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万雑560_大伴家持の鹿鳴の歌2首と秋萩の歌(大伴家持_50) 2023年大晦日、次は大伴家持の鹿鳴の歌2首(1602、1603)と秋萩の歌(1605)です。天平十五年(743年)8月16日に家持が作った鹿鳴の歌2首;1602_「山彦の相とよむまで妻恋に鹿鳴く山辺にひとりのみして」※_「山彦が響き合うほど、妻を恋う鹿の高く鳴く山辺に、ただ一人で居て」と歌っています。1603_「このころの朝明に聞けばあしひきの山呼びとよめき雄鹿鳴くも」※_「このところの夜明けに聞くと、(あしひきの)山を響かせて、雄鹿が妻を呼んで鳴いている」と歌っています。家持の秋萩の歌;1605_「高円の野辺の秋萩このころの暁露に咲きにけむかも」※_「高円の野辺の秋萩は、この頃の暁の露を受けて咲いただろうかな」と歌っています。今年も最後となりました。来年も引き続き宜しくお願い申し上げます。備考;大伴家持の経歴と関連する出来事養老2年(718年)ころに生まれた天平8年(736年)家持が19か20歳で秋の歌4首(1566~1569)あり天平10年(738年)内舎人としてお目見え天平11年(739年)6月;家持の妾が死去※_天平12年8月29日藤原博嗣が政府批判、9月3日挙兵、藤原博嗣の乱天平12年(740年)に聖武天皇の伊勢行幸に従駕※_聖武天皇伊勢行幸;10月29日に立って、11月2日から11日まで滞在※_天平12年12月15日、聖武天皇の勅命により平城京より久迩京に遷都天平12年から天平15年ころ、家持は坂上大嬢を娶ったようですが?天平15年(743年)8月;秋の歌5首(1597~1599,1602,1603)あり※_天平16年(744年)2月、難波京に遷都天平16年(744年)2月;安積皇子(享年17歳)が死去※_天平17年(745年)5月、都を平城京に戻す天平18年(749年)に越中守として越中国に赴任※_越中国在住中の歌が223首ある天平勝宝3年(751年)に帰京天平勝宝7年(755年)に難波で防人の検校に関わる天平宝字2年(758年)に因幡守として因幡国に赴任※_万葉集の末尾(巻20_4516)は家持が天平宝字3年に作った歌です天平宝字6年(762年)に帰京天平宝字8年(764年)に薩摩守として九州へ神護景雲元年(767年)に太宰少弐に転じて大宰府へ神護景雲4年(770年)に帰京(民部少輔)延暦4年(785年)_8月28日死去家持の作った歌の掲載巻別の歌数;巻第三;21首(長歌3首、短歌18首)_済巻第四;64首(長歌0首、短歌64首)_済巻第六;9首(長歌0首、短歌9首)_済巻第八;51首(長歌2首、短歌49首)巻第十六;2首(長歌0首、短歌2首)巻第十七;76首(長歌9首、短歌67首)巻第十八;69首(長歌10首、短歌59首)巻第十九;103首(長歌17首、短歌86首)巻第二十;78首(長歌4首、短歌74首)以上
2023.12.31
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2022年11月25日に一度見かけた「イソシギ」を久し振りに川の堰で見かけました。イソシギ;チドリ目、シギ科、L=20cm、留鳥
2023.12.30
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万雑559_大伴家持の娘子の歌1首と秋の歌3首(大伴家持_49) 次は、大伴家持の娘子の歌(1596)と秋の歌(1597、1598、1599)4首です。家持が娘子の家の門まで来て作った歌;1596_「妹が家の門田を見むとうち出来し心も著く照る月夜かも」※_「あなたの家の門前の田を見ようと出かけて来た心の甲斐があって、月が明るく照っているよ」と歌っています。天平十五年(743年)秋8月に景色を見て作った秋の歌3首;1597_「秋の野に咲ける秋萩秋風になびける上に秋の露置けり」※_「秋の野に咲いている秋萩が、秋風に靡いている上に秋の露が降りている」と歌っています。1598_「さ雄鹿の朝立つ野辺の秋萩に玉と見るまで置ける白露」※_「雄鹿が朝に立つ野辺の秋萩に、まるで玉かと見あやまるばかりに置いている白露だ」と歌っています。 1599_「さ雄鹿の胸分けにかも秋萩の散り過ぎにける盛りかも去ぬる」※_「雄鹿が胸で野を分けて行くせいか、秋萩が散ってしまった。盛りが過ぎたせいなのだろうか」と歌っています。備考;大伴家持の経歴と関連する出来事養老2年(718年)ころに生まれた天平8年(736年)家持が19か20歳で秋の歌4首(1566~1569)あり天平10年(738年)内舎人としてお目見え天平11年(739年)6月;家持の妾が死去※_天平12年8月29日藤原博嗣が政府批判、9月3日挙兵、藤原博嗣の乱天平12年(740年)に聖武天皇の伊勢行幸に従駕※_聖武天皇伊勢行幸;10月29日に立って、11月2日から11日まで滞在※_天平12年12月15日、聖武天皇の勅命により平城京より久迩京に遷都天平12年から天平15年ころ、家持は坂上大嬢を娶ったようですが?天平15年(743年)秋8月;秋の歌3首(1597,1598,1599)あり※_天平16年(744年)2月、難波京に遷都天平16年(744年)2月;安積皇子(享年17歳)が死去※_天平17年(745年)5月、都を平城京に戻す天平18年(749年)に越中守として越中国に赴任※_越中国在住中の歌が223首ある天平勝宝3年(751年)に帰京天平勝宝7年(755年)に難波で防人の検校に関わる天平宝字2年(758年)に因幡守として因幡国に赴任※_万葉集の末尾(巻20_4516)は家持が天平宝字3年に作った歌です天平宝字6年(762年)に帰京天平宝字8年(764年)に薩摩守として九州へ神護景雲元年(767年)に太宰少弐に転じて大宰府へ神護景雲4年(770年)に帰京(民部少輔)延暦4年(785年)_8月28日死去家持の作った歌の掲載巻別の歌数;巻第三;21首(長歌3首、短歌18首)_済巻第四;64首(長歌0首、短歌64首)_済巻第六;9首(長歌0首、短歌9首)_済巻第八;51首(長歌2首、短歌49首)巻第十六;2首(長歌0首、短歌2首)巻第十七;76首(長歌9首、短歌67首)巻第十八;69首(長歌10首、短歌59首)巻第十九;103首(長歌17首、短歌86首)巻第二十;78首(長歌4首、短歌74首)以上
2023.12.30
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万雑558_大伴家持が作った秋の歌2首(大伴家持_48) 次は、大伴家持の秋の歌(1572、1591)2首です。1572_「我がやどの尾花が上の白露を消たずて玉に貫くものにもが」※_「わが家の庭のススキの上に置く白露を、消さずに珠玉として糸に通せたらいいのだがなあ」と歌っています。1591_「もみち葉の過ぎまく惜しみ思ふどち遊ぶ今夜は明けずもあらぬか」※_「黄葉の散るのを惜しんで、仲のよいもの同士で遊ぶ今夜は、明けないでいてくれないものか」と歌っています。 備考;大伴家持の経歴と関連する出来事養老2年(718年)ころに生まれた天平8年(736年)家持が19か20歳で秋の歌4首があります天平10年(738年)内舎人としてお目見え天平11年(739年)6月;家持の妾が死去※_天平12年8月29日藤原博嗣が政府批判、9月3日挙兵、藤原博嗣の乱天平12年(740年)に聖武天皇の伊勢行幸に従駕※_聖武天皇伊勢行幸;10月29日に立って、11月2日から11日まで滞在※_天平12年12月15日、聖武天皇の勅命により平城京より久迩京に遷都天平12年から天平15年ころ、家持は坂上大嬢を娶ったようですが?※_天平16年(744年)2月、難波京に遷都天平16年(744年)2月;安積皇子(享年17歳)が死去※_天平17年(745年)5月、都を平城京に戻す天平18年(749年)に越中守として越中国に赴任※_越中国在住中の歌が223首ある天平勝宝3年(751年)に帰京天平勝宝7年(755年)に難波で防人の検校に関わる天平宝字2年(758年)に因幡守として因幡国に赴任※_万葉集の末尾(巻20_4516)は家持が天平宝字3年に作った歌です天平宝字6年(762年)に帰京天平宝字8年(764年)に薩摩守として九州へ神護景雲元年(767年)に太宰少弐に転じて大宰府へ神護景雲4年(770年)に帰京(民部少輔)延暦4年(785年)_8月28日死去家持の作った歌の掲載巻別の歌数;巻第三;21首(長歌3首、短歌18首)_済巻第四;64首(長歌0首、短歌64首)_済巻第六;9首(長歌0首、短歌9首)_済巻第八;51首(長歌2首、短歌49首)巻第十六;2首(長歌0首、短歌2首)巻第十七;76首(長歌9首、短歌67首)巻第十八;69首(長歌10首、短歌59首)巻第十九;103首(長歌17首、短歌86首)巻第二十;78首(長歌4首、短歌74首)以上
2023.12.29
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万雑557_大伴家持が天平八年に作った秋の歌4首(大伴家持_47) 次は、大伴家持の秋の歌(1566、1567、1568、1569)4首で、天平八年(736年)秋9月に作られた歌です。家持が19か20歳の頃の作です。1566_「ひさかたの雨間も置かず雲隠り鳴きそ行くなる早稲田雁がね」※_「(ひさかたの)雨の降っている時も休みなく、雲に隠れて鳴いて行く声がする、早稲田の雁が」と歌っています。1567_「雲隠り鳴くなる雁の行きて居む秋田の穗立繁くし思ほゆ」※_「雲に隠れて鳴いている雁が行って降りるだろう、秋の田の稲穂がしきりに思われる」と歌っています。1568_「雨隠り心いぶせみ出で見れば春日の山は色づきにけり」※_「雨に降りこめられて心が鬱々とするので、外に出て見ると、春日山は黄葉の色に染まっていた」と歌っています。 1569_「雨はれて清く照りたるこの月夜また更にして雲なたなびき」※_「雨が晴れて清らかに照っているこの月に、また再び雲よたなびくな」と歌っています。 備考;大伴家持の経歴と関連する出来事養老2年(718年)ころに生まれた天平8年(736年)家持は19か20歳で秋の歌4首があります天平10年(738年)内舎人としてお目見え天平11年(739年)6月;家持の妾が死去※_天平12年8月29日藤原博嗣が政府批判、9月3日挙兵、藤原博嗣の乱天平12年(740年)に聖武天皇の伊勢行幸に従駕※_聖武天皇伊勢行幸;10月29日に立って、11月2日から11日まで滞在※_天平12年12月15日、聖武天皇の勅命により平城京より久迩京に遷都天平12年から天平15年ころ、家持は坂上大嬢を娶ったようですが?※_天平16年(744年)2月、難波京に遷都天平16年(744年)2月;安積皇子(享年17歳)が死去※_天平17年(745年)5月、都を平城京に戻す天平18年(749年)に越中守として越中国に赴任※_越中国在住中の歌が223首ある天平勝宝3年(751年)に帰京天平勝宝7年(755年)に難波で防人の検校に関わる天平宝字2年(758年)に因幡守として因幡国に赴任※_万葉集の末尾(巻20_4516)は家持が天平宝字3年に作った歌です天平宝字6年(762年)に帰京天平宝字8年(764年)に薩摩守として九州へ神護景雲元年(767年)に太宰少弐に転じて大宰府へ神護景雲4年(770年)に帰京(民部少輔)延暦4年(785年)_8月28日死去家持の作った歌の掲載巻別の歌数;巻第三;21首(長歌3首、短歌18首)_済巻第四;64首(長歌0首、短歌64首)_済巻第六;9首(長歌0首、短歌9首)_済巻第八;51首(長歌2首、短歌49首)巻第十六;2首(長歌0首、短歌2首)巻第十七;76首(長歌9首、短歌67首)巻第十八;69首(長歌10首、短歌59首)巻第十九;103首(長歌17首、短歌86首)巻第二十;78首(長歌4首、短歌74首)以上
