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新型コロナウイルスの外出自粛も緩和され、これからの第二波が心配ですが。5月22日の我が庭先の花です庭のバラも咲き紫陽花も色づき始める、鎌倉の江ノ電沿いの紫陽花寺もいいのではと ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・真宗大谷派 響忍寺のある大津市木下町から、旧東海道に戻る。この辺りの旧東海道は、地図を見ると響忍寺が直進を阻んでいる感じで北側に迂回。3/22(日) 15:41響忍寺山門前から百メートル程北上し西へ進む大津市木下町辺り右前方に『びわ湖大津プリンスホテル』の姿が。 琵琶湖のほとりに建つ38階の高層ホテルで、高さは地上133mのホテル。 世界的な建築家の丹下健三が設計を手掛けた西へ進むと『フレンドマート大津西の庄店』所在地:滋賀県大津市西の庄20-115:43逢のみち 湖のみち 山歩(さんぽ)みち 【大津の散策路】・旧東海道(4ー32) 札の辻(2.65km) ← → 瀬田の唐橋(3.9km)旧東海道東海道は、京都と東国を結ぶ、平安時代以来の幹線道路。江戸時代には、京都と江戸を結ぶ国内第一の幹線として、行き交う旅人でにぎわっていた。また、この道は西国三十三所観音巡礼の札所、三井寺と石山寺を結ぶ巡礼の道としてもよく利用された15:45街道の左側に『石坐神社(いわいじんじゃ)』所在地:滋賀県大津市西の庄15-16境内に入ると拝殿八大龍王神の御縁起八大龍王宮は、粟津八宮と称され、八柱の高貴な神達が御祭神である。奥宮の御霊殿神社は、今から1342年前(平成24年より)湖中より龍燈飛来の奇瑞により天智天皇は、勅旨をして御霊殿山の磐座に小祠を建て石坐大神を御鎮祭なされた。その後、石坐野に持統天皇・朱鳥元年旧五月一日・正霊天王宮・八大龍王宮の両殿が創建された。今から1325年前、これが石坐神社の創始である。・・・・・・略・・・・・・石坐神社由緒石坐神社は、天智天皇が琵琶湖の神様を祭祀したことに始まる。その創始は、天智天皇御代八年旧九月九日神奈備山(御霊殿山)の磐座に湖中より龍灯が飛来し、御神託のまにまに小祠を建てて祭祀なされた。これを御霊殿神社と申し上げる。・・・・・・略・・・・・・・・石坐神社この神社は延喜式に近江国滋賀郡八社の一に数えられていたことからその創建の古いことを思わせる。祭神は海津見神を主神とし天智天皇、弘文天皇、伊賀采女宅子、豊玉比古命、彦坐王命を祭っている。むかし干害にあったこの地の人が雨乞いをしたら、ひじょうな応験があって里人の信仰が深かったと伝えられている。またこの社は八大龍王社とか高木宮の社号を有したことがある。重要文化財 木造天命開別命坐像 (平安) 〃 木造伊賀采女宅子媛坐像( 〃 ) 〃 木造弘文天皇坐像 ( 〃 ) 〃 木造彦坐王座像 (鎌倉)県指定文化財 本 殿 ( 〃 ) 石坐神社三間社流造、屋根檜皮葺の社殿でまわりを平唐門と塀によって囲まれており、途中立寄った和田神社に似ている滋賀県指定文化財 建造物『石坐神社本殿 一棟』三間社流造、屋根檜皮葺の社殿でまわりを平唐門と塀によって囲まれています。社殿の前面にある向拝部やまわりの縁は後世に付けられたものですが、身舎には建築当初の古材が残っており、桁や舟肘木などの様式は古いもので、脇障子が社殿の前寄りに付いているのは珍しい形式です。この社殿の建立年代は、棟札の写しによって文永3年(1266)に建造されたことが知れ、鎌倉時代の社殿建築として貴重なものです。昭和32年8月に県の有形文化財に指定されました拝殿の後方に、保護樹木の「エノキ」保護樹木の名称エノキ 石坐神社 指定期日:昭和51年12月1日15:49街道に戻り進むと右側に『吉田山 桃源寺』所在地:滋賀県大津市西の庄13-18空模様が怪しいので『桃源寺』へは入らず先を急ぎ、直ぐ左側に『法傳寺』所在地:滋賀県大津市西の庄9-22天智天皇が近江国志賀郷に建立。開基は尊信大法師。当初三輪宗護国山一乗院円明寺と号する。大宝元年(701)大友皇子の子とつたえる大友与太王が当寺に帰依し、弥陀尊像1体をみずから彫刻。天長9年(832)大友皇子の御陵守護のため粟津大木の森西にうつし、栗陵山一乗院志賀寺と改称。のち大友皇子、天智天皇の尊碑を安置するという。街道沿いの石碑は『天智天皇御尊牌奉安』15:53旧東海道を進む、街道右側に石柱石柱は『膳所城北総門跡』15:55義仲寺まで、0.25km旧東海道を進むと左前方に大きな寺院15:56寺院は『真宗大谷派 常盤山 福正寺』所在地:滋賀県大津市馬場1丁目12-8小雨の中進み、左前方に『義仲寺』16:00国指定史跡『義仲寺(ぎちゅうじ)』所在地:滋賀県大津市馬場1丁目5-12寿永3年(1184)木曽義仲がこの地に葬られ、数年後美しい尼僧が義仲の塚の傍らに庵を結び弔っていたのが義仲寺の起こりという。室町時代末に近江国主・佐々木六角氏が荒れた寺を再建し、木曽義仲を葬った塚から義仲寺と名付けた。芭蕉は琵琶湖畔の風光明媚な義仲寺を気に入り、たびたび訪れた。芭蕉は義仲寺に葬るよう遺言したので墓がある街道沿いの立札、国指定史跡『義仲寺境内』義仲寺の名は、源義仲を葬った塚のあるところからきていますが、室町時代末に、佐々木六角氏が建立したとの伝えがあります。門を入ると左奥に、俳聖松尾芭蕉の墓と並んで、木曽義仲の供養塔が立っています。「木曽殿と背中合わせの寒さかな」という著名な句は、芭蕉の門人又玄の作です。境内にはこの句をはじめ芭蕉の辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」など多くの句碑があります。また、巴御前を弔うために祭ったといわれる巴地蔵堂もあります。昭和42(1967)年11月に国指定の遺跡となりました巴地蔵堂山門前右手の堂に、石彫地蔵尊を祀る。巴御前を追福するもので、以前より遠近の信仰深かった。八月の地蔵盆は、現在も町内の人々によって、例年奉仕されている山門を入ると右側に『寺務所』、ここで拝観料300円を購入境内へ。ここまでの今日の歩行数は35,300歩義仲寺境内見取図狭い境内に、墓標、句碑、建物が建つ史料館、朝日堂の前の句碑は「行春をあふミ(おうみ)の人とおしみける」 芭蕉桃青奥に『翁堂』、右側に『朝日堂』が建つ朝日堂義仲寺本堂で、本尊は木彫聖観世音菩薩。義仲公、義高公父子の木像を厨子に納める。義仲公、今井兼平、芭蕉翁、丈艸(じょうそう)諸位ほか合わせて三十一柱の位牌を安置する。現在の朝日堂は昭和54年(1979)11月改築されたものである翁堂(おきなどう)正面祭壇に芭蕉翁座像、左右に丈艸居士、去来先生の木像、側面に蝶夢法師陶像を安置する。正面壁上に「正風宗師」の額、左右の壁上には三十六俳人の画像を掲げる。天井の絵は、伊藤若冲筆四季花卉の図である。翁堂は蝶夢法師が明和6年(1769)10月に再興、翌7年に画像完成。安政3年(1856)類焼、同5年再建。現在の画像は明治21年(1888)に穂積永機が、類焼したものに似た画像を制作し奉納したものである。芭蕉翁の像に扇子をたてまつる当寺の年中行事「奉扇絵」は、明和6年に蝶夢法師の創始になるもので、毎年5月の第二土曜日に行う義仲公墓(木曽塚)土壇の上に宝篋印塔をすえる。芭蕉翁は木曽塚ととなえた。義仲公の忌日「義仲忌」は、毎年1月の第三土曜日に営む。燧山(ひうちやま) 元禄2年 「義仲の寝覚の山か月悲し」 芭蕉無名庵にての作 元禄4年 「木曽の情雪や生ぬく春の草」 芭蕉芭蕉翁墓芭蕉翁は元禄7年(1694)10月12日午後4時ごろ、大坂の旅舎で亡くなられた、享年51歳。遺言に従って遺骸を義仲寺に葬るため、その夜、去来、其角、正秀ら門人十人、遺骸を守り、川舟に乗せて淀川を上り伏見に至り、13日午後義仲寺に入る。14日葬儀、深夜ここに埋葬した。門人ら焼香者80人、会葬者300余人に及んだ。其角の「芭蕉翁終焉記」に「木曽塚の右に葬る」とあり、今も当時のままである。墓石の「芭蕉翁」の字は丈艸の筆といわれる。芭蕉翁の忌日は「時雨忌(しぐれき)」といい、当寺の年中行事で、現在は旧暦の季節に合わせて、毎年11月の第二土曜日に営むこの句碑は「旅に病で夢は枯野をかけ廻る 芭蕉翁」古池や蛙飛こむ水の音 芭蕉翁山門を振り返る義仲公墓と翁堂義仲公墓の手前に『巴塚(供養塚)』木曽義仲公の側室巴御前の塚。武勇すぐれた美女で、武将として義仲公を助けたという三浦義一翁 歌碑 「かくのごとき をみなのありと かってまたおもひしことは われになかりき」木曽殿と脊中合せの寒さかな 又玄(ゆうげん)史料館翁堂を望む16:14義仲寺のすぐ先にある『古民家カフェ sora』所在地:滋賀県大津市馬場1丁目5-10民家の庭先に咲くモクレン京阪石山坂本線16:20京阪石場駅後方に、ヘリポートのある滋賀県警察本部のビル大津市の汚水マンホール蓋市制施行100周年を記念して蓋のデザインを公募し、優秀賞を元にしたものとのこと。琵琶湖、大橋、ミシガン船、レガッタなど盛りだくさんで、下のマークは市章と下水の「下」を組み合わせたもの。上のゴンドラは2013年に解体されてベトナムへ引っ越したイーゴス108京阪電車の踏切を横切り、旧東海道は左方向へ進む緩い坂道を登る、今日のゴールJR大津駅も近くなる 石部宿~大津宿-続く
2020.05.31
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旧東海道を引き続き北上する。3/22(日) 15:06山門前に『膳所山三昧院光源寺』所在地:滋賀県大津市中庄1丁目13-10山門から本堂15:07光源寺の約百メートル先の左側に『篠津神社』の鳥居鳥居の扁額『篠津神社』参道を進み山門へ山門の前で拝殿、本堂を見て引き返す旧街道へ戻り直ぐに左方向へ進む。電柱に旧東海道の道案内街道脇い石柱『立葵会』、側面に下記を記載。奥村菅次寿景(1788~1840)、膳所の名金工師初代菅次は湖東目川出身。湖を一眸する景勝のこの地に居を構え、金銀銅鉄器類をはじめ櫓時計、鉄砲などを製作した。頼山陽、貫名海屋なども屢々来遊し、山陽は晴好雨奇亭と名付け額を揮毫して与えた。53歳で病没し唯伝寺に葬らる。墓誌は海屋の筆15:12旧東海道は、この先30mを右方向へ曲がり再度北上。直進すると左側に京阪石山坂本線の「中ノ庄駅」がある街道左側に『和菓子屋 亀屋廣房(かめやひろふさ)』所在地:滋賀県大津市本丸町3-7甘いものに目の無い私は和菓子屋に興味あるが弥次さんは既に先を進む。昔ながらの和菓子屋さんで店内にはカフェもあるとのこと店先に「近江八景 ふやき煎餅」 4/20迄、20%引き滋賀県産羽二重餅米 100%、くちなし色素さざ波砂糖掛け味噌風味木曽義仲の家来で粟津が原の合戦でやぶれた今井兼平ゆかりの東海道三軒茶屋 名物「かねひら餅」江戸時代の三軒茶屋の「かねひら餅」により近づけました。波照間産の黒砂糖・鹿児島産粗糖・国産ヨモギ・麦芽水飴・近江産羽二重餅米100%を使って、丹波黒豆きなこでまぶしました。 1パック 100g入り 550円(税別)街道沿いには、寿司店『つる家』も15:17街道左に『供養山文応院 大養寺』山門から本堂所在地:滋賀県大津市本丸町1-13毎月八日 真宗法話会旧東海道を進み、「膳所城跡の道」へ突き当たる。ここを右側へ行くと琵琶湖へ、湖畔に『膳所城跡』がある。左へ行くと『膳所神社』左へ曲がり膳所城跡の道を百メートル程進むと『膳所神社』所在地:滋賀県大津市膳所1丁目14-1415:20膳所神社表門膳所神社表門 一棟この表門は、旧膳所城の二の丸より本丸への入り口にあった城門で、明治3年(1870)の膳所城取り壊しの際に移築されました。門は、棟筋と扉筋とが同一の垂直面にない薬医門で城門として多く用いられています。屋根瓦には旧膳所城主本多氏の立葵紋がみられ、桃山時代の建築として貴重なものです。脇には滑り戸を付け、頑丈な造りで、城門としての貫禄を持っています。大正13年(1924)4月に重要文化財に指定されました表門を入り、手水舎、拝殿拝殿と本殿膳所神社本殿境内隅に『稲荷大明神』拝殿北側の『旧膳所城門』城門の手前に石碑膳所神社表門を後にする膳所神社表門から旧東海道の向こう側(東方向)に城門。この頃には小雨が降り出し県道102号線の本丸町交差点で、交差点の向こう側が『膳所城 本丸跡』15:27旧東海道を北上、左側に『梅香山 縁心寺』石柱には「・膳所城主御菩提・」縁心寺は、近江国膳所藩主本多家(伊奈本多家・彦八郎系本多家)菩提寺。墓所には本多氏代々の墓や初代膳所藩主・戸田一西公の墓がある15:30更に北上すると街道左に『和田神社』所在地:滋賀県大津市木下町7-13神社縁起(由緒)御祭神は、高龗神(たかおかみのかみ)で、創建、白鳳4年5月勧請(675年)。特統帝の朱鳥元年頃(686)から八大龍王社と呼ばれ、仁明帝の承和2年(825)から正霊天王社と改称され、明治維新の際膳所藩主の令達に依り和田神社と改称さる。現在の本殿は鎌倉時代の建築様式と代表する他に比類稀な特色を誇り、古代建築技術を保存するものとして著名である。明治35年国宝の指定を受け、その後昭和39年文化財保護法第115条の規定により重要文化財となった和田神社の境内に入ると、左に収蔵庫、正面に拝殿、右に稲荷社拝殿と本殿重要文化財 建造物の『和田神社本殿』明治35年7月31日に国の指定文化財となりました本殿は、一間社龍流造の小さな社殿で、東面して建てられ、屋根は檜皮葺(ひわだぶき)です。また、正面には軒唐破風を付けるという、県内では珍しい建築様式をもっています。この建物には、後世の補修のあとも多く認められますが、側面にあるすっきりとした美しい蟇股などの細部については、鎌倉時代の様式をよく残しています。檜皮葺の屋根の、棟から前後の軒先へ流れるような線は、檜皮のもつ柔らかさと相まって美しく、建物の特色の一つとなっています本殿の檜皮葺屋根檜皮のもつ柔らかさと相まって美しく、建物の特色の一つとなっている本殿の右に稲荷社大津市指定文化財 天然記念物『和田神社のいちょう 一株』昭和51年12月に大津市保護樹木に、昭和53年2月に大津市の指定文化財となったこのいちょう(公孫樹)は滋賀県下において他に例をみないほどの巨木で、樹高約24メートル、目通り周囲約4.4メートルあります。樹齢はおよそ約600年を経ていると推定され、多数の気根(地上の幹から出て空気中に露出した根)を垂れています。樹勢もすこぶる盛んで枝葉が密生し、樹形も均斉のよくとれた美しい姿を保つなど貴重な名木です。また、このいちょうは和田神社の神木として、さらに琵琶湖上から和田の浜の目標樹となっていたと思われます。石田三成が関ヶ原合戦後、捕われて京へ護送される途中、休止の際につながれた樹でもあると云われています15:35雨のパラつく中旧東海道へ戻り、突き当りを北西方向へ進む義仲寺へ、1.3km逢のみち 湖のみち 山歩(さんぽ)みち 【大津の散策路】・旧東海道(4ー32) 瀬田の唐橋(3.6km) ← → 札の辻(3.05km)和田神社かつては、八大竜神社と称したが、明治元年(1868)に付近の和田浜の名を取って改称された。本殿は、一間社流造りという小型のものだが、鎌倉時代の建築で重要文化財、また、表門は膳所藩校遵義堂の表門を移築したものである北西方向へ一直線に進む15:38旧東海道の正面に『真宗大谷派 響忍寺』所在地:滋賀県大津市木下町15-33旧東海道は寺の前を右へ進む響忍寺の本堂大養寺の門と共に膳所六門の一つを持つお寺である親鸞聖人御像と鐘楼、右に旧本堂の鬼瓦 石部宿~大津宿-続く
2020.05.30
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唐橋西詰から京阪唐橋前駅を過ぎ、今日のゴール点『JR大津駅』へ向けて進む。3/22(日) 14:18鳥居川交差点の角に位置する『長徳寺』所在地:滋賀県大津市鳥居川町8-14旧東海道(県道104号線)は鳥居川交差点で右方向へ曲がり北上旧東海道(県道104号線)は北上し、京阪電鉄石山坂本線、JR琵琶湖線を越える14:32途中コンビニで、パン・おにぎりを購入、前方に京阪電鉄石山坂本線の踏切国道1号線の高架下から東側を走る京阪電鉄石山坂本線京阪電車「松原踏切」坂本比叡山口行の電車であった松原町西交差点も横切り直進14:35JR琵琶湖線(東海道本線)のガードを潜る手前に『インドカレータージマハルエベレスト」旧東海道はガード下を潜り北側へ14:39街道を進むと『今井兼平の墓』の案内板。ここから0.5kmとあり、距離があるので今回はスルーとした。今井兼平は、1184年に源範頼・義経軍と瀬田・宇治にて戦い、木曾義仲と共に戦死した14:43農業試験研究発祥の地付近明治28年4月1日、この旧東海道の向いに広がっていた。粟津が原(旧膳所村別保)に滋賀県農事試験場が開設以来百年を迎えるにあたり、これを記念して建立(平成7年3月)。写真は、旧東海道の松並木をバックしての田植え風景植物ウイルスが、昆虫の媒介によって伝染されことを発見した世界的な研究や、日本稲作史上はじめて人工交配により、新しい品種(近江錦)を育成、実用化に成功したことなどで農業の発展に貢献した幾多の試験研究が、この地で行われた街道の右側に『日本精工 大津工場』を過ぎ、前方左に『ROHM』、右側は『粟津中学校』旧東海道を振り返り、右前方に半導体メーカーの『ROHM』14:45街道の左側に『日本電気硝子』、後方に比叡山か?松並木が残る街道を進む街道の右側に『大津市立粟津中学校』所在地:滋賀県大津市晴嵐1丁目20-20滋賀県 衛生科学センター所在地:滋賀県大津市御殿浜13-45滋賀県 衛生科学センター 食品安全監視センター新型コロナウイルスの関係でPCR検査をしているのだろうか旧東海道を挟んで向かい側に『日本電気硝子 東門』14:49日本電気硝子北側の晴嵐交差点旧東海道の御殿浜当たりの『地蔵尊』14:52地蔵尊の横に『膳所城勢多口総門跡』の石柱旧東海道を進み、街道左側の古民家街道前方に、京阪石山坂本線の踏切14:56踏切を渡ると右側に『若宮八幡神社』所在地:滋賀県大津市杉浦町20-31鳥居と若宮八幡神社表門若宮八幡神社表門 一棟この表門は、膳所城の犬走り門で明治3年(1870)の膳所城取り壊しの際に移築されました。大棟の背面に切妻造の両袖の屋根を突き出した高麗門で、正面向かって右側に脇門を設けています。門の規模は普通ですが、各部材の木割りも大きく堂々とした建物です。屋根は本瓦葺で、大棟の両端に鯱と鬼瓦をあげ、軒丸瓦には旧膳所城主本多氏の立葵紋がみられます。後世の補修はかなりみられますが、膳所城の数少ない建物であるとともに、江戸時代初期の城門建築として貴重なものです。昭和53年(1978)2月に市の指定文化財となりました若宮八幡神社の拝殿、右側に手水舎拝殿と奥に本殿本 殿若宮八幡神社表門の左側にも鳥居と門右側の常夜燈に「金毘羅・・」14:59若宮八幡神社から進み、直ぐに右へ折れる(北方向)JR大津駅への途中『義仲寺』へ立ち寄るがまだ2.65kmある瀬田・石山の道(4-7)義仲寺(2.65km)← → 石山寺(4.2km)旧東海道東海道は、京都と東国を結ぶ、平安時代以来の幹線道路。江戸時代には、京都と江戸を結ぶ国内第一の幹線として、行き交う旅人でにぎわっていた。また、この道は西国三十三所観音巡礼の札所、三井寺と石山寺を結ぶ巡礼の道としてもよく利用された街道の左側に『日蓮宗 妙福寺』所在地:滋賀県大津市中庄1丁目8-7妙福寺の山門前を過ぎ、本堂15:02この辺りの旧東海道は京阪石山坂本線に沿って進んでおり再度踏切を渡る瓦ヶ浜(かわらがはま)駅唐橋前駅方向踏切を渡ると左側に『御料理 仕出し 竹喜』15:04専光寺所在地:滋賀県大津市中庄1丁目5-17山門からの本堂緩やかな坂道旧東海道を北上古民家の連子格子と折り畳みベンチ旅人が休憩できるように、民家の軒下に作られていたのか 石部宿~大津宿-続く
2020.05.29
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瀬田の唐橋琵琶湖から流れ出る瀬田川に架かる橋。日本書紀に登場し、昔から京都と東国を結ぶ東西交通の要衝だった。江戸時代は幕府と膳所藩によって約20年ごとに架け替えられ、膳所藩が管理した。この付近は近江八景「瀬田の夕照(せきしょう)」として風光明媚な所だった。今日のスタート地点JR手原駅からここまで約5時間半、23,000歩、しばしここで休憩。3/22(日) 13:45唐橋東詰交差点から『瀬田の唐橋』雲住寺、常夜燈、句碑が建つ桜の開花には少し早いようだった、橋のたもとに『浄土宗 龍光山 雲住寺』の石柱があったが、雲住寺はここから南へ約100メートルの所に位置する。小さな祠は?瀬田の唐橋は、日本三大橋の一つ。日本三大橋をネットで調べたが、日本三名橋で日本橋・錦帯橋・眼鏡橋(長崎市)。瀬田の唐橋は、日本三古橋で宇治橋、山崎橋と共にでてくるが、日本三名橋と混同されているようだ瀬田川に沿って「夕照の道(せきしょう)」が走る。交差点隅に『太神山不動寺』の石碑瀬田の唐橋のたもとに、『瀬田橋を制するものは天下を制する』古代の瀬田橋 672年 壬申の乱:近江朝廷軍(大友皇子)、大海人皇子軍に瀬田橋の戦いに敗れる。 764年 藤原仲麻呂の乱:孝謙上皇軍が瀬田橋を焼く。 940年頃 俵藤太伝説(雲住寺伝承の「俵藤太略縁起」より)藤原秀郷による百足退治。中世の瀬田橋 1184年 源範頼・義経軍、瀬田・宇治にて木曾義仲軍と戦う。木曾義仲、今井兼平戦死。 1221年 承久の乱:後鳥羽上皇が鎌倉幕府と戦う。 1582年 本能寺の変:瀬田城主山岡景隆が瀬田橋を焼き、明智光秀の安土城進撃を一時 阻止する。 「瀬田の唐橋 唐金擬宝珠 水に映るは 膳所の城」俵藤太秀郷 伝説か瀬田川沿いの「瀬田川ぐるりさんぽ道」瀬田の唐橋の欄干瀬田川ぐるりさんぽ道の下流にある『瀬田川洗堰(せたがわあらいぜき)』まで3.8km瀬田川ぐるりさんぽ道は、瀬田川の「瀬田の唐橋」から「瀬田川洗堰」までの両岸の散歩道。往復約8kmあるので今回はスルーしたが、またいつか訪れたいところである以下二枚の写真はネットから下流側から見た『瀬田川洗堰』琵琶湖から流れ出る唯一の天然河川である瀬田川の水を堰き止め、利水および治水に供する目的で大津市南郷地先に建設された可動堰。明治に作られた旧洗堰は南郷洗堰と呼ばれた瀬田の唐橋から琵琶湖側。実は、今までここへ来るまでは瀬田川は琵琶湖へ流れ込む川と思っていたが、逆で流れ出て瀬田川から、宇治川、淀川と合流して大阪湾へと瀬田川と夕照の道の間にある『芭蕉の句碑』瀬田の唐橋は、近江八景の一つ「瀬田の夕照」の地として有名で、芭蕉翁も何度か訪れたことがあります。琵琶湖やあたりの景色のすべてが、五月雨にかすんでいる中で、さすがに瀬田の唐橋だけは、雨にも隠されることなく、長々と横たわって見えてくる。五月雨に煙る湖と唐橋を詠んだスケールの大きなこの句は、貞享5年(1688)の夏に作られました芭蕉の句碑「五月雨に 隠れぬものや 瀬田の橋」瀬田川からあがり散歩夕照の道沿いにある『浄土真宗 本願寺派 夕照山西光寺』所在地:滋賀県大津市18山門の扁額は「夕照山」瀬田川を流れに逆らって琵琶湖に向って二艘のカヤック琵琶湖から下流側の『瀬田の唐橋』夕照山西光寺の南に隣接する『日蓮宗 永光山 妙真寺』夕照の道瀬田の唐橋から北側は県道559号線、南側は県道29号線14:04旧東海道(県道2号線)と夕照の道との唐橋東詰交差点交差点の角にある『西與(にしよ)呉服店』、建部大社方向旧東海道(県道2号線)の瀬田唐橋を渡り西詰へ、南側を東海道新幹線が走る瀬田の唐橋は、瀬田川の中洲へ渡り唐橋西詰へ先程のカヤックが流れに従って俵藤太秀郷むかで退治豪傑の誉れ高き秀郷は、誰もが恐れていて近寄りもできなかった瀬田橋に横たわる66メートルの大蛇の背をやすやすと踏み越えた。すると、大蛇は爺さんに姿を変えて秀郷の前に現れた。何事かと話を聞けば、三上山に七回り半も巻き付いた大ムカデが夜な夜な琵琶湖の魚を食いつくしてしまい、人々が大変困っているという話。しかしあまりにも凶暴な大ムカデを恐れて誰も退治できずにいる。そこで爺さんは大蛇に姿を変えて勇気のある豪傑を待っていたと言う。秀郷は、こころよく大ムカデ退治を引き受けた。秀郷の射た矢が見事に大ムカデの眉間を射貫き、大ムカデは消え失せた。この秀郷の武勇をたたえて爺さんが招待したところが瀬田橋の下、竜宮であった。琵琶湖に暮らす人々を守るべく二千年余昔から瀬田橋に住むという。漁民の暮らしや豊かな実りある近江国をこの竜宮から見守ってきたという。秀郷は一生食べきれないほどの米俵を土産に竜宮を後にした。そこから「俵藤太」の名が付けられたとされている中洲から瀬田唐橋を振り返る中洲にある石碑日本の道100選「唐橋」 昭和61年8月10日中洲から瀬田唐橋を渡り唐橋西詰へ14:09旧東海道(県道2号線)と国道422号線との唐橋西詰交差点唐橋西詰交差点から東詰方向唐橋西詰交差点の南西角にある祠。説明札があったが字が読めず、弥次さんネット情報より。古来より天災人災から人々を守り反映の守護神として祭祀しており、また千古より清き 大川瀬田川の日本における歴史的な唐橋で道行く人々を守りつづけている竜神であると旧東海道は唐橋西詰交差点から県道104号線になる。街道の右側の店先に鬼瓦が並ぶ、道路を横切って向かい側へ瓦 製品・販売「大田瓦店」大萱瓦幸 謹製瓦此の瓦は、向かいの野口家が今から約百年前に建立された楼閣で通称、竜宮城と称された建造物の瓦の一部です。平成21年12月解体される。八咫烏(やたからす)と兎の餅つきを観ていると、古代人の夢とロマンを想い感じる。八咫烏は中国では火の鳥と言われ、太陽を現わし、兎の餅つきは月を現し縁取りは、蓮が型とられています。又、三猿もしかりで感心させられます。鴟尾(しび)は、唯一無二の最高傑作と思われます。(此の瓦を飾るに於いては、当主様の許しを得ている)このようなユニークな鬼瓦?中央は『福應寺の鬼瓦』此の鬼瓦は、愛知県愛西市勝幡町塩畑2645 福應寺の本堂、大棟の鬼瓦です。鬼瓦の構造は、十個の組み合わせで一つの鬼瓦となります。高さ、1米97センチ、巾、2米30センチ、厚さ、68センチ、総重量、430キログラム。お相撲さんが、手を広げると同じ位になります14:16旧東海道(県道104号線)を進み、京阪石山坂本線踏切唐橋前駅所在地:滋賀県大津市鳥居川町714:17近江牛の高級肉料理店『松喜屋』所在地:滋賀県大津市唐橋町14-17近江牛はやわらかく、また、牛の握り寿司も大変美味しかったと。どちらにしても高そう!株式会社 松喜屋 事務所入り口に映える我が姿今夜は瀬田のホテルで前祝に肉を食べようかと松喜屋の隣角に『逆縁の縁切地蔵大菩薩』の石碑蓮如上人御影休息所と刻まれているが 石部宿~大津宿-続く
