門を入り手水舎絹本著色阿弥陀如来四尊来迎図浄土宗に属する永福寺の寺宝で、現状は掛幅装である。竪83センチ、横35センチの小形の図で、阿弥陀を中心に、観音・勢至・地蔵の四尊が、雲に乗り来迎する姿を描く。着衣の衣紋は、微細な截金で表し、鎌倉時代末期の様式をよく示している。数少ない鎌倉時代の来迎図として貴重であり、昭和59年水口町の文化財に指定された雨の中本堂を望む永福寺本堂本堂の扁額『永福寺』本堂から山門へ12:09旧東海道を進むと右手に『八幡神社』石柱所在地:滋賀県甲賀市水口町新城水口町の古木・名木、『スギ』水口町の古木・名木樹木の所在 : 水口町新城 八幡神社地内樹 種 : スギ(スギ科)樹木の説明 : 最も広く植栽される常緑針葉樹。自生地のものは高さ40m、幹の直径は2mほどに達する。 幹は直立、樹皮は縦に裂ける。葉は針形で枝に密につく。雌雄同株、3月開花。雄花はだ円 形で枝の先端に集まってつき、風で花粉を散らす。雌花は球形で緑色。球果は球形。気質と なり種子は種りんに2~5個つく。枝葉は冬季暗赤色になる。枯れた部分は枝ごとに落ちる。 本州~九州の山地に自生し、屋久島のスギはヤクスギと呼ばれ樹齢200年を越し、自生地は 特に有名である。材の用途は広い。 和名:幹が直立していることによるスギ林に囲まれた、八幡神社の拝殿 土山宿~水口宿-続く
2020.04.25
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国道1号線の大野交差点を渡り、北側へ進むが、『浄土宗 若王寺(にゃこうじ)』へ立ち寄る。2/22(土) 10:41交差点を渡ると『浄土宗 布引山 医王院 若王寺』の石柱。先程の、三好赤甫が葬られている寺院である、路地正面に山門・鐘楼・本堂が見える。所在地:滋賀県甲賀市土山町大野1856鐘楼・山門寺の門は、甲賀古士大野家の門を移築した。門の前の石橋は、寛政年間、四国の阿波国の斎藤某が、伊勢神宮の帰途にこの寺で子供を授かることを祈願したところ、子宝に恵まれたため、それに感謝し、享和元年(1801)3月に、この橋を寄贈した。昔の人は信仰心があったのだと、それに比べ最近の我々は寄贈という言葉が・・・・・・・浄土宗 若王寺 本堂安土の浄厳院の末寺で、本尊は薬師如来である。起源は古く、最澄(伝教大師)がこの付近に草寺を建立し、その後諸堂を増築し、一大寺院になったと伝えられている。往古は天台宗の寺であったが天正年間(1573~1591)の兵火に遭い全焼した。その後、仮の堂が建てられ承応2年(1653)に改宗して浄土宗の寺となり、信長の命により安土の浄厳院の末寺となる。万治元年(1658)に本堂ができ、宝永8年(1711)に再建、寛政年間(1789~1800)に瓦葺の本堂になった本堂前から、山門・鐘楼10:45旧東海道に戻り「若王寺」を振り返るS 字カーブの旧東海道、スピード制限は30km「通学路のため車はスピードをひかえめに」。このようなカーブはスピードを出しすぎてハンドル操作が・・・・・・街道脇の花壇に咲くクロッカス曇り空に紅梅10:50土山宿から出ているがこの辺りにも『旅籠 東屋 跡』があったのだ下は国道1号線の徳原交差点、旧東海道は県道183号線を越える学童がいるのか飛び出し坊や単純な街道を進む屋号、東海道大野村『瓦屋』街道脇には「土山茶」の茶畑単純な街道を進み、前方に国道1号線の大野西交差点が見えてくる。ここまでの歩数は、15,500歩11:08大野西交差点の手前角に『東海道 土山宿今宿 石碑』があり、常夜燈が建つ交差点から旧東海道を振り返る。名神名阪連絡道路の早期実現を!国道1号線を振り返る。常夜燈には『東海道 土山宿今宿』の刻み国道1号線を渡り振り返る旧東海道は大野西交差点から斜め左方向の県道549号線へ進む。左は「甲賀市水口」の標示、西の空は雲がより厚くなるがどうにか雨は降らず11:10街道脇に大きな『水口宿』。旧東海道はこの先を右方向へ進む昨年の8月にもここでこの案内板を見た甲賀市をズームアップこの先の三叉路を右方向へ11:14県道549号線から右に入り緩い坂を登るとすぐ右手にあった案内板。今郷歴史街道マップ『東海道と里山の須恵器の里』9カ所の史跡・名所の紹介所在地の地図だがすぐ横にあったのが『9.稲川碑』稲川端に立つこの石碑は稲川碑と呼ばれており、石碑の下からは今も清水が湧き出ています。江戸時代には東海道を行く旅人が喉を潤していました。碑文によれば、天保4年(1647)水口城代の山口重成(即翁了心ともいう)が土山宿と水口宿の間には飲み水がなく旅人が困っていたため、稲川沿いに井戸を掘って、水を湧き出させたと言われています。この碑文は延宝4年(1676)、先人の功績を讃えるために建てられたものです。また、村の言い伝えでは、源平合戦のさ中、平景清が敵の矢に目を打たれ、東海道まで落ち延びた折、稲川端の清水で目を洗うと、たちまち血涙が止まったとのことです。いつしか村民はこの水を景清の目洗い水と呼ぶようになりました緩い坂を登ると直ぐ街道の左手に『8.経 塚(KYOZUKA)』8.経 塚お経を埋めたと伝えられる小高い墳丘状の塚で、鈴鹿山経塚とも呼ばれています。経塚は一般に、平安時代の末法思想とともに発展し、経典を経筒に納めて埋めたり、江戸時代には小石にお経をかいた一字一石経などを埋めることが流行し、個人の祈願や追善供養、積徳の行として行われました。この経塚は、延暦20年(801)、このあたりに化け物が出没したため、大般若経を読んでこれを鎮め、その後、村人がこのお経を土中に埋めて塚とした言い伝わります小雨が降り出し、街道の左側には『古民家 カフェ 一里塚』の看板二階が低い『古民家 カフェ 一里塚』 、OPEN と軒下には多くの薪が積まれていたが暖炉でも?所在地:滋賀県甲賀市水口町今郷59211:20前方に背の高い木が現れる。ここも昨年8月に訪れているのでかって知った場所である。ここまでの今日の歩数は、16,300歩この辺りには一里塚は、泉・林口・今在家(現在地近傍)の三箇所に存在しました。塚本体は高さ数メートルにおよぶ大きなもので、塚上には榎の木などを植えて目印としました。行程の目安となり、また日影を与えてくれるものとして親しまれましたが、明治維新後は撤去されてしまいましたお江戸日本橋から112里目の一里塚7.今在家一里塚江戸日本橋から112里目にあたり『今在家村地券取調総絵図』によれば、今の位置よりも東にあり、また道を挟んで両側に対に築かれていたことが描かれています。江戸時代の一里塚は明治の初年に撤去され、現在の一里塚はその後、復元されたものです。今は塚の上に榎が植えられていますが、かつては桜が植えられていたと伝わります一里塚から振り返る塚の手前に『地蔵院 権現山 浄土寺』の石柱 土山宿~水口宿ー続く
2020.04.24
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大野小学校前から街道を進む。2/22(土) 10:17小学校から数百メートル先の左側(南)に『浄土宗 明鏡山 長圓寺』の石柱長圓寺山門所在地:滋賀県甲賀市土山町徳原77山門を入り本堂へ長圓寺本堂庫裡「竣工記念碑」長圓寺の由来はじめ長圓寺は禅宗にして明鏡山と号す。文明の頃、兵火に罹り堂宇消失す。其の頃伊勢参宮の僧之を見て悲しみ村民を集めて再建を謀り遂に一堂を建つ。天正7年(1579)禅宗を改め浄土宗となり安土浄厳院の末寺となり近世水口大徳寺の末寺に転ず。安政5年(1858)11月14日の夜火災のため堂宇消失す(甲賀郡史による)。その後再建され現在に至るまで約150年風雨風雪に耐えてきたが頓に危機感を憶える程に老朽化が進み護寺は甚だ難しく、檀信徒の願いをかなえるべく・・・・本堂の扁額「長圓寺」10:22右側の民家の庭先に石柱旅篭 吉野家跡街道左側には屋号『指物屋』東海道大野村 指物屋10:27旧東海道を進むと左側に『三軒家集会所』同じ敷地内に新しい社が建つ旧東海道をはさんで『三軒家集会所』の北側にある『大野公民館』中央に『鴨長明の歌碑』 「あらしふく 雲のはたての ぬきをうすみ むらさきへ渡る 布引の山」布引山は名山であり、また歴史舞台であった東西三里の間、布を引く如く。春はたなびく春がすみ、夏は松の緑に映え、秋は月にさえ積もる雪も美しき雪の朝、山の姿うるはしく、春夏秋冬それぞれ趣あり。平安の昔より阿須波道を行ききし斎王群行や、大宮人参宮の旅人によりて詩に歌によまれてきた。有名な歌人、鴨長明もこよなくこの布引山を愛し、詠まれた歌がある。・・・・・・・・公民館の前に建つ「あいの土山観光案内図」はお疲れ気味街道沿いに建つ碑は『眞風軒(しんぷうけん)の漢詩』漢詩は『過土山即興』土山を過ぎて即興する。採茶の時節、事匁忙す。緑髄の青芽壮なり 僻郷に清風あり。一瀹、君知るや否や、遠きに到る。紅洋黒漠として香し。眞風軒(しんぷうけん)という人は、「眞風軒詩鈔」という漢詩の本を作られており、甲賀郡内をあちこち散策され、各地の風情を漢詩にしておられる人で、江戸時代後期から明治時代にかけての人であります赤茶色の旧東海道を進む旅籠 井筒屋左側に石柱旅籠 中屋 跡左側の民家の格子は新しい最近の格子は木製、アルミ製があった旅籠 日野屋 跡江戸時代の街道筋は旅籠が立ち並んでいたようだが、土山宿では飯盛女はいなかったと明治天皇聖蹟10:36安井酒造場所在地:滋賀県甲賀市土山町徳原225お土産に購入したかったが、持ち歩くのであきらめる小さな酒蔵で直売している、酒は「蔵元 地酒 初桜」街道の向かい側(北側)にも『安井酒造場』、敷地内に『旅籠 金屋 跡』旅籠 田畑屋 跡10:38国道1号線に突き当たる右側に石碑がある石碑は『三好赤甫先生をしのびて』 師の訓を 座右の 銘とし 汗に生く三好赤甫旧跡三好赤甫(みよしせきほ)(1798~1873)は、待花園月坡と号し、通称才市と呼ばれた。生家は代々魚商であったが、少壮より俳諧に親しみ、嶬峨上田村の宍戸霞洲に就いて教えを請うた。その後、家業を子に譲って京都へ上がり、東福寺法主虚白禅師に就いて十年余り研鑽を深めた。その間、京・大阪の斯道の諸大家と広く交わった。その後、郷里に帰って後進を指導し、この地方の俳諧の基礎を築いた。俳著に『窓あかり』がある。明治5年10月19日、75歳で没し、ここから北側の「若王寺」に葬られている。 碑銘「ほととぎす 早苗に影を のこしゆく」三好赤甫の子孫が経営しているのか、『会席料理 みよし 赤甫亭』の看板。かなりの老舗であると、またいつの日か田舎への帰途に立ち寄るか!所在地:滋賀県甲賀市土山町大野2175交差点の角に地蔵像があり、石碑が石碑には「布引山・・・・・・」と刻まれていたが。素朴な大日如来の石仏?交差点に『若王寺』の案内板交差点から旧東海道を振り返る10:40国道1号線の大野交差点道路標識は、大津:43km、甲賀市街:7km、今日は後約7km程歩くのだ。旧東海道はこの交差点を渡り北側へ進む 土山宿~水口宿-続く
2020.04.23
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街道を進み土山宿の大野地域から岩上地域へ向かう。2/22(土) 9:50旧東海道南側に『諏訪神社』所在地:滋賀県甲賀市土山町市場146諏訪神社の参道綺麗に掃除跡が残っていた天気が怪しいのでここも入口だけでスルー参道横に咲いていた紅梅街道の角にミラー市場区 住宅案内図少々疲れ気味の案内図です街道右側に『浄土宗 長泉寺』『市場児童遊園地』9:53浄土宗 長泉寺(ちょうせんじ)所在地:滋賀県甲賀市土山町市場185山門前の左側に石碑『子安延命地蔵尊』長泉寺本堂本堂の扁額「光??」本堂前の観音堂?旧街道に戻る、この辺りも赤茶色の舗装道路10:00右側に『大野市場一里塚跡』の石柱ホテルを出てからここまでの歩行数は、9,500歩土山町内の設置場所は、山中地先、土山地先、大野市場地先であったが、現在その跡はほとんど残っていない。塚の規模は、およそ高さ2.5メートル、円周12メートルの大きさであったと伝えられている。土山地先の一里塚は、土山町北土山の大森慶司宅付近にあったと伝えられ、この付近の字名は一里山と名づけられている一里塚を振り返る旧東海道を進む、前方に大日川に架かる大日川橋大日川橋の手前右側に『大日川堀割』の石柱前方に松並木大日川大日川橋橋を渡った左側に建つ『東海道 反野畷』の古い石柱大日川(堀切川)堀割往古頓宮山より流れ出る水は谷川を下り、平坦部に達すると自然に流れ広がり、このため一度大雨になると市場村、大野村方面の水害は甚しかった。大野村は水害を防ぐ手段として、江戸時代の初期より市場村との境に堤を築き、このため、間にはさまった市場村は、洪水時甚大な被害を受けることになった。元禄12年(1699)、市場村は排水路を堀割りし、野洲川に流すことを計画し領主堀田豊前守に願い出て許可を受け頓宮村境より延長504間、川幅4間の排水路工事に着工し、川敷地の提供から市場村民の総賦役により、元禄16年(1703)に完成した大日川を渡ると『反野畷(そりのなわて)・松並木』へ寛永年間、幕命により東海道沿線に松が植栽されたが、明治21年、県庁より松と堤の処分法が発令され、この時多く伐採されている。畷とは、あぜ道のこと。国道1号線に「東海道松並木」の標識があったが本数は少なかった石柱には「従是東淀領」10:08街道の左側の石柱は『東海道 反野畷』街道を進む野洲川の下流方向小学校のグランドで子どもたちの声が。今日は土曜日で、野球の練習西の空は雲も厚くなり今にも雨が降りそうだが、どうにかもっている屋号は、東海道徳原村『ひょうたん屋 跡』街道右側に『花枝(はなえ)神社』花枝神社の祭神は大変多いが、往古から八王子権現、十禅師権現とも言われ歴史は古い。起源は平安時代後期の漢学者であった大江匡房が書いた本に、嘉祥3年(850)4月に喜多兵官という人が、坂本の日吉神社の八王子社、日吉十禅寺の分霊を勧請して二社の社殿を建立し、江染寺の名木を移植した。その名木の花の美しさから花木堂と名付けられた。社殿は天正6年(1578)と延享2年(1745)に再建されている。花枝神社の社名は明治26年(1893)からである。祭事は神輿の渡御で、山本神社まで巡行する小学校の前の広場に『シーボルトとトキの剥製』シーボルトはオランダ商館医として文政6年(1823)に長崎に赴任し、医師として活動する傍ら西洋医学を始めとする蘭学を日本人に教えた。当時オランダ商館長は四年に一度、江戸に赴き将軍に拝謁する義務があり、文政9年(1826)の江戸参府にはシーボルトも随行した。日本に関心が高かったシーボルトは道中で植物や動物を採集し、また日本人絵師に生物や風景なども写生させていた。3月26日には土山に宿泊したが、その途中の大野村でトキの剥製を買い求めた。また鈴鹿峠ではサンショウウオも買ったと記されている。2年後に発覚したシーボルト事件では幕府の禁制に反したとしてシーボルトは国外退去させられるが、トキの剥製などの収集品はオランダに送られた。現在もこの剥製はライデン市の自然史博物館で展示されているが、日本を代表する鳥だということで大英博物館からニッポニア・ニッポンという学名がつけられている10:14甲賀市立 大野小学校所在地:滋賀県甲賀市土山町大野949明治6年(1873)に崇道学校と敬業学校として開校し、後に大野西と大野東の尋常小学校となる。明治42年(1909)に合併し、校舎を新築し大野尋常高等小学校となった。その後、校舎整備が行われ、4列の校舎が、東西に平行して並んでいた。また、同窓会館は昭和3年(1928)に建築された。南から3列目の校舎であり、昭和52年(1977)の校舎改築時に曳き屋され、現在の位置となった小学校の隅に「昔の気分をあじわいませんか、心安らぐ東海道」10:17小学校から数百メートル先の左側(南)に『浄土宗 明鏡山 長圓寺』の石柱 土山宿~水口宿ー続く
2020.04.22
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瀧樹神社をスルーして旧東海道を進む。2/22(土) 9:26瀧樹神社入口から前方右側にある社赤茶色の旧東海道を進むこの古民家の屋号は東海道 前野村 『聴松園茶舗』S カーブの街道を進む街道沿いの民家の梅が満開9:32瀧樹神社の石柱が再度建つ入口が二カ所あるようで、こちらには駐車場があったので、こちら側が表参道か瀧樹神社の由来この神社の由来は、約2000年前からの神聖なる地として知られている神社である。倭姫命が巡行された時、この場所に朝夕の調膳の殿舎を建立された所であり、さらには斎王群行の斎王が禊をされた川が近くにある。平安時代の仁和元年(885)に伊勢国、瀧原宮の長由介の宮の御祭神、速秋津比古之命・速秋津比咩之命の御分霊を勧請して本社の主祭神としている神社である。室町時代の文明2年(1470)には、当時の領主であった岩室主馬頭家俊と云う人が京都北野天満宮の御祭神で学問の神と云われている菅原道真の御分霊を勧請しそれを本社に遷宮され、並宮として祭祀されている。また延徳元年(1489)には現在国の選択無形民俗文化財に指定されているケンケト踊りがはじめて奉納され今日に至っている本殿まではここより200m先。平成17年(2005)には本殿・拝殿が大改修新築され同時に境内の全面的な整備がなされ、神社の一層の荘厳さを増している(写真から)街道を進む、屋号は『油屋 佐右衛門』9:35街道右側に『福慧山 地安禅寺(ぢあんぜんじ)』所在地:滋賀県甲賀市土山町前野529-1禅宗の黄檗宗で、総本山は京都宇治の万福寺。往古聖徳太子が建立したが兵火にあい焼失。江戸前期に日野の正明寺住職により再興された 築約280年の鐘楼門林丘寺宮御植栽の茶後水尾法皇の木像が納められている御影堂が境内に建てられた頃、この鐘楼門前の参道両側には林丘寺宮が茶の木を植栽され、毎年一、五、十月にはここで収穫された茶葉が鈴渓茶・仁泉茶の銘で林丘寺に献納されていた。この茶畑は昭和の初めまで栽培されていたが、現在ではここにある一樹のみが記念として残されている地安寺と後水尾法皇後水尾法皇(1596~1680)は地安寺を開山した龍渓和尚に深く帰依され、その関わりから崩御の後、皇女の照山元遥尼(1634~1727・出家前の名は朱宮光子内親王)から法皇の木像と位牌が地安寺に下附された。また地安寺には特に金毛院という院号が授けられ、法皇の三回忌には尼直筆の観音経が納められた。法皇は京都の修学院離宮を造営され、その隣には光子内親王の山荘が建てられていたが、法皇崩御の後に林丘寺という尼寺に改められ、内親王は出家された。林丘寺は尼門跡寺院として後には音羽御所とも呼ばれた。またその寺名から照山元遥尼は林丘寺宮とも呼ばれ、和歌と画に長けた方であった手水舎、本堂左に御影堂、正面に本堂御影堂前野の地安寺には、後水尾法皇の御影御位牌が安置されている。後水尾法皇は慶長元年(1596)、後陽成天皇の第三皇子として生まれ、慶長16年、16歳の若さで即位された。徳川幕府が成立していく中で天皇になられたが寛永6年(1629)、明正天皇に皇位を譲られ、34歳で上皇になられた翌年、御生母中和門院が56歳で崩ぜられ、この頃から法皇と禅僧のかかわりあいは一層深くなられた。特に地安寺開山の龍渓禅師への帰依は深く、宇治黄檗開山にあたっては、龍渓和尚を通じ、地位も名誉も放棄して大事業に邁進された。遂には龍渓和尚の禅法をつがれたが、延宝8年、85歳の高齢で逝去された。元禄11年(1698)、普明院(法皇の第一皇女)の意向により、法皇の像、位牌を下附され、その安置所として宝永5年(1708)地安寺境内に建立された。*説明板は「御水尾法皇」「御陽成天皇」とあったが「後・・・」の間違いでは?本堂から鐘楼門を望む本堂前の『子安地蔵尊』本堂の扁額9:39雨がパラパラと落ち始める、地安寺を後にする民家の軒先では風に揺られて街道を進むが、右側の古民家は住民不在か一部屋根が壊れている屋号は『米屋』この辺りの住所は、東海道頓宮村(現 土山町頓宮)道路標識は ← 長泉寺 0.5km、地安寺 0.2km → 国道1号線の頓宮(TONGU)交差点旧東海道の北側を国道1号線が並行している民家の匠の技旧東海道を進む街道沿いの民家の庭古民家街道脇に『御場泉(おんばせん) 入口』の案内板自然エネルギー活用事業小水力発電装置設置場所 大野地域自治振興会所在地:滋賀県甲賀市土山町前野420旧東海道から南側へ坂を下ると『御場泉』滋賀県の代表的な湧水で、天照大神の御神霊に供えられ、また倭姫命の飲用水として献上したと。現在はこの湧水を利用して、地元自治振興会が小水力発電としてる御場泉の湧水幅30cm程の小型の水力発電水の流れで羽を回して発電、照明用のLEDを点灯している街道脇のネットの中はブルーベリーの栽培か?9:47左に『垂水頓宮御殿跡』の石柱垂水頓宮御殿跡伊勢神宮に伝わる『倭姫命世紀』によると、垂仁天皇の皇女であった倭姫命は、天照大神のご神体を奉じて、その鎮座地を求めて巡行したと伝えられる。土山町頓宮には巡行地のひとつである「甲可日雲宮」があったとされ、この時の殿舎がこの付近に設けられたことが「御殿」という地名の由来とされる。また、後世には垂水頓宮に関連する施設も造営されていたと伝えられる 土山宿~水口宿-続く