2023.12.28
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万雑556_大伴家持の夏の雑歌3首(大伴家持_46) 次は、大伴家持の夏の雑歌(1554、1563、1565)3首で、他の人が詠んだ歌に家持が答えて作った歌です。大伴稲公(家持の父旅人の異母弟)の歌を承けて、家持が答えた歌です。1554_「大君の三笠の山のもみち葉は今日のしぐれに散りか過ぎなむ」※_「(大君の)三笠の山の黄葉は、今日の時雨れに散ってしまうのでしょうか」と歌っています。巫部麻蘇娘子の雁の歌を承けて、家持が答えた歌です。1563_「聞きつやと妹が問はせる雁がねはまことも遠く雲隠るなり」※_「聞いたかと、あなたがお尋ねの雁は、なるほど、はるか遠く雲のかなたで鳴いています」と歌っています。日置長枝娘子の尾花(=ススキ)歌を承けて、家持が答えた歌です。 1565_「我がやどの一群萩を思ふ児に見せずほとほと散らしつるかも」※_「わが家の庭の一叢の萩を、好きな人に見せないで、危うく散らしてしまうところだった」と歌っています。 異なる花の歌で答えています。 備考;大伴家持の経歴と関連する出来事養老2年(718年)ころに生まれた天平10年(738年)内舎人としてお目見え天平11年(739年)6月;家持の妾が死去※_天平12年8月29日藤原博嗣が政府批判、9月3日挙兵、藤原博嗣の乱天平12年(740年)に聖武天皇の伊勢行幸に従駕※_聖武天皇伊勢行幸;10月29日に立って、11月2日から11日まで滞在※_天平12年12月15日、聖武天皇の勅命により平城京より久迩京に遷都天平12年から天平15年ころ、家持は坂上大嬢を娶ったようですが?※_天平16年(744年)2月、難波京に遷都天平16年(744年)2月;安積皇子(享年17歳)が死去※_天平17年(745年)5月、都を平城京に戻す天平18年(749年)に越中守として越中国に赴任※_越中国在住中の歌が223首ある天平勝宝3年(751年)に帰京天平勝宝7年(755年)に難波で防人の検校に関わる天平宝字2年(758年)に因幡守として因幡国に赴任※_万葉集の末尾(巻20_4516)は家持が天平宝字3年に作った歌です天平宝字6年(762年)に帰京天平宝字8年(764年)に薩摩守として九州へ神護景雲元年(767年)に太宰少弐に転じて大宰府へ神護景雲4年(770年)に帰京(民部少輔)延暦4年(785年)_8月28日死去家持の作った歌の掲載巻別の歌数;巻第三;21首(長歌3首、短歌18首)_済巻第四;64首(長歌0首、短歌64首)_済巻第六;9首(長歌0首、短歌9首)_済巻第八;51首(長歌2首、短歌49首)巻第十六;2首(長歌0首、短歌2首)巻第十七;76首(長歌9首、短歌67首)巻第十八;69首(長歌10首、短歌59首)巻第十九;103首(長歌17首、短歌86首)巻第二十;78首(長歌4首、短歌74首)以上
2023.12.27
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万雑555_大伴家持の夏の相聞歌4首(大伴家持_45) 次は、大伴家持の夏の相聞歌(1507、1508、1509、1510)4首です。家持が橘の花を引き折って、坂上大嬢に贈った歌(長歌と反歌2首)です。1507_「いかといかと ある我がやどに 百枝さし 生ふる橘 玉に貫く 五月を近み あえぬがに 花咲きにけり 朝に日に 出で見るごとに 息の緒に 我が思ふ妹に まそ鏡 清き月夜に ただ一目 見するまでには 散りこすな ゆめと言ひつつ ここだくも 我が守るものを うれたきや 醜ほととぎす 暁の うら悲しきに 追へど追へど なほし来鳴きて いたづらに 地に散らせば すべをなみ 攀ぢて手折りつ 見ませ我妹子」※_「どうだろう、どうだろうと花の咲くのを待っている私の家の庭先に、たくさんの枝が伸びて生えている橘は、実を玉に貫く五月が近いので、こぼれるばかりに花が咲いた。毎朝毎日出て見るたびに、命をかけて自分が思っているあなたに、(まそ鏡)きれいに澄んだ月夜に、ただ一目だけ見せるまでは、散ってくれるな、決してと言いながら、こんなにも私が見守っているものを、腹立たしい憎いホトトギスめが、明け方の何となく物悲しい時に、追っても追っても、それでもやって来て鳴き、むなしく花を地面に散らすので、しかたなく、枝を引き寄せて手折ってしまった。ごらん下さい、あなた」と歌っています。反歌2首;1508_「望ぐたち清き月夜に我妹子に見せむと思ひしやどの橘」※_「十五夜の夜更けの清らかな月明かりの中で、あなたに見せようと思ったわが家の庭の橘です」と歌っています。 1509_「妹が見て後も鳴かなむほととぎす花橘を地に散らしつ」※_「あなたが見て、その後に鳴いてほしかった。ホトトギスが、橘の花を地面に散らしてしまった」と歌っています。 家持が紀女郎に贈った歌です。1510_「なでしこは咲きて散りぬと人は言へど我が標めし野の花にあらめやも」※_「なでしこは咲いて散ったと人は言うけれども、私が印を付けた野の花であるはずはない」と歌っています。備考;大伴家持の経歴と関連する出来事養老2年(718年)ころに生まれた天平10年(738年)内舎人としてお目見え天平11年(739年)6月;家持の妾が死去※_天平12年8月29日藤原博嗣が政府批判、9月3日挙兵、藤原博嗣の乱天平12年(740年)に聖武天皇の伊勢行幸に従駕※_聖武天皇伊勢行幸;10月29日に立って、11月2日から11日まで滞在※_天平12年12月15日、聖武天皇の勅命により平城京より久迩京に遷都天平12年から天平15年ころ、家持は坂上大嬢を娶ったようですが?※_天平16年(744年)2月、難波京に遷都天平16年(744年)2月;安積皇子(享年17歳)が死去※_天平17年(745年)5月、都を平城京に戻す天平18年(749年)に越中守として越中国に赴任※_越中国在住中の歌が223首ある天平勝宝3年(751年)に帰京天平勝宝7年(755年)に難波で防人の検校に関わる天平宝字2年(758年)に因幡守として因幡国に赴任※_万葉集の末尾(巻20_4516)は家持が天平宝字3年に作った歌です天平宝字6年(762年)に帰京天平宝字8年(764年)に薩摩守として九州へ神護景雲元年(767年)に太宰少弐に転じて大宰府へ神護景雲4年(770年)に帰京(民部少輔)延暦4年(785年)_8月28日死去家持の作った歌の掲載巻別の歌数;巻第三;21首(長歌3首、短歌18首)_済巻第四;64首(長歌0首、短歌64首)_済巻第六;9首(長歌0首、短歌9首)_済巻第八;51首(長歌2首、短歌49首)巻第十六;2首(長歌0首、短歌2首)巻第十七;76首(長歌9首、短歌67首)巻第十八;69首(長歌10首、短歌59首)巻第十九;103首(長歌17首、短歌86首)巻第二十;78首(長歌4首、短歌74首)以上
2023.12.26
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万雑554_大伴家持の夏の雑歌10首(大伴家持_44) 次の歌は、大伴家持の夏の雑歌(1485、1486、1487、1488、1489、1490、1491、1494、1495、1496)10首です。唐隷(ハネズ)の花の歌です。1485_「夏まけて咲きたるはねずひさかたの雨うち降らばうつろひなむか」※_「夏を待つようにして咲いたハネズは、(ひさかたの)雨が降れば色が変わってしまうだろうか」と歌っています。霍公鳥(ホトトギス)の遅く鳴くのを恨んだ歌2首です。1486_「我がやどの花橘をほととぎす来鳴かず地に散らしてむとか」※_「わが家の庭の花橘を、ホトトギスは来て鳴きもせずに、地面に散らしてしまおうというのか」と歌っています。 1487_「ほととぎす思はずありき木の暗のかくなるまでになにか来鳴かぬ」※_「ホトトギスよ、思ってもみなかったぞ、木々がこんなに鬱蒼と繁るまでに、どうしてお前は来て鳴かないのだ」と歌っています。 霍公鳥(ホトトギス)を喜んだ歌です。1488_「いづくには鳴きもしにけむほととぎす我家の里に今日のみそ鳴く」※_「どこかでもう鳴いただろうが、ホトトギスは、わが家のある里に今日やっと鳴いている」と歌っています。橘(タチバナ)花を惜しんだ歌です。1489_「我がやどの花橘は散り過ぎて玉に貫くべく実になりにけり」※_「わが家の庭の橘の花は散ってしまい、五月の玉に貫くほどの実になったなあ」と歌っています。霍公鳥(ホトトギス)の歌4首です。1490_「ほととぎす待てど来鳴かずあやめぐさ玉に貫く日はいまだ遠みか」※_「ホトトギスはいくら待っても来て鳴かない。あやめ草を玉に貫く日はまだ先だからか」と歌っています。 1491_「卯の花の過ぎば惜しみかほととぎす雨間も置かずこゆ鳴き渡る」※_「卯の花が散ってしまうのを惜しんでか、ホトトギスは、雨の降る間も休まずにここらを鳴いてゆく」と歌っています。1494_「夏山の木末のしげにほととぎす鳴きとよむなる声の遥けさ」※_「夏山の梢の繁みにホトトギスが鳴き響かせる、その声の遥かに遠いことよ」と歌っています。 1495_「あしひきの木の間たち潜くほととぎすかく聞きそめて後恋ひむかも」※_「(あしひきの)木の間をくぐるホトトギスを、こうして初声を聞いた後は、待ち焦がれるようになるのだろうか」と歌っています。大伴家持のナデシコの歌です。1496_「我がやどのなでしこの花盛りなり手折りて一目見せむ児もがも」※_「わが家の庭のナデシコのが真っ盛りだ。手折って一目見せるような娘がいたらなあ」と歌っています。備考;大伴家持の経歴と関連する出来事養老2年(718年)ころに生まれた天平10年(738年)内舎人としてお目見え天平11年(739年)6月;家持の妾が死去※_天平12年8月29日藤原博嗣が政府批判、9月3日挙兵、藤原博嗣の乱天平12年(740年)に聖武天皇の伊勢行幸に従駕※_聖武天皇伊勢行幸;10月29日に立って、11月2日から11日まで滞在※_天平12年12月15日、聖武天皇の勅命により平城京より久迩京に遷都天平12年から天平15年ころ、家持は坂上大嬢を娶ったようですが?※_天平16年(744年)2月、難波京に遷都天平16年(744年)2月;安積皇子(享年17歳)が死去※_天平17年(745年)5月、都を平城京に戻す天平18年(749年)に越中守として越中国に赴任※_越中国在住中の歌が223首ある天平勝宝3年(751年)に帰京天平勝宝7年(755年)に難波で防人の検校に関わる天平宝字2年(758年)に因幡守として因幡国に赴任※_万葉集の末尾(巻20_4516)は家持が天平宝字3年に作った歌です天平宝字6年(762年)に帰京天平宝字8年(764年)に薩摩守として九州へ神護景雲元年(767年)に太宰少弐に転じて大宰府へ神護景雲4年(770年)に帰京(民部少輔)延暦4年(785年)_8月28日死去家持の作った歌の掲載巻別の歌数;巻第三;21首(長歌3首、短歌18首)_済巻第四;64首(長歌0首、短歌64首)_済巻第六;9首(長歌0首、短歌9首)_済巻第八;51首(長歌2首、短歌49首)巻第十六;2首(長歌0首、短歌2首)巻第十七;76首(長歌9首、短歌67首)巻第十八;69首(長歌10首、短歌59首)巻第十九;103首(長歌17首、短歌86首)巻第二十;78首(長歌4首、短歌74首)以上