2020.05.28
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今日は、天気が悪くなると予想していたがどうにか雨も降らず、大津市大江東北自治会館あたりから「瀬田の唐橋」へ向けて進む。現在地は黄色矢印3/22(日) 13:12街道が狭いので、通学&通勤時間帯は車は通行禁止南方向へ進む街道左にお寺(日蓮宗)があったが、管理が悪く境内は枯れ草が生い茂っていた同場所から街道の先を望む13:15旧街道は民家の間を通り13:17弥次さんは既に前を進み後姿が見えず、さてこの先はどちらへ向かうのか左角に案内板があり右方向へ向かう角を右に曲がるとすぐ右手に『成就院 歸法山 浄光寺』山門の左側に『道祖神』所在地:滋賀県大津市大江3丁目18-12山門を入り本堂滋賀県の文化財に指定されている「裸体の阿弥陀如来像」が有名とのこと街道を進むと前方に桜の大木が現れる大場の桜この山桜は、樹齢約二百年の古木です。旧東海道筋にあり毎年、美しい花を咲かせています。旧東海道と芦浦街道との分岐点付近にあるこの木は、昔から現在まで人々の様子を見てきた古木です。この桜は、江戸時代には参勤交代で、みやびやかな列をなして、毛槍を振り振り供奴を連れた大名行列が、物々しく西に東に行きかっていたのを見つめていたことでしょうもう開花もまじかに坂を下り振り返る13:25現在地は、「芦浦街道の分岐点」手前、このあと左方向下へ進む13:27旧東海道東海道は、平安時代以来、京都と東国を結ぶ幹線道路として物資の運搬、人の移動に利用されてきた。江戸時代には、五街道の一つとして京都と江戸を結ぶ国内第一の幹線として、行き交う旅人でにぎわっており、幕府によって126里6町1間(約496km)にわたる街道筋の現況調査ならびに道中図と呼ばれる一連の絵図等も作られ、大名の参勤交代にも使われていたここは「大江三丁目」進むと、瀬田唐橋:0.7km、建部大社(たけべたいしゃ):0.65km戻ると、JR瀬田駅:1.7km旧東海道を進み、高橋川を渡る。街道の左は建部児童公園一本だが枝垂れ桜がきれいに咲いていた13:31高橋川を渡り旧東海道を進む街道の左側に『檜山神社』の鳥居建部大社末社 檜山神社元は建部神社の境内にあり、平成7年に御旅所山と呼ばれる当地に遷座されたと石鳥居の扁額『檜山神社』時間が無いので今回は参拝をスルー街道の右側に『八景山 正法寺』の案内板尾久杉巨木 鬼子母神堂本派日蓮宗 八景山正法寺所在地:滋賀県大津市神領1丁目10-4山門の扁額『八景山』山門から本 堂左:旧東海道、右:瀬田唐橋 の道標右方向へ進む13:37県道2号線の神領交差点、右側に瀬田名物『たにし飴製造元』たにし飴製造元『辻末商店』所在地:滋賀県大津市神領1丁目12-11神領交差点から『近江国 一之宮 建部大社』の鳥居建部大社の鳥居扁額は『建部大社』近江国一の宮。景行天皇46年、日本武尊命を祀ったのが始まりとされる。白鳳4年、近江国の国府があった瀬田に遷座し、近江国の守護神となった。天平勝宝7年(755)現在地に遷座した。源頼朝が源氏再興を祈願し、再興後に訪れて神領を寄進。以来、出世開運の信仰を集めた旧東海道(県道2号線)の『瀬田の唐橋』方向唐橋へは、あと数百メートルで到着神領交差点下にあった案内板『建部大社』← 建部大社:0.25km、→ 瀬田唐橋:0.3km建部大社建部大社は、もとは神崎郡建部郷にあったが、天平勝宝7年(755)現在地に移されたもので、祭神は日本武尊。宝物館に重要文化財の木造女神像などが展示されており、境内には文永7年(1270)銘の石燈籠(重要文化財)も残っている瀬田の唐橋へ向かうが道路面に「瀬田の唐橋」のタイル旧東海道(県道2号線)を進み、前方に『瀬田の唐橋』古民家が並ぶ壁と軒裏を漆喰で塗り固めた、塗籠造(ぬりごめづくり)の古民家13:45唐橋東詰交差点ここまでの今日の歩行数は25,700歩 石部宿~大津宿-続く
2020.05.27
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狼川児童公園から緩い坂を登り瀬田唐橋(4.9km)へ向かう。3/22(日) 12:27緩い坂の街道筋に咲き始めた桜。街道左側に、日本黒鉛工業㈱瀬田工場所在地:滋賀県大津市栗林町5-1この桜は満開だが種類は、ヤマザクラか?市の木「ヤマザクラ」レンギョウこちらはソメイヨシノ、開花もまじか12:30道路のマンホールから、草津市から大津市に入ったようだが市境の標示が無く。『大津市の汚水マンホール蓋』市制施行から100年目の大津市の景観をモチーフにした、琵琶湖、琵琶湖大橋、ミシガン船、ヨット、観覧車、 市の鳥・ユリカモメ、市の花・エイザンスミレ、市の木・ヤマザクラ、 花火大会、レガッタ、びわ湖花噴水、犬などと市章に下水の「下」を組み合わせたマークが所狭しと描かれていた市の古いマンホールは、左上は観覧車で、現在はベトナムへ移設されている旧東海道東海道は、平安時代以来、京都と東国を結ぶ幹線道路として物資の運搬、人の移動に利用されてきた。江戸時代には、五街道の一つとして京都と江戸を結ぶ国内第一の幹線として、行き交う旅人でにぎわっており、幕府によって126里6町1間(約496km)にわたる街道筋の現況調査ならびに道中図と呼ばれる一連の絵図等も作られ、大名の参勤交代にも使われていた12:33旧東海道を進む、選挙候補者のポスターが目立つ街道を進むと前方に大きな旧家街道右側(北方向)に『浄土宗寶國山 新福寺』の石柱所在地:滋賀県大津市月輪2丁目16-1入口の掲示板内に「御本尊 阿弥陀如来立像」平安時代前期・1100年前の古仏で大津市指定文化財先程の旧家旧東海道を歩いていると風情のある塀の前のこれは?「犬矢来(いぬやらい)」犬矢来の役目は ①犬の放尿除け ②雨除け ③泥棒除け ④道路との境界線https://torocafe.com/trivia/name/inuyarai/街道脇に『名勝 月輪大池 南約一粁』の石柱別の『月輪』の石柱月輪池に由来する地名で、この池に映った美しい月の姿から名付けられたとも、月輪殿九条兼実の庄園内にあったからともいわれます。元来は原野でしたが、江戸時代にはいって開墾がすすめられ、延宝4年(1676)大萱新田となり、明治7年(1874)月輪村と改称されました12:40街道左側(南方向)に『曹洞宗普門山 月輪寺 行者堂』所在地:滋賀県大津市月輪3丁目2-1月輪寺の前に石碑が並ぶ『明治天皇御東遷御輦之跡』『新田開発発祥之地』月輪寺山門山門には『大本山永平寺 御直末 月輪寺』山門の扁額「月輪寺」12:43旧東海道を進み交差点へ突き当たる。左へ進むと京滋バイパス(国道1号線)へ、右に行くと宿泊している前の国道1号線へ。旧東海道は二つの国道の間を進んでいる交差点を渡ると左隅に『東海道立場跡』石碑所在地:滋賀県大津市月輪2丁目3-18石碑には『月輪池(上、下二池有)』大萱地、月輪禅閣藤原兼實の荘園があった関係か、道中旅人が池に映る月の影に感嘆して名付けたかは不明交差点を振り返る、右方向は国道1号線の京滋バイパス。下月輪池には水はなったが宅地開発され現在は遊水地か、右奥には「山ノ神池」がある交差点から坂を下り旧東海道を進む12:49一里山三丁目交差点の左側に旧東海道の道案内旧東海道は右斜め方向へ進む交差点にあった『一里山三丁目の案内板・山ノ神池』瀬田唐橋:3.1km、JR瀬田駅:0.8km山ノ神遺跡瀬田丘陵から琵琶湖に向って延び、草津市境に近い位置にあり、昭和54年(1979)の宅地開発に端を発し発掘調査がされ、須恵器生産の窯跡と工房跡が一体となって検出、出土遺物から7世紀中頃から末頃に操業されていたとみられている。また、出土遺物に硯などが含まれていることから、近隣の官衛(役所)、寺院などにも製品の一部が供給されていたとみられている弥次さんも疲れたのか下を向き進む、ゴールまではまだ一里はある12:51長沢川に架かる「一里山橋」一里山橋地図を見てこの辺りは池が多い。また、東海道新幹線、JR琵琶湖線(東海道本線)、国道1号線、京滋バイパス、名神高速道路と交通の要衝地になっている一里山橋を振り返る、桜の開花が待ち遠しい旧東海道を進むと緩い坂道に民家の敷地内に『地蔵尊』12:57一里山二丁目北交差点にある『一里塚趾』の石碑。ここを左(北方向)へ進むとJR瀬田駅。交差点から旧東海道を振り返る、街道は緩い坂を登ってきている。ここまでの今日の歩行数は、15,100歩。疲れから左ひざが上がらず一里塚跡一里塚は、徳川幕府が旅人の目じるしに江戸の日本橋を起点として、東海・東山・北陸の三道に一里ごとに設けた塚です。ここにあった一里塚は、東海道の大津と草津の間に位置するもので、大きな松の木が植えられた塚でしたが、惜しくも明治末期に取り除かれました。その場所は旧道と広い市道の交差しているこの地点にあたります。現在の一里山という地名が一里塚のあったことを物語っています旧東海道は、交差点を横切り坂を下る交差点に珍しい、祈 安全火車往来「道標」直進:三條大橋迄で、五里余り、戻ると:江戸日本橋迄で、百二十里余り左方向:旧朝倉道、信楽より伊勢、桑名に至る、右方向:膳所藩札場より、大萱港常夜塔に至る一里山二丁目北交差点交差点を渡り振り返る、店先に一里塚の石碑13:03大江四丁目交差点の交差点を渡り進むこの辺りも緩い上り坂に、上り下りの繰り返しになっている大江の千里(ちりんさん)大江の地を荘園として持っていたと伝えられる「大江の千里」は平安時代前期の歌人で、三十六歌仙のひとりとして、また、百人一首の第二十三首の歌人として著名な人である。その奥方がこの地に住まいしていた。村人はその跡地に野上神社(現在は、御霊神社のお旅所)を建て、その遺徳を偲んだといわれている。第二十三首『月見れば 千々にものこそ 悲しけれ 我が身ひとつの 秋にもあらねど』13:08坂を下る、前方は比叡の山か13:09大江東北自治会館前にあった観光案内板「大江の史跡 文化財マップ」旧東海道は右上から南西方向へ進んできた。現在地は中央部分大江地区の文化財この後、現在地から左方向へ曲がり南へ進み『瀬田唐橋』へ 石部宿~大津宿ー続く
2020.05.26
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野路の一里塚から曇り空の中大津宿へ向けて進む。3/22(日) 11:41旧東海道の街角には「自民党 広報板」、選挙候補者のポスター11:42街道右側に説明板の写真『清宗塚』所在地:滋賀県草津市野路5丁目2-21平清宗(1170~1185)平安後期の公卿、平宗盛の長男、母は兵部權大輔平時宗の娘。後白河上皇の寵愛をうけ、三才で元服して寿永2年には正三位侍従右衛門督であった。源平の合戦により、一門と都落ち、文治元年壇ノ浦の戦いで父宗盛と供に生虜となる。「吾妻鏡」に「至野路口以堀弥太郎景光。梟前右金吾清宗」とあり、当家では代々胴塚として保存供養しているものである。 遠藤権兵衛家 当主 遠藤 勉場所を探すが個人宅の片隅にあり分かりずらい。どうにか街道の右側の個人宅裏の狭い通路を探し当てようやく『清宗塚』へ倒れかけた『清宗塚』清宗塚文治元年3月(1185)に源平最後の合戦に源義経は壇ノ浦にて平氏を破り、安徳天皇(八歳)は入水。平氏の総大将宗盛、長男清宗等を捕虜とし、遠く源頼朝のもとに連れて行くが、頼朝は弟義経の行動を心よしとせず、鎌倉に入れず追い返す。仕方なく京都へ上る途中、野洲篠原にて宗盛卿の首をはね、本地に於いて清宗の首をはねる。清宗は父宗盛(39歳)が潔く斬首されたと知り、西方浄土に向い静かに手を合わせ、堀弥太郎景光の一刀にて首を落とされる。同年6月21日の事、清宗時に十七歳であった。首は京都六条河原にて晒される。平清盛は義経三歳の時、あまりにも幼いという事で命を許した。時を経て義経は平家一門を滅ぼし、又義経は兄頼朝に追われ、奥州衣川にて三十一歳で殺される。夢幻泡影、有為転変は世の習い、諸行無常といわれるが、歴史は我々に何を教えてくれるのか11:49街道左側に『真宗大谷派 玉川山 淨泉寺』山門前に住職の奥様か?山門を入ると左に本堂浄土真宗大谷派で室町時代の長禄4年(1460)野路城主、黒川駿河守宗次によって「十禅寺念仏道場」を建立し、その道場は玉川山浄泉寺として改名され現在に至る本堂の扁額「玉川山」本堂前に鐘楼が建つ玉川山浄泉寺縁起長禄4年、本願寺蓮如上人東国へ御巡化の途次、野路城に入り遊ばさる。城主黒川駿河守宗次、上人を尊重に供応し奉り、今宵は名に逢う九月十三夜なれば草生い繁る篠原の月を御覧ありて御心を慰め申しければ、上人限りなく悦び遊ばされ、「玉ぼこの野路の篠原分け行けば、名に逢ふ月を常不住に見る」と一首の御詠歌遊ばし、城主宗次を側に召して誠に人間の世は空行く月の如く敢ない仮の宿なり、されば只々阿弥陀佛の本願に帰命し・・・・・・・11:53街道を進むとこの界隈の観光案内板街道の左手(南側)に『新宮神社』の鳥居鳥居の右奥に飾られた六地蔵。社殿へは数百メートルあるのでスルー社殿は大永3年(1523)の建立で、国の重要文化財で高僧(行基)が創建した野路寺の鎮護神、新宮大明神で鎮守の社殿(ネットから)11:57街道を更に進むと右手に『真宗大谷派 白萩山 願林寺』所在地:滋賀県草津市野路5丁目6-23路地を入り山門へ。石部宿から草津宿への途中の真宗大谷派の寺院では「太鼓堂」が競って建っていたが。ここの山門は、普通のお寺の山門に比べ大きくお城の一部を移築したような建物山門を入ると境内に立派な松が水平にのびていた。右端に親鸞聖人像が建つ。静岡県下のお寺でもこのような松があったが本堂の扁額『白萩山』本堂前からの松境内に咲いていた12:01街道脇に『野路在郷軍人用地』説明板が無く・・・・・・・・・・・旧東海道を進むが国道1号線の裏道でもあるので車の量が多い。狭い街道でもあるので速度制限は30kmであろうが、「飛び出し坊や」「お年寄りに注意」とあるが、老人の運転が怖い12:03途中にあった観光案内板途中に『子守地蔵』があったのだが見落とす。江戸時代「参勤交代」の行列通過時に起きた母と子の悲劇(切殺)があった場所で、この母子を哀しみ供養のために弔い、今なお残るお地蔵様です12:06街道は県道43号線(平野草津線)に突き当たり、琵琶湖方面国道1号線がある旧東海道は県道43号線を横切り前方へ直進12:07交差点を横切り、街道右側の民家のガレージ下にお稲荷さん12:08街道右側に『野路萩の玉川』所在地:滋賀県草津市野路4丁目3-26小さな広場に『聖跡 萩の玉川』の石碑。ここ萩の玉川は多くの歴史を秘めて『日本六玉川』の一つとして有名で、他には、 ①高野の玉川 紀伊 ー 毒水 和歌山県高野山 ②卯花の玉川 摂津 ー 卯花 高槻市三箇枚 ③井出の玉川 山城 ー 山吹 京都府井出町 ④野田の玉川 陸奥 ー 千鳥 宮城県塩釜 ⑤調布の玉川 武蔵 ー 調布 東京都北多摩郡 ⑥野路の玉川 近江 ー 萩 草津市野路町野路萩の玉川「野路」は平安朝から鎌倉時代にかけて東海道の宿駅として栄えた所である。源平争乱の時代、ここ野路は、数多くの武将の宿陣となり時には戦火に包まれ若い命が消え去った地とも伝えられる。ここ萩の玉川は多くの歴史を秘めて日本六玉川の一つとして有名となり、都から公卿、貴族詩人等しばしばこの地を訪ね景勝をめでて、多くの詩歌を詠んだ中でも千載集(1188年)所載の源俊頼の作 「あすもこん 野路の玉川 萩こえて 色なる浪に 月やどりけり」は、和歌として世に広く知られている。又、十六夜日記(阿仏尼作)には 「のきしぐれ ふるさと思う 袖ぬれて 行きさき遠き 野路のしのはら」と詠んだ。十禅寺川の伏流水が清らかな泉となって湧きいでてあたり一面咲き匂う萩とあいまって、その優美な風情は旅人のしばし憩の場となり、江戸時代の名所図絵によく描かれ、いつの頃か歌碑も建てられた。その後、野路宿が草津宿に移り、次第に玉川も亦さびれる運命となった。近年は泉も涸れ形も小さくなり風情は一変した。かつては天下の名勝 萩の玉川も、わずかに残る沼池となり人々から忘れ去られようとしている時、我等地元住民は、野路の象徴であるこの由緒深い玉川を放置するにしのびず、永く後世に伝え残すため、住民の総意により復元を行ない幾分なりとも往時の面影をとどめることとした次第である 昭和51年11月28日 草津市野路町古き宿駅 野路駅の名残り野路の地名はすでに平安時代末期にみえ、『平家物語』をはじめ、多くの紀行文にもその名をみせている。鎌倉時代には、源頼朝が上洛に際し、野路の地での逗留がみえるなど、宿駅として武将の戦略拠点ともなり、また瀬田川沿いを宇治方面へ抜ける迂回路の分岐点にもあたり、交通の要衝として重視されていた。さらに、ここ野路の地に、・・・・・・・・・・・・湧水の井街道を振り返る12:13街道左側にある『ぱおず山(肉まん屋)』所在地:滋賀県草津市野路9丁目3-12昼も過ぎ、街道沿いでは「豚まん 一個 120円」を販売していたが。皮がモチモチで具もジューシーで美味しいと12:15旧東海道を進み「弁天池」に突き当たる所在地:滋賀県草津市南笠東1丁目7-34弁天池の小さな島にある『弁財天神社』浄財弁財天参道弥次さんは石橋を渡って『弁財天神社』へ参拝したが、私は橋が狭いので待つ弁財天神社を振り返る弁天池には・・・・12:19旧東海道を進み、狼川の交差点へ。弥次さんがiPhoneで進行方向を確認?12:21交差点角は『狼川児童公園』所在地:滋賀県草津市南笠東3丁目19-30木製の常夜灯があり「東海道 狼川」草津宿本陣(3.7km)・ 瀬田唐橋(4.9km)、今日のゴールJR大津駅まではまだまだ!狼川児童公園に隣接して『NKG』弥次さんが現役時代に関係した会社だと 石部宿~大津宿-続く
2020.05.25
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草津宿 京方見附(黒門)址から草津川を渡り、大津宿へ向かう。3/22(日) 11:09草津川の下流、琵琶湖方向同上流側平成14年(2002)の草津川の付け替え工事でここに住んでいた人は他の場所へ移転した草津川に架かる「矢倉橋」矢倉橋を渡り京方見附(黒門)址を振り返る11:11橋を渡ると街道のすぐ左側に『浄土宗 法照山光傳寺』浄土宗 法照山光傳寺山門所在地:滋賀県草津市矢倉1丁目5-43左側の石柱には「国宝 本尊 阿弥陀如来」とある山門から本堂本堂の扁額『法照山』11:13旧東海道に戻り進む、二階の一部に「虫籠窓(むしこまど)」が残る民家。街道の先に「子宝相談」「めまい・耳鳴り・慢性頭痛・肩こり」の幟、ネットで調べると、右側に愛宕神社があったようだが11:16右側に、古川酒造の幟大きなガラスに「清酒 天井川、宗花」 古川酒造有限会社屋号札の『酒造業古川宗吉』所在地:滋賀県草津市矢倉1丁目3-33無料で酒蔵見学ができたようだが、「天井川」は代表的な銘柄「今生きる 人と近江の 地酒かな」11:17古川酒造の先の左側に『養蓮寺参道』参道の奥に「養蓮寺山門」街道右側に地蔵尊、その先に道標11:19街道脇の道標の後ろに『瓢泉堂(ひょうせんどう)』所在地:滋賀県草津市矢倉2丁目2-1旧東海道 矢倉道標(姥が餅屋旧跡)、姥が餅(うばがもち)瓢仙堂のところが草津名物の姥が餅屋のあった場所で、今は草津駅入り口近くの国道一号線沿いへ移転している。瓢仙堂の前に享保15年(1730)に建立された矢倉道標が残っている。琵琶湖の八橋湊への案内で、広重の保永堂版『東海道五十拾三次 草津』はここ瓢仙堂の前を描いている。瓢泉堂は建物は「泉」だが説明では「仙」となっておりどちらが正か矢倉立場東海道五十三次の52番目の宿場・草津宿南に続く矢倉村。立場とは、宿場と宿場の間に茶店などが設けられ、旅人が杖を立てて休んだことからついた名で、矢倉村には草津名物の「うばがもち」を売る店があった。この地に、そのうばがもちがあり、歌川広重の浮世絵や『東海道名所図会』『伊勢参宮名所図会』などに、旅人が立ち寄って、うばがもちを賞味する光景が描かれている。また、ここから対岸の大津へと琵琶湖の湖上を渡る「矢橋の渡し」の渡し場である矢橋湊へ続く矢橋道が分岐していた。浮世絵などにも描かれた道標が、今も軒先に建っている。旅人は、俗謡に「瀬田に廻ろか矢橋へ下ろかここが思案の乳母が餅」と詠まれ、旅人の多くは、ここで東海道を瀬田橋まわりで行くか、矢橋橋を経て、矢橋湊から船で大津へ渡るかを思案した。そして、この地と矢橋の渡し、瀬田橋は、よく使われる俚言で「急がば廻れ」の語源になったところでもある11:20矢倉立場から少し進むと右側に『愛宕神社』、ここの手前にも愛宕神社があったが11:23交差点手前の街道左側に『矢倉稲荷神社』の鳥居稲荷神社所在地:滋賀県草津市矢倉2丁目7赤い鳥居のトンネル森の中に鎮座していたお稲荷さん11:28交差点角に『草津矢倉郵便局』、旧東海道は交差点を直進郵便局前の交差点から東方向は、国道1号線11:30国道1号線の矢倉南交差点交差点手前に『草津市立矢倉小学校』所在地:滋賀県草津市矢倉2丁目5-50交差点には道標右方向へ行くとJR南草津駅まで400mの距離交差点を渡り観光案内板ようこそ南草津『遺跡と萩の育むまち野路』の玉川へ現在地は、黄色矢印④ 野路の一里塚 ⑤ 本誓山 教善寺 ⑥ 若武者平清宗の胴塚 ⑦ 玉川山 浄泉寺これから訪れながら京へ11:34街道の突き当りに、野路上北池公園があり『野路の一里塚』野路一里塚跡の石碑野路一里塚は、この石碑より北西に約三十米の所と道を挟んだ北東約二十米の所の二ヶ所にあった。明治14年・・有地に払い下げられ、消滅するにいたった。ここに野路一里塚の旧地を証するためこの石碑を・・・野路の一里塚関ケ原の合戦で、天下を手中にした徳川家康は、慶長6年に東海道、慶長7年には中山道に対する伝馬徴発令を発布するなど、いち早く江戸を中心とする交通、運輸網の整備を進めた。・・・中略・・・。東海道文間延絵図(文化3年作成)には、ここ野路の北側の北方の街道の両側にも、長い松並木とともに一里塚が描かれているが、その木立は天保14年作成の東海道宿村大概帳や元禄3年刊行の東海道分間絵図によれば、双方とも松であったことが明らかである草津宿の田園風景と松並木11:37旧東海道は、県道18号線(かがやき通り)を横切る県道18号線を横切り旧東海道を進む県道を横切り直ぐ左手にある寺院へ11:38浄土宗 本誓山 教善寺所在地:滋賀県草津市野路6丁目8-8山門の横に鐘楼がそびえる山門の左側に「草津歴史街道」草津では、小柿から大路井に入ると、すぐ砂川(旧草津川)を渡り、11町53間半(約1.3km)の草津宿を経て、矢倉・野路・南笠を通過し勢田に至った。草津宿には、本陣・脇本陣などが設けられ、常善寺・立木大明神(立木神社)ほかの多数の社寺が立ち並び、70軒を越えるの旅籠をはじめ500軒以上の町家があった。また、矢倉には光伝寺・姥ヶ餅屋・矢倉道標・野路には一里塚・教善寺・新宮大明神(新宮神社)・野路の玉川跡などの社寺名所が在り、矢倉野路間、野路南笠間の街道沿いには松並木が続いていた現在地は、右上の追分道標から左下へ進んだ山門からの本堂本堂の扁額「本誓山」本堂前から、鐘楼の前に建つ「聖観音」、正面に山門せいし丸様も山門には「浄土宗 本誓山来迎院 教善寺」近江湖南二十七名刹霊場 びわ湖百八霊場会 第二十一番 石部宿~大津宿-続く