2020.04.21
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新型コロナウイルス騒動もまだ終わらず、5月6日まで全県に「外出自粛要請」。国民一人当たりの支給額が30万から10万円に、今回は全員に支給とか。3月23日に東海道五十三次も終え早一ケ月、今はそのまとめで二度目の旅をしており、これが終了した後は何をするか・・・・・・。桜前線も山形、弘前へと北上、他県へ行くのも往時のように通行手形がいるのか?東北地方へ行くのも「白河の関」が厳しそーだ!!!!!4月5日(日) 野球の帰りに、グランド近くの工場沿いの桜を撮影。場所は、JR相模線の倉見駅から近い『倉見桜緑道 寒川町』いつもはこの時期、提灯があり夜桜も綺麗で賑やかなのだが今年は中止満開を過ぎ花びらが地面を覆い三密を避けて一人散歩枝垂れ桜ワンちゃんとも濃厚接触を避けいつもは手をつないでいるのだが家族も濃厚接触は避けてレギュラーガソリンは値下がりして、120円/ℓに、ドライバーにはうれしいが自宅への帰路、茅ヶ崎の『浄見寺』へ、桜が満開であった浄見寺山門の前に『大岡越前守菩提所』の石碑本堂と「旅たちの法然さん」、近江当たりでは「せいし丸(勢至丸)さま」の像が建っていた。浄見寺は、茅ヶ崎の堤村を本領とした大岡家の二代当主、忠政が父忠勝の追善のために、慶長16年(1611)に建立した浄土宗の寺院です。忠政の法名 ”大綱院殿忠誉窓月浄見大居士” から、四文字を取って、山号、窓月山、寺号、浄見寺と名付けたとされています山門を入ると右側に新築された鐘楼本堂左裏の桜は終わっていた。浄見寺は、大岡家代々の菩提寺で、元和元年(1615)に、この寺に改葬された初代、忠勝の墓石を始めとして、13代まで一族累代の墓碑58基が整然と並んでいます。山門左の一段高い所に並ぶ13代の墓所は、市指定の史跡になっていますが、中でも5代目越前守忠相の墓は柵に囲まれている咲き終えた桜。茅ヶ崎ではこの時期、『大岡越前祭』が開催されるが新型コロナウイルスで開催中止になった。今年は、第65回大岡越前祭が4月18日(土)、19日(日)に開催予定であったつつじも咲き始め色鮮やかに何とも言えない鮮やかな赤浄見寺南側に隣接する「スリーハンドレッドクラブ゙」のメタセコイアは芽吹き前枝垂れ桜も終了、奥に古民家があるが耐震構造改築のため立入禁止にシャガも咲き始めていた山門から公園、左に古民家芝桜も八重の桜も咲き、ソメイヨシノと競演新型コロナウイルスのパンデミックが早く終結し、通常の生活に戻ることを祈る!!!!!!テレビでは出演者も自宅からのテレワークで参加! 4月5日ヒロ散歩ーEND
2020.04.20
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今にも雨が降りそうな中、水口宿へ進む。2/22(土) 8:43国道1号線沿いに建つ、『御代参道(ごだいさんみち)道標』、水口方面。土山宿を横切る国道1号線の脇に二基の道標が建っている。「高埜世継観音道」と刻み、天明8年(1788)設置された。高埜世継観音とは近江の多賀大社へ行く途中の永源寺観音堂のこと。もう一基は「右北国 たが街道ひの八まんみち」と刻み、文化4年(1807)に日野の豪商が設置した。皇族が派遣した代参の使者が通ったので「御代参道」の名が付いたこの道標の左に進む小路が旧御代参街道で、右斜めに進む道が旧東海道である。御代参街道は東海道土山宿のこの地点から笹尾峠を越え、鎌掛、八日市を経て、中山道愛知川宿手前の小幡までの十里余りの脇往還である。この道は中世においても重要な間道であったが、正式な脇街道として整備されたのは17世紀のことである。寛永17年(1640)三代将軍家光の乳母の春日局が将軍の名代として多賀大社へ参拝し、この道を通って伊勢神宮へ参詣された際に、この道は整備拡張されたといわれている。江戸時代には、皇族が毎年伊勢神宮と多賀大社へ名代を派遣する習わしがあり、京から伊勢神宮へ詣で、帰路土山宿から多賀大社へはこの道が利用されたことから御代参街道と呼ばれるようになった(この案内板の設置場所から、最初の左、右は反対になります)国道1号線から北側の御代参街道へ少し入ると『見性庵廃寺跡』の石柱8:48旧東海道は国道1号線の北側を進み案内板。『ようこそ「歴史の道」東海道へ』ここは土山町滝町です。これより東海道は、往時、野洲川を横切っておりましたが、現在は通行できません。図に示すとおり、国道1号へ迂回いただき、「歌声橋」をお渡り下さい。土山を訪れていただいた皆様のご無事をお祈りいたします8:55旧東海道が寸断されているため国道1号線へ戻る。この先を横断して斜め左方向へ8:57右側は国道1号線旧東海道の迂回路に親切な目立つ案内板、この先へ、足進めれば歌声橋、のんびり歩こう旧東海道。これより三キロ先に松並木前方に歌声喫茶ならぬ『歌声橋』9:00人と自転車のみが通れる『歌声橋』国道1号線の上流側に架かる白川橋。 上流にはロックフィル式の『青土ダム』があり「世界でも例のない形をした洪水吐」は必見と!野洲川の下流側は渓谷美。歌声橋の下流側の直ぐ左から、田村川が合流する9:05国道1号線の交差点を横切り、迂回路から旧東海道へ進む、廻りは土山茶畑道路脇に石柱があり何か刻んであったが9:07この先の右下が『松尾の渡し場跡』この下が野洲川の『松尾の渡し場跡』松尾の渡し場跡から坂を登ると左側に碑。碑には鈴鹿馬子唄が刻まれていた。「坂はてるてる 鈴鹿はくもる あいの土山雨がふる」坂道を上り旧東海道を進むあいの土山マラソン街道を進むと茶畑の中から鳥の声、しばし立ち止まり撮影「ホオジロ」?9:14甲可日雲宮(かふかひくものみや) 東の宮倭姫命が諸国巡行された時、この地に4年間滞在。数百人の随行員が長期間生活するのに最適な場所だったと思われる。郡内各所へ足を運び、田村神社にも関っていたと思われる先程渡った歌声橋方向9:17史跡 垂水頓宮址所在地:滋賀県甲賀市土山町頓宮静かな杉林を進む前方に小さな社が現れる伊勢神宮遥拝処右側の立札には「賜 伊勢神宮遷宮古材」世にふれは 又も越えけり鈴鹿山 廿日の今になるにや あるらむ右は醍醐天皇の第四皇子重明親王の長女斎王徴子(きし)女御の歌である。(注) 徴子女御は斎王として天慶20年(938)に僅か9才で伊勢へ下向されたこの時、ここ垂水頓宮に 御宿泊なされ、又貞元2年(977)に斎王に卜定された娘である村上天皇の第四皇女規子内親王 に母として付添い49歳のときに再び伊勢群行に同行され、ここ垂水頓宮に二回目の宿泊をな された節にこの歌を詠ぜられた斎王垂水頓宮址ここ垂水斎王頓宮跡は、斎王が群行でお泊まりになられたところである。斎王制度は、今から約1300年前制定されたもので、歴代天皇がご即位されるたびに、未婚の皇女または女王の中から占いで選び出された『斎王』を天皇のご名代・天照大神の御杖代として多くの神々をお祭りする制度であった。平安時代仁和2年(885)京都から伊勢を結ぶ大道『阿須波道』ができ、翌886年平安京から五泊六日の群行となった。近江の国は勢多・甲賀・垂水、伊勢の国は鈴鹿・壱志の五ヵ所である。ここ垂水頓宮には378年間に31人の斎王が泊まられたという記録が残されている。斎王が宿泊されたところを『頓宮』といい、仮の宮とか、にわかの宮を意味する。群行が行われるたびに建造され、終わるとすぐに解体されたので遺構が残らず所在地の限定に困難をきわめた。この垂水頓宮跡は、昭和10年に当時の内務省から派遣された学者たちが現地調査した結果、頓宮跡地であることが実証され、昭和19年には文部省より唯一の国史跡として指定された。現在は周りを囲う土手・井戸跡が残っている。また、平成10年から『あいの土山斎王群行』として群行を再現し、顕彰に努めているここ垂水の頓宮建立跡地は、平安時代の初期から鎌倉時代の中期頃まで、約380年間31人の斎王が伊勢参行の途上に宿泊された頓宮が建立された所である。斎王とは、天皇が即位される度毎に、天皇のご名代として、皇祖である天照大神の御神霊の御杖代をつとめられる皇女・女王の方で、平安時代に新しく伊勢参道がつくられると、この道を斎王群行の形でご通行されることとなった9:21国道1号線沿いに建つ『史跡 垂水頓宮跡』9:22国道1号線の前野交差点この交差点を左へ進むと、新名神高速道路「甲賀土山I.C」へ至る前野交差点を振り返る、右の森は「垂水斎王頓宮跡」赤茶色の旧街道を進む9:25瀧樹(たぎ)神社所在地:滋賀県甲賀市土山町前野155鳥居の扁額は「瀧樹神社」この神社には、次の二つの宮が祭祀されている。 一、瀧樹大明神宮 一、天満宮この神社の祭礼日は、毎年5月3日で当日は、国の選択文化財に指定されているケンケト踊りをはじめ花奪神事や神輿の渡御が行われる盛大な祭である。平成17年に本殿・拝殿が新築され同時に境内の全面的な整備がなされ神域の荘厳さを増している 天気も悪く境内まで時間を要するので参拝せず 土山宿~水口宿ー続く
2020.04.20
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土山宿本陣跡から町並みを今日のゴール水口宿へ進む。2/22(土) 8:21国道1号線の土山支所交差点から南(一の松通り)にある『大黒屋公園』大黒屋公園にある句碑「土山や 唄にもうたう はっしぐれ 蘭更」 作者 高桑蘭更(たかくわらんこう) 俳人 亨保11年(1726)~寛政10年(1798)加賀国金沢(石川県金沢市)に生まれる。生家は屋号釣瓶屋という商家。本名忠保(または正保)、通称は長次郎。俳諧を和田希因に学び、蕉風の復興に努め、与謝蕪村らとともに、俳諧中興に貢献、後年医を業としながら京都東山双林寺内に芭蕉像を安置する芭蕉堂を営む。芭蕉関係の俳書を翻刻、注釈するなど功績を上げた。俳風は温和高?。門下から桜井梅室や土山に縁のある虚白禅師等を輩出する旧東海道の北側にある大黒屋公園には、『大黒屋本陣 跡』『土山宿問屋場 跡』の石柱が立つ大黒屋本陣土山宿の本陣は、土山氏文書の「本陣宿の事」によって、甲賀武士土山鹿之助の末裔土山氏と、土山宿の豪商大黒屋立岡氏の両氏が勤めていたことがわかる。土山本陣は、寛永11年(1634)三代将軍家光が上洛の際設けたのがそのはじまりであるが、参勤交代制の施工以来諸大名の休泊者が増加し、土山本陣のみでは収容しきれなくなり、土山宿の豪商大黒屋立岡氏に控本陣が指定された。大黒屋本陣の設立年代については、はっきりと判らないが、旅籠屋として繁盛した大黒屋が土山本陣の補佐宿となっている。古地図によると当本陣の規模は、土山本陣のように、門玄関、大広間、上段間をはじめ多数の間を具備し、宿場に壮観を与えるほどの広大な建築であることが想像できる明治天皇聖蹟の石柱奥に神社の座大黒屋公園に西側には『巖稲荷神社 跡』『巖稲荷神社 跡』の石柱旧東海道に左側に『土山宿陣屋跡』陣屋とは、江戸時代勘定奉行の配下である代官が在住した屋敷である。ここ土山宿の陣屋は、天和3年(1683)、当時の代官であった猪飼次郎兵衛のときに建造されており、瀬古川の東崖にあり、東西25間、南北30間の広さがあったといわれる。以降代官は入れ替わったが、宝永3年(1706)からは多羅尾四郎右衛門に、そして、明和8年(1771)より岩出陣右衛門らに引き継がれ、天明2年(1782)より、再び多羅尾氏に引き継がれていたが、寛政12年(1800)の土山宿の大火災で屋敷は類焼し、以後再建されず、120年の屋敷の歴史を閉じた。以来、陣屋は信楽に移り、多羅尾氏の子孫が世襲し、明治維新に至っている旧東海道を進み前方の両側に白い塀らしきものがズームアップすると撮影に夢中の弥次さん吉川に架かる「大黒橋」であった鈴鹿馬子唄「坂は照るてる 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る」鈴鹿馬子唄「鈴鹿山には 霞がかかる 可愛いい娘にや 目がかかる」8:26左側の民家の壁に「 ← 臨済宗 常明寺 約100mの所に寺の門があります」の案内板旧東海道から南側へ進む石柱には『開基元明天皇 國寶大般若經 常明禅寺』8:28南側から『常明寺』所在地:滋賀県甲賀市土山町常明寺臨済宗東福寺派の寺院。和銅年間の建立と伝えられ、貞和5年(1349)鈍翁了愚が九条経教の命を受け中興した。一時兵火により焼失したが、延宝年間(1673~1681)に再建された。当時の住持であった松堂慧喬(号虚白)(1773~1847)は俳人としても活躍し、地域の俳壇で指導的立場にあった。境内には芭蕉の句碑「さみだれに 鳰(にほ)のうき巣を 見にゆかむ」がある。寺蔵の大般若波羅蜜多経は奈良時代のもので、長屋王願経として国宝に指定されている。また、墓地にはこの地で没した森鴎外の祖父森白仙の供養碑が建てられている山門の左手に建つ石碑禅俳僧虚白住寺跡 他禅俳僧虚白住寺跡虚白は、僧名を松堂慧喬といい、安永2年(1773)、京都の神官の子として生まれ、少年時代を常明寺で過ごした後、京都や鎌倉で雲水生活を送りました。この修業時代に俳諧を志し、京都で芭蕉堂を営む高桑蘭更の門人となり、桜井梅室らと交流しました。文化4年(1807)、常明寺十五代住持職となり、寺門の興隆と檀家の強化に意を注ぐかたわら、俳人として活動し「浮巣社(うきずしゃ)」を主宰、三好赤甫など多くの門人の指導にあたりました。また、南土山の五瀬に草庵を結び「煨芋軒(わいうけん)」と名付けて隠遁生活を送り、禅俳一如の境地に至りました。後、天保6年(1835)に東福寺、天保14年(1843)に南禅寺の住持職に任ぜられ、紫衣を赦されるまでになり、弘化4年(1847)74歳で東福寺にて亡くなりました。辞世句 「おほけなき 床の綿や 散り紅葉」森鴎外と常明寺鴎外の祖父白仙は、石見国津和野藩主の参勤交代に従って江戸へ出たが、帰国の際に発病し、ここ土山で病死した。万延元年(1860)11月7日である。鴎外が土山を訪れたのは、明治33年3月2日、祖父白仙の墓参のためである。遺骸は常明寺の墓地に葬られた。鴎外は祖父への思慕深く、小倉在住時代、明治33年軍医部長会出席のため上京の途中、土山へ立ち寄り、常明寺を訪れた。荒れ果てた墓を探し当てた鴎外は住職の固道に願い出て、墓を境内に修した。明治39年に祖母きよが、大正5年には母ミネが没。遺言により常明寺に葬られた。鴎外は祖父母と母の遺跡に心を尽くし「維時大正7年3月新添 施主東京森林太郎」と墨書きされた錦の緞帳を寄贈している。昭和28年、三人の墓は津和野の永明寺へ移されたが、今は昭和63年に鴎外の子孫により建立された供養塔が立っている鐘 楼常明寺本堂常明寺由緒山 号 : 瑞宝山 常明寺宗 派 : 臨済宗 東福寺派本 尊 : 阿弥陀如来沿 革 : 43代女帝元明天皇が、先帝文武天皇の菩提の為に建立、和銅7年完成。鎌倉期を経て正平4年 (1349)東福寺聖一国師の法孫鈍翁了愚禅師が関白九条経教の請により五瀬の地より現在地に 移転。禅師は茶の製法を伝え土山茶の茶祖と云われる。・・・・・・・・・ 8:33旧東海道へ戻る。土山宿の旧東海道は赤茶色に舗装されている屋号は『灰屋 跡』何の商売であったのか、灰に係わる?炭屋でもないし屋号『千切屋 跡』上には、株式会社 水谷実商店 カワサキ製茶機械・シズオカ乾燥機・フルタ防霜システム・水道配管工事・土山茶製造販売 とお茶に関する機械を販売している。東海道五十三次は静岡県下を歩いてきたがお茶どころが多かった相変わらず人通りが少ない町並み情緒ある街路灯現在地は土山宿の右で、間もなく土山宿も終わり右側に『旅籠 常盤屋』の石柱8:40国道1号線の南土山交差点から街道を振り返る、左は国道1号線角に常夜燈(万人講)と松が植えられており立札が東海道土山宿土山町は、平安時代に伊勢参宮道が鈴鹿峠をこえる旧東海道筋を通るようになって以来、難所を控える宿駅として発達してきた。源頼朝が幕府を鎌倉に開くと従来の京都中心の交通路は、京都と鎌倉とを結ぶ東西交通路線が一層重要視されるようになり、武士の往来のみならず商人、庶民の通行も以前に増して盛んになった。とくに江戸幕府は、伝馬制度を整備し、宿駅を全国的規模で設け、土山宿は、東海道五十三次の第49番目の宿駅に指定されてから、宿場町として真に隆盛しはじめた。宿場の主体をなしたのは御役町で、そこには公用人馬の継立てなどをつかさどる問屋場、公用者の宿泊などのための本陣、脇本陣やそのほか公用にあたるものが住み、幕府は御役町の保護のために、地子の免除その他の特権を与えていた。この御役町を中心に一般の旅人のための旅籠や店、茶屋などがあり、全体が街道のわきに細長く宿場町を形成していた国道1号線の南土山交差点同交差点からの水口方面は曇り空、今にも雨が降りそうだ。前方右側に『御代参道道標』が建つ同場所から、鈴鹿峠方面を振り返る 土山宿~水口宿ー続く
2020.04.19