2023.12.25
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万雑553_大伴家持の夏の雑歌3首(大伴家持_43) 次の歌は、大伴家持の夏の雑歌(霍公鳥、橘、晩蝉の3首)です。大伴家持の霍公鳥(ホトトギス)の歌です。1477_「卯の花もいまだ咲かねばほととぎす佐保の山辺に来鳴きとよもす」※_「卯の花もまだ咲いていないのに、ホトトギスは佐保の山麓にやって来て、声を響かせている」と歌っています。大伴家持の橘(タチバナ)の歌です。1478_「我がやどの花橘のいつしかも玉に貫くべくその実なりけむ」※_「わが家の庭の花橘の実は、いつになったら五月の玉に貫けるようになるのだろう」と歌っています。大伴家持の晩蝉(ヒグラシ)の歌です。1479_「隠りのみ居ればいぶせみ慰むと出で立ち聞けば来鳴くひぐらし」※_「屋内に引き籠ってばかりいると鬱陶しいので、気を晴らそうと外に出て立って聞いていると、来て鳴くヒグラシの声よ」と歌っています。備考;大伴家持の経歴と関連する出来事養老2年(718年)ころに生まれた天平10年(738年)内舎人としてお目見え天平11年(739年)6月;家持の妾が死去※_天平12年8月29日藤原博嗣が政府批判、9月3日挙兵、藤原博嗣の乱天平12年(740年)に聖武天皇の伊勢行幸に従駕※_聖武天皇伊勢行幸;10月29日に立って、11月2日から11日まで滞在※_天平12年12月15日、聖武天皇の勅命により平城京より久迩京に遷都天平12年から天平15年ころ、家持は坂上大嬢を娶ったようですが?※_天平16年(744年)2月、難波京に遷都天平16年(744年)2月;安積皇子(享年17歳)が死去※_天平17年(745年)5月、都を平城京に戻す天平18年(749年)に越中守として越中国に赴任※_越中国在住中の歌が223首ある天平勝宝3年(751年)に帰京天平勝宝7年(755年)に難波で防人の検校に関わる天平宝字2年(758年)に因幡守として因幡国に赴任※_万葉集の末尾(巻20_4516)は家持が天平宝字3年に作った歌です天平宝字6年(762年)に帰京天平宝字8年(764年)に薩摩守として九州へ神護景雲元年(767年)に太宰少弐に転じて大宰府へ神護景雲4年(770年)に帰京(民部少輔)延暦4年(785年)_8月28日死去家持の作った歌の掲載巻別の歌数;巻第三;21首(長歌3首、短歌18首)_済巻第四;64首(長歌0首、短歌64首)_済巻第六;9首(長歌0首、短歌9首)_済巻第八;51首(長歌2首、短歌49首)巻第十六;2首(長歌0首、短歌2首)巻第十七;76首(長歌9首、短歌67首)巻第十八;69首(長歌10首、短歌59首)巻第十九;103首(長歌17首、短歌86首)巻第二十;78首(長歌4首、短歌74首)以上
2023.12.24
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万雑552_大伴家持と紀女郎との春の相聞歌(大伴家持_42) 次の歌は、大伴家持と紀女郎(=紀小鹿)との春の相聞歌4首です。紀女郎が大伴家持に贈った歌2首です。1460_「戯奴がため我が手もすまに春の野に抜ける茅花そ召して肥えませ」※_「戯奴(わけ)のために、私が手も休めず春の野で抜いた茅花ですよ。食べてお太りなさい」と歌っています。「戯奴(わけ)」は若者の意です。1461_「昼は咲き夜は恋ひ寝る合歓木の花君のみ見めや戯奴さへに見よ」※_「昼は花咲き、夜は恋して眠るという合歓木(ねむ)の花、主君だけ見てよいものか。お前さんも見なさい」と歌っています。大伴家持が紀女郎の歌に応えて贈った歌2首です。1462_「我が君に戯奴は恋ふらし賜ばりたる茅花を食めどいや痩せに痩す」※_「あなたに私は恋しているらしいです。頂戴した茅花を食べましたが、ますます痩せるばかりです」と歌っています。1463_「我妹子が形見の合歓木は花のみに咲きてけだしく実にならじかも」※_「あなたの形見として頂いた合歓の木は、花ばかり咲いて、おそらく実を結ばないのではないでしょうか」と歌っています。ここの「形見」は、それを見て人を偲ぶものです。備考;大伴家持の経歴と関連する出来事養老2年(718年)ころに生まれた天平10年(738年)内舎人としてお目見え天平11年(739年)6月;家持の妾が死去※_天平12年8月29日藤原博嗣が政府批判、9月3日挙兵、藤原博嗣の乱天平12年(740年)に聖武天皇の伊勢行幸に従駕※_聖武天皇伊勢行幸;10月29日に立って、11月2日から11日まで滞在※_天平12年12月15日、聖武天皇の勅命により平城京より久迩京に遷都天平12年から天平15年ころ、家持は坂上大嬢を娶ったようですが?※_天平16年(744年)2月、難波京に遷都天平16年(744年)2月;安積皇子(享年17歳)が死去※_天平17年(745年)5月、都を平城京に戻す天平18年(749年)に越中守として越中国に赴任※_越中国在住中の歌が223首ある天平勝宝3年(751年)に帰京天平勝宝7年(755年)に難波で防人の検校に関わる天平宝字2年(758年)に因幡守として因幡国に赴任※_万葉集の末尾(巻20_4516)は家持が天平宝字3年に作った歌です天平宝字6年(762年)に帰京天平宝字8年(764年)に薩摩守として九州へ神護景雲元年(767年)に太宰少弐に転じて大宰府へ神護景雲4年(770年)に帰京(民部少輔)延暦4年(785年)_8月28日死去家持の作った歌の掲載巻別の歌数;巻第三;21首(長歌3首、短歌18首)_済巻第四;64首(長歌0首、短歌64首)_済巻第六;9首(長歌0首、短歌9首)_済巻第八;51首(長歌2首、短歌49首)巻第十六;2首(長歌0首、短歌2首)巻第十七;76首(長歌9首、短歌67首)巻第十八;69首(長歌10首、短歌59首)巻第十九;103首(長歌17首、短歌86首)巻第二十;78首(長歌4首、短歌74首)以上
2023.12.23
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万雑551_大伴家持が坂上大嬢に贈った春の相聞歌2首(大伴家持_41) 次の歌は、大伴家持が久迩京から奈良の家(妻の大嬢が住む)に贈った春の相聞歌2首です。1448_「我がやどに蒔きしなでしこいつしかも花に咲きなむなそへつつ見む」※_「わが家の庭に種を蒔いたナデシコは、いつになったら花に咲くだろうか。それをあなたと見よう」と歌っています。1464_「春霞たなびく山の隔れれば妹に逢はずて月そ経にける」※_「春霞のたなびく山が間を隔てているので、あなたに逢わないで何か月も経ってしまった」と歌っています。備考;大伴家持の経歴と関連する出来事養老2年(718年)ころに生まれた天平10年(738年)内舎人としてお目見え天平11年(739年)6月;家持の妾が死去※_天平12年8月29日藤原博嗣が政府批判、9月3日挙兵、藤原博嗣の乱天平12年(740年)に聖武天皇の伊勢行幸に従駕※_聖武天皇伊勢行幸;10月29日に立って、11月2日から11日まで滞在※_天平12年12月15日、聖武天皇の勅命により平城京より久迩京に遷都天平12年から天平15年ころ、家持は坂上大嬢を娶ったようですが?※_天平16年(744年)2月、難波京に遷都天平16年(744年)2月;安積皇子(享年17歳)が死去※_天平17年(745年)5月、都を平城京に戻す天平18年(749年)に越中守として越中国に赴任※_越中国在住中の歌が223首ある天平勝宝3年(751年)に帰京天平勝宝7年(755年)に難波で防人の検校に関わる天平宝字2年(758年)に因幡守として因幡国に赴任※_万葉集の末尾(巻20_4516)は家持が天平宝字3年に作った歌です天平宝字6年(762年)に帰京天平宝字8年(764年)に薩摩守として九州へ神護景雲元年(767年)に太宰少弐に転じて大宰府へ神護景雲4年(770年)に帰京(民部少輔)延暦4年(785年)_8月28日死去家持の作った歌の掲載巻別の歌数;巻第三;21首(長歌3首、短歌18首)_済巻第四;64首(長歌0首、短歌64首)_済巻第六;9首(長歌0首、短歌9首)_済巻第八;51首(長歌2首、短歌49首)巻第十六;2首(長歌0首、短歌2首)巻第十七;76首(長歌9首、短歌67首)巻第十八;69首(長歌10首、短歌59首)巻第十九;103首(長歌17首、短歌86首)巻第二十;78首(長歌4首、短歌74首)以上
2023.12.22
