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東海道53次シリーズの間に、3月6日(金)に旅友のKさんと源頼朝ゆかりの地、石橋山古戦場へ行ったヒロ散歩を3日間アップします。この日の主目的は『根府川のおかめ桜まつり』であったが、かねてより伊豆方面へ行く途中、石碑等を見ており、二人とも行ったことがないとのことでカーナビを『佐奈田霊社』にセット。西湘バイパスの早川I.Cから国道135号を走り、途中から斜め右の山側へ入り細い道を上る。3/6(金) 7:47JR東海道本線を越える東海道を越えると右手に『石橋山古戦場』、源頼朝挙兵之地の石碑、佐奈田霊社の道標石橋山古戦場この附近は、源頼朝が治承4年(1180)8月20日に挙兵し、伊豆国目代山木兼隆を討ち取る。その後、相模国へと兵を進める頼朝は大庭景親率いる平氏方の多勢とこの地で『石橋山合戦』を行なったのであった佐奈田霊社 駐車場へ到着。天気予報を見て行動したので、今日は快晴、途中西湘バイパスからも富士山が綺麗に見えていたがここでは残念ながら見えず、しかし、おかめ桜が綺麗に咲いていたおかめ桜が点在して植えられていたおかめ桜は寒緋桜と豆桜をかけあわせた栽培品種で、イギリスで誕生しました。日本に里帰りの際、日本人になじみのある ”オカメ” と名付けられましたと青空に映えるおかめ桜寒緋桜と同じように花数が多く、下向きに咲いている。花が小さいのは豆桜似か?佐奈田霊社 行事予定 元旦日ノ出護摩供・・・・・・1月1日~1月3日 例祭日・・・・・・・・・・・毎月23日 護摩供修行・・・・・・・・・随時 祈願別 ぜんそく・せき・のど・家内安全・身体安全・商売繁盛・自動車安全祈願・ 交通安全・その他 と全てに御利益がある石橋山古戦揚と佐奈田霊社この附近は、源頼朝が治承4年(1180)以仁王の遺命を受けて平家追討の挙兵をした処である。 このとき、相模の名族三浦党の岡崎四郎義実や、その子真田(佐奈田)与一義忠も参陣した。 しかし、急の挙兵のため、頼朝軍は僅か300であり、攻撃の平家軍は大庭景親以下3000であ ったため頼朝軍は忽ち苦戦となった。このとき真田与一は、15騎て豪雄俣野五郎の75騎と戦い、両将組討ちとなったが与一が勝ったが俣野は組み敷かれ、与一はこれを討とうとしたが 刃に付いた血が固まり短刀がさやから抜けず手間取ったうちに駆けつけた敵のため25才の命を花と散らした。与一の郎党文三家安は、主の討死を聞き群がる敵中に飛び入り主人の跡を追い討死した。この後、討死の地には与一塚が建てられ与一を祭神とする佐奈田霊社が祀られた。 また、その先100mの処には、文三を祭る文三堂があるが共に今日県指定史跡となっている。 霊社下の畑は、組討ちした処と伝えられねじり畑と呼ぶが、このためかこの畑の作物は、すべてねじれてしまうとも伝えられる。頼朝は、建久元年(1190)伊豆山権現参詣の帰途両基を訪れ、無き両人の忠節をしのび涙を流したと伝えられる石柱は『史跡 源頼朝 石橋山古戦場 佐奈田霊社』所在地:神奈川県小田原市石橋420佐奈田霊社の境内へ『小田原ふるさとの原風景百選』案内板。 5,石橋山古戦場と佐奈田霊社 石橋山の合戦場(米神、石橋)は、治承4年(1180)、以仁王の命令を受けて挙兵した源頼朝が 平家方の大庭景親、伊東祐親らと戦ったところ。 佐奈田霊社は、頼朝方の先陣・佐奈田与一義忠の遺骸を葬ってある与―塚の傍らに建ってい て、与一の戦死の故事に、せき・ぜんそくなどに霊験があると言われている観音堂と拝殿?観音堂の扁額「観音堂」神奈川県指定史跡『石橋山古戦場のうち与一塚及び文三堂』。石橋山古戦場は、治承4年(1180)8月23日に源頼朝が以仁王の命令(令旨)を受けて挙兵したところです。ここで、頼朝の軍は平家方の大庭景親、伊東(伊藤)祐親らと戦い敗れましたが、箱根外輪山の複雑な地形と土肥一族や源氏方の人々によって助けられ、落ちのびました。その後勢力を盛り返し、平家を倒し、鎌倉幕府を開くにいたりました。 与一塚と文三堂は、この合戦の際、頼朝方の先陣を命じられて戦死した佐奈田(真田)与一義忠と その家臣文三(豊三)家康(安)を祀ってあるところです。 佐奈田与一はこの戦いで、大庭景親の弟俣野五郎景久と一騎討ちになり、景久を組み伏せましたが、刀が抜けず(この前に敵将を討ち取った際、刀を拭わずに鞘に差したため)、敵方の加勢により討ち取られてしまいました。その討ち取られた場所が「ねじり畑」と呼ばれています。また家臣の文三家康は主人の討死後、敵陣に斬りこみ、八人を討ち取って壮烈な戦死を遂げました。 「吾妻鏡」には、石橋山合戦後の建久元年(1190)に頼朝が伊豆山権現参詣の帰り、佐奈田与一と文三家康の墓を訪れ落涙したと記されているので、戦死後まもなく墓が築かれたようです。その後、佐奈田与一は神霊として佐奈田霊社に祀られ、現在も信仰を集めています佐奈田霊社への表参道の石段を見下ろす石段を上った左右にある石碑。左に明治天皇の第六皇女の常宮昌子殿下の『常宮殿下御手植松』右に明治天皇の第七皇女の周宮房子殿下の『周宮殿下御手植松』碑。 御手植え松とあるが、松がなく住職に聞くと『桜』を『松』と呼んだと。中央には、「川崎 古式消防?保存會」の石柱 境内からの三浦半島方向ここからの初日の出も良いのでは。定置網も、下を走る国道135号線沿いには魚料理のレストランもあるJR東海道本線を見下ろす石段を登り拝殿方向へ、石段の左右に親子の『狛犬』 左手の『狛犬』は父親であろう。かわいい子供が背中に乗っていた右手の『狛犬』は母親であろう。こちらは足元に子供を抱き寄せて左手に「御神木」と「与一塚」大正7年正月𠮷祥日『御神木』 治承四年八月、義忠公戦士の時、臣家安其遺骸を埋めて傍らに植うる所と傳ふ 小田原市 佐奈田飴本舗 劔持真作 県指定史跡『与一塚』 以仁王の平家追討の令旨によって兵を挙げた源頼朝が石橋山で平家軍と戦い大敗を喫した。このとき頼朝より先陣を命じられた佐奈田与一は、大庭景親の弟俣野五郎景久を組み伏せ刀を抜こうとしたがなかなか抜けず、手間取っているうち敵の応援によって討ち取られたという。 与一の亡骸は与一塚に葬られ、その傍らには与一を祀る神社が建てられたのだと現天皇陛下の『徳仁親王殿下登山記念之杉』何年に植えられたのかは未確認木陰から相模湾を望む霊社の場合の呼び方は拝殿?住職から「霊社を探しているのですか?」と、霊社とは神と仏を祀る社で日本では数少ないと。親切なご住職さんで、喉の祈祷をしてくれ、のど飴も買えると(ネット情報)軒唐破風屋根の正面鬼瓦。紋は「丸に三つ引き」。佐奈田霊社は、三浦一族の岡崎義実(三浦義明の弟)の子・『佐奈田与一義忠』を祭神とするので三浦一族の紋と同じなのであろう扁額「佐奈田霊社」木遺塚、常夜燈とあるが社殿の下には「ぜんそく・せき・のど」気管支炎等、等、日本唯一の祈願所ですと奉祝碑『天皇陛下御在位六十年』 昭和60年11月吉日。 この石碑も、「江戸消防記念會」消防に関係する霊社か?表参道を振り返る、桜の時期もまた良しか境内の隅に、そろばんの石碑『五三七九八八九八〇〇八四六四五』は 『誤算なく 速くやれればよろしい』と。即ち正確 迅速が計算の使命なりと 玉誠8:12駐車場へ戻り、快晴の空におかめ桜が満開8:18この後『佐奈田霊社』を後にし、狭い道を『文三堂(ぶんぞうどう)』に向かって車を進める。 途中右側にあったのが、『佐奈田霊社』の表参道の階段。 『霊社』であるためか、鳥居の姿はなかった表参道の石段、数十メートルで境内へたどり着く。ここにも石段中央に「川崎 古式消防?保存會」の石柱来た狭い道を振り返る道の左手にいろんな案内板。『佐奈田与一義忠討死の地(ねじり畑)』の碑。治承4年(1180)8月23日、佐奈田与一義忠は、敵の豪将俣野五郎景久を組み伏せたが、駆けつけた敵方長尾新六に首を切られ、この地で討死にしたと伝えられる与一が敵方の俣野五郎景久を組み伏せた畑は「ねじり畑」として残り、作物が全てねじれてしまうという言い伝えがあるのだと道路標識8:20狭い道を進み左側にある、神奈川県指定史跡『石橋山古戦場のうち文三堂』階段を上ると正面に『文三堂』。石橋山古戦場にあるこの『文三堂』は、石橋山の戦いで先陣を切って戦い討死した佐奈田与一義忠の郎党陶山文三家康を祀る堂。 文三は、主人義忠が討たれると、敵陣に斬り込み8人を討ち取った後、稲毛重成の手勢によって討たれたのだとおかめ桜8:27狭い道を戻り、佐奈田霊社下へ 源頼朝ゆかりの地ー続く
2020.03.31
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関宿の町並みを散策、地蔵院で今日の道中記を終えJR関駅へ向かう。東の追分から地蔵院まで散策。関宿町並み(黄色の線が歩いた方向)1/21(火) 15:11地蔵院本堂と右側は西追分方向。次回はこの方向へ進む。ここまでの今日の歩数は、38,000歩でした。所在地:三重県亀山市関町新所1173-2地蔵院門前の町並み「会津屋」は関宿を代表する旅籠のひとつです。もとは山田屋と言い、お萬が育ったことで知られています。二階に洋風意匠の窓がついた「洋館屋」、米をつく水車の音から名付けられたという、「川音」、伝統のある鍛冶屋など、特色のある町屋が並んでいますポスト「書状集箱」地蔵院(国重要文化財)天平13年(741)行基により開かれたと伝わる。「関の地蔵に振袖着せて、奈良の大仏婿に取ろ」の俗謡で名高い関地蔵院。地蔵菩薩が本尊で日本最古の地蔵尊とされている。五代将軍・綱吉の母・桂昌院が関の地蔵尊を信仰し、そのお陰で綱吉が誕生したといわれる。境内の本堂・鐘楼・愛染堂の三棟が国の重要文化財に指定されています本堂の扁額「地蔵堂」本堂の欄間に飾られた彫り物竜を中心に地蔵院鐘楼、明治天皇関行在所の石柱地蔵院鐘楼(国指定重要文化財)鐘楼建立:寛永21年(1644)、同移築:元禄13年(1700)、梵鐘鋳造:寛文11年(1671)本堂の左側に、重要文化財「愛染堂」地蔵院の境内の角に、歴史の道の石碑左の石柱は「停車場道」明治23年、四日市と草津を結ぶ関西鉄道が開通した時、関停車場への道として整備されました。「ステーシッョン道」と呼ばれていたそうです15:19地蔵院を後に、緩い坂を下りJR関駅へ向かう15:25国道1号線の、地蔵院口交差点地蔵院口交差点にある、「関地蔵堂エ 二町」の石柱。案内板は「関宿重要伝統的建造物群保存地区」これより西へ450Mそれにしても長い地区名だ!街道 おんな唄・・・・・・前略・・・・・・・・。坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山 雨の春 負けないは きっと咲く花はつぼみよ関の宿 うす陽も こぼれる石畳江戸日本橋まで、423.8kmのキロポスト地蔵院口交差点とJR関駅の間にある「道の駅 関宿」所在地:三重県亀山市関町新所674-8ここの食堂の、味噌焼きうどん、トンテキが美味しいと!営業時間:9:00 ~ 18:00関駅前交差点の道路標識は、名古屋まで、73km、四日市まで、29km。これから列車で近鉄平田町駅まで戻り、ホテルから愛車で神奈川湘南まで帰るのだ。交差点角に「寿司 鈴鹿亭」15:33関駅前交差点の南に位置する「JR関駅」ここまでの今日の歩数は、39,100歩でした関町観光案内図国道1号線の関駅前交差点この時間帯は、一時間に一本運行、15:59に乗車し、加佐登駅へ帰る関西線(亀山方面) 加佐登駅まで、240円無人駅であったが、売店&観光案内所があった。駅構内の待合室にポスターお土産に「志ら玉」を購入餡は、こし餡観光雑誌で話題の関宿名物「鈴鹿亭の巻寿司」 1本 500円。「厳選素材を歴史ある秘伝の味付けで、心を込めて優しく巻き上げました」をみて、巻寿司が好きな私は欲しくなり、売店へ注文したが既に時間がなくあきらめたが、売店のおばさんから出発時間まで5分あればOKと言われオーダー。おばさんは電話をかけて注文、店へ駆けつけて持ち帰ってくれた。聞くと店は駅前にある寿司屋だった。自宅へ帰宅して深夜に食べたが美味しかった!駅舎内で亀山城のスタンプを捺印出発時間まで時間があり駅舎内の観光案内所で次回の宿泊場所等を聴く。今までは旧東海道沿いに、JR or 私鉄があったが土山宿には宿泊場所、鉄道が無いのでバス利用。JR関駅横にある駐車場1日300円とのことで次回はここへ駐車して、坂下宿、土山宿へ向かうことに15:58JR関西本線「関駅」無人駅でキップを買えずそのまま乗車、15:59発の列車に乗車して亀山へ亀山駅で、16:23発の名古屋行きに乗り換える16:31列車の中から今朝 8:50頃旧東海道を歩いている時、安楽川の和泉橋から見た飛行機。鈴鹿市西冨田町の中古建設機械販店の中にそびえ立っている16:37加佐登駅へ到着。下車の際、車掌と清算したがSUICAが使用できず現金払いJR加佐登駅から愛車を置いているホテルのある近鉄平田町駅まで約3キロあるので、駅前にはタクシーもなく、16:50発のバスを利用することにJRの普通運賃表17:10近鉄平田町駅前へ到着、乗車した鈴鹿市コミュニティバス近鉄平田町駅近鉄普通運賃表大阪難波、奈良、京都、名古屋、鳥羽・賢島 等17:20近鉄平田町駅前からホテルキャッスルイン鈴鹿へ戻り、愛車を受け取り帰路に付く。カーナビは、一般道優先で走り走行距離350km、到着時間は深夜の2時と標示。国道25号線(国1号)から国道23号線を走り蒲郡I.Cを出て、国道1号線へ合流。箱根越えの気温は、-1℃であったがカーナビの予定より早く、0:45に我が家へ到着した。東海道を歩く延べ26、27日目の道中記でした。次回は最後の難関、鈴鹿越えです。 庄野宿から関宿ーEND
2020.03.30
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新型コロナウイルスの感染もおさまらない中、この土日は各県から「外出自粛要請」!桜だけは例年より早く咲き。東海道五十三次もこの23日に完歩、現在は左ひざの養生中。3/28(土) 午前我が家のオッカナイを病院(エコー検査)へ連れて行き待っている間に、民家の庭に咲いていた桜を撮影。この桜の下にはキャンピングカーがあったが満開近くになっており出かけたいが明日(3/29)は雪との天気予報これからはわが家の庭の花たちです。マーガレットも満開に 黄色のカタバミこの葉をもみ、10円玉を磨くとピカピカに!(シュウ酸)クロッカス → ムスカリブルーベリーの蕾も大きくなる。今年も実をつけてくれるか、今後ネットを張り鳥との闘いにローズマリーの花勿忘草種が飛び散って毎年花を咲かせてくれるハナニラ(イフェイオン)原産地はアルゼンチンハナニラは春に、藤青色からピンク、白の星型の花をよく咲かせるイチゴの受粉が不十分リュウキンカも終わりに葉ボタンも伸び3/29(日) 10:00昨日とうって変わって今日は冬空に!朝から天気予報通り雪になる。もう数十年前のこの時期に雪が降り、送電線の鉄塔が倒れ数日停電になったことを思い出すべた雪この土日「外出自粛要請」があったのでよかったでは!昨日の感染者数は全国で200名になったと。東京では63例になりここ数日右肩上がり、院内感染が多いので病院の体制を今後検討する必要があるのではなかろうかと(素人考え) END
2020.03.29
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関宿の「中町の町並み」を進む。1/21(火) 14:51左手前は『関宿体験工房 彩花里 -アカリー 』所在地:三重県亀山市関町中町478関まちなみ資料館入 館 料 :大人=300円、小人=200円 3館共通券:大人:500円、小人=300円開館時間:AM9:00~PM4:30休 館 日 :月曜日(月曜日が休日の場合は翌日)関宿かるた「夕暮れに 閉める蔀戸(しとみど) すりあげ戸」鶴屋脇本陣 波多野家関宿かるた「泊まるなら 鶴屋か玉屋 会津屋か」鶴屋脇本陣 波多野家脇本陣は、本陣に準じる宿として、主に身分の高い人達の宿泊の用を勤めたが、平素は一般庶民も泊まることができた。鶴屋は西尾吉兵衛を名乗っていたので西尾脇本陣ともいった。二階避面に千鳥破風をのせた派手な意匠である街道右側に『問屋場跡』岩木屋 吉澤家同家は、屋号を岩木屋と称し、明治から大正にかけ酒造業及び味噌、醤油醸造業を営み、酒倉から「岩泉」と銘うった酒樽が次々と運び出されていた。明治17年の建築で連子格子や表座敷は典型的な明治頃の商家の構えである右側に『川北本陣跡』先の建物は、町並文化センター14:54百六里庭・眺関亭百六里庭:午前8時から午後5時まで開いています。午後5時からはカギをかけます。2階にある展望台から関宿のまちなみが一望できます。関宿かるた「日本橋 関宿からは 百六里」無料とのことで二階の展望台へ上る鈴鹿峠方面江戸方面を振り返る再度京方面には、地蔵院が見える旧東海道五十三次 四十七番目「関宿」西の追分(右側)から東の追分の1.8kmは、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。百六里庭(ひゃくろくりてい)とは、東海道の宿場町「関宿」は江戸から106里2丁のところにあったところから名付けました。1里とはおよそ、3.93kmです関宿内の名所の案内旧東海道の先を望む。左の石柱は「重要伝統的建造物群保存地区 昭和59年12月10日選定」14:57左手前が『伊藤本陣址』関宿には、川北本陣、伊藤本陣の二軒の本陣がありました。本陣は、参勤交代の大名や、公家、公用の幕臣などが利用した格式の高い宿泊施設です。現在残るこの建物は、本陣の店部分にあたります。関宿かるた「本陣を 歌川広重 浮世絵に」伊藤本陣は、間口 11間余、建坪 69坪、西隣の表門は唐破風造りの檜皮ぶきであった。現在残っている街道に面した部分は、家族の居住と大名宿泊時に道具置場に供する建物である伊藤本陣の右前方にある『橋爪家』同家は、代々橋爪市郎兵衛を名乗り、寛文の頃から両替商を営み、江戸にも出店を持ち大阪のこうの池家と並び称せられる豪商であった。江戸末期は芸妓の置屋として栄えた。街道に面して手摺付の二階妻入り建であるが、これは明治期の改造で、もとは平入の屋根であった橋爪家のこの建物は、街道に面して三角形の屋根を見せる、関宿ではめずらしいものです。関宿かるた「丸みある 屋根の形は 起り屋根」めずらしく観光客が現れた。東海道関宿 旅人宿「石垣屋」の、のれんが店先に、旅籠か?三重の古民家ゲストハウス 旅人宿 石垣屋。ネットで見ると、国の伝統的建造物に登録されている町家造りの風格のあるゲストハウス。男女別の布団敷きの和室の相部屋を提供する。無料Wi-Fiを完備と14:59関の戸 深川屋陸奥大掾の『庵看板(いおりかんばん)』所在地:三重県亀山市関町中町387関宿のもう一つの名物、深川屋の餅菓子「関の戸」は、江戸時代を通じて朝廷に献上された銘菓で、今でも関の名物である。赤小豆の漉し餡を求肥餅で包み、阿波の和三盆をまぶした上品な餅菓子である。いつか土産で購入したいものです!関の戸本舗深川屋(服部家)の『庵看板』瓦屋根のついた立派な看板。看板の文字は京都側が漢字、江戸側がひらがなになっています。旅人が向かう方向を間違えないための工夫だと言われています町屋の細部意匠関の戸 深川屋陸奥大掾の向かい側にある『関郵便局』関宿のほぼ中心にある関郵便局は、江戸時代には高札場があったところです。右側の案内板の下に『関町道路元標』の石柱このポストは、文化財保護法により選定された関宿重要伝統的建造物群保存地区の街並みとの調和を保ちつつ、みなさんに利用していただけるようにした特別なポストで、京都大阪に設置され現在は東京の逓信総合博物館に所蔵されている日本最古のものを模して作成したものです。日本の郵便ポストは明治5年(1871)の郵便創始あたり、東京に12ヶ所、京都に5ヶ所、大阪に8ヶ所のほか、東海道の各宿駅に62ヶ所設置したのがはじまりです。当時のポストは江戸時代の「目安箱」に似た木製の箱で「書状集め箱」と呼ばれていました関郵便局の前にある『関宿高札場』関宿高札場関宿の高札場は、江戸時代に描かれた数々の絵図を見ても、関宿中町北側(現関郵便局)にりました。当時この敷地は「御茶屋御殿」と呼ばれ、江戸時代初期においては本陣の役割を果たす施設でしたが、関宿に本陣が確立されてからは、亀山藩の施設として番所などが置かれていました。関宿高札場はこの御茶屋御殿の街道に面した位置にあり、街道に面した間口11間余のほぼ中央に、枡形状の土塀に囲まれてあり、高札場の建設、高札の付け替えなどは亀山藩が行っていました15:00町並みを振り返ると、初めて見る観光客が地元ボランティアの説明で『関宿旅篭玉屋』の前に。阪急かクラブツーリズムのツアーであった。「関で泊まるなら鶴屋か玉屋。またも泊まるなら会津屋か」と伊勢詣の旅人が唄った大旅籠の玉屋(村山家)は歴史資料館として公開されている。江戸後期の玉屋の旅籠賃は一泊二食付きで宿賃202文に茶料48文、合計250文だった(当時の東海道筋の旅籠賃は、200 ~ 300文)旧東海道を進む、前方に今日のゴール点『地蔵院』が見えてくる左前方に「志ら玉屋 前田屋製菓 関店」所在地:三重県亀山市関町中町407志ら玉団子や草餅、みたらし団子も美味しいこしあんの和菓子「志ら玉」店先で弥次さんに一個御馳走になる15:04街道から鐘楼門が見える『織田信孝郷菩提所 天台真盛宗 福蔵寺』天台真盛宗 福蔵寺鐘楼門 所在地:三重県亀山市関町木崎417鐘楼門右にある『薬師堂』御本尊は元千光寺の薬師如来で、幾多の変遷を経て明治43年当山に移されたもので、関宿の守護佛として厚く信仰されております。鐘楼門を入り、福蔵寺本堂、左に観音堂清浄山 福蔵寺のご案内当山は、天台真盛宗(本山は滋賀県大津市坂本 西教寺)に属します。創建は天正11年 織田信長郷三男信孝公の菩提寺として創建されました。本堂の御本尊は阿弥陀如来です。本堂左のお堂は観音堂で、馬頭観世音菩薩不動明王 元三大師をお祀りし道中の安全と関宿の繁栄を祈願しております。表門横のお堂は薬師堂で御本尊は元千光寺の薬師如来で、幾多の変遷を経て明治43年当山に移されたもので、関宿の守護佛として厚く信仰されております。裏門横には仇討烈女、関の小萬の墓と碑があります。客殿奥には英照皇太后(孝明天皇后)がご宿泊された書院が現存します(非公開)福蔵寺本堂福蔵寺の創建と織田信孝公織田信長の三男信孝公は本能寺の変で憤死した信長の冥福を祈るため、神戸の住人旧臣大塚俄左エ門長政に命じこの寺の建立にかかりました。しかし信孝公は羽柴(豊臣)秀吉との後継をめぐる争いに敗れ天正11年尾張の国野間に於いて自害させられましたので長政が当山に首を持参し信孝公の菩提寺としました。この墓は信孝公の墓石不詳のため(事由は不明)四百年忌を迎えた時、菩提を弔うため建立したものです。本堂には創建当時からの信孝公の位牌が祀られています本堂左に観音堂馬頭観世音菩薩不動明王 元三大師をお祀りし、道中の安全と関宿の繁栄を祈願しております天台真盛宗 福蔵寺を後にする旧東海道に戻り、関宿かるた「おとら川 主人を逃す 琴の橋」15:10いっぷく亭 地蔵町(関宿散策拠点施設)にあった関宿案内板関宿重要伝統的建造物群保存地区の航空写真上側が京方向15:11地蔵院前にある『川音 尾崎家』尾崎家は、関の地蔵門前町の米屋で鈴鹿川の水で米をつく水車の音から、屋号をとって川音と称した。同家は、文久頃の建物といわれる、間口7間半、通り庭をはさんで左手に座敷・右手に米を収蔵する家うちの土蔵がある。今は、尾崎酒店になっているが 庄野宿~関宿ー続く
2020.03.29
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関宿の散策を続けるが、人通りが少ない。関宿の町並みは、江戸から数えて47番目の宿場町。江戸から明治にかけて建てられて200軒あまりの古い町家が今も残り風情ある雰囲気をかもしだしている。1/21(火) 14:25関宿の町並みの進行方向は緩い坂に同じ場所から振り返るズームアップ弥次さんが街道右側の路地を入いる。左下の道標には「不動尊 弘善寺」、道路面にも「弘善寺 60米」14:29露地を入ると『弘善寺山門』所在地:三重県亀山市弘善寺本堂街道に出て振り返る(東追分方向)と、角にフランス料理の「Cercle セルクル」ネットではランチが美味しいとCercle セルクルの向かい側に、案内板には『御馳走場』御馳走場は関宿に出入りする大名行列の一行を、宿役人が出迎えたり見送ったりした場所。関宿には四カ所の御馳走場がありました。関宿かるた「うち揃い 殿様迎える 御馳走場場」手づくり郷土賞 建設大臣 野田 毅 歴史をいかした町並み 三十選 平成元年七月鮮魚青果物商 遊快亭昔は、この店と手前(一部のみ)の家が『開雲楼と松鶴楼』この二軒は関を代表する芸妓置店でした。東側の開雲楼を見ると、表の竪繁格子や弁柄塗りの鴨居や柱、こった意匠の二階手摺りや格子窓などにその面影を残しています関宿町並みの北側に位置する「大井家」街道方向を見る、左側に「大井家」大井家は、代々玄庵を名乗り医家であった。明治初年には西洋医学を学び種痘医として、また眼科、産科、内科医として地域医療に活躍した。「本草網目」など医学書の他、江戸末期の往診用の駕籠、医療機器などの一部が遺されている14:34関神社所在地:三重県亀山市関町木崎675関神社について明治5年頃、この神社は熊野皇大神社と呼ばれていた。昔関氏の祖、実忠が紀伊国熊野坐神社の分霊を勧請したものと伝えられ、境内の梛(なぎ)の木は、それに縁があるものと思われる。江戸時代には、熊野三所大権現と呼ばれた境内に入り二の鳥居関神社拝殿拝殿の扁額「関神社」関神社入口にある「木崎町(こざきちょう)山車倉」関宿の山車は、最盛期には十六基あったが、現在は四台の山車が残り四カ所に山車庫が残っている木崎町山車木崎町は関宿の東側の地域で、江戸時代には、神事構・宮構の二基の山車があり、各町の山車を宮の前(関神社)へ曳き込む際の先達を交互につとめていましたが、明治時代に二基とも廃止され、現在の木崎町山車にまとめられました。山車は、滋賀県水口町から購入したものと伝えられています。山車前部には、参加する町内各組の名前が書き込まれた提灯が並べられ、山車の周囲を飾る紅提灯には、「五七の桐」の図柄が用いられています。見送り幕は、風景をあしらったものと、「がま仙人」の図柄の二種類があり「がま仙人」の見送り幕を用いると雨が降ると伝えられています木崎町山車は、現存する四基の中でも最も規模が大きく、四つの御所車の上に囃手が座る囃場があり、その上に天場が乗る二層露天式といわれる構造形式です旧東海道に戻り街道の南側に「関の山車会館」所在地:三重県亀山市関町中町531関の曳山は、旧東海道関宿に江戸時代の元禄年間(1688~1703)から伝わるお祭りです。最盛期には、16基もの山車があり、横幕・見送り幕・提灯などを豪華に飾り付けて華美を競い合い、また、笛太鼓で祭囃子を奏でながら、家々の軒先をかすめ、人ごみをかきわけて巡行する様から、「この上は無い、精一杯である」という意味が用いられる「関の山」という言葉の語録になりました。現在、木崎町・大裏町(北裏)・中町三番町・中町四番町の四基の山車が保存されており、祭りは毎年7月下旬の土・日曜日に開催されています関の山車会館山車庫には巨大な山車や関連のものが展示してある入館料: 関の山車会館単独入館料 大人=300円、小人=200円 関宿旅籠玉屋歴史資料館・関まちなみ資料館・関の山車会館3館共通入館料 大人=500円、小人=300円開館時間: AM 9:00 ~ PM 4:30 休 館 日 :月曜日(月曜日が休日の場合は翌日) 百五銀行町並みに配慮した意匠の銀行。平成9年度、三重県さわやかまちづくり賞(景観づくり部門)を受賞した百五銀行 関支店所在地:三重県亀山市関町木崎588和洋レストラン 山石所在地:三重県亀山市関町中町521 百五銀行関支店前??・明治・大正・昭和の雰囲気の中での???いかがですか!!美味しそうな幟「名物 亀山みそ焼きうどん」いい雰囲気であったが、生憎玄関先に「忌中」の貼り紙。いつか国道1号線を走るとき立ち寄りたいものです、”9”の付く日はステーキ定食が半額!営業時間:8:00 ~ 21:00 で、無休?店の角に道標南:関駅、東:江戸、西:京都関町 関宿 の案内石が左下に関町 関宿国選定 重要伝統的建造物群保存地区10周年記念 東海道のおひなさま 開催期間:令和2年2/15(土) ~ 3/7(土)馬つなぎの環金具(わかなぐ)玄関の柱に打ち付けられた馬をつないだ環金具。土台などの低い位置にあるものは、牛をつないだものです。関宿かるた「環金具に 手綱つながれ 馬や牛」中町の町並みを進む幟がたっており、人通りはないが商売はしているようだ14:47曹洞宗 瑞光寺所在地:三重県亀山市関町木崎799権現柿関宿かるた「瑞光寺 今も実りの 権現柿」瑞光寺中興開山豊屋永隆和尚は、三河国(現在の愛知県)宝飯郡に生まれ、幼少の頃徳川家康と親交があった。永隆の弟子隆眞が、元和元年(1615)に記録した「開山和尚伝」によると、家康は、上洛の際当寺永隆和尚を訪ね、庭先の柿を賞味したことから、後世、この柿を「権現柿」と呼ぶようになった。瑞光寺は、応永4年(1371)の創立といわれ、小野川の上流にあったが、兵火により焼失した。その後、永禄~天正年中(1558~1591)に、当時の亀山城主関安芸守盛信が菩提寺として現在の地に移し再興したと言われている瑞光寺本堂本堂の扁額「瑞光禅寺」観音堂鬼瓦関宿かるた「平家の血 関氏家紋 揚羽蝶」鐘 楼手前に石柱があるが判読できず14:49観音堂と本堂(右)観音堂の扁額 庄野宿~関宿-続く