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延べ日数29日目の弥次喜多道中記です。今日は午後から天気が崩れるとのことで雨具を用意して出かけることに。2/22(土) 6:24グリーンヒルサントピア所在地:滋賀県甲賀市水口町北内貴1-1朝食前に外へ出ると多少肌寒かった6時半から朝食、7時10分にJR貴生川駅までのタクシーを依頼する朝から酒のつまみか?朝食後、愛車をホテルへ預けタクシーでJR貴生川駅へ。愛車の施錠を忘れたことに気づきグリーンヒルサントピアへ電話、係の方に施錠をお願いする。7:15JR貴生川駅前のバス停、昨夕もここへ降り立った7:30発のバスに乗車、今日は土曜日で休日乗客も少なく近江土山駅ターミナルへ7:59バスは国道1号線を鈴鹿峠方面へ、またこの道を歩いて帰ってくるのだと思いながら進む、昨夜JR関駅から車で走った道でもある国道1号線の土山支所前交差点にある『平成万人灯』自然石の石灯籠では日本一の大きさで、国道を往来する人々の安全を願っている。石種:白御影石、高さ:9.33m(基礎上)、重さ:156.8トン土山支所前交差点平成万人灯は、夜間は火袋が点灯すると同時にライトアップされ、街道を往来する車や人達の道しるべとなっている8:03近江土山駅バスターミナルへ到着8:07伝馬館から旧東海道へ開店の店の屋号は『八百屋』で今でも八百屋大きな金魚も8:08右側は家がないが屋号は『平野屋 善右衛門跡』『大内屋跡』右手前の『平野屋 善右衛門跡』右手二番目の『大内屋跡』しっかり修復保存されている屋号の『油左』間口が広い古民家何を扱っていたのか屋号の『油左』の西側に『問屋宅跡』の石柱が立つ土山宿問屋宅跡近世の宿場で、人馬の継立や公用旅行者の休泊施設の差配などの宿駅業務を行うのが宿役人である。問屋はその管理運営を取りしきった宿役人の責任者のことで、宿に一名から数名程度おり庄屋などを兼務するものであった。宿役人には、問屋のほかに年寄・帳付・馬指・人足指などがあり問屋場で業務を行っていた。土山宿は、東海道をはさんで北土山村・南土山村の二村が並立する二つの行政組織が存在した。土山宿の問屋は、この両村をまとめて宿駅業務を運営していく重要な役割を果たした修復中の建物の前に石柱は『土山宿本陣跡』土山家本陣跡土山宿は東海道49番目の宿場で、起点の江戸日本橋より約110里、終点の京三条大橋まで約15里の位置にある。土山家本陣は寛永11年(1634)徳川三代将軍家光が上洛する際に設けられた。現存する土山家文書の「本陣職之事」によれば、土山家の初代は甲賀武士土山鹿之助であり。三代目喜左衛門の時に初めて本陣職を務めた。本陣は当時の大名、・・・・・中略・・・・・・、当家には当時使用されていた道具や宿帳など、貴重なものが今も数多く保存され、特に宿帳は江戸時代前期から連綿と書き記されており重要な資料である。幕末から明治初期にかけては、宮家が東西の往来の途次、土山宿に休泊されることもあり、なかでも明治元年9月の明治天皇行幸の際には、この本陣で満16歳の誕生日を迎えられ、近代日本としては初めての天長節が祝われた。この時には土山宿の住民に神酒と鯣(するめ)が下賜され、今なお土山の誇りとして語りつがれている。幕末期に参勤交代がなくなり、さらに明治3年(1870)には本陣制度が廃止されたため、土山家本陣は十代目喜左衛門の時にその役目を終えた今でも「土山」の表札土山宿に二軒あった本陣のひとつ土山本陣は、東海道に現存する三本陣のなかで、子孫が住んでいる唯一の本陣である8:11土山本陣の西側に『明治天皇聖跡』石碑には漢詩(明治天皇誕生日祝いに関する)が刻まれている漢詩の読み石碑の漢詩は、大正3年佛教哲学者で有名なる井上圓了博士がたまたま、土山本陣跡に来られた時、第十代の本陣職であった土山盛美氏が、この本陣について説明された中に、この本陣に明治天皇が明治元年9月22日の夜に一泊なされ、その日が偶然にも天皇即位最初の誕生日に当たり、次の日この本陣で祝賀式が挙行され、祝として土山の住民全戸へ酒・肴を御下賜あった事を述べると、井上博士は非常に感激して、即座にこの漢詩を書置かれたものである街道左側には『旅籠 俵屋 跡』の石柱続いて『山形屋 跡』の石柱、右前方にも石柱は『旅籠 近江屋 跡』旅籠が多いが飯盛女はいなかったと土山中央公民館・お茶のみホール所在地:滋賀県甲賀市土山町南土山甲406旗を上げて撮影の弥次さん『旅籠 山田屋 跡』8:17土山中央公民館前の『林羅山の漢詩』石碑の説明板作者、林羅山は徳川幕府に仕えた江戸前期の儒学者で、号を道春という。家康没後の元和2年(1616)、羅山34歳のとき、江戸を出発し、東海道を経て故郷の京都へ向かう。この詩は、途中の土山で詠んだもので、この間の紀行文『丙辰紀行』に掲載されており、その前文に「『釋詁毛傳』などに石山を土の山とよみ、土山を石の山とよむことを思いて」この詩を詠んだとある館内の展示品土山中央公民館を出て8:19土山宿町並み案内図現在地は、黄色の矢印『大黒屋公園』手前東海道五拾三次 土山 春の雨日野屋石柱は『旅籠 中嶋屋 跡』8:20古民家は『岩田屋 跡』 土山宿~水口宿ー続く
2020.04.18
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引き続き伝馬館で管理のおばさんと雑談、今日のゴール「土山宿伝馬館」近くのバスターミナルへ行きバスでJR貴生川駅へ。2/21(金) 15:42東海道 伝馬館所在地:滋賀県甲賀市土山町北土山1570開館時間昨年来ているので係のおばさんと談笑。弥次さんは二階へ土山名物の『かにが坂飴』お土産に一個購入 450円あいの土山 ~ 峠を越えて ~土山を称した言葉に「あいの土山」があります。 「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る」と鈴鹿馬子唄に唄われるこの言葉にはさまざまな解釈があります。鈴鹿峠をはさみ、坂(坂下宿)と相対する土山(土山宿)という説、「あいのう」が北伊勢地方の方言で「まもなく」という意味があるので「まもなく土山は雨が降る」という意味、また坂は野洲川西岸の松尾坂で、鈴鹿峠との間の土山という説など、いずれも土山を訪れた人々が親しみを込めてよんだ言葉かもしれません東海道の土山宿土山は、古くから近江国と伊勢国とを結ぶ交通の要衝として機能していました。「土山」という地名は、中世の紀行文の中に見え、室町時代応永31年(1424)の「室町殿伊勢参宮記」には「つち山と申所をこえ侍るに・・・・・」との記述があり、その頃から街道筋に集落を形作っていたと考えられます。また、室町時代後期の記録には、保内商人が・・・・・・・・伝馬館内に飾られていた『お雛さんの段飾り』土山小唄伝馬館の二階には東海道の各宿の名物品を飾っている東海道の各宿の浮世絵と名物の饅頭 等々こちらの部屋にも東海道五十三次の盆景展示が飾られていた16:02伝馬館の裏(北側)にある国道1号線沿いの「近江土山駅」。明日の行程を考えるとここ土山宿に宿泊したいのだが、旅館・ホテルがないため今夜のホテルは甲賀市水口町に確保している。この辺りは鉄道によるアクセスがないためバス利用だけ。初めての土地でもあり弥次さんに事前に検討願ったまだ新しい「近江土山駅ターミナル内」あいくるバス 運行予定時刻表、路線図当初の予定ではここへは17時過ぎに到着、17:30のJR草津線「寺庄駅」へ行く予定であったが、早めに到着したので時間を早めることにする。16時代は寺庄行きがないため係の女性に相談し、貴生川行きの16:23に乗車することに変更利用料金は大人250円近江土山駅のバス停。国道1号線の鈴鹿峠、JR関駅方面、バスは三重県との県境の田村神社までしか運航していない。このため、JRの草津線、関西本線を利用して関駅へ。ここからヒッチハイクも考えたが16:12JR関駅へ戻り、再度鈴鹿峠を越えてこの道(国道1号線)を走って来るのだ17:04JR貴生川駅へ到着。明日はまたこのバス停から「近江土山駅」へ向かう貴生川駅から乗車する、柘植(つげ)行き電車を確認。柘植行きは、17:20、46 とあるが、柘植駅での乗換えを考えると46分でも同じになるので一本後の17:46に乗車することに 貴生川駅改札口時間があるので、珈琲でも飲んで時間を過ごすことにする貴生川駅北口駅前のロータリーの像17:39駅前の看板「ようこそ忍びの里へ」近江鉄道、米原方面へJR草津線、三雲・草津方面17:43JR貴生川駅改札口信楽高原鐡道は改札を出ずに3番のりばへ貴生川駅3番のりばの信楽高原鐡道、列車のボデーにはスカーレットの絵17:46定刻に柘植行きが到着夕陽が映えるここへ来るまではこの字が読めなかった車内も空いてくる18:05JR関西本線、柘植駅へ到着柘植(つげ)駅所在地:三重県伊賀市柘植町折り返しの草津行き電車柘植駅のホームに掲げられた「いがまち観光案内図」18:08亀山行き列車が到着二両編成で、「後乗り・前降り」亀山行き車中18:29JR関駅へ到着スイカが使えないので現金払い、車掌からスイカの乗車記録を消すための証明書をもらう関駅前の駐車場へ戻る今日('20/2/21)の弥次喜多道中の動線。今朝JR関駅前の駐車場を、7:00 出発して、土山宿まで歩き、バスでJR貴生川駅へ移動。その後JR草津線、関西本線を利用してここ関駅へ戻る。これから愛車で水口の宿泊ホテル(グリーンヒルサントピア)へ向かうJR関駅前の駐車場から今日歩いた旧東海道の一部を走る、きつかった鈴鹿峠を越え近江土山駅を過ぎ、途中フレンドマート土山で今夜の食料品とアルコール類を購入。19:30水口町の「グリーンヒルサントピア」へ到着所在地:滋賀県甲賀市水口町北内貴1-1駒大苫小牧高校の野球部のペナントがフロントに飾られていた。聞くと甲子園出場前にここで合宿したとのこと久しぶりに和室のホテルへ宿泊、風呂は大風呂夕食は部屋で弥次さんと宴会。明日のスケジュールを確認して疲れとアルコールで爆睡した。明日の天気は昼過ぎから悪いとの天気予報。今日の総歩数は、34,482歩であったが、鈴鹿峠がきつかった。 関宿~土山宿ーEND
2020.04.17
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今日のゴール点、土山宿が近くなる。2/21(金) 15:11来見橋を渡り緩い坂を登ると左側に、白川神社入口の立て札祭神は速須佐之男尊、天照大御神、豊受大御神。創祀は不詳で、古くは牛頭天王社・祇園社などと呼ばれていた。寛文5年(1665)2月11日の火災により延焼し、現在の場所に遷座する。本殿は、文久3年(1863)に造営された旧東海道から、南側に入ると白川神社の石鳥居白川まつり8月1日に近い土曜日に花傘神事、みこし宮出しがあり、その前日の宵宮には子供相撲や夏越神楽で賑わう15:14白川神社鳥居古くは牛頭天王社や祇園社と呼ばれた。江戸初期に焼失しこの地に遷座した。土山宿の鎮守である。鳥居のすぐ先左手に「内侍所奉安所跡」と刻した石碑がある。明治元年、明治天皇が東京へ行幸のときに携行していた三種の神器「八咫(やた)の鏡」を一時安置したことを記した碑である悠紀齊田之碑歴代天皇御即位のとき齋行される大嘗祭の重儀に御料の新設を供する悠紀齊田としてわが土山の里が、御三代にわたりト定されたことは大きな誇りである。よって抜穂の稲こなしが行われた。當神社旧称祇園牛頭天王社の境内に、齊田の所在を明示する碑を建ててその栄誉を、永世に傳えるものである鳥居を潜り境内に入ると、手水舎、拝殿、土俵。天明7年(1787)に光格天皇の、嘉永元年(1848)に孝明天皇の両大嘗祭に、当社拝殿が悠紀齊田抜穂調整所となった。また、明治元年(1868)旧暦9月22日、明治天皇御東幸御駐輦の時に、当社境内が内侍所奉安所にあてられた境内の中央にモッコク白川神社のモッコク拝殿には補強用のつっかえ棒拝殿の扁額「白川神社」本 殿本殿の前には願かけ神石があり、この神石をなでると健康長寿・祈願成就がかなうと伝えられている本殿の扁額「白川神社」7月第三日曜日に行われる「土山祇園祭花傘神事」は祇園祭の前宮祭と呼ばれ、大字南土山14組ごとに奉納された花傘から花を奪い合う「花奪い行事」が行われる。これは、承応3年(1654)に復興されたと伝えられ、滋賀県選択無形民俗文化財になっている15:24旧東海道へ戻る旧東海道へ戻り『旅籠 木屋 跡』の石柱石柱は『旅籠 海老屋 跡』左側には『旅籠 山本屋 跡』、右前方にも石柱右前方の石柱は『旅籠 簾屋 跡』右の電柱下に『旅籠 江戸屋 跡』どこの宿も旅籠屋が多く往時の街道筋の賑わいを感じる。旅籠前は提灯であったのだろうか屋号は『油屋 平蔵』街道沿いに三つの石柱が並ぶここも旅籠が三軒ならんでいたのだ『釣瓶屋 跡』『大工屋』『柏屋』15:29弥次さんは立札の前でめずらしく若者が自転車で往来立札は『森白仙終焉の地』【井筒屋跡】森鴎外の祖父で津和野藩亀井家の典医だった森白仙が、参勤交代に従って江戸より旅の途中病のためここで息をひきとった街道沿いに石柱が立ち並ぶ15:30左側は『旅籠 木綿屋 跡』、右前方にも石柱と立札があり撮影に夢中の弥次さん石柱は『旅籠 平野屋』であった森鴎外が泊まった平野屋平野屋は、鴎外が祖父白仙の墓参のために土山を訪れ、明治33年3月2日に一泊した旅籠である。「墓より寺に還りてこれを境内に移さんことを議す。固道(当時の常明寺住職)許諾す。乃ち金を贈りて明日来り観んことを約して去る。寺を出づるころおほひ天全く晴る。平野屋藤右衛門の家に投宿す。宿舎井筒屋といふもの存ぜりやと問ふに、既に絶えたり」 小倉日記民芸・茶屋『うかい屋』二階にミニギャラリーがあり、俳句や広重の版画(写真)が見られるこのような検定も「第12回 歴史の道 東海道検定」左側の石柱は『二階屋本陣 跡』堤家(二階屋)本陣跡本陣とは江戸時代に大名・旗本・幕府公用人・勅使・公家・門跡などが、宿駅での休泊に利用した公認の宿舎である。土山宿には吉川町の北土山村側にあった土山家本陣と、中町の南土山村側にあった堤家本陣の二軒があった。堤家本陣はその屋号から「二階屋本陣」とも呼ばれ、代々忠左衛門を名乗った。史料上の初見は江戸時代前期の延宝8年(1680)で、以後土山家本陣とともに本陣職を務めた。本陣は一般に150~200坪程度の建物があり、門構えや玄関、上段の間を設けたが、天保14年(1843)当時、門構えと玄関を持っていた。建坪は196坪と、土山家本陣の325坪よりは小規模であった。堤家本陣は幕末には衰微し、これより約250メートル西、吉川町の北土山村側にあった大旅籠の大黒屋がその代替として利用された15:33街道の右側に『東海道 伝馬館』の石柱左下に『問屋場・成道学校 跡』の石柱土山宿の問屋場は、中町と吉川町にあったとされるが、問屋宅に設けられていたこともあり、時代と共にその場所は移り変わってきた。明治時代の宿駅制度の廃止にともない問屋場も廃止されたが、その施設は成道学校として利用された15:35東海道 伝馬館所在地:滋賀県甲賀市土山町北土山1570土山宿や東海道についての展示や特産品販売、体験工房のある資料館。「伝馬制度」とは、幕府の公用などで宿から宿へ人馬の継ぎ立てをおこなうことをいう。昨年8月に田舎へ帰る途中、立寄っているので今回が二度目の訪問である伝馬館入口の前に『文豪森鴎外来訪の地』の石碑二日。天陰れり。午前六時大阪に至り、車を換ふ。九時草津に至り、又車を換ふ。十時三雲に至り、車を下る。雨中人力車を倩ひて出づ。午時土山常明寺に至る 小倉日記森鴎外と土山鴎外が土山を訪れたのは、明治33年3月2日、祖父白仙の墓参のためである。白仙は、石見国津和野の藩医であった。万延元年(1860)藩主の参勤交代に随行して江戸へ出向。翌年5月帰国の際に発病し、遅れて国もとへ向かう。途中11月7日、土山宿井筒屋にて急死した。遺骸は常明寺の墓地に葬られ、津和野へは遺髪のみが届けられた。鴎外が生まれたのはその翌年である。鴎外は祖父への思慕深く、小倉在住時代、軍医部長会出席のため上京の途中、土山へ立ち寄り、無縁仏同様に荒れ果てている祖父の墓を探し当て、常明寺の境内に墓を修した。寺を出て平野屋藤右衛門の家に投宿し、翌日三雲を経て東京へ向かった。明治39年祖母きよが、大正5年母ミネが没。遺言により常明寺に葬られた。昭和28年三人の墓は津和野永明寺へ移された。現在常明寺境内には、鴎外の子孫が建立した供養塔が立っている開館時間伝馬館裏の庭園参勤交代と大名行列。長さ10メートル位の大名行列の模型が陳列されていたが、これほどの物は今まで見たことがない宿場へ向かう大名行列を京人形で再現している。大名行列の先頭部分。江戸時代、幕府は大名を統制するために定めた、寛永12年(1635)の「武家諸法度」の中で、大名を一定期間江戸に在府させる参勤交代を制度化しました。そのため、大名たちは自分の領地と江戸を行列を組んで往復しなければならず、一般には一年おきの交代でしたが、関東の大名は半年ごと、遠方の対島の宗氏は3年・蝦夷の松前氏は6年ごととし、幕府の要職に就いたものは、江戸に留まるよう定められていました大名行列の中間部分。この参勤交代などの時に、大名たちが調える行列のことを大名行列といいます。もとは、戦時用の行軍形式をとっていましたが、やがて形式化し、華美なものになっていきました。行列の規模や調度品などは石高や格式によって差がありましたが、大名にとって、江戸での生活や国元との往復には多大な費用がかさみ、藩の財政には大きな負担となりました大名行列の後方部分。しかし、参勤交代制度の確立によって、交通網や宿が整備され、経済活動の発達や各地との文化交流を生み出しました。東海道は参勤交代の大名たちが通る主要街道として発達し、宿では行き交う旅人たちでにぎわっていました。土山宿でも、土山本陣の宿帳に多くの大名の宿泊記録が残されています。なかでも熊本藩細川家との関係は深く、細川家ゆかりの調度品が伝わっています人 馬 関宿~土山宿-続く
2020.04.16
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土山宿は鈴鹿峠を控え、中世にはすでに宿場があった。江戸時代は幕府天領で代官が治めたので、宿内に役所の陣屋が設けられていた。宿の町並みは、東は田村川橋(現=海道橋)から西は松尾川(現=野洲川)まで、22町55間(約2.5km)の細長い宿場だった。近江の多賀大社への御代参道が分岐し、近江商人の物資の流通でにぎわったが、飯盛女はいなかった。2/21(金) 14:02田村神社の前を国道1号線が走る。ここから大津まで、49kmの標示、向こう側に「道の駅 あいの土山」道の駅から、海道橋→蟹坂への旧東海道案内板国道1号線との角に「大阪の味 たこやき」14:05道路を横断し「道の駅 あいの土山」へ所在地:滋賀県甲賀市土山町北土山2900ここまでの今日の歩行数は、28,800歩ぐるっと甲賀(KOKA)市甲賀市は、「伊賀市(いがし)」に対して「こうがし」と思っていたが「こうかし」が正解この町のマスコット『チャチャ』、1990年生まれ。東海道土山宿を「屋号看板」と「旅籠石碑」を目にとめながら歩いて下さいと店内に入るとNHKの連続朝ドラで放映中の『スカーレット』のポスターお腹がすき、休憩しながらコロッケとおにぎりを食べる。後日3月23日(月)に三条大橋まで完歩後にも立寄り、土産で「御茶ウイロー」を購入したが美味しかった!14:41左側の石碑には「東海道 土山宿」土山宿は東海道49番目の宿場町。二軒あった本陣のひとつ土山本陣は、東海道に現存する三本陣のなかで、子孫が住んでいる唯一の本陣である。寛永11年(1634)家光が上洛する際に当家の土山喜左衛門が本陣職を務めて以来、明治3年まで続いた。熊本藩が多く利用したため、細川家との関係が深かった土山宿の町並み(下側が北)従って左側(東)から右側(西)へ向かって歩く。ポイントごとに細かく説明されており、先程の道の駅ではレンタサイクルもあると茶畑の中にある「この木はなんの木」、そばに老婆がいたが!土山宿の名物は、蟹が坂飴、お六櫛、そば、土山茶だった。土山茶は明治時代には早くも輸出され今でも甲賀市の特産品である土山宿は、今は古い民家も少ない静かな町並みだ当時の屋号や旅籠の標識が建っている、屋号は「車屋」街道沿いの社の左に道標があり「右・・里、左・・里」屋号は「お六櫛商 三日月屋」お六櫛を商っていたのであろうか14:49生里野地蔵公園の『上島鬼貫の句碑』「吹かば吹け櫛を買たに秋の風 鬼貫」上島鬼貫は、伊丹で生まれた俳人で、東の芭蕉、西の鬼貫とも言われ、独自の俳諧の境地を拓いた人である。この俳句は、上島鬼貫が、貞享3年(1686)の秋に、東海道の旅の途中土山に寄り、お六櫛を買い求め、鈴鹿の山へ向かう時に詠んだ句であるお六櫛は江戸元禄の頃、信濃の国の櫛職人が伊勢参りを終えて京都見物に行く途中、ここ土山宿の生里野で重い病気になり、生里野の民家で養生させてもらって一命をとりとめ、京へと旅立つことができました。その旅人は信濃へ帰国した後、土山で受けた恩恵に報いようと、櫛の製法を伝授すべく再度土山を訪れました。この櫛は「みねばり」などの木を材料にして作られ、土産物として大変人気がありました。最盛期には十軒余りの業者が櫛に関わっていましたが、今は姿を消してしまいました土山宿の町並みへ入る14:54古い民家、屋号が「扇屋」。連子格子の大きな入口引き戸と二階には虫籠窓(むしこまど)。また、塗籠造(ぬりごめづくり):壁と軒裏を漆喰で塗り固める工法「本家櫛所 扇屋」扇屋伝承文化館「扇屋伝承文化館」は江戸時代、宿場町として栄えた土山宿で扇や櫛を販売していた商家「扇屋」を地域の住民が購入し平成21年に改修したものです。地域の良き、古き文化を後世に伝える拠点とともに、旧東海道を散策する人の憩いの場になることを願っております館内を覗く閑散とした街並みを進む街道沿いに『地蔵堂』地蔵堂には着色された2体の『地蔵尊』と『重軽石(おもかるいし)』と思われる2つの丸石が安置されていた左の電柱の下に「旅籠 大槌屋跡」の石柱屋号「かじ屋 徳兵衛」14:57右側に『土山一里塚跡』の石柱ここまでの歩数は、亀山のホテルから30,200歩甲賀市土山町内の設置場所は、山中地先、土山地先と大野市場地先であったが、現在その跡はほとんど残っていない。土山のこの地名を一里山と呼称しているのも、この一里塚に起因している。塚の規模は、およそ高さ2.4米、周囲12米の大きさであったらしい。この近くで塚の形をほぼ残しているのは亀山市の野村一里塚のみで、塚の上には椋が植えられている屋号は『お六櫛商 三日月屋』民家の隅に『旅籠 車屋』何を営んでいたのかこれがアップされる頃は終了しているが、町興しになったか?屋号は『油屋 権右衛門』旧東海道を進む民家の前に『旅籠 寿し屋跡』の石柱ネコちゃんが17:08来見川に架かる来見橋来見橋に描かれた座り込んで撮影する弥次さん土山茶もみ唄お茶をもめもめ 揉まねばならぬ もめば古?(茶)も 粉茶となる土山茶もみ唄お茶を 摘めつめ しっかり摘みやれ 唄いすぎては 手がお留守江戸時代当時の「旅篭 平野屋」の前 関宿~土山宿-続く
