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万雑037_舎人親王の皇子女が作られた御歌(大炊王・淳仁天皇)次は大炊王(後の第47代_淳仁天皇)で御歌が1首(巻第二十)あります。なお、淳仁天皇(在位758年~764年)の御製の歌はありません。この御歌は、西暦757年の11月18日に内裏で御宴をなさった時、当時の皇太子であった大炊王(おおいおう)が作られた御歌です。4486_「天地を照らす日月の極みなくあるべきものを何をか思はむ」※_「天地を照らす日月のように、限りなくある世なのだから、何を思い煩う必要があろうか」と歌っています。<備考>757年7月2日に「橘奈良麻呂の乱」が起き失敗しています。その後に藤原仲麻呂が推す皇太子の大炊王が孝謙天皇から引き継ぎ、758年に淳仁天皇に即位しました。でも政治の実権は藤原仲麻呂が握ってやりたい放題だったため孝謙太上天皇が嫌って仲麻呂を排除し、淳仁天皇も淡路島に流された。その後、孝謙太上天皇は再度天皇に即位し称徳天皇(在位764年~770年)となっています。以上
2023.04.30
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万雑036_舎人親王の皇子女が作られた御歌(三原王)天武天皇の第六皇子の舎人親王(母は天智天皇の皇女の新田部皇女)の御歌は万雑027に記載済みですが、今回はその舎人親王の皇子女の御歌を観てみます。まずは三原王で万葉集に御歌が1首(巻第八)あります。三原王の秋の雑歌です。1543_「秋の露は移しにありけり水鳥の青葉の山の色づく見れば」※_「秋の露は染料であったのだなあ。(水鳥の)青葉の山が赤くの色づくのを見ると」と歌っています。<備考>舎人親王の妃と皇子女 |ー妃;当麻山背 | |ー三原王★1 | |ー大炊王(後の淳仁天皇)★1 |ー妃:当麻氏 | |ー船王★3 |ー妃;名前不詳 |ー三島王★1 |ー池田王 |ー守部王★2 |ー御浦王 |ー宝皇女 |ー飛鳥田女王 |ー厚見王★3以上
2023.04.29
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草むらにとまって翅を広げた「ナミアゲハ」を見つけました。大きさはかなり小さい方でした。ナミアゲハ;チョウ目、アゲハチョウ科、開張=65mm
2023.04.28
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昨夜まで強い雨が降っていましたが、今朝は晴れて良い天気になりました。午後に畑へスナップエンドウを収穫に行った時、畑に置いてある水桶の中で2匹の小さなハバチが溺れているのを見つけ、助け上げてやりました。添付の画像は、そのハバチが水桶の縁で濡れた翅の繕っている処です。この2匹はカップルのようで、上の背部分が紅い方がメスで、下の背部分が黒い方がオスの「オスグロハバチ」たちです。オスグロハバチ;ハチ目、ハバチ科、L=10mm
2023.04.27
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万雑035_聖武天皇の皇子女が作られた御歌(阿倍内親王・孝謙天皇)次は第45代の聖武天皇の皇女の阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)で、万葉集に3首(巻第十九)の御歌があります。孝謙天皇は758年に淳仁天皇に譲位しましたが、自分は孝謙上皇となって政権に影響を与えていた。上皇と天皇の不仲と諍いが激しくなり淳仁天皇を764年に廃位させ、自分が再度即位し称徳天皇となっています。入唐使の藤原朝臣清河らに下賜なさった御製の歌です。4264_「そらみつ 大和の国は 水の上は 地行くごとく 船の上は 床に居るごと 大神の 斎へる国そ 四つの船 船舳並べ 平らけく はや渡り来て 返り言 奏さむ日に 相飲まむ酒そ この豊御酒は」※_「(そらみつ)大和の国は、水の上は大地の走るように、船の上は 床に座って居るようにと、大神が護っておられる国です。四つの船の、船の舳先を並べ、無事に早く渡海して帰って来て、返り言を奏上しようという日に、共に飲む酒です。この豊御酒は」と歌っています。遣唐使は四つの船に分乗して渡海した。4264の反歌4265_「四つの船はや帰り来としらか付け朕が裳の裾に斎ひて待たむ」※_「四つの船よ早く帰って来いと、しらかを付けて私は裳の裾に祈りを込めて待ちましょう」と歌っています。「しらか」は祭祀のための白い幣。大納言の藤原仲麻呂家に行幸された時の御製の歌です。4268_「この里は継ぎて霜や置く夏の野に我が見し草はもみちたりけり」※_「この里は、ひっきりなしに霜が降りるでしょうか、夏の野で私が見た草は色付いていますよ」と歌っています。以上
2023.04.26