2020.03.28
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世の中、新型コロナウイルスで騒いでいる中、東海道五十三次のゴール三条大橋への道中を計画、天気予報から3月20日(金)に三泊四日で、弥次さんと車で甲賀市の水口宿へ移動。一日目は、水口宿の水口石橋から草津宿手前のJR手原駅まで歩く、一日の歩数は40,563歩。二日目は、JR手原駅から大津宿のJR大津駅まで歩く、一日の歩数は41,010歩。三日目は、JR大津駅から三条大橋へ歩き13時にゴール、ここまでの歩数は25,700歩。2018年2月15日(木) に江戸日本橋をスタートしてから25か月、延べ日数32日目での達成。なお、今回の延べ日数30~32日目の道中記は後日アップします。三日目(3/23)の朝6:09 ホテル部屋からの日の出3/23(月) 13:00快晴の三条大橋交差点へ到着三条大橋交差点から振り返る鴨川に架かる三条大橋新型コロナウイルス問題前の人出を知らないが観光客が少ない感じ弥次さんと記念写真通りがかりの人に依頼して撮影願う。タオルは弥次さんが袋井宿で購入して準備していた。江戸日本橋から、約2年間(25カ月)、延べ日数32日で完歩したツアーに参加すると、「完歩証」、「トロフィー」がもらえるのだが弥次さんが作成してくれた「完歩証」著作権で削除しました。三条大橋を渡り、橋の西側にある「弥次さん喜多さん像」へ鴨川の上流側三連休後の月曜日であったが、河川敷には多くの若者が同下流側河岸には、柳が芽をふき、桜も一部咲き三条大橋この橋の架けられた年代については明らかでなく、室町時代前期には、すでにごく簡素な構造を もつ橋として鴨川に架けられていたものと推定されるが、本格的な橋となったのは、天正18年(1590)で、豊臣秀吉の命により奉行増田長盛が大改造を行った。かつてはここが東海道五十三次の西の起点にあたり、重要な交通上の要衝であった弥次さん喜多さん像の前で記念写真弥次さん喜多さん像旅友のKさんは私を、「女性好き、喧嘩が強く、豪放磊落な性質」と言うが。延べ日数32日で完歩したが、弥次さんとの道中記は28.5日であった京阪電車 三条駅ビル乾杯したかったがこの後、大津市の瀬田のホテルへ戻り運転をして帰るので飲めず歌川広重の『東海道五拾三次 京師 三条大橋』二日目の昼過ぎから左ひざの古傷に傷みが発生、三日目の朝はどうなるかと思ったが、どうにか完歩できた。 ENⅮ
2020.03.27
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太岡寺畷(たいこうじなわて)を西へ進む。鈴鹿川の左岸(北堤)約2kmの太岡寺畷は東海道で二番目に長い。当時の道は松並木だった。現在は一部に桜並木が残る。1/21(火) 13:46鈴鹿川の西方向名阪国道(国道25号線)のカルバート下に描かれた、歌川広重三重県下七つの宿上の高架橋は、東名阪自動車道、右は名阪国道(国道25号線)鈴鹿川に架かる、左は名阪国道(国道25号線)、右は東名阪自動車道太岡寺畷橋太岡寺畷橋から、旧東海道を振り返る鈴鹿川の上流の鈴鹿山脈太岡寺畷をひたすら進む、前方には鈴鹿山脈の山並み、天気がよければ最高であったであろう前方に何もなく旧東海道を振り返る、青空が出ている。東名阪自動車道の高架橋農村集落排水処理場か?田んぼの中には「小野地区土地改良事業 竣工記念碑」鈴鹿川 河口より 26km太岡寺畷もようやく終了、右前方にJR関西本線の踏切が見えてくる鈴鹿川の堤防に「河川の維持管理を行っています」14:00JR関西本線の小野踏切同踏切から亀山方面を望む、高架は東名阪自動車道国道1号線の小野川橋東詰交差点鈴鹿川の支流、小野川を渡る。日本橋から422.4kmのキロポスト14:05小野川を渡り右へ進み関宿へ入る。国道1号線の右側に「東海道五十三次 関宿」の看板。ここまでの歩数は、33,800歩になっていた亀山ライオンズクラブ 45周年記念事業 2011廻りの山々が描かれている関宿総合観光案内図関宿は東追分から、木崎の町並み、中町の町並み、新所の町並み、西追分と西方向へ歩く右側に『関の小萬(こまん)のもたれ松』現在は松は枯れているが関の小萬(こまん)のもたれ松江戸も中頃、九州久留米藩士牧藤左衛門の妻は良人の仇を討とうと志し、旅を続けて関宿山田屋に止宿・一女小萬を産んだ後病没した。小萬は母の遺言により、成長して三年程亀山城下で武術を修業し、天明3年(1783)見事、仇敵軍太夫を討つことができた。この場所には、当時亀山通いの小萬が若者のたわむれを避けるために、姿をかくしてもたれたと伝えられる松があったところから「小萬のもたれ松」とよばれるようになった。 「関の小萬の亀山通い 月に雪駄が二十五足」 (鈴鹿馬子唄)旧東海道の木崎の町並みを進むせきのおすいマンホールこのデザインは関宿を歩く旅姿がかわいい関宿は天武天皇の命により飛鳥の都を守るために設けられた日本三関のひとつ、鈴鹿関は延暦8年(789)廃止されたが、鎌倉時代に再び関所が設置され、地名の由来となった。室町時代中期には宿場の機能を有し、中世には地蔵院の門前町として発展した。関所はその後、織田信長によって再び廃止。東の追分は伊勢別街道、西の追分は奈良へ通じる大和街道との分岐点として重要な宿場でった。城下町の亀山宿での宿泊を避けた大名や伊勢参詣の旅人が多く宿泊し「関は千軒、女郎屋は沽券、女郎屋なくして関たたぬ」と歌われたほど、旅籠のほとんどは飯盛旅籠だった14:14東の追分、伊勢神宮の鳥居、関一里塚ここ東の追分は伊勢別街道の分岐点で鳥居は伊勢神宮の式年遷宮の際、古い鳥居を移築するのがならわしになっています。江戸方への次の宿は亀山宿です。道標には外宮(伊勢神宮)まで15里(60キロメートル)と刻まれています木の根元に一里塚の石柱関が歴史に登場するのは、7世紀この地に「鈴鹿関」が設けられたのがはじめてで、これが地名の由来ともなっています。慶長6年(1601)徳川幕府が宿駅の制度を定めた際、関宿は東海道五十三次で47番目の宿場となり、問屋場や陣屋なども整えられました。古文書によると天保14年(1843)には、家数632軒、本陣2、脇本陣2、旅籠屋42があったとされ(東海道宿村大概帳)鈴鹿峠を控えた東海道の重要な宿駅としてまた伊勢別街道や大和街道の分岐点として、江戸時代を通じて繁栄しました。関宿かるた「暗い道 ほのかに照らす 常夜灯」、「のんびりと 旅人休む 一里塚」関宿の名物は火縄で火縄銃に用いたほか、火種の保存にも多く使われた。大名からの需要のほか旅人が煙草用に買い求めた。もう一つの名物、深川屋の餅菓子「関の戸」は、江戸時代を通じて朝廷に献上された銘菓で、今でも関の名物である町並みは「亀山市関宿重要伝統的建造物群保存地区」 昭和59年12月10日 選定されている木崎の町並みを進むが人通りがなく木崎の町並み観光客も少ないのか14:20いっぷく亭 木崎 関宿散策拠点施設 となっていたが閉まっていた関宿かるた「盛信が 天正年間 町づくり」タクシーを呼べる場所のようだ隣からの侵入防止か?昼間というのに人がいない緩い坂を登る14:23宝林寺山門所在地:三重県亀山市関宝林寺本堂春には本堂前の桜が綺麗に咲く 庄野宿~関宿-続く
2020.03.27
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旧東海道の野村一里塚から関宿へ進む。1/21(火) 13:03野村一里塚を振り返る13:08旧東海度を進むが、新築された民家も格子戸大工の匠の技が継承されているのだと一安心するこちらの家も、一階の屋根裏があるのか13:10街道の左側に杭が亀山藩大庄屋打田権四郎昌克旧宅跡打田家は江戸時代初め頃近江国(滋賀県)から野尻村(布気町)に移住し、代々いくつもの庄屋をまとめる大庄屋を務めた。現在地から東海道を挟んだ北側にその屋敷があった。打田権四郎昌克(1641~1758)は元禄15年(1702)亀山領に関する記録集『九々五集』を編さんした大庄屋跡を振り返る、バス停は「野尻」小雨の中旧東海道を進み、街道はこの先を右方向へ13:12街道角に東海道の案内板毘沙門天所在地:三重県亀山市布気町毘沙門天前から街道を振り返る旧東海道を進む、雨が心配だが街道の左側に鬱蒼とした森があり、石鳥居13:15布氣皇舘太神社(ふけこうたつだい)所在地:三重県亀山市布気町1663拝殿までは百メートルほどありそうだ、既に弥次さんは参道の先に布氣皇舘太神社延喜式巻九「伊勢國鈴鹿郡十九座並小布氣神社」とあり、垂仁天皇18年の創始にかかる式内社です。社名の皇舘とは、垂仁天皇の御宇、天照大御神が忍山に御遷幸の折、大比古命が神田・神戸を献じたことに由来し、野尻、落針、太岡寺、山下、木下、小野、鷲山の七ヶ村を神戸郷といいました。・・・・・・・・・・・・布氣皇舘太神社拝殿南側から上ってきた鳥居本殿横の境内社布氣皇舘太神社本殿北側にある旧東海道へ戻る13:23旧東海道を進み、右側に古民家があり庭に石があるが?旧東海道を振り返る「神辺簡易郵便局」所在地:三重県亀山市布気町16213:25旧東海道の坂を下る前の左側に『昼寝観音』入口に「????翁頌徳碑」昼寝観音堂の前から『地蔵堂』、旧東海道昼寝観音から坂を下る坂を下ったところに案内板左側から下ってきた13:32旧東海道の案内板県道565号線、JR関西本線を越える陸橋を登る陸橋の下は、県道565号線、JR関西本線、関方面前方の高架橋は関バイパス(国道1、25号線)陸橋から降り、太岡寺畷(たいこうじなわて)へ向かう前方の高架橋は、関バイパス(国道1、25号線)。右下は県道565号線の布気交差点13:40太岡寺畷は、鈴鹿川の北堤に約2km続く東海道一の長畷。春は桜が満開に咲き誇る鈴鹿川の流れ。鈴鹿川沿いの太岡寺畷を西へ進む太岡寺畷(たいこうじなわて)のいわれ畷(縄手)とは、まっすぐな長い道のことです。太岡寺畷は、東海道が約2キロにわたって鈴鹿川沿いに築かれた堤の上を通り、東海道の畷道では随一の長さとされます。松尾芭蕉の七部集の一つである『ひさご』に、門弟の野径が「から風の太岡寺縄手吹透し」と詠んでいます。この太岡寺の場所については他に説がありますが、亀山においては古くから、この地であるとの認識がありました。かつては、「わしの想いは太岡寺 他に木(気)が無い松(待つ)ばかり」と謡われたほどの松並木で、大田南畝(蜀上人)が享和元年(1801)に江戸から大阪までの旅を記した『改元紀行』にも、「松の並木両行に立てり此間18町にて太岡寺縄手といふ」とあります。なお、太岡寺の地名は、かつてこの地にあった大寺である「六門山四王院太岡寺」に由来すると伝えられます伊勢ノ国 亀山まほろば街道保存のための協賛企業一覧太岡寺畷における桜の名所づくり春になると桜の名所になる太岡寺畷を振り返る13:46名阪国道(国道25号線)のカルバートを振り返るカルバート下には『東海道五十三次と歌川広重』の三重県下の七つの宿の絵が描かれていた。掲示されているこの作品は「五十三次亀山浮世絵版画館」所蔵の原画を複製拡大しました東海道五十三次『桑名』東海道五十三次『四日市』東海道五十三次『石薬師』東海道五十三次『庄野』東海道五十三次『亀山』東海道五十三次『関』東海道五十三次『坂之下』 庄野宿~関宿ー続く
2020.03.26
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亀山城京口門・梅巌寺から坂を下り、今日のゴール点関宿へ向かうが、JR関駅まではまだ一里強ある(約5km)。1/21(火) 12:32旧東海道の京口坂から、梅巌寺を振り返る旧東海道の京口坂を下り、竜川に架かる京口坂橋から北側を望む下の川は、竜川京口坂橋京口坂を下りる。旧東海道は色分けしているので進行方向がわかりやすい。坂の下の左側に休憩所があり、トイレも完備していた京口坂の右下にある『日蓮宗 妙亀山 照光寺』山門前にある『東海道五拾三次 亀山 雪晴』当山、東下の竜川よりのぞむ、京口門の勝景。旧東海道の京口坂は、大正時代半までその面影を留めていた。亀山宿12:36日蓮宗 妙亀山 照光寺所在地:三重県亀山市野村3丁目1-4照光寺本堂左端は『史跡 赤堀水之助(源五右衛門)の碑』赤堀水之助(源五右衛門)は、亀山藩主板倉重冬公の家臣青木安右衛門の許に身を寄せ、その推挙によって禄150石を賜り、馬廻り役として藩士に武道を教えた。しかし、元禄14年(1701)5月9日早朝、亀山城石坂門外で石井源蔵・半蔵兄弟に父兄の敵として討ち取られ、ここ照光寺に葬られた。兄弟が29年目にようやく本懐を遂げたことから、この事件は「亀山の仇討ち」として著名になり、仇討ちが行われた石坂門跡には、昭和7年亀山保勝会によって「石井兄弟亀山敵討遺跡」碑が立てられた照光寺の文化財妙亀山照光寺は、もと玉泉院と称する日蓮宗の寺院である。亀山藩主板倉重冬公(在任 元禄元年~宝永6年)の養母照光院(俗名筆子)は篤く法華経に帰依し、元禄2年(1689)野村京口門下に一宇を再興し、照光院の法号をとり寺号としたという。境内西にある墓地には、「赤堀水之助墓」、及び「山本善太墓」があり、いずれも市史跡に指定されている。山本善太は、阿波(現徳島県)の生まれで、天保2年(1831)32歳のとき亀山藩主石川総安公(在任文政3年 ~ 天保4年)に儒学者として召抱えられた。藩校明倫舎の教授となり「海内医林伝」など多くの著書を残したが、天保8年(1837)7月、38歳の若さで病没し、ここ照光寺に葬られた。その子一学(退職)、孫三省も明倫舎の教授を引き継ぎ、親子三代で石川家の儒臣として仕えた亀山における谷口一族関連資料は、京都の町人で法華信徒であった谷口長右衛門自榮(法悦)及びその一族が全国の街道沿いや寺院などに行った寄進活動のうち、亀山市域における状況を示す資料群である。照光寺に所在する谷口一族関連資料は次の四点である。 一、照光寺蔵谷口一族寄進題目塔 一、照光寺蔵谷口一族寄進紙本著色涅槃図 一、照光寺蔵谷口一族寄進軸装涅槃図裏面墨書 一、照光寺蔵谷口一族寄進断簡涅槃図裏面墨書 ・・・・・・・・・・・・・。旧東海道に戻り、照光寺を振り返る街道沿いの民家の土蔵12:41一休処骨董カフェ所在地:三重県亀山市野村3丁目2-11営業時間:11:00 ~ 17:00名物 伊勢うどんの幟があったが森家住宅 主屋一棟 国の有形文化財(平成23年) 亀山宿・関宿間の野村集落に所在。旧東海道の歴史的な町並みを伝え、貴重な建物である切妻造桟瓦葺で正面に切妻棟を付設、周囲に下屋をまわす。左手に土間、右手に居間を配し、さらに奥に座敷を設ける。妻を漆喰で塗り込め、正面は上屋を黒漆喰真壁、下屋に格子を設けるなど町屋的な表構えを見せる元旦を過ぎているが、玄関先のしめ飾り「笑門」旧東海道を左側に入り直ぐに小さな『心光寺』心光寺本堂本堂手前のこの碑は『彫刻 心光寺 十一面観音坐像』12:46旧東海道を進むと右手に『光明寺』所在地:三重県亀山市野村3丁目5-51浄土真宗 本願寺派 光明寺本堂前から山門を望む旧東海道を進む、この辺りは野村三丁目古民家の連子格子が続く12:50旧東海道左側に『浄土宗 亀鶴山無量院 慈恩寺』所在地:三重県亀山市野村3丁目18-1山門の右側に「阿弥陀如来」の石柱が立つ山門横に立つ「木造阿弥陀如来立像」慈恩寺本尊の阿弥陀如来立像は、亀山市はもとより三重県を代表する優品である。現在は浄土宗寺院の本尊として信仰されているが、薬師如来の可能性も指摘されている。伝来については、近在の忍山神社の神宮寺であった神福寺の本尊と伝えられるが、不明な点が多く詳しいことはわからない。像高161.9cm、蓮華座上に両足をそろえ、胸をそらすように・・・・・・・・・・。山門を入り境内へ本堂の扁額「亀鶴山}鐘 楼「慈恩寺縁起」によると本寺は神亀5年(728)聖武天皇の勅願によって、僧行基が野村に創建した薬師寺(長福寺)に自作の薬師如来を安置したことに始まると伝えられる。文明4年(1472)兵火により焼失。永正8年(1511)寺観を整え、天正3年(1575)には法相宗から浄土宗に改宗したが、その際、薬師如来を阿弥陀如来に改作したといわれる。天正11年(1583)羽柴秀吉の亀山攻撃で再び焼失。正徳6年(1716)に至り長福寺を慈恩寺と改称した。文化2年(1805)本堂が全焼したが、本尊は焼失を免れ現在に至る12:55鈴鹿亀山 まちかど博物館「亀山っ子」市民宣言展示場に匠の技、「忍山神社の傘鉾」、いろんな竹細工を展示12:56野村一里塚休憩所の向かい側にある「焼肉長治郎」に掲げられた説明板。『明治天皇御召替所跡:内池家主屋』明治13年5月、明治天皇は東京から山梨県を行幸され、続いて三重県で伊勢の内宮と外宮を参拝されました。東京へ帰る途中、高田山専修寺や、鈴鹿郡亀山を行幸されました。亀山では、陸軍の大坂鎮台のありのままのようすを見分するため、野村の高平(高飛山のことか)で、5月11日、12日に勢揃いを御覧になりました。その折、当家で御休みになり、御茶料として三円を下されました。現在・「焼肉長治郎」所在地:三重県亀山市野村3丁目17-23野村一里塚休憩所にあった近場の説明板前方右側に大きな木が現われる13:00野村一里塚ここまでの今日の歩数は、28,000歩に。所在地:三重県亀山市野村26町737-1史跡 野村一里塚の石柱説明の石碑があったが、よく見ると、一里塚は、江戸時代・・・・・中略・・・・・・・その上に樹木を植えた。この一里塚は、東海道の一里塚の一つとして築造されたもので、もと街道をはさんで南北に塚があったが、大正3年に南側のものは取り去られ、北側の塚のみとなってしまった。塚の上には、目通り幹囲5メートル、高さ20メートルの椋(ムク)の木がある。本県における旧東海道においては、桑名宿から坂の下宿の間に12か所の一里塚が設置されていたが、今、残るものはこの一里塚だけであり、わが国交通史上貴重な遺跡として、昭和9年1月22日国の史跡として指定された。別の説明場がなく苦慮しました樹齢400年の椋(むく)の木野村一里塚を後にするが電柱電線が景観を失っている旧東海道を振り返る13:03国の史跡としては、一考を! 庄野宿~関宿ー続く
2020.03.25
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亀山城址から旧東海道に戻り亀山城京口門へ進む。1/21(火) 11:45亀山城帯曲輪・二之丸広場亀山城二之丸・帯曲輪亀山城楠門跡二之丸から本丸へ通じる枡形門で、櫓門は安政元年(1854)の大地震で倒壊した山嵜雪柳翁遺剱之碑山崎雪柳軒は、文政11年(1828)の生まれ。利右衛門と称し、雪柳軒は雅号。槍術を音羽恭輔、馬術を早崎士太夫、さらに伊庭軍兵衛に心形刀流を学んで免許皆伝を得慶応元年(1865)、亀山に演武場を開いた。・・・・・・・・・・12:02石坂の左側にある『石井兄弟敵討の碑』、工事現場の中にあり分かりずらかった。延宝元年(1673)に信濃小諸藩、青山宗俊の家臣、石井宇右衛門宗春が、同僚の赤堀源五右衛門に殺された。宗春の長男・三之丞と次男・彦七は仇討をすべく、出奔した源五右衛門を追うが八年後、三之丞は返り討ちになり、次男は・彦七は海で遭難死してしまう。残った14歳の三男・源蔵と11歳の四男・半蔵が仇討をすることになった。二人は源五右衛門が水之助と名を変えて亀山藩に抱えられていることを突き止め、藩士の奉公人になり城内に入った。父を殺されてから29年目の元禄14年(1701)5月9日朝、下城してくる源五右衛門を待ち受け、石坂門を出たこの坂で討ち取った石井兄弟敵討の碑を振り返る亀山城の外堀左に先ほどの土蔵のあるお屋敷と右に蔦が生い茂る町家石坂(県道302号線)から、この先の坂を右に行くと旧東海道(県道647号線)。弥次さんが進む角に「東海道亀山宿の碑」がある12:07西町問屋場跡から、北方向の亀山城多門櫓を望む西町問屋場跡東町と西町からなる亀山宿では、代々宿役人であった東町の樋口家(本陣の家)と西町の若林家(家業は米問屋9が、十日あるいは二十日程の期間で定期的の交替しながら宿継ぎの問屋業務を担当していた。・・・・・中略・・・・・・・・。なお、元治2年(1865)には、若林家の借家や問屋場などは、日野屋に譲り渡されている旧東海道(県道647号線)を西方向へ進む軒先には「東海道亀山宿 西町 ひのや(日野家)跡」岡田屋本店前で記念写真玄関先には「東海道亀山宿 西町 おかだや(岡田屋)跡」12:10旧東海道の左側に道標左:停車場道、右:東海道道停車場道とは、明治23年四日市と草津を結ぶ関西鉄道が開通したとき、亀山停車場への道として整備されました。「ステーション道」と呼ばれていたそうです反対側の道標は、左:東海道、右:郡役所東海道と亀山城西之丸へ向かう分岐点に石標が立っていた。西之丸には、亀山藩の家老を努めた加藤家の屋敷跡が残っている加藤家の屋敷跡へ至る道は、わざと鍵の手に曲げる、いわゆる「枡形」と呼ばれる形態をとっており、城下町特有の防衛上の痕跡を見ることができる二階の構造をズームアップ枡形の隅に「青木門跡」亀山城の搦手門で、亀山城に泊まった徳川家康がこの門を通るときに、門一帯にアオキが茂っていることを称賛したことから青木門と呼ばれるようになったと伝えられます12:12旧東海道から北側に入り『加藤家屋敷跡』所在地:三重県亀山市西丸町545-1白と黒の対比が美しいなまこ壁を施した土蔵や長屋門など、武家屋敷の姿を今に伝える建物が残されています加藤内膳家は亀山藩主・石川家の石高600石の家老で、亀山城西の丸に屋敷を構えた。文化9年(1812)、二の丸御殿が焼けたとき、殿様の仮御殿となったほどの大きな屋敷だった。明治以降に母屋はじめほかの建物は移築されたが、屋敷地と長屋門、土塀、土蔵が残った。現存の長屋門は、亀山市により幕末の姿に修復された亀山藩主石川家家老加藤家屋敷跡、加藤家長屋門及び土蔵開館日時のご案内 開館日:土・日・祝 開館時間:9:00 ~ 16:30 入館料:無料 訪問した日は休日で見学できず加藤家屋敷の西側にある「西之丸庭園」所在地:三重県亀山市西丸町556-612:16旧街道に戻り進むと、左手に『旧舘家(たちけ)住宅(枡屋)』枡屋は幕末から大正にかけて呉服屋を営んでいた大店で、現在の主屋は明治6年(1873)に建てられました。亀山宿を代表する商家建築として平成19年に市指定文化財(建造物)に指定された。西側に立派な土蔵がある格子に「東海道亀山宿 西町 ますや(枡家)跡」見学可能だが、ここも開館日は、土・日・祝 で見学できず旧東海道の南側に『善導寺』があるが見忘れたので、3月20日(金)水口宿に車での移動日に、再度立ち寄り撮影しました。浄土宗 善導寺所在地:三重県亀山市西町327元は亀山城本丸付近にあり、岡本宗憲が築城するにあたって現在地に移転したと伝えられる古刹です山門から本堂梵鐘の無い鐘楼太平洋戦争で供出したのか裏門からの境内12:17旧東海道を右に曲がり北上する旧東海道を振り返る(南方向)12:18亀山城西之丸外堀弥次さんを見失い携帯電話で所在を確認してしばし待機。東方向は先程行った、亀山市城西地区コミュニティーセンター・西之丸庭園、加藤家屋敷亀山城西之丸と外堀亀山城は、それまであった戦国期の亀山城の城郭を母体とし、岡本宗憲により天正18年(1590)に築かれました。築城時には、本丸・二之丸・三之丸からなり、天守もあげられていたとされます。寛永13年(1636)本多俊次が城主となると亀山城の大改修に着手し、西出丸や東三之丸、西之丸が整備され、この形状が明治時代まで続きました。西之丸は、亀山城の西南部分にあたり、家中屋敷と表記されることもあり、作事場や重臣の屋敷他のほか文政6年(1823)には藩校「明倫舎」もおかれました。この復元した西之丸外堀は、城の外周を取り囲む亀山城外堀の一部で、特に東海道と外堀が並行して接する場所にあたり、防御上、また城の景観上重要な場所でありました。町屋側には番所、復元地南の西之丸側には西之丸西櫓がありました。・・・・・・・・・12:20西之丸外堀築造技術今回の西之丸外堀復元に伴い平成21年度に行った発掘調査で、外堀の基礎とみられる構造体が確認されました。また、同年実施の亀山中学校改築工事に伴う西之丸発掘調査においても、同様の外堀基礎構造体が確認され、外堀の築造方法が明らかになりました。ここでは、比較的遺り具合のよかった亀山中学校内で確認された例をもとに説明します。写真は左:出土した外堀の基礎構造体、右:③の割竹の編み込み12:27旧東海道を進む塀に「東海道亀山宿 西新町 しおや(塩屋)跡」旧東海道の緩い坂を下る、弥次さんが右側へ12:30京口門跡亀山宿の西端、西町と野村の境を流れる竜川左岸の崖上に築かれた門である。「九々五集」によれば、亀山藩主板倉重常によって寛文12年(1672)に完成したとされる。翌延宝元年(1673)に東町に築かれた江戸口門とともに亀山城総構の城門として位置付けられ、両門の建設によって東海道が貫通する城下の東西が画された。京口門は石垣に冠木門・棟門・白壁の番所を構え、通行人の監視にあたっていた。また、門へ通じる坂道は左右に屈曲し、道の両脇にはカラタチが植えられ不意の侵入を防いだとされる。大正3年(1914)、京口橋が架けられたことで坂道を登る道筋は途絶えてしまったが、往時は坂の下から見上げると門・番所がそびえる姿が壮麗であったことから、「亀山に過ぎたるものの二つあり伊勢屋蘇鉄に京口御門」と謡われるほどであった歌川広重「東海道五十三次」のうち「雪晴」をはじめとする風景画の舞台として著名である 歌川広重 東海道五拾三次内亀山『雪晴』(保永堂版)京口門跡近くにある『梅巌寺』所在地:三重県亀山市市ヶ坂町671境内へ入る弥次さん雪景色亀山城は広重の画に見るがごと石垣高し 伊藤宜之浄土宗 純一山常壽院 梅巌寺 山門梅巌寺 本堂亀山藩主石川家菩提寺亀山城付近には、亀山藩主石川家菩提寺である、梅巌寺、本宗寺、本久寺があります。これらの寺はもともと亀山にあった寺ではなく、石川家の転封にともない移転や創設されたものです。石川家歴代藩主の墓は大部分が江戸の大久寺にあり、亀山にはありません。なお、本宗寺本堂は、亀山城三重櫓の旧部材を使って建立されたものです境内の梅梅巌寺『鬼瓦』梅巌寺『鬼瓦』縁起明治45年(1912)5月本堂が全焼。その後、大正2年(1913)7月再建された当時の鬼瓦である。昭和59年(1984)5月、屋根葺き替えにより役目を終え、境内に安置される。亀山藩主 石川家の菩提寺であるため、瓦に「笹竜胆」の家紋がおかれている。遍照寺の鬼瓦にも笹竜胆の家紋があった 庄野宿~関宿ー続く