2020.04.15
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蟹坂交差点から国道1号線の北側にある旧東海道を土山宿へ向かう。2/21(金) 13:29大きな石碑は「山中地区圃場整備 竣工記念碑」その左側の小さな石柱には『蟹坂古戦場跡』天文11年(1542)9月、伊勢の国司北畠具教は、甲賀に侵入しようとして、彼の武将神戸丹後守および飯高三河守に命じ、鈴鹿の間道を越えて山中城を攻めさせた。当時の山中城主は、山中丹後守秀国であり、秀国は直ちに防戦体制を整え、北畠軍を敗走させた。こうして北畠軍はひとまず後退したが、直ちに軍勢を盛りかえし、さらに北伊勢の軍勢を加えて再度侵入し、一挙に山中城を攻略しようとした。このため秀国は、守護六角定頼の許へ援軍を乞い、六角氏は早速高島越中守高賢に命じて、軍勢五千を率いさせ、山中城に援軍を送った。一方、北畠軍も兵一万二千を率い、蟹坂周辺で秀国勢と合戦した。この戦いは、秀国勢が勝利を収め、北畠勢の甲賀への侵入を阻止することができた蟹坂古戦場跡から、土山宿へ向かう。前方の杜は「田村神社」で土山宿の入口13:35旧東海道を歩き田村川に架かる『海道橋』手前の高札ー 定 ー「この橋を渡ることのできるのは、安永4年(1775)の閏月12月の23日からである。(旧暦には、閏月があり、この年は12月が二回続く)この橋を渡るとき、幕府の用で通行する人達や、武家の家族が渡るときは無料である。また、付近に住む百姓達の中、川向うに田畑があり、毎日橋を渡って生活しなければならない人達の渡り賃も無料である。しかし、それ以外の住民および一般の旅人については一人につき三文、また荷物を馬に乗せて渡る荷主についても、馬一頭につき三文、渡り賃を取ることになっている。この規則は一時的なものでなく、橋があるかぎり永遠に続くものである」と書かれている安永4年閏12月 道中奉行高札の解説についてこの高札の文章は、田村川橋について、道中奉行所から出された規則(定め書)の内容が書かれているものです。この田村川橋ができるまでは、この橋から約600メートル程下流に川の渡り場がありましたが、大水が出るたびに溺れ死ぬ旅人が多く出たため、その対応に土山宿の役人達をはじめ、宿の住民の苦労は大変なものでした。また、川止めも再三あり旅人を困らせていました。そこで幕府の許可を得て、土山宿の人達が中心になりお金を集め、今までの東海道の道筋を変えて新しい道を造り、田村川木橋を架けることになりました新しく架けられた『かいどうはし』 平成17年5月海道橋江戸時代の安永4年(1775)に架けられた田村永代板橋を復元した橋です。往時の橋は、幅2間1尺5寸(約4.1米)、長さ20間3尺(約37.3米)、高さ0.3米の低い欄干が付いた当時としては画期的な橋でした。安藤広重の「土山宿・春の雨」は、この橋を渡る大名行列の様子を東側から描いたものです。橋の右の方には、橋番所、橋のたもとには高札が架っていたといわれています。それ以前は、現在の国道より約50米下流の辺りを徒歩によって渡っていたといわれています田村川の上流何故か女性が、河川敷に同下流側の国道1号線橋を渡ると右側に立つ説明板は見ずらい。「鮎の背に 朝日さすなり 田村川」 士郎その下には石碑が 「鮎の背に 朝日さすなり 田村川」 井上士郎 句橋を渡り、左側にある説明板には、歌川広重は、多くの道中図や名所図を描いているが、天保4年(1833)に刊行された「東海道五拾三次」(保永堂版)は、その中の代表作といえる。作品には、季節感や自然現象、旅人の姿や各地の名物などが随所に織り込まれ、叙情豊かな作風を生み出している。土山を描いた「春の雨」は、雨の中、橋を渡る大名行列の姿を描いたもので、田村川板橋を渡り、田村神社の杜のなかを宿場に向っている風景であると言われている。土山宿は東海道49番目の宿で、東の田村川板橋から西の松尾川(野洲川)まで、22町55間(約2.5km)に細長く連なっていた。東の起点である田村川板橋は、安永4年(1775)に架けられたもので、このとき東海道の路線が変更され、田村神社の参道を通るようになったと言われている歌川広重の保永堂版『土山 春の雨』旧東海道の海道橋を振り返る13:39田村神社入口説明板と共に「高札場跡」の石柱が立つ。今日のここまでの歩行数は、既に24,700歩、鈴鹿峠を越え疲れ気味このあたりの道案内土山宿の規模(江戸後期)は、・22町55間(約2.5km)・本陣:2 脇本陣:1 ・人口:1505人 戸数:351戸 ・旅籠:44軒田村神社の鳥居田村神社境内へ境内には2月19日まで厄除大祭があったので、露天商のテントが立っていた田村神社は弘仁3年(812)の創建で坂上田村麻呂公を主祭神として、嵯峨天皇と倭姫命をも祀っている。坂上田村麻呂公(758~811)は平安時代の武人で延暦16年(797)には桓武天皇より征夷大将軍に任じられ、二度にわたって蝦夷平定の遠征に出た。また鈴鹿山の悪鬼退治も伝えられ、田村麻呂公の薨去後、嵯峨天皇の勅命によりこの地に田村神社が創建され、厄除大祈祷が斎行された。本殿は銅板葺き三間社流造で御鎮座1200年を記念して平成23年に造替された。本殿の前を流れる御手洗川に年齢の数だけ節分豆を落として祈念すれば災厄から逃れられると伝えられている。年間多くの神事が行われるが、2月17日から19日にかけての厄除大祭と、7月25日から27日にかけての万燈祭がと徳に有名で、多くの参詣者が訪れる田村神社案内図市中に貼られていた今年の「田村まつり」ポスター21日に訪れたので丁度終わった後であった、例年は10~20万人が訪れ賑わうとのことであったが今年は、新型コロナウイルスの影響で少なかったと田村神社拝殿拝殿の扁額「大名?宇宙」拝殿の右側を通り本殿・拝殿へ手水舎、石鳥居を潜り本殿へ厄落しの由来田村大神ある夜夢の中に悪しき年に當るとも諸々の災難を除かんは、社殿前を流る御手洗川に節分の福豆を年の数だけ東に向い祈念をこめて流さば禍は流れ去る。之より厄落しとして己が厄災を袚う事が慣例となる厄落とし 福豆授与 初穂料 二百円石橋を渡り本殿へ向かう本殿への参道に献燈が立ち並ぶ令和の御大禮記念事業石灯篭の新設(奉納数限定・先着順) 石灯篭一基(境内を通る旧東海道を境) 北区域 25万円(80基) 南区域 20万円(40基)石灯篭建立場所は神社に御一任をお願い申し上げます本 殿商売繁昌の神様「吉崎稲荷神社」本殿前から西側へ進む左前方に『矢竹』矢竹(厄除矢)の由来御祭神坂上田村麻呂公が、勅を奉じて鈴鹿山中に跋扈し旅人等を悩ます悪鬼(俗に云う山賊)を言向け平定された際、御弓矢を張り給いて申された「今や悪鬼も無し、これより此の矢の功徳を以て万民の災を除かん、此の矢の落ちたる地を吾が宮居として斎き祀れ」放たれた矢は、ここ本殿前に落ち不思議なことに青々と芽が出て育ち、現在の矢竹となったと伝えられています。爾来、田村大神の御心を心として神矢を奉製し、矢の功徳を以て御崇敬者の厄災を祓い開運恵方を導く深き信仰となったのであります本殿を振り返る本殿西側に立つ、左に「祝谷神社」、右側に「天満神社」祝谷(いわいだに)神社元は田村神社境内地の森の中に鎮座していましたが、令和の御大禮記念事業としてこの場所に新たにお社を建立し遷座しました天満神社令和の御大禮記念事業により、学問の神様として全国より崇敬を集める北野天満宮(京都市)より御分霊を勧請し創建しました天満神社前から森の中の本殿を望む令和2年「厄年年齢表」年寿(算賀)の祈祷八方塞がりとは、その年一年間は四方八方塞がっていて、何につけても運気が好転しにくい年に当たります。是非とも八方除のご祈祷を受けていただき運気を開いて幸運をお受けください。今年(令和2年)の八方塞がりは、七赤金星生まれの方です手水舎弥次さんが御朱印をもらいました14:01田村神社を後にする鳥居の扁額「正一位田村大明神」 関宿~土山宿-続く
2020.04.14
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山中一里塚公園から旧東海道(国道1号線)を進む。2/21(金) 12:34山中一里塚公園中央に『櫟野(いちの)観音道(大原道)道標』山中地区の旧東海道沿い、現在は第二名神高速道路土山橋の橋脚が建てられているこの付近から南西に伸びる道がある。この山道は古くから東海道と神村(甲賀町大字神)櫟野村(甲賀町大字櫟野)方面をつなぐ生活の道として利用され、大原道ともよばれていた。当時、道標は東海道との分岐に建てられていたが、幾度の道路整備により、現在はここ一里塚緑地に移転されている。この道標には「いちゐのくわんおん道」、側面には、櫟野寺本尊の十一面観音の慈悲を詠んだ・・・・・・・山中一里塚公園にある『鈴鹿馬子唄之碑』 文部大臣 小杉 隆 書 山中一里塚公園にある『鈴鹿馬子唄之碑』馬子の像一里塚緑地に立つ「第二名神」滋賀県起工の地のモニュメント12:36山中一里塚公園を後にする12:39国道1号線沿いの旧東海道を進む道路標識は「道の駅 あいの土山 2km」コミュニティバスが来るコミュニティバス「あいくる EXPRESS」の大河原行き12:42キロポストは東京日本橋から、437km、先に「猪鼻交差点」が見えてくる県道507号線で三重県の湯の山温泉へ、鈴鹿スカイラインへ、17km12:45国道1号線の猪鼻交差点、旧東海道はこの交差点を右に折れ、猪鼻村へ進む石柱は『若宮神社』旧東海道はこの交差点を折れ猪鼻村に入り直ぐ西へ進む12:47猪鼻交差点を曲り100m程で西へ向かう。大きな石碑には『東海道 猪鼻村』甲賀市で置いているのか街道脇に、塩化カルシウムの融雪剤東海道 猪鼻村猪鼻村は、鈴鹿山脈の西方に位置し、中世は鈴鹿山警固役であった山中氏の支配を受け、近世は幕府領や諸藩領となり幕末にいたる。村中を東海道が東西に5町36間余(約610m)、商いを営む者も多く、往時50戸を超え街道は賑わしていた。土山宿から坂下宿間の立場(休息所)があり、草餅や強飯が名物であった。村高は、53石余「天正19年(1591)徳川家康知行目録写」、おもな産業は農業で、製茶や林業も行われた。赤穂浪士の一人で俳人の大高源吾(俳号は子葉)が旅の途中に詠んだ俳句の句碑が、淨福寺の門前に残る。また、井上士朗の『幣袋』に安永3年(1774)鈴鹿峠に向う途中で「猪鼻峠といふ名のをかしければ、ゐのししの鼻吹き返せ青あらし・・・・・」とある。寺院は、臨済宗東福寺派の淨福寺、集落の東端には火頭古神社があり、本殿は17世紀後半の造営とされ、国登録有形文化財となっている。明治22年猪鼻村は町村制により甲賀郡山内村大字猪鼻、昭和30年合併により甲賀郡土山町大字猪鼻、平成16年10月1日合併により甲賀市土山町猪鼻となる12:49醫王山淨福寺所在地:滋賀県甲賀市土山町猪鼻 中島淨福寺の山門前にある石碑には、赤穂浪士の大高源吾(俳号子葉)が江戸へ向かう途中、猪鼻村立場で休みながら詠んだ歌である『いの花や 早稲のもまるる 山おろし』が刻まれている淨福寺本堂と鐘楼淨福寺は、天正年間(1573~1591)に、僧洞成禅照大禅師が開基し寺号は醫王山、臨済宗東福寺派に属する。本尊は、薬師如来座像で伝教大師の作仏といわれ、近江源氏である佐々木氏の守仏と伝わっている。木造秘仏で右手は施無畏、左手に薬の壺を持ち脇侍には左に日光菩薩、右に月光菩薩。更に眷属十二神将が十二時かわるがわる本尊の守護に努めている。薬師如来は十二の大誓願を発して、除病延寿、衣食満足、無病息災の東方浄瑠璃浄土の主尊である。淨福寺の御詠歌 「まいりきてめぐみをうけよ淨福の 薬師の利やくあらたなりけり」民家の壁には屋号の「ちょうちん屋」淨福寺を過ぎ街道右側の民家の中に『明治天皇聖蹟碑』同じ庭の手前に『旅籠 中屋跡』猪鼻立場猪鼻集落は東海道土山宿から東へ約3kmの位置にあり、江戸時代には立場として賑わった。立場とは宿場と宿場の間で休憩するところで、旅人が自分の杖を立てて一息入れたところから名付けられた。現在は緩やかな坂になっているが、往時は土山宿との間に険しい猪鼻峠があって旅人を難渋させたのでこの辺りで休憩を必要としたのであろう。江戸時代には50戸余りの人家があり、旅籠や商家・茶店などが6軒ほどあったといわれる。ここでは草鞋や日用品をはじめ、岩くぐという草で作った蓑(雨具)、よもぎ餅、柿ちまき、強飯、飴、経木で作った水呑みなどが売られていたことが江戸時代の紀行文に記されている。明治元年(1868)の明治天皇御東幸の折、旧暦9月23日に旅籠中屋を御少憩や中食に利用されたことがあり、その後も三度にわたり明治天皇や皇室の方々がここに立ち寄られている近江屋12:57猪鼻村の京側の急な坂を登る12:59数百メートルの急な坂を登り国道1号線と合流国道1号線の向かい側の高台に『金比羅神社』13:00旧東海道(国道1号線)を進むが、この辺りが猪鼻峠であったのだろうか。往時はもっと険しい峠であったと。国道のキロポストは、東京日本橋から437.5km地点13:07峠から約1キロの下りをひたすら歩くと、街道の左側に『蟹塚』の案内板案内板におよその距離がない中、沢へ下りてゆく。この時期、長いものもおらず、蛭(ひる)もいないので安心して歩ける沢を渡ったりして進むと、沢の小高い所に石柱で囲んだ『蟹塚』があった。春から秋にかけての鈴鹿峠は蛭が多いとの情報があったが、今回は安心して歩けたのが幸いであった石柱で囲まれた中に『蟹塚』13:10国道1号線から300メートルほど下ったところにあるが訪れる人がいるのか、説明板があった木の木陰にひっそりと『蟹塚』蟹塚には、名前にちなんだ話が伝えられている。昔、鈴鹿の山に大蟹が住み着き旅人や村民を苦しめていたところ、観音様の命をうけた都の高僧が鈴鹿に訪れ大蟹にお経を唱えると、大蟹の甲羅が八つに裂けたという。塚はその大蟹の甲羅を葬ったものであるといわれている。またこの話には、蟹が盗賊であったり、高僧が武士である場合もあり、街道の名物であった「かにが坂飴」もこの「カニ」伝承を由来として伝えられてきた土山宿にある、東海道伝馬館で購入した「かにが坂飴」 450円。味は・・・・・・であった沢には小魚が泳いでいた13:15蟹塚から国道1号線へ戻り、危険な行為で国道を横切り旧東海道へ国道を横切ると、” ようこそ 「歴史の道 東海道」へ ”ここは、土山町蟹ヶ坂です。これより、往時も東海道を歩かれる方は、左図に示すとおり「海道橋」を渡り、道の駅「あいの土山」方面へ向かって下さい。尚、「東海道土山宿」へはここから800mです。土山を訪れていただいた皆様のご無事をお祈りします。さきほどの『蟹塚』の案内が描かれていた榎島神社(白川神社の末社)右側の木は、椎の木で樹齢約400年の御神木白川神社御旅所の石柱御神木の横に遊戯施設現在地から「田村神社」への案内板。土山宿へ800m、鈴鹿峠へ4.5km。田村神社は、蟹坂古戦場跡を過ぎ海道橋(1775年架橋の田村永代板橋を復元した橋)へ進む。猪鼻村からこの手の案内板(土山町)で、ステンレスの板にポンチか?で刻んでいるので、光って見ずらいです、申し訳ありません13:19街道沿いに、交通安全の石仏 関宿~土山宿-続く
2020.04.13
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外出禁止要請が出る前に自転車で桜観賞に。4月2日(木) 茅ヶ崎中央公園から千の川沿いへ向かう。今年は例年より一週間満開になるのが早いズームアップ川面にはカモが泳ぎ回っていた。小魚を探しているのであろうか。野球仲間の自宅そばにある『蛇塚、ぽんぽこ山』本社丘 (ほんじゃがおか)本社丘は矢畑の鎮守 本社宮 発祥の地である。天保年間に行われたと伝えられる本社宮遷座の後も、旧跡として崇敬され大切に保存されている。本社宮はその後、関東大震災による遷座を経て、この地の北方約450m(八幡42番地)に鎮座している。矢畑の伝承によれば、平安時代中期 平忠常の乱を平定に向う途次、源頼義がこの地に源氏の氏神である石清水八幡宮を勧請して戦勝を祈願した。陸奥守となり前9年の役に向う頼義は、長子義家と再度戦勝を祈願、平定後、当八幡宮を鎌倉由比郷に勧請し、鶴岡八幡宮を創建した。後に、頼朝が現在の雪ノ下に遷座。後3年の役平定後、義家は浜之郷に神域を設けて遷座、鶴嶺八幡宮を創建したと伝える。本社丘に残った社は矢畑の鎮守となり、「本社宮」として今に伝わる地元の人は「蛇塚、ぽんぽこ山」と言っていると。桜は既に満開に野球仲間の近くの民家の桜、樹齢約40年とか。家を新築した時に、庭に桜を植えられたのであろうが。40年も経ると木も大きくなり、根が家の下まではびこり、夏前には毛虫も付き手入れが大変。昨年の1月に枝を下ろしていた主人が落下したとか。千ノ川の上流側とはま(十・浜)人道橋 際の『取水堰跡(登象の堰)』昔、この地域には千ノ川の水を利用した水田が広がっていました。その水を田に引くために、この場所に堰が設けられていました。ここでせき止められた水は、取水口から用水路を流れ、鶴嶺八幡あたりまで広がる水田を潤しました。余った水は、現在の富士見橋脇で、再び千ノ川に流れる仕組みでした。昭和のはじめに造られたこの堰は、がっちりしたコンクリート製で、約80cmほどの幅をもっていましたので、橋の役目も果たしました。また、相模川左岸農業用水導入後の堰はいつも豊富な水量をたたえていたので、子供たちにとって自然のプールでもあり、魚とりを楽しむ集いの場でもありました。橋の役割は、十間坂と浜之郷をつなぐ「とはま人道橋」として現在に残されましたが、かろうじて原形を留めていた堰跡と取水口は、平成19年の護岸工事の際に、県の協力を得、その位置を護岸に刻むことにしました。新しい護岸に付設された四角い囲みがその原位置で、上端の高さが本来の土手の高さを示しています。この土手と堰は多くの人々が行き交う場であり、鶴嶺神社参道を前景にした富士山、箱根、丹沢の眺望は人々の目を楽しませました。下流側を見るが、上記跡は確認できなかった。我が家辺りの雨水もこの川を流れ相模湾へと、河川敷にこれだけ草が生えていると水の流れもスムーズに流れず上流側は浸水の危機に野球友が鶴嶺八幡宮で「北斎桜」が咲いているとのことで自転車で向かう。鶴嶺八幡宮の参道:7月の浜降り祭にはこの参道を神輿をかついで進んで海岸へ行くが、今年の開催は新型コロナウイルスの影響で中止か?左に【女護ヶ石】、右に【朝恵上人と参道 松並木】の句碑。【朝恵上人と参道 松並木】八幡宮別当常光院住職 朝恵上人は、慶安2年(1649)三代将軍家光より、御料として七石の御朱印を拝領した記念に地頭山岡景信と相計り、まず社殿を再建し、更に八幡宮参道と社前の馬場に松の木を植えて、神域の保全整備をした先人である。その偉業を賛え後世に語りつぐために、ここに上人の碑を祀る。 ながながと 参道に列並む 松のみどり 朝恵上人を 語りつぐべし 三郎 今もなほ 朝恵の松の 若みどり 十八世鴫立庵芳女【女護ヶ石】女性の守護神として、信仰されていた石神です。からだの悪いところ、願いごとのあるからだの部分に「祓え給え、清め給え」と三回心に念じながら石をなでて、からだの部分もなでる鶴嶺八幡宮所在地:神奈川県茅ケ崎市浜之郷462境内の右側に『北斎桜』英国から里帰りした稀少な北斎桜を境内に植樹!北斎の描いた日本の美しい森羅万象の姿に魅了され、欧米にジャポニスム旋風が湧き上がっていた20世紀初頭、英国人コーリング・イングラムは日本から様々な桜を輸入し、英国ケント州ベネンドンにある邸宅、ザ・グランジに、桜の庭園を造園しました。彼はその中にまだ学術名の無い桜を見つけ、自らが尊敬する葛飾北斎に因んで”Hokusai”(ホクサイ)と命名しました。今回の鶴嶺八幡宮に植樹された北斎桜は、イングラム邸の北斎桜を起源とし、世界遺産英国「キュー王立植物園」から、日本花の会を経てこの鶴嶺八幡宮の地に里帰りをしたとても稀少な桜です。日本では数カ所でしかその存在が確認されていませんネームプレートに「北斎桜」と。北斎桜ズームアップ更にズームアップ鶴嶺八幡宮のイチョウ境内の右側に鐘楼鶴嶺八幡宮拝殿拝殿の彫り物相模国茅ヶ崎の総社として往古より八幡信仰の本地として名高い。康平年間(1058~1065)源頼義が東征の際、石清水八幡宮にならい、本郡懐島郷矢畑村本社に一社を創立し、後に源家が現地に奉還したと云う。更に治承年間(1177~1181)に源頼朝が鎌倉由比郷に遷したが、その旧社は存続し本社八幡と称したものと伝えられている・・・・・・・・・鶴嶺八幡宮大銀杏このイチョウは実生かまたは・・・・・中略・・・・・・。この神社は平安時代後期、源頼義が平忠常の乱を平定の折に、このあたり懐島郷を通り風光明媚の小丘に源氏の守り神、石清水を勧請したに始まるといわれ、その後、前9年の役で父頼義を応援に奥州へ向う途中の義家(八幡太郎)がそこに詣で、戦勝を祈願して現在地に遷座したという。このイチョウはその時義家が手植えたものといわれているイチョウの木の前に、厄割石祈願所「かわらけ投げ」県指定天然記念物「鶴嶺八幡のイチョウ」多数の側枝が叢成し、その数本がゆ着して成長し幹を形づくっていると言われ、ゆ着したと思われる部分が縦の線となって認められる珍しい巨木である。昭和59年12月には「かながわの名木100選」に選定されている。樹高:29m、胸高周囲:9.0m、樹齢:約1000年(伝承)右側には「神輿殿」「淡嶋神社」拝殿の右側から奥へ、拝殿と本殿右奥には『鶴嶺稲荷神社』拝殿奥から大イチョウ本殿横には『御神木「槙」樹齢900年余』淡島神社淡島神社の横に「針塚」、左下に石があり針を入れる穴拝殿の左奥に『鉾宮神社』境内から松並木の参道を見る(南方向)。国道1号線まで松並木が続き約五百メートルあるか 4月2日のヒロ散歩-END
