サリエリの独り言日記
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振る舞いを「規制」するもの と、こう話をしていたら先日のニュースで、日本人の形質は他の周辺アジア諸国に比べて、かなり縄文人のDNA因子に引っぱられている由。迂闊な話は出来ないなと思いつつ、人種混交とか異集団の出会いというのは、やはり片一方が相手を併呑、ないし駆逐するというのではなく、その多くはハイブリッド的に「重ね合わさって」、結果的に優位な方の因子が主流となるのだろう、という気が改めてしました。「重ね合わさっている」ということは、優位でない因子も表立ってはいなくても、ちゃんと在るということであって、影も形もないということではない。 というわけで実際の集団同士の現場では、当然緊張や小競り合いもあったのでしょうが、それは後世の人類が妄想し経験した、「民族浄化」のような完全な排除や、淘汰とは違う姿をとっていただろうという気がするのです。圧倒的な武力とか文明力といったものではなくて、定置農耕社会の持つ生産性の高さと多産がもたらす、単純に物理的な人口の多さそのものが、結果的に社会的優位となって現れたのではないか。 これは何も古代の話に止まらず、今どきの都市社会が私たちの意図とは関係なく、その周辺に比べて経済的文化的に、常に優位な立ち位置になってしまっていることと同断です。都市住民が田舎を駆逐したわけではなく、集住地域はかつては稲作の労働力として、今は企業の労働力と大量消費者として、否応なく周辺からさらに人を引き込む、結果的に混交と周辺の衰退が起こるということでしょう。 現代社会の「都市化」というのは世界的な現象で、日本では東京による地方都市の併呑という形で、さらに加速しているように見えます。2020年の東京オリンピックは、間違いなく東北の衛星都市化と、最終的な衰退をもたらすでしょう。この「都市化」の問題は、しかし目下の話とは離れるのでここでは触れません。 要は古代日本では「定置農耕」を主体とする集団(それを仮に「弥生系」と称します)が、その多産性を持って社会的優位を獲得し、その後その優位を脅かすような集団は、明治まで現れなかったということです。これはたぶん世界史的にも特異な事例だと思う。ヨーロッパでも東アジアでも「定置農耕民」の収穫(と人間)を簒奪する勢力は常に周辺にいたわけで、権力者の主な仕事は、それらの産物と人をいかに守るか、逆に奪うかの腕に掛かっていたことでしょう。 日本においても権力争いは古代から繰り返されて来ましたが、それは言うなれば定置農耕民の集団同士の争いであって、まったくエートス(社会習慣、行動規範)の異なる騎馬民族のような集団が入って来た、というわけではないのです。となれば、そこには日本において独自に継承されている、意識されざるエートスというのがきっとあるだろう。先に触れたスタンドアローン的な振る舞いが、はなはだ希薄であるらしい私たちは、ではどのような行動規範でもって日常振舞っているのか? そうした意識せざる日本人的な振る舞いや判断を探るのに、今でも時に現れる話をしなければなりません。悲しい話ですが、近いところでは東日本大震災のおり、多くの消防団員や警察官が殉職しましたが、それらはこの日本的エートスが彼らの行動や意思決定に際して、かなりの「規制」を与えていたのではないか、と私は思っているのです。 殉職したほとんどの人たちは、おそらくやはりこれが未曾有の津波であることを、まず想像すらしていなかったでしょう。これは知識の不足とか、防災教育の不備といった種類の話ではない。仮に一般の人たちに比べて多少早く詳細な情報を得、避難等の実地の訓練を経ていたとはいえ、直前に二メートルでなく八メートル以上という予測変更がなされた時に、実際にどのような津波が押し寄せ、どのような事態が発生するのか、正確に想像出来た人は一人もいなかったのではないか? したがって、この部分について私がここで話することはなく、ただ冥福を祈るばかりです。 問題はすでに津波が押し寄せ、住民たちを避難させていた時点でのことです。この時多くの消防団員や警察官が、明らかに「自分は死ぬかもしれない」という危険を感じつつ、「持ち場を離れなかった」という証言がありました。改めて書くのも辛いですが、津波が目前に迫った交差点で避難誘導に勤めていた警察官が、「いっしょに逃げよう」という避難民の声に首を振り、その場に残った時に見せた表情は明らかに「死を意識した顔だった」と、どなたかが当時の記録映像の中でおっしゃってましたね。 私はその場に、ここまで警察官を止まらせてしまうエートスというものを、やはり考えてしまう。これは例えば、職務に忠実で自身に厳格な人というには、あまりにも辛いところがあるのではないか?ここには普段の訓練とか教育の結果などでは到底測り切れない、無意識のかなり「強力な行動規制」が働いているとしか思えないのです。 断っておきますが、私たちは「だからこの人たちは、自立的な判断の出来ない人たちだった」などとは、もちろん口が裂けても言えません。水門を閉めに行って、未曾有の津波を直前にしながら持ち場を離れず、避難誘導を続けたであろう多くの消防団員についても同様です。数名の単位であれば、あるいは諸外国でもこうした行為は有り得たであろうことが、数百名の単位で起きているというところに、ある共通したエートスが働いているのだろう、というのが私の見立てです。
2015.06.01
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