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万雑550_大伴家持が雉と鶯を詠んだ歌2首(大伴家持_40) ここから巻第八に入ります。そして次の歌は、大伴家持が作った春の雑歌2首(野鳥の歌)です。1441_「うち霧らし雪は降りつつしかすぎに我家の園にうぐいす鳴くも」※_「空一面を曇らせて雪は降り続いているが、それでも私の家の庭に鶯は鳴いている」と歌っています。1446_「春の野にあさる雉の妻恋ひに己があたりを人に知れつつ」※_「春の野で餌を求める雉が、妻を恋いて鳴いて、自分の居場所を人に知らせている」と歌っています。 備考;大伴家持の経歴と関連する出来事養老2年(718年)ころに生まれた天平10年(738年)内舎人としてお目見え天平11年(739年)6月;家持の妾が死去※_天平12年8月29日藤原博嗣が政府批判、9月3日挙兵、藤原博嗣の乱天平12年(740年)に聖武天皇の伊勢行幸に従駕※_聖武天皇伊勢行幸;10月29日に立って、11月2日から11日まで滞在※_天平12年12月15日、聖武天皇の勅命により平城京より久迩京に遷都天平12年から天平15年ころ、家持は坂上大嬢を娶ったようですが?※_天平16年(744年)2月、難波京に遷都天平16年(744年)2月;安積皇子(享年17歳)が死去※_天平17年(745年)5月、都を平城京に戻す天平18年(749年)に越中守として越中国に赴任※_越中国在住中の歌が223首ある天平勝宝3年(751年)に帰京天平勝宝7年(755年)に難波で防人の検校に関わる天平宝字2年(758年)に因幡守として因幡国に赴任※_万葉集の末尾(巻20_4516)は家持が天平宝字3年に作った歌です天平宝字6年(762年)に帰京天平宝字8年(764年)に薩摩守として九州へ神護景雲元年(767年)に太宰少弐に転じて大宰府へ神護景雲4年(770年)に帰京(民部少輔)延暦4年(785年)_8月28日死去家持の作った歌の掲載巻別の歌数;巻第三;21首(長歌3首、短歌18首)_済巻第四;64首(長歌0首、短歌64首)_済巻第六;9首(長歌0首、短歌9首)_済巻第八;51首(長歌2首、短歌49首)巻第十六;2首(長歌0首、短歌2首)巻第十七;76首(長歌9首、短歌67首)巻第十八;69首(長歌10首、短歌59首)巻第十九;103首(長歌17首、短歌86首)巻第二十;78首(長歌4首、短歌74首)以上
2023.12.21
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万雑549_活道の岡に登って宴をし、家持が作った歌(大伴家持_39) 次の歌は、天平十六年(744年)正月11日、活道の岡に登り、一本の松の木の下に集まって宴会した時に大伴家持が作った歌です。「活道(いくじ)の岡」は京都府和束町にあります。1043_「たまきはる命は知らず松が枝を結ぶ心は長くとそ思ふ」※_「(たまきはる)人の寿命は分からない。しかし、松の枝を結ぶ気持ちは命長くと思えばこそだ」と歌っています。当時は松の枝を結んで長寿を祈ったようです。※_ここで巻第六は終わりです。次から巻第八に入ります。 備考;大伴家持の経歴と関連する出来事養老2年(718年)ころに生まれた天平10年(738年)内舎人としてお目見え天平11年(739年)6月;家持の妾が死去※_天平12年8月29日藤原博嗣が政府批判、9月3日挙兵、藤原博嗣の乱天平12年(740年)に聖武天皇の伊勢行幸に従駕※_聖武天皇伊勢行幸;10月29日に立って、11月2日から11日まで滞在※_天平12年12月15日、聖武天皇の勅命により平城京より久迩京に遷都天平12年から天平15年ころ、家持は坂上大嬢を娶ったようですが?※_天平16年(744年)2月、難波京に遷都天平16年(744年)2月;安積皇子(享年17歳)が死去※_天平17年(745年)5月、都を平城京に戻す天平18年(749年)に越中守として越中国に赴任※_越中国在住中の歌が223首ある天平勝宝3年(751年)に帰京天平勝宝7年(755年)に難波で防人の検校に関わる天平宝字2年(758年)に因幡守として因幡国に赴任※_万葉集の末尾(巻20_4516)は家持が天平宝字3年に作った歌です天平宝字6年(762年)に帰京天平宝字8年(764年)に薩摩守として九州へ神護景雲元年(767年)に太宰少弐に転じて大宰府へ神護景雲4年(770年)に帰京(民部少輔)延暦4年(785年)_8月28日死去家持の作った歌の掲載巻別の歌数;巻第三;21首(長歌3首、短歌18首)_済巻第四;64首(長歌0首、短歌64首)_済巻第六;9首(長歌0首、短歌9首)巻第八;51首(長歌2首、短歌49首)巻第十六;2首(長歌0首、短歌2首)巻第十七;76首(長歌9首、短歌67首)巻第十八;69首(長歌10首、短歌59首)巻第十九;103首(長歌17首、短歌86首)巻第二十;78首(長歌4首、短歌74首)以上
2023.12.20
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万雑548_安積親王が開いた宴会で家持が作った歌(大伴家持_38) 次の歌は、安積親王(聖武天皇の皇子)が藤原八束宅で宴会を開いた日に、大伴家持が作った歌1首です。1040_「ひさかたの雨は降りしけ思ふ児がやどに今夜は明かして行かむ」※_「(ひさかたの)雨よ降りしけれ。愛する人の家に今夜は夜を明かして行こう」と歌っています。 備考;大伴家持の経歴と関連する出来事養老2年(718年)ころに生まれた天平10年(738年)内舎人としてお目見え天平11年(739年)6月;家持の妾が死去※_天平12年8月29日藤原博嗣が政府批判、9月3日挙兵、藤原博嗣の乱天平12年(740年)に聖武天皇の伊勢行幸に従駕※_聖武天皇伊勢行幸;10月29日に立って、11月2日から11日まで滞在※_天平12年12月15日、聖武天皇の勅命により平城京より久迩京に遷都天平12年から天平15年ころ、家持は坂上大嬢を娶ったようですが?※_天平16年(744年)2月、難波京に遷都天平16年(744年)2月;安積皇子(享年17歳)が死去※_天平17年(745年)5月、都を平城京に戻す天平18年(749年)に越中守として越中国に赴任※_越中国在住中の歌が223首ある天平勝宝3年(751年)に帰京天平勝宝7年(755年)に難波で防人の検校に関わる天平宝字2年(758年)に因幡守として因幡国に赴任※_万葉集の末尾(巻20_4516)は家持が天平宝字3年に作った歌です天平宝字6年(762年)に帰京天平宝字8年(764年)に薩摩守として九州へ神護景雲元年(767年)に太宰少弐に転じて大宰府へ神護景雲4年(770年)に帰京(民部少輔)延暦4年(785年)_8月28日死去家持の作った歌の掲載巻別の歌数;巻第三;21首(長歌3首、短歌18首)_済巻第四;64首(長歌0首、短歌64首)_済巻第六;9首(長歌0首、短歌9首)巻第八;51首(長歌2首、短歌49首)巻第十六;2首(長歌0首、短歌2首)巻第十七;76首(長歌9首、短歌67首)巻第十八;69首(長歌10首、短歌59首)巻第十九;103首(長歌17首、短歌86首)巻第二十;78首(長歌4首、短歌74首)以上
2023.12.19
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万雑547_大伴家持が造営途上の「久迩の都」で作った歌(大伴家持_37) 次の歌も、聖武天皇の伊勢国行幸、多芸の行宮、不破の行宮と移動して、天平十二年12月15日に久迩宮に辿り着いて、天皇はここを都と定めました。その「久迩の都」の造営途中に家持が作った歌1首です。天平十五年(743年)秋8月16日、内舎人大伴家持が「久迩の都(天平十二年2月~天平十六年正月)」を誉めて作った歌です。1037_「今造る久迩の都は山川のさやけき見ればうべ知らすらし」※_「今造営している久迩の都は、山や川のすがすがしいのを見ると、なるほど都になさるのももっともと思われる」と歌っています。※_「久迩の都」は、藤原博嗣の乱後、現在の木津川市加茂町に造られた都です。この歌が作られた時点では、まだ造営途上であったようですね。 備考;大伴家持の経歴と関連する出来事養老2年(718年)ころに生まれた天平10年(738年)内舎人としてお目見え天平11年(739年)6月;家持の妾が死去※_天平12年8月29日藤原博嗣が政府批判、9月3日挙兵、藤原博嗣の乱天平12年(740年)に聖武天皇の伊勢行幸に従駕※_聖武天皇伊勢行幸;10月29日に立って、11月2日から11日まで滞在※_天平12年12月15日、聖武天皇の勅命により平城京より久迩京に遷都天平12年から天平15年ころ、家持は坂上大嬢を娶ったようですが?※_天平16年(744年)2月、難波京に遷都天平16年(744年)2月;安積皇子(享年17歳)が死去※_天平17年(745年)5月、都を平城京に戻す天平18年(749年)に越中守として越中国に赴任※_越中国在住中の歌が223首ある天平勝宝3年(751年)に帰京天平勝宝7年(755年)に難波で防人の検校に関わる天平宝字2年(758年)に因幡守として因幡国に赴任※_万葉集の末尾(巻20_4516)は家持が天平宝字3年に作った歌です天平宝字6年(762年)に帰京天平宝字8年(764年)に薩摩守として九州へ神護景雲元年(767年)に太宰少弐に転じて大宰府へ神護景雲4年(770年)に帰京(民部少輔)延暦4年(785年)_8月28日死去家持の作った歌の掲載巻別の歌数;巻第三;21首(長歌3首、短歌18首)_済巻第四;64首(長歌0首、短歌64首)_済巻第六;9首(長歌0首、短歌9首)巻第八;51首(長歌2首、短歌49首)巻第十六;2首(長歌0首、短歌2首)巻第十七;76首(長歌9首、短歌67首)巻第十八;69首(長歌10首、短歌59首)巻第十九;103首(長歌17首、短歌86首)巻第二十;78首(長歌4首、短歌74首)以上
2023.12.18
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万雑546_大伴家持が美濃の「養老の滝」で作った歌(大伴家持_36) 次の歌も、聖武天皇の伊勢国行幸の先の、不破の行宮で家持が作った歌1首です。1034_「関なくは帰りにだにもうち行きて妹が手枕まきて寝ましを」※_「関所さえなかったら、行ってすぐに戻るのでもいいから帰って、妻の手枕をして寝たいものだ」と歌っています。この「関」は東山道の「不破の関(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)」です。この関が整備されたのは8世紀初頭とされています。 備考;大伴家持の経歴と関連する出来事養老2年(718年)ころに生まれた天平10年(738年)内舎人としてお目見え天平11年(739年)6月;家持の妾が死去※_天平12年8月29日藤原博嗣が政府批判、9月3日挙兵、藤原博嗣の乱天平12年(740年)に聖武天皇の伊勢行幸に従駕※_聖武天皇伊勢行幸;10月29日に立って、11月2日から11日まで滞在※_天平12年12月15日、聖武天皇の勅命により平城京より久迩京に遷都天平12年から天平15年ころ、家持は坂上大嬢を娶ったようですが?※_天平16年(744年)2月、難波京に遷都天平16年(744年)2月;安積皇子(享年17歳)が死去※_天平17年(745年)5月、都を平城京に戻す天平18年(749年)に越中守として越中国に赴任※_越中国在住中の歌が223首ある天平勝宝3年(751年)に帰京天平勝宝7年(755年)に難波で防人の検校に関わる天平宝字2年(758年)に因幡守として因幡国に赴任※_万葉集の末尾(巻20_4516)は家持が天平宝字3年に作った歌です天平宝字6年(762年)に帰京天平宝字8年(764年)に薩摩守として九州へ神護景雲元年(767年)に太宰少弐に転じて大宰府へ神護景雲4年(770年)に帰京(民部少輔)延暦4年(785年)_8月28日死去家持の作った歌の掲載巻別の歌数;巻第三;21首(長歌3首、短歌18首)_済巻第四;64首(長歌0首、短歌64首)_済巻第六;9首(長歌0首、短歌9首)巻第八;51首(長歌2首、短歌49首)巻第十六;2首(長歌0首、短歌2首)巻第十七;76首(長歌9首、短歌67首)巻第十八;69首(長歌10首、短歌59首)巻第十九;103首(長歌17首、短歌86首)巻第二十;78首(長歌4首、短歌74首)以上