2020.04.12
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旧東海道(国道1号線)は鈴鹿峠を越え緩い坂を下り土山宿へ向かう。2/21(金) 11:49旧東海道(国道1号線)山中交差点の南側に『熊野神社鳥居』所在地:滋賀県甲賀市土山町山中194献灯と献灯に、珍しいしめ飾り脱穀した稲穂をぶら下げ鬱蒼とした境内に入り綺麗に整備されていた拝殿の扁額「熊野神社」拝殿左に小さな「津島神社」「愛宕神社」稲荷神社も11:59旧東海道(国道1号線)に戻り進む、キロポストは東京(日本橋)より435km、大津まで50km12:01前方に集落が見えてくる田んぼの隅に小さな石の祠、しめ縄をしているので五穀豊穣でも願っているのか春も近づき小さな花が田んぼの畦道に咲く野獣除けの一部?田植え後は田んぼのまわりに柵をつくるのか12:07旧東海道(国道1号線)を進むと前方に新名神高速道路の高架橋が見える12:07浄土宗十楽寺(じゅうらくじ)所在地:滋賀県甲賀市土山町山中351入口角に「甲賀西國四十三番目」の石柱国道の向かい側に石灯籠甲賀四十三番観音札所 十楽寺鈴鹿峠方面の国道1号線十楽寺の境内に入り、鐘楼と本堂十楽寺の文化財東海道の鈴鹿峠をひかえた山中の浄土宗十楽寺には、古代より交通の要地として知られた場所柄から多くの古像が伝えられている。 ■甲賀市指定文化財 木造阿弥陀如来坐像 平安時代 ■甲賀市指定文化財 木造十一面観音立像 平安時代 ■甲賀市指定文化財 木造摩耶夫人立像 室町時代鐘楼の手前に歴代住職の墓標か12:13十楽寺の先にある『山中城址』の石碑山中城址の石碑山中城址碑の下にあった、しめ縄で囲んだ石碑石碑には「山神」と刻まれている旧東海道(国道1号線)の前方を見ると、新名神高速道路の高架橋が大きく見える。旧東海道はこの先を右側へ12:18国道1号線の山中西交差点の右側にある公園石灯籠国道沿いに「東海道土山宿散策図」各名所への距離を書かれているが、今日のゴール点土山宿の「東海道伝馬館」までは4.5kmあいの土山観光案内図あいの土山3大イベント 3月下旬 あいの土山斎王群行 6月中旬 鈴鹿馬子唄全国大会 11月上旬 あいの土山マラソンまだ新しく整備されたようだ。石碑には、鈴鹿馬子唄が刻まれている石碑をズームアップ鈴鹿馬子唄坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る近江・伊勢の国は鈴鹿山脈で隔てられ、二つの国を行き来するには必ず峠を越えなければならない。江戸時代の東海道は鈴鹿峠を越えていたが、「東の箱根、西の鈴鹿」と言われるように旅人には非常な難所であった。そのためにこの峠を人や荷が越えるのには馬の背を借りることが多くなり、馬の手綱を引いて駄賃を取る馬子たちも多く存在した。彼らの間で自然発生的に唄われたのが鈴鹿馬子唄で、日本各地に伝わる馬子唄や追分節とよく似ており、ゆっくりした調子で哀愁を帯びた節で唄われる。歌詞は七・七・七・五の甚句形式で、主に関宿や坂下宿のことが唄われている。冒頭に掲げたのは一番の歌詞であるが「あいの土山」の解釈には諸説があり判然としないものの、その中の一つには「あいのう雨が降る」即ち「間もなく雨が降る」と解釈する説もある。しかし今日では意味を問うことなく「あいの土山」として三音節ながら土山の枕詞のように使われ多くの人々に親しまれている12:20鈴鹿峠が分水嶺となりこの辺りは山中川、この先は野洲川と合流して琵琶湖へ流れる。前方に、新名神高速道路の高架橋、私は既に何度も走っている高速道路である公園を振り返る12:24旧東海道沿いに『地蔵大菩薩』民家の玄関先には信楽焼のタヌキ新名神高速道路の東京方面新名神高速道路の京都方面左上は国道1号線高さが20m位ある高架橋を見上げる旧東海道は高架橋を潜り12:30山中一里塚公園へモニュメントは「第二名神」滋賀県起工の地平成7年(1995)12月18日に当地滋賀県土山町山中地先の土山橋下り線の下部工工事が第二名神の滋賀県での最初の工事として着工されました。当地が第二名神の起工の地であることを記念し、また、古より東海道の宿場町として道と共に栄えてきた ”あいの土山” の未来永劫の発展を願い、ここに記念碑を建立します 滋賀県土山町山中一里塚公園所在地:滋賀県甲賀市土山町山中ここまでの歩数は、22,700歩山中一里塚公園の石柱石碑は「山中地区圃場整備 竣工記念碑」 関宿~土山宿-続く
2020.04.12
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野球友から近くの鶴嶺八幡宮に珍しい『北斎桜』が咲いているとのことで訪れる。4月2日(木)鶴嶺八幡宮の拝殿前から参道。所在地:神奈川県茅ヶ崎市浜之郷462参道を振り返る。境内の左側に植えられた『北斎桜』英国から里帰りした稀少な北斎桜を境内に植樹!北斎の描いた日本の美しい森羅万象の姿に魅了され、欧米にジャポニスム旋風が湧き上がっていた20世紀初頭、英国人コーリング・イングラムは日本から様々な桜を輸入し、英国ケント州ベネンドンにある邸宅、ザ・グランジに、桜の庭園を造園しました。彼はその中にまだ学術名の無い桜を見つけ、自らが尊敬する葛飾北斎に因んで”Hokusai”(ホクサイ)と命名しました。今回の鶴嶺八幡宮に植樹された北斎桜は、イングラム邸の北斎桜を起源とし、世界遺産英国「キュー王立植物園」から、日本花の会を経てこの鶴嶺八幡宮の地に里帰りをしたとても稀少な桜です。日本では数カ所でしかその存在が確認されていません木の根元に『北斎桜』と八重の桜の『北斎桜』ズームアップ以降の写真は、4月8日(水)今年二月に旅友が根府川で買い植栽された『楊貴妃桜』旅友から、この楊貴妃桜が咲いたとの情報を頂き4月8日(水)訪れた。まだ背丈は1メートルほどだが見事に咲いていた。廻りの木の束は、昨年の台風で倒れたアカシアの木であったか?楊貴妃桜のルーツは!サトザクラの一品種。花は八重で4月ころ咲き、花びらは淡紅色であるが先端は濃紅色。名前の由来は、奈良興福寺の僧玄宗が愛でたことからついたという10年後には大木になり見上げるのではなかろうか、それまで・・・・・ END
2020.04.11
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久しぶりに心拍数を挙げながら、「東の箱根峠、西の鈴鹿峠」と言われた街道の難所、鈴鹿峠へと続く坂道を登る。2/21(金) 10:32先行する弥次さんが橋脚の下で休憩、暑くなったので上着を一枚脱ぎ小休止十数分休憩して国道1号線の高架下を潜り坂を登る10:42片山神社からちょうど中間点か国道1号線沿いの広場へ到着、道路は上り線10:43ここから最後の坂を登る。ベンチに座り休憩の弥次さん斜め左方向が「東海道鈴鹿峠」の道標。このベンチは令和2年に贈呈と!鈴鹿国定公園 東海道自然歩道案内鈴鹿峠 三重県と滋賀県の県境にあり、「鈴鹿馬子唄」で名高い峠で、文化庁の「歴史の道百選」に 選定されています。東の箱根とともに東海道の難所でしたが、今は国道1号線が通り、自動車 で楽に越すことができます。峠の頂上近く自然歩道沿いに昔、山賊が道を通る旅人の姿を岩 肌に写して危害を加えたという、県の天然記念物に指定されている奇岩「鏡岩」がありますベンチから上るとすぐに『峠道芭蕉句碑』がある。元禄4年(1691)に刊行された、松尾芭蕉の句集『猿蓑』に詠まれた、「ほっしんの初にこゆる鈴鹿山」の句が刻まれている芭蕉句碑の横に説明板があったが少々汚れ、これをきれいにすると犯罪?鈴鹿峠(378m)を越える初めての官道は「阿須波道」と呼ばれ、平安時代の仁和2年(886)に開通した。八町二十七曲といわれるほど、急な曲り道の連続するこの険しい峠道は、平安時代の今昔物語集に水銀商人が盗賊に襲われた際、飼っていた蜂の大群を呪文をとなえて呼び寄せ、山賊を撃退したという話や、坂上田村麻呂が立烏帽子という山賊を捕らえたという話など山賊に関する伝承が多く伝わっており、箱根峠に並ぶ東海道の難所であった。また鈴鹿峠は、平安時代の歌人西行法師に「鈴鹿山 浮き世をよそに ふり捨てて いかになりゆくわが身なるなむ」と詠まれている。また、江戸時代の俳人、松尾芭蕉も先の句を詠んでいる芭蕉句碑の横の坂の上り口に『馬の水のみ場跡』横に刻まれた「馬の水のみ鉢」下にも刻まれていたが判読できず、綺麗に整形されているがいつ頃の製作なのか10:52険しい坂道を上る10:54鈴鹿峠山頂の『峠の茶屋跡』芭蕉句碑下の休憩所から約10分程で登ってきたがきつかった。鈴鹿峠山頂の伊勢と近江の国境には、松葉屋、鉄屋、伊勢屋、井筒屋、堺屋、山崎屋の六軒の茶屋が建ち並び、峠を往来する人々でにぎわっていました。現在でも当時の茶屋の石垣が残されています。道標には、田村神社跡:10m、鏡岩:150m とあったが山頂の左側に『田村神社舊跡』の石柱。峠頂上には磐座と推定される「鈴鹿山の鏡岩」や、坂上田村麻呂を祀った田村神社旧跡がありこれらは峠祭祀に関わるものと考えられる。ここで引返し『鏡岩』へは行かず鈴鹿峠伊勢と近江の国境をなす標高378mの峠で、東海道は三子山と高畑山の鞍部を通っています。都が奈良盆地にあるときは、伊賀から加太峠を越え伊勢へ入る経路(後に大和街道と称す)が東海道であった。しかし、仁和2年(886)近江から鈴鹿峠を越え伊勢へ入る阿須波道と称する新道が開かれ、同年斎王群行がこの新道を通って伊勢神宮へ向かうよう定められたことから、この鈴鹿峠越えが東海道の本筋となった。山賊に関する逸話がいくつもある。また、「鈴鹿山」は伊勢国の歌枕として著名で多くの作品が残されている10:57伊勢国から近江国へ峠の茶屋跡を過ぎると、伊勢と近江の国境です。ここからは急峻な峠道とは対照的ななだらかな茶園が広がっています。その先に、18世紀前半頃に坂下宿と甲賀郡の人々によって建立された巨大な万人講常夜灯があります。ここから田村神社を経て土山宿までおおよそ一里です石柱は『界 右:滋賀県 近江の国 左:三重県 伊勢の国』 側面に「是より江戸まで百九里」10:58峠の茶屋跡を振り返り、左方向は三子山へ、石柱には「是より京まで十七里」いろんな立札が登山者の方へ現在地:滋賀県甲賀市土山町山中(鈴鹿峠)最後の難所を越え元気になる、近江に入り茶畑が広がる11:00万人講灯籠 常夜燈所在地:滋賀県甲賀市土山町山中ここまでの歩数は、17,000歩折から京から来る人とすれ違い撮影願った万人講常夜燈万人講常夜燈は、江戸時代に金毘羅参りの構中が道中の安全を祈願して建立したものである。重さ38トン、高さ5m44cmの自然石の常夜灯で、地元山中村をはじめ、坂下宿や甲賀谷の人々の奉仕によって出来上がったと伝えられている。もともとは東海道沿いに立っていたが、鈴鹿トンネルの工事のために現在の位置に移設された。東海道の難所であった鈴鹿峠に立つ常夜灯は、近江国側の目印として旅人たちの心を慰めたことであろう「金毘羅大権現」と刻まれている、座には「万人構」金毘羅大権現 永代常夜燈地震の震度はどのくらいまでこの姿を保持できるのか万人講常夜燈を振り返る、常夜燈を後にして、旧東海道を進む11:21万人講常夜燈の下を国道1号線が走り、この辺りは上下線は分離。この先から、滋賀県甲賀市土山町の「農排 マンホール」デザインは土山町のシンボル、杉、キジ、茶旧東海道の坂道から、国道1号線を振り返る鈴鹿トンネル 長さ 276m11:25ここを右に廻り、すぐに国道1号線と合流国道1号線の下り線から鈴鹿トンネル方面、下は上り線。右上に「万人講常夜燈」11:34旧東海道(国道1号線)を進む、東京日本橋から、434kmキロポスト11:37旧東海道(国道1号線)を進み、反対側に鳥居があったので危険な行為で横切る石灯籠に字が刻んであったが???鳥居の扁額もなく、嵩上げされたのか座は埋まっていた旧東海道に戻り、振り返ると道路標識は、四日市 39km、亀山 17km11:41旧東海道(国道1号線:鈴鹿峠バイパス)の緩やかな坂を下る、前方左側に建物。屋根には「山賊茶屋」の看板建物の前には、「鈴鹿峠の馬子たちの俚謡」のぼりくだりの おつづら馬 さても見事な 手綱染かいな 鈴をたよりに 小諸節板は照る照る 鈴鹿は曇る 間の土山 雨が降るまだ修復すれば営業再開できそうだが、それにしても国道1号線の通行量が少ない11:45前方は国道1号線の山中交差点、県道187号線との三叉路ここまでの歩数は、19,100歩山中交差点の手前の草むらに、地蔵11:47あいくるバスのバス停「熊野神社」あいくるバス運行路線図時刻表:(下り)貴生川駅行 7:36のみ、近江土山行、(上り)大河原行今日はこの後、近江土山からこのバスを利用してJR草津線の寺庄駅まで利用予定 関宿~土山宿ー続く
2020.04.11
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坂下宿を後にし、最後の難所鈴鹿峠へ向かう。2/21(金) 9:48旧東海道の街道脇に祠がめずらしく地元のおばさんとすれ違うこの地蔵は『身代わり地蔵尊』と呼ばれ、大名行列を横切った子供の身代わりになったと。地元の人が毎日参拝しているのか綺麗であった9:51緩い坂を登ってきて、坂下宿を振り返る。道幅が広いのは、一時国道1号であったのだろう上乃橋(如来堂橋)を渡り、街道沿いに夫婦の像が説明板がなく誰なのか9:55岩屋観音『岩屋十一面観世音菩薩』の石柱所在地:三重県亀山市関町坂下旧街道から数段下がったところに扉があり開錠して中へ入る左側の石碑に何か刻まれていたが解読できず岩屋観音高さ18mの巨岩に穿たれた岩窟に、万治年間(1658~1660)に実参和尚によって道中の安全祈願のために阿弥陀如来・十一面観音・延命地蔵の三体の石仏が安置されました。毎月3日、18日のみ開扉、岩窟内の写真撮影はお断りします堂の隣にある清滝とあわせて「清滝観音」として広く世に知られ、葛飾北斎の『諸国滝めぐり』にも取り上げられています霊験あらたかな観音霊場として現在も信仰を集めています入口方向岩屋観音の近くには御馳走場があり、ここが坂下宿の西の出入り口だった。岩屋観音前を過ぎると旧東海道はすぐに国道1号(上り線)と合流。この辺りの国道1号は上り下りが別ルートになっており、この道は上り線。右の道案内は、鈴鹿峠 ⇔ 坂下宿10:00国道1号の上り線(東京方面)、下り線は別ルートになっている左方向へ直進すると坂下宿で、左側にすぐ『岩屋観音』がある。この辺りは冬場に雪が多いので融雪設備スプレーノズル旧東海道は国道1号(上り線)に沿って進むが緩やかな坂である。高速道路を使用しているのか通行量が少ない、我々は今後この道を利用する10:05看板は、「お食事・ご宿泊 鈴鹿峠」ご宿泊料金 ・一泊二食付 8,200 ・素泊まり(朝食付) 5,000円営業しているのか?10:08弥次さんがなぜかこの石段を上る石碑は墓か?「南無阿陀佛」国道1号を見下ろす弥次さんは杉林の中を進む坂道は急になり道も狭くなる。滑り落ちないよう足元に注意しながら坂を登る10:12この先で道を間違えていることに気が付き引き返す。この道標を見ても逆だが10:18国道1号に戻り進む、旧東海道は右上に進む。お食事・ご宿泊の「鈴鹿峠」は左方向になっている片山神社石碑から鈴鹿峠国道1号からそれて旧東海道を登ると「片山神社の石柱」この辺りの登り坂もまだ緩やかである10:20旧東海道下に、小さな社があるが『琴の橋(桐の橋)』か?かつて天皇家の秘宝のひとつに和琴の「鈴鹿」がありました。この琴は鈴鹿川にかかる桐の橋板から作られたことからこの名があり『平家物語』にも登場しています。藤原俊成が「鈴鹿川桐の古木の丸木橋これもや琴の音に通うらん」と詠んだこの橋は、古町にかかる小橋のこととする説があります説明板があったが判読できず坂がきつくなってくる10:23廻りは杉林で、道路が舗装されているので登りやすいがきつくなる10:25片山神社下に到着。片山神社の由来が古代にさかのぼる延喜式内社で、鎌倉時代には現在の場所に鎮座したと伝えられます。また、斎王群行の際に皇女が休泊した「鈴鹿頓宮」の跡ともいわれています。江戸時代には鈴鹿権現とよばれ、往来する多くの人々の信仰を集めました片山神社 『伊勢参宮名所図会』より片山神社は、延喜式内社で、元は三子山に祭祀されていたが、火災により永仁2年(1294)に現在の場所に移された(『片山神社縁起』)とされる。明治以前は「鈴鹿明神」「鈴鹿権現」等と呼ばれ、『室町殿伊勢参宮記』応永31年(1424)にも「鈴鹿姫と申す小社の前に」と記されている。東海道は、このあたりから「鈴鹿坂八丁二十七曲り」の急坂が始まり、「東の箱根峠、西の鈴鹿峠」と言われた街道の難所、鈴鹿峠へと続く平成11年(1999)に本殿などを焼失し、現在は神楽殿のみとなり、高い石垣などにかつての面影をとどめている片山神社と峠道入口、急な石段を登ることに10:28急な石段を上ってきたが、建物はなく。昭和53年に市史跡に指定されましたが、平成11年に本殿などを焼失し、現在は神楽殿のみとなりました。現在は高い石垣などにかつての面影をとどめています後方を国道1号が走る隅にあるこの建物は?急な石段を下りることに。転ばないよう注意しながら石段を降りる10:29灯籠坂片山神社から先の急な上り坂には、街道に灯籠が並んで設けられており、灯籠坂と呼ばれていた。石柱は「鈴鹿流薙刀術?生之地」鈴鹿峠への旧東海道の案内板ここにきて一気にジグザグな急な坂道になる上って来た道を振り返る10:32国道1号が見える。片山神社からわずか5分ぐらいであったが心拍数が上がった上ってきた坂を振り返る。まだ「鈴鹿坂八丁二十七曲り」の半分か、国道1号の下で暑くなり、小休止 関宿~土山宿
2020.04.10