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万雑034_文武天皇の皇子女が作られた御歌(首皇子・後の聖武天皇)次は文武天皇(草壁皇子の皇子)の皇子女が作られた御歌です。ですが、文武天王の子は首皇子(後の聖武天皇)だけですので、聖武天皇の皇后妃と皇子女も含めて御歌を観てみます。まず首皇子としての御歌は無く、聖武天皇の御製の歌が万葉集に9首(巻第四に2首、巻第六に2首、巻第八に4首、巻第十九に1首)あります。聖武天皇は文武天皇が崩御の時(707年)に7歳だった為、即位できる年齢までは、元明天皇(707年~715年)、元正天皇(715年~724年)と継いでから、24歳になって即位(724年から749年)されました。父の文武天皇の又従姉妹にあたる海上女王に賜った御歌です。530_「赤駒の越ゆる馬柵の標結ひし妹が心は疑ひもなし」※_「赤毛の駒が跳び越える柵を縄でしっかり結び固めてあるように、固く結婚の約束を交じわしたあなたの心は、確かで少しも疑いない」と歌っています。酒人女王(穂積皇子の孫)を思って詠まれた御製の歌です。624_「道の逢ひて笑まししからに降る雪の消なば消ぬがに恋ふといふ我妹」※_「道で出会って微笑なさっただけで、降る雪のようではかなく消えてしまいそうに恋しく思います。と言うあなたよ」と歌っています。左大弁葛城王らが、宿祢の姓と橘の氏を賜った時(736年11月9日)の、聖武天皇の御製の歌です。1009_「橘は実さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の木」※_「橘は、実まで花まですばらしく、そしてその葉までも、枝に霜が降ることがあっても、いよいよ永久に常緑の木である」と歌っています。「朝明の行宮」に行幸された時に都に残った皇后を思っての御製の歌です。1030_「妹の恋ひ吾の松原見渡せば潮干の潟に鶴鳴き渡る」※_「妻を恋しく思って私が待っている、吾の松原から見渡すと、干潟に鶴が鳴き渡って行く」と歌っています。「吾の松原」は三重県四日市市の海辺です。聖武天皇の御製の、秋の雑歌2首です。1539_「秋の田の穂田を雁がね暗けくに夜のほどろにも鳴き渡るかも」※_「秋の田の穂の出た田を刈りという雁が、まだ暗いのに、夜の明けきらない中を鳴き渡ることよ」と歌っています。1540_「今朝の朝明雁が音寒く聞きしなへ野辺の朝茅そ色づきにける」※_「今朝の明け方、雁の声を寒々と聞いたと思うと、野辺の浅茅が色付いたことだ」と歌っています。遠江守桜井王が奉った歌(1614)に応えて詠まれた御製の歌です。1615_「大の浦のその長浜に寄する波ゆたけく君を思ふこのころ」※_「大の浦の、その長浜に寄する波のように、たのもしく君を思うこの頃だ」と歌っています。「大の浦」は静岡県磐田市の一帯にあった潟湖で、磐田市には奈良時代の遠江国府の遺跡があります。左大臣の長屋王の佐保の邸で宴を開いた時の御製の歌です。1638_「あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室は座せど飽かぬかも」※_「(あをによし)奈良の山にある黒木で造ったこの室は、いつまで居ても飽きることがない」と歌っています。左大臣の橘朝臣諸兄の家で御宴をされた時に詠まれた御製の歌です。4269_「よそのみに見ればありしを今日見ては年に忘れず思ほえむかも」※_「関わりのないものとばかりに見ていたのでは平気でいたけれども、今日見てしまったからには、毎年忘れずに思われるだろう」と歌っています。<備考>文武天皇、と聖武天皇の皇后と皇子女_星印は万葉集に御歌あり|ー妃;藤原宮子 |ー首皇子(後の聖武天皇)★9 |ー皇后;光明皇后(藤原不比等の娘、藤原宮子の異母姉) | |ー阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)★3 | |ー基皇子 |ー夫人;県犬養広刀自 | |ー井上内親王 | |ー不破内親王 | |ー安積親王(安積皇子) |ー夫人;南殿 |ー夫人;橘古那可智 |ー夫人;北殿以上
2023.04.25
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万雑033_草壁皇子の皇子女が作られた御歌(氷高内親王・元正天皇)次は氷高内親王または後の元正天皇ですが、氷高内親王の御歌は無く、元正天皇の御製の歌が5首(巻第八に1首、巻第二十に4首)あります。第44代の元正天皇は5人目の女帝で未婚の天皇でした。天武天皇が崩御の後の後継は備考のように複雑でした。<備考>第40代;天武天皇_在位673年~687年第41代;持統天皇_在位690年~697年_天智天皇の皇女、天武天皇の皇后、3人目の女帝第42代;文武天皇_在位697年~707年_草壁皇子の皇子第43代;元明天皇_在位707年~715年_天智天皇の皇女、草壁皇子の妃、文武天皇と元正天皇の母、4人目の女帝第44代;元正天皇_在位715年~724年_草壁皇子の皇女_5人目の女帝第45代;聖武天皇_在位724年~749年_文武天皇の皇子元正天皇の御製の歌5首です。1637_「はだすすき尾花逆葺き黒木もち造れる室は万代までに」※_「(はだすすき)尾花を逆さに葺き黒木で造った室は、万代までも栄えることでしょう」と歌っています。4057_「玉敷かず君が悔いて言ふ堀江には玉敷き満てて継ぎて通はむ」※_「玉を敷かなかったとあなたが悔んで言う、その堀江には玉を敷きつめて通い続けましょう」と歌っています。4058_「橘のとをの橘八つ代にも我は忘れじこの橘を」※_「橘の、そのたわむほどに豊かな橘。後々の代までも私は忘れまい、この橘を」と歌っています。橘家を賛め称え、変わらぬ寵愛を約する歌になっています。4293_「あしひきの山行きしかば山人の朕に得しめし山づとそこれ」※_「(あしひきの)山を通っていったら、山人が私にくれた山の土産ですよ、これは」と歌っています。4437_「ほととぎす猶も鳴かなむ本つ人かけつつもとな我を音し泣くも」※_「ホトトギスよ、もっと鳴いてくれ。昔の人の名前を声にして、私をむやみに泣かせるなよ」と歌っています。以上
2023.04.24
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草むらの中に「ヒメウラナミジャノメ」を見つけました。ヒメウラナミジヤノメ;チョウ目、タテハチョウ科、L=35mm