2020.03.24
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遍照寺の住職のお母さんか奥さんから軽い説明を受ける。1/21(火) 11:18遍照寺本堂本堂は、天保14年(1843)7月に火災で采皆鳥有に帰した。十八世圓明上人代(明治6年)、豪商佐川源治氏の発起により、亀山藩二之丸御殿の式台と玄関が移築された。現在の本堂は、その面影を留めている唯一の建造物である。正面玄関には、石川藩の笹龍胆(ささりんどう)の家門がそのまま残され、千鳥破風の下り棟には、上り亀と下り亀の装飾瓦が対峙して置かれ、郷土亀山のシンボルとして万年の命を寿いでいる。破風の三角形の頂点に、欅造りの懸魚が下がっている本堂の上には、石川藩の笹龍胆の家門欅造りの懸魚 ?千鳥破風の下り棟には、上り亀装飾瓦下り亀の装飾瓦が対峙して置かれ、郷土亀山のシンボルとして万年の命を寿いでいる本堂屋根に鯱本堂柱に「本尊 阿弥陀三尊 鎌倉時代」本尊の阿弥陀如来立像は、快慶の弟子の行快の作とみられます。脇侍の勢至菩薩立像は慶長4年(1252)院春、観音菩薩坐像は、同年、院寛の作です。いずれも県下のみならず全国的にも貴重な鎌倉時代彫刻の作例として、本尊は平成11年に、両脇侍は平成14年に三重県指定文化財(彫刻)に指定されています本堂前の境内には、弘法大師二十一像、無縁納骨塔、慈母観世音菩薩像が並ぶ境内から坂を登り鐘楼門へ鐘楼門と街道の間に遍照寺の鐘楼門を振り返る。天台真盛宗 延寿山地蔵院 遍照寺旧街道を下り軒先には「東海道亀山宿 万町 だいさく家(大作家)跡」カラーの亀山市のおすいマンホールのデザインは亀山城とハナショウブ旧東海道を進むと左側に『真宗高田派 梅照山 誓昌院』所在地:三重県亀山市西町544境内へ入り本堂鐘 楼鐘の撞き棒はヤシの木本堂前から鐘楼、山門街道を下りきった所に、大きな屋敷があったが悲しい姿に、今にも塀が倒れそうだ。屋敷内には大きな土蔵が建つ昔は「東海道亀山宿 万町 あらものや(荒物屋)跡」であったようだが街道を進むと、蔦のツルの枯れた町家右側は、かつて亀山城の外濠だったところで前方に亀山城の多門櫓。亀山城へ立ち寄ることに、県道302号線を北上するが工事は何をやるのか?県道302号線の西側に、天然記念物『池の側松並木』亀山城石坂門から池の側(外濠)に沿って植えられた松並木で、昭和26年市天然記念物に指定された伊勢国亀山藩主板倉・石川氏の交替。伊勢亀山藩主板倉勝澄が、延享元年(1744)備中松山(岡山県高梁市)へ移った。板倉氏は重常が初めて入城した寛文9年(1669)以来五代に及ぶ亀山領有が終わり、石川総慶が備中松山から、亀山に替わった。石川氏は、昌勝(憲之)の時代に慶安4年(1651)から、寛文9年まで亀山に在職したので75年ぶりに旧領に戻った。板倉氏とは、二度目の交替になる。延享以後、板倉・石川両家中とも松山・亀山に、126年間の長きに渡り定着し、明治4年(1871)の廃藩置県に至った。総慶は、亀山に替わったときに、備中に一万石(十三ヶ村)の飛地領を残し、備中中津井村(岡山県上房郡北房町)の陣屋には、代官所が置かれていた。領界を示す「従是東北伊勢国亀山領」の石柱が、現在も陣屋跡に保存されている。この案内板は、姉妹提携を結んでいる亀山、高梁両ライオンズクラブより贈られたものである昭和56年2月 亀山・高梁 両クラブ姉妹提携記念 平成元年3月 建立県道302号線を北上すると左手(西方向)に、亀山市立亀山中学校道路脇に融雪剤の、ロードクリーン「塩化カルシウム(粒状)」伊勢亀山城の多門櫓飯沼慾斎生誕之地の石柱慾斎(1783~1865)は、亀山西町で西村守安の次男として生まれました。12歳で美濃大垣の飯沼長顕のもとに身を寄せ、後に飯沼家に養子に入りました。京都で漢方医学と本草学を学び、さらに江戸に出て蘭学を修め、大垣で医者を開業しました。50歳で引退後、研究に没頭しわが国で初めてリンネ分類法による植物の分類を行い、『草木図説前篇』を著しました。旧来の本草学を科学的に立証された植物学へと転化させ、また、火薬調合や写真撮影法の研究を行うなど、わが国の近代科学の礎を築いたひとりです11:34史跡 亀山城址所在地:三重県亀山市本丸町575-2今回も続日本100名城に入らなかった『亀山城』ここまでの歩数は、23,600歩伊勢亀山城は、鎌倉時代の文永2年(1265)に関実忠により築城された。江戸時代初期の寛永9年(1632)、丹波の亀山城の天守の解体を命ぜられた堀尾忠晴が伊勢亀山城と勘違いし、天守が取り壊された。城主三宅康盛は一万二千石に過ぎなかったため、「天主は贅沢だ」と取り壊されたと思ったという話が残る伊勢亀山城伊勢亀山城は、鎌倉時代の文永2年(1265)、若山(亀岡市若山町)に関実忠が最初に築城し、元亀4年(1573)織田信長により関盛信が追放されるまで、関氏16代の居城であった。ただし、関氏時代のうちに現在の位置に遷されたとされ、発掘調査においても戦国時代末頃の空堀が確認されている。天正18年(1590)岡本宗憲が入城後、新たに築城したとされ、この城については『九々五集』に本丸・二之丸・三之丸からなり、天守も建てられたと記される。また、三宅氏が城主の時、丹波亀山城の天守を解体・・・・・・・・・・・・。寛永13年(1636)本多俊次が城主になると亀山城の大改修に着手し、東西700m、南北500mに及ぶ縄張りが確定する。城の外周は堀が廻り、・・・・・・・・・・・・・・。城主は八家がめまぐるしく入れ替わったが、延享元年(1744)石川総慶が城主となると、以後は石川家11代で明治維新を迎えることとなる旧亀山城多門櫓と手前に「与助井戸」多門櫓は見学できるが、開館日:土・日・祝 10:00~16:00 無料訪問日は火曜日で休館亀山城本丸東南隅石垣と多門櫓与助井戸亀山城本丸で使用されてきた井戸です。天正18年(1590)岡本宗憲による亀山城築城の際、この場所にあった民家「与助鍛冶」を城外へ移したとの伝承から「与助井戸」と呼びならわされてきました。場外への抜穴伝説がありますが、確認されていません亀山城及び城下の歴史まちづくり案内亀山神社所在地:三重県亀山市西丸町570二の鳥居へ江戸時代中期の延享元年(1744)、備中国松山から石川総慶が亀山城に入城した際、城内に小祠を設けて奉斎したのが当社の創始。以来、亀山城内の旧館跡に鎮座して真澂神社として崇敬された。石川氏の祖である源義家と、六男の源義時、石川義純、石川家成が御祭神。明治4年(1871)、城北の若山の地に遷座し、明治9年(1876)に再び城内の本丸跡に遷座、村社に列し、明治14年(1881)に郷社に昇格しました亀山神社拝殿亀山神社拝殿の右側に「出世稲荷」亀山神社の南側にある、市指定有形文化財建造物『大久保神宮家棟門』門を入ると「亀山演武場」の石柱門に「第43回 日本古武道演武大会」のポスター 開催日2月2日(日)宝篋印塔(ほうきょういんとう)基礎部宝篋印塔基礎部この宝筐印塔基礎部は、この地にあった善導寺が西町へ移転された時に残されたものとされ、昭和26年の西小学校運動場拡張工事の際、取り壊された本丸石垣の中から五輪塔などと共に発見された。石材は花崗岩を用い、高さ53.1センチ、幅76センチの基礎と、二段の塔身を受ける部分からなる。基礎の四面はいずれも素面であり、輪郭や格狭間はない。銘文は・・・・11:42亀山公園 案内図昼前になりコンビニで購入したパン・おにぎりを食べ休憩ますみ公園に面してある機関車C58359号の概要この機関車は昭和19年1月27日に川崎車両神戸工場において製造され戦時から戦後の復興期を経て今日に至る26有余年雨の日も風の日も力強く走り続けてまいりました。そして機関車が果たした功績は、まことに輝かしいものがあります。しかるに時代の変せんと国鉄近代化計画によりなじみ深い姿を鉄路から消すことになりました。・・・・・・・・・・・・綺麗に塗装されていたが、定期的にメンテしているのか。展示するためにここへの輸送費がどのくらいかかったかと思いを巡らせ・・・・・。機関車の製造年、機番 庄野宿~関宿-続く
2020.03.23
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亀山宿は、いつごろ町が立てられたかは定かではありませんが、文明14年(1482)の文書に「亀山」とあることから、15世紀の終わりには町が成立していたとみられ、発掘調査の結果もこれを裏付けています。16世紀中頃には亀山城が築かれ、以後は関氏の城下として発展したことがうかがえます。江戸時代には東海道53次の江戸から数えて46番目の宿場町として、露心庵から京口門までの約2.5kmにもおよぶ宿となります。宿の置かれた亀山町は東町・西町からなり、さらにその中が9つの町に分けられていました。1/21(火) 10:44屋号札の掲示された亀山宿の東新町へ入る。軒先には「東海道亀山宿 東新町 まつばや(松葉屋)跡」新しく建替えられたと思われるこの町家も、伝統様式を踏襲されています軒先には屋号札の「東海道亀山宿 東新町 まつばや跡」亀山城下と併せた町の規模は大きいのですが、本陣・脇本陣は各一軒しかなく、江戸後期の段階で旅籠も21軒と多くありません。伊勢参拝の経路からは外れているため、紀行文などでは「さびしき城下」と表現されていることもあります。本陣や高札場など宿の主要な施設は失われていますが、宿内の随所にかつての面影を留めています。軒先には「東海道亀山宿 東新町 なべや(鍋屋)跡」、「東新町 かみゆいや(髪結屋)跡」新しい建物の壁に「東海道亀山宿 東新町 まつながや(松永屋)跡」、「東新町 かごや(籠屋)跡」格子戸・戸袋10:46旧東海道は県道566号線と合流右方向へ進む。右角に「第三銀行 亀山支店」、左側に「江戸口門跡」第三銀行の向かい側に「江戸口門跡」の案内板県立亀山高等学校、亀山東小学校延宝元年(1673)、亀山城主板倉重常によって築かれた。東西120メートル、南北70メートルで、北側と東側に堀を巡らし、土塁と土塀で囲まれた曲輪を形成し、東端には平櫓が一基築かれていた。曲輪内は3つに区画され、それぞれが枡形となっていた。この築造には領内の村々に石高に応じて人足が割り当てられ、総計二万人が動員されている。西側の区画には番所がおかれ、通行人の監視や警固にあたっていた。ただ、江戸時代前期においてはこの位置が亀山城下の東端と認識されていたことから、江戸口門は東海道の番所としてではなく、城下西端の京口門とともに、亀山城惣構の城門と位置づけることができよう。現在は往時の状況を示す遺構は存在しないが、地形や地割、ほぼ直角に屈曲した街路にその名残りをとどめている江戸口門跡から西方向の亀山城へ進む。ここのアーケード街も閑散としていた、先の交差点は「東町」向かい側のレストラン松阪牛の幟アーケード街に「とびだし注意!」東町交差点を通り過ぎ右側に入り「福泉寺」松風山 福泉寺所在地:三重県亀山市東町1丁目10-16-1福泉寺山門福泉寺はこの地域有数の古刹で、往古は天台宗であったが十五世紀後半に真宗高田派に改宗した。この門は、正面軒唐破風付入母屋造、本瓦葺、一間一戸の楼門で、棟札などから寛政7年(1795)の築造であることが明らかとなっている。このため、江戸時代後期における地方有力寺院の建築様式を顕著に示す貴重な例である。平成8年に市指定文化財(建造物)に指定されている福泉寺の本土、鐘楼亀山愛児園が併設されており、境内では園児が元気よく動き回っていた福泉寺の西側に隣接した「真宗大谷派 法因寺(ほういんじ)」山門前に「天然記念物 法因寺の左巻カヤ」「黒田孝富墓」の案内真宗大谷派 法因寺の山門所在地:三重県亀山市東町1丁目10-14法因寺本堂法因寺本堂の裏に回ると「天然記念物 法因寺の左巻カヤ」推定樹齢300年の巨樹で、実に見られる竪筋が左巻きとなる珍しいカヤの木です。昭和26年に市天然記念物に指定された「天然記念物 法因寺の左巻カヤ」と「黒田孝富墓」天然記念物の左巻カヤは倒れ防止の養生。鉄棒に挟まれた、黒田孝富の墓。黒田孝富(1834~1868)は幕末の武士で、京の勤皇派とのつながりが強く、郡代奉行に抜擢され藩政の改革を行った。明治元年、反対派により斬殺された。墓は本堂裏、左巻きカヤの樹下にある本堂前から、鐘楼と山門法因寺の山門を出る樋口本陣跡所在地:三重県亀山市東町1丁目2旧東海道(県道565号線)のアーケード街左側にある。手前に「脇本陣椿屋跡」もあったのだが見落とす 写真はウイキペディアから引用11:01旧東海道(県道565号線)はこの「江ヶ室交番前交差点」を左折する。直進すると亀山城へ至る高札場跡亀山城大手門前一帯は、宿の中心的な位置となり、高札場・本陣・脇本陣などの主要施設が集中していました。大手門から高札場にかけては広場となっており、城主在城時に諸大名が亀山宿を通過する際は、「御馳走」と称して出迎えの儀式を行うならわしとなっていました。立札が見ずらい江戸時代のこの場所は、大手門前で東海道が直角に折れて広場となっており、亀山宿の高札場はここに設けられていました。ここから江戸まで百四里、庄野宿まで二里、関宿まで一里半11:02江ヶ室交番前交差点を左折して旧東海道を進む。問屋場は宿の両端の東町と西町に一軒ずつあり、交代で人馬継ぎ立てを行った。宿場はひなびていて、にぎわいはなかったようで、旅人は美しい亀山城を見上げながら街道を往来した。現在は道路の拡幅や家の建て替えが進み、古い町屋は少なくなったが、家々に江戸時代の屋号が掲げられているので、往時を想像しながら歩くことができるこの辺りの街道は防御のため桝形になっている。町家の案内板を見る弥二さん、この辺りの街道は色分けされていた玄関横に「東海道亀山宿 横町 しろこや(白子屋)跡」に映る我が姿も疲れ気味(足に痛みがあり)弥次さんが見ていた案内板は『屋号札の掲示』 宿場のにぎわい復活プロジェクト亀山市は、江戸時代の城下町、また東海道46番目の宿場町として栄えた町です・・・・。同じ案内板が、能褒野神社の二の鳥居の下にもあった旧東海道を下る曲がりくねった旧東海道を下り、振り返る11:05街道の坂道の左側に『天台真盛宗 延寿山地蔵院 遍照寺(へんじょうじ)』所在地:三重県亀山市西町524室町末期の創建と伝わる。天台真盛宗で亀山有数の古刹。本堂は天保14年(1843)に焼失。明治5年(1872)、伊勢亀山城二の丸御殿の大書院と玄関式台部を移築し本堂とした。ここまでの今日の歩数は、22,000歩で右足が痛くなる遍照寺は、少なくとも17世紀初頭には所在していることがうかがえるものの、その開基や由来は明らかではない。しかしながら、寺に伝来する数多くの文化財からは古くからこの地に所在したことが想定できる街道から鐘楼門をくぐると急な坂で、坂の下に本堂があるため「頭で鐘撞く遍照寺」といわれた古刹。本堂は、亀山藩主在国中の居館であるとともに、亀山藩政務を執る政庁でもあった旧亀山城二之丸御殿の玄関と式台の一部を移築してできたものです。本尊の阿弥陀如来立像は鎌倉時代に作られたもので、県文化財に指定されています。また、本堂内に安置される地蔵菩薩立像は平安後期の像で、延命地蔵として信仰を集め、人々から親しまれています由緒ある遍照寺「頭で鐘つく遍照寺」と市民から親しまれた天台真盛宗の古刹で、津市の別格本山西来寺の四末頭に数えられている。本堂は、天保14年(1843)7月に火災で采皆鳥有に帰した。・・・・遍照寺本堂本堂柱に「本尊 阿弥陀三尊 鎌倉時代」本堂の扁額「延寿山」弥次さんが二枚の御朱印を頂くが、紙に書いたものを貼り付ける折り鶴が貼られた御朱印本堂左側にある『宝珠丸(真盛上人幼名)』の像開祖 真盛上人(1443~1495)は、三重県津市一志町大字大仰にお生まれになり、紀貫之の一族です。男子の出生を願い、母が地蔵菩薩に願ったところ、宝珠を授かる夢をみて、上人を身ごもったので、幼名を宝珠丸と言われ、地蔵菩薩の化身と仰がれました宝珠丸(真盛上人幼名)説明の字が判読できず、資料から記載。幼い時から優秀で7歳で寺に預けられ、14歳で出家し、19歳で比叡山に上り、20年間天台の学問を究められました。当時は応仁、文明の乱が続く乱れた時代でしたので、社会秩序を正し世人に安心立命を与えるには、念仏以外にも救えないということを悟られ、西教寺にて天台真盛宗を広められました。宮中や公家・女官・守護の他、貴賤を問わず無欲と慈悲を説かれた。その足跡は、江州、越前、伊賀、伊勢を中心に広がり民衆の信仰を集めるところとなりました。室町時代明応4年(1459)に病に倒れられ、遷化なさいました本堂より左下に小さな「六地蔵」があった。立札には「頭で鐘つく遍照寺 鐘の音を聞いて 亡き父母を思います」 11:17一段低い境内から鐘楼門を見上げる 庄野宿~関宿-続く
2020.03.22
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亀山宿へ向けて歩く。1/21(火) 9:58石上寺の裏の高台にある、熊野三社を祀る『拝殿』所在地:三重県亀山市和田町1185高台にある鐘楼からは亀山市内の南方向が一望できる本堂・納経所へ下る鐘楼を見上げる六地蔵の前を通り裏の駐車場へ旧東海道の北側にある道路『石上密寺』と刻まれた寺標10:05旧東海道を進むと右前方に一里塚和田一里塚所在地:三重県亀山市和田町1488-154ここまでの今日の歩行数は、17,400歩亀山宿・江戸の道(旧東海道)亀山市は、江戸と京、大阪を結ぶ道路であった旧東海道が通り、城下町、宿場町として栄えてきた。このことから、市内井田川町から小野町にいたる約11キロの東海道に残存する亀山城跡、野村一里塚(国指定史跡)などの歴史遺産を組込み、白壁、土塀、史跡案内板、休憩所、歴史広場などの整備を図り東海道としての情緒あるふるさと街道「江戸の道」として整備したものである和田一里塚跡野村一里塚とともに亀山市内に所在する旧東海道の一里塚で、慶長9年(1604)幕府の命により亀山城主であった関一政が築造した。かつてはエノキが植えられており、昭和59年の道路拡張までは塚の一部が遺されていた。現在の塚は、塚跡地の東側に近接する場所に消滅した和田一里塚を偲んで摸式復元したものである旧東海道を進むと「銘菓 ともしびの里」 休業日であった街道を進むと国道306号線と交差栄町交差点にコンビニがあるので立ち寄ることに10:12旧東海道は直進する最近はコンビニの敷地内に「EV QUICK」のEV 充電スポットがある10:22約10分の休憩で、パン・おにぎりを購入。この先、ローソク工場がある10:27旧東海道を進み「能褒野(のぼの)神社の二の鳥居」街道に網をかぶった弥次さん道案内板三本松、石上寺、能褒野神社屋号札の掲示 宿場のにぎわい復活プロジェクト亀山市は、江戸時代の城下町、また東海道46番目の宿場町として栄えた町です。そんな亀山から近年急速に古い建物が姿を消し、路地もさびれて、以前の賑わいも見られなくなりました。かかる現状を憂えた「きらめき亀山21町並み保存分科会」では協議を重ねた結果、歴史的なまちのたたずまいを復活する最初のプロジェクトとして、屋号の木札をつくり、該当するお家に掲げていただくことを始めました。・・・・・・・・・・・・・・。 【注記】 屋号は文久3年(1883)宿内軒別書上帳(亀山市歴史博物館蔵)によりました。平成十三年十月 きらめき亀山21町並み保存分科会(現在は宿場の賑わい復活一座とと改名) 能褒野神社の二の鳥居を振り返る露心庵(ろしんあん)跡天正12年(1584)神戸正武が亀山城を急襲したが、城を守る関万鉄斎はわずか13騎でこれを撃退した。この合戦の戦死者を城下東端に二つの塚を築き葬ったという。関氏一門の露心はその近隣に仏庵を建立し戦死者を供養した。この仏庵が露心庵で、本来の名称は友松庵というが、建立した露心の名から露心庵と呼ばれていた。明治に至り廃寺となった。この庵から西が亀山宿となる露心庵から西が亀山宿となる。亀山は伊勢亀山城の城下町で、江戸時代中期から明治維新まで石川氏六万石の藩だった。宿場は城下町のなかに設けられた。街道沿いに立つ能褒野神社の二の鳥居の先にある露心庵跡のあたりが宿の江戸方の出入り口。その先の亀山城江戸口門から城域を迂回しながら亀山城京口門まで宿の町並みの長さは、21町59間(約2.5km)あまりだった。亀山藩の領内に幕府支配地の宿場が飛び地のように入り込む形だったので、参勤交代の大名たちは亀山での宿泊をできるだけ避けた。玄関脇に「東海道亀山宿 茶屋町 たたみや(畳屋)跡」亀山宿の町屋建築亀山の街道沿いには、古い町家が点在しています。その前面意匠は、一階が出格子戸・格子戸などを並べ、建てられた当時の「すり上げ戸」が残っているものもあります。二階には化粧貫を見せた黒漆喰壁や格子戸・戸袋などが並びます。軒は一階庇、二階軒ともに、梁を建物から突き出して桁を受ける「出桁造り」と呼ばれる形式です。亀山宿の町家の代表的な例が旧舘家住宅です人通りの無い街道を進む、人が住んでおられるのか間の家は撤去されたのか、壁面を修理していた玄関脇に「東海道亀山宿 茶屋町 ふじや(藤屋)跡」何をやっていたかの説明板はなく、旅籠か?軒先に「東海道亀山宿 茶屋町 さかくらや(坂倉屋)跡」住民がおられるのであろう10:35本町広場のバス停は「三本松」軒先に「東海道亀山宿 茶屋町 どうぐや(道具屋)跡」本町広場にある「巡見道」巡見道という呼称は、江戸時代にこの道を巡見使が通ったことによる。巡見使が最初に派遣されたのは、三代将軍家光の寛永10年(1633)のことで、その後将軍の代替わりごとに、諸国の政情、民情などの査察や災害などの実情調査を行う目的で実施された。巡見道は、ここで東海道から分岐して北上し、菰野を経て濃州道と合流した後、伊勢国を通過し中山道とつながる旧東海道を進むが、古い民家、建て替え中の建物と店先に「東海道亀山宿 茶屋町 こめや(米屋)跡」、現在は「そば」とあるが営業は?店先に自動販売機があるがほとんどの民家が締め切った状態。「きらめき亀山21町並み保存分科会」が歴史的なまちのたたずまいを保存すべき活動しているが現状は厳しい感がするが、どの様な町おこしがあるか・・・・・・・・左手前に「きねや(木挽屋)跡」の木札軒先に「東海道亀山宿 茶屋町 きねや跡」何をやっていたのか?右前方は「米川時計店」宿場町の時代には、あり得なかったお店ですね米川時計店の軒先には「東海道亀山宿 茶屋町 はなや(花屋)跡」一階建ての整然とした格子が印象的な古民家10:40亀山宿 鍋町へ入る。軒先には「東海道亀山宿 鍋町 じんべえ(仁兵衛)家跡」二階の窓脇の構造は侵入防止?軒先には「東海道亀山宿 鍋町 じんべえ家跡」軒先には「東海道亀山宿 鍋町 はまだや(浜田屋)跡」玄関脇に二つの木札10:42「東海道亀山宿 鍋町 みかわや(三河屋)跡」「東海道亀山宿 鍋町 きりや(桐や)跡」 庄野宿~関宿ー続く
2020.03.21
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旧東海道は、JR井田川駅前の井田川踏切から亀山市に入る。1/21(火) 9:22 井田川駅前にある案内図と二宮尊徳の像と石柱亀山宿・江戸の道(旧東海道)亀山市は、江戸と京、大阪を結ぶ道路であった旧東海道が通り、城下町、宿場町として栄えてきた。このことから、市内井田川町から小野町にいたる約11キロの東海道に残存する亀山城跡、野村一里塚(国指定史跡)などの歴史遺産を組込み、白壁、土塀、史跡案内板、休憩所、歴史広場などの整備を図り東海道としての情緒あるふるさと街道「江戸の道」として整備したものであるこれからの街道をネットから旧東海道は、井田川駅前から南西方面へ進む国道1号線の川合町北交差点へ横断歩道が無く歩道橋を渡る京方面を望む。京へ向けて車移動時に一般道を走っているが、今後何度この道を走るか歩道橋上にあったタイルは「亀とローソク」ローソクといえば亀山というように、その生産量・品質ともに高い評価を受けている。亀も、京都府の亀岡市との言われがあるようだが?????歩道橋を渡り左方向へ進む東海道の案内柱左方向は「法悦題目塔」カラーのマンホール、亀山城9:31真宗高田派 廻向山 西信寺所在地:三重県亀山市川合町119街道から本堂を古民家が建つ旧東海道を進む9:35旧東海道を進むと椋川、前方の高架橋は亀山バイパスの国道1号線(25号線)椋川の河川敷の整備をしているが、土砂の除去もして本来の川にもどすべきだズームアップ治水費用も大変だが、日頃の整備が大切、6人ぐらいで整備椋川を渡り振り返る、下流は鈴鹿川へ旧東海道は、亀山バイパスの国道1号線(25号線)の高架橋下へ高架橋の接続部分耐震構造なのか旧東海道を進む、民家の塀に「大小のひょうたん」が飾られていた谷口法悦供養塔かつてこの辺りは刑場であり、この供養塔は、東海道の川合と和田の境にあり、昔から「川合のやけ地蔵さん」「法界塔さん」と呼ばれている。総高2.59mで、塔身の正面に「南無妙法蓮華経」右側に「後五百歳中廣宣流布」、左側に「天長地久國土安穏」、背面に「施主谷口法悦」と刻まれている。谷口法悦が受刑者の供養のため元禄年間(1688~1704)に供養塔を建てた谷口法悦は京の人で熱心な法華信者だった。十七世紀末頃、一族と共に各地の寺院、街道筋や追分などに題目塔と呼ばれるこれらの塔を造立したことがわかっている旧東海道を進む道路脇に案内板があるが、もう少しわかりやすい所に掲示してほしいが9:43左前方に案内板「和田道標」、弥次さんは既に先へ所在地:三重県亀山市和田町422亀山市指定有形民俗文化財「和田道標」元禄3年(1690)、東海道から神戸・白子・若松(鈴鹿市)方面への分岐に建てられた道標である。正面に「従是神戸白子若松道」、左側面に「元禄三午庚年正月吉辰施主度会益保」と刻まれている。『東海道分間延絵図』(文化年間・19世紀初頭)には、「脇道神戸城下町江二里半、白子町江三里、若松邑江三里三十四町」とあり、亀山城下から亀山領若松港へいたる重要な分岐点であった。県内東海道の在銘道標の中で最も古いものである道標を振り返るが、道標の汚れ風化が進んでいる街道脇の道案内街道はこの先で分かれているが弥次さんはどの方向へ行ったのか?道路標識でどうにかわかり一安心鮮魚・仕出し・お料理懐かしい火の見櫓が建つ左の絵は「広重画 東海道五十三次之内亀山」この絵は、歌川広重の描いた東海道亀山の1つで、この場面は和田の坂道を描いたものといわれています。ここより西へ300mです。右は「和田町のご案内」考古学的調査によると和田周辺で集落ができたのは、弥生時代後期まで溯り(柴戸、山城遺跡)これらの集落は十四世紀まで存続していました。・・・・・・・・・・・・・・。和田町公民館9:49旧東海道から南側の路地に入り「幸福寺」真宗高田派 當修山 幸福寺幸福寺から旧東海道へ戻る旧東海道の幸福寺の反対側にある「天台真盛宗 多宝山 福善寺」所在地:三重県亀山市和田町164310:00那智山 松寿院 石上寺(せきじょうじ)所在地:三重県亀山市和田町1185地元の方達からは「いしがみさん」と親しまれているここまでの今日の歩行数は16,800歩急な坂を登り境内へ紙本墨書石上寺文書 昭和28年5月7日 三重県有形文化財指定石上寺は、延暦15年(796)、大和国布留郷(奈良県天理市)の住人「紀真龍」により勧請された「新熊野三社」の神宮寺として開創されたという。鎌倉時代には将軍家祈祷書となるなど手厚い保護を受け広大な伽藍寺領を誇ったが、織田信長の伊勢進攻による兵火で、伽藍等を失い衰微したと伝えられる。 現在は、後村上天皇綸旨や畠山高国袖判禁制、歳末巻数返事、管領畠山持国室町幕府下知状、正平元年某袖判寄進状など、鎌倉から室町時代の古文書20通(21点)が残されている。これらの文書群は、県下でも数少ない中世文書群であり、当時の石上寺と社会との関係を示す貴重な史料である左は本堂、右に地蔵堂高野山真言宗で本尊は子安延命地蔵菩薩弘法大師像、南無大師遍照金剛の幟一段高い境内の隅に鐘楼現在の堂宇は明和3年(1766)に再建され、250年ほどたっている境内の奥へ進む 庄野宿~関宿ー続く