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沓掛のまちなみを過ぎ、だらだらと坂を登り、坂下宿へ進む。2/21(金) 9:04鈴鹿峠の山はどこだろうかと思案しながら進む。西の空は快晴9:07街道右側の斜面に「庚申堂」まだ新しい庚申堂で、周りも整備されていた9:09坂下簡易郵便局を過ぎるが、閑散とした集落にも郵便局はあるがコンビニはない。民家の建物も住民がいなくなったのか、廃家に右は温室用骨組み、右前方には「鈴鹿峠自然の家」9:12コミュニティバスのバス停、西部ルート「鈴鹿馬子唄会館前」旧東海道はこの道を進む反対側から鈴鹿馬子唄会館へ坂下地区コミュニティセンター・鈴鹿馬子唄会館入口鈴鹿馬子唄会館ホールや研修室、展示コーナーをもつ地域文化創造施設として平成7年に建築されました。鈴鹿馬子唄と鈴鹿峠の歴史文化について常設展示されています。入館料:無料 休館日:月曜日・年末年始 tel:0595-96-2001所在地:三重県亀山市関町沓掛234東海道五十三次 阪之下 筆捨山上り下りの旅人で賑わっていた。江戸時代は大きな旅籠が軒を並べ、本陣、脇本陣の規模は街道一ともいわれた。往時戸数三百余りと栄えた9:17鈴鹿峠自然の家(旧坂下尋常高等小学校)所在地:三重県亀山市関町沓掛123昭和13年(1938)に坂下尋常小学校として建築されました。昭和54年に廃校となり、現在は青少年のための研修施設として使われています。平成11年、国土の歴史的景観に寄与しているとして、国の登録有形文化財に登録されましたネットで見ると、月一回の天体望遠鏡の無料開放日があると国登録有形文化財『鈴鹿峠自然の家(旧坂下尋常高等小学校)』鈴鹿峠自然の家は、・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・・。校地は、山の西側斜面を整地して造られており、南側に校庭をとり、校舎は北側に寄せて建てられている。外観は、切妻平入形式の瓦葺で、正面玄関に切妻妻入形式で洋風の意匠を施した車寄が突き出ている。外壁はペンキ塗りの洋風下見板張りである。校舎は南北の2棟に分かれ、中央に中庭をとり、東西に廊下を設けて両棟をつないだロの字形の平面である。校庭に面した南棟は、中央に玄関をとり、西側には教室一室と職員室・校長室を、東側には教室一室と和室を設け、北側に廊下をとっている。また、北棟は、講堂と教室二室を設け、北側に廊下をとっている旧東海道沿いに立つ、各宿の名前が書かれた石柱9:19旧東海道(左側)を振り返る9:21杉林の中、旧東海道を進む。坂下宿は鈴鹿峠のふもとにあるので坂下宿と呼ばれた。室町時代には峠越えのため、すでに宿場があった。江戸時代初期の慶安3年(1650)の大洪水で宿場は壊滅し、約1km東の現在地に移転した。難所の鈴鹿峠を控え、多くの旅人や参勤交代の大名が宿泊したAGF ブレンディの森 入口関係者以外は立ち入らないでください。何があるのか????梅の花は五分咲きか9:26河原谷橋(かわらだにはし)この橋は鈴鹿川の支流に架かる橋で、左側を鈴鹿川が流れる河原谷橋(かわらだにはし)9:27河原谷橋を渡ると坂下宿。町並みの長さ5町56間(約650m)に人口560人ほどの小規模な宿場にも関わらず、鈴鹿峠を控えていたので本陣が3軒もあった。宿の入り口の小さな川に架かる河原谷橋の近くに大名など本陣宿泊者を送迎した御馳走場があり、その先に松屋本陣があった。松屋本陣の玄関は明治になって、法安寺の庫裏玄関として移築され、現在も残る。家数の三分の一は旅籠で飯盛女はいなかったが、宿泊業のほか、旅人の荷物を運んだり、飛脚業などの往還稼ぎが主な収入だった下乃橋とも呼ばれている、河原谷橋坂下宿は緩い坂沿いにある。坂下宿は、難所の鈴鹿峠を控え、江戸時代後期には大竹屋・松屋・梅屋の本陣、小竹屋脇本陣がありました。特に大竹屋は、間口13間半(約24m)、奥行25間(約45m)もあり、鈴鹿馬子唄にも「坂下では大竹小竹、宿がとりたや小竹に」と唄われたように、数多くの大名家も休泊する東海道随一の大店として世に知られていました。大竹屋の庭にあった「不断桜」も著名で、往来する公家や文化人によって歌に詠まれています。これほどまでの賑わいをみせたこれらの建物は明治以降にすべて取り壊され、現在は跡地に石碑を残すのみとなりました9:30坂下宿の緩い坂道の町並みを鈴鹿峠に向けて進む9:30横断歩道横に『松屋本陣跡』の石碑ここまでの歩数は、12,000歩コミュニティバスのバス停、西部ルートの「伊勢坂下」亀山市の運行はここまでで、鈴鹿峠は越えない。坂下宿より鈴鹿峠の頂上まで約3.0km鈴鹿峠の頂上より土山宿まで約6.8km 今日のゴール土山宿までこれからまだ約10km歩く坂下宿の案内東海道を近江から鈴鹿峠を越え伊勢に入った最初の宿場である。貞和2年・・・・・・・中略・・・・・・。 少なくとも室町時代には宿として機能していた。しかし、慶安3年(1650)の大洪水で宿が壊滅し、翌年現在地に移転し復興された。なお、かつての宿は片山神社下の谷間にあり「古町」と呼ばれている。江戸時代には、東海道五十三次のうち48番目の宿場町として賑わいをみせ、東海道の難所である鈴鹿峠を控えて参勤交代の大名家の宿泊も多かった。しかし、明治23年(1890)関西鉄道の開通により通行者が激減したため宿場としての役割を終えた坂下宿 『伊勢参宮名所図会』よりなお、坂下宿は「坂下」「坂ノ下」「阪之下」などの表記方法がみられますが、江戸時代の公用では「坂下」を用いることが多かったようです。 歌川広重の保永堂版より大竹屋本陣跡明治政府はどういう目的ですべての建物を取り壊したのか?日本百名城もそうだが。もったいない話だが維持費がかかると判断したのか中乃橋とも呼ばれている、中の橋この辺りの道路は広く、近年まで国道1号線として使用していたのであろう。現在の国道1号線は左側(南西側)を走っている9:35中乃橋手前右側にある『法安寺』所在地:三重県亀山市関町曹洞宗鈴鹿山 法安寺山門から本堂山門の寺標山門左側の地蔵尊地蔵尊法安寺本堂本堂の扁額「??山」この鈴鹿山法安寺庫裡の玄関は、江戸時代繁栄を極めた坂下の宿場で諸大名の休泊所となった松屋本陣の玄関であったのを、明治15年5月大字坂下79番地に坂下小学校舎改築の際校舎玄関に移築され、昭和13年4月沓掛地内に坂下村尋常高等小学校が移転新築される迄、旧校舎の玄関として保全されてきました。この玄関は、文化財として稀少価値があり昭和35年10月法安寺庫裡玄関に、転用移築したもので昭和57年7月本堂改築に当たり屋根瓦の葺替えを実施しました山門から旧東海道を望む9:43法安寺を後にして旧東海道を進む中の橋を渡るとすぐ右手に『小竹屋脇本陣跡』9:47右手の山に石垣があったが、『金蔵院跡』か?鈴鹿山護国寺ともよばれ、その開基は仁寿年間(851~853)と伝えられる古刹です。江戸時代初期には将軍家の御殿が設けられており、上洛途中の徳川家康や家光が休息しています。参勤交代の大名は山門前では駕籠から降りることを通例としていたと伝えられます。慶安3年(1650)の洪水後に古町から現在の位置に移りましたが、明治に入り廃寺となり、現在は石垣だけが往時を偲ばせています鈴鹿馬子唄鈴鹿峠を越える馬子たちの間でいつしか歌われ始め、近松門左衛門の浄瑠璃などにより広く全国に知れ渡ってゆきました。「坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る 坂下では大竹小竹 宿がとりたや小竹屋に 関の小万が亀山通い 月に雪駄が二十五足」 抜粋 関宿~土山宿ー続く
2020.04.09
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関宿を出て、国道1号線と並行して旧東海道を進む。2/21(土) 8:16国道1号線の市瀬交差点を過ぎ、日本橋からのキロポストは、425.8km梅の花も満開国道1号線の鈴鹿川に架かるいちせ橋の手前を右に曲がり、旧東海道を進んで坂下宿へ。鈴鹿川もこの辺りになると川幅が狭くなっている8:19鈴鹿峠に向けて緩い坂になり、畑の梅の花も咲き始めていた鈴鹿川に架かる「市瀬橋」を渡る鈴鹿川の上流側同下流側小集落に入る8:22国道1号線を横切る国道1号線を横切るとすぐ左側にある『浄土真宗 本願寺派 西願寺』所在地:三重県亀山市関町市瀬589山門からの本堂山門の扁額「龍玉山」西願寺本堂境内に咲いていた椿8:25旧東海道に戻ると、「せき おすいマンホール」。亀山市と鈴鹿郡関町が合併する前のマンホールであろう関では他のデザインもあったが、鹿が初めて登場旧東海道を歩き再度国道1号線に沿って歩く。箱根越えに比べてだらだらと緩い坂を登る、風もなく快適に進む8:35東京日本橋から、427kmのキロポスト。道路標識はこの先からカーブが続くと注意勧告下り(京方面)のバス停、西部ルート「筆捨山」亀山市のコミュニティバスが運行している8:39上り(関駅方面)のバス停、西部ルート「筆捨山」西部ルート時刻表亀山市名勝「筆捨山(ふですてやま)」東海道から見ると鈴鹿川を挟んだ対岸に位置する標高289mの山である。もともと岩根山と呼ばれていたが、室町期の画家狩野法眼元信がこの山を描こうと筆をとり、翌日描き残した分を続けようとしたところ、雲や霞がたちこめ山の姿が全く変わってしまったため書き足すことができず、あきらめて筆を投げ捨てたことからこの名がついたと伝えられる。江戸時代から名勝として世に知られ、東海道を往来する人々は、対岸の筆捨集落にある茶屋から四季折々の景色を楽しんだ。歌川広重の保永堂版『東海道五十三次 阪ノ下 筆捨山』をはじめとして、浮世絵での坂下宿はほとんどが筆捨山を描いている。浮世絵では山中に滝が描かれるが実際は筆捨山には滝はなく、近在の神大滝や岩屋観音の清滝の印象が盛り込まれているようである8:42旧東海道は国道1号線に沿って進む、右側は鈴鹿川8:45国道1号線沿いの「1号弁天橋」手前に石碑石碑は「國道改良記念碑」1号弁天橋にプレート「一般国道 1号弁天橋歩道橋(上り)」点検履歴板業 務 名:平成26年度 四日市管内南部橋梁点検業務点検年月日:平成26年10月10日 8:46旧東海道(国道1号線)を振り返る、鈴鹿川に架かる1号弁天橋市瀬一里塚跡日本橋から107番目の一里塚この二枚の写真は2/21に見落としたため、3/20の最後の道中移動日に撮影したものです8:47一里塚を過ぎ旧東海道は、鈴鹿川に架かるこの橋の手前を右に入る旧東海道に入ると電柱に「旧東海道 これより沓掛(くつかけ)」沓掛から坂下宿・鈴鹿峠へ沓掛の集落を進む集落に咲く紅梅8:49コミュニティバスのバス停「楢(ナラ)の木」鈴鹿川方向8:52旧東海道の緩い坂を登ると左前方に施設が農業集落排水事業 沓掛地区浄化センター所在地:三重県亀山市関町沓掛施設のフローシートをズームアップ「沓掛地区浄化センター 汚水処理施設図」所 在 地 :三重県鈴鹿郡関町大字沓掛588-1 亀山市との合併前の設備併用開始:平成14年(2002)3月計画対象人口:170人 日平均汚水量:45.9m3/日仕事柄興味を持ってみる計画対象人口は170人で、坂下宿界隈の集落の生活排水を処理して鈴鹿川へ放流している8:54観音山歩道案内図この歩道は、観音山公園内の国民宿舎関ロッジを起点に、新地及び羽黒山、筆捨山の奇岩怪石の山景を展望しつつ、関町沓掛で東海自然歩道に連絡する自然探勝歩道です8:59旧東海道の緩い坂道を更に進み『真宗大谷派 超泉寺』所在地:三重県亀山市関町沓掛41超泉寺の山門から本堂本堂の扁額「超泉寺」山門寄進者 平成十年九月竣工9:01コミュニティバスのバス停「沓掛」超泉寺、沓掛公民館の前にある沓掛のまちなみを進む 関宿~土山宿ー続く
2020.04.08
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関宿の西の追分へ向かう。関宿の名物は火縄で、火縄銃に用いたほか火種の保存にも多く使われた。大名からの需要のほか、旅人が煙草用に買い求めた。もう一つの名物、深川屋の餅菓子「関の戸」は、江戸時代を通じて朝廷に献上された銘菓で、今でも関の名物である。2/21(土) 7:34誓正寺山門所在地:三重県亀山市関町誓正寺本堂本堂の彫り物灯籠型の法瑞筆子冢「正定院筆子中」誓正寺の筆子塚この燈篭は高さ2メートル40センチあり「正定院筆子中」と刻まれています。「筆子中」とは寺子屋で教育を受けた門下生たちのことです。誓正寺の筆子塚は住職であった正定院法瑞を先生とする教え子たちが学恩に感謝し、慶応4年(1868)に建立したものです。竿石の裏面には法瑞先生のプロフィールが記されています。法瑞先生は文化10年(1813)長野村(津市美里町)清芳寺に生まれ、天保9年(1838)に誓正寺住職となり寺を再興し、子供たちに習字などを教えお酒が好きで、慶応2年(1866)に住職を引退したとあります。幼いときの学恩を忘れず慕いつづけ筆子塚を建立した教え子たちと、お酒が大好きな先生との間の人間味あふれた深い絆は、今日の社会でも求められている大切なことではないでしょうか 合掌境内には咲き始めの梅米穀登録販売店の看板も旧東海道へ出て、懐かしい米屋の看板7:40旧東海道の右側に『福生山 長徳寺』所在地:三重県亀山市関町新所1712山門の横に御朱印の自動販売機自販売機は初めて見た御朱印のご案内令和2年4月1日より参拝記念として御朱印をはじめることになりました。当院の御朱印の絵柄は日本の伝統工芸の伊勢型紙を使用しております。何枚かの伊勢型紙を用いて一つの絵柄を完成させる技法と伊勢型紙の彫の技法を用いて、独特の柄を表現しています。・・・・・・・略・・・・。これらの絵柄があるのか?長徳寺本堂7:42雲一つない街道を進む、風もなく絶好の天気、気温も10℃近い民家の壁に南天と松ぼっくりこちらの民家はコットンで二階部分が高く昭和に入ってからの建物か新所の町並み、二階がなく7:48街道沿いに建つ『観音院』所在地:三重県亀山市関町新所1639観音院 略由朝日を浴びてうまく撮影できず・・・・・観音院の裏(北側)にある『金光教 関教会』民家の漆喰に飾られた彫刻関宿の町屋の細部意匠南禅寺 井口家井口家は屋号を南禅寺と称し、関宿西追分にあって豆腐料理を名物とする料亭であった。当時、西追分は宿屋が建ち並び、旅人がひきもきらず賑わったという。同家は、文久の頃の建物といわれ道路に面して連子格子、塗りごめの中二階があり、料亭の面影をよく残している。関宿かるた「名物は 火縄餅菓子 豆腐料理」関神社御旅所所在地:三重県亀山市関町新所1537平成25年に建て替えられたとのこと。関宿祇園夏祭りの「神輿の渡御」に係わる大切な場所で1年に1回だけ、神輿の宿所として使われる建物であると西の追分が近くなる7:55関宿 西の追分 休憩施設施設内には、鈴鹿関跡の調査成果がパネル展示してあるとのことだが時間が早く閉鎖。ここまでの歩数は、3,300歩関宿周辺案内図西追分駐車場この先で国道1号線(25号線)と合流する西の追分関が歴史に登場するのは、7世紀この地に「鈴鹿関」が設けられたのがはじめで、これが地名の由来ともなっています。慶長6年(1601)に徳川幕府が宿駅の制度を定める際、関宿は東海道五十三次で47番目の宿場となり、問屋場や陣屋などが整えられました。古文書によると天保14年(1843)には、家数632軒本陣2、脇本陣2、旅籠屋42があったとされ(東海道宿村大概帳)、鈴鹿峠を控えた、東海道の重要な宿駅として、また伊勢別街道や大和街道の分岐点として、江戸時代を通じて繁栄しました。ここ西の追分は大和街道との分岐点にあたり、東海道、京都方への次の宿は坂下宿で、鈴鹿峠を越えて京都へは19里半(78キロメートル)あります。また大和街道は加太越えをして伊賀から奈良に至ります。関宿かるた「加太へは 西の追分 大和道」石柱には「亀山市関宿重要伝統的建造物群保存地区」と関宿の西の入口にあたる西追分は、東海道と大和・伊賀街道の分岐点です。石柱には「南無妙法蓮華経」「ひたりハいか やまとみち」休憩所には、関宿かるた「愛発 不破 鈴鹿で結ぶ 古代関」絵は、まだ明けやらぬ早朝、伊藤本陣を出立する大名行列8:00旧東海道はここで国道1号線と合流、東海道関宿西交差点。ここを左折すると国道25号線で伊賀へ、東海道と大和・伊賀街道の分岐点関宿西の追分から、加太宿(かぶとじゅく)へ向かう旧東海道(国道1号線)の、東海道関宿西交差点ここまで、国道1号線と25号線が併記されていたが、ここで25号線は伊賀(大和街道)へ向かう坂下宿への道案内東海道関宿西交差点を過ぎ、旧東海道は国道1号線をしばらく進む。道路標識は、大津 63km、草津 48km、甲賀 27km。ここの左は「焼肉 びっくりや」があり広い駐車場がある。トラック運転手等が立ち寄っておりテレビでよく紹介されるとのこと街道沿いに「東海道 三宿のまち亀山市」亀山市には大和街道を含むと4つの宿があり、それぞれ同じようなパンフレットが用意されているのでわかりやすい。このパンフレットの作成機関は、「亀山市市民文化部 文化振興局 まちなみ文化財室」弥次さんが「町長の像」があるとのことで、市瀬交差点を南へ進む。鈴鹿川に架かる「ふれあい橋」。奥に進むと「関B&G海洋センター」の屋内プール、運動施設があるふれあい橋ふれあい橋のこのデザインは「キジと石楠花」町長の像とのことだが「躍動」ズームアップ8:14旧東海道(国道1号線)に戻り、国道沿いの会社の駐車場に『転び石』転び石は『東海道名所図会』などにも描かれている。直径2メートルのこの大きな石は、「弁慶ころがし」とも言われ、言い伝えによると付近の山から転がり落ちてきたもので、夜な夜な山に戻りたいとうなり声を出して人々をおそれさせたが、通りがかった弘法大師がこの大きな石を供養したところ、石は静かになったと伝えられている 関宿~土山宿ー続く
2020.04.07