2023.12.17
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万雑545_大伴家持が美濃の「養老の滝」で作った歌(大伴家持_35)次の歌も、聖武天皇の伊勢国行幸の先の、多芸の行宮で家持が作った歌2首です。「多芸」は岐阜県養老郡養老町で、昔から「養老の滝」が有名です。1034_「古ゆ人の言ひ来る老人のをつといふ水そ名に負ふ滝の瀬」※_「昔から言い伝えて来ている、老人が若返るという水なのだ。高名なこの滝の瀬は」と歌っています。※_「養老の滝」については、霊亀三年(717年)9月、元正天皇が多芸に行幸して美泉を見て、11月、飲めば白髪が黒くなり病も癒えるその霊水を瑞祥として元号を「養老」と改める旨の詔を出しています(続日本紀)。1035_「田跡川の滝を清みて古ゆ宮仕へけむ多芸の野の上に」※_「田跡川の滝が清いからか、昔から宮仕えして来たのであろう。多芸の野の上に」と歌っています。「田跡川」は養老の滝の水が流れ込む現在の津屋川と思われます。 備考;大伴家持の経歴と関連する出来事養老2年(718年)ころに生まれた天平10年(738年)内舎人としてお目見え天平11年(739年)6月;家持の妾が死去※_天平12年8月29日藤原博嗣が政府批判、9月3日挙兵、藤原博嗣の乱天平12年(740年)に聖武天皇の伊勢行幸に従駕※_聖武天皇伊勢行幸;10月29日に立って、11月2日から11日まで滞在※_天平12年12月15日、聖武天皇の勅命により平城京より久迩京に遷都天平12年から天平15年ころ、家持は坂上大嬢を娶ったようですが?※_天平16年(744年)2月、難波京に遷都天平16年(744年)2月;安積皇子(享年17歳)が死去※_天平17年(745年)5月、都を平城京に戻す天平18年(749年)に越中守として越中国に赴任※_越中国在住中の歌が223首ある天平勝宝3年(751年)に帰京天平勝宝7年(755年)に難波で防人の検校に関わる天平宝字2年(758年)に因幡守として因幡国に赴任※_万葉集の末尾(巻20_4516)は家持が天平宝字3年に作った歌です天平宝字6年(762年)に帰京天平宝字8年(764年)に薩摩守として九州へ神護景雲元年(767年)に太宰少弐に転じて大宰府へ神護景雲4年(770年)に帰京(民部少輔)延暦4年(785年)_8月28日死去家持の作った歌の掲載巻別の歌数;巻第三;21首(長歌3首、短歌18首)_済巻第四;64首(長歌0首、短歌64首)_済巻第六;9首(長歌0首、短歌9首)巻第八;51首(長歌2首、短歌49首)巻第十六;2首(長歌0首、短歌2首)巻第十七;76首(長歌9首、短歌67首)巻第十八;69首(長歌10首、短歌59首)巻第十九;103首(長歌17首、短歌86首)巻第二十;78首(長歌4首、短歌74首)以上
2023.12.16
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万雑544_大伴家持が狭浅(ささ)の行宮で作った歌(大伴家持_34)次の歌も、聖武天皇の伊勢国行幸の先で、狭浅(ささ)の行宮で家持が作った歌2首です。「狭浅の行宮」は三重県の何処かは未詳。時は11月となっています。1032_「大君の行幸のまにま我妹子が手枕まかず月そ経にける」※_「天皇の行幸のままにお供して、我が妻の手枕をしないで月を経てしまった」と歌っています。1033_「御食つ国志摩の海人ならまし熊野の小船に乗りて沖辺漕ぐ見ゆ」※_「御食つ国の志摩の海人であるらしい。熊野の小船に乗って沖の方を漕ぐのが見える」と歌っています。「御食つ国」は天皇の食料を貢進する国。 備考;大伴家持の経歴と関連する出来事養老2年(718年)ころに生まれた天平10年(738年)内舎人としてお目見え天平11年(739年)6月;家持の妾が死去天平12年(740年)に聖武天皇の伊勢行幸に従駕※_天平12年8月29日藤原博嗣が政府批判、9月3日挙兵、藤原博嗣の乱※_聖武天皇伊勢行幸;10月29日に立って、11月2日から11日まで滞在※_天平12年12月15日、聖武天皇の勅命により平城京より久迩京に遷都天平12年から天平15年ころ、家持は坂上大嬢を娶ったようですが?※_天平16年(744年)2月、難波京に遷都天平16年(744年)2月;安積皇子(享年17歳)が死去※_天平17年(745年)5月、都を平城京に戻す天平18年(749年)に越中守として越中国に赴任※_越中国在住中の歌が223首ある天平勝宝3年(751年)に帰京天平勝宝7年(755年)に難波で防人の検校に関わる天平宝字2年(758年)に因幡守として因幡国に赴任※_万葉集の末尾(巻20_4516)は家持が天平宝字3年に作った歌です天平宝字6年(762年)に帰京天平宝字8年(764年)に薩摩守として九州へ神護景雲元年(767年)に太宰少弐に転じて大宰府へ神護景雲4年(770年)に帰京(民部少輔)延暦4年(785年)_8月28日死去家持の作った歌の掲載巻別の歌数;巻第三;21首(長歌3首、短歌18首)_済巻第四;64首(長歌0首、短歌64首)_済巻第六;9首(長歌0首、短歌9首)巻第八;51首(長歌2首、短歌49首)巻第十六;2首(長歌0首、短歌2首)巻第十七;76首(長歌9首、短歌67首)巻第十八;69首(長歌10首、短歌59首)巻第十九;103首(長歌17首、短歌86首)巻第二十;78首(長歌4首、短歌74首)以上
2023.12.15
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万雑543_大伴家持が聖武天皇伊勢行幸に同行して詠んだ歌(大伴家持_33)次の歌は、天平十二年(740年)十月、大宰少弐藤原博嗣が謀反を起こした。聖武天皇は危険回避のためか?、伊勢国に行幸された時、河口の行宮で、当時内舎人の家持が作った歌1首です。「河口の行宮」は三重県津市白山町河口の地のあった行宮です。1029_「河口の野辺に廬りて夜の経れば妹が手本し思ほゆるかも」※_「河口の野辺に仮寝して幾代も経ったので、妻の手枕が恋しく思われることだ」と歌っています。 備考;大伴家持の経歴と関連する出来事養老2年(718年)ころに生まれた天平10年(738年)内舎人としてお目見え天平11年(739年)6月;家持の妾が死去天平12年(740年)に聖武天皇の伊勢行幸に従駕※_天平12年8月29日、藤原博嗣の乱※_聖武天皇伊勢行幸;10月29日に立って、11月2日から11日まで滞在※_天平12年12月15日、聖武天皇の勅命により平城京より久迩京に遷都天平12年から天平15年ころ、家持は坂上大嬢を娶ったようですが?※_天平16年(744年)2月、難波京に遷都天平16年(744年)2月;安積皇子(享年17歳)が死去※_天平17年(745年)5月、都を平城京に戻す天平18年(749年)に越中守として越中国に赴任※_越中国在住中の歌が223首ある天平勝宝3年(751年)に帰京天平勝宝7年(755年)に難波で防人の検校に関わる天平宝字2年(758年)に因幡守として因幡国に赴任※_万葉集の末尾(巻20_4516)は家持が天平宝字3年に作った歌です天平宝字6年(762年)に帰京天平宝字8年(764年)に薩摩守として九州へ神護景雲元年(767年)に太宰少弐に転じて大宰府へ神護景雲4年(770年)に帰京(民部少輔)延暦4年(785年)_8月28日死去家持の作った歌の掲載巻別の歌数;巻第三;21首(長歌3首、短歌18首)_済巻第四;64首(長歌0首、短歌64首)_済巻第六;9首(長歌0首、短歌9首)巻第八;51首(長歌2首、短歌49首)巻第十六;2首(長歌0首、短歌2首)巻第十七;76首(長歌9首、短歌67首)巻第十八;69首(長歌10首、短歌59首)巻第十九;103首(長歌17首、短歌86首)巻第二十;78首(長歌4首、短歌74首)以上
2023.12.14
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今朝は8時からウォーキングに出かけ、途中の道横の人家の庭木に「メジロ」が数羽群れているのを見つけました。メジロ(目白);スズメ目、メジロ科、L=12cm
2023.12.13
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万雑542_大伴家持十六、七歳のころ初月を詠んだ歌(大伴家持_32)ここからは巻第六に入ります。そして次の歌は、家持が十六、七歳の頃に作った初月の歌1首です。994_「振り放けて三日月見れば一目見し人の眉引き思ほゆるかも」※_「振り仰いで三日月を見ると、一目見たあの人の引いた眉の形が思いだされる」と歌っています。三日月から女性の眉を連想するとは、家持は本当に女好きな男ですねえ。 備考;大伴家持の経歴と関連する出来事養老2年(718年)ころに生まれた天平10年(738年)内舎人としてお目見え天平11年(739年)6月;家持の妾が死去天平12年(740年)に聖武天皇の伊勢行幸に従駕※_天平12年8月29日、藤原博嗣の乱※_天平12年12月15日、聖武天皇の勅命により平城京より久迩京に遷都天平12年から天平15年ころ、家持は坂上大嬢を娶ったようですが?※_天平16年(744年)2月、難波京に遷都天平16年(744年)2月;安積皇子(享年17歳)が死去※_天平17年(745年)5月、都を平城京に戻す天平18年(749年)に越中守として越中国に赴任※_越中国在住中の歌が223首ある天平勝宝3年(751年)に帰京天平勝宝7年(755年)に難波で防人の検校に関わる天平宝字2年(758年)に因幡守として因幡国に赴任※_万葉集の末尾(巻20_4516)は家持が天平宝字3年に作った歌です天平宝字6年(762年)に帰京天平宝字8年(764年)に薩摩守として九州へ神護景雲元年(767年)に太宰少弐に転じて大宰府へ神護景雲4年(770年)に帰京(民部少輔)延暦4年(785年)_8月28日死去家持の作った歌の掲載巻別の歌数;巻第三;21首(長歌3首、短歌18首)_済巻第四;64首(長歌0首、短歌64首)_済巻第六;9首(長歌0首、短歌9首)巻第八;51首(長歌2首、短歌49首)巻第十六;2首(長歌0首、短歌2首)巻第十七;76首(長歌9首、短歌67首)巻第十八;69首(長歌10首、短歌59首)巻第十九;103首(長歌17首、短歌86首)巻第二十;78首(長歌4首、短歌74首)以上