2020.05.24
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今日は私の誕生日、ランチはレストランへ。昨夜予定の店へ予約の電話をしたが「当分の間新型コロナウイルスの関係で休業」と、残念。玄関先では元会社からもらった胡蝶蘭が今年も綺麗に咲いている。我が部屋でも3鉢咲く庭で咲いているクレマチス ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・草津宿街道交流館を出て西へ向かう。3/22(日) 10:44街道交流館の北側にある『浄土宗 布薩山 常善寺』本尊は重要文化財の阿弥陀如来、本堂前の境内は半分は駐車場。開基は東大寺を開山した良弁で、近江近辺には石山寺や金勝寺をはじめ良弁に関わりのある寺院が多い。関ケ原の合戦に勝った徳川家康が上洛の途上でこの寺に泊まった和菓子屋の『松利老舗』店先に「お菓子の館」の立札、縁台もありどら焼きが美味しいと街道の左側に『太田酒造株式会社』所在地:滋賀県草津市草津3丁目10-37前方から20数名の団体ツアー太田酒造 道灌蔵道灌蔵の前に『草津宿と政所(まんどころ)』の立札。草津宿は東海道五十三次の宿場の中でも大宿で水陸交通の要所でもあることから関所的な役割を担ってきました。草津宿でこの付近一帯は、政治的な中心地として、宿場における旅に必要な馬や人足の用意をしたり、宿の管理行う問屋場がありました。併せて、東海道筋では三ヵ所しか置かれていなかった、荷物などの重量検査を行う貫目政所も設置されていましたので、太田家を中心とするこの付近は、草津の政所と云われてきた所以です道灌蔵の前でツアーの添乗員が説明、皆さん高齢者ばかりだ。屋号札も「問屋役人 太田又四郎」添乗員の方と立ち話し今朝、神戸からバスで南草津駅前まで来て歩き始めたとのこと、いつもはもう少し多い参加だが、新型コロナの関係で減少していると。南草津駅からここまで約2キロの距離である。近場のツアーは日帰りだが、静岡あたりになると宿泊になると。週末に大阪府知事から「兵庫から大阪へは自粛してください」とのメッセージがあり、このため滋賀県へ来ているのか・・・・・・・・。店内を見学できたのであろうが先を急ぐのでスルーした10:49街道左側に『浄土宗 正定寺』山門前に大きな石碑山門を入り右側に『観音堂』水子地蔵和讃と無縁仏本堂の扁額『佛國山』10:52正定寺から街道に戻り直ぐ左に『八百久』所在地:滋賀県草津市草津3丁目11-37江戸時代から続く雑貨屋さんで、今の「売り」は「近江上布」。建物は国の登録有形文化財八百久 開館:10時から、定休日:日、月曜日休、今日は日曜日で休館日屋号札は『雑貨商 八百屋久兵衛』 街道右側の路地奥に『遍照寺』弥次さんが先に進み戻って来たので、ここで引返す旧東海道を進み、県道141号線との立木神社前交差点交差点を渡ると「伯母川 立木橋」立木神社の鳥居伯母川沿いに咲く桜つぼみも膨らみ一部開花、標木だと開花宣言か後数日で開花10:57立木神社境内へ入る所在地:滋賀県草津市草津4丁目1-3鳥居前に「御神鹿」石造道標 一基24.0cm×17.5cm×213.0cm 江戸時代(延宝8年=1680)市指定文化財『石造道標 一基』刻文よりこの道標は、東海道と中山道との分岐点である草津宿の中央部に位置する追分の地に建てられていたことがうかがわれ、現在の草津追分に建てられている文化13年銘石道標(1816)の前身のものと推定されます。道標の建立年代は、「延宝八庚申年」(延宝8年=1680)と刻銘にあり、滋賀県下で最も古いものです。建立の背景については、京都壬生村のあしだの行者万宝院という人物が、伊勢太神宮と山城愛宕山(愛宕神社)への七年間毎月の参詣成就を記念・感謝して建てられたものと推定されます献神鹿山門の手前に手水舎、「小野秀雄翁生誕之地」日本の新聞学研究の開拓者、小野秀雄 先生小野秀雄先生は、立木神社の中臣家38代宮氏の小野秀圓の長男として、1885(明治18)年8月14日に、草津のこの地に生まれる。東京帝国大学を卒業後、萬朝報、東京日日新聞(毎日新聞の前身)の記者を経て、1919(大正8)年34才の時に、思うところあって志をたて、東京帝国大学大学院に入学し直し、新聞学研究の礎を築く道を歩んだ。・・・・・・・・・・・・山 門狛犬ならぬ狛鹿山門を入り正面に拝殿山門右側に「皇大神宮遙拝所」拝殿左側に『儀式殿」、立木神社由緒社殿によると称徳天皇の時代である神護景雲元年(767)、武甕槌命が常陸国(現・茨城県)の鹿島神宮より白鹿に乗って、大和国(現・奈良県)春日神社(現・春日大社)への勧請の旅の途中当地に到着した。武甕槌命は持っていた柿の鞭を地面に刺して「この木が生え付くならば吾永く大和国三笠の山(現・春日大社)に鎮まらん」と言うと、柿の木が生成した。それを見た里人はこの木を崇めて社殿を建立し、武甕槌命を祀り、社名を立木神社と称したのが始まりである拝 殿延暦20年(801)、征夷大将軍の坂上田村麻呂が征夷征討に出陣した際当社に立ち寄り、道中安全と厄除開運を祈願し、大般若経一部を寄進している本 殿室町時代の長享元年(1487)、室町幕府将軍足利義尚が近江守護六角高頼を征伐するために栗太郡鈎に陣を敷いた(鈎の陣)時、当社に武運長久を祈願して四脚門(現・神門)を寄進している本殿正面左奥に「ゑびす神社」、山門11:04立木神社正面の石鳥居立木神社を出てすぐ右にある、和菓子屋の『福助堂』所在地:滋賀県草津市草津4丁目2-24全ての和菓子が一個70円とものすごく安く良心的。味も良いとネットで情報。和菓子に目の無い私だが街道を振り返り立木神社の杜、ポスターは共産党候補者11:07草津川に架かる矢倉橋昼間(7ー20)は一方通行。草津川は平成14年(2002)に付け替えられここを流れる矢倉橋の手前左側に『草津宿 京方見附(黒門)址』所在地:滋賀県草津市草津4丁目4-13下図において旧東海道は右から左へ歩いてきた。黒門の由来草津宿は、東海道と中山道が出会う宿場町であるため、宿場の入口は東海道の江戸方よりの入口と京方よりの入口および中山道よりの入口の三つの入口がありました。草津宿では、東海道の入口に「坂口見付」、中山道の入口に「追分見付(札の辻見付)」と呼ばれた見付がありました。一方、東海道の京方の入口である宮町と矢倉村との境には、文化14年(1817)には黒門が設置されていて、宿内と宿外を境する施設として存在していたようです。・・・・・・歌川広重の「草津宿 名物立場」草津市 東山道と東海道の分岐点で交通の要でにぎわい 草津宿は本陣二、脇本陣二、旅籠七十二軒を数えていたーーー 新しい草津川ができる以前 ーーー新しい草津川は、多くの方々の土地提供によってできた川です。中でも当地区は、多くの方々が移転されました。この事業にご協力いただいた方々に深く感謝します。 撮影:1985年 石部宿~大津宿-続く
2020.05.23
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外出自粛で畑仕事&庭先のブドウ栽培。落花生の栽培5月15日(土)茹でピーを食べるために4月12日に種をまいたが発芽率が悪く、8本畑へ植え付ける5月19日(火)インターネットでブドウの栽培を検索、花房の整理を行う。before昨年まではこのまま育てていたが、今年から管理することにafter副房から切り落とし房の長さを2~3mにし、房の先も摘む。少々長いがこのまま育てることに、また何日か後に袋掛けをするが30房ほどあったか?初めて試みたが秋の実り具合はどうなるか楽しみです、一房約500gに、種なしの薬はやらず ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・草津宿本陣を見学する。草津宿には田中七左衛門本陣と田中九蔵本陣の二軒があったが、現在残るのが田中七左衛門本陣である。東海道に現存する三本陣のうちで最大規模。田中七左衛門家は材木商で、通称「木屋本陣」と呼ばれた。文久元年(1861)には土方歳三なども泊まっている。3/22(日) 10:07国指定史跡『草津宿本陣』の表門所在地:滋賀県草津市草津1丁目2-8チケット購入国指定史跡『田中七左衛門本陣』史跡草津宿本陣+街道交流館共通券を購入、350円公開時間:9:00 ~ 17:00(ただし、入館は16:30まで)休 館 日 :毎週月曜日(休日の場合は開館)、祝日の翌日、年末年始現存する宿帳から、浅野内匠頭、吉良上野介、シーボルト、皇女和宮、徳川慶喜など、歴史上有名な人物が数多く宿泊・休憩したことがうかがえます。建物は江戸時代後期から残っているもので、保存修理を経て現在まで守り伝えられてきました。本陣が当時の姿をそのまま留めている例は全国でも珍しいうえ、草津宿本陣の規模はその中でも最大級であり、昭和24年(1949)に国史跡に指定されています玄関式台から表門表門をくぐると左手に番所が置かれ、中央に式台付きの玄関、その先には長い廊下が延びている式台付きの玄関本陣の主人は裃を着用し、ここで大名などを迎えた本陣所蔵の屋敷絵図によると、本陣屋敷は建坪468坪、部屋数は30室余、268畳半を有し、桟瓦葺き平屋妻入りの建物からなる。建物は、街道から向かって右側に本陣職田中家の住居棟、左側に休泊者のための座敷棟を配している玄関広間大名・公家等が宿泊している時の立札であろうか畳廊下から玄関側を振り返る。突き当りの右側が玄関広間で、右側に休泊者のための座敷が連なる。係員が雛段飾りをかたずけておられた畳廊下を奥に向い、左側の『西広間』には雛飾り一番奥に『上段の間』上段の間は大名など主客の休泊に使われた、本陣の中で最も格式の高い部屋上段の間の前に『佐土原藩主急死事件』とは?天保10年(1839)4月7日、佐土原藩第9代藩主・島津忠徹は参勤の途中、伏見から草津へ向かっていました。一行は、草津宿では九蔵本陣に宿泊する予定でしたが、前日に佐賀藩主の遺骸が宿泊していたことから、急遽、七左衛門本陣での宿泊となりました。朝から体調が優れなかった忠徹は、本陣に到着後、畳廊下を2・3度転びながらやっとのことで上段の間にたどり着きましたが、お付きの医師の手当ての甲斐なく、その日の夜に急死してしまいました。江戸時代各藩において、次の藩主への代替わりを行うには、現・藩主から相続を願い出て、将軍に許可を得るという一連の手続きが不可欠でした。しかし、後継ぎ候補が幼少であったため行っていなかった。このため佐土原藩は、本陣当主・七左衛門に遺骸安置の協力を求め、藩存続のために、忠徹が存命中であるかのように装って、跡目相続の許可を得るために奔走しました。この騒動も、一行が到着した4月7日から、跡目相続の手続きが滞りなく終わり、6月25日の朝に本陣を出発するまでの77日間にも及んだ。佐土原藩は、日向国佐土原(宮崎県宮崎市佐土原町)に城を構えた2万7千石の外様大名一番奥に『庭園』庭園の左側に『明治天皇草津行在所』の石柱庭園の東側に『湯殿』主客専用の風呂場で、屋外で沸かした湯を運び入れた湯殿(Yudono)大名など主客専用の風呂場です。畳敷き四畳は、脱衣場や供回りの控えの間であり、板張り八畳は、中庭の竈(湯沸屋形)で沸かした湯を湯舟へ運び入れ、その湯で湯浴みをする浴室として使用されました。また、板間中央には排水用の溝が設けられ、床下には、漆喰仕上げの排水溝や湯舟を支えるためお置台が残されています湯殿(Yudono)板間中央には排水用の溝台所土間の奥に『御膳所(Gozensho)』台所の西側に位置する御善所は、休泊者の料理を配膳した所です。十三畳の板間と幅一間の土間からなり、土間には竈、流し、水瓶を備えています。板間には障子付の板壁を立て、畳廊下との間に板廊下を設けています和宮通行の食事 ー 献立と料理再現和宮の草津宿通行は文久元年(1861)10月22日で、田中七左衛門本陣において昼食をとっています。その時の献立は、一汁四菜で次のように記されています。豪華絢爛、華やかな食膳を誰もが思いおこしますが、この献立から再現する料理は、決してそうではありませんでした台所土間休泊者の食事を調理した炊事場、竈や井戸などを備えている通り土間で、楽座館・長家・土蔵へ竈(かまど)も10個近くあり大勢の食事を準備屋敷裏手の右奥に、楽座館(展示館)があったが内部は撮影禁止正面に土蔵2棟、左に長家、右手前は、湯沸屋形。湯沸屋形のこの竈は、湯殿で使うお湯や馬を洗うお湯を沸かすのに用いていました。湯殿へは、この竈で沸かしたお湯を、湯舟まで運び入れていました。竈の傍らには、かつては三本の松があり、この松に馬をつないで洗っていました10:24約15分程の見学で本陣を後にする街道左には、東海道草津宿『脇本陣 藤屋与左衛門』脇本陣 藤屋与左衛門の下に『吉川芳樹園店舗兼主屋』 登録有形文化財、建築年代:江戸末期平入り正面上部の虫籠窓風の意匠や漆喰で塗り込められ出桁などが町屋らしい雰囲気をかもし出しており、鬼瓦には文政13年(1830)の銘がみられます。街道に並行した切妻造の背面で、棟が直行するT字形の屋根形式となっており、草津宿の町屋にみられた特徴を持っています。草津宿には、本陣が2軒、脇本陣が時代によって2~4軒ありましたが、この家は脇本陣藤屋与左衛門家にあたります10:25二階の看板に『和食材 ベーカリー&カフェ 脇本陣』玄関引き戸に、屋号札、右側に石碑屋号札は、東海道草津宿『脇本陣 仙台屋茂八』店先の角に『草津脇本陣跡』の石碑街道を振り返る田中九蔵本陣跡所在地:滋賀県草津市草津2丁目8-25田中九蔵本陣跡(知新学校跡)草津宿にあった二軒の本陣のうちの一軒13代将軍に嫁いだ篤姫や、14代将軍家茂が利用、本陣廃止後跡地に知新学校が建てられた玄関横に『くさつ』の石碑が建つ草津名物「はこずし」の『老舗 寿司清』 所在地:滋賀県草津市草津2丁目10-24老舗 寿司清は創業80年、「はこずし」は関西特有の押しずしからきていると。ご飯にのっているのは鱧(はも)で、骨切りにして秘伝のタレで焼き上げた逸品だと10:27くさつ夢本陣、まめバス停留所観光案内所で、トイレ、授乳所、休憩所となっている左手前の民家に屋号札、中央に道標屋号札は、東海道草津宿『油屋・宿役人 油屋孫十郎』石造道標は「右 以し山ミチ」10:29草津宿街道交流館所在地:滋賀県草津市草津3丁目10-4公開時間:9:00 ~ 17:00(ただし、入館は16:30まで)休 館 日 :毎週月曜日(休日の場合は開館)、祝日の翌日、年末年始草津宿本陣との共通券で入館草津宿街道交流館いろんなものを展示していたが残念ながら館内は撮影禁止であった東海道五十三次地図旧東海道、東海道新幹線草津宿からの東海道・中山道往時の「朝食」「夕食」朝から大きな魚が豪華な方ではなかろうか草津市の汚水マンホール蓋簡単なアンケートに答えると、マンホールカードがもらえる交流館内で、3色の浮世絵版画に挑戦黒 → 緑 → 赤 の順にインクを付けてバレンで押しつけ印刷10:42石造道標 江戸時代後期正面に「右 東海道」、右面「天明7年5月吉日」江戸時代に江戸と京都・大坂を結んだ「東海道」、もともと建てられていた場所はわかりませんが、曲がり角や分岐点で東海道の道筋を示していたと思われます。右側面に天明7年(1787)の年月が刻まれていることから、現存する道標のなかでは比較的古いものといえます 石部宿~大津宿-続く
2020.05.22
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草津宿へ入る。草津の外れの野路は平安時代から古東海道の宿場だった。しかし、草津は東海道と中山道の、又、琵琶湖の矢橋湊への分岐点があり、交通の要衝であったため東海道制定時に宿場となった。町並みは草津川を渡ったところから中山道との追分で直角に曲がるL字型で、延べ1.3kmの長さがあった。草津の問屋場には貫目改所が併設され、搬送荷物の重量や行き先を監視した。東海道の貫目改所は、品川、府中、草津の三ヶ所だけに設置されたため、草津宿は東海道のなかでは重要な宿場だった。名物は乳母の乳房の形をした「姥が餅」であり、430年続く老舗で今でも売っている。3/22(日) 9:47『草津宿江戸口見附 横町道標』から追分方面を望む新しく整備されたのか『de愛ひろばイベント広場』。江戸口見附 横町道標の北側に建つ『高野地蔵尊』『立木神社御旅所』。二つとも公園が整備され移築されたのか真新しい小さな祠である手前に『高野地蔵尊』所在地:滋賀県草津市草津1丁目15-23高野地蔵尊の北側に建つ『立木神社御旅所』9:53広場から旧東海道を進む、右側は古民家で軒先に鉢植え草津市のおすいマンホールデザインは追分道標9:57追分道標・常夜燈、高札場跡、草津川ずい道(トンネル)追分道標・常夜燈東海道と中山道の追分。追分に建つ道標は「右東海道いせ道」「左中仙道美のぢ」と刻む。延宝8年(1680)この追分に建立された最初の道標が立木神社に残っている。直進が、「右東海道いせ道」、左が草津川ずい道で「左中仙道美のぢ」市指定文化財『道標』 一基ここはかつての日本五街道の最幹線で東海道と中仙道との分岐点である。トンネルのできるまでは、この上の川を越せば中仙道へ、右へ曲がれば東海道伊勢路へ行けた。しかし、この地は草津宿のほぼ中心地で、この付近は追分とも言われ、高札場もあって旅人にとっては大切な目安でもあった。多くの旅人が道に迷わぬよう、また旅の安全を祈って文化13年(1816)、江戸大坂をはじめ、全国の問屋筋の人々の寄進によって建立されたもので、高さは一丈四尺七寸(4.45m)で、火袋以上は銅製の立派な大燈籠であり、火袋以上は、たびたびの風害によって取り替えられたが、宿場の名残りの少ない中にあって、常夜燈だけは今もかつての草津宿の名残りをとどめている名所図会に見る渡し場の風景(上:近江名所図会、右:東海道名所図会より)高札場跡と、延命地蔵尊トンネルへ入ると中山道、ここは旧草津川(天井川)坂道を上り、草津川跡地公園de愛ひろば(区画5)。先程行った『草津宿江戸口見附 横町道標』方向右の建物は『ホットヨガ&ジム CALDO草津滋賀』所在地:滋賀県草津市大路1丁目3-18-2この石積は、草津川上流のオランダ堰堤をモチーフこの石積は、草津川上流のオランダ堰堤(大津市上田上桐生町にある明治22年(1889)に完成したとされる砂防施設)をモチーフとしており、草津川の歴史を彷彿とさせるデザインにしています伊達 ハナモモの木平成23年(2011)3月11日発生の東日本大震災を契機に重ねた数々の友情と、復興への挑戦を誓い共に取組んだ証として、平成27年10月15日草津市制60年を祝い、福島県伊達市より寄贈された記念の「希望の木」ハナモモです。 「我らみんな人間家族美しき哉」ハナモモが綺麗に一部咲いていた「草津川の渡し場」草津川は土砂の混入と堤防の決壊を繰り返すうちに、周囲の土地より川底が高くなった「天井川」です。「旧草津川の成り立ち」この草津川跡地公園は、平成14年に流路の付け替え工事が完成し、廃川となった旧草津川を整備したものです。天井川であった旧草津川が、いつ頃からこの場所を流れるようになったのか知る由はありません。江戸時代に草津宿が設置されると、旧草津川の堤防整備や、川底の浚渫などが行われるようになりました。江戸時代中頃より、上流の荒廃した山々から土砂の流出が続き、長年に渡り土砂が堆積したことにより、川床が周辺民家の屋根よりも高くなる天井川化が進んだことは、歌川広重の浮世絵からもうかがえます。江戸後期には、草津川の川底が高くなり、中山道口から草津川堤防への上り坂が急になったため、脇道の造成を膳所藩に願い出ています。旧草津川は、雨が降らないと水の流れない砂川でしたが、一旦大雨になると、堤防の決壊を招くほどの水量が流れる川でした草津川の渡し場天保3年(1832)の「橋銭川越賃定書」によれば、水が無くても、1人3文の川越賃が徴収されていたとの記録があります。水が流れている時は、人に担がれて渡りましたが、水嵩に応じて、1尺(約30cm)で8文、1尺5寸、2尺、2尺5寸と、段階的に増加して、3尺で32文の川越賃を徴収され、時には、川留めになることもありました。天井川の渡し場は、草津宿の特徴的な光景として、数多くの浮世絵や名所図会に描かれており、当時の様子がうかがえます周辺地図歌川広重画 東海道五拾三次之草津歌川広重画 木曽海道六拾九次之内草津追分草津川跡地公園de愛ひろば(区画5)、上流側10:03追分道標の角にある『草津まちづくりセンター』所在地:滋賀県草津市草津1丁目4-33センターの前にはいろんなパネルが掲示されていた草津まちづくりセンター前にある掲示板草津川ずい道(トンネル)の由来草津川トンネルは草津川が天井川であったことから出水に悩みまた通行にも不便をきたしていたことから、従来の堤防を登り川越のルートから草津川にずい道を掘って、人馬・通行の便を図ろうと計画し、ときの大路村戸長長谷庄五郎は明治17年(1884)8月24日付で中山道筋草津川ずい道開削新築事業起工の儀願書を県令(知事)中井弘あてに提出した。これが容れられて明治18年12月4日総工事費7,368円14銭9厘を以て着工された。翌明治19年3月20日の突貫工事で完成した。構造はアーチ式煉瓦両側石積みで長さ43.6m、幅4.5mのずい道が造られた。同年3月22日より旅人通行の事、車は3月25日より、馬車荷車は4月5日より従来左方斜めに堤防にのぼって川を渡り大路井村側で右方へ下った。中仙道の川越は廃止され、車馬の通行はきわめて容易になった上:歌川広重画 木曽海道六拾九次之内草津追分下:草津川ずい道(トンネル)歌川広重 保永堂版「東海道五拾三次 草津」草津名物の姥が餅を売っていた瓢仙堂(ひょうせんどう)の前を描いている書状集箱(POST)このポスト(書状集箱)は、明治4年(1871)郵便創業当時使用していたものと同じ型のものです。草津宿は、東海道と中山道の分岐・合流点という交通の要衝として、発展してきました。また、国史跡に指定されている草津宿本陣は、現存する本陣の中でも最大規模で、当時の面影を今に伝えています。なお、このポストは、他のポスト同様に取り集めを行いますので、ご利用ください 平成10年9月 草津郵便局歌 碑近江路や秋の草つはなのみして 花咲くのべぞ 何処ともなき 覧富士記詩の意味は将軍のお供をして富士を見に行く途上、秋の近江路を草津まで来たが、草津とは名ばかりで、秋の草花が咲いた美しい野辺を思い描いていただけに心寂しい思いをするものだよ。作者紹介:覧富士記 堯考法師(1390~1455)この歌は『覧富士記』に収められており、堯考法師の作といわれている。室町時代の歌人で頓阿の曽孫。常光院と号し応永21年(1414)には二条派の中心歌人であった。正長元年(1428)足利義教が幕府で歌会を開いて以来飛鳥井家の人々の中心メンバーであり、永享4年(1432)の富士見にお供して『覧富士記』を残した。堯考法師が東常縁に伝えた古今伝授は、後宗祇(近江出身)に継承された草津歴史街道草津では、小柿から大路井に入ると、すぐ砂川(旧草津川)を渡り、11町53間半(約1.3km)の草津宿を経て、矢倉・野路・南笠を通過し勢田に至った。草津宿には、本陣・脇本陣などが設けられ、常善寺・立木大明神(立木神社)ほかの多数の社寺が立ち並び、70軒を越えるの旅籠をはじめ500軒以上の町家があった。また、矢倉には光伝寺・姥ヶ餅屋・矢倉道標・野路には一里塚・教善寺・新宮大明神(新宮神社)・野路の玉川跡などの社寺名所が在り、矢倉野路間、野路南笠間の街道沿いには松並木が続いていた旧東海道は右上から左下へ進む草津宿草津宿は東海道五十三次のうち、江戸より数えて52番目の宿場町で東海道と中山道が分岐合流している交通の要衝でした。天保14年(1843)の「東海道宿村大概帳」によれば、草津宿の宿内家数は586軒、うち本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠72軒だったそうですふるさと「くさつ」風景の記憶絵左側が京側で、右側が旧草津川草津宿の京方面を望む追分道標を振り返る。享保2年(1802)6月に天井川となっていた草津川の堤防が決壊して、宿内では300軒以上の家屋が流され、溺死40人あまり、行方不明者は数百人という大水害があった。水害は江戸期以降も繰り返され、昭和40年まで続いた草津まちづくりセンターの西側の建物に掲げられた、東海道草津宿 『脇本陣 大黒屋弥助』所在地:滋賀県草津市草津1丁目4-33脇本陣 大黒屋址の右前方に『草津宿本陣』10:07草津宿本陣 石部宿~大津宿-続く