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昨日は移動日で、東海道の七里の渡しの脇街道である佐屋街道を車で走り、亀山のホテルへ宿泊。今日は、東海道延べ日数28日目の弥次喜多道中で、最後の難所鈴鹿峠を越える。2/21(金) 6:50ホテルエコノ亀山所在地:三重県亀山市東御幸町59今日の天気は快晴7:04JR関駅前の駐車場へ留める。一日の駐車料金は300円、係員がいないので袋に入れて関駅舎内のボックスへ投入今日の旅姿は?弥次喜多道中ですのでこちらは幕府の幕臣か 上記2枚の写真は亀山市のパンフレットから引用7:06駅前から国道1号線を横切る。前方左は「道の駅 関宿」、まだ時間が早く閉店状態国道1号線の関駅前交差点から、北方向の関宿の町並みへ進む。予告 通行止「関宿ひなまつり市」 2月29日(土) 9:45 ~ 15:30 区間:アールグレイ ~ 聖石屋 この先の交差点から西方向が通行禁止に!10周年記念 東海道のおひなさま 開催期間:令和2年2/15(土) ~ 3/7(土)国道1号線の関駅前交差点を振り返る、正面はJR関駅7:11一休庵とアールグレイの間を行くと関駅。関宿の町並み「関宿重要伝統的建造物群保存地区」へ入る。喫茶 アールグレイはまだ時間が早く「準備中」中町の町並みを西へ向かう昨夕はここを車で走っており、もう三回目になるがいつも人が少ない閑散とした中、弥次さんも足を進める昼間は「ひなまつり」で人が多いのか左側に『岩木屋』明治17年の建築で連子格子や表座敷は典型的な明治頃の商家の構えである岩木屋 吉澤家同家は、屋号を岩木屋と称し、明治から大正にかけ酒造業及び味噌、醤油醸造業を営み、酒倉から「岩泉」と銘うった酒樽が次々と運び出されていた右側に『川北本陣跡』石柱の先の建物は、町並文化センタ百六里庭・眺関亭百六里庭:午前8時から午後5時まで開いています。午後5時からはカギをかけます。2階にある展望台から関宿のまちなみが一望できるが、前回上がっているので今回はスルー。関宿かるた「日本橋 関宿からは 百六里」旧東海道五十三次 四十七番目「関宿」西の追分(右側)から東の追分の1.8kmは、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。百六里庭(ひゃくろくりてい)とは、東海道の宿場町「関宿」は江戸から106里2丁のところにあったところから名付けました。1里とはおよそ、3.93kmです左前方は『伊藤本陣址』関宿には、川北本陣、伊藤本陣の二軒の本陣がありました。本陣は、参勤交代の大名や、公家、公用の幕臣などが利用した格式の高い宿泊施設です。現在残るこの建物は、本陣の店部分にあたります。亀山市指定文化財『関の山車』” 関の山車(せきのやま) ” 語源発祥の地 上台がクルクル廻せる関の山車は元禄年間(1688~1703)頃に始まったと言われており、関町史によると文化年間(1801~1817)頃には16台あったとされ、江戸時代、大阪天神祭、京都祇園祭り、近江長浜祭、飛騨高山祭と共に関西五大祭の1つに数えられている。江戸時代に、この狭い街道に16台もの山車がひしめき、この町では大きさ、台数とも、これ以上は無理、精一杯と言う意味で ”関の山車” と言う語源がこの街・この山車から生まれました。そしてこの関の山の特徴は、16台もが繰り出し、街道が狭く追い抜けないため、下台から上の部分だけ廻して方向転換できると言う今では大変全国的にも珍しいタイプの山車となっています。現在山車は、4台のみとなっておりますが、祭礼時には各町で引き廻され、その後4台が一堂に集まり、提灯に灯をともし、一斉に威勢よく、勇壮に上台を廻す様は、絢爛・豪華・幽玄の世界を味わえます。この祇園夏祭りは7月の20日以降の土日に両日に行われますいつもこの車はここへ駐車していた車の中におひなさんが飾られていた関の戸 深川屋陸奥大掾の『庵看板(いおりかんばん)』所在地:三重県亀山市関町中町387関宿のもう一つの名物、深川屋の餅菓子「関の戸」は、江戸時代を通じて朝廷に献上された銘菓で、今でも関の名物である。赤小豆の漉し餡を求肥餅で包み、阿波の和三盆をまぶした上品な餅菓子である。いつか土産で購入したいものです!深川屋陸奥大掾の向かい側にある『関郵便局』昨夜も見たが建屋内の「おひなさん」街道を進む「旅館 魚藤」の看板があるが東亜足袋店名物 志ら玉ここも時間が早く開店前関宿銘菓(果実入り焼き菓子) 「関の小萬物語」白玉屋 三宅家菓子舗、こしあんを米粉を原料にした皮で薄く包んだ上から、赤、青、黄色で色どりを添えた餅菓子を「志ら玉」と名付けて、関の戸と並んで人気があった。二階は手摺の付いた中二階ががある餡はこし餡の、餅菓子「志ら玉」片岡かじや明治末から山林伐採用の打刃物やくわ・すき等の農具の??を営む。明治そのままの・・・・・・・・解読できず・・・・地蔵門前町の風物詩として親しまれてきた地蔵院本堂地蔵院前にある『川音 尾崎家』尾崎家は、関の地蔵門前町の米屋で鈴鹿川の水で米をつく水車の音から、屋号をとって川音と称した。同家は、文久頃の建物といわれる、間口7間半、通り庭をはさんで左手に座敷・右手に米を収蔵する家うちの土蔵がある。今は、尾崎酒店になっているが地蔵院本堂所在地:三重県亀山市関町新所1173-2地蔵院の手水舎に、関宿かるた「一休が 開眼供養の 地蔵院」地蔵院(国重要文化財)天平13年(741)行基により開かれたと伝わる。「関の地蔵に振袖着せて、奈良の大仏婿に取ろ」の俗謡で名高い関地蔵院。地蔵菩薩が本尊で日本最古の地蔵尊とされている。五代将軍・綱吉の母・桂昌院が関の地蔵尊を信仰し、そのお陰で綱吉が誕生したといわれる。境内の本堂・鐘楼・愛染堂の三棟が国の重要文化財に指定されています7:30地蔵院門前の町並み、「あいづや」「会津屋」は関宿を代表する旅籠のひとつです。もとは山田屋と言い、お萬が育ったことで知られています。二階に洋風意匠の窓がついた「洋館屋」、米をつく水車の音から名付けられたという、「川音」、伝統のある鍛冶屋など、特色のある町屋が並んでいます会津屋 森元氏宅会津屋は鶴屋、玉屋とともに関宿で有数の大旅籠であった。明和から天明にかけて会津屋の前身山田屋で育った小万が女の身で亡き父の仇を討った烈女「関の小万の物語」は有名である道路にここから、「西の追分 800米」のタイル。ここから先は初めての道中となるかめやま せきの、かわいい「おすいマンホール」はカラー。旧関町(亀山市との合併前)のキャラクター「アスレ」をえがいた蓋。 「アスレ」の名前の由来は「ア(明るく)ス(住みよい)レ(歴史の街)」で「アスレ」だと地蔵院を振り返る7:32旧田中家住宅亀山市指定有形文化財(建造物)「旧田中家住宅」関宿かるた「関宿を つなぐ今人 未来人」 関宿~土山宿ー続く
2020.04.06
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地元茅ヶ崎中央公園の桜も満開になり、三密を行わないようにカメラを持って出かける。4/2(木) 午後散歩道路脇の花壇に咲く芝桜いつのまにか芝桜も咲く時期にテレビを見ると「コロナ、コロナ」桜のトンネルズームアップ西方向のトンネル空を見上げて桜は、日本だけでなく中国や台湾などアジア各地に生息する樹木です。日本国内だけでも固有種や交配種を含めて600以上もの品種が確認されているそれらの種類は大きく8つに大別されており、今回はそれぞれの種類や代表的な園芸品種について紹介します。1,自然交配や咲き方:ソメイヨシノを始め・・・・2,シナミザクラ群3,エドヒガンザクラ群:エドヒガン(江戸彼岸)は彼岸の頃に花を咲かせる・・・・・・4,ヒカンザクラ群5,チョウジザクラ群6,マメザクラ群7,ミヤマザクラ群8,ヤマザクラ群山桜?八重桜、品種は?公園内には子供連れのグループが多く枝垂れ桜の一部まだ若木なのか全体に花がついていないカエデの新芽花壇に咲く花この花の名は?義兄の畑で咲いているプラムの花夏には実をもらい美味しくいただく END
2020.04.05
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佐屋街道の佐屋代官所跡址から今夜のホテルがある亀山宿へ向かう。2/20(木) 14:41道標「左 さや舟場道」舟場への道を示すものである。この道標は、佐屋町故山田秀信氏の屋敷内にあったが、同氏の好意により寄付を受け、昭和54年此処に建てた江戸時代このあたりは佐屋宿舟番所前で旅籠(近江屋)があった。現在このブロック塀上に見える「きこくの生垣」は、尾張藩士小田切春江によって天保年間に発刊された「尾張名所図会」にも描かれており、当時の姿を今に伝える貴重なものである佐屋駅 渡口背の高い木が「キコク(枳殻)」カラタチの別名。中国原産のミカン科の植物で、揚子江沿岸地域に自生しており、わが国への渡来は今から1000年前といわれる。果実の香りがよい所から庭木として鑑賞され、また生垣用として利用された14:56佐屋舟場道を出発し、カーナビを亀山の宿泊ホテルにセット。県道458号線(一宮弥冨線)を南下して国道1号線と合流して右折。手前はJR関西本線、近鉄名古屋線の高架カーナビは国道1号線の「尾張大橋東交差点」国道1号線との合流で渋滞15:02木曽川を渡る国道1号線の尾張大橋尾張大橋は愛知・三重の県境の橋であり、昔は橋の上から釣り人が多くいてカメジャコで大ウナギが釣れたが現在は釣り禁止になっている15:10木曽川を渡り国道1号線の「伊勢大橋東詰交差点」この交差点を左折すると、400mで「なばなの里」、7kmで「長島温泉」。なばなの里は、最近ライトアップ等で人気のスポットである長良川を渡る、伊勢大橋下流側に「長良川河口堰」長良川河口堰は、水害の危機に脅かされている長良川沿岸の住民を洪水の被害から守るとともに、新たな水資源を開発するための施設で、1988年着工、1995年に紆余曲折を経て完工。施設諸元/型式は、可動堰(調節ゲート 10門、閘門ゲート 1門、ロック式魚道 1門) 堰総延長は661m、固定部分106m)。施設を見学できる昨年11月24日(日)に、桑名の渡し(住吉神社前)からみた長良川河口堰伊勢大橋からの上流側山は伊吹山か? 夏は高山植物が咲き乱れる所でいつか行きたい場所であるズームアップ、雪が積もっているのか白い山肌渋滞の伊勢大橋を進む15:15長良川河口堰を見学に行きたかったが・・・・・・・。道が遠回りになるので今回はあきらめる15:32国道1号線を進む16:14亀山への途中、国道1号線の采女一里塚近くの「血塚社」へ立ち寄る。今年1月20日(月)に立ち寄っているが、弥次さんの要望で再度訪問した日本武尊御血塚の石柱 16:25石薬師宿の石薬師寺山門ここも今年1月20日(月)に立ち寄っているが、境内の花が咲いているだろうとのことで今回、再度訪問した境内へ入り枝垂れ梅が咲いていた石薬師寺本堂へ紅梅のしだれ梅境内からの鈴鹿市街地16:40石薬師寺の鐘楼16:53国道1号線を進むと右前方に、プロペラ機が離陸?中古建設機械販売店の展示飛行機であった17:06亀山のホテル近くのコンビに到着今夜の夕食を買いホテルへ行くが、チェックインは19時からとのことで再度時間つぶしで関宿観光へ行くことに。17:32まずJR亀山駅へ駅前の観光案内板通常案内板は上側が北であるが、ここは逆で下側が北で、亀山宿は駅から下側に。従って関宿は右方向の西へJR亀山駅前の『能褒野(のぼの)神社一の鳥居』旧東海道筋に、二の鳥居がある亀山駅舎内17:49関宿へ到着前回1月21日(火)に訪れているが、今回は車で旧東海道を移動。一方通行であるので『小萬のもたれ松』から京方面へ進む明日(2月21日)もJR関駅から土山宿へ向けて歩くのだが、早朝であるので夕闇の関宿を散策前回1月21日は雛祭りの準備をしていたが、今回は室内に飾ってあった民家の前にも「ひなまつり」の幟東海道のおひなさま「おひなさま展示中」とあったが閉め切ってあったので外から格子のすき間から覗く車を止め街道を歩く立派な段飾り2020年4月8日(水) 14:30東京オリンピック聖火リレーが店前を通過 『菓子処 いちみ』。折角の予定も延期になるのか?関宿まちかど博物館こちらでは、2020年 東京オリンピック聖火リレー店頭の通過時刻決定!! 4月8日(水) 午後2:30ひなまつりのポスターは「10周年記念 東海道のおひなさま」 開催期間:令和2年2/15(土) ~ 3/7(土)17:54コーヒーの店とあるが既に閉店旧東海道を振り返る18:00西の追分方向明朝はここから西方向の土山宿へ向かう旧東海道を振り返る、こちらからは一方通行のため車は侵入できない関宿の『地蔵院』前回1月21日(火)はここまで歩いてきたが、その時の歩数は、39,100歩であった18:08関宿の『地蔵院』からホテルの駐車場へ戻る夕焼けの鈴鹿の山明日の天気がよいことを祈り、ホテルへチェックイン夕食は、コンビニで買いだした酒&つまみで宴会。 関宿への移動日ーEND
2020.04.05
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佐屋街道は、寛永3年(1626)と11年(1634)の三代将軍徳川家光の通行を契機として整備が進められた。寛文6年(1666)には幕府の道中奉行が管理する官道に指定された。この街道は、熱田(宮)宿と桑名宿を結ぶ七里の渡しの風雨による欠航や、船酔いを嫌う多くの旅人が行き交い、東海道の脇往還として非常に賑わっていた。商用や社寺参りの人々、参勤交代の大名行列、さらにはオランダ商館のシーボルトや十四代将軍家茂、明治天皇もこの道を通行している。永年にわたり日本の幹線道路網の一部を担ってきたこの街道も、明治5年(1872)の熱田と前ヶ須新田(現弥富町)を結ぶ新道の開通により、その役目を終え、現在では地域の幹線道路として親しまれている。2/20(木) 13:35佐屋街道沿いに大きな常夜燈、右側の角に万場宿の高札場があった光圓寺へ真宗大谷派 光圓寺所在地:愛知県名古屋市中川区万場2丁目1003山門の扁額「臥龍山」山門からの本堂山門を入り、鐘楼、三重塔、本堂本堂の扁額「我聞如是」鐘楼と三重塔、右奥に本堂が並ぶ境内に蓮如上人御巡化の像新しい三重塔三重塔の扁額境内からの山門山門の木組み光圓寺から佐屋街道を歩き覚王院へ戻る13:43国玉神社の拝殿 13:47万場交差点、上の高架橋は名古屋高速5号万場線万場交差点を通り抜け狭い道を進む13:49佐屋街道を進む佐屋街道の高札場跡(大治町)13:53西條平ヶ野交差点14:01佐屋街道は県道68号線を進む14:05神守の一里塚所在地:愛知県津島市神守町下町神守の一里塚江戸時代、佐屋街道の一里塚の一つとして造られた。一里塚は、街道の両側に一里(約4キロメートル)ごとに設けられ、その上にエノキを植えて旅人の目印にしたものである。昔は北側の塚が東西7.3メートル南北6.7メートル、高さ1.5メートルの小山でムクが植えられ、南側の塚は長径5.5メートル、短径4メートル、高さ1.4メートルの小山にエノキが植えられていたという。佐屋街道の一里塚の中で、最後まで街道の両側の塚が残っていたのはここの一里塚であったが、今は北側の塚が残っているだけである塚には灯籠が県道68号線一里塚の全景つしましのおすいマンホールデザインは、尾張津島天王まつりのまきわら舟と市の花フジ神守ふるさと散歩道江戸時代、東海道「七里の渡し」に代わる脇街道として利用された佐屋街道。正保4年(1647)万場と佐屋の距離が長いので、中間点の神守に宿がおかれた。ひなびた風情の町並みや、一里塚が残る神守の路。あなたも江戸時代にタイムスリップしてみませんか・・・・・・・・14:11佐屋街道を進む14:17道標の石柱右:つしま・・・、左:さやみち道路の両側に常夜燈津島街道埋田追分埋田町のここには津島神社(天王様)の一の鳥居(昭和34年の伊勢湾台風で倒れて台石のみ)と常夜燈(夜どおしあかりをともすとうろう)一対追分(別れ道)をあらわす道標が残っている。江戸時代ここから右は津島神社への道、左は「佐屋の渡し」への佐屋街道と分かれる所で江戸時代の終わりごろには茶店などもあって通る人々でにぎわい、大正時代ごろまでは松並木が続いていたまた熱田から津島までの道を「下街道」と呼んでいたが、今は耕地整理や新しい町づくりで道すじもかわり、ほとんどがすたれてしまっている。佐屋街道は熱田から岩塚万場(共に名古屋市)砂子(大治町)、神守の宿(宿場)を経て津島追分から佐屋にいたり佐屋川を船で下って桑名へと続き、東海道の脇街道として熱田から桑名までの「海上七里の渡し船」をきらった人達に広く利用されていた。徳川三代将軍家光や、明治天皇の通られた跡や記録が街道各地に残されている14:26県道68号線を進み、名鉄尾西線、名鉄津島線の踏切14:27内佐屋交差点を左折して県道458号線(一宮弥富線)へ14:30佐屋海道址史跡 佐屋海道址かつて東海道の脇往還として多くの往来がみられた佐屋路。往時の栄華を後世に語り継ぐため、昭和54年(1979)11月に碑が建てられました県道458号線(一宮弥富線)沿いに立つ石碑14:31佐屋街道を南下13:38佐屋代官所址所在地:愛知県愛西市佐屋町宅地佐屋代官所址佐屋路が名実ともに天下の往来となったのは、三代将軍徳川家光が上洛の折、道中の宿泊に使う「御殿」を佐屋に建てたことからといわれています。佐屋路の隆盛にともない、尾張藩は藩の海東・海西の109村を治める代官所を佐屋に設けました。街道の治安と、三里の渡しを監督する海の関所的な仕事も手がけていたようです愛西市の歴史にふれて散策しよう!佐屋路江戸時代、幕府は東海道はじめとする街道を整備するとともに、宿駅制度も整備しました。東海道は宮(熱田)から七里の渡しで桑名へ渡るルートをとりました。七里の渡しは、通行の際支障をきたすことが多く、幕府は佐屋宿を創設し、桑名への三里の渡しでもって渡るようにしました。それに伴い、宮と熱田を結ぶ脇往還佐屋路が整備され、多くの通行人で賑わいました。宮宿から桑名宿への距離は? ・宮宿から海路での桑名宿への距離は、七里。 ・佐屋街道の陸路は佐屋宿まで、六里。桑名宿への海路が三里で、計九里。よって、佐屋街道の陸路+海路は、二里の遠回りとなる佐屋宿その昔、あらいの渡しと呼ばれていました。交通上の要衝であったことから元和年間佐屋奉行が設置され、寛永年間佐屋宿が創設されました。徳川家光の上洛をはじめ、多くの大名、文人らが往来しました。大名らが宿泊する本陣のほか旅籠も建ち並び、多くの商家も営業していました。本陣は岩間権右衛門家と加藤五左衛門家が勤め、加藤家は問屋も兼務しました。陸上交通と水上交通の結節点として、また他国との境界として佐屋宿は重要な位置を占めていたことは、天明元年(1781)代官駐在制採用の際、水野(瀬戸市)・北方(一宮市)とともに佐屋代官所が設置されたことからもうかがえます史跡 東海道佐屋路佐屋三里の渡址佐屋と桑名を結ぶ海路三里の船旅は当時多くの旅人が利用したといわれています。明治の中頃に佐屋川が廃止され、農地転用されるまで大いに賑わいました佐屋駅 渡口その昔は、ここまで佐屋街道を歩きここから舟に乗り、三里の渡しで桑名宿へ行ったと。現在は、道路脇に「佐屋三里之渡址」の石碑のみが残るが、今回は訪問しなかった佐屋宿を通った人々懐恩碑と加藤高明内閣総理大臣の碑加藤高明内閣総理大臣の碑加藤高明は、万延元年(1860)正月3日 父 服部重文(佐屋代官所手代)・母 久子の次男として佐屋で誕生、幼名は総吉 7歳で祖父と共に名古屋に移住し14歳で加藤家を継ぎ高明と改名。東京大学卒業後、三菱会社・船舶会社を経て官界に転じ、特命全権駐英大使・外務大臣等を歴任憲政会総裁に推され、大正13年(1924)内閣総理大臣に就任 大正15年1月国会で演説中に倒れ同月28日逝去 享年67歳 伯爵正二位大勲位菊花大綬章を授かる。由緒あるこの地(生誕地はここより南方約百米)に直筆の碑を柚木から移し建立した故郷を遠く離れて暮らし、故郷を懐かしく思うと共に、感謝とお礼の意を込めて加藤高明伯が揮毫したもの 関宿への移動日ー続く
2020.04.04