2023.12.13
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万雑541_大伴氏の系譜で万葉集に歌がある人(大伴家持_31)次は、家持が藤原久須麻呂に贈った歌5首(786~790)と久須麻呂が家持に贈った歌2首(791,792)です。藤原久須麻呂は藤原仲麻呂の次男。藤原久須麻呂が家持のまだ幼い娘に求婚してきたのを断わる歌;786_「春の雨はいやしき降るに梅の花いまだ咲かなくいと若みかも」※_「春雨はますますしきりに降っているのに、梅の花はまだ咲かなく。木が若すぎるからだろうか」と歌っています。自分の娘を「梅の花」に譬えて、娘はまだ若いと伝えた。787_「夢のごと思ほゆるかもはしきやし君が使ひのまねく通へば」※_「夢のように信じがたく思われます。親愛なあなたからのお使いが頻繁に通ってくるので」と歌っています。788_「うら若み花咲きがたき梅を植ゑて人の言しみ思ひそ我がする」※_「まだ若くて花を咲かせるに至らない梅の木を植えて、人の噂がうるさいので、思い悩んでいます」と歌っています。789_「心ぐく思ほゆるかも春霞たなびく時に言の通へば」※_「心晴れず切ない思いがします。春霞のたなびいている時にお便りが来ると」と歌っています。790_「春風の音にし出なばありさりて今ならずとも君がまにまに」※_「(春風の)噂になり世間に聞こえるようになったら、今すぐでなくてもよい、あなたの思し召しのままに」と歌っています。藤原久須麻呂が家持に贈った歌2首です。誠実に求婚していると伝える歌;791_「奥山の岩陰に生ふる菅に根のねもころ我も相思はざれや」※_「奥山の岩陰に生えている菅の根のように、私も深く心をこめて思わないことがあろうか」と歌っています。家持の歌786に答えた歌;792_「春雨を待つとにしあらし我がやどび若木の梅もいまだ含めり」※_「春雨を待つということらしい。我が家の庭の若木の梅もまだ蕾のままだ」と歌っています。家持のお断りを久須麻呂は一応了承したようです。ここまでで巻第四まで進みました。次は巻第六に進みます。 備考;大伴家持の経歴と関連する出来事養老2年(718年)ころに生まれた天平10年(738年)内舎人としてお目見え天平11年(739年)6月;家持の妾が死去天平12年(740年)に聖武天皇の伊勢行幸に従駕※_天平12年8月29日、藤原博嗣の乱※_天平12年12月15日、聖武天皇の勅命により平城京より久迩京に遷都天平12年から天平15年ころ、家持は坂上大嬢を娶ったようですが?※_天平16年(744年)2月、難波京に遷都天平16年(744年)2月;安積皇子(享年17歳)が死去※_天平17年(745年)5月、都を平城京に戻す天平18年(749年)に越中守として越中国に赴任※_越中国在住中の歌が223首ある天平勝宝3年(751年)に帰京天平勝宝7年(755年)に難波で防人の検校に関わる天平宝字2年(758年)に因幡守として因幡国に赴任※_万葉集の末尾(巻20_4516)は家持が天平宝字3年に作った歌です天平宝字6年(762年)に帰京天平宝字8年(764年)に薩摩守として九州へ神護景雲元年(767年)に太宰少弐に転じて大宰府へ神護景雲4年(770年)に帰京(民部少輔)延暦4年(785年)_8月28日死去家持の作った歌の掲載巻別の歌数;巻第三;21首(長歌3首、短歌18首)_済巻第四;64首(長歌0首、短歌64首)_済巻第六;9首(長歌0首、短歌9首)巻第八;51首(長歌2首、短歌49首)巻第十六;2首(長歌0首、短歌2首)巻第十七;76首(長歌9首、短歌67首)巻第十八;69首(長歌10首、短歌59首)巻第十九;103首(長歌17首、短歌86首)巻第二十;78首(長歌4首、短歌74首)以上
2023.12.12
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万雑540_大伴氏の系譜で万葉集に歌がある人(大伴家持_30)次は、家持が娘子(誰でしょう?)に贈った歌3首(783~785)です。783_「一昨年の先つ年より今年まで恋ふれどなぞも妹に逢ひがたき」※_「一昨年のその前の年から今年まで、恋い続けているのに、どうしてあなたに逢えないのか」と歌っています。※_二年前から恋しく思っているのに逢えない娘子へ贈った歌です。相手はいったい誰なのでしょうね?784_「うつつには更にもえ言はじ夢にだに妹が手本をまき寝とし見ば」※_「現実に逢いたいなどとは、もう全く口にすることもできないでしょう。夢にだけどもあなたの手を枕にして寝ると見たら」と歌っています。785_「我がやどの草の上白く置く露の身も惜しからず妹に逢はざれば」※_「我が家の庭の草の上に白く置く露のように、はかなく消えるこの身も惜しいとは思わない。あなたに逢えずにいるので」と歌っています。 備考;大伴家持の経歴と関連する出来事養老2年(718年)ころに生まれた天平10年(738年)内舎人としてお目見え天平11年(739年)6月;家持の妾が死去天平12年(740年)に聖武天皇の伊勢行幸に従駕※_天平12年8月29日、藤原博嗣の乱※_天平12年12月15日、聖武天皇の勅命により平城京より久迩京に遷都天平12年から天平15年ころ、家持は坂上大嬢を娶ったようですが?※_天平16年(744年)2月、難波京に遷都天平16年(744年)2月;安積皇子(享年17歳)が死去※_天平17年(745年)5月、都を平城京に戻す天平18年(749年)に越中守として越中国に赴任※_越中国在住中の歌が223首ある天平勝宝3年(751年)に帰京天平勝宝7年(755年)に難波で防人の検校に関わる天平宝字2年(758年)に因幡守として因幡国に赴任※_万葉集の末尾(巻20_4516)は家持が天平宝字3年に作った歌です天平宝字6年(762年)に帰京天平宝字8年(764年)に薩摩守として九州へ神護景雲元年(767年)に太宰少弐に転じて大宰府へ神護景雲4年(770年)に帰京(民部少輔)延暦4年(785年)_8月28日死去家持の作った歌の掲載巻別の歌数;巻第三;21首(長歌3首、短歌18首)_済巻第四;64首(長歌0首、短歌64首)巻第六;9首(長歌0首、短歌9首)巻第八;51首(長歌2首、短歌49首)巻第十六;2首(長歌0首、短歌2首)巻第十七;76首(長歌9首、短歌67首)巻第十八;69首(長歌10首、短歌59首)巻第十九;103首(長歌17首、短歌86首)巻第二十;78首(長歌4首、短歌74首)以上
2023.12.11
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万雑539_大伴氏の系譜で万葉集に歌がある人(大伴家持_29)次も、家持が紀女郎(=紀小鹿)に贈った歌5首(777~781)です。777_「我妹子がやどのまがきを見に行かばけだし門よりかへしてむかも」※_「あなたの家の籬(まがき)を見に行ったら、たぶん門から追い返すことだろうなあ」と歌っています。778_「うつたへにまがきの姿見まく欲り行かむと言へや君を見にこそ」※_「ただ籬(まがき)の様子を見たくて行こうと言うだろうか。いや、あなたをこそ見に行きたいのだよ」と歌っています。779_「板葺の黒木の屋根は山近し明日の日取りて持ちて参来む」※_「板葺にする黒木の屋根は、山も近いことだし、明日は取ってお持ちしましょう」と歌っています。780_「黒木取り草も刈りつつ仕へめど勤しきわけと褒めむともあらず」※_「黒木を取ったり、また草も刈ったりしてお仕えもしようが、勤勉な奴と褒めてくれそうにもありませんね」と歌っています。781_「ぬばたまの昨夜は返しつ今夜さへわれをかへすな道の長手を」※_「(ぬばたまの)昨夜は私を帰らせた。今夜も帰らせるようなことはして下さるな。この長い道のりを」と歌っています。 備考;大伴家持の経歴と関連する出来事養老2年(718年)ころに生まれた天平10年(738年)内舎人としてお目見え天平11年(739年)6月;家持の妾が死去天平12年(740年)に聖武天皇の伊勢行幸に従駕※_天平12年8月29日、藤原博嗣の乱※_天平12年12月15日、聖武天皇の勅命により平城京より久迩京に遷都天平12年から天平15年ころ、家持は坂上大嬢を娶ったようですが?※_天平16年(744年)2月、難波京に遷都天平16年(744年)2月;安積皇子(享年17歳)が死去※_天平17年(745年)5月、都を平城京に戻す天平18年(749年)に越中守として越中国に赴任※_越中国在住中の歌が223首ある天平勝宝3年(751年)に帰京天平勝宝7年(755年)に難波で防人の検校に関わる天平宝字2年(758年)に因幡守として因幡国に赴任※_万葉集の末尾(巻20_4516)は家持が天平宝字3年に作った歌です天平宝字6年(762年)に帰京天平宝字8年(764年)に薩摩守として九州へ神護景雲元年(767年)に太宰少弐に転じて大宰府へ神護景雲4年(770年)に帰京(民部少輔)延暦4年(785年)_8月28日死去家持の作った歌の掲載巻別の歌数;巻第三;21首(長歌3首、短歌18首)_済巻第四;64首(長歌0首、短歌64首)巻第六;9首(長歌0首、短歌9首)巻第八;51首(長歌2首、短歌49首)巻第十六;2首(長歌0首、短歌2首)巻第十七;76首(長歌9首、短歌67首)巻第十八;69首(長歌10首、短歌59首)巻第十九;103首(長歌17首、短歌86首)巻第二十;78首(長歌4首、短歌74首)以上
2023.12.10
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毎冬に、ここの川の杭にやって来る魚とりの名人の「ミサゴ」です。川面に居るのは「マガモ」です。今日の日中は10月中旬の気温まで上昇するそうです。ミサゴ;タカ目、タカ科、L=60cm
2023.12.09
