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先日石神井川の河畔を散歩していたら一人の男性が川に向かって不動の姿勢で立っていた。近づいた時よく見ると一羽の小鳥と向き合っており、小鳥もまた瞬きもせずじっと男性を見つめていた。まるで人間と小鳥が向き合って禅問答をしている様な光景だ。ややあって男性が手のひらに何か乗せて差し出すと小鳥はひと時逡巡した後男性の手のひらに飛び移り何かを啄ばんだのちまた手すりに戻り禅問答が始まった。昨年の冬もまさしくこの場所の桜の木に一羽のジョウビタキが住み着いていた。同じ個体かどうかは不明だがまた同じ場所に同じ鳥が現れのだ。10分近くして男性は自転車で立ち去ったが小鳥はまだ止まり続けている。離れた場所の石段に腰かけていた私が立ち上がって少し間を縮めても小鳥は知らぬ顔をしている。思い切って1mくらいの距離まで近づいても飛んでは行かない。ただ小鳥の態度は明らかに先の男性と対峙していた時とは違って目がきょろきょろと動く。禅問答ではなく私を警戒して観察しているようあった。一度は尾翼を広げて飛び立つ姿勢を示したが、この時の尾翼の羽色は実に美しかった。しばらくにらみ合った後、私は我慢できずに立ち去ったが横からの写真にも協力してくれた。スマホ写真でフォーカスするのが難しかったがこのくらい協力してくれると楽だった。xxxビタキという名の小鳥にはジョウビタキの他にルリビタキとキビタキがあるが、Wikipedia によると下の写真のようになる。背羽の斑点からすると私が見かけたのは明らかにジョウビタキのメスである。ジョウビタキ オス ジョウビタキ メスジョウビタキはアジア大陸北部で繁殖し、非繁殖期にアジア中部・南部にかけて渡る鳥で日本では冬の鳥とされている。人類が大移動するときも常に群れを組んで渡るのが普通である。ましてや水鳥でもないジョウビタキが単独で渡るのは困難な旅だろう。多分渡来飛行は群れを成すのであろうが非繁殖期はオスもメスも単独行動をとるのが普通だそうだ。「ジョウ(尉)」は白髪を意味し、能で翁や老婆の面についた白髪、あるいは炭火の白い灰を意味するのだそうだ。「ビタキ(火焚き)」は鳴き声が「キッ、キッ、カッ、カッ」と聞こえ火打石をこする音に近いことから来ているらしい。かなり無理のあるこじつけである。 ルリビタキ オス ルリビタキ メスルリビタキは尾羽を広げると鮮やかな瑠璃色(青)をしているそうで、冬は日本で越冬する。 キビタキ オス キビタキメスキビタキは調査はしていないがオスの胸毛の色からの命名であろう。願わくは春までにこのジョウビタキと禅問答ができるまでになりたいものである。近づきの印に何を献上すればいいのか分からなくて困っている。昆虫の幼虫を差し出すというのは私にはハードルが高い。
2019.02.23
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我が家が今のところに引っ越して来たのは今からちょうど40年前1979年である、周りは畑で10階建てのマンションは子供たちから戦艦ヤマトに例えられたこともある。我が家の部屋やベランダからの景色は広大で関東平野を囲むほぼすべての山が望め、都心方面には1968年竣工の霞が関ビル、そして1970年の京王プラザホテルを先頭に西新宿に続々と誕生した高層ビルがスカイラインを作っていた。今や都内では高層ビルは珍しくなく、我が家の眺望も平凡なものとなってしまった。それでも都心の方向に新しいビルが建ちスカイラインが変るとつい気になってしまう。最近まで高層ビルが少なかった渋谷地区であるが、1956年今のヒカリエの場所に14階建の東急文化会館が建ち当時東洋一ののっぽビルと言われた。時代は変わって2012年その跡地に渋谷ヒカリエという34階建ての商業施設が建ち、新宿に遅れること40年にして渋谷駅周辺の再開発が始まった。西新宿が浄水場という平地だったので再開発が容易だったのに対し、渋谷は複雑な地形の深い谷底に位置するので大変だったわけだ。その渋谷駅周辺が変わりつつある。現在JR 駅の真上に47階建ての渋谷スクランブルスクエヤーが空に向かって伸びている様子がよく見える。上の写真中央部がそれで、左側の中央に白い線のあるのが34階建の渋谷ヒカリエ、右側白い煙突の左にちょっとだけ見えるのが昨年開業した35階建渋谷ストリームでGoogle本社が六本木ヒルズからここに移って来たらしい。