2023.04.23
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万雑032_草壁皇子の皇子女が作られた御歌(軽皇子・文武天皇)天武天皇の皇后妃と皇子女が作られた御歌が終わり、次は草壁皇子の皇子女が作られた御歌を観ていきます。まず軽皇子(後の第42代_文武天皇)の御製とされている御歌が1首(巻第一)あります。文武天皇は異例の若さ14歳で即位されたため、祖母の第41代_持統天皇(天武天皇の皇后)が政務を補佐されました。吉野の宮に行幸された時の御製の歌とも言われていますが・・・?74_「み吉野のあらしの風の寒けくにはたや今夜も我がひとり寝む」※_「み吉野の嵐の風は寒いのに、ああまた今夜も私は一人で寝るのだろうか」と歌っています。<備考>草壁皇子の皇后妃と皇子女 |ー妃;阿閇皇女(後の第43代_元明天皇) |ー軽皇子(後の第42代_文武天皇)★1 | |ー妃;藤原宮子 | |ー首皇子(後の第45代_聖武天皇) |ー氷高内親王(後の第44代元正天皇)★2 |ー吉備内親王以上
2023.04.22
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朝の日課のウォーキングから帰って来た時に、我家の庭に「コミスジ」が舞い降りました。コミスジ;チョウ目、タテハチョウ科、L=50mm
2023.04.22
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万雑031_天武天皇の皇后妃と皇子女が作られた御歌(高市皇子)次は天武天皇の長男の高市皇子(654年-696年)で万葉集に御歌が3首(巻第一)あります。高市皇子は天武天皇崩御の後、持統天皇の太政大臣として政権を支えた。十市皇女(異母姉)が678年4月に亡くなった時に高市皇子が作られた御歌(挽歌)の3首です。156_「みもろの三輪の神杉已具耳矣自得見監乍共寝ねぬ夜ぞ多き」※_「三輪山の三輪の神木の杉「已具耳矣自得見監乍共」眠れない夜が多い」と歌っていますが、未だに判読が出来てない部分があります。157_「三輪山の山辺まそ木綿短木綿かくのみゆゑに長くと思ひき」※_「三輪山の山辺に掛けてある麻の木綿は短かい木綿だ。かくも短いものであったのに、皇女の命をいつまでも長くと思っていた」と皇女の短命を痛んだ歌です。158_「山吹の立ちよそひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく」※_「山吹が美しく咲き繁っている山中の清水を汲みに行きたいと思うが、道が分からないことさよ」と歌っています。以上
2023.04.21
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タンポポ類や木の花に飛来する小さな甲虫です。ツマキアオジョウカイモドキ;甲虫目、ジョウカイモドキ科、L=5.5mm
2023.04.21
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万雑030_天武天皇の皇后妃と皇子女が作られた御歌(紀皇女)次は穂積皇子と同母妹の紀皇女で万葉集に2首(巻第二に1首、巻第十二に1首)の御歌があります。弓削皇子や高安王などと恋愛関係にあった皇女です。紀皇女が作られた譬喩歌です。390_「軽の池の浦廻行き廻る鴨すらに玉藻の上にひとり寝なくに」※_「軽の池の浦のめぐりに沿って泳ぎまわる鴨さえも、玉藻の上には一人で寝ないのに」と歌っています。紀皇女が密かに高安王(天武天皇の孫、長皇子の子)に通じて叱責された時に作られた御歌となっています。3098_「おのれゆゑ罵らえて居れば青馬の面高夫駄に乗りて来べしや」※_「お前ゆえに、私が叱られているのに、灰色の面高の駄馬なんぞに乗って来て良いものか」と歌っています。関係が発覚したことも知らずに平気で来た男をなじる歌のようです。以上
2023.04.20
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万雑029_天武天皇の皇后妃と皇子女が作られた御歌(穂積皇子)次は穂積皇子(又は穂積親王)で万葉集に御歌が4首(巻第二に1首、巻第八に2首、巻第十六に1首)あります。天武天皇の第五皇子で文武天皇・元明天皇の政権を支えて、享年40前後で715年に亡くなっています。なお、穂積皇子の妻は大伴坂上郎女(大伴安麻呂の娘)で2人の息子がいます。万雑028に記した但馬皇女が亡くなった後に、冬の雪降る中、悲しんで作られた御歌です。203_「降る雪はあはにな降りそ吉隠の猪養の岡の寒からまくに」※_「降る雪よ、沢山に降るな、吉隠の猪養の岡が寒いだろうから」と歌っています。「吉隠の猪養の岡」は長谷寺近くの初瀬渓谷の奥にあり、藤原京から遥か東方にある岡を眺望して詠んだと思います。穂積皇子が作られた秋の雑歌2首です。1513_「今朝の朝明雁が音聞きつ春日山もみちにけらし我が心痛し」※_「今朝の朝け方に雁の声を聞いた。春日山は黄葉したらしい。私の心は痛む」と歌っています。1514_「秋萩は咲きぬべからし我がやどの浅茅が花の散りゆく見れば」※_「秋萩は咲きそうになっているに違いない。我が家の庭の浅茅の花が散ってゆくのを見ると」と歌っています。<備考>_穂積皇子の1513の御歌に応えたように、但馬皇女の1515の御歌が添えられています。編纂者の配慮かな?穂積親王が宴席で好んで読んで楽しんだ御歌です。3816_「家にありし櫃に鏁刺し蔵めてし恋の奴がつかみかかりて」※_「家にあった櫃に鍵をかけて閉じ込めたはずの恋の奴めがつかみかかって来て」と歌っています。以上