2020.05.21
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引き続き旧東海道(県道116号線=六地蔵草津線)を草津宿へ向けて歩く。3/22(日) 9:16街道左側に『真宗大谷派 東護山 乘圓寺』所在地:滋賀県栗東市岡368山門をズームアップ、門が閉ざされていたためスルー9:20街道右側に大きな石柱正面に「京いせや跡」、側面に「東海道間の宿岡村 菜飯田楽京いせや西岡忠兵衛屋敷」名代 田楽茶屋「京伊勢屋跡」東海道を往来する旅人の休憩所として、江戸幕府によって立場茶屋が置かれた。ここで供された食事は地元産の食材を使った菜飯と田楽で独特の風味を有し東海道の名物となった。田楽茶屋は、立場であった元伊勢屋(岡野屋)と、この京伊勢屋(西岡家)、古志(じ)ま屋(寺田屋)の三軒を言い、すべてが岡の地に店を構えた。当家には当時からの藤棚がある更に街道を進むと左側に石柱建物は『ヤマキ酒店』舊跡 人吉藩主吉良候 御対面所跡 山本家石柱の下には「栗東の花 きんせんか」人吉藩主は誰と対面したのか?9:21ヤマキ酒店所在地:滋賀県栗東市岡349往時、目川立場で田楽とセットで出されていたお酒「菊の水」ヤマキ酒店の先に『 健康サロン ” 足湯 ” 』草津本陣は、ここを右方向へ進む岡ほっこりマップ金勝川はこの先で草津川と合流するこれからの草津本陣への道平成25年に移築された『膳所城大手門』から南方向を望む伝 膳所城大手門明治の廃藩置県で城の建物は膳所藩領の村に移築された。この門は膳所藩領だった栗東市林の長徳寺へ移築されていたが、今般建替えられ、同じ膳所藩領の当地へ移築したものである。膳所藩領の村へ移築された城門の例は、膳所の膳所神社や矢橋の鞭崎神社が知られている。移築にあっては、主要部材は現状のまま使用した。屋根は長徳寺への移築寺に寺院用に改装されていたことが判明したため一部を復元した。併せて耐震補強を施した膳所城大手門前の芭蕉句碑「草の戸や日暮れてくれし菊の酒」 元禄4年重陽芭蕉「田楽で芭蕉も飲んだ菊の水」 沙弥 隨縁9:24旧東海道を振り返り、ほっこり庵を後にする。右に「ほっこり庵」、中央に足湯めがわ田楽 由来目川立場を担ったのが屋号を「伊勢屋」とした岡野五左衛門家である。伊勢屋は精進料理を味付けで工夫して商品化に成功し、「めがわ田楽」として売り出した。主食=菜飯、副食=田楽、お酒=菊の水の三点セットである。「安くて・美味しくて・腹持ちがよい」と大評判になり、商品名の「めがわ田楽」は全国へ波及していった。京都・大阪・江戸にも「めがわ田楽」の店が営業していると「江戸総鹿子大全」や「守貞漫稿」等に記録されている。岡でも伊勢屋一軒では旅人を賄い切れず、寺田家の「こじまや」や西岡家の「京いせや」が続いて店を開いている。往時のグイ呑み茶碗や看板が多く残され、繁昌の様子を今に伝えている9:26旧東海道(県道116号線=六地蔵草津線)を北西方面へ進み草津宿へ。前方の高架橋は東海道新幹線東海道新幹線の高架橋は「草津川 B 」で東京から、454km419m73琵琶湖から6.99km地点?現在の草津川は付け替えられてここより西側を流れている左側に旧草津川の土手9:30消火栓の横に石柱が建つ傍示石『従是東?領』(岡境界)旧東海道を振り返る右側に『史蹟 老牛馬養生所址』所在地:滋賀県栗東市小柿10丁目7史蹟 老牛馬養生所跡栗太郡志等に「この施設は和迩村榎の庄屋岸岡長右衛門が湖西和迩村の牛馬で老廃牛馬の打はぎをしている様子を見て、その残酷さに驚き、これから老牛馬であっても息のある間は打はぎすることを止めるようと呼びかけ、天保12年4月当地が東海、中山両道を集約する草津宿の近くであることから、ここに老牛馬の余生を静かに過ごさせる養生所を設立、県下の老牛馬を広く収容された」と記されているこの関係から栗東市にトレーニングセンターがあるのか東海道 小柿村 高札場「大谷」の屋号旧東海道を進む東海道 小柿村 天秤棒「棒喜(ぼうき)」の屋号。荷物担ぎの天秤棒の商いをしていたのか9:34栗東市から草津市へ入る旧東海道(県道116号線=六地蔵草津線)を進む左側に石碑があり、「 → 東海道 草津宿へ 」矢印の方向から旧東海道はこの坂を登るのであったのか石柱には「わが町のシンボル いろはモミジ 1986年9月制定」草津の名木「イロハモミジ」樹 高:9m、樹幹周囲:200cm、推定樹齢:150年以上旧東海道の草津川を渡り伊勢路に至る堤防を下った現県道草津・六地蔵線との合流点にあり、少なくとも明治、大正、昭和の激動期をじっと見つめてきた木に違いないと思われます。百有余年、風雪に鍛えた太い幹、左右に広く伸びた枝張り、それにふさわしい樹高はモミジの王者の風格があります。春の芽ぶきの萌黄、夏の深緑、真っ赤に燃えるような秋の紅葉、冬は裸木に雪化粧の清らかさ四季折々の美しさには道ゆく人も足を留めます旧東海道(県道116号線=六地蔵草津線)を進み国道1号線に弥次さんは既に歩道橋の上を進む、大津まで17km国道1号線の大路三丁目交差点9:38大路三丁目交差点の歩道橋から、大津・京方面旧東海道はこの橋を渡るのであろうかと同歩道橋から、江戸方面この先は、草津駅口交差点で左方向に進むとJR草津駅歩道橋を渡り、大路三丁目交差点新しくできた旧東海道の『草津宿橋』草津宿橋は2019年3月竣工草津川隧道(下り)を撤去後、新しい草津宿橋を建設したようだ9:42大路三丁目交差点から国道1号線を京方面へ進み振り返る9:45道を間違え裏道へ入る『神宮寺』所在地:滋賀県草津市169:47旧東海道に戻り『草津宿江戸口見附 横町道標』所在地:滋賀県草津市草津1丁目15-23草津宿の江戸方の入口でありました草津川の堤上建つ火袋付石造道標です。総高は約3.9mを測り、日野の豪商中井氏の寄進によって文化13年(1816)3月に建てられました。 竿には「右金勝寺志がらき道」 「左東海道いせ道」とそれぞれの行き先を刻んでいます。なお、道標はかつて道を挟んで北側にありました 石部宿~大津宿-続く
2020.05.20
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上鈎(かみまがり)東交差点から草津宿へ向かう。3/22(日) 8:35旧東海道(県道116号線)の緩い坂を登り、葉山川へ弥次さんは既に葉山川を越える葉山川に架かる葉山川橋から振り返り、近江富士(三上山:標高432m)を望む。橋の右側に「上鈎 安養寺へ」の道標葉山川橋を渡り旧東海道(県道116号線)を進む8:43街道左側に『真宗大谷派 養煙山善性寺』所在地:滋賀県栗東市川辺450シーボルトがかつてここに立ち寄ったという記録が残っていると善性寺縁起慶安2年(1649)僧玄龍開基、道場を開き竹林坊と号し宣如法王より佛像を受く、正徳3年(1713)二世了悦、木仏安置、寺号公稱を許さる。寛保3年(1743)三世示教、本堂再建。寛政6年(1794)四世恵観、本堂改修。文政9年4月善性寺第五世僧恵教のとき、オランダの医師で植物学者シーボルトが江戸からの帰途善性寺を訪ねている。そのときの見聞「シーボルト江戸参府紀行」に「かねてより植物学者として知られている僧恵教のもとを訪ね、スイレン、ウド、モクタチバナ、カエデ等の珍しい植物を見物せり」伝々とある山門を入り本堂狭い境内で、山門右側に鐘楼が建つ山門の瓦善性寺の先の街道脇に、稲荷神社の石柱。稲荷神社へはここの路地を左へ進む稲荷神社の石柱稲荷神社の由来、伏見稲荷神社に勧請し建立されたもので、笠杉・三吉・枇杷大明神の三神が祀られている旧東海道から東側へ100m程入り『稲荷神社』稲荷神社昔から「お稲荷さん」と親しみ崇められており往時、お社を囲うように松の大木が生い茂っていた。昔東海道の川辺村周辺の交通量は通行人一日二千人、馬四百頭の往来があり、商店も十五軒あったという。商売繁盛を祈願して伏見稲荷神社に勧請して建立。三吉・笠杉・枇杷の三大明神を祀る。その昔、笠杉大明神は神祗を寄せるため、小槻大社拝殿南巽の位置に遷座されるも再度稲荷に還る。以来川辺村の祭礼当番の際にこのお社前でお神輿をあげるのが慣例となる。この稲荷のお守り役は青年部であったが現在は地元有志で「稲荷神社を守る会」を結成し初午祭やお火炊き祭等、伝統行事を奉仕している境内は狭く民家の中に建っているしんびょうしの霊水 →この井戸の水源は金勝の山なみにあるという。井戸の井筒が二つしかない浅い井戸であるが、古き時代から涸れることなく湧き出し、夏はことのほか冷たく冬は温かいことから、地元民の飲み水として大変よろこばれ重宝されたものなり。昔、東海道を往来する旅人達、大名といわず町人にいたるまで多くの人がこの冷水で口をすすぎ喉をうるおし、旅の疲れを癒す憩いの場として楽しんだものと謂う。この地が新日吉と呼ばれるようになったのは、参勤交代のお殿様がこの井戸の冷水を飲み、心身とも疲労が回復した喜びから「しんびょうしとせよ」と云われたと云う稲荷神社から狭い路地を南に入り右側に『しんびょうしの霊水』しんびょうしの霊水「しんびょうしの霊水」は金勝川の伏流水で井筒が二つぐらいしかないので水面が浅いことから非常に汲みやすく、そのうえ夏はことのほか冷たく、冬は温かいために昔から飲料水として多くの人に重宝されてきた。昔、この道を往来する大名をはじめ、旅人、町人に至るまで旅の疲れを癒したり憩いの場にと足をとめ、この霊水を飲みながら旅をしたものと思われる旧東海道(県道116号線)に戻り南下する。左の民家に屋号札東海道 川辺村 酒・乾物「魚菊」8:50東海道・中郡街道分岐 石碑所在地:滋賀県栗東市坊袋 県道116号線旧東海道を南下すると金勝川にぶつかり右側へ進む石碑には東 海 道 :川辺・坊袋・目川・岡・新屋敷を経て草津へ至る中郡街道:川辺・下戸山・上砥山・御園・東坂を経て石部へ、延長1里24町26間(約6.6km) 現県道、川辺ー御園線 起点栗東の花「きんせんか」8:53中郡街道分岐を右側に曲がり進むとすぐに『浄土宗 延命山 地蔵院』所在地:滋賀県栗東市目川413地蔵院本堂本堂の扁額『地蔵尊』境内に入ると右側に『皇太神宮の碑』皇太神宮の碑ここ目川地蔵院の境内には天照皇太神宮、八幡大菩薩、春日大明神という銘のある碑があり、側面には「元禄年間亥年」の刻印がある。神仏混交の時代の名残りであろうが由来は明らかでない8:58玄関横に「東海道 目川村 栄町『飴屋甚五良』の屋号札飴を販売していたのか民家の軒先に大きなひょうたんが街道左側に『目川ひょうたん展示・販売』の看板軒下にはビニールシートで保護された馬の模型、祭りにでも使用されるのか9:00街道右側に『東海道 一里塚』石柱の側面に、草津宿まで半里東海道には一里ごとに距程標として一里塚が設けられていた。一里塚は道の両側に五間四方の塚の上に椋や松などの木立があった。目川村の一里塚は、現在の鎌田屋敷の東隅と、その向いの旧北野屋敷の西隅にあり、椋の大木があったといわれ、当時の一里塚は、西は草津市野路に、東は六地蔵(梅の木)にあったといわれている目川一里塚を振り返る、ここまでの今日の歩数は6,600歩9:02街道右側に『真宗大谷派 久遠山 専光寺』本堂の前に大きなイチョウの木丁度訪れて来られた元薬剤師という女性(80歳過ぎ)としばし立ち話。このイチョウの木は樹齢450年で、秋には銀杏が落ちている、圧迫骨折を三度したとか、薬剤師関係の講演で日本全国を80歳近くまで動いていたと9:14旧東海道(県道116号線=六地蔵草津線)に戻り進む、前方右に石柱田楽発祥の地、傍示石『従是西膳所領』(岡境界)所在地:滋賀県栗東市岡384番地-5目川立場・田楽茶屋「元伊勢屋跡」東海道を往来する旅人の休憩所として、江戸幕府によって立場茶屋が置かれた。ここで供された食事は地元産の食材を使った菜飯と田楽で独特の風味を有し東海道の名物となった。天明時代の当家の主人岡野五左衛門は「岡笠山」と号した文人画家である。与謝蕪村に師事し、その力量は「よく師法を受け、筆神に入る」と称賛され「幕府の命に応じて揮毫し、将軍の覧に供す」と記録されている。作品には氏神の小槻大社へ奉納された大絵馬の外、地元にも数点の作品が残されている目川立場跡東海道が草津川の壁のような土手に突き当たり、土手沿いに行く右手に119番目の目川一里塚跡の碑がある。その先に目川立場があり、食事には菜飯と独特の味の豆腐田楽、お酒「菊の水」をセットで提供した。「目川田楽」と呼ばれ、安くて美味しいと好評を博した。田楽茶屋をはじめたのは「元伊勢屋」。広重の保永堂版『東海道五拾三次 石部』は目川立場の田楽茶屋の前を描いている。9:15岡交差点この交差点を右方向へ行くとJR草津駅へ 石部宿~大津宿-続く
2020.05.19
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弥次喜多道中、述べ31日目の道中記です。三日連続での道中は初めてで、今日は中日の二日目、午後から天気が悪くなるとの天気予報。昨日の午後から左足に古傷の痛みが発生。3/22(日) 6:12ホテルの部屋からの日の出6:49朝食が7時からのため部屋で待機、下の道路は国道1号線。向かい側に「丸亀製麺 大津瀬田店」6:55一階のレストランへ朝食はいつもはバイキングだが、新型コロナウイルスの関係で弁当式になっていた。また前のお客さんが食べ終わると席を消毒していた朝食のメニュー一階レストラン横にはリラックスエリア昨夜は天然温泉へ来た人が入浴後リラックスしていた。コーヒー、インターネット等を無料サービス7:25今日の天気は午後から雨になるとのことで傘を用意して出発。シャトルバスもあるがホテルから瀬田駅まで1.2キロで歩いて約15分とのこと。バスとの時間が合わず歩いて駅へ、ホテルを振り返る7:33国道1号線の一里山一丁目交差点を渡る、長沢川の桜並木が立派だが蕾はまだ硬い今日も元気な弥次さん、国道1号線をJR瀬田駅へ向かう瀬田駅口交差点を右に曲がりJR瀬田駅へ7:40JR瀬田駅南口ホテルから約15分で到着、ここまでの歩数は2,700歩であった瀬田駅から手原駅までは草津駅で乗り換えて、200円瀬田駅改札を入り振り返る下り線を、新快速姫路行きが通過7:51発の電車に乗り草津へ、途中車中から追従型の太陽光パネル。看板には「太陽光発電 追尾式架台システム 本郷工業」8:00草津駅で「柘植(つげ)行き」に乗り換え8:10JR手原駅南口をスタート所在地:滋賀県栗東市手原4丁目1昨夕は、ここから貴生川駅へ向かった手原駅南口通りの右側に位置する『浄土真宗 圓徳寺』8:12圓徳寺に隣接して南側に『三雲山真慶寺』『手孕地蔵尊』の石柱小さな『三雲山真慶寺』、手孕(てはらみ)地蔵尊は、手を孕んだ伝説が歌舞伎(源平布引滝)に安産守護の地蔵菩薩となる(天満宮・手原駅舎とも関係)三雲山真慶寺由来白鳳時代(推定)、三雲山栗本寺と号し名刹栗の太木にまつわる伝説に由来するとも伝わる大地(寺)。開祖は不詳。中世室町時代、近江源氏ゆかりの大西大和守一族にて三雲山真慶寺と改号、再興。 本尊、阿弥陀如来立像(仏工春日の作) 脇仏、地蔵菩薩立像(聖徳太子の作) 伝手孕地蔵として、子授け、歯痛と無病息災安産守護のご利益あり(栗太郡誌より)。明治維新で廃仏の受難。農地改革で寺財の消失があり荒廃。昭和12年迄尼寺であった。昭和51年より手原区による管理。手原駅前区画整理事業で寺、墓地を整備、千体地蔵尊の供養もされた。平成14年自治会に真慶寺委員会が設置される。浄土宗、本山知恩院に属す『三雲山真慶寺』『手孕地蔵尊』を振り返る栗東市の汚水マンホール蓋8:16手原駅前通りから右側へ進み、旧東海道へ右側に「東経136度 子午線 北緯35度01分22秒」旧東海道を振り返る石柱の側面には碑を建てた日付け「太陽南中時刻 午前11時56分 05年11月 建立」街道左側に二階部分が低い古民家。屋根からは吹き抜け右側には土蔵二階屋根の吹き抜け瓦にも手が凝っている8:20街道沿いに道標に『石部へ(伊勢参道)、東海道 すずめ茶屋跡地』所在地:滋賀県栗東市手原5丁目9-18別の方向から『草津へ中仙道 東海道 すずめ茶屋跡地』東海道手原村 田楽茶屋 すずめ茶屋旧東海道を進むが今日は曇り空街道左側に『足利義尚 鈎(まがり)の陣所跡』8:23石碑には『九代将軍 足利義尚公 鈎の陣所ゆかりの地 文明19年(1487)』所在地:滋賀県栗東市上鈎270応仁の乱後、近江守護・六角行高が寺社や奉行衆の所領を横領し始める。下剋上の空気が漂いはじめていた時期。室町幕府9代足利義尚が自ら軍を率い、この地に陣を敷いた。六角氏は甲賀に逃れ、甲賀衆のゲリラ戦が執拗に展開された。甲賀忍者が意識された最初かも知れない。元々、健康でなかった義尚は後に陣中で病死児童公園とも言いかねる小さな面積に歌碑が並ぶ。土御門天皇より足利義尚将軍へ 「君すめば 人の心の鈎をもさこそはすぐに 治めなすらめ」 鈎の滞陣を慰める歌 長享元年9月12日後土御門天皇への返歌 「人心 鈎のさしこそ 名のおせむ 直たる君が 代に仕へなば」 長享元年12月2日 義尚鈎の陣所 公園に咲いていたスイセン池があるとのことで土手を登る菜の花が咲いていたがため池は柵に囲まれていた8:29この字「上鈎東」は何と読むのかと弥次さんとこの辺りの民家には屋号札が掛けられていた東海道 上鈎村 魚屋「林長三郎」旧東海道を進む東海道 上鈎村 「油屋」8:34右側の民家の塀には、東海道 上鈎村 「米屋 庄兵衛」今日のゴール点はJR大津駅で、途中草津宿、瀬田の唐橋を歩き約18kmの行程と厳しい。 石部宿~大津宿-続く
2020.05.18