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東海道五十三次の弥次喜多道中も終盤に入り今回累計28、29回目の道中記です。弥次さんに我が家へ来ていただき、6時半に自宅を出発して今夜の宿泊地三重県の亀山へ向かう。今回も関宿への移動日に、宮宿から桑名宿への七里の渡しに代わる陸路である「佐屋街道」を車で走ることを計画した。2/20(木) 6:44国道134号線を走り、相模川のトラスト湘南大橋上からの富士山、手前の山は湘南平6:51大磯漁港、陽も上がり西湘バイパス小田原辺りからの相模湾7:26箱根峠を越え三島向けに向けて下る。工事が終了したばかりの国道1号線の「食堂 富士見平」辺り、前方は旧東海道の下り坂7:35国道1号線沿いの「錦田一里塚」7:37国道1号線の谷田東小山交差点を右折して県道22号線へ。カーナビは国道1号線が渋滞しているので三嶋大社前を案内9:33掛川市の山肌に「茶」文字10:06国道1号線を走り天竜川へ、前方に「アクトシティ浜松」10:44国道1号線(浜名バイパス)の浜名大橋手前浜名大橋を渡る今切新居堤(今切口西堤)の西側の砂浜11:15カーナビは、国道23号線(豊橋バイパス)を下り、蒲郡街道(国道23号線)を案内豊橋バイパスを下り、豊川橋北交差点を斜め左方向へ進み、国道23号線(蒲郡街道)へ。カーナビのセットは熱田神宮11:30この先を斜め左方向への国道23号線へ11:41国道247号線の水竹町一反田交差点を右折県道73号線(三河湾オレンジロード)を北上11:48県道73号線の上大内東交差点を右折して、蒲郡ICを入り国道23号線へ交差点の角に「えびせん工房一色屋」無料試食や無料ドリンクのサービスがあり、次回は立ち寄りたいものです。エビせんべいの種類が豊富で、海老煎餅、イカの姿焼きもあるとのこと11:51国道23号線(名豊道路)の蒲郡バイパスから、三河湾を望む12:34名古屋市内へ入り、県道59号線を左折12:38県道59号線の名和北交差点を右折して国道247号線へ前方は名鉄常滑線の高架12:41国道247号線は天白川を渡り柴田本通3交差点12:54国道247号線を北上し、内田橋で左下に「宮の渡し公園(七里の渡し)」を見る。橋を渡り終えると左手に『あつた蓬莱軒 本店』昼時でもあり観光バスも来ていた国道247号線は国道1号線との交差点「熱田神宮南」。ここから国道19号線で佐屋街道へ向かう熱田神宮南交差点を過ぎ、右手に熱田神宮12:58熱田神宮を過ぎ、新尾頭二丁目交差点13:00国道19号線の金山新橋南交差点、ここを左折する。直進すると名古屋城へ行ける交差点の角に大きな石碑、『佐屋街道(さやかいどう)』へ道標は、文政4年(1821)佐屋街道の旅籠仲間が、伏見通りから尾頭橋へ抜ける佐屋街道の分岐点に当たるこの地に建てたもの。戦災に遭い破損したが、その後修理された。道標には「東 右 なこや 木曽海道」七里の渡しを渡る船が苦手な人向けに「姫街道」と呼ばれる陸路もあったとのこと。その陸路というのが『佐屋街道』と呼ばれた道であり、「宮宿(七里の渡し)→ 佐屋宿 →桑名宿」というルートも整備されたようです。ただし、佐屋街道はすべてが陸路ではなく、さすがに濃尾平野最大の川幅を誇る木曽川には橋を架けることはできなかったようで、木曽川まで来たところで船着場が設けられることになります。その木曽川のほとりに築かれた船着場を「佐屋宿」と言い、ちょうど佐渡宿から約3里(約12km)下った先が桑名宿だったというワケです。このことから七里の渡しに倣い、別名で「三里の渡し」とも呼ばれていました。また、佐屋路の随所には宿駅が置かれ「佐屋」「神守」「万場」「岩塚」と言う4宿が存在した。特に犯罪や乗船中のトイレを懸念して、乗船を拒んだのが女性や子供であったことから、この迂回路は佐屋街道と呼ばれた以外にも「姫街道」とも呼ばれていた。 画像引用先:ウィキペディア13:01金山新橋南交差点を左折し県道115号線を西方向へ進む尾頭橋東交差点前方は堀川に架かる尾頭橋13:03名古屋高速4号東海線の高架、県道115号線を進む13:05東海道新幹線の高架県道115号線を進む13:08明治天皇御駐蹕之所の石柱明治天皇も行幸の時、ここを歩いたのであろうか13:09長良町3交差点、県道115号線はここを右折するが、佐屋街道は直進佐屋街道は西へ直進前方にJR関西本線の高架13:12松葉町一交差点を直進、前方はJR関西本線、近鉄名古屋線の高架13:18佐屋街道は庄内川の土手に突き当たり、左に折れ堤防に上がり右折して県道106号線へ13:20カーナビは、弥次さんのiPhoneで誘導県道106号線(鳥ヶ地名古屋線)、前方は名古屋高速5号万場線の高架。この先の万場大橋東交差点を左折、万場大橋を渡りきり左折して佐屋街道へ13:23佐屋街道を進む13:30真言宗 医王山 覚王院所在地:愛知県名古屋市中川区万場2丁目705覚王院本堂本堂の扁額「観世音」覚王院の隣に「国玉神社・八劔社相殿」国玉神社・八劔社相殿創建は古く「尾張志」によれば、尾張大国霊神社(現在の稲沢市国府宮)より勘請したという。「延喜式神名帳」に国玉神社、「本国神名帳」に従二位国玉名神と記載されている式内社である。明治元年(1868) 八劔社を合祀。同年明治天皇が東幸の際、勅使より奉幣を享ける。・・・・・。当社前の道は佐屋街道(東海道の脇往還)で、南西曲がり角は万場宿の高札場となっていた国玉神社拝殿拝殿の扁額「國玉神社 八劔社 合殿」国玉神社前から佐屋街道を振り返る。前方は庄内川の堤 関宿への移動日ー続く
2020.04.03
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しとどの窟(いわや)から坂道を上る。3/6(金)12:45しとどの窟は、「土肥椙山巌窟」として、神奈川県で史跡文化財に指定されています。1180年に石橋山合戦で平家に敗れた源頼朝がこの地にあった窟に身を隠し、箱根権現別当のもとに逃れた後、真鶴のしとどの窟から安房国へ脱出したと伝えられています。また、「しとどの窟」の由来は、追手が「シトト」と言われる鳥が急に飛び出してきたので、人影がないものとして立ち去ったためだと言われています。しとどの窟周辺は箱根外輪山の溶岩と火山砕屑物(噴火で放出された石や砂など)からできており、窟は固結した火山砕屑物の部分が削られてできた洞ですしとどの窟に落ちる滝しとどの窟(いわや)治承4年(1180)8月17日、源頼朝は伊豆で源氏再興の旗上げをしたが、同年8月23日、石橋山の合戦に敗れ逃げる時、従者七人とともにこの窟に隠れ、九死に一生を得たと伝えられている頼朝主従七騎源頼朝、土肥次郎実平、岡崎四郎義実、安達藤九郎盛長、田代冠者信綱、土屋三郎宗遠、新開次郎忠氏の7氏。土肥実平の菩提寺・城願寺には、この7人の武者像が安置されています。尚、土肥実平の嫡男遠平は安房国へは渡らず、源頼朝の妻である北条政子のもとへ頼朝の安否を知らせに行ったため、七騎には含まれていません。この辺りの標高は300mか?駐車場から急な坂を下り、上りするので観光客は少ないようだ!しとどの窟から狭い道を下る12:47ここから急な坂道を約400m上り駐車場へ、左方向へ下ると「湯河原梅林 2,200m」途中で休憩しながら登る12:56ようやく駐車場へ着く、上りも約9分駐車場横には、『鳥獣之碑』 12:57車に乗り、城山隧道を潜り再び椿ラインに戻り大観山に向かった13:10椿ライン(県道75号線)を走り、大観山展望台への途中にある『史跡 土肥の大椙跡』治承4年(1180)、石橋山の合戦に敗れた源頼朝主従地元豪族土肥実平一族に僅かに七騎、この辺りの大杉の伐木の空洞に隠れた所と伝えられる。平家方・大庭影親の命により梶原平三景時は、伏木の中をうかがい、頼朝と目が合ったが、助けようと決意し、蜘蛛の糸を鎧に付け出て来て、誰もいないと他の者の探索を許さなかった。後に、景時は頼朝の家来になったという。世に言う「土肥大椙の一件」まさに歴史の転機鎌倉幕府発祥の起源である。大正6年大暴雨風で倒れるまで、大朽穴のある大杉があり、頼朝主従が隠れたと伝えられていた土肥の大椙跡へ北東へ約400米13:15大観山展望台へ到着。期待通り、富士山が正面に日本景勝百選地「箱根大観山」、標高1,011m箱根ジオパーク元箱根港から出港する海賊船芦ノ湖周りの新型コロナウイルスの影響はどうか?芦ノ湖の元箱根港辺りこの後、この場所へ下り、旧東海道を走ることにこの日は風もなく絶好の観光日和であった石楠花の時期には、「富士山と石楠花」のコラボで撮影富士山の宝永山をズームアップ宝永山は宝永4年(1707)の宝永大噴火で誕生した、富士山最大の側火山で標高は2,693m左から、富士山、駒ケ岳、上二子山、下二子山大観山展望台の「アネスト岩田スカイラウンジ」所在地:神奈川県足柄下郡箱根町箱根この先からは有料道路で「アネスト岩田ターンパイク箱根」アネスト岩田ターンパイク箱根料金表ここの通行料は日本で一番高いとか、このため無料の箱根新道を走る13:25道路脇には雪があったが、気温は9℃。この後、県道75号線を走り元箱根へ13:52県道732号線を走り甘酒茶屋経由畑宿へ。ここ畑宿は、東海道53次の道中記で平成30年(2018)11月28日に、箱根湯本の三枚橋から歩いてきたが、今日は車で立ち寄る。『間の宿 畑宿』宿の名が付くが正式には畑宿村といい、江戸時代以前からの集落である。畑宿の先には西海子坂、橿木坂、猿滑坂と急坂で続くので、上り下りの旅人は畑宿で休憩した。東坂でもっともにぎわった間の宿で、茶屋本陣もあった箱根旧街道一里塚・石畳へ日蓮宗 守源寺所在地:神奈川県足柄下郡箱根町畑宿167-2守源寺は、寛文元年(1661)に乗善院日連上人によって建立された日連宗平賀本工寺末の寺です。この寺は、たびたびの災害で本堂を失い、昭和5年豆相大地震の後、ようやく再建され現在にいたっています守源寺本堂本堂内本堂前から旧東海道を振り返る(三枚橋方向)守源寺から旧東海道へ、まっすぐ進むと箱根石畳へ旧街道石畳・元箱根方面これより先は、国指定史跡箱根旧街道の石畳が残っていますので、車輛の進入は禁止しますと箱根旧街道 畑宿一里塚畑宿の一里塚は、江戸日本橋から23里目に当たるもので、明治時代以降、一部が削られてしまうなど江戸時代往時の姿は失われてしまいましたが、発掘調査と文献調査の結果を基に復元整備を行い、箱根町の中では唯一往時の様子を現代に伝えるものです。山の斜面にあるこの塚は、周囲を整地した後、直径が約5間(9m)の円形に石垣を築き、小石を積み上げ、表層に土を盛って、頂上に標識樹として、畑宿から見て右側の塚にはモミが、左側にはケヤキが植えられていました左側の、ケヤキ上からご夫婦が下って来られた。話をすると、芦ノ湖へ車を止めて峠を越えて来たとのことで、行けるところまで行ってバスで再度芦ノ湖へ帰るとのこと右側のモミ14:05左側に「そば処 桔梗屋」所在地:神奈川県足柄下郡箱根町畑宿172とろろそばの看板を見て、めずらしく昼食を摂ることにする店内に入り、時節柄、二人供「日本人です」とメニューを見て私は「鳥南ばん 950円」をオーダー創業50年目で、店主は若く二代目か鳥南ばん久しぶりに食べたが、量も多く美味しかった!Kさんは、とろろそばを食する旧街道のバスは、一時間に二本の運行14:34ミツマタも咲き始め昼食後、西湘バイパス経由で帰宅 15:30着。今日のヒロ散歩の総歩数は、7,400歩でした。明日から、2月20日~22日の東海道五十三次シリーズ「七里の渡しの脇街道佐屋街道」「関宿から土山宿」をアップします。 源頼朝ゆかりの地-END
2020.04.02
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今日から令和2年(2020)の新年度が始まる。相変わらずテレビは新型コロナウイルス関連の報道。インターネットではウイルスに関するフェイクが多くなっているようで、報道の自由も考え物である!参議院の国会中継もマスク姿の議員が多く、席も空けていると。元気な若者(卒業旅行等から帰国)から年配者が感染してますます広がる、入学式もどうなるか?昨夜は、いつもの居酒屋へ焼き鳥をオーダーして持ち帰り、家で年度最後の仕上げ。4/1(水) 雨の庭先の花を撮影。花に付いている「雫 💧」を撮影したいのだがムスカリとフリージア何かの苗と一緒にまぎれこんで咲いたフリージア白のフリージア白のスイセン勿忘草キンギョソウ昨日はウグイスが中で動き回っていたが。昨日まで部屋にいるとよくウグイスがさえずっていたが、今日は雨のため静か葉ボタンも芯が伸びる軒先のゼラニウム END
2020.04.01
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佐奈田霊社から根府川の「おかめ桜まつり」へ向かう。3/6(金) 8:33県道740号線をJR根府川駅へ向かう。途中車を止めビューポイントから、下の道路は国道135号線で、小田原市内小田原城、大山をズームアップ相模湾の照り輝く海面JR東海道本線沿いの道路で、線路沿いでは特急「踊り子号」を待つ鉄撮りが待機。30分後に列車が来ると8:35真鶴半島と三ツ石。旅友Kさんはその昔、三ツ石に渡り気がついたら「潮が満ちてきていた」と失敗談を10:30 ~ 10:55おかめ桜まつりの会場のひとつ『きのこ苑 お山のたいしょう』おかめ桜の生いたち2月に行った「河津桜」も片親は寒緋桜であった11:11県道740号線の「白糸橋バス停」白糸橋バス停から、白糸川に架かる「白糸川橋梁」の東海道新幹線、JR東海道本線。運よく、新幹線、在来線が通過。以前風が強い時は在来線は運行を止めていた遠くに三浦半島、房総半島が見える白糸川橋梁の左手前に『根府川関所跡』があるこの位置からの日の出も良いのではなかろうかこの後、富士山が綺麗であろうと予測してカーナビを『大観山展望台』にセットして走るが、カーナビは小田原方面へ戻り有料道路を利用しての「アネスト岩田ターンパイク箱根」を案内。一般道路優先の我々は、湯河原からの一般道を走ることにして湯河原方面へ向かうがカーナビは小田原へ戻れと案内するが無視して進む。11:23県道740号線を走り、小田原市との境にある産地直送のみかんを購入。ここからの湘南海岸もビューポイント国道135号線(真鶴道路)に出て海岸沿いを湯河原駅方面に向かう11:40JR湯河原駅前のロータリーに車を一時停車して撮影ロータリーに立つ『土肥實平(どいさねひら)公並夫人像』と『土肥氏館阯』碑土肥實平公は中世日本史上に活躍した郷土の武将である。治承4年(1180)源頼朝公伊豆に興るや、いち早くこれを援け、石橋山合戦には、土肥杉山にその危急を救い、鎌倉幕府草創に当っては、軍艦、追捕使、宿老として多くの功績を残した。 公はまた領民を慰撫し、その敬慕を受けたことは、全国諸所に残る墳墓、伝説がこれを物語っている。公の夫人は民や農民に姿を変えて敵を欺き、杉山に潜む頼朝主従に食糧を運び、消息を伝えるなど、その "心さかさかしき"(源平盛衰記)は武人の妻の鏡として後世にまでたたえられている。ここに、源頼朝旗揚げより800年を迎え、土肥会創設50周年を併せ、記念として公並びに夫人の遺徳を後人に伝えんため、土肥實平公銅像建立実行委員会を結成し、町内外の有志の協賛を得て、その館跡、御庭平の地にこの銅像を建立したものである土肥實平公並夫人像の前に『土肥氏館阯』碑。 『乾坤一擲(けんこんいってき)』の文字が。 源頼朝が覇業を天下に成したるは治承4年(1180)8月その崛起にあたり湘西における筥根外輪山南麓の嶺渓土肥椙山々中の巌窟など複離なる地利と此の地の豪族土肥實平等一族竝びに行實坊・永實坊・僧純海など志を源家に寄せたる人の和と天運に依る。石橋山の挙兵地・山中の合戦場・椙山隠潜の巌窟(源平盛衰記に謂う「しとどの岩屋」)・小道の地蔵堂・安房を指して解纜した真鶴崎などまさに千載画期の史跡である。茲に挙兵780年を記念して、土肥氏館阯に碑を建立するにあたり文を需めらる仍って誌す。 乾坤一擲とは、のるかそるかの大勝負をすること椿ライン(県道75号線)にて箱根・大観山方面に向かう。カーナビはまだこのルートを案内しないので、途中コンビニで道路状況を確認。オレンジラインは土砂崩れで通行止めになっていた 12:09椿ライン(県道75号線)を登るが車の数は少なく、以前は猿が出没した道であるが今回は出なかった。バス停「しとどのいわや」、運行は昼間に2本だけかながわの景勝50選『椿台』相模湾に浮かぶ、初島、伊豆大島がかすかに見える伊豆大島をズームアップ熱海から初島への船が、初島にはまだ行ったことがないのでいつかブログ取材に行きたい椿ライン(県道75号線)の大観山展望台方向JR湯河原駅の『土肥氏館阯』石碑に書かれていた、『しとどの窟(いわや)』の案内板。治承4年(1180)8月23日、石橋山の合戦に敗れた源頼朝は、郷土の英雄・土肥実平に導かれて、椙山(スギヤマ)(湯河原町の山中)に隠れ、このいわやへかくれた。この付近は、地蔵信仰の霊地で、いわやに至る急な道沿いにも、数多くの石仏地蔵が安置されている上空を見ると羽田空港からの飛行機がズームアップ、この色の機体は???社椿台の駐車場にある『城山・幕山ハイキングコース案内図』幕山の地名は、湯河原の町で有名な「梅の幕山公園」ではなかろうか石碑の字は判読できず『土肥郷椙山瑦ノ窟之碑』源頼朝ノ志ヲ天下・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。 昭和17年8月23日 建立椿台から南東方向の山、昔この辺りを源頼朝は逃げ回ったのだと思いながら休憩南西の熱海方向12:30椿台から歩くと『しとどの窟屋』まで徒歩20分とあったので車で来て城山隧道を通過。城山隧道を越えると駐車場、この辺りの標高は約500メートル城山隧道を振り返るこの付近は地蔵信仰の霊地で、いわやに至る急な道沿いにも、数多くの石仏地蔵が安置されている桜郷史蹟由来箱根伊豆地方は、関東山伏発祥の地として日本山獄宗教史上有数の場である。随って、この地点一帯は、山伏たちの行場であった。殊に、この城山は土肥郷(湯河原)の豪族土肥氏城壁であり、治承4年8月24日、源頼朝の堀口合戦の古戦場で、この谷底の「しとど岩窟」は、その時の頼朝が隠れた遺跡であるために神奈川県文化財保護指定地であるが、また同時に山伏に関係する聖地でもある湯河原地方には、地蔵信仰・観音信仰の遺跡と共に、弘法大師を崇敬する大師信仰の遺跡が多い。ここに安置された弘法大師石像群は、かつて山麓に湮滅されていたもので、これを世に出し、併せて付近の史跡顕揚の上にも永く益せん為に、この聖地に遷座したものである12:31しとどの窟まで、四〇〇百米の石柱、百はいるのか?、Kさんは既に坂道を下る急な坂道には五百羅漢の如く、多くの石仏が連なるしとどの窟まで、二五〇米の石柱ようやく下が見えてくる12:38約7分を要して急な坂を下る、またこの道を引き返すのだが、しとどの窟へはまた50m上る。右は下って湯河原梅林(幕山公園?)へ2.2km約50m坂を登る大きな岩が覆いかぶさる12:40しとどの窟(土肥椙山巌窟)上の駐車場から約9分を要した、小さな広場に説明板源頼朝としとどの岩屋の由来源頼朝は14才の時父義朝が平治の乱で敗れ、頼朝は捕われて清盛の母池の禅じのなさけによって一命を助けられ伊豆の蛙が小島に流され平兼隆の監視によって20年間をすごした。治承4年8月望仁王が平家討閥の宣旨が全国の源氏に伝えられた。頼朝は機を窺っていたが8月16日三島大社の祭典の晩、北条時政らと平兼隆の首を取り伊豆の源氏に組する者たちを集め19日伊豆を出発、土肥実平を道案内で日金山を越え土肥郷(現湯河原町)に着いた。土肥実平の館において作戦を練り3百騎を以って館を出発、・・・・・・・・平家の軍勢総大将大庭景親三千余騎と戦ったが十対一の多勢に無勢で敗れ一旦土肥へ引返し堀口の合戦(鍛冶屋瑞応寺附近)にも敗れ土肥実平の守護とみちびきによって、土肥の椙山に逃げかくれ実平のお蔭で人の知らない谷底しとどの岩屋や大木の洞(土肥の大杉)にかくれたり、又小道地蔵において僧純海の気転により床下にかくれ一命を救ってもらった。この岩屋に五日間かくれていた。その間食糧を運んでくれたのは土肥の女房である。源平盛衰記に残っている。暫くして敵も引揚げたので山から降りて来たら、吾が家が盛んに燃えていた。この状況を見た実平は頼朝を勇気づけるため延年の舞を舞って慰めた。あづま鑑にはじょうもうの舞と記されている。実平のお蔭で平氏を滅し、鎌倉幕府大業成功させた実平の功績を称え、土肥会では昭和55年湯河原駅前に実平の銅像を建立した。このたび小沢通夫氏の寄進によって案内板を建立した湯河原町指定文化財 史跡土肥椙山巌窟内観音像群 昭和54年4月1日指定 一、所在地 湯河原町鍛冶屋九五三 一、所有者 吉浜財産区この観音像群は立像及び坐像61体で小松石に彫刻され、これが安置されている巌窟と共に中世以後近郷庶民の信仰習俗を知る上に貴重な資料である。観音像は無銘が多く銘があっても解読不能であるが中に嘉永6年、元治元年、新らしいもの大正15年のものがあり、これらが近郷の人々により長期的に奉安され続けて来たこと、ひいては巌窟を含むこの地が古くから観音信仰の聖地であったことを物語るものであるこの説明板は、上の駐車場に欲しかった。源頼朝と土肥実平頼朝主従七騎神奈川県指定史跡 土肥椙山巌窟(伝源頼朝隠潜地) 昭和30年11月一1日指定このあたりは、今から七・八百年前には杉林でおおわれていたので、土肥椙山と呼ばれていた。新崎川の上流の山間に杉の埋れ木が発見されるので当時を想像することができる。『吾妻鏡』には源頼朝が治承4年(1180)8月17日伊豆の蛭島に兵を起し、相模に入って土肥の館に集結、23日三百の兵で石橋山に陣し、大庭景近親三千、伊東祐親三百の兵と戦って敗れ、24日夜明け、椙山に追撃され山中の巌窟に潜んで九死に一生を得、その夜は箱根権現の永実坊にやどり、再び椙山にもどって三日間椙山の山中に隠れ、28日真鶴から安房に向かったとある。この巌窟は頼朝を救い、後の歴史を大きく変えることになったところ、と伝えられている窟の上から水がしたたり落ちる。山肌をくり抜いたような真っ暗な洞窟内ひな壇状の岩盤に安置された観音像群。この観音像群は立像及び坐像61体で小松石に彫刻され、これが安置されている巌窟洞窟の中からこの岩屋は関東大震災のため入口が崩れたが、水は一年中湧いているしとどの窟を振り返る 源頼朝ゆかりの地-続く
2020.04.01
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