2023.04.19
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万雑028_天武天皇の皇后妃と皇子女が作られた御歌(但馬皇女)次は但馬皇女で万葉集に4首(巻第二に3首、巻第に1首)の御歌があり、それらは、腹違いの兄弟姉妹の間での恋の歌です。皇女は708年に若くして亡くなっています。但馬皇女が高市皇子の宮にいた時に、穂積皇子を思って詠まれた御歌です。なお、高市皇子も穂積皇子も腹違いの兄弟妹です。114_「秋の田の穂向きの寄れる片寄りに君に寄りなな言痛くありとも」※_「秋の田の、実った稲穂が一方になびいている、そのような君に寄り添いたい、人の噂はうるさくても」と歌っています。勅命によって穂積皇子を近江の志賀の山寺(崇福寺)に遣わした時に、但馬皇女が詠まれた御歌です。115_「後れ居て恋ひつつあらずは追ひ及かむ道の隈廻に標結へわが背」※_「後に残って恋しく思っているくらいなら、跡を慕って追いつきたい。道の曲がり目ごとに印を付けておいて下さい、あなた」と歌っています。但馬皇女が高市皇子の宮にいた時に、密かに穂積皇子と関係を結び、そのことが露見して、皇女が作られた御歌2首です。116_「人言を繁み言痛み己が世にいまだ渡らぬ朝川渡る」※_「人の噂がしきりなので煩わしく思って、私の生涯にまだ渡ったことのない、朝の川を渡ります」と歌っています。1515_「言繁き里に住まずは今朝鳴きし雁にたぐひて行かましものを」※_「人の噂のやかましい里に住んでいるくらいなら、今朝鳴いた雁と一緒に飛んで行けばよかった」と歌っています。<備考>上の116と1515の御歌の作られた後、708年に亡くなった但馬皇女の御墓を望んで、悲しみに涙を流しながら作られた穂積皇子の御歌(巻第二の203)があります。この御歌は穂積皇子の所で紹介します。以上
2023.04.18
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万雑027_天武天皇の皇后妃と皇子女が作られた御歌(舎人親王)次は舎人皇子(又は舎人親王)で万葉集に3首(巻第二に1首、巻第九に1首、巻第二十に1首)の御歌があります。舎人皇子(676年-735年)は天武天皇の第三皇子で、天武天皇の皇子の中で最後まで生き残った皇子です。舎人皇子が舎人娘子に贈った御歌です。117_「ますらをや片恋せむと嘆けども醜のますらをなほ恋ひにけり」※_「ますらおたる者が片恋などしていいのかと嘆いてみるが、見苦しいこのますらおめは、一層恋しくなってしまった」と歌っています。「ますらを」は立派な男子の意です。「舎人娘子」は舎人皇子の乳母のようです。舎人皇子作の雑歌です。1706_「ぬばたまの夜霧は立ちぬ衣手を高屋の上にたなびくまでに」※_「(ぬばたまの)夜霧は立った、衣手を高屋の上にたなびくほどに」と歌っています。「ぬばたまの」は夜にかかる枕詞、射干玉(ヌバタマ)の実が黒いことから「黒き夜」の意。舎人親王が元正天皇の詔に応えて詠まれた御歌です。4294_「あしひきの山に行きけむ山人の心も知らず山人や誰」※_「(あしひきの)山に行ったという山人の心もわかりません。その山人は誰なのでしょうか」と歌っています。<備考>4294の歌は下の元正天皇が山村にお出ましになった時に詠まれた御製の歌(4293)に戯れて応えた御歌のようです。4293_「あしひきの山行きしかば山人の朕に得しめし山づとそこれ」※_「(あしひきの)山を通って行ったら、山人が私にくれた山のみやげですよ、これは」と歌っています。「山村」は平城京の東南の奈良市山町、帯解寺の東方一帯です。以上
2023.04.17
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万雑026_天武天皇の皇后妃と皇子女が作られた御歌(弓削皇子)次は長皇子の同母弟の弓削皇子(天武天皇の第六皇子)で万葉集に8首(巻第二に5首、巻第三に1首、巻第八に2首)の御歌があります。恋多き皇子でしたが673年から699年と短命(享年27)でした。吉野行幸の折に、額田王に贈った御歌です。111_「古に恋ふる鳥かもゆづるはの御井の上より鳴き渡り行く」※_「昔のことを恋い慕う鳥なのだろうか、ユズリハの樹のある御井の上を通って、鳴きながら飛んで行く」と歌っています。紀皇女(天武天皇の腹違いの子女)を思って詠まれた御歌4首です。119_「吉野川行く瀬の早やみしましくも淀むことなくありこせぬかも」※_「吉野川の早瀬のように、二人の仲は、しばらくの間も、とどこおることなくあればなあ」と歌っています。120_「我妹子に恋ひつつあらずは秋萩の咲きて散りぬる花にあらましを」※_「あなたに恋い続けているくらいなら、秋萩の、咲いてすぐ散る花である方がましです」と歌っています。121_「夕さらば潮満ち来なむ住吉の浅鹿の浦に玉藻刈りてな」※_「夕方になれば潮が満ちて来るだろう。住吉の浅鹿の浦で藻を刈ってしまおう」と歌っています。このも恋の歌のようで「支障の起こらないうちに早く結婚したい」ということらしいです。122_「大船の泊つる泊りもたゆたひに物思ひ痩せぬ人の児ゆゑに」※_「大船が停泊している港の光景のように、揺れ動きためらって、もの思いに痩せてしまった、あの人のせいで」と歌っています。吉野にて遊んだ時に詠まれた御歌です。242_「滝の上の三船の山に居る雲の常にあらむと我が思はなくに」※_「吉野川の急流の上の、三船山にかかっている雲のように、いつまでもこの世にあろうとは、私は思わないのだ」と歌っています。人生の無常を悲しんだ歌です。弓削皇子作の夏の雑歌です。1467_「ほととぎすなかる国にも行きてしかその鳴く声を聞けば苦しも」※_「ホトトギスのいない国にでも行きたいものだ。その鳴く声を聞くと心が苦しい」と歌っています。弓削皇子作の秋の相聞です。1608_「秋萩の上に置きたる白露の消かもしなまし恋ひつつあらずは」※_「秋萩の上に置いた白露のように、消えてしまう方がまだよい。恋いしているよりは」と歌っています。以上