2020.03.20
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庄野宿から亀山宿へ向かう。1/21(火) 8:35常念寺を振り返る、まだ天気が悪く今日はこのまま回復しないのか?旧東海道の沿いの民家の塀にユニークな飾り、名古屋コーチン?浄土真宗高田派 金光山 福萬寺本堂屋根の・・・・・に鳥が止まり旧東海道を進むと街道脇の石柱に「ひろせ道」8:43安楽川の堤防下にある「川俣神社(西冨田)」所在地:三重県鈴鹿市西冨田町709境内へ入るが、川俣神社は、庄野町、中冨田町、西冨田町と3社あった拝 殿毎年10月の始めに秋の大祭で獅子舞を続けています。川俣神社の中でも唯一獅子舞保存会が300年以上引き継いで来ました。土、日の二日間やっています、舞の後に獅子に噛んでもらうと、きっと良いことがありますと!拝殿の扁額「延喜式内 川俣神社」境内の隅に、いづみはしの親柱 昭和十年六月 竣功 とあるが安楽川の堤防へ上がり、川俣神社を見下ろす安楽川に架かる和泉橋(いづみはし)旧東海道を歩き安楽川の和泉橋から見える光景。三重県鈴鹿市内の国道1号線を走っていると目に飛び込んでくるのがこの飛行機で、西冨田町の中古建設機械販店の中にそびえ立っているが、移動費・据付費で相当費用が掛かっているのではなかろうか、費用対効果は?。弥次さんの情報から、この会社の社長がバラバラになっていたものを組み立てたと安楽川の河川敷河川敷に竹林があり川幅の半分を占めている最近のゲリラ豪雨を考えると治水対策では除去すべきではなかろうか。安楽川の上流側は鈴鹿の山々に雲、下流は400 ~ 500m先で鈴鹿川と合流する和泉橋を渡り旧東海道を進む旧東海道を振り返る、元の東海道はこの辺りから安楽川を渡っていた。平水時は土橋、出水時は徒歩渡しであったと井田川小学校の避難場所まで255m、ここの地面は標高31.1m8:56和泉町公民館旧東海道を進む街道脇に御堂が見えてきた屋根が一部壊れているが『地蔵堂』バス停は「和泉西」飛び出し注意のボーヤ街道には犬散歩の主婦と弥次さんの姿右上に忠魂碑9:04極楽山 地福寺所在地:三重県鈴鹿市小田町635-1街道脇に石灯籠が立つ小田町寺社の由来鈴鹿市西部に位置する小田町の極楽山地福寺は、その所在地を小田町道心がいどうと呼び、その昔道心が多く修行せし処といわれている。当時は七堂伽藍の備わった寺といわれ、現在も中堂、そして道心達の風呂のあった場所として、風呂の谷等その名残りの地名が残されている。永禄11年(1568)織田信長の戦火に遭い消失、観音堂は常念仏堂として各誉上人の発願により延寶5年(1677)に建立され、中央に歴代亀山藩主の帰依された阿弥陀如来をまつり、その両翼には後に江戸の鈴木市郎エ門が東海道往来の人々の安全と家族の菩提を弔うために、元禄12年(1699)に西国三十三所の観音菩薩像三十三体を寄進され、東海道の道すがら多くの人々の立ち寄りご利益をいただき、また毎月17日の縁日には門前に市が立つほどのにぎわいであった。毎年8月17日は盛大に盆おどりを行い、近郷より人出も多く現在もにぎわっている。毘沙門堂は身丈1メートル60センチの青銅造り毘沙門天をまつり福徳をさずける、七福神の一つとしても信仰を集めている毘沙門堂と本堂地福寺を振り返るが、この辺りの旧東海道は道標もなく迷路となっている田んぼの中を歩き、JR関西本線の井田川踏切へJR井田川駅方向、旧東海道は線路沿いを進む四日市方向井田川踏切を渡り亀山市に入る。亀山市のおすいマンホールのデザインは「亀山城多門櫓」と亀山市の花「ハナショウブ」旧東海道を進む、街道脇の祠は「観音堂」。ここを右に入ると曹洞宗の海善寺があるが先を急ぐので通り過ごす旧東海道沿いに、売り出し中の中古住宅立派な家だが売り出し価格は9:18旧東海道を進み、JR井田川駅前の案内板JR井田川駅所在地:三重県亀山市井田川町駅舎は新しいが無人駅である井田川駅の近くに立つ「日本武尊像」庄野周辺は日本武尊伝説が残る地で、東海道の北側には江戸時代に日本武尊の墓といわれた白鳥塚古墳がある大和タチバナ記念植樹石碑は「国偲歌」「やまとは くにのまほろば たたなづく あおがき やまごもれる やまとしうるは」ヤマトタケルとオトタチバナヒメの家系図ヤマトタケルは「日本書紀」「古事記」に登場する伝説上の人物で、景行天皇の皇子オウスがその人である。天皇の命により九州や東国に赴き、天皇に従わない者と戦った。東国からの帰路、伊吹山(岐阜県)の荒ぶる神を倒すため山に入るが、その怒りにふれ病となり下山する。故郷大和国(奈良県)へ向かう途中「ノボノ」(亀山市北東部周辺)で亡くなり、陵墓が造られた。ここから北西へ約2kmの地にある能褒野王塚古墳(亀山市田村)がヤマトタケルの墓とされ、宮内庁が管理している。ヤマトタケルの妃であるオトタチバナヒメは、・・・・・・・・・、海中に身を投げたとされる。オトタチバナヒメの死を悼んだヤマトタケルは東国を離れる際に「吾妻はや」(ああ、我が妻よ)と嘆いたことから、関東地方のことを「吾妻」と呼ぶようになったとされる駅前の案内板に、日本武尊御墓(矢印)。ここから約2km圏内(徒歩約25分)にあるJR井田川駅舎 庄野宿~関宿ー続く
2020.03.19
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小雨の中、庄野宿を進む。1/21(火) 7:50延喜式内 川俣神社所在地:三重県鈴鹿市庄野町12-27境内にある「スダジイ 椎の木」樹齢推定・三百年 昭和44年県天然記念物指定川俣神社のスダジイ川俣神社のスダジイスダジイはブナ科の常緑樹で、わが国では暖地に自生している。葉は広楕円の革質で厚く、葉の裏は淡褐色である。初夏に雌雄の花をつけ、果実は小粒でかたい。この樹は高さ約11メートル、地上の幹周り約5メートルの巨木である石鳥居と拝殿街道脇に、「東海道 庄野宿」の石柱旧東海道を振り返る7:57旧東海道の現在地(矢印)国道1号線で街道が分断されているので、真新しい東海道案内図地下道を潜る必要がある昨夜御馳走になった「焼肉 一升びん 鈴鹿店」の看板。美味しかった、ありがとうございました!国道1号線の地下道を潜り、畑には太陽光パネル前方は国道1号線8:03国道1号線で分断された旧東海道を渡り旧東海道を振り返る、高架は県道637号線、高架下は国道1号線の汲川原町交差点。右側のガードレールに先ほどの案内板が立つ鈴鹿市の農業集落排水事業用(おすい)マンホールトンボが二匹、綺麗な水辺を飛んでいる街道脇に「平野道」。← いぼとり地蔵 この奥50m汲川原のいぼとり地蔵所在地:三重県鈴鹿市汲川原町221左側は、鈴鹿川、安楽川の堤防汲川原のいぼとり地蔵この地蔵菩薩像がいつ頃、どの様にして祭られるようになったかは不明である。古来、鈴鹿川左岸堤防南側の平野道で、道標の「お地蔵さん」として露天に立っていたものを、この地に移され地蔵堂が作られたと伝えられている。昔より、いぼと眼病に効くと伝えられ、地域の信仰を集めており、今も遠方よりお参りに来る人も多い。毎年8月には、地区で地蔵盆が行われている8:14旧東海道を進むと左手の奥にある「浄土真宗本願寺派 富田山 真福寺」所在地:三重県鈴鹿市汲川原町240真福寺山門と鐘楼山門を入り右手に本堂、本堂前には大きな蘇鉄8:15神戸領傍示杭(かんべりょうぼうじくい)街道の両脇に神戸藩領を示す傍示杭が建つ。神戸城二万石の城主・滝川雄利が関ヶ原で西軍に属したため改易され、慶長6年(1601)一柳直盛が五万石で入城し神戸藩が成立。寛永13年(1636)に一柳氏が転封してから一時的に幕府領になり、神戸城は破却された。慶安4年(1651)近江国膳所藩の石川氏が分家して一万石で神戸藩を再興、その後二万石に加増された。享保17年(1732)本多忠統が一万石で入府。その後、五千石加増された。忠統は若年寄りに就任し、築城を許され、神戸城を再建した。以後本多氏が一万五千石で明治維新まで続いた旧東海道を振り返る神戸領傍示杭には「従是東神戸領」女人堤防の石碑と神戸領傍示杭女人堤防碑文この地、鈴鹿川の北安楽川との合流点にあって、完全な堤防がないため、毎年夏季の水害には、耕地・住宅の被害甚だしく人命を失ったことも屡次、幾度かの堤防建設の祈願も、南岸の城下町神戸の浸水を怖るる藩主許す所とならず、強いて行えば打首の極刑に処せられる。されど、毎年の如く被害を蒙る部落民は眼前の苦悩に堪え難く、如可なる処刑をも恐れず築堤せんとした。この時に当たり菊女という乙女、打首の刑を犯す築堤は、男子全部の命を失い将来部落の自活に大いなる支障を来す。この工事は、私等の死出の仕事にしましょうと絶叫した。これに同じた女衆二百余人、暗夜を選んで工事を続け、苦心惨憺六年遂に完成、今日の美田、安住の地を得たるに到った。この事、いつしか藩主の知るところとなり、処刑の日は来た。今しその第一番者菊女が断頭の座についた刹那、家老松野清邦の死を期しての諫による赦罰の早馬駆け来たり、既に覚悟した二百余名の命は助けられ、あまつさえ、築堤の功を賞して金一封と、絹五匹を贈られた。実に女の一念岩をも通した美挙である。茲にこれを記念せんがためこの碑を建つ 昭和33年4月女人堤防の石碑と神戸領傍示杭を振り返る8:25旧東海道の先に大きな巨木が式内 川俣神社(中冨田)所在地:三重県鈴鹿市中冨田町5中冨田一里塚享和3年(1803)に作成された「東海道亀山宿分間絵図」によると川俣神社の東隣に一里塚があったことが描かれている。その近くに「御馳走場」と書かれた家があり、当時、東海道を往来する大名行列などの一行を接待する場所であったと考えられ、現在も「東百里屋(ともりや)」という屋号で呼ばれている家である。この地から、江戸へおよそ百里(約400キロ)であったので、この屋号がつけられたと伝えられている中冨田一里塚中冨田村は亀山領の東端にあたり、隣の神戸領との境界を接する村である。享和3年(1803)に作成された「東海道亀山宿分間絵図」には、中冨田村川俣神社の東隣に街道を挟んで「一里塚」が描かれている。大きな木の繁みのある大規模な塚であり、榎木の大木があったといわれている川俣神社の拝殿境内の奥に小さな祠拝殿と巨木は榎木?旧東海道へ、弥次さんは既に100メートル先を進む街道の先にお寺が8:30富光山 常念寺所在地:三重県鈴鹿市中冨田町640天台真盛宗総本山西教寺末寺承応年間(1652~54)智詮和尚の開基とされ、本尊は阿弥陀如来である。当時は、現在地にはなく別の場所にあったが、安政元年(1818)の大地震により倒壊した。その結果、同じ村内にあって倒壊をまぬがれた平建寺をを買収して現在地へ移転した。平建寺は山号を白浪山と号し、高野山真言宗の寺であった。本尊は延命地蔵尊であり中冨田町の氏仏として信仰され、地蔵堂に祀られている。毎年地蔵盆には町民が集い、初盆灯籠焼供養など盛大な会式が執行されている常念寺本堂地蔵堂(延命地蔵尊)と本堂鐘には「正覚大音響流十方」 一切の生きとし 生けるものは 幸福であれ 安穏であれ 安楽であれかねつき堂かねつき堂再建記念碑明治33年当時の方々の篤い願いによりかねつき堂が建てられました。その後、昭和18年第二次世界大戦のため国の要請により梵鐘が供出されました。昭和19年には東南海地震によりかねつき堂が倒壊し長い年月の間礎石だけが残っていました。月日は流れ平成の世も20年が過ぎた頃、再び時を告げる梵鐘を鳴らし止まっていた時を刻むことで先人の方々今生きている私達、そして後世の方々との絆を結ぼうという声が高まり悲願であったかねつき堂の再建という大事業が成し遂げられました旧鐘楼堂四本柱礎石昭和18年太平洋戦争のため梵鐘供出す常念寺のかねつき堂、地蔵堂、本堂を振り返る 庄野宿~関宿ー続く
2020.03.18
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今日は延べ日数27日目の道中記で、庄野宿→亀山宿→関宿と長い。このため、昨夜は松阪牛で英気を養った。今日は当所天気は晴れであったが小雨の中、関宿へ向けて出発した。1/21(火) 6:36ホテルの朝食ホテルキャッスルイン鈴鹿所在地:三重県鈴鹿市算所3丁目6-12愛車をホテルへ預け出発、駐車料金は無料。外は小雨旧東海道は近鉄平田町駅から約3キロ離れているがアクセスがなく歩くことに。近鉄平田町駅前鈴鹿市のおすいマンホール色が黒いですがデザインは、鈴鹿の峰々から湧き出た清水が川となって緑の野を流れ、白砂青松の伊勢湾まで注ぐ様を表している早朝7時前の近鉄平田町駅前7:16小雨の中、鈴鹿川の庄野橋へ到着朝の通勤で渋滞の庄野橋この辺りは鈴鹿川の河口から13km県道643号線の庄野橋東詰交差点東の空は明るいが交差点を渡り鈴鹿川の下流方向、東の空は明るいがこの辺りは小雨鈴鹿川の上流側は曇り空、この方向へ歩くのだが庄野橋を渡り国道1号線へ7:24旧東海道へ向かって歩いていると「妙法禅寺」所在地:三重県鈴鹿市庄野町22-1妙法禅寺山門鐘楼と本堂臨済宗東福寺派の「妙法寺」境内、鬼瓦?お寺の説明板がなく妙法寺の創建年代等は不詳であるが、境内には五輪塔の一部などの石像物があると。 また、毎週日曜日の朝に座禅会が行われているという7:32旧東海道の庄野町西交差点庄野宿の入口で、ホテルからここまでで既に4,500歩。JR加佐登駅はこの交差点を右方向へ進む交差点に、東海道庄野宿の案内板旧東海道はこの手前まで国道1号線に沿って歩き、西側へ入り、これより左方向へ進む庄野宿は江戸から百二里余、東海道四十五次にあたり、幕府の直轄領であった。他宿にくらべ宿立ては遅く、寛永元年(1624)といわれ五十七の宿場中もっとも遅い。この宿は「草分け三十六戸、宿立て七十戸」といわれ、鈴鹿川東の古庄野から移った人達を合わせ七十戸で宿立てをした、南北八丁で宿入口の加茂町・中町・上町からなる。宿の町並みの長さは8町(約872m)で旅籠は十五軒しかなかった。石薬師宿と同じく、地理的な理由で宿泊や伊勢詣の客もなく、宿の経営は困窮を極め、宿場の不振を理由に伝馬の百人百匹を、文化12年(1815)に五十人五十匹に半減された旧東海道 庄野宿 ~ 石薬師宿石薬師宿から25町(約3km)しか離れておらず、宿間が御油~赤坂間(16町=1.8km)に次いで短い小雨の庄野宿を進む旧東海道の左側に「善照寺」所在地:三重県鈴鹿市庄野町28-2善照寺本堂本堂の扁額「善照寺」本堂の彫刻境内に咲くロウバイ鈴鹿市指定建造物 旧小林家住宅。現在は、庄野宿資料館。庄野宿の名物は握りこぶしほどの大きさの俵に焼き米が入っている「俵の焼米」。また、庄野周辺は日本武尊伝説が残る地で、東海道の北側には江戸時代に日本武尊の墓といわれた白鳥塚古墳がある庄野宿資料館の軒下に直轄領である庄野宿は寛永元年(1624)に設置。本陣・脇本陣各一・旅籠十五軒、五十三ある宿場のうち最も遅かった。「草分け三十六戸、宿立七十戸」対岸の集落を移動させ宿立七十戸とした。この歌川広重の描く「庄野の白雨」は、彼の作品の中でも傑作中の傑作といわれ、世界的にも高い評価を得ている旧小林家住宅を振り返る小雨の中通学の中学生とすれ違う問屋場跡問屋場は御伝馬所とも言い、街道の宿場にとって重要な役所であった。問屋二名、年寄四名書記(帳付)馬差各四・五名が半数ずつ交替で詰めた。主な任務は公用書状の継立、往来者の要望に応じて人足、馬の割振り、助郷村村への人場の割当て賃銭、会計であった旧東海道を進む静寂な旧東海道7:44右の建物は「庄野町集会所」建物前に「距津市元標九里十九町」「庄野宿本陣跡」の石柱。旧東海道を進むと右側に「高札場跡」庄野町集会所の隣にある「高札場跡」高札場は、法度・掟書などを書いた「高札」を掲示した場所で各村の庄屋宅前とか人通りの多い辻など村や宿場ごとに一ヶ所設けられていた。庶民に法令などの趣旨を徹底させるためであった。庄野宿資料館には、人馬賃銭の規定、人倫の奨励、その他禁制など実物五枚が提示されている庄野町集会所を振り返る脇本陣跡脇本陣は江戸時代、本陣の予備にあてた街道の宿舎で、本陣に余裕のない時に利用された。大名や幕府の重臣が本陣に泊まる時、家老や手代の宿舎にあてられた。本陣に次ぐ宿場の名望家が選ばれることが多かった。庄野宿では、本陣隣の、楠与兵衛家が脇本陣であった。 (文久3年庄野宿軒別図)小雨の中旧東海道を進む二階部分をズームアップ旧東海道を進むが古い建物も7:47旧東海道から西側に入り「常楽寺」山門に「常楽寺」の扁額所在地:三重県鈴鹿市庄野町1670真宗佛光寺派 常楽寺本堂本堂前から鐘楼、山門 庄野宿~関宿-続く
2020.03.17
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今日のゴール点は、庄野宿の入口にあるJR加佐登駅へ向かう。1/20(月) 12:57JR関西本線県道27号線の高架橋正面に旧東海道の案内板があり、ここを左方向へ進む踏切はJR関西本線国道1号線へ合流旧東海道を振り返る、道路は国道1号線と県道27号線の上野町交差点先行する弥次さんが標識を見ている先程弥次さんが見ていた案内板旧東海道は国道1号線と合流13:05旧東海道(国道1号線)を振り返る日本橋から407.5kmのキロポストJR関西本線方向の西側13:10旧東海道は国道1号線に沿って歩くが、この加佐登町交差点を右方向へ向かい、今日のゴール点JR加佐登駅へ加佐登町交差点脇に408kmのキロポスト、京都三条大橋まで495kmで約82%達成道路脇の民家の庭に咲いていた秋バラJR関西本線の加佐登駅13:20JR加佐登駅へ到着、時間的に早かったが今日はここまで。ここまでの歩数は28,600歩無人駅の加佐登駅所在地:三重県鈴鹿市加佐登1丁目1昼間の時間帯は一時間一本の運行で、次の列車は13:34この辺りの名所案内加佐登駅の東側13:33定刻に上り、名古屋行きが来る次は「河曲駅(かわのえき)」13:50南四日市駅13:52車窓からの「四日市市 日永浄化センター」鹿化川と天白川の間に挟まれた下水処理場現役時代の仕事であったのでついカメラが向く13:55JR四日市へ到着出口へJR四日市駅構内若い時、排水処理設備の試運転で来てこの辺りへ3か月下宿をした懐かしい場所である。計算をすると50年前のことで半世紀前になるのだ!改札口四日市には旧東海道沿いに近鉄の駅もありそちらの方が賑わっており、JR側は50年前も駅前はさびれていたJR四日市駅舎ここから近鉄四日市駅までは西方向へ1.1km。愛車は近鉄駅近くのホテルへおいている。本来は歩くのだが弥次さんが疲れたとのことで、バスで近鉄四日市駅へ行くことにこの辺りの案内図みなとまち歩きスポット末広橋梁平成10年(1998)に国指定重要文化財(建造物 近代化遺産)になっている。四日市港の千歳運河に架かる跳開式の橋で昭和6年(1931)に製作された。全長58m、幅4m、中央の桁部分16.6mを橋脚上に立つ高さ15.6mの鉄塔頂部からワイヤで巻き取り80度に跳ね上がり船を通過させていた。2019年から停止している 写真はウィキペディアより14:09近鉄四日市駅前に到着、昨夜夜景を撮影した駅前14:20四日市アーバンホテルで駐車していた愛車を受け取る。14:30時間が早かったので、現役時代に付き合っていた某会社へ立ち寄り、会長と営業部長と面談。工場内を見学させて頂く下期に入り仕事量が多くなっていると工場の外では塗装中懐かしい製品がズラリと15:30工場見学後、鈴鹿市の平田町駅近くにある「ホテルキャッスルイン鈴鹿」へ向かう。16時半にホテルへ到着、今夜は一緒に夕食とのことでしばしホテルで待つ。17:04焼肉「一升びん 鈴鹿店」へ所在地:三重県鈴鹿市庄野羽山3丁目9ー3焼肉一升びんは三重県下のチェーン店で、地元のお客様をはじめ、全国各地からもたくさんお越し頂いておりますとまだ早い時間で店内は空いていた松阪肉牛協會員 指定第88号 の認定証贅沢な松阪牛を頂く松阪牛カルビ、ロース、ホルモンなどセットメニューとして、焼肉セット3,500円、松阪牛A4セット4,500円、松阪牛A5セット5,500円で、特に松阪牛のセットメニューはいろいろな部位をリーズナブルに食べることができる18:16最後の仕上げは私にとってはやはり「冷麺」松阪牛の焼き肉を食べ、明日の鋭気を頂く。この後、ホテルまで送って頂き疲れと酔いから爆睡した。今日の歩行数は、30,500歩でした。明日はいよいよ鈴鹿峠の麓の関宿まで歩く!我々の弥次喜多道中は、個人旅行で歩いているが、旅行会社の東海道五十三次ツアーに参加して完歩すると、ツアー会社から ①五十三次の楯 ②表彰状 ③くす玉 がもらえるとのこと。我々も最後だけ参加してこれがもらえるかどうか?個人的に五十三次の楯を購入して、エビデンスを残すか? 四日市宿から庄野宿ーEND
2020.03.16
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石薬師寺の山門から東へ進む。1/20(月) 12:29蒲冠者範頼之社(御曹子社)所在地:三重県鈴鹿市石薬師町40御曹子社(おんぞうししゃ)蒲冠者範頼を祭った神社。範頼は源頼朝の弟であるが、武道、学問にすぐれていたので、それらの願望成就の神様といわれている。昔は弓矢を奉納し、文武の向上を祈願する習わしがあった。境内の左側には神馬(模型)とそのきゅう舎が寄進されている。神社の南約60mのところに範頼ゆかりの蒲桜(県指定文化財)がある神社正面に大きな石柱蒲冠者範頼之社から西側の石薬師寺の山門蒲冠者範頼之社から南へ進み振り返る住宅地の中に『石薬師の蒲ザクラ』開花時には多くの人が訪れるのであろう、説明板があったが少々お疲れ・・・・・県指定文化財・天然記念物『石薬師の蒲ザクラ』この桜は、ヤマザクラの一変種として植物学上からも珍しい。赤茶芽、花は一重の五弁、直径5cm白色から淡紅色で、開花時は見事である。伝説によれば、寿永の頃(1182~1184)、蒲冠者源範頼が平家追討のため、西へ向かう途中、石薬師寺に戦勝を祈り、鞭にしていた桜の枝を地面に逆さに挿したのが、芽を出してこの桜になったと言われている。そのため、俗に「逆桜」とも言われている石碑には信綱の歌碑「ますらをの 其名止むる 蒲桜 更にかをらむ 八千年の春に」枯れたのか一部切断された木もあったここも再度上洛の際寄ってみたいものですネ!ネットから(2枚)の開花時花と葉が同時に出るのか12:37旧東海道へ戻る、「石薬師の蒲桜」「蒲冠者範頼之社」の案内41、どっちにある こっちといへば 片頬笑み ひらく掌の 赤きさくらんぼ イラストは掌にサクランボが一つ42、花さき みのらむは知らず いつくしみ 猶もちいつく 夢の木実を民家の庭先に咲く、ロウバイ43、春ここに 生るる朝の 日をうけて 山河草木 みな光あり44、ますらをの 其の名止むる 蒲桜 更にかをらむ 八千年の春に45、かぜにゆらぐ 凌霄花 ゆらゆらと 花ちる門に 庭鳥あそぶ46、道とへば ふるさと人は ねもころなり 光太夫の碑に 案内せむといふ47、六つに越え 九つにして 鈴鹿山 ふたたび今日は のぼりけるかな(八歳作)48、投げし麩の 一つを囲み かたまり寄り おしこりおしもみ 鯉の上に鯉12:41旧東海道を振り返る、この間にかるたが8枚あった49、呼べど呼べど 遠山彦の かそかなる 声はこたへて 人かへりこず旧東海道を南下し、才石川に架かる蒲川橋橋のたもとに石薬師一里塚址旧東海道は蒲川橋を渡ったら左に曲がる橋の上からJR関西本線を望む。才石川はこの先で椎山川と合流し鈴鹿川へと流れる12:44石薬師の一里塚址日本橋から102番目の一里塚石薬師の一里塚址信長記には、天文9年(1540)冬、足利将軍が諸国に命じて40町を一里として一里塚を築かせ、その上に松と榎とを植えさせたという。[一町は約109m]家忠日記には、慶長9年2月(1640)秀忠が東海道、東山道、北陸道の三道に一里塚を築かせ、一里を36町に改めたという。 (江戸時代の川柳) くたびれたやつが見つける一里塚歴史と文化のまち石薬師石薬師は、元和2年(1616)に東海道44番目の宿駅となり、村名も高富村から石薬師村と改名された。旧東海道の石薬師宿は南に向って進むこれより北 石薬師宿 信綱かるた道1.8キロの間に信綱かるたの短歌五十首を掲示している。途中、石薬師寺(信綱、西行、一休、芭蕉等の歌碑句碑など)、蒲冠者範頼社・蒲桜・浄福寺(引綱記念碑、幸綱歌碑)、佐佐木信綱記念館、本陣址、地蔵堂などがある石薬師の一里塚の前にある、最後の短歌50、生家にゆくと 弱かりし母が 我をせおひ 徒渉せしか 此の甲斐川をウィキペディアより引用最初にこの配置が頭に入っていなかったので探し求めた道中記でした橋を渡り、左に曲がり坂を下る一里塚を振り返るJR関西本線の下を潜るJR関西本線の下から12:47ここからしばらくは田んぼの中を歩く。旧東海道の案内板今日のゴール点JR加佐登駅まで約2.0km上は国道1号線石薬師宿、庄野宿の道案内ださい川柳 「街道の ミラーに映る 我が姿」12:55旧東海道を振り返る。 第2作 「何もなく ただ歩くのみ 疲れきる」 四日市宿~庄野宿ー続く
2020.03.15