ここの建築法は鉄骨が組みあがるとほとんど同時に外壁を付けていっている。建物自体は鉄骨作りでそこに壁や床を張り付けてゆくらしい。視界をぐるりと左に回すと西新宿の副都心を挟んで池袋方面が望める。下の写真右側のビルは練馬駅前のマンションと練馬区役所で、その左にスカイツリーが見える。中央やや左の白いビルは池袋サンシャイン60で、それと白い煙突の間に最近何やら黒い影が成長している。地図とGoogle Skyを使って調べてみると旧豊島区役所後に建設が進んでいるハレザ池袋という商業施設とのことである。ハレザは完成すれば36階建て158mで、左側の煙突210m、60階建サンシャインビル239.7mに挟まれてあまりぱっとしないがこの辺で久々のスカイラインが変化する。ズームアップしてみると渋谷の場合と同様鉄骨がくっきりしてい、外壁の取り付けがずいぶん遅い。来年竣工するらしいが出来上がった後の外観の違いが楽しみである。それにしても渋谷、池袋という代表的な東京のターミナル駅に次々と新しい商業施設ができると周りの既存商業施設がどうなるのだろうか。近傍の既存施設を優先入居させるとか何らかの規制をかけないと懐かしい町が次々に無くなっていくのは淋しい気がする。
2019.02.22
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この冬は予報とは裏腹に厳しい寒さである。先週末久しぶりに12,3度の日が続いて空模様も良かったので石神井公園まで足を延ばした。日曜日とて久しぶりにスワンボートもたくさん漕ぎ出されていて岸辺ではラジコンボートが水面を駆けている。軍艦を思わせるものからレジャー用クルーザー、ヨット、果てはドラエモンを乗せた屋形船も浮かんでいて、屋形船は櫓をこいで動いているように見える。寒い時期は小型船が多くマニアの年齢層も高い。何種類かの鴨が仲良く町内運動会のような動きをしている。湖畔のふるさと文化館で下の展覧会が模様されており、区の施設では老人は無料なので気軽にのぞいてみた。江戸郊外の農村である練馬にも幕末・明治の異変は大きな影響を及ぼしたそうである。意外な感がするが練馬は幕府直轄地でかっこよく言えば天領であった。天領と言えば金山のような特産品があり、幕府の経済を支える価値がある所と思いがちだが、江戸近郊は旗本の知行地にしたり鷹狩(軍事訓練)などのため必要だったのだろう。和宮降下の嫁入り行列や将軍の上洛行列などあるたびに代官が農民から金を集めて上納している。中山道筋とあって大きな行列時には随行の人々を泊める寺などの場所とともに食事なども供さなければならなかったらしい。そんなわけで寄付依頼、領収書、感謝状などの古文書が多く展示されている。さらに上の展覧会パンフレットから当時の浮世絵・錦絵を2,3転載してみると、外国船の襲来に備えて品川沖に11個築く予定だった台場建設の際には土嚢を作るための「開俵」と言う空の米俵の供出を命じられている。下の絵はその宣伝ビラなのだろう。幕末の世状として長州軍による御所への攻撃、鳥羽伏見の戦い、上野の山の戦い、東北地方での戦い、西南戦争と戦の連鎖反応がある。この頃現代の週刊誌の役割を果たしたのが浮世絵・錦絵ビラである。常に劣勢に立っていた幕府の膝元で現実の戦況など報道できるはずがない。そこで「信長による比叡山火攻め」と題して上野の山の戦闘の実情を描いたり、双六や子供の鬼ごっこなどで各戦を報道している。その際上の絵で黒装束は官軍、袴姿の僧兵は寺を守る幕府軍として描かれている。また下の子供の鬼ごっこでは衣装の模様から特定できる大名達の立ち位置や姿勢が表現されている。こんな浮世絵が跋扈していたということは、いくら情報統制が行き渡っていても庶民はいろんな情報を得ていたということであろう。それにしても思い出すのは先の日米戦争では情報統制が徹底されていて日本の窮地を語る人はいなかった。いかし広島に原爆が落とされた時、四国の片田舎に住む9歳の私にも「小さなマッチ箱くらいの爆弾で広島が吹っ飛んでしまった」と隣のおばさんから聞かされた。戦争も末期になるともう統制が利かなくなるのであろう。末端の人々が自分の陣営の不利を語り始めた段階で戦は終わっていると言うことだろう。散歩報告のつもりがとんだ方向に行ってしまった。「気まぐれ日記」に免じてご容赦!