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万雑538_大伴氏の系譜で万葉集に歌がある人(大伴家持_28)次は、なんと!大嬢との歌のやり取りの合間に、家持は紀女郎(=紀小鹿)と歌のやり取りをしていましたよ!家持が紀女郎(紀小鹿)に贈った歌2首;769_「ひさかたの雨の降る日をただひとり山辺に居ればいぶせかりけり」※_「(ひさかたの)雨の降る一日を、たった一人山の麓にいると、何ともうっとうしいことだ」と歌っています。775_「鶉鳴く故りにし郷ゆ思へどもなにそも妹に逢ふよしもなき」※_「(鶉鳴く)旧都にいた時から思い続けているのに、どうしてあなたに逢う手立てもないのか」と歌っています。紀女郎(紀小鹿)が家持に贈った歌1首です。776_「言出しは誰が言なるか小田山の苗代水の中淀にして」※_「言い出したのはどなたでしたか。小田山の苗代水のように、通いも中途から滞ってしまって」と歌っています。家持の不実をなじった歌です。 備考;大伴家持の経歴と関連する出来事養老2年(718年)ころに生まれた天平10年(738年)内舎人としてお目見え天平11年(739年)6月;家持の妾が死去天平12年(740年)に聖武天皇の伊勢行幸に従駕※_天平12年8月29日、藤原博嗣の乱※_天平12年12月15日、聖武天皇の勅命により平城京より久迩京に遷都天平12年から天平15年ころ、家持は坂上大嬢を娶ったようですが?※_天平16年(744年)2月、難波京に遷都天平16年(744年)2月;安積皇子(享年17歳)が死去※_天平17年(745年)5月、都を平城京に戻す天平18年(749年)に越中守として越中国に赴任※_越中国在住中の歌が223首ある天平勝宝3年(751年)に帰京天平勝宝7年(755年)に難波で防人の検校に関わる天平宝字2年(758年)に因幡守として因幡国に赴任※_万葉集の末尾(巻20_4516)は家持が天平宝字3年に作った歌です天平宝字6年(762年)に帰京天平宝字8年(764年)に薩摩守として九州へ神護景雲元年(767年)に太宰少弐に転じて大宰府へ神護景雲4年(770年)に帰京(民部少輔)延暦4年(785年)_8月28日死去家持の作った歌の掲載巻別の歌数;巻第三;21首(長歌3首、短歌18首)_済巻第四;64首(長歌0首、短歌64首)巻第六;9首(長歌0首、短歌9首)巻第八;51首(長歌2首、短歌49首)巻第十六;2首(長歌0首、短歌2首)巻第十七;76首(長歌9首、短歌67首)巻第十八;69首(長歌10首、短歌59首)巻第十九;103首(長歌17首、短歌86首)巻第二十;78首(長歌4首、短歌74首)以上
2023.12.09
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万雑537_大伴氏の系譜で万葉集に歌がある人(大伴家持_27)次も、家持が久迩京に居て奈良の家で自分を待つ大嬢に贈った歌5首(770、771、772、773、774)です。この5首は大嬢に対しての恨み節的な歌になっていますが、この大嬢とのやり取りの間に紀女郎(=紀小鹿)との歌のやり取りがありますのでチョット意味深ですね?770_「人目多み逢はなくのみそ心さへ妹を忘れて我が思はなくに」※_「人目が多いので逢わないだけど。心の中までも、あなたを忘れるなんてことがあろうか」と歌っています。771_「いつはりも似つきてそする現しくもまこと我妹子われに恋ひめや」※_「嘘も本当に似せて言うものだ。現実にあなたが本気で私を恋しく思ってなどいるものか」と歌っています。772_「夢にだに見えむと我はほどけども相し思はねばうべ見えざらむ」※_「せめて夢の中にでもあなたが見えてくれるように、下紐を解いて寝たけれども、相思う仲ではないので、なるほど見えないのだろう」と歌っています。773_「言問はぬ木すらあぢさゐ諸弟らが練りのむらとに詐かれけり」※_「もの言わぬ木でもアジサイのような七重八重咲くものがある。諸弟めの美辞麗句にまんまと騙されてしまった」と歌っています。774_「百千度恋ふと言ふとも諸弟らが練りの言葉はわれは頼まじ」※_「たとえ百遍も千遍も恋しく思うと言っても、諸弟めの巧みな言葉などあてにしないぞ」と歌っています。 備考;大伴家持の経歴と関連する出来事養老2年(718年)ころに生まれた天平10年(738年)内舎人としてお目見え天平11年(739年)6月;家持の妾が死去天平12年(740年)に聖武天皇の伊勢行幸に従駕※_天平12年8月29日、藤原博嗣の乱※_天平12年12月15日、聖武天皇の勅命により平城京より久迩京に遷都天平12年から天平15年ころ、家持は坂上大嬢を娶ったようですが?※_天平16年(744年)2月、難波京に遷都天平16年(744年)2月;安積皇子(享年17歳)が死去※_天平17年(745年)5月、都を平城京に戻す天平18年(749年)に越中守として越中国に赴任※_越中国在住中の歌が223首ある天平勝宝3年(751年)に帰京天平勝宝7年(755年)に難波で防人の検校に関わる天平宝字2年(758年)に因幡守として因幡国に赴任※_万葉集の末尾(巻20_4516)は家持が天平宝字3年に作った歌です天平宝字6年(762年)に帰京天平宝字8年(764年)に薩摩守として九州へ神護景雲元年(767年)に太宰少弐に転じて大宰府へ神護景雲4年(770年)に帰京(民部少輔)延暦4年(785年)_8月28日死去家持の作った歌の掲載巻別の歌数;巻第三;21首(長歌3首、短歌18首)_済巻第四;64首(長歌0首、短歌64首)巻第六;9首(長歌0首、短歌9首)巻第八;51首(長歌2首、短歌49首)巻第十六;2首(長歌0首、短歌2首)巻第十七;76首(長歌9首、短歌67首)巻第十八;69首(長歌10首、短歌59首)巻第十九;103首(長歌17首、短歌86首)巻第二十;78首(長歌4首、短歌74首)以上
2023.12.08
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万雑536_大伴氏の系譜で万葉集に歌がある人(大伴家持_26)次は、家持が久迩京に居て奈良の家で自分を待つ大嬢を思って作って贈った歌3首(765、767、768)です。尚、久迩京があった期間は天平741年から天平743年の3年間だけです。765_「一重山隔れるものを月夜良み門に出で立ち妹か待つらむ」※_「山一つ隔たっているのに、月夜が美しいといって、家の門口に立って妻は私を待っているだろうか」と歌っています。※_これまで大嬢は恋人とされていましたが、この歌では家持の妻と訳されています。767_「都路を遠みか妹がこのころは祈ひて寝れど夢に見え来ぬ」※_「都までの道が遠いから、近頃はせめて夢にと祈って寝ても、あなたは夢にも来てくれない」と歌っています。768_「今知らす久迩の都に妹に逢はず久しくなりぬ行きてはや見な」※_「今新しくお治めになる久迩の都にあって、あなたに逢わずに長いときが過ぎてしまった。帰って早く逢いたい」と歌っています。 備考;大伴家持の経歴と関連する出来事養老2年(718年)ころに生まれた天平10年(738年)内舎人としてお目見え天平11年(739年)6月;家持の妾が死去天平12年(740年)に聖武天皇の伊勢行幸に従駕※_天平12年8月29日、藤原博嗣の乱※_天平12年12月15日、聖武天皇の勅命により平城京より久迩京に遷都天平12年から天平15年ころ、家持は坂上大嬢を娶ったようですが?※_天平16年(744年)2月、難波京に遷都天平16年(744年)2月;安積皇子(享年17歳)が死去※_天平17年(745年)5月、都を平城京に戻す天平18年(749年)に越中守として越中国に赴任※_越中国在住中の歌が223首ある天平勝宝3年(751年)に帰京天平勝宝7年(755年)に難波で防人の検校に関わる天平宝字2年(758年)に因幡守として因幡国に赴任※_万葉集の末尾(巻20_4516)は家持が天平宝字3年に作った歌です天平宝字6年(762年)に帰京天平宝字8年(764年)に薩摩守として九州へ神護景雲元年(767年)に太宰少弐に転じて大宰府へ神護景雲4年(770年)に帰京(民部少輔)延暦4年(785年)_8月28日死去家持の作った歌の掲載巻別の歌数;巻第三;21首(長歌3首、短歌18首)巻第四;64首(長歌0首、短歌64首)巻第六;9首(長歌0首、短歌9首)巻第八;51首(長歌2首、短歌49首)巻第十六;2首(長歌0首、短歌2首)巻第十七;76首(長歌9首、短歌67首)巻第十八;69首(長歌10首、短歌59首)巻第十九;103首(長歌17首、短歌86首)巻第二十;78首(長歌4首、短歌74首)以上
2023.12.07
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万雑535_大伴氏の系譜で万葉集に歌がある人(大伴家持_25)次は、安貴王の妻であった紀女郎(=紀小鹿)が大伴家持に贈った歌2首(762と763)と、家持が応えて作った歌1首(764)です。安貴王が不敬(元正天皇の采女と通じた為)の罪で失脚した後、安貴王の妻の紀女郎と家持の関係が出来たようです。ただし安貴王の不敬は721年から724年頃とされていますから、関係があったのはかなり後年になってからと思われます。紀女郎(=紀小鹿)の歌2首;762_「神さぶといなぶにはあらずはたやはたかくして後にさぶしけむかも」※_「もう年老いたからと、拒むものではありません。もしかして、こうして逢った後で寂しい思いをするのではないでしょうか」と歌っています。763_「玉の緒を沫緒に搓りて結べればありて後にも逢はざらめやも」※_「玉の緒を沫緒により合わせて結んであるので、こうして生きていて後に逢えないことがありましょうか」と歌っています。家持が応えた歌です。家持にとって、恋に年齢は関係ないようですね。764_「百歳に老い舌出でてよよむとも我はいとはじ恋は益すとも」※_「百歳にもなって老人くさく舌が出て、腰が曲がったとしても、私は少しも嫌ではない。ますます恋しくなることはあっても」と歌っています。備考;大伴家持の経歴と関連する出来事養老2年(718年)ころに生まれた天平10年(738年)内舎人としてお目見え天平11年(739年)6月;家持の妾が死去天平12年(740年)に聖武天皇の伊勢行幸に従駕天平16年(744年)2月;安積皇子(享年17歳)が死去天平18年(749年)に越中守として越中国に赴任※_越中国在住中の歌が223首ある天平勝宝3年(751年)に帰京天平勝宝7年(755年)に難波で防人の検校に関わる天平宝字2年(758年)に因幡守として因幡国に赴任※_万葉集の末尾(巻20_4516)は家持が天平宝字3年に作った歌です天平宝字6年(762年)に帰京天平宝字8年(764年)に薩摩守として九州へ神護景雲元年(767年)に太宰少弐に転じて大宰府へ神護景雲4年(770年)に帰京(民部少輔)延暦4年(785年)_8月28日死去家持の作った歌の掲載巻別の歌数;巻第三;21首(長歌3首、短歌18首)巻第四;64首(長歌0首、短歌64首)巻第六;9首(長歌0首、短歌9首)巻第八;51首(長歌2首、短歌49首)巻第十六;2首(長歌0首、短歌2首)巻第十七;76首(長歌9首、短歌67首)巻第十八;69首(長歌10首、短歌59首)巻第十九;103首(長歌17首、短歌86首)巻第二十;78首(長歌4首、短歌74首)以上
2023.12.06