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石薬師宿の信綱かるた道を進む。かるたは、旧東海道の両側に数十メートルおきに立っている。1/20(月) 12:0830、天にいます わが父のみは きこしめさむ 我がうたふ歌 調ひくくとも31、み空仰げ 八重棚雲を おしひらき 赫々として 初日はのぼる32、山黙し 水かたらひて 我に教へ 我をみちびく この山と水と33、人の世は めでたし朝の 日をうけて すきとほる葉の 青きかがやき34、山の上に たてりて 久し吾もまた 一本の木の 心地するかも35、ものぐさの あるじ信綱 あさなさな 庭におり立つ 石楠花さけば36、幼きは 幼きどちの ものがたり 葡萄のかげに 月かたぶきぬ37、山辺の 御井にとくだる 山ぞひみち 遠松風の 音をすがしむ街道脇に咲いていたユリ旧東海道を南下する38、国をおもふ 心はも燃ゆ かたちこそ 痩せさらぼへる 老歌人も国道1号線を越える「瑠璃光橋」前方は石薬師寺の森国道1号線の亀山方面石薬師宿は小高い所にある高富山 石薬師寺の裏門へ到着2001年東海道街道400年祭 石薬師宿歌川広重の、東海道五十三次 石薬師 石薬師寺石薬師 三重の山並みと、杉木立、日暮れのわびしさが流れる。寺の創建は奈良朝 神亀年間(724~28)12:15高富山瑠璃光院 石薬師寺の裏門から入る西国薬師第三十三番霊場所在地:三重県鈴鹿市石薬師町1国道1号線の瑠璃光橋裏門から入り、境内の奥にある「天満宮」石薬師寺本堂石薬師寺薬師堂、石仏寺名は本尊石薬師如来をまつることによる。戦国の戦火のあと神戸城主一柳監物により、寛永六己巳(つちのとみ)年(1629)再建された。建物の規模は桁行3間、梁間4間の寄棟造。本瓦葺きで一間の向拝がつく。市内で最古の寺院建築。石仏は花崗岩で像高190cm 寺伝によれば、弘法大師が地面生え抜きの石に刻んだという。浅い線彫り、ほおはゆかたで、薬師仏として親しまれてきた。平素は秘仏であるが、12月20日の「おすす払い」には、洗い清められる。平安後期の作本堂に向って左側にある石碑には歌碑「無病にと頼みすゑける石薬師 かたき祈願を忘れ給ふな 岩佐又兵衛」 本堂の扁額「薬師堂」高富山 石薬師寺由来聖武天皇の御宇神亀年間(726)高僧泰澄大徳が、森の中に霊光を放つ巨石あるを認め、これ金輪際より御出現の霊彿なりと一宇の草堂を覆い置き給う。その後、弘仁3年(812)弘法大師自ら薬師尊像を彫刻し開眼供養せられしより、霊験いよいよあらたかにし時の帝嵯峨天皇の叡聞に達し、勅願所となし寺領を寄せられ西福寺と称せられしたが天正年間(1575)の頃兵乱に会い悉く焼失した。因より本尊は光明赫赫として灰燼の中に立たれた。・・・・・・・・・・・・・境内の梅が咲き始めていた鐘楼と本堂参道両側に「永代常夜燈」が立つ境内の木々は芽吹き前参道に百度石参道の右側に、佐佐木信綱の歌碑 NO.39 で裏門近くにあった「蝉時雨 石薬師寺は 広重の 画に見るがごと みどり深しも」39、蝉時雨 石薬師寺は 広重の 画に見るがごと みどり深しも地蔵堂内陣には延命子安地蔵尊が祀られている西側を国道1号線が走る境内には春に咲く木々があり、京方面への移動時に再度立ち寄ろうかと次回は木々も芽吹いてまた違う光景が待っているのであろうか弥次さんが御朱印を頂きました街道沿いの山門山門には、「東寺真言宗」、「高富山瑠璃光院 石薬師密寺」。正式には高富山瑠璃光院石薬師寺という真言宗の寺院山門左側に立つ40、鈴鹿川 八十瀬のながれ 帯にして すずか並山 あき風に立つ歌川広重が描いた「石薬師」山門前の道から石薬師寺方向を見た風景である山門前から旧東海道を振り返る東海道宿場 伝馬制度制定400周年記念事業石薬師寺の東に、蒲神社(御曹子社)、蒲桜がある石薬師寺の鐘楼真っ赤なナンテンの実この辺りの野鳥は冬場も食べるものが多いいのであろうか、わが家のナンテンの実は食べられて12:28石薬師寺の山門前から東へ進み、蒲神社(御曹子社)へアロエの花が綺麗に咲いていた 四日市宿~庄野宿ー続く
2020.03.14
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石薬師宿の信綱かるた道を進む。1/20(月) 11:50小澤本陣跡小澤本陣址碑東海道石薬師宿は元和2年(1616)幕命によって設立され、宿の名は当時有名であった石薬師寺からとった。大名の泊まる宿を本陣といい、小沢家がこれを勤めた。屋敷は現在より広かったようです。残る文書も多く元禄の宿帳には赤穂の浅野内匠頭や大岡越前守が泊まっている。国学者萱生由章(1717~1775)もこの家の出である17、障子から のぞいて見れば ちらちらと 雪のふる日に 鶯がなく(五歳作)18、むすべば 手にここちよし 清き水の 今もわきいづる わが産湯の井小澤本陣跡隣の家の前にも本陣の説明板、左に、NO.19の歌碑。表札が「小澤」さんでしたので現在まで続く旧家です小澤本陣跡東海道石薬師宿は元和2年(1616)幕命によって設立された。この時から、村名も宿の名も「石薬師」となった。当時、石薬師寺が近郊近在に知れ渡っていたので、寺名をとって村名とした。石薬師宿は小高い台地にあり小澤本陣のまわりには高い松の木があったので、別名「松本陣」ともいわれていたという。宿帳によると元禄元年(1688)から22年間に、145回の宿泊と433回の休憩の休憩しかなかった。細川家から拝領した太刀や各地の大名から下賜された陶器など多数が保存されている19、ふるさとの 鈴鹿の嶺呂の秋の雲 あふぎつつ思ふ 父とありし日を11:52奥の入口の上に「天野記念館」と天野修一翁はこの記念館を昭和39年(1964)ふるさと・石薬師町本町のために建てられました。天野翁はタイムレコーダーで名高いアマノ株式会社の創業者です。前庭にある記念碑の「天野記念館」の文字は天野修一翁の揮毫です。また、天野翁は鈴鹿市に奨学資金を寄贈して若人の育英に偉大な功績をあげられています20、願はくは われ春風に 身をなして 憂ある人の 門をとはばや21、天地の あるじとなるも 何かせむ いかでまさらむ 此のゑひ心地鈴鹿市立石薬師小学校小学校の角に「石薬師文庫」22、これのふぐら よき文庫たれ 故郷の さと人のために 若人のために11:53小学校の校門の南側に「石薬師文庫」石薬師文庫昭和7年、佐佐木信綱が還暦にあたり旧石薬師村に寄贈したものである。以前からあった土蔵(今も裏側にある)を文庫とし、本建物が閲覧所として建設され、伊勢国学に関する多くの判本や写本などを含む貴重な書類が贈られた。開所式には、明治の元勲田中光顕、三重県知事などが出席された。本文庫は、神宮文庫と並び紹介されたりしている。現在、地域の図書館としてボランティアにより運営され、親しまれている広場の奥の石碑に歌碑歌碑は「これのふぐら よき文庫たれ 故郷の さと人のために 若人のために」NO.22 と同じ歌碑。信綱が石薬師文庫を寄贈するに当たり詠んだ歌であり、歌碑は没後二年祭(昭和40年)を期して郷人によって建てられた石薬師文庫開館日(毎週土曜日) 午後1時 ~ 午後4時 次の開館は 1月25日竹柏(なぎ)由来弘綱は「竹柏園」と号し、信綱はこの号を継ぐとともに創設した短歌結社を「竹柏会」と名付けた。昭和24年信綱から送られてきた種による竹柏の樹が平成19年枯れたので、その兄弟樹から生まれたものを同年後継樹として植え替えた。本樹は、昭和19年度石薬師小学校卒業生寄贈により植樹したものである左:佐佐木幸綱(信綱の孫)の歌碑 「傾けて バイクを駆ける 群が行く 鈴鹿の山は 父祖のふるさと」右:NO.19 の信綱の歌碑23、日本語 いく千万の 中にして なつかしきかも 「ふるさと」といふは石薬師文庫の南に隣接した「信綱の生家」。歌人で国文学者の佐佐木信綱は、弘綱を父として明治5年この家に生れ、石薬師で6歳まで過ごした。生家は父が明治元年(1868)に建てたもので、隣の小学校まで屋敷地だった。記念館には文化勲章などの遺品や遺稿二千点を収蔵、展示している景観重要建造物『佐佐木信綱 生家(主屋)』佐佐木信綱資料館当資料館は、明治、大正、昭和にわたり、歌人、歌学者として万葉集研究の最高峰を究められた佐佐木信綱博士の業績を顕彰するとともに、市民の文化の向上と広く文学の研究に寄与するため、博士生誕の地に建設したものです。市では、今回の開館を機に、佐佐木家をはじめ、博士ゆかりの方々から寄贈、寄託を受けた品々のほか、これまで生家に保管されていた資料一切を当館に収納しました。資料の中には、博士の遺愛品、御下賜品、書簡、作歌、原稿のほか、書籍には「日本歌学史」「和歌史の研究」「近世和歌史」の主著三部作をはじめ、歌集「おもひ草」「山と水と」など多数を保管、展示しています 昭和61年5月佐佐木信綱記念館所在地:三重県鈴鹿市石薬師町1707-3月曜日でここも残念ながら休館中佐佐木信綱記念館当館は「佐佐木信綱資料館」「生家」「土蔵」「石薬師文庫」から成り立っています。佐佐木信綱は明治5年6月3日、この地に生れ、6歳まで石薬師で過ごしました。その後一家は松阪へ移り、信綱が11歳の時に東京へ移ります。この時「生家」は他家の所有となり、鈴鹿市和泉町に移築されました。昭和7年には信綱は還暦を記念して「石薬師文庫」を贈り、地域の図書館として現在でも多くの人々に親しまれています。そして、信綱は73歳から熱海へ移り、昭和38年12月2日、92歳でこの世を去りました。信綱の没後、昭和45年12月12日「生家」を再び現在の場所に移し、佐佐木信綱記念館が誕生しました。その後、昭和61年5月28日には、展示施設等を備えた「佐佐木信綱資料館」が開館し、今日に至っています 平成17年9月 鈴鹿市佐佐木信綱と卯の花の里:石薬師宿石薬師宿は江戸から数えて44番目の宿場である。天領であったこの地に宿駅が設置されたのは、元和2年(1616)と遅く、それまでは高富村と呼ばれていた。弘化2年(1845)の石薬師宿軒別図から職業構成をみると、人家約180軒のうち旅籠屋が約30軒、百姓は約130軒で全戸数の約7割をしめており、農村的性格の強い宿場であった。街道の中ほど西側には小澤本陣があり、その向かいには園田家がつとめていた問屋場があった。当資料館の隣に建つ連子格子造りの木造家屋は佐佐木信綱(1872~1963)の生家で、一家が松阪へ移住する明治10年(1877)までの幼年期をこの家で過ごした。裏庭には「産湯の井戸」が今も残っている。石薬師では、信綱作詞の唱歌「夏は来ぬ」に因んで昭和63年から地区を挙げて「卯の花の里づくり」に取り組んでいる。初夏になると、どこの家庭の庭先にもまた道端にも白い可憐な花が咲き清楚な趣をそえている空木(うつぎ)・卯木(ユキノシタ科)『うのはな』夏は来ぬ伊勢や難波と遊ぶ間に 山ほととぎすつぼむ卯の花 信綱樹高は2~4mになりよく分枝する。樹皮は灰褐色で、新しい枝は赤褐色を帯び、星状毛が生える。葉の形は変化が多く、卵型、楕円形、卵状披針形になり、葉柄をもって対生する。花期は5~7月で枝先に円錐花序をつけ、多くの白い花を咲かせる11:59石薬師小学校南交差点旧東海道の東側を走る国道1号線(国道25号線)の石薬師町交差点。この辺りの名所の案内板24、なげくなかれ 悲しむなかれ 日輪は 人間の上を 照らしたまへり12:02石薬師小学校南交差点を渡り浄福寺の山門左側にある「佐佐木弘綱翁記念碑」手前は幸綱の歌碑「しゃくなげを 愛し短歌を すずか嶺を愛し 石薬師 愛したる人 幸綱」佐佐木幸綱歌人・国文学者。紫綬褒章受章、日本芸術院会員、早稲田大学名誉教授。1938年佐佐木治綱(学者歌人)と由幾(歌人)の長男として東京に生まれる。佐佐木信綱は祖父である。現代短歌界の重鎮であり、万葉集等の研究でも著名である。佐佐木信綱顕彰歌会には選者として招聘されている佐佐木弘綱(1828~1891)信綱の父。歌人・国学者。伊勢山田の国学者足代弘訓に師事した。53歳の時上京し、東京大学の講師となる。門人は全国にわたり1600名ともいわれる。古典の口語訳書、撰集、自作歌集、和歌に関する研究書など著作は、百余に及ぶ。この碑は、1908年(明治41年)建立された。以後、毎年碑前祭がこの境内で行われていた。碑表には弘綱の矜持詠がある「和歌の浦に 老をやしなふ 葦田鶴は 雲の上をもよそに見るかな」25、いきいきと 目をかがやかし 幸綱が 高らかに歌ふ チューリップのうた真宗高田派 浄福寺宗派は真宗高田派、本尊は阿弥陀如来である。開基(創建)は室町時代の永正年中(1504~1520)と伝えられている。山門入口の左側には佐佐木弘綱翁(信綱の父)の記念碑がある。それは佐佐木家累代の菩提寺だからである山門を入り、鐘楼と本堂浄福寺本堂26、秋高き 鈴鹿の嶺の 朝の雲 はろかに見つつ わがこころすがし12:06街道の両側にかるたがあり、撮り忘れないようにNOを確認しながら進む。27、万葉の道の 一道生のきはみ 踏みもてゆかむ こころつつしみ28、今し成りぬ 五帙二十五冊を 前におき 喜びの涙 とどめあへなく街道脇の小さな石柱「上田加佐登」12:0829、ありがたし 今日の一日もわが命 めぐみたまへり 天と地と人と 四日市宿~庄野宿ー続く
2020.03.13
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石薬師宿四日市宿と亀山宿のあいだが5里あまり(約22km)もあったため、元和2年(1616)に44番目の宿として石薬師寺の門前町に開設。その際、村名も高富村から石薬師村に改称された。宿の町並みの長さは9町42間(約1.0km)で、千人ほどの住人の大半が農家の小規模な宿場だった。十五軒の旅籠屋に飯盛女が少数いた。参勤の大名や旅人は四日市や亀山に泊まり、石薬師宿は休憩の利用が多かった。また伊勢詣の旅人は、江戸方面からは日永追分から伊勢へ、京大坂方面からは関宿東の追分から伊勢へ向かったので伊勢詣の客もなかった。そのため宿場の経営は苦しく、宿場の不振を理由に伝馬の百人百匹の業務を文化12年(1815)に五十人五十匹に半減、更に幕末には三十五人、四十匹に軽減された。1/20(月) 11:28石薬師宿入口の北町の地蔵堂から旧東海道の「信綱かるた道」を南下する。道路脇に「信綱かるた道」のタイル。現在は石薬師出身の歌人で国文学者の佐佐木信綱の歌碑を道沿いに立て、信綱をキーワードに町おこしを行っている『これより南 石薬師宿 信綱かるた道』1.8キロの間に信綱かるたの短歌五十首を掲示している。途中、本陣址、佐佐木信綱記念館、浄福寺(引綱記念碑、幸綱歌碑)、石薬師寺(信綱、西行、一休、芭蕉等の歌碑句碑など)、蒲冠者範頼社・蒲桜・一里塚などがあるウィキペディアより引用最初にこの配置が頭に入っていなかったので探し求めた1、四日市の時雨蛤 日永の長餅の 家土産まつと 父を待ちにき2、湯の宿の つんつるてんの かし浴衣 谷の夜風が 身にしみるなり 3、氷りたる 水田にうつる 枯木立 こころの影と 寂しうぞ見る4、白雲は 空に浮べり 谷川の 石みな石の おのづからなる5、夕風の さそふまにまに ちる花を ことありがほに 見る蛙かな11:30かるたの看板が道路の左右に立つ、ナンバーを追いながら撮影6、蕎麦の花に 百舌が訪ひ来て 語らへり 山のはざまの 秋風の家7、真白帆に よき風みてて 月の夜を 夜すがら越ゆる 洞庭の湖11:32株式会社 マルフク 鈴鹿工場所在地:三重県鈴鹿市石薬師町1472旧東海道を振り返るマルフクは漬物工場で漬物の味は美味しいと!商店のブラインドにも、広重の石薬師寺の山門を描いたものが8、一すぢの 煙をあとに のこしおきて 沖をはるかに 船はゆくなり(十歳作)信綱かるた道9、ふる雪の いや重け吉事 ここにして うたひあげけむ ことほぎの歌10、目とづれば ここに家ありき 奥の間の 机のもとに 常よりし父11、まりが野に 遊びし童 今し斯く 翁さびて来つ 野の草は知るや12、ゆく秋の 大和の国の 薬師寺の 塔の上なる 一ひらの雲新出稲荷ここから東へまっすぐ国道1号線渡ってすぐ。ダキ尼天(ヒンドウ教由来)と稲荷信仰がいっしょになり、江戸時代では人を選ばず願いをきいてくれる神として遊女や博徒、被差別の人からも広く信仰されました。ダキニ天はインドの古代民間信仰(ヒンドウー教)に由来して、空海によって日本に入ってから平安時代中期には「剣と宝珠などを持った女神が白狐にまたがる姿」で表現されるようになった11:35式内大木神社所在地:三重県鈴鹿市石薬師町2139鳥居の横にあるかるたの看板を撮影する弥次さん13、名におへる 森の大木の かげふみて あふぎまつらふ 神の恵を大木神社の境内へ川北元助翁頒徳碑川北元助翁頒徳碑翁は弘化3年6月12日鈴鹿郡石薬師村の農家に生まれた。当時村内大小の橋梁は木橋又は土橋であったので、朽ちたり洪水で流失したりして困難することが多かった。翁はこれらの橋を石橋にかけ替えて、永久に世人の難儀を除きたいと決意し明治42年より大正3年2月、上田通りの橋梁二ヶ所を完成するまで大小七十余ヶ所の橋梁をことごとく石橋にかけ替え、その徳行は永く後人を潤した境内へ進む大木神社の椎の森この椎の森は、当大木神社境内約1ヘクタールに巨木が群生しているもので、市内では他に類を見ることができない。この椎は、ブナ科のスダジイで樹皮に縦の裂け目があり秋にはたくさんの実をつける大木神社この神社は式内社といって由緒のあるお宮さんです。式内社とは延喜年間(901~922)の時代に、すでに存在していた神社のことです。正式には「延喜式内社」といいます。大木神社は地域の氏神(鎮守の神)であり、この地で生まれた人の土地の守り神(産土神)です。江戸時代頃から氏神も産土神も同じ意味に使われるようになりました。大木神社には天照大神ほか九柱の神様がおまつりされています二の鳥居を入る。境内は木々に覆われ鎮守の森である。約百種類の樹木や草木が混生し、その主体は椎の木である明治天皇御差遣 延喜式内 大木神社御由緒一、御祭神二、延喜式内社とは 第六十代醍醐天皇の御代延喜時代、今から1080年程前作られた神社台帳に記載されている 神社を云う。三、明治天皇勅使御参拝 明治天皇が都を京都から江戸(東京)へおうつりになり東海道を、お通りの際明治元年9月24 日勅使植松少将殿をお差し向けられ幣帛料を御献上遊ばれた名高いお宮。四、御曹子神社(鎌倉幕府を開いた源頼朝公の弟範頼公を祀る) 古来より病気平癒を祈るに霊験あらたかなので遠近からの参拝者多く自作の弓矢を御祈祷料 に添えて奉る拝殿の前の三の鳥居、大木神社拝殿拝殿前に「お伊勢さま、氏神さま の神札をおうけしましょう」山の神社御祭神は「大山袛神(おおやまずみのかみ)」狂い咲きのアヤメ?造花のようですが生でした11:44大木神社入口の左側に立つ「忠魂碑」日露戦争、太平洋戦争戦死者の忠魂碑11:47旧東海道に戻り、「東海道 石薬師宿」の札民家の塀に「東海道五十三次 四日市」 広重画の模写 この作品は石峰こちらも「東海道五十三次 石薬師」 広重画の模写 この作品は石峰 2001.414、月ごとの 朔日の朝 父と共に まうでまつりし 産土のもり石やくし宿江戸時代の軒並図 弘化2年(1645)15、夕されば 近江境の 山みつつ 桐畑の隅に よく泣きゐしか16、やま百合の 幾千の花を 折りあつめ あつめし中に 一夜寝てしが 四日市宿~庄野宿ー続く
2020.03.12
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松尾芭蕉が坂が急で落馬したといわれる杖衝坂を登り、旧東海道を進む。1/20(月) 10:30采女(うねめ)一里塚跡。東海道と国道1号線が交差するこのあたりに江戸から101番目の「采女の一里塚」があった。ここまでの今日の歩行数は、16,500歩江戸日本橋を起点に京三条大橋まで126里、間には124の一里塚が置かれた。采女一里塚は101番目にあたり、松が植えられていたことが天保の頃幕府が作成した「東海道宿村大概帳」に記されている。四日市市内には四ヶ所の一里塚が築かれていたがいずれも残っておらず、跡地には石碑が立てられている。采女一里塚はここから約100m西のガソリンスタンド傍に建てられている。なお、105番目の亀山市野村一里塚は現在も形が残り、国指定の史跡となっている下は国道1&25号線采女一里塚は、戦後しばらく土盛りした上に木柱が建っていたが、昭和30年代から40年代にかけて行われた国道1号線の拡張工事で姿を消した采女の一里塚跡石碑はもう少し先旧東海道は国道1号線に合流(国道25号線でもある)国道沿いにある「采女食堂」週替わりのランチの ”味噌カツ” が550円と安く美味しかったと!トラックが立ち寄っていて人気とのこと!国道1号線沿いにある「史跡 采女一里塚跡」。国道1号線の拡張工事で姿を消した采女一里塚を後世に残すため、昭和62年(1987)、「郷土の文化遺産を後世に残そう」という地元采女町の取り組みに、地元の企業が協力して敷地と費用を提供し、国道1号線を挟んだ反対側のここに石碑が建てられている10:36豊富稲荷神社所在地:三重県四日市市采女町3267-3豊富稲荷神社境内国道1号線沿いの「軽食 采女」。この道は今後何度か通過する国道である10:45国道1号線(国道25号線)の采女南交差点手前のレストラン。この先の交差点を左折すると県道8号線で、鈴鹿市街地へ進む10:51四日市市から鈴鹿市へ入る。旧東海道は国分町交差点を左側へ国分町交差点を左方向に進みすぐにある手入れの行き届いた木が延命地蔵尊延命地蔵尊扁額の「単直庵」旧東海道を進む、立派な屋敷が空家となり撤去された屋敷跡も放置状態に民家の庭先に咲くロウバイめずらしく自転車に乗るおばさんと出会い挨拶を交わす昼前だが相変わらず人が少ない坂を下り国道1号線へ11:03旧東海道の説明板があるが撮影のみでよく読まず、先導する弥次さんに従って進む。国道1号線木田町大谷交差点の地下を潜り向かい側へ進むのだが地下道は潜らず国道1号線の左側を進む旧東海道は本来反対側だが、日本橋から404.9km地点11:07国道1号線を横断することができず折り返し、先程の木田町大谷交差点へ戻る国道1号線の右側を進む反対側は、スーパーマーケットの「オークワ鈴鹿木田店」浪瀬川水が白濁しているが、温泉?国道1号線の上り線側を歩く、旧東海道はこの先を斜め右方向へ進む11:13東海道 石薬師宿は右方向へ11:15北町の地蔵堂にある「東海道 石薬師宿の説明板」これより南 石薬師宿 信綱かるた道1.8キロの間に信綱かるたの短歌五十首を掲示している。途中、本陣址、佐佐木信綱記念館浄福寺(引綱記念碑、幸綱歌碑)、石薬師寺(信綱、西行、一休、芭蕉等の歌碑句碑など)、蒲冠者範頼社・蒲桜・一里塚などがある歴史と文化のまち石薬師石薬師は、元和2年(1616)に東海道44番目の宿駅となり、村名も高富村から石薬師村と改名された。旧東海道の石薬師宿は南に向って進む次の浮世絵は、広重が石薬師寺の山門を描いたものである北町の地蔵堂からの江戸方面への道案内。旧東海道は国道1号線の拡張工事で分断されている北町の地蔵堂所在地:三重県鈴鹿市石薬師町休憩用の東屋があり小休憩をした北町の地蔵堂は延命地蔵さんである。家内安全、交通安全を祈願すると霊験あらたかといわれている江戸時代、東海道の宿場として賑わった石薬師宿の入口に旅の安全のために、誰かが建てたのだろう。現在この付近の十六軒の方々で地蔵講を結成して、掃除や供花の奉仕がなされている。毎年8月24日は地蔵さんの会式である石薬師宿の旧東海道は国道1号線の西側を南下する北町の地蔵堂を振り返る11:27今日は既にここまでで、21,100歩、10分程の小休憩をして進む 四日市宿~庄野宿ー続く
2020.03.11
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旧東海道を石薬師宿へ向けて南下する。1/20(月) 9:38左側に東海道の案内板、旧東海道は右へ曲がるカエデの実9:39先程右に折れて約百数十メートルで左に折れる街道がクランクになっている。正面奥にお寺の山門が9:40米田山 願誓寺所在地:三重県四日市市21山門右側の石碑には、黄金仏のことが刻まれている米田山願誓寺当山の縁起は、米田山珠寶法鎮寺に始まる。当寺の末弟法柳が、米田山願誓寺として現在の地に建立し、当初は真言宗であった。寛政年間(1460年代)、専修寺第十世真慧上人の教化に帰依し、浄土真宗に改宗した。当寺第十世義道(当寺では、中興上人と呼ばれている)の時に火災にあったが、同上人は建築、彫刻にも長じた人物であり、同上人の手により、現在の本堂と庫裏が、寛政4年(1792)に再興された山門からの、鐘楼、本堂境内に入り当寺の本尊である阿弥陀仏は、寺伝では聖徳太子の御作とあり、お顔の部分は後世の補修がうかがえるが、頭から下部は古いお姿をとどめている。また、黄金仏は、御丈5センチばかりの小さな仏で、義道上人が感得したニ仏と合わせて、三尊仏として厨子に祀られている。山門前にある石碑には、同上人によりその黄金仏のことが刻まれている9:48街道沿いのこの石碑は?9:51旧東海道は県道407号線(三畑四日市線)の小古曽三丁目交差点へ。電柱には「近鉄 内部駅 100m」の案内板四日市宿 → 日永 → 小古曽 → 采女 の道路標識には「現在地」と記載。采女町交差点まで約2.7km県道407号線の小古曽三丁目交差点を横切る弥次さん。四日市あすなろう鉄道内部線の終着駅「内部駅」は左側に位置する。旧東海道は前方右方面へ進む交差点角に東海道の石柱と案内板。旧東海道はここを右方向へ進む東海道 采女(うねめ)の杖衝坂 案内図9:57内部川につきあたり左方向へ進む。電柱前に東海道の道案内内部川の土手に上がり振り返る、旧東海道は右側から来た。内部川は鈴鹿川と合流して伊勢湾へ流れる国道25号線の内部橋北詰交差点10:00内部橋を渡り右下へ下りる内部橋の下にある案内板10:07旧東海道を進みこの先を右方向へ民家の窓に「東海道」の案内板、各家庭に掲げられていた10:09ここを左方向へ進むが、民家のフェンスに「東海道」の案内板があり間違わなかった右側の壁にも「東海道」の案内板。この先が杖衝坂杖衝坂下の左側にある「和食 ひがし川」杖突坂の上り口にある『金刀比羅宮』石段の手前に大きなごみ入れ現在は綺麗に舗装された「杖衝坂」10:11うつべ町かど博物館所在地:三重県四日市市采女町3473ここまでの今日の歩行数は15,700歩うつべ町かど博物館入館料:無 料開 館:毎週 水・土・日・祝祭日 9時 ~ 12時訪れた日は月曜日で生憎休館日であったどこかの建物の鬼瓦であろうか采女町内の和風平屋住宅をそのまま利用し、内部地区の「歴史と文化」に関する古代の埋蔵文化財や中世から現在に至る遺品や資料が展示・紹介されている杖衝坂東海道でも急な坂道の難所として知られる。倭建命(日本書紀では日本武尊)が東征からの帰路、足が痛くてこの坂道を上るのに、腰の剣をはずして杖にしたという伝承がある。この坂の所で「吾が足三重の勾りなして甚く疲れたり」といわれ、これが三重県の県名の由来ともいわれる。杖衝坂の下から舗装されていたが急なため滑り止め用の丸い輪がうつべ町かど博物館を振り返る10:19杖衝坂の途中に芭蕉の句碑正面左に「大日の井戸」上から芭蕉句碑と井戸を見下ろす。この場所に二つの井戸があり右側(丸い蓋)の井戸を「弘法の井戸」左側(石柱の横にある)の井戸を「大日の井戸」といい、前者は、弘法大師が水に困っている村人に杖で指し示され、そこを掘ったところ清水が湧き出た井戸であると伝えられている。後者は、坂の中腹にあった大日堂に供える閼伽水(仏に供える水)をくみ上げた井戸と伝承され、二つの井戸は大切に守られている。珍しい屋根付きの芭蕉の句碑(1756年建立)芭蕉の句碑について俳聖 松尾芭蕉が貞享4年(1687)に江戸から伊賀に帰る途中、馬に乗ってこの坂にさしかかったが急な坂のため馬の鞍とともに落馬したという。その時に詠んだ季語のない有名な句である。宝暦6年(1756)村田鵤州が杖衝坂の中ほどにその句碑を建てた。明治の初期、坂の下采女西町 永田精一郎氏の庭園に移されたが、このたび現所有者藤沢一郎氏ご夫妻のご理解により、再びこの地に移設したものである 昭和51年3月吉日杖衝坂と血塚社、二つの井戸東海道の中でも急な坂で、杖突坂とも書く。倭建命が東征の帰途、大変疲れられ「其地より、やや少し幸行ますに甚く疲れませるに因りて、御杖を衝きて、稍歩みたまひき。故、其地を号けて杖衝坂と謂う」(古事記)とあり、杖衝坂と称されるようになった。元禄元年(1688)芭蕉が旅の途中、馬に乗ってこの坂を越えようとして・・・・・・・・・・。急坂に落馬して詠んだ句「歩行(かち)ならば 杖つき坂を 落馬かな」ほぼ坂を登り杖衝坂を振り返るが、坂も短く意外と楽であった10:25血塚社杖衝坂を登りきったところにある。鳥居の奥にある血塚の祠は倭建命(日本書紀では日本武尊)の血で染まった石を集めて葬ったと伝えられている日本武尊御血塚血塚社を振り返る杖衝坂をのぼり旧東海道を進む10:29人が住んでいるのか、廃家も多い街道筋 四日市宿~庄野宿ー続く