2019.02.19
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熱海にはたびたび訪れているのに一駅山を登った感じの来宮神社にはまだ詣でたことがなかった。熱海梅園からは徒歩10分余りの下りなのでこの際詣でてみることにした。この神社の起こりは漁師が網にかかった木の根をよく見ると神々しかったので木の根元に祀って「木の宮」と称したのが始まりだそうだ。いたるところに「別表 来宮神社」の幟旗が立っている。「別表」の意味が分からず例によってWikipediaに尋ねると戦後、神社は国家管理から外れ、社格の制度もなくなった。そこで神社本庁は大規模な神社では神職人事のため「役職員進退に関する規程」を設け、その対象となる神社を規程書の「別表」に記載した。それらの神社を「べっぴょうに掲げる神社(別表神社)」と呼ぶそうだ。現代では神社本庁は宗教法人だが伊勢神宮を頂点として全国のほとんどの神社が加盟している。上の規定は神社の社格を表すものではなく「神社本庁の人事規程」であるが事実上は社格とみなされている。鳥居をくぐると最初に楠の大木に祀られた小社が目に入る「三峰神社」との標識がある。楠は樹齢1300年で300年目の落雷にも耐え、境内第二の巨木で命をくれるパワースポット。社殿の裏には境内第一の楠の巨木があり、樹齢2000年を超えると言われている天然記念物である。幹周り23.9メートルの巨木でwebで調べると鹿児島・蒲生八幡神社の大クス(幹周り24.22m)に次いで我が国2番目の巨樹とのことである。そして木の根元には当然小社が据えられており、これこそ「木の宮神社」だろう。ひこばえが巨木になってしまったのだろうか、まだまだ若々しく生命力旺盛である。周りを一周りすると一年長生きできるそうだがもうこれ以上社会保障費を増やすのも気が引けるので私は一周りに留めておいた。裏側に回ってみると人が住めそうな洞にも小社が祀られている。この部分は神武天皇と同じ時代を生きて来たのかと思うとお疲れさまと言いたい気分である。来宮神社は縁結びの願いが叶うとて若い人のお参りが多く、お札所に入って驚いたのはお守りのデザインや願い事ごとの種類の多さである。モダンなお札所の屋上はカフェの雰囲気であるが、近年の改築時の奉加石に「肆拾萬円、伍拾萬円、漆拾萬円、捌拾萬円、陌萬円」などの字を発見した。金額順なので想像はつくが初めて目にする漢字もあった。これらは単純な漢数字の代わりに用いる漢字で、改ざんや詐欺を防ぐため会計書類、戸籍、領収書、登記簿などで用いられる字で《大字(だいじ)》と呼ばれるものである。確かに一はニ、三、五、六、七、十といろんな数字に書き換えられる。私は日本で小切手を切ったことはないが、昔アメリカで小切手を書くとき”Twentyfive and 50/100 Dollars"のように記入したことを思い出した。念のため記録しておくと、壱(1)弐(2)参(3)肆(4)伍(5)陸(6)漆(7)捌(8)玖(9)什(10)陌(100)阡(1000)萬(10000)などである。大字を知らなかったということは単に物知らずであるとともに、いかにお金に恵まれず領収書も書かないですんだ貧乏人だということを再認識した次第である。
2019.02.07
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今回の熱海行きは熱海桜の見物が目的だったので翌日は特に予定はなかった。ちょうどホテルから梅園行きの送迎車があるというので便乗させてもらった。梅園についてみると入り口前に紅白の梅がきれいに咲いている。熱海市内宿泊者割引で百円を奮発して入場してみた。1886年市民の健康増進のため自然に親しむ施設として開いたもので多種類の樹種を植えたらしいが、平成19年梅中心の梅園として開園。キャッチフレーズは「日本一早咲の梅」と「日本一遅咲の梅」らしい。なるほど入り口近くの樹は咲き誇っていたが全体的にはまだまだで途中で引き返してしまった。千両、マンリョウの赤い実が紅梅に代わって頑張っている。早春の花である水仙も今は盛りである。水仙の英語名はNarcissusで語源はギリシャ神話で美少年ナルキッソスが水を飲もうとして水面に映った美しい自分の顔に陶酔しやせ細って死んでしまう。これがいわゆるナルシズムである。そしてその水たまりの後には水仙が生えてきたという。ナルキッソスの対極にある私でも水仙の匂いは大好きである。かわいそうな名前のボケもこの季節咲き始めている。Wikipediaによると「木瓜と書くボケは果実が瓜に似ているため木瓜の読み”モケ”が訛ったとの説があるらしい。一応梅園なので頑張っている園内の梅の花を2,3葉掲げておくことにする。梅園の入り口近くに大きな楠があり、市内でも有数の大木との標識を見て白梅とともに写真にしたが、この後訪れる来宮神社ではとんでもない楠に出会った。早々に梅園を退散して来宮神社に向かったが、さすがに梅園前の汚水マンホールもカラフルで美しい、ただこの真新しいマンホールがいったい何の”8th anniversary"なのかよく分からない。梅園から神社への途中にも熱海桜の並木があり今を盛りに満開であった。