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今日のゴール地点JR手原駅まで1キロを割る。3/21(土) 16:49かぎて屋『里内呉服店』所在地:滋賀県栗東市手原3丁目4-31東海道手原村「里内呉服店」の名札建物は「登録有形文化財 この建造物は貴重な国民的財産です 文化庁」里内呉服店は、明治5年創業(1872)~大正11年廃業(1922)し、50年間呉服店をここ手原で営んでまいりました。平成19年(2007)85年振りに呉服店を再開し、創業当時のままの明治町屋を生かし、現在に沿った呉服店を目指し現在に至っています。当店では、着物を1枚1,000円から販売しております。古い着物には独特の模様があり、着る事はもちろんですが、リメイクして洋服や小物、バックのアクセントとして使用する事もできます。着物の他にも、洋服や小物や裂き織り、バックなども置いておりますので、お気軽にご来店ください。また当店で着付け教室もしております。時間等はお気軽にお問い合わせください里内呉服店の西隣に建つ「塩屋藤五郎」、建物の前には『手原醤油顕彰碑』三代目藤五郎 幼名長之助弘化3年(1846)旗本竹中主水家(代官職)生れ。明治維新後27才で栗太第四区長に、明治12年初の県会議員に当選、明治30年栗太銀行を創設、頭取として経済・郷土の隆盛の礎を築く。醤油醸造では家訓を守り、勤倹節約を旨としながら、慈善事業や公共工事には多大の資金を投じられた。明治35年没。四代目藤五郎 幼名菅次郎文久元年(1862)生れ、三代目の弟、家業を引き継ぎますますの隆盛を極める。原料の研究に取り組まれた。大正12年に開業された手原駅には多大な協力をされた。昭和2年没。栗太銀行最後の頭取東海道手原村手原醤油「塩屋藤五郎」の表札家の前に大きな石柱。手原醤油 顕彰碑の側面に「手原醤油歌」あまりにもおいしく、たいへん評判が良いので長文の歌がよまれた(その一部)漢文で書かれており、意味は色はブドウの如く紫にして滑なり、人が食べるすべて益々おいしくなる、王様のごちそうもおいしくなること玉のごとし大きな顕彰碑を振り返る東海道手原村 酒屋「塩?」街道左側に『厚進学校跡』側面に門柱碑学校門柱碑明治8年5月 厚進学校創設明治19年 尋常科手原小学校と改名明治21年 簡易科手原小学校も併設明治26年 早山尋常小学校開設 手原分教場となる明治29年 早山尋常小学校へ統合この地は先人たちの学びの場であり、右に立つ石柱は往時を偲ぶ校門である旧東海道を振り返る、土蔵も大きな「手ハラベンチ」手孕ベンチ伝説が歌舞伎「源平布引滝」に・・・子供を守るため産んだのは手だけだと偽り助けた。(源平の戦いで有名な 後の木曽義仲)子どもを守り育てるベンチ(物語は手原駅舎及びモニュメントを参照)16:53手原稲荷神社所在地:滋賀県栗東市手原3丁目9-1手原稲荷神社の前に、先程の「手ハラベンチ」、「常夜燈」が建つ稲荷神社由緒里中大明神 木造男神座像(明応9年開眼)室町時代当社は、栗東町手原に鎮座、稲倉魂神、素盞鳥尊、大市比売神を祭る。寛元3年(1245)馬淵広政この地を領し勧請する。子孫手原氏と称し代々当社を崇敬、文明3年(1471)同族の里内為経社殿を修し、神域を拡張、天文4年(1535)手原重政武運を祈り尊崇を深める。慶長17年(1612)宮城丹波守豊盛社殿を造営、貞享3年(1686)と享保8年(1723)に社殿の再建あり、明治2年改築、明治9年10月村社に列す昭和61年修復工事を施行。当社は里中稲荷大明神又笠松の宮とも称される。東海道名所記に「左の方に稲荷の祠あり、老松ありて傘の如しなり傘松の宮と言う」と記され、江戸時代は傘松が有名であった左から本殿、拝殿前の広場広場では新型コロナウイルスの関係で自宅待機している子供たちが多く遊んでいた明治天皇御聖跡の石碑この石碑の前にも多くの未成年者が玉垣改修奉賛の碑当、手原の地名は手孕伝説(手を孕む)に由来し、歌舞伎「源平布引瀧」で手原村が東海道々中記でも有名となり、そこに鎮座する稲荷神社・里中大明神を崇拝し、表通りの玉垣も景観と尊厳を保つ位置にあります。幾度かの修復を重ねその都度住民の方々からご協力をいただきました。今回、玉垣屋根部分が傷み、自治会・住民・事業所の奉賛を願い、立派な玉垣に生まれ変わりました。関係各位のご苦労に感謝を申し上げます。この良き時に還暦を迎えた昭和25年生~29年生の有志一同は、手原にまつわる伝説を後世に残しつつ祈願成就の意をもって碑を奉納します 平成26年10月竣工16:55稲荷神社の角から北上するとJR手原駅へ。直進は旧東海道正面にJR手原駅舎17:00手原駅南口ここまでの今日の歩行数は、39,600歩であった駅舎には「ようこそ 馬のまち栗東へ」、栗東と言えば競馬馬!ぶらり 栗東手原駅前にはいろんな石碑が建つ右側に「手原駅の沿革」明治22年(1889)関西鉄道会社の草津~三雲間が開通。後、葉山村会の決議や大宝・治田・金勝村長の請願等力強い運動により大正11年(1922)11月に開駅、里内新助氏一族の土地提供や鉄道構等、地元の協力は多大であった。土地寄進里内藤五郎氏、開設前は一面竹藪と桑畑で、切り開かれホームや駅舎が整備された。古くは栗太郡北東部の中心地で官衛的な性格の地域であった(手原遺跡)。昭和47年蒸気機関車からディゼル車に昭和55年3月には電化された。同57年(1982)には土地区画整理事業により駅前の拡張、南北の自由通路が完成。平成16年10月地元の強い改築要望で新駅舎が完成左側に「手孕(てはらみ)伝説」由来新駅外観デザイン・竣工記念碑 に導入「手の赤ん坊、手が孕ませた村」この奇妙な伝説(十七世紀初頭の文献)により「東海道名所記」にこの地名由来が記され「源平布引滝」は寛延2年大坂にて人形浄瑠璃で初演、歌舞伎でも上演された。平成11年栗東でもこの地が舞台の「手原村秘聞」が上演、百姓九郎助の茅葺入母屋が新駅外観のデザインに導入(さきらオープニング)。この記念碑は駅構内を通る東経136度の子午 線上に九郎助の娘小万が握り守った「源氏の白旗」がモチーフにほぼ400年を経て伝説が甦ったものがたり街道、関西「文化の道」源平布引滝三十三所巡礼 駅舎一番札所駅舎側から見て東経136度の子午線が通る駅右側に「手原(てはら)地名由来」白鳳時代の斉明天皇の頃(655)、名代村造布佐が伊弉諾(イザナギ)命 伊弉冉(イザナミ)命の祭神を勧請して女の腹に毎夜手を置いて唱名したところ男児が産まれた。手孕児といい後、安産の神さまとして多くの参拝をみた(天満社記)。この「手孕説話」が後に変形、表記の手を産んだ手孕村として伝奇話がひろまった。 人口の動態 世帯数明治13年 379人 71昭和29年 572 102昭和50年 1,092 317平成17年 1,612 585左側の石碑平成17年3月、手原駅改築・周辺整備の完成を記念して、手原自治会住民、関係者の協力を得てこの記念碑を建立手孕村伝説 斉明天皇の時代(655)この地を治めていた村造布佐(王)は9人もの女児ばかりで男児を願い、イザナギ・イザナミの神(天満神社)に勧請。腹に手をおいて一心に祈ったところ、男児が生まれた。手が孕ませたとよろこび信心を深めた。・・・・・・・・・古代建物群「手原遺跡」手原遺跡は、異方位の条里を残す約東西700m、南北500mの地域で、商工会館建設により発掘調査の結果、白鳳時代から平安時代前期にかけての寺院域を画す築地跡と思われる遺構、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての堀立柱建物群を、又多量の土器や古瓦・土馬を検出した。更に附近地から平安時代後期の大規模な堀立柱式建物群石鉾帯・巡方等も検出した。これらのことからこの地は旧栗太郡北東域の中心地(役所)であったと推定される17:03手原駅前の南側にある『口称念佛 根本道場 手原山清久寺』所在地:滋賀県栗東市手原4丁目2-2山門から本堂17:05JR草津線「柘植(つげ)行き」が17:26のため駅へ向かうJRきっぷ運賃愛車を貴生川駅へ置いているのでそこまで電車で行くことに、330円明日は瀬田駅からここ手原駅まで来る17:26に乗ることに電車内、今日は土曜日で通勤客はいないようだ17:50JR貴生川駅北口駐車場から貴生川駅ホーム3番線のりばはNHKの朝ドラ「スカーレット」の舞台となった信楽高原鐡道17:51駐車料金は最大24時間で500円、駐車場から今夜のホテルへ向かう18:18国道1号線の栗東水口道路から右前方に近江富士(三上山:標高432m)近江富士(三上山)をズームアップ18:25石部大橋からの野洲川下流同場所からズームアップ18:26石部大橋を渡りホテルへチェックインする前に近くのコンビニで今夜の食料を購入。19:00今夜の宿泊地『ニューびわこホテル』へ到着。所在地:滋賀県大津市月輪1丁目9ここへ連泊して三条大橋へ向かう。ホテルには『大津温泉おふろcafeびわこ座』が併設されており宿泊者は無料で温泉に入れる。「東海道五十三次の宿場町」をコンセプトに、おふろと大衆演劇が楽しめる複合施設である。またレストランもあり、明日は前夜祭で肉を食べ英気を養おうかと。延べ日数30日目の今日は、水口宿からJR手原駅までの歩行数は40,600歩。 水口から石部宿-END
2020.05.17
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今日の歩行数も既に3万歩を越え、今日のゴール手原駅まであと約2キロになる。3/21(土) 15:55旧東海道を進むと前方に大きな建物が現れる。建物の前に石柱『史跡 旧和中散本舗』所在地:滋賀県栗東市六地蔵402門の横に『国指定名勝 大角氏庭園』の説明板書院の南庭(離れ家の西庭)である。正面に芝生張りの大小の築山を配し、背後にツバキ、カエデ、ヒサカキ、・・・略・・・・・根本梅木 本家 ぜさい史跡 旧和中散本舗前で休憩する自転車で訪れた観光客。旧東海道を振り返る旧和中散本舗の向かい側にある『大角家薬師堂』大角家薬師堂に隣接した(西側)、重要文化財『大角家住宅隠居所』隠居所は、真向かいの本屋が本陣として使用されている間、家族の住居に当てられた建物で、江戸時代中期に主屋に引き続いて建てられたと考えられる。その後、所蔵文書より十数回にわたり小修理が行われたことが明らかで、昭和46年には半解体修理が行われ、玄関屋根や台所部分等が復原整備された。・・・・・・・・・15:59栗東八景「積日の海道と城跡」 ~ 新緑の日向山と和中散 ~16:00県道116号線との合流点にある信楽焼の大きなタヌキ横に立っていた人形を持ってきました(笑)街道を振り返り、左が旧東海道、右側が県道116号線旧東海道は県道116号線と並行して100メートルほど歩き右方向へ進む16:04県道と旧東海道との分岐点に『六地蔵一里塚』ここまでの今日の歩行数は36,000歩、今日は4万歩を超えるか?東海道名所図絵「梅の木」江戸時代の東海道沿線のガイドブックに記載されていた六地蔵村の様子。宿場と宿場の間の休憩所である立場がおかれ、梅木立場と称された。「ぜさい」を名のる道中薬、腹薬の「和中散」を商う店があることで、京・大坂・江戸にまで知れ渡っていた一里塚を振り返る16:07旧東海道を進むが陽も下がる右側には「巡査駐在所跡」「修齊学校跡」の石柱『脩齋学校跡』『巡査駐在所跡』の石碑。 手原に造られた厚進学校は明治8年だったが、こちら六地蔵地区には明治6年に『修齊学校』が建てられ、明治24年に簡易梅ノ木小学校となり、明治26年に厚進学校ともう一校の3校が統合されて現在の「葉山小学校」になった。 巡査駐在所は、明治14年六地蔵分署として設置、昭和35年まで存続した東海道六地蔵村「染屋孫右衛門」の屋号旧東海道を進む街道沿いに「古梅堂」弥次さんがカメラを向け撮影ウインドーの中には・・・・・16:13街道から左(南側)へ路地を入り『真宗大谷派 香雲内高念寺』所在地:滋賀県栗東市六地蔵974本堂と親鸞聖人御像住職さんから本堂を開けて頂き中へ入るが本堂内の写真は控えた。真宗の佛壇は金ぴかで立派であった、幅八間?本堂内で若い住職さんと会話 ①たわけの語源を聴く・・・・・遺産相続で田畑を分けることから ②この辺りのお寺は競って太鼓楼を建立していると ③数年前からここの住職になったと本堂前から山門兼太鼓楼を見下ろす木が倒れてそのまま成長した、カイヅカイブキ山門と太鼓楼が一体になっているこのあと住職さんにペットボトルの御茶を1本づつ頂く。ありがとうございました太鼓楼の屋根瓦太鼓楼右側に鐘楼境内のアセビの花16:35右側の民家の屋号は、東海道小野村「五葉の松」16:35先程の寺院も真宗大谷派であったがここも『真宗大谷派 小野山高光圓寺』街道から右側(北方向)へ入る光圓寺山門所在地:滋賀県栗東市小野901鐘楼と本堂本堂前に住職の家族の車か?旧東海道を進むが日影が長くなる、右前方に『小野村 肩かえの松』16:39先程の光圓寺の西側に『真宗大谷派 石谷山西厳寺』所在地:滋賀県栗東市小野900西厳寺は本堂のみが残る、この辺りには真宗大谷派のお寺が続けてあった西厳寺の前に『東海道 小野村 肩かえの松』小野村は慶長年間の東海道整備によってこの地に移る。旅人足等がこの松の木の下で休憩し荷物を担う肩をかえた所である肩かえの松を振り返る屋号の「飴屋」16:43手原一丁目交差点16:46名神高速道路栗東I.Cへの高架、栗東インタは左方向高架下を潜るとすぐに右側に『行者堂』所在地:滋賀県栗東市手原1丁目1行者堂の玄関横には衆議院議員のポスター文政3年(1820)開基、里内九兵衛が大和国より役行者???御告により背負って持ち帰り小堂を建てたのが始まり、??????16:47旧街道を振り返る、人影が長くなる屋号の、東海道手原村地黄煎屋「飴藤」16:48屋号の、東海道手原村「木屋孫四郎」 水口宿~石部宿-続く
2020.05.16
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石部宿から今日のゴールJR手原駅へ向けて進む。町も湖南市から栗東市へ入る。3/21(土) 15:14引き続き旧東海道を進む15:15街道左側に『浄土真宗本願寺派 日向山眞教寺』所在地:滋賀県栗東市伊勢落293山門を入り正面に本堂15:21街道左側に、「中仙道・東海道」の道標15:23右側前方に近江富士(三上山:標高432m)手前をJR草津線が走る、この後JR手原駅から貴生川へ戻るのでここを走る旧街道を更に進む15:25街道右側に『新善光寺道 従是 三丁(約330m)』の道標。新善光寺はJR草津線の北側にあるのでスルーして進む15:27右前方に『浄土真宗本願寺派 楞厳山長徳寺』所在地:滋賀県栗東市林67長徳寺の西側に薬師如来堂長徳寺山門山門を入ると正面に本堂本堂前に「親鸞聖人御像」本 堂本堂の扁額「楞厳山」長徳寺に隣接する『薬師如来堂』街道筋に立っていた、栗太八景漢詩碑『上野夜雨』栗太八景位置図栗東市は、かつて栗太郡と呼ばれ、栗太郡を範囲とする「栗太八景」が、寛延3年(1750)頃に、大橋(現栗東市大橋)慶崇寺の僧 致遠(ちおん)によって選定されています。平成元年(1989)10月、栗東市(当時栗東町)は、『みどりと文化のまち栗東』にふさわしい現在の景勝地として新たに『栗東八景』を選定しました。栗東八景が選ばれてから30年が経過した今日、あらためて栗東八景を見つめなおし、栗東の今昔に思いをはせ、私たちの郷土の歴史や文化遺産を再発見することを願っています。栗太八景漢詩碑の設置場所「手原行人」 手原 稲荷神社手原橋欄干「赤坂帰樵」 小野 赤坂公園砥山夕照「伊勢落晴嵐」 伊勢落 街道筋「上野夜雨」 林街道筋「金山暮雪」 大橋 三輪神社「松島秋月」 大橋 慶宗寺内「蓮台寺晩鐘」 下鈎甲 寺跡「砥山夕照」 北の山 上池15:35新善光寺道の道標と常夜燈看板には300mと旧東海道を進む、この先を左へ直角に曲がる15:37玄関先に『東海道六地蔵村 和中散屋 ぜさい東店大角重蔵』の屋号。六地蔵村の梅木というところは石部から一里あまり、草津へ一里半なので間の宿となっていた。暑気当たりの腹薬として効用のある和中散という道中薬を製して売る店が5軒ほどあった。そのうちの大角家が和中散の本家(本舗)で屋号を「是斎(ぜさい)」といい、小休み本陣でもあった。慶長16年(1611)この近くに滞在した家康が腹痛をおこし、この薬を服用した。痛みが治まったため「腹の中を和らげる」和中散と名を与えた。以来有名になり、行列ができたという旧和中散本舗の先に『六地蔵地蔵尊』所在地:滋賀県栗東市六地蔵600山門前に大正15年(1926)の『國寶 地蔵尊』と刻まれた大きな石碑が立つ重要文化財『木造地蔵菩薩立像』 福正寺(ふくしょうじ)(法界寺)法界寺の本尊である当像は、僧形の丸い顔で、半眼・閉口し、衲衣の端を右肩に懸け、偏衫と裳を着けて直立する。現状では右手に錫杖、左手に宝珠を執る。像高96.5cmヒノキの一木造。平安時代(10世紀)ころの作とみられる。ここ六地蔵の地名となった6躯の地蔵像の一躯であると伝わる地蔵院(旧.法界寺)山門を入り『地蔵堂』六地蔵地蔵堂左右の常夜燈の大きさが違う、奉納時期が違うのか?地蔵堂の扁額は「地蔵尊」本堂左側に、『白龍稲荷大神本殿』旧社は雨漏り等老朽化したため、平成8年8月に新築されました。愛宕さんとは、京都に有る山で、山頂(標高924m)に愛宕神社が祀られています。旧称は、阿多古神社。京都の愛宕神社は、全国に約900社を数える愛宕神社の総本宮として京都の愛宕山上に鎮座され古くより火伏・防火に霊験のある神社として知られています。・・・・・・・・・境内の隅に鎮座する『愛宕神社』15:42街道を進むと左側に『浄土宗 淨玖寺』所在地:滋賀県栗東市六地蔵浄玖寺掲示板山門を入ると鐘楼と本堂本堂前に立つ「旅立ちの法然さま」十三才御姿 父の遺言を胸に、最愛の母と別れ比叡山へ旅立たれる 幼名 勢至丸さま15:45浄玖寺の先に『真宗大谷派 高野山福正寺』所在地:滋賀県栗東市六地蔵574左側には「蓮如上人御?跡」の石柱山門の右側に太鼓楼山門と太鼓楼本堂の前に蓮如上人像、行き届いた立派な松山門の左側に鐘楼、蓮如上人像石造多層塔石造多層塔をズームアップ当寺は真宗寺院であるが、元は金勝寺二十五別院の一つ多喜寺の一院で六地蔵を安置していたと言われ、寛正2年(1461)僧正善のときに本願寺蓮如の教化に帰して真宗道場となり、後に親鸞の弟子円鸞が開いた松原興敬寺の配下に入ったと伝えられる。当寺にある層塔は、塔身に四方仏を配し本来九層塔であったと思われ、笠の第四・六・七層と相輪部が失われているものの、鎌倉時代末期の美を今に伝える貴重なものである本堂前からの松太鼓楼、山門、蓮如上人像弥次さんから、蓮如上人には数名の奥さんがいたと・・・・・・・・・・ 水口宿~石部宿-続く
2020.05.15
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石部宿の田楽茶屋で昼食を摂る。3/21(土) 13:53田楽茶屋の店内所在地:滋賀県湖南市石部西1丁目8-19営業時間:10:00~16:00 定休日:月曜日(但し、月曜日が祝日の場合は翌日)豆腐田楽が有名であるいろんなメニューがあったが、『本日の御食事 鶏肉とキャベツのクリーム煮』をオーダー本日の御食事『鶏肉とキャベツのクリーム煮 ¥800』近所のおばさんたちで営業しているのか、野菜が多く美味しかった!田楽茶屋の女将さんが描かれた「メジロ」色鉛筆で描いたとのこと寄贈「いしべえどん」 絵手紙作家 木原 順 作(湖南市宮の森在住) 平成28年11月14:28食事を終え、今日のゴール「JR手原駅」に向け出発石部宿 鉤(かぎ)の手道京都方面から来て、見附を過ぎると街道が鉤の手に二ヶ所設置されていて、敵がむやみに侵入しにくい構造になっていた。石部宿には街道に八ヶ所の交差点があったが、宿内を見渡せない遠見遮断で防御の役割をはたしていたこの角を左方向へ進むハクモレンが満開に我が家のハクモクレンは既に散っているが14:31石部一里塚跡慶長9年(1604)東海道が整備された翌年に、西横町宮道が東海道を出た所あたりに設置されていた。北側には榎、南側には椋の木が植えられていたが、明治2年に宿駅制度が廃止された時に撤去された。一里塚はこれより西は梅ノ木の立場にあった。東は夏見の立場にあった。ここは江戸から116里(約464km)にあたる14:32石部西交差点石部西交差点からの南側、進むと『湖南市 歴史民俗資料館』がある14:33石部西交差点を横切るとすぐにある『西の見附跡』見附は、枡形城門の俗称で、番兵が通行人を見張るところから「見附」と言われています。東の見附より西の見附の間が石部宿であり、宿場の街頭の出入り口にも見附が構築されたが、それは土手状のもので、石部宿の場合、東西二ヶ所にありました。見附の西側には、目見改場が設けられていました14:35街道の右側に『愛宕神社』愛宕神社は「鎮火」の神様で、現在、石部には15か所の「愛宕さん」があります扁額の「愛宕神社」14:38旧東海道を進む、前方に近江富士(三上山:標高432m)旧東海道沿いの電柱には「いしべえどん」で道案内14:40東海道石部宿 西縄手跡所在地:滋賀県湖南市石部西2丁目8-15石灯籠には「石部宿」石部宿 西縄手繩手とは、立場から立場の道の事を言い、石部宿の西にあたることから西縄手と呼ばれていました。江戸時代、ここは宿内に入る前に参勤交代の為の大名行列を整列した場所で、長い松並木がありました日本橋から京都までの、歌川広重の東海道五十三次の絵京都までは、石部宿 → 草津宿 → 大津宿 → 京都街道脇の桜開花前の枝垂れ桜、まだつぼみは硬いようだ14:44旧東海道はこの先を左方向へ進む街道脇に、宮川美化活動取り組み区域「ホタルが飛び交う美しい宮川を守ろう!」14:45宮川に架かる「五軒茶屋橋」五軒茶屋橋の手前に立っていた『五軒茶屋道と古道』天和2年(1682)8月出岩地先で大洪水により東海道が流出して河原となる。天和3年4月18日、約半年後に新道を膳所藩本多氏が南側に着工するが、崩壊した前東海道より約2倍の二キロメートルの距離となった。新道が山の中を通過するために安全を願って、元禄2年(1685)五軒の茶屋が石部宿より移転することとなりました。明治4年(1871)には新道の距離が長いために旧道が整備されて今までの東海道が復元された五軒茶屋橋この橋を渡り南下する道を「上道」といい、約700~800メートル先に『五軒茶屋跡』がある旧東海道を振り返る。『上道と下町』当初の東海道は野洲川沿いに直進していたが、天和2年(1682)の洪水で川が氾濫して通行できなくなり、山の南側を迂回する上道が造られ、石部宿から五軒の茶店を移転させた。以来上道が本道となった。京方面に進み、上道は五軒茶屋橋を渡るところから始まる。その先集落があるあたりに石部から移転した五軒の茶店があったと思われる。京方の上道と下道が合流したあたりから北を向くと、近江富士(三上山・標高432m)が見える上道は大きく迂回するので下道を進むことにする。高架は、国道1号線の栗東水口道路宮川に架かる『宮川橋』を渡る14:49石部大橋手前の交差点14:59宮川橋を渡りしばらく何もないので右側にJR草津線に沿って、約1キロ歩く街道沿いにこのような「赤い木の鳥居」があったが何を?赤い旗には「 ⛩ ごみを捨てないで!!」とあるので、不法投棄させないための木の鳥居か柳も新芽15:01前方から大きな集団が、みなさんマスクをつけ。高架は名神高速道路JR草津駅あたりから来たのか、20~30名のツアーであろうか名神高速道路のカルバートを潜り抜け旧東海道を進む15:07右側をJR草津線が走る、今日のゴール手原駅までは後約一里か?遠方の建物は『ダイトロン㈱ コンポーネント事業部』所在地:滋賀県栗東市伊勢落689-1道路の、汚水管マンホール蓋「りっとう」道路脇に市境の標示が無く、いつのまにか湖南市から栗東市に入っていた。マンホールのデザインは、メジロ・貝塚伊吹と栗東市の花「きんせんか」旧東海道沿いに川が流れていたが、野菜等を水洗いするための石段か?サンショウの花荷車に積まれたこれは?川を堰き止めるための合成木材に見えたが15:12街道右側には「栗東市 ここは伊勢落」 水口宿~石部宿-続く
2020.05.14