2020.03.10
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根府川のおかめ桜まつりの、第二会場『離れのやど星ヶ山』の散策を続ける。3/6(金) 10:17第二会場:離れのやど星ヶ山所在地:神奈川県小田原市根府川592受付:レストラン、宿泊の受付椿もきれいに咲きシャガも咲き、暖冬を感じる、近くでは沈丁花も咲き香りが漂っていた何か合図の鐘か豆相人車鉄道施設ご案内 ①ミニカーハウス:米国大統領・世界の消防車・ハーレー他 1500台以上を展示している ②豆相人車鉄道:走行は受付で許可を受けて下さいおかめ桜祭り会場露天風呂付きのリラックスできるカナディアンログハウス駐車場横にある休憩処10:22離れのやど星ヶ山の上にある第三会場へ向かう10:31第三会場『きのこ苑お山のたいしょう』所在地:神奈川県小田原市根府川657農家レストラン『きのこ苑お山のたいしょう』 営業時間:10:30 ~ 15:00(受付) 定 休 日 :毎水・木曜日苑内ご案内図山道に入るがこの時期蛇がいないので安心して行動できるきのこ栽培ハウスしいたけ狩りができるハウスお山のたいしょうは、昔ながらの原木栽培を行っておりますが、この方法は日本での生産量のわずか15%しか行われておりません。のこり85%はおがくず等で発生させる菌床栽培です。原木(コナラ)の栄養分100%で育つしいたけは、安心してお召し上がり頂けます。お召し上がりの際は、しいたけの香り食感を楽しめるよう水洗いせずそのままお使い下さい。しいたけのカサの部分に白い斑点が沢山ついておりますが、これは新鮮な証拠です。また、カサの広い大きなしいたけも大変おいしくお召し上がり頂けます。まだ小さな赤ちゃんしいたけは採らないであげて下さいカブト虫ハウス山の斜面に植えられた、おかめ桜たけのこ堀りもできる竹林が山の上へと延びるおかめ桜の間からハウス10:37苑内の一番高い場所に『みはらし台』みはらし台からのしいたけハウス斜面に咲くおかめ桜菜の花とのコラボ河津でも河津桜と菜の花屋外に15cm位の大きなしいたけ醤油をつけて焼いて食べると最高菜の花にピントを合わせ、後ボケで前ボケのおかめ桜10:45しいたけ植菌場既に菌を植え付けているのか営業種目炭火焼料理、しいたけ狩り、みかん狩り、コンニャク作り、タケノコ堀り、カブトムシ捕り、ブルーベリー狩り、草木染 といろんなことが体験できる駐車場から苑内への道ふじの苑藤の花が咲く時期もよさそうだ椿もきれいに芯をとらえるきのこ苑しいたけ等を焼いて食べれる染井吉野と違いおかめ桜は色が濃く映える紅梅、桃の花も同じようだが野良ネコか?暖かいので猫ものんびり春のお山(4月上旬)照手桃(テルテモモ)今年は3月末にはこの光景になるのかまた来たいものだが農家レストランも営業をしていたがおかめ桜の生いたち農家レストラン『きのこ苑お山のたいしょう』10:55相模湾を望む歩いて登ってくる人も多くこのあと、朝富士山が綺麗に見えていたので、JR湯河原駅経由椿ラインを走り大観山展望台へ。根府川の『おかめ桜まつり』散策前後に源頼朝ゆかりの場所へ行ったが後日アップします。13:15大観山展望台からの富士山このあと、旧東海道の畑宿経由帰宅した。 根府川のおかめ桜まつりへーEND
2020.03.09
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東海道名残りの一本松から旧東海道を南下する。1/20(月) 8:54旧東海道沿いに「近鉄泊駅」、西方向へ100m旧東海道の案内板現在地が表示してあり分かりやすい、日永の追分まで近い8:57伊勢藏㈱所在地:三重県四日市市泊町12-3以前は、武井醸造有限会社という名前で、昔から地元の人達に愛されている味噌醤油屋さん醤油と味噌を製造している。中央に展示桶、味噌&醤油の作り方を教えてくれる展示桶(三十石) 直 径:2,100ミリ 高 さ:1,940ミリ 味噌仕込み用 一回の仕込み量 約5,000キロ(三十万人分の味噌汁に相当)ここ旧東海道沿いにて、創業大正3年より三十石から四十五石の木桶を使用し、味噌・醤油を製造しております。創業当時より代々木桶に染め込んだ酵母・乳酸菌などが伊勢藏特有の蔵ぐせを生み出します旧東海道を振り返る。お土産を販売していたが重いのであきらめる9:00東海道日永郷土資料館所在地:三重県四日市市泊町13土蔵付きの商家の建物を整備し、「日永足袋」「日永うちわ」をはじめ、地域にのこる歴史・民俗・文化・街道(東海道・伊勢街道)などに関わるさまざまな資料が時代別、テーマ別に展示されている。開館日:水、土、日祝(年末年始を除く) 開館時間:9:00~16:00この日は月曜日で休館日旧東海道を振り返る。建物の壁面には「日永郷土資料館」「伊勢藏の宣伝」9:01旧東海道はここで国道1号線と合流旧東海道(左方面)、国道1号線を振り返る。日本橋から399.3kmのキロポスト9:03旧東海道(国道1号線)の追分交差点。右前方は『日永追分』で東海道と伊勢道を分ける交差点の三角地帯。ここまでの今日の歩数は、10,400歩9:04この追分交差点で、旧東海道は右方向へ進む。左方向直進は国道1号線で数百メートル先の大治田一交差点を右折する。鳥居のある角地が『日永追分』所在地:三重県四日市市追分3丁目1-3013-1拝領 伊勢神宮別宮 伊雑宮鳥居 追分鳥居現在の追分には、常夜燈、道標、清めの手水所がある道が左右に分かれているところを追分と言う。「日永の追分」は東海道と伊勢街道の分かれ道である。道路が拡張される前は、伊勢街道の入口に道を跨いで伊勢神宮の二の鳥居が立っていた。この鳥居は安永3年(1774)久居出身で、江戸に居た渡辺六兵衛という人が江戸から京都へ行く時、ここから伊勢神宮を遥拝するようにと思って立てたものである。鳥居は皇太神宮の遷宮に合せて、二十年ごとに建て替えられることになっていた。今の鳥居は、平成28年(2016)に建て替えられたもので、最初の鳥居から数えて第十次の鳥居となる。また、追分は東海道五十三次の四日市宿と石薬師宿との間にあって「間の宿」と言われ、神宮遥拝鳥居を中心に旅籠が軒を並べ、茶店も多かった。そして、間の宿は本宿に比して割安に宿泊することが出来、旅人からは歓迎されていた。「日永の追分」は昭和13年に三重県の史跡に指定され現在に至っている旧東海道を振り返る東海道と伊勢参宮道の分岐点。伊勢神宮への二の鳥居、常夜燈、石の道標などが残っている。安永3年(1774)江戸の商家・渡辺六兵衛が伊勢神宮を遥拝するようにと、高さ7mの鳥居を建立した。大きな石の道標は嘉永2年(1849)に建立。江戸時代の鳥居周辺には茶屋や旅籠などが建ち並び、四日市宿と石薬師宿の間の宿として伊勢神宮参詣の人々でにぎわっていた三重県史跡「日永の追分」日永の追分の神宮遥拝鳥居は、安永3年現久居市の渡辺六兵衛氏が江戸に店を持ち、東海道を上下する度毎に参宮街道との分岐点日永の追分に鳥居のないのを遺憾として、江戸店支配人伊勢屋七右衛門を願主として、江戸で伊勢出身同志数名を募り敷地を買入れて鳥居を建設した。更に今後の改造費として、私財金壱百両を寄付されたので地元ではこれを基金として神宮式年毎に改造してきた。その後、地元民は勿論旅人からの崇敬の的となり・・・・・・・・・9:07旧東海道(県道407号線)を進み振り返る旧東海道を進むと日永の追分近くの右側の一段下にあった『日蓮宗 追分教会』所在地:三重県四日市市追分2丁目5-2一段下がった境内には、日蓮上人の像が立つ日蓮宗750年の秘法九識霊断法霊断法とは、あたかも霧の向こうのものを、レーダーが発見できるように人生の未知のものを予知します。日蓮大聖人の残された神秘の法術です。・・・・・・・・・・・・・9:13四日市あすなろう鉄道 内部線の踏切線路幅の狭い一回り小さい車両ワンマン列車で、四日市 ⇔ 内部 間を運転踏切の脇にプレートがあり「この踏切は、四日市あすなろう鉄道 内部線 泊 第6号踏切」「近鉄追分駅」とあるが、現在は四日市あすなろう鉄道 追分駅。四日市あすなろう鉄道は、平成27年(2015)4月1日に誕生した第三セクターの鉄道会社。もともとは、近鉄が運営していた内部(うつべ)線と八王子線(合せて内部・八王子線とも)ですが、バス転換を提案した近鉄に対し、四日市市が存続を要望。協議の結果、施設と車両を四日市市が保有し、新会社が運行する「公有民営方式」で存続させることになったものです。四日市市が第三種鉄道事業者、新会社が第二種鉄道事業者であす。新会社は、近鉄が75%、四日市市が25%を出資する第三セクター鉄道。社名の「あすなろう」は、内部線と八王子線がナローゲージ(軌間762mm)であることに掛けて、未来への希望を表したもの旧東海道は左方向へ進む民家の間の旧東海道を進むどこを歩いても人通りがなく9:22旧東海道の右手に、真宗 高田派 大蓮寺の石柱。所在地:三重県四日市市小古曽2丁目25-2米田山 大蓮寺当山の縁起は、当町南面に土岐代康が居城していたが、その跡地に八幡宮を勧請、その折願書を米田山珠寶法鎮寺と号したことに発する。当初は真言宗であった。その後、当時の末弟真蓮阿闍梨が、当町の北面に寺院を建立し、米田山大蓮寺と号した。戦国の世に寺院が焼失し仮堂のままとなったが、長禄年間(1457~1460)専修寺第十世真慧上人の教化に帰依し、浄土真宗に改宗した。寛政元年(1460)清順上人により、真宗高田派専修寺末寺米田山大蓮寺として開基された。その時、真慧上人により恵心僧都直筆の阿弥陀尊像一幅を賜ったとある山門からの本堂現在の本堂は、文化10年(1813)12月に再建され、本尊は第九世順察上人の記によると、快慶作の本尊阿弥陀如来立像御丈一尺五寸が安置されている鐘 楼山門前に駐車場9:25米田山大蓮寺のすぐ隣にある『観音寺』(右側)左奥には『延喜式内 小許曽神社』がある慈現山 観音寺禅宗の一派の黄檗宗の末寺であるが、歴史的に明らかなのは、江戸時代に黄檗宗の寺院となってからである。戦国時代、織田信長の兵火により焼失したが、村人たちが観音堂を建て、本尊千手観音像をお祀りしていた。その後、元文2年(1737)黄檗宗の僧鎮堂が旅の途中、四日市で一泊した折り、夢枕に現れた老人のお告げにより、この地に新しく寺を建て観音寺とした。村人たちによって兵火から守られた千手観音像は本堂に今も安置されており、頭体幹部は11世紀頃の制作であろうといわれている観音寺山門山門は四脚門方式で、屋根の両端に異国風の「魔伽羅(マカラ)」(サンスクリット語で鰐)が飾られているが、これは黄檗宗特有のものである。黄檗宗大本山宇治萬福寺の諸堂にもこの「魔伽羅」が見られる。いつか訪問したいものです!山門の屋根の「魔伽羅」(サンスクリット語で鰐)。当観音寺の「魔伽羅」は、棟札(棟上げの時に工事の年月や由緒などを記して棟木に打ち付ける札)により、寛政12年(1800)に置かれたものであることがわかる。細部の絵様は本堂のものと一致山門の扁額観音寺本堂本堂の扁額9:31観音寺の左側通路を入り延喜式内 小許曽神社(おごそじんじゃ)境内に入り拝殿由来は遠く平安の昔、醍醐天皇の御代、延喜5年(905)式内神社として神名帳に記載されている。伊勢の国には253の大社・中社・小社があり、そのうちの小社として選ばれた1100余年の歴史を有する式内神社である。祭神は天宇受売命、天照大日孁尊、布刀玉命のほか数神をお祀りしている。当神社の行事として、その年の作物の豊凶を占う粥試し神事など数多くの伝統行事が伝えられている先のどんど焼きで使用されたのか?境内から 四日市宿~庄野宿ー続く
2020.03.09
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根府川のおかめ桜の散策を続ける。気温も上がり風もなく4月初め頃の気候になり、多くの中高年の方が訪れて来た。3/6(金) 9:26白糸川橋梁の下に『釈迦堂』大正関東震災では土砂で埋まったとのことであるが、最近はゲリラ豪雨で流されるのではと白糸川の桜が咲くとまた最高では東海道本線鉄橋下の道路脇にある「釈迦堂入口」の石柱車へ戻るため坂を登る道路標識根府川関所跡 120m、白糸橋 1.1km、釈迦堂 160m。ポールには、潮騒の駅根府川・江之浦漁港コース3月中旬には吉野桜が咲く高台をズームアップ菜の花をズームアップ河川敷に咲くカタバミおかめ桜は、豆桜(富士桜)の血で花が小さい富士桜は、富士山の麓で咲いており以前行ったことが白糸川から県道740号線に戻り、西へ進み途中右上の坂へ上る。第二、三、四会場がある9:41急な坂を登り、第四会場『オーランジェ・ガルデン』所在地:神奈川県小田原市根府川524-111月 ~ 12月は相模湾を一望しながらミカン狩りでリフレッシュできる場所である駐車場に入り、ここからの相模湾も絶景であったが、撮影を忘れる。今年の初日の出では数名の方が車で撮影に来ていたと(売店の女性より)。ここの上に『ヒルトン小田原リゾート&スパ』があるヒルトン小田原リゾート&スパを見上げる旅友Kさんが、おかめ桜と楊貴妃を各一本購入。昨年の台風で倒れたニセアカシアの後に植えると、既に花芽を持っていたので来年は花見か?既にミカン狩りの時期は終わっていたが、店頭で「湘南ゴールド」「はるか」ジャム他を販売。試食で両方を食べたが私の口には、甘味は、はるか > 湘南ゴールド(酸味が強い)。メジロがたくさん飛んできていたが。売店の女性(50歳)は奈良から嫁いできたと。高級リゾートのお茶とお菓子で一休みできる場所。根府川駅へは送迎用のバスが運行している。9:58第四会場『オーランジェ・ガルデン』から坂を下り途中にある第二、三会場入り口。第二会場:離れのやど星ヶ山、第三会場:きのこ苑お山のたいしょう。離れのやど星ヶ山。カフェレストラン「ななつの星」があり食事ができる。既に満開のおかめ桜おかめ桜は寒緋桜の系統でピンクが鮮やかである路面には花びらが飛び散り東海道本線の白糸橋を貨物列車が通過上流側の山道にはおかめ桜が咲き誇る徒歩の人はこの道を歩き、我々は車で登る。10:04第二会場:離れのやど星ヶ山所在地:神奈川県小田原市根府川592露天風呂付きのリラックスできるカナディアンログハウスを備えたリゾート。少々高いので我ら一般庶民には・・・・・・・。おかめ桜祭り会場白糸川の上流側白糸川の源流に近い、川岸には紫陽花が見上げるとおかめ桜清流の川下犬連れの人がスマホで飼い主に了承をえて撮影4歳で名前は「くまちゃん」、男の子だが矯正したとおかめ桜と河津桜。どちらも寒緋桜との交配種であり、河津桜はオオシマザクラ、おかめ桜は豆桜(富士桜)河津桜は既に葉桜に、河津桜は今年も2月12日(水)に訪れた。その時のブログは『南伊豆の日帰りドライブ』へリンク願いますスイセンも咲きクリスマスローズも咲き、旅友はラインで「おかめ桜」を送信敷設された線路が10数メートル豆相人車鉄道(ずそうじんしゃてつどう)明治29年全開通から10年間、風光明媚な海岸線を人間が押して、熱海 ⇔ 小田原間を4時間かけて走る、人車鉄道が運行していました。この復元車両は当時の資料を基に製作しました。この復元車両は当時の資料を基に製作しました。定員6名ないし8名の乗った客車を、3人の人が押して動かした。まるでトロッコのような明治時代の運行状況。石垣の上の線路を、一車両に三人で押している。本来なら馬であったのであろうが崖で危ないので人頼りだったのか10:17おかめ桜の花数が多いのは寒緋桜に似ている 根府川のおかめ桜まつりへー続く
2020.03.08
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興正寺から旧東海道を南方向へ向かう。1/20(月) 8:10この坂は天白川を越えるために、この辺りは天井川が多く最近のゲリラ豪雨に対する対策はどうなっているのか天白川に架かる天白橋から東方向先程の興正寺を振り返る8:12天白川を渡るとすぐ右手に『林光山両聖寺(りんこうざんりょうしょ)』の石柱所在地:三重県四日市市日永3丁目6-7林光山両聖寺山門当山は昔、天台宗林光山西教院と称したが、住職の専阿上人が浄土宗第三祖記主良忠禅師と比叡山で一緒に修業された縁で、宝治2年(1248)記主良忠禅師が当山で大いに浄土教を宣布された。それ以来当山は浄土宗となった。このため、記主良忠禅師を開基とし、専阿上人を第二代とした。第三代道阿玄忍上人の時前記両聖人に因んで寺号を両聖寺と改めた。その後寺院は度重なる火災に遭い、本尊の阿弥陀如来も焼失し、幾多の災厄変遷を重ねてきた寛永2年(1625)に第十八世完誉月帚上人は阿弥陀三尊仏を寺に奉納し、開眼法要を営まれた。明治40年(1907)両聖寺の鎮守であった八幡社は分離され、大宮神明社に合祀された。今でも中の瀬古の獅子を八幡獅子と言うのはこのためである。また、盆踊りには寺の境内で市の無形民俗文化財の「日永つんつく踊り」が披露される山門を入り、鐘楼、本堂本堂の左に「開山 浄土宗第三祖記主良忠上人」の石柱境内の石仏、弘法大師8:17旧街道に出ると「つたえよう 日永つんつくおどり」 ~ 2020年 400年祭に向けて ~ 2014年7月20日今年の盆踊りは盛大に開催されるのだろう!四日市市指定無形民俗文化財『つんつくおどり』司馬江漢が「誠に田舎の踊りなり」刊行「西遊旅譚」と評したつんつくおどりは、大勢の人々が手をつなぎながら太鼓や笛などの囃子に合せて円陣をつくっていくという所作を持つ、日永地区に古くから伝わる郷土色豊かな踊りである。その起源は、昔、同地区を流れる天白川の堤防を固める時に村人が踊ったのが始まりともまた、織田信長の武将である勢州長島城主滝川一益の母が実蓮寺境内に居住した隠居所を造る際に唄った地築唄に振り付けたものともいわれているが、定かではない。大正時代末頃までは、8月14日から17日にわたり、大瀬古・天白・中之瀬古・南市場の四町それぞれの東海道筋で長い輪となって踊られており、四日ともに唄う唄が異なる上、日によって決まっていたというが、現在は中之瀬古町によって8月第2土曜・日曜日に両聖寺の境内で催されるのみとなり、両日共に同じ唄が唄われている8:20更に旧東海道を南下すると右手に大きな鳥居が現われる。ここまでの今日の歩数は、7,600歩日永神社所在地:三重県四日市市日永4丁目5-7通勤前の参拝であろうか男女が鳥居を潜り、参拝後神社裏にあるあすなろう鉄道の南日永駅へ当社は伊勢の神宮で祀られる天照大御神をまつる。古くは南市場神明社・南神明社と呼ばれた。日永神社と単称されたのは明治40年からである。創祀・沿革の記録や文章も残されておらず、いつの年代に創祀されたのか不明である鳥居を潜り拝殿へ江戸時代には、神戸藩主本多家からの崇敬も篤く、また東海道に面して多くの人々が参拝された。明治40年には日吉神社・岡山白髭神社・山之神社、さらに天正10年(1582)に創祀されたと伝えられる追分神明社を合祀し、同44年には池鯉鮒社・稲荷社を合祀して現在に至っている。例祭は十月の体育の日である。以前は拝殿の右側に松の老木があり、国難があると樹皮が変色して人々を驚かせ、神木として崇められていたと言い伝えられているが、その木は今はない拝殿の扁額「日永神社」拝殿左の広場先日のどんど焼きがやられたのか黒く焼け跡が残っていた石柱は『追分道標』この石柱は昔、日永の追分の神宮遥拝鳥居の傍に立てられていた道標である。この道標には正面に「大神宮 いせおいわけ」右側面に「京」左側面に「山田」そして裏面には「明暦二丙申三月吉日南無阿弥陀仏 専心」と刻まれている。この道標が立てられた明暦2年(1656)といえば、神宮遥拝鳥居が建立されたときよりも約百二十年も前であり、東海道における最古の道標としても貴重なものである更に立てた人がお坊さんであること、そして南無阿弥陀仏と彫られていることも興味のあることである。嘉永2年(1849)神宮遥拝鳥居の脇に現在の立派な道標が立てられたとき、この小さな道標が不要になり、近くにあった追分神明社の境内に移され、その後、明治40年に追分神明社が日永神社に合祀された際に、道標も一緒にここに持ってこられたものと推定される8:26日永神社に隣接してある『長命山 薬師堂』長命山 薬師堂「長命山」の扁額がある。本像は檜材による寄木造りで右手を屈臂して掌を開いて施無畏印を結び、薬壺を載せた手を膝上に置いた薬師如来像である。肉髻・螺髪を表し、袈裟は左肩を覆って右肩に少しかかる。左足を外に組んで結跏趺坐する。胎内背面と底板には正保2年(1645)、正徳3年(1713)、慶応2年(1866)の銘を持つ墨書があり、3度にわたり補修を受けたことがわかる。像はこのような後世の補修のために、多少当初の姿を損なっているが、鎌倉時代中期の制作といわれている市指定有形文化財(彫刻)『薬師如来坐像』なお、本像は、もと伊勢安国寺の旧像で、天正年間(1573~1592)安国寺炎上の時、千種常陸介忠治が猛火の中から日永村実蓮寺に運び出し、境内に建てた小堂で代々内仏として信仰していたが、文化13年(1816)同志によって現在地に移したと伝えられる8:28人通りの少ない旧東海道を進む8:29四日市市立日永小学校所在地:三重県四日市市日永4丁目5-13フェンスの中に石灯籠と「忠魂碑」、「稲垣末吉翁頌徳碑」稲垣末吉氏は、地元出身の事業家で昭和4年(1929)に自費で水道管を敷設して日永の追分まで水を引いた東海道総合案内この辺りも神社仏閣が多い8:32石柱は『真宗高田派 西唱寺』所在地:三重県四日市市日永4丁目6-4雲祥山西唱寺(うんしょうざんさいしょうじ)当山は浄土真宗高田派の寺院である。永禄2年(1559)僧玄聖の開創で、昔は安立院と称し、浄土宗の寺院であったが、江戸時代初期に住持の誓宅が専修寺第十四世堯秀上人に帰依して浄土真宗高田派に転じた。この折、堯秀上人から本尊を賜った。寛文元年(1661)寺号を西唱寺と改めた。正徳2年(1712)中川十兵衛尉が聖徳太子の木造を奉じて当山に立ち寄り、伝法法師に請うて当山に留まり、享保2年(1717)当山にて没している当山には寺宝が多数あったが、昭和20年(1945)6月18日の空襲で爆撃を受け、本堂、庫裡、太子堂、書院等が全焼し、寺宝、古文書等がことごとく灰燼に帰した。戦後、昭和21年に庫裡、同24年に梵鐘、同26年に本堂、同35年に書院がそれぞれ再建され現在に至っている菩提樹ロウバイ白いワビスケ椿牡丹は、島根県の大根島から本堂右側のクスノキに彫られた仏所ジョージも見に来たとズームアップするが陽射しが邪魔に8:41日永一里塚跡旧東海道沿いに背の高い石柱があるが民家の間に有り見落としやすい。日本橋から100番目の一里塚である。ここまでの今日の歩数は、8,300歩日永一里塚跡は当初、天白橋の北詰西側の榎の老樹のある場所と思われており、標柱が建てられ、県の史跡に指定されていた。しかし、その後の考証により、日永5丁目の現在地が正しいということになり、標柱を移した。この日永一里塚は、もとは5間四方で高さ2.5間の塚が東海道の両側に築かれており、西側の塚には榎が残っていたが、明治2年(1869)に伐採され、塚もその姿を消した8:47更に旧東海道を南下すると前方に大きな松が一本電柱が立ち並び電線も多く、どの方向からも電線が邪魔になる東海道名残りの一本松むかし、この辺りから泊の集落までは、東海道の両側に低い土手が築かれ、その上に、大きな松の木が並んで植えられていた。その間には、家は一軒もなく、縄手と呼んでいた。この松は、その縄手に植えられていたものが残った貴重なものであり、往時の東海道や日永の歴史の一端を今に伝えるものとして、大切に維持しなければならない8:49縄手の道幅は、土手も入れて約5間(9メートル)であった。松の木が無くなった現在の道幅とほぼ一致する。因みに、旧東海道の道幅は3間(約5.5メートル)で現在も変わっていない 四日市宿~庄野宿ー続く
2020.03.08
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旅友Kさんから、小田原市の根府川(ねぶかわ)で『おかめ桜まつり』が開催されているとの情報から行かないとのことで、3月6日(金) の7時に我が家へ来ていただき合流して出向いた。新型コロナウイルスの関係でまつりは中止と伝えられていたが。根府川『おかめ桜まつり』パンフレット。開催期間:令和2年2月29日 ~ 3月22日(日)おかめ桜まつり 実施施設案内図会場が4カ所ある 第一会場:JR根府川駅前 第二会場:離れのやど星ヶ山 第三会場:きのこ苑お山のたいしょう 第四会場:オーランジェ・ガルデン3/6(金) 7:00我が家を出発、西湘バイパスを走り早川I.Cで国道135号線へ。西湘バイパス石橋I.Cの先を国道135号線から山側の側道へ入いり進む。JR根府川駅へ行く途中に、源頼朝ゆかりの『石橋山古戦場』『佐奈田霊社』があるとのことで立ち寄る。今回このブログは、おかめ桜まつりを優先しますので後日アップします。3/6(金) 8:37海岸線(国道135号)より山側にある県道740号線(小田原湯河原線)を走る。JR東海道本線下に咲く「寒緋桜(かんひざくら)」寒緋桜は、旧暦の正月あたりに咲くことからガンジツザクラ(元旦桜)と呼ばれることもある。別名ヒカンザクラ(緋寒桜)、タイワンザクラ(台湾桜)、ヒザクラ(緋桜)ともいうおかめ桜は、この桜と豆桜のかけあわせた品種である8:45県道740号線(小田原湯河原線)沿いにある『JR根府川駅』所在地:神奈川県小田原市根府川小田原ふるさとの原風景百選海と山に挟まれたJR東海道本線の根府川駅は風光明媚で、駅から見る相模湾は絶景。詩人茨木のり子の詩集「根府川の海」の中で『根府川 東海道の小駅 赤いカンナの咲いている駅・・・』と謳われている駅前のおかめ桜まつりの幟駅前のおかめ桜無人駅で自由に出入りできた関東大震災殉難碑改札を入り左側の駅構内に建立された、根府川駅列車転落事故の石碑何となく懐かしい表示板上りの回送電車が通過東京方面蒸気機関車が走っていた頃の東海道本線の『白糸川橋梁』であろうか(構内の写真から)。この辺りで風が強いと列車が止まる駅構内からの東京方面。撮影に夢中の旅友蜜を求めて野鳥がズームアップ🌸 おかめ桜まつり 🌸今から約20年前、縁あって植えたおかめ桜。春になり、花を咲かせたその姿にすっかり魅せられ「このかわいい桜を皆様にお楽しみ頂きたい!」と、年々植栽し、現在の姿となりました。鳥たちの声と、心ゆくまでご鑑賞下さいところで「おかめ桜」の生いたちは?寒緋桜と豆桜をかけあわせた栽培品種で、イギリスで誕生しました。日本に里帰りの際、日本人になじみのある ”オカメ” と名付けられました駅前の観光案内箱根ジオパーク 小田原エリア 根府川(片浦海岸)根府川(片浦海岸)は、箱根火山の外輪山です。駅舎横の慰霊碑や近くにある釈迦堂で、1923年の大正関東震災の際の駅裏の斜面の地滑りやその南側を流れる白糸川で起きた岩窟なだれなどの被害について、当時の状況を知ることができます。根府川の尾根伝いに断続的に「氏直の構」と呼ばれる戦国時代の土塁が残されており、江戸時代には根府川関所の要塞山として管理されるなど、当時は箱根火山が生み出した地形を生かした要害の地でした。また海岸に沿って、江戸城の石垣用に石を切り出した石丁場が開かれた為、安山岩を切り出す際にうがたれた矢穴(クサビを入れる穴)の跡がある石が現在も点在します早川・片浦ウオーキングトレイルは、JR早川駅から根府川駅間の丘陵地を巡る健康の道です。トレイルには、勾配がきついところがありますので、自分のペースで楽しんでください。早川・片浦ウオーキングルートは、Aルート:3時間、10.9km、Bルート:3時間半、12km例年より一週間ぐらい早く満開に上り電車「宇都宮直通」下田行きの「踊り子号」この車両を撮るために鉄撮りの人が30分以上沿線で待っていたが9:05約20分ぐらい鉄撮りになり9:10根府川駅から、県道740号線(小田原湯河原線)を西へ走り、狭い道を白糸川へ川沿いに大きなサボテン下流側の、東海道新幹線、東海道本線の陸橋上流側の県道740号線(小田原湯河原線)9:14根府川関所跡江戸時代初期、白糸川岸に置かれた根府川関所は、箱根火山が生み出した地形を生かした要害の地で、通行を取り締まっていた。常駐する役人の数が箱根関所に次ぐ多さで要衝として重要視された東海道の脇街道であり、熱海や伊豆へ通じる根府川道の関門として、この地に根府川関所は設置されました。新編相模国風土記稿などによると、江戸時代初期の元和元年(1615)頃に設けられたとされており、以後、明治維新のため明治2年(1869)に廃止されるまでの約250年間に渡り、明け六つ(午前6時頃)の開門から暮れ六つ(午後6時頃)の閉門まで、破れば磔により罰せられることもある厳しい掟により通行が取り締まられていました。箱根関所のほか、小田原藩内には、仙石原、矢倉沢、川村、矢ヶにも関所が設けられましたが、根府川関所は常駐する役人の数が箱根に次ぐ多さで、要衝として重要視されていたことがうかがえます。根府川関所は白糸川の南側にありました。関東大震災前までは礎石もあり、当時の様子がうかがえそうですが、震災により埋没し、その後の新幹線の工事等により川の形も変化してしまい、関所跡は、現在、川底となっていますこの桜の木はつぼみが大きくなっている菜の花とおかめ桜東海道本線の陸橋、橋の向こうには相模湾白糸川の流れ9:17東海道新幹線の陸橋この辺りの新幹線はスピードが速く騒音防止の遮音壁がつながる庭先に富士山を作り、白糸川橋梁を列車が通過坂を海方面へ下ると『白糸川橋梁』神奈川の橋100選に選ばれた赤い鉄橋で、東京方面大阪方面、風が強いと列車がよく止まっていた9:23白糸川橋梁の下に『釈迦堂』所在地:神奈川県小田原市根府川248大正関東地震の前は高台に位置していた釈迦堂は、震災により土砂の中に埋まったが、その後釈迦像は見た目は無傷で掘り出された。被害のなかった釈迦像への信仰は高まり、釈迦堂は再建され、現在は地下の洞の中で昔のままの姿を見ることができるJRの陸橋の真下、おかめ桜の傍に立派なお堂があり、その中にお釈迦様白糸川の釈迦如来釈迦堂横で咲くおかめ桜白糸川の釈迦如来根府川の旧家広井家の古文書によると広井家22世広井長十郎重友の代に頻発地震多く、特に寛永9年1月21日と正保4年9月14日と慶安元年4月22日の地震は、死者、民家の倒壊多く津波も襲来する等で世相は不安にみちり居り、長十郎重友は、村内世相の安泰のため岩泉寺境内の岩磐に釈迦尊像を建立して世相の安泰を祈ったとあります。・・・・・略・・・・・・・・。階段を下り左側に祀られている地下から外を見上げる9:26白糸川の下流には国道135号線に架かる『新白糸橋(しんしらいとばし)』 根府川のおかめ桜まつりへー続く