2023.04.16
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4月になってから、ヒバリが空で羽ばたきながら鳴く様子を見かけます。今日は堤防の土手にいる所を見つけました。ヒバリ;スズメ目、ヒバリ科、L=17cm、留鳥
2023.04.16
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万雑025_天武天皇の皇后妃と皇子女が作られた御歌(長皇子)次は長皇子で5首(巻第一に4首、巻第一に1首)の御歌があります。50歳前後に亡くなっていますが当時では長生きのほうでしょうか?60_「宵に逢ひて朝面なみ名張にか日長き妹が廬せりけむ」※_「宵に逢って、翌朝は恥ずかしくて「なばる」という名の名張の地に、旅に出て久しい妻が宿りをしていたのだろうか」と歌っています。「なばる」は隠れるの意です。65_「霰打つ安良礼松原住吉の弟日娘子と見れど飽かぬかも」※_「(霰打つ)安良礼松原は、住吉の弟日娘子と一緒にいくら見ても見飽きない」と歌っています。「安良礼松原」は難波の住吉付近の松原。73_「我妹子を早み浜風大和なる我松椿吹かざるなゆめ」※_「我が妻を早く見たい、その早い浜風よ、大和にある、私を待つ松と椿を吹かずにはいるなよ、決して」と歌っています。佐紀宮(長皇子の邸宅)で志貴皇子と宴をした時に詠まれた御歌です。84_「秋さらば今も見るごと妻恋ひに鹿鳴かむ山そ高野原の上」※_「秋になればいつも、今も見るように、妻を恋しがって鹿の鳴く山ですよ、この高野原の上は」と歌っています。同母弟の弓削皇子に与えた御歌です。130_「丹生の川瀬は渡らずてゆくゆくと恋痛し我が背いで通ひ来ね」※_「丹生川の瀬などは渡らないで、まっすぐに、恋しさに心痛き我が君よ、さあ通って来ておくれ」と歌っています。以上
2023.04.15
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万雑024_天武天皇の皇后妃と皇子女が作られた御歌(大津皇子)次は天武天皇の第三皇子の大津皇子の御歌は4首(巻第二に2首、巻第三に1首、巻第八に1首)あります。石川郎女に贈った歌です。107_「あしひきの山のしずくに妹待つとわれ立ち濡れぬ山のしずくに」※_「(あしひきの)山のしずくに、あなたを待って私は立ち濡れてしまった、山のしずくに」と歌っています。<備考>107の歌に対して石川郎女が詠んだ歌です。108_「我を待つと君が濡れけむあしひきの山のしずくにならましものを」※_「私を待つとてあなたが濡れたという、山のしずくになりたいものだ」と歌っています。意味深な歌ですねえ!草壁皇太子と石川郎女と大津皇子の三角関係になっています。大津皇子が密かに石川郎女(草壁皇太子が愛する女性)と関係を結んだ時に、陰陽道に優れた津守連通が占い露わしたところで、皇子が詠まれた歌のようです。109_「大船の津守が占に告らむとはまさしく知りて我が二人寝し」※_「(大船の)津守めの占いに現れるだろうとは、先刻承知の上で、私は二人で寝たのだ」と歌っています。生々しい歌ですねえ!父の天武天皇の崩御の23日後の686年10月2日に、謀反の嫌疑で捕らえられ翌日3日に自害(享年24)されました。その時に詠まれた挽歌です。416_「ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」※_「磐余の池に鳴いている鴨を、今日も限りに見て、私は死んで行くのか」と歌っています。大津皇子の秋の雑歌;1512_「経もなく緯も定めず娘子らが織るもみち葉に霜な降りそね」※_「縦糸もなく横糸も決めないで娘子たちが織る黄葉の錦に、霜は降ってくれるな」と歌っています。以上
2023.04.14
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万雑023_天武天皇の后妃と皇子女が作られた御歌(大来皇女)次は大来皇女(又は大伯皇女)で、686年9月に父の天武天皇が崩御された後に作られた御歌が巻第二に6首あります。同母弟の大津皇子が密かに逢いに伊勢神宮に下って来て、帰京した時に詠まれた御歌2首。105_「わが背子を大和へ遣るとさ夜ふけて暁露に我が立ち濡れし」※_「我が君を大和へ帰し行かせるとて、夜が更けて暁の露に私は立ちつくして濡れました」と歌っています。106_「二人行けど行き過ぎがたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ」※_「二人で行っても行き過ぎかねる寂しい秋の山を、どんな気持ちで我が君は、一人で越えているのでしょうか」と歌っています。大津皇子が亡くなった後に、伊勢斎宮から上京した時に詠まれた御歌2首。163_「神風の伊勢の国にもあらましをなにしか来けむ君もあらなくに」※_「伊勢の国にでも居ればよかったのに、どうして来たのだろう、あの方もいないのに」と歌っています。「大津皇子」は謀反で処刑されました。164_「見まく欲り我がする君もあらなくになにしか来けむ馬疲るるに」※_「逢いたいと私が願うあの方もいないのに、いったいどうして来たのだろう、馬が疲れるだけなのに」と歌っています。大津皇子の遺体を葛城の二上山に移葬した時に悲しんで詠んだ御歌2首。165_「うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟と我が見む」※_「この世の人である私は、明日からは、二上山を弟として眺めることでしょうか」と歌っています。166_「磯の上に生ふるあしびを手折らめど見すべき君がありといはなくに」※_「岩の辺に生えている馬酔木(あしび)を手折りたいと思うけれども、見せたいあなたが居るというのではないのに」と歌っています。以上