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県道113号線と交差する、石部中央交差点にある広場。所在地:滋賀県湖南市石部中央2丁目1-2歌川広重の保永堂版「石部」3/21(土) 13:30交差点の角には広場がありいろんな説明板が立っていた石部宿 石部城跡亨禄年間(1528~1531)に築城され、城主は石部久綱。佐々木承禎と織田信長の戦いで、信長の家臣佐久間信盛に攻め込まれ、元亀元年(1570)に落城し、三年後の天正元年(1573)に廃城した。貞亨元年(1684)城跡の北側に建立されていた菩提寺を移転し、現在の善隆寺として一部石垣が残っている(ここより南へ約100メートル行ったあたり)。石部氏は約40年間城主であった石部宿 高札場跡高札場とは、幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、人目のひくように高く掲げておく場所で、現在の県道113号線(とんや道)と旧東海道の交差点の道路の中ほどのあたりで問屋場の横にあったと伝えられている。約80cm程度の石垣の上にたっていた。元禄の頃は、みのや橋の横にあったが、いつの時代か問屋場の横に移転された石部宿 お半長右衛門京都の帯屋の主、長右衛門がお伊勢参りに行く途中で宿泊した石部宿の旅籠(出刃屋)で、丁稚の長吉に言い寄られるお半をかくまったことから二人は結ばれることとなった。しかし、妻のいる長右衛門との道ならぬ恋に苦しんだお半は死を選び、遺書を見た長右衛門もお半の後を追い心中を遂げる。この石部宿に伝わる悲恋の民話の舞台となった旅籠は、問屋場より西の方角にあったと言われている石部宿 安民米倉庫(あんみんまいそうこ)明治13年に服部善七氏により、安民米(救済米)制度が創設されました。植付時に百姓は食べるものが無く、安民米を一農家に一俵ずつ貸与、収穫時に年貢として五升をおさめ、その五升は教育費に充てられました。現在は、雨山文化運動公園内にある宿場の里に安民米倉庫が再現されています右側の壁面にはタイル絵が三枚東海道五十三次「石部」 田楽茶屋にて 歌川(安藤)広重芭蕉句「都つじいけて その陰に 干鱈さく女」東寺 長壽寺長壽寺は僧良弁によって建立されたといわれ、聖武天皇の御子降誕により子安地蔵尊を安置する国宝寺院です西寺 常楽寺千手観音菩薩を本尊とする常楽寺は、金粛菩薩の開基といわれ、本堂と三重塔が国宝建造物です石部中央交差点の北方向、旧東海道は左方向へ進む石部中央交差点を横切るとここにも説明板が立っていた。石部宿 問屋場跡石部宿の問屋は、人馬・伝馬・荷馬を集めて宿の業務(継立事務)を行なうところを問屋と呼び、いつも役人が3名~5名程在中し人馬の継立をする必要な仕事を分担して賑わっていました。場所は、石部中央の信号から北へ百メートル程の砂川の東側にあったが、後に信号の北西の角あたりに移ったと言われています石部宿 常盤館跡石部中央道の辺広場より南へ約五十メートル行った殿城道あたりにあった。二階建てのかなり大きな建物であり、席は前列の左右が一等席、その後ろが二等席で中央が桝席になり、一番後は三等席で、その他は桟敷席になっていた。二階は特等席であった。中央に廻り舞台が設置されており、このような規模の芝居小屋はこの付近にはなく、遠方から観客が集まったと伝えられる。大正8年に火災により焼失し、その為に当館の資料はなにも残っていない石部中央交差点を振り返る旧東海道 石部宿 ~ 東海道第五十一番目の宿場町 ~この辺りには寺院・神社が多い愛宕神社は「鎮火」の神様現在、石部には15か所の「愛宕さん」があります。昔、「石部宿」では何度か大きな火事が起こり、二度と大火を出さないようにとの願いから愛宕信仰を強くしたのだと言われています。毎年7月23日にはお祭りが行われますが、その由来は愛宕神社の御神体である「将軍地蔵」さまの命日が7月23日であることからきています石部宿 三大寺本陣跡参勤交代の制が定められる7年前の寛永5年(1628)より、明治3年(1870)までの242年間営業した。幕末の図面によれば、間口18間半(約33.5m)、奥行き東方29間(約52.5m)、西方20間(約36m)であり、建坪数は小島本陣より少ないが、畳敷き室数では変わらず、収容数は同等であったと考えられる。焼失・再建を繰り返し営業した13:36左に「いしべ宿駅」、無料休憩所になっている中に入り見学この後、右方向へ進むいしべ宿駅を振り返る街道左側に『明治天皇聖跡』お石柱、右側に『小島本陣跡』の立札東海道五十三次 石部 目川ノ里五十一番目の宿場として、二軒の本陣、六十二軒の旅篭、二百余軒の商家で栄えた所です石部宿 小島本陣跡石部宿には、幕府直轄と膳所藩直轄の二つの本陣が置かれ、全盛期には216軒の商家や62軒の旅籠が並び、東海道51番目の宿場町として栄えました。数多くの大名や明治天皇なども宿泊した小島本陣は、慶安3年(1650)に創建されましたが、膳所藩主本多俊次、康将二代に対する小島氏の顕著な奉公により承応元年(1652)に本陣職を許されました旧東海道を進む、古民家の二階は「虫籠窓(むしこまど)」街道左側に『真宗大谷派 浄現寺』街道を振り返る、浄現寺は街道から離れているのでスルーすることに13:42浄土真宗本願寺派 平野山明清寺明清寺の太鼓楼、山門所在地:滋賀県湖南市15鐘楼と本堂明清寺から旧東海道へ戻る旧東海道に戻り直ぐ左側に『浄土宗 真明寺』この辺りはお寺が多く隣接している真明寺山門所在地:滋賀県湖南市石部西1丁目5-23本 堂本堂には「甲賀組第一部法然上人二十五霊場 第十六番」本堂の扁額「青木山」本堂前から石段を登り鐘楼の後方(東側)には「明清寺」「浄現寺」の本堂が建つ真明寺の境内に、芭蕉句碑 「都つしいけ亭 曽能蔭尓 干鱈さく女 者世越」石碑は寛政8年(1796)7月石部躑躅社中が建立。躑躅社は句の「つつじ」からつけた名称と考えられる。真明寺には芭蕉の位牌も残っている。句意:山から手折ってきたのであろうか、つつじを井戸端の手桶に、こぼれるばかりに生けて ある。その花の影で女は食膳の用意であろうか、白い干鱈をさいている。 「者世越」は「はせを」と読み「芭蕉」のこと。松尾芭蕉(1654~1694)が近江を始めて旅した旅行記『野ざらし紀行』で、貞享2年(1685)に湖南市石部に立ち寄った時の句。手折ってきたつつじの下で、活き活きと働く女を見事に切り取って見せている街道に戻り進むと旧東海道は右方向へ13:53角に『田楽茶屋』所在地:滋賀県湖南市石部西1丁目8-19現在の田楽茶屋は、浮世絵師の歌川(安藤)広重「東海道五拾三次」で石部の田楽茶屋が描かれており、それを元で再現した石部宿 田楽茶屋石部宿は、東海道51番目の宿場町として栄えました。歌川広重が天保3年~4年(1832~1833)の時、東海道を55枚の風景道中画で表し、田楽茶屋は石部宿の象徴として紹介されました。栗東の岡に「京いせや」「こじまや」「元いせや」の三軒の代表的な田楽茶屋があり、ここは平成14年旧石部町制百周年記念事業として再現されました昼も過ぎ、休憩も兼ね昼食を摂ることに。3/21 本日の御食事 ¥800 ・鶏肉とキャベツのクリーム煮 ・パイナップルと生野菜のサラダ ・春雨のピリ辛炒め 湖南市石部の伝統・郷土食復活『芋つぶし』田楽と喫茶本日の御食事『鶏肉とキャベツのクリーム煮』を注文する14:00店内から旧東海道を振り返る 水口宿~石部宿-続く
2020.05.13
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柑子袋の落合川を渡りいよいよ石部宿へ入る。3/21(土) 12:50旧東海道と県道119号線との「石部東交差点」ここまでの今日の歩行数は、24,400歩石部宿は51番目の宿場町である。奈良時代以前から大和地方との交流が盛んで、慶長6年(1601)に東海道の宿駅となった。江戸初期は幕府天領だったが、元和7年(1621)膳所藩領となった。「京立ち 石部泊まり」といい、京都からは最初の宿泊の宿場だった。町並みに長さは15町3間(約1.6km)の宿で、幕末の全盛期には商家216軒、旅籠屋62軒を数えた。本陣の一つ、小島本陣の規模は建坪775坪で、表門、裏門、番所などがあり、玄関、大広間など26部屋もあった。東海道のなかでも豪壮鮮麗な建物であったと道中記に記されている。石部東交差点を横切り街道を進むと小さな「愛宕神社」。現在、石部には15か所の「愛宕さん」がある12:54旧東海道を振り返る。街道脇に説明板があるが移動しやすい状態だ石部宿東の見附跡東の見附は目川屋より約30メートル東にいったあたりで、道路の中央付近まではみ出していた巾3メートルばかり高さ2メートル程度の台場であり、石部宿場の両入口にあった。枡形城門の俗称で番兵が通行人を見張るところから「見附」と言われた。石部宿には東西二ヶ所に設けられていた水口宿と石部宿のあいだが3里18町あまり(約13.1km)とやや長かったため、二宿場のあいだには夏見立場があった。背後の山から筧(かけい)で水を引き、心太(ところてん)を冷やしながら、水の力で動かす人形水カラクリが名物だった。茶屋では夏見の名酒「桜川」を出した。湖南市の汚水管マンホール蓋。宿場町を再現した「雨山文化運動公園」、その歴史をかたる「歴史民俗資料館」をバックに、「町の花(サツキ)」を描いた旧石部町のデザインで、中央下部の町章が入っていたところに合併後の市章が入っている12:57街道左側に『𠮷姫神社』の一の鳥居所在地:滋賀県湖南市石部東8丁目4-1一の鳥居、奥に二の鳥居一の鳥居の扁額「𠮷姫神社」二の鳥居二の鳥居、右側に社務所𠮷姫神社(よしひめじんじゃ)社務所創建年代不詳だが延喜式に載る古い神社で、上鹿葺津姫大神、吉比女大神、木花開耶姫を祀る。社殿は戦国時代に焼失し、天文3年(1534)この地に移転して再建。江戸時代は上田大明神と称し、通称は吉姫大明神と呼んだが、明治元年に𠮷姫神社と改称した。1kmほど先にある𠮷御子神社と一対を成し、石部社と呼んだ。本殿は再建当時のままで、木造の狛犬は南北朝時代に造られたという祭 神 上鹿葺津姫大神、吉比女大神配祀神 木花開耶姫例 祭 五月一日 勅使記念祭 九月二十一日拝殿前から石段を登り本殿へ本殿前のこの建物は?中央に「𠮷姫神社 本殿」室町時代・天文3年(1534)の再建、一間社流造、間口一間三尺、奥行一間一尺𠮷姫神社と右側に「世継神社」ケースに入った狛犬 ?扁額の「世継神社」左:末社 出世天満宮、中央:𠮷姫神社、右:摂社 世継神社末社 出世天満宮𠮷比女神社本殿前からの拝殿、拝殿は入母屋造、間口三間、奥行三間鍋焚きの釜か?境内横には稲荷社拝殿横から、宝蔵があり「神輿(市文化財)」を保管拝殿から二の鳥居拝殿から本殿13:14真宗大谷派 西福寺所在地:滋賀県湖南市石部東8丁目2-3ここのお寺にも山門右側に太鼓楼がある山門を入ると左側に「親鸞聖人像」が立つ手水舎と本堂本堂の右側(北側)に鐘楼山門を下りる石部宿の旧東海道を進む13:21街道を進み左側に入ると『真宗大谷派 上田山 蓮乗寺』所在地:滋賀県湖南市2山門、鐘楼が建つが改修されたのか比較的新しい本 堂境内の右側に「勅願所石碑」弘仁年間(810)嵯峨天皇の願いにより善生上人(大塚善生)天台宗延暦寺派上田山蓮乗寺を開基。元和5年(1619)了達上人(大塚了達)茶臼山吉比女の地から鵜目ケ澤十禅寺の地に御l廟を遷し真宗に転派、浄の字を乗に変更サンショウの花サザンカもきれいに旧街道に戻り、新古美術13:28街道北側に『竹内酒造』所在地:滋賀県湖南市石部中央1丁目6-5北島酒造と並び知られている造り酒屋旧東海道を振り返る石部中央交差点へ向かう 水口宿~石部宿-続く
2020.05.12
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南照寺・松尾神社を参拝を続ける。このあと、旧街道に戻り西へ進む3/21(土) 12:01松尾宮拝殿松尾神社松尾神社略記文徳天皇の仁寿3年(853)当時の領主藤原頼平が山城国の松尾明神を美松山に勧請した。至徳3年(1386)今の地に遷座。現在の社殿は文政4年(1821)10月四度目の再建にかかる。主祭神大山咋尊は、山末大主神ともいい土地の守護神である。旧祠祉美松山一帯に生育するウツクシマツは松尾神社の神木と崇められており大正10年(1921)天然記念物に指定された。平松の地名の起りは、松尾神社に由来しているという方向を変えて桜の蕾も大きくなり数輪は咲いていた12:10旧街道に戻り、右側に「うつくし松」うつくし松の自生地まで、0.9kmもあるのでスルーする。またいつかチャンスがあれば訪れてみたいものです12:12真宗大谷派 淨休寺街道から山門だけを望む。弥次さんは山門まで行くが門が閉まっているとのことで引返す街道を進む高木陣屋跡元禄11年(1698)、道中奉行に任命された高木伊勢守が、元禄12年(1699)に平松を領するようになった。その後、文化年間(1804~1817)に宏壮な二階建ての陣屋を建てたが、明治維新後、個人の所有となり建物が取り払われた。しかし、陣屋の門は、その後所有者が転々とするが、現在は、三雲の郷内にあるレストラン入口の門として再移築されて、当時の面影を残している12時過ぎの昼食時で人影もなくひたすら西へ向けて歩く12:17街道脇の石碑には昭和32年4月1日、この地にて青木善政運送店を開業する。当時25才。昭和48年12月に将来の発展を目指し、現在の国道に移転する。甲西陸運株式会社と改名して現在に至る。本人が石碑を建てられたようだ街道を振り返る古民家が続く、八島子供会の看板も二階が低く北側に窓がない12:23街道沿いの北側に『真宗 大谷派 平等山愍念寺(みんねんじ)』所在地:滋賀県湖南市柑子袋695山門と太鼓楼左は、太鼓楼でこの辺りのお寺は競って太鼓楼を建てていると(住職より)。日本橋から歩いてきたが、このような太鼓楼は今までなかかったのではなかろうか山門を入り鐘楼愍念寺(みんねんじ)本堂構造形式:桁行 15.99m、梁間 13.87m、一重、入母屋造、妻入、銅板葺(元茅葺)、 向拝一間、外陣三方縁庇、内陣三方庇付属、桟瓦葺建立年代:江戸時代中期(18世紀前期)愍念寺の前身は文治元年(1185)に大澤幽順によって八島より移り平等山極楽寺(天台宗)を再興し、文亀元年(1501)10代目になる大澤房教西(金ケ森道西の次男で当寺の養子となる)が、本願寺実如に帰依し、浄土真宗に改宗し一宇を建立して平等山愍念寺と改称した。その後、元和5年(1619)に寺地を現在地に移して再建したと伝える本堂の屋根茅葺の上に銅板葺を行っている本堂前から山門と鐘楼、右手前に太鼓楼がある12:35愍念寺を出るとすぐに南側の路地を入ると『八島寺地蔵堂』所在地:滋賀県湖南市柑子袋871天平3年(731)、良弁僧正が夢のお告げによって彫られ創建されたという。寿永の頃(1182)あの屋島の浦の戦いの後、平家の女官らが六道の態化、衆生済度のために建てたとも言われている。台座は42cm、像高は130cm、丸いお顔と胸部には白色が塗られ、清楚な感じがする。約400年近く経っている地蔵尊である12:35愍念寺の西側にある『浄土真宗 本願寺派 紫雲山光林寺』所在地:滋賀県湖南市柑子袋780山門の東側に駐車場がある山門を入ると旧鬼瓦本 堂本堂の扁額「紫雲山」旧東海道の右角に道標があるが、字は判読できず12:38旧東海道から右側(北側)へ路地を入りこの辺りにはお寺が集中してあり「紫雲山光林寺」の西側に隣接してある。淨土宗 白雲山養林寺所在地:滋賀県湖南市柑子袋703五重相伝:令和2年5月2日(土)開白、 6日(水)正伝法 勧誡師:福岡・宗像市 善徳寺 香林貴法 上人新型コロナウイルスの影響で開催はどうなったか?町指定文化財「木造阿弥陀如来立像」養林寺(浄土宗)は、正暦2年(991)10月15日に僧心晁が創立した。応仁2年(1468)浄土宗鎮西派となり、西阿弥法師が再興して白雲山養林寺と号する。その後、天和7年(1621)に庵の口より現在の地に清玄がが再興した。木造阿弥陀如来立像は、本堂の須弥壇上に江戸時代作の来迎形脇士を随伴して安置されている当寺の本尊で、像高39.1cm、平安時代末期の作と推測される。尊像は、穏やかな作風で現状では古色を呈しているが、その下には漆箔が認められ、彫眼では材質は檜材製と推測される。また、頭体幹部は1材製とし、内刳りは行われていない。当寺には、「応仁二年戊子五月十日草庵再建」銘の額が残されている本 堂本堂扁額の「白雲山」12:42旧東海道に出て緩いカーブを進む街道を振り返る街道の左側に石常夜燈が一対、石柱には『葦穂(しほ)神社』神社までは片道600m、約7分かかるのでスルーすることにする休憩所に掲示されとぃた『上葦穂(かしほ)神社』孝徳天皇の白雉元年に阿星嶽より五色の旗が降り、祀られたのが創祀と伝えられている。この御幡の降りた地を天神幡と言い、近くに「御幡塚」として現存している。祭神は伊邪那岐命、本殿は一間社流造り、神紋は左三つ巴、下り藤12:45葦穂神社の石柱前にある「おやすみ処」現在地は旧東海道の左の「きずな街道休憩所」12:48柑子袋の落合川落合川橋いよいよ石部宿へ入る。 水口宿~石部宿-続く
2020.05.11
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旧東海道(きずな街道)を進む。現在地は針公民館辺り(黄色矢印)3/21(土) 11:36昼前で人影もなく旧東海道を進む街道から南側へ入ると『飯道神社』11:37敬應寺所在地:滋賀県湖南市針679寺の名前を刻んだ石碑山門を入り本堂11:38街道南側に地蔵堂石像に赤い衣装を着せ、菜の花を供えていた11:40街道の先に造り酒屋北島酒造株式会社所在地:滋賀県湖南市針756登録商標「御代栄(みよさかえ)」で老舗の造り酒屋許しを得、工場の中へ入る昔ながらの建築様式の工場、右奥には庭園も造らていた軒先には杉玉、また店先に水が出ており「神聖な水です。直接に口で飲んだり、手やハンカチなどを洗わないでください」といろんなお酒を試飲できたのだが、飲むと歩けないのであきらめる。弥次さんは既に先を歩くJR草津線「甲西(こうせい)駅」の南側右の看板には、「五軒茶屋橋 4050m ← 東海道 → 4110m 横田渡跡常夜灯」11:44ここを右に行くと100mほどで甲西駅家棟川(やのむねがわ)に架かる家棟橋街道南の上流側国指定天然記念物『うつくし松』平松に自生する赤松の変種。根から放射状に出て傘をひらいたような美形の松で、その名も「うつくし松」。大小二百本が群生し、日本でここだけしかなく、国の天然記念物に指定されています。平安時代、体が悪く弱々しい生活を送っていた藤原頼平という青年がこの地を訪れたとき、美娘が突然現れ、松尾神社のつかいで頼平のお供を命じられたといって姿を消した。当たりを見ると周辺の木々が美しい松に変わったという。この地を頼平の平と美松の松をとって平松となったと言われています家棟川隧道扁額この場所から東約50m先の交差点付近には、以前天井川の家棟川があり隧道(トンネル・マンポ)がありました。旧東海道の家棟川隧道は、長さ21.8m、高さ3.6m、幅4.5m、欠円アーチ断面で両側壁とも花崗岩切石積みで、1886年(明治19年)に築造、家棟川の平地化に伴い1979年(昭和54年)3月にその姿を消しました。当時のものとして、県令(知事)中井 弘筆「家棟川」の扁額(題額)が、ここに残されています。現存する隧道は、1886年(明治19年)に竣工した由良谷川隧道と1884年(明治17年)竣工した大沙川隧道の二ヶ所で、国指定重要文化財に相当する土木遺産と評価されています。 中井 弘(1839~1894) 1884~1890年 滋賀県令・知事を務める。 日本の武士(薩摩藩士)、外交官、政治家。 書家としても知られ、鹿鳴館の名付け親でもある。家棟川橋の旧橋の扁額橋を渡り振り返る11:50街道脇南側に、「松尾神社、南照寺、西照寺」の案内表示街道を左側に入るとすぐに浄土宗 平松山 西照寺所在地:滋賀県湖南市平松310木造阿弥陀如来立像西照寺(浄土宗)は、天文6年(1537)応誉明感の開基で、平松山と号する。阿弥陀如来立像は、正面の本尊(木造阿弥陀如来坐像)に向って右脇壇の厨子に安置されている。当時の什物帖には聖徳太子の作と記されているが、製作年時ははっきりとしない。尊像は、上品下生の印相で、良く整った姿である。像高は84cmで、室町時代の作といえよう。当寺は、平松の通称高木陣屋の領主である高木伊勢守の菩提寺で、高木家過去帖が残されており九代・高木松雄公の墓がある。また、平松の代官で俳人としても知られている奥村亜渓と妻・志宇の墓及び句碑も境内にある。志宇女は、30年間にわたって知名士から集めた、うつくし松の吟詠集『千歳集』(町指定文化財)を残している山門からの本堂本堂の扁額「平松山」俳句を通じて「うつくし松」を世に紹介した奥村亜渓と妻・志宇 句碑 「卯の花に すそすれすれて 更衣」 「五月雨に 草木のこころ 引き立てる」本堂前から左側の高台へ、「☜ 芭蕉句碑」の案内板石段を上がり鐘楼、「☜ 芭蕉句碑」松尾芭蕉 句碑松尾芭蕉 句碑 「ものいへは 唇寒し 秋の風 はせを」 1980年(昭和55年)5月、美松山人(西照寺住職 源信彦)建立元禄4年(1691)、芭蕉49歳の句人の短をいふ事なかれ 己が長をとく事なかれ他人の非をなじったり自分の優れたことなどをしゃべらないとの意味西照寺の山門11:56西照寺の山門前の坂を登ると「松尾神社」「天台宗 南照寺」の石柱奥に松尾神社の一の鳥居所在地:滋賀県湖南市平松264&263参道に並ぶ献燈桜も咲き南照寺・松尾神社桓武天皇延暦24年(805)宗祖伝教大師美松山麓に草堂を建立、これが南照寺の開基である。のち文徳天皇の仁寿3年(853)領主藤原頼平、山城の国より松尾明神を同所に勧請し、南照寺はその神宮寺となった。至徳年間(1384~1387)火災により焼失、至徳3年(1386)現在地に再建、現在地は元、岡之山城跡である。天然記念物の「うつくし松」は当明神のご神木として地域住民は信仰し山林を守っている。本尊薬師如来は秘仏で33年目に開扉、内陣には本尊を中心に十二神将、不動明王、神変大菩薩、十一面観世音菩薩等を祀り、他に本坊お内仏に阿弥陀如来を祀り、減罪の道場を設けている参道を進む山門から松尾神社松尾宮別当 南照寺山門を入ると右側に『南照寺本堂』本堂の扁額「平松山 南照寺」本堂に掲げられていた「平松城阯の研究」平松山南照寺 薬師如来御詠歌「はるばると尋ねてまいる岡乃山薬師のひか王尊とかりけり ・・・・・・・」本堂右側に芭蕉の句碑が建つ松尾芭蕉 句碑 「西行の 庵もあらん 花の庭 はせを」元禄6年(1693)、芭蕉51歳の句屋敷の庭には大きな桜があり、その見事さは吉野の山を思い出させる。西行もこんなところに居を構えていたであろうと想像し、招かれた人の庭をほめた句 水口宿~石部宿-続く
2020.05.10
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盛福寺から旧東海道を石部宿へ向けて歩く。3/21(土) 10:55夏見案内図夏見郷:その昔「和名類聚妙」によると「奈豆美」とよばれていた。現在地(矢印)から右斜め方向へ旧東海道(きずな街道)を進む夏見の里上記絵は『伊勢参宮名所図絵』で寛政9年(1797)のものである。場所は、『夏見の里立札』(屋号:いなりやさん)街道沿いには「木匠」 ◆伝統工法建築 ◆社寺建築 ◆古民家再生 ◆木材特殊加工街道沿いの古民家を保存するのはこのような匠がおられるからだ!大工さん・見習い・監督・アルバイトの募集貼り紙があったが。『井上工務店』所在地:滋賀県湖南市夏見1584二代目棟梁が伝統工法の建築技術を受け継ぎ、木にこだわった住まいの良さを現在に伝えている10:58湖南市立三雲小学校旧東海道(きずな街道)を進む11:00ひたすら歩く弥次さん、今日も元気だ!ミラーに映る我が姿左側に立札があるが11:02夏見一里塚ここまでの今日の歩数は、17,700歩道路面に約30cm四方のコンクリート枠夏見一里塚この夏見の一里塚は江戸の日本橋から115里の地点にあり、東の先は水口(泉)に、西の先は石部にそれぞれ一里塚があります。しかし、多くあった一里塚も明治以降は保護されず、道路の拡張や開発によってなくなり、そのまま残っているのはごく僅かで、この一里塚のように跡地を示すだけになっています。この写真は数少ない愛知県名古屋市にある笠寺一里塚で、このような塚がここにもあったと想像されます湖南市夏見会館一里塚から西へ70mの所にある『石部宿一里塚』の案内板。この辺が夏見の立場といわれ、ここでも何軒かの茶店があり、立場の役割を果たしていた。名物トコロテンや名酒桜川を売っていた。又ここから約70mばかり東に行った所に一里塚があった。道路南側に約30cm四方のコンクリートの枠が埋められている。一里塚に植えられた榎の木陰で旅人はトコロテンを食べながら一休みした場所である11:09左側に『覚蓮寺』の石柱があったが先へ進む弥次さん前方に『由良谷川隧道』が見える由良谷川隧道の手前右側に『真宗本願寺派 報恩寺』所在地:滋賀県湖南市夏見1443報恩寺山門山門から本堂本堂の右側に親鸞聖人本堂の扁額「龍王山」本堂への廊下本堂前からの山門親鸞聖人御像浄土真宗宗祖の親鸞は9歳で出家して比叡山に登った。そこで20年間も修業を積んだが、比叡山にいても求めるものが得られないと考えて山を下りる。そしてちょうど専修念仏の布教をしていた法然のもとを訪ね、弟子になった。親鸞は法然を厚く慕い、一緒に専修念仏の布教活動に身を投じた門前の掲示板には「コロナウィルスに気をつけよう」由良谷川隧道大沙川隧道の二年後の明治19年竣工、花崗岩で出来た切石を追石に使用しているどっしりとした重厚な造り。由良谷川は野洲川に合流する河川で東海道の上を流れる天井川である、毎年辺りは紅を差したような明るくなる見事な桜並木であるトンネルの上には「由良谷川」東海道由良谷川隧道(近代土木遺産)桜並木の桜は硬いつぼみ、道標は「新田道」ハクモクレンも咲き11:17由良谷川隧道を潜り振り返る。由良谷川は天井川から流れを平地に変えたようだ新しい由良谷川に架かる新由良谷川橋由良谷川は下流で家棟川と合流して家棟川となり野洲川へ旧東海道を進む11:22街道脇に『子安地蔵尊』の石柱11:23針文五郎顕彰碑天保13年(1842)10月14日から16日、野洲、甲賀、栗太三郡の百姓が幕府の不法検地強行に対し蜂起した天保一揆である。この首謀者11人が最高裁の江戸送りとなる。針の文五郎は十万日検地日延べ書持参の罪であった。一番駕籠は文五郎で道中3人が死亡し、江戸の白洲で8人が拷問にあいながら不法検地を訴え続けた。しかし、全員獄死した。針の文五郎は人一倍正義感の強い指導的立場の精農家であった。天保14年4月18日死亡行年50歳11:25旧東海道(きずな街道)の右側に『針公民館』所在地:滋賀県湖南市針休憩所になっておりしばし休憩現在地は中央部11:30真宗本願寺派 西教寺所在地:滋賀県湖南市針765山門前の掲示板山門から本堂浄土真宗本願寺派の清光山 西教寺親鸞聖人御尊像本堂の脇に太鼓11:33旧東海道に戻り街道脇に「西光寺」の案内西光寺の山門浄土宗 和厳山 西光寺西光寺本堂西教寺本堂 水口宿~石部宿-続く