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万雑534_大伴氏の系譜で万葉集に歌がある人(大伴家持_24)次も、引き続き大伴家持が大伴坂上大嬢に贈った歌15首の内の5首(751から755)です。家持は何度も、夜明けまで大嬢の部屋に忍んでいったようですが、噂になって逢うことが出来ないと嘆いています。751_「相見ては幾日も経ぬをここだくも狂ひに狂ひ思ほゆるかも」※_「逢ってから後、幾日も経っていないのに、こんなにもやたらに狂おしく思われることか」と歌っています752_「かくばかり面影のみに思ほえばいかにかもせむ人目繁くて」※_「こんなにもあなたが面影にずっと見えて恋しいのなら、どうしたらいいのだろう。人目が多くて逢うこともできないのに」と歌っています。753_「相見てばしましく恋はなぎむかと思へどいよよ恋まさりけり」※_「逢うことができたら、少しの間は恋はしずまるだろうかと思っていたのに、逢った後はますます恋しさがまさってしまった」と歌っています。754_「夜のほどろ我が出でて来れば我妹子が思へりしくし面影に見ゆ」※_「夜明けのまだ暗い頃、あなたの家を出て来ると、あなたが思い沈んでいたさまがありありと目の前に浮かぶ」と歌っています。755_「夜のほどろ出でつつ来らく度まねくなれば我が胸切り焼くごとし」※_「まだ暗い頃、出てくることが度重なったので、私の胸は切り焼かれるようにつらく苦しい」と歌っています。 備考;大伴家持の経歴と関連する出来事養老2年(718年)ころに生まれた天平10年(738年)内舎人としてお目見え天平11年(739年)6月;家持の妾が死去天平12年(740年)に聖武天皇の伊勢行幸に従駕天平16年(744年)2月;安積皇子(享年17歳)が死去天平18年(749年)に越中守として越中国に赴任※_越中国在住中の歌が223首ある天平勝宝3年(751年)に帰京天平勝宝7年(755年)に難波で防人の検校に関わる天平宝字2年(758年)に因幡守として因幡国に赴任※_万葉集の末尾(巻20_4516)は家持が天平宝字3年に作った歌です天平宝字6年(762年)に帰京天平宝字8年(764年)に薩摩守として九州へ神護景雲元年(767年)に太宰少弐に転じて大宰府へ神護景雲4年(770年)に帰京(民部少輔)延暦4年(785年)_8月28日死去家持の作った歌の掲載巻別の歌数;巻第三;21首(長歌3首、短歌18首)巻第四;64首(長歌0首、短歌64首)巻第六;9首(長歌0首、短歌9首)巻第八;51首(長歌2首、短歌49首)巻第十六;2首(長歌0首、短歌2首)巻第十七;76首(長歌9首、短歌67首)巻第十八;69首(長歌10首、短歌59首)巻第十九;103首(長歌17首、短歌86首)巻第二十;78首(長歌4首、短歌74首)以上
2023.12.05
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万雑533_大伴氏の系譜で万葉集に歌がある人(大伴家持_23)次も、引き続き大伴家持が大伴坂上大嬢に贈った歌15首の内の5首(746から750)です。家持は大嬢から袋物や衣を貰ってようですが・・・。746_「生ける代に我はいまだ見ず言絶えてかくおもしろく縫へる袋は」※_「生まれてこのかた、この世ではまだ見たことがない。どう言っていいのか分からないほど、こんなにきれいに縫ってある袋は」と歌っています747_「我妹子が形見の衣したに着て直に逢ふまではわれ脱かめやも」※_「あなたの形見の衣を下に着て、直接に逢うまでは脱いだりするものですか」と歌っています。748_「恋ひ死なむそこも同じそ何せむに人目人言こちたみ我せむ」※_「恋い死にすること、それも逢って辛い思いをするのと同じことです。何でいまさら、人目や噂を煩わしいと思うのでしょうか」と歌っています。749_「夢にだに見えばこそあらめかくばかり見えずしあるは恋ひて死ねとか」※_「せめて夢にでも見えてくれたらいいのに。こんなに夢に見えないのは、恋い死にせよというのですか」と歌っています。750_「思ひ絶えわびにしものをなかなかに何か苦しく相見そめけむ」※_「思いあきらめてうち沈んでいたのに、なまなかにどうしてまた苦しい思いで逢い始めたのだろう」と歌っています。 備考;大伴家持の経歴と関連する出来事養老2年(718年)ころに生まれた天平10年(738年)内舎人としてお目見え天平11年(739年)6月;家持の妾が死去天平12年(740年)に聖武天皇の伊勢行幸に従駕天平16年(744年)2月;安積皇子(享年17歳)が死去天平18年(749年)に越中守として越中国に赴任※_越中国在住中の歌が223首ある天平勝宝3年(751年)に帰京天平勝宝7年(755年)に難波で防人の検校に関わる天平宝字2年(758年)に因幡守として因幡国に赴任※_万葉集の末尾(巻20_4516)は家持が天平宝字3年に作った歌です天平宝字6年(762年)に帰京天平宝字8年(764年)に薩摩守として九州へ神護景雲元年(767年)に太宰少弐に転じて大宰府へ神護景雲4年(770年)に帰京(民部少輔)延暦4年(785年)_8月28日死去家持の作った歌の掲載巻別の歌数;巻第三;21首(長歌3首、短歌18首)巻第四;64首(長歌0首、短歌64首)巻第六;9首(長歌0首、短歌9首)巻第八;51首(長歌2首、短歌49首)巻第十六;2首(長歌0首、短歌2首)巻第十七;76首(長歌9首、短歌67首)巻第十八;69首(長歌10首、短歌59首)巻第十九;103首(長歌17首、短歌86首)巻第二十;78首(長歌4首、短歌74首)以上
2023.12.04
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万雑532_大伴氏の系譜で万葉集に歌がある人(大伴家持_22)次も、引き続き大伴家持が大伴坂上大嬢に贈った歌15首の内の5首(741から745)です。741_「夢の逢ひは苦しかりけりおどろきて掻き探れども手にも触れねば」※_「夢の中で逢うのは苦しいものです。驚き目覚めて手探りしても手にも触れないのです」と歌っています742_「一重のみ妹が結ふらむ帯をすら三重に結ふべく我が身は成りぬ」※_「あなたならただ一重巻くだろう帯をさえ、三重に巻かねばならないほど私は痩せてしまいました」と歌っています。743_「我が恋は千引きの岩を七ばかり首に掛けむも神のまにまに」※_「私の恋は千人引きの岩を七つも首に掛けるほどですが、その苦しみも神の御意のままです」と歌っています。744_「夕さらば屋戸開け設けてわれ待たむ夢に相見に来むといふ人を」※_「夕方になったら家の戸を開けておいて、私は待とう。夢の中で逢いに来ようという人を」と歌っています。745_「朝夕に見む時さへや我妹子が見とも見ぬごとなほ恋しけむ」※_「朝夕見ていられる時でも、あなたのことが見ていてもまるで見ないでいるように、やはり恋しいだろう」と歌っています。備考;大伴家持の経歴と関連する出来事養老2年(718年)ころに生まれた天平10年(738年)内舎人としてお目見え天平11年(739年)6月;家持の妾が死去天平12年(740年)に聖武天皇の伊勢行幸に従駕天平16年(744年)2月;安積皇子(享年17歳)が死去天平18年(749年)に越中守として越中国に赴任※_越中国在住中の歌が223首ある天平勝宝3年(751年)に帰京天平勝宝7年(755年)に難波で防人の検校に関わる天平宝字2年(758年)に因幡守として因幡国に赴任※_万葉集の末尾(巻20_4516)は家持が天平宝字3年に作った歌です天平宝字6年(762年)に帰京天平宝字8年(764年)に薩摩守として九州へ神護景雲元年(767年)に太宰少弐に転じて大宰府へ神護景雲4年(770年)に帰京(民部少輔)延暦4年(785年)_8月28日死去家持の作った歌の掲載巻別の歌数;巻第三;21首(長歌3首、短歌18首)巻第四;64首(長歌0首、短歌64首)巻第六;9首(長歌0首、短歌9首)巻第八;51首(長歌2首、短歌49首)巻第十六;2首(長歌0首、短歌2首)巻第十七;76首(長歌9首、短歌67首)巻第十八;69首(長歌10首、短歌59首)巻第十九;103首(長歌17首、短歌86首)巻第二十;78首(長歌4首、短歌74首)以上
2023.12.03
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ジョウビタキはオスとメスは一緒に居らず別々に縄張りを持って暮らしています。画像のジョウビタキは川辺にメスが居て、オスは川辺から少し離れた所に居ました。ジョウビタキのメス;ジョウビタキのオス;
2023.12.02
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万雑531_大伴氏の系譜で万葉集に歌がある人(大伴家持_21)次も、引き続き大伴家持と大伴坂上大嬢との相聞歌です。大伴坂上大嬢が大伴家持に贈った歌2首です。737_「かにかくに人は言ふとも若狭道の後瀬の山ののちも逢はむ君」※_「あれこれと人は言っても、若狭道にある後瀬山のように、後に必ず逢いましょう、あなた」と歌っています738_「世の中し苦しきものにありけらし恋にあへずて死ぬべき思へば」※_「世の中は苦しいものであるらしい。恋に堪えられずに死にそうなことを思うと」と歌っています。 大伴家持が大伴坂上大嬢に応えて贈った歌2首です。739_「後瀬山のちも逢はむと思へこそ死ぬべきものを今日までも生けれ」※_「(後瀬山)後にはきっと逢おうと思えばこそ、死ぬべきところを今日まで生きているのです」と歌っています。740_「言のみをのちも逢はむとねもころに我を頼めて逢はざらむかも」※_「言葉だけは後に逢おうと私を深く頼らせて、実際には逢ってくれないのでしょうか」と歌っています。備考;大伴家持の経歴と関連する出来事養老2年(718年)ころに生まれた天平10年(738年)内舎人としてお目見え天平11年(739年)6月;家持の妾が死去天平12年(740年)に聖武天皇の伊勢行幸に従駕天平16年(744年)2月;安積皇子(享年17歳)が死去天平18年(749年)に越中守として越中国に赴任※_越中国在住中の歌が223首ある天平勝宝3年(751年)に帰京天平勝宝7年(755年)に難波で防人の検校に関わる天平宝字2年(758年)に因幡守として因幡国に赴任※_万葉集の末尾(巻20_4516)は家持が天平宝字3年に作った歌です天平宝字6年(762年)に帰京天平宝字8年(764年)に薩摩守として九州へ神護景雲元年(767年)に太宰少弐に転じて大宰府へ神護景雲4年(770年)に帰京(民部少輔)延暦4年(785年)_8月28日死去家持の作った歌の掲載巻別の歌数;巻第三;21首(長歌3首、短歌18首)巻第四;64首(長歌0首、短歌64首)巻第六;9首(長歌0首、短歌9首)巻第八;51首(長歌2首、短歌49首)巻第十六;2首(長歌0首、短歌2首)巻第十七;76首(長歌9首、短歌67首)巻第十八;69首(長歌10首、短歌59首)巻第十九;103首(長歌17首、短歌86首)巻第二十;78首(長歌4首、短歌74首)以上
2023.12.01
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