2020.03.07
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赤堀駅から旧東海道を南下する。 1/20(月) 7:39旧東海道を進む、この時間になると国道1号線が渋滞しているのか車の量が多くなる前方は鹿化川(かばけがわ)、川底が高いので道は上って越える。ゲリラ豪雨時は床上浸水が心配なエリアである鹿化橋(かばけはし)と珍しい名前である鹿化川の下流現在地:鹿化川左岸鹿化川の歩道橋を渡る7:42橋を渡り下る7:44前方に神社の鳥居大宮神明社所在地:三重県四日市市日永1丁目12-86月30日の夏越しの大祓(輪くぐり神事)は大勢の参拝者と露店で賑わいます当社は永宮さんとも呼ばれ、主祭神として天照大御神を祀る。昔は現在の南高校のある岡山の麓まで海であって、その海辺に舟付明神があった。垂仁天皇の時代に倭姫命が天照大御神を伊勢の地にお遷しする際にこのお社に一時お留まりになったという伝えもある。その舟付明神が四百年ほど前に炎上し、当時出来つつあった道路(東海道)近くに遷ってきたのがこのお社である。例祭は十月の体育の日である。この日には獅子舞があり、現在では八幡獅子が家々を回って獅子を舞わしている足長オジサン御由緒当神社は岡山(現県立南高校)に鎌倉時代より奉斎されていたが永禄5年この地に遷る。祭神は伊勢の神宮とご同神を祀る。摂社二柱大神(大己貴命、少彦名命)は、古来諸国より病気平癒祈願のため参詣される一名永宮神社と云う大宮神明社拝殿、右側には摂社二柱大神社大宮神明社拝殿本殿の右横には大己貴命、少彦名命を祀る摂社二柱大神社(センキさんとも言う)があり病気を治す神様として有名である大宮神明社拝殿から東側を7:48神社の片隅には稲荷さんも7:52旧東海道沿いの「鮮魚仕出し 魚傳」、まだ営業しているのか旧街道に戻ると掲示板に「行けるはず まだ渡れるは もう危険」古民家が残る7:55弥次さんが、iPhone を見ながら右の「大聖院 50m」へ旧東海道を右に入ると石碑が石碑は「水沢道標」大正12年(1923)の水害まではこの横の道が水沢方面に通じる道路であった。このため、今から約二百年ほど前に大阪の古銭収集家の河村羽積という人が、東海道から水沢道が分かれる角に立てたのがこの道標である。水沢の楓谷は紅葉の名所であり、昔は菰野藩主の土方公が必ずこの紅葉を愛でられたと言うこの碑の表面には「水澤は藍より出て紅葉哉 大坂 羽津み」裏面には「猿丸大夫名歌古跡すい澤へ是ヨリ三里」と彫られている。猿丸大夫の名歌とは「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞くときぞ秋は悲しき」と詠まれたものである7:57旧東海道を西側に入ると前方に旧東海道を西側に入ると「大聖院の山門」所在地:三重県四日市市日永2丁目11-7無動山 大聖院当山は行基菩薩開創、平安時代には醍醐寺座主定海僧正御住坊であった。永禄8年(1565)松井親蔵法印が千種氏の庇護のもと、一族の守り本尊であった不動明王を奉じ氏寺として寺院を再興された。元禄3年(1690)中興第四世海養法印は寺地を今の地に定め、寺号を大聖院と改めた。中興第七世快養法印は神戸藩内の寺社仏閣から選ばれて、延享3年(1746)神戸城地鎮祭の祈祷を執り行いし名僧であった。・・・・・・・・・・・・・・。本尊不動明王(秘仏)は、鎮守府将軍源頼義公、義家公父子の念持仏で、平安後期の代表的尊像として、大正4年(1915)国宝(重要文化財)に指定されている三重県指定有形文化財(絵画)「絹本著色釈迦三尊十六善神像(秘仏)」無動山大聖院奉安の本図像は、縦111.7cm、横55.7cmの掛幅で、釈迦三尊像での裏彩色を施し表から金箔を押す丁寧な仕事ぶり、着衣の盛り上げ文様の手際などから、奈良・京都の中央の絵仏師による鎌倉時代中期の制作と考えられる。・・・・・・・・・・・・・重要文化財(彫刻)「木造不動明王立像(秘仏)」無動山大聖院本尊木造不動明王立像は、平安時代後期の柔和で優美な特徴をよくとらえた像高95cmの桧材一木造の彫像である。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山門を入り、正面に本堂当山は、天平十年行基菩薩の開創にして、平安末期、醍醐寺座主定海僧正の御住坊なり。醍醐三寶院直末、神戸藩主の御祈願寺として信仰を集め、現在に至る。本尊の不動明王は、鎮守府将軍源頼義公の念持仏にして、源氏歴代の武将によって信奉され大正4年8月国宝に指定されし尊像なり境内の梅の蕾はまだ固い石柱には「國寶不動尊」8:00山門の鬼瓦?小さなお寺であった8:02旧東海道に戻り進む8:04中央を天白川が流れる、町割り8:05旧東海道を進むと右手に真宗高田派 日永山 興正寺所在地:三重県四日市市日永2丁目9-6当山は浄土真宗高田派で、創建は貞観6年(864)と言われている。登城山にあったときは天台宗であったが。文暦元年(1234)親鸞聖人が当寺に立ち寄られたとき浄土真宗に改宗した。その後二百年くらいして、本山の第十世真慧上人が津の一身田に本山を定められ、高田派となった。天文13年(1544)本山第十二世堯慧上人は、当寺で「日永千部」という本寺の復興勧進法要を勤められ、興正寺は有力な末寺となった。天正2年(1574)現在地に移る堯慧(ぎょうえ)上人は織田信長にも治安維持を願い、滝川一益が興正寺に対して出した「日永興正寺四至傍至の事」という寺領を与える文書、豊臣秀吉の寺内「禁制状」などを有している。また、徳川家もこの寺を保護するよう配慮した。天白川がこの寺を囲むように曲がっているのも、滝川一益が堀の役目をするようにしたと言うことで、この堤を昔の人は滝川堤とも言った山門を入り左側に「鐘楼」と「??堂」本堂の背後を天白川が流れる8:10興正寺の鐘楼 四日市宿~庄野宿ー続く
2020.03.07
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昨日は移動日で、愛知県知立市の無量寿寺、熱田神宮へ立ち寄り近鉄四日市駅近くの四日市アーバンホテルへ宿泊。今年初めての延べ26日目の弥次喜多道中記です。今日のゴールは庄野宿入口のJR加佐登駅。1/20(月) 6:35ホテルにてバイキングの朝食、一泊朝食付き6:53早々に食事を終え、車をホテルへ預けて出発。ここ四日市にも、手羽先の「世界の山ちゃん 四日市店」アーケード街を歩くと、観光案内所案内所の前の歩道面にタイルの絵お馴染みの、保永堂版 安藤広重の四日市汚水マンホールのデザインにも採用この浮世絵は、『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 四十四 五十三次 四日市 日永村追分 参宮道」三滝橋?アーケード街を進む6:59旧東海道は、左:JR四日市駅、右:近鉄四日市駅の中央通りを通り過ぎる左側(東)を国道1号線が並行して走る7:02旧東海道の左手に、「佛法山 崇顕精舎」「丹羽文雄生誕之地」の碑。所在地:三重県四日市市浜田町10-12崇顕寺は、真宗高田派の寺院。文化勲章受賞作家で、四日市市名誉市民の丹波文雄生誕の地である。「丹羽文雄生誕之地」と書かれた大きな石標に「崇顕精舎 文雄」と書かれた丹波文雄自筆の書が刻まれている。中に入れずフェンス越しに写真を撮る弥次さん、まるで不審者?扉には『崇顕寺・浜田保育園』。所在地:三重県四日市市浜田町9旧東海道から東側の国道1号線側へ移動。お寺が保育園に7:06旧東海道に戻る。右側の電柱には、東海道の案内板四日市宿から日永まで、天白橋 ⇔ 中央通り 約2.4km街道沿いに「東海道 四日市」の幟イメージキャラクターの「こにゅうどうくん」崇顕寺・東漸寺時間も早く人通りがない旧東海道7:09旧東海道の右側に「東漸寺山門」所在地:三重県四日市市中浜田町2-5東漸寺本堂鐘 楼街道を進むと古民家前方に近鉄名古屋線の高架7:14近鉄名古屋線の高架7:18街道の左側には東海道の幟もあり道を間違えない。近鉄の高架を越えた先の街道沿いに古民家が散見される。この辺りは、昔は干鰯(ほしか)(肥料)屋、材木屋、紙屋、餅を売る茶屋などが並びにぎわった旧東海道を南下する旧東海道を南下する民家の軒先に案内板があり助かる街道右側に新築の建物この辺りが『鈴木薬局』の跡地、新築の家の表札も鈴木鈴木薬局前から旧東海道を振り返る。二百六十年以上前の江戸中期から製薬業を営んでいた旧家で、母屋は嘉永5年(1852)の建築。寛延3年(1750)長崎で漢方を学んだ四代目・勘三郎が創業し、膏薬、萬金丹、真妙円などを製造販売した7:23旧東海道に案内板。ここを右に入ると350mで「八阪神社」へ向かう四日市あすなろう鉄道内部線の赤堀駅赤堀駅改札横にあった『赤堀城跡』当駅より徒歩約15分(北西へ約600m)。赤堀城は、田原(俵)藤太藤原秀郷の子孫、田原孫太郎景信が室町時代の応永年間(1394~1428)に上野国赤堀庄から伊勢国栗原に移り、ここに築城したもので、現在の「赤堀」という地名もこの時に改められたといわれています。景信は、後に肥前守と称し、次男秀宗に赤堀城を継がせ、長男盛宗を羽津城に、三男忠秀を浜田城に配し、赤堀三家としての基礎を築き、この地方を支配するようになりました。江戸時代の軍記物には、安土桃山時代の天正3年(1575)、織田信長の家臣滝川一益によって赤堀城は攻撃を受け落城したと伝えられますが、実際には織田信長の家臣団に組み込まれたようです。城跡は、現在、都市化のため記念碑があるだけですが、旧「三重郡赤堀村字城西・同城東・同新三郎縄」の地籍図には主郭の土塁や堀が認められ、かなり大きな城であったことがうかがえます駅前にあった案内板踏切を渡り振り返ると日の出赤堀駅を振り返る7:29八阪神社所在地:三重県四日市市赤堀2丁目9-8京都祇園八坂神社の分社。御祭神は、武速須佐之男命。日本神話で須佐之男命は、八俣大蛇(あらゆる災厄)を退治し地上に幸いをもたらした神とされ農神疫神として、信仰されている勧請年代は不詳であるが、もと牛頭天王八王子社と称し赤堀城の鎮守神として祀られていた。戦国時代、織田信長の北伊勢侵攻の際、赤堀城は落城するが、赤堀一族の忠保は助命され牛頭天王社の神官となり、以後社家として続いている明治2年(1869)八阪神社と改称。当社は、明和7年(1770)より豊受大神宮(伊勢神宮外宮)の中重鳥居を拝領し、以来神宮式年遷宮ごとに中重鳥居の下附を受け、現在の鳥居は平成27年に建立したものである。昭和20年(1945)6月の大空襲により社殿は全焼したが、昭和30年伊勢神宮別宮の瀧原宮長由介神社の本殿の下附を受け現社殿を再建し、今日に至っている7:37四日市あすなろう鉄道内部線に戻る軽便鉄道のため線路幅が狭く、そのため車輛も一回り小さめ。この軌道の線路幅は、762mm、JRは、1,067mm。西桑名駅の南側の踏切では、三岐鉄道北勢線、JR、近鉄の三ツの線路幅が見れる何となく色合いが映える近鉄四日市駅への列車7:38旧東海道へ戻る。まだ時間が早く人通りも少ない 四日市宿~庄野宿ー続く
2020.03.06
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今の世の中、新コロナウイルスのニュースで暗くなっているが、自然の花だけはこの暖冬で例年より早く咲き始めている。そんな我が家の花たちをアップします。1月10日(金) 15:30庭に来るいつものジョウビタキのメス愛嬌があり我が家の狭い庭を飛び回る2月29日(土) 16:30いつもより早く咲き始めたハクモクレン春を感じさせる純白のハクモレン芯を撮らえる芯をズームアップ3月1日(日) 7:30マーガレットもきれいに冬場は霜を避けネットを張っていたが暖冬でこの冬何回霜が降りたかリュウキンカも綺麗に、種が飛び散りあちこちで咲き始めている二日目のハクモクレン3月2日(月) 12:15雨上がりのミツバツツジ地面では鉢植え&地植えのクリスマスローズも咲き始め3月3日(火) 16:00 畑に来るジョウビタキのオス3月5日(木) 9:00部屋からの花既に満開になったハクモクレン昨夜の雨で、満開になるといさぎよく花びらが飛び散り、後の掃除が大変だがスイセンもきれいに部屋では胡蝶蘭も順調に開花を待つ。会社からのおさがりの胡蝶蘭であるが、毎年11鉢が綺麗に咲いてくれるこの下旬には咲き始めるのではなかろうか ❕明日は早朝から旅友と、根府川の「おかめ桜」へ!電車に乗るとうっかり咳ができないので車で行くことに!旅友のメールをリンクしました。https://iwalkedblog.com/?p=35161 END
2020.03.05
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初めての熱田神宮参拝を続ける。1/19(日) 15:14織田信長が桶狭間の戦いで大勝しその御礼で奉納した『信長塀』飲み友達(後輩)のよく似た人がいるが永禄3年(1560)織田信長が桶狭間出陣の際、当神宮に願文を奉し大勝したので、その御礼として奉納した塀である。土と石灰を油で練り固め、瓦を厚く積み重ねている。三十三間堂の太閤塀、西宮神宮の大練塀と並び日本三大土塀の一つとして名高い参道東側の高床の「六末社」第二鳥居を出て参道の東側に立つ『佐久間燈籠』尾張国御器所の城主、佐久間盛次の四男大膳亮勝之が海上で台風に遭った際、当神宮に守護を祈り難を免れたので寛永7年(1630)その御礼として寄進された。京都南禅寺東京上野東照宮の大燈籠と共に日本三大燈籠として名高い日本三大燈籠だけに大きい二十五丁橋参道の西側にある尾張名所図会や名古屋甚句で名高く、板石が25枚並んでいることから二十五丁橋といわれる甚句には「宮の熱田の二十五丁橋で西行法師が腰を掛け、東西南北見渡してこれ程涼しい此の宮をたれば熱田と名を付けた」とある名古屋甚句二十五丁橋を西側から見る参道西側の休憩所、近くに西門がある15:24第一鳥居を振り返る。鳥居の右側に無料駐車場があったが満車で駐車待ちの車が多く待機15:28熱田神宮 正門(南門)から、「秋葉山 圓通寺」に戻る。所在地:愛知県名古屋市熱田区神宮2丁目3-15手前右奥に「奥之院毘沙門天並びに降魔不動尊」。秋葉山 圓通寺日本最古の秋葉大権現出現の霊地秋葉大権現(火の神様)今より1800年程前日本武尊を火難よりお救いになった秋葉大権現は「火防守護・諸難消滅・心願成就」の大誓願をもって日本で始めてこの地に「秋葉神社」として尾張氏により祀られる(後の圓通寺)・・・・・・・・・・境内には多くの車が駐車、我々もそうであったが弥次さんが御朱印を頂く子持石この石は通称「子持石」という、この石に祈願すれば子宝が授かります三波石:天然記念物 群馬県鬼石特産奉 納:群馬県藤岡市 黒沢義広補陀山 圓通寺本堂の扁額補陀山 圓通寺 十一面観世音菩薩創 立:弘法大師空海、弘仁年間(810年頃)開 山:勅徳賜大???誓海義本、明徳2年(1391)開 基:尾張氏 現在田島氏毘沙門天王境内の南側隅にある『紅流』三波石:日本三大銘石の一つ、天然記念物 学 名:秩父?層、水成岩産 地:群馬県鬼石奉 納:群馬県藤岡市 黒沢義広15:35秋葉山圓通寺を後にし、カーナビを「四日市アーバンホテル」一般道優先でセット15:44国道1号線の白鳥橋西交差点を左折して国道154号線へカーナビは、目的地まで33kmで到着予定は16:48と標示15:54港陽I.C で国道23号線と合流、四日市方面へ進む。渋滞でカーナビが迂回路を紹介したが直進する16:17途中昼食を摂っていなかったので、国道23号線沿いの「かつや 弥冨店」へ立ち寄る。かつ丼 539円をオーダー、値段の割に美味しかった!16:52久しぶりにかつ丼を食べ満足国道23号線を走り三重県に入る鈴鹿山脈に夕陽も沈み、明日は天気がよいのであろう17:04国道1号線の金場町交差点17:25ホテルでの駐車が24時間1,100円を要するので、ホテル廻りの駐車場を探すが、全て同金額であったのでホテルへ。宿泊ホテルの「四日市アーバンホテル」へ到着。17:46近鉄四日市駅前のライトアップ右側は近鉄百貨店 四日市店駅前広場ビルのウインドーに映える四日市市内の名所案内末広橋梁:国の重要文化財である、現役最古の鉄道可動橋。 最新情報では、昨年の2019年に停止している中央通りJR四日市駅方面中央通りの広場像は「躍進」祝 東京 2020 オリンピック出場!!男子マラソン:中村匠吾 選手 女子レスリング53kg級:向田真優 選手日本各地でこのような垂れ幕が近鉄四日市駅入口四日市市のマンホールデザインは、港の船と、コアラ&パンダ18:10こちらのデザインは、歌川広重の「東海道五十三次 四日市」夕食は近くのコンビニで買い出し、いつものように部屋で明日のための英気を養う。今日の歩数は、6,014歩。 四日市宿への移動日-END
2020.03.05
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無量寿寺の散策を続ける。1/19(日) 13:27杜若姫供養塔(中央)、祖風翁之墓(右)花崗岩で作られた宝篋印塔で、全高は約1m。全体に風化が著しいが基壇は矢作川流域にみられるれ蓮華を省略した形式のものである。笠は五段であるが四隅の耳を欠き、相輪も途中で折れており塔身の四仏の梵字もはっきりしない当地の伝説によると、杜若姫は小野中納言篁の娘とされ、東下りの在原業平を恋い慕って、ようやくこの八橋で追いついたが、業平の心を得ることができず悲しんで池に身を投げて果てたとされる。この塔は、姫をあわれみ建てたものと思われる祖風翁の句碑 遺章 かきつばた 夏も むかしの なつならず井村祖風は池鯉鮒の旅宿山吹屋の主人で俳人です。延享元年(1744)江戸向島に生れ、芭蕉に私淑して俳諧の道に励み、多くの文人墨客らとも交わりました。岡﨑藩主家の本多忠寛(俳人三秀亭李喬)と親交があり、その縁で山吹屋の跡を継ぎました。山吹屋には蜀山人、太田南畝も訪れ、八橋の方巖売茶とも交わるなど風雅の生活を送り、池鯉鮒を代表する文化人でした。現在知立神社にある芭蕉の句碑「不断たつ 池鯉鮒の宿の 木綿市」は祖風が同好の士とともに建てたものです。この墓と書かれた祖風の句碑は、祖風没後2年の文化8年(1811)に、門人らによって経巻型式で建てられました伝説羽田玄喜二児の墓昔、野呂宿(八橋)に羽田玄喜という医者がいた。妻はこの地の荘司の娘で二人の男児があった。夫は早くに死に、女手一つで二児を育てていた。ある日妻が生活の糧にと浦で海藻をとっていると、母を慕って来た二児が、誤って水に落ち溺れて死んでしまった。妻は、悲しさのあまり当寺に入り、尼となって子の墓を建て菩提を弔った。またお告げにより、浦に流れ着いた材木で橋を八つかけた。以後、この地を八橋と名付けたと伝えている在原業平と万葉椿八橋の街道沿いには、珍種といわれる”万葉椿”が多く見られる。文献によると、椿は日本古来よりの花木で、万葉の頃から、椿をよみこんだ歌もみられる。在原業平も東国への旅に出て八橋に至り、この里にて金魚の尾に似た椿の葉を見つけ”万葉椿”とよんだところ、その後村人達は、業平万葉椿と呼ぶようになったと言い伝えられている神社西側にある、かきつばた池土を入れ替えて整備していた無量寿寺本堂13:33日𠮷神社拝殿約40分程の参拝で無量寿寺を後にした。今日は日曜日にもかかわらず観光の人は少なかったが、杜若の咲く4月~5月頃は、多くの人々で賑わうのであろう。13:53熱田神宮へ向かう途中、知立市と豊明市の境にある『境橋』へ立ち寄る。国道1号線から右斜めに入るが右折禁止のため左折してUターンして「境橋」へ橋を渡り境橋を振り返る。境川に架かり三河国と尾張国の境である。当初は東側(三河側)が土橋、西側(尾張側)が板橋の継ぎ橋だった。京都の公家・烏丸光廣が詠んだ狂歌が有名。「うち渡す 尾張の国の境橋 これやにかわの 継目なるらん 光廣」橋のたもとに石が置かれ、狂歌が刻まれていた説明板には、狂歌集、古今夷曲集が刊行された寛文6年(1666)当時の境橋は、尾張側は木橋三州側は土橋の所謂継橋として有名であった。詠み手は、京都烏丸に邸宅のあった権大納言正二位、藤原朝臣光広卿で俗に烏丸と称された13:56尾張側から江戸側を望む14:15カーナビを「熱田神宮」にして走る。国道1号線を走り、桶狭間古戦場近くを走り過ぎる14:35国道1号線を走り、伝馬町東交差点。この先の交差点を右折するのだが、日曜日で熱田神宮への参拝者の車で渋滞この先の、伝馬町交差点を右折14:40ここ伝馬町交差点を右折するが、向こう側からも多くの車が伝馬町交差点内14:55伝馬町交差点を右折しても熱田神宮への車で渋滞。このため手前にある「秋葉山 圓通寺」境内へ駐車する。所在地:愛知県名古屋市熱田区神宮2丁目3-1514:59熱田神宮 正門(南門)からの第一鳥居。私にとって初めての参拝である熱田神宮である。所在地:愛知県名古屋市熱田区神宮1丁目1-1境内案内図天照大神、日本武尊、素戔男尊、宮簀姫命などの五神を祀る。天皇の皇位継承の「三種の神器」のひとつ、草薙剣が御神体。源頼朝が大宮司舘で生まれたといわれ、天皇家、源氏一族、織田、豊臣、徳川と武家の尊崇が篤く、代々尾張氏一族が祀官を世襲した。織田信長が、桶狭間の戦いでの戦勝報賛のため寄進した「信長塀」は日本三大練塀の一つ第一鳥居の手前を左に入り「上知我麻神社(かみちかまじんじゃ)」御祭神は「乎止興命(おとよのみこと)」で尾張氏の祖先とされており、尾張国造でもあります。商売繁盛や家内安全、そして知恵の文殊の神様です。1月5日の「初えびす」はとても盛大なお祭りだそうです上知我麻神社の北側にある「別宮 八剣宮」別宮 八剣宮は熱田神宮の本宮に次ぐ社格で、御祭神も本宮と同じ神様が祀られています。和同元年(708)に鎮座されています。延喜式内社です。八剣宮の「八」は「弥々」と読み、「ながし」「ひさし」の意味で永遠の剣の宮という意であるとのこと別宮 八剣宮からの上知我麻神社木製の第一鳥居第一鳥居を入り参道を北へ向かう。参道に「初えびす」の垂れ幕があるが第二鳥居を過ぎ、参道左手に樹齢千年の「大楠」。境内には多くの楠の木が茂生している。その内、特に大きなものが七本あったので、俗に七本楠と称している。この楠は弘法大師お手植えとも伝えられ、樹齢は千年以上といわれている桜も満開第三鳥居信長塀織田信長が桶狭間の戦いでの戦勝報賛のため寄進した「信長塀」は日本三大練塀の一つ第三鳥居を入り右手に「神楽殿・授与所」熱田神宮・本宮本宮前には多くの参拝者が列をなしていた杉の木立に囲まれた風格のある神社本宮前の参拝者授与所の前にも多くの参拝者神楽殿ならずの梅この梅は、享禄の古図(1529年頃)にも描かれている奇木で毎年2月上旬頃から、薄桃色の清らかな八重の花が咲き始める。一度も実をつけたことがないので「不実梅(ならずのうめ)」と名付けられ古くから有名である15:14西楽所(にしがくしょ)貞享3年(1686)五代将軍綱吉の再建による。毎年5月1日の舞楽神事には、この楽所前に特設舞台を組み伶人がここで楽を奉する。もとはこの西楽所(右楽所)に相向いあって東楽所(左楽所)もあった 熱田神宮ー続く
2020.03.04