2020.05.09
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JR草津線に沿って石部宿へ向かう。3/21(土) 10:25旧東海道の北側に位置する立派な門構えの住宅。丁度お出かけになる奥さんと立話をし中の庭を見せてもらうことに。旧東海道沿いの門は、どこかの門を移築したのか立派中庭の門この門も移築されたのか中門を入ると灯籠、井戸、さつきも植えられた庭園オヤジさんが収集したとのこと椅子もありお茶を飲み休憩したかったが、主が出かけられたので早々に引き上げる10:27旧東海道に戻ると左手に「吉見神社」の石柱。この神社も街道から南側に離れているのでスルーした旧東海道を進むと前方にトンネルが見えてくる、右側に地蔵堂天井川の大沙川隧道10:30大沙川(おおさがわ)川床が平地より高い川を天井川という。大沙川は草津地方に多い天井川のひとつ。上流が風化の進んだ花崗岩地帯で、樹木の過剰な伐採により土壌が浸食され、大雨のたびに大量の花崗岩の土砂が川に流れ込み川床が上昇した。これに対する治水対策は堆積した川床の土砂を掘り下げ、その土砂を両岸に盛り上げることでこれを二百年以上にわたり繰り返し、江戸時代後期には現在のような天井川となった東海道 大沙川隧道(吉永のマンポ)所在地:滋賀県湖南市吉永292この場所は「東海道きずな街道休憩所」になっており観光パンフレットがあった日本最古の石造トンネルが湖南市吉永にある『大沙川隧道』で、明治17年外国人技師を招いて造られました。地元では「まんぽ」とトンネルのことを呼び『大沙川隧道』のことも「吉永のまんぽ」と呼んでいます。この「まんぽ」一説には鉱山などの「間歩(まぶ)」という穴からきたといわれます。またフランス人が話していた「メインフル―」というトンネルつまりマンホールからきたという説もあります。湖南では「まんぽ」ですが、地域により「まんぼ」「まんぼう」「まんぼり」などと変化しています。そして2年後の明治19年東海道の夏見一針に『由良谷川隧道』と『家棟川隧道』が造られ、大正6年野洲に『家棟隧道』が造られましたが、『家棟川隧道』は昭和54年『家棟隧道』は平成18年に撤去され、天井川の石造隧道は『大沙川隧道』と『由良谷川隧道』のみになりました昨年11月23日開催の「近江中世城跡琵琶湖一周のろし駅伝」のポスター東海道きずな街道休憩所の広場には、「猿飛佐助のふるさと 三雲城址」の旗猿飛佐助のふるさと 三雲城真田幸村に仕え、真田十勇士の猿飛佐助は「三雲城主で三雲新左エ門賢持の子、三雲佐助賢春」であり、幼少のころは三雲城で剣術や忍者の修行をしていた猿飛佐助は伝説の英雄ではなく、実在していた。甲賀五十三家といわれる近江国甲賀郡郷土のうち、三雲氏というのがある。代々、甲賀郡吉永山に城館をかまえ、戦国のなかごろ、三雲新左エ門賢持という人物がでて、近江の守護佐々木家につかえ、間忍(忍術)のことをつかさどった。・・・・・・・・・・・・・・・。「風神の門」司馬遼太郎作(新潮文庫)平成27年1月よりNHK大河ドラマの「真田丸」東海道(きずな街道)歴史探訪・史跡めぐりマップ 三雲学区まちづくり協議会上記案内図から現在地、この後左方向(西)へ進む10:35大沙川隧道トンネルの上に「大沙川」大沙川隧道を振り返るトンネルをくぐると左側に説明板「弘法杉」「大沙川の隧道」町指定文化財『弘法杉』 昭和52年10月4日指定旧東海道を横切る大沙川の堤上に、樹高26m、周囲6m、樹齢約750年の杉がある。この大杉を古来より弘法杉、または二本杉と人々はよんでいる。伝説によれば、もとは2本あって並立していたが、洪水のために堤防が崩壊して一樹は倒れたといわれている。昔からこの地方の子どもが左手で箸を持って食事をするものは、この木の枝で箸を作って使用させると、自然と右手で食事をするようになるといわれている。そのために、下の方の枝はたいてい切り取られていたと伝えられている。一説によれば弘法大師(空海)がこの地方を通過した時、二本の木を植えたとも、また弘法大師が食事をしたあと杉箸を差しておいたのが芽を出したとの説がある。その後、大風のために折れて朽ちたので里人が再び植えたが、安永2年(1773)の台風でそのうちの1本が倒れたともいわれている大沙川隧道の上に弘法杉が生える大沙川の隧道大沙川は、旧東海道の上を流れる天井川です。奈良時代に奈良の仏教寺院や石山寺の造営時、この辺りから木々が切りたおされて禿山となり、大雨の毎に土砂が流れ川底が上がり天井川になったと伝えられています。当時三雲地区には・・・・・中略・・・・・・・。明治になると東海道を整備することになり、その一環として天井川に隧道を掘って人馬の通行の便宜を図ることになり、明治17年3月に県下最初の道路トンネルとして築造された。全長16.4m、高さ4.6m、幅4.4m、半円アーチ形天井、壁は花崗岩の切石積みという立派で頑丈な構造で造られており、地元では「吉永のマンボ」と呼ばれ親しまれている街道から坂を登る、直進すると『三雲城址・八丈岩』へ弘法杉を見上げる大沙川の下流側弘法杉弘法杉の下にある社の中に「弘法大師像」10:40旧東海道の西方向街道左側に「八丈岩・三雲城址」東海道五十三次 石部宿『三雲城跡と八丈岩』三雲城は山の中腹(標高340m)の八丈岩付近に、安土の観音寺城主佐々木六角高瀬の逃げ込み用の本城として長亨2年(1488)三雲典膳に築かせた。しかし、織田信長の京都侵攻で、信長の家臣佐久間信盛に攻撃を受け、元亀元年(1570)山裾にある三雲屋敷と共に落城した。城跡には石垣の枡形虎口や、石組の古井戸、八丈岩の背後の巨岩群の中に六角氏の家紋「四つ目詰」が刻まれた岩も残っている「浄土宗 吉祥山 西往寺」の石柱旧東海道を進み右側『ギャラリー薔薇の木』所在地:滋賀県湖南市吉永473薔薇をきれいに誘引していた10:48街道を進み左側に『観音寺』の案内板観音寺への途中(右側)にあるお寺へ参拝、観音寺はまだ奥にあった。盛福寺の本堂本堂横にある『せいし丸さま』浄土宗開祖の法然上人は幼少時代は、勢至丸(せいしまる)様と呼ばれていた境内隅に水子地蔵水子地蔵横の桜の蕾は硬く甲賀組第一部法然上人二十五霊場 第二十番本堂の扁額「金照山」山門の右側にあった山門の前に建つ石灯籠には「愛宕」盛福寺の山門・本堂所在地:滋賀県湖南市夏見173710:52街道沿いの『浄土宗 盛福寺』の入口。本来こちらの街道側から入るのであったが我々は裏から入った 水口宿~石部宿-続く
2020.05.08
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野洲川に架かる横田橋を渡る。前回(2/22)の予定ではここまで来る予定であったが途中で雨が強くなり水口石橋で中断。今日の歩行数は既に10,000歩を越えていた。3/21(土) 9:44東海道 横田の渡し 常夜燈所在地:滋賀県湖南市三雲448東海道五十三次 石部宿『横田常夜燈』東海道十三の渡しの難所の一つに数えられる横田の渡し場、湖南市側に建立されている。安永8年(1774)に東講中によって建てられた火袋付の常夜灯である。高さ4.85メートル、五段の石積みの上に建っている。水口側の常夜灯より50年以上前に建てられていた。建立された当時は現在地よりも200メートルばかり上流に建っていたが、いつの時代か現在地に移転された常夜燈の下に案内板。ここより上流側に『園養寺(おんようじ)』がある。天台宗のお寺で平安時代の初期、伝教大師が延暦寺の用材を杣庄から牛車で運搬されたため、牛馬の労をいたわるために、大日如来の尊像を刻み、牛馬の安全を祈られたことから「牛の寺」と呼んでいる。また、江戸時代に境内から野洲川を渡る人が手に取るように見えたことから、東海道を行き来する人々を監視していたともいわれている南側に『天保義民(てんぽうぎみん)碑』天保13年(1842)10月、現在の野洲市の三上地区で近江天保一揆(天保13年近江国三上藩一揆・水口藩一揆)が発生しました。野洲・栗田・甲賀三郡の農民約四万人が幕府による検地(見分)の中止を要求して決起し、三上村に集まり、幕府が派遣した役人から十万日の日延べを勝ち取りましたが、多くの犠牲者を伴い、義民として永久に伝えるため、碑が建立されましたJR草津線JR三雲駅踏切を渡り南側の丘にある『天保義民(てんぽうぎみん)碑』へ県民花の森「天保義民の丘」県民花の森「天保義民の丘」のモニュメントモニュメントの造形について天保13年(1842)10月に旧甲賀郡、旧野洲郡、旧栗太郡の一万数千人の農民が結集し検地十万日日延の承認をさせるという「農民一揆」を起こした。その時農民が手に取った鍬、鎌を形どり、背の矢印は竹槍、中央の溝は農民の血と汗と流れを表している。全体としては、基礎石を農民に見たて農民の努力の賜で虹の石(希望のかけ橋)が架かったものである石柱には「新海道」、天保義民之碑へは左へ上る途中にある「ビジネス旅館 天保閣」の玄関先所在地:滋賀県湖南市三雲269:54天保義民之碑入口は閉ざされていたが、石灯籠等の倒壊の恐れがあるので入場禁止に!広場の藤棚天保13年(1842)10月、幕府の過酷な検地に反対する甲賀・野洲・栗太の農民約4万人が一揆を起こして抵抗した。事実上の検地中止を勝ち取ったが、八十名あまりが逮捕された。そのうち首謀者の庄屋十一名は檻に入れられ江戸送りとなった。毎年10月15日に慰霊祭が行われている天保義民之碑から三雲駅を見下ろす天保義民之碑からの坂道に咲いていた「ショウジョウバカマ」3月27日の誕生花 ショウジョウバカマ(猩々袴)の花言葉「飲みすぎに注意して」、春に「希望」を託して咲く風変りな花背丈10センチ程の花9:58JR草津線の踏切を渡り左へ進み、旧東海道へ10:01JR草津線「三雲駅」駅前の角に石柱石柱には、「微妙大師萬里小路藤房卿墓所」「妙感寺 従是二十二丁」東海道三雲 明治天皇聖蹟碑所在地:滋賀県湖南市三雲419民家の前に建つ『 明治天皇聖蹟碑』街道脇の民家の花壇に、石柱があったが旧東海道を西へ進む10:07街道脇に大きな案内板東海道(きずな街道)歴史探訪・史跡めぐりマップ 三雲学区まちづくり協議会左側(東)から右(西)へ向かって歩く民家の軒先に珍しい飾り、大津祭(厄除ちまき)、長刀鉾東海道(きずな街道)を進む10:10JR草津線の電車新しく完成した荒川橋JR草津線の鉄橋旧東海道の南側に建つ石柱『立志神社(りゅうしじんじゃ)』ここから南へ片道700mあるのでスルーS字カーブの街道を進むカーブを進み振り返る民家の庭先に建つ石旧甲西町(こうせいちょう)の汚水管マンホール蓋。天然記念物の美松を放射線的にデザイン化することにより、伸びゆく町を表現し、外周には水のせせらぎと花びらとを重ね合わせています。町のイメージである「水と緑のすむ庭園都市」をシンプルに表現しました。中央の「町章」は、甲西の「西」を図案化したもので、外は”亀の甲”で模り、甲西の「甲」を意味しています(淡海環境プラザの説明より)。「おすい」の文字10:17JR草津線の踏切を渡り直ぐ右方向へ進む踏切を渡ると弥次さんが気温が上がり脱いでいた東海道(きずな街道)歴史探訪・史跡めぐりマップ 三雲学区まちづくり協議会現在地は黄色の矢印、右側から歩いてきた湖南市吉永「三吉景観水路」この施設は地域の憩いの場として利用して貰えるように石積護岸や階段工、遊歩道を整備した景観水路です。また河川水(農業用水)を利用して耐震性貯水槽40m3を設置しています。農業用水は、いろいろな役割を果たします。みんなで大切に利活用し、いつもきれいにしましょう10:21真新しい常夜燈が建つ 水口宿~石部宿ー続く
2020.05.07
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泉福寺・日吉神社から旧東海道を進む。3/21(土) 9:08泉福寺は、「お地蔵さまとお不動さまのお寺」泉福寺・日吉神社境内水口町の古木・名木「カヤ(イチイ科)」本堂前に水口町の古木・名木があり左に「カヤ」、右に「クスノキ」水口町の古木・名木・樹木の所在:水口町泉 泉福寺地内・樹 種:クスノキ(クスノキ科)泉福寺本堂天台宗 泉福寺当寺は、弘仁4年(813)伝教大師最澄の開創によるもので、昔は泉寺とも延命院とも言い、数坊を擁したと伝えられる。天正年間の兵火により、堂宇はことごとく焼失したが、地蔵菩薩坐像は災火をまぬがれ、20余年後の慶長10年(1605)本堂再建に当り本尊として安置され、以来泉の祈願寺として現今に至っている。本尊 地蔵菩薩坐像は国の重要文化財であり、厨子の中に秘仏として安置され、子安延命地蔵として信仰を集めている。尚、本堂前の水子やすらぎ地蔵尊は、本尊そのままを表わしたものである。本尊の両側に不動明王と毘沙門天が配され、脇壇の四天王は平安期の作。また書院横の庭園は江戸後期の作庭と云われる。 本尊・木造地蔵菩薩坐像泉福寺本堂前からの境内、左側に「日吉神社」泉福寺本堂泉福寺の西側に建つ「梵字不動尊」扁額の「梵字不動尊」拝殿、エノキ、手水舎、山門山門から左に「カヤ」、右に「クスノキ」9:15松並木が残る旧東海道を進む今日は風もなく気温も15℃ぐらいか五重相伝の幟9:17泉川に架かる「舞込橋」、左側に道標「横田渡」へ舞込橋から泉川の下流、河川敷に草が生え川幅を塞いでいる日吉神社 御旅所、舞込橋を振り返る9:19舞込橋を渡ると前方に『泉一里塚』。一里塚の後ろに地蔵堂、ここまでの今日の歩数は、9,600歩東海道を整備した江戸幕府は江戸日本橋を起点として街道の両側に一里(約4キロ)塚を築いたが、本町域では泉・林口・今在家(今郷)の三箇所に一里塚があった。塚上には榎などを植えて旅人の目印とし、道中奉行の管轄下に維持管理がなされた。当時のものは現在地よりやや野洲川よりにあったが、これはそのモニュメントとして整備されたものである泉一里塚を振り返る9:21東海道横田の渡し跡野洲川は昔は横田川と呼ばれ、支流の杣川(そまがわ)と合流するため流れが速く旅人を悩ませた。横田川の渡河は幕府の管理下に置かれ、通年の架橋は禁止された。増水期の3月から9月は船渡し、渇水期の10月から2月は仮橋を設けた。四艘の船が配備され、渡船の業務は和泉村に課され、渡し賃を取って維持管理させた東海道横田渡鈴鹿川に源を発する野洲川は、このあたりで「横田川」と呼ばれてきました。伊勢神宮や東国へ向かう旅人は、この川を渡らねばならず、室町時代の資料にも「横田河橋」の名が見えています。江戸時代に入り東海道が整備され、当所は東海道十三渡のひとつとして重視され、軍事的な意味からも幕府の管轄下に置かれました明治24年、泉・三雲間を結ぶ長大な板橋が架けられた時の、石垣の橋台の一部【横田橋の歴史】・・・・・上下の字が一部解読不可能に!横田橋の名は、寛正2年(1461)5月24日の室町幕府奉行人??(山中文書)に「酒人郷横田??橋」として見えるのが早く、京都??芳寺によって橋賃が徴収されていたことが知られています。江戸時代には、東海道の「渡」のひとつとして幕府の管轄下におかれ、渇水期い土橋が架けられたほかは、船渡しとなっていました。明治24年、泉・三雲間を結ぶ長大な板橋が架けられました。この石垣は当時の橋台の一部です。その後、昭和4年には下流に橋が移され、同27年には国道1号線の敷設によって現在の横田橋へと推移しました対岸を望む渡し場跡の隅に『金刀比羅宮』旧幕時代、横田川の渡しは年中橋を架けることは許されなかった。そこで、川水の少ない10月から2月までは水の流れている所に土橋を架け、3月から9月までの七ヶ月は四艘の小舟で通行していた。しかし暗夜には方向が定まらず危険であった。当社は渡しの安全のために村人が文政2年「常夜灯」の建立を発起し義金を募り文政5年8月に竣工すると同時に水上交通安全の神様である金刀比羅宮をこの場所に勧請し、渡しの安全を祈念したものと推察される東海道横田の渡し跡右側の建物はユニークなトイレでした東海道横田渡常夜燈この巨大な石燈籠は、文政5年(1822)増加する旅人の目印となるよう、泉側の川岸に地元や京都・大坂を中心とした万人講中の寄進によって建てられたものです。その高さは10.5メートル、燈火を灯す火袋は大人も通れるほどで、道中でも最大級のものとされています。建造には多額の費用を要したため、基壇には多くの寄進者名が刻まれています。明治以降、水害によって一部形状を損ないましたが、その交通史上の価値は高く水口町の文化財に指定されています9:25渡し場跡から、野洲川の下流にある横田橋。昭和4年に下流側に橋が移され、同27年には国道1号線(現在は県道13号線)の敷設によって現在の横田橋へと推移した横田の渡し跡から旧東海道(迂回路)を進む9:30国道1号線の泉西交差点、交差点の先から湖南市に入る只今の気温「13℃」、国道1号線(栗東水口道路)は右方向へ今夕、JR貴生川駅から草津への途中ここを走るのだ日本橋から、456.5kmのキロポストこの先歩道なし「歩道橋をご利用下さい」の案内板9:35朝国横断歩道橋からの、野洲川に架かる横田橋。横田の渡し場は、昭和4年にこの場所に橋が移され、同27年には国道1号線(現在は県道13号線)の敷設によって現在の横田橋へと推移した。橋を渡るとJR三雲駅に至る朝国交差点を渡り、横田橋へ。夏の風物詩「近江下田なす」の看板、どんな味がするのか横田橋を渡る、下流側のこの杭は何?杭をズームアップ現横田橋は平成14年(2002)3月に竣工しているので以前の橋の橋脚か?野洲川の上流側、先程の『横田の渡し跡』方向を望む9:39横田橋の上にあったキロポストは日本橋から、457kmキロポストは国道1号線となっているが現在は県道13号線である 水口宿~石部宿 -続く
2020.05.06
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引き続き旧東海道の北脇縄手(畷)を進む。3/21(土) 8:36街道脇に『三世代北脇 湧遊(ゆうゆう) せせらぎ広場』三世代北脇 湧遊(ゆうゆう) せせらぎ広場この親水公園は、清水(しょうず)池の自然を生かし小川を取り戻す会を中心に整備構想をされ、せせらぎ水路や景観親水施設を備えた地域の憩の場として整備されました。清水池とは、かんがい期間に清水が湧く池を示しています。みんなで大切に利用し、いつもきれいにしましょうようやく集落へ入るが、集落の入口の街道脇に地蔵道路では通行に邪魔になるので、水路の上に公園もあり小さな神社が建っていた所在地:滋賀県甲賀市水口町北脇8:39前方の交差点の右に、料亭『米新楼』料亭『米新楼』の看板が建っているが営業しているのかネットで見ると、『米新 食品部』で食品製造業者出前をやっているのか旧東海道を進むと、左手に『甲賀市立 柏木小学校』所在地:滋賀県甲賀市水口町北脇1132旧東海道はまだ一直線小学校に隣接して西側に『水口北脇郵便局』花桃8:45柏木公民館所在地:滋賀県甲賀市水口町北脇1615-1柏木公民館の前には、信楽焼のタヌキユニークな火の見やぐらやぐらの下に貼られた、歌川広重の「水口宿」公民館前のバス停横に小さな神社旧東海道を進む、民家の蔵8:50旧東海道の北脇をひたすら西へ進み、久しぶりに信号街道沿いに幟が立つ、まだ5月の節句には早いが五重相伝立札には「五重相伝」 自:令和2年10月31日、至:令和2年11月4日 淨品寺五重相伝(ごじゅうそうでん)は浄土宗の教えを五つの順序にのっとって伝える法会です。五重相伝の「五重」には、「お念仏の教えの中でも特に重要な五つの要点」と、「お念仏の教えの基礎から一つずつ積み重ねて神髄に至る」の意味があるといわれます。一般には五日間の日程で、初重、二重、三重、四重、第五重の順に法話やお勤めが進められていきます。初重では自身の愚かさを振り返り、二重では法然上人のお念仏に対するお考えを、三重ではお念仏の受け取り方を学び、四重では念仏信仰について抱きがちな疑問を解消し、第五重でお念仏の奥義の口伝を授かります。この行事は寺院にもよりますが、数十年に一度、早くても数年に一度程度しか行われないここから『泉』に入る白壁の立派な民家一直線の道が続くバス停に道標があるが、劣化したのか補強8:57街道脇に地域の氏神神社『秋葉山』が建つ所在地:滋賀県甲賀市水口町泉585S字カーブの道に入る民家の間に神社人通りの無い旧東海道を進む9:00天理教 白水分教会9:06旧東海道沿いに『重要文化財地蔵菩薩坐像』の案内板左の石柱には「國寶 延命地蔵尊』旧東海道から北側へ入る、山門左側に遊戯施設左下の石柱は『左 淨品寺』分岐点を右側へ入り『泉福寺』へ山門の前の石碑には『天台宗 宝珠山 泉福寺』所在地:滋賀県甲賀市水口町泉480山門の扁額「宝珠山」山門を入ると右側に『日吉神社の拝殿』山門の右側に『ケヤキ(ニレ科)』日吉神社由緒そもそも、当社の創祠は後一条天皇の御宇、治安3年時の別当が、泉村人の祈願所泉福寺の護法神として、坂本日吉大社山王十禅師権現の御分霊を、勧請したことに始まる。爾来、泉邑住民の鎮守神として祀られ、往古は山王様十禅師様と呼ばれていたが、明治4年藤木神社と社名を改める。戦後、社宝狛犬の銘文に基ずき、日吉神社と再び社名を改め、神域を整え拝殿を建立、子供神輿を献備し、いよいよ氏神としての、形態を整えるに至った拝殿から日吉神社扁額「日吉神社」 水口宿~石部宿-続く
2020.05.05