2019.02.06
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年齢を重ねてあまり長い旅ができなくなり最近は近場の富士周辺をめぐる小旅行が多くなった。それも昔と違って勝手知った定宿に泊まることが多く、今回も熱海市中を避けて錦ヶ浦にあるホテルを選んだ。かっては自殺の名所でもあった景勝地・錦ヶ浦はアカオ財団によってきれいに整備されており静かなロケーションが気に入っている。部屋に入ると目の前は相模湾で目前には海しかなく、左に真鶴岬、この日かすんでほとんど心眼でしか見えなかったが正面はるかには房総半島、右には伊豆半島の付け根の宇佐美方向が望める。気のせいか空と海の境は確かに曲線で地球が丸いことを実感させてくれる。目前には初島がはっきり見える、この島は最近までは漁民しか住んでいなかったが近年は観光開発が進み全島がレジャーランドと化している。目の前を白いフェリーが白い波を立て、熱海港から10キロの海路を30分で結んでいる。部屋の窓際に立ち直下を眺めると錦ヶ浦の入り江と断崖の上にある遊歩道の芝生が美しい。昨年の台風では大量の水しぶきがこの芝生広場の下にあるホテルのレストランの窓を壊してしまった。白い岩飛沫の崖上には人工プールのような水だまりが見える。早朝カーテンを開けてみると朝の光が天から海上を伝って私たちのすぐ手元まで届いていた。まさしく、海(あま)は天(あま)に通じている気がするひと時であった。翌朝梅園へのバスに乗るため系列ホテルに移動する途中の遊歩道に『五龍の松』がある。銘盤によると、この松はこの地に一本だけあったがその松が雷に打たれ飛び散ったその時根元から数十匹の龍が争いたち天翔け上った。その株の小枝が長じて五龍の姿に育った、そこでこの松を『五龍の松』と呼ぶようになった。『五龍の松』は強力なパワースポットとして願い事を叶えてくれるという。松の木の近くに石の碁盤が置かれている。このスポットは源頼朝が伊豆山神社に先勝祈願に来た時、軍師日金仙人と碁を打ちながら平家討伐の戦略を練ったという伝説に基ずく碁盤だそうだ。陽光燦燦とした日に打ち寄せる波の音を聞きながら白い顎ひげの仙人と若き頼朝の二人の対局を想像するのも旅のロマンである。
2019.02.02
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糸川沿いの熱海桜を見た後ホテルに入るにはまだ早いので渚のプロムナードを散歩する。熱海が繁盛したのは昭和30年代まで、それ以降はバブル崩壊やリーマンショックで廃れ切っていたが、地中海リゾート風に渚の散歩道を作りすっかりイメージチェンジして今は若者でで溢れている。ヨットハーバー海らしく鴎の姿も見えてほっとする。恋人の何とかという一角にはアーチ状の柱と高いオブジェが見える。かってホテルの前の道路を挟んで狭い砂浜があっただけのところに人工渚を作り熱帯風の樹木を植えこんだ親水公園を造成している。何種類かのヤシの木が植えられていて南国情緒を醸している。さらに特筆すべきはこの海岸線一帯にジャカランダ木の街路樹や林を作っている。6月になると濃い紫色の花をつけるそうなので一度見に来たいと思っている。ジャカランダは花も良いが熱海では冬でも薄緑色の葉っぱが風になびいて美しい。ビーチに一対の熱海桜が花をつけており、その下に夫婦の銅像が立っている。よく見るとその横に武者小路実篤の由緒書石碑がある。釜鳴屋平七という人の像で、安静年間ここ熱海の漁民と網元の間で争いが起こり網元連のひどい仕打ちに網元の息子平七が漁民側に立って抗議したが聞き入れられなかった。そこで平七らは一揆を起こしムシロ旗を掲げて代官所に詰めかけた。捕らえられた平七は八丈島へ遠島となるが、戦中の虐待で大島で亡くなった。そんな熱海の歴史をとどめるべくこの碑が建てられたと言うことである。
2019.02.01
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