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東海道五十三次で四日市宿への途中、弥次喜多道中で行けなかった知立市の無量寿寺へ立ち寄った。無量寿寺は、名勝八橋の中心となるお寺で、杜若の名所で知られた臨済宗妙心寺派の寺院。昔の八橋のあたりは、湿地帯で多くの小川が流れ、八つの橋を架けたことからその名前が付いた。杜若が咲く水郷のような景色の良いところだった。八橋の無量寿寺の杜若は在原業平の和歌で有名になり、古くから文人墨客が訪れた。業平は都から東に下る途中、八橋の美しい杜若を見て都に残した妻を偲び「かきつばた」の五文字を句頭に入れた。1/19(日) 8:57午前中の薩埵峠からの富士山11:15薩埵峠で富士山を見た後国道1号線を走り、浜名バイパスの浜名大橋からの西方面浜名バイパスから、『元白須賀一里塚跡』辺り浜名湖カントリークラブの風力発電11:24潮見バイパス(国道1号線)の「道の駅 潮見坂」所在地:静岡県湖西市白須賀1896-2道の駅に立ち寄る足湯があったが、この足湯は太陽熱を利用していると利用時間:10時 ~ 16時まで11:54東名高速道路を使用せず一般道を走る場合、カーナビはこのルートを案内する。豊橋東I.Cで、国道1号線から国道23号線(豊橋東バイパス・名豊道路)に入いる。自動車専用道路でスピードを上げる。豊川橋を渡り前芝ICを直進する11:58国道23号線(豊橋バイパス)はここで終了、この先は延伸工事中。豊川為当(Toyokawatameto)I.Cを降り一般道(県道31号線)へ、ここを右折12:00県道31号線を300mほど北上、森5丁目交差点を左折。500~600m西へ走り、この森1丁目交差点を右折して北上左のネットは、愛知県立国府高等学校所在地:愛知県豊川市国府町下坊入10-112:03国道1号線の白鳥町交差点を左折12:24しばし国道1号線を走るが、弥次喜多で歩いた旧東海道の一部を走る。国道1号線沿いの「道の駅 藤川宿」所在地:愛知県岡崎市藤川町東沖田44番地12:58国道1号線を走り安城市に入り、この「今本町西交差点」を右折して北上 13:09無量寿寺所在地:愛知県知立市八橋町寺内61-1旧東海道から北側へ約1km入る。昨年10月16日(水)に旧東海道を歩いていたが、その時既に23,600歩歩いていたので参拝を見送ったので、今回訪れた日𠮷神社車は境内に駐車八橋 日𠮷山王社由緒御祭神:大山咋尊創 立:慶雲元年(704) 無量寿寺の開祖、密圓法師が同寺の創建に際し守護神として境内に勧請安置され たと云われている。以来、無量寿寺の住職が累代奉仕してきた。明治4年神仏分 離令により境内に境界を設け町内の氏子が氏神としてお詣りしてきた文化の道「東海道宿場散歩みち」知立市 観光めぐり八橋かきつばた園ご案内 無量寿寺 八橋史跡保存館 かきつばた園左に「芭蕉連句碑」、右に「八橋古碑」芭蕉連句碑「かきつばた 我に発句の おもひあり」 芭蕉「麦穂なみよる 潤ひの里」 知足 松尾芭蕉が「野ざらし紀行」を終えた翌年の貞享2年(1685)4月に、鳴海の俳人下里知足の家を訪れ、そのとき開かれた俳席での作といわれる。芭蕉は知足の案内でこの八橋に遊び、古に思いを巡らしたのであろうか。碑を建てたのは知足の子孫である下郷学海(下里から改姓)で、「安永6年丁酉夏6月」(1777)とある。三河にのこる芭蕉句碑の代表的なものである八橋古碑八橋は古来より和歌の名所として著名であり、多くの文人墨客が訪れた。この碑は、岡﨑藩に仕えた儒者 秋本嵎夷、その門人国分伯機・由良不淰により、寛保2年(1742)に建てられた。撰文は秋本、書は国分である。碑文は「八橋紀事井王孫歌」と題され、八橋と在原業平の故事、それについての感慨が漢文で書かれるが、難解なことで有名である。亀形の碑の台を亀趺といい、一説には中国の伝説上の神獣とされる。地元では、「亀甲碑」とも呼ばれる無量寿寺本堂無量寿寺 臨済宗妙心寺派慶雲年間(704~8)に創建された慶雲寺が、弘仁3年(821)八橋のこの地移され、無量寿寺となったと伝えられているひともとすすき謡曲「井筒」の故事にならって植えられたと伝えられてる。「八橋の一もとす々き穂にいでて はるばる来ぬる人まねくらん」と「三河名勝図絵」にあります。このすすきの葉を片手で結ぶと願い事がかなえられるという言い伝えから、縁結びのすすきと言われている本堂右側の廊下下を潜り「杜若池(心字池)」へ。右側の竹は「業平竹」植えられた時期は不明だが、江戸時代の文献には、当寺の堂前に「業平竹」があったとの記述がみられる。一説には竹(男竹)であるが、笹(女竹)のように一節から多くの枝を出すため、色男と言われる在原業平に見立てたともいわれる。男女竹を称え縁結びの竹として俗に信仰される裏庭に入り、水が干された「杜若池(心字池)」この庭園は、寺の再興者であった方厳売茶翁が、以前からあった池や庭を煎茶式に改造したものといわれています。回遊式、刈込式、借景式の様相が特色です。庫裡前の杜若池(心字池)を中心とし、庭全体の高低の落差を四段に分け、段毎の境を生け垣で区切った回遊式となっています。手前の心字池には全体の要となる中の島があり、築山となった中腹には三尊石が設置されています。造られた当時は正面遠景として岡崎の村積山がみえ、近景に逢妻川の清流が流れ借景として取り入れられていました。この杜若池のほか、境内には昭和になって新しく作られた杜若池があり、毎年5月には合せて約三万本の杜若が咲き乱れ、多くの人々で賑わっています心字池にある中の島築山となった中腹には三尊石が設置されています。中腹に三尊石の説明板この庭の中心、観音菩薩・阿弥陀如来・勢至菩薩茶 室茶室の裏にある竹林茶室前からかきつばたの再生に取り組んでいます 知立市業平池の石柱八橋の一つか?左が「辻灯籠」右の石「玉川卓」奥に「業平の井」左の灯籠は、文政年間に当時の無量寿寺客僧八橋売茶方巌禅師のために、紀州大納言治宝公から贈られた一対の灯籠である。右の長方形の石は、煎茶式庭園玉川庭の玉川卓である。この石の上に茶道具をのせ、青空の下で煎茶を楽しんだのである業平の井業平公の水を御くみの井戸方巌(売茶)井戸のいわれ杜若池と茶室無量寿寺の北側の杜若池知立市の花である「かきつばた」が咲き誇るこの池に導かれた水は、先人たちの壮大な計画により、明治13年(1880)に開削され、碧海大地の農業地帯を創りあげた明治用水の水を利用しています。中央アルプスを源にし、矢作川を経た後この地域までやってきます。この機会に、水の尊さや地域環境について考えてみてはいかがでしょう藤 棚伊勢物語の伝説地八橋ここ八橋は平安時代につくられた「伊勢物語・東下り」の旧跡として、愛知県の史跡に指定されています。特に在原業平が詠んだ「かきつばた」の和歌は、多くの人の心を惹き付けてきました。平安時代の昔から千年余の間、東海道や鎌倉街道を行き来する人々が、業平を偲んでこの地を訪れ、数多くの紀行文や和歌俳句を残しました。また、能や謡曲にも取り入られており、郷土の誇る大切な文化遺産です。当地の旧跡保存会は「県の花・市の花」であるかきつばたの手入れを続け、また「業平毎歳忌」を営んでいます在原業平 像ズームアップ八橋の蜘蛛手に流れる沢のほとりにかきつばたが美しく咲いているのを見て、かきつばたの五文字を句の上にすえて、都に残してきた妻や子を偲び、「から衣きつつなれにしつましあれば はるばるきぬるたびをしぞおもう」と詠まれました。この和歌は平安時代前期の代表的な歌人、在原業平作として勅撰和歌集の古今集に撰ばれています。また、伊勢物語の九段東下りにも採り入れられ、八橋の地が永く語り継がれ親しまれてきました敷地13,000㎡の庭園内には、3万本が生息し5,000㎡の池一面に咲きそろう4月~5月が見どころで、多くの人々を魅了します3月末からは桜も咲く、かきつばた園 無量寿寺ー続く
2020.03.03
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下田まちなかを散策する。2/12(水) 15:11下田八幡神社所在地:静岡県下田市一丁目17-1北側に宝福寺があり車を置いて参拝する手水舎から社殿へ下田八幡神社再建之碑当下田八幡神社は正応年間(1288) 既に鎮座せりと云う。縁起書によれば永正4年(1507)建設になる社殿は、享和2年(1802)失火により焼失、文化4年(1807)再建さる。爾来170有余年に亘り、下田の総鎮守として崇敬をあつむ。昭和58年11月22日不慮の事故により出火全焼せり、氏子崇敬者一同大いに恐懼 奮起してその再建に当る。昭和61年8月10日旧にまさる権現造りの壮麗堅固なる社殿及び手水舎新築完成す神門、鐘楼下田八幡神社の仁王像江戸時代後期の作と伝えられるこの仁王像は、昭和初期まで参道に据えられ、見事な均整美を保ちながら満身の力をたくわえ、八幡神守護の睨みをきかせています。粗い凝灰岩から豪快に彫刻された等身大の石像。肋骨が浮く無骨な体、歯をむき出す口元など見慣れた石像とは一線を画す迫力があります神門の右側の仁王像同左側の仁王像下田八幡神社拝殿拝殿の扁額「八幡宮」拝殿右側にある「力石」一の鳥居の向こうは、マイマイ通り商店街マイマイ通りに、絵は『下田八幡神社』、『ペリー艦隊日本遠征記』より ウィルヘルム ハイネ 画下田八幡神社入口左側に『迎神の松』下田市民文化会館前(下田八幡神社入口左側)銀座の柳二世、1837年製 カノン砲銀座の柳二世この柳は寝姿山頂にある「蓮杖写真記念館」に展示してある下岡蓮杖翁が撮ったとされる「銀座の写真」の複製を贈呈したお礼として、銀座金春通り会長であられた故勝又康雄氏と銀座御門通り会長であられた故椎葉一二氏が育てた「銀座の柳二世」を下岡蓮杖翁生誕の下田市に贈られたものです 平成18年4月1837年製 カノン砲後方は、下田市民文化会館第50回黒船祭を記念して 贈 米海軍横須賀基地司令官 スチィーブンH.ハウエル大佐 1989年5月16日向かい側の稲荷神社15:19宝福寺を後にし、アメリカ総領事館があった玉泉寺へ向かう。境内の大きな石柱は「坂本龍馬飛翔之地」「山内容堂 勝海舟 謁見之寺」帰路に着き、国道135号線の柿崎交差点を右に入り県道116号線を進み爪木崎方面へ。15:28県道116号線沿いの駐車場に車を止め曹洞宗 玉泉寺所在地:静岡県下田市柿崎31-6階段左の石柱は「安政年間 日本最初 米国領事館」安政元年に締結された下田追加条約によって、アメリカの休息所となり寺域内に同国人の墓地が設けられることになった。つづいて同3年8月アメリカ総領事タウンゼント・ハリスは下田に上陸して、この寺を住居とし同月9日始めて領事旗を掲げ以後同6年6月まで総領事館となった。本堂はハリスの居室、ヒュースケンの居室及び事務室があって当時の規模をよく伝えており、幕末外交史上重要な史跡である。尚、本堂の北側にアメリカ人の墓地、南側にロシア人の墓地があるハリスは、通訳のオランダ人ヒュースケン、召使の中国人と共にここに住んだ。ハリスの使命は、通商条約の締結であったが幕府はなかなか交渉に応じず進展しなかった。健康を害しながらも辛抱強く交渉にあたったハリスは、安永4年5月26日、下田奉行との間に締結した「下田条約」(米国側に著しく不利であった日米通貨比率の是正、長崎の追加開港など)を足がかりに、安政5年6月19日、ポーハタン号艦上で日米修好通商条約及び貿易章程の調印に成功した。米国に続いて、日露、日英、日仏通商条約が結ばれた。通商条約により横浜が開港されると、安政6年5月下田領事館は閉鎖され、ハリスはその使命を終え下田を去った。なお、境内には米人の墓5基、露人の墓3基が残されている山門を入ると右側に『米国大統領来訪記念碑』 アメリカ合衆国ジミー・カーター大統領 昭和54年(1979)6月27日 玉泉寺来訪 随行者:カーター夫人、娘左側のプレートは大統領のサイン牛乳の碑牛乳発祥の辞安政5年正月21日 北風晴天 今午後八ッ時頃上氣船・・・・・・・安政5月2月3日 今夕異人御掛リ様より被仰候は牛の乳少々異人所望につき下役人二人白浜村へ願遺候安政5年2月4日 昨晩白浜村へ注文・・・・・・・・・・・・・玉泉寺本堂この本堂は、天保6年(1835)当山19世大陵道眉大和尚の発願により、嘉永元年(1848)3月4日遺弟20世翠岩眉毛大和尚の代に現在の地に、間口7間半、奥行き7間、総欅造りの堂宇として上棟落慶されました。その6年後、嘉永7年(1854)黒船の下田来航により日本開国史上の表舞台として登場しました。●嘉永7年3月、ペリー黒船来航。玉泉寺は条約により黒船乗組員の休息所、埋葬所に指定される (日本最初の外人墓地)●安政元年12月より、北の黒船ディアナ号乗組員の宿舎、埋葬所、日露交渉の場として使用●安政2年5月 ドイツ商人リュードルフの約半年の滞在●安政3年8月 ~ 安政6年5月まで、タウンゼント・ハリス、秘書通訳ヒュースケンにより、 日本最初の総領事館として使用(2年10カ月)足掛け6年間、この本堂に於いて様々なドラマが展開され、日本開国の中心舞台として、その役割を果たしました。大正15年、渋沢栄一子爵と日米協会の援助の下、本堂の大修繕が行われ、その姿は当時の儘に現在に保存されております。日本開国の最も重要な遺構です本堂裏へ進む石段を登った上に、米国人乗組員の墓 5基がある大きな錨はアメリカ海軍からの寄贈屋根で養生された、米国人乗組員の墓 5基黒船(ペリー艦隊)乗組員の墓所1854年3月31日(嘉永7年3月3日)日米和親条約が神奈川で調印されると、下田は即時開港され黒船(ペリー艦隊)七隻が下田港に入港した。日米和親条約付録条約第五条により、玉泉寺境内にアメリカ人用の墓地が設けられた。日本最初の外人墓地である。本堂側から向かって右の墓石より玉泉寺外人墓地から下田港鎮 魂米国海軍を代表し、ここに眠るペリー提督指揮艦隊乗員の霊に捧ぐ 1987年5月16日 米国海軍横須賀基地司令官 海軍大佐 S.H.ハウエルストーブの煙突を出した石ストーブの煙突を出した石タウンゼントハリス日記よりの一文1856年10月4日火曜日(安政3年10月7日)昨日は一日中よく雨が降った。そして今朝夜明けに・・・・・・・・。ようやく晴れ上がった。午前8時に地震があった。激風を食ったように思われた。何か重いものが倒れたように、家が振動した。又、それに相當した音響がともなった。この大きな衝撃につづいて、二、三度軽い横揺れがあった。・・・・・・・ストーブを据え付けた。それは仕様のないしろもので、空気をよく吸い込もうとしない。はじめて火を入れたばかりで、その板金が歪み、ひびがはいってしまった。一握りの木炭を投げ込んだばかりなのだが、私の家は、いま煙だらけだ。・・・山門へハナミズキ アメリカ ヴァージニア州の花アメリカ建国200年記念植樹 1976年5月16日1976年アメリカ建国200年となるので日米友好記念植樹としてアメリカの花ハナミズキを昭和51年5月16日第37回黒船祭に際し植樹する。アメリカの花ハナミズキが我国に植えられたのは、明治45年当時の東京市長尾崎行雄氏が先に日米親善のしるしとして桜の苗木を贈った返礼として、アメリカから贈られたハナミズキを都内数カ所に分散して植樹したのが最初で現在は日比谷公園や尾崎記念館に数十本残っているに過ぎません。ワシントンに贈られた桜は、ポトマック河畔に植えられて見事に育ちアメリカの桜の名所と・・・・・・・。嘉永7年(安政元年ー1854)3月、日米和親条約により下田が開港され、・・・中略・・・・・。通商条約により横浜開港が決まり、安政6年(1859)5月下田領事館は閉鎖され、ハリスはその使命を終えて下田を去り、江戸麻布善福寺へと移ったハリス記念館入館料 500円昭和54年ジミー・カーター アメリカ大統領、平成3年には今上天皇・皇后両陛下のご来館を賜わっております玉泉寺前の民家中に洗濯ばさみを入れ書類等を挟めるようにしていると15:51玉泉寺のあと県道116号線を爪木崎方面へ走り「吉田松陰上陸の碑」を探すが、県道に案内板がなく旅友のiPhoneでどうにかたどり着いた。バス停、浜崎小学校前から歩いて5分の海岸吉田松陰上陸の碑吉田松陰は、海外密航を決意し柿崎弁天島より小舟を漕ぎ出し、ペリーの旗艦ポーハタン号に乗り付けた。しかし海外渡航は国禁であり、ペリーは穏やかに拒絶し、送り返した。送り返された松蔭が上陸した地点でがこの場所である現在の下田港下田港は、古くから荒天時の避難場所として利用されてきました。昭和26年に避難港に指定され、防波堤等の整備が進められてきました。本港の防波堤は、避難船舶を守るためだけでなく、背後の住民、財産を津波から守るために建設中です奥に「下田浄化センター」があった15:56県道116号線沿いに大きな案内板『ハリスの小径』駐車場がなく道路脇に車を止め撮影ハリスの小径の石碑1856年我国最初の米国領事館となった玉泉寺に初代総領事として赴任したハリスは、滞在日記に「この領事館旗の掲揚が日本のためになるように」と書き残している。領事館滞在中は日米通商条約の締結に努め、この周辺を思索にふけりながら散策したという。付近にはバンダリア崖、サザントンロックなど当時名付けられた地名も残されており、この歩道をハリスを偲び「ハリスの小径」と名付けたハリスの小径へ入ると『藤澤海軍航空隊 下田会記念碑』の案内板下田港ハリスの小径16:00弁天島名所の『踏海の朝』があり、吉田松陰と弟子の金子重輔の銅像があるズームアップ、弁天島の下田龍神宮このあと、一般道優先で国道135号線を北上、河津、東伊豆、伊東、熱海を走り帰宅した。今日一日の歩行数は15,000歩であった。 南伊豆の日帰りドライブーEND
2020.03.02
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ペリー上陸の碑から下田市中へ。2/12(水) 14:15ペリー上陸の碑この記念碑のペリー像は、故村田徳次郎氏の作品であり、記念碑の前の錨は、アメリカ海軍から寄贈されたものである下田歴史の散歩道 『 9 ペリー上陸の碑』寛永7年(安政元年ー1854) 再来したペリーと幕府の間でもたれた日米和親条約の交渉過程で、開港地として下田港が提示されると、ペリーは調査船を派遣した。下田港が外洋と接近していて安全に容易に近づけること、船の出入りに便利なことなど要求している目的を完全に満たしている点にペリーは満足した。条約締結により即時開港となった下田に、ペリー艦隊が次々と入港した。そして、ペリー艦隊の乗組員が上陸したのが、下田公園下の鼻黒の地であった。ここを上陸記念の地として、「ペリー上陸の碑」が建てられた日米友好の灯石碑の上のプレートには『日米交流150周年によせて ジョージ・ブッシュ大統領から下田市へのメッセージ』1854年の日米和親条約調印から150周年にあたるこの年は、日米両国の強い関係を祝う時である。1853年にマシュー・ペリー提督は、偉大な我々二国間に通商関係を樹立するため日本に向けて出航した。今日、日米両国はゆるぎない関係とパートナーシップを確立し、平和と繁栄を促進している。アメリカは深く永続的な友好に対し日本国民に感謝するものである。 アメリカ合衆国大統領 ジョージ・ブッシュ 2004年3月31日日米友好の灯この灯は、平成15年7月、日米交流の発端となるペリー来航150周年の節目を祝う第20回ニューポート黒船祭のおり「NEW わかふじ国体」の炬火リレーに使用するため採火されたものです。ニューポート黒船祭の祝砲の火種をはるばるアメリカロードアイランド州ニューポート市から空輸し「日米友好の灯」と名付けられました。炬火リレーとして利用後、平成16年3月31日、下田開港150周年の際にこのモニュメントに点火され、日米友好のシンボルとして灯もり続けています。 日米友好の灯宣言下田市は、日米友好の灯を灯し、日本、アメリカ合衆国両国民の永久の友好と親善を願い、両国民の交流に貢献することを宣言します下田の街と「火山の根」下田市をはじめとする伊豆南部の広い地域は、伊豆が本州に衝突する前に噴火した海底火山や火山島によって作られた大地です。下田の市街地を取りまく2つの特徴的な山、寝姿山と下田富士は、かつて火山の地下にあった「マグマの通り道」が地上に姿を現した「火山の根(火山岩頚)(カザンガンケイ)」です。「火山の根」に囲まれた下田市街のあちこちに、海底にたまった火山灰や軽石からなる「伊豆石」で作られた建築物があり、独特な町並みを作り出しています。「火山の根」のでき方。火山の直下で冷え固まったマグマが、のちの浸食によって洗い出されたものを火山岩頚(火山の根)と呼びます。浸食に耐えた1枚岩は急峻な山を作ることがあります左に、下田富士、右に寝姿山下田富士は浸食に耐えた「火山の根」らしい三角形の急峻なシルエットを持つ山で、駿河富士(富士山)、八丈富士と三姉妹であったという民話が残されています。寝姿山は山の形が、仰向けに寝ている女性の姿を連想させます。山頂へはロープウェイで登ることができ、下田港や須崎半島、伊豆七島の島々を一望できます広場には「ジャカランダ」の木が一本植えられていた。ニューポート市・下田市 姉妹都市提携50周年記念 2008.5.16日本最初の開港地ここが、ペリー提督とその乗組員達が最初に上陸した地点です。絵には、ペリー艦隊停泊図、湾内には7隻が停泊している寝姿山山頂へのロープウェイ運転しているのか心配していたが・・・・・・・ズームアップ下田港内の漁船スクリューが4基のボート界隈の案内図上のMAPとは南北が逆になっております。ペリー艦隊来航記念碑からの散策ルート14:23なまこ壁の、史跡『安直楼(あんちょくろう)』所在地:静岡県下田市三丁目5-21この建物は唐人お吉が明治15年より料亭「安直楼」を経営した店で、お吉の没後当店が寿司店を開業。以来三代108年に渡り営業を続けて参りましたが、現在は下田市の歴史建造物(史跡)として皆様方の見学に供しております。二階には安直楼当時の客間と遺品なども保存しておりますので、どうぞお気軽にお入り下さい。安直楼当時の雰囲気に浸るのも一興かと存じます (主人敬白)米国総領事ハリスに仕えた「お吉」が1882年に、小料理屋を営んだ建物である。1857年、恋人鶴松との仲を裂かれて領事館に出仕したお吉は、以後、町の人達から「唐人お吉」と蔑まれ、酒に浸って、やがて姿を消す。年月を経て、当家「安直楼」を開業したが、自ら酒に溺れて数年で店をたたむ。幕末開港の陰に咲いた一輪の花、お吉は1890年、稲生沢川に身を投げてそのはかない生涯を閉じた。48才であった。なお、当家には、お吉の愛用の遺品も保存されている大工町にある『史跡 安直楼』この絵は?14:25松本旅館所在地:静岡県下田市二丁目9-20入口の引き戸松本旅館内今は営業していないのであろう古いなまこ壁の旅館14:27船宿角谷跡下田における勝海舟(幕臣)と山内容堂(土佐藩主)が暴風のため共に下田に入港上陸した。山内容堂と勝海舟によるここ下田会談(宝福寺)で坂本龍馬の脱藩罪が許された。船宿角谷には勝海舟、板垣退助など宿泊、山内容堂は宝福寺に宿泊 文久3年(1863)右側のなまこ壁に「船宿角谷跡」の説明板奥に進むと稲生沢川14:28大横町通りの「日新堂菓子店」所在地:静岡県下田市三丁目3-7店の壁面に3枚の説明板日新堂菓子店大正11年創業の老舗の菓子店、昭和天皇献上銘菓「下田節」。作家 三島由紀夫がこよなく愛した「マドレーヌ」など歴史あるお菓子を作りつづけている。三島由紀夫が愛したマドレーヌは一個190円、食べたかった―!日新堂菓子店の壁面に『大久保婦久子』下田出身の日本画家「中村岳陵」画伯(文化勲章受章者)の影響を受け現在の女子美術大学に進み「皮の染色」を学び先例のない「皮革工芸」の世界で独自の技法を開発(金唐草技法)創造性豊かな作品を発表してきた。平成12年「文化勲章」を受章、同年11月4日急逝された。同年12月下田市名誉市民の称号を贈りました(現在のスナック房州屋(昔は旅館大正館)が生家でした)篠田雲風明治維新後、開拓使女学校?儒学を専攻したが・・・・・・・・・ 解読できず写真の「下岡蓮杖」、日本第1号薬剤師合格「森斧治郎」の看板森斧薬局跡、奥にはカフェを営業14:32下田まちなか案内図欠乏所跡の石柱所在地:静岡県下田市三丁目1-1市指定史跡『欠乏所跡』嘉永7年(安政元年ー1854) 3月に締結された日米和親条約により、開港場となった下田では薪・水・食料・石炭など欠乏品を入港してくる外国船に供給することになった。その上、「必要な品物その他相叶うべき事は、双方談判の上、取りきめ候事」(第6条)とのあいまいな条文があったため、ペリー艦隊が入港すると貝細工・塗物・瀬戸物・小間物・反物等がここに設けられた欠乏所で売られた。貿易は認められていなかったが、欠乏品供給の名目で事実上の貿易が開始された。尚、石炭は北九州から運ばれてきて、鵜島の麓に建てられた石炭蔵に納められていた。役人の監督の下に、国内の売値よりずっと高値で品物が売られ、日米通貨の交換比率が米貨を安く評価して交易が行われた。商人達は、欠乏品売込人世話役・欠乏品売込人と組織化されていった。幕府は欠乏所売上げの三割を税として徴収したので、公には認めなかった貿易から思わぬ利益を得ることになった 平野屋所在地:静岡県下田市三丁目1-4日本式洋食レストランで、地元のおばちゃんオススメの店ネットでは、ハンバーク、ステーキ、カレー、ビザ等メニューも豊富ですと大横町通りの平野屋14:39市指定史跡『吉田松陰拘禁の跡』幕末の志士吉田松陰は海外事情を学ぶため鎖国の禁を犯し密航することを決意した。長崎に来航したロシア船への便乗を佐久間象山に勧められ、急行したが間に合わず、翌 嘉永7年(1854) 3月再航したペリー艦隊の後を追って弟子金子重輔と下田へ来た。機をうかがい夜中柿崎より小舟でペリー艦隊ポーハタン号に漕ぎ着け、渡米を懇請したが、ペリーに拒絶された。壮図空しく破れた松蔭等がいさぎよく自首し、拘禁された場所がここ宝光院長命寺(廃寺)であった。さらに平滑の獄に移され、同年4月11日には江戸伝馬町の獄に送られた。松蔭等が下田に滞在した期間は24日の短いものであり、また海外渡航は失敗に終わったが、その行動は幕末開港の歴史に欠くことのできない重要な一貫を刻むものであり、後に与えた影響は大きかった14:48臨済宗 長松山 泰平寺所在地:静岡県下田市四丁目6-7本堂等は新築され、参道は舗装されていた。一般者は中に入れないと。左側には六地蔵が並ぶもと本郷にあって、建長寺73世仏印国師を請じて開山としたが、雪叟がこの地に移して、下田領主戸田忠次を開基大檀那として再建した。三河国田原の豪族であった戸田忠次は、天正18年秀吉の小田原攻めに対し、徳川氏の下で功をたて、伊豆国が家康の支配下に入ると下田五千石を封じられた。海善寺の辺に居館を構えていたが、慶長2年(1597)死去し、ここ泰平寺に葬られた。跡を継いだ次子尊次は関ヶ原の戦いで功をたて五千石を加増、祖先の地三河田原に一万石をもって移封された。戸田氏が下田を統治したのは慶長6年(1601)までの十年余であったが、この間、町並みが整えられ、殿小路・紺屋町・町店町等の町名は当時の名残りを示している。・・・・・・・・塀の中は、本堂?入口右側の神社了仙寺近くの山に14:52了仙寺の駐車場に戻る。宝福寺へ行くことに15:07龍馬が飛び、お吉が眠る『八幡山 宝福寺』所在地:静岡県下田市一丁目18-26浄土真宗 八幡山 宝福寺本堂の前には大きな坂本龍馬像が立つ寛永7年(安政元年ー1854) 3月に締結された日米和親条約により下田開港となり、ここ宝福寺は新たに設置された下田奉行都筑駿河守が宿舎とし、仮奉行所となった。ペリーとの間に結ばれた和親条約付録下田条約交渉の際の日本側全権の打合せ場所ともなった。ロシア使節プチャーチンが下田に来航し、日露和親条約の交渉の際も応接掛筒井政憲や川路聖謨等の協議が当寺で行われた。文久3年(1863)、下田に入港した大鵬丸に乗船していた土佐藩山内容堂が当寺に宿舎をとり、たまたま順動丸で入港してきた勝海舟が訪れて坂本龍馬の脱藩の罪の許しを請い、認められた。慶応元年(1865)韮山代官江川英武の命令で、当寺境内において農兵調練が行われた。なお、墓地には『下田年中行事』八十七巻を書き上げた平井平次郎、ハリスに仕えたお吉の墓がある。また、安政の東海地震(1854)後の津波は、本堂の床上まで達した本堂前の大きな蘇鉄本堂の扁額「八幡山」飼い猫か?本堂の右側は「唐人お吉記念館」お吉の墓もあるが有料のため引き返すマイマイ通り商店街宝福寺に車を駐車し、南側にある八幡神社へ参拝 南伊豆の日帰りドライブー続く
2020.03.01
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