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東林口にある『五十鈴神社』へ向かう。3/21(土) 8:11旧東海道を西へ向かう五十鈴神社所在地:滋賀県甲賀市水口町東林口437五十鈴神社の由緒当神社は「天照大御神」をお祀りしています。藤原時代の長寛2年(1164)に設けられた「御厨」制度により御厨田の守護神として、また五穀豊穣の神として伊勢皇大神の御分霊を、「福原大神宮」として称え奉ったのがその創始です。江戸時代の天和2年(1682)から、水口城主として加藤明友候が政を掌った間「神明宮」と称して信仰も厚く御影石、手洗鉢の寄進をされています。その後の歴代藩主の信仰も厚く、由緒深い宮です。明治4年(1871)「五十鈴神社」と改称されました。その他に、稲荷、八坂、愛宕、秋葉、島姫(弁財天)の各神社をお祀りしています林口の勧請縄毎年の正月三日に林口区の「山の神」の行事として作られ、地域内の三か所に掛け渡されます。一般の注連縄とは異なり、村の出入り口や神社の境内などに掛けられるもので、勧請縄と呼ばれるものです。これは「道切り」つまり村の外から疫病や災厄が侵入するのを防ぐための祈願として行われるもので、五穀豊穣や村内安全などが書かれた勧請板と「海老」と呼ばれる藁で作った飾りものと御幣が付けられます鳥居をくぐると左手にある『イヌマキ(マキ科)』水口町の古木・名木樹木の所在:水口町東林口 五十鈴神社地内樹 種:イヌマキ(マキ科)樹木の説明:暖地の山地に自生し、常緑の高木で高さ20mに達するイヌマキの横に『ヒノキ(ヒノキ科)』水口町の古木・名木樹木の所在:水口町東林口 五十鈴神社地内樹 種:ヒノキ(ヒノキ科)樹木の説明:高さ40mに達する常緑針葉樹。樹皮は茶褐色。 和名:火の木。木をこすり合わせて火を出したつっかえ棒で保護された「拝殿」五十鈴神社本殿赤い鳥居の『稲荷大明神』、建屋内に『八坂神社』と二つの神社裏庭に常夜燈8:17五十鈴神社の前に建つ案内板林口一里塚水口町域では今郷・林口・泉の三ヶ所に設けられている。塚上には榎の木などを植えて厳重に管理し、旅人のよき目印ともなったが、明治維新後いずれも撤去された。林口の一里塚は、これよりやや南方にあったが水口城の郭内の整備にともない、東海道が北側に付け替えられ、五十鈴神社の境内東端に移った。本塚は、往時を偲んで修景整備されたものです一里塚、五十鈴神社を振り返る8:18旧東海道はこの交差点を右へ進む交差点を渡り、旧東海道へ西見附跡を探す、右手は『妙沾寺』小さい川の手前に『西見附跡』の立札を見つける西見附跡水口宿の西の端に設けられたもので「京口」と呼ばれています。木戸や番所が置かれ、宿場の防犯施設となっていました。東端の田町と片町の境付近には東見附があり「江戸口」と呼ばれ、同じ機能を果たしていました。東海道は最初はここから東へまっすぐ延びていましたが、水口城築城と水口藩成立の二回の機会に北へ迂回させられました。またここを流れる川は「見附川」と呼ばれています交差点を渡るとすぐにある『妙沾寺』所在地:滋賀県甲賀市水口町西林口4-16本堂の扁額「雙龍山」旧東海道を進む8:24旧東海道沿いに、『清酒 美冨久(MIFUKU) 蔵元』所在地:滋賀県甲賀市水口町西林口3-2水口の造り酒屋では試飲ができるが、営業は10時から水口の地酒甲賀地域は滋賀県の酒蔵の約三分の一が集まっている有数の酒処で「近江の灘」とも呼ばれています。その甲賀の中心であるここ水口は、その名のとおり水がきれいで、米作りにも適した豊かな土地です。また、数々の東海道にまつわる本や雑誌、旅行番組などでも紹介されており、司馬遼太郎作「龍馬がゆく」でも竜馬が立ち寄った宿場町として描かれています。そんな恵まれた土地ならではのロマン溢れる水口の地酒をお楽しみください店先の看板街道蔵 美冨久日本酒の試飲もでき、甘酒のソフトクリームが美味しいと店頭にレトロな消防車店先に飾られた『大正9年製造の消防ポンプ車』地元消防団のポンプ車として活躍後、昭和34年に美冨久が譲り受け社内自警団として配備されましたポスターの「2020年美冨久春の蔵まつり」は、開催延期ここにも新型コロナウイルスの影響が酒蔵 美冨久の西側に『柏木神社』の鳥居境内まで500メートル程あり時間を要するので参拝をあきらめる柏木神社の鳥居の東海道を挟んだ南側に地蔵堂美冨久を振り返る8:27旧東海道を進む街道脇に古い石像8:30北脇縄手(畷)と松並木東海道が一直線にのびるこの辺りは、江戸時代「北脇縄手」と呼ばれた。縄手(畷)とは田の中の道のことで、東海道の整備にともない曲がりくねっていた旧伊勢大路を廃し、見通しの良い道路としたことにちなむと考えられる。江戸時代、東海道の両側は土手になり松並木があった。街道は近隣の村々に掃除場所が割り当てられ、美しさが保たれていた。旅人は松の木陰に涼を取り、旅の疲れを休めたといわれている一直線にのびる東海道今日は天気が良く風も無いので良かったが、冬場の風の強い時は何もなく松並木だけだったので大変であっただろうと思いながら歩く廻りの畑には麦が植えられ枯れた松並木街道脇には石像があり花、お茶が供えられていた飛び出し坊やも流石甲賀市、甲賀流忍者 かしわぎ自治振興会道路脇の地蔵も、道路からはみ出してこの辺りの人は信仰心が篤いようだ8:36街道脇に『三世代北脇 湧遊(ゆうゆう) せせらぎ広場』旧東海道を振り返り南東の方向を見る三世代北脇 湧遊(ゆうゆう) せせらぎ広場この親水公園は、清水(しょうず)池の自然を生かし小川を取り戻す会を中心に整備構想をされ、せせらぎ水路や景観親水施設を備えた地域の憩の場として整備されました。清水池とは、かんがい期間に清水が湧く池を示しています。みんなで大切に利用し、いつもきれいにしましょう 水口宿~石部宿ー続く
2020.05.04
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護念山心光寺(矢印)を出て旧東海道を進む。3/21(土) 7:41曳山蔵「天神町」最盛期には約30基が巡行したが、現在は16基正面上に「東海道五十三次 水口宿」の看板右下に「天神町」の石柱天神町から路地に入り南下して「水口城跡」へ向かう飛び出し坊やならぬ飛び出し足軽?西水口交差点の角にある『藤栄(ふじさか)神社』石柱は「東邸(ひがしやしき)町」藤栄神社所在地:滋賀県甲賀市水口町梅が丘2-26つぼみも膨らみ赤みを帯びてきた桜彼岸桜・バラ科・「暑さ寒さも彼岸まで」 少し寒さがやわらいでくる3月中旬頃から、ソメイヨシノなどの桜に先がけて咲く。・長野県高遠町で大規模に植栽されている。・彼岸桜の別名 「小彼岸(こひがん)」、「小彼岸桜(こひがんざくら)」つぼみも膨らみ開花ズームアップ藤栄神社とその社宝当社は旧水口城内に位置し、水口藩主加藤氏の祖、加藤嘉明を祭神に文政12年(1829)藩によって創建され、近世は嘉明大明神社と呼ばれた。当社には豊臣秀吉より拝領と伝えられる刀剣や、 高麗鞍など旧藩主家伝来の遺宝が数多く伝えられ、水口藩政時代を知る上で重要である。なお、社号標石は領界標石を転用したもので巌谷一六の書右側の石柱は「天満宮??」藤栄神社に隣接して南側に『藤栄児童公園』がある。鳥居があるので藤栄神社への参道か水口中央公民館前にある「甲賀市市民憲章」。甲賀市誕生:平成16年(2004)10月1日 5町が合併して誕生した。 水口町・土山町・甲賀町・甲南町・信楽町7:50水口城跡所在地:滋賀県甲賀市水口町本丸4-80駐車場の案内だが、今回は歩いてきているのでお城の北東方向から、桜が咲いていたら最高であったのだが史跡 水口城跡滋賀県指定史跡『水口城跡 【別名・碧水城】』水口は都から伊勢へ通じる交通の要所にあり、中世後期にはすでに街並が形成されていましたが、天正13年(1585)には羽柴秀吉の命により水口岡山城が築かれ、その城下町として発展をみせました。関ヶ原合戦後、この地を直轄地とした徳川家康は、水口を東海道の宿駅に指定しました。そして家康はしばしばこの地を通行し、宿内の大徳寺などに宿泊しています水口城本丸平面図 -将軍家宿館時代-寛永11年(1634)三代将軍家光は上洛に先立ち、道中となる水口に専用の宿館を築かせました。これが水口城です。作事奉行には建築や造園、茶道などで知られる小堀遠江守政一(遠州)があたりました。城は堀と石垣をめぐらした本丸と北側の二の丸からなり、本丸内部には御殿が建てられました。その建物構成は京都二条城に共通し、数寄をこらしたものでしたその後、幕府の任命した城番が管理する番城となりましたが、天和2年(1682)には加藤明友が入封し水口藩が成立、水口城はその居城となり明治維新に至りました。維新後は廃城となり、建物や石垣の大半は撤去されましたが、本丸敷地のみは保存され、昭和47年(1972)滋賀県の史跡に指定されました。平成3年(1991)出丸の部分に矢倉が復元され、「水口城資料館」として開館いたしました城門に「臨時休館のお知らせ」新型コロナウイルス感染拡大防止のため3月24日(火)までの間、休館とさせていただきます。現在でも休館中隅櫓の南東方向からつぼみはまだ固く登城して記念スタンプをもらいたかったが。また残念ながら水口城は、何故か日本百名城、続日本百名城に認定されていない食堂の窓に貼られていたポスター水口の「名物かんぴょう」当時は多くの農家でかんぴょうが作られ、青空の下、白いかんぴょうが干される風景は初夏の風物詩となっていました。水口のかんぴょうは「東海道五十三次・水口」に描かれたことから全国に知られるようになったといわれています8:01旧東海道へ戻る「小坂町」旧東海道江戸方は前方(北側)で、京へはここを左方向へ進む先程の角の北側にある神社所在地:滋賀県甲賀市水口町城内5-18:03旧東海道はこの先を右へ進む、弥次さんが石碑を撮影前方は江戸方面小坂町にある「水口石」東海道に面した小坂町の曲がり角に伝えられる大石。「力石」とも呼ばれる。江戸時代から知られた大石と見えて、浮世絵師国芳が錦絵の題に採っている。この辺りは水口藩の藩庁にもほど近く、巨大な百間御長屋や、小坂町御門など城下のたたずまいが濃かった8:05旧東海道の南側に『吉富大明神』所在地:滋賀県甲賀市水口町城内6-6敷地内に『百間長屋跡』の看板北邸(きたやしき)町に百間長屋がありました。百間長屋はお城の郭内の武家地にあり、百間(約180メートル)の棟割長屋には、下級武士たちが隣り合って住んでいました。南側(郭内)に玄関があり、東海道に面した北側は出入り口がなく、町場とは自由に往来ができませんでした。これは敵が攻めてきた時に郭内の城・藩邸を防御する役割を果たしたのです。長屋には往来に向って小さな高窓があり、これを与力窓といいます。買い物などはこの窓から首を出して東海道を往来する物売りにヒモをつけたざる等に銭を入れ、その銭に見合う品物をざるに入れてもらってそれを引き上げる方法で買い物をしました。明治初期の絵地図によると21軒が明記されています街道の北側に『浄土宗 真徳寺』所在地:滋賀県甲賀市水口町城内3-22街道脇に立っている案内板真徳寺 表門この門は、もと水口城内に所在した家臣屋敷の長屋門を移したものである。石高80~60石程度の中士の格式をあらわすもので、一部に改造が見られるものの、旧城下に残る数少ない遺構である真徳寺表門真徳寺表門当寺の表門は、もと水口城の郭内に所在した家臣(蜷川氏)屋敷の長屋門を近代に移築したものである。寺院の表門に改めた際、かなりの手が加えられたが、旧城下に残る数少ない武家屋敷遺構の一つとして貴重である。なお境内墓地には、明治の代表的書家として知られる巌谷一六の先祖の墓碑が伝えられる本堂の扁額山門を入り右側にある太鼓同山門の左側に地蔵堂 水口宿~石部宿ー続く
2020.05.03
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昨日は移動日で、途中今まで見落とした所等へ立ち寄り、前回宿泊したホテルへ。今日は延べ日数30日目の弥次喜多道中。いよいよ最後の個人ツアーで京都三条大橋を目指す一日目である。今日も快晴の中ホテルを出発。3/21(土) 6:23朝食が6時半からのため出発前にホテルのまわりを散策。前回の宿泊は2月22日で霜が降り寒かったが。ホテル前から南西の方向ホテルの南にある『水口スポーツセンター』ホテル グリーンヒルサントピア(甲賀市勤労福祉会館)当ホテルは滋賀県甲賀市にあり、合宿、宿泊、ご宴会、新年会、忘年会など執り行っている。隣接したスポーツ施設をご利用して頂けますと駐車場からホテルへホテル グリーンヒルサントピアは二階建て、正面にレストランホテルの北側を流れる野洲川。国道307号線の水口大橋南詰交差点野洲川北側ホテル前から南側を望む6:31朝食前回も湯豆腐があったが、これだと朝から飲みたいが6:58前回はホテルへ車を止めタクシーで貴生川駅へ来たが、今回は愛車で貴生川駅前の駐車場へ。今回は旧街道を歩き、JR手原駅から草津線でここへ戻り草津のホテルへ移動する計画。駐車場は24時間最大料金 500円を利用7:00JR貴生川駅に隣接した、近江鉄道貴生川駅。7:14 発の米原駅行きへ乗車ここが始発駅で列車が入線駅のホームにあった看板近江日野商人と花のまち日野へ二つ目の「水口石橋駅」まで乗車で、ワンマンカーの二両編成7:14 定刻に出発7:22水口石橋駅旧東海道の『三筋の道 京口』を振り返る。前回は2月22日(土)の13時頃雨の中を来たが7:23水口石橋から、「東海道を歩く 延べ日数30日目」の道中を始めた踏切近くに、曳山蔵「天王町」天王町の曳山は、全幅:3.1m、全長:4.1m、全高:5.4m、車径:1.37m最盛期には約30基が巡行したが、現在は16基7:25甲賀市水口地域市民センター市民センターに貼られていたポスター境内の隅に建つ「滋賀県指定無形民俗文化財『水口曳山祭』〈4月19・20日〉」。水口を代表する水口祭に巡行する曳山は祭礼の顔であり「二層露天式人形屋台」の構造を持ち、下層には囃子方が乗り、上には趣向をこらした「ダシ」が飾られます。祭礼に曳山が登場したのは享保20年(1735)とされており、その後変遷を経て、今日16基が伝存しており県下最多の数を誇ります。江戸時代の近江では、曳山は都市のシンボルとしてその豪華さが競われ、ここ水口でも町人の経済力と心意気によって建造されてきましたひと・まち街道交流館東海道の観光館内を目的とした施設で、ボランティアガイド1名が常駐し、ご案内しています。郷土史の冊子やピンバッジなど、お土産物も置いております。隣の施設に水口曳山祭の曳山も展示されておりますので、見学ご希望の方はお申し出ください。 〇開館時間は、九時から十七時まで 〇休館日は、月曜日(祝日の場合は翌日)残念ながらこの日は時間が速くて開館前歌川広重の保永堂版『東海道五十三次 水口 名物干瓢』夏 女たちは、ユウガオの果実を細くけずって干瓢づくりに余念がない。水口城跡に角やぐらの復元がされ、資料館となっていますのでご来館ください曳山蔵「河内町」右側の建物には「みなくち自治振興会」「甲賀市水口地域市民センター」ひぐち金物店の角に『河内町』の石柱街道沿いの民家の前に「水を流すと動き出す」モニュメント左の建物は『まかない処 八蔵』レストランで古民家を改装していて吹き抜け空間の店内は広かったと、メニューは3種類と少ないが美味しかったと、定休日は月曜日(ネット情報)7:29東海道の道案内図水口城天王口跡江戸時代この場所は水口城の東端にあたることから木戸が置かれ「天王口御門」と呼ばれました。もともと直進していた東海道も、ここで北へ直角に曲がり、北町・天神町・小坂町と城の北側を迂回し、林口五十鈴神社の南でふたたび当初の道に戻りました。「天王口」の名は、天王町の名の起源でもある八坂神社(八坂)がもと牛頭天王社と呼ばれたためです。これより木戸内には「広小路」「南小路」などの武家地がひろがり、ふだんは藩士以外一般の通行は制限されていましたが、4月の水口祭には藩主や藩士に見せるため曳山が曳き入れられました北町の地蔵堂みなくちのおすいマンホール7:34水口城天王口跡で右折し100m程北上し、左折すると左側に「心光寺門前町」の石柱。「護念山心光寺」入口心光寺(しんこうじ)山門所在地:滋賀県甲賀市水口町城東5-19山門の鬼瓦山門を入ると左側の社の中に左に、石造 地蔵菩薩、右に、阿弥陀如来本 堂本堂の扁額『心光寺』木造阿弥陀如来立像 平安時代浄土宗に属する心光寺は、当地の土豪であった美濃部氏の創建と伝えられる。本堂脇壇に安置される本像は頭躰はもちろん、両袖部まで榧の一材から木取りし、背刳りを行い蓋板を当てる構造で、像高は135.8センチである。後世の手が加わっているが、古い様式を倣った平安中期の地方仏として貴重であり、昭和59年水口町の文化財に指定された水口町の古木・名木『イチョウ』水口町の古木・名木樹木の所在:水口町城東 心光寺地内樹 種:イチョウ(イチョウ科)本堂左側の石碑、建物本堂左側の建物の扁額『衆曽堂(しゅえいどう)』境内に咲くアセビイチョウ本堂前に『佛足石』佛足石お釈迦様の死後、弟子たちがその遺徳と説法されるお姿を偲び仰いで礼拝の対象としていたものです。足跡には佛の三十二相の一つである「足が平足」の足に千・・・・・・・・、印度の石工職人が手彫りで一年半かけて製作された佛足石です7:41心光寺を後にする 水口宿~石部宿ー続く
2020.05.02
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今日から5月、いつまでこの新型コロナウイルス騒動が続くのか・・・・・。本来ならゴールデンウイークのまっただな中、テレビの報道は渋滞、混雑の報道であろう。しかし今年は初めての『外出自粛要請』から、『STAY HOME』と、新幹線も自由席の乗車率が0.0%と。弥次喜多道中は関宿の会津屋で念願の「おこわ・そばセット」を食べ、鈴鹿峠を越え水口宿へ。やはり車での移動は楽だ。 3/20(金) 15:52会津屋前から関宿の『西の追分』方向。この方向は観光客が少ない16:03国道1号線を走り『市瀬一里塚跡』右側の小高い所が一里塚で関宿方面。前回(2/21)に見落とした場所、木もなく石柱のみ16:04国道1号線を走り鈴鹿峠へ、この先の沓掛交差点から上下線が別ルートになる。鈴鹿峠は両側の山の鞍部分になる16:17鈴鹿峠を越え国道1号線を下ると左側に『山中城址』の石柱。前回は、右側の『山神』の石碑には気が付いたが『山中城址』の石柱山中城に係わる話として、天文11年(1542)9月、伊勢の国司北畠具教は甲賀に侵入しようとして、彼の武将神戸丹後守および飯高三河守に命じ、鈴鹿の間道を越えて山中城を攻めさせた。当時の山中城主は、山中丹後守秀国であり、秀国は直ちに防戦体制を整え、北畠軍を敗走させた。こうして北畠軍はひとまず後退したが、直ちに軍勢を盛りかえし、さらに北伊勢の軍勢を加えて再度侵入し、一挙に山中城を攻略しようとした。このため秀国は、守護六角定頼の許へ援軍を乞い、六角氏は早速高島越中守高賢に命じて、軍勢五千を率いさせ、山中城に援軍を送った。一方、北畠軍も兵一万二千を率い、蟹坂周辺で秀国勢と合戦した。この戦いは、秀国勢が勝利を収め、北畠勢の甲賀への侵入を阻止することができた16:43水口宿へ入り、前回(2/22)は雨で写真を撮り忘れていたので再度訪問。作坂町にある『水口宿 本陣跡』この地は江戸時代水口宿の本陣が置かれていたところです。本陣とは大名・旗本・宮家・公家・幕府役人などが休泊するための施設で、これを補助するものとしては脇本陣があり、水口宿ではその両方が宿の東部の作坂町にありました。本陣は規模が大きく、一般の旅籠屋には許されない門・玄関・書院などがあって格式を示し、その経営には宿の有力者があたりました。この本陣は代々鵜飼氏が経営にあたり、間口も一般の三軒分に相当する広大なものでしたが、明治2年に行われた明治天皇の宿泊をもって、その歴史を閉じ、その後建物は撤去されました本陣の跡地の中央に『明治天皇聖蹟』、左奥に『明治天皇行在所御旧跡』の石柱三筋の道入口には『高札場跡』がある、前回は雨の中左方向へ進んだ16:54龍王山 大岡寺(だいこうじ)所在地:滋賀県甲賀市水口町京町1-30前回(2/22)雨で訪れなかったので、今回車で立寄る。狭い道を進み境内へ入る龍王山 大岡寺の由緒寺伝によれば、白鳳14年(686)僧行基が諸国行脚に際し、大岡山の山頂に自彫の十一面千手観世音像を安置し創建したという。その後寺勢盛大を極め、十六の坊舎を擁していたと伝えられるが天正2年(1574)の兵火で、堂宇はことごとく焼失し、東之坊(本坊)を残すのみとなった。天正13年(1585)に、中村一氏が岡山城の築城にあたり、東之坊を地頭に移転し、大岡山山頂に城郭を構築したが、落城後享保元年(1716)に至り、時の住職寂堂法院が再び現在の地に堂宇を再建した。以後、水口藩主加藤氏歴代の祈願所となった山門と鐘楼山門から「三筋の道」方向(南側)を望む境内から山門を下り、本来の入口へ山門には「龍王山 大岡寺」山門を入ると正面に本堂、左に行者堂本堂の扁額「大岡寺」、近い将来本堂の屋根裏も修復が必要であろう本尊十一面千手観世音菩薩は、家内安全・商売繁盛・進学・就職・厄除等諸願成就の守護佛で、近江西国三十三か所第二十六番霊場として多数の参詣者がある。また、恵心僧都の作で、阿弥陀如来立像は、ともに国の重要文化財に指定されている境内の史跡を探してカメラを片手に動き回る弥次さん当寺には、史跡が多く、鴨長明発心之所であり、巌谷一六の記念碑や、芭蕉の「命二つ 中に活きたる 桜かな」の句碑等がある。この句に詠まれた桜は「大岡寺の桜」として水口八景の一つに数えられている芭蕉の句碑「命二ツの 中に生きたる 桜哉」行者堂行者堂前の右側に「鉛筆供養・進学祈願法要」鐘楼、山門境内の西側に石碑があり字が刻まれていたが判読できず17:15水口神社所在地:滋賀県甲賀市水口町宮の前3旧東海道から離れているので今回の道中では訪れないので車で訪れる水口神社の石の太鼓橋この太鼓橋は急で渡れず飾りなのか当社の主祭神大水口宿禰命は饒速日命六世の孫出石心大臣命の子であり、祖母淡海川枯姫の縁により当地に移住されたと思われる土地開拓の祖神である。配祀は大己貴命、素盞鳴尊、稲田姫命である。当社は、三代実録貞観元年(859)正月甲申の条に「従5位下水口神に従5位上を授く」とあり、延喜式内の旧社で神明帳にある近江国155座、甲賀郡八座の一つとされる。明治元年(1868)九月明治天皇御東幸の?、勅使を差遣せられた。・・・・・・・・・滋賀県指定無形民俗文化財『水口曳山まつり』のポスター。令和2年 宵宮祭:4月19日(日)、例大祭:4月20日(月) とあったが今年は開催されたか?手水舎、明神鳥居、拝殿水口神社拝殿拝殿裏の顕馬水口神社の神門延喜式内の古社で水口宿の産土神である。4月19・20日の水口神社の水口曳山祭りは有名。享保20年(1735)に9基から始まったといわれ、次第に盛んになり最盛期には約30基が巡行した。祭礼を引き立てる「水口ばやし」は江戸神田囃子の流れを組むという還暦記念植樹左近の桜と右近の橘水口神社(北側から)扁額「式内 水口神社」水口神社(南側から)水口神社神門から拝殿を望む夕焼け沈む東側を望む境内の隅に建つ「滋賀県指定無形民俗文化財『水口曳山祭』〈4月19・20日〉」。水口を代表する水口祭に巡行する曳山は祭礼の顔であり「二層露天式人形屋台」の構造を持ち、下層には囃子方が乗り、上には趣向をこらした「ダシ」が飾られます。祭礼に曳山が登場したのは享保20年(1735)とされており、その後変遷を経て、今日16基が伝存しており県下最多の数を誇ります。江戸時代の近江では、曳山は都市のシンボルとしてその豪華さが競われ、ここ水口でも町人の経済力と心意気によって建造されてきました。曳山の中で演奏される囃子は「水口ばやし」として、その勇壮な調べが人々の心を躍らせ、現在は郷土芸能として、祭礼以外にも盛んに演奏され好評を博しています17:22水口神社境内を振り返る水口神社前の民家の庭先に咲く『リナリア』リナリアとして園芸的に親しまれるのは、一年草のヒメキンギョソウと宿根性のリナリアで、パステルカラーの花色とすらりとした花穂の風にゆれる姿が優しい印象ですホテルへの途中スーパーにより、いつものように今夜の買い出し。18:00宿泊ホテル『グリーンヒルサントピア』所在地:滋賀県甲賀市水口町北内貴1-1前回に続いての宿泊、朝食付きで5,000円とリーズナブル今回は洋室であった年寄にはやはり洋室が良い大風呂に入った後、部屋で明日のスケジュールを確認しながら宴会。明日からいよいよ最後の道中記である。 最後の弥次喜多移動日ーEND
2020.05.01
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