2023.04.13
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万雑022_天武天皇の后妃と皇子女が作られた御歌(草壁皇子)天智天皇の后妃と皇子女が作られた御歌が終わり、次は天武天皇の后妃と皇子女に移ります。その最初は草壁皇子(万葉集では日並皇子)で大海人皇子(後の天武天皇)の第二皇子で後継者の第一位とされていましたが即位することなく27歳(689年)で早世されました。巻第二に御歌が1首あります。110_歌人の石川女郎に贈られた御歌です。「大名児を彼方野辺に刈る草の束の間もわれ忘れめや」※_「大名児を、向こうの野原に刈る草の一束の間も、私は忘れることがあろうか」と歌っています。「大名児」は石川女郎の字です。<記事>★印は万葉集に歌があり、数字は歌の数です。天武天皇の后妃と皇子女 |ー皇后;鸕野讚良皇女(後の持統天皇) | |ー草壁皇子(又は日並皇子)★1 |ー妃; 大田皇女 | |ー大来皇女(又は大伯皇女)★6 | |ー大津皇子★4 |ー妃; 大江皇女 | |ー長皇子★5 | |ー弓削皇子★8 |ー妃; 新田部皇女 | |ー舎人親王★3 |ー夫人;氷上娘 | |ー但馬皇女★4 |ー夫人;五百重娘 | |ー新田部親王 |ー夫人;大蕤娘 | |ー穂積皇子(又は穂積親王)★4 | |ー紀皇女★2 | |ー田形皇女 |ー嬪; 額田王 | |ー十市皇女 |ー嬪; 尼子娘 | |ー高市皇子★3 |ー嬪; かじ媛娘 |ー忍壁皇子 |ー磯城皇子 |ー泊瀬部皇女 |ー詫其皇女 以上
2023.04.12
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万雑021_天智天皇の后妃と皇子女が作られた御歌(志貴皇子)次は天智天皇の第七皇子の志貴皇子で何故か皇位には無縁で文化人として終わったようですが、実子の白壁王は光仁天皇となっています。万葉集に6首の御歌(巻第一に2首、巻第三に1首、巻第四に1首、巻第八に2首)があります。51_明日香宮から藤原宮に遷都した時に作られた御歌です。「采女の袖吹きかへす明日香風京を遠みいたづらに吹く」※_「采女の袖吹き翻すべき明日香の風は、都が遠いので空しく吹いている」と歌っています。「采女(うねめ)」は地方の豪族から朝廷に貢進された子女で、下級女官として天皇の食膳に奉仕していました。明日香宮から藤原宮に遷都したのは西暦694年でした。64_文部天皇の難波行幸(706年)の時に作られた御歌です。「葦辺行く鴨の羽がひに霜降りて寒き夕は大和し思ほゆ」※_「葦辺を泳ぐ鴨の翼の重なる所に霜が降って、この寒い夜は大和は思われる」と歌っています。267_ムササビを詠んだ御歌です。「むささびは木末求むとあしひきの山の猟夫にあひにけるかも」※_「ムササビは高い梢に上がろうとして、山の猟師に出くわしてしまった」と歌っています。513_久し振りに妻に逢えたことを詠んだ御歌です。「大原のこのいち柴の何時しかと我が思ふ妹に今夜逢へるかも」※_「大原のこのいち柴の名のように、何時になったら逢えるかと思っていた妻に、今夜逢ったことだ」と歌っています。「いち柴」は美しく茂った灌木のこと。1418_芽をだしたワラビを詠んだ御歌です。「いはそそく垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」※_「岩の上に流れ落ちる滝のそばのさわらびが、芽を和す春になったのだなあ」と歌っています。1466_ホトトギスを詠んだ御歌です。「神奈備の磐瀬の杜のほととぎす毛無の岡にいつか来鳴かむ」※_「神奈備の磐瀬の杜のホトトギスは、毛無の岡にいつになったら来て鳴くのだろうか」と歌っています。以上
2023.04.11
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万雑020_天智天皇の后妃と皇子女が作られた御歌(川島皇子)次は天智天皇の第二皇子の川島皇子の歌が巻第一に1首あります。川島皇子は女官の子で、天智天皇と天武天皇の後継序列は草壁皇子→大津皇子→高市皇子→川島皇子と四番目になっていたようです。天武天皇が崩御の後は異母姉が持統天皇に即位した後も従う姿勢で上手く振舞ったようです。34_持統天皇の紀伊行幸(690年)に従った川島皇子が作られた御歌。「白波の浜松が枝の手向くさ幾代までにか年に経ぬらむ」※_「白波の打ち寄せる、浜辺の松の枝に掛けられた手向けの幣は、どれほどの年が経っているのだろう」と歌っています。旅の安全を祈って道の神に捧げた古い幣を見て感慨を催し詠んだとされています。以上
2023.04.10
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万雑019_天智天皇の后妃と皇子女が作られた御歌(御名部皇女)天智天皇の第四皇女の阿閇皇女(後の元明天皇)の同母姉である御名部皇女の御歌が巻第一に1首あります。なお、御名部皇女は異母兄の高市皇子の室になり長屋王をもうけています。77_御名部皇女が天皇になられた妹君(元明天皇)を励ます御歌です。「わが大君ものな思ほし皇神の副へて賜へる我がなけなくに」※_「大君よ、ご心配なさいますな。皇神の神々が大君に副えてお遣わしになった。私がいないわけではございませんのに」と歌っています。<記事>★印は万葉集に歌があり、数字は歌の数です。天智天皇の后妃と皇子女 |ー皇后;倭姫王★4 |ー夫人;蘇我遠智娘 | |ー大田皇女(後の天武天皇妃) | |ー鸕野讚良皇女(後の天武天皇妃、持統天皇) | |ー建皇子 |ー夫人;蘇我姫媛 | |ー御名部皇女★1 | |ー阿閇皇女(後の元明天皇)★3 |ー夫人;蘇我造媛 |ー嬪;蘇我常陸娘 | |ー山辺皇女 |ー嬪;阿倍橘娘 | |ー明日香皇女 | |ー新田部皇女(後の天武天皇妃) |ー夫人;越道君伊羅都売 | |ー志貴皇子★6 |ー采女;伊賀宅子娘 | |ー大友皇子(後の弘文天皇) |ー官人;忍海造色夫古娘 | |ー川島皇子★1 | |ー大江皇女(後の天武天皇妃) | |ー泉皇女 |ー官人;栗隈首黒媛娘 |ー水主皇女以上
2023.04.09
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土手の菜の花にとまるアゲハチョウを見つけました。「ジャコウアゲハ」、「オナガアゲハ」、「クロアゲハ」とよく似た蝶がいます。複眼の下にオレンジ色が少し見れますので「ジャコウアゲハ」としました。ジャコウアゲハ;チョウ目、アゲハチョウ科、L=90mm
2023.04.08
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万雑018_天智天皇の后妃と皇子女が作られた御歌(阿閇皇女・元明天皇)万雑017では天智天皇の皇后の倭姫王の歌を紹介しましたが、他にも天智天皇の后妃と皇子女の歌がありますので順次紹介したいと思います。今回は天智天皇の第四皇女の_阿閇皇女で後の元明天皇_が作った御歌を取り上げました。35_阿閇皇女が作られた御歌「これやこの大和にしては我が恋ふる紀伊路にありといふ名に負ふ背の山」※_「これこそまさに、大和にあって私が一番見たいと思っていた、紀伊路にあるという有名な背の山(勢能山)なのですね」と歌っています。持統天皇の紀伊行幸(690年)で、崩御された草壁皇子を思って詠まれた歌の様です。「勢能山」は紀の川の北岸にあった山です。76_元明天皇が即位し708年11月に行われた即位儀礼の御製の歌「ますらをと鞆の音すなりもののふの大臣楯立つらしも」※_「武人たちの鞆の音が聞こえる。将軍たちが楯を立て威儀を正しているらしい」と歌っています。78_元明天皇が710年3月に遷都(藤原京→平城京)した時の御製の歌「飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去なば君があたりは見えずかもあらむ」※_「明日香の故郷を後にして行ってしまったら、あなたのあたりは見えないことであろうか」と歌っています。<記事>★印は万葉集に歌があり、数字は歌の数です。天智天皇の后妃と皇子女 |ー皇后;倭姫王★4 |ー夫人;蘇我遠智娘 | |ー大田皇女(後の天武天皇妃) | |ー鸕野讚良皇女(後の天武天皇妃、持統天皇) | |ー建皇子 |ー夫人;蘇我姫媛 | |ー御名部皇女★1 | |ー阿閇皇女(後の元明天皇)★3 |ー夫人;蘇我造媛 |ー嬪;蘇我常陸娘 | |ー山辺皇女 |ー嬪;阿倍橘娘 | |ー明日香皇女 | |ー新田部皇女(後の天武天皇妃) |ー夫人;越道君伊羅都売 | |ー志貴皇子★6 |ー采女;伊賀宅子娘 | |ー大友皇子(後の弘文天皇) |ー官人;忍海造色夫古娘 | |ー川島皇子★1 | |ー大江皇女(後の天武天皇妃) | |ー泉皇女 |ー官人;栗隈首黒媛娘 |ー水主皇女以上
2023.04.07
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万雑017_天智天皇の皇后の倭姫王が作られた御歌が4首あります。西暦671年9月に天智天皇が病気になられ、12月3日に崩御されました。この間に天智天皇の皇后の倭姫王が作られた御歌が巻第二に4首あります。なお、皇后の倭姫王は天智天皇(中大兄皇子)の異母兄弟の古人大兄皇子の皇女であり、天智天皇は叔父にあたります。147_天智天皇が病気になられた時の皇后の御歌。「天の原振り放け見れば大君の御寿は長く天足らしたり」※_「大空を振り仰いで見ると、大君のお命は永久に、長く大空に満ちあふれています」と歌っています。148_天智天皇が危篤になられた時の皇后の御歌。「青旗の木幡の上を通ふとは目には見れどもただに逢はぬかも」※_「木幡の山の上を、御霊(みたま)が行き来しているとは、目には見ているけれども、直接にはお逢い出来ない」と歌っています。149_天智天皇が崩御された時に皇后が作られた御歌(短歌)。「人はよし思ひやむとも玉かづら影に見えつつ忘れえぬかも」※_「他の人はたとえお慕いすることを止めても、面影にはいつも見えていて、忘れられない」と歌っています。150_天智天皇が崩御された時に皇后が作られた御歌(長歌)「うつせみし 神に堪へねば 離れ居て 朝嘆く君 離り居て 我が恋ふる君 玉ならば 手に巻き持ちて 衣ならば 脱く時もなく 我が恋ふる 君そ昨夜の夜 夢に見えつる」※_「人の身は神に逆らえないので、離れていて朝から私が慕い嘆く大君、遠く隔てられていて私が恋い慕う大君、玉だったら手に巻きつけて持ち、衣だったら身につけたまま脱ぐ時もないほどに、いつもいつも私が恋い慕う大君が、昨日の夜は夢に見えました」と歌っています。 以上
2023.04.06
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桜の花や菜の花の開花時期が早くなったのですが、昆虫の羽化する時期は例年通りなのか・・・?満開の「菜の花」に「ミツバチ」や「ハナアブ」が全く見られないのです。やっと草むらでハナアブを一匹見つけましたが・・・何故かな?クロヒラタアブ;ハエ目、ハナアブ科、L=12mm
2023.04.05
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万雑016_雄略天皇の兄の木梨軽皇子の悲しい歌もあります万葉集の歌で巻第一の巻頭を飾った第21代_雄略天皇(在位457年~479年)の御製の歌がありましたが、下に記した第19代_允恭天皇(在位412年~453年)の皇子女図にある第一皇子で皇太子の木梨軽皇子(本来なら第20代天皇に即位されていたはずの雄略天皇の兄)の歌もあることが判りました。なお雄略天皇は允恭天皇の第五皇子になります。その木梨軽皇子の歌は万葉集巻第四の3263にあり、皇子が同母妹の第二皇女の衣通姫と姦通したため捕らえられ、伊予に流刑されました。その流刑先で自害した時に詠んだ歌とされています。3263_「こもくりの 泊瀬の川の 上つ瀬に 斎杭を打ち 下つ瀬に 真杭を打ち 斎杭には 鏡を掛け 真杭には 真玉を掛け 真玉なす 我が思ふ妹も 鏡なす 我が思ふ妹も ありといはばこそ 国にも 家にも行かめ 誰がゆゑか行かむ」※_「泊瀬の川の上の瀬に斎杭を打ち、下の瀬に真杭を打ち、斎杭には鏡を掛け、真杭には真玉を掛け、その真玉のような我が思う妻も、その鏡のような我が思う妻も、いるというならばこそ、故郷にも、家に帰ろうが。他の誰ゆえに帰って行こうか」と歌っています。允恭(いんぎょう)天皇の后妃と皇子女 |ー皇后;押坂大中姫 | |ー第一皇子;木梨軽皇子(皇太子) | |ー第一皇女;名形大娘皇女 | |ー第二皇子;境黒彦皇子 | |ー第三皇子;穴穂皇子(安康天皇) | |ー第二皇女;軽大娘皇女(衣通姫とも) | |ー第四皇子;八釣白彦皇子 | |ー第五皇子;大泊瀬稚武皇子(雄略天皇) | |ー第三皇女;但馬橘大娘皇女 | |ー第四皇女;酒見皇女 |ー妃;弟姫(皇后の妹) 以上
2023.04.04
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もう「ツバメ」が渡って来ました。同じ場所に戻って来て巣を作る様ですが、この燕はここで生まれたのか?それとも親鳥だっだのかな?ツバメ;スズメ目、ツバメ科、L=17cm、夏鳥※_近くの土手で満開の「菜の花」です。春ですねえ!!
2023.04.03
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万雑015_孝徳天皇の子の有間皇子の悲しい歌が2首あります。第34代の舒明天皇が亡くなった後、後継者決定が難航し、やむなく皇后の宝姫王が皇極天皇に即位(642年~645年)されました。645年に起きた「乙巳の変(蘇我入鹿暗殺)」で首謀者の中大兄皇子(舒明天皇の第二皇子、後の天智天皇)は皇極天皇の同母弟で叔父の軽皇子を孝徳天皇に即位させ自分は皇太子になっています。なお孝徳天皇は在位645年~654年の10年と短く病気になって死去されました。孝徳天皇の後は、先の皇極天皇が再度名を変え斉明天皇として即位しています。<備考>第一皇子の古人大兄皇子は天皇即位を辞退し出家しています。万葉集には何故か孝徳天皇の御歌はありませんが、子の有間皇子の歌が2首あります。この歌は658年に謀反を企てた有間皇子が蘇我赤兄の裏切りによって捕らえられ、斉明天皇の行幸先の紀の湯へ護送される途中の岩代で詠まれた歌(挽歌)です。有間皇子はこの歌を詠んだ翌日に処刑されました。141_「岩代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまたかへりみむ」※_「岩代の浜松の枝を引き結んで、幸いに無事であったら、また帰って来て見ることであろう」と歌っています。142_「家にあれば笥に盛る飯を草まくら旅にしあれば椎の葉に盛る」※_「家にあれば器に盛るべき飯を、旅にあるので、椎の葉に盛ることよ」と歌っています。この2首の歌は結果的に、有間皇子の辞世の歌になっています。以上
2023.04.03
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堤防横のいつもの雑木林、先日は「シメ」が居た辺りに野鳥を見つけて撮って確認すると初めて見る「アトリ」のオスでした。残念なのは同じ時に頭が黒いメスもファインダーに入ったのですが一瞬だったのでシャッターを押せませんでした。アトリ;スズメ目、アトリ科、L=16cm、冬鳥
2023.04.02
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堤防道路の標識の支柱にとまる「ホオジロ」のオスですが、近付いても逃げないので撮ってあげました。留鳥の中で警戒心が弱く、一年を通して目にする野鳥ですね。ホオジロ;スズメ目、ホオジロ科、L=17cm、留鳥
2023.04.01
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